台本概要
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タイトル | 陽炎は、木陰の中で眠る |
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作者名 | 砂糖シロ (@siro0satou) |
ジャンル | ラブストーリー |
演者人数 | 3人用台本(男1、女2) |
時間 | 70 分 |
台本使用規定 | 台本説明欄参照 |
説明 |
兼ね役アリ 【あらすじ】 ある夏の日。事故で母親を亡くした孤児の蓮と、その死のきっかけとなった女性の娘である百合亜が出会い互いに惹かれ合う。しかし過去に囚われたままの蓮の想いが運命の糸をもつれさせていく。 ご使用の際はTwitterでご一報くださると嬉しいです(強制ではありません)。 商用目的の場合は必ずTwitter(@siro0satou)のDMにて作者の了承を得てください。 Skype・discord環境であればぜひ拝聴させて頂けると、今後もさらに意欲が増します! 音声ファイルなども大歓迎です!! 131 views |
キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
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百合亜 | 女 | 214 | (ゆりあ) 20代前半。海辺の小さな町で母親と二人暮らしをしている。内向的な性格。 |
蓮 | 男 | 188 | (れん) 20代男性。自称、記憶喪失。儚い印象の青年。幼いころに母親を事故で失い、児童養護施設で育つ。 (終盤の『配達員』を兼ね役) |
叔子 | 女 | 84 | (としこ) 50代。百合亜の母。劇中で倒れ病院で戻らぬ人となる。 (『桜子』<百合亜の姉:快活な性格>を兼ね役) |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
百合亜:(M)影との境がくっきりと分かれ、紺碧の空に白い入道雲が背を伸ばす。七月の、全てを燃やし尽くしそうなとても暑い日。母に連れられやって来たその人は、花の名前を持つ、陽炎(かげろう)の様な人でした。
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0:タイトルコール
蓮:【陽炎は、木陰の中で眠る】
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百合亜:(M)潮と緑の香りが入り混じるこの街で、私は母親と暮らしていた。
百合亜:高校卒業と同時に家を出た姉はそれっきり、母が病を患ったと知らせても帰ってくる気配を見せなかった。
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百合亜:死んだ父が残してくれた家は、赤毛のアンが好きだという母に合わせた、緑色の大きな三角屋根が特徴的で。けれど、二人で住むにはあまりに大きすぎて、使われない部屋を幾つも持て余し色あせていく思い出達が…私を、この街に取り残されたような気持ちにさせた。
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百合亜:そんなある日。
叔子:「彼の名前は、蓮君よ。今日からウチで一緒に暮らすことになったから、よろしくね。」
百合亜:「……え?」
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百合亜:(M)蓮と呼ばれたその人は、白いシャツに黒いスラックス姿のどこか儚い印象を持った人だった。
蓮:「…蓮です。……よろしく。」
百合亜:(M)そう彼が声を発した瞬間、気が滅入るほどに煩かった蝉の声がしん…と静まり、まるで一瞬時が止まったかのように思えた。
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0:叔子の部屋
百合亜:「ちょっとお母さん、一緒に住むって一体どういう事!?」
叔子:「だーかーら、さっき言ったでしょ?今日からここに住むのよ。」
百合亜:「……っ、だから何で!?」
叔子:「………(溜息)。彼、記憶喪失なんですって。」
百合亜:「え…?」
叔子:「潮騒公園のベンチで…動けなくなっていた所を助けてもらったの。」
百合亜:「え!?何っ…どうしたの!?」
叔子:「騒がないで。少し暑さにやられただけよ。木の陰で休んだらすぐに良くなったわ。」
0:百合亜は安堵の息をつく
百合亜:「もー、だから言ってるじゃない、せめてケータイでも良いから持っててって。」
叔子:「嫌よぉ。お母さんが機械苦手なの知ってるでしょ?」
百合亜:「でも…。」
蓮:「あの、すみません。」
百合亜:「っ。」
叔子:「どうしたの、蓮君。」
蓮:「この荷物、何処に置いたら…。」
叔子:「あらあらっ、ごめんなさい私ったら。持たせたままだったわね。」
0:蓮から荷物を受け取る
叔子:「今麦茶持ってくるから、その辺に座っててちょうだい。」
蓮:「あ…はい。」
百合亜:「………。」
蓮:「………。」
百合亜:「……あの。」
蓮:「え…?」
百合亜:「記憶喪失って、本当なんですか?」
蓮:「あー……うん。」
百合亜:「…住所とか、名前とか…何も覚えてないの?」
蓮:「……うん。」
百合亜:「………それって…。」
叔子:「お待たせ。冷たい麦茶よ。スイカも切ったからどうぞ食べて。」
蓮:「……ありがとうございます。」
0:席を立ちダイニングから出ていく百合亜
百合亜:「………っ。」
叔子:「っ、百合亜!………もう、あの子ったら…。ごめんなさいね。気にしないで?」
蓮:「……はい。」
:
百合亜:(M)蓮はいつの間にか、姉の部屋を使い、父の服を着て、母と食事をするようになった。静かだった家の中に、母の笑い声が戻った。
:
0:庭で水撒きをする百合亜の元に蓮がやってくる
蓮:「……おはよう。」
百合亜:「………。」
蓮:「………あの、叔子さんは…。」
百合亜:「……出かけてる。」
蓮:「そう…。」
:
蓮:「………庭、すごいね。」
百合亜:「え…?」
蓮:「野菜とか花とか…。」
百合亜:「……別に……母が好きで植えてるだけ…。」
蓮:「そうなんだ…。」
:
蓮:「その白い花…何?」
百合亜:「え……これ?」
蓮:「うん。」
百合亜:「………グラジオラス。」
蓮:「…ぐら、じおらす…。」
:
蓮:「綺麗だ。」
百合亜:「…母が、一番好きな花なの。」
蓮:「それで…その花だけこんなに沢山…。」
百合亜:「…うん。」
蓮:「………。」
百合亜:「……ねぇ。」
蓮:「っ、何。」
百合亜:「…いつまでウチに居るの?」
蓮:「…………。」
百合亜:「母がどう言うつもりかは知らないけど、女性の二人暮らしの家にあなたみたいな若い男性が居るのは、…あまり世間体も良くないわ。」
蓮:「…ごめん。………だけど、何も思い出せなくて…。」
百合亜:「…一度市役所に相談行ってみたら…良いじゃない。
百合亜:あ…、な、何もしないで過ごすよりはきっと手がかりとか何か見つかるかもしれないしっ!」
蓮:「……そう、だね。そうしてみるよ。」
百合亜:「あ…、……っ。」
:
百合亜:(M)なぜだか、言い訳みたいに言葉が溢れた。きっと、目の端に映った彼の顔が、どこか寂しそうにも見えたからかもしれない。
:
0:(数秒空けて)数日後、叔子の部屋
叔子:「ふぅ…あらやだ、埃まみれねぇ。」
蓮:「……これ、アルバム、ですか?」
叔子:「えぇ。私たちの家族写真よ。」
蓮:「………。」
叔子:「懐かしいわねぇ…。あぁ、これ見て。」
蓮:「……スイカ割り…?」
叔子:「そう。すぐそこの海岸でね。百合亜達が小さい頃、みんなで行って良く遊んだのよ。……ふふっ、こんなに真っ黒になって…。」
蓮:「…楽しそう、ですね……。」
叔子:「…こっちは桜子の入学式。百合亜ったら、桜子の制服を自分も着るんだって言ってきかなくてね……ほら、この写真。主人と手を繋いでるのに頬っぺた膨らませてそっぽ向いてるでしょ?あっはははは、おっかしい!」
蓮:「………。」
叔子:「…あの子は…昔っからお姉ちゃんの真似ばっかりしたがって。高校もお姉ちゃんと同じ所に行くんだって頑張ってたんだけど…試験の当日に、主人が事故で亡くなっちゃって。」
蓮:「…事故?」
叔子:「えぇ。」
蓮:「………。」
叔子:「それからかしら…あの子が桜子の後を追うのを辞めたのは…。
叔子:こーんな広い家に、私と二人きりで暮らすようになったらあの子、全然笑わなくなっちゃった。」
0:寂しそうに微笑む叔子
叔子:「……仕方ないわね。こんな何にもない田舎でボケた母親と二人暮らしなんて、きっとなんにも楽しくないもの。」
蓮:「……叔子さん。」
叔子:「(被せて)さ、そろそろお昼にしましょ!お腹すいたでしょ?」
0:立ち上がろうとした叔子の身体が傾く
叔子:「っ……。」
蓮:「っ!叔子さんっ!!」
:
0:病室に駆けつける百合亜
百合亜:「っ、お母さんっ!!!」
叔子:「……百合亜…。」
百合亜:「はぁ…はぁ…はぁ…っ、急に倒れたって…。」
叔子:「ただの立ち眩みよ。」
百合亜:「立ち眩み…、お医者さんは?」
叔子:「さっき検査が終わったから、結果を言いに後でくると思うわ。」
百合亜:「……あの人は…?」
叔子:「?…あぁ、蓮君?蓮君なら、売店に飲み物買いに行ってもらってる。すぐ戻ると思うわよ。」
百合亜:「……ちょっと行ってくる。」
叔子:「あっ、百合亜っ。…んもう、せわしないわねぇ…。」
:
0:エレベーターを降りた蓮と出くわす百合亜
蓮:「あ…、病室、わかった?」
百合亜:「うん…。」
蓮:「ごめん、俺がもっと早く異変に気付いていれば…。」
百合亜:「あ、ううん、そんなことない……助かった、ほんとに。」
蓮:「………。」
百合亜:「………あの。」
蓮:「…え、何?」
百合亜:「…………ありがとう。」
蓮:「え…?」
百合亜:「母の事。」
蓮:「あ……いや。俺は救急車を呼んだだけで…。」
百合亜:「(首を横に振る)…あなたが居なかったら母は…、私が帰るまで倒れたままだったかもしれないもの。」
蓮:「………。」
百合亜:「それに……。」
蓮:「…?」
百合亜:「………。」
蓮:「…とりあえず、叔子さんも心配してるだろうし、一旦病室に戻ろう。」
百合亜:「……うん。」
:
百合亜:(M)検査の結果、脳の一部に原因不明の萎縮と血流の低下が見られていて、今後も意識消失を繰り返す可能性があり、最悪の場合このまま急速に病状が進行する事も起こり得る状態だと医師に告げられた。
叔子:「百合亜、そんな顔しないで。あくまで可能性のお話でしょ?」
百合亜:「………。」
叔子:「母さんこんなに元気だもの、きっとすぐ退院できるわ。」
百合亜:「そう…だね。」
叔子:「蓮くん、申し訳ないけど、この子の事お願いね。」
蓮:「え……。」
百合亜:「ちょっとお母さんやめてよ!私子供じゃないのよ?」
叔子:「(被せて)何言ってるの、作ってやらないとろくにご飯も食べないくせして。」
百合亜:「う…それは…。」
叔子:「そう言う事だから。私が帰るまで、よろしくね?」
蓮:「…はい。」
百合亜:「ちょっ…と、あなたも返事しないで!」
蓮:「え…ごめん。」
百合亜:「もう…。」
叔子:「うふふ。」
:
百合亜:(M)けれど、それから一週間が過ぎても退院の許可がでることはなく、母のいない日々は続いた。
:
0:(数秒空ける)庭で花を摘んでいる百合亜の元に蓮が来る
蓮:「おはよう。」
百合亜:「…おはよ。」
蓮:「……向日葵と、グラジオラス…?」
百合亜:「うん…、母の病室に飾ろうと思って。」
蓮:「…そっか。」
百合亜:「………。」
蓮:「…きっと喜ぶよ。」
:
百合亜:「……蝉の声、うるさくない?」
蓮:「…ううん、別に気にならないけど。」
百合亜:「そう?…変わってるね。」
蓮:「そうかな?」
百合亜:「うん…変わってる。」
蓮:「……そっか。」
:
蓮:「(伸びをして)……ここは、賑やかだね。」
百合亜:「やっぱりうるさいんじゃない。」
蓮:「違うよ、そう言う意味じゃなくて。」
百合亜:「…?」
蓮:「……蝉と、波の音。うみねこの鳴き声に…どこからか聞こえる風鈴の音(ね)…。」
百合亜:「(耳を澄ます)……。」
:
百合亜:(M)彼の言葉に、瞼を閉じて耳を澄ましてみる。
蓮:「……夏の音だ。」
百合亜:「……ほんと…。今まで、気にしたこともなかった…。」
:
百合亜:(M)私は、ゆったりと夏の音に耳を傾けた。大きく伸びた向日葵の陰に立ち尽くす私たちの間を、すっと潮風が通り抜けていく。
百合亜:はたはたと、母好みのミントグリーンのカーテンがそよ風にはためき、心地よい夏の気配に包み込まれた私の心が、ふわりと宙(そら)に浮かぶ。
:
百合亜:「いつぶりだろう…。」
蓮:「何が?」
百合亜:「こんな気持ち…。」
蓮:「………。」
百合亜:「…っ、痛っ!」
蓮:「!?」
百合亜:「いったぁ……。」
蓮:「ハサミで切った!?」
百合亜:「…そうみたい。」
蓮:「っ、来て!」
百合亜:(M)彼の白く長い指が私の腕を掴んだ。咄嗟に心臓が跳ねる。
:
百合亜:「えっ、ちょっと、何!?」
蓮:「すぐに洗い流さなきゃ。」
百合亜:「だ、大丈夫!血ならその内止まるから…。」
蓮:「(被せて)ダメだよ!」
百合亜:「っ!?」
蓮:「傷口から菌が入ったら大変なことになる。こう言うのは怪我した時にちゃんとしとかないと。ほら、来て。」
百合亜:「……わかった。」
:
百合亜:(M)熱い。切った指先がジンジンと脈打ち、掴まれた腕から身体中に熱が広がる。まるで熱射病にかかったみたいに頭がクラクラした。
蓮:「流すよ。」
百合亜:「うっ、痛っ!」
蓮:「少し我慢して。…思ったより深くないみたい。」
百合亜:(M)私の指を彼の手が包み込み、白いシンクの中を一筋の赤い線が流れていく。その生々しい様に思わず目を逸らして顔を上げると、彼のこめかみを汗が伝って行った。窓から差し込む日の光に、汗の雫がキラリときらめいて、とても綺麗だと思った。
蓮:「……この位でいいかな。」
百合亜:「え…あぁ、ありがと…。」
蓮:「救急箱とか、ある?」
0:手を引っ込める百合亜
百合亜:「あ…あとは自分でするから大丈夫。」
蓮:「なんで?別に…」
百合亜:「(被せて)大丈夫!」
蓮:「………。」
百合亜:「もう、本当にっ、大丈夫だからっ!あ、あの、…ありがと。」
:
蓮:「あっ、花、忘れてる…って、もういない、か。」
0:立ち尽くす蓮を洗面所に残し走り去る百合亜
:
0:(数秒空けて)二人で叔子の病室を訪れる
叔子:「いらっしゃい。ちゃんと仲良くしてるの?」
百合亜:「………。」
蓮:「はい、良くしてもらってます。」
叔子:「ほんとに?この子の前だからって気を遣わなくてもいいのよ?」
蓮:「いえ、本当です。」
百合亜:「そんなことより、調子はどうなの。」
叔子:「すこぶる快適よ。ごはんは美味しいし、眺めも良いし。まるでホテルみたい。見て、ここから海がとてもよく見えるの。」
蓮:「うわ…本当だ。海面がきらきら光ってる。」
叔子:「ね?とっても綺麗でしょ?時々、イルカも跳ねるのよ?」
百合亜:「えっ。」
叔子:「んふふ、あなた、昔からイルカが大好きだったもんねぇ。」
百合亜:「…別に…それは子供の時の話でしょ。」
叔子:「嘘おっしゃい、母さん知ってるのよ?今でも電話の待ち受け、イルカの画像にしてるの。」
蓮:「……ほんとだ。」
百合亜:「あっ、ちょっと、勝手に見ないでよ!」
蓮:「……ふふ。」
叔子:「うふふふ。蓮君、かわいいでしょうこの子。」
蓮:「かわいいですね。」
百合亜:「はぁっ!?っ、もうふざけるんなら私先帰るっ!」
0:病室から出ていく百合亜
叔子:「あらやだ、照れちゃって。」
蓮:「(微笑む)…。」
叔子:「巧くやってくれてるみたいね。」
蓮:「…いえ。」
叔子:「何か不便な事はない?」
蓮:「大丈夫です。」
叔子:「もし何か欲しい物とか必要なものがあったら遠慮しないで言って頂戴ね?」
蓮:「…はい。ありがとうございます。」
叔子:「………蓮君。」
蓮:「?…はい?」
叔子:「……ううん、何でもないわ。」
蓮:「……?」
叔子:「また来て頂戴。二人が来てくれると元気が出るの。まるで、桜子が居た頃に戻ったみたいよ。」
蓮:「……はい。」
叔子:「それじゃ、気を付けてね。」
:
百合亜:(M)それから、母の退院予定が見えないまま数日が経ち。
0:深夜、キッチンで麦茶を飲む百合亜と、急に勝手口から入ってくる蓮
百合亜:「わっ!!びっくりした!!」
蓮:「はぁっ、はぁっ、はぁっ……。」
百合亜:「え、何、こんな遅くにどうしたの?」
蓮:「はぁ……はぁ……その辺、走って、来た…。」
百合亜:「え……走るって…何で?」
蓮:「……何となく…。」
百合亜:「……そう。…あ、麦茶、飲む?」
蓮:「…うん、貰える?」
百合亜:「ち、ちょっと待ってね。」
0:汗だくで椅子に座る蓮
百合亜:「はい。あと、今エアコンつけたから。」
蓮:「ありがとう…(麦茶を一気に飲む)……ふう…。珍しいね。」
百合亜:「え?……何が?」
蓮:「エアコン。」
百合亜:「あー…そうね。母が機械嫌いで。自然の風が一番だって言ってつけたがらないの。」
蓮:「へぇ…、俺の母さんも昔似たようなこと言ってたっけ。」
百合亜:「えっ…記憶、戻ったの?」
蓮:「あ、いや………断片的にだけ。完全に戻ったわけじゃなくて、所々思い出すって言うか…。」
百合亜:「……そう…。」
蓮:「…それで?」
百合亜:「あ、うん。それで、もう何年もそうやって暮らしてきたから、私もお姉ちゃんもエアコンつけないのに慣れちゃって。」
蓮:「そっか。だからここは、いつも潮の香りがするんだね。」
百合亜:「え?そう?あんまり感じたこと無かったけど…言われてみれば。」
蓮:「俺、そう言うの嫌いじゃない。」
百合亜:「え?」
蓮:「自然と一緒に暮らすって言うのかな。大きな庭で野菜や花を育てて、自然の恩恵を受けて文明に頼らず生きていく。それって何か、かっこ良くない?」
百合亜:「えぇ?そうかな?」
蓮:「うん。今ってさ、車で走ればすぐ近くにコンビニやスーパーがあって、欲しいものは金さえあれば何でもすぐ手に入る。わざわざ作らなくたって美味しいものは食べられるし、服に困る事もない。快適な環境の中で快適な生活が当たり前に送れる。」
百合亜:「うん。」
蓮:「けど、それだっていつまでも続くとは限らない。当たり前にあった環境が突然全てなくなるかもしれない。そうなった時、生きるために残るのは自然だけ。自然をいかに上手く利用するかにかかってる。」
百合亜:「…サバイバルって事?」
蓮:「ははっ。いいね、サバイバル。」
百合亜:「……。」
蓮:「お風呂、借りて良いかな?」
百合亜:「えっ!?あ、うん、どうぞ。」
蓮:「ありがとう。麦茶美味しかった、ごちそう様。」
百合亜:「どう、いたしまして…。」
:
百合亜:(M)彼が母親の話をした時、ドキリと心臓が鳴った。その動揺に、このまま記憶が戻らなければいいと心のどこかで願っている自分に気づかされた。
百合亜:私は、彼の熱気が残るキッチンにしばらく立ち尽くしていた。
:
0:台風の夜、リビングにて
百合亜:「台風だいぶ近づいてきたみたいね…。」
蓮:「……雨戸、全部閉めてきたよ。」
百合亜:「ありがと。庭もビニール被せてきたし…後は大丈夫、かな。」
蓮:「ん。」
百合亜:「それにしても…父の服ばかり着るのね。」
蓮:「ん?あぁ…まぁ。」
百合亜:「新しいの買えばいいのに。」
蓮:「…いや、大丈夫。別に困らないし。」
百合亜:「…そう?」
0:テレビに目を向ける二人
蓮:「強風域に入るの、夜中みたいだね…。」
百合亜:「……うん。」
:
百合亜:「っ!きゃあああああっ!」
蓮:「停電…?」
百合亜:「(涙目)…う、ううぅ…。」
蓮:「大丈夫!?」
百合亜:「……わ…私っ……く、暗い所…ダメで…っ。」
蓮:「スマホは?」
百合亜:「お、落としちゃったみたい…。」
蓮:「…そっち行くから、取りあえずその場に座って。」
百合亜:「……うん…。」
蓮:「…大丈夫?」
百合亜:「(震える)………。」
蓮:「…落ち着いて。目を開いていればその内暗闇に慣れてくるから。」
百合亜:「(頷く)…。」
:
百合亜:(M)雨と雷が鳴り響く中、床の上で震えながら縮こまる私の肩を抱き、蓮は優しく背中をさすってくれた。次第に周りが薄っすら見えるようになると、旅行のお土産にと買ったアロマキャンドルに火をともす。明かり代わりの不安定な炎は、ゆらゆらとソファに並んで座る私達を照らし出した。
蓮:「…まだ怖い?」
百合亜:「(頷く)…。」
蓮:「そっか。」
:
蓮:「じゃ、気が紛れるようになんか話そっか。」
百合亜:「…話?」
蓮:「そう。何に集中すれば気にならなくなるよ。」
百合亜:「ほんとに…?」
蓮:「あぁ。」
百合亜:「わかった…。」
蓮:「そうだな…怖い話でもする?」
百合亜:「やだっ!」
蓮:「ははは、じゃあ怖い話は無し。」
百合亜:「…あなたって結構意地悪なのね。」
蓮:「ん?知らなかった?」
百合亜:「……今知った。」
蓮:「そっか。」
:
蓮:「それじゃ、意地悪がバレたついでにかっこ悪い所でも暴露してみようかな。」
百合亜:「かっこ悪い?」
蓮:「うん。…俺さ、怖いんだ。何もしないで居るのが。」
百合亜:「……?」
蓮:「得体の知れない何かに飲み込まれてしまいそうな気がして…。
蓮:みんな未来の光に向かって吸い込まれていくのに、俺だけがずぶずぶとその場に沈んでいく様な。過去の沼に取り残されて、暗闇に一生繋がれて過ごす様な気持ちになる。
蓮:逃げたくて、逃げたくて。いつも夜が来るたびにがむしゃらに走った。」
百合亜:「…それで、この間も…?」
蓮:「あぁ。走ってないと、おかしくなるんだ。」
百合亜:(M)私の肩を抱く蓮の手が微かに震えていた。驚いて見上げた先にあった、頼りなく揺れる灯りに照らされた横顔があまりにも儚くて、私はおもむろに彼を抱きしめた。
:
百合亜:「私達…同じ、なのかもしれない。」
蓮:「…同じ?」
百合亜:「うん。家族の中で私だけがこの大きな家に取り残されて、古い家族写真の様に色あせて埃を被っていくみたいで…。
百合亜:逃げられない、だけど離れたくない。甘い思い出の中に囚われる恐怖。」
蓮:「………。」
0:百合亜の頬を涙が伝い落ちる
百合亜:「暗いのはいや…。」
蓮:「…うん。俺も。」
百合亜:「一人は…もっと、いや…。」
蓮:「…ゆりあ…。」
百合亜:「……初めて名前…呼んだね。」
蓮:「……うん。」
百合亜:「……れん。」
蓮:「なに…?」
百合亜:「……ううん。」
:
百合亜:(M)気づくと、激しかった雨はいつしか天窓に優しく落ち、溶けだしたキャンドルの香りが私達を甘く包み込んでいた。
百合亜:蓮の冷たい指先が躊躇いがちにそっと私の濡れた頬に触れる。そこに手の平を重ね、吸い込まれそうなほど深い漆黒の中に、星の様な光を湛えた彼の瞳をジッと見つめ返した。僅かに熱を帯びたその瞳が、ゆっくりと私へと向かって降りてくる。
百合亜:高まる鼓動に心地よい雨音が交ざり、それは極上のノクターンへと変わる。全身が、痺れるような、溶けるような感覚を味わいながら、私は瞳を閉じそれに身を委ねた。
:
:
:
百合亜:(M)幸い台風の影響もなく畑の野菜や花たちもすくすくと育つ中、母の体調は緩やかに下り坂を見せていた。医師の話では軽い風邪が尾を引き、肺に炎症を起こしているとの事だった。
百合亜:「お母さん。」
叔子:「……あぁ…百合亜…。それに、蓮くんも…。」
百合亜:「…体の調子はどう?」
叔子:「昨日よりは、幾分か調子良いのよ…。お昼も少し、食べれたわ…。」
百合亜:「…そう。」
蓮:「横になったままで大丈夫です。楽にしててください。」
叔子:「ふふふ…じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせて貰うわね。」
蓮:「はい。今日はスイカを切って来たんです。食べれそうですか?」
叔子:「そう…。ありがとう。……あとで、頂くわ…。」
0:母の様子に背中を向けて涙を堪える百合亜
百合亜:「…ちょっとお水換えてくる…っ。」
蓮:「っ。」
叔子:「蓮君。」
蓮:「あ…はい。」
叔子:「あなたに、話があるの…。」
蓮:「…?」
0:懐かしそうに目を細めて蓮を見る叔子
叔子:「………大きくなったわね、蓮太郎君…。」
蓮:「っ!?……なん、で…名前…。」
叔子:「ふふふ、やっぱり。記憶喪失って言うのは、噓だったのね。」
蓮:「………。」
:
蓮:「いつから、気づいてたんですか。」
叔子:「潮騒公園で、あなたが声をかけてくれた時から。」
蓮:「初めから…?…だったら、なぜ?俺を傍に置いたんですか…?」
叔子:「……頼まれたからよ、美鈴さんに。」
蓮:「っ、母さんに?」
叔子:「えぇ。」
蓮:「何で母さんがあなたに!?」
叔子:「美鈴さん…私が落としたハンカチを拾おうとして、走って来たバイクに轢かれたのよね。」
蓮:「……っ。」
叔子:「彼女ね、私が病室に訪ねていく度に、謝る必要なんてないって…言ってくれて。」
蓮:「嘘だ…。母さんは…あなたのせいで…死んだ…。」
叔子:「………。」
:
叔子:「そこの、引き出しの中…開けてみて。」
蓮:「………これは……母子手帳と…通帳?」
叔子:「えぇ。あなたのよ。彼女、それを預かっていて欲しいって、亡くなる数日前に私に託したの…。」
蓮:「…だけど、俺の通帳は施設に預けてあったって…。」
叔子:「それとは別に作っていたのよ。将来きっと必要になる時が来るだろうからって。」
蓮:「…母さん…。」
叔子:「……蓮太郎君。…私が、憎いでしょ?」
蓮:「っ、…………はい。」
叔子:「……そうよね。」
蓮:「………。」
叔子:「…ごめんなさい。お母さんの事。それに…今まで黙っていた事。……本当にごめんなさい。
叔子:あなたの、望み通りになるかはわからないけれど。……私…もうきっと、あまり長くないわ。」
蓮:「っ!……それは…医者にそう言われたんですか…?」
叔子:「えぇ。」
蓮:「……ゆりあは、知っているんですか?」
叔子:「(首を横に振る)……本当はね、薄々感じてた。主人が亡くなってから…私の心はずっと、あの人を追いかけていたから。少しづつ、死に近づいている事を喜ぶ人間なんて…きっと、私くらいなものね。」
蓮:「勝手すぎる……っ!」
叔子:「………。」
蓮:「残された人間がどんな思いをするのか…少しでも考えたことがありますか?」
叔子:「………。」
0:はっと我に返る蓮
蓮:「っ……。」
叔子:「ふふっ…。百合亜と仲良くしてくれて、本当にありがとう。」
蓮:「………。」
叔子:「私がこんな事頼むの…可笑しいかもしれないけど、あの子の傍に、居てやってくれない…?」
蓮:「………無理、です。」
叔子:「…蓮太郎君。」
蓮:「無理に決まってるっ…!そんな資格が何処にあるって言うんだ!こんな俺が…どんな顔して彼女の傍に……っ!」
叔子:「………。」
蓮:「……俺は、あなたを殺す為に近づいた。自分を殺そうとしていた人殺しに娘を預けるなんて…まともじゃない。」
叔子:「…『私の死は、あなたに与えられるものじゃない。』」
蓮:「……何?」
叔子:「『私の死は、私だけの物。勝手に奪うなんて許さない。』」
蓮:「…何を……?」
叔子:「あなたのお母さんの言葉よ。」
蓮:「え…。」
叔子:「最後の日、彼女…私にそう言った。あの時は、何度も謝る私に気を遣って言ってくれた言葉だと思ったわ。だけど…今思えば、もしかしたらあれは、彼女の最後のプライドだったのかもしれないわね。」
蓮:「ぷら…いど…?」
叔子:「えぇ。他人のせいで自分の人生が終わるだなんて、そんな悔しい事って…ないじゃない?」
蓮:「………。」
叔子:「今なら、その気持ち、良くわかるわ。……廉太郎君。あなたは、人殺しなんかじゃない。」
:
叔子:「私が愛してやれなかった分、娘を愛してあげて。お願い。」
蓮:「…………すみません、その約束は…出来ません。」
叔子:「………。」
:
0:蓮の後を追いかける百合亜
百合亜:「れんっ!!」
蓮:「ゆりあ…。」
百合亜:「…今の、話…。」
蓮:「…聞いてたのか。」
百合亜:「う、嘘よね…?」
蓮:「………。」
百合亜:「…お願い…冗談だって言って…。二人で仕組んだ悪戯だったって…言って。」
蓮:「……本当だ。俺は君の母親を殺す為に近づいた。」
百合亜:「嘘よ!!!」
蓮:「…嘘じゃない。」
百合亜:「………騙してたの……?」
蓮:「………あぁ。」
百合亜:「……っ、全部…嘘だったの…?」
蓮:「…あぁ。」
百合亜:「…あの、夜の事も…?」
蓮:「………。」
百合亜:「………。」
0:唇をきつく噛んで立ち去ろうとする蓮
百合亜:「っ、行かないで!!」
蓮:「ゆりあ…。」
百合亜:「お願い…行かないで…。私の前から、居なくならないで…っ。」
蓮:「…………ごめん。」
百合亜:「うぅ…っ、お願い…お願い、れん…。あなたを失いたくない。」
蓮:「…君の隣に、俺はふさわしくない。」
:
蓮:「……さようなら、ゆりあ。」
百合亜:「っ、嫌っ!行かないで!お願いれん!」
0:咄嗟に追いかけるが躓いて転ぶ百合亜
百合亜:「あっ!
百合亜:……はっ、れん!れんーーっ!!」
:
百合亜:「れーーーーーーんっ!!」
:
:
:
百合亜:(M)蓮はその日を最後に、私の前から姿を消した。
百合亜:誰も居なくなった広い家に、私は一人取り残された。あの日と同じ紺碧の空には真っ白な入道雲が高く背を伸ばし、庭先では色とりどりの花が潮風に揺れている。蝉の声はどこか遠くに聴こえ、髪を撫でる潮と緑の香りが混じった風はいつまで経っても私の頬を乾かしてはくれない。
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百合亜:(M)やがて、夏の暑さを残したまま季節は秋へと移り変わる。
百合亜:相変わらず熱を繰り返していた母は、とうとう一度も我が家へ戻ることなく、父の元へと旅立った。
百合亜:せわしなく進んだ葬式を終え、ひぐらしの鳴き声を聞きながら掃き出し窓からぼーっと庭を眺めていると、不意に聞き馴染みのある声がした。
桜子:「何やってんのさ、そんなとこで呆けて。」
百合亜:「…お姉ちゃん…?」
桜子:「よっ、久しぶり。」
百合亜:「……遅いよ。もうお葬式終わっちゃたよ?」
桜子:「あのねぇ、こっちはイタリアから飛行機乗り継いでこれでも出来る限り急いで帰って来たのよ?文句言わないで。」
百合亜:「……お帰り。」
桜子:「……はぁーあ、相変わらずここは潮くさいね。」
百合亜:「………。」
桜子:「お、トマトだ!一個貰うね。……んーっ!甘ぁーい!母さんのトマトはやっぱ美味しいわ。」
百合亜:「…お線香あげてく?」
桜子:「ん。」
0:仏間で線香をあげる桜子と、その後ろに立つ百合亜
桜子:「……母さん、お疲れ様。そっちで父さんと仲良くね。」
百合亜:「………。」
桜子:「よしっ、それじゃあ特上寿司でも頼むか!」
百合亜:「…うん。」
0:寿司桶を囲む桜子と百合亜
桜子:「それで?」
百合亜:「え…?」
桜子:「なんかあった?」
百合亜:「………。」
桜子:「わっかりやすいんだからー。昔っからなんかあるとそうやってすぐ顔に出んのよね、あんた。」
百合亜:「そんなわかりやすい顔してる?」
桜子:「眼なんか真っ赤だし、頬もこけてる。ちゃんと食べてんの?そのまま母さんに一緒に連れてかれちゃいそうな顔してるよ。」
百合亜:「お姉ちゃん不謹慎。」
桜子:「…何よ、失恋でもした?」
百合亜:「っ!」
桜子:「へぇー?どこで知り合ったの?どんな男?」
百合亜:「……夏に、突然お母さんが連れてきたの。」
桜子:「はぁ?母さんが?」
百合亜:「…急に一緒に住むからって言いだして。」
桜子:「何それ…野良猫じゃあるまいし。」
百合亜:「初めは、知らない男の人と一緒に住むなんてって思ってた。けど…。」
:
百合亜:(M)彼の表情に、声に、指先に、私の心はいとも簡単に囚われてしまった。
百合亜:差し込む木漏れ日が彼の白い肌の上で揺れる。冷たい水が彼の指を流れる。潮の香りを含んだ風が彼の漆黒の髪を揺らす。キャンドルの明かりが彼の瞳の中で星の様に不規則に揺らめく。一瞬で消えてしまいそうなその全てに目を奪われた。
百合亜:彼と過ごす日々は、まるでセピア色の世界がゆっくりと色づいていくみたいだった。
0:静かに百合亜の頬を涙が伝う
桜子:「…百合亜。悲しいの?」
百合亜:「(頷く)…。」
桜子:「そう。…おいで。」
百合亜:「(静かに泣く)…っ。」
桜子:「……ここに居るのが辛いなら、出て行っても良いんだよ。」
百合亜:「………。」
桜子:「この家はさ…父さんが母さんの為だけに作った家なんだよね。母さんが住みやすいように、母さんが使いやすいように…母さんへの愛情百%で作られてる。見た目だってほら、母さんの好きなあの本に出てくる家みたいじゃない。
桜子:…笑えるくらい、母さんの為だけを思って作られてるんだよ。あたしら子供の事なんてまるっきり無視して…そんな家がさ、あたしは昔っからずっと嫌いだった。まるで居場所がないみたいで、こんなに広いのにすっごく窮屈でさ。だから高校卒業してすぐこの家を出たの。」
百合亜:「お姉ちゃん……。」
桜子:「ごめんね、百合亜。あんたに全部背負わせて。」
百合亜:「………。」
桜子:「だけど、もう自由にしていいんだよ。」
百合亜:「自由…?」
桜子:「うん。やりたいようにやっていいの、何でも。この家も、売りたきゃ売ればいいし、壊したきゃ壊せばいい。好きなようにしな?
桜子:何なら、一緒にイタリアに行く?向こうならもっといい男いっぱい居るよ?」
百合亜:「……ううん。」
桜子:「うん?」
百合亜:「私、ここに居る。」
桜子:「…無理してない?」
百合亜:「ううん、してないよ。私もね…前はそうだった。」
:
百合亜:(M)姉の言う様に、この家にはずっと自分の居場所が無いように思えていた。我が家と言うよりは、ただの住居でしかなかった。
百合亜:だけど。彼が来て、ここで一緒に過ごすようになって、少しづつ家の中の空気が変わって行って…。
:
百合亜:「私、今はここが好き。
百合亜:自分で作った野菜でね、好き勝手に料理して食べるのも意外と楽しいんだって、教えてもらったの。」
桜子:「……そっか。……うん、好きにしな。」
百合亜:「うん……ありがとう、お姉ちゃん。」
桜子:「んーん。」
:
百合亜:(M)翌朝、蝉の鳴き声と潮騒を背に、姉の乗った青いタクシーは道の先へと消えていった。九月に入ったというのに、相変わらずアスファルトをジリジリと太陽が焼いている。
:
百合亜:(M)きびすを返し庭に戻ろうとすると、タクシーの消えた先からエンジン音を響かせてこちらに向かって走ってくる、一台のバイクが見えた。
配達員:「こんにちわー、郵便でーす。」
百合亜:「あ、ご苦労様です。」
配達員:「えーと、……はい、どうぞ。」
百合亜:(M)薄い手紙の束を差し出し、暑そうなヘルメットを揺らして軽く会釈をすると、配達員はバイクに跨り街の方へと走り去って行った。
百合亜:手紙の束を片手に家の中へと戻る。窓際では、優しい風に張り替えたばかりの白いカーテンがはらりとはためいていた。
:
百合亜:(M)ふと、ダイレクトメールの中に白い封筒が一通交ざり込んでいるのを見つけて思わず手に取る。何気なく裏を見て、私は驚きに目を見開いた。
:
百合亜:「っ!!」
:
百合亜:(M)白い封筒の裏には、青いイルカの絵と細い几帳面な文字で「蓮太郎」と書かれてあった。急いで封を切り、中から便せんを取り出す。
蓮:『拝啓、百合亜様。
蓮:突然君のもとを去りながら、こんな手紙を送ることをどうか許してほしい。』
百合亜:「…蓮……。」
蓮:『俺はずっと、十年前母を死に追いやった「叔子」という女性を殺す為だけに生きて来た。記憶喪失を装い彼女に近づき、運よくあの家で暮らすことになり、その機会が来るのを静かに待った。
蓮:叔子さんが倒れたあの日、アルバムに映る君達親子の姿を見たよ。母が死に、施設で育った孤独な自分と違い、君達はきっと何も辛い思いなどぜず幸せにのうのうと生きているんだと思い、俺の憎しみはどんどん増していった。
蓮:けれど、実際に過ごした君の家は、驚くほど空っぽだった。』
百合亜:「……からっぽ…。」
蓮:『写真では幸せそうに笑っているのに、家の中にあったのは、空っぽの部屋、空っぽの空気、空っぽの温度。その全てに、僕の中で初めて迷いが生まれた。俺が憎み続けていたものは、壊したかったものは、本当に此処だったのかと…。
蓮:叔子さんの余命が長くないと知り、君のもとを去った後生きる意味を見失い、いっそのこと死んでしまおうとも思った。でも、その時不意に百合亜の顔が思い浮かんだんだ。殺したいほど憎いと思っていたのに、その人の娘に惹かれてしまった自分がどうしようもなくおかしくて、夜の海に浸りながら気が付けば、一人笑っていた。』
0:静かに涙をこぼす百合亜。
百合亜:……っ………っ。
蓮:『君は気づいていた?空っぽな家の中で、広い庭の小さな畑だけがそこに生きていた。君が毎日水を上げていた、あの綺麗な畑だ。
蓮:……百合亜。俺は、最後の日、叔子さんに頼まれた約束を果たそうと思う。』
百合亜:「約、束…?…お母さんが?」
蓮:『百合亜、君の暗い夜にいつか安らぎの灯が灯るよう、祈っている。……蓮太郎』
百合亜:「蓮…?」
:
百合亜:「っ、もう一枚、便せん…?……それと、ピンクの花びら…。」
蓮:『追伸。気になって調べてみたんだけど、叔子さんが好きだと言っていたグラジオラス。欧米では剣の百合とも言われているらしい。』
百合亜:「っ!」
蓮:『もしかしたら君の名前は、その花からつけたのかもしれないね。
蓮:俺からも、グラジオラスの花びらを送るよ。想いを込めて。』
0:百合亜の瞳に涙が溢れる
百合亜:「うっ…うぅっ………。」
:
百合亜:(M)庭の白いグラジオラスの花が風に揺れ、その甘い香りが潮の香りに混じってふわりと鼻孔をくすぐった。綺麗な花も、もうすぐ見頃を終えてしまうだろう。そうしたら、今度はどんな花を植えよう。母の持っていた植物図鑑を引っ張り出し、掃き出し窓に座ってそれを眺める。
百合亜:ピンク色のグラジオラスの花言葉を調べて、零れそうになる涙を拭った。
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百合亜:「ダイアモンド…リリー。………うん、これにしよう。」
:
百合亜:(M)散歩のついでに寄った花屋さんの近くの池には、綺麗な蓮の花が沢山咲いていた。
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百合亜:(M)ふと空を見上げると、飛行機雲が綺麗な直線を描いて山の向こうに伸びている。暑い夏が終わる。けれど、来年も、再来年も、繰り返しグラジオラスとダイアモンドリリーと、美味しい野菜をいっぱい植えよう。
百合亜:水辺に咲く、凛と美しい花の名前を持ったその人は、色とりどりの花と沢山実を付けた野菜達を見て…きっと驚くだろう。
:
:
:
蓮:(M)燃えるような夏の中で、生まれて初めて恋をした。その人は、花の名前を持つ静かな木陰の様な人だった。
0:タイトルコール
蓮:【陽炎は、木陰の中で眠る】
:
百合亜:(M)影との境がくっきりと分かれ、紺碧の空に白い入道雲が背を伸ばす。七月の、全てを燃やし尽くしそうなとても暑い日。母に連れられやって来たその人は、花の名前を持つ、陽炎(かげろう)の様な人でした。
:
0:タイトルコール
蓮:【陽炎は、木陰の中で眠る】
:
百合亜:(M)潮と緑の香りが入り混じるこの街で、私は母親と暮らしていた。
百合亜:高校卒業と同時に家を出た姉はそれっきり、母が病を患ったと知らせても帰ってくる気配を見せなかった。
:
百合亜:死んだ父が残してくれた家は、赤毛のアンが好きだという母に合わせた、緑色の大きな三角屋根が特徴的で。けれど、二人で住むにはあまりに大きすぎて、使われない部屋を幾つも持て余し色あせていく思い出達が…私を、この街に取り残されたような気持ちにさせた。
:
百合亜:そんなある日。
叔子:「彼の名前は、蓮君よ。今日からウチで一緒に暮らすことになったから、よろしくね。」
百合亜:「……え?」
:
百合亜:(M)蓮と呼ばれたその人は、白いシャツに黒いスラックス姿のどこか儚い印象を持った人だった。
蓮:「…蓮です。……よろしく。」
百合亜:(M)そう彼が声を発した瞬間、気が滅入るほどに煩かった蝉の声がしん…と静まり、まるで一瞬時が止まったかのように思えた。
:
0:叔子の部屋
百合亜:「ちょっとお母さん、一緒に住むって一体どういう事!?」
叔子:「だーかーら、さっき言ったでしょ?今日からここに住むのよ。」
百合亜:「……っ、だから何で!?」
叔子:「………(溜息)。彼、記憶喪失なんですって。」
百合亜:「え…?」
叔子:「潮騒公園のベンチで…動けなくなっていた所を助けてもらったの。」
百合亜:「え!?何っ…どうしたの!?」
叔子:「騒がないで。少し暑さにやられただけよ。木の陰で休んだらすぐに良くなったわ。」
0:百合亜は安堵の息をつく
百合亜:「もー、だから言ってるじゃない、せめてケータイでも良いから持っててって。」
叔子:「嫌よぉ。お母さんが機械苦手なの知ってるでしょ?」
百合亜:「でも…。」
蓮:「あの、すみません。」
百合亜:「っ。」
叔子:「どうしたの、蓮君。」
蓮:「この荷物、何処に置いたら…。」
叔子:「あらあらっ、ごめんなさい私ったら。持たせたままだったわね。」
0:蓮から荷物を受け取る
叔子:「今麦茶持ってくるから、その辺に座っててちょうだい。」
蓮:「あ…はい。」
百合亜:「………。」
蓮:「………。」
百合亜:「……あの。」
蓮:「え…?」
百合亜:「記憶喪失って、本当なんですか?」
蓮:「あー……うん。」
百合亜:「…住所とか、名前とか…何も覚えてないの?」
蓮:「……うん。」
百合亜:「………それって…。」
叔子:「お待たせ。冷たい麦茶よ。スイカも切ったからどうぞ食べて。」
蓮:「……ありがとうございます。」
0:席を立ちダイニングから出ていく百合亜
百合亜:「………っ。」
叔子:「っ、百合亜!………もう、あの子ったら…。ごめんなさいね。気にしないで?」
蓮:「……はい。」
:
百合亜:(M)蓮はいつの間にか、姉の部屋を使い、父の服を着て、母と食事をするようになった。静かだった家の中に、母の笑い声が戻った。
:
0:庭で水撒きをする百合亜の元に蓮がやってくる
蓮:「……おはよう。」
百合亜:「………。」
蓮:「………あの、叔子さんは…。」
百合亜:「……出かけてる。」
蓮:「そう…。」
:
蓮:「………庭、すごいね。」
百合亜:「え…?」
蓮:「野菜とか花とか…。」
百合亜:「……別に……母が好きで植えてるだけ…。」
蓮:「そうなんだ…。」
:
蓮:「その白い花…何?」
百合亜:「え……これ?」
蓮:「うん。」
百合亜:「………グラジオラス。」
蓮:「…ぐら、じおらす…。」
:
蓮:「綺麗だ。」
百合亜:「…母が、一番好きな花なの。」
蓮:「それで…その花だけこんなに沢山…。」
百合亜:「…うん。」
蓮:「………。」
百合亜:「……ねぇ。」
蓮:「っ、何。」
百合亜:「…いつまでウチに居るの?」
蓮:「…………。」
百合亜:「母がどう言うつもりかは知らないけど、女性の二人暮らしの家にあなたみたいな若い男性が居るのは、…あまり世間体も良くないわ。」
蓮:「…ごめん。………だけど、何も思い出せなくて…。」
百合亜:「…一度市役所に相談行ってみたら…良いじゃない。
百合亜:あ…、な、何もしないで過ごすよりはきっと手がかりとか何か見つかるかもしれないしっ!」
蓮:「……そう、だね。そうしてみるよ。」
百合亜:「あ…、……っ。」
:
百合亜:(M)なぜだか、言い訳みたいに言葉が溢れた。きっと、目の端に映った彼の顔が、どこか寂しそうにも見えたからかもしれない。
:
0:(数秒空けて)数日後、叔子の部屋
叔子:「ふぅ…あらやだ、埃まみれねぇ。」
蓮:「……これ、アルバム、ですか?」
叔子:「えぇ。私たちの家族写真よ。」
蓮:「………。」
叔子:「懐かしいわねぇ…。あぁ、これ見て。」
蓮:「……スイカ割り…?」
叔子:「そう。すぐそこの海岸でね。百合亜達が小さい頃、みんなで行って良く遊んだのよ。……ふふっ、こんなに真っ黒になって…。」
蓮:「…楽しそう、ですね……。」
叔子:「…こっちは桜子の入学式。百合亜ったら、桜子の制服を自分も着るんだって言ってきかなくてね……ほら、この写真。主人と手を繋いでるのに頬っぺた膨らませてそっぽ向いてるでしょ?あっはははは、おっかしい!」
蓮:「………。」
叔子:「…あの子は…昔っからお姉ちゃんの真似ばっかりしたがって。高校もお姉ちゃんと同じ所に行くんだって頑張ってたんだけど…試験の当日に、主人が事故で亡くなっちゃって。」
蓮:「…事故?」
叔子:「えぇ。」
蓮:「………。」
叔子:「それからかしら…あの子が桜子の後を追うのを辞めたのは…。
叔子:こーんな広い家に、私と二人きりで暮らすようになったらあの子、全然笑わなくなっちゃった。」
0:寂しそうに微笑む叔子
叔子:「……仕方ないわね。こんな何にもない田舎でボケた母親と二人暮らしなんて、きっとなんにも楽しくないもの。」
蓮:「……叔子さん。」
叔子:「(被せて)さ、そろそろお昼にしましょ!お腹すいたでしょ?」
0:立ち上がろうとした叔子の身体が傾く
叔子:「っ……。」
蓮:「っ!叔子さんっ!!」
:
0:病室に駆けつける百合亜
百合亜:「っ、お母さんっ!!!」
叔子:「……百合亜…。」
百合亜:「はぁ…はぁ…はぁ…っ、急に倒れたって…。」
叔子:「ただの立ち眩みよ。」
百合亜:「立ち眩み…、お医者さんは?」
叔子:「さっき検査が終わったから、結果を言いに後でくると思うわ。」
百合亜:「……あの人は…?」
叔子:「?…あぁ、蓮君?蓮君なら、売店に飲み物買いに行ってもらってる。すぐ戻ると思うわよ。」
百合亜:「……ちょっと行ってくる。」
叔子:「あっ、百合亜っ。…んもう、せわしないわねぇ…。」
:
0:エレベーターを降りた蓮と出くわす百合亜
蓮:「あ…、病室、わかった?」
百合亜:「うん…。」
蓮:「ごめん、俺がもっと早く異変に気付いていれば…。」
百合亜:「あ、ううん、そんなことない……助かった、ほんとに。」
蓮:「………。」
百合亜:「………あの。」
蓮:「…え、何?」
百合亜:「…………ありがとう。」
蓮:「え…?」
百合亜:「母の事。」
蓮:「あ……いや。俺は救急車を呼んだだけで…。」
百合亜:「(首を横に振る)…あなたが居なかったら母は…、私が帰るまで倒れたままだったかもしれないもの。」
蓮:「………。」
百合亜:「それに……。」
蓮:「…?」
百合亜:「………。」
蓮:「…とりあえず、叔子さんも心配してるだろうし、一旦病室に戻ろう。」
百合亜:「……うん。」
:
百合亜:(M)検査の結果、脳の一部に原因不明の萎縮と血流の低下が見られていて、今後も意識消失を繰り返す可能性があり、最悪の場合このまま急速に病状が進行する事も起こり得る状態だと医師に告げられた。
叔子:「百合亜、そんな顔しないで。あくまで可能性のお話でしょ?」
百合亜:「………。」
叔子:「母さんこんなに元気だもの、きっとすぐ退院できるわ。」
百合亜:「そう…だね。」
叔子:「蓮くん、申し訳ないけど、この子の事お願いね。」
蓮:「え……。」
百合亜:「ちょっとお母さんやめてよ!私子供じゃないのよ?」
叔子:「(被せて)何言ってるの、作ってやらないとろくにご飯も食べないくせして。」
百合亜:「う…それは…。」
叔子:「そう言う事だから。私が帰るまで、よろしくね?」
蓮:「…はい。」
百合亜:「ちょっ…と、あなたも返事しないで!」
蓮:「え…ごめん。」
百合亜:「もう…。」
叔子:「うふふ。」
:
百合亜:(M)けれど、それから一週間が過ぎても退院の許可がでることはなく、母のいない日々は続いた。
:
0:(数秒空ける)庭で花を摘んでいる百合亜の元に蓮が来る
蓮:「おはよう。」
百合亜:「…おはよ。」
蓮:「……向日葵と、グラジオラス…?」
百合亜:「うん…、母の病室に飾ろうと思って。」
蓮:「…そっか。」
百合亜:「………。」
蓮:「…きっと喜ぶよ。」
:
百合亜:「……蝉の声、うるさくない?」
蓮:「…ううん、別に気にならないけど。」
百合亜:「そう?…変わってるね。」
蓮:「そうかな?」
百合亜:「うん…変わってる。」
蓮:「……そっか。」
:
蓮:「(伸びをして)……ここは、賑やかだね。」
百合亜:「やっぱりうるさいんじゃない。」
蓮:「違うよ、そう言う意味じゃなくて。」
百合亜:「…?」
蓮:「……蝉と、波の音。うみねこの鳴き声に…どこからか聞こえる風鈴の音(ね)…。」
百合亜:「(耳を澄ます)……。」
:
百合亜:(M)彼の言葉に、瞼を閉じて耳を澄ましてみる。
蓮:「……夏の音だ。」
百合亜:「……ほんと…。今まで、気にしたこともなかった…。」
:
百合亜:(M)私は、ゆったりと夏の音に耳を傾けた。大きく伸びた向日葵の陰に立ち尽くす私たちの間を、すっと潮風が通り抜けていく。
百合亜:はたはたと、母好みのミントグリーンのカーテンがそよ風にはためき、心地よい夏の気配に包み込まれた私の心が、ふわりと宙(そら)に浮かぶ。
:
百合亜:「いつぶりだろう…。」
蓮:「何が?」
百合亜:「こんな気持ち…。」
蓮:「………。」
百合亜:「…っ、痛っ!」
蓮:「!?」
百合亜:「いったぁ……。」
蓮:「ハサミで切った!?」
百合亜:「…そうみたい。」
蓮:「っ、来て!」
百合亜:(M)彼の白く長い指が私の腕を掴んだ。咄嗟に心臓が跳ねる。
:
百合亜:「えっ、ちょっと、何!?」
蓮:「すぐに洗い流さなきゃ。」
百合亜:「だ、大丈夫!血ならその内止まるから…。」
蓮:「(被せて)ダメだよ!」
百合亜:「っ!?」
蓮:「傷口から菌が入ったら大変なことになる。こう言うのは怪我した時にちゃんとしとかないと。ほら、来て。」
百合亜:「……わかった。」
:
百合亜:(M)熱い。切った指先がジンジンと脈打ち、掴まれた腕から身体中に熱が広がる。まるで熱射病にかかったみたいに頭がクラクラした。
蓮:「流すよ。」
百合亜:「うっ、痛っ!」
蓮:「少し我慢して。…思ったより深くないみたい。」
百合亜:(M)私の指を彼の手が包み込み、白いシンクの中を一筋の赤い線が流れていく。その生々しい様に思わず目を逸らして顔を上げると、彼のこめかみを汗が伝って行った。窓から差し込む日の光に、汗の雫がキラリときらめいて、とても綺麗だと思った。
蓮:「……この位でいいかな。」
百合亜:「え…あぁ、ありがと…。」
蓮:「救急箱とか、ある?」
0:手を引っ込める百合亜
百合亜:「あ…あとは自分でするから大丈夫。」
蓮:「なんで?別に…」
百合亜:「(被せて)大丈夫!」
蓮:「………。」
百合亜:「もう、本当にっ、大丈夫だからっ!あ、あの、…ありがと。」
:
蓮:「あっ、花、忘れてる…って、もういない、か。」
0:立ち尽くす蓮を洗面所に残し走り去る百合亜
:
0:(数秒空けて)二人で叔子の病室を訪れる
叔子:「いらっしゃい。ちゃんと仲良くしてるの?」
百合亜:「………。」
蓮:「はい、良くしてもらってます。」
叔子:「ほんとに?この子の前だからって気を遣わなくてもいいのよ?」
蓮:「いえ、本当です。」
百合亜:「そんなことより、調子はどうなの。」
叔子:「すこぶる快適よ。ごはんは美味しいし、眺めも良いし。まるでホテルみたい。見て、ここから海がとてもよく見えるの。」
蓮:「うわ…本当だ。海面がきらきら光ってる。」
叔子:「ね?とっても綺麗でしょ?時々、イルカも跳ねるのよ?」
百合亜:「えっ。」
叔子:「んふふ、あなた、昔からイルカが大好きだったもんねぇ。」
百合亜:「…別に…それは子供の時の話でしょ。」
叔子:「嘘おっしゃい、母さん知ってるのよ?今でも電話の待ち受け、イルカの画像にしてるの。」
蓮:「……ほんとだ。」
百合亜:「あっ、ちょっと、勝手に見ないでよ!」
蓮:「……ふふ。」
叔子:「うふふふ。蓮君、かわいいでしょうこの子。」
蓮:「かわいいですね。」
百合亜:「はぁっ!?っ、もうふざけるんなら私先帰るっ!」
0:病室から出ていく百合亜
叔子:「あらやだ、照れちゃって。」
蓮:「(微笑む)…。」
叔子:「巧くやってくれてるみたいね。」
蓮:「…いえ。」
叔子:「何か不便な事はない?」
蓮:「大丈夫です。」
叔子:「もし何か欲しい物とか必要なものがあったら遠慮しないで言って頂戴ね?」
蓮:「…はい。ありがとうございます。」
叔子:「………蓮君。」
蓮:「?…はい?」
叔子:「……ううん、何でもないわ。」
蓮:「……?」
叔子:「また来て頂戴。二人が来てくれると元気が出るの。まるで、桜子が居た頃に戻ったみたいよ。」
蓮:「……はい。」
叔子:「それじゃ、気を付けてね。」
:
百合亜:(M)それから、母の退院予定が見えないまま数日が経ち。
0:深夜、キッチンで麦茶を飲む百合亜と、急に勝手口から入ってくる蓮
百合亜:「わっ!!びっくりした!!」
蓮:「はぁっ、はぁっ、はぁっ……。」
百合亜:「え、何、こんな遅くにどうしたの?」
蓮:「はぁ……はぁ……その辺、走って、来た…。」
百合亜:「え……走るって…何で?」
蓮:「……何となく…。」
百合亜:「……そう。…あ、麦茶、飲む?」
蓮:「…うん、貰える?」
百合亜:「ち、ちょっと待ってね。」
0:汗だくで椅子に座る蓮
百合亜:「はい。あと、今エアコンつけたから。」
蓮:「ありがとう…(麦茶を一気に飲む)……ふう…。珍しいね。」
百合亜:「え?……何が?」
蓮:「エアコン。」
百合亜:「あー…そうね。母が機械嫌いで。自然の風が一番だって言ってつけたがらないの。」
蓮:「へぇ…、俺の母さんも昔似たようなこと言ってたっけ。」
百合亜:「えっ…記憶、戻ったの?」
蓮:「あ、いや………断片的にだけ。完全に戻ったわけじゃなくて、所々思い出すって言うか…。」
百合亜:「……そう…。」
蓮:「…それで?」
百合亜:「あ、うん。それで、もう何年もそうやって暮らしてきたから、私もお姉ちゃんもエアコンつけないのに慣れちゃって。」
蓮:「そっか。だからここは、いつも潮の香りがするんだね。」
百合亜:「え?そう?あんまり感じたこと無かったけど…言われてみれば。」
蓮:「俺、そう言うの嫌いじゃない。」
百合亜:「え?」
蓮:「自然と一緒に暮らすって言うのかな。大きな庭で野菜や花を育てて、自然の恩恵を受けて文明に頼らず生きていく。それって何か、かっこ良くない?」
百合亜:「えぇ?そうかな?」
蓮:「うん。今ってさ、車で走ればすぐ近くにコンビニやスーパーがあって、欲しいものは金さえあれば何でもすぐ手に入る。わざわざ作らなくたって美味しいものは食べられるし、服に困る事もない。快適な環境の中で快適な生活が当たり前に送れる。」
百合亜:「うん。」
蓮:「けど、それだっていつまでも続くとは限らない。当たり前にあった環境が突然全てなくなるかもしれない。そうなった時、生きるために残るのは自然だけ。自然をいかに上手く利用するかにかかってる。」
百合亜:「…サバイバルって事?」
蓮:「ははっ。いいね、サバイバル。」
百合亜:「……。」
蓮:「お風呂、借りて良いかな?」
百合亜:「えっ!?あ、うん、どうぞ。」
蓮:「ありがとう。麦茶美味しかった、ごちそう様。」
百合亜:「どう、いたしまして…。」
:
百合亜:(M)彼が母親の話をした時、ドキリと心臓が鳴った。その動揺に、このまま記憶が戻らなければいいと心のどこかで願っている自分に気づかされた。
百合亜:私は、彼の熱気が残るキッチンにしばらく立ち尽くしていた。
:
0:台風の夜、リビングにて
百合亜:「台風だいぶ近づいてきたみたいね…。」
蓮:「……雨戸、全部閉めてきたよ。」
百合亜:「ありがと。庭もビニール被せてきたし…後は大丈夫、かな。」
蓮:「ん。」
百合亜:「それにしても…父の服ばかり着るのね。」
蓮:「ん?あぁ…まぁ。」
百合亜:「新しいの買えばいいのに。」
蓮:「…いや、大丈夫。別に困らないし。」
百合亜:「…そう?」
0:テレビに目を向ける二人
蓮:「強風域に入るの、夜中みたいだね…。」
百合亜:「……うん。」
:
百合亜:「っ!きゃあああああっ!」
蓮:「停電…?」
百合亜:「(涙目)…う、ううぅ…。」
蓮:「大丈夫!?」
百合亜:「……わ…私っ……く、暗い所…ダメで…っ。」
蓮:「スマホは?」
百合亜:「お、落としちゃったみたい…。」
蓮:「…そっち行くから、取りあえずその場に座って。」
百合亜:「……うん…。」
蓮:「…大丈夫?」
百合亜:「(震える)………。」
蓮:「…落ち着いて。目を開いていればその内暗闇に慣れてくるから。」
百合亜:「(頷く)…。」
:
百合亜:(M)雨と雷が鳴り響く中、床の上で震えながら縮こまる私の肩を抱き、蓮は優しく背中をさすってくれた。次第に周りが薄っすら見えるようになると、旅行のお土産にと買ったアロマキャンドルに火をともす。明かり代わりの不安定な炎は、ゆらゆらとソファに並んで座る私達を照らし出した。
蓮:「…まだ怖い?」
百合亜:「(頷く)…。」
蓮:「そっか。」
:
蓮:「じゃ、気が紛れるようになんか話そっか。」
百合亜:「…話?」
蓮:「そう。何に集中すれば気にならなくなるよ。」
百合亜:「ほんとに…?」
蓮:「あぁ。」
百合亜:「わかった…。」
蓮:「そうだな…怖い話でもする?」
百合亜:「やだっ!」
蓮:「ははは、じゃあ怖い話は無し。」
百合亜:「…あなたって結構意地悪なのね。」
蓮:「ん?知らなかった?」
百合亜:「……今知った。」
蓮:「そっか。」
:
蓮:「それじゃ、意地悪がバレたついでにかっこ悪い所でも暴露してみようかな。」
百合亜:「かっこ悪い?」
蓮:「うん。…俺さ、怖いんだ。何もしないで居るのが。」
百合亜:「……?」
蓮:「得体の知れない何かに飲み込まれてしまいそうな気がして…。
蓮:みんな未来の光に向かって吸い込まれていくのに、俺だけがずぶずぶとその場に沈んでいく様な。過去の沼に取り残されて、暗闇に一生繋がれて過ごす様な気持ちになる。
蓮:逃げたくて、逃げたくて。いつも夜が来るたびにがむしゃらに走った。」
百合亜:「…それで、この間も…?」
蓮:「あぁ。走ってないと、おかしくなるんだ。」
百合亜:(M)私の肩を抱く蓮の手が微かに震えていた。驚いて見上げた先にあった、頼りなく揺れる灯りに照らされた横顔があまりにも儚くて、私はおもむろに彼を抱きしめた。
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百合亜:「私達…同じ、なのかもしれない。」
蓮:「…同じ?」
百合亜:「うん。家族の中で私だけがこの大きな家に取り残されて、古い家族写真の様に色あせて埃を被っていくみたいで…。
百合亜:逃げられない、だけど離れたくない。甘い思い出の中に囚われる恐怖。」
蓮:「………。」
0:百合亜の頬を涙が伝い落ちる
百合亜:「暗いのはいや…。」
蓮:「…うん。俺も。」
百合亜:「一人は…もっと、いや…。」
蓮:「…ゆりあ…。」
百合亜:「……初めて名前…呼んだね。」
蓮:「……うん。」
百合亜:「……れん。」
蓮:「なに…?」
百合亜:「……ううん。」
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百合亜:(M)気づくと、激しかった雨はいつしか天窓に優しく落ち、溶けだしたキャンドルの香りが私達を甘く包み込んでいた。
百合亜:蓮の冷たい指先が躊躇いがちにそっと私の濡れた頬に触れる。そこに手の平を重ね、吸い込まれそうなほど深い漆黒の中に、星の様な光を湛えた彼の瞳をジッと見つめ返した。僅かに熱を帯びたその瞳が、ゆっくりと私へと向かって降りてくる。
百合亜:高まる鼓動に心地よい雨音が交ざり、それは極上のノクターンへと変わる。全身が、痺れるような、溶けるような感覚を味わいながら、私は瞳を閉じそれに身を委ねた。
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百合亜:(M)幸い台風の影響もなく畑の野菜や花たちもすくすくと育つ中、母の体調は緩やかに下り坂を見せていた。医師の話では軽い風邪が尾を引き、肺に炎症を起こしているとの事だった。
百合亜:「お母さん。」
叔子:「……あぁ…百合亜…。それに、蓮くんも…。」
百合亜:「…体の調子はどう?」
叔子:「昨日よりは、幾分か調子良いのよ…。お昼も少し、食べれたわ…。」
百合亜:「…そう。」
蓮:「横になったままで大丈夫です。楽にしててください。」
叔子:「ふふふ…じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせて貰うわね。」
蓮:「はい。今日はスイカを切って来たんです。食べれそうですか?」
叔子:「そう…。ありがとう。……あとで、頂くわ…。」
0:母の様子に背中を向けて涙を堪える百合亜
百合亜:「…ちょっとお水換えてくる…っ。」
蓮:「っ。」
叔子:「蓮君。」
蓮:「あ…はい。」
叔子:「あなたに、話があるの…。」
蓮:「…?」
0:懐かしそうに目を細めて蓮を見る叔子
叔子:「………大きくなったわね、蓮太郎君…。」
蓮:「っ!?……なん、で…名前…。」
叔子:「ふふふ、やっぱり。記憶喪失って言うのは、噓だったのね。」
蓮:「………。」
:
蓮:「いつから、気づいてたんですか。」
叔子:「潮騒公園で、あなたが声をかけてくれた時から。」
蓮:「初めから…?…だったら、なぜ?俺を傍に置いたんですか…?」
叔子:「……頼まれたからよ、美鈴さんに。」
蓮:「っ、母さんに?」
叔子:「えぇ。」
蓮:「何で母さんがあなたに!?」
叔子:「美鈴さん…私が落としたハンカチを拾おうとして、走って来たバイクに轢かれたのよね。」
蓮:「……っ。」
叔子:「彼女ね、私が病室に訪ねていく度に、謝る必要なんてないって…言ってくれて。」
蓮:「嘘だ…。母さんは…あなたのせいで…死んだ…。」
叔子:「………。」
:
叔子:「そこの、引き出しの中…開けてみて。」
蓮:「………これは……母子手帳と…通帳?」
叔子:「えぇ。あなたのよ。彼女、それを預かっていて欲しいって、亡くなる数日前に私に託したの…。」
蓮:「…だけど、俺の通帳は施設に預けてあったって…。」
叔子:「それとは別に作っていたのよ。将来きっと必要になる時が来るだろうからって。」
蓮:「…母さん…。」
叔子:「……蓮太郎君。…私が、憎いでしょ?」
蓮:「っ、…………はい。」
叔子:「……そうよね。」
蓮:「………。」
叔子:「…ごめんなさい。お母さんの事。それに…今まで黙っていた事。……本当にごめんなさい。
叔子:あなたの、望み通りになるかはわからないけれど。……私…もうきっと、あまり長くないわ。」
蓮:「っ!……それは…医者にそう言われたんですか…?」
叔子:「えぇ。」
蓮:「……ゆりあは、知っているんですか?」
叔子:「(首を横に振る)……本当はね、薄々感じてた。主人が亡くなってから…私の心はずっと、あの人を追いかけていたから。少しづつ、死に近づいている事を喜ぶ人間なんて…きっと、私くらいなものね。」
蓮:「勝手すぎる……っ!」
叔子:「………。」
蓮:「残された人間がどんな思いをするのか…少しでも考えたことがありますか?」
叔子:「………。」
0:はっと我に返る蓮
蓮:「っ……。」
叔子:「ふふっ…。百合亜と仲良くしてくれて、本当にありがとう。」
蓮:「………。」
叔子:「私がこんな事頼むの…可笑しいかもしれないけど、あの子の傍に、居てやってくれない…?」
蓮:「………無理、です。」
叔子:「…蓮太郎君。」
蓮:「無理に決まってるっ…!そんな資格が何処にあるって言うんだ!こんな俺が…どんな顔して彼女の傍に……っ!」
叔子:「………。」
蓮:「……俺は、あなたを殺す為に近づいた。自分を殺そうとしていた人殺しに娘を預けるなんて…まともじゃない。」
叔子:「…『私の死は、あなたに与えられるものじゃない。』」
蓮:「……何?」
叔子:「『私の死は、私だけの物。勝手に奪うなんて許さない。』」
蓮:「…何を……?」
叔子:「あなたのお母さんの言葉よ。」
蓮:「え…。」
叔子:「最後の日、彼女…私にそう言った。あの時は、何度も謝る私に気を遣って言ってくれた言葉だと思ったわ。だけど…今思えば、もしかしたらあれは、彼女の最後のプライドだったのかもしれないわね。」
蓮:「ぷら…いど…?」
叔子:「えぇ。他人のせいで自分の人生が終わるだなんて、そんな悔しい事って…ないじゃない?」
蓮:「………。」
叔子:「今なら、その気持ち、良くわかるわ。……廉太郎君。あなたは、人殺しなんかじゃない。」
:
叔子:「私が愛してやれなかった分、娘を愛してあげて。お願い。」
蓮:「…………すみません、その約束は…出来ません。」
叔子:「………。」
:
0:蓮の後を追いかける百合亜
百合亜:「れんっ!!」
蓮:「ゆりあ…。」
百合亜:「…今の、話…。」
蓮:「…聞いてたのか。」
百合亜:「う、嘘よね…?」
蓮:「………。」
百合亜:「…お願い…冗談だって言って…。二人で仕組んだ悪戯だったって…言って。」
蓮:「……本当だ。俺は君の母親を殺す為に近づいた。」
百合亜:「嘘よ!!!」
蓮:「…嘘じゃない。」
百合亜:「………騙してたの……?」
蓮:「………あぁ。」
百合亜:「……っ、全部…嘘だったの…?」
蓮:「…あぁ。」
百合亜:「…あの、夜の事も…?」
蓮:「………。」
百合亜:「………。」
0:唇をきつく噛んで立ち去ろうとする蓮
百合亜:「っ、行かないで!!」
蓮:「ゆりあ…。」
百合亜:「お願い…行かないで…。私の前から、居なくならないで…っ。」
蓮:「…………ごめん。」
百合亜:「うぅ…っ、お願い…お願い、れん…。あなたを失いたくない。」
蓮:「…君の隣に、俺はふさわしくない。」
:
蓮:「……さようなら、ゆりあ。」
百合亜:「っ、嫌っ!行かないで!お願いれん!」
0:咄嗟に追いかけるが躓いて転ぶ百合亜
百合亜:「あっ!
百合亜:……はっ、れん!れんーーっ!!」
:
百合亜:「れーーーーーーんっ!!」
:
:
:
百合亜:(M)蓮はその日を最後に、私の前から姿を消した。
百合亜:誰も居なくなった広い家に、私は一人取り残された。あの日と同じ紺碧の空には真っ白な入道雲が高く背を伸ばし、庭先では色とりどりの花が潮風に揺れている。蝉の声はどこか遠くに聴こえ、髪を撫でる潮と緑の香りが混じった風はいつまで経っても私の頬を乾かしてはくれない。
:
百合亜:(M)やがて、夏の暑さを残したまま季節は秋へと移り変わる。
百合亜:相変わらず熱を繰り返していた母は、とうとう一度も我が家へ戻ることなく、父の元へと旅立った。
百合亜:せわしなく進んだ葬式を終え、ひぐらしの鳴き声を聞きながら掃き出し窓からぼーっと庭を眺めていると、不意に聞き馴染みのある声がした。
桜子:「何やってんのさ、そんなとこで呆けて。」
百合亜:「…お姉ちゃん…?」
桜子:「よっ、久しぶり。」
百合亜:「……遅いよ。もうお葬式終わっちゃたよ?」
桜子:「あのねぇ、こっちはイタリアから飛行機乗り継いでこれでも出来る限り急いで帰って来たのよ?文句言わないで。」
百合亜:「……お帰り。」
桜子:「……はぁーあ、相変わらずここは潮くさいね。」
百合亜:「………。」
桜子:「お、トマトだ!一個貰うね。……んーっ!甘ぁーい!母さんのトマトはやっぱ美味しいわ。」
百合亜:「…お線香あげてく?」
桜子:「ん。」
0:仏間で線香をあげる桜子と、その後ろに立つ百合亜
桜子:「……母さん、お疲れ様。そっちで父さんと仲良くね。」
百合亜:「………。」
桜子:「よしっ、それじゃあ特上寿司でも頼むか!」
百合亜:「…うん。」
0:寿司桶を囲む桜子と百合亜
桜子:「それで?」
百合亜:「え…?」
桜子:「なんかあった?」
百合亜:「………。」
桜子:「わっかりやすいんだからー。昔っからなんかあるとそうやってすぐ顔に出んのよね、あんた。」
百合亜:「そんなわかりやすい顔してる?」
桜子:「眼なんか真っ赤だし、頬もこけてる。ちゃんと食べてんの?そのまま母さんに一緒に連れてかれちゃいそうな顔してるよ。」
百合亜:「お姉ちゃん不謹慎。」
桜子:「…何よ、失恋でもした?」
百合亜:「っ!」
桜子:「へぇー?どこで知り合ったの?どんな男?」
百合亜:「……夏に、突然お母さんが連れてきたの。」
桜子:「はぁ?母さんが?」
百合亜:「…急に一緒に住むからって言いだして。」
桜子:「何それ…野良猫じゃあるまいし。」
百合亜:「初めは、知らない男の人と一緒に住むなんてって思ってた。けど…。」
:
百合亜:(M)彼の表情に、声に、指先に、私の心はいとも簡単に囚われてしまった。
百合亜:差し込む木漏れ日が彼の白い肌の上で揺れる。冷たい水が彼の指を流れる。潮の香りを含んだ風が彼の漆黒の髪を揺らす。キャンドルの明かりが彼の瞳の中で星の様に不規則に揺らめく。一瞬で消えてしまいそうなその全てに目を奪われた。
百合亜:彼と過ごす日々は、まるでセピア色の世界がゆっくりと色づいていくみたいだった。
0:静かに百合亜の頬を涙が伝う
桜子:「…百合亜。悲しいの?」
百合亜:「(頷く)…。」
桜子:「そう。…おいで。」
百合亜:「(静かに泣く)…っ。」
桜子:「……ここに居るのが辛いなら、出て行っても良いんだよ。」
百合亜:「………。」
桜子:「この家はさ…父さんが母さんの為だけに作った家なんだよね。母さんが住みやすいように、母さんが使いやすいように…母さんへの愛情百%で作られてる。見た目だってほら、母さんの好きなあの本に出てくる家みたいじゃない。
桜子:…笑えるくらい、母さんの為だけを思って作られてるんだよ。あたしら子供の事なんてまるっきり無視して…そんな家がさ、あたしは昔っからずっと嫌いだった。まるで居場所がないみたいで、こんなに広いのにすっごく窮屈でさ。だから高校卒業してすぐこの家を出たの。」
百合亜:「お姉ちゃん……。」
桜子:「ごめんね、百合亜。あんたに全部背負わせて。」
百合亜:「………。」
桜子:「だけど、もう自由にしていいんだよ。」
百合亜:「自由…?」
桜子:「うん。やりたいようにやっていいの、何でも。この家も、売りたきゃ売ればいいし、壊したきゃ壊せばいい。好きなようにしな?
桜子:何なら、一緒にイタリアに行く?向こうならもっといい男いっぱい居るよ?」
百合亜:「……ううん。」
桜子:「うん?」
百合亜:「私、ここに居る。」
桜子:「…無理してない?」
百合亜:「ううん、してないよ。私もね…前はそうだった。」
:
百合亜:(M)姉の言う様に、この家にはずっと自分の居場所が無いように思えていた。我が家と言うよりは、ただの住居でしかなかった。
百合亜:だけど。彼が来て、ここで一緒に過ごすようになって、少しづつ家の中の空気が変わって行って…。
:
百合亜:「私、今はここが好き。
百合亜:自分で作った野菜でね、好き勝手に料理して食べるのも意外と楽しいんだって、教えてもらったの。」
桜子:「……そっか。……うん、好きにしな。」
百合亜:「うん……ありがとう、お姉ちゃん。」
桜子:「んーん。」
:
百合亜:(M)翌朝、蝉の鳴き声と潮騒を背に、姉の乗った青いタクシーは道の先へと消えていった。九月に入ったというのに、相変わらずアスファルトをジリジリと太陽が焼いている。
:
百合亜:(M)きびすを返し庭に戻ろうとすると、タクシーの消えた先からエンジン音を響かせてこちらに向かって走ってくる、一台のバイクが見えた。
配達員:「こんにちわー、郵便でーす。」
百合亜:「あ、ご苦労様です。」
配達員:「えーと、……はい、どうぞ。」
百合亜:(M)薄い手紙の束を差し出し、暑そうなヘルメットを揺らして軽く会釈をすると、配達員はバイクに跨り街の方へと走り去って行った。
百合亜:手紙の束を片手に家の中へと戻る。窓際では、優しい風に張り替えたばかりの白いカーテンがはらりとはためいていた。
:
百合亜:(M)ふと、ダイレクトメールの中に白い封筒が一通交ざり込んでいるのを見つけて思わず手に取る。何気なく裏を見て、私は驚きに目を見開いた。
:
百合亜:「っ!!」
:
百合亜:(M)白い封筒の裏には、青いイルカの絵と細い几帳面な文字で「蓮太郎」と書かれてあった。急いで封を切り、中から便せんを取り出す。
蓮:『拝啓、百合亜様。
蓮:突然君のもとを去りながら、こんな手紙を送ることをどうか許してほしい。』
百合亜:「…蓮……。」
蓮:『俺はずっと、十年前母を死に追いやった「叔子」という女性を殺す為だけに生きて来た。記憶喪失を装い彼女に近づき、運よくあの家で暮らすことになり、その機会が来るのを静かに待った。
蓮:叔子さんが倒れたあの日、アルバムに映る君達親子の姿を見たよ。母が死に、施設で育った孤独な自分と違い、君達はきっと何も辛い思いなどぜず幸せにのうのうと生きているんだと思い、俺の憎しみはどんどん増していった。
蓮:けれど、実際に過ごした君の家は、驚くほど空っぽだった。』
百合亜:「……からっぽ…。」
蓮:『写真では幸せそうに笑っているのに、家の中にあったのは、空っぽの部屋、空っぽの空気、空っぽの温度。その全てに、僕の中で初めて迷いが生まれた。俺が憎み続けていたものは、壊したかったものは、本当に此処だったのかと…。
蓮:叔子さんの余命が長くないと知り、君のもとを去った後生きる意味を見失い、いっそのこと死んでしまおうとも思った。でも、その時不意に百合亜の顔が思い浮かんだんだ。殺したいほど憎いと思っていたのに、その人の娘に惹かれてしまった自分がどうしようもなくおかしくて、夜の海に浸りながら気が付けば、一人笑っていた。』
0:静かに涙をこぼす百合亜。
百合亜:……っ………っ。
蓮:『君は気づいていた?空っぽな家の中で、広い庭の小さな畑だけがそこに生きていた。君が毎日水を上げていた、あの綺麗な畑だ。
蓮:……百合亜。俺は、最後の日、叔子さんに頼まれた約束を果たそうと思う。』
百合亜:「約、束…?…お母さんが?」
蓮:『百合亜、君の暗い夜にいつか安らぎの灯が灯るよう、祈っている。……蓮太郎』
百合亜:「蓮…?」
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百合亜:「っ、もう一枚、便せん…?……それと、ピンクの花びら…。」
蓮:『追伸。気になって調べてみたんだけど、叔子さんが好きだと言っていたグラジオラス。欧米では剣の百合とも言われているらしい。』
百合亜:「っ!」
蓮:『もしかしたら君の名前は、その花からつけたのかもしれないね。
蓮:俺からも、グラジオラスの花びらを送るよ。想いを込めて。』
0:百合亜の瞳に涙が溢れる
百合亜:「うっ…うぅっ………。」
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百合亜:(M)庭の白いグラジオラスの花が風に揺れ、その甘い香りが潮の香りに混じってふわりと鼻孔をくすぐった。綺麗な花も、もうすぐ見頃を終えてしまうだろう。そうしたら、今度はどんな花を植えよう。母の持っていた植物図鑑を引っ張り出し、掃き出し窓に座ってそれを眺める。
百合亜:ピンク色のグラジオラスの花言葉を調べて、零れそうになる涙を拭った。
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百合亜:「ダイアモンド…リリー。………うん、これにしよう。」
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百合亜:(M)散歩のついでに寄った花屋さんの近くの池には、綺麗な蓮の花が沢山咲いていた。
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百合亜:(M)ふと空を見上げると、飛行機雲が綺麗な直線を描いて山の向こうに伸びている。暑い夏が終わる。けれど、来年も、再来年も、繰り返しグラジオラスとダイアモンドリリーと、美味しい野菜をいっぱい植えよう。
百合亜:水辺に咲く、凛と美しい花の名前を持ったその人は、色とりどりの花と沢山実を付けた野菜達を見て…きっと驚くだろう。
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蓮:(M)燃えるような夏の中で、生まれて初めて恋をした。その人は、花の名前を持つ静かな木陰の様な人だった。
0:タイトルコール
蓮:【陽炎は、木陰の中で眠る】
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