台本概要

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タイトル オウル書店のとある一ページ~五月の雨と悩めるオオカミ編
作者名 砂糖シロ  (@siro0satou)
ジャンル ファンタジー
演者人数 2人用台本(男1、女1)
時間 60 分
台本使用規定 台本説明欄参照
説明 (赤目オオカミと白ウサギのスピンオフ第二弾)
【あらすじ】
ヨークピークのモノクル通りにある『オウル書店』では日々色んな物語りが一ページ、また一ページと綴られていきます。
今回は、過去のトラウマに悩むオオカミの少年『アカネ』と、経営不振に悩むパン屋のクマの『チェルシーおばさん』が織りなす、ちょっぴり悲しくてとっても温かい、とある初夏の日のお話です。

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音声ファイルなども大歓迎です!!

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
アカネ 245 【性別変更可】 年齢:15~19歳 (赤い目の黒髪のオオカミ) クールで無気力(根はまじめで、努力家) オウル書店で働いており、書籍専門取扱員の免許を持っている。 ノロイに侵され、7年前に実の親に捨てられた。 心に深い傷をもち、その影響で雨と甘いものが苦手。
チェルシー 179 【性別変更可】 年齢:20代~50代 (クマ) ※男性がやる場合はオカマキャラにしてもOKです! 人情味が厚く、大らかで豪快 近所の『ベイカリー・シャロン』の女店主(旦那も居る)。 アカネを我が子のように思っている。 最近店の経営で悩みを抱えている。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

文字サイズ
0:オウル書店のとある一ページ~五月の雨と悩めるオオカミ編。 : : : アカネ:その日は…朝から雨だった。 アカネ:どんよりと厚い雲が太陽を覆い隠し、シトシトと纏わりつく空気が湿気を吸った本と一緒に、僕の心も重くカビ付かせて行く様な気持ちにさせる。 : アカネ:…僕は雨が嫌いだ。 アカネ:こんな日は、嫌なことばかり…思い出すから。 : 0:(タイトルコール) アカネ:オウル書店のとある一ページ。 チェルシー:五月の雨と悩めるオオカミ編。 : アカネ:ここは、ヨークピークの静かな街角にひっそりと佇む、『オウル書店』。 アカネ:ダークオークのとんがり屋根が目印の、こじんまりとしたこの本屋が、僕の家でもあり仕事場でもあった。 : アカネ:「(溜息)………。」 : アカネ:閑散とした店内で一人暇を持て余していた僕は、読みかけの本を閉じ、作り置きの珈琲をコップへと注ぐ。 : アカネ:ふわりと鼻先をくすぐる珈琲の香りに、鬱々としていた気分が少しだけ和らいだ。 : アカネ:「……?」 : アカネ:不意に、雨音に混じって足音が聞こえた。 : 0:(ドアベルが鳴る) : アカネ:ドアベルが鳴り、扉が開くと同時に入り込んできたのは、湿気を含んだ空気と、ザァザァと耳障りな雨音。 アカネ:ぬるりとした冷たい風がランプの灯を揺らし、むき出しの肌を舐めるように撫でて行く。 アカネ:その不快さに思わず顔をしかめた僕を、豪快な声が明るく叱りつけた。 : チェルシー:「こーら!なんだい、その仏頂面は。そんなんじゃ折角お客さんが来ても怖がって逃げ出しちまうじゃないか。」 : アカネ:声の主は扉の隙間から大柄な体をのっそりと滑り込ませて、ニッコリと人好きのしそうな笑顔を見せた。 : チェルシー:「こんにちわ、邪魔するよ。」 アカネ:「チェルシーさん。…いらっしゃい。」 : アカネ:近所で『ベイカリー・シャロン』と言うパン屋を営むクマのチェルシーさんだ。 : アカネ:「こんな時間に、珍しいね。」 チェルシー:「んふふふ、たまにはね。…よいしょ、っと。ふぅ…。」 : アカネ:チェルシーさんは持っていた大きな包みを重たそうにカウンターに乗せて、どっしりと椅子に腰かけた。 : チェルシー:「おんやぁ?今日はアカネちゃんだけかい?…マスターとルリちゃんは?」 アカネ:「センセーは書籍会の集まりで、チビは…上で寝てる。」 チェルシー:「えぇ?寝てるって…具合でも悪いのかい?」 アカネ:「今朝から熱出して寝込んでるんだ。」 チェルシー:「そりゃあ大変だ!…病院は?」 アカネ:「さっき、クリハラ先生が往診に来てくれた。」 チェルシー:「そうかい。…それで?何だって?」 アカネ:「風邪。」 チェルシー:「おやまぁ、可哀想にねぇ…。季節の変わり目だから…。 チェルシー:まぁだけど、ただの風邪なら安心さね。沢山食べてしっかり寝ればすぐ治るさ。」 アカネ:「……うん。」 チェルシー:「あぁ、そうだ。」 アカネ:「…?」 チェルシー:「そう言う事なら丁度良かったよ。これ…ちょっと作りすぎたもんだからお裾分けにと思って持ってきたんだけどね。」 : アカネ:そう言って、彼女がいそいそと開いて見せた大きな包みの中身は、大粒の黄色い粒がぎゅうぎゅうと隙間なく詰め込まれた、ガラスの瓶だった。 : アカネ:「…?これ……何?」 チェルシー:「これはねぇ、チェルシーおばさん特製の『栗のシロップ煮』さ。 チェルシー:冷たぁーく冷やしてルリちゃんに食べさせておやり。そうすれば風邪なんてあっという間だ。」 アカネ:「クリ?…栗って、あのトゲトゲのイガに入ってる…?」 チェルシー:「ああ、そうさ…何だい、栗を見るのは初めてかい?」 アカネ:「実物は無いけど…でもそれ、僕の知ってる栗と何だか違う…。」 チェルシー:「…? チェルシー:あぁ、そうか! チェルシー:ははっ、アンタが言ってんのは多分、殻を剥く前の実の事だね? チェルシー:なら丁度いい。試しに一つ食べてごらん。」 : アカネ:シロップの滴る黄色い粒を小皿に受け取る。皿の上でコロンと転がる艶やかなそれを僕はまじまじと見つめた。 : アカネ:「……これが、栗…。」 チェルシー:「そうさ。さぁ、ほら。」 アカネ:「……いただき、ます。」 チェルシー:「召し上がれ♪」 アカネ:「(口に含む)……うっ!!! アカネ:(気持ち悪そうに)あっま……。」 チェルシー:「あっはっはっはっは!その顔!」 アカネ:「うえぇぇ…。」 チェルシー:「そぉーんなに甘かったかい。それなら、出来はバッチリだねぇ!」 : アカネ:子供の様に笑い転げるチェルシーさんは、涙目になっている僕に悪びれた様子もなく、悪戯っぽくウインクをして見せた。 : アカネ:「ぺっぺっ! アカネ:…酷いよチェルシーさん!僕が甘いもの嫌いだって知っているクセに…。」 : アカネ:口に広がる甘い味を、冷めた珈琲で無理やり喉の奥に流し込む。 : チェルシー:「ふふふふ、何事も経験ってやつさ。」 アカネ:「(睨む)………。」 チェルシー:「ごめんごめん。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「あーもうっ、アタシが悪かったよ。(笑)」 アカネ:「本当に悪いと思ってる…?」 チェルシー:「思ってるってば。」 アカネ:「…(溜息)次は無いからね?もしまたこんな事したら…。」 チェルシー:「あっはっはっは、肝に銘じておくよ。 チェルシー:…それはそうと…、アカネちゃんが飲んでるそれ、もしかして表に書いてあった『星降りコーヒー』ってやつじゃないかい?」 アカネ:「え?…あぁ、うん。」 チェルシー:「ほぉら、やっぱりね!やけにいい匂いがすると思ったんだよ。 チェルシー:ねぇそれ、アタシにも一杯頂戴。」 アカネ:「え?…えっと、今…作り置きしかないんだ。 アカネ:味が落ちてるし、今度センセーが居る時に淹れたてを飲んだ方が…。」 チェルシー:「(被せて)いやいや、その作り置きで構わないよ。」 アカネ:「いや…でも…。」 チェルシー:「なんだい、いつからそんないけずな事言う様になったんだい。こぉーんな良い匂いを目の前で散々嗅がせておいて今更お預けだなんて言うのかい?この子は。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「あーあー、わかったよ。そんなに言うなら、淹れたては今度来た時に必ず飲むから、ねっ?」 アカネ:「えぇー…?」 チェルシー:「だーかーらっ、今日の所はとりあえずその作り置きをご馳走しとくれ。それなら良いだろ?」 アカネ:「(大きな溜息)……もー…一回言い出したら絶対きかないんだから…。」 チェルシー:「んふふふふ、ありがとさん♪それじゃあ…」 アカネ:「(被せて)でも先に言っとくけど、お代はいらないよ。今日のは『とりあえず』だからね。」 チェルシー:「……ぷっ。あっはっはっはっ、全く…。マスターに似て変なとこ律儀だねぇ。」 アカネ:「(ぶっきらぼうに)……じゃああっため直すからちょっと待ってて。」 チェルシー:「あいよ♪」 : アカネ:渋々珈琲を温め直す僕に、チェルシーさんは嬉しそうに微笑んだ。 : : : アカネ:一杯分の珈琲をポットに移し入れて、温めたお湯にゆっくりと浸す。 : チェルシー:「…?珈琲を湯銭するのかい?」 アカネ:「うん。直火(じかび)にかけて急激に温度を上げると、珈琲の成分が飛んじゃって折角の香りや味が落ちてしまう。 アカネ:だから、温め直す時はちょっとめんどくさいけど、こうやって少しづつ温度を上げてく方が良いんだ。」 チェルシー:「へぇー、なるほどねぇ。」 : アカネ:温まったポットを布巾の上に移し、ゆっくりとカップに注ぐ。 アカネ:小さな光の粒をはらんだ焦げ茶色の液体が、注ぎ口からチョロチョロと細い帯のように流れ落ちていく。 : チェルシー:「…!ちょっと!その珈琲なんだかキラキラしてないかい?………アタシの見間違いかしらねぇ…?」 アカネ:「(小さく笑う)…見間違いじゃないよ。」 チェルシー:「えぇ?…それじゃあ一体…。」 アカネ:「これが、『星降りコーヒー』の所以(ゆえん)。」 チェルシー:「所以ってアンタ………まぁ言われて見れば、星が降ってるように見えなくもないが…。」 アカネ:「……出来たよ。はい。」 チェルシー:「あ……あぁ…。」 : アカネ:珈琲の表面に浮かぶ無数の光の粒。 アカネ:くるくる、ゆらゆら、キラキラと、カップの中で小さく揺らめいている。 アカネ:チェルシーさんの視線はカップに釘付けになった。 : チェルシー:「こっりゃまた驚いた。…光る珈琲だなんて、何とも魔訶不思議だねぇ。 チェルシー:それで?この光ってる粒の正体は一体何なんだい?ひょっとして砂糖でも入れたのかい?」 アカネ:「(微笑む)砂糖なんか入れてないよ。…それ、ノースフェザー産の珈琲豆を使ってるんだ。」 チェルシー:「ノースフェザーって言ったら、あの北の最果てにある雪の大地の事じゃないか。そんな寒いところで珈琲豆なんか採れるのかね?」 アカネ:「採れるよ。特別な製法でね。とにかく、ノースフェザーの珈琲豆は年中雪の中で育つから、温かい地域で作られた豆と違って、熱に弱い。 アカネ:だから、お湯の中に滲み出た成分が熱に強く反応することで、こんな風に淡く光って見えるようになるんだ。」 チェルシー:「…アンタねぇ、そんな小難しい話をされたって、しがないパン屋のアタシにわかるわけないだろ。」 アカネ:「…つまり、珈琲豆と水以外は何も入ってないって事。」 チェルシー:「嘘をお言いでないよ。豆と水だけでこんな風になるもんかね。」 アカネ:「ほんとだって。」 チェルシー:「ふぅーん……ま、いいさ。 チェルシー:そんな事よりも、だ。気になるのはこれの味さね!…御託は置いといて、早速頂くとするよ。」 : アカネ:呆れる僕なんかお構いなしに、チェルシーさんはゆっくりとカップに口をつけた。 : チェルシー:「(珈琲を一口飲む)………っ、美味しい!ねぇアンタ!これすっごく美味しいよ!!」 アカネ:「そ。」 チェルシー:「んー、呑み込んだ瞬間のなんとも言えないこのフルーティーな風味!…こりゃ、癖になる味わいだわ…。」 アカネ:「まぁね、それセンセーの自信作だから。」 チェルシー:「なるほどねぇ、こりゃあの大先生が店の表に看板出すだけの事はあるっ!」 アカネ:「…何それ。」 チェルシー:「(微笑む)それだけ美味いって事。兎にも角にも、次に淹れたてを飲むのが俄然楽しみになったよ。」 アカネ:「うん、期待してて。」 チェルシー:「あぁ、そうする。(珈琲を啜る)」 : アカネ:満足そうに微笑んで、チェルシーさんは珈琲をすすった。 : アカネ:「……………。」 : 0:(激しい雨音) : アカネ:一向にやむ気配を見せない雨は、次第にその雨足を強めていく。 アカネ:カチッ、カチッ、カチッと、秒針の時を刻む音が規則正しく響いて、会話が止まった店の中を、雨と時計の音が束の間、静かに支配する。 : 0:(時計の音) : アカネ:堪らず僕は口火を切った。 : アカネ:「っ、そう言えば、…チェルシーさんの店、今日定休日じゃないよね?」 チェルシー:「ん?…あぁ、そうだね。」 : アカネ:そう答えたチェルシーさんの表情が、なぜだか一瞬曇る。 : チェルシー:「一応店は開けてるんだけど、朝からこんな雨だろう?今日はそのせいかお客さんもさっぱりでねぇ。 チェルシー:店の方は旦那に任せて、フラフラ遊びに来たってわけさ。」 アカネ:「…タイミング悪かったね。」 チェルシー:「んー?どうしてだい?」 アカネ:「折角来たのにセンセーが留守で。」 チェルシー:「…いいや、そうでもないさ。だって、こんなに美味しい珈琲がタダで飲めた上に、アンタのあんな顔が見れたからね♪」 アカネ:「(顔をしかめて)…チェルシーさん?」 チェルシー:「ははははは!冗談だよ。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「……だけどまぁ、客足が落ちてるのは今日に限った話じゃあないんだ。」 アカネ:「……何か、あったの?」 チェルシー:「んー?……(嘲笑) チェルシー:こんなことアンタに話すのもなんだけど…ここん所…、あんまり、売り上げが思わしくないのよ。」 アカネ:「え……?」 チェルシー:「ちょいと前に、『グランデリータ』とか言う洒落た名前の大きなパン屋が中央の大通り広場に出来たの知ってる?」 アカネ:「…あー、そう言えば…。」 チェルシー:「……あすこのパン、食べたことは?」 アカネ:「…多分、無いと思うよ。パンはチェルシーさんのとこでしか買わないから…。」 チェルシー:「あははは、そりゃあ、ありがたいねぇ。(溜息)……。」 : アカネ:影った視線を手元に落としカップをゆっくりと回しながら、チェルシーさんは降り出した雨のようにぽつりぽつりと話し始めた。 : チェルシー:「…ウチはさぁ、あのでっかいパン屋が出来るまでは、ここいらじゃ唯一のパン屋だったろう? チェルシー:ま、だからと言って別に慢心してたわけでもないんだけどねぇ…。 : チェルシー:…街の人たちに飽きられないようにって、昔っから色んな形のパンを作っては店に並べるようにしてた。これでも一応ね、努力はしてたつもりさ。 : チェルシー:だけどねぇ…、それもウチの人と二人でやってる事だから…中々。 チェルシー:新しいアイディアつったって魔法じゃあるまいし、当たり前の事だけど、願えばぽんぽん浮かぶってわけにはいかないんだ。 チェルシー:近頃に至っては正直な所、昔作ったヤツでどうにか回してるような状態でさ…。」 アカネ:「……うん。」 チェルシー:「だのに、あの『グランデなんちゃら』ときたら!あすこの品ぞろえの多さを見てごらん?」 アカネ:「…そんなに?」 チェルシー:「そりゃ凄いもんさ!あれじゃあまるでパンのデパートさね。 チェルシー:……あんなもん見せつけられたらさ…何て言うか…。 チェルシー:いっそ、憎いを通り越して呆れちまったよ…。」 アカネ:「…でも、チェルシーさんとこのパン、好きな子供多いんじゃない…?ウチのチビだって…。」 チェルシー:「今の所はね。 チェルシー:…ただ、それももう…時間の問題かもしれない。」 アカネ:「チェルシーさん…。」 チェルシー:「新しい商品もね、売り出した初めの頃はいいんだ。みーんな面白がって買ってってくれるからねぇ。 チェルシー:…だけど、珍しい時期はあっという間に過ぎる。たかだか見た目を変えたくらいじゃ…なぁーんも変わりゃしないんだ。 チェルシー:悔しいけど、みんな…ウチのパンの味に飽きてきたのさ、きっと…。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「…ははは、悪かったね、しみったれた話をしちまって。」 アカネ:「あ……いや…。」 チェルシー:「(微笑む)ま、こうは言ったけど、別にすぐすぐ店がどうこうなるってわけじゃあないんだよ。 チェルシー:お客さんらの喜ぶ顔を今よりももっと見たいって言う、アタシのただの欲張りさ。それだけ。」 : アカネ:チェルシーさんは笑ってそう言ったけど、目元の隠し切れない影が、見慣れているはずの彼女の笑顔に何処か寂しさを感じさせた。 : チェルシー:「もっと何か面白い形が無いか探してみるよ。後は、そうだねぇ、中のクリームをもっと甘くしてみるとか…」 アカネ:「(被せて)それはっ!!……やめておいた方が…。」 チェルシー:「あっはっはっはっは!アカネちゃんの甘いもの嫌いも相当なもんだねぇ。」 アカネ:「うっ!」 : アカネ:折角忘れかけていた味をまた舌の上に思い出し、慌てて僕は珈琲の入ったポットを求めてカウンターの上に視線を泳がせた。 : アカネ:「……!」 : アカネ:その時、何気なく目の端に留まった大きなガラスの瓶。中には甘い実がぎっしりと詰まっている。 アカネ:それを見て、チェルシーさんの呟いた言葉を思い返した。 : チェルシー:『みんな…ウチのパンの味に飽きてきたのさ、きっと…。』 : アカネ:「(ためらいがちに)…チェルシーさん。」 チェルシー:「ん?何だい?」 アカネ:「この栗、使えない…かな?」 チェルシー:「はぁ?使うって……もしかしてウチのパンにかい?」 アカネ:「うん。」 チェルシー:「…いやだけど、使うったって…一体どうやって…。」 アカネ:「…それなんだけどさ、前にルリの親…(言葉を濁す) アカネ:う、うちのお客さんが手作りのニンジンのケーキを持ってきたことがあって…。」 チェルシー:「ニンジンのケーキ?…もしかしてそれ、ホーランドさんとこの奥さんが作ったやつじゃないかい?」 アカネ:「…知ってる?」 チェルシー:「知ってるも何も、それならアタシが教えてやったレシピさぁ!はちみつとショウガ入りのケーキだろう? チェルシー:…だけど、それがこの栗とどう関係するって言うんだい?」 アカネ:「あんな感じで、栗を加工してパンに使ってみたらどうかなって…。」 チェルシー:「……加工?この、栗を…?」 アカネ:「うん。例えばあのニンジンみたいにすり下ろす、と言うより…細かく刻む…?…のはちょっと触感が合わない、か。 アカネ:それよりも…煮詰めて、…ペーストにしてみる…とか。」 チェルシー:「……ペースト? チェルシー:…ペーストねぇ………いや、いいよ、いいかもしれない!」 : アカネ:ハッと顔を上げたチェルシーさんの大きな瞳が、その瞬間、キラキラと明るく輝きだした。 : チェルシー:「そうだねぇ、栗を使ったパンなら、…見た目は、リスにしようっ!それならきっと子供達も喜びそうだ!」 アカネ:「…何とかなりそう?」 チェルシー:「いやぁー、アカネちゃん、アンタやるじゃないか!おかげ様で良いものが出来そうだよ。ほんっとうにありがとう!」 アカネ:「…いや、別に大したことは…。」 チェルシー:「アタシにとっては充分大したことさ! チェルシー:…ここんとこずーっと雨だったから、なんだか柄にもなく気分が落ち込んじまったみたいだ。アンタも、アタシの愚痴に付き合わせちゃって悪かったねぇ。」 アカネ:「気にしないで。」 チェルシー:「んふふ。本当はね、ここだけの話、マスターにちょいと愚痴でも聞いてもらおうかーなんて思って、フラーッと立ち寄ったんだけど、思いきって今日来てみて良かったよ!」 : アカネ:嬉しそうにカップに残った珈琲をぐいっと飲み干して、すっかり晴れた様子のチェルシーさんは、ウンウンと満足げに何度も頷いた。 : チェルシー:「あぁ、やっぱり美味しい!…あ、そうだ。この珈琲に合うパンを作ってみるのもいいかもしれないねぇ…。」 : アカネ:独り言の様に、ブツブツと呟いている彼女を横目にカウンターを片付けていると、何故だか急に妙な居心地の悪さを感じた。 アカネ:このまま気づかないふりをしてしまった方が良いかもしれないと思いながらも、恐る恐る顔を上げた僕の視線と、僕を見つめるチェルシーさんの視線とがぶつかり合う。 : アカネ:目と口の端が緩んだその顔を見て、やっぱり気づかないふりをした方が良かったかも…と、内心小さく後悔した。 : アカネ:「………な、なに?」 チェルシー:「んー?いやぁ、ね。ふふふ♪ チェルシー:ちょっと前まではあんなに小さかったのに。」 アカネ:「…はい?」 チェルシー:「何でもないさ。ただ、そうやってるアンタを見ていたらね、なーんだだ胸が熱くなっちまったの。」 アカネ:「ええぇ?」 チェルシー:「ふふふ。 チェルシー:(時計を見て)おやまぁ!もうこんな時間?いけないいけない、随分長く店を空けちまったみたいだ。 : チェルシー:そいじゃあ、そろそろおいとまするね。」 アカネ:「あ、うん。」 チェルシー:「さぁさぁ、これからうんと忙しくなるよ♪」 アカネ:「あっ、チェルシーさん!栗のペースト作るんでしょ?じゃあシロップ煮、沢山あった方がいいんじゃない?これも…。」 チェルシー:「うん? チェルシー:(小声)…はぁーん、これを機に持ち帰らせようって魂胆だね?考えたじゃないか(笑)」 アカネ:「………。」 チェルシー:「いいや!家にもまだまだたぁーっくさんあるからね。それはアンタ達が食べとくれ。」 アカネ:「(むぅっとむくれて)………。悪いけど、僕は食べないよ。」 チェルシー:「あははは!いいよ、好きにしな。 チェルシー:じゃあね、また来るよ!お世話様!」 : アカネ:豪快に笑いながら挨拶もそこそこに、チェルシーさんは颯爽と店を出ていった。 アカネ:雨の中に消えたその背中を、僕はお決まりの挨拶で見送る。 : アカネ:「ありがとうございました。またお越しくださいマセ。」 : 0:(ドアベルが鳴る) : アカネ:僕だけが残った店内に、再び嫌な静寂が訪れる。 : 0:(激しい雨音) : アカネ:窓の外は相変わらず雨が降り続いている。 アカネ:僕と同じく置き去りにされたガラス瓶を恨めしく睨み、意味もなく指ではじいてみると、コン…と無機質な鈍い音を立てた。 : アカネ:だらしなく頬杖をついて、ゆっくりと、瞼を閉じる。 アカネ:激しく降る雨に重なる、『あの日』の雨音。 : アカネ:「(溜息)…早く雨、上がらないかな…。」 : : : 0:間をあけて語りだす。(ここから暗いトーンで) : アカネ:僕は雨が嫌いだ。 アカネ:幼い頃、『ノロイ』と言う不治の病に侵された僕を、両親は見知らぬ土地に置き去りにして姿を消した。何日も、何日も、ただ当てもなく両親を探し彷徨っていた。 : チェルシー:(見知らぬ婦人)「まぁ、見てあの子!孤児かしら…やだ!体中にノロイの痣が広がってるみたいね。…うちの子にうつりでもしたら大変だわ!しっしっ、あっちへお行き!」 : アカネ:薄汚れたみすぼらしい子供に投げかけられるのは、酷い言葉と侮蔑(ぶべつ)の視線ばかり。幼い心と体は見る見るうちに飢えていった。 : アカネ:とある冷たい雨の夜。 アカネ:街の外れで倒れている女性見て、あまりの空腹に魔が差した僕は気が付くと、彼女が胸に抱えていた袋を奪いその場から走り去っていた。 アカネ:逃げ込んだ薄暗い路地裏で、盗んだ袋に入っていたお菓子を無我夢中で頬張る。生まれて初めて感じた、口いっぱいに広がる甘い味に、頭が痺れるようだった。 : アカネ:…だけど、その幸せはほんの一瞬で。 アカネ:袋から落ちたメッセージカードに目を奪われた瞬間、まるで砂糖が水に溶けるかのように幸福感は余韻すら残さずに消え失せた。 アカネ:カードに書かれた「お誕生日おめでとう」の文字は雨に滲み、みるみる醜く歪んでいく。 アカネ:罪の意識と後悔が津波のように押し寄せた。 : アカネ:今すぐ謝りに戻ろう。ぶたれてもいいからきちんと返そう、そう思って僕が街外れへ戻ると、さっきまで倒れていたはずの女性は、橋の上に立ちぼんやりと荒れ狂う川を見つめていた。 アカネ:泣きじゃくりながら謝る僕の声に、その人は生気なく振り返った。 : チェルシー:(見知らぬ女性)「……返しに来てくれたのね、ありがとう。……(溜息)でももういいのよ。それ、捨てるつもりだったから…。」 : アカネ:消え入りそうなか細い声は、ゴウゴウと激しい水の音にかき消されていく。女性は吸い込まれるように川の方へと頼りなく足を進めた。 アカネ:あと一歩で橋から落ちてしまう所まで来て、引き留めようと僕が咄嗟に手を伸ばした時だった。 : チェルシー:(見知らぬ女性)「もう…要らないわ…。」 : アカネ:そう言って女性は、川へと身を投げた。 アカネ:数日続いた長雨で濁流と化していた川は、まるで巨大な蛇みたいにその人を飲み込んだ。 アカネ:信じがたい出来事に、残された僕の心にジワリとどす黒い染みが広がる。 アカネ:後悔と、恐怖と、絶望が激しく入り混じって、止めどなく降り注ぐ雨にどんどん滲み、いとも簡単に僕の心を黒く染め尽くした。 : アカネ:(M)あぁ、そうか。僕はこの甘いお菓子と一緒だったんだ。『要らない』から、父さんと母さんは僕を捨てた…。 : チェルシー:(見知らぬ女性)『もう…要らないわ。』 : アカネ:見知らぬ女性が放ったその言葉が、幼く無知な僕に、誰も教えてくれなかった事実を…教えてくれた。 アカネ:言葉は鋭い棘に変わり、僕の奥深くにぶすりと突き刺ささった。暗い記憶の中により大きく絶望という名の影を落として。 アカネ:その日から、上がることの無い冷たく重たい雨が、今でも僕の心の中でずっと降り続いていた。 : 0:回想おわり(数秒置いて) : : : 0:数日後 : アカネ:チェルシーさんの訪問から数日が経ち。 アカネ:止まない雨にうんざりとしながら、今日も僕は一人、暇を持て余していた。 アカネ:窓を伝い流れていく雫をボーっと眺めていると、不意に遠くから足音が聞こえ、次第にそれはバシャバシャと大きくなっていった。 アカネ:どうやらこちらへ向かってきているようだ。 アカネ:やがて、店の前で足音が止まると、扉が大きな音を立てて勢いよく開かれた。 : 0:ドアベルが激しく鳴る : アカネ:「っ!」 チェルシー:「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!」 アカネ:「ち、チェルシーさん!?」 : アカネ:弾丸の様に飛び込んできたのは、大きく肩で息をするチェルシーさんだった。黄色いレインコートはずぶ濡れだ。 : チェルシー:「(明るく)ふぅーっ。驚かせてすまないねぇ。ちょいと雨が強くなって来たもんだから。(笑)」 アカネ:「大丈夫…?………はい、タオル。」 チェルシー:「あぁ、ありがとさん。床こんなに濡らしちまって悪いねぇ。」 アカネ:「いいよ、気にしないで。」 チェルシー:「あーあーあー、この雨にも困ったもんだよ。ウチを出るときはこんなに降ってなかったのに、アタシが出た途端強くなるんだもん。」 アカネ:「…予報で言ってたよ?昼過ぎから大雨になるって。」 チェルシー:「おや、そうなのかい? チェルシー:それがさぁ、うちのラジオときたら、最近めっきり調子が悪くてねぇ。肝心な所で使えないんじゃ、ウチの旦那と変わりゃしないよ(笑)」 アカネ:「(呆れたように)………。今日はどうしたの?センセーに用事?だったら、悪いけど今日も…。」 チェルシー:「(被せて)いいや、今日はアンタに用があって来たんだ。」 アカネ:「え…、僕?」 チェルシー:「まぁ、とにかくこれを見とくれ。」 : アカネ:花柄の布が張られた小さなバスケットから、ふわりと甘くて香ばしい香りが漂ってくる。 : チェルシー:「こないだ話したアレが、やっと完成したんだよ!」 : アカネ:そう嬉しそうにチェルシーさんがバスケットから取り出したのは、リスの形をしたパンだった。愛嬌のある表情がこんがりと美味しそうに焼き上がっている。 : チェルシー:「ほらほら良く見てごらん!この目と縞はチョコレートで描いたんだ。そんで鼻は栗のシロップ煮。中身にはアンタが言ってたように栗のペーストとミルククリームを入れてみたのさ!どうだい?可愛いだろ?」 アカネ:「へー…良く出来てるね。ちゃんとリスに見える。」 チェルシー:「そうだろうとも。アタシらの自信作だからね!」 アカネ:「流石、チェルシーさんだね。」 チェルシー:「…何言ってんだい?」 アカネ:「……え?」 チェルシー:「何を他人事みたいに…、あのねぇ、『アタシら』ってのにはアカネちゃんも含まれてるんだよ!」 アカネ:「…は?え、なんで、僕?」 チェルシー:「なんでって…、そもそもアンタが発案者だからに決まってんだろう。 チェルシー:大体、人様が考えたものを横取りして我が物顔で売り出す様なチンケな真似、このアタシがすると思ってんのかい?」 アカネ:「……それは…。」 チェルシー:「ちゃあんと名前も考えてあるんだ♪」 アカネ:「…なまえ?」 : アカネ:ぽかんとしている僕に、彼女はにんまりと笑って大きく頷いた。 : チェルシー:「『アカネパン』さ♪」 アカネ:「………え。」 チェルシー:「アカネちゃんの名前を貰ったの。」 アカネ:「え…えぇぇ…。」 チェルシー:「味の方も最高だよ!アンタが甘いもの嫌いじゃなきゃね、試食第一号になってもらいたかったんだけど…。」 アカネ:「それは死んでもムリ。」 チェルシー:「あっはっはっは、わかってるよ!これはマスターとルリちゃんにあげとくれ。 チェルシー:…アンタにはこっち。」 アカネ:「…え?」 : アカネ:チェルシーさんはバスケットの反対側から、もう一つ別の何かを取り出した。大きな手の平の上には、狼の形をしたパイが乗っている。 : アカネ:「……これは?」 チェルシー:「ふふふ、『アカネパン』とダブル新作の、『ウルフパイ』だよ。」 アカネ:「……ウルフ、パイ?」 チェルシー:「中身はチーズたっぷりのミートソースさ。甘くないから安心をおし。」 : アカネ:こんがりと焼けたパイから漂う、スパイシーでジューシーな香ばしい香りが鼻先をくすぐる。 : チェルシー:「アカネパンを作っている時にね、ふとアンタの顔が浮かんできたのさ。アンタみたいに甘いものが苦手な人、きっとこの街にも沢山いるだろうって。」 アカネ:「……。」 チェルシー:「恥ずかしい話、あの後ね、あのー…例のでっかいパン屋にこっそり偵察に行ってみたんだ。」 アカネ:「えっ!?」 チェルシー:「引き合いに出すのも悔しいが、実際の所…甘いのからしょっぱいのまで数えきれないぐらいのパンが置いてあってねぇ、〝お好きなモノをご自由に″なぁんて、ご親切な張り紙まで貼ってあるんだからもう…。 チェルシー:それを見て、…なんだかね、吹っ切れたというのか。 チェルシー:こうなりゃアタシも変な意地なんかはってないで、お客さんに喜んでもらう事だけ考えようってね。栗だけじゃなく色んなモノを合わせてみようって、思ったんだ。」 アカネ:「そっか…。」 チェルシー:「……このウルフパイのヒントだって、アンタから貰ったんだよ?」 アカネ:「え…?僕?」 チェルシー:「アンタ、チーズのパンだけは毎回欠かさず買ってくだろう?昔っから飽きもせずに♪」 アカネ:「あ…。」 チェルシー:「ふふっ。だからさ、チーズを入れたら喜ぶんじゃないかと思ってね。」 アカネ:「……良く見てるね。」 チェルシー:「当たり前さ。アンタがこぉーんなちっちゃな時からずーっと見てきてるんだよ? チェルシー:悪いけどこっちは勝手に、アンタの親替わりだと思ってるんだ。」 アカネ:「…おや?」 チェルシー:「あぁ、そうさ。ふふっ、アタシだけじゃないよ。 チェルシー:向かいの道具屋のヴィンセント爺さんや、配達員のベイリーさんだろ。それに司書のマリアちゃんもそうだし、クリハラ先生と…あぁ、あのお堅いアナグマ署長も居たねぇ!」 アカネ:「………。」 チェルシー:「そして、勿論忘れちゃいけないアンタのお師匠さん!」 アカネ:「………センセー?」 チェルシー:「そうだよ。この街の連中はみぃーんなアンタやルリちゃんの事を我が子のように思ってるんだから。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「ふふふ、意外だって顔だね?」 アカネ:「…意外って言うか……。」 : アカネ:澱んだ記憶が僕の心に重くのしかかる。 : アカネ:「……僕に、そんな価値があるの?」 : アカネ:無意識にこぼれた僕の言葉で、その場の空気が凍りつくのを感じた。 : チェルシー:「………それは、一体どういう了見だい?」 アカネ:「っ、………。」 : アカネ:怒ったようなチェルシーさんの声に、ビクリと身体が跳ね言葉に詰まる。 : アカネ:「だって…。」 : アカネ:(M)だって、『本当の僕』を知ったら…きっとみんな、僕の事なんか好きになるはずが…ない。 アカネ:言いかけたその言葉を、苦々しく呑み込む。 : アカネ:「…………。」 : アカネ:ドクドクと鼓動が大きくなる。 アカネ:頭の中を何かが物凄い勢いで駆け回っている様で思考がまとまらない。 アカネ:まるで、歪などす黒い塊が喉の奥に張り付いているみたいだ…苦しい! : アカネ:(M)みんながもし、僕の罪を知ってしまったら……? : チェルシー:(見知らぬ女性)『もう…要らないわ。』 : アカネ:あの人の様に……、父さんと母さんみたいに、また…。 : アカネ:「僕は…」 チェルシー:「……。」 アカネ:「捨てられる。」 チェルシー:「っ!何だって!?!?」 : アカネ:チェルシーさんの声に、ハッと我に返る。 : アカネ:「あっ、いや…、あの……っ。」 チェルシー:「バカをお言いでないよ!誰がアンタを捨てるっていうのさ!?えぇ?」 アカネ:「………。」 チェルシー:「…もしかして、マスターがやると思ってんのかい? チェルシー:はっ、アホらしい。あの弟子バカがそんな事するもんかね…。アンタの病気を治す為に自分の足を犠牲にするような人だよ?」 アカネ:「…っ、それは………。」 チェルシー:「(溜息)昔、アカネちゃんが病気のせいでつらぁーい思いをしたことは、アタシも知ってる。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「マスターが初めてアンタを連れてきた時の事、今でもよぉーく覚えてるよ。 チェルシー:独り身のくせに突然やせ細った子供を抱えてウチにやって来たもんだから、当時はそりゃあ驚いたもんさ。」 : アカネ:チェルシーさんから何度も聞くその思い出話を、正直僕はあまり覚えていない。 アカネ:ただ、温かな部屋で夢の様に美味しいパンを食べた事だけが、はっきりと記憶に残っていた。 : チェルシー:(過去)『おやおや…そんなに美味しいかい?嬉しいねぇ…。まだまだ沢山あるから、焦らないでゆっくりお食べ。』 : アカネ:あの日、ふわふわのパンを喉に詰まらせながら聞いた優しいその声は、数年経った今でも変わらずそこにある。 アカネ:街の人達はいつだって優しく寄り添ってくれた。真綿の様な温かさに触れて。飢えていた小さな身体はすぐに、そして荒んだ心は長い時間をかけて少しずつ満たされていった。 : アカネ:…だけど、そんな毎日に幸せを感じると同時に僕は、いつも心の底で強く強く怯えていた。 アカネ:ずっと秘密にしてきた暗い過去がいつか明るみに出て、親に捨てられたあの日の様に、僕の意思とは関係の無い所で突然終わってしまうんじゃないか…と。 アカネ:だからっ、…嫌われたくない人が増えるたびに、真っ黒に染まってしまったそれを、心の奥深くに埋めて。必死に『本当の僕』を隠してきた。なのに…。 : 0:(激しい雨音) : アカネ:出来るなら、このまま一生話したくない。誰にも知られずに居れば、きっと…。 アカネ:そう心を支配する恐怖に震える、幼い僕の影。 : チェルシー:「アカネちゃん…。」 : アカネ:……でも、本当は気づいていた。 アカネ:その影の後ろにひっそりと… アカネ:(M)全てを打ち明けて、今すぐ楽になりたい!『本当の僕』も…受け入れて欲しい! アカネ:そんな風に思う気持ちが、いつの間にか生まれていた事を。 : チェルシー:「…………。」 アカネ:「っ、僕は……。」 チェルシー:「………(微笑んで息を吐く)」 アカネ:「………。」 チェルシー:(大きく手を叩く) アカネ:「!?……チェルシー、さん?」 チェルシー:「(明るく)ねぇ、アカネちゃん。今日はあの珈琲無いのかい?」 アカネ:「え…?」 チェルシー:「こないだアカネちゃんがご馳走してくれた『星降りコーヒー』だよ。作り置きでも構わないからさ!」 アカネ:「あ……ごめん、今日は作り置き、無いんだ…。」 チェルシー:「おや…、そうかい。まぁ、残念だけど、無いなら仕方ないね。」 アカネ:「………なんで?」 チェルシー:「そーれ。」 アカネ:「……ウルフ、パイ?」 チェルシー:「そ!それねぇ、きっとあの珈琲に良く合うよ♪」 アカネ:「…………。」 チェルシー:「(軽く微笑んで)まぁいいさ、次はマスターが居る時にって話だったもんね。」 アカネ:「あ、……。」 チェルシー:「ん?」 アカネ:「……ちょっと待ってて!」 チェルシー:「……あ、アカネちゃん?」 : アカネ:僕は徐にお湯を沸かし始めた。 : チェルシー:「アカネちゃん…アンタ…。」 : アカネ:目を丸くしているチェルシーさんの視線にまた居心地の悪さを感じながら、棚から小さな瓶を取り出し、コルクの蓋を開ける。 アカネ:(M)……いい匂い。 アカネ:今朝挽いたばかりの珈琲から漂う独特の香ばしい香りが、僕の緊張を少しだけ和らげてくれた。 : アカネ:空のカップに沸いたお湯を通し、残りを必要な分だけ計ってフラスコに入れ、アルコールランプの上にセットする。 アカネ:小さな気泡がゆっくりと大きくなり、やがてコポコポと弾ける音がし始めたら、一旦火から降ろし、粉を入れたロートを差し込んで、また火に戻す。 アカネ:じわりじわりとお湯がロートをのぼり、粉に滲み込んでいく。 : チェルシー:「おや……まぁ…。」 : アカネ:ヘラで注意深く、だけど手早くかき混ぜたら火を消して、もう一度良くかき混ぜる。 : アカネ:「(囁くように)……この時に、…ヘラを、しっかり動かして…。」 チェルシー:「…うん?何だって?」 アカネ:「あ、ううん。 アカネ:(咳払い)この時に、ヘラをしっかり動かして熱をちゃんと行き渡らせることで、ノースフェザー産の珈琲豆は成分が化学反応をおこして、こんな風にキラキラと光って見えるようになるんだ。」 チェルシー:「ふぅん…。…やっぱり何度見ても綺麗だねぇ。」 : アカネ:ポタリ、ポタリと、光の粒を孕んだ黒い液体が、砂時計のようにフラスコに溜まっていく。 アカネ:その落ちる雫を静かに見つめていると、頭の中で暴れまわっていた何かも次第に大人しくなってきた…ような気がした。 : チェルシー:「おや、どうやら落ちきったようだね。」 : アカネ:雫の出なくなったロートを外し、温めておいたカップに注ぐ。 アカネ:これで、『星降りコーヒー』の完成だ。 アカネ:二人分の珈琲と『ウルフパイ』をトレイにのせ、テーブルへと移動した。 : 0:(カップを置く音) : アカネ:「はい、お待たせ。」 チェルシー:「どれどれ……うーん、本当にいい香りだねぇ。淹れたてと作り置きでこんなに変わるのかい。」 アカネ:「言ったでしょ。」 チェルシー:「あぁ、そうだね。それに…キラキラと光って、まるで満天の星空を見ているみたいだ。」 アカネ:「(気取って)…どうぞ。当店自慢の『星降りコーヒー』です。」 チェルシー:「おやまぁ、気取っちゃって。(笑)」 アカネ:「センセーの真似。」 チェルシー:「あっはっはっはっは、上手じゃないか。…それじゃ、頂きます。」 アカネ:「うん。」 : アカネ:チェルシーさんは大きな手で品よくカップを持ち上げると、鼻からゆっくりと味わうように湯気を吸い込んだ。 : チェルシー:「んんー♪いい香りだ。」 : アカネ:満足げに頷いて、待ちきれないとばかりに一口、淹れたての珈琲を口に含む。 : チェルシー:「…………うん。美味しい。」 アカネ:「……良かった。」 チェルシー:「マスターに習ったのかい?」 アカネ:「まぁ……そうだね。」 チェルシー:「ふふふ、ありがとね。」 : アカネ:こっそり練習していたことは格好悪いから秘密にしていたのに、なぜだかチェルシーさんには全部お見通しだったみたいだ。 アカネ:照れくささを誤魔化すように、僕も続いてカップに口を付けた。 : チェルシー:「こないだはフルーティーな感じだったけど、淹れたてだと後味がすっきりとしていてすごく爽やかだねぇ。 チェルシー:言うなればー…見た目は夜空でも、味わいは…うん、まるで、雨上がりの青空の様だ。」 : アカネ:その言葉がくすぐったくて、僕はわざと素っ気ない態度をとる。 : アカネ:「…わーびっくり、チェルシーさん詩の才能あるんじゃない?」 チェルシー:「おや、そうかい?そんなに言うならちょっとやってみようかね?」 : 0:二人して笑う。 : アカネ:彼女が言った通り、淹れたての『星降りコーヒー』はさっぱりとした清涼感があって、澄み渡る青空を思わせるような爽快さが、沈んだ心をすっきりと晴れやかな気持ちにさせてくれた。 : アカネ:「(ためらいがちに)………チェルシーさん。」 チェルシー:「ん?」 アカネ:「……僕さ、昔…。」 : アカネ:珈琲に背中を押され、僕はゆっくりと口を開いた。 アカネ:懺悔の様な僕の話を、時々頷いたり辛そうに眉を寄せたりしながらも、チェルシーさんは黙って静かに聞いてくれた。 : アカネ:全て話し終わった頃、二人のカップはすっかり空になっていた。 : チェルシー:「そうかい…。そりゃあ、辛い思いをしたね…。」 アカネ:「…………。」 : アカネ:僕は黙って、空になった二つのカップに珈琲を注ぐ。 : チェルシー:「けどねぇ、誰だってそんなひもじい時に理性的になんて動けやしないさ。それが幼い子供なら尚更ね。」 アカネ:「…………。」 チェルシー:「それに。アタシが思うにさ、その女の人はアカネちゃんが出会う前からきっと、……そうする事を、決めていたんじゃないかと思うよ。 チェルシー:まぁ今となっては、何が真実かなんてわからないし、『その人の人生に何があったのか』なんてのは、アタシら他人にゃあ知る由もない。」 アカネ:「……そう、だね。」 チェルシー:「……でも。結局、そう決めたのはその人自身だろう?」 : チェルシー:「確かにね、物を盗む事自体は良いか悪いかで言えば、勿論良い事ではないよ?」 アカネ:「………うん。」 チェルシー:「だけど、物事には『やむを得ない事情』ってもんがあるんだ。 チェルシー:褒められない行為であった事には変わりないけれど、アンタはもう十分償ったさ。 チェルシー:だって思い返してごらんよ。いつだって家族や街の人達の為に一生懸命働いてるじゃないか。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「(微笑む)そんな健気な可愛い子をねぇ、この街に住む連中は嫌いになんかなりゃしないよ。」 アカネ:「……ほんとに?」 チェルシー:「あぁ本当さ。……アンタはね、要らなくなんかない。アタシにもマスターにも、それに、ルリちゃんにとっても。もうかけがえのない存在なんだよ? チェルシー:…ほら、こっちにおいで。」 : アカネ:そう言ってチェルシーさんはためらう僕を優しく抱き寄せると、背中をトントンと優しく撫でてくれた。 アカネ:大きな手はとても温かく、すっかり乾いた服からはふわりとバターのいい香りがして。じんわりとした温もりが僕の心にも広がっていくようで。 アカネ:零れた一筋の涙が、彼女の肩口に小さな染みを残したことはこの先も僕だけの秘密だ。 : チェルシー:「あ、そうだ! チェルシー:ほらほら、お忘れでないかい?ウチの新作! チェルシー:折角アンタの為に焼いたんだ、今度こそ試食第一号になってくれるだろう?」 : アカネ:そう言って目の前に差し出されたオオカミの形のパイ。ツンと滲みる鼻の奥を、香ばしくて美味しそうな匂いがくすぐる。 : アカネ:「(鼻を啜って)……うん、食べるよ。いただきます。」 チェルシー:「あいよ。」 : アカネ:まだほんのりと温かい『ウルフパイ』にかぶり付いた。 アカネ:サクッとした食感に、じゅわりと滲み出る肉の旨味と、柔らかいチーズ。 アカネ:噛めば噛むほど、サクサクのパイ生地と濃厚なミートソース、それに少し淡白なチーズがねっとりと混ざり合って。…呑み込むのが惜しいくらい、美味しかった。 : アカネ:「……おいしい!」 チェルシー:「そうだろうそうだろう。なんたって、チェルシーおばさん特製の『ウルフパイ』だからね♪」 アカネ:「ふふっ……あ。あのさ、チェルシーさん。」 チェルシー:「ん?なんだい?」 アカネ:「…ちょっと言いにくいんだけど…。」 チェルシー:「うん?」 アカネ:「挽肉を使ったパイに『ウルフパイ』って、オオカミとして…ちょっと恐怖感じる。」 チェルシー:「…おや。そうかい?」 アカネ:「うん…。ここは普通にチーズミートパイとかでいいんじゃない?」 チェルシー:「うーん…だけどそれじゃあちっとばかし面白みに欠けやしないかい? チェルシー:まぁでもねぇ…言われてみれば確かに…。」 : アカネ:ああでもないこうでもないと悩みだしたチェルシーさんを横目に、僕は珈琲を飲む。 アカネ:(M)あ、ほんとだ。 アカネ:チェルシーさんの見立て通り、このオオカミの形をした濃厚なチーズミートパイに、すっきりとした『星降りコーヒー』は驚くほど良くマッチした。 : : : 0:数日後 : アカネ:五月も終わりに差し掛かったある日の昼下がり。 アカネ:センセーにお遣いを頼まれ、ルリと一緒に『ベイカリー・シャロン』へと向かった。 アカネ:客で溢れ返った店内を、二人で縫うように進む。 アカネ:あの一件後、早速売り出された栗のフィリングがたっぷりと入ったリスの『アカネパン』は、近所の奥さんや子供達から口コミが見る見る間に広がり、今では毎日飛ぶように売れているらしい。勿論、ウチのチビも大のお気に入りだ。 アカネ:だけど、一番人気は『オウル書店の星降りコーヒーによく合う、オオカミさんのチーズミートパイ』だそうで。 アカネ:どうやら最近ウチの客が増えた原因は、これのせいだったみたいだ。 : アカネ:店の奥でバタバタと忙しそうにしている大柄なクマの夫婦。黄色い花柄のエプロンを着けたその奥さんの表情には、もう何処にもあの日見た影は見当たらない。 アカネ:楽しそうに働く彼女は、僕達がレジの前に立つといつものように、 : チェルシー:「おまけだよ♪」 : アカネ:と言って、こっそりチーズパンとウサギの形のクリームパンもつけてくれた。 アカネ:彼女ほど、ウインクの似合うクマは居ないと思う。 : アカネ:さっさとレジを済ませ、賑やかにごった返した店を出た。 アカネ:外はまだ、ぽつぽつと小雨が降り続いている。 アカネ:だけど、もうすぐ上がるだろう。 アカネ:そして、暑い暑い夏がやってくる。 : 0:空を見上げるアカネ : アカネ:僕は、雨が嫌いだ。 アカネ:甘いの物も、まだ苦手だ。 アカネ:だけど、どちらも前ほど気にならなくなった。 アカネ:雲間から覗く水色の空。そこから差し込む輝く太陽の光が。 アカネ:まるで…優しくて、大らかで、全てを包み込む、温かいバターの香りのするお母さんの様だと、僕は思った。 : 0:(エンドコール) アカネ:オウル書店のとある一ページ。 チェルシー:五月の雨と悩めるオオカミ編。 : 0:(二人で微笑んで) : アカネ:「(同時に)おしまい。」 チェルシー:「(同時に)おしまい。」

0:オウル書店のとある一ページ~五月の雨と悩めるオオカミ編。 : : : アカネ:その日は…朝から雨だった。 アカネ:どんよりと厚い雲が太陽を覆い隠し、シトシトと纏わりつく空気が湿気を吸った本と一緒に、僕の心も重くカビ付かせて行く様な気持ちにさせる。 : アカネ:…僕は雨が嫌いだ。 アカネ:こんな日は、嫌なことばかり…思い出すから。 : 0:(タイトルコール) アカネ:オウル書店のとある一ページ。 チェルシー:五月の雨と悩めるオオカミ編。 : アカネ:ここは、ヨークピークの静かな街角にひっそりと佇む、『オウル書店』。 アカネ:ダークオークのとんがり屋根が目印の、こじんまりとしたこの本屋が、僕の家でもあり仕事場でもあった。 : アカネ:「(溜息)………。」 : アカネ:閑散とした店内で一人暇を持て余していた僕は、読みかけの本を閉じ、作り置きの珈琲をコップへと注ぐ。 : アカネ:ふわりと鼻先をくすぐる珈琲の香りに、鬱々としていた気分が少しだけ和らいだ。 : アカネ:「……?」 : アカネ:不意に、雨音に混じって足音が聞こえた。 : 0:(ドアベルが鳴る) : アカネ:ドアベルが鳴り、扉が開くと同時に入り込んできたのは、湿気を含んだ空気と、ザァザァと耳障りな雨音。 アカネ:ぬるりとした冷たい風がランプの灯を揺らし、むき出しの肌を舐めるように撫でて行く。 アカネ:その不快さに思わず顔をしかめた僕を、豪快な声が明るく叱りつけた。 : チェルシー:「こーら!なんだい、その仏頂面は。そんなんじゃ折角お客さんが来ても怖がって逃げ出しちまうじゃないか。」 : アカネ:声の主は扉の隙間から大柄な体をのっそりと滑り込ませて、ニッコリと人好きのしそうな笑顔を見せた。 : チェルシー:「こんにちわ、邪魔するよ。」 アカネ:「チェルシーさん。…いらっしゃい。」 : アカネ:近所で『ベイカリー・シャロン』と言うパン屋を営むクマのチェルシーさんだ。 : アカネ:「こんな時間に、珍しいね。」 チェルシー:「んふふふ、たまにはね。…よいしょ、っと。ふぅ…。」 : アカネ:チェルシーさんは持っていた大きな包みを重たそうにカウンターに乗せて、どっしりと椅子に腰かけた。 : チェルシー:「おんやぁ?今日はアカネちゃんだけかい?…マスターとルリちゃんは?」 アカネ:「センセーは書籍会の集まりで、チビは…上で寝てる。」 チェルシー:「えぇ?寝てるって…具合でも悪いのかい?」 アカネ:「今朝から熱出して寝込んでるんだ。」 チェルシー:「そりゃあ大変だ!…病院は?」 アカネ:「さっき、クリハラ先生が往診に来てくれた。」 チェルシー:「そうかい。…それで?何だって?」 アカネ:「風邪。」 チェルシー:「おやまぁ、可哀想にねぇ…。季節の変わり目だから…。 チェルシー:まぁだけど、ただの風邪なら安心さね。沢山食べてしっかり寝ればすぐ治るさ。」 アカネ:「……うん。」 チェルシー:「あぁ、そうだ。」 アカネ:「…?」 チェルシー:「そう言う事なら丁度良かったよ。これ…ちょっと作りすぎたもんだからお裾分けにと思って持ってきたんだけどね。」 : アカネ:そう言って、彼女がいそいそと開いて見せた大きな包みの中身は、大粒の黄色い粒がぎゅうぎゅうと隙間なく詰め込まれた、ガラスの瓶だった。 : アカネ:「…?これ……何?」 チェルシー:「これはねぇ、チェルシーおばさん特製の『栗のシロップ煮』さ。 チェルシー:冷たぁーく冷やしてルリちゃんに食べさせておやり。そうすれば風邪なんてあっという間だ。」 アカネ:「クリ?…栗って、あのトゲトゲのイガに入ってる…?」 チェルシー:「ああ、そうさ…何だい、栗を見るのは初めてかい?」 アカネ:「実物は無いけど…でもそれ、僕の知ってる栗と何だか違う…。」 チェルシー:「…? チェルシー:あぁ、そうか! チェルシー:ははっ、アンタが言ってんのは多分、殻を剥く前の実の事だね? チェルシー:なら丁度いい。試しに一つ食べてごらん。」 : アカネ:シロップの滴る黄色い粒を小皿に受け取る。皿の上でコロンと転がる艶やかなそれを僕はまじまじと見つめた。 : アカネ:「……これが、栗…。」 チェルシー:「そうさ。さぁ、ほら。」 アカネ:「……いただき、ます。」 チェルシー:「召し上がれ♪」 アカネ:「(口に含む)……うっ!!! アカネ:(気持ち悪そうに)あっま……。」 チェルシー:「あっはっはっはっは!その顔!」 アカネ:「うえぇぇ…。」 チェルシー:「そぉーんなに甘かったかい。それなら、出来はバッチリだねぇ!」 : アカネ:子供の様に笑い転げるチェルシーさんは、涙目になっている僕に悪びれた様子もなく、悪戯っぽくウインクをして見せた。 : アカネ:「ぺっぺっ! アカネ:…酷いよチェルシーさん!僕が甘いもの嫌いだって知っているクセに…。」 : アカネ:口に広がる甘い味を、冷めた珈琲で無理やり喉の奥に流し込む。 : チェルシー:「ふふふふ、何事も経験ってやつさ。」 アカネ:「(睨む)………。」 チェルシー:「ごめんごめん。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「あーもうっ、アタシが悪かったよ。(笑)」 アカネ:「本当に悪いと思ってる…?」 チェルシー:「思ってるってば。」 アカネ:「…(溜息)次は無いからね?もしまたこんな事したら…。」 チェルシー:「あっはっはっは、肝に銘じておくよ。 チェルシー:…それはそうと…、アカネちゃんが飲んでるそれ、もしかして表に書いてあった『星降りコーヒー』ってやつじゃないかい?」 アカネ:「え?…あぁ、うん。」 チェルシー:「ほぉら、やっぱりね!やけにいい匂いがすると思ったんだよ。 チェルシー:ねぇそれ、アタシにも一杯頂戴。」 アカネ:「え?…えっと、今…作り置きしかないんだ。 アカネ:味が落ちてるし、今度センセーが居る時に淹れたてを飲んだ方が…。」 チェルシー:「(被せて)いやいや、その作り置きで構わないよ。」 アカネ:「いや…でも…。」 チェルシー:「なんだい、いつからそんないけずな事言う様になったんだい。こぉーんな良い匂いを目の前で散々嗅がせておいて今更お預けだなんて言うのかい?この子は。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「あーあー、わかったよ。そんなに言うなら、淹れたては今度来た時に必ず飲むから、ねっ?」 アカネ:「えぇー…?」 チェルシー:「だーかーらっ、今日の所はとりあえずその作り置きをご馳走しとくれ。それなら良いだろ?」 アカネ:「(大きな溜息)……もー…一回言い出したら絶対きかないんだから…。」 チェルシー:「んふふふふ、ありがとさん♪それじゃあ…」 アカネ:「(被せて)でも先に言っとくけど、お代はいらないよ。今日のは『とりあえず』だからね。」 チェルシー:「……ぷっ。あっはっはっはっ、全く…。マスターに似て変なとこ律儀だねぇ。」 アカネ:「(ぶっきらぼうに)……じゃああっため直すからちょっと待ってて。」 チェルシー:「あいよ♪」 : アカネ:渋々珈琲を温め直す僕に、チェルシーさんは嬉しそうに微笑んだ。 : : : アカネ:一杯分の珈琲をポットに移し入れて、温めたお湯にゆっくりと浸す。 : チェルシー:「…?珈琲を湯銭するのかい?」 アカネ:「うん。直火(じかび)にかけて急激に温度を上げると、珈琲の成分が飛んじゃって折角の香りや味が落ちてしまう。 アカネ:だから、温め直す時はちょっとめんどくさいけど、こうやって少しづつ温度を上げてく方が良いんだ。」 チェルシー:「へぇー、なるほどねぇ。」 : アカネ:温まったポットを布巾の上に移し、ゆっくりとカップに注ぐ。 アカネ:小さな光の粒をはらんだ焦げ茶色の液体が、注ぎ口からチョロチョロと細い帯のように流れ落ちていく。 : チェルシー:「…!ちょっと!その珈琲なんだかキラキラしてないかい?………アタシの見間違いかしらねぇ…?」 アカネ:「(小さく笑う)…見間違いじゃないよ。」 チェルシー:「えぇ?…それじゃあ一体…。」 アカネ:「これが、『星降りコーヒー』の所以(ゆえん)。」 チェルシー:「所以ってアンタ………まぁ言われて見れば、星が降ってるように見えなくもないが…。」 アカネ:「……出来たよ。はい。」 チェルシー:「あ……あぁ…。」 : アカネ:珈琲の表面に浮かぶ無数の光の粒。 アカネ:くるくる、ゆらゆら、キラキラと、カップの中で小さく揺らめいている。 アカネ:チェルシーさんの視線はカップに釘付けになった。 : チェルシー:「こっりゃまた驚いた。…光る珈琲だなんて、何とも魔訶不思議だねぇ。 チェルシー:それで?この光ってる粒の正体は一体何なんだい?ひょっとして砂糖でも入れたのかい?」 アカネ:「(微笑む)砂糖なんか入れてないよ。…それ、ノースフェザー産の珈琲豆を使ってるんだ。」 チェルシー:「ノースフェザーって言ったら、あの北の最果てにある雪の大地の事じゃないか。そんな寒いところで珈琲豆なんか採れるのかね?」 アカネ:「採れるよ。特別な製法でね。とにかく、ノースフェザーの珈琲豆は年中雪の中で育つから、温かい地域で作られた豆と違って、熱に弱い。 アカネ:だから、お湯の中に滲み出た成分が熱に強く反応することで、こんな風に淡く光って見えるようになるんだ。」 チェルシー:「…アンタねぇ、そんな小難しい話をされたって、しがないパン屋のアタシにわかるわけないだろ。」 アカネ:「…つまり、珈琲豆と水以外は何も入ってないって事。」 チェルシー:「嘘をお言いでないよ。豆と水だけでこんな風になるもんかね。」 アカネ:「ほんとだって。」 チェルシー:「ふぅーん……ま、いいさ。 チェルシー:そんな事よりも、だ。気になるのはこれの味さね!…御託は置いといて、早速頂くとするよ。」 : アカネ:呆れる僕なんかお構いなしに、チェルシーさんはゆっくりとカップに口をつけた。 : チェルシー:「(珈琲を一口飲む)………っ、美味しい!ねぇアンタ!これすっごく美味しいよ!!」 アカネ:「そ。」 チェルシー:「んー、呑み込んだ瞬間のなんとも言えないこのフルーティーな風味!…こりゃ、癖になる味わいだわ…。」 アカネ:「まぁね、それセンセーの自信作だから。」 チェルシー:「なるほどねぇ、こりゃあの大先生が店の表に看板出すだけの事はあるっ!」 アカネ:「…何それ。」 チェルシー:「(微笑む)それだけ美味いって事。兎にも角にも、次に淹れたてを飲むのが俄然楽しみになったよ。」 アカネ:「うん、期待してて。」 チェルシー:「あぁ、そうする。(珈琲を啜る)」 : アカネ:満足そうに微笑んで、チェルシーさんは珈琲をすすった。 : アカネ:「……………。」 : 0:(激しい雨音) : アカネ:一向にやむ気配を見せない雨は、次第にその雨足を強めていく。 アカネ:カチッ、カチッ、カチッと、秒針の時を刻む音が規則正しく響いて、会話が止まった店の中を、雨と時計の音が束の間、静かに支配する。 : 0:(時計の音) : アカネ:堪らず僕は口火を切った。 : アカネ:「っ、そう言えば、…チェルシーさんの店、今日定休日じゃないよね?」 チェルシー:「ん?…あぁ、そうだね。」 : アカネ:そう答えたチェルシーさんの表情が、なぜだか一瞬曇る。 : チェルシー:「一応店は開けてるんだけど、朝からこんな雨だろう?今日はそのせいかお客さんもさっぱりでねぇ。 チェルシー:店の方は旦那に任せて、フラフラ遊びに来たってわけさ。」 アカネ:「…タイミング悪かったね。」 チェルシー:「んー?どうしてだい?」 アカネ:「折角来たのにセンセーが留守で。」 チェルシー:「…いいや、そうでもないさ。だって、こんなに美味しい珈琲がタダで飲めた上に、アンタのあんな顔が見れたからね♪」 アカネ:「(顔をしかめて)…チェルシーさん?」 チェルシー:「ははははは!冗談だよ。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「……だけどまぁ、客足が落ちてるのは今日に限った話じゃあないんだ。」 アカネ:「……何か、あったの?」 チェルシー:「んー?……(嘲笑) チェルシー:こんなことアンタに話すのもなんだけど…ここん所…、あんまり、売り上げが思わしくないのよ。」 アカネ:「え……?」 チェルシー:「ちょいと前に、『グランデリータ』とか言う洒落た名前の大きなパン屋が中央の大通り広場に出来たの知ってる?」 アカネ:「…あー、そう言えば…。」 チェルシー:「……あすこのパン、食べたことは?」 アカネ:「…多分、無いと思うよ。パンはチェルシーさんのとこでしか買わないから…。」 チェルシー:「あははは、そりゃあ、ありがたいねぇ。(溜息)……。」 : アカネ:影った視線を手元に落としカップをゆっくりと回しながら、チェルシーさんは降り出した雨のようにぽつりぽつりと話し始めた。 : チェルシー:「…ウチはさぁ、あのでっかいパン屋が出来るまでは、ここいらじゃ唯一のパン屋だったろう? チェルシー:ま、だからと言って別に慢心してたわけでもないんだけどねぇ…。 : チェルシー:…街の人たちに飽きられないようにって、昔っから色んな形のパンを作っては店に並べるようにしてた。これでも一応ね、努力はしてたつもりさ。 : チェルシー:だけどねぇ…、それもウチの人と二人でやってる事だから…中々。 チェルシー:新しいアイディアつったって魔法じゃあるまいし、当たり前の事だけど、願えばぽんぽん浮かぶってわけにはいかないんだ。 チェルシー:近頃に至っては正直な所、昔作ったヤツでどうにか回してるような状態でさ…。」 アカネ:「……うん。」 チェルシー:「だのに、あの『グランデなんちゃら』ときたら!あすこの品ぞろえの多さを見てごらん?」 アカネ:「…そんなに?」 チェルシー:「そりゃ凄いもんさ!あれじゃあまるでパンのデパートさね。 チェルシー:……あんなもん見せつけられたらさ…何て言うか…。 チェルシー:いっそ、憎いを通り越して呆れちまったよ…。」 アカネ:「…でも、チェルシーさんとこのパン、好きな子供多いんじゃない…?ウチのチビだって…。」 チェルシー:「今の所はね。 チェルシー:…ただ、それももう…時間の問題かもしれない。」 アカネ:「チェルシーさん…。」 チェルシー:「新しい商品もね、売り出した初めの頃はいいんだ。みーんな面白がって買ってってくれるからねぇ。 チェルシー:…だけど、珍しい時期はあっという間に過ぎる。たかだか見た目を変えたくらいじゃ…なぁーんも変わりゃしないんだ。 チェルシー:悔しいけど、みんな…ウチのパンの味に飽きてきたのさ、きっと…。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「…ははは、悪かったね、しみったれた話をしちまって。」 アカネ:「あ……いや…。」 チェルシー:「(微笑む)ま、こうは言ったけど、別にすぐすぐ店がどうこうなるってわけじゃあないんだよ。 チェルシー:お客さんらの喜ぶ顔を今よりももっと見たいって言う、アタシのただの欲張りさ。それだけ。」 : アカネ:チェルシーさんは笑ってそう言ったけど、目元の隠し切れない影が、見慣れているはずの彼女の笑顔に何処か寂しさを感じさせた。 : チェルシー:「もっと何か面白い形が無いか探してみるよ。後は、そうだねぇ、中のクリームをもっと甘くしてみるとか…」 アカネ:「(被せて)それはっ!!……やめておいた方が…。」 チェルシー:「あっはっはっはっは!アカネちゃんの甘いもの嫌いも相当なもんだねぇ。」 アカネ:「うっ!」 : アカネ:折角忘れかけていた味をまた舌の上に思い出し、慌てて僕は珈琲の入ったポットを求めてカウンターの上に視線を泳がせた。 : アカネ:「……!」 : アカネ:その時、何気なく目の端に留まった大きなガラスの瓶。中には甘い実がぎっしりと詰まっている。 アカネ:それを見て、チェルシーさんの呟いた言葉を思い返した。 : チェルシー:『みんな…ウチのパンの味に飽きてきたのさ、きっと…。』 : アカネ:「(ためらいがちに)…チェルシーさん。」 チェルシー:「ん?何だい?」 アカネ:「この栗、使えない…かな?」 チェルシー:「はぁ?使うって……もしかしてウチのパンにかい?」 アカネ:「うん。」 チェルシー:「…いやだけど、使うったって…一体どうやって…。」 アカネ:「…それなんだけどさ、前にルリの親…(言葉を濁す) アカネ:う、うちのお客さんが手作りのニンジンのケーキを持ってきたことがあって…。」 チェルシー:「ニンジンのケーキ?…もしかしてそれ、ホーランドさんとこの奥さんが作ったやつじゃないかい?」 アカネ:「…知ってる?」 チェルシー:「知ってるも何も、それならアタシが教えてやったレシピさぁ!はちみつとショウガ入りのケーキだろう? チェルシー:…だけど、それがこの栗とどう関係するって言うんだい?」 アカネ:「あんな感じで、栗を加工してパンに使ってみたらどうかなって…。」 チェルシー:「……加工?この、栗を…?」 アカネ:「うん。例えばあのニンジンみたいにすり下ろす、と言うより…細かく刻む…?…のはちょっと触感が合わない、か。 アカネ:それよりも…煮詰めて、…ペーストにしてみる…とか。」 チェルシー:「……ペースト? チェルシー:…ペーストねぇ………いや、いいよ、いいかもしれない!」 : アカネ:ハッと顔を上げたチェルシーさんの大きな瞳が、その瞬間、キラキラと明るく輝きだした。 : チェルシー:「そうだねぇ、栗を使ったパンなら、…見た目は、リスにしようっ!それならきっと子供達も喜びそうだ!」 アカネ:「…何とかなりそう?」 チェルシー:「いやぁー、アカネちゃん、アンタやるじゃないか!おかげ様で良いものが出来そうだよ。ほんっとうにありがとう!」 アカネ:「…いや、別に大したことは…。」 チェルシー:「アタシにとっては充分大したことさ! チェルシー:…ここんとこずーっと雨だったから、なんだか柄にもなく気分が落ち込んじまったみたいだ。アンタも、アタシの愚痴に付き合わせちゃって悪かったねぇ。」 アカネ:「気にしないで。」 チェルシー:「んふふ。本当はね、ここだけの話、マスターにちょいと愚痴でも聞いてもらおうかーなんて思って、フラーッと立ち寄ったんだけど、思いきって今日来てみて良かったよ!」 : アカネ:嬉しそうにカップに残った珈琲をぐいっと飲み干して、すっかり晴れた様子のチェルシーさんは、ウンウンと満足げに何度も頷いた。 : チェルシー:「あぁ、やっぱり美味しい!…あ、そうだ。この珈琲に合うパンを作ってみるのもいいかもしれないねぇ…。」 : アカネ:独り言の様に、ブツブツと呟いている彼女を横目にカウンターを片付けていると、何故だか急に妙な居心地の悪さを感じた。 アカネ:このまま気づかないふりをしてしまった方が良いかもしれないと思いながらも、恐る恐る顔を上げた僕の視線と、僕を見つめるチェルシーさんの視線とがぶつかり合う。 : アカネ:目と口の端が緩んだその顔を見て、やっぱり気づかないふりをした方が良かったかも…と、内心小さく後悔した。 : アカネ:「………な、なに?」 チェルシー:「んー?いやぁ、ね。ふふふ♪ チェルシー:ちょっと前まではあんなに小さかったのに。」 アカネ:「…はい?」 チェルシー:「何でもないさ。ただ、そうやってるアンタを見ていたらね、なーんだだ胸が熱くなっちまったの。」 アカネ:「ええぇ?」 チェルシー:「ふふふ。 チェルシー:(時計を見て)おやまぁ!もうこんな時間?いけないいけない、随分長く店を空けちまったみたいだ。 : チェルシー:そいじゃあ、そろそろおいとまするね。」 アカネ:「あ、うん。」 チェルシー:「さぁさぁ、これからうんと忙しくなるよ♪」 アカネ:「あっ、チェルシーさん!栗のペースト作るんでしょ?じゃあシロップ煮、沢山あった方がいいんじゃない?これも…。」 チェルシー:「うん? チェルシー:(小声)…はぁーん、これを機に持ち帰らせようって魂胆だね?考えたじゃないか(笑)」 アカネ:「………。」 チェルシー:「いいや!家にもまだまだたぁーっくさんあるからね。それはアンタ達が食べとくれ。」 アカネ:「(むぅっとむくれて)………。悪いけど、僕は食べないよ。」 チェルシー:「あははは!いいよ、好きにしな。 チェルシー:じゃあね、また来るよ!お世話様!」 : アカネ:豪快に笑いながら挨拶もそこそこに、チェルシーさんは颯爽と店を出ていった。 アカネ:雨の中に消えたその背中を、僕はお決まりの挨拶で見送る。 : アカネ:「ありがとうございました。またお越しくださいマセ。」 : 0:(ドアベルが鳴る) : アカネ:僕だけが残った店内に、再び嫌な静寂が訪れる。 : 0:(激しい雨音) : アカネ:窓の外は相変わらず雨が降り続いている。 アカネ:僕と同じく置き去りにされたガラス瓶を恨めしく睨み、意味もなく指ではじいてみると、コン…と無機質な鈍い音を立てた。 : アカネ:だらしなく頬杖をついて、ゆっくりと、瞼を閉じる。 アカネ:激しく降る雨に重なる、『あの日』の雨音。 : アカネ:「(溜息)…早く雨、上がらないかな…。」 : : : 0:間をあけて語りだす。(ここから暗いトーンで) : アカネ:僕は雨が嫌いだ。 アカネ:幼い頃、『ノロイ』と言う不治の病に侵された僕を、両親は見知らぬ土地に置き去りにして姿を消した。何日も、何日も、ただ当てもなく両親を探し彷徨っていた。 : チェルシー:(見知らぬ婦人)「まぁ、見てあの子!孤児かしら…やだ!体中にノロイの痣が広がってるみたいね。…うちの子にうつりでもしたら大変だわ!しっしっ、あっちへお行き!」 : アカネ:薄汚れたみすぼらしい子供に投げかけられるのは、酷い言葉と侮蔑(ぶべつ)の視線ばかり。幼い心と体は見る見るうちに飢えていった。 : アカネ:とある冷たい雨の夜。 アカネ:街の外れで倒れている女性見て、あまりの空腹に魔が差した僕は気が付くと、彼女が胸に抱えていた袋を奪いその場から走り去っていた。 アカネ:逃げ込んだ薄暗い路地裏で、盗んだ袋に入っていたお菓子を無我夢中で頬張る。生まれて初めて感じた、口いっぱいに広がる甘い味に、頭が痺れるようだった。 : アカネ:…だけど、その幸せはほんの一瞬で。 アカネ:袋から落ちたメッセージカードに目を奪われた瞬間、まるで砂糖が水に溶けるかのように幸福感は余韻すら残さずに消え失せた。 アカネ:カードに書かれた「お誕生日おめでとう」の文字は雨に滲み、みるみる醜く歪んでいく。 アカネ:罪の意識と後悔が津波のように押し寄せた。 : アカネ:今すぐ謝りに戻ろう。ぶたれてもいいからきちんと返そう、そう思って僕が街外れへ戻ると、さっきまで倒れていたはずの女性は、橋の上に立ちぼんやりと荒れ狂う川を見つめていた。 アカネ:泣きじゃくりながら謝る僕の声に、その人は生気なく振り返った。 : チェルシー:(見知らぬ女性)「……返しに来てくれたのね、ありがとう。……(溜息)でももういいのよ。それ、捨てるつもりだったから…。」 : アカネ:消え入りそうなか細い声は、ゴウゴウと激しい水の音にかき消されていく。女性は吸い込まれるように川の方へと頼りなく足を進めた。 アカネ:あと一歩で橋から落ちてしまう所まで来て、引き留めようと僕が咄嗟に手を伸ばした時だった。 : チェルシー:(見知らぬ女性)「もう…要らないわ…。」 : アカネ:そう言って女性は、川へと身を投げた。 アカネ:数日続いた長雨で濁流と化していた川は、まるで巨大な蛇みたいにその人を飲み込んだ。 アカネ:信じがたい出来事に、残された僕の心にジワリとどす黒い染みが広がる。 アカネ:後悔と、恐怖と、絶望が激しく入り混じって、止めどなく降り注ぐ雨にどんどん滲み、いとも簡単に僕の心を黒く染め尽くした。 : アカネ:(M)あぁ、そうか。僕はこの甘いお菓子と一緒だったんだ。『要らない』から、父さんと母さんは僕を捨てた…。 : チェルシー:(見知らぬ女性)『もう…要らないわ。』 : アカネ:見知らぬ女性が放ったその言葉が、幼く無知な僕に、誰も教えてくれなかった事実を…教えてくれた。 アカネ:言葉は鋭い棘に変わり、僕の奥深くにぶすりと突き刺ささった。暗い記憶の中により大きく絶望という名の影を落として。 アカネ:その日から、上がることの無い冷たく重たい雨が、今でも僕の心の中でずっと降り続いていた。 : 0:回想おわり(数秒置いて) : : : 0:数日後 : アカネ:チェルシーさんの訪問から数日が経ち。 アカネ:止まない雨にうんざりとしながら、今日も僕は一人、暇を持て余していた。 アカネ:窓を伝い流れていく雫をボーっと眺めていると、不意に遠くから足音が聞こえ、次第にそれはバシャバシャと大きくなっていった。 アカネ:どうやらこちらへ向かってきているようだ。 アカネ:やがて、店の前で足音が止まると、扉が大きな音を立てて勢いよく開かれた。 : 0:ドアベルが激しく鳴る : アカネ:「っ!」 チェルシー:「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!」 アカネ:「ち、チェルシーさん!?」 : アカネ:弾丸の様に飛び込んできたのは、大きく肩で息をするチェルシーさんだった。黄色いレインコートはずぶ濡れだ。 : チェルシー:「(明るく)ふぅーっ。驚かせてすまないねぇ。ちょいと雨が強くなって来たもんだから。(笑)」 アカネ:「大丈夫…?………はい、タオル。」 チェルシー:「あぁ、ありがとさん。床こんなに濡らしちまって悪いねぇ。」 アカネ:「いいよ、気にしないで。」 チェルシー:「あーあーあー、この雨にも困ったもんだよ。ウチを出るときはこんなに降ってなかったのに、アタシが出た途端強くなるんだもん。」 アカネ:「…予報で言ってたよ?昼過ぎから大雨になるって。」 チェルシー:「おや、そうなのかい? チェルシー:それがさぁ、うちのラジオときたら、最近めっきり調子が悪くてねぇ。肝心な所で使えないんじゃ、ウチの旦那と変わりゃしないよ(笑)」 アカネ:「(呆れたように)………。今日はどうしたの?センセーに用事?だったら、悪いけど今日も…。」 チェルシー:「(被せて)いいや、今日はアンタに用があって来たんだ。」 アカネ:「え…、僕?」 チェルシー:「まぁ、とにかくこれを見とくれ。」 : アカネ:花柄の布が張られた小さなバスケットから、ふわりと甘くて香ばしい香りが漂ってくる。 : チェルシー:「こないだ話したアレが、やっと完成したんだよ!」 : アカネ:そう嬉しそうにチェルシーさんがバスケットから取り出したのは、リスの形をしたパンだった。愛嬌のある表情がこんがりと美味しそうに焼き上がっている。 : チェルシー:「ほらほら良く見てごらん!この目と縞はチョコレートで描いたんだ。そんで鼻は栗のシロップ煮。中身にはアンタが言ってたように栗のペーストとミルククリームを入れてみたのさ!どうだい?可愛いだろ?」 アカネ:「へー…良く出来てるね。ちゃんとリスに見える。」 チェルシー:「そうだろうとも。アタシらの自信作だからね!」 アカネ:「流石、チェルシーさんだね。」 チェルシー:「…何言ってんだい?」 アカネ:「……え?」 チェルシー:「何を他人事みたいに…、あのねぇ、『アタシら』ってのにはアカネちゃんも含まれてるんだよ!」 アカネ:「…は?え、なんで、僕?」 チェルシー:「なんでって…、そもそもアンタが発案者だからに決まってんだろう。 チェルシー:大体、人様が考えたものを横取りして我が物顔で売り出す様なチンケな真似、このアタシがすると思ってんのかい?」 アカネ:「……それは…。」 チェルシー:「ちゃあんと名前も考えてあるんだ♪」 アカネ:「…なまえ?」 : アカネ:ぽかんとしている僕に、彼女はにんまりと笑って大きく頷いた。 : チェルシー:「『アカネパン』さ♪」 アカネ:「………え。」 チェルシー:「アカネちゃんの名前を貰ったの。」 アカネ:「え…えぇぇ…。」 チェルシー:「味の方も最高だよ!アンタが甘いもの嫌いじゃなきゃね、試食第一号になってもらいたかったんだけど…。」 アカネ:「それは死んでもムリ。」 チェルシー:「あっはっはっは、わかってるよ!これはマスターとルリちゃんにあげとくれ。 チェルシー:…アンタにはこっち。」 アカネ:「…え?」 : アカネ:チェルシーさんはバスケットの反対側から、もう一つ別の何かを取り出した。大きな手の平の上には、狼の形をしたパイが乗っている。 : アカネ:「……これは?」 チェルシー:「ふふふ、『アカネパン』とダブル新作の、『ウルフパイ』だよ。」 アカネ:「……ウルフ、パイ?」 チェルシー:「中身はチーズたっぷりのミートソースさ。甘くないから安心をおし。」 : アカネ:こんがりと焼けたパイから漂う、スパイシーでジューシーな香ばしい香りが鼻先をくすぐる。 : チェルシー:「アカネパンを作っている時にね、ふとアンタの顔が浮かんできたのさ。アンタみたいに甘いものが苦手な人、きっとこの街にも沢山いるだろうって。」 アカネ:「……。」 チェルシー:「恥ずかしい話、あの後ね、あのー…例のでっかいパン屋にこっそり偵察に行ってみたんだ。」 アカネ:「えっ!?」 チェルシー:「引き合いに出すのも悔しいが、実際の所…甘いのからしょっぱいのまで数えきれないぐらいのパンが置いてあってねぇ、〝お好きなモノをご自由に″なぁんて、ご親切な張り紙まで貼ってあるんだからもう…。 チェルシー:それを見て、…なんだかね、吹っ切れたというのか。 チェルシー:こうなりゃアタシも変な意地なんかはってないで、お客さんに喜んでもらう事だけ考えようってね。栗だけじゃなく色んなモノを合わせてみようって、思ったんだ。」 アカネ:「そっか…。」 チェルシー:「……このウルフパイのヒントだって、アンタから貰ったんだよ?」 アカネ:「え…?僕?」 チェルシー:「アンタ、チーズのパンだけは毎回欠かさず買ってくだろう?昔っから飽きもせずに♪」 アカネ:「あ…。」 チェルシー:「ふふっ。だからさ、チーズを入れたら喜ぶんじゃないかと思ってね。」 アカネ:「……良く見てるね。」 チェルシー:「当たり前さ。アンタがこぉーんなちっちゃな時からずーっと見てきてるんだよ? チェルシー:悪いけどこっちは勝手に、アンタの親替わりだと思ってるんだ。」 アカネ:「…おや?」 チェルシー:「あぁ、そうさ。ふふっ、アタシだけじゃないよ。 チェルシー:向かいの道具屋のヴィンセント爺さんや、配達員のベイリーさんだろ。それに司書のマリアちゃんもそうだし、クリハラ先生と…あぁ、あのお堅いアナグマ署長も居たねぇ!」 アカネ:「………。」 チェルシー:「そして、勿論忘れちゃいけないアンタのお師匠さん!」 アカネ:「………センセー?」 チェルシー:「そうだよ。この街の連中はみぃーんなアンタやルリちゃんの事を我が子のように思ってるんだから。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「ふふふ、意外だって顔だね?」 アカネ:「…意外って言うか……。」 : アカネ:澱んだ記憶が僕の心に重くのしかかる。 : アカネ:「……僕に、そんな価値があるの?」 : アカネ:無意識にこぼれた僕の言葉で、その場の空気が凍りつくのを感じた。 : チェルシー:「………それは、一体どういう了見だい?」 アカネ:「っ、………。」 : アカネ:怒ったようなチェルシーさんの声に、ビクリと身体が跳ね言葉に詰まる。 : アカネ:「だって…。」 : アカネ:(M)だって、『本当の僕』を知ったら…きっとみんな、僕の事なんか好きになるはずが…ない。 アカネ:言いかけたその言葉を、苦々しく呑み込む。 : アカネ:「…………。」 : アカネ:ドクドクと鼓動が大きくなる。 アカネ:頭の中を何かが物凄い勢いで駆け回っている様で思考がまとまらない。 アカネ:まるで、歪などす黒い塊が喉の奥に張り付いているみたいだ…苦しい! : アカネ:(M)みんながもし、僕の罪を知ってしまったら……? : チェルシー:(見知らぬ女性)『もう…要らないわ。』 : アカネ:あの人の様に……、父さんと母さんみたいに、また…。 : アカネ:「僕は…」 チェルシー:「……。」 アカネ:「捨てられる。」 チェルシー:「っ!何だって!?!?」 : アカネ:チェルシーさんの声に、ハッと我に返る。 : アカネ:「あっ、いや…、あの……っ。」 チェルシー:「バカをお言いでないよ!誰がアンタを捨てるっていうのさ!?えぇ?」 アカネ:「………。」 チェルシー:「…もしかして、マスターがやると思ってんのかい? チェルシー:はっ、アホらしい。あの弟子バカがそんな事するもんかね…。アンタの病気を治す為に自分の足を犠牲にするような人だよ?」 アカネ:「…っ、それは………。」 チェルシー:「(溜息)昔、アカネちゃんが病気のせいでつらぁーい思いをしたことは、アタシも知ってる。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「マスターが初めてアンタを連れてきた時の事、今でもよぉーく覚えてるよ。 チェルシー:独り身のくせに突然やせ細った子供を抱えてウチにやって来たもんだから、当時はそりゃあ驚いたもんさ。」 : アカネ:チェルシーさんから何度も聞くその思い出話を、正直僕はあまり覚えていない。 アカネ:ただ、温かな部屋で夢の様に美味しいパンを食べた事だけが、はっきりと記憶に残っていた。 : チェルシー:(過去)『おやおや…そんなに美味しいかい?嬉しいねぇ…。まだまだ沢山あるから、焦らないでゆっくりお食べ。』 : アカネ:あの日、ふわふわのパンを喉に詰まらせながら聞いた優しいその声は、数年経った今でも変わらずそこにある。 アカネ:街の人達はいつだって優しく寄り添ってくれた。真綿の様な温かさに触れて。飢えていた小さな身体はすぐに、そして荒んだ心は長い時間をかけて少しずつ満たされていった。 : アカネ:…だけど、そんな毎日に幸せを感じると同時に僕は、いつも心の底で強く強く怯えていた。 アカネ:ずっと秘密にしてきた暗い過去がいつか明るみに出て、親に捨てられたあの日の様に、僕の意思とは関係の無い所で突然終わってしまうんじゃないか…と。 アカネ:だからっ、…嫌われたくない人が増えるたびに、真っ黒に染まってしまったそれを、心の奥深くに埋めて。必死に『本当の僕』を隠してきた。なのに…。 : 0:(激しい雨音) : アカネ:出来るなら、このまま一生話したくない。誰にも知られずに居れば、きっと…。 アカネ:そう心を支配する恐怖に震える、幼い僕の影。 : チェルシー:「アカネちゃん…。」 : アカネ:……でも、本当は気づいていた。 アカネ:その影の後ろにひっそりと… アカネ:(M)全てを打ち明けて、今すぐ楽になりたい!『本当の僕』も…受け入れて欲しい! アカネ:そんな風に思う気持ちが、いつの間にか生まれていた事を。 : チェルシー:「…………。」 アカネ:「っ、僕は……。」 チェルシー:「………(微笑んで息を吐く)」 アカネ:「………。」 チェルシー:(大きく手を叩く) アカネ:「!?……チェルシー、さん?」 チェルシー:「(明るく)ねぇ、アカネちゃん。今日はあの珈琲無いのかい?」 アカネ:「え…?」 チェルシー:「こないだアカネちゃんがご馳走してくれた『星降りコーヒー』だよ。作り置きでも構わないからさ!」 アカネ:「あ……ごめん、今日は作り置き、無いんだ…。」 チェルシー:「おや…、そうかい。まぁ、残念だけど、無いなら仕方ないね。」 アカネ:「………なんで?」 チェルシー:「そーれ。」 アカネ:「……ウルフ、パイ?」 チェルシー:「そ!それねぇ、きっとあの珈琲に良く合うよ♪」 アカネ:「…………。」 チェルシー:「(軽く微笑んで)まぁいいさ、次はマスターが居る時にって話だったもんね。」 アカネ:「あ、……。」 チェルシー:「ん?」 アカネ:「……ちょっと待ってて!」 チェルシー:「……あ、アカネちゃん?」 : アカネ:僕は徐にお湯を沸かし始めた。 : チェルシー:「アカネちゃん…アンタ…。」 : アカネ:目を丸くしているチェルシーさんの視線にまた居心地の悪さを感じながら、棚から小さな瓶を取り出し、コルクの蓋を開ける。 アカネ:(M)……いい匂い。 アカネ:今朝挽いたばかりの珈琲から漂う独特の香ばしい香りが、僕の緊張を少しだけ和らげてくれた。 : アカネ:空のカップに沸いたお湯を通し、残りを必要な分だけ計ってフラスコに入れ、アルコールランプの上にセットする。 アカネ:小さな気泡がゆっくりと大きくなり、やがてコポコポと弾ける音がし始めたら、一旦火から降ろし、粉を入れたロートを差し込んで、また火に戻す。 アカネ:じわりじわりとお湯がロートをのぼり、粉に滲み込んでいく。 : チェルシー:「おや……まぁ…。」 : アカネ:ヘラで注意深く、だけど手早くかき混ぜたら火を消して、もう一度良くかき混ぜる。 : アカネ:「(囁くように)……この時に、…ヘラを、しっかり動かして…。」 チェルシー:「…うん?何だって?」 アカネ:「あ、ううん。 アカネ:(咳払い)この時に、ヘラをしっかり動かして熱をちゃんと行き渡らせることで、ノースフェザー産の珈琲豆は成分が化学反応をおこして、こんな風にキラキラと光って見えるようになるんだ。」 チェルシー:「ふぅん…。…やっぱり何度見ても綺麗だねぇ。」 : アカネ:ポタリ、ポタリと、光の粒を孕んだ黒い液体が、砂時計のようにフラスコに溜まっていく。 アカネ:その落ちる雫を静かに見つめていると、頭の中で暴れまわっていた何かも次第に大人しくなってきた…ような気がした。 : チェルシー:「おや、どうやら落ちきったようだね。」 : アカネ:雫の出なくなったロートを外し、温めておいたカップに注ぐ。 アカネ:これで、『星降りコーヒー』の完成だ。 アカネ:二人分の珈琲と『ウルフパイ』をトレイにのせ、テーブルへと移動した。 : 0:(カップを置く音) : アカネ:「はい、お待たせ。」 チェルシー:「どれどれ……うーん、本当にいい香りだねぇ。淹れたてと作り置きでこんなに変わるのかい。」 アカネ:「言ったでしょ。」 チェルシー:「あぁ、そうだね。それに…キラキラと光って、まるで満天の星空を見ているみたいだ。」 アカネ:「(気取って)…どうぞ。当店自慢の『星降りコーヒー』です。」 チェルシー:「おやまぁ、気取っちゃって。(笑)」 アカネ:「センセーの真似。」 チェルシー:「あっはっはっはっは、上手じゃないか。…それじゃ、頂きます。」 アカネ:「うん。」 : アカネ:チェルシーさんは大きな手で品よくカップを持ち上げると、鼻からゆっくりと味わうように湯気を吸い込んだ。 : チェルシー:「んんー♪いい香りだ。」 : アカネ:満足げに頷いて、待ちきれないとばかりに一口、淹れたての珈琲を口に含む。 : チェルシー:「…………うん。美味しい。」 アカネ:「……良かった。」 チェルシー:「マスターに習ったのかい?」 アカネ:「まぁ……そうだね。」 チェルシー:「ふふふ、ありがとね。」 : アカネ:こっそり練習していたことは格好悪いから秘密にしていたのに、なぜだかチェルシーさんには全部お見通しだったみたいだ。 アカネ:照れくささを誤魔化すように、僕も続いてカップに口を付けた。 : チェルシー:「こないだはフルーティーな感じだったけど、淹れたてだと後味がすっきりとしていてすごく爽やかだねぇ。 チェルシー:言うなればー…見た目は夜空でも、味わいは…うん、まるで、雨上がりの青空の様だ。」 : アカネ:その言葉がくすぐったくて、僕はわざと素っ気ない態度をとる。 : アカネ:「…わーびっくり、チェルシーさん詩の才能あるんじゃない?」 チェルシー:「おや、そうかい?そんなに言うならちょっとやってみようかね?」 : 0:二人して笑う。 : アカネ:彼女が言った通り、淹れたての『星降りコーヒー』はさっぱりとした清涼感があって、澄み渡る青空を思わせるような爽快さが、沈んだ心をすっきりと晴れやかな気持ちにさせてくれた。 : アカネ:「(ためらいがちに)………チェルシーさん。」 チェルシー:「ん?」 アカネ:「……僕さ、昔…。」 : アカネ:珈琲に背中を押され、僕はゆっくりと口を開いた。 アカネ:懺悔の様な僕の話を、時々頷いたり辛そうに眉を寄せたりしながらも、チェルシーさんは黙って静かに聞いてくれた。 : アカネ:全て話し終わった頃、二人のカップはすっかり空になっていた。 : チェルシー:「そうかい…。そりゃあ、辛い思いをしたね…。」 アカネ:「…………。」 : アカネ:僕は黙って、空になった二つのカップに珈琲を注ぐ。 : チェルシー:「けどねぇ、誰だってそんなひもじい時に理性的になんて動けやしないさ。それが幼い子供なら尚更ね。」 アカネ:「…………。」 チェルシー:「それに。アタシが思うにさ、その女の人はアカネちゃんが出会う前からきっと、……そうする事を、決めていたんじゃないかと思うよ。 チェルシー:まぁ今となっては、何が真実かなんてわからないし、『その人の人生に何があったのか』なんてのは、アタシら他人にゃあ知る由もない。」 アカネ:「……そう、だね。」 チェルシー:「……でも。結局、そう決めたのはその人自身だろう?」 : チェルシー:「確かにね、物を盗む事自体は良いか悪いかで言えば、勿論良い事ではないよ?」 アカネ:「………うん。」 チェルシー:「だけど、物事には『やむを得ない事情』ってもんがあるんだ。 チェルシー:褒められない行為であった事には変わりないけれど、アンタはもう十分償ったさ。 チェルシー:だって思い返してごらんよ。いつだって家族や街の人達の為に一生懸命働いてるじゃないか。」 アカネ:「………。」 チェルシー:「(微笑む)そんな健気な可愛い子をねぇ、この街に住む連中は嫌いになんかなりゃしないよ。」 アカネ:「……ほんとに?」 チェルシー:「あぁ本当さ。……アンタはね、要らなくなんかない。アタシにもマスターにも、それに、ルリちゃんにとっても。もうかけがえのない存在なんだよ? チェルシー:…ほら、こっちにおいで。」 : アカネ:そう言ってチェルシーさんはためらう僕を優しく抱き寄せると、背中をトントンと優しく撫でてくれた。 アカネ:大きな手はとても温かく、すっかり乾いた服からはふわりとバターのいい香りがして。じんわりとした温もりが僕の心にも広がっていくようで。 アカネ:零れた一筋の涙が、彼女の肩口に小さな染みを残したことはこの先も僕だけの秘密だ。 : チェルシー:「あ、そうだ! チェルシー:ほらほら、お忘れでないかい?ウチの新作! チェルシー:折角アンタの為に焼いたんだ、今度こそ試食第一号になってくれるだろう?」 : アカネ:そう言って目の前に差し出されたオオカミの形のパイ。ツンと滲みる鼻の奥を、香ばしくて美味しそうな匂いがくすぐる。 : アカネ:「(鼻を啜って)……うん、食べるよ。いただきます。」 チェルシー:「あいよ。」 : アカネ:まだほんのりと温かい『ウルフパイ』にかぶり付いた。 アカネ:サクッとした食感に、じゅわりと滲み出る肉の旨味と、柔らかいチーズ。 アカネ:噛めば噛むほど、サクサクのパイ生地と濃厚なミートソース、それに少し淡白なチーズがねっとりと混ざり合って。…呑み込むのが惜しいくらい、美味しかった。 : アカネ:「……おいしい!」 チェルシー:「そうだろうそうだろう。なんたって、チェルシーおばさん特製の『ウルフパイ』だからね♪」 アカネ:「ふふっ……あ。あのさ、チェルシーさん。」 チェルシー:「ん?なんだい?」 アカネ:「…ちょっと言いにくいんだけど…。」 チェルシー:「うん?」 アカネ:「挽肉を使ったパイに『ウルフパイ』って、オオカミとして…ちょっと恐怖感じる。」 チェルシー:「…おや。そうかい?」 アカネ:「うん…。ここは普通にチーズミートパイとかでいいんじゃない?」 チェルシー:「うーん…だけどそれじゃあちっとばかし面白みに欠けやしないかい? チェルシー:まぁでもねぇ…言われてみれば確かに…。」 : アカネ:ああでもないこうでもないと悩みだしたチェルシーさんを横目に、僕は珈琲を飲む。 アカネ:(M)あ、ほんとだ。 アカネ:チェルシーさんの見立て通り、このオオカミの形をした濃厚なチーズミートパイに、すっきりとした『星降りコーヒー』は驚くほど良くマッチした。 : : : 0:数日後 : アカネ:五月も終わりに差し掛かったある日の昼下がり。 アカネ:センセーにお遣いを頼まれ、ルリと一緒に『ベイカリー・シャロン』へと向かった。 アカネ:客で溢れ返った店内を、二人で縫うように進む。 アカネ:あの一件後、早速売り出された栗のフィリングがたっぷりと入ったリスの『アカネパン』は、近所の奥さんや子供達から口コミが見る見る間に広がり、今では毎日飛ぶように売れているらしい。勿論、ウチのチビも大のお気に入りだ。 アカネ:だけど、一番人気は『オウル書店の星降りコーヒーによく合う、オオカミさんのチーズミートパイ』だそうで。 アカネ:どうやら最近ウチの客が増えた原因は、これのせいだったみたいだ。 : アカネ:店の奥でバタバタと忙しそうにしている大柄なクマの夫婦。黄色い花柄のエプロンを着けたその奥さんの表情には、もう何処にもあの日見た影は見当たらない。 アカネ:楽しそうに働く彼女は、僕達がレジの前に立つといつものように、 : チェルシー:「おまけだよ♪」 : アカネ:と言って、こっそりチーズパンとウサギの形のクリームパンもつけてくれた。 アカネ:彼女ほど、ウインクの似合うクマは居ないと思う。 : アカネ:さっさとレジを済ませ、賑やかにごった返した店を出た。 アカネ:外はまだ、ぽつぽつと小雨が降り続いている。 アカネ:だけど、もうすぐ上がるだろう。 アカネ:そして、暑い暑い夏がやってくる。 : 0:空を見上げるアカネ : アカネ:僕は、雨が嫌いだ。 アカネ:甘いの物も、まだ苦手だ。 アカネ:だけど、どちらも前ほど気にならなくなった。 アカネ:雲間から覗く水色の空。そこから差し込む輝く太陽の光が。 アカネ:まるで…優しくて、大らかで、全てを包み込む、温かいバターの香りのするお母さんの様だと、僕は思った。 : 0:(エンドコール) アカネ:オウル書店のとある一ページ。 チェルシー:五月の雨と悩めるオオカミ編。 : 0:(二人で微笑んで) : アカネ:「(同時に)おしまい。」 チェルシー:「(同時に)おしまい。」