台本概要

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タイトル 千歳の桜、春の君
作者名 akodon  (@akodon1)
ジャンル ラブストーリー
演者人数 2人用台本(男1、女1)
時間 50 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 幾年(いくとせ)の春を、君と。

春にであった二人の、恋のお話です。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
幸一 188 こういち。町医者。
千春 164 ちはる。成金の娘。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

文字サイズ
千春:「あの・・・すみません。ちょっとお願いがあるのですが」 幸一:麗らかな春の日。不意に空から降ってきたその声に驚いて、足を止めた。 幸一:見上げれば綻び始めた花の中、その姿はそこにあった。 千春:「ごめんなさい。うっかり梯子を倒してしまって・・・その、よろしければ・・・」 幸一:花と同じ淡い桜色に頬を染めて、僕を見つめる彼女は、 千春:「助けて、頂けませんか?」 幸一:とても美しいと、そう思った。 0:『千歳(ちとせ)の桜、春の君』 千春:「お医者様、ですか?」 幸一:「はい。本日よりお嬢様の治療をするよう、仰せつかりました。吾妻幸一(あづま・こういち)と申します」 千春:「・・・えっと」 幸一:「どうされました?」 千春:「その、先程は・・・」 幸一:「?」 千春:「・・・お恥ずかしいところをお見せしてしまい・・・申し訳ございませんでした」 幸一:「・・・ふふっ」 千春:「あの・・・」 幸一:「いや、失敬・・・。少し思い出してしまって」 千春:「何をです?」 幸一:「いえ、貴女が木から降りられず、困った顔で・・・ふふっ」 千春:「あ、あれは・・・!えっと、その・・・っ!」 幸一:「ふふっ・・・ははっ、はは、ははは・・・」 0: 幸一:彼女は、とある裕福なーーー所謂(いわゆる)、成金と呼ばれる家の娘だった。 幸一:身体が弱く、病気がちな娘の面倒を見てやってほしい。そう請われたのがきっかけで、僕と彼女は出会った。 0: 幸一:「・・・それにしても驚きました」 千春:「何がです?」 幸一:「旦那様からお嬢様はお身体があまり丈夫ではないと伺っておりましたが、まさか外で・・・しかも木の上でお会いするなんて思いもしなかったものですから」 千春:「今日はその・・・少し調子が良かったので、庭をお散歩しようと思って・・・」 幸一:「お散歩ですか・・・それは良い。適度に太陽の光に当たるのは、健康な身体を作るためにとても大切です。 幸一:かと言って無理をするのは良くない」 千春:「え?」 幸一:「お嬢様の細腕で、木登りをするのはとても危ないですよ。 幸一:陽の光は地に足をつけていても浴びることができます。ですから・・・」 千春:「鳥が・・・」 幸一:「・・・は?」 千春:「雛鳥が・・・巣から落ちてしまった雛鳥が、ぴぃぴぃと鳴いていたのです。 千春:私はそれを返そうとしただけで」 幸一:「・・・」 千春:「でも、慣れないことはするものじゃありませんね。 千春:結局、先生に恥ずかしいところをお見せしてしまいました。 千春:・・・次からは無理をせず、誰か人を呼んで・・・」 幸一:「・・・お優しいのですね」 千春:「え・・・?」 幸一:「いや、貴女はとてもお優しいのだな、と思いまして。 幸一:自分の身を省みず、誰かの為に行動するなど、身体が丈夫でもなかなかできることではありませんから」 千春:「そんなことは・・・ただ」 幸一:「ただ?」 千春:「・・・親から引き離される悲しみは、人も小鳥も変わらないだろうと、そう思っただけです」 幸一:「・・・」 千春:「・・・おかしな娘だと、思われましたか?」 幸一:「いいえ。とても素敵な方だと、そう思いました」 千春:「す、素敵だなんて、そんな・・・私は・・・」 幸一:「お世辞などではありません。自信を持ってください。 幸一:貴女は間違いなく素敵な女性ですよ」 千春:「あ、ありがとうございます・・・」 幸一:「ふふっ・・・あっ、そういえば、お嬢様」 千春:「・・・千春です」 幸一:「え?」 千春:「お嬢様、なんて呼ばれるほど、私は大層な人間ではありません。 千春:ですから、よろしければ千春と、そう呼んで頂けるとありがたいです」 幸一:「・・・千春、さん」 千春:「はい。なんでしょうか?」 幸一:「あ、いえ・・・今は貴女をお呼びしたのではなく・・・ええと・・・その・・・」 0: 幸一:「貴女のお名前を、口に出してみたくなった。それだけです」 千春:「・・・」 幸一:「・・・」 0:(二人、照れくささに堪えきれず吹き出し、笑い合う) 幸一:まるで、温かな陽だまりのようだと、そんなことを思った。 幸一:飾らず、驕らず(おごらず)、ただただ素直に紡がれる彼女の言葉はとても好ましいと、そう思った。 0: 幸一:「・・・そういえば、千春さんはお名前の通り、春のお生まれなのですか?」 千春:「え?」 幸一:「ああ、いえ、お名前に『春』という字がついていらっしゃるから、もしかしたら春の生まれなのかと思いまして。 幸一:・・・違いましたか?」 千春:「いいえ。ちょうど今時期です。 千春:十七年前、桜の花が美しく咲き誇る日に生まれたと聞いております」 幸一:「なるほど・・・どおりで」 千春:「何がです?」 幸一:「いや、初めてお会いした際のことを思い出しまして。 幸一:あの時、桜の花の中で佇む姿は、そうですね・・・なんと言うか、とても様になっていたな、と」 千春:「様になっていた、ですか?」 幸一:「ああ、少しおかしな言い方でしたかね。 幸一:様になっていた、ではなくて・・・ええと・・・」 千春:「というか、先生。またあの日の話を蒸し返すのね。 千春:恥ずかしいから忘れてください、と何度もお願いしているのに」 幸一:「いいじゃないですか。それだけ、あの出会いが印象に残っているのですよ」 千春:「もう・・・先生ったら・・・(軽く咳き込む)」 幸一:「千春さん、大丈夫ですか?」 千春:「すみません。今日は朝から咳が少し出てしまっていて・・・」 幸一:「少し喋りすぎましたね。 幸一:・・・さ、咳止めです。飲めますか?」 千春:「はい・・・」 幸一:「飲んだら横になりましょう。 幸一:ああ、その前に熱を測って・・・それから・・・」 千春:「・・・情けないですね」 幸一:「・・・え?」 千春:「ちょっとしたことですぐに体調を崩して、寝込んで、まともに生活することもままならない。 千春:そんな自分がなんだか情けなくて」 幸一:「・・・あまり己を責めないでください。 幸一:誰だって、好き好んで病にかかるわけではないのです。 幸一:思い詰めてはいけませんよ」 千春:「わかっています。でも、時々どうしても思ってしまうんです。 千春:私がもっと丈夫に生まれていたら、少しくらいは人の役に立てたかもしれないのに、って」 幸一:「千春さん・・・」 千春:「・・・千歳(ちとせ)の春を迎えられる、丈夫な子に育ってほしい」 幸一:「・・・え?」 千春:「私の名前。千春という名にはそんな意味を込めたのよ、と幼い頃に聞きました。 千春:千歳の春で、千春。母が付けてくれた大事な名前。でも、この名前を少し重荷に思う時もあるんです」 幸一:「重荷、ですか?」 千春:「・・・母は私と同じく、身体がとても弱かったそうです。 千春:私を産んだ時、かなり無理をして・・・それ以降、子どもを授かることができなくなりました」 幸一:「そう、だったんですか・・・」 千春:「はい。だから、父はそんな母を早くに見限って、外に何人もの愛人を作りました。 千春:跡継ぎを産めなくなった妻に、もう興味は無いとでも言うように」 幸一:「・・・」 千春:「本妻でありながら、家の片隅に追いやられ、母はさぞかしつらかったことと思います。 千春:けど、そんな姿を決して私には見せませんでした。いつも柔らかく微笑んで、私の頭を撫でて、抱きしめてくれた。本当に優しい・・・優しい人でした」 幸一:「・・・お母様は」 千春:「私が五つの時に亡くなりました。 千春:最期は追い出されるように実家に帰されて。そのまま・・・(咳き込む)」 幸一:「・・・千春さん、もうやめましょう。この話は・・・」 千春:「先生・・・私ね。小さい頃、お医者様に言われたんだそうです。 千春:この子はもしかしたら、二十歳を迎えるのは難しいかもしれない、って。 千春:千歳の春どころか、来年の春すら生きていられるかわからないんです、私」 幸一:「・・・っ」 千春:「・・・もう少し丈夫に生まれていれば、母の役に立てたかもしれないのに」 幸一:「・・・」 千春:「私がもう少し健康な身体で生まれていれば、母に寂しい思いをさせずに済んだのに。 千春:・・・いえ、違うわ。いっそ男に生まれてさえいれば母は・・・」 幸一:「・・・誰よりも幸せな人生を送ってほしい。だから幸一」 千春:「え・・・?」 幸一:「僕の名にはそんな意味を込めたんだと、両親から聞いたことがあります。 幸一:何かに特別秀でていなくても、優れていなくても構わない。 幸一:ただ、この世で一番幸せであってほしいと、両親は言っていました。 幸一:・・・なんともまぁ、大層な願いを込めてくれたものだと、その話を聞いた時は思わず笑ってしまいましたがね」 千春:「・・・」 幸一:「千春さん。きっと、貴女のお母様は貴女に重荷を背負わす為に、その名を付けたのではないと思いますよ」 千春:「・・・そう、でしょうか?」 幸一:「ええ、そうですとも。 幸一:ただ、愛しい我が子が丈夫に、健やかに人生を全うできるよう願っていたのだと、僕はそう思います」 千春:「・・・」 幸一:「・・・ああ、そういえば僕の両親はこうも言っていました。 幸一:生まれたばかりの可愛い我が子を目の前にして、あれこれ余計なことなんて考えられるわけないでしょう、とね」 千春:「・・・素敵なご両親ですね」 幸一:「まぁ、少々大雑把すぎるきらいはありますが」 千春:「いいえ、それも含めて素敵です。一度、お会いしてみたいくらい」 幸一:「では、会ってみますか?」 千春:「・・・良いのですか?」 幸一:「はい、是非とも。 幸一:千春さんのような素直で素敵な娘さんが遊びに来てくださったら、きっと二人とも大喜びすると思います 。 幸一:・・・ですが、その前に」 千春:「その前に?」 幸一:「まずはその風邪を治してしまいましょう。 幸一:薬を飲んで、ゆっくり休んで・・・元気になったら、すぐにでもご案内しますから」 千春:「嬉しいです。でも、いつになるかしら・・・」 幸一:「すぐですよ。病は気からと言います。 幸一:元気になれると信じていれば、あっという間に良くなるでしょう」 千春:「本当ですか?」 幸一:「ええ、それに僕もついています。ですから、心配ありません。 幸一:きっと・・・いや絶対に大丈夫です」 千春:「・・・それは心強いですね」 幸一:「ふふ、そうでしょう?」 千春:「まぁ、先生ったらそんなに自信満々に・・・うふふ、あはは・・・」 幸一:最初に交わしたのは、そんな何気ない約束だった。 幸一:彼女を励ますため。病に負けそうになる彼女を元気付けるための、何気ない口約束。 幸一:叶えられるかどうかわからない、そんな約束をしながら僕は密かに、 幸一:彼女の笑顔を。花が綻ぶようなその笑顔を曇らせたくないと、そう思っていた。 0:(少し間) 千春:「・・・先生はご趣味はおありですか?」 幸一:「趣味ですか?」 千春:「はい。そういえば伺ったことがないな、と思いまして」 幸一:「趣味ですか・・・うーん、そうですね。 幸一:改めて聞かれると、パッと思い浮かばないなぁ・・・」 千春:「そうなんですか?」 幸一:「ええ、学生時代は医者になる為、脇目も振らず、がむしゃらに勉強ばかりしてきましたから」 千春:「意外だわ。先生は何でもそつなくこなしそうなのに」 幸一:「それが案外そうでもなくて。 幸一:実は学校の成績は、あまり良くはなかったんですよ」 千春:「へぇ・・・」 幸一:「でも・・・そうですね。 幸一:幼い頃から本を読むことだけは好きでした。 幸一:父が読書家でね。部屋に積み上げてあった本をよく拝借したものです」 千春:「ちなみに何を?」 幸一:「何でも読みますよ。それこそ、純文学から流行りの大衆小説まで。 幸一:中でも推理小説が好きで、江戸川乱歩の影響で一時期は探偵を目指そうかとも思ったんですよ」 千春:「確か『怪人二十面相』でしたっけ? 千春:ふふっ、先生も小説の影響を受けてしまうような、可愛らしい時期があったんですね」 幸一:「おや、今でも諦めていませんよ。何しろ、乱歩に影響を与えた小説家の一人、コナン・ドイルは医師だったそうですし。 幸一:僕もいつか、探偵にはなれずとも推理小説家にはなれるかもしれません」 千春:「まぁ、でしたら、今のうちにサインを頂いておいた方がいいかしら?」 幸一:「いいですよ。もしかしたら何年か後に、箔(はく)がつくかもしれませんからね」 千春:「ふふっ、それは素敵だわ。 千春:その時まで私、待っていられると良いんだけど・・・」 幸一:「・・・そういえば、千春さんは本を読まれますか?」 千春:「あ、ええと、そうですね。 千春:本は好きなのですが、寝込んだり体調を崩したりすると、読み終わるまでにとても時間がかかってしまうので・・・最近はその・・・全く」 幸一:「なら、久々に読んでみませんか?」 千春:「えっ・・・?」 幸一:「本は良いですよ。人を知らない世界へ導いてくれます。 幸一:良い気晴らしになると思いますよ。もちろん、時間はいくらかけても構いませんから」 千春:「けど、私・・・最後まで読めるかどうか・・・」 幸一:「千春さん」 千春:「はい」 幸一:「言ったでしょう?病は気から、です。 幸一:気持ちで負けてしまっていては、できるものもできなくなってしまいますよ」 千春:「・・・確かにそう、ですね。やらないうちから諦めてはいけませんよね」 幸一:「ええ、その通りです」 千春:「・・・先生、よろしければお薦めの本を教えて頂けますか?」 幸一:「はい。もちろんですよ。うーん、そうですね。 幸一:でしたら、最初は短くて読みやすいものから・・・」 0: 幸一:花の盛りが終わり若草が萌える頃、彼女と二度目の約束をした。 幸一:往診の度、ゆっくりと頁をめくる彼女の姿を眺めるのが、僕の日課になった。 0:(少し間) 千春:「・・・はぁ・・・」 幸一:「いかがでしたか?」 千春:「不思議なお話でした。なんだか、とても美しい世界観で・・・」 幸一:「『夢十夜』。第一夜は確かに美しい雰囲気のお話ですからね」 千春:「はい。真珠貝に星の欠片(かけ)に白百合(しらゆり)の花・・・幻想的、とはまさにこの事かと思いました」 幸一:「他の話も面白いですよ。僕は第六夜の運慶(うんけい)の出てくる夢が好きで」 千春:「へぇ、どんなお話かしら。楽しみだわ。 千春:今日は調子も良いし、もう少し読みすすめてみようかしら」 幸一:「ええ、ぜひぜひ」 千春:「・・・でも、驚きました。夢の中とはいえ、百年もの時を過ごすなんて。 千春:考えただけでも気が遠くなってしまいそう」 幸一:「そうですね。文章にすればたった数行ですが、百年もただ待ち続けるのは容易なことではありません。 幸一:きっと、この男はそれだけこの女性を大切に思っていたのかもしれませんね」 千春:「大切に、ですか?」 幸一:「はい。ハッキリと書かれているわけではありませんが・・・この物語に出てくる二人は互いを想い合っていたのではないかと」 千春:「それは、つまり・・・」 幸一:「そうですね。恋人同士だった、と僕は思っていますよ」 千春:「恋人・・・」 幸一:「・・・千春さん?」 千春:「・・・ねぇ、先生。恋って一体、どういうものなのでしょうか?」 幸一:「え?」 千春:「私、恋をしたことがないんです。 千春:だって、こんな身体ですもの。 千春:誰かを好きになったところで、迷惑になるだけですから」 幸一:「迷惑だなんて・・・」 千春:「でも・・・でもね。最近こうして先生からお借りした本を読むようになって、少し考えるようになったんです。 千春:前向きに生きようとしていれば、いつか私も物語の主人公のように恋ができるかもしれない。 千春:誰かを愛し、誰かに愛してもらえる時が来るかもしれない。けど・・・」 幸一:「けど?」 千春:「・・・少し心配なんです。いざ、そうなった時、私どうすれば良いか全くわからなくて。 千春:お相手の方に、その・・・色々苦労をおかけするんじゃないかと、そう思って・・・」 幸一:「・・・ふふっ」 千春:「先生?」 幸一:「ああ、いや、すみません。 幸一:なんと言うか、可愛らしいな、と思ってしまって」 千春:「可愛らしい、ですか?」 幸一:「はい。勝手がわからず戸惑う千春さんを想像したら、なんだか微笑ましく思えて。 幸一:戸惑いつつもお相手の言葉や行動に一喜一憂する姿は、とても可愛らしいのでしょうね」 千春:「そ、そんなこと・・・」 幸一:「あとは・・・単純に嬉しくて」 千春:「嬉しい?」 幸一:「ええ、嬉しいんですよ。貴女が前を向いて何かを考えてくれたことが。 幸一:心配や不安を抱えつつも、それを乗り越えた先の話をしてくれることが、とても嬉しいんです」 千春:「・・・大袈裟だわ」 幸一:「いいじゃないですか。病は気から。夢見る力は前へ進むための力。 幸一:これでますます千春さんの体調が良くなれば、主治医としてこんなに喜ばしいことはありません」 千春:「先生・・・」 幸一:「・・・ああ、でも少し気がかりなこともありますね」 千春:「気がかり?」 幸一:「ええ、折角なら千春さんには素敵な恋をしてほしいんです。それこそ御伽噺に出てくる姫君のような」 千春:「姫君だなんて・・・私はお相手に自分を好いてもらえるだけでも十分なのに・・・」 幸一:「いいえ。そうはいきません。 幸一:大切な貴女をお任せするのであれば、それに見合う男性じゃないと。 幸一:優しくて、賢くて、頼りになって・・・えーと、それから・・・」 千春:「・・・だったら、先生が恋人になってくれれば良いのに」 幸一:「・・・え?」 千春:「あっ、ええと、その・・・見ず知らずの男性とお付き合いをするならば、先生の方が安心できるかなと思ったんです。 千春:優しいし、色んなことを教えてくださるし、どんな方かも知ってますし、それに毎日お会いできるから・・・」 幸一:「・・・いいですね」 千春:「え?」 幸一:「確かに、僕なら往診のついでに時間もとれる。 幸一:相手としてはもってこいかもしれない」 千春:「そ、それじゃあ・・・」 幸一:「ええ、僕でよろしければお付き合いしますよ。千春さんの、恋の練習に」 千春:「練習、ですか・・・?」 幸一:「はい、練習です。何事も経験が大事ですからね。 幸一:・・・と言っても、僕もそこまで経験があるわけじゃありませんが・・・頑張ってみましょう。 幸一:貴女にいざ想い人ができた時の為に」 千春:「(小さくため息をつく)・・・恋とは、儘(まま)ならぬものなのね」 幸一:「千春さん?」 千春:「・・・先生、ご迷惑でなければ、私に恋とは何か教えてくださいますか?」 幸一:「はい。それはもうもちろん。喜んで」 千春:「ありがとうございます・・・とても心強いわ」 幸一:「おや、そうですか?」 千春:「ええ、だって先生がお相手ですもの。きっと素敵な恋を教えてくださるんでしょう?」 幸一:「はは・・・期待に応えられるよう、努力しましょう」 千春:「ふふ、頼もしいわ」 幸一:そう言って、小さく笑う彼女と三度目の約束をした。 幸一:少し俯いた(うつむいた)その横顔が、微か(かすか)に曇っているように見えたのは、梅雨の終わりでぐずつく空のせいか、それとも。 幸一:どちらにせよ、その表情を晴らしたいと思った。 幸一:雲ひとつない青空のように、彼女の心を晴らしたいと、そう思った。 0:(少し間) 千春:「ねぇ、先生」 幸一:夏が、やってきた。 千春:「具体的に恋人とはどのようにしたら良いものでしょうか?」 幸一:木漏れ日がさらさらと差し込む部屋で、彼女は僕に問う。 千春:「難しいです。小説に出てくる恋人同士のように振る舞ればいいんですけど・・・私には少し勇気が足りなくて」 幸一:僅か(わずか)に血色の良くなった肌を、ほんのり紅く染めながら、 千春:「どうすれば、良いと思いますか?」 幸一:彼女は問う。白い頁をめくりながら、真っ直ぐに。 千春:「ねぇ・・・先生?」 幸一:その一つ一つを受け止めながら僕は。 幸一:このかりそめのひと時を、いつしか大切に思うようになっていった。 0:(少し間) 幸一:「祭り・・・ですか?」 千春:「はい。明後日、お山の上の浅間様(せんげんさま)で。ご存知ありませんでしたか?」 幸一:「いえ、一応何度か遊びに行ったことはあるので、頭にはあったんですが。 幸一:ああ・・・そういえば、近所でやたら提灯を見かけると思っていたんです。そうか、もうそんな時期でしたか」 千春:「ふふっ、先生ったら。ぱっと見ればすぐに分かりそうなものなのに」 幸一:「本当ですね。いやぁ、なんで気付かなかったんだろうか・・・。 幸一:子どもの頃はこの時期になると、指折り数えて楽しみにしてたはずなんですけどね。 幸一:大人になるとこういったことに、てんで無頓着になってしまって・・・ははは・・・」 千春:「・・・」 幸一:「どうしましたか?」 千春:「あ、いえ・・・その・・・先生はあまりお祭りが好きではないのかな、と思って」 幸一:「そんなことはありませんよ。好きです。祭りの喧騒も、軽快な出囃子(でばやし)の音も、打ち上がる花火を見上げるのも」 千春:「・・・でしたら・・・でしたら、その」 0: 千春:「私と一緒に、夏祭りに行きませんか・・・?」 0:(少し間) 幸一:からん、ころんと、下駄が鳴る。 幸一:一歩、一歩。ゆっくりとした彼女の歩調に合わせ、人波の中を進む。 幸一:転ばないように、と差し出した腕に寄り添う彼女の、その髪で。 幸一:玉の簪(かんざし)が灯火(ともしび)の淡い光の下(もと)、きらり、きらりと光る。 幸一:ああ、夏の夜はこんなにも熱を帯びていただろうか。 幸一:淡い地(じ)に染め抜かれた桜の花を揺らしながら、嬉しそうに微笑む彼女は、こんなにも美しかっただろうか。 幸一:ぼんやりと、そんなことを考えていた、その時だった。 千春:「先生、行ってみたい場所があるんです・・・付き合っていただいても良いですか?」 0:(少し間) 幸一:「大丈夫ですか?千春さん」 千春:「はい・・・大丈夫です」 幸一:息を切らす彼女の手を引いて、石段を登る。 幸一:何度も立ち止まりながら、そこを目指した。 千春:「すみません。時間がかかってしまって」 幸一:「いえ、お気になさらず。 幸一:それよりも、無理だと思ったらすぐに仰ってください」 千春:「ありがとうございます。でも、頑張りたいんです。 千春:自分の足で・・・辿り着きたいんです」 幸一:そう言って、彼女は登る。前を向いて、決して諦めることなく。 幸一:何度も転びそうになりながら、必死に進むその姿はまるでーーー 千春:「・・・すごい」 幸一:ようやくたどり着いたその場所で、彼女は呟いた。 幸一:自分が歩んできた長い道のりを見つめるその瞳に、階下の灯火が揺らめく。 千春:「・・・嘘みたいです。私が、こんなところまで」 幸一:そんな彼女の呟きと同時に、夜空に鮮やかな花が咲く。 幸一:何度も、何度も。散っては咲き、散っては咲いて、彼女を照らす。 千春:「先生、ありがとうございます。ここまで連れてきてくださって。 千春:こんな私に寄り添ってくださって」 幸一:彼女は、そっと僕の手をとった。 千春:「・・・先生が、好きです」 幸一:頬に光の粒を煌(きら)めかせながら、掻き消されそうな声で。けれど、はっきりと彼女は言った。 千春:「練習などではなく、本当に貴方が好きです・・・幸一さん」 幸一:何度も咲く花のように繰り返し、繰り返し。 千春:「・・・ご迷惑、でしょうか?」 幸一:真っ直ぐなその瞳に応えようと、その手を握り返した。 幸一:ほんの少し震えていたけれど、柔らかく温かな手だった。 0: 幸一:「千春さん、僕もーーー」 0: 幸一:その瞬間、一際大きく開いた花の下、僕の答えを聞いた彼女はーーー花より美しく笑った。 0:(少し間) 幸一:幸福な時だった。 幸一:彼女と共に過ごす日々は、相も変わらず穏やかで優しかった。 千春:「幸一さん、今日は調子が良かったので、初めて料理をしてみたんです。 千春:不格好ですが、食べて頂けますか?」 幸一:日に日に彼女は寝込むことが少なくなり、 千春:「先日、隣町まで買い物に出掛けたんです。 千春:お父様にねだったら、本を買ってくださったんですよ。一緒に読みましょう」 幸一:いつしか、どこにでもいる普通の少女のように、 千春:「幸一さん、ほら、見てください。庭の紅葉が色付き始めましたよ」 幸一:柔らかな表情を浮かべ、無邪気に笑うことが多くなっていった。 千春:「・・・ねぇ、幸一さん」 幸一:寄り添うように、温かな恋だった。 千春:「・・・幸一さん」 幸一:ずっとこのまま、この時間が続けばいい。 幸一:ーーーそう思っていた矢先のことだった。 0:(少し間) 幸一:「・・・はい。旦那様、お嬢様はご存知のとおり、最近はお加減もよく、体調を崩されることも滅多に無くなりました。 幸一:このままの状態が続けば、普通の生活を送ることも可能かと」 0: 幸一:「・・・はい・・・はい。いえ、そんな、僕は何も。 幸一:周囲の方々が献身的に尽くされた結果です。 幸一:ですから、旦那様。今後もどうかお嬢様のことを・・・」 0: 幸一:「・・・え?」 0:(少し間) 千春:「・・・幸一さん、遅いわね。どうしたのかしら、遅くともこの時間には来てくださるはずなのに・・・」 0: 千春:「急に患者さんでも来てしまったのかしら。 千春:それだったら仕方ないわよね・・・幸一さんは皆のお医者様なんだから」 0: 千春:「・・・電話、してみようかしら。もし、何かあったとしたら心配だし。 千春:それに、最近風邪も流行っているというし」 0: 千春:「・・・少しだけ。少しだけなら、きっとご迷惑にならないはず。 千春:お忙しそうならすぐに切れば良いんですもの。少しだけなら、きっとーーー」 0:(ノックの音) 千春:「はい」 幸一:「・・・こんにちは、千春さん」 千春:「幸一さん!」 幸一:「はは・・・どうしたんです。そんなに慌てて、何かありましたか?」 千春:「あ、いえ・・・その・・・幸一さんがいつもの時間にお見えにならないので、少し心配になってしまって・・・。 千春:今ちょうど、電話をかけてみようかと思っていたところだったんです」 幸一:「おや、そんなに心配してくださってたんですか? 幸一:・・・大丈夫ですよ。貴女のことは旦那様からくれぐれも、と頼まれていますから」 千春:「・・・なら良いんですけど。 千春:もし、何かあったらと心配になってしまって、つい・・・」 幸一:「大袈裟ですよ。 幸一:・・・僕は大丈夫です。何があろうと、頼まれた仕事はきっちりこなしますから」 千春:「でも・・・」 幸一:「(食い気味に)さぁ、遅くなってしまって申し訳ありませんでした。 幸一:千春さん、今日のお加減はいかがですか? 幸一:最近、寒くなって風邪が流行り始めていますが、体調など崩されていませんか?」 千春:「え、ええ・・・問題ありません」 幸一:「そうですか。熱は?食欲も問題なくありますか? 幸一:ああ、もし何か体調の変化があれば、遠慮なく仰って・・・」 千春:「(食い気味に)幸一さんっ」 幸一:「・・・どうしました?」 千春:「えっと・・・あの・・・やっぱり体調がお悪いのではないですか?」 幸一:「体調?大丈夫です、何ともありませんよ。 幸一:千春さんが心配するような事は、何も・・・」 千春:「でも・・・でも、それならどうして、そんなに苦しそうなお顔をしていらっしゃるんですか・・・?」 幸一:「いえ、そんなことは・・・」 千春:「嘘です。ずっと見てきたからわかります。 千春:今日の幸一さんはおかしい。口調も、表情も、何もかも」 幸一:「・・・」 千春:「何か・・・あったんですか?」 幸一:「何も・・・」 千春:「(食い気味に)何かーーーあったんですよね? 千春:そんな表情を浮かべてしまうほど、つらい何かが」 幸一:「はは・・・参ったなぁ。気付かれないようにしようと思ったんですが」 千春:「幸一さん・・・?」 幸一:「・・・千春さん、お伝えしなければいけないことがあります。聞いて、頂けますか?」 千春:「はい。・・・私でよろしければ」 幸一:「ありがとうございます。・・・そしてーーーすみません」 0: 幸一:「・・・お別れしましょう。千春さん」 0:(少し間) 幸一:ゆっくり、ゆっくりと、色を無くした並木道を行く。 幸一:重い足を、身体を引きずりながら、当て所(あてど)なく歩く。 幸一:これで良かったのかと自分に問いながら、 幸一:これで良かったのだと自分に言い聞かせながら。 幸一:一人、標(しるべ)を失った子どものように彷徨う。 幸一: 幸一:何冊も、何冊も、読み重ねてきた小説のように、本を閉じれば終わるものだと思っていた。 幸一:あの物語に登場する主人公のように、いざとなれば、なんて簡単に思っていた。 幸一:相手の幸せを願えば、端役(はやく)に徹する(てっする)ことも厭わない(いとわない)と、思っていたのに。 0: 幸一:「・・・恋とは、儘(まま)ならぬものだな・・・」 0: 幸一:彼女の結婚が決まった。 幸一:そう告げられたのは落ち葉舞う、秋の終わりのことだった。 0:(少し間) 幸一:「・・・はい。次の方、どうぞ。ああ、小林さん。 幸一:どうです?だいぶ体調は良くなりましたか?」 0: 幸一:「・・・そうですか。それは重畳(ちょうじょう)。 幸一:小林さんの顔が見れないと、寂しいって皆、口を揃えて言うんですよ。 幸一:・・・だからといって、無理はいけませんからね。まだ冬はこれからです。 幸一:また風邪でもひいたら大変ですから・・・」 0: 幸一:「ああ、あの家に、ですか?少し前までお嬢さんの診察をしに伺っていて・・・ 幸一:ええ、最近はとんとお邪魔してませんが・・・何か・・・」 0: 幸一:「ーーーえっ・・・?」 0:(少し間) 幸一:その部屋の扉を目の前にした時、今すぐに逃げ出したくなるような、そんな気持ちに襲われた。 幸一:何度も扉に手をかけては、その手を下ろし、下ろしては手をかけて、僕は息を吐く。 幸一:かつて、背を向けたそれを開けることに、こんなにも勇気がいるものだと思わなかった。 幸一:いつまでも動かない手を見つめながら、自分には資格がないのだと思った。 幸一:だから、いつまで経ってもこの扉を開けられないのだと、そう思った、その時だった。 千春:「・・・せんせ?」 幸一:掠れて、消え入りそうな声が聞こえた。 幸一:聞き覚えのある声だった。懐かしい声だった。夢にまで見た、彼女のーーー 幸一: 幸一:気付くと、扉は開いていた。 幸一:何度も、何度も通いつめた部屋。 幸一:窓辺に置かれた寝台(しんだい)に、その人は居た。 0: 幸一:「・・・千春さん」 0: 幸一:微かに瞼(まぶた)が震えた。 0: 幸一:「千春さん」 0: 幸一:潤んだ黒い瞳が、ゆっくりとこちらを見た。 千春:「・・・たくさん、待ちました」 幸一:「どれくらい?」 千春:「百年・・・いえ、千年くらい」 幸一:「長い間、待たせてしまいましたね」 千春:「いえ。長いようであっという間でした」 幸一:「・・・すみません」 千春:「どうして、謝るんですか?こうして会いに来てくれたのに」 幸一:「でも」 千春:「ねぇ、先生」 幸一:「はい」 千春:「私・・・夢を見たんです。春がきて、桜を見上げる夢」 幸一:「はい」 千春:「何度も、何度も、夢を見たんです。 千春:その次も、その次も、春を迎えて、桜を見る夢」 幸一:「はい」 千春:「その横に、貴方が居るんです。 千春:一緒に手を繋いで、同じように桜を見上げて、綺麗だね、って笑うんです」 幸一:「はい」 千春:「夢じゃ、ないですよね」 幸一:「・・・はい」 千春:「夢なんかじゃ、ないですよね」 幸一:「・・・千春さん」 千春:「なんですか?」 幸一:「夢じゃ、ありませんよ。 幸一:夢じゃありません。 幸一:僕は、確かにここに居ますから」 千春:「・・・じゃあ、確かめさせてください」 幸一:「どうやって?」 千春:「そんなの簡単ですよ。・・・ほら(手を差し出す)」 幸一:「(手を握る)・・・ああ・・・なるほど、こんなにも温かい」 千春:「・・・ねぇ、先生。今度は離さないでくださいね。 千春:何があっても、絶対に」 幸一:「ええ、今度はずっと傍に居ます。 幸一:貴女と千歳(ちとせ)の春を迎える、その日まで」 千春:「ふふ・・・約束ですよ」 幸一:「はい。約束します。・・・だから、千春さん」 0: 幸一:「どうか、僕とーーー」 0:(少し間) 幸一:約束をしたあの時から、幾年(いくとせ)の日々を過ごしただろうか。 幸一:当たり前のように季節は巡り、今年もまた花は咲いた。 幸一:美しく咲き誇ったそれを見上げる度、僕はいつも探してしまう。 幸一:頬を染め、花の中から僕を見つめる、彼女の姿を。 幸一: 幸一:そんな僕の手を、誰かがひいた。 幸一:そこには、彼女と同じ色に頬を染めた、小さな少女が立っていて、 幸一:彼女によく似たその真っ直ぐな瞳で、僕を見つめていて、 幸一:そんな僕たちの姿を見守りながら、 幸一:今度は花の下(もと)、僕の手をとり、彼女は優しく笑って、こう言うのだ。 千春:「・・・ねぇ、幸一さん。春が今年もやってきましたよ」 幸一:「ああーーー本当だ」 0:〜了〜

千春:「あの・・・すみません。ちょっとお願いがあるのですが」 幸一:麗らかな春の日。不意に空から降ってきたその声に驚いて、足を止めた。 幸一:見上げれば綻び始めた花の中、その姿はそこにあった。 千春:「ごめんなさい。うっかり梯子を倒してしまって・・・その、よろしければ・・・」 幸一:花と同じ淡い桜色に頬を染めて、僕を見つめる彼女は、 千春:「助けて、頂けませんか?」 幸一:とても美しいと、そう思った。 0:『千歳(ちとせ)の桜、春の君』 千春:「お医者様、ですか?」 幸一:「はい。本日よりお嬢様の治療をするよう、仰せつかりました。吾妻幸一(あづま・こういち)と申します」 千春:「・・・えっと」 幸一:「どうされました?」 千春:「その、先程は・・・」 幸一:「?」 千春:「・・・お恥ずかしいところをお見せしてしまい・・・申し訳ございませんでした」 幸一:「・・・ふふっ」 千春:「あの・・・」 幸一:「いや、失敬・・・。少し思い出してしまって」 千春:「何をです?」 幸一:「いえ、貴女が木から降りられず、困った顔で・・・ふふっ」 千春:「あ、あれは・・・!えっと、その・・・っ!」 幸一:「ふふっ・・・ははっ、はは、ははは・・・」 0: 幸一:彼女は、とある裕福なーーー所謂(いわゆる)、成金と呼ばれる家の娘だった。 幸一:身体が弱く、病気がちな娘の面倒を見てやってほしい。そう請われたのがきっかけで、僕と彼女は出会った。 0: 幸一:「・・・それにしても驚きました」 千春:「何がです?」 幸一:「旦那様からお嬢様はお身体があまり丈夫ではないと伺っておりましたが、まさか外で・・・しかも木の上でお会いするなんて思いもしなかったものですから」 千春:「今日はその・・・少し調子が良かったので、庭をお散歩しようと思って・・・」 幸一:「お散歩ですか・・・それは良い。適度に太陽の光に当たるのは、健康な身体を作るためにとても大切です。 幸一:かと言って無理をするのは良くない」 千春:「え?」 幸一:「お嬢様の細腕で、木登りをするのはとても危ないですよ。 幸一:陽の光は地に足をつけていても浴びることができます。ですから・・・」 千春:「鳥が・・・」 幸一:「・・・は?」 千春:「雛鳥が・・・巣から落ちてしまった雛鳥が、ぴぃぴぃと鳴いていたのです。 千春:私はそれを返そうとしただけで」 幸一:「・・・」 千春:「でも、慣れないことはするものじゃありませんね。 千春:結局、先生に恥ずかしいところをお見せしてしまいました。 千春:・・・次からは無理をせず、誰か人を呼んで・・・」 幸一:「・・・お優しいのですね」 千春:「え・・・?」 幸一:「いや、貴女はとてもお優しいのだな、と思いまして。 幸一:自分の身を省みず、誰かの為に行動するなど、身体が丈夫でもなかなかできることではありませんから」 千春:「そんなことは・・・ただ」 幸一:「ただ?」 千春:「・・・親から引き離される悲しみは、人も小鳥も変わらないだろうと、そう思っただけです」 幸一:「・・・」 千春:「・・・おかしな娘だと、思われましたか?」 幸一:「いいえ。とても素敵な方だと、そう思いました」 千春:「す、素敵だなんて、そんな・・・私は・・・」 幸一:「お世辞などではありません。自信を持ってください。 幸一:貴女は間違いなく素敵な女性ですよ」 千春:「あ、ありがとうございます・・・」 幸一:「ふふっ・・・あっ、そういえば、お嬢様」 千春:「・・・千春です」 幸一:「え?」 千春:「お嬢様、なんて呼ばれるほど、私は大層な人間ではありません。 千春:ですから、よろしければ千春と、そう呼んで頂けるとありがたいです」 幸一:「・・・千春、さん」 千春:「はい。なんでしょうか?」 幸一:「あ、いえ・・・今は貴女をお呼びしたのではなく・・・ええと・・・その・・・」 0: 幸一:「貴女のお名前を、口に出してみたくなった。それだけです」 千春:「・・・」 幸一:「・・・」 0:(二人、照れくささに堪えきれず吹き出し、笑い合う) 幸一:まるで、温かな陽だまりのようだと、そんなことを思った。 幸一:飾らず、驕らず(おごらず)、ただただ素直に紡がれる彼女の言葉はとても好ましいと、そう思った。 0: 幸一:「・・・そういえば、千春さんはお名前の通り、春のお生まれなのですか?」 千春:「え?」 幸一:「ああ、いえ、お名前に『春』という字がついていらっしゃるから、もしかしたら春の生まれなのかと思いまして。 幸一:・・・違いましたか?」 千春:「いいえ。ちょうど今時期です。 千春:十七年前、桜の花が美しく咲き誇る日に生まれたと聞いております」 幸一:「なるほど・・・どおりで」 千春:「何がです?」 幸一:「いや、初めてお会いした際のことを思い出しまして。 幸一:あの時、桜の花の中で佇む姿は、そうですね・・・なんと言うか、とても様になっていたな、と」 千春:「様になっていた、ですか?」 幸一:「ああ、少しおかしな言い方でしたかね。 幸一:様になっていた、ではなくて・・・ええと・・・」 千春:「というか、先生。またあの日の話を蒸し返すのね。 千春:恥ずかしいから忘れてください、と何度もお願いしているのに」 幸一:「いいじゃないですか。それだけ、あの出会いが印象に残っているのですよ」 千春:「もう・・・先生ったら・・・(軽く咳き込む)」 幸一:「千春さん、大丈夫ですか?」 千春:「すみません。今日は朝から咳が少し出てしまっていて・・・」 幸一:「少し喋りすぎましたね。 幸一:・・・さ、咳止めです。飲めますか?」 千春:「はい・・・」 幸一:「飲んだら横になりましょう。 幸一:ああ、その前に熱を測って・・・それから・・・」 千春:「・・・情けないですね」 幸一:「・・・え?」 千春:「ちょっとしたことですぐに体調を崩して、寝込んで、まともに生活することもままならない。 千春:そんな自分がなんだか情けなくて」 幸一:「・・・あまり己を責めないでください。 幸一:誰だって、好き好んで病にかかるわけではないのです。 幸一:思い詰めてはいけませんよ」 千春:「わかっています。でも、時々どうしても思ってしまうんです。 千春:私がもっと丈夫に生まれていたら、少しくらいは人の役に立てたかもしれないのに、って」 幸一:「千春さん・・・」 千春:「・・・千歳(ちとせ)の春を迎えられる、丈夫な子に育ってほしい」 幸一:「・・・え?」 千春:「私の名前。千春という名にはそんな意味を込めたのよ、と幼い頃に聞きました。 千春:千歳の春で、千春。母が付けてくれた大事な名前。でも、この名前を少し重荷に思う時もあるんです」 幸一:「重荷、ですか?」 千春:「・・・母は私と同じく、身体がとても弱かったそうです。 千春:私を産んだ時、かなり無理をして・・・それ以降、子どもを授かることができなくなりました」 幸一:「そう、だったんですか・・・」 千春:「はい。だから、父はそんな母を早くに見限って、外に何人もの愛人を作りました。 千春:跡継ぎを産めなくなった妻に、もう興味は無いとでも言うように」 幸一:「・・・」 千春:「本妻でありながら、家の片隅に追いやられ、母はさぞかしつらかったことと思います。 千春:けど、そんな姿を決して私には見せませんでした。いつも柔らかく微笑んで、私の頭を撫でて、抱きしめてくれた。本当に優しい・・・優しい人でした」 幸一:「・・・お母様は」 千春:「私が五つの時に亡くなりました。 千春:最期は追い出されるように実家に帰されて。そのまま・・・(咳き込む)」 幸一:「・・・千春さん、もうやめましょう。この話は・・・」 千春:「先生・・・私ね。小さい頃、お医者様に言われたんだそうです。 千春:この子はもしかしたら、二十歳を迎えるのは難しいかもしれない、って。 千春:千歳の春どころか、来年の春すら生きていられるかわからないんです、私」 幸一:「・・・っ」 千春:「・・・もう少し丈夫に生まれていれば、母の役に立てたかもしれないのに」 幸一:「・・・」 千春:「私がもう少し健康な身体で生まれていれば、母に寂しい思いをさせずに済んだのに。 千春:・・・いえ、違うわ。いっそ男に生まれてさえいれば母は・・・」 幸一:「・・・誰よりも幸せな人生を送ってほしい。だから幸一」 千春:「え・・・?」 幸一:「僕の名にはそんな意味を込めたんだと、両親から聞いたことがあります。 幸一:何かに特別秀でていなくても、優れていなくても構わない。 幸一:ただ、この世で一番幸せであってほしいと、両親は言っていました。 幸一:・・・なんともまぁ、大層な願いを込めてくれたものだと、その話を聞いた時は思わず笑ってしまいましたがね」 千春:「・・・」 幸一:「千春さん。きっと、貴女のお母様は貴女に重荷を背負わす為に、その名を付けたのではないと思いますよ」 千春:「・・・そう、でしょうか?」 幸一:「ええ、そうですとも。 幸一:ただ、愛しい我が子が丈夫に、健やかに人生を全うできるよう願っていたのだと、僕はそう思います」 千春:「・・・」 幸一:「・・・ああ、そういえば僕の両親はこうも言っていました。 幸一:生まれたばかりの可愛い我が子を目の前にして、あれこれ余計なことなんて考えられるわけないでしょう、とね」 千春:「・・・素敵なご両親ですね」 幸一:「まぁ、少々大雑把すぎるきらいはありますが」 千春:「いいえ、それも含めて素敵です。一度、お会いしてみたいくらい」 幸一:「では、会ってみますか?」 千春:「・・・良いのですか?」 幸一:「はい、是非とも。 幸一:千春さんのような素直で素敵な娘さんが遊びに来てくださったら、きっと二人とも大喜びすると思います 。 幸一:・・・ですが、その前に」 千春:「その前に?」 幸一:「まずはその風邪を治してしまいましょう。 幸一:薬を飲んで、ゆっくり休んで・・・元気になったら、すぐにでもご案内しますから」 千春:「嬉しいです。でも、いつになるかしら・・・」 幸一:「すぐですよ。病は気からと言います。 幸一:元気になれると信じていれば、あっという間に良くなるでしょう」 千春:「本当ですか?」 幸一:「ええ、それに僕もついています。ですから、心配ありません。 幸一:きっと・・・いや絶対に大丈夫です」 千春:「・・・それは心強いですね」 幸一:「ふふ、そうでしょう?」 千春:「まぁ、先生ったらそんなに自信満々に・・・うふふ、あはは・・・」 幸一:最初に交わしたのは、そんな何気ない約束だった。 幸一:彼女を励ますため。病に負けそうになる彼女を元気付けるための、何気ない口約束。 幸一:叶えられるかどうかわからない、そんな約束をしながら僕は密かに、 幸一:彼女の笑顔を。花が綻ぶようなその笑顔を曇らせたくないと、そう思っていた。 0:(少し間) 千春:「・・・先生はご趣味はおありですか?」 幸一:「趣味ですか?」 千春:「はい。そういえば伺ったことがないな、と思いまして」 幸一:「趣味ですか・・・うーん、そうですね。 幸一:改めて聞かれると、パッと思い浮かばないなぁ・・・」 千春:「そうなんですか?」 幸一:「ええ、学生時代は医者になる為、脇目も振らず、がむしゃらに勉強ばかりしてきましたから」 千春:「意外だわ。先生は何でもそつなくこなしそうなのに」 幸一:「それが案外そうでもなくて。 幸一:実は学校の成績は、あまり良くはなかったんですよ」 千春:「へぇ・・・」 幸一:「でも・・・そうですね。 幸一:幼い頃から本を読むことだけは好きでした。 幸一:父が読書家でね。部屋に積み上げてあった本をよく拝借したものです」 千春:「ちなみに何を?」 幸一:「何でも読みますよ。それこそ、純文学から流行りの大衆小説まで。 幸一:中でも推理小説が好きで、江戸川乱歩の影響で一時期は探偵を目指そうかとも思ったんですよ」 千春:「確か『怪人二十面相』でしたっけ? 千春:ふふっ、先生も小説の影響を受けてしまうような、可愛らしい時期があったんですね」 幸一:「おや、今でも諦めていませんよ。何しろ、乱歩に影響を与えた小説家の一人、コナン・ドイルは医師だったそうですし。 幸一:僕もいつか、探偵にはなれずとも推理小説家にはなれるかもしれません」 千春:「まぁ、でしたら、今のうちにサインを頂いておいた方がいいかしら?」 幸一:「いいですよ。もしかしたら何年か後に、箔(はく)がつくかもしれませんからね」 千春:「ふふっ、それは素敵だわ。 千春:その時まで私、待っていられると良いんだけど・・・」 幸一:「・・・そういえば、千春さんは本を読まれますか?」 千春:「あ、ええと、そうですね。 千春:本は好きなのですが、寝込んだり体調を崩したりすると、読み終わるまでにとても時間がかかってしまうので・・・最近はその・・・全く」 幸一:「なら、久々に読んでみませんか?」 千春:「えっ・・・?」 幸一:「本は良いですよ。人を知らない世界へ導いてくれます。 幸一:良い気晴らしになると思いますよ。もちろん、時間はいくらかけても構いませんから」 千春:「けど、私・・・最後まで読めるかどうか・・・」 幸一:「千春さん」 千春:「はい」 幸一:「言ったでしょう?病は気から、です。 幸一:気持ちで負けてしまっていては、できるものもできなくなってしまいますよ」 千春:「・・・確かにそう、ですね。やらないうちから諦めてはいけませんよね」 幸一:「ええ、その通りです」 千春:「・・・先生、よろしければお薦めの本を教えて頂けますか?」 幸一:「はい。もちろんですよ。うーん、そうですね。 幸一:でしたら、最初は短くて読みやすいものから・・・」 0: 幸一:花の盛りが終わり若草が萌える頃、彼女と二度目の約束をした。 幸一:往診の度、ゆっくりと頁をめくる彼女の姿を眺めるのが、僕の日課になった。 0:(少し間) 千春:「・・・はぁ・・・」 幸一:「いかがでしたか?」 千春:「不思議なお話でした。なんだか、とても美しい世界観で・・・」 幸一:「『夢十夜』。第一夜は確かに美しい雰囲気のお話ですからね」 千春:「はい。真珠貝に星の欠片(かけ)に白百合(しらゆり)の花・・・幻想的、とはまさにこの事かと思いました」 幸一:「他の話も面白いですよ。僕は第六夜の運慶(うんけい)の出てくる夢が好きで」 千春:「へぇ、どんなお話かしら。楽しみだわ。 千春:今日は調子も良いし、もう少し読みすすめてみようかしら」 幸一:「ええ、ぜひぜひ」 千春:「・・・でも、驚きました。夢の中とはいえ、百年もの時を過ごすなんて。 千春:考えただけでも気が遠くなってしまいそう」 幸一:「そうですね。文章にすればたった数行ですが、百年もただ待ち続けるのは容易なことではありません。 幸一:きっと、この男はそれだけこの女性を大切に思っていたのかもしれませんね」 千春:「大切に、ですか?」 幸一:「はい。ハッキリと書かれているわけではありませんが・・・この物語に出てくる二人は互いを想い合っていたのではないかと」 千春:「それは、つまり・・・」 幸一:「そうですね。恋人同士だった、と僕は思っていますよ」 千春:「恋人・・・」 幸一:「・・・千春さん?」 千春:「・・・ねぇ、先生。恋って一体、どういうものなのでしょうか?」 幸一:「え?」 千春:「私、恋をしたことがないんです。 千春:だって、こんな身体ですもの。 千春:誰かを好きになったところで、迷惑になるだけですから」 幸一:「迷惑だなんて・・・」 千春:「でも・・・でもね。最近こうして先生からお借りした本を読むようになって、少し考えるようになったんです。 千春:前向きに生きようとしていれば、いつか私も物語の主人公のように恋ができるかもしれない。 千春:誰かを愛し、誰かに愛してもらえる時が来るかもしれない。けど・・・」 幸一:「けど?」 千春:「・・・少し心配なんです。いざ、そうなった時、私どうすれば良いか全くわからなくて。 千春:お相手の方に、その・・・色々苦労をおかけするんじゃないかと、そう思って・・・」 幸一:「・・・ふふっ」 千春:「先生?」 幸一:「ああ、いや、すみません。 幸一:なんと言うか、可愛らしいな、と思ってしまって」 千春:「可愛らしい、ですか?」 幸一:「はい。勝手がわからず戸惑う千春さんを想像したら、なんだか微笑ましく思えて。 幸一:戸惑いつつもお相手の言葉や行動に一喜一憂する姿は、とても可愛らしいのでしょうね」 千春:「そ、そんなこと・・・」 幸一:「あとは・・・単純に嬉しくて」 千春:「嬉しい?」 幸一:「ええ、嬉しいんですよ。貴女が前を向いて何かを考えてくれたことが。 幸一:心配や不安を抱えつつも、それを乗り越えた先の話をしてくれることが、とても嬉しいんです」 千春:「・・・大袈裟だわ」 幸一:「いいじゃないですか。病は気から。夢見る力は前へ進むための力。 幸一:これでますます千春さんの体調が良くなれば、主治医としてこんなに喜ばしいことはありません」 千春:「先生・・・」 幸一:「・・・ああ、でも少し気がかりなこともありますね」 千春:「気がかり?」 幸一:「ええ、折角なら千春さんには素敵な恋をしてほしいんです。それこそ御伽噺に出てくる姫君のような」 千春:「姫君だなんて・・・私はお相手に自分を好いてもらえるだけでも十分なのに・・・」 幸一:「いいえ。そうはいきません。 幸一:大切な貴女をお任せするのであれば、それに見合う男性じゃないと。 幸一:優しくて、賢くて、頼りになって・・・えーと、それから・・・」 千春:「・・・だったら、先生が恋人になってくれれば良いのに」 幸一:「・・・え?」 千春:「あっ、ええと、その・・・見ず知らずの男性とお付き合いをするならば、先生の方が安心できるかなと思ったんです。 千春:優しいし、色んなことを教えてくださるし、どんな方かも知ってますし、それに毎日お会いできるから・・・」 幸一:「・・・いいですね」 千春:「え?」 幸一:「確かに、僕なら往診のついでに時間もとれる。 幸一:相手としてはもってこいかもしれない」 千春:「そ、それじゃあ・・・」 幸一:「ええ、僕でよろしければお付き合いしますよ。千春さんの、恋の練習に」 千春:「練習、ですか・・・?」 幸一:「はい、練習です。何事も経験が大事ですからね。 幸一:・・・と言っても、僕もそこまで経験があるわけじゃありませんが・・・頑張ってみましょう。 幸一:貴女にいざ想い人ができた時の為に」 千春:「(小さくため息をつく)・・・恋とは、儘(まま)ならぬものなのね」 幸一:「千春さん?」 千春:「・・・先生、ご迷惑でなければ、私に恋とは何か教えてくださいますか?」 幸一:「はい。それはもうもちろん。喜んで」 千春:「ありがとうございます・・・とても心強いわ」 幸一:「おや、そうですか?」 千春:「ええ、だって先生がお相手ですもの。きっと素敵な恋を教えてくださるんでしょう?」 幸一:「はは・・・期待に応えられるよう、努力しましょう」 千春:「ふふ、頼もしいわ」 幸一:そう言って、小さく笑う彼女と三度目の約束をした。 幸一:少し俯いた(うつむいた)その横顔が、微か(かすか)に曇っているように見えたのは、梅雨の終わりでぐずつく空のせいか、それとも。 幸一:どちらにせよ、その表情を晴らしたいと思った。 幸一:雲ひとつない青空のように、彼女の心を晴らしたいと、そう思った。 0:(少し間) 千春:「ねぇ、先生」 幸一:夏が、やってきた。 千春:「具体的に恋人とはどのようにしたら良いものでしょうか?」 幸一:木漏れ日がさらさらと差し込む部屋で、彼女は僕に問う。 千春:「難しいです。小説に出てくる恋人同士のように振る舞ればいいんですけど・・・私には少し勇気が足りなくて」 幸一:僅か(わずか)に血色の良くなった肌を、ほんのり紅く染めながら、 千春:「どうすれば、良いと思いますか?」 幸一:彼女は問う。白い頁をめくりながら、真っ直ぐに。 千春:「ねぇ・・・先生?」 幸一:その一つ一つを受け止めながら僕は。 幸一:このかりそめのひと時を、いつしか大切に思うようになっていった。 0:(少し間) 幸一:「祭り・・・ですか?」 千春:「はい。明後日、お山の上の浅間様(せんげんさま)で。ご存知ありませんでしたか?」 幸一:「いえ、一応何度か遊びに行ったことはあるので、頭にはあったんですが。 幸一:ああ・・・そういえば、近所でやたら提灯を見かけると思っていたんです。そうか、もうそんな時期でしたか」 千春:「ふふっ、先生ったら。ぱっと見ればすぐに分かりそうなものなのに」 幸一:「本当ですね。いやぁ、なんで気付かなかったんだろうか・・・。 幸一:子どもの頃はこの時期になると、指折り数えて楽しみにしてたはずなんですけどね。 幸一:大人になるとこういったことに、てんで無頓着になってしまって・・・ははは・・・」 千春:「・・・」 幸一:「どうしましたか?」 千春:「あ、いえ・・・その・・・先生はあまりお祭りが好きではないのかな、と思って」 幸一:「そんなことはありませんよ。好きです。祭りの喧騒も、軽快な出囃子(でばやし)の音も、打ち上がる花火を見上げるのも」 千春:「・・・でしたら・・・でしたら、その」 0: 千春:「私と一緒に、夏祭りに行きませんか・・・?」 0:(少し間) 幸一:からん、ころんと、下駄が鳴る。 幸一:一歩、一歩。ゆっくりとした彼女の歩調に合わせ、人波の中を進む。 幸一:転ばないように、と差し出した腕に寄り添う彼女の、その髪で。 幸一:玉の簪(かんざし)が灯火(ともしび)の淡い光の下(もと)、きらり、きらりと光る。 幸一:ああ、夏の夜はこんなにも熱を帯びていただろうか。 幸一:淡い地(じ)に染め抜かれた桜の花を揺らしながら、嬉しそうに微笑む彼女は、こんなにも美しかっただろうか。 幸一:ぼんやりと、そんなことを考えていた、その時だった。 千春:「先生、行ってみたい場所があるんです・・・付き合っていただいても良いですか?」 0:(少し間) 幸一:「大丈夫ですか?千春さん」 千春:「はい・・・大丈夫です」 幸一:息を切らす彼女の手を引いて、石段を登る。 幸一:何度も立ち止まりながら、そこを目指した。 千春:「すみません。時間がかかってしまって」 幸一:「いえ、お気になさらず。 幸一:それよりも、無理だと思ったらすぐに仰ってください」 千春:「ありがとうございます。でも、頑張りたいんです。 千春:自分の足で・・・辿り着きたいんです」 幸一:そう言って、彼女は登る。前を向いて、決して諦めることなく。 幸一:何度も転びそうになりながら、必死に進むその姿はまるでーーー 千春:「・・・すごい」 幸一:ようやくたどり着いたその場所で、彼女は呟いた。 幸一:自分が歩んできた長い道のりを見つめるその瞳に、階下の灯火が揺らめく。 千春:「・・・嘘みたいです。私が、こんなところまで」 幸一:そんな彼女の呟きと同時に、夜空に鮮やかな花が咲く。 幸一:何度も、何度も。散っては咲き、散っては咲いて、彼女を照らす。 千春:「先生、ありがとうございます。ここまで連れてきてくださって。 千春:こんな私に寄り添ってくださって」 幸一:彼女は、そっと僕の手をとった。 千春:「・・・先生が、好きです」 幸一:頬に光の粒を煌(きら)めかせながら、掻き消されそうな声で。けれど、はっきりと彼女は言った。 千春:「練習などではなく、本当に貴方が好きです・・・幸一さん」 幸一:何度も咲く花のように繰り返し、繰り返し。 千春:「・・・ご迷惑、でしょうか?」 幸一:真っ直ぐなその瞳に応えようと、その手を握り返した。 幸一:ほんの少し震えていたけれど、柔らかく温かな手だった。 0: 幸一:「千春さん、僕もーーー」 0: 幸一:その瞬間、一際大きく開いた花の下、僕の答えを聞いた彼女はーーー花より美しく笑った。 0:(少し間) 幸一:幸福な時だった。 幸一:彼女と共に過ごす日々は、相も変わらず穏やかで優しかった。 千春:「幸一さん、今日は調子が良かったので、初めて料理をしてみたんです。 千春:不格好ですが、食べて頂けますか?」 幸一:日に日に彼女は寝込むことが少なくなり、 千春:「先日、隣町まで買い物に出掛けたんです。 千春:お父様にねだったら、本を買ってくださったんですよ。一緒に読みましょう」 幸一:いつしか、どこにでもいる普通の少女のように、 千春:「幸一さん、ほら、見てください。庭の紅葉が色付き始めましたよ」 幸一:柔らかな表情を浮かべ、無邪気に笑うことが多くなっていった。 千春:「・・・ねぇ、幸一さん」 幸一:寄り添うように、温かな恋だった。 千春:「・・・幸一さん」 幸一:ずっとこのまま、この時間が続けばいい。 幸一:ーーーそう思っていた矢先のことだった。 0:(少し間) 幸一:「・・・はい。旦那様、お嬢様はご存知のとおり、最近はお加減もよく、体調を崩されることも滅多に無くなりました。 幸一:このままの状態が続けば、普通の生活を送ることも可能かと」 0: 幸一:「・・・はい・・・はい。いえ、そんな、僕は何も。 幸一:周囲の方々が献身的に尽くされた結果です。 幸一:ですから、旦那様。今後もどうかお嬢様のことを・・・」 0: 幸一:「・・・え?」 0:(少し間) 千春:「・・・幸一さん、遅いわね。どうしたのかしら、遅くともこの時間には来てくださるはずなのに・・・」 0: 千春:「急に患者さんでも来てしまったのかしら。 千春:それだったら仕方ないわよね・・・幸一さんは皆のお医者様なんだから」 0: 千春:「・・・電話、してみようかしら。もし、何かあったとしたら心配だし。 千春:それに、最近風邪も流行っているというし」 0: 千春:「・・・少しだけ。少しだけなら、きっとご迷惑にならないはず。 千春:お忙しそうならすぐに切れば良いんですもの。少しだけなら、きっとーーー」 0:(ノックの音) 千春:「はい」 幸一:「・・・こんにちは、千春さん」 千春:「幸一さん!」 幸一:「はは・・・どうしたんです。そんなに慌てて、何かありましたか?」 千春:「あ、いえ・・・その・・・幸一さんがいつもの時間にお見えにならないので、少し心配になってしまって・・・。 千春:今ちょうど、電話をかけてみようかと思っていたところだったんです」 幸一:「おや、そんなに心配してくださってたんですか? 幸一:・・・大丈夫ですよ。貴女のことは旦那様からくれぐれも、と頼まれていますから」 千春:「・・・なら良いんですけど。 千春:もし、何かあったらと心配になってしまって、つい・・・」 幸一:「大袈裟ですよ。 幸一:・・・僕は大丈夫です。何があろうと、頼まれた仕事はきっちりこなしますから」 千春:「でも・・・」 幸一:「(食い気味に)さぁ、遅くなってしまって申し訳ありませんでした。 幸一:千春さん、今日のお加減はいかがですか? 幸一:最近、寒くなって風邪が流行り始めていますが、体調など崩されていませんか?」 千春:「え、ええ・・・問題ありません」 幸一:「そうですか。熱は?食欲も問題なくありますか? 幸一:ああ、もし何か体調の変化があれば、遠慮なく仰って・・・」 千春:「(食い気味に)幸一さんっ」 幸一:「・・・どうしました?」 千春:「えっと・・・あの・・・やっぱり体調がお悪いのではないですか?」 幸一:「体調?大丈夫です、何ともありませんよ。 幸一:千春さんが心配するような事は、何も・・・」 千春:「でも・・・でも、それならどうして、そんなに苦しそうなお顔をしていらっしゃるんですか・・・?」 幸一:「いえ、そんなことは・・・」 千春:「嘘です。ずっと見てきたからわかります。 千春:今日の幸一さんはおかしい。口調も、表情も、何もかも」 幸一:「・・・」 千春:「何か・・・あったんですか?」 幸一:「何も・・・」 千春:「(食い気味に)何かーーーあったんですよね? 千春:そんな表情を浮かべてしまうほど、つらい何かが」 幸一:「はは・・・参ったなぁ。気付かれないようにしようと思ったんですが」 千春:「幸一さん・・・?」 幸一:「・・・千春さん、お伝えしなければいけないことがあります。聞いて、頂けますか?」 千春:「はい。・・・私でよろしければ」 幸一:「ありがとうございます。・・・そしてーーーすみません」 0: 幸一:「・・・お別れしましょう。千春さん」 0:(少し間) 幸一:ゆっくり、ゆっくりと、色を無くした並木道を行く。 幸一:重い足を、身体を引きずりながら、当て所(あてど)なく歩く。 幸一:これで良かったのかと自分に問いながら、 幸一:これで良かったのだと自分に言い聞かせながら。 幸一:一人、標(しるべ)を失った子どものように彷徨う。 幸一: 幸一:何冊も、何冊も、読み重ねてきた小説のように、本を閉じれば終わるものだと思っていた。 幸一:あの物語に登場する主人公のように、いざとなれば、なんて簡単に思っていた。 幸一:相手の幸せを願えば、端役(はやく)に徹する(てっする)ことも厭わない(いとわない)と、思っていたのに。 0: 幸一:「・・・恋とは、儘(まま)ならぬものだな・・・」 0: 幸一:彼女の結婚が決まった。 幸一:そう告げられたのは落ち葉舞う、秋の終わりのことだった。 0:(少し間) 幸一:「・・・はい。次の方、どうぞ。ああ、小林さん。 幸一:どうです?だいぶ体調は良くなりましたか?」 0: 幸一:「・・・そうですか。それは重畳(ちょうじょう)。 幸一:小林さんの顔が見れないと、寂しいって皆、口を揃えて言うんですよ。 幸一:・・・だからといって、無理はいけませんからね。まだ冬はこれからです。 幸一:また風邪でもひいたら大変ですから・・・」 0: 幸一:「ああ、あの家に、ですか?少し前までお嬢さんの診察をしに伺っていて・・・ 幸一:ええ、最近はとんとお邪魔してませんが・・・何か・・・」 0: 幸一:「ーーーえっ・・・?」 0:(少し間) 幸一:その部屋の扉を目の前にした時、今すぐに逃げ出したくなるような、そんな気持ちに襲われた。 幸一:何度も扉に手をかけては、その手を下ろし、下ろしては手をかけて、僕は息を吐く。 幸一:かつて、背を向けたそれを開けることに、こんなにも勇気がいるものだと思わなかった。 幸一:いつまでも動かない手を見つめながら、自分には資格がないのだと思った。 幸一:だから、いつまで経ってもこの扉を開けられないのだと、そう思った、その時だった。 千春:「・・・せんせ?」 幸一:掠れて、消え入りそうな声が聞こえた。 幸一:聞き覚えのある声だった。懐かしい声だった。夢にまで見た、彼女のーーー 幸一: 幸一:気付くと、扉は開いていた。 幸一:何度も、何度も通いつめた部屋。 幸一:窓辺に置かれた寝台(しんだい)に、その人は居た。 0: 幸一:「・・・千春さん」 0: 幸一:微かに瞼(まぶた)が震えた。 0: 幸一:「千春さん」 0: 幸一:潤んだ黒い瞳が、ゆっくりとこちらを見た。 千春:「・・・たくさん、待ちました」 幸一:「どれくらい?」 千春:「百年・・・いえ、千年くらい」 幸一:「長い間、待たせてしまいましたね」 千春:「いえ。長いようであっという間でした」 幸一:「・・・すみません」 千春:「どうして、謝るんですか?こうして会いに来てくれたのに」 幸一:「でも」 千春:「ねぇ、先生」 幸一:「はい」 千春:「私・・・夢を見たんです。春がきて、桜を見上げる夢」 幸一:「はい」 千春:「何度も、何度も、夢を見たんです。 千春:その次も、その次も、春を迎えて、桜を見る夢」 幸一:「はい」 千春:「その横に、貴方が居るんです。 千春:一緒に手を繋いで、同じように桜を見上げて、綺麗だね、って笑うんです」 幸一:「はい」 千春:「夢じゃ、ないですよね」 幸一:「・・・はい」 千春:「夢なんかじゃ、ないですよね」 幸一:「・・・千春さん」 千春:「なんですか?」 幸一:「夢じゃ、ありませんよ。 幸一:夢じゃありません。 幸一:僕は、確かにここに居ますから」 千春:「・・・じゃあ、確かめさせてください」 幸一:「どうやって?」 千春:「そんなの簡単ですよ。・・・ほら(手を差し出す)」 幸一:「(手を握る)・・・ああ・・・なるほど、こんなにも温かい」 千春:「・・・ねぇ、先生。今度は離さないでくださいね。 千春:何があっても、絶対に」 幸一:「ええ、今度はずっと傍に居ます。 幸一:貴女と千歳(ちとせ)の春を迎える、その日まで」 千春:「ふふ・・・約束ですよ」 幸一:「はい。約束します。・・・だから、千春さん」 0: 幸一:「どうか、僕とーーー」 0:(少し間) 幸一:約束をしたあの時から、幾年(いくとせ)の日々を過ごしただろうか。 幸一:当たり前のように季節は巡り、今年もまた花は咲いた。 幸一:美しく咲き誇ったそれを見上げる度、僕はいつも探してしまう。 幸一:頬を染め、花の中から僕を見つめる、彼女の姿を。 幸一: 幸一:そんな僕の手を、誰かがひいた。 幸一:そこには、彼女と同じ色に頬を染めた、小さな少女が立っていて、 幸一:彼女によく似たその真っ直ぐな瞳で、僕を見つめていて、 幸一:そんな僕たちの姿を見守りながら、 幸一:今度は花の下(もと)、僕の手をとり、彼女は優しく笑って、こう言うのだ。 千春:「・・・ねぇ、幸一さん。春が今年もやってきましたよ」 幸一:「ああーーー本当だ」 0:〜了〜