台本概要
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タイトル | 空に溶けた蝉時雨 |
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作者名 | 橘りょう (@tachibana390) |
ジャンル | ラブストーリー |
演者人数 | 2人用台本(男2) |
時間 | 50 分 |
台本使用規定 | 台本説明欄参照 |
説明 |
退院した祖母の様子を見るために都会から訪れたヒロキは、神社の境内で一人の高校生の男の子ミナトと知り合う。 不思議な雰囲気をまとう彼は、無邪気な顔も見せるようになり仲良くなっていく二人。 田舎の神社で過ごした七日間のお話。 ブロマンス寄りのBLです。 ヒロキ視点のお話なのでセリフのバランスが少々悪いです。 読み手の性別は問いませんが、登場人物の性別変更は不可 作品名、作者名、台本へのリンクの表記をお願いいたします。 余裕があれば後でも構わないのでTwitterなどで教えて下さると嬉しいです、 アーカイブが残っていたら喜んで聴きに行かせていただきます。 218 views |
キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
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ヒロキ | 男 | 270 | 祖母の様子を見に来た都会の青年。一人称は私だが気を抜くと俺が出てしまう。 |
ミナト | 男 | 203 | 境内でスケッチをする地元の高校生。都会から療養のために引っ越してきた |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
ヒロキ:『随分長引いていた梅雨が開けた、7月の終盤。体調を崩し入院していた田舎に住む祖母が、ようやく退院したと連絡を受けた。とはいえ、病み上がりには違いないので、様子を見に行って欲しいと頼まれて、私は数年ぶりにその土地へと足を運んだ』
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ヒロキ:『一日一往復しかないバスにも、いつ捕まるかも分からないタクシーにも期待はせず片道三時間半、ドライブ気分で向かった先は、数年前の記憶とは何も変わらず、長閑(のどか)だった』
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ヒロキ:『玄関から声をかけると、奥から思っていた以上に元気な返事があった。姿を見せた祖母は、ハツラツとした笑顔を見せていたが、数年前より小さくなったように感じた。声は元気でもやはり周囲が心配するのも仕方がないのだろう』
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ヒロキ:『仕事道具を車から下ろしながら、強ばった体を伸ばすと山からの涼しい風が頬を撫でる。この瞬間は田舎暮らしも悪くない、なんて思ってしまうから厄介な話だ』
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ヒロキ:『出された麦茶はよく冷えていて、祖母の家に来るといつも用意されている菓子をつまむ。いくつになっても、彼女からしたら私は未だ小さな孫なのだな、と実感せざるを得ない』
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ヒロキ:『一週間ほど滞在することを告げると、祖母は娘のように喜んで、私が手土産に買ってきた菓子包みを仏壇へと持って行った。私は用意された部屋に荷物を持ち込んで、気分転換に散歩に出ることにした』
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ヒロキ:『青々とした田んぼと畑が広がり、見渡せば民家と山、山、山…限界集落と呼ばれる地域ではあるが、近年では都会から移住してくる人がちらほらいるらしい。便利な都会暮らしから、急にこんな、所謂「自然が豊かな」土地での生活となると、慣れない内はさぞかし不便だろうな、なんて思いながら目的もなくフラフラと歩く』
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ヒロキ:『ふと石造りの鳥居が目に入り足を止めた。最近付け替えられたのか、掛かる注連縄はまだ新しく見える。子供の頃に夏祭りでこの神社を訪れたのを思い出し、私はそれをくぐった』
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ヒロキ:『途端に空気が変わったように感じた。いうなれば、静謐。参道は、木陰の隙間から差し込む光と涼しい風が通り抜け、厳かな空気が満ちていた。長くない参道を通り抜け境内に至る』
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ヒロキ:「…綺麗だな」
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ヒロキ:『思わず独りごちた。定期的に掃除などをしているのだろう。雑草なども生えておらず、ここの注連縄もまた、新しく見えた。せっかく来たのだから、とお参りをしようとして、片隅に座る人影に気付いた』
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ヒロキ:「…っ!」
ミナト:「……?」
ヒロキ:「…あ、すまない。人がいるって思わなくて…」
ミナト:「…あ、いえ。僕も驚かせちゃったみたいで」
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ヒロキ:『薄く微笑んだ彼。病的に白い顔に掛かる、少し長めの前髪。小さな赤い唇が花びらのように見え、その姿は厳かな雰囲気の境内によく似合っていた』
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ヒロキ:「君、ここら辺の子?」
ミナト:「最近、越してきました」
ヒロキ:「へぇ…都会の方から?」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「そっか…。ここで、何を?」
ミナト:「スケッチをしてました」
ヒロキ:「スケッチ?」
ミナト:「はい。とても、綺麗なので」
ヒロキ:「(ミナトを見ながら)……確かに、綺麗だ」
ミナト:「え?」
ヒロキ:「…あっ!ほら、境内!ちゃんと手入れされてるし、木漏れ日が綺麗だなーって」
ミナト:「そうですね。…あなたはどうしてここへ?」
ヒロキ:「あ、あぁ…その、祖母が退院したばかりでさ。散歩してたら鳥居見つけて…」
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ヒロキ:『白い半袖の開襟シャツと黒いパンツのコントラスト。おそらく高校生くらいであろう彼は、今どきの子という感じではなく、とてもミステリアスな空気を纏っていた。その雰囲気に言葉がたどたどしくなりながら、祖母を訪れた理由などを簡単に説明した』
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ミナト:「きっとお婆さんも嬉しいでしょうね」
ヒロキ:「うーん…うん、それは確かに」
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ヒロキ:『蝉時雨が私たちの間に満ちていく。吹き抜ける風はからりと乾いていて肌に心地よい』
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ヒロキ:「不便、じゃない?」
ミナト:「えっ?」
ヒロキ:「あぁいや、ほら。ここすごい田舎だから」
ミナト:「…いえ、特には」
ヒロキ:「高校生?」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「君くらいの年頃ならもっと色々店とかあった方が…」
ミナト:「そういうのは…あまりなくて」
ヒロキ:「そうなの?友達とか…」
ミナト:「その、僕…呼吸器系の病気があって」
ヒロキ:「……」
ミナト:「それで、療養のために引っ越してきたから…」
ヒロキ:「それは…ごめん」
ミナト:「いえ。ここは空気がすごく綺麗なので、僕は過ごしやすいです」
ヒロキ:「そっか…」
ミナト:「それに近所の方もすごく親切で。…向こうに住んでた時って、隣の家の人とも挨拶交わすかどうかって感じで」
ヒロキ:「あー…確かに」
ミナト:「畑で取れたからって、カゴいっぱいにお野菜貰うなんて経験、初めてしました」
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ヒロキ:『そう言って彼は楽しそうに笑う。赤い唇から八重歯がちらりと覗いて、その笑顔は先程までの雰囲気とは違い、実に子供らしいものだった』
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ヒロキ:「君、名前は?私は斎藤ヒロキ」
ミナト:「僕は津田ミナトです」
ヒロキ:「気軽にヒロキって呼んでくれたら良いから」
ミナト:「はい。…ヒロキさん」
ヒロキ:「私もミナト君って呼んでいいかな?」
ミナト:「呼び捨てでもいいですよ、まだ子供なので」
ヒロキ:「君くらいの年頃だと、子供扱いするなって怒るんじゃないの?」
ミナト:「弁えてますから」
ヒロキ:「言うね」
ミナト:「ふふっ」
ヒロキ:「じゃあ遠慮なく、ミナトで」
ミナト:「はい、それでいいです」
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ヒロキ:『彼がこの世の物ならざる存在に感じていた私は、年相応に笑う姿を見て妙に安心した』
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ヒロキ:「どんなスケッチしてるの?見せてよ」
ミナト:「まだ未完成ですけど…」
ヒロキ:「どれどれ…へぇ、すごいな…」
ミナト:「いえ、そんな…」
ヒロキ:「謙遜しなくていいよ、凄く上手い」
ミナト:「あ、ありがとうございます…」
ヒロキ:「いや、ほんとに…すごい。鉛筆一本でこんなふうに書けるもんなんだね」
ミナト:「…なんか、そう言われると恥ずかしいです」
ヒロキ:「私なんてデザイン関連の仕事してるのに、絵心無いからなあ」
ミナト:「デザインのお仕事してるんですか?もしかしてデザイナーさん?」
ヒロキ:「そんな良いもんじゃないよ。一応ウェブデザイナーってやつだけど…広告作ったりホームページ作ったり…」
ミナト:「かっこいいですね」
ヒロキ:「やってることは案外地味だけど…ありがと」
ミナト:「お仕事は大丈夫なんですか?長くお休みされるんでしょう?」
ヒロキ:「んー…ありがたいことに、最近はインターネットが繋がらない所の方が少なくてね。ネット環境さえあればお仕事ができる。どんな田舎に逃げても、パソコン一台あればね」
ミナト:「(小さく吹き出す)なるほど」
ヒロキ:「たまには事務所以外での仕事も悪くないよ。仕事量も調整してもらってるし」
ミナト:「じゃあいい気分転換ですね」
ヒロキ:「それもそうだ。…さて、そろそろ帰らなきゃ…」
ミナト:「そうですね、ヒグラシも鳴いてますし…」
ヒロキ:「ヒグラシ?」
ミナト:「この…高めの音です」
ヒロキ:「へぇ…昼間とは違って、少し涼し気な音だな」
ミナト:「ですよね。僕、好きなんです」
ヒロキ:「ヒグラシ、か。都会じゃ中々聞かないかもなぁ」
ミナト:「あの…」
ヒロキ:「ん?」
ミナト:「…もし、良かったら…お仕事の合間とかでもいいので…またお話してくれませんか?」
ヒロキ:「話?」
ミナト:「こうやって人と話しすることが最近無かったので…もちろんお仕事優先して頂いて」
ヒロキ:「……」
ミナト:「その、すごく楽しかったので…」
ヒロキ:「いいよ、もちろん」
ミナト:「…!」
ヒロキ:「私もね、話し相手が祖母だけっていうのも味気ないからさ」
ミナト:「ありがとうございます!あの、僕大体いつもここにいるので…」
ヒロキ:「分かった。また覗くよ」
ミナト:「はい、待ってます」
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ヒロキ:『彼に見送られながら境内を後にする。少し傾いた日差しと、山から吹き降ろすひんやりとした風、軽やかな足取り。どこか浮ついた気持ちを抱いて私は祖母の待つ家へと帰った』
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ヒロキ:『いつものアラーム音に目を覚まし、見慣れない天井に飛び起きて、祖母の田舎に来ていることを思い出した。いつもはじっとりと張り付くような暑さを感じるのに、それが無いだけで随分と快適だ』
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ヒロキ:『漂う味噌汁の香りに、身体は素直に空腹を訴える。用意された炊きたてのご飯と漬物、味噌汁というシンプルな組み合わせに箸が弾む。祖母はニコニコと茶碗にご飯をよそい、私がまだ幼かった頃の話をする。彼女は随分と楽しそうだが、どうにも気恥しい』
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ヒロキ:『食事を終え部屋に戻ってパソコンを起動させる。数件、未返信だったメッセージに返信を済ませ、私は仕事に取り掛かった』
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ヒロキ:「やぁ、こんにちは」
ミナト:「こんにちは…ふふ、よく似合ってますね」
ヒロキ:「ん?ああ、この麦わら帽子?」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「暑いから被っていけって」
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ヒロキ:『日もすっかり高くなった午後、私は神社を訪れていた。ミナトは昨日と同じようにスケッチブックを開いて境内に座っていた』
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ヒロキ:「麦わら帽子なんて子供の頃に被ったきりだよ」
ミナト:「街中で被ってる人、見かけた事ないですね」
ヒロキ:「確かに。爺さんのお古らしいけど…大切に残してるんだもんなぁ」
ミナト:「お婆さん、お一人なんでしたっけ?」
ヒロキ:「うん。爺さんが死んで…もう十年超えるかぁ…」
ミナト:「それからずっと?」
ヒロキ:「都会暮らしは肌に合わないってさ。ここでずっと生きてりゃ、それもそうかって納得しかないけど」
ミナト:「…お婆さんの気持ち、僕わかる気がします」
ヒロキ:「そう?」
ミナト:「はい。都会は便利ですけど…目まぐるしくて。どんどん置いていかれる気がしてました。でもここはゆっくり時間が流れてる気がして…」
ヒロキ:「そっか…」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「でも…まぁ、うん。分かる気がする。よっと…(転がる)」
ミナト:「ヒロキさん?」
ヒロキ:「…今朝さ、久しぶりに朝ご飯食べた」
ミナト:「久しぶり…ですか」
ヒロキ:「うん。白ご飯と、じゃがいもと玉ねぎの味噌汁、きゅうりとなすの漬物。それだけなんだけど…一口食べて体が欲しがってるのか分かってさ。朝からあんなに食べたの久しぶりだった」
ミナト:「いつもは、朝ご飯どうしてるんですか?」
ヒロキ:「一人暮らしだからさ、適当なもんだよ。コーヒー入れて…それだけ」
ミナト:「コーヒーだけ、ですか」
ヒロキ:「朝起きても体がスッキリ起きてない感じだからさ、受け付けないんだ。それから仕事行って働いて…」
ミナト:「大変ですね」
ヒロキ:「不思議なもんで、朝しっかり食べてるのに昼時になったらお腹すいて。そしたら声掛かるんだ、お昼よーって」
ミナト:「(笑っている)お昼ご飯はなんだったんですか?」
ヒロキ:「夏野菜が乗っかった素麺。畑で取れたトマトときゅうりがてんこ盛り」
ミナト:「美味しいやつだ」
ヒロキ:「同じ野菜なのに…普段食べる味と違うんだよなぁ…」
ミナト:「分かります。味が濃いというか…瑞々しいですよね」
ヒロキ:「若いのに舌か肥えてるな」
ミナト:「…きっと、いいものを両親が食べさせてくれてたからですね」
ヒロキ:「大切にされてる証拠だ」
ミナト:「そうですね、そう思います」
ヒロキ:「…ミナトは、変わってるな」
ミナト:「変わって…ますか?」
ヒロキ:「んー、なんか違うか。ミステリアスで…魅力的」
ミナト:「えっ」
ヒロキ:「あれ…なんかこれも語弊があるか…」
ミナト:「…褒めてくれてる、んですよね?」
ヒロキ:「うん、まぁ…」
ミナト:「なら…嬉しいです」
ヒロキ:「そっか…(欠伸が出る)」
ミナト:「ふふっ、お腹が満たされてると眠くなりますよね」
ヒロキ:「仕事してると、それどころじゃないのになぁ…」
ミナト:「僕も時々、ここでお昼寝してる時ありますよ」
ヒロキ:「……綺麗、だな…」
ミナト:「…はい」
:
:間
:
ヒロキ:「…っ!」
ミナト:「目、覚めました?」
ヒロキ:「うわ…寝てた?」
ミナト:「寝てましたね」
ヒロキ:「うわ、うわぁ…ごめん」
ミナト:「30分も寝てなかったと思いますよ」
ヒロキ:「夜もしっかり寝たのに…」
ミナト:「案外、運転の疲れが出てたのかもしれませんね」
ヒロキ:「自覚ないだけで…歳かなぁ」
ミナト:「…ここは、空気が独特ですよね。綺麗なもので満たされてる感じがして。毎週、掃除に皆さん集まってこられるんです」
ヒロキ:「だからか…雑草もないし、整えられてるなって思ってた」
ミナト:「若い方が少なくなったから夏祭りは無くなっちゃったみたいですけど、信仰っていうか…こういう場所を大切にする気持ちは強いんでしょうね」
ヒロキ:「夏祭り、無くなったのか…」
ミナト:「確か数年前に」
ヒロキ:「子供の頃、親に連れられて来たことあったなぁ。赤い提灯が並んでさ、金魚掬いとわたあめと…」
ミナト:「良いなぁ…」
ヒロキ:「行けなかった?」
ミナト:「はい。越して来た頃には…夏祭りってすごく小さい頃に行ったことがある位で」
ヒロキ:「そっか…それは、残念…」
:
ヒロキ:『気がつくと、ヒグラシが鳴き始めていた』
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:
:
ミナト:「あの…ヒロキさん。僕に貴方の絵を描かせて貰えませんか?」
:
ヒロキ:『三日目、真剣な顔をして彼はそう言い放った』
:
ヒロキ:「…私の?」
ミナト:「はい!」
ヒロキ:「こんなおじさん、描いても楽しくないだろ」
ミナト:「ヒロキさんを描きたいんです。それにおじさんって程の歳じゃないでしょう?」
ヒロキ:「…まぁ、そうかもしれないけど」
ミナト:「ダメですか?」
ヒロキ:「いや、ダメってことは無いけど…ほんとに私で良いの?」
ミナト:「はいっ!」
ヒロキ:「………ぷっ」
ミナト:「え、なんですか?」
ヒロキ:「いやさ、なんか子供らしい顔が増えたなって思って」
ミナト:「僕、まだ子供ですが」
ヒロキ:「いやいや、そうじゃなくて。初めて見た時は随分大人びて見えたから」
ミナト:「そう…ですか?」
ヒロキ:「私がミナト位の歳は、遊びたいばっかりで、もっとクソガキだったよ」
ミナト:「ヒロキさんの話、描きながらもっと聞かせてください」
ヒロキ:「なんかポーズとかいる?」
ミナト:「大丈夫です、自然にしてもらって」
ヒロキ:「初モデル」
ミナト:「僕も、誰かを描くのは初めてです。…ヒロキさんはどんな子供だったんですか?」
ヒロキ:「そうだなぁ。勉強が嫌いだった。部活は楽しかったけど」
ミナト:「なんの部活に入ってたんですか?」
ヒロキ:「バスケ」
ミナト:「かっこいい」
ヒロキ:「バスケやってたら背が伸びるって聞いたけど、デマだった」
ミナト:「背、低くは無いと思いますけど…」
ヒロキ:「その頃はもっと背が高い方が良いって思ってたんだよ」
ミナト:「背が高い人に憧れてたんですね」
ヒロキ:「なんか頼もしく見えるかなって」
ミナト:「それは、そうかも」
ヒロキ:「ミナトは?勉強や部活は?」
ミナト:「…休みがちでしたけど、学校は好きでした。全然勉強とか追いつけなくて大変だったけど、そういうのも含めて楽しかったです」
ヒロキ:「へぇ…偉いな」
ミナト:「好きな人とかいたら、もっと青春してたかもしれません。その人に会いたいが為に必死で学校通ったり」
ヒロキ:「励みには…なると思う」
ミナト:「恋愛って、縁なかったなぁ…」
ヒロキ:「今からでも遅くないだろ」
ミナト:「…そうですかね」
ヒロキ:「そうだよ、まだまだ若いんだからなんだって出来るさ」
:
ヒロキ:『何の気なしに発した私の言葉に、困ったように笑うミナトを見て、しまったと思った時にはもう遅かった。吐いた言葉はもう飲み込めない。療養のために引っ越したと聞いたのは、ついこの間だと言うのに』
:
ヒロキ:「…ごめん、軽率だった」
ミナト:「あっ、すみません…そんなつもりじゃ…」
ヒロキ:「いや。悪かった…ミナトの事情、聞いてたのに…」
ミナト:「その…僕も気を使わせてしまってごめんなさい。こっちじゃ全然友達が居なくて無理だなって思っちゃって…」
ヒロキ:「……」
ミナト:「ヒロキさん、そんな顔しないでください」
ヒロキ:「…ん」
ミナト:「僕、こうしてヒロキさんとお話してる時間がすごく楽しいんです。今青春してますよ!」
ヒロキ:「…ったく、俺もダメな大人だなあ…」
ミナト:「あ…」
ヒロキ:「?」
ミナト:「今、俺って言いました?」
ヒロキ:「あっ…あー、しまった…」
ミナト:「(小さく笑っている)」
ヒロキ:「…仕事でさ、やっぱり人とのやり取りが多いから気をつけてたんだけど…」
ミナト:「なんだか嬉しいです」
ヒロキ:「そう?」
ミナト:「はい、嬉しいです」
:
ヒロキ:『その笑顔が嘘には見えず、とても眩しく私の目に映った。微かに抱いた違和感はあったが、その表情が救いだった』
:
:
:
ヒロキ:「雨、か…」
:
ヒロキ:『四日目の朝。空は灰色の重たい雲が広がり、早朝から雨が降り続いていた』
ヒロキ:『一日続く、と天気予報では伝えており、確かにすぐに止みそうな様子ではない。さすがにこの天気ではミナトも家で大人しくしているだろうと思い、少し滞りかけていた仕事に向かった』
ヒロキ:『音声通話をしながらパソコンに向かっていると、物珍しそうに祖母が覗きに来て、少し離席した隙に、何故か私の同僚とえらく盛り上がっていた』
ヒロキ:『ヒロちゃんって呼ばれてるんですね、なんてからかわれながら、その日の分を終わらせたのは既に夕方近くになってからだった。普段の机ではなく、小さな文机に向かっていたせいか、とにかく背中と腰が痛い。体を伸ばしついでに傘を借り、外へ出た』
:
ヒロキ:『いつもの蝉時雨の代わりに聞こえるのはカエルの大合唱。田舎のこういう面を知らずに引っ越してくるとあまりの音量に驚くらしい。正直子供の頃は少し怖かったのを覚えてる』
:
ヒロキ:『自然に向く足取り。鳥居をくぐり雨に濡れた参道を歩き…』
:
ヒロキ:「どうして…」
:
ヒロキ:『スケッチブックに向かうミナトの姿に次の言葉が出なかった』
:
ミナト:「あ、こんにちは」
ヒロキ:「……」
ミナト:「…どうか、しましたか?」
ヒロキ:「…なんで」
ミナト:「え?」
ヒロキ:「なんで、いるんだ…」
ミナト:「…ヒロキさん?」
ヒロキ:「いつから、いるんだ。もう夕方だぞ」
ミナト:「もうそんな時間なんですね。夢中になってて…」
ヒロキ:「夏とはいえ、風邪ひく」
ミナト:「そうですね、気をつけます。ヒロキさんはどうしてここに?」
ヒロキ:「…散歩ついでに、もしかしたらって…思って…」
ミナト:「ふふっ、僕はいつもここにいるって言いましたからね。ご期待に添えたみたいで何よりです」
ヒロキ:「今日ずっと雨だったから…居ないと思ってた」
ミナト:「でも、来てくれたんですね」
ヒロキ:「…ん」
ミナト:「あ、そうだ。ヒロキさんの絵、もう少しで描き上がるので、待っててくださいね」
ヒロキ:「え…」
ミナト:「ヒロキさんが帰ってしまう前に…ちゃんと色も使って完成させますから」
ヒロキ:「そんな…一生懸命にならなくても」
ミナト:「僕が完成させたいんです」
ヒロキ:「……」
ミナト:「完成したものを、ヒロキさんに渡したいだけなんです」
ヒロキ:「…そっか。楽しみにしてる」
ミナト:「はいっ」
ヒロキ:「でも、もう今日は帰った方がいい。雨だから早く日も暮れるし、体には良くないと思う」
ミナト:「そうですね」
ヒロキ:「もしかして濡れて…」
ミナト:「…っ!」
ヒロキ:「え…」
ミナト:「あ、すみません。僕は大丈夫ですから」
ヒロキ:「…え、っと…」
ミナト:「おばあちゃん待ってますよ、きっと。早く帰ってあげてください。僕は、大丈夫ですから」
:
ヒロキ:『濡れたのではないか、と肩に触れようとしただけだった。指先が触れる前に、ミナトが避けた…ように見えた。スケッチブックを抱えて笑顔で帰るように促した彼は、自分にももうすぐ迎えが来てくれるから心配いらないと言って手を振り私を見送る』
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ヒロキ:『何も言えず引き下がった私は、鳥居を抜けると傘を閉じて歩いた。何故か両目から溢れる雫を雨で誤魔化しながら帰った』
:
:
:
ヒロキ:『重たい頭をどうにか持ち上げて起き上がる。気分が沈んでいるのは、昨日の些細な出来事が原因なのはわかっている。ただ触れようとした時に彼が動いただけ、と思えばそれだけなのに…。どうしてこんなにも落ち込んでいるのか自分でもよく分からなかった』
:
ヒロキ:『夢を見たせいもある。過去投げつけられた言葉が夢の中で再生された。何の気なしに触れた手に明らかな戸惑いの色を見せた相手は、友達でもキツイ、言った。どんな私でも受け入れる、と言ったその口で』
:
ヒロキ:『全く捗らない仕事を投げ出して、私はしばらく縁側に腰かけていた。高い風鈴の音、蝉時雨。くっきりとした入道雲と青々と広がる田んぼ。まるで本や映画の世界のような光景が目の前に広がっている』
:
ヒロキ:「ミナト、居るかな…」
:
ヒロキ:『きっと居るだろう、という確信。ひとりで悶々としていても何も解決しないのはよくわかっていた。絵を完成させたい、と言ってくれた彼に会いたくて私はまた神社に向かった』
:
ヒロキ:「あ…れ?」
:
ヒロキ:『しんとした境内は木々の隙間から光が刺していてとても美しかった。が、いつものミナトの姿は無かった』
:
ヒロキ:「今日は…来てないのか…」
ミナト:「わっ!」
ヒロキ:「うわっ!」
ミナト:「(笑っている)」
ヒロキ:「びっくりした…」
ミナト:「(笑いながら)ちょっとびっくりさせよって思っただけなんだけど」
ヒロキ:「脅かすなよ…」
ミナト:「(徐々に笑いが収まる)あー面白かった!こんなに笑ったの、久しぶりです」
ヒロキ:「くっそ〜やられた」
ミナト:「古典的だけどいい反応ですね!」
ヒロキ:「子供か!」
ミナト:「子供です」
ヒロキ:「いばるな!ったく…(笑い出す)」
:
:ひとしきり笑い合う二人
:
ミナト:「あー笑った」
ヒロキ:「俺もだ。こんなに大笑いしたの、久しぶりだ」
ミナト:「あ、また」
ヒロキ:「ん?あー…ミナトの前なら良いかなって」
ミナト:「という事は、ヒロキさんの特別って事で良いですか?」
ヒロキ:「そういう事になるな」
ミナト:「…なんだか、あっさり納得されると照れますね…」
ヒロキ:「照れる?なんで?」
ミナト:「…誰かの特別とか…照れませんか?」
ヒロキ:「…改めて言われると、まぁ確かにそうかも?」
ミナト:「えへへ」
ヒロキ:「…良く来るタイミングがわかったな」
ミナト:「実は上からこっそり覗いてたんです」
ヒロキ:「で、脅かしてやろうって?」
ミナト:「はい。昨日、なんだかヒロキさん元気なさそうだったから」
ヒロキ:「……」
ミナト:「僕の気の所為、でした…?」
ヒロキ:「…いや、気のせいじゃない…かも」
ミナト:「何かあったんですか?」
ヒロキ:「いや、何も。…えっと、仕事でちょっと?」
ミナト:「そうですか…でも、笑ってくれて良かった」
ヒロキ:「…心配、かけてごめん」
ミナト:「元気、出ました?」
ヒロキ:「…うん。ありがとうミナト。声上げて笑って…なんかスッキリしたよ」
ミナト:「良かった」
ヒロキ:「気、使わせたな」
ミナト:「笑っててください。僕、ヒロキさんが笑っててくれると嬉しいです」
ヒロキ:「そっか…」
:
ヒロキ:「俺も、ミナトが笑ってくれてたらそれが嬉しい」
:
ヒロキ:『不意に口をついて出た。少し驚いた顔をしたミナトは、照れくさそうに鼻の頭をかいて笑った』
:
ヒロキ:『並んで境内に座り、取りとめのない会話をする。朝の重たい気持ちはどこへやら…すっかり晴れやかになった気持ちになっていた』
:
ヒロキ:「そろそろ帰るよ、仕事残してきてるし」
ミナト:「そうですか。あ!明日には絵をお渡しできると思います!」
ヒロキ:「そうなのか?」
ミナト:「…もうそろそろ、一週間ですもんね」
ヒロキ:「ぁ…」
ミナト:「間に合いそうでほっとしてます」
ヒロキ:「そっか…。あ、そうだ」
ミナト:「?」
ヒロキ:「良かったら…一緒に写真、撮らないか?」
ミナト:「写真?」
ヒロキ:「その…出会った、記念に…」
ミナト:「……」
ヒロキ:「ミナトが良ければ…」
ミナト:「嫌ではないんですけど…」
ヒロキ:「…苦手とかなら、辞めとく」
ミナト:「いえ…!いいですよ、撮りましょう」
ヒロキ:「無理してない?」
ミナト:「全然!」
ヒロキ:「そ、っか…じゃあ」
:
ヒロキ:『ミナトと横並びになる。スマートフォンを掲げて、不自然にならないように体を寄せる。肩が触れたけど、画面の中のミナトは楽しそうに笑っていた』
:
ヒロキ:「チーズ、っと…」
ミナト:「見せてください」
ヒロキ:「お、いい感じに撮れてる」
ミナト:「…嬉しい」
ヒロキ:「簡易プリンター、持ってきてて正解だったな。プリントアウトして持ってくるよ」
ミナト:「良いんですか!ありがとうございます!」
ヒロキ:「いや、こっちこそ…ありがと。じゃあ…」
ミナト:「はい、また明日」
:
ヒロキ:『家路に着く。朝、余程酷い顔をしていたのだろう。祖母がほっとした顔をして食事を用意してくれていた。見舞いなどを兼ねて来た側が心配されるとはなんとも情けない話だ』
:
ヒロキ:『思っていたより多い案件をこなしていると、あっという間に日が暮れてしまった。外ではカエルの鳴き声が響き、窓から入ってくる風はひんやりと心地よかった』
:
:
:
ヒロキ:『こんな限界集落でも小さな商店はあるもので。しかしその店主が体調を崩したらしく、店が閉まっていると困り顔の祖母を連れて、その日は買い物に出た。車で来て正解だと思ったのは、近所の家の人たちからも買い物を頼まれたからだ』
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ヒロキ:『祖母も夏祭りがなくなってしまった事を寂しがっていた。子供が少なくなり、賑わいが減ってしまったことは、やはり長年住んでいる者からすれば味気ないのだそうだ』
:
ヒロキ:『ホームセンターやスーパーなどを巡り、結局午後になってようやく帰宅となった。そこから仕事に取り掛かり、結局全てが終わったのは夜になってからだった』
:
ヒロキ:『そういえば、と簡易プリンターをセットしてスマートフォンを取り出す。ついでに祖母と撮った写真もプリントアウトしようと、フォトフォルダを開き手が止まった』
:
ヒロキ:『改めて境内で撮影した写真を見返して、私は家を飛び出した』
:
ヒロキ:『街灯は少ないが、満月に近い空は明るく感じた。何度も転びそうになりながら神社に向かい走る。鳥居を抜け、暗い参道を走り抜け…。境内に座るその姿に、言葉が出てこなかった』
:
ミナト:「…ヒロキさん」
ヒロキ:「(息が上がっている)」
ミナト:「こんな時間に…どうしたんですか?」
ヒロキ:「ミ、ナト、こそ…」
ミナト:「僕は…、その…」
ヒロキ:「どうして」
ミナト:「……」
ヒロキ:「なんで」
ミナト:「…もしかして、気付いちゃいましたか?」
ヒロキ:「…まだ、信じられないけど…」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「写真、プリントしようと、思って…」
ミナト:「…はい」
ヒロキ:「見間違いかと思って、見返したけど…」
:
ヒロキ:『自分しか写っていない写真。境内で見た時はちゃんとミナトも写っていたのに』
:
ミナト:「はい…」
ヒロキ:「君は、何者なんだ…?」
ミナト:「ん〜…多分アレです、幽霊ってやつ」
ヒロキ:「…嘘だろ」
ミナト:「僕、ここから動けないんです。ずっと…何年も、色んな人に話しかけてみたけど、誰にも気付かれなくて…諦めてました。たまに僕の気配を感じる人も居ましたけど…それだけで」
ヒロキ:「……」
ミナト:「学校に行けない時はいつもここで絵を描いてました。そのせいなんですかね…気が付くとここにいて、神社の敷地から出れなくなってました」
ヒロキ:「…触れたのに、こうやって言葉も交わしてるのに…」
ミナト:「ヒロキさんだけなんです、僕の姿を見てくれたの。凄くびっくりしました。でも幽霊なんですって言っても信じて貰えないだろうから…」
ヒロキ:「そりゃ、そうだよ…でも、なんかおかしいって思った時はあった」
ミナト:「ありました?」
ヒロキ:「…学校のこと聞いた時、高校生だって言う割に、昔の事、みたいな話し方してたから」
ミナト:「…無自覚でしたね、うっかり」
ヒロキ:「休みがちだからかなって思ったけど…」
ミナト:「……」
ヒロキ:「それに、いつも同じ服装で他の格好、見た事ない…」
ミナト:「確かににいつもこれですね。制服なんですよ」
ヒロキ:「…幽霊ってさ、もっと怖いものじゃないの?」
ミナト:「怖くないですか?」
ヒロキ:「怖くない…」
ミナト:「今からでもうらめしや〜って言いましょうか」
ヒロキ:「(吹き出す)怖がらせる為にしても、さすがに古くないか?」
ミナト:「それもそうですね(笑う)」
:
:顔を合わせて笑う二人
:
ミナト:「僕、幽霊の才能は無さそうです」
ヒロキ:「幽霊に才能とかあるの?」
ミナト:「ん〜…適性は必要かもしれません」
ヒロキ:「適性もなさそう」
ミナト:「あっ、酷い」
ヒロキ:「…幽霊っぽくない」
ミナト:「足もありますしね」
ヒロキ:「そういやそうだ」
ミナト:「ヒロキさんとは話もできて、触れます」
ヒロキ:「ここ、限定だけど」
ミナト:「…僕、久しぶりに人と話せて、すごく嬉しかったんです。本当に、楽しくて…」
ヒロキ:「ミナト…」
ミナト:「それで、思い出したんです。僕、もっと誰かと話したかったんだって。とりとめのない会話をして、馬鹿馬鹿しいことで笑いあって…些細な事かもしれないけど、僕には特別なことだったんです」
ヒロキ:「うん…」
ミナト:「ヒロキさんが僕に気付いてくれて、本当に満たされた気持ちになって…でも僕が残せるものって何も無いから、せめてここにいる間だけでもって思って…」
ヒロキ:「うん…」
ミナト:「ヒロキさんに出会えて…良かった…!」
ヒロキ:「…うん」
ミナト:「僕、あなたが好きでした…」
ヒロキ:「…ミナト」
ミナト:「この気持ちがなんなのか、よくわからないですけど…好きでした」
ヒロキ:「…馬鹿やろう」
ミナト:「……」
ヒロキ:「過去形に、するな」
ミナト:「え…」
ヒロキ:「ミナト」
ミナト:「は、はい…」
ヒロキ:「君の事が好きだ」
ミナト:「…!」
ヒロキ:「気が付いたら…。ミステリアスな雰囲気も子供みたいに笑う所も、すごく魅力的だって思った」
ミナト:「…ありがとう、ございます」
ヒロキ:「好きだって気持ちを、初めて受け入れてくれた相手が幽霊だなんて…まったく。なんの冗談だよ」
ミナト:「生きてる内に出会いたかったです」
ヒロキ:「こっちの、セリフだ」
ミナト:「ヒロキさん。今、僕…ハグして欲しいです」
ヒロキ:「…おいで」
:
ミナト:「この間…」
ヒロキ:「ん?」
ミナト:「ヒロキさんが僕の肩に触ろうとした時、咄嗟に避けちゃったんです」
ヒロキ:「…うん、知ってる」
ミナト:「ごめんなさい…」
ヒロキ:「触られたくないって意味なのかと思って…ちょっとショックだった」
ミナト:「もしかしたら手がこう、スカってなっちゃうかなって…」
ヒロキ:「でも…今こうして、触れてる」
ミナト:「はい…すごく、嬉しいです」
ヒロキ:「今だけだとしても…俺も嬉しい」
ミナト:「あ……」
ヒロキ:「ミナト…?」
ミナト:「そっか、僕…満たされたんだ…」
ヒロキ:「っ!体が…」
ミナト:「…スケッチブック、そこに置いてます」
ヒロキ:「え…」
ミナト:「完成しました。外に出ても見れるか分からないけど…」
ヒロキ:「ミナト…!」
ミナト:「ヒロキさん、ありがとう」
:
ヒロキ:「…ミナト…」
:
ヒロキ:『しんとした境内に風が抜けて、ミナトの姿は煙のように腕の中から消えていった。最後に見た彼の顔は、満面の笑みだった』
:
:
:
ヒロキ:『すっかり荷造りも終わり、祖母からの頼まれ事も済ませた私は、再度神社を訪れていた』
:
ヒロキ:『清涼な風に満たされた境内には人気はなく、私はようやく賽銭箱に小銭を入れて鐘を鳴らす。思ったより高い音が響き、手を合わせて目を閉じた』
:
ヒロキ:『昨夜、ミナトの姿が消えてから見つけたスケッチブックは、いつも彼が持っていた物のように見えた。無造作に置かれたそれは少し古ぼけていて、美しい神社の光景が月明かりに照らされていた』
:
ヒロキ:『鉛筆で描かれたページを数枚めくった先に、色が飛び込んできた。私の姿が柔らかいタッチで描かれていて、穏やかな表情に安心する。少なくとも彼の目にはそう映っていたという事なのだろう』
:
ヒロキ:『私はそれを抱えて神社を後にした。もしこれが消えてしまっても構わないと思ったが、朝になってもそのままだった』
:
ヒロキ:「ミナト、ありがとう。大切にする」
:
ヒロキ:『立ち去りかけて、視界の隅に白い開襟シャツが見えた気がして振り向いた。が、そこには陽の光が差し込んでいるだけだった』
:
ヒロキ:『まるで蜃気楼のようだ、と思った。一時(いっとき)の幻のような時間だった気もする。が、彼に抱いた気持ちは決して幻ではなく錯覚でもなく、確かにミナトはそこにいた』
:
ヒロキ:『恋とも呼べないものだったのかもしれないけれど、私は確かに彼を好きになったのだ』
:
ヒロキ:『蝉時雨に見送られてその場を後にする。晴れ渡る青空は高くて、今日も暑くなりそうだった』
:
:
:終
ヒロキ:『随分長引いていた梅雨が開けた、7月の終盤。体調を崩し入院していた田舎に住む祖母が、ようやく退院したと連絡を受けた。とはいえ、病み上がりには違いないので、様子を見に行って欲しいと頼まれて、私は数年ぶりにその土地へと足を運んだ』
:
ヒロキ:『一日一往復しかないバスにも、いつ捕まるかも分からないタクシーにも期待はせず片道三時間半、ドライブ気分で向かった先は、数年前の記憶とは何も変わらず、長閑(のどか)だった』
:
ヒロキ:『玄関から声をかけると、奥から思っていた以上に元気な返事があった。姿を見せた祖母は、ハツラツとした笑顔を見せていたが、数年前より小さくなったように感じた。声は元気でもやはり周囲が心配するのも仕方がないのだろう』
:
ヒロキ:『仕事道具を車から下ろしながら、強ばった体を伸ばすと山からの涼しい風が頬を撫でる。この瞬間は田舎暮らしも悪くない、なんて思ってしまうから厄介な話だ』
:
ヒロキ:『出された麦茶はよく冷えていて、祖母の家に来るといつも用意されている菓子をつまむ。いくつになっても、彼女からしたら私は未だ小さな孫なのだな、と実感せざるを得ない』
:
ヒロキ:『一週間ほど滞在することを告げると、祖母は娘のように喜んで、私が手土産に買ってきた菓子包みを仏壇へと持って行った。私は用意された部屋に荷物を持ち込んで、気分転換に散歩に出ることにした』
:
ヒロキ:『青々とした田んぼと畑が広がり、見渡せば民家と山、山、山…限界集落と呼ばれる地域ではあるが、近年では都会から移住してくる人がちらほらいるらしい。便利な都会暮らしから、急にこんな、所謂「自然が豊かな」土地での生活となると、慣れない内はさぞかし不便だろうな、なんて思いながら目的もなくフラフラと歩く』
:
ヒロキ:『ふと石造りの鳥居が目に入り足を止めた。最近付け替えられたのか、掛かる注連縄はまだ新しく見える。子供の頃に夏祭りでこの神社を訪れたのを思い出し、私はそれをくぐった』
:
ヒロキ:『途端に空気が変わったように感じた。いうなれば、静謐。参道は、木陰の隙間から差し込む光と涼しい風が通り抜け、厳かな空気が満ちていた。長くない参道を通り抜け境内に至る』
:
ヒロキ:「…綺麗だな」
:
ヒロキ:『思わず独りごちた。定期的に掃除などをしているのだろう。雑草なども生えておらず、ここの注連縄もまた、新しく見えた。せっかく来たのだから、とお参りをしようとして、片隅に座る人影に気付いた』
:
ヒロキ:「…っ!」
ミナト:「……?」
ヒロキ:「…あ、すまない。人がいるって思わなくて…」
ミナト:「…あ、いえ。僕も驚かせちゃったみたいで」
:
ヒロキ:『薄く微笑んだ彼。病的に白い顔に掛かる、少し長めの前髪。小さな赤い唇が花びらのように見え、その姿は厳かな雰囲気の境内によく似合っていた』
:
ヒロキ:「君、ここら辺の子?」
ミナト:「最近、越してきました」
ヒロキ:「へぇ…都会の方から?」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「そっか…。ここで、何を?」
ミナト:「スケッチをしてました」
ヒロキ:「スケッチ?」
ミナト:「はい。とても、綺麗なので」
ヒロキ:「(ミナトを見ながら)……確かに、綺麗だ」
ミナト:「え?」
ヒロキ:「…あっ!ほら、境内!ちゃんと手入れされてるし、木漏れ日が綺麗だなーって」
ミナト:「そうですね。…あなたはどうしてここへ?」
ヒロキ:「あ、あぁ…その、祖母が退院したばかりでさ。散歩してたら鳥居見つけて…」
:
ヒロキ:『白い半袖の開襟シャツと黒いパンツのコントラスト。おそらく高校生くらいであろう彼は、今どきの子という感じではなく、とてもミステリアスな空気を纏っていた。その雰囲気に言葉がたどたどしくなりながら、祖母を訪れた理由などを簡単に説明した』
:
ミナト:「きっとお婆さんも嬉しいでしょうね」
ヒロキ:「うーん…うん、それは確かに」
:
ヒロキ:『蝉時雨が私たちの間に満ちていく。吹き抜ける風はからりと乾いていて肌に心地よい』
:
ヒロキ:「不便、じゃない?」
ミナト:「えっ?」
ヒロキ:「あぁいや、ほら。ここすごい田舎だから」
ミナト:「…いえ、特には」
ヒロキ:「高校生?」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「君くらいの年頃ならもっと色々店とかあった方が…」
ミナト:「そういうのは…あまりなくて」
ヒロキ:「そうなの?友達とか…」
ミナト:「その、僕…呼吸器系の病気があって」
ヒロキ:「……」
ミナト:「それで、療養のために引っ越してきたから…」
ヒロキ:「それは…ごめん」
ミナト:「いえ。ここは空気がすごく綺麗なので、僕は過ごしやすいです」
ヒロキ:「そっか…」
ミナト:「それに近所の方もすごく親切で。…向こうに住んでた時って、隣の家の人とも挨拶交わすかどうかって感じで」
ヒロキ:「あー…確かに」
ミナト:「畑で取れたからって、カゴいっぱいにお野菜貰うなんて経験、初めてしました」
:
ヒロキ:『そう言って彼は楽しそうに笑う。赤い唇から八重歯がちらりと覗いて、その笑顔は先程までの雰囲気とは違い、実に子供らしいものだった』
:
ヒロキ:「君、名前は?私は斎藤ヒロキ」
ミナト:「僕は津田ミナトです」
ヒロキ:「気軽にヒロキって呼んでくれたら良いから」
ミナト:「はい。…ヒロキさん」
ヒロキ:「私もミナト君って呼んでいいかな?」
ミナト:「呼び捨てでもいいですよ、まだ子供なので」
ヒロキ:「君くらいの年頃だと、子供扱いするなって怒るんじゃないの?」
ミナト:「弁えてますから」
ヒロキ:「言うね」
ミナト:「ふふっ」
ヒロキ:「じゃあ遠慮なく、ミナトで」
ミナト:「はい、それでいいです」
:
ヒロキ:『彼がこの世の物ならざる存在に感じていた私は、年相応に笑う姿を見て妙に安心した』
:
ヒロキ:「どんなスケッチしてるの?見せてよ」
ミナト:「まだ未完成ですけど…」
ヒロキ:「どれどれ…へぇ、すごいな…」
ミナト:「いえ、そんな…」
ヒロキ:「謙遜しなくていいよ、凄く上手い」
ミナト:「あ、ありがとうございます…」
ヒロキ:「いや、ほんとに…すごい。鉛筆一本でこんなふうに書けるもんなんだね」
ミナト:「…なんか、そう言われると恥ずかしいです」
ヒロキ:「私なんてデザイン関連の仕事してるのに、絵心無いからなあ」
ミナト:「デザインのお仕事してるんですか?もしかしてデザイナーさん?」
ヒロキ:「そんな良いもんじゃないよ。一応ウェブデザイナーってやつだけど…広告作ったりホームページ作ったり…」
ミナト:「かっこいいですね」
ヒロキ:「やってることは案外地味だけど…ありがと」
ミナト:「お仕事は大丈夫なんですか?長くお休みされるんでしょう?」
ヒロキ:「んー…ありがたいことに、最近はインターネットが繋がらない所の方が少なくてね。ネット環境さえあればお仕事ができる。どんな田舎に逃げても、パソコン一台あればね」
ミナト:「(小さく吹き出す)なるほど」
ヒロキ:「たまには事務所以外での仕事も悪くないよ。仕事量も調整してもらってるし」
ミナト:「じゃあいい気分転換ですね」
ヒロキ:「それもそうだ。…さて、そろそろ帰らなきゃ…」
ミナト:「そうですね、ヒグラシも鳴いてますし…」
ヒロキ:「ヒグラシ?」
ミナト:「この…高めの音です」
ヒロキ:「へぇ…昼間とは違って、少し涼し気な音だな」
ミナト:「ですよね。僕、好きなんです」
ヒロキ:「ヒグラシ、か。都会じゃ中々聞かないかもなぁ」
ミナト:「あの…」
ヒロキ:「ん?」
ミナト:「…もし、良かったら…お仕事の合間とかでもいいので…またお話してくれませんか?」
ヒロキ:「話?」
ミナト:「こうやって人と話しすることが最近無かったので…もちろんお仕事優先して頂いて」
ヒロキ:「……」
ミナト:「その、すごく楽しかったので…」
ヒロキ:「いいよ、もちろん」
ミナト:「…!」
ヒロキ:「私もね、話し相手が祖母だけっていうのも味気ないからさ」
ミナト:「ありがとうございます!あの、僕大体いつもここにいるので…」
ヒロキ:「分かった。また覗くよ」
ミナト:「はい、待ってます」
:
ヒロキ:『彼に見送られながら境内を後にする。少し傾いた日差しと、山から吹き降ろすひんやりとした風、軽やかな足取り。どこか浮ついた気持ちを抱いて私は祖母の待つ家へと帰った』
:
:
:
ヒロキ:『いつものアラーム音に目を覚まし、見慣れない天井に飛び起きて、祖母の田舎に来ていることを思い出した。いつもはじっとりと張り付くような暑さを感じるのに、それが無いだけで随分と快適だ』
:
ヒロキ:『漂う味噌汁の香りに、身体は素直に空腹を訴える。用意された炊きたてのご飯と漬物、味噌汁というシンプルな組み合わせに箸が弾む。祖母はニコニコと茶碗にご飯をよそい、私がまだ幼かった頃の話をする。彼女は随分と楽しそうだが、どうにも気恥しい』
:
ヒロキ:『食事を終え部屋に戻ってパソコンを起動させる。数件、未返信だったメッセージに返信を済ませ、私は仕事に取り掛かった』
:
:
ヒロキ:「やぁ、こんにちは」
ミナト:「こんにちは…ふふ、よく似合ってますね」
ヒロキ:「ん?ああ、この麦わら帽子?」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「暑いから被っていけって」
:
ヒロキ:『日もすっかり高くなった午後、私は神社を訪れていた。ミナトは昨日と同じようにスケッチブックを開いて境内に座っていた』
:
ヒロキ:「麦わら帽子なんて子供の頃に被ったきりだよ」
ミナト:「街中で被ってる人、見かけた事ないですね」
ヒロキ:「確かに。爺さんのお古らしいけど…大切に残してるんだもんなぁ」
ミナト:「お婆さん、お一人なんでしたっけ?」
ヒロキ:「うん。爺さんが死んで…もう十年超えるかぁ…」
ミナト:「それからずっと?」
ヒロキ:「都会暮らしは肌に合わないってさ。ここでずっと生きてりゃ、それもそうかって納得しかないけど」
ミナト:「…お婆さんの気持ち、僕わかる気がします」
ヒロキ:「そう?」
ミナト:「はい。都会は便利ですけど…目まぐるしくて。どんどん置いていかれる気がしてました。でもここはゆっくり時間が流れてる気がして…」
ヒロキ:「そっか…」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「でも…まぁ、うん。分かる気がする。よっと…(転がる)」
ミナト:「ヒロキさん?」
ヒロキ:「…今朝さ、久しぶりに朝ご飯食べた」
ミナト:「久しぶり…ですか」
ヒロキ:「うん。白ご飯と、じゃがいもと玉ねぎの味噌汁、きゅうりとなすの漬物。それだけなんだけど…一口食べて体が欲しがってるのか分かってさ。朝からあんなに食べたの久しぶりだった」
ミナト:「いつもは、朝ご飯どうしてるんですか?」
ヒロキ:「一人暮らしだからさ、適当なもんだよ。コーヒー入れて…それだけ」
ミナト:「コーヒーだけ、ですか」
ヒロキ:「朝起きても体がスッキリ起きてない感じだからさ、受け付けないんだ。それから仕事行って働いて…」
ミナト:「大変ですね」
ヒロキ:「不思議なもんで、朝しっかり食べてるのに昼時になったらお腹すいて。そしたら声掛かるんだ、お昼よーって」
ミナト:「(笑っている)お昼ご飯はなんだったんですか?」
ヒロキ:「夏野菜が乗っかった素麺。畑で取れたトマトときゅうりがてんこ盛り」
ミナト:「美味しいやつだ」
ヒロキ:「同じ野菜なのに…普段食べる味と違うんだよなぁ…」
ミナト:「分かります。味が濃いというか…瑞々しいですよね」
ヒロキ:「若いのに舌か肥えてるな」
ミナト:「…きっと、いいものを両親が食べさせてくれてたからですね」
ヒロキ:「大切にされてる証拠だ」
ミナト:「そうですね、そう思います」
ヒロキ:「…ミナトは、変わってるな」
ミナト:「変わって…ますか?」
ヒロキ:「んー、なんか違うか。ミステリアスで…魅力的」
ミナト:「えっ」
ヒロキ:「あれ…なんかこれも語弊があるか…」
ミナト:「…褒めてくれてる、んですよね?」
ヒロキ:「うん、まぁ…」
ミナト:「なら…嬉しいです」
ヒロキ:「そっか…(欠伸が出る)」
ミナト:「ふふっ、お腹が満たされてると眠くなりますよね」
ヒロキ:「仕事してると、それどころじゃないのになぁ…」
ミナト:「僕も時々、ここでお昼寝してる時ありますよ」
ヒロキ:「……綺麗、だな…」
ミナト:「…はい」
:
:間
:
ヒロキ:「…っ!」
ミナト:「目、覚めました?」
ヒロキ:「うわ…寝てた?」
ミナト:「寝てましたね」
ヒロキ:「うわ、うわぁ…ごめん」
ミナト:「30分も寝てなかったと思いますよ」
ヒロキ:「夜もしっかり寝たのに…」
ミナト:「案外、運転の疲れが出てたのかもしれませんね」
ヒロキ:「自覚ないだけで…歳かなぁ」
ミナト:「…ここは、空気が独特ですよね。綺麗なもので満たされてる感じがして。毎週、掃除に皆さん集まってこられるんです」
ヒロキ:「だからか…雑草もないし、整えられてるなって思ってた」
ミナト:「若い方が少なくなったから夏祭りは無くなっちゃったみたいですけど、信仰っていうか…こういう場所を大切にする気持ちは強いんでしょうね」
ヒロキ:「夏祭り、無くなったのか…」
ミナト:「確か数年前に」
ヒロキ:「子供の頃、親に連れられて来たことあったなぁ。赤い提灯が並んでさ、金魚掬いとわたあめと…」
ミナト:「良いなぁ…」
ヒロキ:「行けなかった?」
ミナト:「はい。越して来た頃には…夏祭りってすごく小さい頃に行ったことがある位で」
ヒロキ:「そっか…それは、残念…」
:
ヒロキ:『気がつくと、ヒグラシが鳴き始めていた』
:
:
:
ミナト:「あの…ヒロキさん。僕に貴方の絵を描かせて貰えませんか?」
:
ヒロキ:『三日目、真剣な顔をして彼はそう言い放った』
:
ヒロキ:「…私の?」
ミナト:「はい!」
ヒロキ:「こんなおじさん、描いても楽しくないだろ」
ミナト:「ヒロキさんを描きたいんです。それにおじさんって程の歳じゃないでしょう?」
ヒロキ:「…まぁ、そうかもしれないけど」
ミナト:「ダメですか?」
ヒロキ:「いや、ダメってことは無いけど…ほんとに私で良いの?」
ミナト:「はいっ!」
ヒロキ:「………ぷっ」
ミナト:「え、なんですか?」
ヒロキ:「いやさ、なんか子供らしい顔が増えたなって思って」
ミナト:「僕、まだ子供ですが」
ヒロキ:「いやいや、そうじゃなくて。初めて見た時は随分大人びて見えたから」
ミナト:「そう…ですか?」
ヒロキ:「私がミナト位の歳は、遊びたいばっかりで、もっとクソガキだったよ」
ミナト:「ヒロキさんの話、描きながらもっと聞かせてください」
ヒロキ:「なんかポーズとかいる?」
ミナト:「大丈夫です、自然にしてもらって」
ヒロキ:「初モデル」
ミナト:「僕も、誰かを描くのは初めてです。…ヒロキさんはどんな子供だったんですか?」
ヒロキ:「そうだなぁ。勉強が嫌いだった。部活は楽しかったけど」
ミナト:「なんの部活に入ってたんですか?」
ヒロキ:「バスケ」
ミナト:「かっこいい」
ヒロキ:「バスケやってたら背が伸びるって聞いたけど、デマだった」
ミナト:「背、低くは無いと思いますけど…」
ヒロキ:「その頃はもっと背が高い方が良いって思ってたんだよ」
ミナト:「背が高い人に憧れてたんですね」
ヒロキ:「なんか頼もしく見えるかなって」
ミナト:「それは、そうかも」
ヒロキ:「ミナトは?勉強や部活は?」
ミナト:「…休みがちでしたけど、学校は好きでした。全然勉強とか追いつけなくて大変だったけど、そういうのも含めて楽しかったです」
ヒロキ:「へぇ…偉いな」
ミナト:「好きな人とかいたら、もっと青春してたかもしれません。その人に会いたいが為に必死で学校通ったり」
ヒロキ:「励みには…なると思う」
ミナト:「恋愛って、縁なかったなぁ…」
ヒロキ:「今からでも遅くないだろ」
ミナト:「…そうですかね」
ヒロキ:「そうだよ、まだまだ若いんだからなんだって出来るさ」
:
ヒロキ:『何の気なしに発した私の言葉に、困ったように笑うミナトを見て、しまったと思った時にはもう遅かった。吐いた言葉はもう飲み込めない。療養のために引っ越したと聞いたのは、ついこの間だと言うのに』
:
ヒロキ:「…ごめん、軽率だった」
ミナト:「あっ、すみません…そんなつもりじゃ…」
ヒロキ:「いや。悪かった…ミナトの事情、聞いてたのに…」
ミナト:「その…僕も気を使わせてしまってごめんなさい。こっちじゃ全然友達が居なくて無理だなって思っちゃって…」
ヒロキ:「……」
ミナト:「ヒロキさん、そんな顔しないでください」
ヒロキ:「…ん」
ミナト:「僕、こうしてヒロキさんとお話してる時間がすごく楽しいんです。今青春してますよ!」
ヒロキ:「…ったく、俺もダメな大人だなあ…」
ミナト:「あ…」
ヒロキ:「?」
ミナト:「今、俺って言いました?」
ヒロキ:「あっ…あー、しまった…」
ミナト:「(小さく笑っている)」
ヒロキ:「…仕事でさ、やっぱり人とのやり取りが多いから気をつけてたんだけど…」
ミナト:「なんだか嬉しいです」
ヒロキ:「そう?」
ミナト:「はい、嬉しいです」
:
ヒロキ:『その笑顔が嘘には見えず、とても眩しく私の目に映った。微かに抱いた違和感はあったが、その表情が救いだった』
:
:
:
ヒロキ:「雨、か…」
:
ヒロキ:『四日目の朝。空は灰色の重たい雲が広がり、早朝から雨が降り続いていた』
ヒロキ:『一日続く、と天気予報では伝えており、確かにすぐに止みそうな様子ではない。さすがにこの天気ではミナトも家で大人しくしているだろうと思い、少し滞りかけていた仕事に向かった』
ヒロキ:『音声通話をしながらパソコンに向かっていると、物珍しそうに祖母が覗きに来て、少し離席した隙に、何故か私の同僚とえらく盛り上がっていた』
ヒロキ:『ヒロちゃんって呼ばれてるんですね、なんてからかわれながら、その日の分を終わらせたのは既に夕方近くになってからだった。普段の机ではなく、小さな文机に向かっていたせいか、とにかく背中と腰が痛い。体を伸ばしついでに傘を借り、外へ出た』
:
ヒロキ:『いつもの蝉時雨の代わりに聞こえるのはカエルの大合唱。田舎のこういう面を知らずに引っ越してくるとあまりの音量に驚くらしい。正直子供の頃は少し怖かったのを覚えてる』
:
ヒロキ:『自然に向く足取り。鳥居をくぐり雨に濡れた参道を歩き…』
:
ヒロキ:「どうして…」
:
ヒロキ:『スケッチブックに向かうミナトの姿に次の言葉が出なかった』
:
ミナト:「あ、こんにちは」
ヒロキ:「……」
ミナト:「…どうか、しましたか?」
ヒロキ:「…なんで」
ミナト:「え?」
ヒロキ:「なんで、いるんだ…」
ミナト:「…ヒロキさん?」
ヒロキ:「いつから、いるんだ。もう夕方だぞ」
ミナト:「もうそんな時間なんですね。夢中になってて…」
ヒロキ:「夏とはいえ、風邪ひく」
ミナト:「そうですね、気をつけます。ヒロキさんはどうしてここに?」
ヒロキ:「…散歩ついでに、もしかしたらって…思って…」
ミナト:「ふふっ、僕はいつもここにいるって言いましたからね。ご期待に添えたみたいで何よりです」
ヒロキ:「今日ずっと雨だったから…居ないと思ってた」
ミナト:「でも、来てくれたんですね」
ヒロキ:「…ん」
ミナト:「あ、そうだ。ヒロキさんの絵、もう少しで描き上がるので、待っててくださいね」
ヒロキ:「え…」
ミナト:「ヒロキさんが帰ってしまう前に…ちゃんと色も使って完成させますから」
ヒロキ:「そんな…一生懸命にならなくても」
ミナト:「僕が完成させたいんです」
ヒロキ:「……」
ミナト:「完成したものを、ヒロキさんに渡したいだけなんです」
ヒロキ:「…そっか。楽しみにしてる」
ミナト:「はいっ」
ヒロキ:「でも、もう今日は帰った方がいい。雨だから早く日も暮れるし、体には良くないと思う」
ミナト:「そうですね」
ヒロキ:「もしかして濡れて…」
ミナト:「…っ!」
ヒロキ:「え…」
ミナト:「あ、すみません。僕は大丈夫ですから」
ヒロキ:「…え、っと…」
ミナト:「おばあちゃん待ってますよ、きっと。早く帰ってあげてください。僕は、大丈夫ですから」
:
ヒロキ:『濡れたのではないか、と肩に触れようとしただけだった。指先が触れる前に、ミナトが避けた…ように見えた。スケッチブックを抱えて笑顔で帰るように促した彼は、自分にももうすぐ迎えが来てくれるから心配いらないと言って手を振り私を見送る』
;
ヒロキ:『何も言えず引き下がった私は、鳥居を抜けると傘を閉じて歩いた。何故か両目から溢れる雫を雨で誤魔化しながら帰った』
:
:
:
ヒロキ:『重たい頭をどうにか持ち上げて起き上がる。気分が沈んでいるのは、昨日の些細な出来事が原因なのはわかっている。ただ触れようとした時に彼が動いただけ、と思えばそれだけなのに…。どうしてこんなにも落ち込んでいるのか自分でもよく分からなかった』
:
ヒロキ:『夢を見たせいもある。過去投げつけられた言葉が夢の中で再生された。何の気なしに触れた手に明らかな戸惑いの色を見せた相手は、友達でもキツイ、言った。どんな私でも受け入れる、と言ったその口で』
:
ヒロキ:『全く捗らない仕事を投げ出して、私はしばらく縁側に腰かけていた。高い風鈴の音、蝉時雨。くっきりとした入道雲と青々と広がる田んぼ。まるで本や映画の世界のような光景が目の前に広がっている』
:
ヒロキ:「ミナト、居るかな…」
:
ヒロキ:『きっと居るだろう、という確信。ひとりで悶々としていても何も解決しないのはよくわかっていた。絵を完成させたい、と言ってくれた彼に会いたくて私はまた神社に向かった』
:
ヒロキ:「あ…れ?」
:
ヒロキ:『しんとした境内は木々の隙間から光が刺していてとても美しかった。が、いつものミナトの姿は無かった』
:
ヒロキ:「今日は…来てないのか…」
ミナト:「わっ!」
ヒロキ:「うわっ!」
ミナト:「(笑っている)」
ヒロキ:「びっくりした…」
ミナト:「(笑いながら)ちょっとびっくりさせよって思っただけなんだけど」
ヒロキ:「脅かすなよ…」
ミナト:「(徐々に笑いが収まる)あー面白かった!こんなに笑ったの、久しぶりです」
ヒロキ:「くっそ〜やられた」
ミナト:「古典的だけどいい反応ですね!」
ヒロキ:「子供か!」
ミナト:「子供です」
ヒロキ:「いばるな!ったく…(笑い出す)」
:
:ひとしきり笑い合う二人
:
ミナト:「あー笑った」
ヒロキ:「俺もだ。こんなに大笑いしたの、久しぶりだ」
ミナト:「あ、また」
ヒロキ:「ん?あー…ミナトの前なら良いかなって」
ミナト:「という事は、ヒロキさんの特別って事で良いですか?」
ヒロキ:「そういう事になるな」
ミナト:「…なんだか、あっさり納得されると照れますね…」
ヒロキ:「照れる?なんで?」
ミナト:「…誰かの特別とか…照れませんか?」
ヒロキ:「…改めて言われると、まぁ確かにそうかも?」
ミナト:「えへへ」
ヒロキ:「…良く来るタイミングがわかったな」
ミナト:「実は上からこっそり覗いてたんです」
ヒロキ:「で、脅かしてやろうって?」
ミナト:「はい。昨日、なんだかヒロキさん元気なさそうだったから」
ヒロキ:「……」
ミナト:「僕の気の所為、でした…?」
ヒロキ:「…いや、気のせいじゃない…かも」
ミナト:「何かあったんですか?」
ヒロキ:「いや、何も。…えっと、仕事でちょっと?」
ミナト:「そうですか…でも、笑ってくれて良かった」
ヒロキ:「…心配、かけてごめん」
ミナト:「元気、出ました?」
ヒロキ:「…うん。ありがとうミナト。声上げて笑って…なんかスッキリしたよ」
ミナト:「良かった」
ヒロキ:「気、使わせたな」
ミナト:「笑っててください。僕、ヒロキさんが笑っててくれると嬉しいです」
ヒロキ:「そっか…」
:
ヒロキ:「俺も、ミナトが笑ってくれてたらそれが嬉しい」
:
ヒロキ:『不意に口をついて出た。少し驚いた顔をしたミナトは、照れくさそうに鼻の頭をかいて笑った』
:
ヒロキ:『並んで境内に座り、取りとめのない会話をする。朝の重たい気持ちはどこへやら…すっかり晴れやかになった気持ちになっていた』
:
ヒロキ:「そろそろ帰るよ、仕事残してきてるし」
ミナト:「そうですか。あ!明日には絵をお渡しできると思います!」
ヒロキ:「そうなのか?」
ミナト:「…もうそろそろ、一週間ですもんね」
ヒロキ:「ぁ…」
ミナト:「間に合いそうでほっとしてます」
ヒロキ:「そっか…。あ、そうだ」
ミナト:「?」
ヒロキ:「良かったら…一緒に写真、撮らないか?」
ミナト:「写真?」
ヒロキ:「その…出会った、記念に…」
ミナト:「……」
ヒロキ:「ミナトが良ければ…」
ミナト:「嫌ではないんですけど…」
ヒロキ:「…苦手とかなら、辞めとく」
ミナト:「いえ…!いいですよ、撮りましょう」
ヒロキ:「無理してない?」
ミナト:「全然!」
ヒロキ:「そ、っか…じゃあ」
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ヒロキ:『ミナトと横並びになる。スマートフォンを掲げて、不自然にならないように体を寄せる。肩が触れたけど、画面の中のミナトは楽しそうに笑っていた』
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ヒロキ:「チーズ、っと…」
ミナト:「見せてください」
ヒロキ:「お、いい感じに撮れてる」
ミナト:「…嬉しい」
ヒロキ:「簡易プリンター、持ってきてて正解だったな。プリントアウトして持ってくるよ」
ミナト:「良いんですか!ありがとうございます!」
ヒロキ:「いや、こっちこそ…ありがと。じゃあ…」
ミナト:「はい、また明日」
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ヒロキ:『家路に着く。朝、余程酷い顔をしていたのだろう。祖母がほっとした顔をして食事を用意してくれていた。見舞いなどを兼ねて来た側が心配されるとはなんとも情けない話だ』
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ヒロキ:『思っていたより多い案件をこなしていると、あっという間に日が暮れてしまった。外ではカエルの鳴き声が響き、窓から入ってくる風はひんやりと心地よかった』
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ヒロキ:『こんな限界集落でも小さな商店はあるもので。しかしその店主が体調を崩したらしく、店が閉まっていると困り顔の祖母を連れて、その日は買い物に出た。車で来て正解だと思ったのは、近所の家の人たちからも買い物を頼まれたからだ』
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ヒロキ:『祖母も夏祭りがなくなってしまった事を寂しがっていた。子供が少なくなり、賑わいが減ってしまったことは、やはり長年住んでいる者からすれば味気ないのだそうだ』
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ヒロキ:『ホームセンターやスーパーなどを巡り、結局午後になってようやく帰宅となった。そこから仕事に取り掛かり、結局全てが終わったのは夜になってからだった』
:
ヒロキ:『そういえば、と簡易プリンターをセットしてスマートフォンを取り出す。ついでに祖母と撮った写真もプリントアウトしようと、フォトフォルダを開き手が止まった』
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ヒロキ:『改めて境内で撮影した写真を見返して、私は家を飛び出した』
:
ヒロキ:『街灯は少ないが、満月に近い空は明るく感じた。何度も転びそうになりながら神社に向かい走る。鳥居を抜け、暗い参道を走り抜け…。境内に座るその姿に、言葉が出てこなかった』
:
ミナト:「…ヒロキさん」
ヒロキ:「(息が上がっている)」
ミナト:「こんな時間に…どうしたんですか?」
ヒロキ:「ミ、ナト、こそ…」
ミナト:「僕は…、その…」
ヒロキ:「どうして」
ミナト:「……」
ヒロキ:「なんで」
ミナト:「…もしかして、気付いちゃいましたか?」
ヒロキ:「…まだ、信じられないけど…」
ミナト:「はい」
ヒロキ:「写真、プリントしようと、思って…」
ミナト:「…はい」
ヒロキ:「見間違いかと思って、見返したけど…」
:
ヒロキ:『自分しか写っていない写真。境内で見た時はちゃんとミナトも写っていたのに』
:
ミナト:「はい…」
ヒロキ:「君は、何者なんだ…?」
ミナト:「ん〜…多分アレです、幽霊ってやつ」
ヒロキ:「…嘘だろ」
ミナト:「僕、ここから動けないんです。ずっと…何年も、色んな人に話しかけてみたけど、誰にも気付かれなくて…諦めてました。たまに僕の気配を感じる人も居ましたけど…それだけで」
ヒロキ:「……」
ミナト:「学校に行けない時はいつもここで絵を描いてました。そのせいなんですかね…気が付くとここにいて、神社の敷地から出れなくなってました」
ヒロキ:「…触れたのに、こうやって言葉も交わしてるのに…」
ミナト:「ヒロキさんだけなんです、僕の姿を見てくれたの。凄くびっくりしました。でも幽霊なんですって言っても信じて貰えないだろうから…」
ヒロキ:「そりゃ、そうだよ…でも、なんかおかしいって思った時はあった」
ミナト:「ありました?」
ヒロキ:「…学校のこと聞いた時、高校生だって言う割に、昔の事、みたいな話し方してたから」
ミナト:「…無自覚でしたね、うっかり」
ヒロキ:「休みがちだからかなって思ったけど…」
ミナト:「……」
ヒロキ:「それに、いつも同じ服装で他の格好、見た事ない…」
ミナト:「確かににいつもこれですね。制服なんですよ」
ヒロキ:「…幽霊ってさ、もっと怖いものじゃないの?」
ミナト:「怖くないですか?」
ヒロキ:「怖くない…」
ミナト:「今からでもうらめしや〜って言いましょうか」
ヒロキ:「(吹き出す)怖がらせる為にしても、さすがに古くないか?」
ミナト:「それもそうですね(笑う)」
:
:顔を合わせて笑う二人
:
ミナト:「僕、幽霊の才能は無さそうです」
ヒロキ:「幽霊に才能とかあるの?」
ミナト:「ん〜…適性は必要かもしれません」
ヒロキ:「適性もなさそう」
ミナト:「あっ、酷い」
ヒロキ:「…幽霊っぽくない」
ミナト:「足もありますしね」
ヒロキ:「そういやそうだ」
ミナト:「ヒロキさんとは話もできて、触れます」
ヒロキ:「ここ、限定だけど」
ミナト:「…僕、久しぶりに人と話せて、すごく嬉しかったんです。本当に、楽しくて…」
ヒロキ:「ミナト…」
ミナト:「それで、思い出したんです。僕、もっと誰かと話したかったんだって。とりとめのない会話をして、馬鹿馬鹿しいことで笑いあって…些細な事かもしれないけど、僕には特別なことだったんです」
ヒロキ:「うん…」
ミナト:「ヒロキさんが僕に気付いてくれて、本当に満たされた気持ちになって…でも僕が残せるものって何も無いから、せめてここにいる間だけでもって思って…」
ヒロキ:「うん…」
ミナト:「ヒロキさんに出会えて…良かった…!」
ヒロキ:「…うん」
ミナト:「僕、あなたが好きでした…」
ヒロキ:「…ミナト」
ミナト:「この気持ちがなんなのか、よくわからないですけど…好きでした」
ヒロキ:「…馬鹿やろう」
ミナト:「……」
ヒロキ:「過去形に、するな」
ミナト:「え…」
ヒロキ:「ミナト」
ミナト:「は、はい…」
ヒロキ:「君の事が好きだ」
ミナト:「…!」
ヒロキ:「気が付いたら…。ミステリアスな雰囲気も子供みたいに笑う所も、すごく魅力的だって思った」
ミナト:「…ありがとう、ございます」
ヒロキ:「好きだって気持ちを、初めて受け入れてくれた相手が幽霊だなんて…まったく。なんの冗談だよ」
ミナト:「生きてる内に出会いたかったです」
ヒロキ:「こっちの、セリフだ」
ミナト:「ヒロキさん。今、僕…ハグして欲しいです」
ヒロキ:「…おいで」
:
ミナト:「この間…」
ヒロキ:「ん?」
ミナト:「ヒロキさんが僕の肩に触ろうとした時、咄嗟に避けちゃったんです」
ヒロキ:「…うん、知ってる」
ミナト:「ごめんなさい…」
ヒロキ:「触られたくないって意味なのかと思って…ちょっとショックだった」
ミナト:「もしかしたら手がこう、スカってなっちゃうかなって…」
ヒロキ:「でも…今こうして、触れてる」
ミナト:「はい…すごく、嬉しいです」
ヒロキ:「今だけだとしても…俺も嬉しい」
ミナト:「あ……」
ヒロキ:「ミナト…?」
ミナト:「そっか、僕…満たされたんだ…」
ヒロキ:「っ!体が…」
ミナト:「…スケッチブック、そこに置いてます」
ヒロキ:「え…」
ミナト:「完成しました。外に出ても見れるか分からないけど…」
ヒロキ:「ミナト…!」
ミナト:「ヒロキさん、ありがとう」
:
ヒロキ:「…ミナト…」
:
ヒロキ:『しんとした境内に風が抜けて、ミナトの姿は煙のように腕の中から消えていった。最後に見た彼の顔は、満面の笑みだった』
:
:
:
ヒロキ:『すっかり荷造りも終わり、祖母からの頼まれ事も済ませた私は、再度神社を訪れていた』
:
ヒロキ:『清涼な風に満たされた境内には人気はなく、私はようやく賽銭箱に小銭を入れて鐘を鳴らす。思ったより高い音が響き、手を合わせて目を閉じた』
:
ヒロキ:『昨夜、ミナトの姿が消えてから見つけたスケッチブックは、いつも彼が持っていた物のように見えた。無造作に置かれたそれは少し古ぼけていて、美しい神社の光景が月明かりに照らされていた』
:
ヒロキ:『鉛筆で描かれたページを数枚めくった先に、色が飛び込んできた。私の姿が柔らかいタッチで描かれていて、穏やかな表情に安心する。少なくとも彼の目にはそう映っていたという事なのだろう』
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ヒロキ:『私はそれを抱えて神社を後にした。もしこれが消えてしまっても構わないと思ったが、朝になってもそのままだった』
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ヒロキ:「ミナト、ありがとう。大切にする」
:
ヒロキ:『立ち去りかけて、視界の隅に白い開襟シャツが見えた気がして振り向いた。が、そこには陽の光が差し込んでいるだけだった』
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ヒロキ:『まるで蜃気楼のようだ、と思った。一時(いっとき)の幻のような時間だった気もする。が、彼に抱いた気持ちは決して幻ではなく錯覚でもなく、確かにミナトはそこにいた』
:
ヒロキ:『恋とも呼べないものだったのかもしれないけれど、私は確かに彼を好きになったのだ』
:
ヒロキ:『蝉時雨に見送られてその場を後にする。晴れ渡る青空は高くて、今日も暑くなりそうだった』
:
:
:終