台本概要

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タイトル 2:2[箱入り娘]-絵師乙桐の難儀なあやかし事情-
作者名 瀬川こゆ  (@hiina_segawa)
ジャンル 時代劇
演者人数 4人用台本(男2、女2) ※兼役あり
時間 60 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 妖魔妖怪、魑魅魍魎。その他、人ならざるモノを描くあやかし絵師の「乙桐」。
彼の元には不思議と、そう言った物事に関わる人々が集まって来た。
封じる力を持ちながらてんで何も見えやしない乙桐は、見える目を持ちながら何が真で何が偽りかを認識出来ない童女「赤眼」と二人で暮らしている。

腐れ縁の「泪」に連れられて乙桐の元へ訪れた小間物屋の一人娘「とよ子」。
曰く、父親から譲り受けた開かずの化粧箱を開けてしまったその日から、何とも奇妙な目に合ってしまっているらしい。

此の世の中は随分と、奇っ怪な事柄が蔓延っている。

本当に怖いのは人ならざる者か?
それともはたまた人でしか成り得ない者なのか。

「嗚呼、難儀だ難儀だ難儀だよぅ」

あやかし絵師を取り巻く奇妙な話の数々、語って聞かせてみましょうか。

※実質4人台本ですが一部兼役有の為6人設定になってます。
 前後に分ける場合には、泪の口上から後半開始推奨。

※上下分けたものと、このシリーズの台本はアルファポリスに優先的に投稿しています。
 【絵師乙桐の難儀なあやかし事情】
 https://www.alphapolis.co.jp/novel/379290313/994792791

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
乙桐 173 「おとぎり」おどろおどろしい絵ばかりを描く絵師の男。大通りを少し逸れた寂れた所にある長屋で赤眼(あかめ)と二人で暮らしてる。乙桐の描く絵はある一定数の条件に当たる人ばかり惹き付ける為、定期的にとある依頼を受けている。※父、兼役推奨。
赤眼 92 「あかめ」その名の通り赤い目をした童女。赤い着物を着ている。言葉遣いがかなり訛っている為、濁点つけがち。何が普通で何がおかしいのか、その境目が分からない。どこから来たのか等、乙桐以外は正確に把握していない。※母、兼役推奨。
149 「るい」女の着物を着て言葉回しも女性寄りな男。とある事情で吉原遊郭の大見世で性別を隠して花魁をやっている。中身と性格はがっつり男。吉原の大門を抜ける時は男の姿に戻る為、出入りし放題好き勝手やっている。ついでに年季もなければ借金もないので何故吉原に居るのかは誰も知らない。
とよ子 126 乙桐の絵を並々ならぬ様子で見ていた所を泪に捕まった小間物屋の娘。何かしらの悩みがあるらしい。
6 とよ子の父。※乙桐兼役推奨。
5 とよ子の母。※赤眼兼役推奨。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

文字サイズ
0:夜の村。 0:少し離れた所で、家屋が燃える火の色が空を赤く染めながら不気味に彩る。 0:対して大きくもない木の前で、横たわる少女と対面する形で立った男は静かに彼女を見下ろす。 0:少女はただ、光のなくなった目を宙に彷徨わせながらぶつぶつと独り言を繰り返していた。 赤眼:鬼、鬼だ、鬼さが来た、鬼が。 乙桐:………おい、お嬢ちゃん。 赤眼:あんれは鬼だ……鬼さなんだ……。 赤眼:父ちゃも母ちゃも殺された……。 赤眼:村に鬼さが来た……鬼さが……。 乙桐:この村はお嬢ちゃんがこうしたのか? 赤眼:村ん人さおかしくなった……。 赤眼:あん白髪さ鬼子が来てかんだ……。 赤眼:村ん人さ突然オラさ化け物さ呼んだ。 赤眼:父ちゃも母ちゃもオラさ庇って死んだ……。 赤眼:死んじまったんだ……。 乙桐:ふぅ………正気を失っているな。 乙桐:当てられたのか。 乙桐:この濃い瘴気の中じゃあ仕方ない。 乙桐:けれどな、嬢ちゃん。 乙桐:よぉく聞け。 赤眼:鬼なんだ、鬼なんだ、鬼なんだ。 乙桐:例え心を砕かれていても、お前はこの村のたった一人の生き残りだ。 赤眼:鬼だ、鬼だ、鬼だ。 乙桐:だから今ここで選べ。 乙桐:このまま朽ちるか、それとも這いつくばってでも生きるのか。 赤眼:鬼、鬼、鬼、鬼、鬼………。 乙桐:なあ本当は、まだ僅かばかりの色を見ているんだろう? 乙桐:俺は絵師だ、誤魔化せやしねぇ。 赤眼:……………。 乙桐:それでいい。 乙桐:さあどちらがいい? 乙桐:選べ。 赤眼:わしは……わしは、 0:間 赤眼:もしも私が願いを欲していいのなら 赤眼:私はこの生命を最低な色で塗り潰して 赤眼:ぐちゃぐちゃに踏み潰してしまいたい 赤眼:そうして初めて見る景色は、今よりずっと綺麗だと思うから 赤眼:嫌いなものを好きで居るフリをしているから、私は違う事が妬ましい 赤眼:あなたが大っ嫌いなのだ 赤眼:  赤眼:いっそ、死んでしまえと願うほどには 0:昼間の町。 0:人々が行き交う中で一人、まだ年若く見える女は絵草子屋を前にとある絵を目にして佇んでいた。 0:ふと、背後から女に声を掛ける人が来る。 とよ子:………。 泪:今にも飛び付いて来そうだろう? 泪:けれど安心おし。 泪:そんなに食い入るように見つめても、その中のモノは逃げやしないし、 泪:ましてやお嬢さんに喰らいついたりもしやしない。 とよ子:えっ?! 泪:おやぁ、驚かせたようだねぇ。 泪:突然話しかけちまって悪かったよ。 泪:お嬢さんがあんまりにもまじまじと、 泪:その絵を見てるもんだからつい気になってしまってねぇ。 とよ子:あっ?! とよ子:すみません……。 とよ子:お店の方ですか? 泪:いいや? 泪:ただその絵を描いてる奴と、少しばかり縁が繋がっただけの通りすがりに過ぎないよ。 とよ子:はぁ……? 泪:お嬢さんみたいな歳若い娘は、普通歌舞伎役者の浮世絵なんかを手に取って、 泪:うっとりと眺めたりするもんだろう? 泪:どうして全く、よりにもよってそんな絵を眺めていたんだい? 0:一拍 泪:【鬼が人を喰い殺す絵】なんかをさ。 とよ子:あ、………えっと。 泪:嗚呼!すまないねぇ。 泪:ちょいとばかし踏み込み過ぎちまったかな。 泪:何分(なにぶん)気になった事は、 泪:どうにも問わなければ気が済まない質でねぇ。 とよ子:いえ、いえ大丈夫です。 とよ子:…………。 とよ子:この絵を書いた方を知っていらっしゃるんですか? 泪:嗚呼、そうだよ。 泪:先にも言ったが、少しばかりの縁が繋がっているのさ。 とよ子:そうなんですか……。 0:一拍 泪:…………さてはお嬢さん。 泪:会いたいのだろう? 泪:これを描いた絵師に。 とよ子:っっ?! とよ子:どうして、 泪:簡単な話さねぇ。 泪:アイツの描いた絵はね、何故だか同じような性を抱えた者ばかりが惹き付けられちまうんだよ。 泪:一筋縄じゃいかないような、そんな深い業を抱えたねぇ。 とよ子:業……ですか。 泪:全くお笑い草だとは思わないかい? 泪:おどろおどろし過ぎて、とてもじゃないが店(たな)の頭には置けない絵が、 泪:悩みを抱えた連中を呼び寄せるんだ。 とよ子:…………。 泪:お嬢さんもその類じゃあないのかい? とよ子:私は…………。 泪:ふっ。 泪:立ち話もなんだから、案内してやろう。 泪:これもきっと何かの縁だ。 泪:妖ばかり描き連ねる、件の絵師先生の所まで……。 0:  0:大通りを奥に行った所にある長屋の一部屋。 0:泪はかなり乱暴に戸を叩いた後に、家主の返事も待たずに開けた。 0:  泪:ちょいと邪魔をするよ。 赤眼:誰じゃ? 赤眼:嗚呼かやっ子さ姉さまだで。 泪:おやまぁ赤眼(あかめ)じゃあないかい!嬉しいねぇ。 泪:赤いべべ着た可愛い赤眼。 泪:出迎えがアンタとは、アタシも幸先がいいもんだ。 赤眼:かやっ子さ姉さまが今日はなしてこんな所さ来ただ? 泪:アタシに用は無いさねぇ。 泪:但し、アタシの連れはアンタの先生に用があるみたいなんだよ。 赤眼:……連れ? 赤眼:なんだぁかやっ子じゃねぇのか。 泪:あの子は滅多に大門の外に出られやしないからねぇ。 泪:堪忍しておくれ。 赤眼:平気だ。 赤眼:そん内せんせにおねげぇしてわしからかやっ子に会いに行ぐ。 泪:そうしてくれると助かるさね、あの子もきっと喜ぶだろう。 泪:手引きが必要ならいつでも呼びな。 泪:可愛い赤眼に会いたいのは、何もあの子だけじゃあないからねぇ。 赤眼:あんがてぇ。 赤眼:んでかやっ子さ姉さま、せんせさに用ってなんだ? 泪:なぁに、いつもの通りの野暮用さ。 0:少し間 赤眼:……。 赤眼:呼んでくっけぇそこさ座って待ってけろ。 泪:あい分かった。 0:  とよ子:あの子は? 泪:ん?嗚呼あれは赤眼。その名の通り目が赤いだろう? 泪:鬼灯の実のようで時々色々とゾッとしちまうがねぇ。 とよ子:絵師先生の子、なんですか? 泪:さぁねぇ。その辺の事情は知りやしないがただまぁ縁者で無い事は確かだねぇ。 とよ子:奉公人……とかですかね。 泪:興味を持つ事が決して悪とは言えやしないし、アタシも人様の事を言えた義理じゃあ無いけどねぇお嬢さん。 泪:他所(よそ)様の領域にそう易々と首を突っ込むのは関心しないよ? 泪:問いて良いものと駄目なもの、この線引きはしっかりしなきゃあいけないもんだ。 とよ子:あ……そうですよね。不躾でした、すみません。 泪:分かればいいのさ。 0:  泪:いやさねぇアタシがこんな事を言っちまったのは、ここを住処としている絵師先生がそれはそれは大層難儀な野郎だからなのさ。 とよ子:はい? 泪:噂じゃあ夜な夜な墓場から屍を担いではこの家に連れ込んでせっせっと、 乙桐:(被せる)嘯いてからかうのはその辺にしておけ、泪。 泪:おやまぁもう来ちまったのかい。 乙桐:大層難儀な野郎とはお前の事だろう。 泪:アタシのどこが難儀だって言うんだい? 乙桐:男の身でありながらあの天下の吉原で意気揚々と花魁張ってる奴のどこが難儀じゃないと言えるんだ? とよ子:男っっ?!え、吉原っっ?! 泪:なんだいお嬢さん気付いていなかったのかい? とよ子:てっきりどこかの御内儀(おないぎ)さんとばかりに思っていました。 乙桐:御内儀さんとは笑わせる。 乙桐:そいつは陰間じゃなくわざわざ周囲の者に箝口令を敷いてまで、性別を偽って女郎として吉原に君臨しているとんだ変わり者だ。 泪:生憎とこれっぽっちも男色の気が無かったものでねぇ。 乙桐:やってる事は陰間と対して変わらぬだろうに。 泪:そうでも無いさねぇ? 泪:まぁアンタの禄(ろく)じゃあ座敷持ちは相手にしてくれないだろうから知らないのも無理は無いけれども。 泪:このアタシの手練手管(てれんてくだ)に掛かれば男共は皆、 赤眼:(被せる)なぁ、かやっ子さ姉さま。陰間ってなんだ? 泪:これはしまった!アタシとした事が!赤眼が居るのをすっかり忘れちまっていたよ。 泪:うちの禿(かむろ)達と同じくらいの齢の子に、とてもとても聞かせる話では無かったさね。 乙桐:別に聞いたところで害にはならないだろう。 乙桐:二つ前の依頼主は女衒(ぜげん)を生業としていたし、お前さんみたいな輩はごまんと来る。 乙桐:今俺やお前さんが口を閉じたところでいずれは耳に入る程度の戯言だ。 泪:だからって得にもならないじゃないか! 乙桐:お前さんとこの小さいのだって、あー……。 赤眼:せんせ、かやっ子だ。かやっ子。 乙桐:嗚呼、そう!おかや。 乙桐:アレなんかそりゃあ散々とアレやコレ。あの歳で既に見聞きしているんだろう? 泪:かやは禿だから仕様がない。 泪:引っ込みまで行かせてやりゃあ、少しはマシだったかもしれないが、そう贅沢を言える立場でも無いからねぇ。 乙桐:お前さん付きになっちまった時点でおかやの運は尽きたも同然だ。 泪:あの見世ではアタシの傍が一番安全さ。 乙桐:廓(くるわ)言葉もろくに話せない、オイラの姉さんの傍がか? 泪:きちんと座敷では使っているでありんす。 泪:閨(ねや)で喚き散らすのは鉄砲女郎の常套句。 泪:二束三文の河岸見世(かしみせ)女郎共と、わっちを並べ立てるのはやめてくだしゃんし。 乙桐:これはこれは参った。 乙桐:お前さんを買う事は今後も決してありゃあしねぇが、お前さんの馴染みがコロッと騙されるのも分かる気がするな。 泪:それは褒め言葉と受け取っておくよ。 乙桐:やはり難儀な野郎はお前さんの方だ。 赤眼:せんせ、せんせ。 乙桐:なんだ赤眼? 赤眼:お客人さ置いてけぼりだぁ。 赤眼:かやっ子さ姉さまも、せんせと口喧嘩しに来た訳さねぇんだろ? 乙桐:喧嘩と言うか昔からの遊びに近いんだが、まぁ確かにそうだな。 泪:お嬢さんを置いてけぼりにするつもりは無かったけれども、悪かったねぇ? とよ子:あ、いいえ全然! 乙桐:さて、あーお嬢さん? とよ子:あ!申し遅れました。私は「とよ子」と申します。 乙桐:とよ子か。 乙桐:俺は「乙桐(おとぎり)」だ。名はあんまり売れちゃいねぇが細々と絵描きを生業にしている。 乙桐:そのしがないただの絵師に一体全体どんな野暮用があるんで? とよ子:用と言うか、その……乙桐先生の鬼の絵を見ました。 とよ子:人を喰い殺す鬼の絵を。 赤眼:鬼……。 0:泪、入りだけ少し慌てる。 泪:お嬢さん!いや、とよ子がねぇ。 泪:アンタの描いたおどろおどろしい絵を思い詰めた顔で眺めていたのさ。 泪:さてはこれは何かしらの野暮用なんだと、アタシが勝手に判断して連れて来ちまっただけで、 泪:見当違いかもしれないと、そう伝えるのをうっかり伝え忘れていたよ。 乙桐:ほぉう。 乙桐:ほいほい連れて来るなとは言っているが、まぁお嬢さんが俺に用があるのは確かみたいだから安心しろ泪。 乙桐:尤も本人その野暮と俺の関わりがちっとも分かんねぇみてぇだが。 とよ子:その……あまり見知らぬ人に話すべきでは無い事が、 乙桐:その左腕に巻き付いたモノの事だろう?違うかい? とよ子:っっ?!あ……えっと……。 乙桐:ゆっくりでいい、話してみろ。 とよ子:(以下、とよ子モノローグ) とよ子:   とよ子:私事ではありますが、随分と奇っ怪な話を語ります。 とよ子:父は簪や櫛(くし)。 とよ子:その他、女人が身に付ける細々とした物を作り上げる細工師。 とよ子:通り沿いの大店(おおだな)のようには参りませんが、 とよ子:そこそこに繁盛した小間物屋の娘でございます。 とよ子:上にも下にも兄弟は居ないので、一人娘と表すのが正しいかと。 とよ子:  とよ子:父は細工師と申しましたが、品の全てが父の手によるものではなく、 とよ子:他所から仕入れる事も儘あります。 とよ子:店に出す物が大半ですが、何分遅くに出来た娘故。 とよ子:子煩悩な父は時々娘の為にと、珍しい品々を土産として買い与えてくれる事がございました。 とよ子:あれは丁度、夏の暮れの時分でしたか。 とよ子:  とよ子:父からとある化粧箱を渡されたのは……。 0:  父:とよ子や、とよ子。 父:ちょっとこっちにおいでなさい。 とよ子:お呼びでしょうか?父様。 父:この間珍しい物を手に入れたから、お前にやろうと思って持ってきたんだ。 とよ子:わあ!なんでしょうか? 0:  とよ子:これは化粧箱でしょうか?嬉しいです! 父:なんでも京の都から仕入れた物らしい。 とよ子:いつもの小間物売りから仕入れたのですか? 父:いいや。 父:それがこの辺りでは全く見覚えのない御人(おじん)が話しかけてきてね。 父:大方どこかの山の方から出稼ぎで下りてきたのだろう。 父:見た目は大層貧相ではあったが、品物はどれも一級品ばかり! 父:運がいいとはまさにこの事だ。 とよ子:きっと父様の日頃の行いが良いので、神様がご褒美をくれたのでしょう。 とよ子:それにしても京の都の物ですか。 父:気に入ったかい? とよ子:はい、とても! 父:そいつぁ良かった! 0:  とよ子:(以下、とよ子モノローグ) とよ子:  とよ子:それはそれは丁寧に手掛けたのか。 とよ子:その桐で出来た化粧箱は、 とよ子:今まで見た事がない程に繊細な細工が施されておりました。 とよ子:飾るだけでも充分に楽しめる、大層見事な物でした。 とよ子:ですがその化粧箱は、化粧箱として使うには、 とよ子:少々不可思議な作りだったのです。 0:  母:おやまぁとよ子や、どうしたんだい? 母:半刻も前から父様に与えられた化粧箱と睨めっこ。 母:一体全体何がそんなに気になると言うのです? とよ子:それが母様、妙なんです。 母:妙?その化粧箱がですか? とよ子:ええ、ええ母様。 とよ子:この化粧箱、おかしな事に蓋が全く開かないんですよ。 とよ子:押しても引いてもてんで駄目。 とよ子:しばらくあれもこれも試してみましたが、 とよ子:とよ子はほとほとくたびれてしまいました。 母:粗悪品を掴まされたって事かしら? 母:あの人ったら全く。 母:自分の見定めは完璧だとおっしゃる割に、変なところで抜けているのだから。 とよ子:いいえいいえ母様。 とよ子:父様は悪うございません。 とよ子:この化粧箱は飾るだけでも見事な品。 とよ子:きっと自分は開かずとも、価値は充分にあるのだと、化粧箱がそう申したいのでしょう。 母:確かに見事な品ではありますが、 母:蓋が開かぬのであらば化粧箱としての意味は無いと母は思いますが、 とよ子:それでも見事な物なのです。 とよ子:少しばかり残念ではありますが、とよ子はこれをとても気に入っているので。 とよ子:どうか父様を責めるのはやめてくださいませ。 とよ子:このまま飾って楽しむ事に致します故。 母:そう。そう、そうですか。 母:お前がそれでいいのならば、母はこれ以上何も言いません。 0:  とよ子:(以下、とよ子モノローグ) とよ子:  とよ子:押しても引いてもビクともしない。 とよ子:ほんの隙間すら開かぬ化粧箱。 とよ子:そぉっと揺らしてみたところ、何やらカタカタ音がするではありませんか。 とよ子:多少中が気になってはおりましたが、けれど私は結局諦めたのです。 とよ子:  とよ子:アレはきっと狙っていたのでしょう。 とよ子:私が化粧箱を開くのを、それを寂しく諦めるのを。 とよ子:興味がある内は隙は出来ません。 とよ子:だからきっと私の興が削がれるのを、 とよ子:ただただじぃっと待っていたのでしょう。  とよ子:  とよ子:夜も深まったある晩の事。 とよ子:ふと目を覚ました私の目に、あの化粧箱が入りました。 とよ子:ほんの少しの隙間を作り、まるで開けろとでも言うように。 とよ子:  0:  泪:それで化粧箱の中には何が入っていたんだい? とよ子:鏡……このくらいの、手鏡が入っていました。 乙桐:鏡?それは今持って来ているのか? とよ子:いいえ、いいえ。 とよ子:あの手鏡は、今は蔵の中にしまい込んであります。 泪:ただの手鏡をかい? とよ子:それがあの手鏡は、ただのと申すにはあまりに似つかわしくない物でして。 乙桐:何かあったんだな。 とよ子:ええ……ええ。 とよ子:……それと言うのもあの手鏡は、全く何も写さないのです。 乙桐:写さない? とよ子:手入れをしなかった訳ではありません。 とよ子:見た目はきちんと輝いております。 とよ子:けれどどんなに磨いても、全く何も写さないのです。 泪:開かない化粧箱の次は、何も写さない手鏡かい。 とよ子:ええ、何も。 とよ子:嗚呼!ですが正確には一度だけ。 とよ子:私が化粧箱を開けたあの晩に。 とよ子:私の姿をチラッとだけ、ただの一度写しました。 乙桐:……。 とよ子:それから私のこの腕は指の先まで僅かばかりも動かなくなってしまったのです。 とよ子:夜にはギリギリと締め付けてあまりの痛みに満足に眠る事も叶いません。 とよ子:医者は匙を投げました。 とよ子:「こればかりはなんとも、まるで何かに取り憑かれたようである」と。 乙桐:……お前さんは何を見た? とよ子:何、とは? 乙桐:いいや、いい。 乙桐:今は思い付かないのならば、それまでだ。 とよ子:はぁ……? 泪:それで、とよ子。 とよ子:はい。 泪:腕が動かなくなったからとアンタの抱える悩みは分かったけどねぇ。 泪:けれどやっぱりどうして、この人の絵をあんな目をしながら見つめていたんだい? とよ子:……何も。 泪:? とよ子:何も理由はないです。 とよ子:ただ時折どうしても、気にかかって仕様のないものがあるでしょう? とよ子:なんの変哲もないただの石が、どうしてか気になる事があるでしょう? とよ子:それに近いような……理由を付けるとしたのなら、そのような事です。 泪:そうかい、あい分かったよ。 とよ子:自分が奇っ怪な事を申している自覚はございます。 とよ子:ですが乙桐先生は私の、この左腕のモノに気が付きました。 とよ子:ですからきっと私の気が狂ったとは思われないでしょう。 とよ子:何か、手をお持ちなら尚の事嬉しいのですが……。 乙桐:嗚呼、だがな。 とよ子:はい。 乙桐:「気付く」と「見る」では、なかなかどうして勝手が違う。 とよ子:……見えてはおられない、と? 乙桐:嗚呼。 乙桐:いや、まぁ妙なモノが見えてはいる。 乙桐:ついでに言やぁ泪、お前さんも。 乙桐:見ようとしたら俺と同じモノくらいは見れるだろう。 泪:左腕かい? 乙桐:嗚呼。 泪:あい分かった、目を凝らして見てみるよ。 乙桐:そうしろ。 とよ子:…………。 泪:嗚呼、嗚呼。 泪:見えたよ、見えてしまったよ。 泪:とよ子アンタ、なんて難儀なめにあっているんだい可哀想に。 とよ子:これが何か分かりますか? 乙桐:いいや。 乙桐:見えたと言っても俺と泪には、ただ半端なモノしか見えちゃいないだろう。 とよ子:……そんな。 乙桐:半端なモノは、半端なモノにしか分からない。 とよ子:…………。 乙桐:だからこそ、だ。 乙桐:……赤眼。 赤眼:なした?せんせ。 乙桐:お前さんにアレはどう見える? 赤眼:なーんにも。 赤眼:なんがそんなに妙なのか、わしさはちっとも分がんね。 乙桐:そうだな、お前さんにとってはそうだろう。 乙桐:だが普通の娘さんには妙なんだ。 乙桐:大層奇妙で難儀なんだ。 乙桐:何が見える? 乙桐:もう一度教えてくれ、赤眼。 0:  0:  赤眼:お客人さの左腕さに、無数の糸さが絡み付いてる。 赤眼:先は分がんね。 赤眼:外さ続いているからだ。 赤眼:わしさはな、せんせ。 赤眼:こん糸、見た事あんぞ。 乙桐:なんの糸だ? 赤眼:なんだったかぁ……。 赤眼:そうだ、そうだ、こんは蜘蛛さの糸だ。 0:一拍 赤眼:お客人さの左腕に、蜘蛛さの糸が絡み付いているよ。 とよ子:っっ?! 泪:嗚呼嗚呼とよ子が驚くのも無理はない。 泪:赤眼は少しばかり変わっているんだよ。 泪:境目が分からないと言うかなんと言うか。 乙桐:分からねぇからこそ、俺達よりもずっと多くを見る事が出来る。 乙桐:俺と泪にはモヤが巻き付いている半端なモノしか見えなくても、 乙桐:赤眼には蜘蛛の糸に見えるんだ。 赤眼:せんせ、せんせ。 赤眼:なぁいったいこれのどこが妙なのか、わしには分がんねから教えてくんろ。 乙桐:先にお嬢さんの話をもう少し。 乙桐:もう少しだけ聞いたらな。 赤眼:分がった。 とよ子:話すと言っても、これ以上は。 乙桐:気にかかる事がない、と? とよ子:はい。 乙桐:分かった。 乙桐:それじゃあお嬢さん。 乙桐:代わりに俺について教えてやろう。 とよ子:乙桐先生についてですか? 乙桐:俺についてと言うよりは、俺の生業について、だが。 とよ子:絵師、ですよね? とよ子:絵師の先生。 乙桐:嗚呼そうだ。 乙桐:俺は確かにしがない絵師だ。 乙桐:けれどね、お嬢さん。 乙桐:これが全くただの絵師じゃあないんだよ。 とよ子:どう言う事ですか? 乙桐:俺が描くのは、妖、化け物、魑魅魍魎(ちみもうりょう)。 乙桐:お嬢さんが見た鬼の絵。 乙桐:あれは正に本当の鬼の絵だ。 とよ子:本当の? 乙桐:嗚呼、本当の鬼があの絵の中に居る。 乙桐:半月前に封じたばかりの、まだまだ若い新作だがな。 とよ子:? 泪:もっと優しく言ってやりゃあいいものを。 泪:そんな言い方をしても伝わらないだろう? 泪:アンタはそうだ、いつもそうだよ。 乙桐:ならばお前さんが説明してやればいいだろう。 泪:あい分かった、任されたよ。 泪:アンタよりはアタシの方が上手いだろう。 とよ子:あの? 泪:とよ子。 とよ子:はい。 泪:この人が先に言ったように、この人は絵師は絵師でもただの絵師じゃあない。 泪:風景、人物、役者の姿絵。 泪:そんな物は描きやしない。 とよ子:絵師なのに、ですか? 泪:そうさね。 泪:この人は絵師は絵師でもあやかし絵師。 泪:人に悪さをする厄介者達の、姿を描いて封じ込める。 泪:そう言ったどうにも変わった絵師なんだい。 0:一拍 とよ子:ならばやっぱり私の腕は、何か人ではない別のモノに取り憑かれているのでしょうか? 乙桐:さあ? 乙桐:それは見てみない事には分からない。 乙桐:正体を正確に、ほんの一筋(ひとすじ)まで正確に。 乙桐:見てみない事には、お嬢さんが憑かれたのか? 乙桐:はたまた、ただの気の迷いなのか? 乙桐:それがどうかをすぐには答えられないな。 とよ子:………どうすればいいんですか? 乙桐:今からお嬢さんの家に行ってもいいか? 乙桐:その件(くだん)の化粧箱と手鏡とやらを、この目できちんと見てみたい。 0:(※前後に分ける場合はここで一旦終了) 0:  泪:(以下、泪口上) 泪:  泪:迷い迷うは妖道中 泪:人を仇なす魑魅魍魎 泪:描き連ねるは絵師の性 泪:半端者の形は歪む 泪:果たして見るのか 泪:それともはたまた見られているのか 泪:分からないからこそ嗚呼面白い 泪:  泪:おいでましたは小間物屋の娘 泪:開かぬ存ぜぬ化粧箱 泪:ちらっと写したきりきり舞い舞い手鏡に 泪:どうした事か、その身を写した晩から腕動かず 泪:なんの因果か半身に蜘蛛の糸を巻き付け登場 泪:嗚呼、難儀だ難儀だ難儀だよぅ 泪:不憫な娘を悩ませる 泪:件のそいつは妖か否や 泪:とにもかくにも、あの続き 泪:  泪:  泪:とくとお聞かせ致しましょう  0:とよ子の父が営む小間物屋に着いた一同は、立派な門構えに驚く。 0:  赤眼:でっけぇな。 赤眼:長屋さみぃんな入れそうだぁ。 泪:なんだいとよ子、さては謙遜したのかい? 泪:大店(おおだな)じゃないとは聞いちゃあいたが、それにしては随分とまぁ見事な構えじゃあないかい。 とよ子:いいえ、いいえ本当に。 とよ子:まだまだ通り沿いとは比べものにもなりません。 とよ子:ですがこれは父の忍耐の結果でございます故、そう言われるのは嬉しい限りです。 乙桐:ここまで来ておいて今更だが、いきなり来ちまって良かったのか? 乙桐:手土産の一つも持たずして、些か敷居が高そうだ。 とよ子:家の者は誰一人、来客を咎める者はおりません。 とよ子:むしろこちらこそ、なんのお構いも出来ませんが、 泪:それはいいんだよ、とよ子。 泪:アタシもこの人も勿論、赤眼も。 泪:構われたがりは一人も居やしないんだから。 赤眼:せんせ。 乙桐:なんだ? 赤眼:化粧箱と手鏡さ見る為に、わしまで連れて来る意味が分がんね。 乙桐:疲れたのか? 赤眼:いんや?ちぃーっとも。 赤眼:わしはあそこさ通りの団子が食えればそれでいい。 乙桐:ちゃっかり現金なヤツだな……。 乙桐:分かった帰りに寄ってやろう。 赤眼:あい。 とよ子:蔵から化粧箱と手鏡を取って参りますので、皆様はこちらの方でしばしお待ち頂いてもよろしいですか? 乙桐:嗚呼。 0:  0:  乙桐:そういや、泪。 泪:なんだい? 乙桐:お前さん見世はいいのか? 乙桐:とっくのとんまに昼見世は始まっちまっているだろう? 泪:嗚呼いいんだよ。 泪:遣手(やりて)ばばぁには、どんなに遅くなろうとも、 泪:夜見世までには戻るからって言ってあるからねぇ。 乙桐:女郎としてどうなんだそれは。 泪:アタシはこの身に掛かるものがなんにもないからいいんさね。 乙桐:お前さんの馴染みは可哀想だなぁ。 泪:旦那さん達はアタシがこうだと分かった上で通っているし、 泪:そもそも閨(ねや)の相手がまさか同じ男だとは夢にも思わない阿呆共だ。 泪:何かちんたら揉めたところで、 泪:「あれ泪の奴は今日び頭が痛てぇ痛てぇと寝込んでおりますまい。 泪: しばらくの所は堪忍え、また夜にでもどうぞどうぞお戻りくださいまし」 泪:なりなんなり法螺(ほら)の一つでも呟けば、 泪:「そうかそうか」と尾っぽ下げて帰るのさ。 乙桐:よくもまぁそれでいっぱしの花魁張っていられるものだ。 乙桐:化けの皮剥いだらとんだど畜生のくせして、謳い文句は「月下の芙蓉(ふよう)」。 乙桐:女も怖ぇが、女のフリした男はもっと怖ぇったらありゃしねぇ。 泪:なんせこちとら生まれた時から餌のいらない猫何匹も抱えているからねぇ。 泪:なまじ軽率にボロは出せまいて。 泪:何を失うのか分かったもんじゃあない。 乙桐:元よりお前さんは何も持っていないだろうに。 泪:嗚呼、そうだ。 泪:確かにそうだ。 赤眼:せんせ、かやっ子さ姉さま。 赤眼:まーた口喧嘩か? 泪:口喧嘩なんかじゃあないさね赤眼。 泪:長引いた腐れ縁は例え相手が難儀な野郎だとしても、そこそこ情が湧いちまうもんなんだよ。 乙桐:本当にそこそこだけどな。 乙桐:あと難儀な野郎はお前さんだ。 泪:あい分かった分かったよ。 泪:ところで乙桐大先生? 乙桐:妙に腹の立つ呼び方だ。 泪:先生は先生だ。 泪:間違っちゃいないだろうし、なぁ赤眼? 赤眼:せんせはせんせだ。 泪:アタシは? 赤眼:かやっ子さ姉さまはかやっ子さ姉さま。 泪:そうだねぇそうだよ。 泪:アタシはあの子のオイラの姉さんだ。 泪:…………守ってやらないとねぇ。 赤眼:? 乙桐:話が逸れてるぞ、泪。 乙桐:何か言いたい事があるんじゃなかったのか? 泪:嗚呼、そうだったそうだった! 0:  0:  泪:いやさねぇ、なんだかおかしいと思わないかい? 乙桐:何が? 泪:この屋敷だよ。 赤眼:なんが? 赤眼:なんがおかしいんだ? 赤眼:かやっ子さ姉さま、教えてくんろ。 泪:赤眼が分からないのは仕様がないとして、 泪:アンタはなんで気付かないんだい? 乙桐:お前さん程キョロキョロなんでもかんでも、鼠みたいに首突っ込もうとしちゃあいないからだ。 泪:あいあい、二言目には嫌味だ全くこの人は! 泪:酒に飲まれた旦那さんよりむしろ素面のアンタの方がタチが悪いったらありゃしないねぇ。 赤眼:なんがおかしいんだ? 赤眼:教えてくんろ、かやっ子さ姉さま。 赤眼:なぁ、なぁ。 泪:分かった分かった、そうぐいぐい来なくても答えてやるから落ち着きな。 赤眼:分がった。 泪:いやさねぇ、 泪:ちぃっとばかり静か過ぎやしないかい? 乙桐:そうか? 赤眼:そうか? 泪:やだねぇ!この二人は変なところでそっくりで! 泪:なまじ修羅の国ばかり見ていると、こうなっちまうもんなのかい? 赤眼:だーで、あっこの方が静かだもん。 泪:あっこ? 赤眼:黄泉(よみ)。 泪:あの世とこの世を一緒にするんじゃないよ! 泪:第一赤眼はなんであの世の事なんか知っているんだい? 泪:まさか死んだ事もあるまいし。 赤眼:うんや、かやっ子さ姉さま。 赤眼:わし死んだ事あるよぉ? 泪:なんだって? 赤眼:死んだ事ある。 赤眼:落ちてくんだ。 赤眼:ずーっとずーっと深ぇとこまで。 赤眼:なんもねぇ。 赤眼:寂しい寂しい、それしかねぇ。 赤眼:あっこの方がずーっと静かだった。 泪:なんだい全く悪い冗談だよ。 泪:教えたのは誰だい?え? 泪:アンタだろう乙桐。 乙桐:難癖もいいところだな。 泪:アンタ以外に赤眼に物を教える奴がいったいどこに居るって言うんだい? 乙桐:お前さんとかお駒(こま)の奴とか、赤眼に教えたがる奴は割かし多い。 泪:駒姐さんは優しいんだよ。 泪:特にあの人はややこにはめっぽう弱い! 赤眼:わしややこじゃねぇよ? 泪:ややこもわらべも赤眼も一緒さ。 泪:何が一緒か分かるかい? 赤眼:分がんね。 泪:可愛いって事。 赤眼:………分がんね。 泪:つれない子だねぇ。 乙桐:とにかくだ。 乙桐:あー……静か過ぎるんだったか? 泪:嗚呼、そうさ。 泪:まるで廓の夜明けみたいだよ。 乙桐:そんなに気になる事か? 泪:馬鹿だねぇ。 泪:ただ単に静かじゃあアタシはおかしいとは思わないさ。 泪:静か過ぎるって言っているんだよ。 赤眼:なんだぁ? 赤眼:静か過ぎるといけねぇのか? 泪:そこそこ繁盛している小間物屋の一人娘が、 泪:突然見知らぬ他人様々(ひとさまさま)連れて来たってのに、 泪:家人の一人も出てきやしないどころか、様子を伺う気配一つない。 乙桐:伊勢の方にでも行ってるんじゃねぇか? 泪:この時期に? 乙桐:気が向いたんだろう。 泪:親も? 乙桐:嗚呼。 泪:丁稚(でっち)や奉公人も? 乙桐:嗚呼。 泪:とよ子一人残して? 乙桐:嗚呼。 泪:はぁ……そんな訳ないだろう。 泪:寝惚けた事ばかり言うんじゃあないよ。 乙桐:悪い悪い。 乙桐:随分難儀だと思ったらつい、な。 泪:面白がって阿呆のフリかい。 泪:付き合わされるこっちの身にもなれってんだ全く。 乙桐:ふっ。 乙桐:さぁてそろそろその口、閉じた方が良さそうだぞ?泪。 泪:え? 乙桐:お嬢さんが戻って来る。 とよ子:お待たせ致しました。 泪:嗚呼なんだい驚いた! とよ子:え?あ、すみません。 泪:いいやいいや、こっちの話だよ気にしないどくれ。 とよ子:はぁ……? 乙桐:随分遅かったじゃねぇか。 とよ子:それが父様が思いのほか、奥の方にしまい込んでしまったらしく……。 乙桐:嗚呼別に責めてる訳じゃあない。 乙桐:何分、事が事だからな? 乙桐:取りに行く間に、もしやお前さんになんかあったんじゃあねぇかと、余計な気ぃを回しただけだ。 とよ子:それはそれは。 とよ子:お待たせしてしまって申し訳ないです。 泪:それで、それが件の化粧箱かい? とよ子:はい、そうです。 乙桐:手鏡は? とよ子:この中に。 とよ子:ちょっと待ってくださいね。 とよ子:今取り出しますから。 泪:焦らないでいいよ。 0:  0:  赤眼:せーんせ。 乙桐:なんだ? 赤眼:あれが化粧箱と手鏡か? 乙桐:嗚呼。 赤眼:そうか……そうか。 乙桐:何か気になるのか? 赤眼:いんや、なーんにも? 乙桐:……。 赤眼:なーんにも……けんど、 乙桐:嗚呼。 赤眼:あーれ良ぐないよ。 乙桐:何がだ? 赤眼:分がんね。 乙桐:おかしいのか? 赤眼:おがしい? 赤眼:おがしいかは分がんね。 赤眼:分がんねぇけんど、良ぐないよ。 乙桐:……。 乙桐:分かった。 赤眼:あい。 とよ子:乙桐先生? 乙桐:ん、嗚呼悪い。 とよ子:相談事ですか? 乙桐:いいや? 乙桐:赤眼の奴が団子が食いたい食いたいと煩くてな。 乙桐:もう少しばかり待っていられねぇのかと、そう話していたところだ。 赤眼:せんせさ帰りに寄ってやろうと言ったから、そんまで我慢するしかねぇな。 乙桐:な? 乙桐:大きな声で話す事でもねぇと思って耳打ち程度に収めてはいたが、 乙桐:変な勘繰りさせちまったようで、いやはやこれは悪い悪い。 とよ子:(小声)嘘ばっか。 乙桐:なんか言ったか? とよ子:いいえ、いいえ。 とよ子:それよりも少しばかり問題が……。 乙桐:どうした? 泪:開かないんだよ。 乙桐:化粧箱が? 泪:嗚呼。 泪:アンタ達が団子があーだこーだと話している内に、とよ子と二人で色々試してみたが、 泪:何をしても少しの隙間も開きやしない。 とよ子:蔵に入れる前は確かに開いた筈なのですが……。 乙桐:開かずの箱が開いたと思ったら、また開かなくなったのか。 泪:開けようと思うからいけないのかねぇ? とよ子:と、言うと? 泪:いやさねぇ、アンタが先に言ったじゃあないかい。 泪:「興味がある内は隙は出来ない」 泪:「だからきっと私の興が削がれるのを、ただただじぃっと待っていた」って。 とよ子:嗚呼! 乙桐:開けようと思わねぇで開けろっつー事か。 乙桐:こいつぁまた難儀だな。 赤眼:どゆことだ? 泪:「開けよう」と思うから開かない。 泪:なら「開けよう」と思わなければ開くんじゃないか?って事だよ。 赤眼:せんせもかやっ子さ姉さまも何言ってんだ? 赤眼:箱は開く物だ。 赤眼:開かねぇ箱は箱じゃねぇ。 乙桐:ほぉう。 乙桐:成程、そうかそうか。 乙桐:確かに赤眼の言う通りだ。 泪:どう言う事だい? 泪:今度はアタシが分からなくなっちまったよ。 乙桐:泪。 泪:なんだい? 乙桐:「開く」と思いながら開けてみろ。 泪:だからさっきからそうしているよ。 泪:なぁ、とよ子。 とよ子:ええ。 乙桐:いいや違う。 乙桐:お前さん達は「開けよう」としていたんだろう? 乙桐:俺が言ってるのはそうじゃねぇ。 乙桐:「開く」と思って開けるんだ。 泪:いやだいやだ、阿呆の真似事をしていたと思ったら、 泪:アンタ本当の阿呆になっちまったのかい? 乙桐:そんな訳ないだろう大馬鹿者が。 乙桐:いいから言った通りにしてみろ。 泪:あいあい分かった、分かったよ。 泪:アンタはそうさ、いつもそうさ。 泪:自分ではちぃっとも動きやしない。 泪:そのくせ人使いは荒いんだから全く。 乙桐:ぐだぐだ言っても過ぎるのは時間だけだ。 泪:そんな事言ったってねぇ。 泪:何しても開かなかったんだ、本当さ。 泪:それが「開けよう」を「開く」に変えるだけで開くもんなのかねぇ。 赤眼:あぐよ。 泪:赤眼、アンタも開くと思うのかい? 赤眼:嗚呼。 泪:そうかい、なら試してみようじゃないかねぇ。 赤眼:だけんどなぁ、かやっ子さ姉さま。 泪:なんだい? 泪:えーっと「開く」「開く」。 泪:思いながら試すのはなかなかどうして勝手が分からなくなるもんだ。 赤眼:そーれ、開げない方がいんべ。 泪:え? 泪:うわっっ?! 0:鏡に吸い込まれてしまった泪を何を考えているのか分からない目で見る赤眼。 0:  赤眼:ほーらねぇ、開~げない方が良がっだべ? 乙桐:ほぉう、こいつぁまた。 泪:なんだい?!何が起きたんだい?! 乙桐:嗚呼嗚呼、可哀想に。 乙桐:泪姉さんが鏡の向こうに行っちまった! 乙桐:おかやが聞いたら悲しむだろう。 乙桐:「俺を置いて姉さんが向こう側に行っちまったよぅ」ってな。 泪:乙桐さてはアンタ! 泪:分かっててアタシを嵌めやがったね! 乙桐:いいや、いいや、ちーっとも? 乙桐:なんせ半信半疑だったからな? 乙桐:試してみなきゃ分からぬ事を、まさか知ったかぶりは出来まいて。 泪:だからってアタシで試すんじゃないよ! 乙桐:悪い、悪い。 赤眼:かやっ子さ姉さま大丈夫かー? 泪:これが大丈夫に見えるかい? 赤眼:分がんね。 泪:全くちぃっとも大丈夫じゃないよ! 乙桐:まぁまぁしばらくそこでゆっくりしていろや。 乙桐:後でどうとでもしてやろう。 泪:アンタは本当に難儀な野郎さね! 乙桐:お前さんのように難儀な野郎にはとてもとても勝てやしないさ。 泪:ちっ。 乙桐:赤眼。 赤眼:なんだぁ? 乙桐:泪が気になるのは分からねぇ事もねぇが、迂闊にそれに近付くんじゃねぇぞ? 乙桐:「写すのが二人まで」とは限らない。 赤眼:分がった。 泪:二人? 乙桐:はてさて、お嬢さん。 乙桐:小間物屋の一人娘のとよ子さん? とよ子:はい? 乙桐:お前さんは一体全体何者なんだ? とよ子:?何を仰っているのか、 乙桐:言い方を変えよう! 乙桐:とよ子お嬢さんの身体の中に入り込んだ、お前さんは一体全体どこの誰なんだ? とよ子:さーあ? 乙桐:お前さんの目論見はだいたい検討がついている。 乙桐:大方この俺を始末したかったのだろう? 乙桐:けれども残念な事に、お前さんのような奴は年に一度の割合でやって来る。 乙桐:今年はどうやらお前さんの年のようだ。 とよ子:先生、先生、乙桐先生。 とよ子:何かを勘違いをしていらっしゃるのでは? 乙桐:いいや、いいや。 乙桐:これが全くちぃっとも勘違いなんかじゃあないんだ。 乙桐:お前さん達からしてみれば、俺みてぇな奴は心底邪魔だろう? 乙桐:邪魔で邪魔で仕様がないだろう? とよ子:……。 乙桐:己が正体を見破られるならまだいい方だ。 乙桐:下手したら取り込まれちまう。 乙桐:身動き一つ取れなくなるのは、 乙桐:好き勝手やりたいお前さん達のようなモノからしたら、 乙桐:なんとも難儀な話だろう。 0:  乙桐:もう一度問おう。 乙桐:お前さんは何を見た? とよ子:……………。 とよ子:鬼ですよ。 赤眼:鬼……? とよ子:ええ、そうです。 とよ子:鬼を見ました。 とよ子:人を喰い殺す鬼の絵を。 とよ子:ゾッとしました、してしまいました。 とよ子:なんせあれ程の鬼が、 とよ子:たかが人にあっさり封じ込まれてしまっていたのですもの。 とよ子:乙桐先生は知らないだろうかもしれませんが、 とよ子:あの鬼はそこいらでは少しばかり名が通った鬼だったんですよ? とよ子:それがどうした事か、なんて哀れな。 とよ子:紙切れ一枚に成り下がっておりまして。 とよ子:あれを素知らぬ振りなど、私にはとてもとても。 乙桐:そうかい、そうかい。 乙桐:自分で言うのもなんだが、あれはなかなかの良作だっただろう? 乙桐:あれで結構手こずったんだ。 乙桐:その分、描き甲斐はあったがな。 とよ子:さぁ、どうでしょうか? 0:  泪:乙桐。 乙桐:なんだ泪。 乙桐:ようやっと正気を取り戻したか? 泪:元より正気さね。 泪:鏡の中なんかに入れられちまった事以外ではねぇ。 乙桐:住めば都と言うだろう? 乙桐:どうだ、都になりそうか? 泪:この世の地獄のような赤格子(あかごうし)の向こうが、 泪:なかなかどうして恋しくて仕様がなくなっちまったよ。 泪:暮らす程は居たくないからさっさとここから出しとくれ。 泪:その内本当に正気がなくなっちまいそうだ。 乙桐:嗚呼。 乙桐:それで、なんだ? 乙桐:俺はいま、この得体の知れないとよ子お嬢さんと話をしているんだが。 泪:ちょいと伝え損なっちまった事があってねぇ。 泪:それをちろっと思い出したんだよ。 乙桐:そうか、言ってみろ。 泪:とよ子がねぇ。 泪:いやまぁその子がとよ子かどうかは知らない話なんだけれども。 乙桐:嗚呼。 泪:そいつがアンタの絵を見ていた時に、 泪:食い入るように見詰めていたとアタシは言ったけれど。 とよ子:…………。 泪:正しくは、仇(かたき)でも見るかのように睨み付けていたんだよ。 泪:それがあんまりにも到底普通のお嬢さんがするような目じゃあなくって。 泪:アタシはそれが不思議でねぇ。 泪:大層不思議で仕様がなくって、 泪:ついうっかり忘れちまうくらい不思議だったのさ。 乙桐:お前さんのそのうっかりうっかり、一度医者か何かに見せた方がいいだろう。 泪:ここから出れたらそうするよ。 乙桐:なら早いとこ出してやろう。 泪:頼んだよ。 とよ子:私がどのような目で絵を見ていたところで、大したきっかけにもなりやしません。 とよ子:ねぇ、そうでしょう? 乙桐:さぁ?どうだろう。 とよ子:うふふふっっ。 とよ子:はぐらかしてばっかりですね。 とよ子:私もですが。 とよ子:騙し合いでしょうか?それにしてはなんて、なんて軽率な。 とよ子:まぁいいのです。 とよ子:そんな事はいいのです。 乙桐:嗚呼。 0:  とよ子:それで先生、乙桐先生。 とよ子:私が「誰」かと問いましたが。 とよ子:一体全体私の「何」を知りたいんで? とよ子:それから、それから。 とよ子:私の「何」を知っているんで? とよ子:あなたは私を「誰」とおっしゃるんで? 乙桐:なぁんにも。 乙桐:お前さんが「誰」かも「何」かも。 乙桐:それを知っちまうまでは、俺はなあんにも知りやしない。 0:とよ子、この先ぐちゃぐちゃな話し方します。 とよ子:そうですか、そうなんですか。 とよ子:……嗚呼これだから興味がある内は隙が出来ないなぁ。 乙桐:お前さんは「誰」なんだ? とよ子:さぁ、「誰」だろうねぇ、「誰」だろう? とよ子:けれども先生、乙桐先生。 とよ子:私は俺はアタシは僕は知っているよ。 とよ子:知っているんだ、知っちまったんだ。 とよ子:アンタはそのモノの正体を、 とよ子:ちゃあんと知らなきゃどうにも出来ない。 とよ子:嗚呼、難儀だ難儀だ難儀だよぅ。 とよ子:アタシが「とよ子」じゃないとして、 とよ子:先生はそれしか見付けていないじゃあないか。 とよ子:あなたが、お前が、アンタこそが、 とよ子:半端者じゃあないのかい? 乙桐:ほぉう。 乙桐:知らぬフリしてその実ちゃんと聞いていたのか。 乙桐:これはこれは参った。 乙桐:或いは読んだのか?え? とよ子:読んだと言うのは心根かい? とよ子:それなら読んだよ、少しばかり。 とよ子:なぁんにも分かりゃしなかったけどねぇ。 とよ子:それでもどうにも聞いていた話ほど、 とよ子:お前を邪魔にするのすら勿体ない。 乙桐:ほぉう、どうやらお前さんは、 乙桐:ちょいとばかし勘違いをしているようだ。 とよ子:勘違い? 乙桐:俺は半端者じゃあない。 乙桐:勿論その手鏡にとっ捕まった、 乙桐:哀れな泪も半端者じゃあない。 泪:アタシをこんな目に合わせたのはアンタだろうに。 とよ子:ひと目で分かったお人好しの、オイラの姉さんと、アンタの二人。 とよ子:半端者じゃあないとはなんて、なんて笑わせてくれるのでしょうか。 乙桐:俺の言う半端者とは、揃ってねぇ奴の事じゃあない。 とよ子:それはそれは、 乙桐:半端者とは、あの世とこの世。 乙桐:そのどちらにも片足突っ込んだ、 乙桐:境目が分からねぇ奴の事だ。 とよ子:…………いまなんと? 乙桐:この世にちょっかい掛けるあの世の奴らも皆半端者。 乙桐:あの世に行っちまったくせに、この世に還って来るしか無かった奴もまた、半端者。 とよ子:まさかっっ?! 乙桐:赤眼! 赤眼:なんだぁ? 乙桐:判(はん)じ絵を作ろう。 乙桐:俺の問いとお前の答え。 乙桐:その二つで幾らでも、 乙桐:お前の為に描いてやる。 赤眼:いいね、いいねぇ、作ろうせんせ。 赤眼:わしはせんせさが描く絵が大好きなんだぁ。 とよ子:待っ……?! 0:  乙桐:描こうじゃないか、お前さんの得手不得手。 乙桐:形は?心は?真(まこと)は?嘘は? 乙桐:知らぬが仏とは言いますが、どうにも興味が引かれちまう。 とよ子:どうしてだ、どうしてでしょう! とよ子:動かないんだ、何をした! 乙桐:お前さんが俺に問わなきゃいけねぇのは、 乙桐:何を「した」じゃあなく何を「する」?だ。 乙桐:理屈は持っちゃあいないがね。 とよ子:嗚呼いやだ、嫌だ嫌だそれは嫌だ。 0:  乙桐:赤眼、 乙桐:「とよ子」はどこに居る? 赤眼:そんなんずーっと鏡の中だぁ。 赤眼:かやっ子さ姉さまみてぇに鏡の中さに入れられて、化粧箱さ入れられて。 赤眼:「出れねぇ出れねぇ」と泣いているよ。 とよ子:問うんじゃあない、答えないで。 とよ子:ねぇ可愛い可愛い娘っ子。 とよ子:飴をやろうか?それとも団子か? とよ子:なんでも、なんでも、お前にやるよ。 乙桐:赤眼、こいつは蜘蛛か? 乙桐:巻き付いた蜘蛛の糸の持ち主か? 赤眼:違ぇよ、せんせ。蜘蛛じゃねぇ。 赤眼:お客人さに巻き付いた、 赤眼:こん糸の持ち主はお客人さじゃねぇ。 とよ子:嗚呼苦しい苦しい、嫌だ嫌だ。 とよ子:その色は嫌いだ、俺を描くんじゃあない。 乙桐:赤眼、なら誰だ? 乙桐:誰が糸を巻き付けた? 乙桐:「とよ子」を語るこのモノに、 乙桐:何の為に巻き付いた? 赤眼:それはねぇ、せんせ。 とよ子:やめろやめて、お願いしま、 赤眼:「とよ子」だよぉ。 乙桐:とよ子? 赤眼:「返せ、返せ、身体を返せ」そう言って、逃がすまいと巻き付いたんだ。 赤眼:袖を引かれると言うだろう? 赤眼:あれだよ、せんせ。 赤眼:あれなんだ。 乙桐:ほぉう、そうか。 乙桐:「とよ子」の糸か。 とよ子:解けていくよ、アタシが色になっちまう。 とよ子:やめてくださいまし、先生ねぇ先生、乙桐先生、 乙桐:最後だ、赤眼。 赤眼:あい。 乙桐:鏡がこいつの正体か? 赤眼:いんや違ぇ、違ぇよせんせ。 赤眼:鏡は道具だ、うつすだけだ。 赤眼:動く奴も居るだろう。 赤眼:長く長く在ったなら。 赤眼:けんども、あれはそうじゃねぇ。 赤眼:うつしただけのただの鏡だ。 乙桐:そうか、分かった。 乙桐:なあ赤眼。 赤眼:なんだ?せんせ。 乙桐:お前さんが見えてるモノは、 乙桐:この姿で間違いないか? 赤眼:嗚呼、そうだよ。 赤眼:そうだよ、せんせ。 赤眼:せんせさにもわしの目が見えたんけ? 乙桐:いいや違う。 乙桐:お前さんの目が見えたんじゃあない。 乙桐:お前さんが俺の目なんだ、赤眼。 赤眼:そうか、そうか。 乙桐:さぁさ、そろそろ仕舞いにしよう。 乙桐:お前さんは「誰」だ? 乙桐:赤眼にお前さんは鬼に見えた。 乙桐:赤眼が怖がらねぇ鬼にな。 乙桐:こいつが怖がらねぇ鬼なんざ、小鬼か鬼であってそうじゃあねぇ奴だ。 乙桐:お前さんの姿形は、ニタニタ笑うちいせぇ小鬼だ。 とよ子:ひぃっっ?! 乙桐:なかなかどうしてよく描けているだろう? 乙桐:けれどこれだけじゃあ駄目だ。 乙桐:姿形だけじゃあ足りねぇよ。 乙桐:名を記してやらねぇと。 乙桐:お前さんを表す名を。 とよ子:先生、ねぇ乙桐先生。 とよ子:私は紙切れ一枚なんかに、なりたくないんだよぉ! 乙桐:泣き落としは通じる奴にしろ。 乙桐:そう言う意味でお前さんが、 乙桐:泪の奴を鏡に閉じ込めちまったのは、 乙桐:どうにもなかなか間違っていた。 泪:誰が女の涙に弱いって? 乙桐:弱いだろう? 乙桐:お前さんはその名の通り、 乙桐:「泪(なみだ)」にめっぽう弱ぇじゃあねぇか。 泪:弱いからこの名を付けられた訳じゃあないんだけどねぇ。 乙桐:それともあれか? 乙桐:泣いてばかりいたからか? 泪:違うさね! とよ子:先生、先生、乙桐先生。 とよ子:どうかどうか堪忍してくださいませ。 とよ子:俺は悪さはしていない。 とよ子:ただただ、盗った、それだけさ。 乙桐:それが「とよ子」にとっての悪さなんだ。 乙桐:器に対しての執着が、 乙桐:お前さんからなんとか取り返そうとする執念が。 乙桐:蜘蛛の糸になっちまうぐれぇにな。 とよ子:先生、許せ、許しておくれ。 乙桐:お前さんは「何」だ? 乙桐:お前さんは「鬼」だ。 乙桐:お前さんは「誰」だ? 乙桐:お前さんは、 乙桐:  乙桐:  乙桐:  乙桐:「天邪鬼(あまのじゃく)」だ。 0:間 0:  泪:全く酷い目にあったよ! 泪:人を囮にするなんざ、いつかバチが当たるからね。 乙桐:バチなんざ日頃から当たっている。 乙桐:お前さんみてぇな難儀な野郎と関わっちまった日からな。 泪:今日のアタシはなかなかどうして、 泪:難儀な目にはあってしまったから、 泪:難儀な野郎と言われても、確かに確かに仕様がないよ。 赤眼:とよっ子、とよっ子。 とよ子:ん……。 赤眼:大丈夫かぁ? 赤眼:起きれるかぁ? とよ子:……誰? 赤眼:わし? 赤眼:赤眼。 とよ子:あかめ。 赤眼:こっちはせんせ。 赤眼:あっちはかやっ子さ姉さま。 とよ子:何がなんだか。 泪:おや、忘れちまったのかい? 泪:切ないねぇ。 泪:どうにも縁とは、結ぶのも容易ければ解けるのも容易いものだ。 乙桐:まぁいい。 乙桐:その内、縁がありゃあ、 乙桐:お嬢さんの方からまた来るだろう。 とよ子:? 泪:とよ子、間違ってももう二度と、 泪:この人の描く絵を気にしちゃあいけないよ。 とよ子:絵、ですか? 泪:嗚呼、そうさね。 泪:それから、物としての機能をしてない物に、迂闊に近寄ってもいけない。 泪:それが例え贈り物だとしても、だ。 泪:分かったね? とよ子:はあ……? とよ子:分かりました? 赤眼:せんせ、かやっ子さ姉さま。 赤眼:も、行ぐよ。 乙桐:嗚呼。 とよ子:あの! 泪:? とよ子:あの、ありがとう、ございました? 乙桐:こちらこそ。 乙桐:お陰様で良い絵が描けた。 0:  0:  赤眼:団子屋さ閉まっちまったぁ。 乙桐:あー……本気で食いたかったのか。 乙桐:明日、明日買ってやろう。 泪:可哀想に。 泪:描く以外ではてんで脳の無い、この人の所に来ちまったばっかりに。 赤眼:団子。 泪:今からうちの見世にでも行くかい? 泪:赤眼が好きそうな甘味の類が、何かしらはある筈だよ。 乙桐:見世と言やぁ、泪。 泪:なんだい? 乙桐:お前さん大丈夫なのか? 乙桐:もうあと半刻ばかりで、夜見世の時間だが。 泪:これはしまった! 泪:急いで帰らないと、流石に遣手(やりて)ばばぁにとっちめられちまう!! 乙桐:ざまあみやがれ。 泪:アンタがアタシを嵌めて鏡の中に入れなかったら、こうはならなかったんだよ! 乙桐:そいつぁ、悪い悪い。 泪:まったくもう! 赤眼:かやっ子さ姉さま帰るんか? 泪:またその内来るよ。 泪:赤眼が来てくれてもいいしねぇ。 赤眼:分がった。 泪:そいじゃあ、また! 乙桐:嗚呼。 0:一拍 乙桐:やはり難儀な野郎だ。 乙桐:なあ、赤眼。 赤眼:分がんね。 0:「箱入り娘」完 0: 

0:夜の村。 0:少し離れた所で、家屋が燃える火の色が空を赤く染めながら不気味に彩る。 0:対して大きくもない木の前で、横たわる少女と対面する形で立った男は静かに彼女を見下ろす。 0:少女はただ、光のなくなった目を宙に彷徨わせながらぶつぶつと独り言を繰り返していた。 赤眼:鬼、鬼だ、鬼さが来た、鬼が。 乙桐:………おい、お嬢ちゃん。 赤眼:あんれは鬼だ……鬼さなんだ……。 赤眼:父ちゃも母ちゃも殺された……。 赤眼:村に鬼さが来た……鬼さが……。 乙桐:この村はお嬢ちゃんがこうしたのか? 赤眼:村ん人さおかしくなった……。 赤眼:あん白髪さ鬼子が来てかんだ……。 赤眼:村ん人さ突然オラさ化け物さ呼んだ。 赤眼:父ちゃも母ちゃもオラさ庇って死んだ……。 赤眼:死んじまったんだ……。 乙桐:ふぅ………正気を失っているな。 乙桐:当てられたのか。 乙桐:この濃い瘴気の中じゃあ仕方ない。 乙桐:けれどな、嬢ちゃん。 乙桐:よぉく聞け。 赤眼:鬼なんだ、鬼なんだ、鬼なんだ。 乙桐:例え心を砕かれていても、お前はこの村のたった一人の生き残りだ。 赤眼:鬼だ、鬼だ、鬼だ。 乙桐:だから今ここで選べ。 乙桐:このまま朽ちるか、それとも這いつくばってでも生きるのか。 赤眼:鬼、鬼、鬼、鬼、鬼………。 乙桐:なあ本当は、まだ僅かばかりの色を見ているんだろう? 乙桐:俺は絵師だ、誤魔化せやしねぇ。 赤眼:……………。 乙桐:それでいい。 乙桐:さあどちらがいい? 乙桐:選べ。 赤眼:わしは……わしは、 0:間 赤眼:もしも私が願いを欲していいのなら 赤眼:私はこの生命を最低な色で塗り潰して 赤眼:ぐちゃぐちゃに踏み潰してしまいたい 赤眼:そうして初めて見る景色は、今よりずっと綺麗だと思うから 赤眼:嫌いなものを好きで居るフリをしているから、私は違う事が妬ましい 赤眼:あなたが大っ嫌いなのだ 赤眼:  赤眼:いっそ、死んでしまえと願うほどには 0:昼間の町。 0:人々が行き交う中で一人、まだ年若く見える女は絵草子屋を前にとある絵を目にして佇んでいた。 0:ふと、背後から女に声を掛ける人が来る。 とよ子:………。 泪:今にも飛び付いて来そうだろう? 泪:けれど安心おし。 泪:そんなに食い入るように見つめても、その中のモノは逃げやしないし、 泪:ましてやお嬢さんに喰らいついたりもしやしない。 とよ子:えっ?! 泪:おやぁ、驚かせたようだねぇ。 泪:突然話しかけちまって悪かったよ。 泪:お嬢さんがあんまりにもまじまじと、 泪:その絵を見てるもんだからつい気になってしまってねぇ。 とよ子:あっ?! とよ子:すみません……。 とよ子:お店の方ですか? 泪:いいや? 泪:ただその絵を描いてる奴と、少しばかり縁が繋がっただけの通りすがりに過ぎないよ。 とよ子:はぁ……? 泪:お嬢さんみたいな歳若い娘は、普通歌舞伎役者の浮世絵なんかを手に取って、 泪:うっとりと眺めたりするもんだろう? 泪:どうして全く、よりにもよってそんな絵を眺めていたんだい? 0:一拍 泪:【鬼が人を喰い殺す絵】なんかをさ。 とよ子:あ、………えっと。 泪:嗚呼!すまないねぇ。 泪:ちょいとばかし踏み込み過ぎちまったかな。 泪:何分(なにぶん)気になった事は、 泪:どうにも問わなければ気が済まない質でねぇ。 とよ子:いえ、いえ大丈夫です。 とよ子:…………。 とよ子:この絵を書いた方を知っていらっしゃるんですか? 泪:嗚呼、そうだよ。 泪:先にも言ったが、少しばかりの縁が繋がっているのさ。 とよ子:そうなんですか……。 0:一拍 泪:…………さてはお嬢さん。 泪:会いたいのだろう? 泪:これを描いた絵師に。 とよ子:っっ?! とよ子:どうして、 泪:簡単な話さねぇ。 泪:アイツの描いた絵はね、何故だか同じような性を抱えた者ばかりが惹き付けられちまうんだよ。 泪:一筋縄じゃいかないような、そんな深い業を抱えたねぇ。 とよ子:業……ですか。 泪:全くお笑い草だとは思わないかい? 泪:おどろおどろし過ぎて、とてもじゃないが店(たな)の頭には置けない絵が、 泪:悩みを抱えた連中を呼び寄せるんだ。 とよ子:…………。 泪:お嬢さんもその類じゃあないのかい? とよ子:私は…………。 泪:ふっ。 泪:立ち話もなんだから、案内してやろう。 泪:これもきっと何かの縁だ。 泪:妖ばかり描き連ねる、件の絵師先生の所まで……。 0:  0:大通りを奥に行った所にある長屋の一部屋。 0:泪はかなり乱暴に戸を叩いた後に、家主の返事も待たずに開けた。 0:  泪:ちょいと邪魔をするよ。 赤眼:誰じゃ? 赤眼:嗚呼かやっ子さ姉さまだで。 泪:おやまぁ赤眼(あかめ)じゃあないかい!嬉しいねぇ。 泪:赤いべべ着た可愛い赤眼。 泪:出迎えがアンタとは、アタシも幸先がいいもんだ。 赤眼:かやっ子さ姉さまが今日はなしてこんな所さ来ただ? 泪:アタシに用は無いさねぇ。 泪:但し、アタシの連れはアンタの先生に用があるみたいなんだよ。 赤眼:……連れ? 赤眼:なんだぁかやっ子じゃねぇのか。 泪:あの子は滅多に大門の外に出られやしないからねぇ。 泪:堪忍しておくれ。 赤眼:平気だ。 赤眼:そん内せんせにおねげぇしてわしからかやっ子に会いに行ぐ。 泪:そうしてくれると助かるさね、あの子もきっと喜ぶだろう。 泪:手引きが必要ならいつでも呼びな。 泪:可愛い赤眼に会いたいのは、何もあの子だけじゃあないからねぇ。 赤眼:あんがてぇ。 赤眼:んでかやっ子さ姉さま、せんせさに用ってなんだ? 泪:なぁに、いつもの通りの野暮用さ。 0:少し間 赤眼:……。 赤眼:呼んでくっけぇそこさ座って待ってけろ。 泪:あい分かった。 0:  とよ子:あの子は? 泪:ん?嗚呼あれは赤眼。その名の通り目が赤いだろう? 泪:鬼灯の実のようで時々色々とゾッとしちまうがねぇ。 とよ子:絵師先生の子、なんですか? 泪:さぁねぇ。その辺の事情は知りやしないがただまぁ縁者で無い事は確かだねぇ。 とよ子:奉公人……とかですかね。 泪:興味を持つ事が決して悪とは言えやしないし、アタシも人様の事を言えた義理じゃあ無いけどねぇお嬢さん。 泪:他所(よそ)様の領域にそう易々と首を突っ込むのは関心しないよ? 泪:問いて良いものと駄目なもの、この線引きはしっかりしなきゃあいけないもんだ。 とよ子:あ……そうですよね。不躾でした、すみません。 泪:分かればいいのさ。 0:  泪:いやさねぇアタシがこんな事を言っちまったのは、ここを住処としている絵師先生がそれはそれは大層難儀な野郎だからなのさ。 とよ子:はい? 泪:噂じゃあ夜な夜な墓場から屍を担いではこの家に連れ込んでせっせっと、 乙桐:(被せる)嘯いてからかうのはその辺にしておけ、泪。 泪:おやまぁもう来ちまったのかい。 乙桐:大層難儀な野郎とはお前の事だろう。 泪:アタシのどこが難儀だって言うんだい? 乙桐:男の身でありながらあの天下の吉原で意気揚々と花魁張ってる奴のどこが難儀じゃないと言えるんだ? とよ子:男っっ?!え、吉原っっ?! 泪:なんだいお嬢さん気付いていなかったのかい? とよ子:てっきりどこかの御内儀(おないぎ)さんとばかりに思っていました。 乙桐:御内儀さんとは笑わせる。 乙桐:そいつは陰間じゃなくわざわざ周囲の者に箝口令を敷いてまで、性別を偽って女郎として吉原に君臨しているとんだ変わり者だ。 泪:生憎とこれっぽっちも男色の気が無かったものでねぇ。 乙桐:やってる事は陰間と対して変わらぬだろうに。 泪:そうでも無いさねぇ? 泪:まぁアンタの禄(ろく)じゃあ座敷持ちは相手にしてくれないだろうから知らないのも無理は無いけれども。 泪:このアタシの手練手管(てれんてくだ)に掛かれば男共は皆、 赤眼:(被せる)なぁ、かやっ子さ姉さま。陰間ってなんだ? 泪:これはしまった!アタシとした事が!赤眼が居るのをすっかり忘れちまっていたよ。 泪:うちの禿(かむろ)達と同じくらいの齢の子に、とてもとても聞かせる話では無かったさね。 乙桐:別に聞いたところで害にはならないだろう。 乙桐:二つ前の依頼主は女衒(ぜげん)を生業としていたし、お前さんみたいな輩はごまんと来る。 乙桐:今俺やお前さんが口を閉じたところでいずれは耳に入る程度の戯言だ。 泪:だからって得にもならないじゃないか! 乙桐:お前さんとこの小さいのだって、あー……。 赤眼:せんせ、かやっ子だ。かやっ子。 乙桐:嗚呼、そう!おかや。 乙桐:アレなんかそりゃあ散々とアレやコレ。あの歳で既に見聞きしているんだろう? 泪:かやは禿だから仕様がない。 泪:引っ込みまで行かせてやりゃあ、少しはマシだったかもしれないが、そう贅沢を言える立場でも無いからねぇ。 乙桐:お前さん付きになっちまった時点でおかやの運は尽きたも同然だ。 泪:あの見世ではアタシの傍が一番安全さ。 乙桐:廓(くるわ)言葉もろくに話せない、オイラの姉さんの傍がか? 泪:きちんと座敷では使っているでありんす。 泪:閨(ねや)で喚き散らすのは鉄砲女郎の常套句。 泪:二束三文の河岸見世(かしみせ)女郎共と、わっちを並べ立てるのはやめてくだしゃんし。 乙桐:これはこれは参った。 乙桐:お前さんを買う事は今後も決してありゃあしねぇが、お前さんの馴染みがコロッと騙されるのも分かる気がするな。 泪:それは褒め言葉と受け取っておくよ。 乙桐:やはり難儀な野郎はお前さんの方だ。 赤眼:せんせ、せんせ。 乙桐:なんだ赤眼? 赤眼:お客人さ置いてけぼりだぁ。 赤眼:かやっ子さ姉さまも、せんせと口喧嘩しに来た訳さねぇんだろ? 乙桐:喧嘩と言うか昔からの遊びに近いんだが、まぁ確かにそうだな。 泪:お嬢さんを置いてけぼりにするつもりは無かったけれども、悪かったねぇ? とよ子:あ、いいえ全然! 乙桐:さて、あーお嬢さん? とよ子:あ!申し遅れました。私は「とよ子」と申します。 乙桐:とよ子か。 乙桐:俺は「乙桐(おとぎり)」だ。名はあんまり売れちゃいねぇが細々と絵描きを生業にしている。 乙桐:そのしがないただの絵師に一体全体どんな野暮用があるんで? とよ子:用と言うか、その……乙桐先生の鬼の絵を見ました。 とよ子:人を喰い殺す鬼の絵を。 赤眼:鬼……。 0:泪、入りだけ少し慌てる。 泪:お嬢さん!いや、とよ子がねぇ。 泪:アンタの描いたおどろおどろしい絵を思い詰めた顔で眺めていたのさ。 泪:さてはこれは何かしらの野暮用なんだと、アタシが勝手に判断して連れて来ちまっただけで、 泪:見当違いかもしれないと、そう伝えるのをうっかり伝え忘れていたよ。 乙桐:ほぉう。 乙桐:ほいほい連れて来るなとは言っているが、まぁお嬢さんが俺に用があるのは確かみたいだから安心しろ泪。 乙桐:尤も本人その野暮と俺の関わりがちっとも分かんねぇみてぇだが。 とよ子:その……あまり見知らぬ人に話すべきでは無い事が、 乙桐:その左腕に巻き付いたモノの事だろう?違うかい? とよ子:っっ?!あ……えっと……。 乙桐:ゆっくりでいい、話してみろ。 とよ子:(以下、とよ子モノローグ) とよ子:   とよ子:私事ではありますが、随分と奇っ怪な話を語ります。 とよ子:父は簪や櫛(くし)。 とよ子:その他、女人が身に付ける細々とした物を作り上げる細工師。 とよ子:通り沿いの大店(おおだな)のようには参りませんが、 とよ子:そこそこに繁盛した小間物屋の娘でございます。 とよ子:上にも下にも兄弟は居ないので、一人娘と表すのが正しいかと。 とよ子:  とよ子:父は細工師と申しましたが、品の全てが父の手によるものではなく、 とよ子:他所から仕入れる事も儘あります。 とよ子:店に出す物が大半ですが、何分遅くに出来た娘故。 とよ子:子煩悩な父は時々娘の為にと、珍しい品々を土産として買い与えてくれる事がございました。 とよ子:あれは丁度、夏の暮れの時分でしたか。 とよ子:  とよ子:父からとある化粧箱を渡されたのは……。 0:  父:とよ子や、とよ子。 父:ちょっとこっちにおいでなさい。 とよ子:お呼びでしょうか?父様。 父:この間珍しい物を手に入れたから、お前にやろうと思って持ってきたんだ。 とよ子:わあ!なんでしょうか? 0:  とよ子:これは化粧箱でしょうか?嬉しいです! 父:なんでも京の都から仕入れた物らしい。 とよ子:いつもの小間物売りから仕入れたのですか? 父:いいや。 父:それがこの辺りでは全く見覚えのない御人(おじん)が話しかけてきてね。 父:大方どこかの山の方から出稼ぎで下りてきたのだろう。 父:見た目は大層貧相ではあったが、品物はどれも一級品ばかり! 父:運がいいとはまさにこの事だ。 とよ子:きっと父様の日頃の行いが良いので、神様がご褒美をくれたのでしょう。 とよ子:それにしても京の都の物ですか。 父:気に入ったかい? とよ子:はい、とても! 父:そいつぁ良かった! 0:  とよ子:(以下、とよ子モノローグ) とよ子:  とよ子:それはそれは丁寧に手掛けたのか。 とよ子:その桐で出来た化粧箱は、 とよ子:今まで見た事がない程に繊細な細工が施されておりました。 とよ子:飾るだけでも充分に楽しめる、大層見事な物でした。 とよ子:ですがその化粧箱は、化粧箱として使うには、 とよ子:少々不可思議な作りだったのです。 0:  母:おやまぁとよ子や、どうしたんだい? 母:半刻も前から父様に与えられた化粧箱と睨めっこ。 母:一体全体何がそんなに気になると言うのです? とよ子:それが母様、妙なんです。 母:妙?その化粧箱がですか? とよ子:ええ、ええ母様。 とよ子:この化粧箱、おかしな事に蓋が全く開かないんですよ。 とよ子:押しても引いてもてんで駄目。 とよ子:しばらくあれもこれも試してみましたが、 とよ子:とよ子はほとほとくたびれてしまいました。 母:粗悪品を掴まされたって事かしら? 母:あの人ったら全く。 母:自分の見定めは完璧だとおっしゃる割に、変なところで抜けているのだから。 とよ子:いいえいいえ母様。 とよ子:父様は悪うございません。 とよ子:この化粧箱は飾るだけでも見事な品。 とよ子:きっと自分は開かずとも、価値は充分にあるのだと、化粧箱がそう申したいのでしょう。 母:確かに見事な品ではありますが、 母:蓋が開かぬのであらば化粧箱としての意味は無いと母は思いますが、 とよ子:それでも見事な物なのです。 とよ子:少しばかり残念ではありますが、とよ子はこれをとても気に入っているので。 とよ子:どうか父様を責めるのはやめてくださいませ。 とよ子:このまま飾って楽しむ事に致します故。 母:そう。そう、そうですか。 母:お前がそれでいいのならば、母はこれ以上何も言いません。 0:  とよ子:(以下、とよ子モノローグ) とよ子:  とよ子:押しても引いてもビクともしない。 とよ子:ほんの隙間すら開かぬ化粧箱。 とよ子:そぉっと揺らしてみたところ、何やらカタカタ音がするではありませんか。 とよ子:多少中が気になってはおりましたが、けれど私は結局諦めたのです。 とよ子:  とよ子:アレはきっと狙っていたのでしょう。 とよ子:私が化粧箱を開くのを、それを寂しく諦めるのを。 とよ子:興味がある内は隙は出来ません。 とよ子:だからきっと私の興が削がれるのを、 とよ子:ただただじぃっと待っていたのでしょう。  とよ子:  とよ子:夜も深まったある晩の事。 とよ子:ふと目を覚ました私の目に、あの化粧箱が入りました。 とよ子:ほんの少しの隙間を作り、まるで開けろとでも言うように。 とよ子:  0:  泪:それで化粧箱の中には何が入っていたんだい? とよ子:鏡……このくらいの、手鏡が入っていました。 乙桐:鏡?それは今持って来ているのか? とよ子:いいえ、いいえ。 とよ子:あの手鏡は、今は蔵の中にしまい込んであります。 泪:ただの手鏡をかい? とよ子:それがあの手鏡は、ただのと申すにはあまりに似つかわしくない物でして。 乙桐:何かあったんだな。 とよ子:ええ……ええ。 とよ子:……それと言うのもあの手鏡は、全く何も写さないのです。 乙桐:写さない? とよ子:手入れをしなかった訳ではありません。 とよ子:見た目はきちんと輝いております。 とよ子:けれどどんなに磨いても、全く何も写さないのです。 泪:開かない化粧箱の次は、何も写さない手鏡かい。 とよ子:ええ、何も。 とよ子:嗚呼!ですが正確には一度だけ。 とよ子:私が化粧箱を開けたあの晩に。 とよ子:私の姿をチラッとだけ、ただの一度写しました。 乙桐:……。 とよ子:それから私のこの腕は指の先まで僅かばかりも動かなくなってしまったのです。 とよ子:夜にはギリギリと締め付けてあまりの痛みに満足に眠る事も叶いません。 とよ子:医者は匙を投げました。 とよ子:「こればかりはなんとも、まるで何かに取り憑かれたようである」と。 乙桐:……お前さんは何を見た? とよ子:何、とは? 乙桐:いいや、いい。 乙桐:今は思い付かないのならば、それまでだ。 とよ子:はぁ……? 泪:それで、とよ子。 とよ子:はい。 泪:腕が動かなくなったからとアンタの抱える悩みは分かったけどねぇ。 泪:けれどやっぱりどうして、この人の絵をあんな目をしながら見つめていたんだい? とよ子:……何も。 泪:? とよ子:何も理由はないです。 とよ子:ただ時折どうしても、気にかかって仕様のないものがあるでしょう? とよ子:なんの変哲もないただの石が、どうしてか気になる事があるでしょう? とよ子:それに近いような……理由を付けるとしたのなら、そのような事です。 泪:そうかい、あい分かったよ。 とよ子:自分が奇っ怪な事を申している自覚はございます。 とよ子:ですが乙桐先生は私の、この左腕のモノに気が付きました。 とよ子:ですからきっと私の気が狂ったとは思われないでしょう。 とよ子:何か、手をお持ちなら尚の事嬉しいのですが……。 乙桐:嗚呼、だがな。 とよ子:はい。 乙桐:「気付く」と「見る」では、なかなかどうして勝手が違う。 とよ子:……見えてはおられない、と? 乙桐:嗚呼。 乙桐:いや、まぁ妙なモノが見えてはいる。 乙桐:ついでに言やぁ泪、お前さんも。 乙桐:見ようとしたら俺と同じモノくらいは見れるだろう。 泪:左腕かい? 乙桐:嗚呼。 泪:あい分かった、目を凝らして見てみるよ。 乙桐:そうしろ。 とよ子:…………。 泪:嗚呼、嗚呼。 泪:見えたよ、見えてしまったよ。 泪:とよ子アンタ、なんて難儀なめにあっているんだい可哀想に。 とよ子:これが何か分かりますか? 乙桐:いいや。 乙桐:見えたと言っても俺と泪には、ただ半端なモノしか見えちゃいないだろう。 とよ子:……そんな。 乙桐:半端なモノは、半端なモノにしか分からない。 とよ子:…………。 乙桐:だからこそ、だ。 乙桐:……赤眼。 赤眼:なした?せんせ。 乙桐:お前さんにアレはどう見える? 赤眼:なーんにも。 赤眼:なんがそんなに妙なのか、わしさはちっとも分がんね。 乙桐:そうだな、お前さんにとってはそうだろう。 乙桐:だが普通の娘さんには妙なんだ。 乙桐:大層奇妙で難儀なんだ。 乙桐:何が見える? 乙桐:もう一度教えてくれ、赤眼。 0:  0:  赤眼:お客人さの左腕さに、無数の糸さが絡み付いてる。 赤眼:先は分がんね。 赤眼:外さ続いているからだ。 赤眼:わしさはな、せんせ。 赤眼:こん糸、見た事あんぞ。 乙桐:なんの糸だ? 赤眼:なんだったかぁ……。 赤眼:そうだ、そうだ、こんは蜘蛛さの糸だ。 0:一拍 赤眼:お客人さの左腕に、蜘蛛さの糸が絡み付いているよ。 とよ子:っっ?! 泪:嗚呼嗚呼とよ子が驚くのも無理はない。 泪:赤眼は少しばかり変わっているんだよ。 泪:境目が分からないと言うかなんと言うか。 乙桐:分からねぇからこそ、俺達よりもずっと多くを見る事が出来る。 乙桐:俺と泪にはモヤが巻き付いている半端なモノしか見えなくても、 乙桐:赤眼には蜘蛛の糸に見えるんだ。 赤眼:せんせ、せんせ。 赤眼:なぁいったいこれのどこが妙なのか、わしには分がんねから教えてくんろ。 乙桐:先にお嬢さんの話をもう少し。 乙桐:もう少しだけ聞いたらな。 赤眼:分がった。 とよ子:話すと言っても、これ以上は。 乙桐:気にかかる事がない、と? とよ子:はい。 乙桐:分かった。 乙桐:それじゃあお嬢さん。 乙桐:代わりに俺について教えてやろう。 とよ子:乙桐先生についてですか? 乙桐:俺についてと言うよりは、俺の生業について、だが。 とよ子:絵師、ですよね? とよ子:絵師の先生。 乙桐:嗚呼そうだ。 乙桐:俺は確かにしがない絵師だ。 乙桐:けれどね、お嬢さん。 乙桐:これが全くただの絵師じゃあないんだよ。 とよ子:どう言う事ですか? 乙桐:俺が描くのは、妖、化け物、魑魅魍魎(ちみもうりょう)。 乙桐:お嬢さんが見た鬼の絵。 乙桐:あれは正に本当の鬼の絵だ。 とよ子:本当の? 乙桐:嗚呼、本当の鬼があの絵の中に居る。 乙桐:半月前に封じたばかりの、まだまだ若い新作だがな。 とよ子:? 泪:もっと優しく言ってやりゃあいいものを。 泪:そんな言い方をしても伝わらないだろう? 泪:アンタはそうだ、いつもそうだよ。 乙桐:ならばお前さんが説明してやればいいだろう。 泪:あい分かった、任されたよ。 泪:アンタよりはアタシの方が上手いだろう。 とよ子:あの? 泪:とよ子。 とよ子:はい。 泪:この人が先に言ったように、この人は絵師は絵師でもただの絵師じゃあない。 泪:風景、人物、役者の姿絵。 泪:そんな物は描きやしない。 とよ子:絵師なのに、ですか? 泪:そうさね。 泪:この人は絵師は絵師でもあやかし絵師。 泪:人に悪さをする厄介者達の、姿を描いて封じ込める。 泪:そう言ったどうにも変わった絵師なんだい。 0:一拍 とよ子:ならばやっぱり私の腕は、何か人ではない別のモノに取り憑かれているのでしょうか? 乙桐:さあ? 乙桐:それは見てみない事には分からない。 乙桐:正体を正確に、ほんの一筋(ひとすじ)まで正確に。 乙桐:見てみない事には、お嬢さんが憑かれたのか? 乙桐:はたまた、ただの気の迷いなのか? 乙桐:それがどうかをすぐには答えられないな。 とよ子:………どうすればいいんですか? 乙桐:今からお嬢さんの家に行ってもいいか? 乙桐:その件(くだん)の化粧箱と手鏡とやらを、この目できちんと見てみたい。 0:(※前後に分ける場合はここで一旦終了) 0:  泪:(以下、泪口上) 泪:  泪:迷い迷うは妖道中 泪:人を仇なす魑魅魍魎 泪:描き連ねるは絵師の性 泪:半端者の形は歪む 泪:果たして見るのか 泪:それともはたまた見られているのか 泪:分からないからこそ嗚呼面白い 泪:  泪:おいでましたは小間物屋の娘 泪:開かぬ存ぜぬ化粧箱 泪:ちらっと写したきりきり舞い舞い手鏡に 泪:どうした事か、その身を写した晩から腕動かず 泪:なんの因果か半身に蜘蛛の糸を巻き付け登場 泪:嗚呼、難儀だ難儀だ難儀だよぅ 泪:不憫な娘を悩ませる 泪:件のそいつは妖か否や 泪:とにもかくにも、あの続き 泪:  泪:  泪:とくとお聞かせ致しましょう  0:とよ子の父が営む小間物屋に着いた一同は、立派な門構えに驚く。 0:  赤眼:でっけぇな。 赤眼:長屋さみぃんな入れそうだぁ。 泪:なんだいとよ子、さては謙遜したのかい? 泪:大店(おおだな)じゃないとは聞いちゃあいたが、それにしては随分とまぁ見事な構えじゃあないかい。 とよ子:いいえ、いいえ本当に。 とよ子:まだまだ通り沿いとは比べものにもなりません。 とよ子:ですがこれは父の忍耐の結果でございます故、そう言われるのは嬉しい限りです。 乙桐:ここまで来ておいて今更だが、いきなり来ちまって良かったのか? 乙桐:手土産の一つも持たずして、些か敷居が高そうだ。 とよ子:家の者は誰一人、来客を咎める者はおりません。 とよ子:むしろこちらこそ、なんのお構いも出来ませんが、 泪:それはいいんだよ、とよ子。 泪:アタシもこの人も勿論、赤眼も。 泪:構われたがりは一人も居やしないんだから。 赤眼:せんせ。 乙桐:なんだ? 赤眼:化粧箱と手鏡さ見る為に、わしまで連れて来る意味が分がんね。 乙桐:疲れたのか? 赤眼:いんや?ちぃーっとも。 赤眼:わしはあそこさ通りの団子が食えればそれでいい。 乙桐:ちゃっかり現金なヤツだな……。 乙桐:分かった帰りに寄ってやろう。 赤眼:あい。 とよ子:蔵から化粧箱と手鏡を取って参りますので、皆様はこちらの方でしばしお待ち頂いてもよろしいですか? 乙桐:嗚呼。 0:  0:  乙桐:そういや、泪。 泪:なんだい? 乙桐:お前さん見世はいいのか? 乙桐:とっくのとんまに昼見世は始まっちまっているだろう? 泪:嗚呼いいんだよ。 泪:遣手(やりて)ばばぁには、どんなに遅くなろうとも、 泪:夜見世までには戻るからって言ってあるからねぇ。 乙桐:女郎としてどうなんだそれは。 泪:アタシはこの身に掛かるものがなんにもないからいいんさね。 乙桐:お前さんの馴染みは可哀想だなぁ。 泪:旦那さん達はアタシがこうだと分かった上で通っているし、 泪:そもそも閨(ねや)の相手がまさか同じ男だとは夢にも思わない阿呆共だ。 泪:何かちんたら揉めたところで、 泪:「あれ泪の奴は今日び頭が痛てぇ痛てぇと寝込んでおりますまい。 泪: しばらくの所は堪忍え、また夜にでもどうぞどうぞお戻りくださいまし」 泪:なりなんなり法螺(ほら)の一つでも呟けば、 泪:「そうかそうか」と尾っぽ下げて帰るのさ。 乙桐:よくもまぁそれでいっぱしの花魁張っていられるものだ。 乙桐:化けの皮剥いだらとんだど畜生のくせして、謳い文句は「月下の芙蓉(ふよう)」。 乙桐:女も怖ぇが、女のフリした男はもっと怖ぇったらありゃしねぇ。 泪:なんせこちとら生まれた時から餌のいらない猫何匹も抱えているからねぇ。 泪:なまじ軽率にボロは出せまいて。 泪:何を失うのか分かったもんじゃあない。 乙桐:元よりお前さんは何も持っていないだろうに。 泪:嗚呼、そうだ。 泪:確かにそうだ。 赤眼:せんせ、かやっ子さ姉さま。 赤眼:まーた口喧嘩か? 泪:口喧嘩なんかじゃあないさね赤眼。 泪:長引いた腐れ縁は例え相手が難儀な野郎だとしても、そこそこ情が湧いちまうもんなんだよ。 乙桐:本当にそこそこだけどな。 乙桐:あと難儀な野郎はお前さんだ。 泪:あい分かった分かったよ。 泪:ところで乙桐大先生? 乙桐:妙に腹の立つ呼び方だ。 泪:先生は先生だ。 泪:間違っちゃいないだろうし、なぁ赤眼? 赤眼:せんせはせんせだ。 泪:アタシは? 赤眼:かやっ子さ姉さまはかやっ子さ姉さま。 泪:そうだねぇそうだよ。 泪:アタシはあの子のオイラの姉さんだ。 泪:…………守ってやらないとねぇ。 赤眼:? 乙桐:話が逸れてるぞ、泪。 乙桐:何か言いたい事があるんじゃなかったのか? 泪:嗚呼、そうだったそうだった! 0:  0:  泪:いやさねぇ、なんだかおかしいと思わないかい? 乙桐:何が? 泪:この屋敷だよ。 赤眼:なんが? 赤眼:なんがおかしいんだ? 赤眼:かやっ子さ姉さま、教えてくんろ。 泪:赤眼が分からないのは仕様がないとして、 泪:アンタはなんで気付かないんだい? 乙桐:お前さん程キョロキョロなんでもかんでも、鼠みたいに首突っ込もうとしちゃあいないからだ。 泪:あいあい、二言目には嫌味だ全くこの人は! 泪:酒に飲まれた旦那さんよりむしろ素面のアンタの方がタチが悪いったらありゃしないねぇ。 赤眼:なんがおかしいんだ? 赤眼:教えてくんろ、かやっ子さ姉さま。 赤眼:なぁ、なぁ。 泪:分かった分かった、そうぐいぐい来なくても答えてやるから落ち着きな。 赤眼:分がった。 泪:いやさねぇ、 泪:ちぃっとばかり静か過ぎやしないかい? 乙桐:そうか? 赤眼:そうか? 泪:やだねぇ!この二人は変なところでそっくりで! 泪:なまじ修羅の国ばかり見ていると、こうなっちまうもんなのかい? 赤眼:だーで、あっこの方が静かだもん。 泪:あっこ? 赤眼:黄泉(よみ)。 泪:あの世とこの世を一緒にするんじゃないよ! 泪:第一赤眼はなんであの世の事なんか知っているんだい? 泪:まさか死んだ事もあるまいし。 赤眼:うんや、かやっ子さ姉さま。 赤眼:わし死んだ事あるよぉ? 泪:なんだって? 赤眼:死んだ事ある。 赤眼:落ちてくんだ。 赤眼:ずーっとずーっと深ぇとこまで。 赤眼:なんもねぇ。 赤眼:寂しい寂しい、それしかねぇ。 赤眼:あっこの方がずーっと静かだった。 泪:なんだい全く悪い冗談だよ。 泪:教えたのは誰だい?え? 泪:アンタだろう乙桐。 乙桐:難癖もいいところだな。 泪:アンタ以外に赤眼に物を教える奴がいったいどこに居るって言うんだい? 乙桐:お前さんとかお駒(こま)の奴とか、赤眼に教えたがる奴は割かし多い。 泪:駒姐さんは優しいんだよ。 泪:特にあの人はややこにはめっぽう弱い! 赤眼:わしややこじゃねぇよ? 泪:ややこもわらべも赤眼も一緒さ。 泪:何が一緒か分かるかい? 赤眼:分がんね。 泪:可愛いって事。 赤眼:………分がんね。 泪:つれない子だねぇ。 乙桐:とにかくだ。 乙桐:あー……静か過ぎるんだったか? 泪:嗚呼、そうさ。 泪:まるで廓の夜明けみたいだよ。 乙桐:そんなに気になる事か? 泪:馬鹿だねぇ。 泪:ただ単に静かじゃあアタシはおかしいとは思わないさ。 泪:静か過ぎるって言っているんだよ。 赤眼:なんだぁ? 赤眼:静か過ぎるといけねぇのか? 泪:そこそこ繁盛している小間物屋の一人娘が、 泪:突然見知らぬ他人様々(ひとさまさま)連れて来たってのに、 泪:家人の一人も出てきやしないどころか、様子を伺う気配一つない。 乙桐:伊勢の方にでも行ってるんじゃねぇか? 泪:この時期に? 乙桐:気が向いたんだろう。 泪:親も? 乙桐:嗚呼。 泪:丁稚(でっち)や奉公人も? 乙桐:嗚呼。 泪:とよ子一人残して? 乙桐:嗚呼。 泪:はぁ……そんな訳ないだろう。 泪:寝惚けた事ばかり言うんじゃあないよ。 乙桐:悪い悪い。 乙桐:随分難儀だと思ったらつい、な。 泪:面白がって阿呆のフリかい。 泪:付き合わされるこっちの身にもなれってんだ全く。 乙桐:ふっ。 乙桐:さぁてそろそろその口、閉じた方が良さそうだぞ?泪。 泪:え? 乙桐:お嬢さんが戻って来る。 とよ子:お待たせ致しました。 泪:嗚呼なんだい驚いた! とよ子:え?あ、すみません。 泪:いいやいいや、こっちの話だよ気にしないどくれ。 とよ子:はぁ……? 乙桐:随分遅かったじゃねぇか。 とよ子:それが父様が思いのほか、奥の方にしまい込んでしまったらしく……。 乙桐:嗚呼別に責めてる訳じゃあない。 乙桐:何分、事が事だからな? 乙桐:取りに行く間に、もしやお前さんになんかあったんじゃあねぇかと、余計な気ぃを回しただけだ。 とよ子:それはそれは。 とよ子:お待たせしてしまって申し訳ないです。 泪:それで、それが件の化粧箱かい? とよ子:はい、そうです。 乙桐:手鏡は? とよ子:この中に。 とよ子:ちょっと待ってくださいね。 とよ子:今取り出しますから。 泪:焦らないでいいよ。 0:  0:  赤眼:せーんせ。 乙桐:なんだ? 赤眼:あれが化粧箱と手鏡か? 乙桐:嗚呼。 赤眼:そうか……そうか。 乙桐:何か気になるのか? 赤眼:いんや、なーんにも? 乙桐:……。 赤眼:なーんにも……けんど、 乙桐:嗚呼。 赤眼:あーれ良ぐないよ。 乙桐:何がだ? 赤眼:分がんね。 乙桐:おかしいのか? 赤眼:おがしい? 赤眼:おがしいかは分がんね。 赤眼:分がんねぇけんど、良ぐないよ。 乙桐:……。 乙桐:分かった。 赤眼:あい。 とよ子:乙桐先生? 乙桐:ん、嗚呼悪い。 とよ子:相談事ですか? 乙桐:いいや? 乙桐:赤眼の奴が団子が食いたい食いたいと煩くてな。 乙桐:もう少しばかり待っていられねぇのかと、そう話していたところだ。 赤眼:せんせさ帰りに寄ってやろうと言ったから、そんまで我慢するしかねぇな。 乙桐:な? 乙桐:大きな声で話す事でもねぇと思って耳打ち程度に収めてはいたが、 乙桐:変な勘繰りさせちまったようで、いやはやこれは悪い悪い。 とよ子:(小声)嘘ばっか。 乙桐:なんか言ったか? とよ子:いいえ、いいえ。 とよ子:それよりも少しばかり問題が……。 乙桐:どうした? 泪:開かないんだよ。 乙桐:化粧箱が? 泪:嗚呼。 泪:アンタ達が団子があーだこーだと話している内に、とよ子と二人で色々試してみたが、 泪:何をしても少しの隙間も開きやしない。 とよ子:蔵に入れる前は確かに開いた筈なのですが……。 乙桐:開かずの箱が開いたと思ったら、また開かなくなったのか。 泪:開けようと思うからいけないのかねぇ? とよ子:と、言うと? 泪:いやさねぇ、アンタが先に言ったじゃあないかい。 泪:「興味がある内は隙は出来ない」 泪:「だからきっと私の興が削がれるのを、ただただじぃっと待っていた」って。 とよ子:嗚呼! 乙桐:開けようと思わねぇで開けろっつー事か。 乙桐:こいつぁまた難儀だな。 赤眼:どゆことだ? 泪:「開けよう」と思うから開かない。 泪:なら「開けよう」と思わなければ開くんじゃないか?って事だよ。 赤眼:せんせもかやっ子さ姉さまも何言ってんだ? 赤眼:箱は開く物だ。 赤眼:開かねぇ箱は箱じゃねぇ。 乙桐:ほぉう。 乙桐:成程、そうかそうか。 乙桐:確かに赤眼の言う通りだ。 泪:どう言う事だい? 泪:今度はアタシが分からなくなっちまったよ。 乙桐:泪。 泪:なんだい? 乙桐:「開く」と思いながら開けてみろ。 泪:だからさっきからそうしているよ。 泪:なぁ、とよ子。 とよ子:ええ。 乙桐:いいや違う。 乙桐:お前さん達は「開けよう」としていたんだろう? 乙桐:俺が言ってるのはそうじゃねぇ。 乙桐:「開く」と思って開けるんだ。 泪:いやだいやだ、阿呆の真似事をしていたと思ったら、 泪:アンタ本当の阿呆になっちまったのかい? 乙桐:そんな訳ないだろう大馬鹿者が。 乙桐:いいから言った通りにしてみろ。 泪:あいあい分かった、分かったよ。 泪:アンタはそうさ、いつもそうさ。 泪:自分ではちぃっとも動きやしない。 泪:そのくせ人使いは荒いんだから全く。 乙桐:ぐだぐだ言っても過ぎるのは時間だけだ。 泪:そんな事言ったってねぇ。 泪:何しても開かなかったんだ、本当さ。 泪:それが「開けよう」を「開く」に変えるだけで開くもんなのかねぇ。 赤眼:あぐよ。 泪:赤眼、アンタも開くと思うのかい? 赤眼:嗚呼。 泪:そうかい、なら試してみようじゃないかねぇ。 赤眼:だけんどなぁ、かやっ子さ姉さま。 泪:なんだい? 泪:えーっと「開く」「開く」。 泪:思いながら試すのはなかなかどうして勝手が分からなくなるもんだ。 赤眼:そーれ、開げない方がいんべ。 泪:え? 泪:うわっっ?! 0:鏡に吸い込まれてしまった泪を何を考えているのか分からない目で見る赤眼。 0:  赤眼:ほーらねぇ、開~げない方が良がっだべ? 乙桐:ほぉう、こいつぁまた。 泪:なんだい?!何が起きたんだい?! 乙桐:嗚呼嗚呼、可哀想に。 乙桐:泪姉さんが鏡の向こうに行っちまった! 乙桐:おかやが聞いたら悲しむだろう。 乙桐:「俺を置いて姉さんが向こう側に行っちまったよぅ」ってな。 泪:乙桐さてはアンタ! 泪:分かっててアタシを嵌めやがったね! 乙桐:いいや、いいや、ちーっとも? 乙桐:なんせ半信半疑だったからな? 乙桐:試してみなきゃ分からぬ事を、まさか知ったかぶりは出来まいて。 泪:だからってアタシで試すんじゃないよ! 乙桐:悪い、悪い。 赤眼:かやっ子さ姉さま大丈夫かー? 泪:これが大丈夫に見えるかい? 赤眼:分がんね。 泪:全くちぃっとも大丈夫じゃないよ! 乙桐:まぁまぁしばらくそこでゆっくりしていろや。 乙桐:後でどうとでもしてやろう。 泪:アンタは本当に難儀な野郎さね! 乙桐:お前さんのように難儀な野郎にはとてもとても勝てやしないさ。 泪:ちっ。 乙桐:赤眼。 赤眼:なんだぁ? 乙桐:泪が気になるのは分からねぇ事もねぇが、迂闊にそれに近付くんじゃねぇぞ? 乙桐:「写すのが二人まで」とは限らない。 赤眼:分がった。 泪:二人? 乙桐:はてさて、お嬢さん。 乙桐:小間物屋の一人娘のとよ子さん? とよ子:はい? 乙桐:お前さんは一体全体何者なんだ? とよ子:?何を仰っているのか、 乙桐:言い方を変えよう! 乙桐:とよ子お嬢さんの身体の中に入り込んだ、お前さんは一体全体どこの誰なんだ? とよ子:さーあ? 乙桐:お前さんの目論見はだいたい検討がついている。 乙桐:大方この俺を始末したかったのだろう? 乙桐:けれども残念な事に、お前さんのような奴は年に一度の割合でやって来る。 乙桐:今年はどうやらお前さんの年のようだ。 とよ子:先生、先生、乙桐先生。 とよ子:何かを勘違いをしていらっしゃるのでは? 乙桐:いいや、いいや。 乙桐:これが全くちぃっとも勘違いなんかじゃあないんだ。 乙桐:お前さん達からしてみれば、俺みてぇな奴は心底邪魔だろう? 乙桐:邪魔で邪魔で仕様がないだろう? とよ子:……。 乙桐:己が正体を見破られるならまだいい方だ。 乙桐:下手したら取り込まれちまう。 乙桐:身動き一つ取れなくなるのは、 乙桐:好き勝手やりたいお前さん達のようなモノからしたら、 乙桐:なんとも難儀な話だろう。 0:  乙桐:もう一度問おう。 乙桐:お前さんは何を見た? とよ子:……………。 とよ子:鬼ですよ。 赤眼:鬼……? とよ子:ええ、そうです。 とよ子:鬼を見ました。 とよ子:人を喰い殺す鬼の絵を。 とよ子:ゾッとしました、してしまいました。 とよ子:なんせあれ程の鬼が、 とよ子:たかが人にあっさり封じ込まれてしまっていたのですもの。 とよ子:乙桐先生は知らないだろうかもしれませんが、 とよ子:あの鬼はそこいらでは少しばかり名が通った鬼だったんですよ? とよ子:それがどうした事か、なんて哀れな。 とよ子:紙切れ一枚に成り下がっておりまして。 とよ子:あれを素知らぬ振りなど、私にはとてもとても。 乙桐:そうかい、そうかい。 乙桐:自分で言うのもなんだが、あれはなかなかの良作だっただろう? 乙桐:あれで結構手こずったんだ。 乙桐:その分、描き甲斐はあったがな。 とよ子:さぁ、どうでしょうか? 0:  泪:乙桐。 乙桐:なんだ泪。 乙桐:ようやっと正気を取り戻したか? 泪:元より正気さね。 泪:鏡の中なんかに入れられちまった事以外ではねぇ。 乙桐:住めば都と言うだろう? 乙桐:どうだ、都になりそうか? 泪:この世の地獄のような赤格子(あかごうし)の向こうが、 泪:なかなかどうして恋しくて仕様がなくなっちまったよ。 泪:暮らす程は居たくないからさっさとここから出しとくれ。 泪:その内本当に正気がなくなっちまいそうだ。 乙桐:嗚呼。 乙桐:それで、なんだ? 乙桐:俺はいま、この得体の知れないとよ子お嬢さんと話をしているんだが。 泪:ちょいと伝え損なっちまった事があってねぇ。 泪:それをちろっと思い出したんだよ。 乙桐:そうか、言ってみろ。 泪:とよ子がねぇ。 泪:いやまぁその子がとよ子かどうかは知らない話なんだけれども。 乙桐:嗚呼。 泪:そいつがアンタの絵を見ていた時に、 泪:食い入るように見詰めていたとアタシは言ったけれど。 とよ子:…………。 泪:正しくは、仇(かたき)でも見るかのように睨み付けていたんだよ。 泪:それがあんまりにも到底普通のお嬢さんがするような目じゃあなくって。 泪:アタシはそれが不思議でねぇ。 泪:大層不思議で仕様がなくって、 泪:ついうっかり忘れちまうくらい不思議だったのさ。 乙桐:お前さんのそのうっかりうっかり、一度医者か何かに見せた方がいいだろう。 泪:ここから出れたらそうするよ。 乙桐:なら早いとこ出してやろう。 泪:頼んだよ。 とよ子:私がどのような目で絵を見ていたところで、大したきっかけにもなりやしません。 とよ子:ねぇ、そうでしょう? 乙桐:さぁ?どうだろう。 とよ子:うふふふっっ。 とよ子:はぐらかしてばっかりですね。 とよ子:私もですが。 とよ子:騙し合いでしょうか?それにしてはなんて、なんて軽率な。 とよ子:まぁいいのです。 とよ子:そんな事はいいのです。 乙桐:嗚呼。 0:  とよ子:それで先生、乙桐先生。 とよ子:私が「誰」かと問いましたが。 とよ子:一体全体私の「何」を知りたいんで? とよ子:それから、それから。 とよ子:私の「何」を知っているんで? とよ子:あなたは私を「誰」とおっしゃるんで? 乙桐:なぁんにも。 乙桐:お前さんが「誰」かも「何」かも。 乙桐:それを知っちまうまでは、俺はなあんにも知りやしない。 0:とよ子、この先ぐちゃぐちゃな話し方します。 とよ子:そうですか、そうなんですか。 とよ子:……嗚呼これだから興味がある内は隙が出来ないなぁ。 乙桐:お前さんは「誰」なんだ? とよ子:さぁ、「誰」だろうねぇ、「誰」だろう? とよ子:けれども先生、乙桐先生。 とよ子:私は俺はアタシは僕は知っているよ。 とよ子:知っているんだ、知っちまったんだ。 とよ子:アンタはそのモノの正体を、 とよ子:ちゃあんと知らなきゃどうにも出来ない。 とよ子:嗚呼、難儀だ難儀だ難儀だよぅ。 とよ子:アタシが「とよ子」じゃないとして、 とよ子:先生はそれしか見付けていないじゃあないか。 とよ子:あなたが、お前が、アンタこそが、 とよ子:半端者じゃあないのかい? 乙桐:ほぉう。 乙桐:知らぬフリしてその実ちゃんと聞いていたのか。 乙桐:これはこれは参った。 乙桐:或いは読んだのか?え? とよ子:読んだと言うのは心根かい? とよ子:それなら読んだよ、少しばかり。 とよ子:なぁんにも分かりゃしなかったけどねぇ。 とよ子:それでもどうにも聞いていた話ほど、 とよ子:お前を邪魔にするのすら勿体ない。 乙桐:ほぉう、どうやらお前さんは、 乙桐:ちょいとばかし勘違いをしているようだ。 とよ子:勘違い? 乙桐:俺は半端者じゃあない。 乙桐:勿論その手鏡にとっ捕まった、 乙桐:哀れな泪も半端者じゃあない。 泪:アタシをこんな目に合わせたのはアンタだろうに。 とよ子:ひと目で分かったお人好しの、オイラの姉さんと、アンタの二人。 とよ子:半端者じゃあないとはなんて、なんて笑わせてくれるのでしょうか。 乙桐:俺の言う半端者とは、揃ってねぇ奴の事じゃあない。 とよ子:それはそれは、 乙桐:半端者とは、あの世とこの世。 乙桐:そのどちらにも片足突っ込んだ、 乙桐:境目が分からねぇ奴の事だ。 とよ子:…………いまなんと? 乙桐:この世にちょっかい掛けるあの世の奴らも皆半端者。 乙桐:あの世に行っちまったくせに、この世に還って来るしか無かった奴もまた、半端者。 とよ子:まさかっっ?! 乙桐:赤眼! 赤眼:なんだぁ? 乙桐:判(はん)じ絵を作ろう。 乙桐:俺の問いとお前の答え。 乙桐:その二つで幾らでも、 乙桐:お前の為に描いてやる。 赤眼:いいね、いいねぇ、作ろうせんせ。 赤眼:わしはせんせさが描く絵が大好きなんだぁ。 とよ子:待っ……?! 0:  乙桐:描こうじゃないか、お前さんの得手不得手。 乙桐:形は?心は?真(まこと)は?嘘は? 乙桐:知らぬが仏とは言いますが、どうにも興味が引かれちまう。 とよ子:どうしてだ、どうしてでしょう! とよ子:動かないんだ、何をした! 乙桐:お前さんが俺に問わなきゃいけねぇのは、 乙桐:何を「した」じゃあなく何を「する」?だ。 乙桐:理屈は持っちゃあいないがね。 とよ子:嗚呼いやだ、嫌だ嫌だそれは嫌だ。 0:  乙桐:赤眼、 乙桐:「とよ子」はどこに居る? 赤眼:そんなんずーっと鏡の中だぁ。 赤眼:かやっ子さ姉さまみてぇに鏡の中さに入れられて、化粧箱さ入れられて。 赤眼:「出れねぇ出れねぇ」と泣いているよ。 とよ子:問うんじゃあない、答えないで。 とよ子:ねぇ可愛い可愛い娘っ子。 とよ子:飴をやろうか?それとも団子か? とよ子:なんでも、なんでも、お前にやるよ。 乙桐:赤眼、こいつは蜘蛛か? 乙桐:巻き付いた蜘蛛の糸の持ち主か? 赤眼:違ぇよ、せんせ。蜘蛛じゃねぇ。 赤眼:お客人さに巻き付いた、 赤眼:こん糸の持ち主はお客人さじゃねぇ。 とよ子:嗚呼苦しい苦しい、嫌だ嫌だ。 とよ子:その色は嫌いだ、俺を描くんじゃあない。 乙桐:赤眼、なら誰だ? 乙桐:誰が糸を巻き付けた? 乙桐:「とよ子」を語るこのモノに、 乙桐:何の為に巻き付いた? 赤眼:それはねぇ、せんせ。 とよ子:やめろやめて、お願いしま、 赤眼:「とよ子」だよぉ。 乙桐:とよ子? 赤眼:「返せ、返せ、身体を返せ」そう言って、逃がすまいと巻き付いたんだ。 赤眼:袖を引かれると言うだろう? 赤眼:あれだよ、せんせ。 赤眼:あれなんだ。 乙桐:ほぉう、そうか。 乙桐:「とよ子」の糸か。 とよ子:解けていくよ、アタシが色になっちまう。 とよ子:やめてくださいまし、先生ねぇ先生、乙桐先生、 乙桐:最後だ、赤眼。 赤眼:あい。 乙桐:鏡がこいつの正体か? 赤眼:いんや違ぇ、違ぇよせんせ。 赤眼:鏡は道具だ、うつすだけだ。 赤眼:動く奴も居るだろう。 赤眼:長く長く在ったなら。 赤眼:けんども、あれはそうじゃねぇ。 赤眼:うつしただけのただの鏡だ。 乙桐:そうか、分かった。 乙桐:なあ赤眼。 赤眼:なんだ?せんせ。 乙桐:お前さんが見えてるモノは、 乙桐:この姿で間違いないか? 赤眼:嗚呼、そうだよ。 赤眼:そうだよ、せんせ。 赤眼:せんせさにもわしの目が見えたんけ? 乙桐:いいや違う。 乙桐:お前さんの目が見えたんじゃあない。 乙桐:お前さんが俺の目なんだ、赤眼。 赤眼:そうか、そうか。 乙桐:さぁさ、そろそろ仕舞いにしよう。 乙桐:お前さんは「誰」だ? 乙桐:赤眼にお前さんは鬼に見えた。 乙桐:赤眼が怖がらねぇ鬼にな。 乙桐:こいつが怖がらねぇ鬼なんざ、小鬼か鬼であってそうじゃあねぇ奴だ。 乙桐:お前さんの姿形は、ニタニタ笑うちいせぇ小鬼だ。 とよ子:ひぃっっ?! 乙桐:なかなかどうしてよく描けているだろう? 乙桐:けれどこれだけじゃあ駄目だ。 乙桐:姿形だけじゃあ足りねぇよ。 乙桐:名を記してやらねぇと。 乙桐:お前さんを表す名を。 とよ子:先生、ねぇ乙桐先生。 とよ子:私は紙切れ一枚なんかに、なりたくないんだよぉ! 乙桐:泣き落としは通じる奴にしろ。 乙桐:そう言う意味でお前さんが、 乙桐:泪の奴を鏡に閉じ込めちまったのは、 乙桐:どうにもなかなか間違っていた。 泪:誰が女の涙に弱いって? 乙桐:弱いだろう? 乙桐:お前さんはその名の通り、 乙桐:「泪(なみだ)」にめっぽう弱ぇじゃあねぇか。 泪:弱いからこの名を付けられた訳じゃあないんだけどねぇ。 乙桐:それともあれか? 乙桐:泣いてばかりいたからか? 泪:違うさね! とよ子:先生、先生、乙桐先生。 とよ子:どうかどうか堪忍してくださいませ。 とよ子:俺は悪さはしていない。 とよ子:ただただ、盗った、それだけさ。 乙桐:それが「とよ子」にとっての悪さなんだ。 乙桐:器に対しての執着が、 乙桐:お前さんからなんとか取り返そうとする執念が。 乙桐:蜘蛛の糸になっちまうぐれぇにな。 とよ子:先生、許せ、許しておくれ。 乙桐:お前さんは「何」だ? 乙桐:お前さんは「鬼」だ。 乙桐:お前さんは「誰」だ? 乙桐:お前さんは、 乙桐:  乙桐:  乙桐:  乙桐:「天邪鬼(あまのじゃく)」だ。 0:間 0:  泪:全く酷い目にあったよ! 泪:人を囮にするなんざ、いつかバチが当たるからね。 乙桐:バチなんざ日頃から当たっている。 乙桐:お前さんみてぇな難儀な野郎と関わっちまった日からな。 泪:今日のアタシはなかなかどうして、 泪:難儀な目にはあってしまったから、 泪:難儀な野郎と言われても、確かに確かに仕様がないよ。 赤眼:とよっ子、とよっ子。 とよ子:ん……。 赤眼:大丈夫かぁ? 赤眼:起きれるかぁ? とよ子:……誰? 赤眼:わし? 赤眼:赤眼。 とよ子:あかめ。 赤眼:こっちはせんせ。 赤眼:あっちはかやっ子さ姉さま。 とよ子:何がなんだか。 泪:おや、忘れちまったのかい? 泪:切ないねぇ。 泪:どうにも縁とは、結ぶのも容易ければ解けるのも容易いものだ。 乙桐:まぁいい。 乙桐:その内、縁がありゃあ、 乙桐:お嬢さんの方からまた来るだろう。 とよ子:? 泪:とよ子、間違ってももう二度と、 泪:この人の描く絵を気にしちゃあいけないよ。 とよ子:絵、ですか? 泪:嗚呼、そうさね。 泪:それから、物としての機能をしてない物に、迂闊に近寄ってもいけない。 泪:それが例え贈り物だとしても、だ。 泪:分かったね? とよ子:はあ……? とよ子:分かりました? 赤眼:せんせ、かやっ子さ姉さま。 赤眼:も、行ぐよ。 乙桐:嗚呼。 とよ子:あの! 泪:? とよ子:あの、ありがとう、ございました? 乙桐:こちらこそ。 乙桐:お陰様で良い絵が描けた。 0:  0:  赤眼:団子屋さ閉まっちまったぁ。 乙桐:あー……本気で食いたかったのか。 乙桐:明日、明日買ってやろう。 泪:可哀想に。 泪:描く以外ではてんで脳の無い、この人の所に来ちまったばっかりに。 赤眼:団子。 泪:今からうちの見世にでも行くかい? 泪:赤眼が好きそうな甘味の類が、何かしらはある筈だよ。 乙桐:見世と言やぁ、泪。 泪:なんだい? 乙桐:お前さん大丈夫なのか? 乙桐:もうあと半刻ばかりで、夜見世の時間だが。 泪:これはしまった! 泪:急いで帰らないと、流石に遣手(やりて)ばばぁにとっちめられちまう!! 乙桐:ざまあみやがれ。 泪:アンタがアタシを嵌めて鏡の中に入れなかったら、こうはならなかったんだよ! 乙桐:そいつぁ、悪い悪い。 泪:まったくもう! 赤眼:かやっ子さ姉さま帰るんか? 泪:またその内来るよ。 泪:赤眼が来てくれてもいいしねぇ。 赤眼:分がった。 泪:そいじゃあ、また! 乙桐:嗚呼。 0:一拍 乙桐:やはり難儀な野郎だ。 乙桐:なあ、赤眼。 赤眼:分がんね。 0:「箱入り娘」完 0: