台本概要

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タイトル 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜人間万事 湖水をくぐりて見ゆるもの
作者名 にじんすき〜  (@puddingshower)
ジャンル 時代劇
演者人数 6人用台本(男3、女1、不問2) ※兼役あり
時間 50 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 ⭐︎5人で演じられる際は「阿武」「長治」兼役でどうぞ⭐︎

「悲しきものに寄り添う」が信条の仕掛屋『竜胆』
 町の平和を乱す輩をさっさと片づけ、早く安らぎたいお詠さん。
 今回は新五郎さんの招待を受けて、皆で歌舞伎見物と洒落込むご様子。
 事件に巻き込まれる中で手強い敵を見つけて…
 さてさてどうなりますやら

仕掛屋『竜胆』閻魔帳 第2作

1)人物の性別変更不可。ただし、演者さまの性別は問いません
2)話の筋は改変のないようにお願いします
3)雰囲気を壊さないアドリブは可です
4)Nは人物ごとに指定していますが、声質は自由です
5)兼役は一応指定していますが、皆様でかえてくださって構いません

50分程度で終演すると思います。

〜以下、世界観を補完するためのもの〜

「本朝廿四孝』(ほんちょうにじゅうしこう)
 実在の歌舞伎台本。「八重垣姫」を中心とした物語。
 1766年初演。近松半ニ・三好松洛らの合作による。

 本作の舞台で演じられる『本朝廿四孝』はまったくの創作です。
 関係者の皆さま、勝手にすみません。

「花作りの蓑作」(はなつくりのみのさく)
 勝頼の影武者が自害した後、勝頼が世をしのぶ仮の姿。

「知らずまに まばゆくねびゆく かたちかな
    魂(たま)合わばやと 目をそばめけり」
 わたしが気づかないうちに
 なんと立派に成長していく
 人(ここでは右近)の姿であることよ
 どうにか心が通じ合わないものだろうかと
 思いながらも直視できずにいるのです

「源氏ですか」
 作中で滝川扇十郎が語る上記の歌に反応して右近が尋ねます。
 モチーフは「源氏物語」ですが、これも勝手に創りました。
 「源氏物語」好きの皆さま、お許しくださいませ。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
38 えい。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)、万(よろず)扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。 二十歳にして「あんみつ」に目がない。 普段は「ものぐさ太郎」でも夜の顔は別。その出生は謎に包まれる。 美しいがそれを鼻にかけることはない。だってものぐさだもの。 兼役に「女中」があります
阿武 24 あんの。年齢不詳。詠に付き随う豪の者。闇に紛れて行動できる謎の人物。詠が生まれた頃を知る。 まあ大体がこの人も謎。 兼役に「家来」があります
奥山右近 不問 44 おくやまうこん。彗星の如く頭角を現してきた歌舞伎役者。女形(おんながた)の一番手として『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』の「八重垣姫」を見事に演じている。 歌舞伎の家に育っておらず、何やら事情を抱えている様子…
滝川扇十郎 不問 37 たきがわせんじゅうろう。名門 滝川家の八代目。代々女形(おんながた)の名役者を輩出する家柄にして、自身も評判の名優。 ただし、時代を同じくして天才役者右近が現れたことで、主役の座から外れだしている。
桔梗屋甚兵衛 37 ききょうやじんべえ。江戸で五指に入る呉服屋を営む扇十郎のパトロン。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)の配下。 扇十郎を主役に返り咲かせたいがために右近に近づいていく。 兼役に「岡っ引き」があります
常闇の長治 44 とこやみのちょうじ。朝霞屋嘉兵衛が抱える殺し屋。 与えられた仕事は必ずやり遂げる凄腕。ただし美醜の価値観により自身の判断を優先することも。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:『人間万事(じんかんばんじ)湖水をくぐりて見ゆるもの』 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:女形は厳しい修行のため、日常生活から女性らしさを追究していたとのこと。奥山・滝川を演じられる場合、舞台を降りてもそのようにお願いいたします。(女性演者さまも大歓迎) 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:「人物の性別変更不可(演者さまの性別は不問です)」 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:「話の筋の改変不可。ただし雰囲気を壊さないアドリブは可」 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:場面の頭にある〈N〉の声質は自由です。 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:兼役の設定は変更なさっても構いません。  :  詠:詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)、万(よろず)扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。二十歳にして「あんみつ」に目がない。 詠:普段は「ものぐさ太郎」でも夜の顔は別。その出生は謎に包まれる。美しいがそれを鼻にかけることはない。だってものぐさだもの。 詠:兼役に「女中」があります。  :  阿武:阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪の者。闇に紛れて行動できる謎の人物。詠が生まれた頃を知る。まぁ大体がこの人も謎。 阿武:兼役に「家来」があります。  :  奥山右近:奥山右近(おくやまうこん)。彗星の如く頭角を現してきた歌舞伎役者。女形(おんながた)の一番手として『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』の「八重垣姫(やえがきひめ)」を見事に演じている。 奥山右近:歌舞伎の家に育っておらず、何やら事情を抱えている様子…  :  滝川扇十郎:滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)。名門 滝川家の八代め。代々女形(おんながた)の名役者を輩出する家柄にして、自身も評判の名優。 滝川扇十郎:ただし、時代を同じくして天才役者右近が現れたことで、主役の座から外れだしている。  :  桔梗屋甚兵衛:桔梗屋甚兵衛(ききょうやじんべえ)。江戸で五指に入る呉服屋を営む扇十郎のパトロン。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)の配下。 桔梗屋甚兵衛:扇十郎を主役に返り咲かせたいがために右近に近づいていく。 桔梗屋甚兵衛:兼役に「岡っ引き」があります。  :  常闇の長治:常闇の長治(とこやみのちょうじ)。朝霞屋嘉兵衛が抱える殺し屋。 常闇の長治:与えられた仕事は必ずやり遂げる凄腕。ただし美醜の価値観により自身の判断を優先することも。  :  最恵寺・願園寺:架空の寺。ネットではヒットしません。実在しないとは思うのですが、万が一、ございましたら申し訳ありません。こちら、完全なるフィクションであり、実在のお寺とは何も関係ございません。 0:〈 〉NやM、兼役の指定 0:( )直前の漢字の読み・語意 0:【 】ト書き … それっぽくやってくださると幸いです。  :  0:ここから本編が始まります。  :  常闇の長治:〈N〉ここは歌舞伎の『幸若座(こうわかざ)』。満座の観客の中、舞台の上では奥山右近の「八重垣姫(やえがきひめ)」が見せ場を迎えている。勝頼公(かつよりこう)の身を案じ、霊狐(れいこ)に祈りを捧げる「八重垣姫」。愛しい人を思う姫の情けぶかさに、方々から啜(すす)り泣きが聞こえている。  : 奥山右近:「これなるはわが義父(ちち)、武田信玄が「法性の兜(ほっしょうのかぶと)」。兜にやどりし霊狐(れいこ)さま、どうか勝頼公(かつよりこう)の元へと導きたまえ。公が足下(あしもと)に追手が迫り、今まさにたまゆらのともしびが消えんとす……。どうぞどうぞ霊狐さま。わらわが願い聞き届けたまえ…。」  :  常闇の長治:〈N〉姫の慕情と悲しみは鬼神(きしん※キジンではありません)の心も動かすか… 度重(たびかさ)なる姫の願いに応えるように湖水(こすい)に狐火(きつねび)が浮かび上がる。  :  奥山右近:「あぁ…あぁ……。うれしや…あれ、うれしや…。霊狐さま、わらわが願いお聞き届けくださるか…。【近寄ってくる狐火を見ながら】霊狐さまの導きに従いて、公(こう)がもとへ、湖水(こすい)を歩みていざや参らん…。これよりはわが命、無きものと思いましょう。わらわはすでに霊狐さまがもの。ただひとえに公の御身(おんみ)が無事ならば、そにまさる幸(さいわい)のなし…」【下手に消える右近】  :  阿武:いやぁ、さすがに評判の演目ですなぁ詠(えい)さま。わたしも「八重垣姫」に心打たれてしまいましたよ。 詠:あの右近だったかい? ありゃぁいい役者だねぇ。女のあたしからすりゃそこまでするかねぇってところもあるが…。いやなに、それにしてもおもしろい話だったよ。 阿武:【同席しているおりんに対して】おりんさん、いかがでしたか、初めての『幸若座(こうわかざ)』は。えぇえぇ。華やかなものでしょう。またいずれ見に参りましょうね。 詠:せっかく新さんに木戸札(きどふだ)をもらったんだ。楽しまなきゃ損だもんねぇ。ただねぇ…花道のそばでみると首が痛いったらありゃしないよ。 阿武:新五郎さまがよい席を用意してくださったのに…詠さまにかかると歌舞伎の良席(りょうせき)も形(かた)なしですねぇ…銀子(ぎんす)で三十匁(さんじゅうもんめ)はするそうですよ。 詠:(驚いて)三十匁(もんめ)!? そりゃあんみつが百度は食べられるってもんじゃぁないか。 阿武:まったく、なんでも甘味で勘定(かんじょう)するのはおやめくださいませ… 詠:おお、そうだおりん。帰りに梅屋に寄ろうさね。 阿武:詠さま、またあんみつですか? 昨日も召し上がったのでは… 詠:おや、阿武(あんの)? まるでお目付役のようなことを言うじゃぁないか? 阿武:わたしはお目付役にございます! 詠:ははは、一休みだよ、一休み。よい舞台も根(こん)を詰めて見ると疲れちまうだろう? 詠:【微笑みながら】それにしても阿武。心配が過ぎると、早(はや)からに老けちまうよ【軽快に笑う】  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉二人の姿を見ながら、おりんは楽しそうに笑っている。  :  阿武:うう、詠さまぁぁぁ。それはわざとでございましょう? そうでございますよね。 阿武:おりんさんも、助けてくださいましよぉぉぉぉ。 詠:さぁさ、おりん。情けない阿武は置いといて、さっさと甘味(かんみ)にありつこうじゃないか【楽しそうに】。 詠:いくよぉいくよぉ置いてくよぉぉ【歌うように】  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉「八重垣姫」を右近が演じるようになってから、その盛況ぶりは輪をかけたものとなっている。この日の公演を終えた舞台裏では「八重垣姫」の恋敵(こいがたき)である「濡衣(ぬれぎぬ)」役の滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)が奥山右近と言葉を交わしていた。  :  滝川扇十郎:右近さん右近さん、今日も素晴らしい八重垣姫でございました。いやぁ、日に日に磨かれていくようです。「湖水くぐり」の場面では舞台袖(ぶたいそで)で涙してしまいましたよ… 奥山右近:なんですか、滝川さま…。元々はあなたさまの当たり役。わたくしのようなものが「八重垣姫」に選ばれてよかったのかどうか…。今でも思い悩んでおります。 滝川扇十郎:いやいや、お客さまの喜ぶ声が、真(まこと)の姿を示しておりましょう。今ではもう、わたしの「八重垣姫」は遠くに行ってしまいました…。 奥山右近:…滝川さま、それは…。 滝川扇十郎:わたしは「濡衣(ぬれぎぬ)」として精々(せいぜい)右近さんの恋敵(こいがたき)をつとめさせていただきますよ【微笑】 奥山右近:…ありがとう、ございます。 奥山右近:旦那さまに拾われて、役者として育てられたこの年月(としつき)…早くも干支(えと)が一回りしちまいました…。 滝川扇十郎:そうだねぇ。早いんだか短いんだか… 奥山右近:でも、わたくしは幸せ者なのでしょう。食べるものも、住むところも、夢中になれることも目の前にあるのですから…  : 滝川扇十郎:わたしは古くからの歌舞伎の家に生まれましたからね、「八重垣姫」を降ろされたことをとやかく言う者もおりますが…。 滝川扇十郎:でも、わたしは今が一番浮かれておりますよ。右近さんのお姿を真向かいから、舞台の袖から見られる今が、です。 奥山右近:滝川さまにそう仰せいただくと、何やら面映う(おもはゆう)ございます… 滝川扇十郎:いやいや、これからの『幸若座(こうわかざ)』、女形(おんながた)の看板は右近さんです。わたしにも及ばすながら支えさせてくださいましね。 奥山右近:何をおっしゃいますか。滝川さまの「濡衣(ぬれぎぬ)」に心を波立たせられることもしばしばですよ。 滝川扇十郎:ふふふ…。そう言ってもらえると、確かに嬉しいもんだねぇ…。 奥山右近:やはりあなたさまあってこその、この演目でございましょう…。とはいえ、本当にありがたいことでございます。 滝川扇十郎:あの喝采はね、すべて右近さんが自分の努力で築き上げたものだとも。誇ればいいのだよ。わたしも精進するとしよう。 奥山右近:わたくしもお客さまや旦那さまに飽(あ)かれることのないようにいたしましょう。もちろん滝川さまにも。これからも、どうぞよしなに願います…  :   : 常闇の長治:〈N〉ところかわって桔梗屋(ききょうや)の奥の間。『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』を見終えた甚兵衛(じんべえ)が何やらいらだっている。雇(やと)われの者たちは「触らぬ神にたたりなし」とばかりに近寄ってこない。  :  桔梗屋甚兵衛:くそっ……。まったく何だってんだ。何故(なにゆえ)わしの扇十郎が「八重垣姫」をやらねぇんだ。右近の身代わりに撃たれて死ぬだぁ…? わしに毎度毎度、恋に敗れちゃ死んでいく扇十郎を見ろってのかい。ふんっ。面白くねえじゃねぇか、ほんとによお。 桔梗屋甚兵衛:おい。…おいっ! 誰かおらんのか。酒だ、酒を持ってこい。 女中:〈詠兼役〉は、はい、旦那さま。すぐにお持ちいたします…。 桔梗屋甚兵衛:【酒を飲みながら食事をしている】右近の「八重垣姫」にゃぁよ、けなげさってもんがねぇんだよ。こう、その、なんだ、勝頼公(かつよりこう)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う心もちから、天の助けか神仏(しんぶつ)の助けか、生き残った勝頼公を見つけてよぉ……。それを命懸けで救おうってんだ… 扇十郎の「八重垣姫」はこんなだったよなぁ…  :  0:【回想】以下は甚兵衛が扇十郎の八重垣姫を思い出しているところです  :  滝川扇十郎:「これなるはわが義父(ちち)、武田信玄が「法性の兜(ほっしょうのかぶと)」。兜にやどりし霊狐(れいこ)さま、どうか勝頼公(かつよりこう)の元へと導きたまえ。公(こう)が足下(あしもと)に追手が迫り、今まさにたまゆらのともしびが消えんとす……。どうぞどうぞ霊狐さま。わらわが願い聞き届けたまえ…。」 滝川扇十郎:「あぁ…あぁ……。うれしや…あれ、うれしや…。霊狐さま、わらわが願いお聞き届けくださるか…。【近寄ってる狐火を見ながら】霊狐さまの導きに従いて、公(こう)がもとへ、湖水(こすい)を歩みていざや参らん…。これよりはわが命、無きものと思いましょう。わらわはすでに霊狐さまがもの。ただひとえに公の御身(おんみ)が無事ならば、そにまさる幸(さいわい)はなし…」  :  桔梗屋甚兵衛:【扇十郎の演技を思い浮かべながら】やっぱりなぁ、わしゃぁ扇十郎に花を持たせてやりてぇなぁ。 家来:〈阿武兼役〉頭(かしら)っ、お食事のところ、ごめんくだせぇ! 桔梗屋甚兵衛:【機嫌悪そうに】何だ? 店では「旦那さま」と呼ぶよう命じていたはずだが? 家来:〈阿武兼役〉も、申し訳ございませぬ、旦那さま。 桔梗屋甚兵衛:まぁ、よいわ。それで? 何があったんだ、そのようにあわててよぉ。 家来:〈阿武兼役〉へぇ。それが最恵寺(さいけいじ)と願園寺(がんえんじ)の境内(けいだい)でちょいとやらかしやして…。当方の株の書き付け、年を越させねぇなんて言ってきてやがるんで… 桔梗屋甚兵衛:ふん。そうなると、年明けから商売できねえじゃねぇか。町役人風情(まちやくにんふぜい)が面倒な。黄金(こがね)の匂いはかがせたのか? 上役(うわやく)には。 家来:〈阿武兼役〉あぁ、そのぅ… まだなんでさぁ… 桔梗屋甚兵衛:は? まだだと!? 少しは頭を使え! 切餅(きりもち・二十五両)の一つも見せりゃあ、逆らえねえだろうが。 家来:〈阿武兼役〉それが旦那さま…大黒屋(だいこくや)の野郎が一枚噛んでいるようなんで…。 桔梗屋甚兵衛:大黒屋ねぇ…。ふっ、かまわねぇ、やっちまやいいのよ。大黒屋を痛ませたとありゃ、朝霞屋(あさかや)の旦那もお喜びにならあな。 家来:〈阿武兼役〉…よ、よろしいので? 桔梗屋甚兵衛:おい、お前。ちょっくら遣(つか)いに行っちゃくれねぇか。この文(ふみ)を朝霞屋に届けてくるんだ。おぉ、そうだ【文箱から切餅を四つ取り出し】この金も、合わせて渡すんだぜ? これを持って飛んだりしてみろ…おめえの首も飛ぶからなぁ【不敵な笑みを浮かべる】 家来:〈阿武兼役〉めっそうもねえや、お頭に逆らうはずがありぁせんぜっ 桔梗屋甚兵衛:わたしは、誰だったかねぇ…? 家来:〈阿武兼役〉だっ、旦那さま、すぐに行って参りやす 桔梗屋甚兵衛:ふん。役に立つんだか立たないんだか分かりゃしねぇ。 桔梗屋甚兵衛:まあしかし、常闇の長治(とこやみのちょうじ)に任せておきゃあ枕を高くして寝られるってもんよ。お足はちょいと高くつくがなぁ。 桔梗屋甚兵衛:朝霞屋の旦那も潤う、わしの仕事も認められる、大黒屋も苦しむ上に、わしゃあ屋敷から出ることもねぇ。はっ、これじゃあ三方よし(さんぽうよし)ならぬ四方(しほう)よしじゃねぇか。はっはっはっは……  :  滝川扇十郎:〈N〉一方こちらは梅屋帰りのお詠(えい)さんご一行。ご機嫌な様子のお詠とおりんは、そわそわしながら見守る阿武(あんの)の心配をよそに、寄り道を楽しんでいた。ここはかんざし屋の店内。  :  詠:そうなんだよ、思いもかけず『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』ってのかい? 歌舞伎を見る機会に恵まれてねぇ。…はは、よしとくれよ、あたしゃごろごろしてたいんだよ、ほんとはねぇ。 阿武:ごろごろはおやめください、詠さま。それを大きな声で…あぁ 詠:【店の主人と話しながら】え? あたしが舞台にかい? そりゃないよ、女形(おんながた)ってのかい? あたしより女らしく光ってるのが二人もいたさ。あたしなんぞの出る幕じゃないよ。 詠:なんだい、おりん。いやに楽しそうじゃないか。ないよないよ。あたしが舞台に立つなんてこと、お天道(てんと)さんが西からのぼったってありゃしないよ。 阿武:詠さまが万雷(ばんらい)の拍手を浴びて、舞台で…おお、良いですなぁ、それも…【惚け気味に】 詠:あれあれ、阿武まで何を言ってんだい【あきれ気味に】。お目付役が聞いて呆れるよ。 阿武:でもねぇ、おりんさんもご主人も見てみたくはありませんか? うちの詠さまの晴れ舞台… 阿武:【満面の笑みのおりんを見て】でしょう、おりんさんもそう思うでしょう? 阿武:巷間(こうかん)、人の口にのぼらない日はないという奥山右近(おくやまうこん)と滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)。あのお二人もさすがでございましたがねぇ。詠さまにはかないませんよ。 詠:何言ってんのさ、阿武(あんの)。あんな女らしさは、あたしにゃちっと出せないねぇ…それが芸事(げいごと)に精進(しょうじん)する役者と、ただの「ものぐさ」のちがいだよぉ【軽やかな笑い】。 阿武:それは芸事の奥深さも承知してはおりますが…いやはや、それにしても勿体無い…  : 詠:そうだ、おりん。あんたがもう少し大きくなったらねえ、お詠さんが、ここでいいのを一つ見立ててやろうじゃないか。まったく楽しみだね。 阿武:おりんさん、よかったねぇ。詠さまはああ見えて、約束は守ってくださるお方だからね、楽しみにしておいでよ。 詠:阿武(あんの)、何か言ったかい? 阿武:いえいえ、詠さま、そろそろ戻りましょう戻りましょう。あはは… 阿武:それでは、ご主人、また寄らせてもらいます。お聞きの通りですから、そのうち、おりんさんに似合いそうなのをご用意くださいましな。 詠:よし、それじゃあ、どこかで甘味(かんみ)でも食べて帰るとするか…… 阿武:【食いぎみに】詠さま、なりませぬ。今日はもうだめでございますよぉぉぉぉ!  :  :  奥山右近:〈N〉日も暮れた願園(がんえん)寺の境内。篝火(かがりび)が焚(た)かれた中を素早く影が動いている。朝霞屋(あさかや)嘉兵衛(かへえ)が抱える中でも随一の殺し屋「常闇の長治(とこやみのちょうじ)」その人であった。  :  常闇の長治:〈M〉ここが願園(がんえん)寺…。住職も難儀なことよ。大黒屋にそそのかされて道を外れることがなけりゃぁ、仏道(ぶつどう)に邁進(まいしん)できんだろうに。酒と女をあてがわれて喜んでちゃぁ、檀家(だんか)に申し訳が立つまいよ。 常闇の長治:地獄に仏、なんて聞いちゃぁいるが、奈落(ならく)に仏がいるものか住職に見てきてもらおうじゃねえか…  :  奥山右近:〈N〉今夜も般若湯(はんにゃとう)と称する酒を片手に、ほろ酔い気分のご住職。部屋のロウソクの火が揺らぐ間(ま)に、その首が落ちていた。 奥山右近:常闇の長治(とこやみのちょうじ)…長らく『竜胆(りんどう)』二人の相手となる人物である。  :  常闇の長治:〈M〉はっ、たわいもねぇ。美しく戦えるやつぁいないかねぇ。そんなやつと見(まみ)えることができれば、俺も暇(ひま)をしねえで済むんだが……。 常闇の長治:お次は、っと。…岡っ引き(おかっぴき)か。  : 奥山右近:〈N〉最恵(さいけい)寺の件で横車を押した岡っ引きの元に、常闇の長治が姿を見せ、声を掛けた。 常闇の長治:これはこれは旦那(だんな)。その筋の使いで参(めぇ)ったんですが……。 奥山右近:〈N〉そう言いながら、長治はふところの輝くものをちらりと見せる。 岡っ引き:〈桔梗屋甚兵衛兼役〉ほう、大黒屋の、かい。で、いくらもって来たんでぇ? 常闇の長治:へへへ、それはご自身でお確かめくだせぇ。 岡っ引き:〈桔梗屋甚兵衛兼役〉よしよし、あちらで話そうじゃねぇか。【ほくほく顔】 奥山右近:〈N〉自ら人影の少ない路地裏に入ったこの男。いくばくかの金を得ようとして、その命を失ったのであった。 常闇の長治:〈M〉へっ…、まったく。朝霞屋・大黒屋の「あ」の字も「だ」の字も出しちゃいねぇってのによぉ。 常闇の長治:なんだって人は、自分の都合のいいように解釈するのかねぇ……。けっ。 常闇の長治:さて、と…、どこかで台車(でえしゃ)を拝借しねぇとな。 奥山右近:〈N〉岡っ引きの亡骸(なきがら)を台車(だいしゃ)に乗せて、長治は上役がいるであろう番所に向かった。  :  常闇の長治:【町人に成りすました長治が番所に駆け込んでくる】 常闇の長治:てえへんでさ、てえへんでさぁ!! こちらのお役人が橋のたもとで…き、き、切られなすってんで…うう。へぇ。仏さんは表の台車(でえしゃ)に載せてまさぁ。あぁ、なまんだぶなまんだぶ…みなさま、表でおたしかめ願(ねげ)ぇませんか…  :  奥山右近:〈N〉下っ端役人が仏の確認に行く隙(すき)を見て、奥に忍びこむ常闇の長治(とこやみのちょうじ)。彼にとってこのようなことは遊びの一つに過ぎない。狙った獲物を逃すことのない黒い目が、すでに役人をとらえている。  :  常闇の長治:〈M〉【襖(ふすま)の間から部屋の中を見て】ふん。小役人どもは必死に働いてんのになぁ。悠長に酒なんぞ飲んでるんじゃねえや。こいつもまたクズ屋ですら相手にしねえ汚ねえ輩(やから)だな。…よし、消そう。 常闇の長治:〈以下、セリフ〉相模守(さがみのかみ)さま、相模守さまっ。  :  奥山右近:〈N〉二つ名の通り、闇に浮かぶ長治の目と漆黒(しっこく)の忍び刃(しのびやいば)。呼ばれて襖(ふすま)の前に立った相模守(さがみのかみ)が踏み出すさらなる一歩は、冥土(めいど)に向けてのものだった…。  :  詠:〈N〉同刻の「桔梗屋(ききょうや)」奥の間。今宵も酒と肴をたんまりと用意して、甚兵衛(じんべえ)が腹心(ふくしん)とともに呑んでいる。  :  桔梗屋甚兵衛:願園(がんえん)寺の住職も、最恵寺(さいけい)寺でちょっかい出してきた岡っ引きも…ふふふ、今ごろはみな討たれて、おのれの首を探して歩いているころだろうよ。 家来:〈阿武兼役〉いつもながら旦那さまのご差配の見事さにございますなぁ 桔梗屋甚兵衛:【少し上機嫌に】よせやい。はぁ、しかし朝霞屋(あさかや)の旦那には逆らえねえな。あんな隠し玉を持たれてちゃあなぁ。 家来:〈阿武兼役〉ははは、まったくその通りで。 桔梗屋甚兵衛:なぁ? もっとも逆らうつもりもさらさらねえぇけどよ。金さえ払えば大抵の面倒ごとに片がついちまうんだからなぁ。味方でありゃぁこれほど心強(こころづえ)えもんもねえや。はっはっは。【酒を飲む】 家来:〈阿武兼役〉ようございましたようございました。はははは… 桔梗屋甚兵衛:おい、おめえら、明日はまた『幸若座(こうわかざ)』に行こうじゃぁねえか。滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)の名演技を楽しみによぉ。 家来:〈阿武兼役〉それは願ってもねぇことですが…旦那さま、奥山の野郎はよろしいんで? 桔梗屋甚兵衛:なんだぁ? 奥山右近だぁ? ……そんなこたぁわかってんだよ。いちいち蒸し返すんじゃねえや。くそっ、おめえのせえでムカムカしてきちまったじゃねえか…。 家来:〈阿武兼役〉あぁぁ…失礼いたしやした… 桔梗屋甚兵衛:【猪口(ちょこ)を投げつける】がぁぁ、おもしろくもねえっ。それもこれも右近の野郎がノコノコと表舞台に出てきゃぁがったからだ。あいつのせぇで滝川扇十郎の見せ場が見られなくなっちまったじゃあねえか。……。うん? 右近の野郎が出てきてから…。出てきてから……? 桔梗屋甚兵衛:【しばらく間をとる】なぁんだ、そうかぁ、右近にいなくなってもらえばいいじゃねえか…。  : 常闇の長治:【天井裏から声をかける】おい、甚兵衛(じんべえ)。 桔梗屋甚兵衛:うん? なんだぁ、誰か呼んだか? 常闇の長治:上だよ、上。俺だ。 桔梗屋甚兵衛:お…、おぉぉ、「常闇(とこやみ)の」かい? で、首尾はどうだったんだい。 常闇の長治:はっ…。俺がここに居るってことがどういうことだか分かっていねぇようだな…。終わったよ。うまくいかねぇわけがねぇだろう。まったく。 桔梗屋甚兵衛:終わったって…えれぇ速さじゃねえか。さすがだねぇ常闇(とこやみ)の。…そうだ、一つ頼まれちゃくれねぇか。もう一人片づけてもらいてぇ奴が居るんだ。 常闇の長治:ほう。追加注文かい? それは構わねぇが、お代はちゃあんといただくぜ? 桔梗屋甚兵衛:おお、やっておくれかい? 金子(きんす)ならすぐに用意する。長廊下の先に切餅(きりもち)一つ置いとかぁ。誰も近くにゃ寄らせねえし、勝手に持ってっとくれ。おい、お前、聞いた通りにやっとけぃ。 家来:〈阿武兼役〉へい。今すぐに!  : 常闇の長治:用意のいいこった。それで、次は誰をやりゃあいいんだ。さっさと教えろ。 桔梗屋甚兵衛:『幸若座(こうわかざ)』の奥山右近(おくやまうこん)だよ。ちっと目障りなんでぇ。いや、何、命まで奪おうってんじゃねえんだ。舞台に上がれないようにしてくれりゃあそれでいい。 常闇の長治:〈M〉はっ…なんだ、この半端(はんぱ)な話はよぉ。しかも、まるっきりの私怨(しえん)じゃぁねえか。こいつも碌(ろく)なもんじゃねえな…  : 桔梗屋甚兵衛:……。なんでぇ黙り込んでよぉ? できねえってのか?  : 常闇の長治:いいや…。確かに聞いた。 桔梗屋甚兵衛:おう、よろしく頼むぞ。…おい、常闇(とこやみ)の? 常闇のぉ?  桔梗屋甚兵衛:……なんでぇなんでぇ、もういねえのか。 桔梗屋甚兵衛:…腕は確かだっつってもなぁ、無愛想なやつだよ。まぁ、朝霞屋(あさかや)の旦那の懐刀(ふところがたな)がお愛想(あいそ)を振りまくってのも変な話だがなぁ。はっはっは…  : 常闇の長治:〈M〉…汚ねぇよ。汚ねえなぁ……。  :  詠:〈N〉『幸若座(こうわかざ)』の後援である商家(しょうか)のもてなしを受けた奥山右近(おくやまうこん)と滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)。公演の合間ということもあり、早々に宴(うたげ)を切り上げた二人は、柳通り(やなぎどおり)と呼ばれる川沿いを提灯(ちょうちん)片手に歩いている。  :  滝川扇十郎:ふふふ。右近さん、今宵も「八重垣姫」の話で座敷が盛り上がっていましたねぇ。さすがは右近さんですね。わたしも鼻が高(たこ)うございます。 奥山右近:いや、滝川さま、持ち上げすぎでございますよ。舞台は一人で作るものではございません。…このようなお話をわたくしごときがお耳に入れるなど釈迦(しゃか)に説法(せっぽう)、孔子(こうし)に論語(ろんご)というものでございましょう。 滝川扇十郎:ははは、右近さんは慎ましいお人だねえ。わたしならもうちっと天狗(てんぐ)になってしまいそうなものだけれど…。 奥山右近:いや、そのようなことは…。 滝川扇十郎:ねぇ、右近さん。どうすればそのようになれますか。そもそも、わたしでもなれますか、あなたのように。 奥山右近:わたくしなぞ目指されることもありませんでしょう。旦那さまに拾われて、ただただわたくしは運が良かったのでございますよ。師匠の後見(うしろみ・舞台で演者の補助をする役)として、間近で舞台を見ることができたのですから。 滝川扇十郎:なにを言うんだい? 運だけでは右近さんのようにはなれないよ。 滝川扇十郎:…それにね。運を掴むのも実力のうちだろう?…右近さんの稽古の凄まじさはわたしもよっく知っている。もう少し自信を持ってはどうだいね。 奥山右近:ふふふ…。それは滝川さまも同じでございましょう。稽古では、それはそれは叱られましたとも。出過ぎるな、出過ぎるな、とね。どれだけ持てはやされようと、天狗になぞなれませぬ。わたくしの分(ぶ)というものをわきまえているつもりですから…。 滝川扇十郎:…はは。たしかに、うちの稽古の厳しさは尋常ではないかもしれないね【苦笑】 奥山右近:そもそも、どこの誰だかわからない稚児(ちご)であるわたくしを、なぜ旦那さまが用いて下さっているのかもわからないのですが…【遠くを見る目】 滝川扇十郎:それはとうぜ…【かぶりを振って】いや、そうだね。それはお祖父さまに聞いてみないことには…。 滝川扇十郎:稽古ではわたしもよく叱られましたよ。舞台こそ、わたしが先に踏みましたがね。右近さんは、稽古の段から輝いていて…ふぅ。 滝川扇十郎:「知らずまに まばゆくねびゆく かたちかな 魂(たま)合わばやと 目をそばめけり」ってね。 奥山右近:【微笑んで】『源氏』でございますか。まことに高い評価をいただき、言葉もありません…。 滝川扇十郎:…ただね、まばゆいものからは目を背けてもしまうものでね… 奥山右近:【扇十郎の言葉は聞いておらず、真剣な表情で】 奥山右近:滝川さま、そのように育っておりましょうか、わたくしは。「八重垣姫」であられましょうか、滝川さまよりも…【失言にハッとする】  : 常闇の長治:〈M〉…ふぅん。この二人、美しいじゃねえか。  : 滝川扇十郎:ふふ、いいんですよ。…右近さん、聞いてくれますか? わたしはね、右近さんに言わねばならぬことがあるんだよ。  : 常闇の長治:〈M〉こっちが右近なぁ。柵(さく)にかける(暴行すること)なぁ、こいつかあ。…気が進まねえな。  : 奥山右近:…失言お許しくださいまし。何でございましょう。 滝川扇十郎:うん…。右近さんからはどう見えていますか、わたしは。 滝川扇十郎:滝川の家に生まれ、幼き頃より芸事を叩き込まれて…。血筋も多少の才(さえ)もあったのだろうか、浮世(うきよ)に云(い)う元服の前には檜舞台(ひのきぶたい)を踏んでいたさ。 奥山右近:…それこそ滝川さまがおっしゃったように、わたくしにとっても憧れでございました。いや、それは今でも変わりありませぬ…。あなたさまの背(せな)を師の後見(うしろみ)として近くで見ておりましたから…。師と並ぶほどに大きな背(せな)にございまする… 滝川扇十郎:いやだなぁ、右近さん。女形(おんながた)に向かって「大きな背(せな)」とはなんだいね。ふふふ…。 奥山右近:え? 言葉の綾にござい…ます【言いかけて扇十郎の冗談に気づき】 奥山右近:…ふふふ。たしかにそうでございますね。 滝川扇十郎:【右近の表情がほころぶのを見て】あぁ、うれしいなぁ。今宵はいい晩だ。 滝川扇十郎:中秋(ちゅうしゅう)も過ぎたことだし、月も恥ずかしいのか、顔を隠してはいるがねぇ。 奥山右近:はい。少し肌寒いくらいの風が、ひんやりと心地ようございます…それに、このように滝川さまと二人で幸若座に戻るのも初めてでございますから。 滝川扇十郎:そうだね…。わたしはね。ずっと、右近さんと並んで歩きたかったんだよ。心のうちを聞いてもらいたかったんだ…わたしの醜い心のうちをね。  : 常闇の長治:〈M〉俺は、この役者をやっちまうのか? いよいよ気が進まねぇ…  : 奥山右近:それはわたくしもでございます。これまで「八重垣姫」となりながらも、どこかであなたさまの目を見ていたのですよ…。舞台にありながらもわたくしは「わたくし」。「八重垣姫」などではございませなんだ……。 滝川扇十郎:そうかねぇ…。わたしにはそうは思えないけどねぇ。 奥山右近:いえ…。『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』にも「八重垣姫」にも、舞台を共にする皆にも。木戸銭(きどせん)をはたいて見にきてくれる皆々様にも…。とても顔向けできない心持ちで舞台に立っていたように思います…。  : 滝川扇十郎:【右近に心を奪われて、男が顔を覗かせる】ははは…はぁ。かなわないなぁお前には……。 滝川扇十郎:【心を決めて】…右近さん。わたしはね、憎かったんだよ、あなたが。 滝川扇十郎:あなたの才(さえ)と、涼やかな手弱女(たおやめ)ぶりが。それこそ刃(やいば)を握って襖(ふすま)の前に立ったこともある…。祖父(そふ)の目が、父上の目が違うのさ、わたしを見る目とね。  : 常闇の長治:〈M〉「麗(うるわ)しい」ってなぁ、こいつらのためにあるんだろうなぁ。甚兵衛(じんべえ)のやつぁ爪の垢(あか)でも煎じて飲みゃあいいのさ…  : 奥山右近:滝川さま…それは。……【こちらも意を決して】存じておりました。あなたさまの熱い目が、苦しい息遣いが、舞台の上でも稽古場でもわたくしを突いておりましたから…。ところが、少し前から刺されるような思いをすることがなくなったのでございます。 滝川扇十郎:はぁあぁぁぁぁ、まったく……。【しばらくの間】わたしは得心(とくしん)が行きましたよ。 滝川扇十郎:右近さん、いや、右近さま。向後(こうご)わたくしはあなたさまを師と仰ぎ、心を尽くし身を尽くし、芸の冴(げいのさえ)のみを追い求めることをお誓いいたしましょう。 奥山右近:滝川さま! 何をおっしゃるのです…。滝川さまこそが名跡(めいせき)を継ぐお方。わたくしの方こそ、あなたさまを追うが務めにございます。  : 常闇の長治:〈M〉…あぁぁぁくそっ。このまま聞いていちゃあ、こっちがおかしくなっちまわぁ。今すぐにでも帰りてぇところだが、仕事は仕事だ。仕方ねぇ…  : 常闇の長治:おい、そこの二人。ちょいと用があるんだが……右近ってなぁ、どっちだい?  : 滝川扇十郎:ん!? どちらさまですか? …顔が見えない…刺客(しかく)? 滝川扇十郎:【短く深呼吸】…右近はわたしです。 奥山右近:たっ、滝川さまっ!?  :  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉『竜胆庵(りんどうあん)』の荷分けを阿武(あんの)に任せ、遅めの夕飯を済ませたお詠(えい)とおりん。阿武がいないのをいいことに甘味を腹に入れての帰り道、たくさん食べたから、と遠回りをしたそうなおりんにしたがって夜道を歩いていた。  :  詠:はぁぁぁ。たあぁぁんと食べたねぇ。しかし、おりんは好き嫌いがなくて何よりだ。出されたものは美味しくいただく。楽しく生きていくコツの一つだよ。あとは、甘味(かんみ)もね。はははは。 詠:【ニコニコ微笑むおりんを眺めながら】いいねぇ、おりんはかわいいねぇ。また甘味を食べに行こうじゃぁないか。  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉さすがに「竜胆」のお詠である。見えるか見えないかの道の先に異変をはやばやと嗅ぎ取っていた。  :  詠:うん? この感じ……。なんだいなんだい、いい夜が台無しじゃあないか。 詠:【前方の人影を認めると】いいかい、おりん。ここに隠れておいで。決して出てくるんじゃないよ。いいね、わかったね。  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉おりんを安全な場所に置くと、稲光(いなびかり)のように疾駆(しっく)する。詠もまた、その道の達人である。  :  常闇の長治:ほう…。お前が右近か。なかなかの度胸だなぁ。  : 奥山右近:な、何を……。くっ、(わたしが右近だっ!) 奥山右近:【( )内も読みますが、右近まで言い切らない】 滝川扇十郎:【前のセリフを食って右近を制して啖呵を切る】わたしを奥山右近と知っての狼藉(ろうぜき)かっ。何の用だか知らないが、わたしへの用向きであれば、この者は放っておいてもらおう! 奥山右近:滝川さまっっ! 常闇の長治:ふむ。よかろう。俺が構うのは右近だけ。それは約束しようじゃねぇか。俺はねぇ、醜いものが嫌いでねぇ。だからよ、口にしたことは違(たが)えねぇ。 奥山右近:【扇十郎の前に出て】ならぬっ、この人に触れてはならぬ。お前が構うべきはわたしだ。わたしなのだよっっ!  : 常闇の長治:【思うところがあるように】…俺ゃあな、右近を斬りに来た…  : 滝川扇十郎:くっ…【奥山とだいたい合わせる】 奥山右近:なっ…【滝川とだいたい合わせる】  : 常闇の長治:悪いなぁ…おめぇらのこたぁ嫌(きれ)ぇじゃねえんだがよ【忍び刀を抜く】  : 詠:そこのお前、何をしてんだいっ!!  : 常闇の長治:あぁ? ふむ…邪魔が入ったか。ここらで終わらせてもらおう【滝川目掛けて斬りかかる】 奥山右近:待てっ【扇十郎をかばう】くあぁぁぁぁ… 奥山右近:【深手ではありません。大仰でなくて良いです】 滝川扇十郎:右近さまっ、右近さまぁぁぁぁ! あなたは死んではならないお人だっ……。  : 詠:右近? あんた、早くその人を連れて逃げな。きっと深手(ふかで)じゃあないからね。 詠:【常闇の長治を見て】何でかは知らないけどねぇ。  : 常闇の長治:お前は? 俺の相手が務まるのかねぇ。さぁて、相手をすべきか否(いな)か。どっちかねぇ。 詠:【うしろに下がる長治に詰めていく】あんた、あの男を斬る気はなかっただろう。いったい何がしたいんだい。【話しながら突きを繰り出す】んっ! 常闇の長治:はっ…【軽くいなしながら】 常闇の長治:俺はね、醜いものが嫌ぇなんだよ…。それでもなぁ、流れに身を任せるしかないこともあらぁね。 詠:よく分からないことを言う男だねっ【身を翻して突きを繰り出す】。 常闇の長治:【刀で詠の突きを外す】お前は、俺を知っているのか? 詠:ん? いや、あんたなんざ知らないね。 詠:〈以下、M〉相当な実力だってことはビンビン伝わってきちゃあいるけどね 常闇の長治:そうか、知らずにここに来たのか。おもしれぇ。相手をしてやろうじゃねぇか。後悔しても知らねえぞ。【言い切る前に斬りかかる】 詠:【長治の刀を受けながら】ふんっ、言うじゃないか!  : 阿武:〈N〉お詠の攻撃を軽くいなす常闇の長治。流石に「裏稼業にその人あり」と知られた人物である。しかし二合(にごう)、三合と切り結ぶがお詠もまた切り傷一つ受けてはいない。  : 常闇の長治:…ふむ。お前は死なねえんだな。美しいじゃぁねえか。覚えているか? 俺ゃぁ、醜いもんは嫌ぇだってよ。 詠:あぁ、覚えちゃいるよ。あんたに興味はないがねっ【下段から切り上げる】。 常闇の長治:ほう…剣筋(けんすじ)もなかなかよ。…俺ゃあな、美しいもんは好きなんだよ。…よし、ここは預けた。 常闇の長治:俺の仕事は済んだしな。まあ、またどこかで相見える(あいまみえる)としようや……。 常闇の長治:ふんっ【詠の攻撃を避けながら、梢に飛び移る】 詠:消えた? あいつは猿(ましら)か何かかねぇ…。このあたしが息を切らせそうになってるじゃないか……。あんなのがいるんだねぇ。 詠:【深呼吸を一つ】よし、さっさとおりんのところに戻ろうかね。  : 阿武:〈N〉おりんを連れて奥山右近と滝川扇十郎の元に戻るお詠。元の場所に人待ち顔でたたずむ扇十郎に声をかけた。  : 詠:斬られたお人の様子はどうだい? 浅手(あさで)だったようには見えたんだがねぇ。 滝川扇十郎:あぁ、あなたさま…。先ほどはありがとうございました。助けて頂かなかったら、今ごろはわたくしども二人の骸(むくろ)が転がっていたかもしれませぬ… 詠:いや、たまたま通りがかってよかったですよ。「右近」と耳にしたんだが…ひょっとして『幸若座(こうわかざ)』のお二人かい? そんじょそこらの立ち姿じゃぁないしねぇ。 滝川扇十郎:ふふふ。どこのどなたかは存じませぬが。ご炯眼(けいがん)恐れ入りまする…。わたくしは滝川扇十郎、わたくしを庇(かば)って斬られてしまったのが、奥山右近にございまする。 詠:あぁ、やっぱりそうかい。いやね、つい先ごろ『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』を見せていただいたもんでねぇ。お二人の立ち姿、瞼(まぶた)の裏に残っていたんですよ【笑う】 滝川扇十郎:あなたさまの動きも尋常(じんじょう)ではございませなんだ。いかがでございましょう。名をお聞かせ願えませんか? 詠:うん? あたしゃ『竜胆庵(りんどうあん)』のお詠(えい)、こっちがおりんです。しがない店(たな)をやってんですがね。ひとつ、お見知り置きくださいな。ただ……今宵のことは忘れてもらえるとありがたいがねえ【苦笑】 滝川扇十郎:『竜胆庵(りんどうあん)』のお詠(えい)さん…。わたくしが覚えておくのはそれだけにございますよ。後日、お礼に伺いまする…。 詠:ははは、滝川さまがうちに見えたら、通りが人でどうにかなっちまいますよ。まぁ、お気持ちだけうかがっておくとしましょう。  :  阿武:〈N〉こちらは桔梗屋甚兵衛の屋敷。さすがに江戸の大店(おおだな)を束ねるだけあって、造作(ぞうさく)も良いものとなっている。そこへ常闇の長治が報告に訪れた。  :  常闇の長治:【天井裏から声をかける】おい、甚兵衛(じんべえ)。 桔梗屋甚兵衛:うん? おお、常闇(とこやみ)のかい? 片付いたようだねぇ。 常闇の長治:あぁ、終わった。 桔梗屋甚兵衛:そうかい、そうかい。上首尾(じょうしゅび)でよかったよ。 常闇の長治:それからな、甚兵衛。おめぇの仕事はもう受けねぇ。朝霞屋(あさかや)の旦那、直々のお達し以外(いげぇ)はな。 桔梗屋甚兵衛:な、何? 金が足りなかったか? いくらだ、いくら払えばいい? 常闇の長治:俺ゃぁな、醜いもんは嫌ぇなんだよ。…まぁ、この度はよぉ、おめぇの汚ねえ仕事のおかげでいいもんを見られたがな。 常闇の長治:それがなかったらな、おめぇは明日を迎えられなかったかも知れねえよ…せいぜい目ん玉を磨いておきな。 桔梗屋甚兵衛:わしの前で美醜を語るか常闇(とこやみ)の。わしゃぁ、これでも呉服屋の店主だぞ。物を見る目はあるつもりだ。  : 常闇の長治:〈M〉【ため息をついて】そういうんじゃねえんだよ。まぁ、馬鹿は死ななきゃなおらねえや。  : 常闇の長治:〈以下、セリフ 〉…それより、いいのかい? 俺が斬りつけたなぁ右近だ。おめぇの好きな歌舞伎の舞台は、明日からもやるのかねぇ? 常闇の長治:くわしかぁねえが、あいつら二人が揃ってこその舞台じゃねえのか? どっちがどの役だとか、そういうもんなのかい… 桔梗屋甚兵衛:なっ、あっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……。  : 常闇の長治:〈M〉はっ、度し難い馬鹿野郎だぜ…  : 奥山右近:〈N【ここは右近として】〉斬られた傷は深くなく、薬師(くすし)のはたらきもあり、ひと月ののちには公演再開とあいなりました。人の口に戸は立たぬという言葉の通りで、休業の間も町雀(まちすずめ)たちが噂話を忘れることはありませなんだ。ひきも切らぬ来客の中、お詠さまご一行を桟敷(さじき)にお招きすることができたのでございます。そして、そこにはこの者の姿も…。  : 桔梗屋甚兵衛:やぁぁっと席が取れたなぁ…このひと月長かったぜぇ。なぁ、おめえら。しっかりと滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)の神々(こうごう)しさを目に焼き付けて帰(けぇ)るんだ。  : 滝川扇十郎:「〈濡衣(ぬれぎぬ)役〉あらあら、おかしいったらありませんよ。曲がりなりにも姫ともあろうお方が、いやしき花作(はなつく)りを追いかけられますのか【笑う】。あなたさまは勝頼公(かつよりこう)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)い、その生を終えるのでありましょう?」 奥山右近:「〈八重垣姫役〉たしかにわれは香(こう)を焚(た)き、勝頼さまを弔(とむろ)うて生きるつもりでありました。されども……されど、われに告げるのです。勝頼さまが下された鶴の骨の笄(こうがい)が、この鼈甲(べっこう)の櫛(くし)の歯が、伽羅(きゃら)の簪(かんざし)が。それら一つ一つが「公を見いだせ」「公を救え」と宣う(のたまう)のです」 滝川扇十郎:「〈濡衣(ぬれぎぬ)役〉【カラカラ笑う】何です? 身飾り(みかざり)が「告げる」ですと? …姫さまもお疲れになったのでありましょう。あぁ、おいたわしやおいたわしや…。このあたりでゆっくりと、心安(こころやす)うおやすみなされ。花作りの蓑作(はなつくりのみのさく)にはわらわが身をつくしますゆえなぁ」  : 阿武:【小声で】詠さま、本当に先(せん)に見た演目と同じなのでありましょうか。 阿武:何やらわたしめには、お二人のお姿がこうキラキラと輝いて見えるのでございます。 詠:しっ、静かにおしよ。でもねぇ、阿武(あんの)。お前の見る目も確かで安心したよ。ねぇ、おりん【おりんと笑顔で目を交わす】 阿武:【小声で】えぇ? 何があったのでございます? おりんさんも… 詠:何だい? 阿武(あんの)も野暮だねぇ。こんな舞台は二度と見られるもんじゃないよ。この二人はねぇ、生きながらにして苦界(くがい)を知って、そして二人で抜けたのさ。「二人で」ね。さぁさ、右近さんの見せ場が始まるよ…。 奥山右近:「これなるはわが義父(ちち)、武田信玄が「法性の兜(ほっしょうのかぶと)」。兜にやどりし霊狐(れいこ)さま、どうか勝頼公(かつよりこう)の元へと導きたまえ。公が足下(あしもと)に追手が迫り、今まさにたまゆらのともしびが消えんとす……。どうぞどうぞ霊狐さま。わらわが願い聞き届けたまえ…。」  :  滝川扇十郎:〈N〉姫の慕情と悲しみは鬼神(きしん※キジンではありません)の心も動かすか… 度重(たびかさ)なる姫の願いに応えるように湖水(こすい)に狐火(きつねび)が浮かび上がる。  :  奥山右近:「あぁ…あぁ……。うれしや…あれ、うれしや…。霊狐さま、わらわが願いお聞き届けくださるか…。【近寄ってくる狐火を見ながら】霊狐さまの導きに従いて、公がもとへ、湖水(こすい)を歩みていざや参らん…。これよりはわが命、無きものと思いましょう。わらわはすでに霊狐さまがもの。ただひとえに公の御身(おんみ)が無事ならば、そにまさる幸(さいわい)のなし…」【下手に消える右近】  : 桔梗屋甚兵衛:ぐす…ぐすぐす…。何でぇ何でえ。常闇(とこやみ)のやつぁ、いってぇ何をやらかしたんだ? こりゃどうしたことだ、扇十郎がまるで別人だぁ…。チッ、認めたかあねえが、右近の野郎も一皮剥けやがったなぁ…こう胸の辺りにずんとくらぁ。うぅぅ。  : 詠:あぁ、いい舞台だったねぇ。大満足だよ。……いつかあたしも檜舞台(ひのきぶたい)ってやつを踏んでみるかねぇ。 阿武:え? なんですって詠さま…。 詠:嫌だねぇ、冗談さね、じょぉぉだん! おりんも阿武もワクワクしながらあたしを見るんじゃないよ! 阿武:そうは言ってもね、おりんさん。見たいものは見たいじゃないですかねぇ。 常闇の長治:〈N〉阿武の問いかけに、おりんは満面の笑みでうなずいた。 詠:まったく…。あんたらは物好きだよ。 詠:さて、と。梅屋に寄って帰るとしようかね。おりんっ、あんみつだよ、あんみつっ! 阿武:また、詠さま…  : 詠:それはそうとねぇ、阿武。ここの二人を助けた時にね、すごいのに出くわしたのさ。少なくともあたしと同等ではあったよぉ。勝負はあたしに「預ける」ってさ。 阿武:【真剣になって】何ですって? 詳しくお聞かせ願えますかな。 阿武:念のため主上(おかみ)にお知らせしておきますゆえ…。  :   : 0:これにて終演です。この本を選んでくださってありがとうございました。 0:どうぞみなさまの声劇ライフの一助となりますように。  :   : 

仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:『人間万事(じんかんばんじ)湖水をくぐりて見ゆるもの』 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:女形は厳しい修行のため、日常生活から女性らしさを追究していたとのこと。奥山・滝川を演じられる場合、舞台を降りてもそのようにお願いいたします。(女性演者さまも大歓迎) 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:「人物の性別変更不可(演者さまの性別は不問です)」 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:「話の筋の改変不可。ただし雰囲気を壊さないアドリブは可」 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:場面の頭にある〈N〉の声質は自由です。 仕掛屋『竜胆』閻魔帳〜的之弐〜:兼役の設定は変更なさっても構いません。  :  詠:詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)、万(よろず)扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。二十歳にして「あんみつ」に目がない。 詠:普段は「ものぐさ太郎」でも夜の顔は別。その出生は謎に包まれる。美しいがそれを鼻にかけることはない。だってものぐさだもの。 詠:兼役に「女中」があります。  :  阿武:阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪の者。闇に紛れて行動できる謎の人物。詠が生まれた頃を知る。まぁ大体がこの人も謎。 阿武:兼役に「家来」があります。  :  奥山右近:奥山右近(おくやまうこん)。彗星の如く頭角を現してきた歌舞伎役者。女形(おんながた)の一番手として『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』の「八重垣姫(やえがきひめ)」を見事に演じている。 奥山右近:歌舞伎の家に育っておらず、何やら事情を抱えている様子…  :  滝川扇十郎:滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)。名門 滝川家の八代め。代々女形(おんながた)の名役者を輩出する家柄にして、自身も評判の名優。 滝川扇十郎:ただし、時代を同じくして天才役者右近が現れたことで、主役の座から外れだしている。  :  桔梗屋甚兵衛:桔梗屋甚兵衛(ききょうやじんべえ)。江戸で五指に入る呉服屋を営む扇十郎のパトロン。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)の配下。 桔梗屋甚兵衛:扇十郎を主役に返り咲かせたいがために右近に近づいていく。 桔梗屋甚兵衛:兼役に「岡っ引き」があります。  :  常闇の長治:常闇の長治(とこやみのちょうじ)。朝霞屋嘉兵衛が抱える殺し屋。 常闇の長治:与えられた仕事は必ずやり遂げる凄腕。ただし美醜の価値観により自身の判断を優先することも。  :  最恵寺・願園寺:架空の寺。ネットではヒットしません。実在しないとは思うのですが、万が一、ございましたら申し訳ありません。こちら、完全なるフィクションであり、実在のお寺とは何も関係ございません。 0:〈 〉NやM、兼役の指定 0:( )直前の漢字の読み・語意 0:【 】ト書き … それっぽくやってくださると幸いです。  :  0:ここから本編が始まります。  :  常闇の長治:〈N〉ここは歌舞伎の『幸若座(こうわかざ)』。満座の観客の中、舞台の上では奥山右近の「八重垣姫(やえがきひめ)」が見せ場を迎えている。勝頼公(かつよりこう)の身を案じ、霊狐(れいこ)に祈りを捧げる「八重垣姫」。愛しい人を思う姫の情けぶかさに、方々から啜(すす)り泣きが聞こえている。  : 奥山右近:「これなるはわが義父(ちち)、武田信玄が「法性の兜(ほっしょうのかぶと)」。兜にやどりし霊狐(れいこ)さま、どうか勝頼公(かつよりこう)の元へと導きたまえ。公が足下(あしもと)に追手が迫り、今まさにたまゆらのともしびが消えんとす……。どうぞどうぞ霊狐さま。わらわが願い聞き届けたまえ…。」  :  常闇の長治:〈N〉姫の慕情と悲しみは鬼神(きしん※キジンではありません)の心も動かすか… 度重(たびかさ)なる姫の願いに応えるように湖水(こすい)に狐火(きつねび)が浮かび上がる。  :  奥山右近:「あぁ…あぁ……。うれしや…あれ、うれしや…。霊狐さま、わらわが願いお聞き届けくださるか…。【近寄ってくる狐火を見ながら】霊狐さまの導きに従いて、公(こう)がもとへ、湖水(こすい)を歩みていざや参らん…。これよりはわが命、無きものと思いましょう。わらわはすでに霊狐さまがもの。ただひとえに公の御身(おんみ)が無事ならば、そにまさる幸(さいわい)のなし…」【下手に消える右近】  :  阿武:いやぁ、さすがに評判の演目ですなぁ詠(えい)さま。わたしも「八重垣姫」に心打たれてしまいましたよ。 詠:あの右近だったかい? ありゃぁいい役者だねぇ。女のあたしからすりゃそこまでするかねぇってところもあるが…。いやなに、それにしてもおもしろい話だったよ。 阿武:【同席しているおりんに対して】おりんさん、いかがでしたか、初めての『幸若座(こうわかざ)』は。えぇえぇ。華やかなものでしょう。またいずれ見に参りましょうね。 詠:せっかく新さんに木戸札(きどふだ)をもらったんだ。楽しまなきゃ損だもんねぇ。ただねぇ…花道のそばでみると首が痛いったらありゃしないよ。 阿武:新五郎さまがよい席を用意してくださったのに…詠さまにかかると歌舞伎の良席(りょうせき)も形(かた)なしですねぇ…銀子(ぎんす)で三十匁(さんじゅうもんめ)はするそうですよ。 詠:(驚いて)三十匁(もんめ)!? そりゃあんみつが百度は食べられるってもんじゃぁないか。 阿武:まったく、なんでも甘味で勘定(かんじょう)するのはおやめくださいませ… 詠:おお、そうだおりん。帰りに梅屋に寄ろうさね。 阿武:詠さま、またあんみつですか? 昨日も召し上がったのでは… 詠:おや、阿武(あんの)? まるでお目付役のようなことを言うじゃぁないか? 阿武:わたしはお目付役にございます! 詠:ははは、一休みだよ、一休み。よい舞台も根(こん)を詰めて見ると疲れちまうだろう? 詠:【微笑みながら】それにしても阿武。心配が過ぎると、早(はや)からに老けちまうよ【軽快に笑う】  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉二人の姿を見ながら、おりんは楽しそうに笑っている。  :  阿武:うう、詠さまぁぁぁ。それはわざとでございましょう? そうでございますよね。 阿武:おりんさんも、助けてくださいましよぉぉぉぉ。 詠:さぁさ、おりん。情けない阿武は置いといて、さっさと甘味(かんみ)にありつこうじゃないか【楽しそうに】。 詠:いくよぉいくよぉ置いてくよぉぉ【歌うように】  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉「八重垣姫」を右近が演じるようになってから、その盛況ぶりは輪をかけたものとなっている。この日の公演を終えた舞台裏では「八重垣姫」の恋敵(こいがたき)である「濡衣(ぬれぎぬ)」役の滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)が奥山右近と言葉を交わしていた。  :  滝川扇十郎:右近さん右近さん、今日も素晴らしい八重垣姫でございました。いやぁ、日に日に磨かれていくようです。「湖水くぐり」の場面では舞台袖(ぶたいそで)で涙してしまいましたよ… 奥山右近:なんですか、滝川さま…。元々はあなたさまの当たり役。わたくしのようなものが「八重垣姫」に選ばれてよかったのかどうか…。今でも思い悩んでおります。 滝川扇十郎:いやいや、お客さまの喜ぶ声が、真(まこと)の姿を示しておりましょう。今ではもう、わたしの「八重垣姫」は遠くに行ってしまいました…。 奥山右近:…滝川さま、それは…。 滝川扇十郎:わたしは「濡衣(ぬれぎぬ)」として精々(せいぜい)右近さんの恋敵(こいがたき)をつとめさせていただきますよ【微笑】 奥山右近:…ありがとう、ございます。 奥山右近:旦那さまに拾われて、役者として育てられたこの年月(としつき)…早くも干支(えと)が一回りしちまいました…。 滝川扇十郎:そうだねぇ。早いんだか短いんだか… 奥山右近:でも、わたくしは幸せ者なのでしょう。食べるものも、住むところも、夢中になれることも目の前にあるのですから…  : 滝川扇十郎:わたしは古くからの歌舞伎の家に生まれましたからね、「八重垣姫」を降ろされたことをとやかく言う者もおりますが…。 滝川扇十郎:でも、わたしは今が一番浮かれておりますよ。右近さんのお姿を真向かいから、舞台の袖から見られる今が、です。 奥山右近:滝川さまにそう仰せいただくと、何やら面映う(おもはゆう)ございます… 滝川扇十郎:いやいや、これからの『幸若座(こうわかざ)』、女形(おんながた)の看板は右近さんです。わたしにも及ばすながら支えさせてくださいましね。 奥山右近:何をおっしゃいますか。滝川さまの「濡衣(ぬれぎぬ)」に心を波立たせられることもしばしばですよ。 滝川扇十郎:ふふふ…。そう言ってもらえると、確かに嬉しいもんだねぇ…。 奥山右近:やはりあなたさまあってこその、この演目でございましょう…。とはいえ、本当にありがたいことでございます。 滝川扇十郎:あの喝采はね、すべて右近さんが自分の努力で築き上げたものだとも。誇ればいいのだよ。わたしも精進するとしよう。 奥山右近:わたくしもお客さまや旦那さまに飽(あ)かれることのないようにいたしましょう。もちろん滝川さまにも。これからも、どうぞよしなに願います…  :   : 常闇の長治:〈N〉ところかわって桔梗屋(ききょうや)の奥の間。『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』を見終えた甚兵衛(じんべえ)が何やらいらだっている。雇(やと)われの者たちは「触らぬ神にたたりなし」とばかりに近寄ってこない。  :  桔梗屋甚兵衛:くそっ……。まったく何だってんだ。何故(なにゆえ)わしの扇十郎が「八重垣姫」をやらねぇんだ。右近の身代わりに撃たれて死ぬだぁ…? わしに毎度毎度、恋に敗れちゃ死んでいく扇十郎を見ろってのかい。ふんっ。面白くねえじゃねぇか、ほんとによお。 桔梗屋甚兵衛:おい。…おいっ! 誰かおらんのか。酒だ、酒を持ってこい。 女中:〈詠兼役〉は、はい、旦那さま。すぐにお持ちいたします…。 桔梗屋甚兵衛:【酒を飲みながら食事をしている】右近の「八重垣姫」にゃぁよ、けなげさってもんがねぇんだよ。こう、その、なんだ、勝頼公(かつよりこう)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う心もちから、天の助けか神仏(しんぶつ)の助けか、生き残った勝頼公を見つけてよぉ……。それを命懸けで救おうってんだ… 扇十郎の「八重垣姫」はこんなだったよなぁ…  :  0:【回想】以下は甚兵衛が扇十郎の八重垣姫を思い出しているところです  :  滝川扇十郎:「これなるはわが義父(ちち)、武田信玄が「法性の兜(ほっしょうのかぶと)」。兜にやどりし霊狐(れいこ)さま、どうか勝頼公(かつよりこう)の元へと導きたまえ。公(こう)が足下(あしもと)に追手が迫り、今まさにたまゆらのともしびが消えんとす……。どうぞどうぞ霊狐さま。わらわが願い聞き届けたまえ…。」 滝川扇十郎:「あぁ…あぁ……。うれしや…あれ、うれしや…。霊狐さま、わらわが願いお聞き届けくださるか…。【近寄ってる狐火を見ながら】霊狐さまの導きに従いて、公(こう)がもとへ、湖水(こすい)を歩みていざや参らん…。これよりはわが命、無きものと思いましょう。わらわはすでに霊狐さまがもの。ただひとえに公の御身(おんみ)が無事ならば、そにまさる幸(さいわい)はなし…」  :  桔梗屋甚兵衛:【扇十郎の演技を思い浮かべながら】やっぱりなぁ、わしゃぁ扇十郎に花を持たせてやりてぇなぁ。 家来:〈阿武兼役〉頭(かしら)っ、お食事のところ、ごめんくだせぇ! 桔梗屋甚兵衛:【機嫌悪そうに】何だ? 店では「旦那さま」と呼ぶよう命じていたはずだが? 家来:〈阿武兼役〉も、申し訳ございませぬ、旦那さま。 桔梗屋甚兵衛:まぁ、よいわ。それで? 何があったんだ、そのようにあわててよぉ。 家来:〈阿武兼役〉へぇ。それが最恵寺(さいけいじ)と願園寺(がんえんじ)の境内(けいだい)でちょいとやらかしやして…。当方の株の書き付け、年を越させねぇなんて言ってきてやがるんで… 桔梗屋甚兵衛:ふん。そうなると、年明けから商売できねえじゃねぇか。町役人風情(まちやくにんふぜい)が面倒な。黄金(こがね)の匂いはかがせたのか? 上役(うわやく)には。 家来:〈阿武兼役〉あぁ、そのぅ… まだなんでさぁ… 桔梗屋甚兵衛:は? まだだと!? 少しは頭を使え! 切餅(きりもち・二十五両)の一つも見せりゃあ、逆らえねえだろうが。 家来:〈阿武兼役〉それが旦那さま…大黒屋(だいこくや)の野郎が一枚噛んでいるようなんで…。 桔梗屋甚兵衛:大黒屋ねぇ…。ふっ、かまわねぇ、やっちまやいいのよ。大黒屋を痛ませたとありゃ、朝霞屋(あさかや)の旦那もお喜びにならあな。 家来:〈阿武兼役〉…よ、よろしいので? 桔梗屋甚兵衛:おい、お前。ちょっくら遣(つか)いに行っちゃくれねぇか。この文(ふみ)を朝霞屋に届けてくるんだ。おぉ、そうだ【文箱から切餅を四つ取り出し】この金も、合わせて渡すんだぜ? これを持って飛んだりしてみろ…おめえの首も飛ぶからなぁ【不敵な笑みを浮かべる】 家来:〈阿武兼役〉めっそうもねえや、お頭に逆らうはずがありぁせんぜっ 桔梗屋甚兵衛:わたしは、誰だったかねぇ…? 家来:〈阿武兼役〉だっ、旦那さま、すぐに行って参りやす 桔梗屋甚兵衛:ふん。役に立つんだか立たないんだか分かりゃしねぇ。 桔梗屋甚兵衛:まあしかし、常闇の長治(とこやみのちょうじ)に任せておきゃあ枕を高くして寝られるってもんよ。お足はちょいと高くつくがなぁ。 桔梗屋甚兵衛:朝霞屋の旦那も潤う、わしの仕事も認められる、大黒屋も苦しむ上に、わしゃあ屋敷から出ることもねぇ。はっ、これじゃあ三方よし(さんぽうよし)ならぬ四方(しほう)よしじゃねぇか。はっはっはっは……  :  滝川扇十郎:〈N〉一方こちらは梅屋帰りのお詠(えい)さんご一行。ご機嫌な様子のお詠とおりんは、そわそわしながら見守る阿武(あんの)の心配をよそに、寄り道を楽しんでいた。ここはかんざし屋の店内。  :  詠:そうなんだよ、思いもかけず『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』ってのかい? 歌舞伎を見る機会に恵まれてねぇ。…はは、よしとくれよ、あたしゃごろごろしてたいんだよ、ほんとはねぇ。 阿武:ごろごろはおやめください、詠さま。それを大きな声で…あぁ 詠:【店の主人と話しながら】え? あたしが舞台にかい? そりゃないよ、女形(おんながた)ってのかい? あたしより女らしく光ってるのが二人もいたさ。あたしなんぞの出る幕じゃないよ。 詠:なんだい、おりん。いやに楽しそうじゃないか。ないよないよ。あたしが舞台に立つなんてこと、お天道(てんと)さんが西からのぼったってありゃしないよ。 阿武:詠さまが万雷(ばんらい)の拍手を浴びて、舞台で…おお、良いですなぁ、それも…【惚け気味に】 詠:あれあれ、阿武まで何を言ってんだい【あきれ気味に】。お目付役が聞いて呆れるよ。 阿武:でもねぇ、おりんさんもご主人も見てみたくはありませんか? うちの詠さまの晴れ舞台… 阿武:【満面の笑みのおりんを見て】でしょう、おりんさんもそう思うでしょう? 阿武:巷間(こうかん)、人の口にのぼらない日はないという奥山右近(おくやまうこん)と滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)。あのお二人もさすがでございましたがねぇ。詠さまにはかないませんよ。 詠:何言ってんのさ、阿武(あんの)。あんな女らしさは、あたしにゃちっと出せないねぇ…それが芸事(げいごと)に精進(しょうじん)する役者と、ただの「ものぐさ」のちがいだよぉ【軽やかな笑い】。 阿武:それは芸事の奥深さも承知してはおりますが…いやはや、それにしても勿体無い…  : 詠:そうだ、おりん。あんたがもう少し大きくなったらねえ、お詠さんが、ここでいいのを一つ見立ててやろうじゃないか。まったく楽しみだね。 阿武:おりんさん、よかったねぇ。詠さまはああ見えて、約束は守ってくださるお方だからね、楽しみにしておいでよ。 詠:阿武(あんの)、何か言ったかい? 阿武:いえいえ、詠さま、そろそろ戻りましょう戻りましょう。あはは… 阿武:それでは、ご主人、また寄らせてもらいます。お聞きの通りですから、そのうち、おりんさんに似合いそうなのをご用意くださいましな。 詠:よし、それじゃあ、どこかで甘味(かんみ)でも食べて帰るとするか…… 阿武:【食いぎみに】詠さま、なりませぬ。今日はもうだめでございますよぉぉぉぉ!  :  :  奥山右近:〈N〉日も暮れた願園(がんえん)寺の境内。篝火(かがりび)が焚(た)かれた中を素早く影が動いている。朝霞屋(あさかや)嘉兵衛(かへえ)が抱える中でも随一の殺し屋「常闇の長治(とこやみのちょうじ)」その人であった。  :  常闇の長治:〈M〉ここが願園(がんえん)寺…。住職も難儀なことよ。大黒屋にそそのかされて道を外れることがなけりゃぁ、仏道(ぶつどう)に邁進(まいしん)できんだろうに。酒と女をあてがわれて喜んでちゃぁ、檀家(だんか)に申し訳が立つまいよ。 常闇の長治:地獄に仏、なんて聞いちゃぁいるが、奈落(ならく)に仏がいるものか住職に見てきてもらおうじゃねえか…  :  奥山右近:〈N〉今夜も般若湯(はんにゃとう)と称する酒を片手に、ほろ酔い気分のご住職。部屋のロウソクの火が揺らぐ間(ま)に、その首が落ちていた。 奥山右近:常闇の長治(とこやみのちょうじ)…長らく『竜胆(りんどう)』二人の相手となる人物である。  :  常闇の長治:〈M〉はっ、たわいもねぇ。美しく戦えるやつぁいないかねぇ。そんなやつと見(まみ)えることができれば、俺も暇(ひま)をしねえで済むんだが……。 常闇の長治:お次は、っと。…岡っ引き(おかっぴき)か。  : 奥山右近:〈N〉最恵(さいけい)寺の件で横車を押した岡っ引きの元に、常闇の長治が姿を見せ、声を掛けた。 常闇の長治:これはこれは旦那(だんな)。その筋の使いで参(めぇ)ったんですが……。 奥山右近:〈N〉そう言いながら、長治はふところの輝くものをちらりと見せる。 岡っ引き:〈桔梗屋甚兵衛兼役〉ほう、大黒屋の、かい。で、いくらもって来たんでぇ? 常闇の長治:へへへ、それはご自身でお確かめくだせぇ。 岡っ引き:〈桔梗屋甚兵衛兼役〉よしよし、あちらで話そうじゃねぇか。【ほくほく顔】 奥山右近:〈N〉自ら人影の少ない路地裏に入ったこの男。いくばくかの金を得ようとして、その命を失ったのであった。 常闇の長治:〈M〉へっ…、まったく。朝霞屋・大黒屋の「あ」の字も「だ」の字も出しちゃいねぇってのによぉ。 常闇の長治:なんだって人は、自分の都合のいいように解釈するのかねぇ……。けっ。 常闇の長治:さて、と…、どこかで台車(でえしゃ)を拝借しねぇとな。 奥山右近:〈N〉岡っ引きの亡骸(なきがら)を台車(だいしゃ)に乗せて、長治は上役がいるであろう番所に向かった。  :  常闇の長治:【町人に成りすました長治が番所に駆け込んでくる】 常闇の長治:てえへんでさ、てえへんでさぁ!! こちらのお役人が橋のたもとで…き、き、切られなすってんで…うう。へぇ。仏さんは表の台車(でえしゃ)に載せてまさぁ。あぁ、なまんだぶなまんだぶ…みなさま、表でおたしかめ願(ねげ)ぇませんか…  :  奥山右近:〈N〉下っ端役人が仏の確認に行く隙(すき)を見て、奥に忍びこむ常闇の長治(とこやみのちょうじ)。彼にとってこのようなことは遊びの一つに過ぎない。狙った獲物を逃すことのない黒い目が、すでに役人をとらえている。  :  常闇の長治:〈M〉【襖(ふすま)の間から部屋の中を見て】ふん。小役人どもは必死に働いてんのになぁ。悠長に酒なんぞ飲んでるんじゃねえや。こいつもまたクズ屋ですら相手にしねえ汚ねえ輩(やから)だな。…よし、消そう。 常闇の長治:〈以下、セリフ〉相模守(さがみのかみ)さま、相模守さまっ。  :  奥山右近:〈N〉二つ名の通り、闇に浮かぶ長治の目と漆黒(しっこく)の忍び刃(しのびやいば)。呼ばれて襖(ふすま)の前に立った相模守(さがみのかみ)が踏み出すさらなる一歩は、冥土(めいど)に向けてのものだった…。  :  詠:〈N〉同刻の「桔梗屋(ききょうや)」奥の間。今宵も酒と肴をたんまりと用意して、甚兵衛(じんべえ)が腹心(ふくしん)とともに呑んでいる。  :  桔梗屋甚兵衛:願園(がんえん)寺の住職も、最恵寺(さいけい)寺でちょっかい出してきた岡っ引きも…ふふふ、今ごろはみな討たれて、おのれの首を探して歩いているころだろうよ。 家来:〈阿武兼役〉いつもながら旦那さまのご差配の見事さにございますなぁ 桔梗屋甚兵衛:【少し上機嫌に】よせやい。はぁ、しかし朝霞屋(あさかや)の旦那には逆らえねえな。あんな隠し玉を持たれてちゃあなぁ。 家来:〈阿武兼役〉ははは、まったくその通りで。 桔梗屋甚兵衛:なぁ? もっとも逆らうつもりもさらさらねえぇけどよ。金さえ払えば大抵の面倒ごとに片がついちまうんだからなぁ。味方でありゃぁこれほど心強(こころづえ)えもんもねえや。はっはっは。【酒を飲む】 家来:〈阿武兼役〉ようございましたようございました。はははは… 桔梗屋甚兵衛:おい、おめえら、明日はまた『幸若座(こうわかざ)』に行こうじゃぁねえか。滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)の名演技を楽しみによぉ。 家来:〈阿武兼役〉それは願ってもねぇことですが…旦那さま、奥山の野郎はよろしいんで? 桔梗屋甚兵衛:なんだぁ? 奥山右近だぁ? ……そんなこたぁわかってんだよ。いちいち蒸し返すんじゃねえや。くそっ、おめえのせえでムカムカしてきちまったじゃねえか…。 家来:〈阿武兼役〉あぁぁ…失礼いたしやした… 桔梗屋甚兵衛:【猪口(ちょこ)を投げつける】がぁぁ、おもしろくもねえっ。それもこれも右近の野郎がノコノコと表舞台に出てきゃぁがったからだ。あいつのせぇで滝川扇十郎の見せ場が見られなくなっちまったじゃあねえか。……。うん? 右近の野郎が出てきてから…。出てきてから……? 桔梗屋甚兵衛:【しばらく間をとる】なぁんだ、そうかぁ、右近にいなくなってもらえばいいじゃねえか…。  : 常闇の長治:【天井裏から声をかける】おい、甚兵衛(じんべえ)。 桔梗屋甚兵衛:うん? なんだぁ、誰か呼んだか? 常闇の長治:上だよ、上。俺だ。 桔梗屋甚兵衛:お…、おぉぉ、「常闇(とこやみ)の」かい? で、首尾はどうだったんだい。 常闇の長治:はっ…。俺がここに居るってことがどういうことだか分かっていねぇようだな…。終わったよ。うまくいかねぇわけがねぇだろう。まったく。 桔梗屋甚兵衛:終わったって…えれぇ速さじゃねえか。さすがだねぇ常闇(とこやみ)の。…そうだ、一つ頼まれちゃくれねぇか。もう一人片づけてもらいてぇ奴が居るんだ。 常闇の長治:ほう。追加注文かい? それは構わねぇが、お代はちゃあんといただくぜ? 桔梗屋甚兵衛:おお、やっておくれかい? 金子(きんす)ならすぐに用意する。長廊下の先に切餅(きりもち)一つ置いとかぁ。誰も近くにゃ寄らせねえし、勝手に持ってっとくれ。おい、お前、聞いた通りにやっとけぃ。 家来:〈阿武兼役〉へい。今すぐに!  : 常闇の長治:用意のいいこった。それで、次は誰をやりゃあいいんだ。さっさと教えろ。 桔梗屋甚兵衛:『幸若座(こうわかざ)』の奥山右近(おくやまうこん)だよ。ちっと目障りなんでぇ。いや、何、命まで奪おうってんじゃねえんだ。舞台に上がれないようにしてくれりゃあそれでいい。 常闇の長治:〈M〉はっ…なんだ、この半端(はんぱ)な話はよぉ。しかも、まるっきりの私怨(しえん)じゃぁねえか。こいつも碌(ろく)なもんじゃねえな…  : 桔梗屋甚兵衛:……。なんでぇ黙り込んでよぉ? できねえってのか?  : 常闇の長治:いいや…。確かに聞いた。 桔梗屋甚兵衛:おう、よろしく頼むぞ。…おい、常闇(とこやみ)の? 常闇のぉ?  桔梗屋甚兵衛:……なんでぇなんでぇ、もういねえのか。 桔梗屋甚兵衛:…腕は確かだっつってもなぁ、無愛想なやつだよ。まぁ、朝霞屋(あさかや)の旦那の懐刀(ふところがたな)がお愛想(あいそ)を振りまくってのも変な話だがなぁ。はっはっは…  : 常闇の長治:〈M〉…汚ねぇよ。汚ねえなぁ……。  :  詠:〈N〉『幸若座(こうわかざ)』の後援である商家(しょうか)のもてなしを受けた奥山右近(おくやまうこん)と滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)。公演の合間ということもあり、早々に宴(うたげ)を切り上げた二人は、柳通り(やなぎどおり)と呼ばれる川沿いを提灯(ちょうちん)片手に歩いている。  :  滝川扇十郎:ふふふ。右近さん、今宵も「八重垣姫」の話で座敷が盛り上がっていましたねぇ。さすがは右近さんですね。わたしも鼻が高(たこ)うございます。 奥山右近:いや、滝川さま、持ち上げすぎでございますよ。舞台は一人で作るものではございません。…このようなお話をわたくしごときがお耳に入れるなど釈迦(しゃか)に説法(せっぽう)、孔子(こうし)に論語(ろんご)というものでございましょう。 滝川扇十郎:ははは、右近さんは慎ましいお人だねえ。わたしならもうちっと天狗(てんぐ)になってしまいそうなものだけれど…。 奥山右近:いや、そのようなことは…。 滝川扇十郎:ねぇ、右近さん。どうすればそのようになれますか。そもそも、わたしでもなれますか、あなたのように。 奥山右近:わたくしなぞ目指されることもありませんでしょう。旦那さまに拾われて、ただただわたくしは運が良かったのでございますよ。師匠の後見(うしろみ・舞台で演者の補助をする役)として、間近で舞台を見ることができたのですから。 滝川扇十郎:なにを言うんだい? 運だけでは右近さんのようにはなれないよ。 滝川扇十郎:…それにね。運を掴むのも実力のうちだろう?…右近さんの稽古の凄まじさはわたしもよっく知っている。もう少し自信を持ってはどうだいね。 奥山右近:ふふふ…。それは滝川さまも同じでございましょう。稽古では、それはそれは叱られましたとも。出過ぎるな、出過ぎるな、とね。どれだけ持てはやされようと、天狗になぞなれませぬ。わたくしの分(ぶ)というものをわきまえているつもりですから…。 滝川扇十郎:…はは。たしかに、うちの稽古の厳しさは尋常ではないかもしれないね【苦笑】 奥山右近:そもそも、どこの誰だかわからない稚児(ちご)であるわたくしを、なぜ旦那さまが用いて下さっているのかもわからないのですが…【遠くを見る目】 滝川扇十郎:それはとうぜ…【かぶりを振って】いや、そうだね。それはお祖父さまに聞いてみないことには…。 滝川扇十郎:稽古ではわたしもよく叱られましたよ。舞台こそ、わたしが先に踏みましたがね。右近さんは、稽古の段から輝いていて…ふぅ。 滝川扇十郎:「知らずまに まばゆくねびゆく かたちかな 魂(たま)合わばやと 目をそばめけり」ってね。 奥山右近:【微笑んで】『源氏』でございますか。まことに高い評価をいただき、言葉もありません…。 滝川扇十郎:…ただね、まばゆいものからは目を背けてもしまうものでね… 奥山右近:【扇十郎の言葉は聞いておらず、真剣な表情で】 奥山右近:滝川さま、そのように育っておりましょうか、わたくしは。「八重垣姫」であられましょうか、滝川さまよりも…【失言にハッとする】  : 常闇の長治:〈M〉…ふぅん。この二人、美しいじゃねえか。  : 滝川扇十郎:ふふ、いいんですよ。…右近さん、聞いてくれますか? わたしはね、右近さんに言わねばならぬことがあるんだよ。  : 常闇の長治:〈M〉こっちが右近なぁ。柵(さく)にかける(暴行すること)なぁ、こいつかあ。…気が進まねえな。  : 奥山右近:…失言お許しくださいまし。何でございましょう。 滝川扇十郎:うん…。右近さんからはどう見えていますか、わたしは。 滝川扇十郎:滝川の家に生まれ、幼き頃より芸事を叩き込まれて…。血筋も多少の才(さえ)もあったのだろうか、浮世(うきよ)に云(い)う元服の前には檜舞台(ひのきぶたい)を踏んでいたさ。 奥山右近:…それこそ滝川さまがおっしゃったように、わたくしにとっても憧れでございました。いや、それは今でも変わりありませぬ…。あなたさまの背(せな)を師の後見(うしろみ)として近くで見ておりましたから…。師と並ぶほどに大きな背(せな)にございまする… 滝川扇十郎:いやだなぁ、右近さん。女形(おんながた)に向かって「大きな背(せな)」とはなんだいね。ふふふ…。 奥山右近:え? 言葉の綾にござい…ます【言いかけて扇十郎の冗談に気づき】 奥山右近:…ふふふ。たしかにそうでございますね。 滝川扇十郎:【右近の表情がほころぶのを見て】あぁ、うれしいなぁ。今宵はいい晩だ。 滝川扇十郎:中秋(ちゅうしゅう)も過ぎたことだし、月も恥ずかしいのか、顔を隠してはいるがねぇ。 奥山右近:はい。少し肌寒いくらいの風が、ひんやりと心地ようございます…それに、このように滝川さまと二人で幸若座に戻るのも初めてでございますから。 滝川扇十郎:そうだね…。わたしはね。ずっと、右近さんと並んで歩きたかったんだよ。心のうちを聞いてもらいたかったんだ…わたしの醜い心のうちをね。  : 常闇の長治:〈M〉俺は、この役者をやっちまうのか? いよいよ気が進まねぇ…  : 奥山右近:それはわたくしもでございます。これまで「八重垣姫」となりながらも、どこかであなたさまの目を見ていたのですよ…。舞台にありながらもわたくしは「わたくし」。「八重垣姫」などではございませなんだ……。 滝川扇十郎:そうかねぇ…。わたしにはそうは思えないけどねぇ。 奥山右近:いえ…。『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』にも「八重垣姫」にも、舞台を共にする皆にも。木戸銭(きどせん)をはたいて見にきてくれる皆々様にも…。とても顔向けできない心持ちで舞台に立っていたように思います…。  : 滝川扇十郎:【右近に心を奪われて、男が顔を覗かせる】ははは…はぁ。かなわないなぁお前には……。 滝川扇十郎:【心を決めて】…右近さん。わたしはね、憎かったんだよ、あなたが。 滝川扇十郎:あなたの才(さえ)と、涼やかな手弱女(たおやめ)ぶりが。それこそ刃(やいば)を握って襖(ふすま)の前に立ったこともある…。祖父(そふ)の目が、父上の目が違うのさ、わたしを見る目とね。  : 常闇の長治:〈M〉「麗(うるわ)しい」ってなぁ、こいつらのためにあるんだろうなぁ。甚兵衛(じんべえ)のやつぁ爪の垢(あか)でも煎じて飲みゃあいいのさ…  : 奥山右近:滝川さま…それは。……【こちらも意を決して】存じておりました。あなたさまの熱い目が、苦しい息遣いが、舞台の上でも稽古場でもわたくしを突いておりましたから…。ところが、少し前から刺されるような思いをすることがなくなったのでございます。 滝川扇十郎:はぁあぁぁぁぁ、まったく……。【しばらくの間】わたしは得心(とくしん)が行きましたよ。 滝川扇十郎:右近さん、いや、右近さま。向後(こうご)わたくしはあなたさまを師と仰ぎ、心を尽くし身を尽くし、芸の冴(げいのさえ)のみを追い求めることをお誓いいたしましょう。 奥山右近:滝川さま! 何をおっしゃるのです…。滝川さまこそが名跡(めいせき)を継ぐお方。わたくしの方こそ、あなたさまを追うが務めにございます。  : 常闇の長治:〈M〉…あぁぁぁくそっ。このまま聞いていちゃあ、こっちがおかしくなっちまわぁ。今すぐにでも帰りてぇところだが、仕事は仕事だ。仕方ねぇ…  : 常闇の長治:おい、そこの二人。ちょいと用があるんだが……右近ってなぁ、どっちだい?  : 滝川扇十郎:ん!? どちらさまですか? …顔が見えない…刺客(しかく)? 滝川扇十郎:【短く深呼吸】…右近はわたしです。 奥山右近:たっ、滝川さまっ!?  :  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉『竜胆庵(りんどうあん)』の荷分けを阿武(あんの)に任せ、遅めの夕飯を済ませたお詠(えい)とおりん。阿武がいないのをいいことに甘味を腹に入れての帰り道、たくさん食べたから、と遠回りをしたそうなおりんにしたがって夜道を歩いていた。  :  詠:はぁぁぁ。たあぁぁんと食べたねぇ。しかし、おりんは好き嫌いがなくて何よりだ。出されたものは美味しくいただく。楽しく生きていくコツの一つだよ。あとは、甘味(かんみ)もね。はははは。 詠:【ニコニコ微笑むおりんを眺めながら】いいねぇ、おりんはかわいいねぇ。また甘味を食べに行こうじゃぁないか。  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉さすがに「竜胆」のお詠である。見えるか見えないかの道の先に異変をはやばやと嗅ぎ取っていた。  :  詠:うん? この感じ……。なんだいなんだい、いい夜が台無しじゃあないか。 詠:【前方の人影を認めると】いいかい、おりん。ここに隠れておいで。決して出てくるんじゃないよ。いいね、わかったね。  :  桔梗屋甚兵衛:〈N〉おりんを安全な場所に置くと、稲光(いなびかり)のように疾駆(しっく)する。詠もまた、その道の達人である。  :  常闇の長治:ほう…。お前が右近か。なかなかの度胸だなぁ。  : 奥山右近:な、何を……。くっ、(わたしが右近だっ!) 奥山右近:【( )内も読みますが、右近まで言い切らない】 滝川扇十郎:【前のセリフを食って右近を制して啖呵を切る】わたしを奥山右近と知っての狼藉(ろうぜき)かっ。何の用だか知らないが、わたしへの用向きであれば、この者は放っておいてもらおう! 奥山右近:滝川さまっっ! 常闇の長治:ふむ。よかろう。俺が構うのは右近だけ。それは約束しようじゃねぇか。俺はねぇ、醜いものが嫌いでねぇ。だからよ、口にしたことは違(たが)えねぇ。 奥山右近:【扇十郎の前に出て】ならぬっ、この人に触れてはならぬ。お前が構うべきはわたしだ。わたしなのだよっっ!  : 常闇の長治:【思うところがあるように】…俺ゃあな、右近を斬りに来た…  : 滝川扇十郎:くっ…【奥山とだいたい合わせる】 奥山右近:なっ…【滝川とだいたい合わせる】  : 常闇の長治:悪いなぁ…おめぇらのこたぁ嫌(きれ)ぇじゃねえんだがよ【忍び刀を抜く】  : 詠:そこのお前、何をしてんだいっ!!  : 常闇の長治:あぁ? ふむ…邪魔が入ったか。ここらで終わらせてもらおう【滝川目掛けて斬りかかる】 奥山右近:待てっ【扇十郎をかばう】くあぁぁぁぁ… 奥山右近:【深手ではありません。大仰でなくて良いです】 滝川扇十郎:右近さまっ、右近さまぁぁぁぁ! あなたは死んではならないお人だっ……。  : 詠:右近? あんた、早くその人を連れて逃げな。きっと深手(ふかで)じゃあないからね。 詠:【常闇の長治を見て】何でかは知らないけどねぇ。  : 常闇の長治:お前は? 俺の相手が務まるのかねぇ。さぁて、相手をすべきか否(いな)か。どっちかねぇ。 詠:【うしろに下がる長治に詰めていく】あんた、あの男を斬る気はなかっただろう。いったい何がしたいんだい。【話しながら突きを繰り出す】んっ! 常闇の長治:はっ…【軽くいなしながら】 常闇の長治:俺はね、醜いものが嫌ぇなんだよ…。それでもなぁ、流れに身を任せるしかないこともあらぁね。 詠:よく分からないことを言う男だねっ【身を翻して突きを繰り出す】。 常闇の長治:【刀で詠の突きを外す】お前は、俺を知っているのか? 詠:ん? いや、あんたなんざ知らないね。 詠:〈以下、M〉相当な実力だってことはビンビン伝わってきちゃあいるけどね 常闇の長治:そうか、知らずにここに来たのか。おもしれぇ。相手をしてやろうじゃねぇか。後悔しても知らねえぞ。【言い切る前に斬りかかる】 詠:【長治の刀を受けながら】ふんっ、言うじゃないか!  : 阿武:〈N〉お詠の攻撃を軽くいなす常闇の長治。流石に「裏稼業にその人あり」と知られた人物である。しかし二合(にごう)、三合と切り結ぶがお詠もまた切り傷一つ受けてはいない。  : 常闇の長治:…ふむ。お前は死なねえんだな。美しいじゃぁねえか。覚えているか? 俺ゃぁ、醜いもんは嫌ぇだってよ。 詠:あぁ、覚えちゃいるよ。あんたに興味はないがねっ【下段から切り上げる】。 常闇の長治:ほう…剣筋(けんすじ)もなかなかよ。…俺ゃあな、美しいもんは好きなんだよ。…よし、ここは預けた。 常闇の長治:俺の仕事は済んだしな。まあ、またどこかで相見える(あいまみえる)としようや……。 常闇の長治:ふんっ【詠の攻撃を避けながら、梢に飛び移る】 詠:消えた? あいつは猿(ましら)か何かかねぇ…。このあたしが息を切らせそうになってるじゃないか……。あんなのがいるんだねぇ。 詠:【深呼吸を一つ】よし、さっさとおりんのところに戻ろうかね。  : 阿武:〈N〉おりんを連れて奥山右近と滝川扇十郎の元に戻るお詠。元の場所に人待ち顔でたたずむ扇十郎に声をかけた。  : 詠:斬られたお人の様子はどうだい? 浅手(あさで)だったようには見えたんだがねぇ。 滝川扇十郎:あぁ、あなたさま…。先ほどはありがとうございました。助けて頂かなかったら、今ごろはわたくしども二人の骸(むくろ)が転がっていたかもしれませぬ… 詠:いや、たまたま通りがかってよかったですよ。「右近」と耳にしたんだが…ひょっとして『幸若座(こうわかざ)』のお二人かい? そんじょそこらの立ち姿じゃぁないしねぇ。 滝川扇十郎:ふふふ。どこのどなたかは存じませぬが。ご炯眼(けいがん)恐れ入りまする…。わたくしは滝川扇十郎、わたくしを庇(かば)って斬られてしまったのが、奥山右近にございまする。 詠:あぁ、やっぱりそうかい。いやね、つい先ごろ『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』を見せていただいたもんでねぇ。お二人の立ち姿、瞼(まぶた)の裏に残っていたんですよ【笑う】 滝川扇十郎:あなたさまの動きも尋常(じんじょう)ではございませなんだ。いかがでございましょう。名をお聞かせ願えませんか? 詠:うん? あたしゃ『竜胆庵(りんどうあん)』のお詠(えい)、こっちがおりんです。しがない店(たな)をやってんですがね。ひとつ、お見知り置きくださいな。ただ……今宵のことは忘れてもらえるとありがたいがねえ【苦笑】 滝川扇十郎:『竜胆庵(りんどうあん)』のお詠(えい)さん…。わたくしが覚えておくのはそれだけにございますよ。後日、お礼に伺いまする…。 詠:ははは、滝川さまがうちに見えたら、通りが人でどうにかなっちまいますよ。まぁ、お気持ちだけうかがっておくとしましょう。  :  阿武:〈N〉こちらは桔梗屋甚兵衛の屋敷。さすがに江戸の大店(おおだな)を束ねるだけあって、造作(ぞうさく)も良いものとなっている。そこへ常闇の長治が報告に訪れた。  :  常闇の長治:【天井裏から声をかける】おい、甚兵衛(じんべえ)。 桔梗屋甚兵衛:うん? おお、常闇(とこやみ)のかい? 片付いたようだねぇ。 常闇の長治:あぁ、終わった。 桔梗屋甚兵衛:そうかい、そうかい。上首尾(じょうしゅび)でよかったよ。 常闇の長治:それからな、甚兵衛。おめぇの仕事はもう受けねぇ。朝霞屋(あさかや)の旦那、直々のお達し以外(いげぇ)はな。 桔梗屋甚兵衛:な、何? 金が足りなかったか? いくらだ、いくら払えばいい? 常闇の長治:俺ゃぁな、醜いもんは嫌ぇなんだよ。…まぁ、この度はよぉ、おめぇの汚ねえ仕事のおかげでいいもんを見られたがな。 常闇の長治:それがなかったらな、おめぇは明日を迎えられなかったかも知れねえよ…せいぜい目ん玉を磨いておきな。 桔梗屋甚兵衛:わしの前で美醜を語るか常闇(とこやみ)の。わしゃぁ、これでも呉服屋の店主だぞ。物を見る目はあるつもりだ。  : 常闇の長治:〈M〉【ため息をついて】そういうんじゃねえんだよ。まぁ、馬鹿は死ななきゃなおらねえや。  : 常闇の長治:〈以下、セリフ 〉…それより、いいのかい? 俺が斬りつけたなぁ右近だ。おめぇの好きな歌舞伎の舞台は、明日からもやるのかねぇ? 常闇の長治:くわしかぁねえが、あいつら二人が揃ってこその舞台じゃねえのか? どっちがどの役だとか、そういうもんなのかい… 桔梗屋甚兵衛:なっ、あっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……。  : 常闇の長治:〈M〉はっ、度し難い馬鹿野郎だぜ…  : 奥山右近:〈N【ここは右近として】〉斬られた傷は深くなく、薬師(くすし)のはたらきもあり、ひと月ののちには公演再開とあいなりました。人の口に戸は立たぬという言葉の通りで、休業の間も町雀(まちすずめ)たちが噂話を忘れることはありませなんだ。ひきも切らぬ来客の中、お詠さまご一行を桟敷(さじき)にお招きすることができたのでございます。そして、そこにはこの者の姿も…。  : 桔梗屋甚兵衛:やぁぁっと席が取れたなぁ…このひと月長かったぜぇ。なぁ、おめえら。しっかりと滝川扇十郎(たきがわせんじゅうろう)の神々(こうごう)しさを目に焼き付けて帰(けぇ)るんだ。  : 滝川扇十郎:「〈濡衣(ぬれぎぬ)役〉あらあら、おかしいったらありませんよ。曲がりなりにも姫ともあろうお方が、いやしき花作(はなつく)りを追いかけられますのか【笑う】。あなたさまは勝頼公(かつよりこう)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)い、その生を終えるのでありましょう?」 奥山右近:「〈八重垣姫役〉たしかにわれは香(こう)を焚(た)き、勝頼さまを弔(とむろ)うて生きるつもりでありました。されども……されど、われに告げるのです。勝頼さまが下された鶴の骨の笄(こうがい)が、この鼈甲(べっこう)の櫛(くし)の歯が、伽羅(きゃら)の簪(かんざし)が。それら一つ一つが「公を見いだせ」「公を救え」と宣う(のたまう)のです」 滝川扇十郎:「〈濡衣(ぬれぎぬ)役〉【カラカラ笑う】何です? 身飾り(みかざり)が「告げる」ですと? …姫さまもお疲れになったのでありましょう。あぁ、おいたわしやおいたわしや…。このあたりでゆっくりと、心安(こころやす)うおやすみなされ。花作りの蓑作(はなつくりのみのさく)にはわらわが身をつくしますゆえなぁ」  : 阿武:【小声で】詠さま、本当に先(せん)に見た演目と同じなのでありましょうか。 阿武:何やらわたしめには、お二人のお姿がこうキラキラと輝いて見えるのでございます。 詠:しっ、静かにおしよ。でもねぇ、阿武(あんの)。お前の見る目も確かで安心したよ。ねぇ、おりん【おりんと笑顔で目を交わす】 阿武:【小声で】えぇ? 何があったのでございます? おりんさんも… 詠:何だい? 阿武(あんの)も野暮だねぇ。こんな舞台は二度と見られるもんじゃないよ。この二人はねぇ、生きながらにして苦界(くがい)を知って、そして二人で抜けたのさ。「二人で」ね。さぁさ、右近さんの見せ場が始まるよ…。 奥山右近:「これなるはわが義父(ちち)、武田信玄が「法性の兜(ほっしょうのかぶと)」。兜にやどりし霊狐(れいこ)さま、どうか勝頼公(かつよりこう)の元へと導きたまえ。公が足下(あしもと)に追手が迫り、今まさにたまゆらのともしびが消えんとす……。どうぞどうぞ霊狐さま。わらわが願い聞き届けたまえ…。」  :  滝川扇十郎:〈N〉姫の慕情と悲しみは鬼神(きしん※キジンではありません)の心も動かすか… 度重(たびかさ)なる姫の願いに応えるように湖水(こすい)に狐火(きつねび)が浮かび上がる。  :  奥山右近:「あぁ…あぁ……。うれしや…あれ、うれしや…。霊狐さま、わらわが願いお聞き届けくださるか…。【近寄ってくる狐火を見ながら】霊狐さまの導きに従いて、公がもとへ、湖水(こすい)を歩みていざや参らん…。これよりはわが命、無きものと思いましょう。わらわはすでに霊狐さまがもの。ただひとえに公の御身(おんみ)が無事ならば、そにまさる幸(さいわい)のなし…」【下手に消える右近】  : 桔梗屋甚兵衛:ぐす…ぐすぐす…。何でぇ何でえ。常闇(とこやみ)のやつぁ、いってぇ何をやらかしたんだ? こりゃどうしたことだ、扇十郎がまるで別人だぁ…。チッ、認めたかあねえが、右近の野郎も一皮剥けやがったなぁ…こう胸の辺りにずんとくらぁ。うぅぅ。  : 詠:あぁ、いい舞台だったねぇ。大満足だよ。……いつかあたしも檜舞台(ひのきぶたい)ってやつを踏んでみるかねぇ。 阿武:え? なんですって詠さま…。 詠:嫌だねぇ、冗談さね、じょぉぉだん! おりんも阿武もワクワクしながらあたしを見るんじゃないよ! 阿武:そうは言ってもね、おりんさん。見たいものは見たいじゃないですかねぇ。 常闇の長治:〈N〉阿武の問いかけに、おりんは満面の笑みでうなずいた。 詠:まったく…。あんたらは物好きだよ。 詠:さて、と。梅屋に寄って帰るとしようかね。おりんっ、あんみつだよ、あんみつっ! 阿武:また、詠さま…  : 詠:それはそうとねぇ、阿武。ここの二人を助けた時にね、すごいのに出くわしたのさ。少なくともあたしと同等ではあったよぉ。勝負はあたしに「預ける」ってさ。 阿武:【真剣になって】何ですって? 詳しくお聞かせ願えますかな。 阿武:念のため主上(おかみ)にお知らせしておきますゆえ…。  :   : 0:これにて終演です。この本を選んでくださってありがとうございました。 0:どうぞみなさまの声劇ライフの一助となりますように。  :   :