声劇台本置き場

　：　 　：　 　：「燕子花は甘く薫る」 　：（かきつばたはあまくかおる） 　：　 　：　 　：　 　：　 　：　 幸雄：（ナレーション）先生は、三時間ほどの執筆を終えて俺を振り返った。はだけた着物から、真っ白な御足（おあし）が畳の上に放り出される。と同時に、正座する俺の膝元に原稿用紙を投げ、机横にあった水煙草の壺に赤玉ワインをトポトポと入れ始めた。 千代子：読んで頂戴。 幸雄：……はあ。……では、失礼して。 幸雄：「せんせえは、さうして己（お）れの顎をくいと持ち上げ、その紅い唇で己れのそれをぴたりと塞ひだ。己れが驚く間もなく、ぬるりとしたものが己れの中に割り入って、そのまませんせえの吸っていたかほりを、ふうと己れの身体に吐き出した。己れが咳き込むのを見て、せんせえは楽しそうにケラケラと笑ふ。己れは、胸の真ん中の少し下の方に爪を突き立てられたかのような気持ちになって、せんせえをきっと睨みつけた。」 幸雄：これ……。 千代子：どう？私とお前がモデル。 幸雄：先生と俺がこういう関係なのかと疑われますよ。 千代子：巻頭にはきちんと「これはフィクションです」と明記されるもの。何か問題？ 幸雄：（ナレーション）俺が原稿を読んでいる間に、火皿の上ではもう既に炭がジリジリと燃え始めていた。先生が口金（くちがね）に唇を当てると、ワインがコポコポと沸き立つような音を立てる。 幸雄：いえ、その……噂はご存知ですか。 千代子：私が若いツバメを飼い始めたって？ 0：千代子は笑いながら煙を吐き出す 幸雄：（ナレーション）吐いた煙が、先生の肢体を伝っていき、強い小荳蒄（かるだもん）の香りが室内に拡がっていく。香りだけで酔ってしまいそうな、モワッとした空気が部屋に充満していった。 幸雄：知っているなら、こういったお話を書くのは控えたら如何ですか。 千代子：私は書きたいものを書くの。自分が美しいと思うものを。 幸雄：…………。 千代子：あらお前。本当に顔がいいのね。その顔も美しいこと。 幸雄：……呆れているのですよ、俺は。 千代子：（幸雄の話を聞かずに）ほんと顔はいいのにねえ、お前。 幸雄：……新人ですので、至らないところがあるのはご容赦ください。 千代子：あらお前、何の新人なの。 幸雄：……編集ですよ先生。貴女の。……俺のことを本気でツバメだとでもお思いですか。 千代子：（クスクス笑って）人は美しいものを羨み、妬む。醜いものの声なんて聴いていたら、お前の気高い心がくすんでしまうのではなくて？ 幸雄：……（ため息）。見目が美しいからと言って、中身も美しいとは限りませんがね。 千代子：そういうのは直感で分かるのよ。嗚呼これはまずい、ってね。 幸雄：成る程。 幸雄：…………其れにしても。やはり先生の書く文章を読むと……、 二人：（なるべく同時に）胃液が遡（さかのぼ）ってきそうになる。 幸雄：…………。 千代子：（千代子にしては大声で笑って）ふふ。お前はいつもそう言う。 千代子：…………別に、ツバメならツバメと誤解させておいたら良いのではなくて？ 幸雄：……それでは嘘をついているようで、何だか……。 千代子：面倒ねえ、若者の思考回路というものは。 幸雄：先生が緩すぎるのですよ。 千代子：ねえ。なら嘘じゃなければいいの？ 幸雄：え？…………ッ！ 0：千代子は幸雄の腕を掴むと、そのままその唇を塞いでキスをした。 0：そのまま舌で幸雄の唇をこじ開け、吸っていた水煙草の煙を、幸雄の口内に吐き出す。 0：瞬間、幸雄は咳き込んで千代子を軽く突き飛ばす。 千代子：どう？ 幸雄：冗談はやめてください……！ 千代子：でも、これで嘘じゃない。 幸雄：…………原稿全てを再現なされるお積もりですか。 千代子：それは骨が折れそうね。疲れるのは御免だわ。 幸雄：俺もそんなのは御免被（こうむ）ります。 千代子：あら残念。それでもお前となら楽しめそうだと思ったのに。 幸雄：……どこまでも読めない女（ひと）だな、貴女は。 千代子：私もお前の考えていることは分からないわ。 幸雄：若者は面倒だから？ 千代子：そう。私は緩いから。 幸雄：……原稿、確かに頂戴致しました。また次回の締め切りに参ります。 0：幸雄は原稿を鞄に仕舞う。 千代子：帰ってしまうの？ 幸雄：用は終わりましたから。 千代子：つれないツバメだこと。籠にでも閉じ込めておくべきかしら。 幸雄：ご冗談を。俺一羽で満足できるような貴女ではないでしょう。 千代子：なら他の子たちも、お前と一緒に籠に入れて遣（や）りましょ―― 0：幸雄は千代子を畳に押し倒す。 千代子：ア……！ 幸雄：このツバメが雄だとお忘れですか。 千代子：……意外だわ。お前も他人に妬いたりするのね。 幸雄：蕎麦屋にうどんを持ち込まれたら腹も立つでしょう。他の味が欲しいなら、俺の目の届かないところで食べてください。 千代子：酷い例えだこと。 幸雄：良い例えが出来るなら、作家になっておりますからね。 千代子：（ぽそりと）「これはフィクションです」 幸雄：……え？ 千代子：嗚呼、小説の中のお前は、こんな大胆なことはしないのに……。 幸雄：あれと俺は似て非なるものです。それに、若者は強く在れと言ったのは貴女ですよ。 千代子：そんなこと言ったかしら。 幸雄：言いましたよ、以前。 千代子：（ため息）……ねえ。私が本気で他の味を欲しがると思って？ 幸雄：え？ 千代子：心外だわ。 幸雄：……おや。もしや怒っているのですか。 千代子：私はまだ、お前の味もちゃんと知らないと言うのに。 幸雄：先ほど少し味見したでしょう。……どうでした？ 千代子：良い男は女に感想等訊かないものよ。興が冷めてしまう。 幸雄：ふっ。……それは失礼をば。 千代子：ねえ。 幸雄：なんです？ 千代子：私が緩いかどうか……試してみる？ 幸雄：せん、せ―― 0：幸雄が言い合える前に、千代子が幸雄の頭を引き寄せ、その唇を塞いだ。 0：場面転換。 0：幸雄は布団の上で、千代子を後ろから抱きしめている。 千代子：どうだった？ 幸雄：……女は感想を訊いても良いのですか。 千代子：さあ。世間の物差し等に興味はないわ。私が聴きたいだけ。 幸雄：……ずるいですね。 千代子：女ですもの。 ​幸雄：…………有能でした。 千代子：……有能？ 幸雄：嗚呼そうか。学生言葉ですねこれは。……素敵、でした。 千代子：ふうん。お前もそういう言葉を遣うのね。 0：千代子がくるりと寝返りを打ち、幸雄の胸に擦りよる。 千代子：ねえ、これからミルクホールにでも行かない？ 幸雄：昼から電気ブランを瓶で飲み干すような女（ひと）が、随分と可愛らしいおねだりですね。 千代子：あいすくりんも有るでしょう？ 幸雄：嗚呼なるほど、甘味目当てですか。 千代子：普通の甘味なぞどうでもいいわ。けれどあれは、火照りを鎮められる、って。 幸雄：……まだ、火照っているのですか。 千代子：……馬鹿ね。お前のためを言っているのよ。 幸雄：俺はもう―― 千代子：確かに漲（みなぎ）りは治ったようだものね。 幸雄：……下品ですよ、先生。 千代子：（クスクスと笑う） 幸雄：全く。……嗚呼そうだ。……緩くは、なかったですよ。 千代子：下品よ、お前。 0：二人で顔を見合わせて笑う。 幸雄：（起き上がって）人力車を呼んで参ります。先生はゆっくり着替えてからいらしてください。 千代子：…………まだ、火照っているのですか、か……。 千代子：（ナレーション）後悔しなかった、と言えば嘘になる。 千代子：（ナレーション）正直私は、あまり良い人生を歩んできたとは言えない。特定の人に特別な感情を抱くことの出来なかった私は、世間の言う「良い恋愛」をしては来なかったし、そう言ったものに夢を描いてもいなかった。 千代子：（ナレーション）最初にあの子が「先生、はじめまして」と私の前に現れた時、まずその見目の美しさに言葉を失った。綺麗で純粋で。私なんかが穢してはいけない存在。なのに。どうしても……欲しくなってしまった。 私は浮き立つ気持ちをなるべく抑えて、なるたけ大人っぽい、落ち着いた着物に袖を通した。すうっと大きく深呼吸をして、背筋を伸ばしてあの子の元へ向かった。 0：場面転換。 幸雄：（ナレーション）そうしてあいすくりんを食べ、先生を見送り、帰社した時には十七時半を回っていた。社内では、編集長の周りに人だかりが出来ており、何やら揉めているようであった。と、その時編集長と俺の視線がバチリ、とかち合った。 直感で分かった。嗚呼、これはまずい、と。 幸雄：（ナレーション）英国（えげれす）に出張する予定の編集者が、突然盲腸になってしまったらしい。代役を立てようにも目ぼしい人材は皆大きな仕事を抱えており、どうにも身動きを取ることができない。……よって、入社したばかり俺に白羽の矢が立った。 新人に拒否権などなかった。俺のいない間、髙橋という同期が先生の担当をするらしい。腹立たしさはあったが、髙橋の容姿なら、先生に気に入られることもないだろう。俺は自宅に帰る猶予もなく、チケットと経費だけを手に、そのまま夜の便で日本を発った。 幸雄：（ナレーション）……仕方ない。先生には向こうから手紙を出そう。 幸雄：（ナレーション）そうして仕上げた手紙は、中学校の学生が書いた下手なポエムのようであったかもしれない。ただ、「貴女に会いたい」と。その思いの丈だけはしかと記し、日本行きの船に乗る同業者に便箋を託した。 幸雄：（ナレーション）……やっと日本に戻れた時には、あれから三ヶ月が経過していた。 0：場面転換。三ヶ月後。 幸雄：先生、幸雄です。ご無沙汰しております。 幸雄：……ん？なんだこの匂い……薔薇（ばら）と、何か……？ 幸雄：……先生？……先生！ ​千代子：…………！……あら、久しぶりね。お前が原稿を取りに来るなんて。締め切りまでは、あと三日ある筈だけれど？ 0：千代子は奥の部屋で、ソファに寝そべりながら水煙草を手にしている。 幸雄：原稿は、三日後に髙橋が取りに参ります。 千代子：……そう。……なら何故ここに？ 進捗伺いなら、心配せずとも問題はないわ。お前が担当だった頃も、私はちゃんと締め切りを守っていたでしょう？ ​幸雄：……恋人に会いに来るのに理由が必要ですか？ 千代子：恋人？ 幸雄：……俺の自惚れでしたか。 千代子：いえ。でもお前は……。……恋人なら、何故三ヶ月も会いに来なかったの。 幸雄：少なくともツバメではないでしょう。先生は独身でいらっしゃるのだから。 千代子：言葉遊びをしたいのではないわ。 幸雄：……？ 千代子：……だから！何故連絡もなく三ヶ月も会いに来なかったの！？ 幸雄：え……？あ、いや……え？拗ねてるだけではなく、もしや本当に、読んでいないのですか……？ 千代子：何の話？ 幸雄：手紙をその……出した、のですが……。 千代子：私に？いつ？ 幸雄：……三ヶ月前に。 千代子：……！（頭を抱える） 幸雄：俺は知り合いの編集者に託して……嗚呼くそあいつめ……！ 千代子：そう、そうなの……私はてっきり……。 幸雄：髙橋に訊こうとは思わなかったのですか。 千代子：だって……あれからすぐ「担当が変わりました」と知らぬ男が来て。そんなの、どう考えても一日限りの遊びだったのだと割り切るしかないでしょう……。 幸雄：それは……そう、ですね。済みません。 千代子：相変わらず、憎らしいほど綺麗な顔ね。 幸雄：はい。先生のお好きな顔です。 千代子：なんだか、益々癪（しゃく）な男になって帰ってきたわね。 幸雄：お嫌いですか？ 千代子：……いいえ。 0：二人は暫し見つめ合う。 幸雄：……そう言えば。以前とは違う葉を嗜んでいらっしゃるのですね。 千代子：……え？えぇ。…………あ！ 0：千代子、突如ハッとして水煙草の炭を消そうとする……が、管に足を取られ転んでしまう。 幸雄：（千代子に駆け寄り）大丈夫ですか……！ 千代子：(うずくまってお腹を押さえて呻く） 幸雄：先生……？……！血が…………！​ 千代子：（引き続く苦しんでいる） 幸雄：ッ、待ってください、すぐに医者を呼んで参ります！待っててください、先生！ 0：幸雄、部屋から飛び出す。 0：場面転換。 0：病室のベッドに千代子が横たわっている。 幸雄：……お腹の子は、無事だと。 千代子：……そう。 幸雄：俺の子ですか。 千代子：…………。 幸雄：俺の子、ですね。 千代子：…………お前以外と、褥（しとね）を共にはしてないわ。 幸雄：……喫煙は元より、薔薇（ばら）と桂皮（しなもん）の香りには、流産を誘発する可能性があると、お医者様が……。 千代子：…………。 幸雄：先生。……知っていらっしゃったのではないですか。 千代子：…………。 幸雄：俺の子を産みたくないなら、他にやりようもあったでしょう。何故こんな回りくど―― 千代子：違うわ！ 幸雄：……先生？ 千代子：ちが……！ 0：千代子、顔を手で隠し、声を押し殺して泣き始める。 幸雄：……先生。 千代子：結局お前に、迷惑を……。 幸雄：迷惑なぞ……。 千代子：御免なさい。 幸雄：何故謝るのです。 千代子：お前がもう私を捨てたと思って、諦める積もりだったのに……何故戻ってきたりしたの、何故……。 幸雄：駄目ですか。 千代子：お前をもう、手放したくなくなってしまう。 幸雄：いつか手放すお積もりだったのですか。 千代子：だってお前はまだ若いし、それに……美しいから。いつ私の元から飛び立っても良いように、心の準備をしておかなくちゃ、と……だのに……。だのに私ったら年甲斐もなく……御免なさい。 幸雄：だから、何故謝るのです。 千代子：お前を縛りつけてしまう……。 幸雄：其れの何がいけないのです。 千代子：お前は責任感が強いから、ややこがいるなどと分かったら、逃げようがなくなってしまうでしょう……？ 幸雄：（ため息）貴女は、思ったより馬鹿ですね。 千代子：……？ 幸雄：やっと手に入れたのです。手放す積もり等毛頭ありません。 千代子：それは……若いからだわ。だから年上の女に妙な魅力を感じてしまう。でも、月日が経てば―― 幸雄：例えば十年。十年貴女を思い続ければ、俺が真に本気だと信じてもらえるのですか。 千代子：……それは……そうね。 幸雄：でしたら問題ないですね。 千代子：え？ 0：幸雄はベッド脇に跪き、スーツのポケットから取り出した指輪ケースをパカリと開ける。 幸雄：千代子さん。俺と結婚してください。 千代子：……！お前、話聞いてた……？ 幸雄：私が貴女に惚れたのは、ちょうど十年前のことです。 千代子：………え。 幸雄：中学生の時分です。俺は貴女と出会った。以前話しましたよね。うちは官僚の家系で、親族皆、俺もその道に進むのだと疑わなかった。でも俺は本当は本が大好きで。物語を作る世界に携わりたかった。……まあよくある話ですよ。俺はあの頃父や母、周りの期待にうんざりしていて。家に帰りたくなくて、公園のベンチで本を読んでいた。……貴女のデビュー作を。 幸雄：そうして読み終えて顔を上げると、辺りは真っ暗になっていて、そして―― 0：過去の回想。 千代子：ねえ、その本、面白くなかったの？ 幸雄：え？あ……え？ 千代子：すっごく険しい顔をして読んでいるから。 幸雄：嗚呼、いや……まるで僕みたいだと、思って。 千代子：え？君みたい？ 幸雄：はい。 千代子：其れ、少女が自分の姉の婚約者に恋する話だけれど……え？君、もしかして―― 幸雄：あーいえ！そうではなくて！なんというか……この作者さんが、僕みたいだ、と。 千代子：作者が？エッセイでもない作り物のお話を読んで、作者のことが分かるの？ 幸雄：えっと、なんて言うか……僕、夢があるんですけど、それを家族には話せなくて。 千代子：どうして？ 幸雄：反対、されるから。絶対。 千代子：ふうん。 幸雄：それで……でも諦めきれないから……何だかずっともやもやしてて。ずっとイライラしているんです、僕。 幸雄：……この本の作者さんも、そうかな、って。 自分の中にある、吐き出したいけど吐き出せない、そのままだとどうしようもなくなってしまいそうな汚いものを、文章にして、「これは作り物です」って出すことで、自分の中を浄化しているのかな、みたいな。 千代子：その人の文章は、汚い？ 幸雄：いえ。文章はとっても綺麗ですよ。 千代子：……なら、何故そう思うの？ 幸雄：……僕にはそういう逃げ場がないから、かな。 千代子：逃げ場……か。成る程。面白いわね、君！ 幸雄：……はあ。あ、そうだ！えっと、貴女は一体……？ 千代子：ふふ。凄く集中してたわね。私が隣に座ったことも気付かないで。その学生帽、もう少し浅く被ったら？ 幸雄：……済みません。じゃなくて……！ 千代子：私はねえ、其の本の作者。 幸雄：え！？ 千代子：信じなくても良いのよ。あ。もう行かなくっちゃ。それじゃあね、少年！ 0：この場を去ろうとして、千代子は思い出したように振り返る。 千代子：あ、そうだ。……どんな夢か知らないけれど、吐き出さずに後悔し続けるくらいなら、いっそ吐き出してしまったら？逃げ場がないなら尚更！ 幸雄：え？ 千代子：破裂しちゃうわよ？ 幸雄：……は、はい。 千代子：顔上げてしゃんとしなさいな。 千代子：強く在れ、若人（わこうど）！ 0：千代子は公園を去っていく。 幸雄：（千代子が消えた方向を見つめながら）逃げ場がないなら、尚更……。 0：時は戻って現在。 千代子：……そして、何？ 幸雄：え？あ、嗚呼……。まあつまり……俺が貴方の本を読んでいるのが気になったんでしょうね。家族にも自分にも苛立ってどうしようもなかった俺に、貴女は笑いかけて、夢を後押ししてくれた。 千代子：……それ、だけ？ 幸雄：それだけではないんですけど。でも、その時に恋に落ちました。……子供が出来て逃げられなくなったのは、俺ではなくて貴女ですよ。 幸雄：だって……あれから十年です。十年、経ちました。親を説得し、出版社に入り、今、ここにこうして貴女の編集としている。貴女がいなかったら、俺は夢を諦めて、無為な日々を送っていたことでしょう。そんな女性を、やっと手に入れられる……この機会を逃すとお思いですか？ 千代子：そ、その頃からの十年と、今からの十年では重みが違うわ……。 幸雄：それは後出しです。貴女はいつからの十年、とは言わなかった。 千代子：屁理屈ね。 幸雄：どちらがですか。 千代子：…………。 幸雄：で、どうです。受け取ってくれるのですか。 0：千代子、おずおずと指輪に手を伸ばす。 0：それを見て、幸雄はホッとした表情を浮かべる。 千代子：……意外ね。お前に宝飾品を選ぶセンスが有るなんて。 幸雄：気に入っていただけたようで嬉しいです。 千代子：……サイズがぴったりなのは、少し気味が悪いけれど。 幸雄：サイズを直す必要がない方が良いでしょう？ 千代子：……抜けてるとこは抜けてるのに、抜け目ないところは本当に……（ため息）。 0：また過去の回想 千代子：（ナレーション）最初にお前が私の前に現れた時、まずその見目の美しさに言葉を失った。でも。私がお前が惹かれたのは、その外見にではなかった。 千代子：（ナレーション）……美しい文章に繊細な人柄。「麗しの麗人・時坂千代子」……それが世間からの、私の印象だった。けれど。デビューした時から、私の中ではくすんで澱んで燻って、そうしてドロドロになったものが苦しそうに暴れていて。それを、私はただ紙に書いて昇華していただけで。だのに、読み手は皆私を美化し、勝手に神格化し……そうして段々私のことを知ると、思った通りの人間でなかったと勝手に失望していった。そういった理由から、私は編集担当を定期的に変えてもらうようにしていた。……誰にももう、失望されたくなかったから。だのに。 千代子：では、これが今回の原稿です。どうぞ。 幸雄：頂戴致します。まず、軽くこちらで拝見させていただきます。 千代子：……ええ。 幸雄：…………成る程、やはり。 千代子：やはり？ 幸雄：先生の文章を読むと、胃液が遡ってきそうになる。 千代子：い、えき……。 幸雄：美しいだけじゃなくて、こう、闇とか狂気とか、そういう類（たぐい）の、でもそうではない何かがこう、心臓のこの辺で燻って燻って……やがてどんどん膨らんで……そうして喉までこみ上げてきそうになる。 千代子：……それで、まるで胃液が遡ってきそうになる……？ 幸雄：ええ。 千代子：……（吹き出して）良い、良いわねお前。気に入ったわ！ 幸雄：……はあ。 千代子：では……これから宜しく。（手を差し出す） 幸雄：宜しくお願い致します。 0：二人は握手を交わす。 千代子：（ナレーション）それが。私の遅い恋の始まりだった。 0：そして現在。 幸雄：そう言えば。 千代子：何？ 幸雄：先生は、いつから俺を好いてくれていたのですか。 千代子：…………さあ？ 幸雄：…………ずるくはないですか。 ​千代子：女ですもの。……お嫌い？ 幸雄：……（ため息）。いいえ。 0：（以下の台詞は言っても言わなくても、別のセリフに変えても良いです） 幸雄：愛していますよ、ずっと。 　：　 　：　 　：　 　：　 　：　 　：