台本概要

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タイトル 燕子花は甘く薫る―契―
作者名 机の上の地球儀  (@tsukuenoueno)
ジャンル ラブストーリー
演者人数 2人用台本(男1、女1)
時間 40 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 ――胃液が遡りそうになる。

明治時代/作家と女編集/水タバコ

商用・非商用利用に問わず連絡不要。
告知画像・動画の作成もお好きにどうぞ。
(その際各画像・音源の著作権等にご注意・ご配慮ください)
ただし、有料チケット販売による公演の場合は、可能ならTwitterにご一報いただけますと嬉しいです。
台本の一部を朗読・練習する配信なども問題ございません。
兼ね役OK。1人での演じ分けやアドリブ・語尾変・方言変換などもご自由に。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
惣一郎 127 時坂惣一郎(ときさか そういちろう)。作家。
幸緒 129 安斎幸緒(あんざい ゆきお)。惣一郎の女編集。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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 :   :   :「燕子花は甘く薫る―契―」  :(かきつばたはあまくかおる・ちぎり)  :   :   :   :   :   :  幸緒:(ナレーション)先生は、三時間ほどの執筆を終えて私を振り返った。はだけた着物から、真っ白な胸元が覗く。と同時に、正座する私の膝元に原稿用紙を投げ、机横にあった水煙草の壺に赤玉ワインをトポトポと入れ始めた。 惣一郎:読んでくれたまえ。 幸緒:……はあ。……では、失礼して。 幸緒:「せんせえは、さうしてわたしの顎をくいと持ち上げ、その濡れた唇でわたしのそれをぴたりと塞ひだ。わたしが驚く間もなく、ぬるりとしたものがわたしの中に割り入って、そのまませんせえの吸っていたかほりを、ふうとわたしの身体に吐き出した。わたしが咳き込むのを見て、せんせえは楽しそうにケラケラと笑ふ。わたしは、胸の真ん中の少し下の方に爪を突き立てられたかのような気持ちになって、せんせえをきっと睨みつけた。」 幸緒:これ……。 惣一郎:どうかな?私とお前がモデルだ。 幸緒:先生と私がこういう関係なのかと疑われますよ。 惣一郎:巻頭にはきちんと「これはフィクションです」と明記されるだろう。何か問題が? 幸緒:(ナレーション)私が原稿を読んでいる間に、火皿の上ではもう既に炭がジリジリと燃え始めていた。先生が口金(くちがね)に唇を当てると、ワインがコポコポと沸き立つような音を立てる。 幸緒:いえ、その……噂はご存知ですか。 惣一郎:私が若いツバメを飼い始めたって? 0:惣一郎は笑いながら煙を吐き出す 幸緒:(ナレーション)吐いた煙が、先生の肢体を伝っていき、強い小荳蒄(かるだもん)の香りが室内に拡がっていく。香りだけで酔ってしまいそうな、モワッとした空気が部屋に充満していった。 幸緒:知っているなら、こういったお話を書くのは控えたら如何ですか。 惣一郎:私は書きたいものを書く。自分が美しいと思うものをね。 幸緒:…………。 惣一郎:おやお前。本当に顔がいいのだね。その顔の美しいこと。 幸緒:……呆れているのですよ、私は。 惣一郎:(幸緒の話を聞かずに)ほんと顔はいいのになあ、お前。 幸緒:……新人ですので、至らないところがあるのはご容赦ください。 惣一郎:おやお前、何の新人なんだい。 幸緒:……編集ですよ先生。貴方の。……私のことを本気でツバメだとでもお思いですか。 惣一郎:(クスクス笑って)人は美しいものを羨み、妬む。醜いものの声なんて聴いていたら、お前の気高い心がくすんでしまうのではないかね? 幸緒:……(ため息)。見目が美しいからと言って、中身も美しいとは限りませんがね。 惣一郎:そういうのは直感で分かるのさ。嗚呼これはまずい、ってね。 幸緒:成る程。 幸緒:…………其れにしても。やはり先生の書く文章を読むと……、 二人:(なるべく同時に)胃液が遡(さかのぼ)ってきそうになる。 幸緒:…………。 惣一郎:(惣一郎にしては大声で笑って)はは。お前はいつもそう言う。 惣一郎:…………別に、ツバメならツバメと誤解させておいたら良いのではないかな。 幸緒:……それでは嘘をついているようで、何だか……。 惣一郎:面倒だな、若者の思考回路というものは。 幸緒:先生が緩すぎるのですよ。 惣一郎:なあ。なら嘘じゃなければいいのか? 幸緒:え?…………ッ! 0:惣一郎は幸緒の腕を掴むと、そのままその唇を塞いでキスをした。 0:そのまま舌で幸緒の唇をこじ開け、吸っていた水煙草の煙を、幸緒の口内に吐き出す。 0:瞬間、幸緒は咳き込んで惣一郎を軽く突き飛ばす。 惣一郎:ふふ。 幸緒:冗談はやめてください……! 惣一郎:でも、これで嘘じゃない。 幸緒:…………原稿全てを再現なされるお積もりですか。 惣一郎:それは骨が折れそうだ。疲れるのは御免だな。 幸緒:私もそんなのは御免被(こうむ)ります。 惣一郎:おや残念。それでもお前となら楽しめそうだと思ったのに。 幸緒:……どこまでも読めない人ですね、貴方は。 惣一郎:私もお前の考えていることは分からない。 幸緒:若者は面倒だから? 惣一郎:そう。私は緩いから。 幸緒:普通は若者の方が緩いものですけれどね。 惣一郎:おや。ならお前も実のところは緩いのかもしれないな。 幸緒:私は緩くなどはないですよ。 幸緒:(ため息)……原稿、確かに頂戴致しました。また次回の締め切りに参ります。 0:幸緒は原稿を鞄に仕舞う。 惣一郎:帰ってしまうのかい? 幸緒:用は終わりましたから。 惣一郎:つれないツバメだ。籠にでも閉じ込めておくべきかな。 幸緒:ご冗談を。私一羽で満足できるような貴方ではないでしょう。 惣一郎:なら他の子たちも、お前と一緒に籠に入れて遣(や)ろうじゃな―― 0:幸緒は惣一郎を畳に押し倒す。 惣一郎:ン……! 幸緒:ツバメには欲がないとでも? 惣一郎:……意外だな。お前も他人に妬いたりするのか。 幸緒:蕎麦屋にうどんを持ち込まれたら腹も立つでしょう。他の味が欲しいなら、私の目の届かないところで食べてください。 惣一郎:酷い例えだ。 幸緒:良い例えが出来るなら、作家になっておりますからね。 惣一郎:(ぽそりと)「これはフィクションです」 幸緒:……え? 惣一郎:嗚呼、小説の中のお前は、こんな大胆なことはしないのに……。 幸緒:あれと私は似て非なるものです。それに、若者は強く在れと言ったのは貴方ですよ。 惣一郎:そんなこと言ったかな。 幸緒:言いましたよ、以前。 惣一郎:(ため息)……なあ。私が本気で他の味を欲しがると思っているのか? 幸緒:え? 惣一郎:心外だな。 幸緒:……おや。もしや怒っているのですか。 惣一郎:私はまだ、お前の味もちゃんと知らないと言うのに。 幸緒:先ほど少し味見したでしょう。……どうでした? 惣一郎:良い女は相手に感想等訊かないものだよ。「はしたない」だろう? 幸緒:ふっ。……それは失礼をば。 惣一郎:なあ。 幸緒:なんです? 惣一郎:お前が緩いかどうか……試してみようか? 幸緒:せん、せ―― 0:幸緒が言い合える前に、惣一郎が幸緒の頭を引き寄せ、その唇を塞いだ。 0:場面転換。 0:惣一郎は布団の上で、幸緒を後ろから抱きしめている。 惣一郎:どうだった? 幸緒:……そちらは感想を訊いても良いのですか。 惣一郎:さあ。世間の物差し等に興味はないからね。私が聴きたいだけだ。 幸緒:……ずるいですね。 惣一郎:私だからな。 幸緒:…………有能でした。 惣一郎:……有能? 幸緒:嗚呼そうか。学生言葉ですねこれは。……素敵、でした。 惣一郎:ふむ。お前もそういう言葉を遣うのだね。 0:幸緒がくるりと寝返りを打ち、惣一郎の胸に手を当てる。 幸緒:「若者」、なので。 惣一郎:ふっ、そうか。……なあ、これから一緒にミルクホールにでも行くのはどうだ? 幸緒:あら。昼から電気ブランを瓶で飲み干すような人が、ですか? 惣一郎:あいすくりんが有るだろう? 幸緒:嗚呼なるほど、甘味目当てですか。 惣一郎:普通の甘味なぞどうでもいいが、あれは……火照りを鎮められる、と。 幸緒:……まだ、火照っているのですか。 惣一郎:……馬鹿だな。お前のためを言っているのに。 幸緒:私はもう―― 惣一郎:確かに花弁は閉じたようだな。 幸緒:……下品ですよ、先生。 惣一郎:(クスクスと笑う) 幸緒:全く。……嗚呼そうだ。どうです?私は緩かったですか。 惣一郎:下品だぞ、お前。 0:二人で顔を見合わせて笑う。 幸緒:(起き上がって)人力車を呼んで参ります。先生はゆっくり着替えてからいらしてください。 惣一郎:…………まだ、火照っているのですか、か……。 惣一郎:(ナレーション)後悔しなかった、と言えば嘘になる。 惣一郎:(ナレーション)正直私は、あまり良い人生を歩んできたとは言えない。特定の人に特別な感情を抱くことの出来なかった私は、世間の言う「良い恋愛」をしては来なかったし、そう言ったものに夢を描いてもいなかった。 惣一郎:(ナレーション)最初にあの子が「先生、はじめまして」と私の前に現れた時、まずその見目の美しさに言葉を失った。綺麗で純粋で。私なんかが穢してはいけない存在。なのに。どうしても……欲しくなってしまった。 私は浮き立つ気持ちをなるべく抑えて、なるたけ年上の男(おのこ)らしい、落ち着いた着物に袖を通した。すうっと大きく深呼吸をして、背筋を伸ばしてあの子の元へ向かった。 0:場面転換。 幸緒:(ナレーション)そうしてあいすくりんを食べ、先生を見送り、帰社した時には十七時半を回っていた。社内では、編集長の周りに人だかりが出来ており、何やら揉めているようであった。と、その時編集長と私の視線がバチリ、とかち合った。 直感で分かった。嗚呼、これはまずい、と。 幸緒:(ナレーション)英国(えげれす)に出張する予定の編集者が、突然盲腸になってしまったらしい。代役を立てようにも目ぼしい人材は皆大きな仕事を抱えており、どうにも身動きを取ることができない。……よって、入社したばかり私に白羽の矢が立った。 新人に拒否権などなかった。私のいない間、髙橋という同期が先生の担当をするらしい。腹立たしさはあったが、髙橋の容姿なら、先生に気に入られることもないだろう。私は自宅に帰る猶予もなく、チケットと経費だけを手に、そのまま夜の便で日本を発った。 幸緒:(ナレーション)……仕方ない。先生には向こうから手紙を出そう。 幸緒:(ナレーション)そうして仕上げた手紙は、中学校の学生が書いた下手なポエムのようであったかもしれない。ただ、「貴方に会いたい」と。その思いの丈だけはしかと記し、日本行きの船に乗る同業者に便箋を託した。 幸緒:(ナレーション)……やっと日本に戻れた時には、あれから三ヶ月が経過していた。 0:場面転換。三ヶ月後。 幸緒:先生、幸緒です。ご無沙汰しております。 幸緒:……ん?なんだこの匂い……薔薇(ばら)と、何か……? 幸緒:……先生?……先生! 惣一郎:…………!……おや、久しぶりだね。お前が原稿を取りに来るなんて。締め切りまでは、あと三日ある筈だが? 0:惣一郎は奥の部屋で、ソファに寝そべりながら水煙草を手にしている。 幸緒:原稿は、三日後に髙橋が取りに参ります。 惣一郎:……そうか。……なら何故ここに? 進捗伺いなら、心配せずとも問題はない。お前が担当だった頃も、私はちゃんと締め切りを守っていただろう? 幸緒:……恋人に会いに来るのに理由が必要ですか? 惣一郎:恋人? 幸緒:……私の自惚れでしたか。 惣一郎:いや。でもお前は……。……恋人なら、何故三ヶ月も会いに来なかったんだ。 幸緒:少なくともツバメではないでしょう。先生は独身でいらっしゃるし、そもそも私は女なのですから。 惣一郎:言葉遊びをしたいのではない。 幸緒:……? 惣一郎:……だから!何故連絡もなく三ヶ月も会いに来なかったんだ!? 幸緒:え……?あ、いや……え?拗ねてるだけではなく、もしや本当に、読んでいないのですか……? 惣一郎:何の話だ? 幸緒:手紙をその……出した、のですが……。 惣一郎:私に?いつ? 幸緒:……三ヶ月前に。 惣一郎:……!(頭を抱える) 幸緒:私は知り合いの編集者に託して……嗚呼くそあいつめ……! 惣一郎:そう、そうか……私はてっきり……。 幸緒:髙橋に訊こうとは思わなかったのですか。 惣一郎:それは……あれからすぐ「担当が変わりました」と知らぬ女が来て。そんなの、どう考えても一日限りの遊びだったのだと割り切るしかないだろう……。 幸緒:それは……そう、ですね。済みません。 惣一郎:相変わらず、憎らしいほど綺麗な顔だな。 幸緒:はい。先生のお好きな顔です。 惣一郎:なんだか、益々癪(しゃく)な女になって帰ってきたな。 幸緒:お嫌いですか? 惣一郎:……いいや。 0:二人は暫し見つめ合う。 幸緒:……そう言えば。以前とは違う葉を嗜んでいらっしゃるのですね。 惣一郎:……え?あぁ。…………あ! 0:惣一郎、突如ハッとして水煙草の炭を消そうとする……が、管に足を取られ転んでしまう。 幸緒:(惣一郎に駆け寄り)大丈夫ですか……! 惣一郎:うぐ……!カハ……ッ!(うずくまって咳き込み血を吐く) 幸緒:先生……!血が…………! 惣一郎:(引き続く苦しんでいる) 幸緒:ッ、待ってください、すぐに医者を呼んで参ります!待っててください、先生! 0:幸緒、部屋から飛び出す。 0:場面転換。 0:病室のベッドに惣一郎が横たわっている。 幸緒:……とりあえず、安静にしていれば問題はないと。 惣一郎:……そうか。 幸緒:元々……何か持病でもお持ちで? 惣一郎:…………。 幸緒:……いえ、違いますね。 惣一郎:…………。 幸緒:喫煙は、元より身体に毒なものですが……先生? 惣一郎:……何だ。 幸緒:お医者様が言うには、先生の身体から、毒が検出されたと……。 幸緒:薔薇の香りに混じって気が付きませんでした。……先生が吸ってらしたあの葉……夾竹桃(キョウチクトウ)が混ぜておありでしたね? 惣一郎:…………っ。 幸緒:夾竹桃(キョウチクトウ)の生木(なまき)を燃やした煙は猛毒……。 幸緒:流石に枝ではなく、花か、もしくは葉を微量に混ぜてらっしゃっただけでしょうが、それでもかなりの害がある。 幸緒:……先生。知っていらっしゃったのではないですか。 惣一郎:…………。 幸緒:何故こんな……緩やかに自殺するような真似を―― 惣一郎:違う! 幸緒:……先生? 惣一郎:ちが……! 0:惣一郎、口を片手で覆い、声を押し殺して泣き始める。 幸緒:……先生。 惣一郎:結局お前に、迷惑を……。 幸緒:迷惑なぞ……。 惣一郎:済まない。 幸緒:何故謝るのです。 惣一郎:お前が私を捨てたと思って、諦める積もりだったのに……何故、戻ってきたりしたんだ、何故……。 幸緒:駄目ですか。 惣一郎:お前をもう、手放したくなくなってしまう。 幸緒:いつか手放すお積もりだったのですか。 惣一郎:お前はまだ若いし、それに……美しいから。いつ私の元から飛び立っても良いように、心の準備をしておかなくちゃ、と……だのに……。だのに私は年甲斐もなく……済まない。 幸緒:だから、何故謝るのです。 惣一郎:お前を縛りつけてしまう……。 幸緒:其れの何がいけないのです。 惣一郎:お前は責任感が強いから、こんな馬鹿なことをしでかす男……放っておけないに違いないのだ。このままでは、お前は私から逃げようがなくなってしまう……。 幸緒:(ため息)貴方は、思ったより馬鹿ですね。 惣一郎:……? 幸緒:やっと手に入れたのです。手放す積もり等毛頭ありません。 惣一郎:それは……若いからだ。だから年上の者に妙な魅力を感じてしまう。でも、月日が経てば―― 幸緒:例えば十年。十年貴方を思い続ければ、私が真に本気だと信じてもらえるのですか。 惣一郎:……それは……そうかもしれないが……。 幸緒:でしたら問題ないですね。 惣一郎:え? 0:幸緒はベッド脇に跪き、スーツのポケットから取り出した指輪ケースをパカリと開ける。 幸緒:惣一郎さん。貴方の生涯を、私に独占させてください。 惣一郎:……!お前、私の話を聞いてたか……? 幸緒:聞いていましたよ、もちろん。 惣一郎:そもそも求婚というものは普通、男からするものだろう! 幸緒:前時代的ですね。どちらから、なんてどうでも良いでしょう。 惣一郎:それは……そうかもしれないが……ッ!でも私は、歳もお前よりかなり上で……、 幸緒:それはあまり感じませんね。先生はお若いから。 惣一郎:それに……それにだな……、 幸緒:何です。他に好いた女性でもいるのですか?私以外に啄(ついば)まれたことがお有りで? 惣一郎:ッ、お前以外を抱いてはいない……! 幸緒:……そうですか。良かった。 惣一郎:あ……。いや、だが……! 幸緒:(被せて)何を言っても逃げられませんよ。 惣一郎:…………っ。 幸緒:私が貴方に惚れたのは、ちょうど十年前のことです。 惣一郎:………え。 幸緒:中学の時分です。私は貴方と出会った。以前話しましたよね。うちは官僚の家系で、親族皆、私を皇族方かお華族様に嫁がせようと必死だった。でも私は本当は本が大好きで。物語を作る世界に携わりたかった。……まあよくある話ですよ。私はあの頃父や母、周りの期待にうんざりしていて。家に帰りたくなくて、公園のベンチで本を読んでいた。……貴女のデビュー作を。 幸緒:そうして読み終えて顔を上げると、辺りは真っ暗になっていて、そして―― 0:過去の回想。 惣一郎:なあ。その本、面白くなかったか? 幸緒:え?あ……え? 惣一郎:すっごく険しい顔をして読んでいるから。 幸緒:嗚呼、いや……まるで私みたいだと、思って。 惣一郎:え?君みたい? 幸緒:はい。 惣一郎:其れ、少女が自分の兄の婚約者に恋する話だが……何だ、君、もしや―― 幸緒:あーいえ!そうではなくて!なんというか……この作者さんが、私みたいだ、と。 惣一郎:作者が?エッセイでもない作り物のお話を読んで、作者のことが分かるのか? 幸緒:えっと、なんて言うか……私、夢があるんですけど、それを家族には話せなくて。 惣一郎:どうして? 幸緒:反対、されるから。絶対。 惣一郎:ふうん。 幸緒:それで……でも諦めきれないから……何だかずっともやもやしてて。ずっとイライラしているんです、私。 幸緒:……この本の作者さんも、そうかな、って。 自分の中にある、吐き出したいけど吐き出せない、そのままだとどうしようもなくなってしまいそうな汚いものを、文章にして、「これは作り物です」って出すことで、自分の中を浄化しているのかな、みたいな。 惣一郎:その人の文章は、汚いか? 幸緒:いえ。文章はとっても綺麗ですよ。 惣一郎:……なら、何故そう思う? 幸緒:……私にはそういう逃げ場がないから、かな。 惣一郎:逃げ場……か。成る程。はは。面白いな、君! 幸緒:……はあ。あ、そうだ!えっと、貴方は一体……? 惣一郎:ふふ。凄く集中していたな。私が隣に座ったことも気付かないで。その前髪、もう少し短くした方がいいぞ。 幸緒:……済みません。じゃなくて……! 惣一郎:私はな……其の本の作者だ。 幸緒:え!? 惣一郎:信じなくても良いぞ。あ。もう行かなくては。それじゃあな! 0:この場を去ろうとして、惣一郎は思い出したように振り返る。 惣一郎:あ、そうだ。……どんな夢か知らないが、吐き出さずに後悔し続けるくらいなら、いっそ吐き出したらどうだ。逃げ場がないなら尚更! 幸緒:え? 惣一郎:破裂してしまうぞ? 幸緒:……は、はい。 惣一郎:顔を上げてしゃんとしたまえ。 惣一郎:強く在れ、若人(わこうど)! 0:惣一郎は公園を去っていく。 幸緒:(惣一郎が消えた方向を見つめながら)逃げ場がないなら、尚更……。 0:時は戻って現在。 惣一郎:……そして、何だ? 幸緒:え?あ、嗚呼……。まあつまり……私が貴方の本を読んでいるのが気になったんでしょうね。家族にも自分にも苛立ってどうしようもなかった私に、貴方は笑いかけて、夢を後押ししてくれた。 惣一郎:……それ、だけか? 幸緒:それだけではないんですけど。でも、その時に恋に落ちました。……私を想ってこんなことまでして。逃げられなくなったのは、私ではなくて貴方ですよ。 幸緒:だって……あれから十年です。十年、経ちました。親を説得し、出版社に入り、今、ここにこうして貴方の編集としている。貴方がいなかったら、私は夢を諦めて、無為な日々を送っていたことでしょう。そんな人を、やっと手に入れられる……この機会を逃すとお思いですか? 惣一郎:そ、その頃からの十年と、今からの十年では重みが違うだろう……。 幸緒:それは後出しです。貴方はいつからの十年、とは言わなかった。 惣一郎:屁理屈だ。 幸緒:どちらがですか。 惣一郎:…………。 幸緒:で、どうです。受け取ってくれるのですか。 0:惣一郎、おずおずと指輪に手を伸ばす。 0:それを見て、幸緒はホッとした表情を浮かべる。 惣一郎:……意外だな。お前はこういうものに興味がないと思っていた。 幸緒:「私のもの」という証ですよ。 惣一郎:……サイズがぴったりなのが、少し気味悪いな。 幸緒:サイズを直す必要がない方が良いでしょう? 惣一郎:……抜けてる所は抜けてるのに、抜け目ないところは本当に……(ため息)。 0:また過去の回想 惣一郎:(ナレーション)最初にお前が私の前に現れた時、まずその見目の美しさに言葉を失った。でも。私がお前に惹かれたのは、その外見にではなかった。 惣一郎:(ナレーション)……美しい文章に繊細な人柄。「麗しの麗人・時坂惣一郎」……それが世間からの、私の印象だった。けれど。デビューした時から、私の中ではくすんで澱んで燻って、そうしてドロドロになったものが苦しそうに暴れていて。それを、私はただ紙に書いて昇華していただけで。だのに、読み手は皆私を美化し、勝手に神格化し……そうして段々私のことを知ると、思った通りの人間でなかったと勝手に失望していった。そういった理由から、私は編集担当を定期的に変えてもらうようにしていた。……誰にももう、失望されたくなかったから。だのに。 惣一郎:では、これが今回の原稿です。どうぞ。 幸緒:頂戴致します。まず、軽くこちらで拝見させていただきます。 惣一郎:……あぁ。 幸緒:…………成る程、やはり。 惣一郎:やはり? 幸緒:先生の文章を読むと、胃液が遡ってきそうになる。 惣一郎:い、えき……。 幸緒:美しいだけじゃなくて、こう、闇とか狂気とか、そういう類(たぐい)の、でもそうではない何かがこう、心臓のこの辺で燻って燻って……やがてどんどん膨らんで……そうして喉までこみ上げてきそうになる。 惣一郎:……それで、まるで胃液が遡ってきそうになる……? 幸緒:ええ。 惣一郎:……(吹き出して)良い、良いなお前。気に入った! 幸緒:……はあ。 惣一郎:では……これから宜しく。(手を差し出す) 幸緒:宜しくお願い致します。 0:二人は握手を交わす。 惣一郎:(ナレーション)それが。私の遅い恋の始まりだった。 0:そして現在。 幸緒:そう言えば。 惣一郎:何だ? 幸緒:先生は、いつから私を好いてくれていたのですか。 惣一郎:…………さあ? 幸緒:…………ずるくはないですか。 惣一郎:私だからな。……嫌いか? 幸緒:……(ため息)。いいえ。 0:(以下の台詞は言っても言わなくても、別のセリフに変えても良いです) 幸緒:愛していますよ、ずっと。  :   :   :   :   :   :   : 

 :   :   :「燕子花は甘く薫る―契―」  :(かきつばたはあまくかおる・ちぎり)  :   :   :   :   :   :  幸緒:(ナレーション)先生は、三時間ほどの執筆を終えて私を振り返った。はだけた着物から、真っ白な胸元が覗く。と同時に、正座する私の膝元に原稿用紙を投げ、机横にあった水煙草の壺に赤玉ワインをトポトポと入れ始めた。 惣一郎:読んでくれたまえ。 幸緒:……はあ。……では、失礼して。 幸緒:「せんせえは、さうしてわたしの顎をくいと持ち上げ、その濡れた唇でわたしのそれをぴたりと塞ひだ。わたしが驚く間もなく、ぬるりとしたものがわたしの中に割り入って、そのまませんせえの吸っていたかほりを、ふうとわたしの身体に吐き出した。わたしが咳き込むのを見て、せんせえは楽しそうにケラケラと笑ふ。わたしは、胸の真ん中の少し下の方に爪を突き立てられたかのような気持ちになって、せんせえをきっと睨みつけた。」 幸緒:これ……。 惣一郎:どうかな?私とお前がモデルだ。 幸緒:先生と私がこういう関係なのかと疑われますよ。 惣一郎:巻頭にはきちんと「これはフィクションです」と明記されるだろう。何か問題が? 幸緒:(ナレーション)私が原稿を読んでいる間に、火皿の上ではもう既に炭がジリジリと燃え始めていた。先生が口金(くちがね)に唇を当てると、ワインがコポコポと沸き立つような音を立てる。 幸緒:いえ、その……噂はご存知ですか。 惣一郎:私が若いツバメを飼い始めたって? 0:惣一郎は笑いながら煙を吐き出す 幸緒:(ナレーション)吐いた煙が、先生の肢体を伝っていき、強い小荳蒄(かるだもん)の香りが室内に拡がっていく。香りだけで酔ってしまいそうな、モワッとした空気が部屋に充満していった。 幸緒:知っているなら、こういったお話を書くのは控えたら如何ですか。 惣一郎:私は書きたいものを書く。自分が美しいと思うものをね。 幸緒:…………。 惣一郎:おやお前。本当に顔がいいのだね。その顔の美しいこと。 幸緒:……呆れているのですよ、私は。 惣一郎:(幸緒の話を聞かずに)ほんと顔はいいのになあ、お前。 幸緒:……新人ですので、至らないところがあるのはご容赦ください。 惣一郎:おやお前、何の新人なんだい。 幸緒:……編集ですよ先生。貴方の。……私のことを本気でツバメだとでもお思いですか。 惣一郎:(クスクス笑って)人は美しいものを羨み、妬む。醜いものの声なんて聴いていたら、お前の気高い心がくすんでしまうのではないかね? 幸緒:……(ため息)。見目が美しいからと言って、中身も美しいとは限りませんがね。 惣一郎:そういうのは直感で分かるのさ。嗚呼これはまずい、ってね。 幸緒:成る程。 幸緒:…………其れにしても。やはり先生の書く文章を読むと……、 二人:(なるべく同時に)胃液が遡(さかのぼ)ってきそうになる。 幸緒:…………。 惣一郎:(惣一郎にしては大声で笑って)はは。お前はいつもそう言う。 惣一郎:…………別に、ツバメならツバメと誤解させておいたら良いのではないかな。 幸緒:……それでは嘘をついているようで、何だか……。 惣一郎:面倒だな、若者の思考回路というものは。 幸緒:先生が緩すぎるのですよ。 惣一郎:なあ。なら嘘じゃなければいいのか? 幸緒:え?…………ッ! 0:惣一郎は幸緒の腕を掴むと、そのままその唇を塞いでキスをした。 0:そのまま舌で幸緒の唇をこじ開け、吸っていた水煙草の煙を、幸緒の口内に吐き出す。 0:瞬間、幸緒は咳き込んで惣一郎を軽く突き飛ばす。 惣一郎:ふふ。 幸緒:冗談はやめてください……! 惣一郎:でも、これで嘘じゃない。 幸緒:…………原稿全てを再現なされるお積もりですか。 惣一郎:それは骨が折れそうだ。疲れるのは御免だな。 幸緒:私もそんなのは御免被(こうむ)ります。 惣一郎:おや残念。それでもお前となら楽しめそうだと思ったのに。 幸緒:……どこまでも読めない人ですね、貴方は。 惣一郎:私もお前の考えていることは分からない。 幸緒:若者は面倒だから? 惣一郎:そう。私は緩いから。 幸緒:普通は若者の方が緩いものですけれどね。 惣一郎:おや。ならお前も実のところは緩いのかもしれないな。 幸緒:私は緩くなどはないですよ。 幸緒:(ため息)……原稿、確かに頂戴致しました。また次回の締め切りに参ります。 0:幸緒は原稿を鞄に仕舞う。 惣一郎:帰ってしまうのかい? 幸緒:用は終わりましたから。 惣一郎:つれないツバメだ。籠にでも閉じ込めておくべきかな。 幸緒:ご冗談を。私一羽で満足できるような貴方ではないでしょう。 惣一郎:なら他の子たちも、お前と一緒に籠に入れて遣(や)ろうじゃな―― 0:幸緒は惣一郎を畳に押し倒す。 惣一郎:ン……! 幸緒:ツバメには欲がないとでも? 惣一郎:……意外だな。お前も他人に妬いたりするのか。 幸緒:蕎麦屋にうどんを持ち込まれたら腹も立つでしょう。他の味が欲しいなら、私の目の届かないところで食べてください。 惣一郎:酷い例えだ。 幸緒:良い例えが出来るなら、作家になっておりますからね。 惣一郎:(ぽそりと)「これはフィクションです」 幸緒:……え? 惣一郎:嗚呼、小説の中のお前は、こんな大胆なことはしないのに……。 幸緒:あれと私は似て非なるものです。それに、若者は強く在れと言ったのは貴方ですよ。 惣一郎:そんなこと言ったかな。 幸緒:言いましたよ、以前。 惣一郎:(ため息)……なあ。私が本気で他の味を欲しがると思っているのか? 幸緒:え? 惣一郎:心外だな。 幸緒:……おや。もしや怒っているのですか。 惣一郎:私はまだ、お前の味もちゃんと知らないと言うのに。 幸緒:先ほど少し味見したでしょう。……どうでした? 惣一郎:良い女は相手に感想等訊かないものだよ。「はしたない」だろう? 幸緒:ふっ。……それは失礼をば。 惣一郎:なあ。 幸緒:なんです? 惣一郎:お前が緩いかどうか……試してみようか? 幸緒:せん、せ―― 0:幸緒が言い合える前に、惣一郎が幸緒の頭を引き寄せ、その唇を塞いだ。 0:場面転換。 0:惣一郎は布団の上で、幸緒を後ろから抱きしめている。 惣一郎:どうだった? 幸緒:……そちらは感想を訊いても良いのですか。 惣一郎:さあ。世間の物差し等に興味はないからね。私が聴きたいだけだ。 幸緒:……ずるいですね。 惣一郎:私だからな。 幸緒:…………有能でした。 惣一郎:……有能? 幸緒:嗚呼そうか。学生言葉ですねこれは。……素敵、でした。 惣一郎:ふむ。お前もそういう言葉を遣うのだね。 0:幸緒がくるりと寝返りを打ち、惣一郎の胸に手を当てる。 幸緒:「若者」、なので。 惣一郎:ふっ、そうか。……なあ、これから一緒にミルクホールにでも行くのはどうだ? 幸緒:あら。昼から電気ブランを瓶で飲み干すような人が、ですか? 惣一郎:あいすくりんが有るだろう? 幸緒:嗚呼なるほど、甘味目当てですか。 惣一郎:普通の甘味なぞどうでもいいが、あれは……火照りを鎮められる、と。 幸緒:……まだ、火照っているのですか。 惣一郎:……馬鹿だな。お前のためを言っているのに。 幸緒:私はもう―― 惣一郎:確かに花弁は閉じたようだな。 幸緒:……下品ですよ、先生。 惣一郎:(クスクスと笑う) 幸緒:全く。……嗚呼そうだ。どうです?私は緩かったですか。 惣一郎:下品だぞ、お前。 0:二人で顔を見合わせて笑う。 幸緒:(起き上がって)人力車を呼んで参ります。先生はゆっくり着替えてからいらしてください。 惣一郎:…………まだ、火照っているのですか、か……。 惣一郎:(ナレーション)後悔しなかった、と言えば嘘になる。 惣一郎:(ナレーション)正直私は、あまり良い人生を歩んできたとは言えない。特定の人に特別な感情を抱くことの出来なかった私は、世間の言う「良い恋愛」をしては来なかったし、そう言ったものに夢を描いてもいなかった。 惣一郎:(ナレーション)最初にあの子が「先生、はじめまして」と私の前に現れた時、まずその見目の美しさに言葉を失った。綺麗で純粋で。私なんかが穢してはいけない存在。なのに。どうしても……欲しくなってしまった。 私は浮き立つ気持ちをなるべく抑えて、なるたけ年上の男(おのこ)らしい、落ち着いた着物に袖を通した。すうっと大きく深呼吸をして、背筋を伸ばしてあの子の元へ向かった。 0:場面転換。 幸緒:(ナレーション)そうしてあいすくりんを食べ、先生を見送り、帰社した時には十七時半を回っていた。社内では、編集長の周りに人だかりが出来ており、何やら揉めているようであった。と、その時編集長と私の視線がバチリ、とかち合った。 直感で分かった。嗚呼、これはまずい、と。 幸緒:(ナレーション)英国(えげれす)に出張する予定の編集者が、突然盲腸になってしまったらしい。代役を立てようにも目ぼしい人材は皆大きな仕事を抱えており、どうにも身動きを取ることができない。……よって、入社したばかり私に白羽の矢が立った。 新人に拒否権などなかった。私のいない間、髙橋という同期が先生の担当をするらしい。腹立たしさはあったが、髙橋の容姿なら、先生に気に入られることもないだろう。私は自宅に帰る猶予もなく、チケットと経費だけを手に、そのまま夜の便で日本を発った。 幸緒:(ナレーション)……仕方ない。先生には向こうから手紙を出そう。 幸緒:(ナレーション)そうして仕上げた手紙は、中学校の学生が書いた下手なポエムのようであったかもしれない。ただ、「貴方に会いたい」と。その思いの丈だけはしかと記し、日本行きの船に乗る同業者に便箋を託した。 幸緒:(ナレーション)……やっと日本に戻れた時には、あれから三ヶ月が経過していた。 0:場面転換。三ヶ月後。 幸緒:先生、幸緒です。ご無沙汰しております。 幸緒:……ん?なんだこの匂い……薔薇(ばら)と、何か……? 幸緒:……先生?……先生! 惣一郎:…………!……おや、久しぶりだね。お前が原稿を取りに来るなんて。締め切りまでは、あと三日ある筈だが? 0:惣一郎は奥の部屋で、ソファに寝そべりながら水煙草を手にしている。 幸緒:原稿は、三日後に髙橋が取りに参ります。 惣一郎:……そうか。……なら何故ここに? 進捗伺いなら、心配せずとも問題はない。お前が担当だった頃も、私はちゃんと締め切りを守っていただろう? 幸緒:……恋人に会いに来るのに理由が必要ですか? 惣一郎:恋人? 幸緒:……私の自惚れでしたか。 惣一郎:いや。でもお前は……。……恋人なら、何故三ヶ月も会いに来なかったんだ。 幸緒:少なくともツバメではないでしょう。先生は独身でいらっしゃるし、そもそも私は女なのですから。 惣一郎:言葉遊びをしたいのではない。 幸緒:……? 惣一郎:……だから!何故連絡もなく三ヶ月も会いに来なかったんだ!? 幸緒:え……?あ、いや……え?拗ねてるだけではなく、もしや本当に、読んでいないのですか……? 惣一郎:何の話だ? 幸緒:手紙をその……出した、のですが……。 惣一郎:私に?いつ? 幸緒:……三ヶ月前に。 惣一郎:……!(頭を抱える) 幸緒:私は知り合いの編集者に託して……嗚呼くそあいつめ……! 惣一郎:そう、そうか……私はてっきり……。 幸緒:髙橋に訊こうとは思わなかったのですか。 惣一郎:それは……あれからすぐ「担当が変わりました」と知らぬ女が来て。そんなの、どう考えても一日限りの遊びだったのだと割り切るしかないだろう……。 幸緒:それは……そう、ですね。済みません。 惣一郎:相変わらず、憎らしいほど綺麗な顔だな。 幸緒:はい。先生のお好きな顔です。 惣一郎:なんだか、益々癪(しゃく)な女になって帰ってきたな。 幸緒:お嫌いですか? 惣一郎:……いいや。 0:二人は暫し見つめ合う。 幸緒:……そう言えば。以前とは違う葉を嗜んでいらっしゃるのですね。 惣一郎:……え?あぁ。…………あ! 0:惣一郎、突如ハッとして水煙草の炭を消そうとする……が、管に足を取られ転んでしまう。 幸緒:(惣一郎に駆け寄り)大丈夫ですか……! 惣一郎:うぐ……!カハ……ッ!(うずくまって咳き込み血を吐く) 幸緒:先生……!血が…………! 惣一郎:(引き続く苦しんでいる) 幸緒:ッ、待ってください、すぐに医者を呼んで参ります!待っててください、先生! 0:幸緒、部屋から飛び出す。 0:場面転換。 0:病室のベッドに惣一郎が横たわっている。 幸緒:……とりあえず、安静にしていれば問題はないと。 惣一郎:……そうか。 幸緒:元々……何か持病でもお持ちで? 惣一郎:…………。 幸緒:……いえ、違いますね。 惣一郎:…………。 幸緒:喫煙は、元より身体に毒なものですが……先生? 惣一郎:……何だ。 幸緒:お医者様が言うには、先生の身体から、毒が検出されたと……。 幸緒:薔薇の香りに混じって気が付きませんでした。……先生が吸ってらしたあの葉……夾竹桃(キョウチクトウ)が混ぜておありでしたね? 惣一郎:…………っ。 幸緒:夾竹桃(キョウチクトウ)の生木(なまき)を燃やした煙は猛毒……。 幸緒:流石に枝ではなく、花か、もしくは葉を微量に混ぜてらっしゃっただけでしょうが、それでもかなりの害がある。 幸緒:……先生。知っていらっしゃったのではないですか。 惣一郎:…………。 幸緒:何故こんな……緩やかに自殺するような真似を―― 惣一郎:違う! 幸緒:……先生? 惣一郎:ちが……! 0:惣一郎、口を片手で覆い、声を押し殺して泣き始める。 幸緒:……先生。 惣一郎:結局お前に、迷惑を……。 幸緒:迷惑なぞ……。 惣一郎:済まない。 幸緒:何故謝るのです。 惣一郎:お前が私を捨てたと思って、諦める積もりだったのに……何故、戻ってきたりしたんだ、何故……。 幸緒:駄目ですか。 惣一郎:お前をもう、手放したくなくなってしまう。 幸緒:いつか手放すお積もりだったのですか。 惣一郎:お前はまだ若いし、それに……美しいから。いつ私の元から飛び立っても良いように、心の準備をしておかなくちゃ、と……だのに……。だのに私は年甲斐もなく……済まない。 幸緒:だから、何故謝るのです。 惣一郎:お前を縛りつけてしまう……。 幸緒:其れの何がいけないのです。 惣一郎:お前は責任感が強いから、こんな馬鹿なことをしでかす男……放っておけないに違いないのだ。このままでは、お前は私から逃げようがなくなってしまう……。 幸緒:(ため息)貴方は、思ったより馬鹿ですね。 惣一郎:……? 幸緒:やっと手に入れたのです。手放す積もり等毛頭ありません。 惣一郎:それは……若いからだ。だから年上の者に妙な魅力を感じてしまう。でも、月日が経てば―― 幸緒:例えば十年。十年貴方を思い続ければ、私が真に本気だと信じてもらえるのですか。 惣一郎:……それは……そうかもしれないが……。 幸緒:でしたら問題ないですね。 惣一郎:え? 0:幸緒はベッド脇に跪き、スーツのポケットから取り出した指輪ケースをパカリと開ける。 幸緒:惣一郎さん。貴方の生涯を、私に独占させてください。 惣一郎:……!お前、私の話を聞いてたか……? 幸緒:聞いていましたよ、もちろん。 惣一郎:そもそも求婚というものは普通、男からするものだろう! 幸緒:前時代的ですね。どちらから、なんてどうでも良いでしょう。 惣一郎:それは……そうかもしれないが……ッ!でも私は、歳もお前よりかなり上で……、 幸緒:それはあまり感じませんね。先生はお若いから。 惣一郎:それに……それにだな……、 幸緒:何です。他に好いた女性でもいるのですか?私以外に啄(ついば)まれたことがお有りで? 惣一郎:ッ、お前以外を抱いてはいない……! 幸緒:……そうですか。良かった。 惣一郎:あ……。いや、だが……! 幸緒:(被せて)何を言っても逃げられませんよ。 惣一郎:…………っ。 幸緒:私が貴方に惚れたのは、ちょうど十年前のことです。 惣一郎:………え。 幸緒:中学の時分です。私は貴方と出会った。以前話しましたよね。うちは官僚の家系で、親族皆、私を皇族方かお華族様に嫁がせようと必死だった。でも私は本当は本が大好きで。物語を作る世界に携わりたかった。……まあよくある話ですよ。私はあの頃父や母、周りの期待にうんざりしていて。家に帰りたくなくて、公園のベンチで本を読んでいた。……貴女のデビュー作を。 幸緒:そうして読み終えて顔を上げると、辺りは真っ暗になっていて、そして―― 0:過去の回想。 惣一郎:なあ。その本、面白くなかったか? 幸緒:え?あ……え? 惣一郎:すっごく険しい顔をして読んでいるから。 幸緒:嗚呼、いや……まるで私みたいだと、思って。 惣一郎:え?君みたい? 幸緒:はい。 惣一郎:其れ、少女が自分の兄の婚約者に恋する話だが……何だ、君、もしや―― 幸緒:あーいえ!そうではなくて!なんというか……この作者さんが、私みたいだ、と。 惣一郎:作者が?エッセイでもない作り物のお話を読んで、作者のことが分かるのか? 幸緒:えっと、なんて言うか……私、夢があるんですけど、それを家族には話せなくて。 惣一郎:どうして? 幸緒:反対、されるから。絶対。 惣一郎:ふうん。 幸緒:それで……でも諦めきれないから……何だかずっともやもやしてて。ずっとイライラしているんです、私。 幸緒:……この本の作者さんも、そうかな、って。 自分の中にある、吐き出したいけど吐き出せない、そのままだとどうしようもなくなってしまいそうな汚いものを、文章にして、「これは作り物です」って出すことで、自分の中を浄化しているのかな、みたいな。 惣一郎:その人の文章は、汚いか? 幸緒:いえ。文章はとっても綺麗ですよ。 惣一郎:……なら、何故そう思う? 幸緒:……私にはそういう逃げ場がないから、かな。 惣一郎:逃げ場……か。成る程。はは。面白いな、君! 幸緒:……はあ。あ、そうだ!えっと、貴方は一体……? 惣一郎:ふふ。凄く集中していたな。私が隣に座ったことも気付かないで。その前髪、もう少し短くした方がいいぞ。 幸緒:……済みません。じゃなくて……! 惣一郎:私はな……其の本の作者だ。 幸緒:え!? 惣一郎:信じなくても良いぞ。あ。もう行かなくては。それじゃあな! 0:この場を去ろうとして、惣一郎は思い出したように振り返る。 惣一郎:あ、そうだ。……どんな夢か知らないが、吐き出さずに後悔し続けるくらいなら、いっそ吐き出したらどうだ。逃げ場がないなら尚更! 幸緒:え? 惣一郎:破裂してしまうぞ? 幸緒:……は、はい。 惣一郎:顔を上げてしゃんとしたまえ。 惣一郎:強く在れ、若人(わこうど)! 0:惣一郎は公園を去っていく。 幸緒:(惣一郎が消えた方向を見つめながら)逃げ場がないなら、尚更……。 0:時は戻って現在。 惣一郎:……そして、何だ? 幸緒:え?あ、嗚呼……。まあつまり……私が貴方の本を読んでいるのが気になったんでしょうね。家族にも自分にも苛立ってどうしようもなかった私に、貴方は笑いかけて、夢を後押ししてくれた。 惣一郎:……それ、だけか? 幸緒:それだけではないんですけど。でも、その時に恋に落ちました。……私を想ってこんなことまでして。逃げられなくなったのは、私ではなくて貴方ですよ。 幸緒:だって……あれから十年です。十年、経ちました。親を説得し、出版社に入り、今、ここにこうして貴方の編集としている。貴方がいなかったら、私は夢を諦めて、無為な日々を送っていたことでしょう。そんな人を、やっと手に入れられる……この機会を逃すとお思いですか? 惣一郎:そ、その頃からの十年と、今からの十年では重みが違うだろう……。 幸緒:それは後出しです。貴方はいつからの十年、とは言わなかった。 惣一郎:屁理屈だ。 幸緒:どちらがですか。 惣一郎:…………。 幸緒:で、どうです。受け取ってくれるのですか。 0:惣一郎、おずおずと指輪に手を伸ばす。 0:それを見て、幸緒はホッとした表情を浮かべる。 惣一郎:……意外だな。お前はこういうものに興味がないと思っていた。 幸緒:「私のもの」という証ですよ。 惣一郎:……サイズがぴったりなのが、少し気味悪いな。 幸緒:サイズを直す必要がない方が良いでしょう? 惣一郎:……抜けてる所は抜けてるのに、抜け目ないところは本当に……(ため息)。 0:また過去の回想 惣一郎:(ナレーション)最初にお前が私の前に現れた時、まずその見目の美しさに言葉を失った。でも。私がお前に惹かれたのは、その外見にではなかった。 惣一郎:(ナレーション)……美しい文章に繊細な人柄。「麗しの麗人・時坂惣一郎」……それが世間からの、私の印象だった。けれど。デビューした時から、私の中ではくすんで澱んで燻って、そうしてドロドロになったものが苦しそうに暴れていて。それを、私はただ紙に書いて昇華していただけで。だのに、読み手は皆私を美化し、勝手に神格化し……そうして段々私のことを知ると、思った通りの人間でなかったと勝手に失望していった。そういった理由から、私は編集担当を定期的に変えてもらうようにしていた。……誰にももう、失望されたくなかったから。だのに。 惣一郎:では、これが今回の原稿です。どうぞ。 幸緒:頂戴致します。まず、軽くこちらで拝見させていただきます。 惣一郎:……あぁ。 幸緒:…………成る程、やはり。 惣一郎:やはり? 幸緒:先生の文章を読むと、胃液が遡ってきそうになる。 惣一郎:い、えき……。 幸緒:美しいだけじゃなくて、こう、闇とか狂気とか、そういう類(たぐい)の、でもそうではない何かがこう、心臓のこの辺で燻って燻って……やがてどんどん膨らんで……そうして喉までこみ上げてきそうになる。 惣一郎:……それで、まるで胃液が遡ってきそうになる……? 幸緒:ええ。 惣一郎:……(吹き出して)良い、良いなお前。気に入った! 幸緒:……はあ。 惣一郎:では……これから宜しく。(手を差し出す) 幸緒:宜しくお願い致します。 0:二人は握手を交わす。 惣一郎:(ナレーション)それが。私の遅い恋の始まりだった。 0:そして現在。 幸緒:そう言えば。 惣一郎:何だ? 幸緒:先生は、いつから私を好いてくれていたのですか。 惣一郎:…………さあ? 幸緒:…………ずるくはないですか。 惣一郎:私だからな。……嫌いか? 幸緒:……(ため息)。いいえ。 0:(以下の台詞は言っても言わなくても、別のセリフに変えても良いです) 幸緒:愛していますよ、ずっと。  :   :   :   :   :   :   :