台本概要

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タイトル 魔法の鼓
作者名 おちり補佐官  (@called_makki)
ジャンル ホラー
演者人数 2人用台本(男2) ※兼役あり
時間 20 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 物語の最後に噂話として、読む項目があります。その兼ね役をいずれの人がするか、予めの決定をお願いします。
推奨としては、高校生の啓役です。

※9/23段階では、未テストプレイ状態です。誤字脱字あれば申し訳ないです。上演時間についても、予測でしかありません。


~以下あらすじ~
日暮れまであと1時間ほど。
秋の17時過ぎ、駅前。

ロングTシャツにジーンズパンツ、髭のちらほら生えている雑な身なりの男が、道行く人に声をかけている。
偶然通りかかった男子高校生が立ち止まり、話は始まる。

雑な身なりの男。名を行雄(ゆきお)と謂う。彼は、産まれもった欲の強さが原因で人より苦しんでいると考えている。

男子高校生。名を啓(はじめ)と謂う。学校帰りで電車に向かっている。彼は行雄に反して、生きているのが不思議なほどに欲のない人間である。

二人が出会う少し前、行雄は駅近くの喫煙所で魔法使いと名乗る男から「鼓」を渡される。鼓を構えて持つ人は、鼓を叩いた人に乗り移ることができるという。
期間は1回叩けば1日。3回叩けば3日といった具合である。

行雄は説明なしに啓に乗り移ろうとして、雑に促していた。しかし、啓は自己紹介や説明なしでは叩かないの一点張りである。行雄は乗り移れさえすればあとはどうでもなるとも思っていたため、洗いざらい話す。
すると啓は簡単に受け入れ、鼓を3回叩く。

行雄の意識は啓の中に入り込む。行雄は欲を感じない体で過ごすことに喜びを覚える。食べ物の広告も、刺激的なファッションも、今の彼にはなにも干渉しない。

しかし、次第に行雄は欲のない状態に恐怖を覚える。思春期をより多感に過ごしてきた行雄にとって、啓のあまりの無欲は、生きたいという欲すらないように感じた。

そこで、百貨店の地下の惣菜売り場を見に行ったり、セクシーな女性を追ってエスカレーターに乗る。しかし、何も感じない。また地上に出て、嫌いだったはずの犬を見ても何とも思わない。

欲のなさに疲弊していく行雄は、この体から3日も耐えることができないと判断する。

そしてこの身体を終わらせようと、啓の姿のまま、電車に飛び込む。

後日、男子高校生とフリーターの男が二人で同時に飛び込みをおこなったという風に語られる。
また、ぶつかった際に、太鼓を叩くような大きな音が3回鳴ったらしい、とも。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
行雄 111 ゆきお。フリーター、32歳。独身。自動車免許所持。犬嫌い。
111 はじめ。高校生。学校が終わると共にすぐ帰ろうとしている。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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行雄:な、なあ! 頼む! この鼓を、三回だけでいいから打ってくれないか。 啓:はい? 行雄:この鼓を、少し鳴らしてくれるだけでいいんだ。 啓:......。 行雄:おいおいおい、無視しないでくれよ。学生さん。俺を見てくれ、な? 啓:はぁ......。どうして僕に頼むんですか。知り合いにでも頼めばいいじゃないですか。 行雄:待ってくれよ。いいじゃないか相手が誰かくらい。そうだ! 聞いてくれ! これは魔法の鼓なんだ。 啓:......魔法? 行雄:どうだ。興味が出てきたか。 啓:すこし。 行雄:なら叩いてくれるか? 啓:いやだ。なんで僕がわけのわからないものに触れなくちゃいけないのさ。胡散臭いよ。 行雄:なんだとお前。おい、いいから聞け。魔法の説明をしてやる。 啓:いや、もう電車来るし......。 行雄:電車なんて幾らでもあるだろう? な? な? お前よ。この不思議な鼓、気にならないか? 啓:気にはなるけど。そもそもおっさんは、なんなの。 行雄:俺? 別にどうだって魔法には関係ないが。俺は行雄。三十二歳独身。免許証見るか? 啓:いやいいよ。面倒臭い。 行雄:なんだお前、さっきから胡散臭いだの面倒臭いだの。そんなに俺は臭いか! 啓:少しね。 行雄:悪かったな。昼にラーメン行ったからよ。 啓:で? 仕事は? だいの大人が夕方に高校生捕まえてなにしてんのさ? フリーター? 行雄:フリーターだよ。悪いか。誰にも迷惑かけてないだろうが。 啓:あっそ。僕は少し迷惑に思ってるんだけど。 行雄:フリーターであることが迷惑な訳じゃないだろっつってんだ。大人をからかうな。 啓:そうだね。で? 他にできる自己ピーアールは? 行雄:ああくそ。お前はなんでそう上からなんだよ。 啓:鼓叩いてほしいんでしょ。ほら、はやく。 行雄:そりゃあそうだけどよ。嫌いな動物は犬で、好きな食べ物は、んー、照り焼きバーガー。特技は、もう十年近くしてないけど、けん玉。こんなもんか? 啓:ふうん。 行雄:お前が聞いたんだからな? 啓:犬、怖いの? 行雄:......そうだよ。なんか迷惑かけてるか。 啓:いや。別に。ただ、体格のわりに怖がりなのかと思ったら面白いなって。 行雄:はいはい。そうだな、そうですね。で、鼓は叩いてくれるのか? 啓:いや、叩くわけないじゃん。 行雄:なんでだよおい! 教え損か、こっちは? ああくそ、もう時間がねえってのに! 啓:時間? 行雄:あの夕陽が見えなくなったら、魔法は使えなくなるんだよ! 啓:へぇ、そうなんだ。で? 魔法ってどんなの。もう使ったことあるの? 行雄:使ったことは、ない。 啓:じゃあなんでそれが魔法の鼓だって言えるのさ。 行雄:まあ聞け、小僧。関心がわいてきたな? この鼓が魔法の鼓だって理由は、これをくれた人が魔法使いだったからだ。 啓:あほくさ。おっさん騙されてんじゃないの。いくら出したの。 行雄:いや、騙されてるわけない。良い魔法使いさ。ほら、シンデレラの前にだって現れただろ? そんなのが。それに金だって払ってないさ。なにしろ俺を哀れんで、無料でくれたんだから。 啓:ふうん。 行雄:信じてないな? 啓:もちろん。いや、インチキ臭すぎる。仮に魔法が本当だったとして、何も払わないでもくれたっていうのが気持ち悪い。 行雄:お前だって目の前で見てりゃあなあ? そうだ、この鼓を叩いてみろよ! 三回! 叩けば分かるからさ? 啓:そんな見え透いた手くわないよ。 行雄:ええいくそ。信じてないんだろ? じゃあいいじゃないか。 啓:万が一だよ。何か触れちゃヤバいものが付いてたりしたら最悪だし。僕は今までの時間で、おっさんの人となりを少し分かってきただけ。だから信じてもないけど、同時に信用もしてない。 行雄:そうか。そうかよ。 啓:でも、魔法があるにしろないにしろ、興味は湧いた。聞かせてご覧よ。内容によっては叩きたくなるかもしれないしさ。 行雄:おう。それもそうか。この魔法の鼓を持った状態で他人に叩いて貰うとだな。叩かれた回数分に応じて、叩いた人の中に取り入ることができる。一回につき一日だって魔法使いさんは言ってたな。 啓:ふうん。つまりお前はずっと僕の承諾なしに三日間、身体を乗っ取ろうとしてたのか。 行雄:いや、乗っとるとは言っても、お前の意識だってキチンとあるし、感じることもお前の感覚として俺に伝わる。だから、お前のひとつの身体の中に俺の意識が居候するような感じだ。 啓:身体の操作の権利は? 行雄:一応、俺だ。 啓:犬が来たら逃げるんだ。僕の体で。 行雄:は? ああ。俺が犬を嫌いだと言ったんだったな。犬が怖いとも言ったか。 啓:殴ったり蹴ったりすれば勝てるじゃん。 行雄:そうだな。はは、それが出来りゃあ俺だって怖かないさ。体力で言えば、それほど怖くはない。子犬なんかは蹴飛ばしてしまえばいい。 行雄:だがな......俺が恐れるものは、犬を守る飼い主だ。犬を悪くない生き物として過ごす崇拝者だ。犬が人を噛んだって、誰が彼を裁けよう。人が犬を噛めば誰もが俺を裁きたがるだろう。 そして本当に嫌いなのは、そこから始まる、法に縛られて強く抵抗をできそうにない気の持ち具合だ。 啓:そっか。ふーん。少し納得した。だとしたら、僕も犬が少し苦手かもしれない。で、肝心なのは、こんな気持ちだとか考えのコミュニケーションは、乗っ取られているときでも出来るの? 行雄:たぶん、できる、はずだ。 啓:なら少し安心した。 行雄:そうか。じゃ、叩いてくれ。 啓:え、嫌だよ。 行雄:は? 啓:いや、なんで入りたいのさ。僕は別に乗っ取られるのは実際そんなに嫌じゃないのさ。でも、その理由くらいは知りたい。 行雄:良いだろう。教えてやる。俺はよく自制して生きている方だと感じる。 啓:何をさ。 行雄:こうっ、むらむらっとくる感情をだよ。 啓:なんでちょっと濁して言うのさ。気持ち悪い。性欲なんだろ。 行雄:そうだけどよ。一応、道端なわけだしさ。 啓:ふぅん。......皆そうなんじゃない? 何かしら欲望を制御して生きている。 行雄:そうだな。そうだよ。でも、なんとなく不平等すぎないか? これって。な? どれくらいそう強く感じるかだよ。俺だって、プリンを買うのを我慢したくらいじゃ、わざわざ自制した! とは言わないぜ。ただなぁ、なんていうか。俺だって幸せに暮らしたいさ。 啓:何が言いたい。 行雄:隣の芝はいつも青いよな。悩みなんかひとつもなしに生きていけたらどれだけいいか。俺はお前になりたいさ。ほんの一日だけでいいから。もしなれたら。なんてな。 啓:なれたらどうするつもりだ。僕の身体で放蕩の限りを尽くそうとでも言うのか。 行雄:はぁ。人の体で悪さをするようなやつには、魔法使いだって素敵なものはくれないさ。 啓:じゃあ何を。 行雄:俺はさ。自分の欲望を束の間だけ忘れてみたいんだよ。だから変なことをする気なんぞ、さらさらない。俺は、お前として過ごしたいんだよ。平然と、怪しまれないような範囲で。 啓:それが何になる。お前が求めるような官能的魅力に恵まれた女なぞは僕の周りにはいないぞ。 行雄:だとしてもさ。さっきから言ってるだろ?少なくともお前は性欲という意味では何も不足していないと感じられているんだろう。 啓:お前ほどではなさそうだな。しかし、なぜそこまで僕に固執する。僕だってそう恵まれてはいないのに。 行雄:知らないさ。ただ、特別な関係の女がいないまでも、そう困らずに生きられているお前の気持ちを体感したいんだ。 啓:僕には僕の辛さがある。それでもか。そうだとしても。 行雄:だから、そんなことは知ったこっちゃない。幸いなことに、人の苦痛を他人は感じない。肉体も精神も。 啓:身勝手なやつめ。 行雄:俺は砂漠のド真ん中で、喉の乾きを癒せないまま逃げ水を追いかけている。いや、まったく水がない訳じゃない。手の届くところにもあるんだ。しかしな。飲めそうな水には毒が入っているんだ。すぐ飲もうとすると、犬のように抵抗する恐ろしい水なんだ。犬を護る砂漠の亡霊が俺を蟻地獄に投げ込もうと待ち構えているんだ。 行雄:俺にとって、女は、女という存在は、いつも眼前にあって、しかし手の届かないところにあるんだ。 行雄:道行く人々がいる、それだけで、先行欲求がうまれる。身体が訴えかけてくる。ああ俺の身体を風俗へ連れていけとな。 啓:......。 行雄:俺が気持ち悪いか。恐ろしいか。可哀想か。 啓:すまない。 行雄:謝ってくれるな! あれだろ。俺が、言い方は悪いが、どうにでもなるような女を作ればいいだけなんだろう。きっと皆、口を揃えて理想が高すぎるとでも言うんだろう。俺の自分磨きが足りないだとかも言うだろう。こういう辛気臭さがダメだと言うんだろう。それとも何か、女ともっと話せ、出会いを増やせとでも言いたいか。 啓:そこまで分かっているなら、出来そうじゃないか。見た目だって特別悪くないじゃないか。仕事もしている。金もある。僕に少しなり変わって憂さ晴らしなんかせずとも。 行雄:そう思うだろう。けれどもな、今さらその勇気の出し方は分からないさ。何か踏み出そうとも思えないさ。しかし、俺はお前に許しを乞うて、少し体験させて貰おうという勇気だけはあるんだ! 啓:負け人間め。誰が引き受けるか。 行雄:そうだろう。こう言うと、さっき一瞬感じたかもしれない情けのような気持ちを過ぎて、努力しない男に対する妙な苛立ちを感じるだろう。俺だって自分に感じないまでもない。 啓:そうやって説明して勝ったような気持ちになるのか。可哀想だと感じているのは事実だが、僕は改めて言おう。僕だって辛いことがある。 行雄:知らない。その実態も、そうさ。お前にならねば分かるまい。 啓:なら、なるか。なってみるか、この体! 僕がその鼓を叩けばいいんだな? 改めて聞こうじゃないか。その間、僕はどうなる。 行雄:意識としては残ったままのはずだ。考えや感じたことが俺に共有され、俺は俺自身の考えをもったまま、お前の感情を知り、からだを操る。 啓:そうか。いいだろう。ただ一点、僕が嫌だと思うことは避けてくれ。 行雄:いいさ。普通に過ごしていれば普通に幸せなはずだ。今の俺に比べれば!  啓:僕は僕でいるだけでいいんだな。 行雄:ああ。そうさ。 啓:叩くぞ、いいな。叩いてしまうぞ。 行雄:ああ。頼もう。さあ、さあ、さあ。 0:啓、三度叩く。 啓:どうだ。変化は? 行雄:ん、何も話しかけないでくれ。 啓:あ、ああ。 0:啓の中に行雄が入る。以下、セリフの殆んどは脳内での声。 行雄:おい、おい。 啓:なんだ。 行雄:俺はどこにいる。ここはどこだ。 啓:目に見えないのか? さっきいた駅前の、そのままだろう。 行雄:見える。見えるぞ。少ないながらも道行く人が。信号の色の点滅が......。しかし。 啓:しかしなんだ。僕に必要な世界はすべて見えている。 行雄:見えないじゃないか、どこにも。俺の姿が。鼓を持った俺のことが。 啓:そうだな。三日後には戻るのかもしれない。今は僕として生きればいいじゃないか。このあとどうなるか、今気にしたところで、少ない時間の減るのは勿体ないだろう。 啓:おっさんの見たかった、僕の頭を通して見る世界はどうだい? 行雄:肉欲は、はるかに楽になった。欲の少ないとはこれほどに楽なものなのか! すぐそこにホットパンツが際立たせる太ももが見えている。しかし、それに何も思わないとは、なんという幸福か! 手に入らないものなど見えたところでしかたあるまいに。俺は、俺は、何を無暗に追っていたのだろう。 啓:そうかい。おっさんはあれが欲しかったのかい。 行雄:そうさ、喉から手が伸びて掴み殺してしまいそうなほどに。 啓:そうかい。そうかい。 行雄:どうした。そんな浮かない気持ちになって。 啓:ううん。なんでも。 行雄:ふふっ、ははは! 他人の体に入るとはいいものだな。いまや空腹も感じない。コンビニのポスターを見てもチキンを欲しなくて済む。それに、それに! ああ。何も要らない! 啓:そうなのか。あのポスターを見ると、みんなそんな風に感じるのか。 行雄:そうだよ。少年。知らなかったのか? 啓:知らなかった。 行雄:清々しいな。何も考えを邪魔しない。 啓:ぼくは思春期だというのにな。 行雄:思春期か、俺の思春期は......。 啓:どうだった? 行雄:やる気に満ちていた。何もかも。貪欲で、片思いをするし、部活で成績を残して大学を目指そうとするし。 啓:そうか。 行雄:お前は、君は、違うのか? 啓:何もないよ。感じるだろ? 今日だって、家に帰るだけ。学校へ行って、帰って、宿題をして、それだけ。他になにがある。 行雄:お前......。 啓:何さ。何もないだろう。必要なことを済ませれば十分だろう。大人になれる。 行雄:いや、なんでもない。この体はとても楽だ。楽だが。 啓:なにさ。欲望が恋しくなったかい? 行雄:いや。そんなこと。 啓:何を無暗に生きているんだとでも思うかい。 行雄:......。 啓:身勝手なおっさんだ。 行雄:な、なあ。学校は給食か? 啓:ああ。もう食べてから随分となる。 行雄:なら、なら、腹が減るはずだよな。そうだよ。そんなときに旨いものを実際に見れば、きっと食べたくなる! そうだ! そうに違いない! 啓:食べたくないけどね。おっさんが誰よりも分かってるんじゃないの? 行雄:うるさい。黙ってろ。地下街はどっちだ。 啓:それなら五番の階段を下りて、右にいったところにある扉の先だよ。 行雄:さすがは学生、地元に明るいな。 啓:別に地元ってほど知らないけど。......ただ、僕もこうやってお腹を空かせて来てみたことがあるんだ。 行雄:は? 啓:食欲が湧くんじゃないかと思ってね。 行雄:知らない、知らない。よせよ。そんな御託を並べたって、行ってみなきゃ分かんないだろ。 啓:どうかな。 行雄:こっちの扉か? 啓:そう。百貨店に通じているからね。 行雄:よし。おっ、肉まんに、平天に、唐揚げに、惣菜の量り売りもあるぞ! 啓:見えてるよ。 行雄:う、旨そうだな! 啓:ほんとに? 行雄:もちろん! 啓:じゃあなんで買おうともしないの。財布、鞄に入ってるよ。お小遣いも貯まってるしさ。 行雄:そ、そうか。 啓:いいよ? 買っても。 行雄:......。いや、いい。 啓:どうしたの。美味しそうなんじゃないの。 行雄:やめろよ。分かってるんだろ。俺がどう感じているかも。 啓:僕は僕がどう感じているかしか知らないよ。 行雄:......。そ、そうだ。食欲がダメなら性欲だよ。思春期なんだ。きっとエスカレーターで、尻が目の前にあるだけですら! 啓:ですら? 行雄:......ダメだ。なにも。なにもない。 啓:布があって、きっとお尻があるよ。 行雄:なにもないよ。こんなの。 啓:ふうん。別に、僕の体のまんまで、揉みしだいてもいいよ。 行雄:は? 啓:いいよ。どうぞどうぞ。 行雄:そんなことできるわけないだろ。やるわけない。 啓:どうして? あんなに触りたかったのに。痴漢として逮捕されるのが僕だから? 行雄:いいや、そんなことはどうだっていい。寧ろ、言葉巧みに乗り移って、そうしようと内心思っていた。 啓:怖いね。他人って。 行雄:なんとでも言いやがれ。 啓:あー、行っちゃった。どうして触らなかったの。 行雄:意味が、ないからだ。 啓:そうだね。よくわかるよ。ああ。少しずつ暗くなってきたね。で、出て来ちゃったけど、これからどうする? 行雄:どうって、どうにも。わかんねえよ。 啓:ほら。見て。犬が歩いてきたよ。 行雄:そうだな。 啓:どう? 行雄:どうって、何が。 啓:逃げないの? 行雄:......逃げない。 啓:どうしてさ。 行雄:......殴れば、蹴れば、それで済むからだ。法なんてもの別に恐れる気すらない。お前には、今の俺には、なんの欲もない。なんだよこれ。 啓:つらいだろ。 行雄:......つらい。 啓:ほら、帰るよ。階段を降りて。 行雄:ああ。 啓:ほら、改札を通って。 行雄:ああ。ああ! ああ嫌だ! なんにもない! なにも! 啓:けれど誰の迷惑にもならず、僕はここまで生きてきたよ。 行雄:大迷惑だ! なあ、お前は帰ったら何をする。 啓:夕飯、宿題、就寝。 行雄:起きたら、どうだ。 啓:トイレ、歯磨き、ご飯、登校。 行雄:が、学校では。 啓:いちいち言わなくても分かってるんでしょ。ほら、三日間がんばれー。 行雄:嫌だ! やめてくれ。 啓:何をやめるのさ。人生くらいしかないんじゃないのか。欲なんてないさ。おっさんはこれを望んでいたんだろ。うってつけだと思ったよ。人の痛みを知らないって言うのはいいものだなって。良い機会だなって。 行雄:なにもない。ない。ポニーテール、ミニワンピ、なにもない。俺の心をあれだけ揺さぶったものが何一つない。終わらしてくれ。頼む。 啓:知らないよ。終らし方なんて。魔法使いには聞いていないのかい? 行雄:聞かなかった。けれど、きっと、きっと、お前の人生が終われば抜けられるんじゃないか! そうだ。それしかない。きっとそうだ。 啓:どうする気? 行雄:飛び込むんだよ。止めたって無駄だ。俺はもう決めた。俺はお前の空虚な人生を終わらせることに決めた。止めてくれるなよ! 啓:わかってるくせに。とめるわけないじゃん。 行雄:やめろ。やめろ。それもやめてくれ。気が滅入る。 啓:おっさんのすることで、僕が止めることなんてひとつもなかったね。満足した? 行雄:満足どころか、器がなけりゃ水は溜めれないんだよ......くそ。......いくぞ。よし。電車が来た。もう、もうすぐ。もうすぐ......。 啓:今だ!  :  噂話:地下鉄のホームから飛び込み自殺が起きたらしい。何の関わりもなさそうな男子高校生と、フリーターの男。どちらかによる無理心中かとも思われたが、防犯カメラによると、どちらが引っ張るでもなく、同時に飛び込みをおこなったらしい。 噂話:そして、奇妙なことに、その場にいた全員が、なにやら太鼓を叩くような大きい音を三回聞いたそうだ。

行雄:な、なあ! 頼む! この鼓を、三回だけでいいから打ってくれないか。 啓:はい? 行雄:この鼓を、少し鳴らしてくれるだけでいいんだ。 啓:......。 行雄:おいおいおい、無視しないでくれよ。学生さん。俺を見てくれ、な? 啓:はぁ......。どうして僕に頼むんですか。知り合いにでも頼めばいいじゃないですか。 行雄:待ってくれよ。いいじゃないか相手が誰かくらい。そうだ! 聞いてくれ! これは魔法の鼓なんだ。 啓:......魔法? 行雄:どうだ。興味が出てきたか。 啓:すこし。 行雄:なら叩いてくれるか? 啓:いやだ。なんで僕がわけのわからないものに触れなくちゃいけないのさ。胡散臭いよ。 行雄:なんだとお前。おい、いいから聞け。魔法の説明をしてやる。 啓:いや、もう電車来るし......。 行雄:電車なんて幾らでもあるだろう? な? な? お前よ。この不思議な鼓、気にならないか? 啓:気にはなるけど。そもそもおっさんは、なんなの。 行雄:俺? 別にどうだって魔法には関係ないが。俺は行雄。三十二歳独身。免許証見るか? 啓:いやいいよ。面倒臭い。 行雄:なんだお前、さっきから胡散臭いだの面倒臭いだの。そんなに俺は臭いか! 啓:少しね。 行雄:悪かったな。昼にラーメン行ったからよ。 啓:で? 仕事は? だいの大人が夕方に高校生捕まえてなにしてんのさ? フリーター? 行雄:フリーターだよ。悪いか。誰にも迷惑かけてないだろうが。 啓:あっそ。僕は少し迷惑に思ってるんだけど。 行雄:フリーターであることが迷惑な訳じゃないだろっつってんだ。大人をからかうな。 啓:そうだね。で? 他にできる自己ピーアールは? 行雄:ああくそ。お前はなんでそう上からなんだよ。 啓:鼓叩いてほしいんでしょ。ほら、はやく。 行雄:そりゃあそうだけどよ。嫌いな動物は犬で、好きな食べ物は、んー、照り焼きバーガー。特技は、もう十年近くしてないけど、けん玉。こんなもんか? 啓:ふうん。 行雄:お前が聞いたんだからな? 啓:犬、怖いの? 行雄:......そうだよ。なんか迷惑かけてるか。 啓:いや。別に。ただ、体格のわりに怖がりなのかと思ったら面白いなって。 行雄:はいはい。そうだな、そうですね。で、鼓は叩いてくれるのか? 啓:いや、叩くわけないじゃん。 行雄:なんでだよおい! 教え損か、こっちは? ああくそ、もう時間がねえってのに! 啓:時間? 行雄:あの夕陽が見えなくなったら、魔法は使えなくなるんだよ! 啓:へぇ、そうなんだ。で? 魔法ってどんなの。もう使ったことあるの? 行雄:使ったことは、ない。 啓:じゃあなんでそれが魔法の鼓だって言えるのさ。 行雄:まあ聞け、小僧。関心がわいてきたな? この鼓が魔法の鼓だって理由は、これをくれた人が魔法使いだったからだ。 啓:あほくさ。おっさん騙されてんじゃないの。いくら出したの。 行雄:いや、騙されてるわけない。良い魔法使いさ。ほら、シンデレラの前にだって現れただろ? そんなのが。それに金だって払ってないさ。なにしろ俺を哀れんで、無料でくれたんだから。 啓:ふうん。 行雄:信じてないな? 啓:もちろん。いや、インチキ臭すぎる。仮に魔法が本当だったとして、何も払わないでもくれたっていうのが気持ち悪い。 行雄:お前だって目の前で見てりゃあなあ? そうだ、この鼓を叩いてみろよ! 三回! 叩けば分かるからさ? 啓:そんな見え透いた手くわないよ。 行雄:ええいくそ。信じてないんだろ? じゃあいいじゃないか。 啓:万が一だよ。何か触れちゃヤバいものが付いてたりしたら最悪だし。僕は今までの時間で、おっさんの人となりを少し分かってきただけ。だから信じてもないけど、同時に信用もしてない。 行雄:そうか。そうかよ。 啓:でも、魔法があるにしろないにしろ、興味は湧いた。聞かせてご覧よ。内容によっては叩きたくなるかもしれないしさ。 行雄:おう。それもそうか。この魔法の鼓を持った状態で他人に叩いて貰うとだな。叩かれた回数分に応じて、叩いた人の中に取り入ることができる。一回につき一日だって魔法使いさんは言ってたな。 啓:ふうん。つまりお前はずっと僕の承諾なしに三日間、身体を乗っ取ろうとしてたのか。 行雄:いや、乗っとるとは言っても、お前の意識だってキチンとあるし、感じることもお前の感覚として俺に伝わる。だから、お前のひとつの身体の中に俺の意識が居候するような感じだ。 啓:身体の操作の権利は? 行雄:一応、俺だ。 啓:犬が来たら逃げるんだ。僕の体で。 行雄:は? ああ。俺が犬を嫌いだと言ったんだったな。犬が怖いとも言ったか。 啓:殴ったり蹴ったりすれば勝てるじゃん。 行雄:そうだな。はは、それが出来りゃあ俺だって怖かないさ。体力で言えば、それほど怖くはない。子犬なんかは蹴飛ばしてしまえばいい。 行雄:だがな......俺が恐れるものは、犬を守る飼い主だ。犬を悪くない生き物として過ごす崇拝者だ。犬が人を噛んだって、誰が彼を裁けよう。人が犬を噛めば誰もが俺を裁きたがるだろう。 そして本当に嫌いなのは、そこから始まる、法に縛られて強く抵抗をできそうにない気の持ち具合だ。 啓:そっか。ふーん。少し納得した。だとしたら、僕も犬が少し苦手かもしれない。で、肝心なのは、こんな気持ちだとか考えのコミュニケーションは、乗っ取られているときでも出来るの? 行雄:たぶん、できる、はずだ。 啓:なら少し安心した。 行雄:そうか。じゃ、叩いてくれ。 啓:え、嫌だよ。 行雄:は? 啓:いや、なんで入りたいのさ。僕は別に乗っ取られるのは実際そんなに嫌じゃないのさ。でも、その理由くらいは知りたい。 行雄:良いだろう。教えてやる。俺はよく自制して生きている方だと感じる。 啓:何をさ。 行雄:こうっ、むらむらっとくる感情をだよ。 啓:なんでちょっと濁して言うのさ。気持ち悪い。性欲なんだろ。 行雄:そうだけどよ。一応、道端なわけだしさ。 啓:ふぅん。......皆そうなんじゃない? 何かしら欲望を制御して生きている。 行雄:そうだな。そうだよ。でも、なんとなく不平等すぎないか? これって。な? どれくらいそう強く感じるかだよ。俺だって、プリンを買うのを我慢したくらいじゃ、わざわざ自制した! とは言わないぜ。ただなぁ、なんていうか。俺だって幸せに暮らしたいさ。 啓:何が言いたい。 行雄:隣の芝はいつも青いよな。悩みなんかひとつもなしに生きていけたらどれだけいいか。俺はお前になりたいさ。ほんの一日だけでいいから。もしなれたら。なんてな。 啓:なれたらどうするつもりだ。僕の身体で放蕩の限りを尽くそうとでも言うのか。 行雄:はぁ。人の体で悪さをするようなやつには、魔法使いだって素敵なものはくれないさ。 啓:じゃあ何を。 行雄:俺はさ。自分の欲望を束の間だけ忘れてみたいんだよ。だから変なことをする気なんぞ、さらさらない。俺は、お前として過ごしたいんだよ。平然と、怪しまれないような範囲で。 啓:それが何になる。お前が求めるような官能的魅力に恵まれた女なぞは僕の周りにはいないぞ。 行雄:だとしてもさ。さっきから言ってるだろ?少なくともお前は性欲という意味では何も不足していないと感じられているんだろう。 啓:お前ほどではなさそうだな。しかし、なぜそこまで僕に固執する。僕だってそう恵まれてはいないのに。 行雄:知らないさ。ただ、特別な関係の女がいないまでも、そう困らずに生きられているお前の気持ちを体感したいんだ。 啓:僕には僕の辛さがある。それでもか。そうだとしても。 行雄:だから、そんなことは知ったこっちゃない。幸いなことに、人の苦痛を他人は感じない。肉体も精神も。 啓:身勝手なやつめ。 行雄:俺は砂漠のド真ん中で、喉の乾きを癒せないまま逃げ水を追いかけている。いや、まったく水がない訳じゃない。手の届くところにもあるんだ。しかしな。飲めそうな水には毒が入っているんだ。すぐ飲もうとすると、犬のように抵抗する恐ろしい水なんだ。犬を護る砂漠の亡霊が俺を蟻地獄に投げ込もうと待ち構えているんだ。 行雄:俺にとって、女は、女という存在は、いつも眼前にあって、しかし手の届かないところにあるんだ。 行雄:道行く人々がいる、それだけで、先行欲求がうまれる。身体が訴えかけてくる。ああ俺の身体を風俗へ連れていけとな。 啓:......。 行雄:俺が気持ち悪いか。恐ろしいか。可哀想か。 啓:すまない。 行雄:謝ってくれるな! あれだろ。俺が、言い方は悪いが、どうにでもなるような女を作ればいいだけなんだろう。きっと皆、口を揃えて理想が高すぎるとでも言うんだろう。俺の自分磨きが足りないだとかも言うだろう。こういう辛気臭さがダメだと言うんだろう。それとも何か、女ともっと話せ、出会いを増やせとでも言いたいか。 啓:そこまで分かっているなら、出来そうじゃないか。見た目だって特別悪くないじゃないか。仕事もしている。金もある。僕に少しなり変わって憂さ晴らしなんかせずとも。 行雄:そう思うだろう。けれどもな、今さらその勇気の出し方は分からないさ。何か踏み出そうとも思えないさ。しかし、俺はお前に許しを乞うて、少し体験させて貰おうという勇気だけはあるんだ! 啓:負け人間め。誰が引き受けるか。 行雄:そうだろう。こう言うと、さっき一瞬感じたかもしれない情けのような気持ちを過ぎて、努力しない男に対する妙な苛立ちを感じるだろう。俺だって自分に感じないまでもない。 啓:そうやって説明して勝ったような気持ちになるのか。可哀想だと感じているのは事実だが、僕は改めて言おう。僕だって辛いことがある。 行雄:知らない。その実態も、そうさ。お前にならねば分かるまい。 啓:なら、なるか。なってみるか、この体! 僕がその鼓を叩けばいいんだな? 改めて聞こうじゃないか。その間、僕はどうなる。 行雄:意識としては残ったままのはずだ。考えや感じたことが俺に共有され、俺は俺自身の考えをもったまま、お前の感情を知り、からだを操る。 啓:そうか。いいだろう。ただ一点、僕が嫌だと思うことは避けてくれ。 行雄:いいさ。普通に過ごしていれば普通に幸せなはずだ。今の俺に比べれば!  啓:僕は僕でいるだけでいいんだな。 行雄:ああ。そうさ。 啓:叩くぞ、いいな。叩いてしまうぞ。 行雄:ああ。頼もう。さあ、さあ、さあ。 0:啓、三度叩く。 啓:どうだ。変化は? 行雄:ん、何も話しかけないでくれ。 啓:あ、ああ。 0:啓の中に行雄が入る。以下、セリフの殆んどは脳内での声。 行雄:おい、おい。 啓:なんだ。 行雄:俺はどこにいる。ここはどこだ。 啓:目に見えないのか? さっきいた駅前の、そのままだろう。 行雄:見える。見えるぞ。少ないながらも道行く人が。信号の色の点滅が......。しかし。 啓:しかしなんだ。僕に必要な世界はすべて見えている。 行雄:見えないじゃないか、どこにも。俺の姿が。鼓を持った俺のことが。 啓:そうだな。三日後には戻るのかもしれない。今は僕として生きればいいじゃないか。このあとどうなるか、今気にしたところで、少ない時間の減るのは勿体ないだろう。 啓:おっさんの見たかった、僕の頭を通して見る世界はどうだい? 行雄:肉欲は、はるかに楽になった。欲の少ないとはこれほどに楽なものなのか! すぐそこにホットパンツが際立たせる太ももが見えている。しかし、それに何も思わないとは、なんという幸福か! 手に入らないものなど見えたところでしかたあるまいに。俺は、俺は、何を無暗に追っていたのだろう。 啓:そうかい。おっさんはあれが欲しかったのかい。 行雄:そうさ、喉から手が伸びて掴み殺してしまいそうなほどに。 啓:そうかい。そうかい。 行雄:どうした。そんな浮かない気持ちになって。 啓:ううん。なんでも。 行雄:ふふっ、ははは! 他人の体に入るとはいいものだな。いまや空腹も感じない。コンビニのポスターを見てもチキンを欲しなくて済む。それに、それに! ああ。何も要らない! 啓:そうなのか。あのポスターを見ると、みんなそんな風に感じるのか。 行雄:そうだよ。少年。知らなかったのか? 啓:知らなかった。 行雄:清々しいな。何も考えを邪魔しない。 啓:ぼくは思春期だというのにな。 行雄:思春期か、俺の思春期は......。 啓:どうだった? 行雄:やる気に満ちていた。何もかも。貪欲で、片思いをするし、部活で成績を残して大学を目指そうとするし。 啓:そうか。 行雄:お前は、君は、違うのか? 啓:何もないよ。感じるだろ? 今日だって、家に帰るだけ。学校へ行って、帰って、宿題をして、それだけ。他になにがある。 行雄:お前......。 啓:何さ。何もないだろう。必要なことを済ませれば十分だろう。大人になれる。 行雄:いや、なんでもない。この体はとても楽だ。楽だが。 啓:なにさ。欲望が恋しくなったかい? 行雄:いや。そんなこと。 啓:何を無暗に生きているんだとでも思うかい。 行雄:......。 啓:身勝手なおっさんだ。 行雄:な、なあ。学校は給食か? 啓:ああ。もう食べてから随分となる。 行雄:なら、なら、腹が減るはずだよな。そうだよ。そんなときに旨いものを実際に見れば、きっと食べたくなる! そうだ! そうに違いない! 啓:食べたくないけどね。おっさんが誰よりも分かってるんじゃないの? 行雄:うるさい。黙ってろ。地下街はどっちだ。 啓:それなら五番の階段を下りて、右にいったところにある扉の先だよ。 行雄:さすがは学生、地元に明るいな。 啓:別に地元ってほど知らないけど。......ただ、僕もこうやってお腹を空かせて来てみたことがあるんだ。 行雄:は? 啓:食欲が湧くんじゃないかと思ってね。 行雄:知らない、知らない。よせよ。そんな御託を並べたって、行ってみなきゃ分かんないだろ。 啓:どうかな。 行雄:こっちの扉か? 啓:そう。百貨店に通じているからね。 行雄:よし。おっ、肉まんに、平天に、唐揚げに、惣菜の量り売りもあるぞ! 啓:見えてるよ。 行雄:う、旨そうだな! 啓:ほんとに? 行雄:もちろん! 啓:じゃあなんで買おうともしないの。財布、鞄に入ってるよ。お小遣いも貯まってるしさ。 行雄:そ、そうか。 啓:いいよ? 買っても。 行雄:......。いや、いい。 啓:どうしたの。美味しそうなんじゃないの。 行雄:やめろよ。分かってるんだろ。俺がどう感じているかも。 啓:僕は僕がどう感じているかしか知らないよ。 行雄:......。そ、そうだ。食欲がダメなら性欲だよ。思春期なんだ。きっとエスカレーターで、尻が目の前にあるだけですら! 啓:ですら? 行雄:......ダメだ。なにも。なにもない。 啓:布があって、きっとお尻があるよ。 行雄:なにもないよ。こんなの。 啓:ふうん。別に、僕の体のまんまで、揉みしだいてもいいよ。 行雄:は? 啓:いいよ。どうぞどうぞ。 行雄:そんなことできるわけないだろ。やるわけない。 啓:どうして? あんなに触りたかったのに。痴漢として逮捕されるのが僕だから? 行雄:いいや、そんなことはどうだっていい。寧ろ、言葉巧みに乗り移って、そうしようと内心思っていた。 啓:怖いね。他人って。 行雄:なんとでも言いやがれ。 啓:あー、行っちゃった。どうして触らなかったの。 行雄:意味が、ないからだ。 啓:そうだね。よくわかるよ。ああ。少しずつ暗くなってきたね。で、出て来ちゃったけど、これからどうする? 行雄:どうって、どうにも。わかんねえよ。 啓:ほら。見て。犬が歩いてきたよ。 行雄:そうだな。 啓:どう? 行雄:どうって、何が。 啓:逃げないの? 行雄:......逃げない。 啓:どうしてさ。 行雄:......殴れば、蹴れば、それで済むからだ。法なんてもの別に恐れる気すらない。お前には、今の俺には、なんの欲もない。なんだよこれ。 啓:つらいだろ。 行雄:......つらい。 啓:ほら、帰るよ。階段を降りて。 行雄:ああ。 啓:ほら、改札を通って。 行雄:ああ。ああ! ああ嫌だ! なんにもない! なにも! 啓:けれど誰の迷惑にもならず、僕はここまで生きてきたよ。 行雄:大迷惑だ! なあ、お前は帰ったら何をする。 啓:夕飯、宿題、就寝。 行雄:起きたら、どうだ。 啓:トイレ、歯磨き、ご飯、登校。 行雄:が、学校では。 啓:いちいち言わなくても分かってるんでしょ。ほら、三日間がんばれー。 行雄:嫌だ! やめてくれ。 啓:何をやめるのさ。人生くらいしかないんじゃないのか。欲なんてないさ。おっさんはこれを望んでいたんだろ。うってつけだと思ったよ。人の痛みを知らないって言うのはいいものだなって。良い機会だなって。 行雄:なにもない。ない。ポニーテール、ミニワンピ、なにもない。俺の心をあれだけ揺さぶったものが何一つない。終わらしてくれ。頼む。 啓:知らないよ。終らし方なんて。魔法使いには聞いていないのかい? 行雄:聞かなかった。けれど、きっと、きっと、お前の人生が終われば抜けられるんじゃないか! そうだ。それしかない。きっとそうだ。 啓:どうする気? 行雄:飛び込むんだよ。止めたって無駄だ。俺はもう決めた。俺はお前の空虚な人生を終わらせることに決めた。止めてくれるなよ! 啓:わかってるくせに。とめるわけないじゃん。 行雄:やめろ。やめろ。それもやめてくれ。気が滅入る。 啓:おっさんのすることで、僕が止めることなんてひとつもなかったね。満足した? 行雄:満足どころか、器がなけりゃ水は溜めれないんだよ......くそ。......いくぞ。よし。電車が来た。もう、もうすぐ。もうすぐ......。 啓:今だ!  :  噂話:地下鉄のホームから飛び込み自殺が起きたらしい。何の関わりもなさそうな男子高校生と、フリーターの男。どちらかによる無理心中かとも思われたが、防犯カメラによると、どちらが引っ張るでもなく、同時に飛び込みをおこなったらしい。 噂話:そして、奇妙なことに、その場にいた全員が、なにやら太鼓を叩くような大きい音を三回聞いたそうだ。