台本概要

 1144 views 

タイトル あかきゆめみし
作者名 まりおん  (@marion2009)
ジャンル ラブストーリー
演者人数 4人用台本(男2、女2)
時間 90 分
台本使用規定 台本説明欄参照
説明 わたしに実害が無い範囲で、有料無料に関わらず全て自由にお使いください。
過度のアドリブ、内容や性別、役名の改編も好きにしてください。
わたしへの連絡や、作者名の表記なども特に必要ありません。

 1144 views 

キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
彩音 181 吉岡彩音(よしおかあやね)旧姓「藤田彩音」藤田屋の一人娘。
晴彦 185 吉岡晴彦(よしおかはるひこ)彩音の夫。吉岡屋の一人息子。
弥太郎 175 藤田弥太郎(ふじたやたろう)彩音の前の夫。
美代 184 美代(みよ)女中。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

文字サイズ
0:『あかきゆめみし』 0: 0:ーーあらすじーー 0:大恋愛の末結婚した彩音と弥太郎だったが、弥太郎は戦争で消息不明となってしまう。 0:弥太郎は死んでしまったと思い、二年後彩音は晴彦と再婚するが、ある日弥太郎が帰ってくる。 0: 0: 彩音:吉岡彩音(よしおかあやね)旧姓「藤田彩音」藤田屋の一人娘。 晴彦:吉岡晴彦(よしおかはるひこ)彩音の夫。吉岡屋の一人息子。 弥太郎:藤田弥太郎(ふじたやたろう)彩音の前の夫。 美代:美代(みよ)女中。 0: 0: 0: 0: 0: 0: 美代:あかくあかく、全てが赤く染まっていく中、私はあの日のことを思い出していました。 美代:旦那さまと見た、あの赤いケイトウの花のことを・・・。 0: 美代:どうしてこのような事になってしまったのか・・・。 美代:事の経緯を説明するには、初めからお話する必要があるでしょう。 美代: 美代:私は貧しい農家の次女として生まれ、尋常(じんじょう)小学校を卒業するとすぐ藤田屋に奉公に出されました。 美代:当時まだ女学生だった奥様は、私のことをたいそう可愛がってくださり、私も本当の姉のように懐いておりました。 美代: 美代:私が奉公に来て五年目、奥様は大恋愛の末に弥太郎さまとご結婚され、弥太郎さまは婿(むこ)として藤田の家に入りました。 美代:奥様と弥太郎さまは大変仲睦まじく、ご近所でも評判のおしどり夫婦でした。 美代:お二人の周りからは笑顔が絶える事はありませんでした。 美代: 美代:ですが、幸せそうなお二人とは反対に、世は戦争への気運が高まり、不穏な空気へと変わっていったのです。 美代:そして、この国が戦争を始めて半年ほど経ったある日、その知らせは届きました。 0: 彩音:「弥太郎さん、見てください。これ。立石(たていし)の奥様から頂きましたの。美しいでしょう?こちら群馬の桐生織(きりゅうおり)ですって。本当に素敵ですよね。これほどのものは今なかなか手に入りませんわ。 彩音:・・・それで、どうやら奥様のおうちの方では、今なかなかお米が手に入らないそうで。ほら、奥様のおうちには二人もお子様がいらっしゃるでしょう?ですから、少しお分けして差しあげたいのだけれどよろしいかしら?・・・弥太郎さん?」 弥太郎:「・・・・・・。」 彩音:「弥太郎さん、どうかしました?・・・っ!弥太郎さん、まさか、それ・・・。」 弥太郎:「ああ・・・、召集令状だ。」 彩音:「そんな、本当ですか?」 弥太郎:「うむ・・・。戦況が思わしくないことは聞いていたが、まさかこんなに早く赤紙が届くとはな。」 彩音:「あぁ、どうしましょう。なんとかならないかしら・・・。そうだ。お父様に言って、上の方(かた)にお願いしてもらってはいかがでしょう?」 弥太郎:「いや、それは難しいだろう。お義父上(ちちうえ)のことだ。すでに官憲(かんけん)に話は通してあると思う。その上で届いた赤紙だ。どうしようもない。」 彩音:「そんな・・・。」 弥太郎:「とにかく俺は、このことをお義父上に話してくる。」 彩音:「あぁ、どうしてこんなことに・・・。」 弥太郎:「戦時中だ。招集は避けては通れぬ。」 彩音:「そうですが、もし弥太郎さんの身に何かあれば、私は・・・。」 弥太郎:「そう心配するな。きっとこの戦争は長くはない。俺が訓練を終え戦地に向かう頃には終わっているかもしれない。」 彩音:「でも・・・。」 弥太郎:「大丈夫だ。だから、そう悲しい顔をしないでくれ。」 彩音:「・・・弥太郎さん。どうか無事に帰ってきてください。」 弥太郎:「ああ。必ず、必ず無事に帰ってくる。だから・・・、きっと待っていてくれ。」 彩音:「はい・・・。」 0: 美代:そうして弥太郎さまは兵役につかれました。 美代: 美代:弥太郎さまがおっしゃったように、その戦争は長くは続きませんでした。 美代:次の年には休戦条約が結ばれ、冬から春にかけて多くの兵士が戻ってきました。 美代:ですが、その中に弥太郎さまのお姿はありませんでした。 美代:奥様は様々な伝手(つて)を使って消息を訪ねて回りましたが、弥太郎さまの行方はわからぬままでした。 美代: 美代:そうして二年が経った頃、大旦那様は奥様を説得して新たに今の旦那様、吉岡晴彦さまへと嫁がせたのです。 美代:これは、元々縁のあった吉岡屋と藤田屋を一つにすることで、戦争によって疲弊した両家を復興しようとする、そういう意味合いがありました。 美代:そして、お二人が結婚して三年が過ぎました。 0: 0:ーー吉岡邸ーー 晴彦:「はい。」 美代:「美代でございます。お食事をお持ちいたしました。」 晴彦:「どうぞ。」 美代:「失礼いたします。おはようございます、旦那さま。」 晴彦:「おはようございます。いつもすみません。わざわざ部屋まで運んでいただいて。」 美代:「いえ。これくらい手間ではありませんから。・・・また徹夜なさったんですか?」 晴彦:「え?いえ、今日は寝ましたよ。少し。」 美代:「(溜息) 旦那さま、もう少しご自愛ください。奥様も心配されてましたよ。」 晴彦:「いや、まあ、このくらい大丈夫ですよ。」 美代:「またそういうことをおっしゃって・・・。」 彩音:「晴彦さま、彩音です。少しよろしいですか?」 晴彦:「はい、どうぞ。」 彩音:「失礼いたします。あら、美代もいたの。」 美代:「お食事をお持ちしていました。」 彩音:「そうだったのね。」 美代:「奥様、聞いてください。旦那さまったら、またほとんど寝ずにお仕事していらしたみたいですよ。」 晴彦:「ちょっと、美代さん。」 彩音:「晴彦さま、本当ですか?」 晴彦:「いや、その、どうしてもやっておかないといけない仕事がありまして・・・。」 彩音:「あれほどご自愛くださいと何度も言っていますのに。」 美代:「本当です。」 彩音:「私の言葉では晴彦さまのお心に響かないのですね・・・。」 美代:「ああ、可愛そうな奥様・・・。」 晴彦:「もう、そうやって二人して私をいじめないでください。」 彩音:「あら、いじめてなんていません。ご自愛くださいと申してるだけです。」 美代:「そうですよ。何度言ってもご自愛くださらないんですから。」 晴彦:「わかりました。気を付けます。本当に気を付けますから、もう勘弁してください。」 美代:「だそうですよ、奥様。」 彩音:「では、この辺りで許してあげましょうか。」 美代:「そうですね。」 彩音:「でも本当に、どうぞご自愛くださいね。」 晴彦:「はい。わかりました。」 美代:「では旦那さま、こちら食後に飲むお薬ですので。お忘れなく。」 晴彦:「はい。どうもありがとう。」 美代:「奥様のお食事ももうご用意できますので。」 彩音:「ええ、ありがとう。少ししたら行くわ。」 美代:「はい。では、失礼いたします。」 晴彦:「・・・それで、どうかしました?」 彩音:「あ、いえ、大したお話ではないのですが、お父様に『今日実家のほうへ来られるか』と尋ねられまして。」 晴彦:「お父上に?」 彩音:「はい。それで、少し実家に顔を出そうと思います。」 晴彦:「そうですか。それでは気を付けていってらっしゃい。」 彩音:「すみません。急に家を空けることになってしまって。」 晴彦:「構いませんよ。彩音さんは自由にしてください。ついでに銀座に寄って、気晴らしに何か買い物でもしてくるといいですよ。」 彩音:「そんな、いけません。晴彦さまが寝食も惜しんでお仕事されてるというのに。」 晴彦:「また私をいじめるつもりですか?」 彩音:「本当に心配しているのです。」 晴彦:「そうでしたか。ですが、私が寝る間も惜しんで働くのは、彩音さんを幸せにしたいからです。ですから、そのせいで彩音さんが窮屈な思いをするのでは本末転倒というものですよ。」 彩音:「私はもう十分に幸せです。」 晴彦:「本当ですか?」 彩音:「本当ですとも。」 晴彦:「そうだといいんですけど。」 彩音:「あら、信じてくださらないのですか?」 晴彦:「そういうわけではないのですが・・・。」 彩音:「晴彦さま・・・。どうか自信をお持ちになってください。 彩音:私は、晴彦さまとこうして一緒にいられるだけで本当に幸せなのですから。」 晴彦:「彩音さん・・・。ありがとうございます。」 彩音:「ありがたいのは私のほうです。むしろ、晴彦さまのほうが心配です。私のせいで不幸せなのではと思って。」 晴彦:「私はとても幸せですよ。」 彩音:「本当ですか?」 晴彦:「はい。」 彩音:「でも、私ばかり色々として頂いて・・・。」 晴彦:「それは違います。私は自分のしたい事をしているのです。彩音さんを笑顔にするのが私の喜びなのですよ。」 彩音:「ですから、もう十分に幸せです。」 晴彦:「もっともっと幸せにしたいのです。」 彩音:「・・・晴彦さまは欲張りです。」 晴彦:「はい。そうですね。」 彩音:「むぅ。」 晴彦:「口を尖らせた姿も可愛らしいです。」 彩音:「もう、知りません。どうぞ、冷める前にお食事をお召し上がりください。」 晴彦:「はは、わかりました。そうします。」 彩音:「それでは、お昼前には家を出ますね。」 晴彦:「わかりました。気を付けて。」 彩音:「はい。では、失礼いたします。」 0: 0:ーー車中ーー 美代:「本当に旦那さまには困ったものです。」 彩音:「まだ言っているの?」 美代:「だって、奥様がこんなに心配してるのに、全然お休みにならないんですもの。」 彩音:「あの方は、いつもご自分を後回しになさってしまうものね。」 美代:「本当です。心配する奥様の身にもなって欲しいです。」 彩音:「まあ。美代はいったい私と旦那さまと、どちらを心配してるのかしら。」 美代:「お二人ともです。」 彩音:「ふふ、それはありがとう。」 美代:「いえ。」 彩音:「でもね、私は美代のことも心配してるのよ?」 美代:「私ですか?」 彩音:「ええ。ほら、私のせいで、美代は婚期を逃してしまったから・・・。」 美代:「いえ、それは奥様のせいではありません。私がお側にいたかったのです。」 彩音:「ありがとう。でもね、それでもあの頃、美代がいてくれなければ、私はきっと耐えられなかったと思うの。」 美代:「奥様・・・。」 彩音:「だからね、私は美代にも、早くいい人と一緒になって幸せになってもらいたいの。」 美代:「そんな・・・。私は、一生奥様と旦那さまにお仕えしたいです。お嫁になんか行かなくていいです。」 彩音:「でも・・・。」 美代:「奥様。」 彩音:「・・・わかったわ。そういうことにしておきましょう。でも、もしこの先誰かいい人が現れたら、私に教えてちょうだいね。」 美代:「そんな人は現れません。」 彩音:「そうかしら?私はきっと出会うと思うわ。だって、美代はこんなにも可愛らしいのだから。」 美代:「奥様ぁ。」 彩音:「ふふっ。」 0: 0:ーー藤田邸ーー 彩音:「それじゃあ美代、私はお父さまに会ってきますから、少し待っていて。」 美代:「はい。では私はお妙(たえ)さんたちに挨拶してきます。」 彩音:「ええ。それじゃあ。」 美代:十二の頃から奉公している藤田邸は、久しぶりに来ると懐かしく思われます。 美代:女中仲間に挨拶をしようと奥ヘ進むと、客間にどなたか人のいる気配を感じました。 美代:大旦那さまは奥様といらっしゃるはずですし、いったいどなたがいらっしゃっているのだろうと疑問に思っていると、目の前の扉が開き、思いもかけない方のお姿が現れたのです。 弥太郎:「美代。美代か?」 美代:「え?あの、もしかして・・・、弥太郎さま?」 弥太郎:「そうだ。弥太郎だ。やはり美代だな。彩音は?彩音はどこだ?」 美代:「え?奥様ですか?」 弥太郎:「そうだ。お前を連れて湯治(とうじ)に行っていたと聞いている。お前が戻ったということは、彩音も一緒なのだろう?」 美代:「そ、それは、・・・大旦那様がそうおっしゃったのですか?」 弥太郎:「そうだ。で、彩音はどこだ?」 美代:「それが、その・・・、奥様は調子が戻らず、滞在が長くなりそうでしたので、私は一度荷物を取りに戻ったのです。」 弥太郎:「なに?そんなに良くないのか?彩音は無事なのだろうな?」 美代:「はい。お医者様がおっしゃるには、大事に至る病ではないとのことです。」 弥太郎:「そうか・・・。それで、彩音は今もその湯治場にいるのだな?」 美代:「はい。」 弥太郎:「では、俺もそこへ連れて行ってくれ。」 美代:「え。」 弥太郎:「実は長い間戦争捕虜として捕まっていてな。なんとか生きて労役を終え、昨日やっと帰ってこれたのだ。それなのに、彩音は家におらんし、お義父上はこの家で彩音の帰りを待てというのだ。」 美代:「そう、だったのですね・・・。」 弥太郎:「だが俺は、今すぐにでも彩音に会いたい。な、美代。俺をその湯治場へ連れて行ってくれ。」 美代:「でも・・・。」 弥太郎:「頼む。」 美代:「・・・大旦那様のご判断ですから、私ごときが勝手をするわけにはまいりません。申し訳ありません。」 弥太郎:「・・・そうか。そうだな。無理を言った。すまない。」 美代:「いえ。こちらこそお力になれず申し訳ありません・・・。」 弥太郎:「・・・それで、彩音は元気にしていたか?」 美代:「はい?」 弥太郎:「ああ、いや、湯治に行っているのだから、身体の調子が良くないのはわかっている。だが、俺のいない間、不自由はしていなかっただろうか。ずいぶん寂しい思いをさせてしまったからな。」 美代:「そう・・・ですね。」 弥太郎:「三月(みつき)に一度手紙を送れたので書いたのだが届いていたか?あいにく返事が来なかったので、届いているのか不安でしょうがなかったのだ。」 美代:「手紙を・・・、お書きになっていたのですか?」 弥太郎:「ああ。二十通は書いた。俺は無事だと。必ず生きて戻ると。」 美代:「・・・・・・。」 弥太郎:「・・・その様子だと、届いてはいなかったようだな。」 美代:「はい・・・。」 弥太郎:「そうか・・・。それはさぞ心配であったろう。すまなかった。だが、こうして無事に戻った。そのことを早く彩音に知らせたい。 弥太郎:そうだ。美代はまた彩音のところへ戻るのだろう?なら、手紙を届けて欲しい。すぐに書くので待っていてくれ。」 彩音:「弥太郎さん!] 弥太郎:「彩音!?彩音か?」 彩音:「はい。私です。彩音です。」 弥太郎:「彩音!・・・彩音、今、戻った。」 彩音:「弥太郎さん・・・。あぁ、こんなにお痩せになって・・・。」 弥太郎:「心配をかけた。遅くなって、すまぬ・・・。」 彩音:「いえ、無事にお帰りくださっただけで充分です・・・。お帰りなさい・・・、弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「彩音・・・。」 美代:「・・・・・・奥様、その・・・。」 弥太郎:「そうだ。彩音、身体はもういいのか?」 彩音:「身体?」 弥太郎:「湯治に行っていたのだろう?調子が良くないから長く留まることになったと聞いた。」 彩音:「あ、ええ、その、そうなんですけど・・・、弥太郎さんが戻っていらっしゃったと聞いて、いてもたってもいられず帰ってきました。」 弥太郎:「そうか。ありがとう、彩音。とても嬉しい。だが、無理はしてくれるな。お前の身体が一番大事だからな。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「これからは俺がいる。お前のことを守ってやれる。だから、安心しろ。」 彩音:「・・・はい。」 弥太郎:「ところで、また湯治に戻るにしても今日はうちに泊まれるんだろう?」 彩音:「え?・・・あ、はい。」 弥太郎:「お互い積もる話もあるだろうし。体調次第では何日かゆっくりしてからでもいいかもしれないな。」 彩音:「そ、そうですね。」 弥太郎:「ん?どうかしたか?」 彩音:「いえ、別に・・・。」 美代:「・・・それでは私は、その旨を『宿』のほうに伝えて参ります。」 彩音:「ええ、お願い。」 美代:「色々買い揃える物もあるので、私はそのまま向こうで奥様をお待ちしていますね。」 彩音:「そう。申し訳ないけど、頼んだわね。」 美代:「はい。」 弥太郎:「しかし、そうか。お義父上がこちらで待っていろと言ったのは、行き違いにならないためだったのか。それならそうと言ってくだされば良かったのに。」 彩音:「お父さまも、弥太郎さんを驚かせたかったのでしょう。」 弥太郎:「ああ、大いに驚いた。だが、こんなに嬉しいことはない。労役中、あまりの過酷さに、もう二度と彩音に会うことは叶わぬかもと、そう思ったこともあった。だが今、目の前に彩音がいる。それだけでもう何もいらぬ。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「彩音・・・。もう二度と離さぬ。決して。」 彩音:「・・・・・・。」 0: 美代:突然のことに、何をどうごまかしたのか、はっきり覚えておりません。 美代:ただただ、困ったことになったと思っておりました。 美代:本来ならば、大変喜ばしいことなのに・・・。 0: 0:ーー吉岡邸ーー 晴彦:「はい。」 美代:「美代でございます。」 晴彦:「どうぞ。」 美代:「失礼いたします。ただいま戻りました。」 晴彦:「早かったですね。買い物には行かなかったのですか?」 美代:「はい・・・。」 晴彦:「そうですか。・・・何かありました?」 美代:「それが・・・。」 晴彦:「ん?」 美代:「奥様は、ご実家のほうで用事がございまして、・・・もしかしたら本日はお戻りになれないかもしれません。」 晴彦:「・・・そうですか。わかりました。ありがとうございます。」 美代:「いえ・・・。」 晴彦:「・・・どうしたんですか。何か良くないことでも?」 美代:「・・・あの。」 晴彦:「はい。」 美代:「・・・いえ、なんでもありません。」 晴彦:「・・・。美代さん、今少し時間ありますか?」 美代:「はい?」 晴彦:「ちょうど今、少し休憩しようと思っていたんです。美代さんも良かったらこちらへ。」 美代:「はい。」 晴彦:「ここからちょうど庭の花壇が見えるんですよ。綺麗でしょう?」 美代:「本当。綺麗ですね。」 晴彦:「・・・。あの花の名前、知っていますか?」 美代:「私、花の名前はあまり詳しくないので。わかるのはウメ、サクラ、ヒマワリ、あとタンポポくらいです。」 晴彦:「あはは、そうですか。」 美代:「はい。お恥ずかしい限りです。」 晴彦:「恥ずかしいことなんてありませんよ。私は飯の炊き方もみそ汁の作り方もまったくわかりませんから。」 美代:「旦那さまはそんなことする必要がありませんから当たり前です。」 晴彦:「そう。人それぞれ得手不得手がある。でもそれは当たり前のことで恥ずかしいことじゃありません。それに、知らないことは聞けばいいんです。」 美代:「そうでしょうか?」 晴彦:「はい。」 美代:「では・・・、あの花は何という名前なのですか?」 晴彦:「ケイトウです。」 美代:「はい?」 晴彦:「鶏の頭と書いてケイトウと読みます。ほら、トサカみたいに見えるでしょう?」 美代:「本当だ。」 晴彦:「見た目の美しさに反して面白い名前なので覚えているんです。」 美代:「ふふっ、そうなんですね。」 晴彦:「花はいいですよね・・・。見ているだけで気持ちが明るくなる。」 美代:「・・・そうですね。」 晴彦:「女々しいと言われるかもしれませんが、こうして時どき窓から花を眺めるのが好きなんですよ。」 美代:「女々しいだなんてとんでもありません。旦那さまの優しさ故です。」 晴彦:「花を愛でることと優しさとは関係ないと思いますが?」 美代:「ほとんどの殿方は花に気づきもしません。常に周りに気を配る旦那さまだからこそ、花の美しさにも気づけるのです。」 晴彦:「そうでしょうか?」 美代:「そうです。」 晴彦:「・・・美代さんがそう言うのなら、そういうことにしておきましょうか。」 美代:「はい。私が言うのですから間違いありません。・・・ありがとうございます。お気遣いいただいて。」 晴彦:「?何のことでしょう?私は休憩に付き合ってもらっただけですよ。」 美代:「そうですか。」 晴彦:「はい。」 美代:「・・・わかりました。では、少し早いですが私は夕餉(ゆうげ)の支度にかかりますね。」 晴彦:「はい。(咳込む)ごほっごほごほっ。」 美代:「大丈夫ですか?」 晴彦:「・・・はい。少し咳が出ただけですから。」 美代:「少し冷えましたか?近頃急に寒くなって来ましたから、気を付けてくださいね。今温かいお茶をお持ちします。」 晴彦:「すみません。ありがとうございます。」 0: 0:ーー藤田邸ーー 弥太郎:「(静かに)彩音。彩音、起きているか?」 彩音:「弥太郎さん?はい。」 弥太郎:「(静かに)入るぞ。」 彩音:「え?あの」 弥太郎:「彩音。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「こんな遅くにすまない。だが、どうしても彩音に会いたくてな。」 彩音:「いえ。」 弥太郎:「身体のほうはどうだ?辛くはないか?」 彩音:「はい。大丈夫です。」 弥太郎:「そうか・・・。彩音。」 彩音:「弥太郎さん、この傷・・・。」 弥太郎:「ああ。これは収容所時代に看守から受けたものだ。」 彩音:「こんな・・・ひどい・・・。」 弥太郎:「俺などマシなほうだ。あそこでは毎日のように同胞が死んでいった。まともな食事も与えられず、朝から晩まで働かされ、看守たちからは理不尽な暴行を受ける。本当に地獄のような日々だった。」 彩音:「そんな・・・。よくご無事で。」 弥太郎:「生きて戻るには決して逆らわぬことだと思ってな。どんな理不尽なことにも黙って従った。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「手紙も欠かさず書いたのだが、・・・どうやら届いてはいなかったようだな。」 彩音:「すみません・・・。」 弥太郎:「彩音が謝ることではない。きっと検閲(けんえつ)の段階ですべて捨てられていたのだろう。」 彩音:「(独り言)弥太郎さんが生きているとわかっていれば・・・。」 弥太郎:「ん?」 彩音:「いえ、なんでもありません・・・。」 弥太郎:「そうか。・・・・・・。」 彩音:「弥太郎さん?どうかしましたか?」 弥太郎:「いや・・・、なんだかお義父上の様子が気になってな。」 彩音:「お父さまの?」 弥太郎:「ああ。どうも俺と彩音が一緒にいるのを快く思っていないように思えて・・・。」 彩音:「そ、そんなことは無いと思いますよ。気のせいですって。」 弥太郎:「だが、六年ぶりに帰ってきたというのに、寝所(しんじょ)を別にするなんておかしいと思わないか?」 彩音:「それは・・・、お父さまは私の身体を案じているのですよ。」 弥太郎:「だが、俺が見る限り、それほど重い病には見えぬ。兵役から戻った夫を寝所から追い出すほどの理由足(た)りえるだろうか。」 彩音:「それは・・・。」 弥太郎:「彩音はどうなのだ?」 彩音:「私、ですか?」 弥太郎:「そうだ。彩音は俺と褥(しとね)を共にするのは嫌か?」 彩音:「私は・・・。」 弥太郎:「俺はこの六年、お前のことだけを考えて生きてきた。お前だけが俺の生きる希望だったんだ。そのお前が今、目の前にいる。それなのになぜ部屋を分けて過ごさねばならない。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「彩音、もう二度とお前を離したくないのだ。どうか俺の思いを受け入れてくれ。」 彩音:「・・・・・・はい。」 弥太郎:「彩音・・・。」 0: 0:ーー吉岡邸ーー 晴彦:「はい。」 美代:「美代でございます。お茶をお持ちしました。」 晴彦:「どうぞ。」 美代:「失礼いたします。」 晴彦:「どうして私が起きているとわかったのですか?」 美代:「そこの窓から見ていましたから。」 晴彦:「え!?本当ですか?」 美代:「ふふっ、冗談です。廊下に明かりが漏れていましたから。」 晴彦:「なんだ、そうですか。こんな遅くまですみません。どうぞ、私に構わず休んでください。」 美代:「旦那様こそ、こんな時間にまだお仕事ですか?」 晴彦:「いやぁ、どうしても数字が合わない箇所があって、それを調べていたんです。」 美代:「もう一時ですよ。本当にご自愛ください。」 晴彦:「あ・・・、ですが、これはどうしても・・・。」 美代:「また奥様にご報告しますよ?」 晴彦:「・・・わかりました。では、こちらの帳簿を調べたら今日のところは終わりにしようと思います。」 美代:「約束ですよ?」 晴彦:「はい」 美代:「では、温かいうちにどうぞ。」 晴彦:「ありがとうございます。(お茶を飲み大きく息を吐く)・・・。」 美代:「どうかしました?」 晴彦:「いえ。・・・やはり彩音さんは、今日はご実家のほうにお泊りに?」 美代:「そう、みたいです。」 晴彦:「ご実家で何かあったのかな?良くないことでなければいいけれど。」 美代:「・・・心配ですか?」 晴彦:「そりゃ、私の奥さんですからね。」 美代:「そうですよね。」 晴彦:「はい。」 美代:「・・・・・・。」 晴彦:「きっと何か事情があるのでしょうね。」 美代:「・・・何もお話しできず申し訳ありません。」 晴彦:「いえ。結婚したとは言え、ご実家のことをあれこれ聞くわけにはいきませんからね。・・・ただ、少し心配性なだけです。」 美代:「旦那さま・・・。旦那さま、私は旦那さまの味方ですから。」 晴彦:「美代さん?」 美代:「何もできませんが、それでも私は旦那さまの味方ですから。」 晴彦:「・・・そうですか。ありがとうございます。」 美代:「いえ・・・。」 晴彦:「本当にもう遅いですし、そろそろ休んでください。」 美代:「はい。ありがとうございます。旦那さまも本当に良きところでお休みくださいね。」 晴彦:「はい。」 美代:「それでは、失礼いたします。」 晴彦:「おやすみなさい。」 0: 0: 美代:それから三日ほどして奥様は帰っていらっしゃいました。 美代:旦那さまへは、『ご実家のお母さまの看病』と説明をされていました。 美代: 美代:それから奥様は、月の半分をご実家で過ごすようになりました。 美代:半分はこの家で旦那さまと、もう半分はご実家で弥太郎様と・・・。 美代: 美代:もちろん、この二重生活が長く続くわけがないということは、奥様も藤田家の方々もわかってはいました。 美代:ですが、戦地から生きて戻った弥太郎さまを追い出すわけにもいかず、かと言って吉岡家を裏切ることもできず、うまい解決策が見つからぬまま時だけが過ぎていきました。 美代: 美代:問題は、弥太郎さまに『いつ』『どのように』真実を話すか、でした。 美代:そのはずだったのです。 0: 0: 彩音:「それでは、申し訳ありませんがまた半月ほどご不便をおかけします。お正月前には戻りますから。」 晴彦:「私のことは気にしないでください。こちらは大丈夫ですから。それよりお義母さまをお大事になさってください。」 彩音:「お気遣いありがとうございます。」 晴彦:「一度くらい、私もお見舞いに伺いたいのだけれど。」 彩音:「申し訳ありません。病に臥(ふ)せっている姿を誰にも見られたくないと母が申しておりまして。それに、人にうつる病ゆえ、家人(かじん)以外通すわけにはいかないのです。」 晴彦:「わかっています。ですから、私が案じていたとお義母さまにお伝えください。」 彩音:「はい。ありがとうございます。」 晴彦:「それと、彩音さんもお身体には十分お気を付けて。あなたが倒れては、お義母さまも悲しむでしょうし。」 彩音:「はい。」 美代:「奥様、荷物を積み終わりました。」 彩音:「そう。ありがとう。」 美代:「それでは旦那さま、藤田のお屋敷まで奥様を送ってまいります。」 晴彦:「美代さんも連れて行っていいんですよ?女中なら他にもいますし。」 彩音:「いえ、私がお世話できない分、せめて美代に晴彦さまのお世話をさせてください。」 晴彦:「そうですか・・・。」 彩音:「はい。」 晴彦:「わかりました。では美代さん、彩音さんを頼みます。」 美代:「はい。」 彩音:「それでは、行ってまいります。」 晴彦:「はい。気を付けて。」 彩音:「はい。うっ・・・。」 晴彦:「?どうかしました?」 美代:「奥様?」 彩音:「うぅ・・・、ちょっと・・・、厠(かわや)へ・・・、うっ。」 美代:「奥様!?」 晴彦:「彩音さん!」 彩音:「(えづく)うぇ・・・、おぇ、おえぇ・・・、うぇ、うえぇ・・・うぅ・・・。はぁはぁ・・・。」 晴彦:「大丈夫ですか?美代さん、彩音さんの様子は?」 美代:「奥様?奥様、大丈夫ですか?」 彩音:「はぁはぁ・・・、ええ。・・・大丈夫。もう、治まったわ。」 美代:「(晴彦に)大丈夫です。もう治(おさ)まったそうです。」 晴彦:「そうですか・・・。っ!もしかして、お義母さまのご病気が移ったのでは?もしそうなら・・・。」 彩音:「いえ、そうではありません。大丈夫です。」 晴彦:「しかし、急に具合が悪くなるなんて、一度医者に診てもらったほうがいいですよ。」 彩音:「いえ、本当にもう大丈夫ですから。」 晴彦:「でも・・・。」 美代:「あの・・・。」 晴彦:「なんですか?」 美代:「奥様・・・、もしかして・・・。」 彩音:「え?」 美代:「その、もしかしてですけど・・・、つわりでは・・・?」 彩音:「・・・!」 晴彦:「つわり?つわりって、まさか・・・。」 彩音:「ど、どうでしょう。私にはわかりません。」 晴彦:「医者に行きましょう!」 彩音:「え?」 晴彦:「医者に診てもらいましょう。子供ができたのかどうか。」 彩音:「今からですか?」 晴彦:「はい!もし懐妊していたら、良い知らせをもってご実家に行けるじゃないですか!きっとお義母さまもお喜びになるはずです!」 彩音:「そうですけど・・・。」 晴彦:「では、すぐに支度しますから少し待っていてください。」 彩音:「え?晴彦さまもいらっしゃるのですか?」 晴彦:「もちろんです。我が子を懐妊しているかもしれないのですよ?家でのんびり仕事なんかしていられません!すぐに戻りますから!」 彩音:「・・・・・・。」 美代:「あの、奥様・・・、申し訳ありません。」 彩音:「ううん。しかたないわ。それにまだ妊娠したと決まったわけではないもの。」 美代:「・・・あの。」 彩音:「なに?」 美代:「もし、その、本当だった場合・・・、どちらの・・・?」 彩音:「・・・・・・。」 美代:「・・・・・・。」 晴彦:「すみません。お待たせしました。」 彩音:「いえ。」 晴彦:「さあ行きましょう。うちから一番近い婦人科病院はどこですかね?それとも大きいところのほうが安心かな?とりあえず車に乗りましょうか。」 彩音:「はい。」 0: 0:ーー藤田邸ーー 弥太郎:「いやぁ、しかし本当にめでたい!俺が帰ってまだ三月(みつき)足らずだと言うのに、もう俺たちの子を宿すとは。身体の調子も良くないのに、本当によく頑張ってくれた。」 彩音:「いえ、そんな・・・。」 弥太郎:「これからは、今まで以上に身体に気を付けないとな。もうお前だけの身体ではないのだから。」 彩音:「はい・・・。」 弥太郎:「しかしこれからは、俺ものんびりしているわけにはいかないな。お義父上に言われ療養に努めていたが、俺ももう父親になるのだ。一家の大黒柱として、しっかりとこの家を守っていかねばな。」 彩音:「・・・・・・。」 弥太郎:「ん?どうした?何か気になることでもあるのか?」 彩音:「いえ、別に・・・。」 弥太郎:「どうしたのだ?・・・時折、物悲し気なその顔をする。いったい何がお前をそのように悲しませるのだ。どうか話してくれないか?俺はその悲しみからお前を守ってやりたいのだ。」 彩音:「弥太郎さま・・・。」 弥太郎:「さあ、どうか話してくれ。」 彩音:「(静かに泣き始める)・・・ごめんなさい。ごめんなさい・・・。」 弥太郎:「どうした?なぜ謝る?」 彩音:「私がいけないのです。すべて私が・・・。」 弥太郎:「何のことだ彩音?いったい何を謝っているのだ。」 彩音:「弥太郎さんを信じられなかった私がいけないのです。どうか私を打(ぶ)ってください。」 弥太郎:「彩音を打てと?そんなことできるわけがない。何を言っているのだ。訳(わけ)を話してくれ。」 彩音:「・・・実は私、・・・他の方と、再婚しているのです。」 弥太郎:「・・・再婚!?いったい何を言っている。」 彩音:「・・・軍から弥太郎さんの消息が途絶えたと連絡を受け、それ以来様々な伝手を使ってずっと探しておりました。ですが、戦争が終わり多くの人が帰って来ても、弥太郎さんは一向にお帰りにならず・・・。」 弥太郎:「それは、収容所にいたからだ。強制労働させられていたのだ。」 彩音:「はい。それは聞きました。でも、私どもにはそれを知るすべはありませんでした。」 弥太郎:「だが、俺は・・・。」 彩音:「・・・終戦から一年が経ち、父がもう諦めるようにと言いました。それでも私は、弥太郎さんは帰ってくると信じて待っていました。 彩音:でも、一年を過ぎると帰ってくる人は極端に少なくなりました。月に一人か二人・・・。一人もいない月もありました。私の心は日に日に絶望で塗りつぶされていったのです。 彩音:そして一年と半年が過ぎた頃、『二年経っても弥太郎さんが戻らなければ、両家を建て直すために吉岡屋の息子と再婚して欲しい』と、父が言いました。」 弥太郎:「そして、それに従ったと・・・?」 彩音:「その頃の私は、弥太郎さんがもうこの世にいないと思い始めていました。なので、もう全てがどうでも良かったのです。弥太郎さんのいない人生など、もうどうでもいいと・・・。」 弥太郎:「・・・では、湯治というのは嘘か?」 彩音:「はい・・・。」 弥太郎:「湯治と言ってこの家を離れている間、その新しい夫の元へ行っていたのか!」 彩音:「・・・はい。」 弥太郎:「この俺を騙していたんだな!」 彩音:「ごめんなさい。本当にごめんなさい・・・。」 弥太郎:「俺が・・・、死ぬほど苦しい思いをしていた時、お前は俺のことを忘れて、新しい夫と新たな生活を始めていたのか。そうか・・・。」 彩音:「ごめんなさい・・・、弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「・・・子供は?」 彩音:「え?」 弥太郎:「子供は・・・、どちらのだ?俺か?それとも、その男か?」 彩音:「・・・はっきりとは言えませんが、たぶん弥太郎さんの・・・。」 弥太郎:「・・・そうか。」 彩音:「はい・・・。」 弥太郎:「どんな男だ?」 彩音:「・・・はい?」 弥太郎:「再婚したという男だ。どんな男だ。」 彩音:「・・・お優しい方です、とても。」 弥太郎:「・・・・・・。」 彩音:「結婚して一年ほど、弥太郎さんを亡くした悲しみから、私はまるで人形のように心を失くしていました。でもそんな私に旦那さまは怒ることもなく、根気よく話しかけてくださいました。常に穏やかで笑顔でした。そんな旦那さまと過ごすうちに、私はだんだんと心を取り戻すことができたのです。・・・あの人は私の恩人です。」 弥太郎:「・・・良い男なのだな。」 彩音:「はい・・・。」 弥太郎:「・・・それで、どうするのだ。」 彩音:「・・・・・・。」 弥太郎:「いつまでもこのままというわけにはいくまい。どちらかを選ばねば。」 彩音:「・・・・・・。」 弥太郎:「正直に答えてくれ。その男と俺と、今のお前はどちらを愛している。」 彩音:「・・・・・・。」 弥太郎:「決して怒ったりはせぬ。だから教えてくれ。どちらを愛している。」 彩音:「・・・弥太郎さんです。晴彦さまには感謝していますし愛してもいました。けれど私は、やはり弥太郎さんのことが忘れられません。」 弥太郎:「彩音・・・。」 彩音:「もう一度、弥太郎さんと一緒に生きていきたい。弥太郎さんと夫婦になりたい。ですが、先ほども言ったように晴彦さまには恩がありますし、第一、家同士の約束があります。そして、今の私は晴彦さまの妻なのです。どうしようもないのです。私にはどうすることもできないのです・・・。」 弥太郎:「・・・死ぬ思いで戻ったというのに、なぜこのような・・・。」 彩音:「ごめんなさい。本当にごめんなさい・・・。」 弥太郎:「・・・いっそ、死んでいれば・・・。」 彩音:「やめてください!言わないで。そんなことは決して言わないで!」 弥太郎:「だが、俺さえ戻らなければ。」 彩音:「それでも、私は弥太郎さんが生きて戻ってきてくれて良かったと思っています。何があろうと、そのことを否定したくはありません。」 弥太郎:「彩音・・・。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「どうすればいいのだ・・・。俺たちは、どうすれば・・・。」 0: 0:ーー吉岡邸ーー 晴彦:「はい」 美代:「美代でございます。旦那さま宛てのお手紙をお持ちしました。」 晴彦:「どうぞ。」 美代:「失礼いたします。旦那さま、こちらなのですが・・・。」 晴彦:「?どうかしました?」 美代:「それが、差出人が書かれていないのです。」 晴彦:「差出人が?」 美代:「はい。」 晴彦:「そうですか。とりあえず読んでみます。」 美代:「旦那さま、ではお茶をお持ちしましょうか?」 晴彦:「ありがとうございます。お願いします。」 美代:「はい。」 晴彦:「しかし、いったい誰からだろう・・・。 晴彦:・・・っ!これは・・・。まさか、そんな・・・・・・。そうか・・・。そういうことだったのか・・・。だから・・・。」 美代:「旦那さま、お茶をお持ちしました。旦那さま?」 晴彦:「はっ。」 美代:「どうかなさいました?良くない知らせでも?」 晴彦:「い、いえ・・・、別に・・・。」 美代:「でも、お顔の色が優れません。大丈夫ですか?」 晴彦:「はい、大丈夫です・・・。お茶、ありがとうございます。もう下がってください。」 美代:「・・・はい。では、失礼いたします。」 0: 美代:その手紙が誰からのものだったのか私にはわかりません。 美代:ですが、旦那さまの様子が明らかにおかしかったのを覚えています。 美代:顔は蒼白で、脂汗のようなものまで滲んでいました。 0: 0:ーー料亭ーー 弥太郎:「・・・あんたが吉岡の。」 晴彦:「・・・はい。吉岡晴彦です。」 弥太郎:「俺は・・・、藤田弥太郎だ。」 晴彦:「はい・・・。彩音さんの、前のご主人、ですよね?」 弥太郎:「ああ。」 晴彦:「生きていらしたんですね。」 弥太郎:「あいにく、しぶとくてな。」 晴彦:「喜ばしいことです。」 弥太郎:「どうだか。」 晴彦:「・・・・・・。」 弥太郎:「彩音は今、俺といる。」 晴彦:「・・・藤田の家で、ですか?」 弥太郎:「そうだ。」 晴彦:「ということは、もちろん、藤田家の方は皆、承知の上ということですよね?」 弥太郎:「そうだ。」 晴彦:「そうですか・・・。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「それで、どういったお話でしょうか?」 弥太郎:「は?」 晴彦:「ですから、今日はどういったお話でしょう?」 弥太郎:「どういった話って、わかるだろう?」 晴彦:「さあ。聞いてみないことには、なんとも。」 弥太郎:「そうか・・・。なら、はっきり言おう。彩音と別れてくれ。」 晴彦:「・・・・・・。」 弥太郎:「俺と彩音は別れていない。つまり彩音は俺の妻だ。後から来たあんたがそれを知らぬまま妻にした。」 晴彦:「だから、私が身を引くべきだと?」 弥太郎:「そうだ。」 晴彦:「ですが、藤田と吉岡の家長が話し合って取り決めた縁談です。役所にも私の婚姻が認められています。道理で言えば、あなたが身を引くべきなのでは?」 弥太郎:「・・・だが、彩音は俺を愛している。」 晴彦:「・・・それは、彩音さんがそう言ったのですか?」 弥太郎:「そうだ。彩音の口からはっきりと聞いた。」 晴彦:「・・・そうですか。」 弥太郎:「ああ。」 晴彦:「・・・ですが、本人を前にして他の男を愛してるなどと言えるでしょうか?ましてや、あなたのように屈強な男を前に。」 弥太郎:「彩音が、俺を恐れて嘘を言ったと言うのか?」 晴彦:「その可能性もある、と言ったまでです。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「・・・・・・。」 弥太郎:「・・・どうしても、彩音を手放す気はないか?」 晴彦:「・・・いえ。」 弥太郎:「なに?」 晴彦:「・・・あなたの手紙をもらってからずっと考えていました。どうするのがいいかと。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「彩音さんはきっと今もあなたのことを愛しています。そして、・・・今のこの現状に苦しんでいることでしょう。私は彩音さんを苦しめたくはない。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「ですが、だからと言って簡単に離縁することもできません。お互い家同士の取り決めというものがありますから。」 弥太郎:「・・・それで?結局、どうするのだ。」 晴彦:「・・・三年、待ってもらえませんか?」 弥太郎:「三年?」 晴彦:「はい。・・・私は元々身体が弱く、長くは生きられないと言われていました。それでも親が高価な薬を与えてくれたため、こうしてこの歳まで生きることができました。・・・ですが、それでももう長くはないようなのです。おそらく三年・・・、静養に努めても五年と言われました。」 弥太郎:「・・・それは、あんたが死ぬのを、待てと言うことか?」 晴彦:「はい・・・。吉岡の家にバレなければ、今すぐにでもお二人一緒に暮らしていただいて結構です。ただ、離縁は待ってもらえないでしょうか? 晴彦:私が死んだ後であれば、あなたと再婚しようと、うちの者も口出しはしないでしょうから。ですからどうか、それまで待ってください。」 弥太郎:「・・・あんたはそれでいいのか?」 晴彦:「・・・私にはあまり時間が残されていません。彩音さんに何をしてやれるだろう、何を残してやれるだろうといつも考えていました。そんな時にあなたからの手紙を受け取ったのです。これは天啓(てんけい)だと思いました。」 弥太郎:「彩音を俺に託すと?」 晴彦:「はい。今日あなたにお会いして、あなたならきっと彩音さんを最後まで守ってくれると思いました。ですからどうか、私の分まで彩音さんを幸せにしてあげてください。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「お願いします。」 弥太郎:「・・・あんたは本当にそれでいいのか?本気で彩音を手放すと言うのか?」 晴彦:「それで、彩音さんが幸せになれるのなら。」 弥太郎:「死ぬまでの間、彩音と過ごすという手もあるのだぞ?」 晴彦:「同情であの人を引き留めたくはありません。彩音さんには自由でいて欲しい。心のままに。 晴彦:彩音さんがあなたを愛しあなたと一緒にいたいのなら、私はそれを邪魔したくはない。」 弥太郎:「・・・惨めな最期になるぞ。」 晴彦:「かもしれませんね。」 弥太郎:「・・・俺は今日、あんたを見定めるつもりで来た。あんたが彩音を幸せにできる男かどうか。くだらない男であったら、彩音を連れてどこかへ逃げようと思っていた。」 晴彦:「・・・そうでしたか。」 弥太郎:「だがあんたは、彩音の言った通りの男だった。彩音の幸せのために自分を後回しにするような、そんな優しい男だと・・・。」 晴彦:「彩音さんが、そう言ったのですか?」 弥太郎:「ああ。あんたのことを恩人だと言っていた。愛していた、とも。」 晴彦:「・・・そうですか。・・・愛してくれていたのですね。」 弥太郎:「・・・吉岡殿、俺のいない間、彩音のそばにいてくれたこと、感謝する。」 晴彦:「いえ、私のほうこそ、彩音さんのそばにいられたことに感謝します。そして、お返しします。どうか、彩音さんを幸せにしてあげてください。」 弥太郎:「ああ、わかった。必ず幸せにすると約束しよう。」 晴彦:「ありがとうございます。」 0: 美代:お二人の間でそのような会話が交(か)わされていることを私は知りませんでした。 美代:もしこの事を知っていたなら・・・。 0: 0:ーー吉岡邸ーー 彩音:「晴彦さま、ただいま戻りました。長い間家を空けて申し訳ありません。」 晴彦:「彩音さん・・・。お帰りなさい。」 彩音:「私のいない間、ご不便はありませんでした?」 晴彦:「はい。何不自由なく過ごしていました。」 彩音:「そうですか。それならよかった。」 晴彦:「彩音さん。」 彩音:「はい。」 晴彦:「少しお話が。」 彩音:「・・・はい。」 晴彦:「どうぞ、掛けてください。」 彩音:「はい。」 晴彦:「身体は辛くありませんか?」 彩音:「はい。お気遣いありがとうございます。」 晴彦:「いえ。」 彩音:「・・・・・・。」 晴彦:「お正月ですが、今年は藤田の家にご挨拶に行くのはやめようかと思っています。」 彩音:「本当ですか?」 晴彦:「はい。今藤田の家に行くのはご迷惑でしょうから。」 彩音:「迷惑というわけではありませんが、母のこともありますし、そうして頂けると正直ありがたいです。」 晴彦:「・・・。それと、少し早いですが、次にご実家へ戻る時には、そのまま出産のための帰省(きせい)としてください。」 彩音:「え?」 晴彦:「出産後も、色々と落ち着くまでこちらに戻らなくて大丈夫です。ご実家でゆっくりしてください。」 彩音:「旦那さま・・・?」 晴彦:「後は、私のほうでうまくやっておきますから。」 彩音:「あの、・・・どういうことでしょうか?」 晴彦:「こちらへは、もう戻らなくて結構と言うことです。」 彩音:「!?旦那さま、まさか・・・。」 晴彦:「・・・はい。全て、知っています。」 彩音:「ど、どうして、お知りに・・・?」 晴彦:「弥太郎さんは彩音さんに話さなかったのですね。・・・きっと、私に話す機会をくださったのでしょう。」 彩音:「弥太郎さんと、お会いになったのですか?」 晴彦:「はい。共に酒を交わしました。はっきりと物を言う、気持ちのいい人ですね。私も好きになってしまいました。」 彩音:「・・・申し訳ありません。本当に申し訳ありません。」 晴彦:「謝らないでください。戦地からご主人が戻ったのです。これは吉報です。」 彩音:「でも、旦那さまに会わす顔がありません。これまでのご恩をこのような形で返すことになってしまって・・・。」 晴彦:「弥太郎さんと話して、そして約束しました。彩音さんをお返しすると。ですからどうぞ、弥太郎さんのもとへ戻ってください。」 彩音:「ですが、それでは晴彦さまはどうなさるのです?」 晴彦:「私のことはお気になさらず。」 彩音:「でも・・・。」 晴彦:「(おどけて)しばらくは傷心で、毎晩お酒を飲むかもしれないけれど。」 彩音:「晴彦さま・・・。」 晴彦:「ふふっ、冗談ですよ。さんざんいじめられましたからね。そのお返しです、なんて。 晴彦:・・・吉岡の家のことも私が万事うまくやりますのでご安心ください。弥太郎さんにはすでに話してあります。彩音さんは藤田の家で全てが終わるのを待っていてください。」 彩音:「晴彦さま・・・。申し訳ありません。申し訳ありません・・・。」 晴彦:「だから、謝らないでください。私は一人で大丈夫ですから。弥太郎さんと、末永くお幸せに。」 彩音:「晴彦さま・・・。」 美代:「・・・どういうことですか?」 彩音:「美代!?」 晴彦:「美代さん・・・!」 美代:「今のはいったいどういうことですか?弥太郎さまと?」 晴彦:「え~と、ですね、その・・・。」 美代:「なぜ旦那さまがお一人にならなければいけないんです!」 晴彦:「美代さん!?」 美代:「奥様は、これほど良くしてくださった旦那さまを裏切るのですか!?」 晴彦:「違うんだ、美代さん。そうじゃない。これは。」 美代:「旦那さまは黙っていてください!」 晴彦:「っ!・・・・・・。」 美代:「一度失(な)くした心を取り戻してくださったのは旦那さまですよ。あれほど奥様に愛情を注いでくださったのに。それを!その恩を仇で返すのですか!」 晴彦:「美代さん、落ち着いて。話を聞いてください。」 美代:「どうしてそんな酷いことができるのですか。どうして!」 彩音:「ごめんなさい・・・。ごめんなさい、美代・・・。」 美代:「・・・弥太郎さまのせいなのですね・・・?」 彩音:「いいえ、すべて私のせいなの・・・。私がいけないの。」 美代:「いえ、・・・弥太郎さまさえ・・・、あの方さえ戻らなければ・・・。」 晴彦:「え?・・・っ!美代さん!」 彩音:「美代!待って、美代!」 0: 美代:身体中の血が燃えているようでした。 美代:景色は赤く染まり、まるで地獄の中を走っているような気がして、頭の中ではただ一つのことだけがぐるぐると駆け巡っていました。 美代:弥太郎さまさえ戻らなければ、皆幸せであったと・・・。 美代:気が付けば私は、藤田のお屋敷の前に立っていました。 美代:そして、息を整え衣(ころも)を正した私は、お屋敷の中へ入りました。 0: 0:ーー藤田邸ーー 弥太郎:「ん?なんだ。美代ではないか。どうしたのだ?」 美代:「・・・・・・。」 弥太郎:「彩音か?彩音ならば、先ほど吉岡へ戻った。行き違いになったのだな。」 美代:「いえ・・・、今日は弥太郎さまに会いに来ました。」 弥太郎:「俺に?」 美代:「はい・・・。」 弥太郎:「そうか。」 美代:「弥太郎さま。」 弥太郎:「なんだ?」 美代:「向こうでは、どのような暮らし向きだったのですか?」 弥太郎:「向こう?向こうとは、収容所での暮らしのことか?」 美代:「はい・・・。」 弥太郎:「なぜそのようなことを?」 美代:「知りたいのです・・・。」 弥太郎:「そうだな・・・、それは酷い暮らしだった。俺は鉱山で働かされていたのだが、一日の食事は硬いパン一つ に味の薄いスープのみ。たまに芋が付けば皆で奪い合いになった。朝は八時には仕事が始まり、夜の九時まで続いた。夏は暑さで倒れそのまま帰らぬ者もいたし、冬は寒さで手が凍り、指を切断する者もいた。毎日のように人が死に、まるで物のように穴に投げ捨てられた。・・・まさにこの世の地獄だった。」 美代:「・・・そうですか。」 弥太郎:「ああ・・・。俺も何度も死にかけた。落盤が起きたり、ガスが噴き出したり。時には看守の気分で死ぬほど殴られたりもした。もう二度と生きて戻れぬかと思った。だが、また彩音やお前に会うことができた。これほど嬉しいことはない。」 美代:「(ボソッと)・・・ねば良かったのに・・・。」 弥太郎:「ん?」 美代:「・・・なぜ戻ったのですか。」 弥太郎:「なぜ?」 美代:「・・・なぜその時、死んでくださらなかったのです。」 弥太郎:「・・・それは、どういう意味だ。」 美代:「弥太郎さまが戻らなければ、旦那さまがこんな目にあうことはなかった・・・。」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「弥太郎さまさえ戻らなければ!あのお優しい旦那さまが苦しむことはなかったのです!」 弥太郎:「・・・そうかもしれぬな。」 美代:「なぜ戻っていらしたのですか。あなたさえ帰ってこなければ皆幸せだったのに!」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「・・・消えてください。・・・今からでも、ここからいなくなってください。」 弥太郎:「・・・それはできぬ。」 美代:「なぜですか。」 弥太郎:「必ず幸せにすると約束したからだ。一生大切にすると。」 美代:「・・・そうですか。」 弥太郎:「・・・すまぬ。」 美代:「でしたら・・・。」 弥太郎:「ん?っ!美代・・・。」 美代:「私が・・・。」 弥太郎:「待て、美代!何をする気だ。そのハサミを置け!」 美代:「あなたさえ・・・、あなたさえいなければ!」 弥太郎:「美代!くっ!うあっ!・・・うぅっ!」 美代:「はぁっはぁっはぁっはぁっはぁっはぁっ・・・。」 弥太郎:「美代・・・・・・、くはっ。」 彩音:「弥太郎さん!」 晴彦:「美代さん!?」 美代:「・・・旦那さま?」 晴彦:「美代さん、あなたはなんてことを・・・。」 弥太郎:「う、うぅ・・・。」 彩音:「弥太郎さん!いや・・・、死なないで・・・。弥太郎さん・・・弥太郎さん!」 晴彦:「彩音さん、落ち着いて。とにかく医者へ。くっ、彩音さん、そちらから支えてもらえますか。」 彩音:「はい。」 晴彦:「このまま車へ運びましょう。美代さんも一緒に来てください。」 美代:「へ?」 晴彦:「急いで。」 美代:「は、はい。」 0: 美代:すぐに病院へ運ばれた弥太郎さまは、なんとか一命を取り留めました。 美代:その後私は警察に出頭し、殺人未遂の罪により五年の実刑判決を言い渡されました。 美代: 美代:刑務所に服役中、一度だけ吉岡の旦那さまが面会にいらっしゃってくださいました。 美代:旦那さまはとてもやつれて、悲しい顔をしていらっしゃいました。 美代:今年もケイトウの花が綺麗に咲いたとか、たわいのない話をいくつかして、最後に涙を流しておられました。 美代:私はそれをただ黙って見ていました。 美代: 美代:そして、五年の刑期を終え外に出ると、そこにはあの弥太郎さまのお姿がありました。 0: 0:ーー刑務所前ーー 美代:「お久しぶりでございます・・・。その後、お元気でしたでしょうか・・・?」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「その節は、大変ご迷惑をお掛け致しました。本当に申し訳ございません。」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「・・・何か、私に御用でしょうか?」 弥太郎:「ああ。お前に話があってきた。」 美代:「そうですか。」 弥太郎:「ついてこい。」 0: 美代:私は黙って弥太郎さまの後ろをついていきました。 美代:風は冷たく、季節は秋から冬へと変わろうとしていました。 美代:十五分ほど歩いたところで、大きな川の河川敷に辿り着きました。 美代:土手を行く人もなく、人気(ひとけ)のない寂しい場所でした。 美代:そこに着いてからも、弥太郎さまは何も言わずただ川の流れを眺めていらっしゃいました。 美代:やがて沈黙に耐えられなくなり、ついに私のほうから口を開きました。 0: 0:ーー河川敷ーー 美代:「・・・弥太郎さま、彩音さまはお元気でいらっしゃいますか?」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「弥太郎さま?」 弥太郎:「・・・彩音は、死んだ。」 美代:「・・・はい?」 弥太郎:「彩音は・・・、死んだ。」 美代:「ど、どうして・・・。どうして奥様は亡くなったのですか?」 弥太郎:「お前のせいだ。」 美代:「私の・・・?」 弥太郎:「そうだ。全て、お前のせいだ。」 美代:「・・・どういうことです?」 弥太郎:「・・・お前の事件が明るみになったせいで、藤田の家が俺を匿(かくま)っていたことも吉岡家に知られてしまった。激怒した吉岡家は、俺と彩音の復縁を決して許さぬと言った。だから俺と彩音は家を捨て逃げたのだ。」 美代:「・・・それで、どうなったのです?」 弥太郎:「・・・大旦那さまは吉岡家に財産を譲り渡すことで娘を守ろうとした。それで、離縁を認めてくれと・・・。 弥太郎:だが、その実家の没落と、他(ほか)様々な精神的苦痛のせいで彩音は子を流した。・・・それが限界だったのだ。全て自分のせいだと、彩音は首を吊った。」 美代:「そんな・・・!奥様が、首を・・・?」 弥太郎:「そうだ。・・・それでも、吉岡殿はお前のせいではないと言ったが、俺はそうは思わぬ。彩音が死んだのはお前のせいだ。」 美代:「わたしのせいで・・・。」 弥太郎:「・・・吉岡殿も俺たちのために、なんとか家の者の気を静めようと働きかけてくれていた。だが、彩音が死んだことで、その吉岡殿の思いも全て無に帰した。吉岡殿も、どれほど無念だったことか・・・。」 美代:「・・・まさか、あの時・・・、あぁ・・・。旦那さまは、晴彦さまは今どうしていらっしゃいますか?」 弥太郎:「・・・死んだ。」 美代:「え・・・?」 弥太郎:「吉岡殿は病気だったのだ。すでに長くはないと言われていた。」 美代:「旦那さまが・・・、ご病気で・・・?」 弥太郎:「だから、吉岡殿が亡き後、俺が彩音を幸せにすると約束を交わしていたのだ。それを!お前がすべて潰したのだ!お前が、皆を不幸にしたのだ!」 美代:「旦那さまが・・・、亡くなった・・・。」 弥太郎:「長かった・・・。この日が来るのをずっと待っていた・・・。この恨み晴らすまで、死んでも死に切れん。」 美代:「私が・・・、旦那さまを・・・泣かせた?」 弥太郎:「美代・・・。俺の恨み、彩音の苦しみ、さあ!思い知れ!」 0: 美代:草原(くさはら)に隠しておいた刀をつかむと、弥太郎さまは私を大きく斬りつけました。 美代:次の瞬間、私の真っ赤な血が澄んだ空に赤く飛び散りました。 美代:そしてそれは、真っ青な秋晴れの空をあかくあかく染めていきました。 美代:耳の奥では、返り血を頭から被り、嬉しそうに笑っている弥太郎さまの笑い声が響いています。 美代:身体が燃えるように熱く、また凍えるように寒くも思えてきます。 美代:その全てが夢のような光景でした。 美代:そう。きっとこれは夢なのでしょう。 美代:全ては夢だったのです。 美代:奥様の死も、旦那さまの死も。 美代:・・・でも、だとしたら、どこからが夢だったのでしょう。 美代:旦那さまと見た、あの赤いケイトウの花も、全てが夢だったのでしょうか。 美代:今となってはもうわかりません。 美代:ただ、夢でもいいからもう一度だけ、旦那さまの声が聞きたい。 美代:『美代さん』と優しく呼ぶあの声をもう一度聞きたいと、そう思ったのです。 0: 0:おわり

0:『あかきゆめみし』 0: 0:ーーあらすじーー 0:大恋愛の末結婚した彩音と弥太郎だったが、弥太郎は戦争で消息不明となってしまう。 0:弥太郎は死んでしまったと思い、二年後彩音は晴彦と再婚するが、ある日弥太郎が帰ってくる。 0: 0: 彩音:吉岡彩音(よしおかあやね)旧姓「藤田彩音」藤田屋の一人娘。 晴彦:吉岡晴彦(よしおかはるひこ)彩音の夫。吉岡屋の一人息子。 弥太郎:藤田弥太郎(ふじたやたろう)彩音の前の夫。 美代:美代(みよ)女中。 0: 0: 0: 0: 0: 0: 美代:あかくあかく、全てが赤く染まっていく中、私はあの日のことを思い出していました。 美代:旦那さまと見た、あの赤いケイトウの花のことを・・・。 0: 美代:どうしてこのような事になってしまったのか・・・。 美代:事の経緯を説明するには、初めからお話する必要があるでしょう。 美代: 美代:私は貧しい農家の次女として生まれ、尋常(じんじょう)小学校を卒業するとすぐ藤田屋に奉公に出されました。 美代:当時まだ女学生だった奥様は、私のことをたいそう可愛がってくださり、私も本当の姉のように懐いておりました。 美代: 美代:私が奉公に来て五年目、奥様は大恋愛の末に弥太郎さまとご結婚され、弥太郎さまは婿(むこ)として藤田の家に入りました。 美代:奥様と弥太郎さまは大変仲睦まじく、ご近所でも評判のおしどり夫婦でした。 美代:お二人の周りからは笑顔が絶える事はありませんでした。 美代: 美代:ですが、幸せそうなお二人とは反対に、世は戦争への気運が高まり、不穏な空気へと変わっていったのです。 美代:そして、この国が戦争を始めて半年ほど経ったある日、その知らせは届きました。 0: 彩音:「弥太郎さん、見てください。これ。立石(たていし)の奥様から頂きましたの。美しいでしょう?こちら群馬の桐生織(きりゅうおり)ですって。本当に素敵ですよね。これほどのものは今なかなか手に入りませんわ。 彩音:・・・それで、どうやら奥様のおうちの方では、今なかなかお米が手に入らないそうで。ほら、奥様のおうちには二人もお子様がいらっしゃるでしょう?ですから、少しお分けして差しあげたいのだけれどよろしいかしら?・・・弥太郎さん?」 弥太郎:「・・・・・・。」 彩音:「弥太郎さん、どうかしました?・・・っ!弥太郎さん、まさか、それ・・・。」 弥太郎:「ああ・・・、召集令状だ。」 彩音:「そんな、本当ですか?」 弥太郎:「うむ・・・。戦況が思わしくないことは聞いていたが、まさかこんなに早く赤紙が届くとはな。」 彩音:「あぁ、どうしましょう。なんとかならないかしら・・・。そうだ。お父様に言って、上の方(かた)にお願いしてもらってはいかがでしょう?」 弥太郎:「いや、それは難しいだろう。お義父上(ちちうえ)のことだ。すでに官憲(かんけん)に話は通してあると思う。その上で届いた赤紙だ。どうしようもない。」 彩音:「そんな・・・。」 弥太郎:「とにかく俺は、このことをお義父上に話してくる。」 彩音:「あぁ、どうしてこんなことに・・・。」 弥太郎:「戦時中だ。招集は避けては通れぬ。」 彩音:「そうですが、もし弥太郎さんの身に何かあれば、私は・・・。」 弥太郎:「そう心配するな。きっとこの戦争は長くはない。俺が訓練を終え戦地に向かう頃には終わっているかもしれない。」 彩音:「でも・・・。」 弥太郎:「大丈夫だ。だから、そう悲しい顔をしないでくれ。」 彩音:「・・・弥太郎さん。どうか無事に帰ってきてください。」 弥太郎:「ああ。必ず、必ず無事に帰ってくる。だから・・・、きっと待っていてくれ。」 彩音:「はい・・・。」 0: 美代:そうして弥太郎さまは兵役につかれました。 美代: 美代:弥太郎さまがおっしゃったように、その戦争は長くは続きませんでした。 美代:次の年には休戦条約が結ばれ、冬から春にかけて多くの兵士が戻ってきました。 美代:ですが、その中に弥太郎さまのお姿はありませんでした。 美代:奥様は様々な伝手(つて)を使って消息を訪ねて回りましたが、弥太郎さまの行方はわからぬままでした。 美代: 美代:そうして二年が経った頃、大旦那様は奥様を説得して新たに今の旦那様、吉岡晴彦さまへと嫁がせたのです。 美代:これは、元々縁のあった吉岡屋と藤田屋を一つにすることで、戦争によって疲弊した両家を復興しようとする、そういう意味合いがありました。 美代:そして、お二人が結婚して三年が過ぎました。 0: 0:ーー吉岡邸ーー 晴彦:「はい。」 美代:「美代でございます。お食事をお持ちいたしました。」 晴彦:「どうぞ。」 美代:「失礼いたします。おはようございます、旦那さま。」 晴彦:「おはようございます。いつもすみません。わざわざ部屋まで運んでいただいて。」 美代:「いえ。これくらい手間ではありませんから。・・・また徹夜なさったんですか?」 晴彦:「え?いえ、今日は寝ましたよ。少し。」 美代:「(溜息) 旦那さま、もう少しご自愛ください。奥様も心配されてましたよ。」 晴彦:「いや、まあ、このくらい大丈夫ですよ。」 美代:「またそういうことをおっしゃって・・・。」 彩音:「晴彦さま、彩音です。少しよろしいですか?」 晴彦:「はい、どうぞ。」 彩音:「失礼いたします。あら、美代もいたの。」 美代:「お食事をお持ちしていました。」 彩音:「そうだったのね。」 美代:「奥様、聞いてください。旦那さまったら、またほとんど寝ずにお仕事していらしたみたいですよ。」 晴彦:「ちょっと、美代さん。」 彩音:「晴彦さま、本当ですか?」 晴彦:「いや、その、どうしてもやっておかないといけない仕事がありまして・・・。」 彩音:「あれほどご自愛くださいと何度も言っていますのに。」 美代:「本当です。」 彩音:「私の言葉では晴彦さまのお心に響かないのですね・・・。」 美代:「ああ、可愛そうな奥様・・・。」 晴彦:「もう、そうやって二人して私をいじめないでください。」 彩音:「あら、いじめてなんていません。ご自愛くださいと申してるだけです。」 美代:「そうですよ。何度言ってもご自愛くださらないんですから。」 晴彦:「わかりました。気を付けます。本当に気を付けますから、もう勘弁してください。」 美代:「だそうですよ、奥様。」 彩音:「では、この辺りで許してあげましょうか。」 美代:「そうですね。」 彩音:「でも本当に、どうぞご自愛くださいね。」 晴彦:「はい。わかりました。」 美代:「では旦那さま、こちら食後に飲むお薬ですので。お忘れなく。」 晴彦:「はい。どうもありがとう。」 美代:「奥様のお食事ももうご用意できますので。」 彩音:「ええ、ありがとう。少ししたら行くわ。」 美代:「はい。では、失礼いたします。」 晴彦:「・・・それで、どうかしました?」 彩音:「あ、いえ、大したお話ではないのですが、お父様に『今日実家のほうへ来られるか』と尋ねられまして。」 晴彦:「お父上に?」 彩音:「はい。それで、少し実家に顔を出そうと思います。」 晴彦:「そうですか。それでは気を付けていってらっしゃい。」 彩音:「すみません。急に家を空けることになってしまって。」 晴彦:「構いませんよ。彩音さんは自由にしてください。ついでに銀座に寄って、気晴らしに何か買い物でもしてくるといいですよ。」 彩音:「そんな、いけません。晴彦さまが寝食も惜しんでお仕事されてるというのに。」 晴彦:「また私をいじめるつもりですか?」 彩音:「本当に心配しているのです。」 晴彦:「そうでしたか。ですが、私が寝る間も惜しんで働くのは、彩音さんを幸せにしたいからです。ですから、そのせいで彩音さんが窮屈な思いをするのでは本末転倒というものですよ。」 彩音:「私はもう十分に幸せです。」 晴彦:「本当ですか?」 彩音:「本当ですとも。」 晴彦:「そうだといいんですけど。」 彩音:「あら、信じてくださらないのですか?」 晴彦:「そういうわけではないのですが・・・。」 彩音:「晴彦さま・・・。どうか自信をお持ちになってください。 彩音:私は、晴彦さまとこうして一緒にいられるだけで本当に幸せなのですから。」 晴彦:「彩音さん・・・。ありがとうございます。」 彩音:「ありがたいのは私のほうです。むしろ、晴彦さまのほうが心配です。私のせいで不幸せなのではと思って。」 晴彦:「私はとても幸せですよ。」 彩音:「本当ですか?」 晴彦:「はい。」 彩音:「でも、私ばかり色々として頂いて・・・。」 晴彦:「それは違います。私は自分のしたい事をしているのです。彩音さんを笑顔にするのが私の喜びなのですよ。」 彩音:「ですから、もう十分に幸せです。」 晴彦:「もっともっと幸せにしたいのです。」 彩音:「・・・晴彦さまは欲張りです。」 晴彦:「はい。そうですね。」 彩音:「むぅ。」 晴彦:「口を尖らせた姿も可愛らしいです。」 彩音:「もう、知りません。どうぞ、冷める前にお食事をお召し上がりください。」 晴彦:「はは、わかりました。そうします。」 彩音:「それでは、お昼前には家を出ますね。」 晴彦:「わかりました。気を付けて。」 彩音:「はい。では、失礼いたします。」 0: 0:ーー車中ーー 美代:「本当に旦那さまには困ったものです。」 彩音:「まだ言っているの?」 美代:「だって、奥様がこんなに心配してるのに、全然お休みにならないんですもの。」 彩音:「あの方は、いつもご自分を後回しになさってしまうものね。」 美代:「本当です。心配する奥様の身にもなって欲しいです。」 彩音:「まあ。美代はいったい私と旦那さまと、どちらを心配してるのかしら。」 美代:「お二人ともです。」 彩音:「ふふ、それはありがとう。」 美代:「いえ。」 彩音:「でもね、私は美代のことも心配してるのよ?」 美代:「私ですか?」 彩音:「ええ。ほら、私のせいで、美代は婚期を逃してしまったから・・・。」 美代:「いえ、それは奥様のせいではありません。私がお側にいたかったのです。」 彩音:「ありがとう。でもね、それでもあの頃、美代がいてくれなければ、私はきっと耐えられなかったと思うの。」 美代:「奥様・・・。」 彩音:「だからね、私は美代にも、早くいい人と一緒になって幸せになってもらいたいの。」 美代:「そんな・・・。私は、一生奥様と旦那さまにお仕えしたいです。お嫁になんか行かなくていいです。」 彩音:「でも・・・。」 美代:「奥様。」 彩音:「・・・わかったわ。そういうことにしておきましょう。でも、もしこの先誰かいい人が現れたら、私に教えてちょうだいね。」 美代:「そんな人は現れません。」 彩音:「そうかしら?私はきっと出会うと思うわ。だって、美代はこんなにも可愛らしいのだから。」 美代:「奥様ぁ。」 彩音:「ふふっ。」 0: 0:ーー藤田邸ーー 彩音:「それじゃあ美代、私はお父さまに会ってきますから、少し待っていて。」 美代:「はい。では私はお妙(たえ)さんたちに挨拶してきます。」 彩音:「ええ。それじゃあ。」 美代:十二の頃から奉公している藤田邸は、久しぶりに来ると懐かしく思われます。 美代:女中仲間に挨拶をしようと奥ヘ進むと、客間にどなたか人のいる気配を感じました。 美代:大旦那さまは奥様といらっしゃるはずですし、いったいどなたがいらっしゃっているのだろうと疑問に思っていると、目の前の扉が開き、思いもかけない方のお姿が現れたのです。 弥太郎:「美代。美代か?」 美代:「え?あの、もしかして・・・、弥太郎さま?」 弥太郎:「そうだ。弥太郎だ。やはり美代だな。彩音は?彩音はどこだ?」 美代:「え?奥様ですか?」 弥太郎:「そうだ。お前を連れて湯治(とうじ)に行っていたと聞いている。お前が戻ったということは、彩音も一緒なのだろう?」 美代:「そ、それは、・・・大旦那様がそうおっしゃったのですか?」 弥太郎:「そうだ。で、彩音はどこだ?」 美代:「それが、その・・・、奥様は調子が戻らず、滞在が長くなりそうでしたので、私は一度荷物を取りに戻ったのです。」 弥太郎:「なに?そんなに良くないのか?彩音は無事なのだろうな?」 美代:「はい。お医者様がおっしゃるには、大事に至る病ではないとのことです。」 弥太郎:「そうか・・・。それで、彩音は今もその湯治場にいるのだな?」 美代:「はい。」 弥太郎:「では、俺もそこへ連れて行ってくれ。」 美代:「え。」 弥太郎:「実は長い間戦争捕虜として捕まっていてな。なんとか生きて労役を終え、昨日やっと帰ってこれたのだ。それなのに、彩音は家におらんし、お義父上はこの家で彩音の帰りを待てというのだ。」 美代:「そう、だったのですね・・・。」 弥太郎:「だが俺は、今すぐにでも彩音に会いたい。な、美代。俺をその湯治場へ連れて行ってくれ。」 美代:「でも・・・。」 弥太郎:「頼む。」 美代:「・・・大旦那様のご判断ですから、私ごときが勝手をするわけにはまいりません。申し訳ありません。」 弥太郎:「・・・そうか。そうだな。無理を言った。すまない。」 美代:「いえ。こちらこそお力になれず申し訳ありません・・・。」 弥太郎:「・・・それで、彩音は元気にしていたか?」 美代:「はい?」 弥太郎:「ああ、いや、湯治に行っているのだから、身体の調子が良くないのはわかっている。だが、俺のいない間、不自由はしていなかっただろうか。ずいぶん寂しい思いをさせてしまったからな。」 美代:「そう・・・ですね。」 弥太郎:「三月(みつき)に一度手紙を送れたので書いたのだが届いていたか?あいにく返事が来なかったので、届いているのか不安でしょうがなかったのだ。」 美代:「手紙を・・・、お書きになっていたのですか?」 弥太郎:「ああ。二十通は書いた。俺は無事だと。必ず生きて戻ると。」 美代:「・・・・・・。」 弥太郎:「・・・その様子だと、届いてはいなかったようだな。」 美代:「はい・・・。」 弥太郎:「そうか・・・。それはさぞ心配であったろう。すまなかった。だが、こうして無事に戻った。そのことを早く彩音に知らせたい。 弥太郎:そうだ。美代はまた彩音のところへ戻るのだろう?なら、手紙を届けて欲しい。すぐに書くので待っていてくれ。」 彩音:「弥太郎さん!] 弥太郎:「彩音!?彩音か?」 彩音:「はい。私です。彩音です。」 弥太郎:「彩音!・・・彩音、今、戻った。」 彩音:「弥太郎さん・・・。あぁ、こんなにお痩せになって・・・。」 弥太郎:「心配をかけた。遅くなって、すまぬ・・・。」 彩音:「いえ、無事にお帰りくださっただけで充分です・・・。お帰りなさい・・・、弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「彩音・・・。」 美代:「・・・・・・奥様、その・・・。」 弥太郎:「そうだ。彩音、身体はもういいのか?」 彩音:「身体?」 弥太郎:「湯治に行っていたのだろう?調子が良くないから長く留まることになったと聞いた。」 彩音:「あ、ええ、その、そうなんですけど・・・、弥太郎さんが戻っていらっしゃったと聞いて、いてもたってもいられず帰ってきました。」 弥太郎:「そうか。ありがとう、彩音。とても嬉しい。だが、無理はしてくれるな。お前の身体が一番大事だからな。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「これからは俺がいる。お前のことを守ってやれる。だから、安心しろ。」 彩音:「・・・はい。」 弥太郎:「ところで、また湯治に戻るにしても今日はうちに泊まれるんだろう?」 彩音:「え?・・・あ、はい。」 弥太郎:「お互い積もる話もあるだろうし。体調次第では何日かゆっくりしてからでもいいかもしれないな。」 彩音:「そ、そうですね。」 弥太郎:「ん?どうかしたか?」 彩音:「いえ、別に・・・。」 美代:「・・・それでは私は、その旨を『宿』のほうに伝えて参ります。」 彩音:「ええ、お願い。」 美代:「色々買い揃える物もあるので、私はそのまま向こうで奥様をお待ちしていますね。」 彩音:「そう。申し訳ないけど、頼んだわね。」 美代:「はい。」 弥太郎:「しかし、そうか。お義父上がこちらで待っていろと言ったのは、行き違いにならないためだったのか。それならそうと言ってくだされば良かったのに。」 彩音:「お父さまも、弥太郎さんを驚かせたかったのでしょう。」 弥太郎:「ああ、大いに驚いた。だが、こんなに嬉しいことはない。労役中、あまりの過酷さに、もう二度と彩音に会うことは叶わぬかもと、そう思ったこともあった。だが今、目の前に彩音がいる。それだけでもう何もいらぬ。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「彩音・・・。もう二度と離さぬ。決して。」 彩音:「・・・・・・。」 0: 美代:突然のことに、何をどうごまかしたのか、はっきり覚えておりません。 美代:ただただ、困ったことになったと思っておりました。 美代:本来ならば、大変喜ばしいことなのに・・・。 0: 0:ーー吉岡邸ーー 晴彦:「はい。」 美代:「美代でございます。」 晴彦:「どうぞ。」 美代:「失礼いたします。ただいま戻りました。」 晴彦:「早かったですね。買い物には行かなかったのですか?」 美代:「はい・・・。」 晴彦:「そうですか。・・・何かありました?」 美代:「それが・・・。」 晴彦:「ん?」 美代:「奥様は、ご実家のほうで用事がございまして、・・・もしかしたら本日はお戻りになれないかもしれません。」 晴彦:「・・・そうですか。わかりました。ありがとうございます。」 美代:「いえ・・・。」 晴彦:「・・・どうしたんですか。何か良くないことでも?」 美代:「・・・あの。」 晴彦:「はい。」 美代:「・・・いえ、なんでもありません。」 晴彦:「・・・。美代さん、今少し時間ありますか?」 美代:「はい?」 晴彦:「ちょうど今、少し休憩しようと思っていたんです。美代さんも良かったらこちらへ。」 美代:「はい。」 晴彦:「ここからちょうど庭の花壇が見えるんですよ。綺麗でしょう?」 美代:「本当。綺麗ですね。」 晴彦:「・・・。あの花の名前、知っていますか?」 美代:「私、花の名前はあまり詳しくないので。わかるのはウメ、サクラ、ヒマワリ、あとタンポポくらいです。」 晴彦:「あはは、そうですか。」 美代:「はい。お恥ずかしい限りです。」 晴彦:「恥ずかしいことなんてありませんよ。私は飯の炊き方もみそ汁の作り方もまったくわかりませんから。」 美代:「旦那さまはそんなことする必要がありませんから当たり前です。」 晴彦:「そう。人それぞれ得手不得手がある。でもそれは当たり前のことで恥ずかしいことじゃありません。それに、知らないことは聞けばいいんです。」 美代:「そうでしょうか?」 晴彦:「はい。」 美代:「では・・・、あの花は何という名前なのですか?」 晴彦:「ケイトウです。」 美代:「はい?」 晴彦:「鶏の頭と書いてケイトウと読みます。ほら、トサカみたいに見えるでしょう?」 美代:「本当だ。」 晴彦:「見た目の美しさに反して面白い名前なので覚えているんです。」 美代:「ふふっ、そうなんですね。」 晴彦:「花はいいですよね・・・。見ているだけで気持ちが明るくなる。」 美代:「・・・そうですね。」 晴彦:「女々しいと言われるかもしれませんが、こうして時どき窓から花を眺めるのが好きなんですよ。」 美代:「女々しいだなんてとんでもありません。旦那さまの優しさ故です。」 晴彦:「花を愛でることと優しさとは関係ないと思いますが?」 美代:「ほとんどの殿方は花に気づきもしません。常に周りに気を配る旦那さまだからこそ、花の美しさにも気づけるのです。」 晴彦:「そうでしょうか?」 美代:「そうです。」 晴彦:「・・・美代さんがそう言うのなら、そういうことにしておきましょうか。」 美代:「はい。私が言うのですから間違いありません。・・・ありがとうございます。お気遣いいただいて。」 晴彦:「?何のことでしょう?私は休憩に付き合ってもらっただけですよ。」 美代:「そうですか。」 晴彦:「はい。」 美代:「・・・わかりました。では、少し早いですが私は夕餉(ゆうげ)の支度にかかりますね。」 晴彦:「はい。(咳込む)ごほっごほごほっ。」 美代:「大丈夫ですか?」 晴彦:「・・・はい。少し咳が出ただけですから。」 美代:「少し冷えましたか?近頃急に寒くなって来ましたから、気を付けてくださいね。今温かいお茶をお持ちします。」 晴彦:「すみません。ありがとうございます。」 0: 0:ーー藤田邸ーー 弥太郎:「(静かに)彩音。彩音、起きているか?」 彩音:「弥太郎さん?はい。」 弥太郎:「(静かに)入るぞ。」 彩音:「え?あの」 弥太郎:「彩音。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「こんな遅くにすまない。だが、どうしても彩音に会いたくてな。」 彩音:「いえ。」 弥太郎:「身体のほうはどうだ?辛くはないか?」 彩音:「はい。大丈夫です。」 弥太郎:「そうか・・・。彩音。」 彩音:「弥太郎さん、この傷・・・。」 弥太郎:「ああ。これは収容所時代に看守から受けたものだ。」 彩音:「こんな・・・ひどい・・・。」 弥太郎:「俺などマシなほうだ。あそこでは毎日のように同胞が死んでいった。まともな食事も与えられず、朝から晩まで働かされ、看守たちからは理不尽な暴行を受ける。本当に地獄のような日々だった。」 彩音:「そんな・・・。よくご無事で。」 弥太郎:「生きて戻るには決して逆らわぬことだと思ってな。どんな理不尽なことにも黙って従った。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「手紙も欠かさず書いたのだが、・・・どうやら届いてはいなかったようだな。」 彩音:「すみません・・・。」 弥太郎:「彩音が謝ることではない。きっと検閲(けんえつ)の段階ですべて捨てられていたのだろう。」 彩音:「(独り言)弥太郎さんが生きているとわかっていれば・・・。」 弥太郎:「ん?」 彩音:「いえ、なんでもありません・・・。」 弥太郎:「そうか。・・・・・・。」 彩音:「弥太郎さん?どうかしましたか?」 弥太郎:「いや・・・、なんだかお義父上の様子が気になってな。」 彩音:「お父さまの?」 弥太郎:「ああ。どうも俺と彩音が一緒にいるのを快く思っていないように思えて・・・。」 彩音:「そ、そんなことは無いと思いますよ。気のせいですって。」 弥太郎:「だが、六年ぶりに帰ってきたというのに、寝所(しんじょ)を別にするなんておかしいと思わないか?」 彩音:「それは・・・、お父さまは私の身体を案じているのですよ。」 弥太郎:「だが、俺が見る限り、それほど重い病には見えぬ。兵役から戻った夫を寝所から追い出すほどの理由足(た)りえるだろうか。」 彩音:「それは・・・。」 弥太郎:「彩音はどうなのだ?」 彩音:「私、ですか?」 弥太郎:「そうだ。彩音は俺と褥(しとね)を共にするのは嫌か?」 彩音:「私は・・・。」 弥太郎:「俺はこの六年、お前のことだけを考えて生きてきた。お前だけが俺の生きる希望だったんだ。そのお前が今、目の前にいる。それなのになぜ部屋を分けて過ごさねばならない。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「彩音、もう二度とお前を離したくないのだ。どうか俺の思いを受け入れてくれ。」 彩音:「・・・・・・はい。」 弥太郎:「彩音・・・。」 0: 0:ーー吉岡邸ーー 晴彦:「はい。」 美代:「美代でございます。お茶をお持ちしました。」 晴彦:「どうぞ。」 美代:「失礼いたします。」 晴彦:「どうして私が起きているとわかったのですか?」 美代:「そこの窓から見ていましたから。」 晴彦:「え!?本当ですか?」 美代:「ふふっ、冗談です。廊下に明かりが漏れていましたから。」 晴彦:「なんだ、そうですか。こんな遅くまですみません。どうぞ、私に構わず休んでください。」 美代:「旦那様こそ、こんな時間にまだお仕事ですか?」 晴彦:「いやぁ、どうしても数字が合わない箇所があって、それを調べていたんです。」 美代:「もう一時ですよ。本当にご自愛ください。」 晴彦:「あ・・・、ですが、これはどうしても・・・。」 美代:「また奥様にご報告しますよ?」 晴彦:「・・・わかりました。では、こちらの帳簿を調べたら今日のところは終わりにしようと思います。」 美代:「約束ですよ?」 晴彦:「はい」 美代:「では、温かいうちにどうぞ。」 晴彦:「ありがとうございます。(お茶を飲み大きく息を吐く)・・・。」 美代:「どうかしました?」 晴彦:「いえ。・・・やはり彩音さんは、今日はご実家のほうにお泊りに?」 美代:「そう、みたいです。」 晴彦:「ご実家で何かあったのかな?良くないことでなければいいけれど。」 美代:「・・・心配ですか?」 晴彦:「そりゃ、私の奥さんですからね。」 美代:「そうですよね。」 晴彦:「はい。」 美代:「・・・・・・。」 晴彦:「きっと何か事情があるのでしょうね。」 美代:「・・・何もお話しできず申し訳ありません。」 晴彦:「いえ。結婚したとは言え、ご実家のことをあれこれ聞くわけにはいきませんからね。・・・ただ、少し心配性なだけです。」 美代:「旦那さま・・・。旦那さま、私は旦那さまの味方ですから。」 晴彦:「美代さん?」 美代:「何もできませんが、それでも私は旦那さまの味方ですから。」 晴彦:「・・・そうですか。ありがとうございます。」 美代:「いえ・・・。」 晴彦:「本当にもう遅いですし、そろそろ休んでください。」 美代:「はい。ありがとうございます。旦那さまも本当に良きところでお休みくださいね。」 晴彦:「はい。」 美代:「それでは、失礼いたします。」 晴彦:「おやすみなさい。」 0: 0: 美代:それから三日ほどして奥様は帰っていらっしゃいました。 美代:旦那さまへは、『ご実家のお母さまの看病』と説明をされていました。 美代: 美代:それから奥様は、月の半分をご実家で過ごすようになりました。 美代:半分はこの家で旦那さまと、もう半分はご実家で弥太郎様と・・・。 美代: 美代:もちろん、この二重生活が長く続くわけがないということは、奥様も藤田家の方々もわかってはいました。 美代:ですが、戦地から生きて戻った弥太郎さまを追い出すわけにもいかず、かと言って吉岡家を裏切ることもできず、うまい解決策が見つからぬまま時だけが過ぎていきました。 美代: 美代:問題は、弥太郎さまに『いつ』『どのように』真実を話すか、でした。 美代:そのはずだったのです。 0: 0: 彩音:「それでは、申し訳ありませんがまた半月ほどご不便をおかけします。お正月前には戻りますから。」 晴彦:「私のことは気にしないでください。こちらは大丈夫ですから。それよりお義母さまをお大事になさってください。」 彩音:「お気遣いありがとうございます。」 晴彦:「一度くらい、私もお見舞いに伺いたいのだけれど。」 彩音:「申し訳ありません。病に臥(ふ)せっている姿を誰にも見られたくないと母が申しておりまして。それに、人にうつる病ゆえ、家人(かじん)以外通すわけにはいかないのです。」 晴彦:「わかっています。ですから、私が案じていたとお義母さまにお伝えください。」 彩音:「はい。ありがとうございます。」 晴彦:「それと、彩音さんもお身体には十分お気を付けて。あなたが倒れては、お義母さまも悲しむでしょうし。」 彩音:「はい。」 美代:「奥様、荷物を積み終わりました。」 彩音:「そう。ありがとう。」 美代:「それでは旦那さま、藤田のお屋敷まで奥様を送ってまいります。」 晴彦:「美代さんも連れて行っていいんですよ?女中なら他にもいますし。」 彩音:「いえ、私がお世話できない分、せめて美代に晴彦さまのお世話をさせてください。」 晴彦:「そうですか・・・。」 彩音:「はい。」 晴彦:「わかりました。では美代さん、彩音さんを頼みます。」 美代:「はい。」 彩音:「それでは、行ってまいります。」 晴彦:「はい。気を付けて。」 彩音:「はい。うっ・・・。」 晴彦:「?どうかしました?」 美代:「奥様?」 彩音:「うぅ・・・、ちょっと・・・、厠(かわや)へ・・・、うっ。」 美代:「奥様!?」 晴彦:「彩音さん!」 彩音:「(えづく)うぇ・・・、おぇ、おえぇ・・・、うぇ、うえぇ・・・うぅ・・・。はぁはぁ・・・。」 晴彦:「大丈夫ですか?美代さん、彩音さんの様子は?」 美代:「奥様?奥様、大丈夫ですか?」 彩音:「はぁはぁ・・・、ええ。・・・大丈夫。もう、治まったわ。」 美代:「(晴彦に)大丈夫です。もう治(おさ)まったそうです。」 晴彦:「そうですか・・・。っ!もしかして、お義母さまのご病気が移ったのでは?もしそうなら・・・。」 彩音:「いえ、そうではありません。大丈夫です。」 晴彦:「しかし、急に具合が悪くなるなんて、一度医者に診てもらったほうがいいですよ。」 彩音:「いえ、本当にもう大丈夫ですから。」 晴彦:「でも・・・。」 美代:「あの・・・。」 晴彦:「なんですか?」 美代:「奥様・・・、もしかして・・・。」 彩音:「え?」 美代:「その、もしかしてですけど・・・、つわりでは・・・?」 彩音:「・・・!」 晴彦:「つわり?つわりって、まさか・・・。」 彩音:「ど、どうでしょう。私にはわかりません。」 晴彦:「医者に行きましょう!」 彩音:「え?」 晴彦:「医者に診てもらいましょう。子供ができたのかどうか。」 彩音:「今からですか?」 晴彦:「はい!もし懐妊していたら、良い知らせをもってご実家に行けるじゃないですか!きっとお義母さまもお喜びになるはずです!」 彩音:「そうですけど・・・。」 晴彦:「では、すぐに支度しますから少し待っていてください。」 彩音:「え?晴彦さまもいらっしゃるのですか?」 晴彦:「もちろんです。我が子を懐妊しているかもしれないのですよ?家でのんびり仕事なんかしていられません!すぐに戻りますから!」 彩音:「・・・・・・。」 美代:「あの、奥様・・・、申し訳ありません。」 彩音:「ううん。しかたないわ。それにまだ妊娠したと決まったわけではないもの。」 美代:「・・・あの。」 彩音:「なに?」 美代:「もし、その、本当だった場合・・・、どちらの・・・?」 彩音:「・・・・・・。」 美代:「・・・・・・。」 晴彦:「すみません。お待たせしました。」 彩音:「いえ。」 晴彦:「さあ行きましょう。うちから一番近い婦人科病院はどこですかね?それとも大きいところのほうが安心かな?とりあえず車に乗りましょうか。」 彩音:「はい。」 0: 0:ーー藤田邸ーー 弥太郎:「いやぁ、しかし本当にめでたい!俺が帰ってまだ三月(みつき)足らずだと言うのに、もう俺たちの子を宿すとは。身体の調子も良くないのに、本当によく頑張ってくれた。」 彩音:「いえ、そんな・・・。」 弥太郎:「これからは、今まで以上に身体に気を付けないとな。もうお前だけの身体ではないのだから。」 彩音:「はい・・・。」 弥太郎:「しかしこれからは、俺ものんびりしているわけにはいかないな。お義父上に言われ療養に努めていたが、俺ももう父親になるのだ。一家の大黒柱として、しっかりとこの家を守っていかねばな。」 彩音:「・・・・・・。」 弥太郎:「ん?どうした?何か気になることでもあるのか?」 彩音:「いえ、別に・・・。」 弥太郎:「どうしたのだ?・・・時折、物悲し気なその顔をする。いったい何がお前をそのように悲しませるのだ。どうか話してくれないか?俺はその悲しみからお前を守ってやりたいのだ。」 彩音:「弥太郎さま・・・。」 弥太郎:「さあ、どうか話してくれ。」 彩音:「(静かに泣き始める)・・・ごめんなさい。ごめんなさい・・・。」 弥太郎:「どうした?なぜ謝る?」 彩音:「私がいけないのです。すべて私が・・・。」 弥太郎:「何のことだ彩音?いったい何を謝っているのだ。」 彩音:「弥太郎さんを信じられなかった私がいけないのです。どうか私を打(ぶ)ってください。」 弥太郎:「彩音を打てと?そんなことできるわけがない。何を言っているのだ。訳(わけ)を話してくれ。」 彩音:「・・・実は私、・・・他の方と、再婚しているのです。」 弥太郎:「・・・再婚!?いったい何を言っている。」 彩音:「・・・軍から弥太郎さんの消息が途絶えたと連絡を受け、それ以来様々な伝手を使ってずっと探しておりました。ですが、戦争が終わり多くの人が帰って来ても、弥太郎さんは一向にお帰りにならず・・・。」 弥太郎:「それは、収容所にいたからだ。強制労働させられていたのだ。」 彩音:「はい。それは聞きました。でも、私どもにはそれを知るすべはありませんでした。」 弥太郎:「だが、俺は・・・。」 彩音:「・・・終戦から一年が経ち、父がもう諦めるようにと言いました。それでも私は、弥太郎さんは帰ってくると信じて待っていました。 彩音:でも、一年を過ぎると帰ってくる人は極端に少なくなりました。月に一人か二人・・・。一人もいない月もありました。私の心は日に日に絶望で塗りつぶされていったのです。 彩音:そして一年と半年が過ぎた頃、『二年経っても弥太郎さんが戻らなければ、両家を建て直すために吉岡屋の息子と再婚して欲しい』と、父が言いました。」 弥太郎:「そして、それに従ったと・・・?」 彩音:「その頃の私は、弥太郎さんがもうこの世にいないと思い始めていました。なので、もう全てがどうでも良かったのです。弥太郎さんのいない人生など、もうどうでもいいと・・・。」 弥太郎:「・・・では、湯治というのは嘘か?」 彩音:「はい・・・。」 弥太郎:「湯治と言ってこの家を離れている間、その新しい夫の元へ行っていたのか!」 彩音:「・・・はい。」 弥太郎:「この俺を騙していたんだな!」 彩音:「ごめんなさい。本当にごめんなさい・・・。」 弥太郎:「俺が・・・、死ぬほど苦しい思いをしていた時、お前は俺のことを忘れて、新しい夫と新たな生活を始めていたのか。そうか・・・。」 彩音:「ごめんなさい・・・、弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「・・・子供は?」 彩音:「え?」 弥太郎:「子供は・・・、どちらのだ?俺か?それとも、その男か?」 彩音:「・・・はっきりとは言えませんが、たぶん弥太郎さんの・・・。」 弥太郎:「・・・そうか。」 彩音:「はい・・・。」 弥太郎:「どんな男だ?」 彩音:「・・・はい?」 弥太郎:「再婚したという男だ。どんな男だ。」 彩音:「・・・お優しい方です、とても。」 弥太郎:「・・・・・・。」 彩音:「結婚して一年ほど、弥太郎さんを亡くした悲しみから、私はまるで人形のように心を失くしていました。でもそんな私に旦那さまは怒ることもなく、根気よく話しかけてくださいました。常に穏やかで笑顔でした。そんな旦那さまと過ごすうちに、私はだんだんと心を取り戻すことができたのです。・・・あの人は私の恩人です。」 弥太郎:「・・・良い男なのだな。」 彩音:「はい・・・。」 弥太郎:「・・・それで、どうするのだ。」 彩音:「・・・・・・。」 弥太郎:「いつまでもこのままというわけにはいくまい。どちらかを選ばねば。」 彩音:「・・・・・・。」 弥太郎:「正直に答えてくれ。その男と俺と、今のお前はどちらを愛している。」 彩音:「・・・・・・。」 弥太郎:「決して怒ったりはせぬ。だから教えてくれ。どちらを愛している。」 彩音:「・・・弥太郎さんです。晴彦さまには感謝していますし愛してもいました。けれど私は、やはり弥太郎さんのことが忘れられません。」 弥太郎:「彩音・・・。」 彩音:「もう一度、弥太郎さんと一緒に生きていきたい。弥太郎さんと夫婦になりたい。ですが、先ほども言ったように晴彦さまには恩がありますし、第一、家同士の約束があります。そして、今の私は晴彦さまの妻なのです。どうしようもないのです。私にはどうすることもできないのです・・・。」 弥太郎:「・・・死ぬ思いで戻ったというのに、なぜこのような・・・。」 彩音:「ごめんなさい。本当にごめんなさい・・・。」 弥太郎:「・・・いっそ、死んでいれば・・・。」 彩音:「やめてください!言わないで。そんなことは決して言わないで!」 弥太郎:「だが、俺さえ戻らなければ。」 彩音:「それでも、私は弥太郎さんが生きて戻ってきてくれて良かったと思っています。何があろうと、そのことを否定したくはありません。」 弥太郎:「彩音・・・。」 彩音:「弥太郎さん・・・。」 弥太郎:「どうすればいいのだ・・・。俺たちは、どうすれば・・・。」 0: 0:ーー吉岡邸ーー 晴彦:「はい」 美代:「美代でございます。旦那さま宛てのお手紙をお持ちしました。」 晴彦:「どうぞ。」 美代:「失礼いたします。旦那さま、こちらなのですが・・・。」 晴彦:「?どうかしました?」 美代:「それが、差出人が書かれていないのです。」 晴彦:「差出人が?」 美代:「はい。」 晴彦:「そうですか。とりあえず読んでみます。」 美代:「旦那さま、ではお茶をお持ちしましょうか?」 晴彦:「ありがとうございます。お願いします。」 美代:「はい。」 晴彦:「しかし、いったい誰からだろう・・・。 晴彦:・・・っ!これは・・・。まさか、そんな・・・・・・。そうか・・・。そういうことだったのか・・・。だから・・・。」 美代:「旦那さま、お茶をお持ちしました。旦那さま?」 晴彦:「はっ。」 美代:「どうかなさいました?良くない知らせでも?」 晴彦:「い、いえ・・・、別に・・・。」 美代:「でも、お顔の色が優れません。大丈夫ですか?」 晴彦:「はい、大丈夫です・・・。お茶、ありがとうございます。もう下がってください。」 美代:「・・・はい。では、失礼いたします。」 0: 美代:その手紙が誰からのものだったのか私にはわかりません。 美代:ですが、旦那さまの様子が明らかにおかしかったのを覚えています。 美代:顔は蒼白で、脂汗のようなものまで滲んでいました。 0: 0:ーー料亭ーー 弥太郎:「・・・あんたが吉岡の。」 晴彦:「・・・はい。吉岡晴彦です。」 弥太郎:「俺は・・・、藤田弥太郎だ。」 晴彦:「はい・・・。彩音さんの、前のご主人、ですよね?」 弥太郎:「ああ。」 晴彦:「生きていらしたんですね。」 弥太郎:「あいにく、しぶとくてな。」 晴彦:「喜ばしいことです。」 弥太郎:「どうだか。」 晴彦:「・・・・・・。」 弥太郎:「彩音は今、俺といる。」 晴彦:「・・・藤田の家で、ですか?」 弥太郎:「そうだ。」 晴彦:「ということは、もちろん、藤田家の方は皆、承知の上ということですよね?」 弥太郎:「そうだ。」 晴彦:「そうですか・・・。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「それで、どういったお話でしょうか?」 弥太郎:「は?」 晴彦:「ですから、今日はどういったお話でしょう?」 弥太郎:「どういった話って、わかるだろう?」 晴彦:「さあ。聞いてみないことには、なんとも。」 弥太郎:「そうか・・・。なら、はっきり言おう。彩音と別れてくれ。」 晴彦:「・・・・・・。」 弥太郎:「俺と彩音は別れていない。つまり彩音は俺の妻だ。後から来たあんたがそれを知らぬまま妻にした。」 晴彦:「だから、私が身を引くべきだと?」 弥太郎:「そうだ。」 晴彦:「ですが、藤田と吉岡の家長が話し合って取り決めた縁談です。役所にも私の婚姻が認められています。道理で言えば、あなたが身を引くべきなのでは?」 弥太郎:「・・・だが、彩音は俺を愛している。」 晴彦:「・・・それは、彩音さんがそう言ったのですか?」 弥太郎:「そうだ。彩音の口からはっきりと聞いた。」 晴彦:「・・・そうですか。」 弥太郎:「ああ。」 晴彦:「・・・ですが、本人を前にして他の男を愛してるなどと言えるでしょうか?ましてや、あなたのように屈強な男を前に。」 弥太郎:「彩音が、俺を恐れて嘘を言ったと言うのか?」 晴彦:「その可能性もある、と言ったまでです。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「・・・・・・。」 弥太郎:「・・・どうしても、彩音を手放す気はないか?」 晴彦:「・・・いえ。」 弥太郎:「なに?」 晴彦:「・・・あなたの手紙をもらってからずっと考えていました。どうするのがいいかと。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「彩音さんはきっと今もあなたのことを愛しています。そして、・・・今のこの現状に苦しんでいることでしょう。私は彩音さんを苦しめたくはない。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「ですが、だからと言って簡単に離縁することもできません。お互い家同士の取り決めというものがありますから。」 弥太郎:「・・・それで?結局、どうするのだ。」 晴彦:「・・・三年、待ってもらえませんか?」 弥太郎:「三年?」 晴彦:「はい。・・・私は元々身体が弱く、長くは生きられないと言われていました。それでも親が高価な薬を与えてくれたため、こうしてこの歳まで生きることができました。・・・ですが、それでももう長くはないようなのです。おそらく三年・・・、静養に努めても五年と言われました。」 弥太郎:「・・・それは、あんたが死ぬのを、待てと言うことか?」 晴彦:「はい・・・。吉岡の家にバレなければ、今すぐにでもお二人一緒に暮らしていただいて結構です。ただ、離縁は待ってもらえないでしょうか? 晴彦:私が死んだ後であれば、あなたと再婚しようと、うちの者も口出しはしないでしょうから。ですからどうか、それまで待ってください。」 弥太郎:「・・・あんたはそれでいいのか?」 晴彦:「・・・私にはあまり時間が残されていません。彩音さんに何をしてやれるだろう、何を残してやれるだろうといつも考えていました。そんな時にあなたからの手紙を受け取ったのです。これは天啓(てんけい)だと思いました。」 弥太郎:「彩音を俺に託すと?」 晴彦:「はい。今日あなたにお会いして、あなたならきっと彩音さんを最後まで守ってくれると思いました。ですからどうか、私の分まで彩音さんを幸せにしてあげてください。」 弥太郎:「・・・・・・。」 晴彦:「お願いします。」 弥太郎:「・・・あんたは本当にそれでいいのか?本気で彩音を手放すと言うのか?」 晴彦:「それで、彩音さんが幸せになれるのなら。」 弥太郎:「死ぬまでの間、彩音と過ごすという手もあるのだぞ?」 晴彦:「同情であの人を引き留めたくはありません。彩音さんには自由でいて欲しい。心のままに。 晴彦:彩音さんがあなたを愛しあなたと一緒にいたいのなら、私はそれを邪魔したくはない。」 弥太郎:「・・・惨めな最期になるぞ。」 晴彦:「かもしれませんね。」 弥太郎:「・・・俺は今日、あんたを見定めるつもりで来た。あんたが彩音を幸せにできる男かどうか。くだらない男であったら、彩音を連れてどこかへ逃げようと思っていた。」 晴彦:「・・・そうでしたか。」 弥太郎:「だがあんたは、彩音の言った通りの男だった。彩音の幸せのために自分を後回しにするような、そんな優しい男だと・・・。」 晴彦:「彩音さんが、そう言ったのですか?」 弥太郎:「ああ。あんたのことを恩人だと言っていた。愛していた、とも。」 晴彦:「・・・そうですか。・・・愛してくれていたのですね。」 弥太郎:「・・・吉岡殿、俺のいない間、彩音のそばにいてくれたこと、感謝する。」 晴彦:「いえ、私のほうこそ、彩音さんのそばにいられたことに感謝します。そして、お返しします。どうか、彩音さんを幸せにしてあげてください。」 弥太郎:「ああ、わかった。必ず幸せにすると約束しよう。」 晴彦:「ありがとうございます。」 0: 美代:お二人の間でそのような会話が交(か)わされていることを私は知りませんでした。 美代:もしこの事を知っていたなら・・・。 0: 0:ーー吉岡邸ーー 彩音:「晴彦さま、ただいま戻りました。長い間家を空けて申し訳ありません。」 晴彦:「彩音さん・・・。お帰りなさい。」 彩音:「私のいない間、ご不便はありませんでした?」 晴彦:「はい。何不自由なく過ごしていました。」 彩音:「そうですか。それならよかった。」 晴彦:「彩音さん。」 彩音:「はい。」 晴彦:「少しお話が。」 彩音:「・・・はい。」 晴彦:「どうぞ、掛けてください。」 彩音:「はい。」 晴彦:「身体は辛くありませんか?」 彩音:「はい。お気遣いありがとうございます。」 晴彦:「いえ。」 彩音:「・・・・・・。」 晴彦:「お正月ですが、今年は藤田の家にご挨拶に行くのはやめようかと思っています。」 彩音:「本当ですか?」 晴彦:「はい。今藤田の家に行くのはご迷惑でしょうから。」 彩音:「迷惑というわけではありませんが、母のこともありますし、そうして頂けると正直ありがたいです。」 晴彦:「・・・。それと、少し早いですが、次にご実家へ戻る時には、そのまま出産のための帰省(きせい)としてください。」 彩音:「え?」 晴彦:「出産後も、色々と落ち着くまでこちらに戻らなくて大丈夫です。ご実家でゆっくりしてください。」 彩音:「旦那さま・・・?」 晴彦:「後は、私のほうでうまくやっておきますから。」 彩音:「あの、・・・どういうことでしょうか?」 晴彦:「こちらへは、もう戻らなくて結構と言うことです。」 彩音:「!?旦那さま、まさか・・・。」 晴彦:「・・・はい。全て、知っています。」 彩音:「ど、どうして、お知りに・・・?」 晴彦:「弥太郎さんは彩音さんに話さなかったのですね。・・・きっと、私に話す機会をくださったのでしょう。」 彩音:「弥太郎さんと、お会いになったのですか?」 晴彦:「はい。共に酒を交わしました。はっきりと物を言う、気持ちのいい人ですね。私も好きになってしまいました。」 彩音:「・・・申し訳ありません。本当に申し訳ありません。」 晴彦:「謝らないでください。戦地からご主人が戻ったのです。これは吉報です。」 彩音:「でも、旦那さまに会わす顔がありません。これまでのご恩をこのような形で返すことになってしまって・・・。」 晴彦:「弥太郎さんと話して、そして約束しました。彩音さんをお返しすると。ですからどうぞ、弥太郎さんのもとへ戻ってください。」 彩音:「ですが、それでは晴彦さまはどうなさるのです?」 晴彦:「私のことはお気になさらず。」 彩音:「でも・・・。」 晴彦:「(おどけて)しばらくは傷心で、毎晩お酒を飲むかもしれないけれど。」 彩音:「晴彦さま・・・。」 晴彦:「ふふっ、冗談ですよ。さんざんいじめられましたからね。そのお返しです、なんて。 晴彦:・・・吉岡の家のことも私が万事うまくやりますのでご安心ください。弥太郎さんにはすでに話してあります。彩音さんは藤田の家で全てが終わるのを待っていてください。」 彩音:「晴彦さま・・・。申し訳ありません。申し訳ありません・・・。」 晴彦:「だから、謝らないでください。私は一人で大丈夫ですから。弥太郎さんと、末永くお幸せに。」 彩音:「晴彦さま・・・。」 美代:「・・・どういうことですか?」 彩音:「美代!?」 晴彦:「美代さん・・・!」 美代:「今のはいったいどういうことですか?弥太郎さまと?」 晴彦:「え~と、ですね、その・・・。」 美代:「なぜ旦那さまがお一人にならなければいけないんです!」 晴彦:「美代さん!?」 美代:「奥様は、これほど良くしてくださった旦那さまを裏切るのですか!?」 晴彦:「違うんだ、美代さん。そうじゃない。これは。」 美代:「旦那さまは黙っていてください!」 晴彦:「っ!・・・・・・。」 美代:「一度失(な)くした心を取り戻してくださったのは旦那さまですよ。あれほど奥様に愛情を注いでくださったのに。それを!その恩を仇で返すのですか!」 晴彦:「美代さん、落ち着いて。話を聞いてください。」 美代:「どうしてそんな酷いことができるのですか。どうして!」 彩音:「ごめんなさい・・・。ごめんなさい、美代・・・。」 美代:「・・・弥太郎さまのせいなのですね・・・?」 彩音:「いいえ、すべて私のせいなの・・・。私がいけないの。」 美代:「いえ、・・・弥太郎さまさえ・・・、あの方さえ戻らなければ・・・。」 晴彦:「え?・・・っ!美代さん!」 彩音:「美代!待って、美代!」 0: 美代:身体中の血が燃えているようでした。 美代:景色は赤く染まり、まるで地獄の中を走っているような気がして、頭の中ではただ一つのことだけがぐるぐると駆け巡っていました。 美代:弥太郎さまさえ戻らなければ、皆幸せであったと・・・。 美代:気が付けば私は、藤田のお屋敷の前に立っていました。 美代:そして、息を整え衣(ころも)を正した私は、お屋敷の中へ入りました。 0: 0:ーー藤田邸ーー 弥太郎:「ん?なんだ。美代ではないか。どうしたのだ?」 美代:「・・・・・・。」 弥太郎:「彩音か?彩音ならば、先ほど吉岡へ戻った。行き違いになったのだな。」 美代:「いえ・・・、今日は弥太郎さまに会いに来ました。」 弥太郎:「俺に?」 美代:「はい・・・。」 弥太郎:「そうか。」 美代:「弥太郎さま。」 弥太郎:「なんだ?」 美代:「向こうでは、どのような暮らし向きだったのですか?」 弥太郎:「向こう?向こうとは、収容所での暮らしのことか?」 美代:「はい・・・。」 弥太郎:「なぜそのようなことを?」 美代:「知りたいのです・・・。」 弥太郎:「そうだな・・・、それは酷い暮らしだった。俺は鉱山で働かされていたのだが、一日の食事は硬いパン一つ に味の薄いスープのみ。たまに芋が付けば皆で奪い合いになった。朝は八時には仕事が始まり、夜の九時まで続いた。夏は暑さで倒れそのまま帰らぬ者もいたし、冬は寒さで手が凍り、指を切断する者もいた。毎日のように人が死に、まるで物のように穴に投げ捨てられた。・・・まさにこの世の地獄だった。」 美代:「・・・そうですか。」 弥太郎:「ああ・・・。俺も何度も死にかけた。落盤が起きたり、ガスが噴き出したり。時には看守の気分で死ぬほど殴られたりもした。もう二度と生きて戻れぬかと思った。だが、また彩音やお前に会うことができた。これほど嬉しいことはない。」 美代:「(ボソッと)・・・ねば良かったのに・・・。」 弥太郎:「ん?」 美代:「・・・なぜ戻ったのですか。」 弥太郎:「なぜ?」 美代:「・・・なぜその時、死んでくださらなかったのです。」 弥太郎:「・・・それは、どういう意味だ。」 美代:「弥太郎さまが戻らなければ、旦那さまがこんな目にあうことはなかった・・・。」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「弥太郎さまさえ戻らなければ!あのお優しい旦那さまが苦しむことはなかったのです!」 弥太郎:「・・・そうかもしれぬな。」 美代:「なぜ戻っていらしたのですか。あなたさえ帰ってこなければ皆幸せだったのに!」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「・・・消えてください。・・・今からでも、ここからいなくなってください。」 弥太郎:「・・・それはできぬ。」 美代:「なぜですか。」 弥太郎:「必ず幸せにすると約束したからだ。一生大切にすると。」 美代:「・・・そうですか。」 弥太郎:「・・・すまぬ。」 美代:「でしたら・・・。」 弥太郎:「ん?っ!美代・・・。」 美代:「私が・・・。」 弥太郎:「待て、美代!何をする気だ。そのハサミを置け!」 美代:「あなたさえ・・・、あなたさえいなければ!」 弥太郎:「美代!くっ!うあっ!・・・うぅっ!」 美代:「はぁっはぁっはぁっはぁっはぁっはぁっ・・・。」 弥太郎:「美代・・・・・・、くはっ。」 彩音:「弥太郎さん!」 晴彦:「美代さん!?」 美代:「・・・旦那さま?」 晴彦:「美代さん、あなたはなんてことを・・・。」 弥太郎:「う、うぅ・・・。」 彩音:「弥太郎さん!いや・・・、死なないで・・・。弥太郎さん・・・弥太郎さん!」 晴彦:「彩音さん、落ち着いて。とにかく医者へ。くっ、彩音さん、そちらから支えてもらえますか。」 彩音:「はい。」 晴彦:「このまま車へ運びましょう。美代さんも一緒に来てください。」 美代:「へ?」 晴彦:「急いで。」 美代:「は、はい。」 0: 美代:すぐに病院へ運ばれた弥太郎さまは、なんとか一命を取り留めました。 美代:その後私は警察に出頭し、殺人未遂の罪により五年の実刑判決を言い渡されました。 美代: 美代:刑務所に服役中、一度だけ吉岡の旦那さまが面会にいらっしゃってくださいました。 美代:旦那さまはとてもやつれて、悲しい顔をしていらっしゃいました。 美代:今年もケイトウの花が綺麗に咲いたとか、たわいのない話をいくつかして、最後に涙を流しておられました。 美代:私はそれをただ黙って見ていました。 美代: 美代:そして、五年の刑期を終え外に出ると、そこにはあの弥太郎さまのお姿がありました。 0: 0:ーー刑務所前ーー 美代:「お久しぶりでございます・・・。その後、お元気でしたでしょうか・・・?」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「その節は、大変ご迷惑をお掛け致しました。本当に申し訳ございません。」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「・・・何か、私に御用でしょうか?」 弥太郎:「ああ。お前に話があってきた。」 美代:「そうですか。」 弥太郎:「ついてこい。」 0: 美代:私は黙って弥太郎さまの後ろをついていきました。 美代:風は冷たく、季節は秋から冬へと変わろうとしていました。 美代:十五分ほど歩いたところで、大きな川の河川敷に辿り着きました。 美代:土手を行く人もなく、人気(ひとけ)のない寂しい場所でした。 美代:そこに着いてからも、弥太郎さまは何も言わずただ川の流れを眺めていらっしゃいました。 美代:やがて沈黙に耐えられなくなり、ついに私のほうから口を開きました。 0: 0:ーー河川敷ーー 美代:「・・・弥太郎さま、彩音さまはお元気でいらっしゃいますか?」 弥太郎:「・・・・・・。」 美代:「弥太郎さま?」 弥太郎:「・・・彩音は、死んだ。」 美代:「・・・はい?」 弥太郎:「彩音は・・・、死んだ。」 美代:「ど、どうして・・・。どうして奥様は亡くなったのですか?」 弥太郎:「お前のせいだ。」 美代:「私の・・・?」 弥太郎:「そうだ。全て、お前のせいだ。」 美代:「・・・どういうことです?」 弥太郎:「・・・お前の事件が明るみになったせいで、藤田の家が俺を匿(かくま)っていたことも吉岡家に知られてしまった。激怒した吉岡家は、俺と彩音の復縁を決して許さぬと言った。だから俺と彩音は家を捨て逃げたのだ。」 美代:「・・・それで、どうなったのです?」 弥太郎:「・・・大旦那さまは吉岡家に財産を譲り渡すことで娘を守ろうとした。それで、離縁を認めてくれと・・・。 弥太郎:だが、その実家の没落と、他(ほか)様々な精神的苦痛のせいで彩音は子を流した。・・・それが限界だったのだ。全て自分のせいだと、彩音は首を吊った。」 美代:「そんな・・・!奥様が、首を・・・?」 弥太郎:「そうだ。・・・それでも、吉岡殿はお前のせいではないと言ったが、俺はそうは思わぬ。彩音が死んだのはお前のせいだ。」 美代:「わたしのせいで・・・。」 弥太郎:「・・・吉岡殿も俺たちのために、なんとか家の者の気を静めようと働きかけてくれていた。だが、彩音が死んだことで、その吉岡殿の思いも全て無に帰した。吉岡殿も、どれほど無念だったことか・・・。」 美代:「・・・まさか、あの時・・・、あぁ・・・。旦那さまは、晴彦さまは今どうしていらっしゃいますか?」 弥太郎:「・・・死んだ。」 美代:「え・・・?」 弥太郎:「吉岡殿は病気だったのだ。すでに長くはないと言われていた。」 美代:「旦那さまが・・・、ご病気で・・・?」 弥太郎:「だから、吉岡殿が亡き後、俺が彩音を幸せにすると約束を交わしていたのだ。それを!お前がすべて潰したのだ!お前が、皆を不幸にしたのだ!」 美代:「旦那さまが・・・、亡くなった・・・。」 弥太郎:「長かった・・・。この日が来るのをずっと待っていた・・・。この恨み晴らすまで、死んでも死に切れん。」 美代:「私が・・・、旦那さまを・・・泣かせた?」 弥太郎:「美代・・・。俺の恨み、彩音の苦しみ、さあ!思い知れ!」 0: 美代:草原(くさはら)に隠しておいた刀をつかむと、弥太郎さまは私を大きく斬りつけました。 美代:次の瞬間、私の真っ赤な血が澄んだ空に赤く飛び散りました。 美代:そしてそれは、真っ青な秋晴れの空をあかくあかく染めていきました。 美代:耳の奥では、返り血を頭から被り、嬉しそうに笑っている弥太郎さまの笑い声が響いています。 美代:身体が燃えるように熱く、また凍えるように寒くも思えてきます。 美代:その全てが夢のような光景でした。 美代:そう。きっとこれは夢なのでしょう。 美代:全ては夢だったのです。 美代:奥様の死も、旦那さまの死も。 美代:・・・でも、だとしたら、どこからが夢だったのでしょう。 美代:旦那さまと見た、あの赤いケイトウの花も、全てが夢だったのでしょうか。 美代:今となってはもうわかりません。 美代:ただ、夢でもいいからもう一度だけ、旦那さまの声が聞きたい。 美代:『美代さん』と優しく呼ぶあの声をもう一度聞きたいと、そう思ったのです。 0: 0:おわり