台本概要

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タイトル 終着点上のトワイライト
作者名 山根利広  (@sousakutc)
ジャンル ミステリー
演者人数 2人用台本(男1、女1)
時間 20 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 ビルの屋上から飛び降りて死のうとした川辺スミオ。だが思わぬ形で自殺を阻止される。
飛び降りる寸前、どこからともなく現れた少女リコに、強靭な力で引き上げられたのだ。
リコは、彼にこう語りかける。
「ここで死んじゃだめ。すべての瞬間は、帰納法的に成り立っているんだ」


・台本の改変OKです。楽しいように、お好きなようにアレンジしていただいて構いません。
・使用に関して有償・無償は問いません。また発表する場も限定いたしませんので、いろいろな場でお使いいただければ幸いです。
・ご使用時にご一報いただけると嬉しいです。強制ではありませんが、ぜひ聴かせていただきたいと思っています。リアルタイムで行けない場合はアーカイブを聴かせていただきます。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
川辺スミオ 24 25歳。毎日の労働に疲弊しており、悲観的な考えに支配され、死のうとする。
リコ 21 14歳。突然スミオの前に現れ、彼の死を阻止しようとする。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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川辺スミオ:人生は選択の連続である。シェイクスピアの戯曲から抜粋した言葉だ。おおむね正しい言葉なのだろう。おれはというと——悪い選択を繰り返して自らを死に追いやるという選択に漂着しかけていた。あのとき、あいつに出会って、ある選択をするまで。  :  0:真昼、ビルの屋上。 川辺スミオ:九月。くすんだ光を投げかける太陽。夏は終わったというのにシャツは汗でじっとり湿っている。三十二階建てのビルの屋上からでも、そこらじゅうの街路樹から蝉が鳴きくさっているのが聞こえる。死ねば楽になるよ、死ねば楽になるよ、死ねば楽になるよ。緩急のない速度でそう歌い続ける。 川辺スミオ:おれの人生を表すなら、コピー用紙一枚で足りる。生まれて、生きて、その結果心が回復できないほど蝕まれ、自ら死を選んだ。あ、なんだ、一枚分もないぐらいじゃないか。最初の一行で足りる程度だ。 川辺スミオ:どうせなら、自分の命を誰かに譲りたかった。だがどう考えても、残りの人生をまるまま誰かに捧げるための手段は存在しない。第一こんな命、誰も欲しがりはしないだろう。 川辺スミオ:屋上の縁には欄干が張り巡らされてあった。おれが難なくまたげてしまうぐらいの高さしかなく、彼岸の世界が手招きをしているのを表しているみたいだった。 川辺スミオ:足場の下で、豆粒のように小さい車が絶え間ない流れを形成している。一歩踏み出したら、その地表に吸い込まれておそらくすぐ逝けるだろう。頭部が熱を帯びたように火照る。目を閉じる。上体がふっと前方に傾いた。 川辺スミオ:唐突に、背後から誰かが両脇を抱えた。おれは思わず足を踏み外し、ビルの淵から落ちかけた。靴が片方脱げて、地表に吸い込まれていく。それを目の当たりにして、おれの熱は一気に冷めた。両脚は宙空を駆けた。両脇を抱えているのは腕だ。その腕がぐいとおれの身体を持ち上げた。一気に持ち上がった身体は、背負い投げされたように、屋上のコンクリートに叩きつけられた。 リコ:「……ふう、間に合った。それにしても、なんて馬鹿な真似を。つぎ死のうとしたら、ぶん殴るからね」 川辺スミオ:そう言っているのは、背の高い女の子だった。ショートボブの黒髪も手伝って、一見肉付きの良い少年にも見えるが、その凛々しい声は少女のものだった。誰だ、と問いかけようとしたとき、身体、胴の中心が張り裂けそうなほどの痛みを発した。背骨が折れたのだろうか、それとも内臓破裂か。耐えがたい激痛に、喘ぎ声が漏れた。 リコ:「痛むだろう? その痛みをようく覚えておくんだ。ほんとに死ぬ時はその何百倍も痛いからね」 川辺スミオ:「ぐっ……、どうしてお前にそんなことがわかる」 リコ:「あっはは。それはね、あたしにあんたの痛みが分かる力があるからさ」 川辺スミオ:「お前、は、誰だ?」 リコ:「あたし? あたしの名前は、リコ。あんたは、スミオ。あんたの名前もカタカナ。ふふ、あたしもだよ、あはは」 川辺スミオ:「どうして、おれのことを知ってる? あっ、いてて……おれはお前のことを知らない」 リコ:「あんたに、伝えなくちゃいけないことがあるんだ」 川辺スミオ:リコ、と名乗った少女は、横たわったまま身動きできないおれの上半身に右手を当てる。すると、はち切れそうなほど熱かったおれの上半身に冷たいものが入り込み、瞬時に耐えがたい痛みが霧消した。恐る恐る身を起こす。嘘のように身体が軽かった。 リコ:「どうだい、楽になった? そしたら、大事な話をしよう」 川辺スミオ:「なにを話すっていうんだ」 リコ:「川辺スミオ。あんたは、自分を死に追いやることで未来を変えられると、思っていたんだろう?」 川辺スミオ:「そんな、スケールのでかい話じゃねえよ」 リコ:「こうとも言える。自殺することで、すぐ楽になれると思った」 川辺スミオ:「じ、自殺したって、楽になんて……それさ……」 リコ:「図星だね。けれどね、それは誤った選択だった」 川辺スミオ:「でも、おれ……おれは、こうするほかなくて、だから思い切って——」 リコ:「甘いね。もう一度言うけどそれは間違った選択。過去をぜったい改変できないように、未来だって決して変わりはしないんだ」 川辺スミオ:「じゃあおれは、はなから死ななかった運命にあると?」 リコ:「だからあたしがいまここにいるんでしょ。過去と未来はぜったいに変えられないけど、そこから帰納法的に新しいものを取り出すことはできる。それがいまのあたし。必然的にぜんぶ正しい、って言うわけじゃないけど、いくつかの前提が正しければ、結論はおそらく正しくなるだろう、と言う論法。それが、あたしたちを、自分らしくさせてるんだよ」 川辺スミオ:「なんだかよく分からないな。つまりどういうことだ」 リコ:「あたしは一度死んだ。だから分かるの」 川辺スミオ:「一度、死んだ?」 川辺スミオ:その時、蒸し暑い突風が吹き付けた。リコの短い髪がふわっと揺れた。 リコ:「あんたには、生きる価値があるんだ。わたしには、スミオの未来が見えてる」 川辺スミオ:風がやむと、おれは俯き加減でこう言った。 川辺スミオ:「生きる価値って……。家族とは、とうの昔に縁を切ってる。アル中で死んだ親父と、病死した母さんとも。弟のアリオはまだ生きてるけど、もう会うこともないだろうよ。嫌なんだよ、生きてても何もない。どうせこの先もたんたんと働いて飯食うだけの人生だし、もうどうでもいい——」 リコ:「それはどうかな!」 川辺スミオ:「う……」 川辺スミオ:鋭く言い放ったリコは、おれの胸ぐらを掴んで、睨みつけるようにおれと目を合わせていた。 リコ:「スミオ、あんたにとってどうでもいい人生でも、それはスミオだけの人生じゃないんだ。少なくとも、あたしにとってはね」 川辺スミオ:リコはそう言っておれのシャツから手を離した。おれは尻餅をついてしまった。 リコ:「あたしは、そんな人生じゃなかった。強気なお母さんと、少しやわなお父さんの間に生まれた。幼稚園の頃から、あたしは強い女の子だった。小学校でもやんちゃで、けれど、五年生の時に病気が見つかった。中学校と病院とを、交互に通った。病院にいる時間の方が長かった。けどそれだけ学校が楽しかった」 川辺スミオ:リコの見開かれた双眸から、きらりと輝く涙の粒が落ちた。 リコ:「十四歳の時、もう長くないということがわかった。お父さんとお母さんを、たくさん悲しませた。十五歳、内定が決定した高校に入る直前に、あたしは、苦しみながら、死んだ」 川辺スミオ:そして、彼女は笑顔を青空に向けた。 リコ:「でもね、あたしは生まれてから死ぬまで、とっても、とっても幸せだったよ。小さい頃から頭を撫でてくれたお父さん。学校に行く日は毎日お弁当を作ってくれたお母さん。短い時間の中で、たくさん遊んでくれた友達。はじめて好きになったけど、好きって言えなかった男の子。通学路、おはようってあいさつしてくれる、おばあさん。夕暮れ時のオレンジ色の空。夜になったら、『きみの不安はこんなにちっぽけだよ』と教えてくれた星空。家族で囲む晩御飯を食べて、ベッドで幸せな夢を見る。朝起きてカーテンを開ける。どんなことをしようって考える一日が始まる。……あたしの大切なもの、それはこの世界にあるすべてのものなんだ。だから」 川辺スミオ:リコは手の甲で、止まらない涙を拭った。それでも彼女は笑顔で、おれにこう語りかけた。 リコ:「だから、生きて。スミオは生きて。ここで死んじゃだめ。あんたがほんとうの未来で死ぬ時、きっと、生きててよかった、って思える瞬間を思い出すんだから。すべての瞬間は、帰納法的に成り立っているんだ」 川辺スミオ:彼女はもう一度涙を拭いて、おれに背を向けた。 リコ:「じゃあ、もう行かなきゃいけない」 川辺スミオ:「行くって、どこへ」 リコ:「どこへも行かないさ。……命を大切にするんだ、川辺スミオ。川辺リコとの約束、だよ」 川辺スミオ:おれはその時、なぜかデジャヴめいたものを感じて、ふっと背後を振り向いた。おれは、なにかを知っている——そんな奇妙な感覚があった。だがそこにはなにもなかった。再びリコのいた方を向いたとき、もうそこには何もなく、蜃気楼がゆらゆら風景をぼかしているだけだった。 川辺スミオ:おれはそのとき選択をした。生き続けるという選択を。全身に、ここで死んではいけないというシグナルが駆け巡っていたからだ。  :  0:川辺スミオの弟、アリオの家。 川辺スミオ:あれから、もう十八年になるが、幸い、おれはまだ生きている。……ちょうど今日、病弱だった弟のアリオが亡くなった。けれど、おれが骨髄移植をしなければ、もっと早く、第一子を設ける前に死んだかもしれないという。 川辺スミオ:夫と娘に先立たれた奥さんが、葬儀場で家族写真のアルバムを用意していた。家族全員でこちらに屈託のない笑顔を向けている。あのときおれが死を選択しなかった理由は、その写真のまん中にいる、娘のリコによるものだろう。 0 :   了

川辺スミオ:人生は選択の連続である。シェイクスピアの戯曲から抜粋した言葉だ。おおむね正しい言葉なのだろう。おれはというと——悪い選択を繰り返して自らを死に追いやるという選択に漂着しかけていた。あのとき、あいつに出会って、ある選択をするまで。  :  0:真昼、ビルの屋上。 川辺スミオ:九月。くすんだ光を投げかける太陽。夏は終わったというのにシャツは汗でじっとり湿っている。三十二階建てのビルの屋上からでも、そこらじゅうの街路樹から蝉が鳴きくさっているのが聞こえる。死ねば楽になるよ、死ねば楽になるよ、死ねば楽になるよ。緩急のない速度でそう歌い続ける。 川辺スミオ:おれの人生を表すなら、コピー用紙一枚で足りる。生まれて、生きて、その結果心が回復できないほど蝕まれ、自ら死を選んだ。あ、なんだ、一枚分もないぐらいじゃないか。最初の一行で足りる程度だ。 川辺スミオ:どうせなら、自分の命を誰かに譲りたかった。だがどう考えても、残りの人生をまるまま誰かに捧げるための手段は存在しない。第一こんな命、誰も欲しがりはしないだろう。 川辺スミオ:屋上の縁には欄干が張り巡らされてあった。おれが難なくまたげてしまうぐらいの高さしかなく、彼岸の世界が手招きをしているのを表しているみたいだった。 川辺スミオ:足場の下で、豆粒のように小さい車が絶え間ない流れを形成している。一歩踏み出したら、その地表に吸い込まれておそらくすぐ逝けるだろう。頭部が熱を帯びたように火照る。目を閉じる。上体がふっと前方に傾いた。 川辺スミオ:唐突に、背後から誰かが両脇を抱えた。おれは思わず足を踏み外し、ビルの淵から落ちかけた。靴が片方脱げて、地表に吸い込まれていく。それを目の当たりにして、おれの熱は一気に冷めた。両脚は宙空を駆けた。両脇を抱えているのは腕だ。その腕がぐいとおれの身体を持ち上げた。一気に持ち上がった身体は、背負い投げされたように、屋上のコンクリートに叩きつけられた。 リコ:「……ふう、間に合った。それにしても、なんて馬鹿な真似を。つぎ死のうとしたら、ぶん殴るからね」 川辺スミオ:そう言っているのは、背の高い女の子だった。ショートボブの黒髪も手伝って、一見肉付きの良い少年にも見えるが、その凛々しい声は少女のものだった。誰だ、と問いかけようとしたとき、身体、胴の中心が張り裂けそうなほどの痛みを発した。背骨が折れたのだろうか、それとも内臓破裂か。耐えがたい激痛に、喘ぎ声が漏れた。 リコ:「痛むだろう? その痛みをようく覚えておくんだ。ほんとに死ぬ時はその何百倍も痛いからね」 川辺スミオ:「ぐっ……、どうしてお前にそんなことがわかる」 リコ:「あっはは。それはね、あたしにあんたの痛みが分かる力があるからさ」 川辺スミオ:「お前、は、誰だ?」 リコ:「あたし? あたしの名前は、リコ。あんたは、スミオ。あんたの名前もカタカナ。ふふ、あたしもだよ、あはは」 川辺スミオ:「どうして、おれのことを知ってる? あっ、いてて……おれはお前のことを知らない」 リコ:「あんたに、伝えなくちゃいけないことがあるんだ」 川辺スミオ:リコ、と名乗った少女は、横たわったまま身動きできないおれの上半身に右手を当てる。すると、はち切れそうなほど熱かったおれの上半身に冷たいものが入り込み、瞬時に耐えがたい痛みが霧消した。恐る恐る身を起こす。嘘のように身体が軽かった。 リコ:「どうだい、楽になった? そしたら、大事な話をしよう」 川辺スミオ:「なにを話すっていうんだ」 リコ:「川辺スミオ。あんたは、自分を死に追いやることで未来を変えられると、思っていたんだろう?」 川辺スミオ:「そんな、スケールのでかい話じゃねえよ」 リコ:「こうとも言える。自殺することで、すぐ楽になれると思った」 川辺スミオ:「じ、自殺したって、楽になんて……それさ……」 リコ:「図星だね。けれどね、それは誤った選択だった」 川辺スミオ:「でも、おれ……おれは、こうするほかなくて、だから思い切って——」 リコ:「甘いね。もう一度言うけどそれは間違った選択。過去をぜったい改変できないように、未来だって決して変わりはしないんだ」 川辺スミオ:「じゃあおれは、はなから死ななかった運命にあると?」 リコ:「だからあたしがいまここにいるんでしょ。過去と未来はぜったいに変えられないけど、そこから帰納法的に新しいものを取り出すことはできる。それがいまのあたし。必然的にぜんぶ正しい、って言うわけじゃないけど、いくつかの前提が正しければ、結論はおそらく正しくなるだろう、と言う論法。それが、あたしたちを、自分らしくさせてるんだよ」 川辺スミオ:「なんだかよく分からないな。つまりどういうことだ」 リコ:「あたしは一度死んだ。だから分かるの」 川辺スミオ:「一度、死んだ?」 川辺スミオ:その時、蒸し暑い突風が吹き付けた。リコの短い髪がふわっと揺れた。 リコ:「あんたには、生きる価値があるんだ。わたしには、スミオの未来が見えてる」 川辺スミオ:風がやむと、おれは俯き加減でこう言った。 川辺スミオ:「生きる価値って……。家族とは、とうの昔に縁を切ってる。アル中で死んだ親父と、病死した母さんとも。弟のアリオはまだ生きてるけど、もう会うこともないだろうよ。嫌なんだよ、生きてても何もない。どうせこの先もたんたんと働いて飯食うだけの人生だし、もうどうでもいい——」 リコ:「それはどうかな!」 川辺スミオ:「う……」 川辺スミオ:鋭く言い放ったリコは、おれの胸ぐらを掴んで、睨みつけるようにおれと目を合わせていた。 リコ:「スミオ、あんたにとってどうでもいい人生でも、それはスミオだけの人生じゃないんだ。少なくとも、あたしにとってはね」 川辺スミオ:リコはそう言っておれのシャツから手を離した。おれは尻餅をついてしまった。 リコ:「あたしは、そんな人生じゃなかった。強気なお母さんと、少しやわなお父さんの間に生まれた。幼稚園の頃から、あたしは強い女の子だった。小学校でもやんちゃで、けれど、五年生の時に病気が見つかった。中学校と病院とを、交互に通った。病院にいる時間の方が長かった。けどそれだけ学校が楽しかった」 川辺スミオ:リコの見開かれた双眸から、きらりと輝く涙の粒が落ちた。 リコ:「十四歳の時、もう長くないということがわかった。お父さんとお母さんを、たくさん悲しませた。十五歳、内定が決定した高校に入る直前に、あたしは、苦しみながら、死んだ」 川辺スミオ:そして、彼女は笑顔を青空に向けた。 リコ:「でもね、あたしは生まれてから死ぬまで、とっても、とっても幸せだったよ。小さい頃から頭を撫でてくれたお父さん。学校に行く日は毎日お弁当を作ってくれたお母さん。短い時間の中で、たくさん遊んでくれた友達。はじめて好きになったけど、好きって言えなかった男の子。通学路、おはようってあいさつしてくれる、おばあさん。夕暮れ時のオレンジ色の空。夜になったら、『きみの不安はこんなにちっぽけだよ』と教えてくれた星空。家族で囲む晩御飯を食べて、ベッドで幸せな夢を見る。朝起きてカーテンを開ける。どんなことをしようって考える一日が始まる。……あたしの大切なもの、それはこの世界にあるすべてのものなんだ。だから」 川辺スミオ:リコは手の甲で、止まらない涙を拭った。それでも彼女は笑顔で、おれにこう語りかけた。 リコ:「だから、生きて。スミオは生きて。ここで死んじゃだめ。あんたがほんとうの未来で死ぬ時、きっと、生きててよかった、って思える瞬間を思い出すんだから。すべての瞬間は、帰納法的に成り立っているんだ」 川辺スミオ:彼女はもう一度涙を拭いて、おれに背を向けた。 リコ:「じゃあ、もう行かなきゃいけない」 川辺スミオ:「行くって、どこへ」 リコ:「どこへも行かないさ。……命を大切にするんだ、川辺スミオ。川辺リコとの約束、だよ」 川辺スミオ:おれはその時、なぜかデジャヴめいたものを感じて、ふっと背後を振り向いた。おれは、なにかを知っている——そんな奇妙な感覚があった。だがそこにはなにもなかった。再びリコのいた方を向いたとき、もうそこには何もなく、蜃気楼がゆらゆら風景をぼかしているだけだった。 川辺スミオ:おれはそのとき選択をした。生き続けるという選択を。全身に、ここで死んではいけないというシグナルが駆け巡っていたからだ。  :  0:川辺スミオの弟、アリオの家。 川辺スミオ:あれから、もう十八年になるが、幸い、おれはまだ生きている。……ちょうど今日、病弱だった弟のアリオが亡くなった。けれど、おれが骨髄移植をしなければ、もっと早く、第一子を設ける前に死んだかもしれないという。 川辺スミオ:夫と娘に先立たれた奥さんが、葬儀場で家族写真のアルバムを用意していた。家族全員でこちらに屈託のない笑顔を向けている。あのときおれが死を選択しなかった理由は、その写真のまん中にいる、娘のリコによるものだろう。 0 :   了