台本概要
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タイトル | 化け猫をまつ |
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作者名 | 帆多 丁 (@wahoo_gyudon) |
ジャンル | ラブストーリー |
演者人数 | 2人用台本(男1、女1) |
時間 | 50 分 |
台本使用規定 | 台本説明欄参照 |
説明 |
過去形で語るのもおかしいですね。妻は存命です」 化け猫を妻とした男の、魂のノロケ話。 役者の性別は問いませんが、役の性別は変更できません。 原作:「化け猫をまつ」 https://kakuyomu.jp/works/16816700426252918144 クォンの一人語りをベースにしているため、セリフ量に偏りがございます。 一人読みテキストとしての利用も可能です。 //////////////////////// 台本の使用に関しまして、下記の点を遵守してください ・作者名と台本URLの記載 ・使用のご連絡(使用前でも後でも大丈夫です) (例:X(旧ツイッター)で帆多をメンションして上演告知する、など) ・使用後の連絡はだいたい48時間以内を目安にお願いします。 ・作品の構成に影響がでるような過度の改変、アドリブはご遠慮ください。 ・録音や録画などは、将来的に台本の原作を公募に出す、または運良く出版されるといった場合において削除をお願いする可能性がございます。ご対応いただける場合のみ許可とさせてください。 281 views |
キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
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クォン | 男 | 68 | 語り部。行商人。この世とは異なる場所で二人の男女「お二方(おふたかた)」に出会い、妻との思い出を話すことになった。五十年ほど生きたが、現在は状況が特殊であるため、演技における肉体年齢感は自由。語りの中での年齢は二十歳。 語りの中では、耳長馬(みみながうま)のモンチャンを連れている。耳長馬の鳴き声は「ベェヘーヒェ」。 |
ユエ | 女 | 60 | クォンの妻。右目に猫、下腹(したばら)に魔女を宿したまじない師。肉体が年を取らないことを、自分でも知らなかった。平笠(ひらかさ)を被っており、「平笠の化け猫」というあだ名がある。作中に登場する年齢は二十歳(登場時)から二十三歳(終盤)。語りの中での舞台は東方の国であり、ユエは西方からの流れ者。 |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
クォン:(クォン役の方はクリックしてください)
ユエ:(ユエ役の方はクリックしてください)
0:以下本文
クォン: 妻は美しいひとでした。
クォン: いや、過去形で語るのもおかしいですね。妻は存命です。
クォン: 美しいひとですよ。
クォン: 右目に猫の魂を、下腹に魔女の魂を抱えて妻は生きています。
クォン: 美しいひとですよ。
クォン:
クォン: さてですね、今から始まるのは私のノロケ話なんですが、あの、お二方、本当によろしいのですか?
クォン: そりゃあ私にとってはなんだかんだ良い思い出ですし、話すに吝(やぶさ)かではないんですけどね。他人のノロケなぞ聞いて、面白いのです?
0:聞き手の「お二方」が聞かせてくれと頼む。
クォン: ――そうですか。では、こっぱずかしくもありますが、こんなところで出会うのも何かの巡り合わせでしょうから、お迎えが来るまでの間、精いっぱい語らせていただきましょう。
クォン:
クォン: おほん。
クォン: いま出会いだの巡り合わせだのと申し上げましたが、私と妻の出会いは、痛みを伴うものでした。
クォン: 鎖骨と鼻が、ゴツンと。
クォン: 忘れもしません、雨季が明けたばかりのカンカン照りの日でしたよ。私は内陸から港の方へと下っていましてね。盆地で買い付けた乳奈(ブスアー)がなかなか良い値ではけた。
クォン:
クォン: あ、ブスアーはご存じない?これは失礼しました。あれは日持ちのする果物でして、グニグニと手のひらで揉みこんでやってから、皮に切り込み入れて果汁を吸いだすんですよ。
クォン: 淡白な甘さで暑い日の渇きにもいいし、下り腹(くだりばら)にもよく効くんです。かじっちゃ駄目ですよ?皮が渋いんで、一日中ツバを吐いて過ごすハメになりますからね。
クォン:
クォン: で、そのブスアー、本当は港で売るつもりだったんですが、さすがに悪くなるんじゃないかと心配してたもんですから、ここで売れてくれたのはむしろ運がよかった。
クォン: それでまぁ気分も懐具合もよくなりましたし、なんか面白い物でもありゃしないかと、耳長馬(みみながうま)と荷車を知り合いに預けて、町なかをウロウロしてたんですな。
クォン:
クォン: そしたら、空にまるいものが飛んでた。
クォン: ああ、平笠(ひらかさ)か。誰かの笠が風で飛ばされでもしたのかね。と見てましたらこっちに流れてきますし、ちょうど私の頭に乗っかってきそうな塩梅でしたから、これはあれだ、笠が頭にスポンとハマればちょっと面白いじゃないかって気分になりまして、それならこっちもしっかり迎えてやろうなんて考えまして。
クォン: よーく見て、よーく狙って、それ。
クォン: スポン。
クォン: ゴツン。
ユエ:「ぎゃ!」
クォン: これが初めて聞いた妻の声でした。
クォン: 私もそれなりに痛かったんですが、妻が──この時はまだ初対面の娘さんですが、彼女が両手で鼻を押さえてぴょんぴょん跳ねてましてね。
クォン: この時の私に言ってやりたいです「声を、かけろ、すぐに」とね。「大丈夫ですか?」とか「うっかりして申し訳ない」とかいくらでもあっただろうに。
クォン: でも、かけられませんでした。
クォン: びっくりしたんです。眩しくて。あんまり眩しいもんで、私が見ているのが本当に人間なのかわかんなくなっちゃったんですよ。
クォン:
クォン: いやいや例え話じゃなくてですね。
クォン: 彼女は遠い西の国から流れてきたひとでして、全体的に色が薄くて白っぽいんです。髪も磨いた稲藁(いねわら)みたいな色なんです。
クォン: それがカンカン照りの真っ昼間にぴょんぴょんすりゃあピッカピカに光るってもんですよ。
クォン:
クォン: しかし当時の私はまだ若造で、西の人なんて見るのも初めてで、自分は今何を見ているんだ?言葉は通じるのか?話しかけていいのか?という気持ちでいっぱいでした。
クォン: そのうち、ぴょんぴょんピカピカしてた彼女も落ち着いてきて、私にもだんだんナリが見えてくる。
クォン:
クォン: あのころ私はちょうど二十歳で、彼女は少し年下に見えました。袖無しの赤い服からすんなり伸びた腕。肩口あたりで、くりんくりんと跳ねる髪。
クォン: 彼女がしかめっつらの左目を開けます。妻と私の、最初の会話です。
ユエ:「いたい」
クォン:「すいません、よそ見してました」
ユエ:「動かないで」
クォン:「なんでです?」
ユエ:「平笠で方角を見てる」
クォン: なんの事やらさっぱりでしたが、彼女はずいっと近寄ってきた。透き通った琥珀みたいな左目がですね、その視線が私の頭に乗っかった平笠の縁(へり)をなぞっていく。うわーっとなりました。
クォン:
クォン:「初対面の男に、近づきすぎだと思うんですよね」
ユエ:「うん、ごめんね。すぐ終わる。──あっちか」
クォン: 彼女はちょっと背伸びして、私の頭から笠を取ります。
クォン: 頭の両脇に彼女の腕が伸びてきて、ピリピリと頬に痺れるような感覚が走りました。
ユエ:「はい、ありがとう。動かれたらせっかくの術が狂うところだったよ」
クォン:「ああ、そりゃあ……よかったです。あの、右目をずっと閉じたままですけど、そちらは大丈夫ですか?」
ユエ:「これ?右目は生まれつき──町も離れるし、隠すことないか」
クォン: 右目が開きました。
クォン: カンカン照りの明るい陽射しにキュっと縦にすぼまる、金色の猫の瞳がはまってました。
ユエ:「聞いたことある? 西の国から来たまじない師『平笠の化け猫』の噂」
クォン:「全然ありませんけど、世の中、いろんな人いますね」
ユエ:「う……そうだね」
クォン: これが彼女との出会いです。
クォン: 恥ずかしながら、私は浮かれていました。
クォン: お二方も出会ったばかりの頃、ふわふわと熱に浮かされたようになったことはございませんでしたか?
クォン:
クォン: 彼女が笑った時、小鼻にくいっとシワが寄りましてね。あ、もう一度見たい。このひとと仲良くなりたい。この機会を逃してはならない、と強く感じて、名乗りました。
クォン:
クォン:「私の名前はクォンです」
ユエ:「ん?うん。わかった。急になに?」
クォン:「まじない師さんに名前を預ければ、御利益(ごりやく)があると思いました」
ユエ:「ないよ?」
クォン: ですよね。知ってます。私は腹の内を明かします。
クォン:「あなたの名前を知りたいんですよ」
ユエ:「わたしの名前にも御利益ないよ?」
クォン:「やや、あなたが気づいてないだけで、あるんじゃないですか?商売繁盛とか」
ユエ:「適当なこと言うね?」
クォン:「じゃあ試しに教えてみてください。次に会うときには、儲かって儲かって、店なり家なり持ってますよ」
ユエ:「へぇ? どうしようかな」
クォン:「ナントカの恩返しって、昔話にもあるじゃないですか。通りすがりの人に親切にしたら、それが何倍にもなって帰ってくる。さぁ! いま! 絶好の機会です!」
ユエ:「変な人だね、きみは。まあいいや。わたしはユエ。ただのユエ」
クォン: ユエさん。
クォン: この後三十年、何度も口にした名前です。わたしは、ちょっといい所を見せたくて言いました。
クォン:
クォン:「シーイーの言葉で、月を意味するお名前ですね」
ユエ:「うん。じゃあそういうことで」
クォン:「待ってくださいよユエさん」
ユエ:「あるといいね、御利益」
クォン: 追いかけようとはしたんですが、ユエさんの姿は人混みに溶けて見えなくなってしまいまして。
クォン: まるで獣が草むらに隠れるような巧みさでしたよ。なるほどまさに化け猫! なんてことを思いましたが、まさかの翌々日に再会しましたよね。
クォン:
クォン:
クォン: 私たちは全部で三回、偶然に出会いました。
クォン: 二回目に会った時、ユエさんは足をくじいて立ち往生してましたので、最寄りの町まで荷台に乗せて行きました。
クォン: 三回目は、ダンダラココというモノの怪の腹で出会いました。
クォン: これらの事を、ユエさんは覚えていません。
0:一息つく。
クォン: さてさて、二回目に会った時のお話です。
クォン: 私は耳長馬(みみながうま)を引いて歩きます。耳長馬は古い荷車を引きます。その荷車にユエさんが乗りました。足首をひどくひねったそうで手製の湿布を貼っていました。
クォン: 足を投げ出して、荷台の囲いに背中を預けて、ずいぶんくつろいでいるなぁと思ったものです。ぼってりとした日差しは午後深くに傾いて、斜め後ろからユエさんの声がします。
ユエ:「この馬の子、お尻が白いね」
クォン:「変わってるでしょう?尻白(モンチャン)って名前です。短足ですが、仔馬じゃないですよ。辛抱強くていい奴です」
ユエ:「へえ、よろしくモンチャン。重くてごめんね」
クォン:「どうってことないですよ、こいつには。けっこう揺れますが、痛みませんか?」
ユエ:「骨は折れてないみたいだし、足の下に敷く布たくさん貸してくれたし、ぜんぜん平気。本当にありがとうだよ。これはどっちだろうね。クォンの名前を聞いたからか、クォンに名前を教えたからか」
クォン:「なんの話です?」
ユエ:「足をくじいた時に空っぽの荷車を引いた知り合いの行商人が通りかかる御利益の出どころについて」
クォン:「素人には難しい質問ですねぇ」
ユエ:「真面目なお返事だなぁ。クォンには何か御利益あった?」
クォン:「商売繁盛とはまた違ったみたいですけど、はい」
ユエ:「へえ、昨日の今日なのにすごいや。どんないい事?」
クォン:「ユエさんに会えました」
ユエ:「きみは、急にそういうこと言うね」
クォン:「いえ、これでも結構ほんとうにそう思ってるんですよ。ほら、おとといぶつかったお詫びもできませんでしたし」
ユエ:「あー、いいよあれは。わたしもよそ見してたから」
クォン:「でも、ユエさんは顔打ったじゃないですか」
ユエ:「そうだけど、うーん、なら、いま乗っけてもらってるのでおあいこってことでどう?」
クォン:「こんなことでいいんなら、はい。……そういえば笠で方角を見るっていうのは、まじない師さんはよくやるんです?」
ユエ:「笠はあまり使わないかな。くるくる回るけどもっと小さい……水盆(みずぼん)とか火独楽(ひごま)とか使う人が多いよ」
ユエ:「わたしのは、ちょっと新しい術でね。物探しと道案内の術なんだ。でもまだまだ、改善の余地があるみたい」
クォン:「はあ、そういうものですか。あそうだ、実はあのあと『平笠の化け猫』の噂について、ちょっと聞いてみたんですよ」
ユエ:「うん。まぁだいたい噂通りだよ。モノの怪退治専門のまじない師で、流れ者で、猫憑き(ねこつき)で、モノの怪を喰う。他になにかあった?」
クォン:「化け猫ユエというのも」
ユエ:「同じ同じ。わたしわたし」
クォン:「人喰いだってのが」
ユエ:「それは間違い。でも人喰いの噂を聞いてたのに、よくわたしを荷車に乗せたね。怖いもの知らず?」
クォン:「いやあ、鼻ぶつけて『いたい』って言う人がそんな恐ろしいモノとも思えませんでしたし」
ユエ:「モノの怪もヒトを誘うときは怖くないから、気を付けなね?」
クォン: この時の言葉は本当でしてね。
クォン: ユエさんと三回目に出会った時、私はモノの怪の腹の中におりました。
0:
クォン: あれは年も変わって、雨季が来て、またその終わりに差し掛かったころでした。私の荷車は満杯の籠細工(かございく)を運んでましてね。
クォン: 本当ならもう宿場町に入っている予定だったのですが、途中で車が泥にとられたりと、思ったよりも時間がかかってしまったのですよ。
クォン: もう日も暮れてしまう頃合い、やれやれと提灯に火を入れたらゴロゴロと空が鳴りました。これは土砂降りが来るぞ参ったぞと思ったら人家の明かりが見えまして。
クォン:「ごめんください」
クォン: 返事がないので、ままよ、とモンチャンと荷車を土間に引き入れましてね。やれやれ、といったところで
ユエ:「わあ!クォンだ!」
クォン:「ユエさん!?」
ユエ:「モンチャンも元気そうだね、久しぶり!」
クォン: 高床(たかゆか)の中二階(ちゅうにかい)から身を乗り出して、私とモンチャンを見下ろして、ユエさんが機嫌よさそうに手を振ってました。
クォン: 小鼻にシワが寄ってまして、私は言葉に詰まりました。なんでしょう、嬉しそうにしているのが、とても愛くるしくて、嬉しそうなのが、とても嬉しくてですね──。
クォン:
クォン: あ……すみません、続けます。おほん。
クォン: ユエさんは朗らか(ほがらか)でしたが私はドギマギしてました。雨宿りしようと入った家にユエさんがいて、日は暮れてて、二人きりです。私にも心の準備が必要でしたが
ユエ:「早くこっちあがっておいでよ」
クォン: その暇がもらえませんでした。
クォン: 高床の中二階なんて普通は寝床ぐらいしかありませんから、私は期待半分、緊張半分で急な階(きざはし)を登ります。大目に見てやってください、若かったのです。
クォン: 中二階では、筵(むしろ)を重ねた寝床の上にユエさんが化粧道具のようなものを広げてまして、恐ろしいことを言いました。
ユエ:「わたしがいなかったら、朝にはこの世とさよならしてたよ。気をつけろって言ったでしょ? ほら、座って」
クォン: そして、ユエさんは糠袋(ぬかぶくろ)のような道具を手に取りました。同時に、どおおおお、と土砂降りが屋根を叩きます。
ユエ:「ダンダラココ。家オバケ。わたしたちはそのお腹の中にいます」
ユエ:「このモノの怪のいいところは、虫の類が中にいないこと。どんな大雨でも雨漏りしないこと。洪水でも流されないこと。行燈(あんどん)みたいな明かりが夜通しついてること」
クォン:「すごいですね。住みたい」
ユエ:「ね。で、悪いところは、まぁ、モノの怪だしね。中に入った人を食べることです。そうならないように、今からきみに粉を叩(はた)きます」
クォン:「わかりました。お願いします」
クォン: ユエさんの右手には粉袋(こなぶくろ)、左手は床について、身を乗り出してきます。
クォン: 両の瞳が近いです。薄暗い所なので、猫の瞳も丸く開いています。私の顔が映っていました。
クォン:「近づきすぎだと思うんですよね」
ユエ:「目ぇ閉じて。粉が入るよ」
クォン: 従います。おでこに粉袋をとんとんされました。
クォン:「変わった匂いしますね。肉桂(にっき)?丁香(ちょうこう)?ちがうか……」
ユエ:「いろいろだね。この匂いでダンダラココを誤魔化して、朝までぐっすり。はい、とんとん」
クォン:「モンチャンには何もしなくていいんですか?」
ユエ:「モンチャン耳長馬(みみながうま)だから平気。はい、とんとん」
クォン:「ユエさん、いつもモノの怪の腹ん中で寝るんですか?」
ユエ:「まさか。ダンダラココは季節モノだよ。今日は運がよかった。はい、とんとん」
クォン:「あの、ユエさん」
ユエ:「なに?」
クォン:「私と暮らしませんか?」
ユエ:「──はい、おしまい」
クォン: おしまい、が、粉叩きの事なのか、この話題のことなのか、それとも私との関わりの事なのか、わからないまま目を開けました。
クォン: ユエさんは怒ったような、悲しんでいるような、そんな表情をしていて、この時だけはとても頼りなく見えました。
クォン: 雨と心臓の音ばかり聞こえていたのを覚えています。
クォン: ユエさんが私から目をそらし、目を泳がせ、ぎゅっと目をつぶりました。再びその両目が開いた時には、力の抜けた、呆れたような笑みが浮かんでいまして、こう言われました。
ユエ:「きみは、急に、そういうこと言うよね」
0:クォン、ひと息つく。
クォン: はい。
クォン: ずっと後になって、いろいろ忘れてしまったユエさんから、私たちはいつ結婚したのかと尋ねられたことがあります。私はこの日の事を話しました。
クォン: ユエさんは随分と笑っていましたよ。モノの怪の腹の中で結婚した夫婦なんて、世界中探したってわたしたちぐらいだと。出会った頃と変わらない姿で、小鼻にシワを寄せてね。
クォン: さて、そんな思い出のダンダラココも、日の出前にユエさんがきれいさっぱり食べてしまいました。
ユエ:「わたし、こういうひとだけど、本当にいいの?」
クォン: 右腕についたダンダラココの血をべろりと舐め取り、ユエさんは文字通り「もう一つの顔」を見せて言います。
クォン: 鋭い牙を持つ白猫の顔、モノの怪喰いの化け猫としての顔です。
クォン:
クォン: 人の頭が猫の頭にすげ変わるところも、細い指がダンダラココの心柱(しんばしら)を切り裂くところも、しぼんでクラゲのようになったダンダラココの正体を、猫頭(ねこあたま)の牙が引き裂いて飲み込むところも、この目ではっきりと見まして、私は腰を抜かしていました。
クォン:
クォン: 情けない話なのですが、もしモンチャンがいなかったら、ユエさんの問いに答える決心はつかなかったかもしれません。
クォン: ユエさんに、モンチャンが鼻面を擦りつけたんですよ。あいつは動物ですから、私たちが何を話してるかなんてお構いなしです。
クォン: それで、ユエさんの素の部分がちらりと見えました。耳長馬(みみながうま)に気をとられ、再び私を見たあのひとの、白猫の形をした顔には、不安が見えたのです。
クォン:
クォン: 私は立ち上がろうともがきました。大事な事を言うのに、腰を抜かしたままではいけません。
クォン: ユエさんが手を貸してくれまして、私は軽々と助け起こされました。「ユエさん」と声をかけます。握ったままの手から、緊張がわかります。
クォン:
クォン:「私は、あなたがいい。
クォン: そりゃ、たまたま三回あっただけの相手です。それはバカな私でもわかっちゃいるんです。でも、初めて会った時からですね、次の町に、あの道を曲がったところに、猫の右目のまじない師さんがいないかと期待しない時はありませんでした。この広い世の中で、お互い勝手に生きてるのに、三回も会えたんです。でも、次からは偶然じゃなく、必然がいいです。
クォン: ユエさんには私の所に帰ってきてほしいですし、私はあなたの所に帰りたい」
クォン:
クォン:「ユエさん、あなたが好きです」
クォン:
クォン: ユエさんの表情は読めません。金と琥珀の瞳で私を見つめています。真珠色の毛でおおわれた口が動いて、牙の隙間からユエさんの声がします。
ユエ:「わたしは……
ユエ:わたしは、誰かに再会するのって、きみが初めてだったんだよ。知ってる人にもう一度会ったってだけなのに、きみはなんだか嬉しそうにしてて、わたしもそれがなんだか嬉しくて──笠の神様が指す先に、クォンがいたりしないかな、とは、思ってた」
クォン: ユエさんの頭が、猫から人へと戻っていきます。真珠色の毛が抜け、磨いた稲藁みたいな色の髪が肩口で、くりんくりんと跳ねます。
クォン: その髪先が、夜明けの光を含んでいました。やっぱり眩しいひとでした。
ユエ:「わたしにはね、秘密がたくさんあるんだ。これからクォンは、それを知っていくことになるよ。それでも、わたしを嫌わないでくれたら、うれしい。
ユエ:……えっと、そんなふうにまっすぐ、す──好きとか言われたこと、ないから、どうしたらいいかわかんない」
クォン: つい先ほどまで猫頭でモノの怪をむしゃむしゃ喰ってたひとが、顔を真っ赤にしてうつむきました。握った指先がもじもじと動いていまして私も一気にのぼせ上りまして
クォン: ベェヘーヒェ!
クォン: と耳長馬(みみながうま)が鳴きます!モンチャン!
クォン:「ええっと……とりあえず出発しましょうか。私は城下へ向かうつもりでしたが、ユエさんは、どんな予定でしたか?」
ユエ:「いいよ、きみと一緒に行く。笠の神様は一回お休み」
クォン:「それじゃあ、道すがら、話しましょう。これからの事だとか、いろいろ」
ユエ:「そうだね。わたしも、相棒の事を紹介したいし」
クォン:「え、そんな人いるんですか!?」
クォン: 荷車の車輪が回ります。私たちは城下へと進みます。
クォン: 平笠の化け猫、化け猫ユエ。
クォン: 私の生涯の伴侶でした。
クォン:
クォン:
クォン: ふぅ。
クォン: こうして私とユエさんと右目殿の三人で、たどたどしく新生活を始めていくことになりました。
0:お二方から、「三人?」と疑問の声が上がる。
クォン: あ、はい。三人です。
クォン: 驚かせてしまって申し訳ないのですが、ユエさんの右目には猫の魂が宿っておりまして、この右目がユエさんの相棒でした。
クォン: 今までにお伝えした出来事はこの右目殿に全部見られていたわけですね。ははは。
クォン: 私も最初は非常に戸惑いましたが、そのうち右目殿も義理の兄のような感じになりました。
0:お二方から、結婚おめでとうございました、と声がかかる。
クォン: いや、そんな、おめでとうだなんてお恥ずかしい、もう三十年も昔の事ですのに。
クォン: ああ、でも、つい昨日のように思い出してしまうものですね。お二方も最後まで仲むつまじいご様子で、なによりでございます。
クォン: あの、もしお二方にも何かお話したいことがおありでしたら喜んで聞きますが──
0:お二方は、続きが聞きたいと言った。
クォン: そうですか、では引き続き。ここからはいささか辛いお話もございますが、ユエさんの事、語らせていただきたく。
0:軽く咳払いをして、クォンは続けた。
クォン: 鼻をぶつけたことも、荷車に乗ったことも、ダンダラココの腹の中でかわした言葉も、ユエさんは覚えていないと、先に申し上げました。
クォン: ユエさんは下腹に魔女の魂を抱えていると、初めに申し上げました。
クォン:
クォン: ユエさんがモノの怪を喰うのは、この魔女の飢えを満たすためです。魔女が飢えると、ユエさんの魂をかじって思い出を奪います。
クォン: ですのでユエさんはモノの怪を喰うために、まじない師としてモノの怪退治におもむきます。
クォン: ダンダラココのように簡単に喰えれば良いですが、危険は多く、文字通り死ぬような目にも遭うのだそうです。
クォン:
クォン: 刺された、斬られた、咬まれた、射られた。そういう、命にかかわるような傷を負った時にね、魔女が出てくるんだそうですよ。
クォン: そして危機を一掃し、体の傷をなくし、宿主であるユエさんを生かし、思い出を奪うのです。
クォン: ユエさんからその事を聞いた時には、正直申し上げて「それでも命あっての物種だ」と呑気に構えていたところがありました。しかし結婚して三年がたったある日、大きな出来事がありましてね。
クォン: 私たちは、王太子殺しの下手人として濡れ衣を着せられました。
クォン: 私は行商の先で捕らえられ、牢に入れられました。
クォン:
クォン: 理由なぞわかりません。
クォン: ユエさんはモノの怪退治に出向いた先で役人や将兵に追われ、ついに追いつかれ、そして、魔女が出たそうです。
クォン: つまり、死ぬような傷を、負わされたのです。
クォン: こうしてお話している今でも私は、この仕打ちを許しておりません。文字通り一生、私はあの国を許しませんでした。
クォン:
クォン: あの時。
クォン: 王族殺しの一味として処刑場に引き出され、柵越しに石と罵声を浴びながら私は、なぜ自分がそんな所にいるのか理解できませんでした。
クォン: モノの怪退治に出ていったユエさんと右目殿は、馬宿に預けっぱなしのモンチャンは、無事でいるのか。
クォン: つい数日前まで静かに暮らしていたはずなのに、なぜ、私は首をはねられようとしているのか。
クォン: まさに処刑されようというその瞬間に、甲高い猫の咆哮(ほうこう)が聞こえました。
クォン:
クォン: 正午の日差しを背負って空から落ちてきたユエさんの姿を、私は生涯忘れることはありませんでした。
クォン: 稲妻のように着地し、処刑人たちをなぎ倒し、嵐のように私をさらって行った最高の化け猫です。
クォン: そして、私と、ユエさんと、右目殿と、モンチャン。全員で国を出ました。
クォン:
クォン: しかし、ユエさんは私の事を忘れてしまっていたのです。私との思い出をなくしてしまっていたのです。
クォン: 私の顔さえ忘れてしまったのに、それでも、助けに来てくれたのです。
クォン: ユエさんは言いました。
ユエ:「わたしの右目があなたの事を教えてくれた」
ユエ:「だけど、それだけじゃないんだ」
ユエ:「わたしの家の──わたしとあなたが暮らしていた家のあちこちにね、幸せだったっていう気持ちが残ってた。
ユエ:タンスを見ても、水瓶を見ても、枕を見ても、何をしていたのかは全然思い出せないのに、幸せだったって気持ちは感じられたんだよ。それでね、あなたに会いたいと思ったんだ。
ユエ:
ユエ:昨日までのわたしにくれた幸せを、これからのあなたの命に返そうと思ったんだよ」
クォン: 国境を越え、昼間の人目を避けて隠れた林の中でした。
クォン: また生きてユエさんに会えた喜びとは別に、また無事に家族がそろった安心とは別に、私は言いようのない寂しさを覚えました。
クォン: 目の前にいるユエさんは、私がともに暮らしていたユエさんとは違うのだと知りました。
クォン:
クォン: 夜明けの中でもじもじと指先を動かしたときの気持ちも
クォン: 夕暮れの荷車の上からモンチャンを眺めていた時の気持ちも
クォン: 私と初めて言葉を交わしたときの気持ちも
クォン: 彼女は覚えていないというのです。
クォン:
クォン:「ユエさん、今までみたいに『きみ』と呼んでくれませんか。私は、私が、今までユエさんにしてきたことは、私がそうしたいからしたのです。少しでもあなたが喜んでくれたら嬉しいと、それだけのことだったのです。
クォン: ただの一度も、何かの対価だったことはありませんでした」
クォン: ユエさんは、私が見た中でも一番くるしそうに顔をゆがめました。
ユエ:「だけど、あなたの事は、やっぱり、思い出せないんだ」
ユエ:「ごめんなさい。なくしてしまってごめんなさい。あなたはいい人だったはずなのに、ずっと一緒にいたはずなのに、なくしてしまって、ごめんなさい」
クォン: 私はたまらず彼女を抱きしめて、泣きました。
クォン: だって、ユエさんは何も悪くないじゃないですか。何も悪くないのに、私は何も取り返してやれないじゃないですか。
クォン:
クォン:
クォン: 泣き疲れました。日が暮れます。出発です。なるべく国境から離れなければなりません。
クォン: 十何年かぶりに大泣きして、薄っぺらく感じる肺に空気を吸い込み、私はユエさんに告げました。
クォン:
クォン:「私の名前はクォンです」
ユエ:「うん……知ってる」
クォン:「いいえ、私はまだあなたに名乗っていません。私はクォン。強い、という意味です。あなたの名前を教えてください」
クォン: 少しあり、ふわっ、と力の抜けた微笑みを見せて、ユエさんが名乗ります。
ユエ:「わたしはユエ。意味は、シーイーの言葉で、月」
クォン:「素敵です」
ユエ:「うん。わたしもこの名前が好きだよ」
クォン: そう言って、ユエさんが平笠を手に持ちました。
ユエ:「クォン、わたしとくれば、また危険に巻き込まれるかもしれないし、わたしはまた何か大切なことをなくしてしまうかもしれない」
クォン:「いいですよ。大丈夫です。私は強いので負けません」
ユエ:「返事が早いよ……ありがとう」
クォン: そして、ユエさんが平笠を真上に投げ上げます。少しの風があります。上弦の月が夕方の空高くに見えました。これから満ちる月、やはりユエさんの名前は素敵だ、などと感慨に浸る私に平笠が流れてまいりました。
クォン: あ、これは、と。なりました。以前の事があるので私は動けず、笠はそのまま、きれいに私の頭にはまりました。
クォン: すぽん。
ユエ:「あははははははは!ははははは!」
クォン: ユエさんがお腹を抱えています。
クォン: ベェヘーヒエ!とモンチャンが声を上げます。まったく、人目を避けているのにこの大騒ぎですよ。
クォン:
クォン: 方角が狂いますからね、私は動きません。ユエさんが笑い収めて、笠に描かれた模様を読みます。模様を読むユエさんの表情が好きです。やがてユエさんは背伸びして私の頭から笠を取り、そのユエさんと目が合います。
ユエ:「改めて、よろしくね。クォン」
クォン:「こちらこそですよ、ユエさん。また、好きになってもらいます」
ユエ:「あなたは、急に、そういうこと言うんだね」
0:沈黙
クォン: この日から長い間、私たちは居を定めることなく暮らしてきました。
クォン: 私たちの間には子どもができませんでしてね。ユエさんは、もしかしたらお腹の魔女のせいかもしれない、と言っていました。
クォン: 私が三十歳になるころ、ユエさんが年を取らないことがわかりました。
クォン:
クォン: やがて私たちの大切な耳長馬が年老いて、とある山の中腹で力尽きた時、ユエさんは初めて「怖い」と口にしました。
クォン: 私は、あのひとの怖さに対して私ができたことは、せいぜい長生きすることだったと思うのですが、病を得てしまいましてね……
クォン: ただ、ユエさんが私と一緒にいてくれた三十年は、私を幸せにしてくれたと、伝えることができました。
クォン:
クォン: 願わくば、あのひとにとってもそうであってほしいと、そう願うばかりですよ。この期に及んで、なお。
クォン: 右目に猫の魂を、下腹に魔女の魂を抱えて妻は生きています。
クォン: 美しいひとですよ。
クォン:
クォン: ところでお二方、私は生前にユエさんから聞いたんですが、人が死ぬと、その魂はまた別の世に生まれ変わるんだそうですね。
クォン: ですが、死んでから生まれ変わるまでの間にこんな待合室があるだなんて、あのひとも知らなかったことでしょう。教えてあげたいような気もします。
クォン: これは冗談半分で訊くんですが、幽霊とか亡霊とか、そういうモノになるのはどうすればいいのかご存じですか?
クォン:
クォン: いや、ははは、べつに誰にも恨みはありませんよ。ただ、できれば家族の側にいたいなぁと思うのは、自然な気持ちじゃないですか。
クォン: それに、あのひとはね、職業柄といいますか、見えるんですよ、亡霊が。
クォン: あ、いや、やめておきましょう。現世に残る亡霊を祓うのも、まじない師ユエさんの仕事でした。死んでなお妻に迷惑かけるわけにもいきませんしね。
クォン:
クォン: ああ、もう行かれるのですか。話を聞いて下さり、ありがとうございました。どうか次に産まれる世界が平穏でありますよう。
クォン: あの、お二方。もし私の見立てが外れていたら申し訳ないのですが、あなたがたはもしや、ユエさんのご両親ではありませんか?
クォン: ──わかりますって。笑った時のシワ、興味をひかれた時の目の形、照れた時の口のとがり方、あのひとがそっくりです。
クォン:
クォン: 私はここであのひとを待とうと思います。
クォン: 生まれ変わりを待つ人に、ノロケ話をしながら、いつかユエさんが下腹の魔女と決着をつける日を待ちますよ。
クォン: 幸いなことに、どうやら喋り続けていればお迎えも来ないようですしね。
クォン: それでは、行ってらっしゃいまし。
クォン:
クォン: 右目に猫の魂を、下腹に魔女の魂を抱えて妻は生きています。
クォン: 美しいひとですよ。
0:化け猫をまつ 完
クォン:(クォン役の方はクリックしてください)
ユエ:(ユエ役の方はクリックしてください)
0:以下本文
クォン: 妻は美しいひとでした。
クォン: いや、過去形で語るのもおかしいですね。妻は存命です。
クォン: 美しいひとですよ。
クォン: 右目に猫の魂を、下腹に魔女の魂を抱えて妻は生きています。
クォン: 美しいひとですよ。
クォン:
クォン: さてですね、今から始まるのは私のノロケ話なんですが、あの、お二方、本当によろしいのですか?
クォン: そりゃあ私にとってはなんだかんだ良い思い出ですし、話すに吝(やぶさ)かではないんですけどね。他人のノロケなぞ聞いて、面白いのです?
0:聞き手の「お二方」が聞かせてくれと頼む。
クォン: ――そうですか。では、こっぱずかしくもありますが、こんなところで出会うのも何かの巡り合わせでしょうから、お迎えが来るまでの間、精いっぱい語らせていただきましょう。
クォン:
クォン: おほん。
クォン: いま出会いだの巡り合わせだのと申し上げましたが、私と妻の出会いは、痛みを伴うものでした。
クォン: 鎖骨と鼻が、ゴツンと。
クォン: 忘れもしません、雨季が明けたばかりのカンカン照りの日でしたよ。私は内陸から港の方へと下っていましてね。盆地で買い付けた乳奈(ブスアー)がなかなか良い値ではけた。
クォン:
クォン: あ、ブスアーはご存じない?これは失礼しました。あれは日持ちのする果物でして、グニグニと手のひらで揉みこんでやってから、皮に切り込み入れて果汁を吸いだすんですよ。
クォン: 淡白な甘さで暑い日の渇きにもいいし、下り腹(くだりばら)にもよく効くんです。かじっちゃ駄目ですよ?皮が渋いんで、一日中ツバを吐いて過ごすハメになりますからね。
クォン:
クォン: で、そのブスアー、本当は港で売るつもりだったんですが、さすがに悪くなるんじゃないかと心配してたもんですから、ここで売れてくれたのはむしろ運がよかった。
クォン: それでまぁ気分も懐具合もよくなりましたし、なんか面白い物でもありゃしないかと、耳長馬(みみながうま)と荷車を知り合いに預けて、町なかをウロウロしてたんですな。
クォン:
クォン: そしたら、空にまるいものが飛んでた。
クォン: ああ、平笠(ひらかさ)か。誰かの笠が風で飛ばされでもしたのかね。と見てましたらこっちに流れてきますし、ちょうど私の頭に乗っかってきそうな塩梅でしたから、これはあれだ、笠が頭にスポンとハマればちょっと面白いじゃないかって気分になりまして、それならこっちもしっかり迎えてやろうなんて考えまして。
クォン: よーく見て、よーく狙って、それ。
クォン: スポン。
クォン: ゴツン。
ユエ:「ぎゃ!」
クォン: これが初めて聞いた妻の声でした。
クォン: 私もそれなりに痛かったんですが、妻が──この時はまだ初対面の娘さんですが、彼女が両手で鼻を押さえてぴょんぴょん跳ねてましてね。
クォン: この時の私に言ってやりたいです「声を、かけろ、すぐに」とね。「大丈夫ですか?」とか「うっかりして申し訳ない」とかいくらでもあっただろうに。
クォン: でも、かけられませんでした。
クォン: びっくりしたんです。眩しくて。あんまり眩しいもんで、私が見ているのが本当に人間なのかわかんなくなっちゃったんですよ。
クォン:
クォン: いやいや例え話じゃなくてですね。
クォン: 彼女は遠い西の国から流れてきたひとでして、全体的に色が薄くて白っぽいんです。髪も磨いた稲藁(いねわら)みたいな色なんです。
クォン: それがカンカン照りの真っ昼間にぴょんぴょんすりゃあピッカピカに光るってもんですよ。
クォン:
クォン: しかし当時の私はまだ若造で、西の人なんて見るのも初めてで、自分は今何を見ているんだ?言葉は通じるのか?話しかけていいのか?という気持ちでいっぱいでした。
クォン: そのうち、ぴょんぴょんピカピカしてた彼女も落ち着いてきて、私にもだんだんナリが見えてくる。
クォン:
クォン: あのころ私はちょうど二十歳で、彼女は少し年下に見えました。袖無しの赤い服からすんなり伸びた腕。肩口あたりで、くりんくりんと跳ねる髪。
クォン: 彼女がしかめっつらの左目を開けます。妻と私の、最初の会話です。
ユエ:「いたい」
クォン:「すいません、よそ見してました」
ユエ:「動かないで」
クォン:「なんでです?」
ユエ:「平笠で方角を見てる」
クォン: なんの事やらさっぱりでしたが、彼女はずいっと近寄ってきた。透き通った琥珀みたいな左目がですね、その視線が私の頭に乗っかった平笠の縁(へり)をなぞっていく。うわーっとなりました。
クォン:
クォン:「初対面の男に、近づきすぎだと思うんですよね」
ユエ:「うん、ごめんね。すぐ終わる。──あっちか」
クォン: 彼女はちょっと背伸びして、私の頭から笠を取ります。
クォン: 頭の両脇に彼女の腕が伸びてきて、ピリピリと頬に痺れるような感覚が走りました。
ユエ:「はい、ありがとう。動かれたらせっかくの術が狂うところだったよ」
クォン:「ああ、そりゃあ……よかったです。あの、右目をずっと閉じたままですけど、そちらは大丈夫ですか?」
ユエ:「これ?右目は生まれつき──町も離れるし、隠すことないか」
クォン: 右目が開きました。
クォン: カンカン照りの明るい陽射しにキュっと縦にすぼまる、金色の猫の瞳がはまってました。
ユエ:「聞いたことある? 西の国から来たまじない師『平笠の化け猫』の噂」
クォン:「全然ありませんけど、世の中、いろんな人いますね」
ユエ:「う……そうだね」
クォン: これが彼女との出会いです。
クォン: 恥ずかしながら、私は浮かれていました。
クォン: お二方も出会ったばかりの頃、ふわふわと熱に浮かされたようになったことはございませんでしたか?
クォン:
クォン: 彼女が笑った時、小鼻にくいっとシワが寄りましてね。あ、もう一度見たい。このひとと仲良くなりたい。この機会を逃してはならない、と強く感じて、名乗りました。
クォン:
クォン:「私の名前はクォンです」
ユエ:「ん?うん。わかった。急になに?」
クォン:「まじない師さんに名前を預ければ、御利益(ごりやく)があると思いました」
ユエ:「ないよ?」
クォン: ですよね。知ってます。私は腹の内を明かします。
クォン:「あなたの名前を知りたいんですよ」
ユエ:「わたしの名前にも御利益ないよ?」
クォン:「やや、あなたが気づいてないだけで、あるんじゃないですか?商売繁盛とか」
ユエ:「適当なこと言うね?」
クォン:「じゃあ試しに教えてみてください。次に会うときには、儲かって儲かって、店なり家なり持ってますよ」
ユエ:「へぇ? どうしようかな」
クォン:「ナントカの恩返しって、昔話にもあるじゃないですか。通りすがりの人に親切にしたら、それが何倍にもなって帰ってくる。さぁ! いま! 絶好の機会です!」
ユエ:「変な人だね、きみは。まあいいや。わたしはユエ。ただのユエ」
クォン: ユエさん。
クォン: この後三十年、何度も口にした名前です。わたしは、ちょっといい所を見せたくて言いました。
クォン:
クォン:「シーイーの言葉で、月を意味するお名前ですね」
ユエ:「うん。じゃあそういうことで」
クォン:「待ってくださいよユエさん」
ユエ:「あるといいね、御利益」
クォン: 追いかけようとはしたんですが、ユエさんの姿は人混みに溶けて見えなくなってしまいまして。
クォン: まるで獣が草むらに隠れるような巧みさでしたよ。なるほどまさに化け猫! なんてことを思いましたが、まさかの翌々日に再会しましたよね。
クォン:
クォン:
クォン: 私たちは全部で三回、偶然に出会いました。
クォン: 二回目に会った時、ユエさんは足をくじいて立ち往生してましたので、最寄りの町まで荷台に乗せて行きました。
クォン: 三回目は、ダンダラココというモノの怪の腹で出会いました。
クォン: これらの事を、ユエさんは覚えていません。
0:一息つく。
クォン: さてさて、二回目に会った時のお話です。
クォン: 私は耳長馬(みみながうま)を引いて歩きます。耳長馬は古い荷車を引きます。その荷車にユエさんが乗りました。足首をひどくひねったそうで手製の湿布を貼っていました。
クォン: 足を投げ出して、荷台の囲いに背中を預けて、ずいぶんくつろいでいるなぁと思ったものです。ぼってりとした日差しは午後深くに傾いて、斜め後ろからユエさんの声がします。
ユエ:「この馬の子、お尻が白いね」
クォン:「変わってるでしょう?尻白(モンチャン)って名前です。短足ですが、仔馬じゃないですよ。辛抱強くていい奴です」
ユエ:「へえ、よろしくモンチャン。重くてごめんね」
クォン:「どうってことないですよ、こいつには。けっこう揺れますが、痛みませんか?」
ユエ:「骨は折れてないみたいだし、足の下に敷く布たくさん貸してくれたし、ぜんぜん平気。本当にありがとうだよ。これはどっちだろうね。クォンの名前を聞いたからか、クォンに名前を教えたからか」
クォン:「なんの話です?」
ユエ:「足をくじいた時に空っぽの荷車を引いた知り合いの行商人が通りかかる御利益の出どころについて」
クォン:「素人には難しい質問ですねぇ」
ユエ:「真面目なお返事だなぁ。クォンには何か御利益あった?」
クォン:「商売繁盛とはまた違ったみたいですけど、はい」
ユエ:「へえ、昨日の今日なのにすごいや。どんないい事?」
クォン:「ユエさんに会えました」
ユエ:「きみは、急にそういうこと言うね」
クォン:「いえ、これでも結構ほんとうにそう思ってるんですよ。ほら、おとといぶつかったお詫びもできませんでしたし」
ユエ:「あー、いいよあれは。わたしもよそ見してたから」
クォン:「でも、ユエさんは顔打ったじゃないですか」
ユエ:「そうだけど、うーん、なら、いま乗っけてもらってるのでおあいこってことでどう?」
クォン:「こんなことでいいんなら、はい。……そういえば笠で方角を見るっていうのは、まじない師さんはよくやるんです?」
ユエ:「笠はあまり使わないかな。くるくる回るけどもっと小さい……水盆(みずぼん)とか火独楽(ひごま)とか使う人が多いよ」
ユエ:「わたしのは、ちょっと新しい術でね。物探しと道案内の術なんだ。でもまだまだ、改善の余地があるみたい」
クォン:「はあ、そういうものですか。あそうだ、実はあのあと『平笠の化け猫』の噂について、ちょっと聞いてみたんですよ」
ユエ:「うん。まぁだいたい噂通りだよ。モノの怪退治専門のまじない師で、流れ者で、猫憑き(ねこつき)で、モノの怪を喰う。他になにかあった?」
クォン:「化け猫ユエというのも」
ユエ:「同じ同じ。わたしわたし」
クォン:「人喰いだってのが」
ユエ:「それは間違い。でも人喰いの噂を聞いてたのに、よくわたしを荷車に乗せたね。怖いもの知らず?」
クォン:「いやあ、鼻ぶつけて『いたい』って言う人がそんな恐ろしいモノとも思えませんでしたし」
ユエ:「モノの怪もヒトを誘うときは怖くないから、気を付けなね?」
クォン: この時の言葉は本当でしてね。
クォン: ユエさんと三回目に出会った時、私はモノの怪の腹の中におりました。
0:
クォン: あれは年も変わって、雨季が来て、またその終わりに差し掛かったころでした。私の荷車は満杯の籠細工(かございく)を運んでましてね。
クォン: 本当ならもう宿場町に入っている予定だったのですが、途中で車が泥にとられたりと、思ったよりも時間がかかってしまったのですよ。
クォン: もう日も暮れてしまう頃合い、やれやれと提灯に火を入れたらゴロゴロと空が鳴りました。これは土砂降りが来るぞ参ったぞと思ったら人家の明かりが見えまして。
クォン:「ごめんください」
クォン: 返事がないので、ままよ、とモンチャンと荷車を土間に引き入れましてね。やれやれ、といったところで
ユエ:「わあ!クォンだ!」
クォン:「ユエさん!?」
ユエ:「モンチャンも元気そうだね、久しぶり!」
クォン: 高床(たかゆか)の中二階(ちゅうにかい)から身を乗り出して、私とモンチャンを見下ろして、ユエさんが機嫌よさそうに手を振ってました。
クォン: 小鼻にシワが寄ってまして、私は言葉に詰まりました。なんでしょう、嬉しそうにしているのが、とても愛くるしくて、嬉しそうなのが、とても嬉しくてですね──。
クォン:
クォン: あ……すみません、続けます。おほん。
クォン: ユエさんは朗らか(ほがらか)でしたが私はドギマギしてました。雨宿りしようと入った家にユエさんがいて、日は暮れてて、二人きりです。私にも心の準備が必要でしたが
ユエ:「早くこっちあがっておいでよ」
クォン: その暇がもらえませんでした。
クォン: 高床の中二階なんて普通は寝床ぐらいしかありませんから、私は期待半分、緊張半分で急な階(きざはし)を登ります。大目に見てやってください、若かったのです。
クォン: 中二階では、筵(むしろ)を重ねた寝床の上にユエさんが化粧道具のようなものを広げてまして、恐ろしいことを言いました。
ユエ:「わたしがいなかったら、朝にはこの世とさよならしてたよ。気をつけろって言ったでしょ? ほら、座って」
クォン: そして、ユエさんは糠袋(ぬかぶくろ)のような道具を手に取りました。同時に、どおおおお、と土砂降りが屋根を叩きます。
ユエ:「ダンダラココ。家オバケ。わたしたちはそのお腹の中にいます」
ユエ:「このモノの怪のいいところは、虫の類が中にいないこと。どんな大雨でも雨漏りしないこと。洪水でも流されないこと。行燈(あんどん)みたいな明かりが夜通しついてること」
クォン:「すごいですね。住みたい」
ユエ:「ね。で、悪いところは、まぁ、モノの怪だしね。中に入った人を食べることです。そうならないように、今からきみに粉を叩(はた)きます」
クォン:「わかりました。お願いします」
クォン: ユエさんの右手には粉袋(こなぶくろ)、左手は床について、身を乗り出してきます。
クォン: 両の瞳が近いです。薄暗い所なので、猫の瞳も丸く開いています。私の顔が映っていました。
クォン:「近づきすぎだと思うんですよね」
ユエ:「目ぇ閉じて。粉が入るよ」
クォン: 従います。おでこに粉袋をとんとんされました。
クォン:「変わった匂いしますね。肉桂(にっき)?丁香(ちょうこう)?ちがうか……」
ユエ:「いろいろだね。この匂いでダンダラココを誤魔化して、朝までぐっすり。はい、とんとん」
クォン:「モンチャンには何もしなくていいんですか?」
ユエ:「モンチャン耳長馬(みみながうま)だから平気。はい、とんとん」
クォン:「ユエさん、いつもモノの怪の腹ん中で寝るんですか?」
ユエ:「まさか。ダンダラココは季節モノだよ。今日は運がよかった。はい、とんとん」
クォン:「あの、ユエさん」
ユエ:「なに?」
クォン:「私と暮らしませんか?」
ユエ:「──はい、おしまい」
クォン: おしまい、が、粉叩きの事なのか、この話題のことなのか、それとも私との関わりの事なのか、わからないまま目を開けました。
クォン: ユエさんは怒ったような、悲しんでいるような、そんな表情をしていて、この時だけはとても頼りなく見えました。
クォン: 雨と心臓の音ばかり聞こえていたのを覚えています。
クォン: ユエさんが私から目をそらし、目を泳がせ、ぎゅっと目をつぶりました。再びその両目が開いた時には、力の抜けた、呆れたような笑みが浮かんでいまして、こう言われました。
ユエ:「きみは、急に、そういうこと言うよね」
0:クォン、ひと息つく。
クォン: はい。
クォン: ずっと後になって、いろいろ忘れてしまったユエさんから、私たちはいつ結婚したのかと尋ねられたことがあります。私はこの日の事を話しました。
クォン: ユエさんは随分と笑っていましたよ。モノの怪の腹の中で結婚した夫婦なんて、世界中探したってわたしたちぐらいだと。出会った頃と変わらない姿で、小鼻にシワを寄せてね。
クォン: さて、そんな思い出のダンダラココも、日の出前にユエさんがきれいさっぱり食べてしまいました。
ユエ:「わたし、こういうひとだけど、本当にいいの?」
クォン: 右腕についたダンダラココの血をべろりと舐め取り、ユエさんは文字通り「もう一つの顔」を見せて言います。
クォン: 鋭い牙を持つ白猫の顔、モノの怪喰いの化け猫としての顔です。
クォン:
クォン: 人の頭が猫の頭にすげ変わるところも、細い指がダンダラココの心柱(しんばしら)を切り裂くところも、しぼんでクラゲのようになったダンダラココの正体を、猫頭(ねこあたま)の牙が引き裂いて飲み込むところも、この目ではっきりと見まして、私は腰を抜かしていました。
クォン:
クォン: 情けない話なのですが、もしモンチャンがいなかったら、ユエさんの問いに答える決心はつかなかったかもしれません。
クォン: ユエさんに、モンチャンが鼻面を擦りつけたんですよ。あいつは動物ですから、私たちが何を話してるかなんてお構いなしです。
クォン: それで、ユエさんの素の部分がちらりと見えました。耳長馬(みみながうま)に気をとられ、再び私を見たあのひとの、白猫の形をした顔には、不安が見えたのです。
クォン:
クォン: 私は立ち上がろうともがきました。大事な事を言うのに、腰を抜かしたままではいけません。
クォン: ユエさんが手を貸してくれまして、私は軽々と助け起こされました。「ユエさん」と声をかけます。握ったままの手から、緊張がわかります。
クォン:
クォン:「私は、あなたがいい。
クォン: そりゃ、たまたま三回あっただけの相手です。それはバカな私でもわかっちゃいるんです。でも、初めて会った時からですね、次の町に、あの道を曲がったところに、猫の右目のまじない師さんがいないかと期待しない時はありませんでした。この広い世の中で、お互い勝手に生きてるのに、三回も会えたんです。でも、次からは偶然じゃなく、必然がいいです。
クォン: ユエさんには私の所に帰ってきてほしいですし、私はあなたの所に帰りたい」
クォン:
クォン:「ユエさん、あなたが好きです」
クォン:
クォン: ユエさんの表情は読めません。金と琥珀の瞳で私を見つめています。真珠色の毛でおおわれた口が動いて、牙の隙間からユエさんの声がします。
ユエ:「わたしは……
ユエ:わたしは、誰かに再会するのって、きみが初めてだったんだよ。知ってる人にもう一度会ったってだけなのに、きみはなんだか嬉しそうにしてて、わたしもそれがなんだか嬉しくて──笠の神様が指す先に、クォンがいたりしないかな、とは、思ってた」
クォン: ユエさんの頭が、猫から人へと戻っていきます。真珠色の毛が抜け、磨いた稲藁みたいな色の髪が肩口で、くりんくりんと跳ねます。
クォン: その髪先が、夜明けの光を含んでいました。やっぱり眩しいひとでした。
ユエ:「わたしにはね、秘密がたくさんあるんだ。これからクォンは、それを知っていくことになるよ。それでも、わたしを嫌わないでくれたら、うれしい。
ユエ:……えっと、そんなふうにまっすぐ、す──好きとか言われたこと、ないから、どうしたらいいかわかんない」
クォン: つい先ほどまで猫頭でモノの怪をむしゃむしゃ喰ってたひとが、顔を真っ赤にしてうつむきました。握った指先がもじもじと動いていまして私も一気にのぼせ上りまして
クォン: ベェヘーヒェ!
クォン: と耳長馬(みみながうま)が鳴きます!モンチャン!
クォン:「ええっと……とりあえず出発しましょうか。私は城下へ向かうつもりでしたが、ユエさんは、どんな予定でしたか?」
ユエ:「いいよ、きみと一緒に行く。笠の神様は一回お休み」
クォン:「それじゃあ、道すがら、話しましょう。これからの事だとか、いろいろ」
ユエ:「そうだね。わたしも、相棒の事を紹介したいし」
クォン:「え、そんな人いるんですか!?」
クォン: 荷車の車輪が回ります。私たちは城下へと進みます。
クォン: 平笠の化け猫、化け猫ユエ。
クォン: 私の生涯の伴侶でした。
クォン:
クォン:
クォン: ふぅ。
クォン: こうして私とユエさんと右目殿の三人で、たどたどしく新生活を始めていくことになりました。
0:お二方から、「三人?」と疑問の声が上がる。
クォン: あ、はい。三人です。
クォン: 驚かせてしまって申し訳ないのですが、ユエさんの右目には猫の魂が宿っておりまして、この右目がユエさんの相棒でした。
クォン: 今までにお伝えした出来事はこの右目殿に全部見られていたわけですね。ははは。
クォン: 私も最初は非常に戸惑いましたが、そのうち右目殿も義理の兄のような感じになりました。
0:お二方から、結婚おめでとうございました、と声がかかる。
クォン: いや、そんな、おめでとうだなんてお恥ずかしい、もう三十年も昔の事ですのに。
クォン: ああ、でも、つい昨日のように思い出してしまうものですね。お二方も最後まで仲むつまじいご様子で、なによりでございます。
クォン: あの、もしお二方にも何かお話したいことがおありでしたら喜んで聞きますが──
0:お二方は、続きが聞きたいと言った。
クォン: そうですか、では引き続き。ここからはいささか辛いお話もございますが、ユエさんの事、語らせていただきたく。
0:軽く咳払いをして、クォンは続けた。
クォン: 鼻をぶつけたことも、荷車に乗ったことも、ダンダラココの腹の中でかわした言葉も、ユエさんは覚えていないと、先に申し上げました。
クォン: ユエさんは下腹に魔女の魂を抱えていると、初めに申し上げました。
クォン:
クォン: ユエさんがモノの怪を喰うのは、この魔女の飢えを満たすためです。魔女が飢えると、ユエさんの魂をかじって思い出を奪います。
クォン: ですのでユエさんはモノの怪を喰うために、まじない師としてモノの怪退治におもむきます。
クォン: ダンダラココのように簡単に喰えれば良いですが、危険は多く、文字通り死ぬような目にも遭うのだそうです。
クォン:
クォン: 刺された、斬られた、咬まれた、射られた。そういう、命にかかわるような傷を負った時にね、魔女が出てくるんだそうですよ。
クォン: そして危機を一掃し、体の傷をなくし、宿主であるユエさんを生かし、思い出を奪うのです。
クォン: ユエさんからその事を聞いた時には、正直申し上げて「それでも命あっての物種だ」と呑気に構えていたところがありました。しかし結婚して三年がたったある日、大きな出来事がありましてね。
クォン: 私たちは、王太子殺しの下手人として濡れ衣を着せられました。
クォン: 私は行商の先で捕らえられ、牢に入れられました。
クォン:
クォン: 理由なぞわかりません。
クォン: ユエさんはモノの怪退治に出向いた先で役人や将兵に追われ、ついに追いつかれ、そして、魔女が出たそうです。
クォン: つまり、死ぬような傷を、負わされたのです。
クォン: こうしてお話している今でも私は、この仕打ちを許しておりません。文字通り一生、私はあの国を許しませんでした。
クォン:
クォン: あの時。
クォン: 王族殺しの一味として処刑場に引き出され、柵越しに石と罵声を浴びながら私は、なぜ自分がそんな所にいるのか理解できませんでした。
クォン: モノの怪退治に出ていったユエさんと右目殿は、馬宿に預けっぱなしのモンチャンは、無事でいるのか。
クォン: つい数日前まで静かに暮らしていたはずなのに、なぜ、私は首をはねられようとしているのか。
クォン: まさに処刑されようというその瞬間に、甲高い猫の咆哮(ほうこう)が聞こえました。
クォン:
クォン: 正午の日差しを背負って空から落ちてきたユエさんの姿を、私は生涯忘れることはありませんでした。
クォン: 稲妻のように着地し、処刑人たちをなぎ倒し、嵐のように私をさらって行った最高の化け猫です。
クォン: そして、私と、ユエさんと、右目殿と、モンチャン。全員で国を出ました。
クォン:
クォン: しかし、ユエさんは私の事を忘れてしまっていたのです。私との思い出をなくしてしまっていたのです。
クォン: 私の顔さえ忘れてしまったのに、それでも、助けに来てくれたのです。
クォン: ユエさんは言いました。
ユエ:「わたしの右目があなたの事を教えてくれた」
ユエ:「だけど、それだけじゃないんだ」
ユエ:「わたしの家の──わたしとあなたが暮らしていた家のあちこちにね、幸せだったっていう気持ちが残ってた。
ユエ:タンスを見ても、水瓶を見ても、枕を見ても、何をしていたのかは全然思い出せないのに、幸せだったって気持ちは感じられたんだよ。それでね、あなたに会いたいと思ったんだ。
ユエ:
ユエ:昨日までのわたしにくれた幸せを、これからのあなたの命に返そうと思ったんだよ」
クォン: 国境を越え、昼間の人目を避けて隠れた林の中でした。
クォン: また生きてユエさんに会えた喜びとは別に、また無事に家族がそろった安心とは別に、私は言いようのない寂しさを覚えました。
クォン: 目の前にいるユエさんは、私がともに暮らしていたユエさんとは違うのだと知りました。
クォン:
クォン: 夜明けの中でもじもじと指先を動かしたときの気持ちも
クォン: 夕暮れの荷車の上からモンチャンを眺めていた時の気持ちも
クォン: 私と初めて言葉を交わしたときの気持ちも
クォン: 彼女は覚えていないというのです。
クォン:
クォン:「ユエさん、今までみたいに『きみ』と呼んでくれませんか。私は、私が、今までユエさんにしてきたことは、私がそうしたいからしたのです。少しでもあなたが喜んでくれたら嬉しいと、それだけのことだったのです。
クォン: ただの一度も、何かの対価だったことはありませんでした」
クォン: ユエさんは、私が見た中でも一番くるしそうに顔をゆがめました。
ユエ:「だけど、あなたの事は、やっぱり、思い出せないんだ」
ユエ:「ごめんなさい。なくしてしまってごめんなさい。あなたはいい人だったはずなのに、ずっと一緒にいたはずなのに、なくしてしまって、ごめんなさい」
クォン: 私はたまらず彼女を抱きしめて、泣きました。
クォン: だって、ユエさんは何も悪くないじゃないですか。何も悪くないのに、私は何も取り返してやれないじゃないですか。
クォン:
クォン:
クォン: 泣き疲れました。日が暮れます。出発です。なるべく国境から離れなければなりません。
クォン: 十何年かぶりに大泣きして、薄っぺらく感じる肺に空気を吸い込み、私はユエさんに告げました。
クォン:
クォン:「私の名前はクォンです」
ユエ:「うん……知ってる」
クォン:「いいえ、私はまだあなたに名乗っていません。私はクォン。強い、という意味です。あなたの名前を教えてください」
クォン: 少しあり、ふわっ、と力の抜けた微笑みを見せて、ユエさんが名乗ります。
ユエ:「わたしはユエ。意味は、シーイーの言葉で、月」
クォン:「素敵です」
ユエ:「うん。わたしもこの名前が好きだよ」
クォン: そう言って、ユエさんが平笠を手に持ちました。
ユエ:「クォン、わたしとくれば、また危険に巻き込まれるかもしれないし、わたしはまた何か大切なことをなくしてしまうかもしれない」
クォン:「いいですよ。大丈夫です。私は強いので負けません」
ユエ:「返事が早いよ……ありがとう」
クォン: そして、ユエさんが平笠を真上に投げ上げます。少しの風があります。上弦の月が夕方の空高くに見えました。これから満ちる月、やはりユエさんの名前は素敵だ、などと感慨に浸る私に平笠が流れてまいりました。
クォン: あ、これは、と。なりました。以前の事があるので私は動けず、笠はそのまま、きれいに私の頭にはまりました。
クォン: すぽん。
ユエ:「あははははははは!ははははは!」
クォン: ユエさんがお腹を抱えています。
クォン: ベェヘーヒエ!とモンチャンが声を上げます。まったく、人目を避けているのにこの大騒ぎですよ。
クォン:
クォン: 方角が狂いますからね、私は動きません。ユエさんが笑い収めて、笠に描かれた模様を読みます。模様を読むユエさんの表情が好きです。やがてユエさんは背伸びして私の頭から笠を取り、そのユエさんと目が合います。
ユエ:「改めて、よろしくね。クォン」
クォン:「こちらこそですよ、ユエさん。また、好きになってもらいます」
ユエ:「あなたは、急に、そういうこと言うんだね」
0:沈黙
クォン: この日から長い間、私たちは居を定めることなく暮らしてきました。
クォン: 私たちの間には子どもができませんでしてね。ユエさんは、もしかしたらお腹の魔女のせいかもしれない、と言っていました。
クォン: 私が三十歳になるころ、ユエさんが年を取らないことがわかりました。
クォン:
クォン: やがて私たちの大切な耳長馬が年老いて、とある山の中腹で力尽きた時、ユエさんは初めて「怖い」と口にしました。
クォン: 私は、あのひとの怖さに対して私ができたことは、せいぜい長生きすることだったと思うのですが、病を得てしまいましてね……
クォン: ただ、ユエさんが私と一緒にいてくれた三十年は、私を幸せにしてくれたと、伝えることができました。
クォン:
クォン: 願わくば、あのひとにとってもそうであってほしいと、そう願うばかりですよ。この期に及んで、なお。
クォン: 右目に猫の魂を、下腹に魔女の魂を抱えて妻は生きています。
クォン: 美しいひとですよ。
クォン:
クォン: ところでお二方、私は生前にユエさんから聞いたんですが、人が死ぬと、その魂はまた別の世に生まれ変わるんだそうですね。
クォン: ですが、死んでから生まれ変わるまでの間にこんな待合室があるだなんて、あのひとも知らなかったことでしょう。教えてあげたいような気もします。
クォン: これは冗談半分で訊くんですが、幽霊とか亡霊とか、そういうモノになるのはどうすればいいのかご存じですか?
クォン:
クォン: いや、ははは、べつに誰にも恨みはありませんよ。ただ、できれば家族の側にいたいなぁと思うのは、自然な気持ちじゃないですか。
クォン: それに、あのひとはね、職業柄といいますか、見えるんですよ、亡霊が。
クォン: あ、いや、やめておきましょう。現世に残る亡霊を祓うのも、まじない師ユエさんの仕事でした。死んでなお妻に迷惑かけるわけにもいきませんしね。
クォン:
クォン: ああ、もう行かれるのですか。話を聞いて下さり、ありがとうございました。どうか次に産まれる世界が平穏でありますよう。
クォン: あの、お二方。もし私の見立てが外れていたら申し訳ないのですが、あなたがたはもしや、ユエさんのご両親ではありませんか?
クォン: ──わかりますって。笑った時のシワ、興味をひかれた時の目の形、照れた時の口のとがり方、あのひとがそっくりです。
クォン:
クォン: 私はここであのひとを待とうと思います。
クォン: 生まれ変わりを待つ人に、ノロケ話をしながら、いつかユエさんが下腹の魔女と決着をつける日を待ちますよ。
クォン: 幸いなことに、どうやら喋り続けていればお迎えも来ないようですしね。
クォン: それでは、行ってらっしゃいまし。
クォン:
クォン: 右目に猫の魂を、下腹に魔女の魂を抱えて妻は生きています。
クォン: 美しいひとですよ。
0:化け猫をまつ 完