台本概要
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タイトル | 『シェルパ・ティーには遅過ぎる』/BAR「猫町」“お一人様篇”シーズン1 #8 |
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作者名 | sazanka (@sazankasarasara) |
ジャンル | その他 |
演者人数 | 2人用台本(女2) |
時間 | 70 分 |
台本使用規定 | 非商用利用時は連絡不要 |
説明 |
とある街、とあるBAR。 とある、罪と罰について。 -黎和3年11月某日− “お一人様篇”は、とあるBARの、1名様来客時の比較的静かな時間を切り取った単発エピソード群です。話数の順も時系列通りではなく、進んだり戻ったり。 (“出奔者篇”と併せて、BAR「猫町」1stシーズンを構成しています。) 自由に、楽しんで演じて頂けますと幸いです。 ※【ボーナス・トラック】他については、兼役が難しい場合は必ずしも演じて頂かなくて構いません。 162 views |
キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
---|---|---|---|
シイナ | 女 | 297 | 店員。言葉を弄してしまう女。 |
サチカ | 女 | 229 | 女性客。罪に埋(うず)もる女。 |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
0:【注意】
0:「声無き誰かの声」は、今や永久に、この世に響く音を喪った人々の声です。
0:故に、声に出してはいけません。
:
:
:
0:【以下、本編】
シイナ:或る、心象のうた。
サチカ:ますぐなるもの地面に生え、
サチカ:するどき青きもの地面に生え、
サチカ:凍れる冬をつらぬきて、
サチカ:そのみどり葉(ば)光る朝の空路(あきじ)に、
サチカ:なみだたれ、
サチカ:なみだをたれ、
サチカ:いまはや懺悔(ざんげ)おわれる肩の上より、
サチカ:けぶれる竹の根はひろごり、
サチカ:するどき青きもの地面に生え。
声無き誰かの声:「わたしはあなたをゆるします。」
サチカ:光る地面に竹が生え、
サチカ:青竹が生え、
サチカ:地下には竹の根が生え、
サチカ:根がしだいにほそらみ、
サチカ:根の先より繊毛(せんもう)が生え、
サチカ:かすかにけぶる繊毛が生え、
サチカ:かすかにふるえ。
サチカ:かたき地面に竹が生え、
サチカ:地上にするどく竹が生え、
サチカ:まっしぐらに竹が生え、
サチカ:凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、
サチカ:青空のもとに竹が生え、
サチカ:竹、竹、竹が生え。
声無き誰かの声:「祈(いの)らば祈(いの)らば空に生え、
声無き誰かの声:罪びとの肩に竹が生え。」
サチカ:みよすべての罪はしるされたり、
サチカ:されどすべては我にあらざりき、
サチカ:まことにわれに現われしは、
サチカ:かげなき青き炎の幻影のみ、
サチカ:雪の上に消えさる哀傷(あいしょう)の幽霊のみ、
サチカ:ああ かかる日のせつなる懺悔をも何かせん、
サチカ:すべては青きほのおの幻影のみ。
0:タイトルコール。
シイナ:『シェルパ・ティーには遅過ぎる』
0:某月某日、某時刻。とあるバーの店内。
0:開店よりやや経ち、店内には女性店員が1人。伸びをし、カウンター内の木椅子に腰掛けようとした所、ドアベルの冷えた音。
0:外気が吹き込み、女性客が入店。
シイナ:いらっしゃァーい、どうぞォ、
サチカ:……、こんばんは……。
シイナ:(視認するや否や、立ち上がり)
シイナ:っ!!
シイナ:……あ、あっ……、
シイナ:サっちゃん先輩っ!!
0:店員の眼には驚愕の色。
サチカ:良かった……、
サチカ:シイちゃんの日、変わってなくて。
シイナ:うっわ……、お久しぶり!
サチカ:ちょうど1年ほど、かな。
サチカ:本当に長く、来られなくて……。
サチカ:他の、皆さんはお元気?
シイナ:いやァーーっ、いやっ、
シイナ:……、だって、
シイナ:……だって大変、だったでしょ。
シイナ:あんな……、
サチカ:うん、うん……、
サチカ:そうなの、本当に。
シイナ:他の二人も……、まァ、普通に元気で。
シイナ:マジで心配、してた。そりゃ。
サチカ:うん……。
サチカ:本当に、ご心配おかけしてしまってどうも、
シイナ:(遮り)謝っちゃ駄目だよ、今回ばっかりは。
シイナ:口癖なのは知ってるけどさ。
サチカ:…………、
サチカ:そう、ね、
シイナ:良かった。本当に。
0:店員の目は、珍しく真摯な光を湛えている。
シイナ:ハグ、していいかな。嫌で無ければ。
サチカ:……嫌な訳、無いわ。
サチカ:そう、よね……、まずは無事の、ご報告だもんね。
シイナ:(カウンターを出つつ)
シイナ:そうだよ。
シイナ:……、体は……、
シイナ:怪我の、具合は、
サチカ:もう、大丈夫。
サチカ:ふ、フ。抱いても折れたりしないから。
0:二人、向き合い、
シイナ:色々……、そりゃ色々、あっただろうし、言われた、だろうけど。
0:抱き合う。女性客の身に、店員の手の温もり。
シイナ:ありがとう。生きててくれて。
サチカ:…………、
サチカ:うん、うん。
シイナ:柄にもなく、さ……、
シイナ:神サマに感謝したんだから。
サチカ:……、君が?
サチカ:天地が……、ひっくり返るわね。
シイナ:大切な先輩を、この世から奪わないでくれて、って。
シイナ:……本当に、良かった……。
0:抱きしめる手に力が籠もる。
サチカ:……ふフ。痛いよ、シイちゃん。
シイナ:あ……、すみません。
0:店員は抱く腕の力を緩め。
サチカ:いつもは掴み所がないのに。
サチカ:こういう時だけ、躊躇わずまっすぐ来るんだから。
サチカ:そのギャップで可愛い後輩を何人も、泣かせて来たんだもんね?
シイナ:あは、今その話ィ?
0:語調をあらため、
シイナ:……先輩が……、
シイナ:恩義ある、先輩が。
シイナ:教科書に乗るような、未曾有(みぞう)の大事故からたった1人、生還したのを前にして……、さ。
シイナ:こうでも来なきゃソイツは、ただの冷血漢だよ。
サチカ:……、
サチカ:たった、1人……、
0:女性客の、品良くデザインされた眼鏡の奥に、吹雪の如き気色。
シイナ:センセーショナルに捉えてる訳じゃないから、決して。
シイナ:大袈裟なのは、劇部時代の癖で、
サチカ:うん……、うん。
サチカ:わかってる。兎に角、座るわね。
シイナ:ああ、失礼……。どうぞ。
0:店員は恭しく席を指し、促す。
0:ドアの向こう、高架下を吹き抜ける風の音は乾いている。
0:女性客は席に着きつつ、大ぶりなマフラーを解き。
シイナ:さ、その、素敵なマフラーは、
サチカ:これ、ね……。大きくて長くて、お気に入りなの。
シイナ:シックで良い。そこの台にでも置いてね。
シイナ:そしてコート掛けはこちら。はァい。
サチカ:ありがとう……。
0:店員は慣れた手付きで、生地の厚いネイビーブルーのコートを受け取り、骨董調のコートハンガーへと、滑らかに吊るす。
サチカ:ふふ、フ。
サチカ:キビキビして堂に入(い)った給仕(ギャルソン)っぷり。惚れ惚れするわね。
シイナ:でっしょォー? コッチの方が向いてるんだって、絶対。
サチカ:王子様扱いより?
シイナ:あっは、お笑い。
0:店員はカウンター内に戻り、客の前にコースターを出す。かちゃり、とブリキの小気味よい音。
シイナ:狂ってるよねェ、女子校ってホント。
シイナ:ちょっとタッパがあるだけでさァ、
サチカ:ロマンじゃない? 何よりも。一度は憧れるもの。
シイナ:体(てい)良く役に嵌められちゃった3年間でしたよ。ソレだって苦手じゃ無いけども。
サチカ:ふフ……。
シイナ:さてもさても……、
シイナ:積もる話の前に、まず何か、
サチカ:ええと、お酒の前に……、
サチカ:ちょっと、お白湯(さゆ)を1杯、
シイナ:あは、勿論。
サチカ:良いかしら……? お腹と喉を温めたくて。
シイナ:かっしこまりました。待ってね。
0:店員は棚から、マグカップを見繕う。
サチカ:ごめんね? 他にお客さんが来たら、注文を……、
シイナ:お気になさらずー。
0:ポットを前に作業しつつ。
シイナ:ふっふ……、懐かしいや。文芸部の部室が。
サチカ:私の不良行為、ね。
サチカ:舶来品のティーカップで……、
シイナ:アンティークの、リアルオールドウィローでさ。
シイナ:静々(しずしず)とお茶を飲んでる綺麗な先輩がいるなァ、と思って、
シイナ:「茶葉は何です?」って話しかけたら、
サチカ:「これ、お湯なの」ってね。
サチカ:ふフ、覚えてるわ。
シイナ:楽で面白い人だ、って直感したよね。
シイナ:以降3年……、
サチカ:見事に、入り浸られちゃったわね。
サチカ:サボタージュ常習犯の君を連れ戻しに、よくトシコちゃんが……、
シイナ:乗り込んで来たっけねェ。
シイナ:私の減らず口によく耐えたモンだよ、アイツも。
シイナ:「読書中は静かに、トシコくん」、なんて。あっはは。
サチカ:ふふフ。
サチカ:でも偶に……、一服して、お菓子まで食べて帰っていったわよね。2人揃って。
シイナ:あの部室の居心地の良さは普通じゃなかったからねェ。
シイナ:トシコも何だかんだ、2年に上がる頃には専用のカップまで決まってたし。
サチカ:名字が「鳳(オオトリ)」だから。鳳凰(ほうおう)柄のカップ。
サチカ:あれは確か……、
シイナ:有田焼きだったよね。香蘭(こうらん)だったかな。
サチカ:懐かしいわ……。
サチカ:あのカップ達は今の部室にも、受け継がれているのかしらね。
シイナ:ドジな娘(こ)が割っちゃってなければ、ね。
シイナ:そうそう……、姫の、妹ちゃんも今、文芸部なんだってさ。
サチカ:まあ、ケイジュの?
サチカ:妹さん……、ケイカちゃんね、確か。
シイナ:だったと思う。2年かな、今。
サチカ:私達の……、思い出のお部屋も。
サチカ:今は、誰かの青春の現場なのね。何だか不思議な気分。
シイナ:我々もまた、今を生きなければ、というところで。
サチカ:……、
サチカ:……ね。
0:店員はフと笑み、耐熱グラスに満たされた、適温の白湯を供する。
シイナ:ハイ、当店でお出し出来るいっぱいいっぱいの、最高級のお湯でございまァす、と。
サチカ:ふふ、フ。大切に頂かなきゃ。
サチカ:ありがとう。
0:す、と含み、ほ、と息を吐く。
サチカ:……うん。熱すぎず微温(ぬる)すぎず。
サチカ:いい塩梅(あんばい)。
シイナ:あは、やった。
シイナ:数年ぶりに聞けた。
サチカ:え?
シイナ:「イイ塩梅」。
サチカ:ああ……。ふフ。
サチカ:元々は、祖母の口癖だったんだけど。
シイナ:煎茶の要領でね。和洋ともに、たっぷり手管を仕込んで頂きましたので。
サチカ:文芸部の伝統。
サチカ:……ふフ。君は演劇部だけど、ね。
シイナ:ええ、ええ。
シイナ:副部長にしてサボり魔の、不良部員でしたとも。
シイナ:いや懐かしき……、遠く帰らぬ学び舎の日々、と。
シイナ:…………、
シイナ:にしても、
0:閑話休題。店員は些か、慎重に。
サチカ:……、うん。
シイナ:本当に。お久しぶり。
シイナ:……もうじき1年になるのかな。
シイナ:あの、事故から。
サチカ:……ええ。
サチカ:今日は……、ね、
サチカ:久々に、寄せて、もらったのは……、
0:女性客の顔色は、心無しか青い。
声無き誰かの声:「話すの……?」
サチカ:……っ、
声無き誰かの声:「話して、楽になりたいの?」
サチカ:……、……、
0:女性客の目の奥に、揺らぎ。
0:様子を窺う店員の語調は、徐(おもむ)ろ。
シイナ:今日は……、
シイナ:ずっと、他のお客が来るまで、
シイナ:……何なら、スタッフ急病に付き、看板を消しても良いし。
シイナ:昔の……、他愛の無い思い出や、軽薄に楽しめる事を話して、夜を明かしませんか。
サチカ:…………、
シイナ:ご所望とあらば、ずっとあなたを膝に抱いて、その黒い髪を撫でて差し上げたって良い。
サチカ:…………。
サチカ:いつかの夜に。
サチカ:私が君に、してあげたように?
シイナ:そうです。
サチカ:…………。
0:絡んだ視線は、しかし外され。
サチカ:前は……、言いそびれて、いたんだけど。
サチカ:今の髪型、とっても似合っているわ。
シイナ:……、どうも。
シイナ:卒業のタイミングでバッサリ行った時は、
サチカ:嘸(さぞ)かしショックがられたでしょうね。
サチカ:君の長くて豊かな髪は、本当に魅力的だったから。
シイナ:引っ詰めにして鬘(かつら)を被って、騎士サマだの子爵サマだのを演じる必要もなくなった矢先に、ね。
シイナ:ま、少し……、思う所、ありまして。
サチカ:楽に、なった?
シイナ:腰までのロングに比べれば、ね。
シイナ:シャンプーやら何やら、半分以下の減りだし。
サチカ:ふふ、フ。
サチカ:君らしい。
0:女性客は、湯気立つカップを傾ける。
サチカ:…………、ありがとう。
サチカ:でも、私……、
0:ぼう、と。眼鏡の奥の瞳に、虚ろな光の灯され。
サチカ:話す、わ。
サチカ:聞いて、ほしくて。
サチカ:それで、今日……。
シイナ:……勿論、ご随意のままに。
シイナ:ただし自分のペースで、ね。
サチカ:うん、うん……。
サチカ:…………。
0:呼吸を整え。
0:眼を閉じ、そして開き、
サチカ:……先に、報道が、あったのよね。
シイナ:そう、だね。
シイナ:忘れもしない。12月、21日。
サチカ:あの子たちの…………、
サチカ:時間が、途切れた日。
0:永劫、未来を得る事の出来ぬ彼らの話を、女性客は始める。
サチカ:とても、空気の澄んだ日だったわ。
シイナ:ニュースをね、見てたんです。丁度。
シイナ:ここの出勤の前で……、
サチカ:午後1時、37分。
サチカ:…………。
サチカ:……この、いま着けている、腕時計、
シイナ:……、時計、
サチカ:その時間でね、止まっているの。
シイナ:……、
シイナ:それは、
サチカ:借りてた、の。私が引率の、班の子に。
シイナ:……、……、
サチカ:雪崩(なだれ)という物について。
サチカ:通り一遍の知識しか持ち合わせていなかった。
サチカ:新任の、1年目で……、
サチカ:スキー合宿の引率なんて、ね。
サチカ:緊張していたし、一通り、調べはしていたけれど……、
シイナ:雪山に、ついて。
シイナ:……長野、だよね。
サチカ:うん。
サチカ:……私達のバスが行き帰りする筈だった、「降馬岳(おろばたけ)」は……、
サチカ:明治期以降、目立った雪害や、道路への深刻な雪崩事故の記録も、無くて。
サチカ:勿論、条件として好適で、安全だとされて来たからこそ……、
シイナ:(言葉を継ぎ)
シイナ:スキー場が拓(ひら)かれて、学校行事の合宿地にも、選ばれて来た訳だもんね。
シイナ:……でも、
サチカ:うん。
シイナ:例えば……、
シイナ:空から飛行機が落ちて来るのを懸念して、頑なに家から出るのを拒むヤツが居たら。
シイナ:あるいは頬をはたいて、引っ張り出すかもしれない。
シイナ:それが……、決してこの世の誰にも、否定し切れやしない虞(おそれ)だという事実には、目を瞑って。
サチカ:そして航空機墜落の現場に居合わせるよりは、ずっと、確率の高い出来事だものね。
サチカ:何せ……、私たちを圧し潰した、
声無き誰かの声:(遮り)「俺たちを、だろ。」
サチカ:(小声で)
サチカ:……そうね。
サチカ:(声量戻り)いいえ。
サチカ:あの子たちを。私以外の皆を押し潰して、凍えさせた雪と、土砂は。
サチカ:いつだって私たちのすぐ側に、あったのだから。
シイナ:…………。
シイナ:バスは……、4台で、全部?
サチカ:うん。
サチカ:有志の生徒だけと言っても、2年生の、殆ど全員。
サチカ:…………世界が震える音を、聞いたと思った。
シイナ:……、世界が。
サチカ:去年は、折からの暖冬で……、
サチカ:昼夜の寒暖差が、激しかった、わね。
シイナ:今年も大概だけど……、そうだね。
シイナ:昼間は暖かい日が、多かったね。
サチカ:バスが進む予定のルートに……、
サチカ:と言っても、一本身なんだけど。
サチカ:規模の小さい雪崩、というか、雪の塊が崩落する事故があって。
シイナ:午前中に、だよね。
サチカ:そう。お昼前に、ね。
サチカ:それで……、あの日は出発後に、どんどん気温が上がって。
サチカ:運転手さんと、学年主任の先生と、コーディネーターの人たちで連絡を取り合って、協議して……、
シイナ:引き返した。
サチカ:うん。万一という事を考えて、大事を取って。
サチカ:合宿所までというより、ある程度安全な、スペースのある地点まで取り敢えず、という判断で。
サチカ:誰も……、それに異論を挟む人は居なかった。
シイナ:その時点に於いては、妥当で賢明な、それ以上しようの無い判断だものね。杞憂に終われば越したこと無い、と。
サチカ:杞憂、ね。
サチカ:…………。
サチカ:古代中国の、「杞(き)」の国の人々は、
シイナ:き? あ、由来か、「杞憂」の。
サチカ:あるとき突然に天地が崩れ去るのを恐れて、日々を怯えて暮らしたというけれど。
サチカ:……世界が、震えて。本当に、天地が逆向(さかむ)くかと思う程の、轟音。
サチカ:何の、前触れも無く……、
声無き誰かの声:「先生が止めてくれたら良かったのに。」
サチカ:…………。
サチカ:たくさんの。
サチカ:余りにも沢山の雪と、土砂が……、
サチカ:私たちの乗ったバスを、押し流して、圧(お)し潰して。
シイナ:……、……、
サチカ:本当に一瞬の出来事だった。
サチカ:ガードレールは……、津波のような雪と土砂の重さを支えるには脆すぎて。
サチカ:バスは玩具(おもちゃ)みたいに崖の斜面を転げ落ちて、谷底まで真っ逆さま。
シイナ:…………、
サチカ:雪崩に引きずられる形で……、
サチカ:連鎖的に起こる地滑り。
サチカ:近年は気候変動に伴って、全国的に、よく見られるようになって来た現象なのだそう、だけど。
シイナ:「土砂雪崩(どしゃなだれ)」、とかとも言うヤツだよね。
シイナ:…………だけど、まさか。
シイナ:まさか、そんな事が、己(おの)が身に起ころうとは、
サチカ:「青天の霹靂(へきれき)」、って。
サチカ:……よく言うけれど、渦中にあっては何が起こったのかもわからない。
シイナ:……そりゃあ、
サチカ:音と、震えと。
サチカ:……すぐ後に襲った、何十トンもあるバスを、まるでお菓子の空き箱を振り回すようになぶる、衝撃。
サチカ:窓ガラスが砕けて、すぐ前に座っていた子の頭が、壁に、叩き付けられて、
シイナ:……っ、うわ、
サチカ:本当に、なぜ自分だけ……、足を折る程度で済んだのか、皆目わからない。
サチカ:息を飲む間に景色が、白く、塗り潰されて……、
サチカ:気が付けば、……、
0:女性客はフ、と震えた息を吐く。
シイナ:大丈夫?
シイナ:お湯を。さあ。
サチカ:うん……、
0:熱の引いた白湯のカップを一口、含む。
サチカ:(細く息を吐く)
シイナ:……大丈夫、とは愚問だったな。
サチカ:いいえ……。
サチカ:平気、とは正直言えないんだけど。
サチカ:でも……、
0:目を伏せる。
サチカ:もう、冬が、そこまで来ている、から。
シイナ:冬……、が。
0:静寂。女性客の声は微かに震えている。
サチカ:あの、冬が。
サチカ:あの子たちの魂を、永久に閉じ込めてしまった、冬が。
シイナ:…………、サっちゃん先輩、
サチカ:ただ1人、残されてしまった私が……、
サチカ:手向けに出来る言葉なんて。
サチカ:本当は、ありはしないと、思うけれど。
シイナ:……、……、
サチカ:私、誰にも、話していないの。
サチカ:あの時の事を。
シイナ:誰にも? ……それは、
サチカ:勿論、警察や、他の……、
サチカ:当事者としての説明や証言が必要な所では。
サチカ:質問に、お答えはしたけれど。
シイナ:ご家族……、あ、自分のね。
シイナ:とか、友達、とかには、って事かな。
サチカ:……、うん。そう、ね。
サチカ:皆、みんな、本当に。
サチカ:真心を持って、細かな心配りをしてくれたし……、
サチカ:またそうしてくれるだろうと、思える人たちばかり。
サチカ:人にも出会いにも、恵まれていると思う。
サチカ:本当に。
シイナ:そう……、だね。
シイナ:多くの人が、あなたに対しては……、何というか、
シイナ:心尽くしの晴れた顔でなければ、向き合ってはいけない気がするから、だろうね。
サチカ:君も、そんな風に思ってたの?
シイナ:柄でもナイかなァ?
シイナ:私なりに精一杯、襟を正していたつもりなんでござーますけれども。
サチカ:ふふ、フ。それは、それは。
サチカ:……でも、ね……。
サチカ:それというのは言い方を変えれば、
シイナ:「気を遣わせる性分」?
サチカ:……、……。
サチカ:そのように……、私は自覚しているのだけれど。
サチカ:……申し訳なく、なるのね。
サチカ:昔から。思う通りの、暖かい言葉が返って来る度に。
サチカ:コントローラブルな環境に安らぎを覚える癖に、勝手に卑屈になって。
サチカ:気を遣わせる事に、気を遣って……。
サチカ:馬鹿みたい。我が事ながら。
シイナ:「気にしなくても、辛いのはあなたなんだから」、って、
シイナ:他人に言われたってしょうがないヤツだもんね、ソレ。
サチカ:……、うん。そう。
サチカ:だから、ね、心配をしてもらうより……、
サチカ:心配をしている、振りを……、
サチカ:自分が出来ている時の、方が。
サチカ:ずっと楽なの。
サチカ:傲慢、よね。
0:笑みに混じるものは、自嘲かのように思え。
シイナ:……、
シイナ:それを……、
シイナ:そのように理解して、ひとに語る事が出来るという所が。
シイナ:あなたの賢さと、誠実さを証明しているのだなァ、と。
シイナ:ずっとお慕い申し上げている身としましては、
シイナ:感じ入るところですけれど、ネ。
サチカ:ふふ、フ……。
サチカ:何割くらい冗談なのかしら。
シイナ:とーんでもない。
シイナ:(道化けた声を作り)あたしゃコレでも、洒落だけは言わんのが信条でしてねェー、マダム?
サチカ:あは、ハ……。
サチカ:それこそ冗談。
シイナ:ふっふふ。
サチカ:…………。
サチカ:ありがとう。
サチカ:甘えているわね、私。
サチカ:ここぞとばかりに。
シイナ:なーんの。
シイナ:ソレがお仕事ですので。ご存分に。
0:ふ、と、笑み混じりに息を吐き。
シイナ:さて……、喉が温まって来たなら、何かお作りしましょうか。
サチカ:そう、ね……、うん。
サチカ:では、何か……、引き続き、温かい物を。
シイナ:ふっふ。きっとそうだろうと思って……、
シイナ:というか、顔を見た時から、お作りしたいと思っていた物があるので、ではソレを。
サチカ:あら……、本当に?
シイナ:バーテンとしちゃ、褒められた姿勢じゃナイんだけども。店員のエゴほどお寒いモノは無い、ってね。
シイナ:でも季節にも、ご要望にもフィットしているし……、
シイナ:後はですねェ、
0:す、と背筋を伸ばし、
シイナ:紅茶のカクテルでありますからして……、
0:洒脱に微笑む。
シイナ:緊張しちゃうなァ、ってぐらい。
サチカ:あら……、ふ、フ。
サチカ:私はお茶の先生でも何でも無いのよ。
サチカ:ただ部室で、簡単な淹れ方をレクチャーしただけ。
シイナ:部外の私にも別け隔て無く、ね。
シイナ:なので師匠同然。
サチカ:あら。
シイナ:では少々、お待ちを。
0:店員は作業に掛かる。
0:心地悪くない、暫しの無言。
サチカ:(店内を見渡しつつ)
サチカ:照明の風合いが……、少し、変わったかしら。
シイナ:(手を動かしつつ)
シイナ:そうね……、ライトの灯体の色をね。
シイナ:この、こういう、黄味がかったっていうか、レトロチックなヤツに変えたから。
シイナ:前にも増して薄暗いんだけど。
サチカ:私は好きだわ。ランプの灯りのようで。
シイナ:ベタだよね、BARとしちゃ。
シイナ:さァてさて、まずはココで……、
0:カウンター内、足元の戸棚より、保存瓶。
シイナ:取り出しましたるは本日の目玉。
シイナ:「干し葡萄」でござい、っと。
サチカ:あら……、もしかして、
シイナ:あは、コレ出て来たらバレバレだよネ。
シイナ:まあ何の奇を衒(てら)うでもなく……、
0:次いで耐熱ガラス製の、妙味あるポットを取り出し、
シイナ:『シェルパ・ティー』をね。
シイナ:供(きょう)させて頂こうと思いまして。
サチカ:ふふフ。
サチカ:エベレストの、ね?
シイナ:そーそー。ヒマラヤの案内人、山岳民族「シェルパ」伝来。
サチカ:登山中の疲れを取る為に、飲まれていたと……、
シイナ:伝わっている、という。
シイナ:本場のはヤマブドウだそうだけど。
0:ポットに葡萄を沈め、バースプーンで潰し始める。
シイナ:勿論、なんちゃってではありますが……、
0:眼差しには仄か、熱が籠もり。
シイナ:冬の山で身も心も疲れ切ったあなたを。
シイナ:少しでも癒す事が叶えば、と。
シイナ:及ばずながら。
サチカ:……、…………、
声無き誰かの声:「私らを置いて行った癖に。」
声無き誰かの声:「独りだけ暖まるつもりなんだぁ」
サチカ:…………、
サチカ:ありが、とう。
0:女性客は密か伏し目がち、店員の手捌きを見詰める。
0:濃い色の果肉がバースプーンの背に圧され裂(は)ぜ、解(ほぐ)れる。
シイナ:よっ、し。
シイナ:葡萄を程よく潰したら、ここらで茶葉のご登場……。
シイナ:あ、そこらの、普通ゥーの葉っぱでご勘弁を。
0:缶を開け、匙で葉を掬う。
サチカ:紅茶の葉に貴賤は無いわ。
サチカ:……ニルギリね。
シイナ:ええ、鉄板のね。ポットにサラサラー……、と。
シイナ:よしでは、お湯を……、
0:湯気を上げる錫調の電気ケトルを取り、構える。
シイナ:空気を含ませるように、高い位置から。
シイナ:さって、お立ち会い。
サチカ:ふふフ。逐一実況が入る訳ね。
シイナ:手順を確認しないと、ね。
シイナ:では……、
シイナ:はっ。よっ、はっ。
0:滑らかにケトルを傾け、のち、高く上げる。
0:過たず、適温適量の湯はポットへと。
サチカ:画になること。お金を取れそう。
シイナ:ひひ、副業しようかなァー。
シイナ:……よォし……、よし。OK。
シイナ:注いだら暫し、蒸らしタァイム。
0:ポットにカチャ、と蓋を被せ。
シイナ:あっはァ、緊張したァー。
サチカ:ふフ、どうして?
シイナ:今はねー、紅茶をまともに淹れる事、あんまり無いし。
シイナ:久々ですよ久々。
サチカ:相変わらず堂々たる手際。
サチカ:よく……、文芸部一同全員分、振る舞ってくれたわね。
シイナ:今思えば恥ずかしいノリだわァ。役者のハッタリ、ハッタリ。
サチカ:気分って大切だもの。
シイナ:あは。
シイナ:っと。芝居はもう辞めたんだった。
シイナ:どうも、学生時代に戻っていけない……。
サチカ:もう……、完全に、演劇には興味を失ってしまったの?
シイナ:……、
0:刹那の沈黙。店員はなんとも言えぬ面持ち。
シイナ:……んん……、
シイナ:ま、という程でも、無いんだけど……、
シイナ:あっ、と。
シイナ:蒸らしてる間にィ、
サチカ:あら。逸(そら)されてしまった。
シイナ:いえ、いえ。
シイナ:カップにお砂糖を、少々、っと。
0:滑らかに手は動き続け。
シイナ:それから……、
0:背後の棚より淡い配色のボトルを取り出す。
シイナ:コレコレ。
シイナ:今日は口当たりを考えてロゼにしよう。
サチカ:ワインを少し、沈めるのよね。
サチカ:その状態の物を飲むのは初めて。
シイナ:と言っても香り付け程度だけど。
シイナ:寒い日は暖まるんだ、コレが……。
0:言い、カップへと薄紅色の酒を垂らし。
シイナ:よし……、と。
シイナ:程なくして……、
サチカ:ええ。頃合いね。
シイナ:良い具合に、葉が開いただろう所で……、
シイナ:よ、っと。
0:ポットを軽く揺らし、静かに持ち上げ、カップへと注ぐ。
0:茶葉と果実、葡萄酒のふくよかな香りが立ち。
サチカ:……良い香り……。
シイナ:ね。はてさて……、味の方の塩梅は、どうかなァ。
0:す、と注ぎ終え。静かにポットを降ろす。
シイナ:後は軽ゥく混ぜまして。
シイナ:最後に少し……、
0:褐色透明の保存瓶より新たに干し葡萄を取出し。
シイナ:追い葡萄、っと。4粒ほど、ね。
サチカ:あら……、贅沢。素敵ね。
サチカ:ふふフ、フ。
シイナ:はァい完成。
シイナ:お待たせ致しましたっ、
0:恭しく供する。カップ&ソーサー。
シイナ:ヒマラヤ式、『シェルパ・ティー』。
シイナ:どうぞ、ご賞味あれ。
サチカ:ああ……。ありがとう。
サチカ:頂きます……。
0:丁寧にカップを浮かし。品良く一口、含む。
サチカ:美味しい……。
サチカ:味と香りが、体に染み透るような……、
シイナ:良かった。
シイナ:ではその……、
シイナ:「アレ」を、賜りたいなァ。
サチカ:ふふフ……。
サチカ:「良い、塩梅」。
シイナ:よォっし!
シイナ:コレで、年を越せそうだ、と。
シイナ:あっはははっ。
サチカ:うふふ、フ。
0:交わされる笑みは上等の磁器の如く滑らかであった。
0:もう一口、味わいつつ含み。女性客はカップを置く。
サチカ:本当に……、美味しい飲み方。
サチカ:山の民が疲れを癒やしたのも肯けるわ。
シイナ:……、……ね。
サチカ:あの子たちにも。
サチカ:飲ませてあげたかった。
シイナ:…………、
0:思案。
シイナ:ただし……、ノンアルコールにはなる、けどね? 当店と致しましては。
サチカ:……、ふ、ふふフ。
声無き誰かの声:「黙れよ。偽善者。」
サチカ:……っ。
サチカ:ごめんなさい。
シイナ:……、先輩?
サチカ:意味の無い嘘をついてしまった。
シイナ:……、嘘。
サチカ:本当はそんな事、思っていないの。
サチカ:生きて、帰ってからも、
サチカ:そんな事、一度も……、
シイナ:サっちゃん先輩。
シイナ:今日はもう、やっぱり、
サチカ:(遮り)いいえ。
サチカ:話させて。聞いて、ほしい。
サチカ:冬が来る前に、せめて。
サチカ:他の方が来られたら、やめる、から……。
シイナ:…………、……、
シイナ:先、輩、
サチカ:最初、ね……、
サチカ:竹が生えているんだと、思ったの。
シイナ:……、たけ……?
サチカ:谷底の……、川に沿って長い距離が、竹林(ちくりん)になっているのを、見ていたから。
サチカ:バスが落ちて……、私は暫く、気を失っていたんだと思う。
サチカ:意識が、戻って……、
サチカ:眼を開けても、真っ暗の世界。
サチカ:本当に、死んだと思ったの、一度。
シイナ:……、
サチカ:でも体の感触があるから……、
サチカ:どうにか手探りで、リュックに吊っていたライトを点けて。
サチカ:でも眼鏡が何処かへ、行ってしまっていて、すぐには状態が、判らなかった。
サチカ:私……、視力が本当に、悪くなってしまっていて、
シイナ:乱読家の宿命として、ね。
シイナ:高校の頃よりも……、
サチカ:輪をかけて、近視が進んでしまったの。
サチカ:殆どぼやけて、輪郭を追えないんだけど。
サチカ:バスが、横倒しになっているのは、体の感覚でわかった。
サチカ:シートベルトを外しても……、ひしゃげた壁と天井が迫っていて、大きく身動きは取れない。
シイナ:本当に……、奇跡的に潰されず残った隙間に、嵌まり込んでいた、って、
サチカ:うん……。報道でもそのように、
シイナ:言ってた、ね。
サチカ:……、潰れて、歪んだ壁の裂け目や、割れた窓から……、雪と土砂が車内の殆どを埋めて。
サチカ:その白い絨毯から……、細くて、長い物が所々に生えている、ように見えて。
サチカ:私は……、
シイナ:……、……、
サチカ:硬い竹の集まった所へ落ちて、バスが貫かれて、しまったのかと思った。
サチカ:竹の先端が壁を突き破って、あちこちに飛び出しているのかって。
サチカ:でも流石に……、そんな訳は無いと、思った辺りで、
シイナ:う、ん……、
サチカ:折れた右足のももの痛みが、戻って来た。
サチカ:それと左の肩を……、強く打っていたみたいで。
サチカ:砕けた、刺すような痛みと、滲み出すみたいな鈍い痛みの中で……、
サチカ:私、しばらく、悶えていた。
シイナ:…………、
シイナ:今は、本当に、
サチカ:完治したし……、後遺症も、無いわ。大丈夫。
サチカ:でもその時は、逃れようのない痛み……、
サチカ:それから、熱いのね、余りに痛いと。
サチカ:のたうち回りながら、でもその中で……、
サチカ:「生徒たちを」、と思って、呼んで、叫んで、みたけれど。
サチカ:声は一つも返らない。
シイナ:……、
サチカ:スマートフォンは圏外。
サチカ:何度試しても、圏外。
サチカ:あと少し、あとほんの少し合宿所に近ければ、違ったんだろうけど。
サチカ:痛みと、今思えば寒さで、朦朧とする中……、
サチカ:漸(ようや)く状況を、飲み込めた時に……、
サチカ:一度、私は、絶望したんだと思う。
シイナ:…………、
サチカ:何台のバスが雪崩に飲まれたのか。
サチカ:私以外に何人、生きて残った人が居るのか。
サチカ:正確な場所も、状態も、救助が始まっているのかどうかすら、確かめる術が無い。
サチカ:GPSが働いていたとして……、
サチカ:雪崩の及んでいる範囲によっては、時間がかかるのか。
サチカ:そもそも、自分たちの事が、伝わっているのか、どうか……。
サチカ:生きている人が居たとして、この潰れた、冬の雪の、生き埋めのバスの中で……、
サチカ:救助が来るまでの間、自分を含めて、本当に、生きていることが、出来るのか。
サチカ:痛みと、恐怖と、抑鬱とパニックの波の中で……、
サチカ:私は独りで、
サチカ:きっと、多分、
声無き誰かの声:「狂ったんだろ。」
サチカ:…………。
サチカ:おかしく、なっていたんだと、思う。
サチカ:ぼやけた眼に映る、伸ばされて、曲がって、節くれ立った、竹のようなモノが……、
サチカ:恐らくきっと、雪に埋まった生徒たちの、
サチカ:腕や、脚や、首、なんだろうと。
サチカ:思い至るのにも、時間がかかった、ぐらい。
シイナ:……っ、……、
シイナ:…………。
シイナ:飲んで。一口。
サチカ:……、うん。
0:女性客は一口、含み。
0:凍えた息。
サチカ:…………、
サチカ:私、嫌になって、ライトを消したの。
シイナ:……、それは……、
声無き誰かの声:「逃げた。」
サチカ:……、
サチカ:硬まった腕や脚や、近くに遠くに埋もれて、横たわる、亡骸のように見えるモノたちを……、認めた、時に。
サチカ:何かが、外れて、しまって。
シイナ:…………、
シイナ:うん、
サチカ:出来る事が余りに無くて。
サチカ:もう、全てを天に任せて、足掻くのをやめようと思った。
サチカ:闇からも、空腹からも、恐怖、からも……、
サチカ:目を閉じて、逃れて、しまいたかった。
サチカ:それで……、
シイナ:闇の中へ。
シイナ:……潜り込んだ、訳だね。
サチカ:うん……、
サチカ:うん。そう。
0:沈黙。
0:店員は注意深く言葉を選んでいる。
シイナ:空腹や……、乾きに、関しては、
サチカ:水筒の、お茶を……、飲んでいて。
サチカ:食べ物、は、
サチカ:…………、……、
0:沈黙。
シイナ:ごめん。もう質問は、
サチカ:ううん。
サチカ:…………、そう、食べ物。
サチカ:…………、
サチカ:あの……、ごめんなさい。
サチカ:どうか、もう少し、話させて、ね。
シイナ:……、うん。
シイナ:勿論。勿論です。
0:女性客の眼差しは虚ろさを増している。
サチカ:私……、強い痛みや、どうしても本当に、やりきれない事が、あると……、
サチカ:痛み止めのお薬を、用量よりも多く飲んでしまう癖が、あるのね。
シイナ:……、それは……、いつから、
サチカ:昔から、よ。
サチカ:出会った頃から。今初めて、人に言ったわ。
シイナ:……、そう、か。
サチカ:だからいつでも、常備していたの。
サチカ:その日も、リュックの中に。
サチカ:だけどお薬をたくさん飲んでも……、骨折や打撲の痛みが、失せる事は無くて。
サチカ:眠ってしまうのもきっと、怖かったんだと、思う。
サチカ:闇の中で眼を開けて。
サチカ:時が止まったような静けさと、靄(もや)のようにボヤけた感覚の中で、
サチカ:ずっと、眼を開けていた。
サチカ:ずっと。
サチカ:…………そうしたら、
シイナ:……うん、
サチカ:声が、
サチカ:……聞こえた、の。
シイナ:声……?
サチカ:私を呼ぶ声。
サチカ:私が引率していた、班の子たちの。
サチカ:さっきは……、横たわっていたり、姿が見えなく、なっていたんだけれど……、
シイナ:…………、
シイナ:それ、は……、
サチカ:皆が言うには、ね。
サチカ:遅れて眼が、覚めたんだって。
サチカ:他はわからないけど、とにかく班の5人は、ここにいる、って。
シイナ:……、……、
サチカ:私……、慌てて、ライトを点けようとしたんだけど、
サチカ:「勿体ない」、って。
サチカ:もしも必要な時に電池が切れたらいけないから、って。
サチカ:一度だけ、確認をする意味で、スマートフォンのライトを点けたの。
サチカ:青くて硬い光の中に……、5人の顔は確かにそこに、並んでいて。
サチカ:一息に、安心したのを覚えてる。
シイナ:…………。
シイナ:その、後は。
サチカ:話をしたわ。
サチカ:とにかく生き延びる為には、体力を持たせなければ。
サチカ:眠ってしまわないように、声を掛け合って、意識を保ち続けなければ。
サチカ:心なしか空気も薄い気がするけれど、頑張ろう、って。
シイナ:暗闇の中で?
サチカ:うん……、
サチカ:……そうよ?
シイナ:…………、
サチカ:普段は斜に構えて、気難しいユモトくんという子が、率先して話を進めて、まとめてくれて。
サチカ:感心、するぐらい。
シイナ:……うん。
0:うつつが揺らぐ、気配。店員は努めて、抑制的。
サチカ:私の班は……、というか、他も揃って、なんだけど。
サチカ:どの子も、方向がバラバラで……。
サチカ:新任にはなかなか、荷が重くて。
サチカ:でもその時ばかりは。
サチカ:まとまりを、感じて。
シイナ:…………。
サチカ:少し擦(す)れているけど、責任感のある、ユモトくん。
サチカ:部活には入っていないんだけど、バスケットボールをやっていて、凄く、熱心で。
サチカ:良い子なの、本当は。
サチカ:腕時計もね、彼が貸してくれたの。
シイナ:…………、
サチカ:班長のコウサカさんは剣道部。
サチカ:いつも、向こうから声をかけて来てくれて……、
サチカ:私の不慣れを、フォローしてくれて。甘えてしまいそうになるくらい。
シイナ:…………、
サチカ:そう、食べ物、ね。
サチカ:持っていたカロリーメイトを分けてくれた、ミネさん。
サチカ:普段は派手なグループで、学業には余り、真面目とは言えないんだけど……、
サチカ:根が善良なタイプというか。
サチカ:可愛らしくて優しい子。とても。
サチカ:ムロトくんは物静かで、読書家で。たまに私と、面白かった本の意見交換をしてたわ。
サチカ:それから、意外と、脚が速くて。
サチカ:それについてユモトくんと、話していたっけ……。
シイナ:…………、
サチカ:そしてマツキさん。
サチカ:賢くて、センスの良い子なんだけど……、
サチカ:それだけに敏感で、1年の頃はあまり、学校に来れていなかったらしくて。
サチカ:でも2年からは少し持ち直して、
サチカ:人見知りという訳では無いから、意外に早く、皆とも打ち解けて、ホッとした。
シイナ:…………。
シイナ:個性豊かなメンツだ。実際。
サチカ:うん……、うん。本当、に。
サチカ:おかげで……、時間が経つのも、早かった。
シイナ:……、
サチカ:皆と……、色々なお話を、する事で。
サチカ:肩と足の痛みも、幾らかは紛れたし。
シイナ:痛み止めも、効いてきたし……?
サチカ:…………、
サチカ:ええ。
サチカ:ええ。そう、ね……。
サチカ:それで……、
シイナ:もう一口。さあ。
サチカ:うん……、
0:女性客は促されるまま、一口、傾ける。
声無き誰かの声:「良いよなぁ。自分ばっかり」
声無き誰かの声:「私達はもう、飲めないのにさァー。」
サチカ:……、
サチカ:…………、
シイナ:安心して、話して。
シイナ:私は、ここで、聞いているから。
サチカ:…………、
サチカ:ありがとう。
0:吐く息は依然、凍えている。
サチカ:どのぐらいの時間だったのか……。
サチカ:あの子たちと私は、ずっと話をしていた。
シイナ:……灯りは、それから一度も、点けなかったの。
サチカ:うん。……ええ、そう。
サチカ:何だか不思議と……、暗闇の中で、もう1つの瞼が開くように、景色が見える気がした。
サチカ:賑やかに話すあの子たちの、顔の表情の、細かな所まで。
シイナ:…………、
声無き誰かの声:「ちょっと、楽しかった、ね」
サチカ:(虚ろに)
サチカ:うん……。
サチカ:本当に、楽しかった……、
シイナ:サっちゃん、
シイナ:……先輩?
サチカ:(引き戻され)
サチカ:あ……、
サチカ:うん。
サチカ:……それで……、
シイナ:平気?
サチカ:……ええ。
サチカ:そう、色々……、ね、訊かれたのよ。
サチカ:女子校ってどんな所なの、なんて。
サチカ:「女の子同士の恋愛なんて本当にあるの」、だとか。
サチカ:何だか興味津々で。
シイナ:何て答えたの。
サチカ:人に依る、って。ふ、ふフ……。
サチカ:恋愛はプライベートな事だから、どうしても知りたければお友達になってから、本人に直接聞きなさい、ってね。
シイナ:あっは、違いないや。
シイナ:…………、
0:慎重に。新雪を踏むが如く。
シイナ:その、語らいは……、
シイナ:いつまで、
サチカ:長く。
サチカ:きっと長く……、続いたんだわ。
サチカ:きっと。きっと、ね。
シイナ:……、
サチカ:途中で眠ったのか、ずっと眠らずに、起きていたのか。
サチカ:瞼を閉じる必要のない暗闇の中では、同じ事なのかもしれない。
シイナ:……、
声無き誰かの声:「先生マジでさァー、アタシらと一緒のテンションでハシャぐんだもん。」
声無き誰かの声:「オトナのクセになァ?」
声無き誰かの声:「普段は“静かにィ”とか言ってんのにねー。」
サチカ:ふ、フ、そうね……、
サチカ:何だか色々と、麻痺してしまって。
サチカ:学生時代は余り、楽しく騒いで夜を明かす方では、なかったし……、
シイナ:……?
声無き誰かの声:「だからってなァ?」
声無き誰かの声:「ちょっと。先生はいつも大変なんだから。アンタらのせいでっ。」
声無き誰かの声:「マジメちゃんウザぁー、剣道着くっさ。」
声無き誰かの声:「なっ……! アンタの香水の方が臭いからっ!」
声無き誰かの声:「アンタが好きって言ったから選んだヤツじゃん。」
声無き誰かの声:「みっ……! 皆の前ではソレはっ、」
声無き誰かの声:「やめなよ言い合い……、こんな状況で。」
声無き誰かの声:「おォおォ、言ったれムロトぉー。」
サチカ:ふふフ、フ……、
サチカ:本当に……、
シイナ:(訝しみ)
シイナ:……先輩、
サチカ:不謹慎、よね。本当。
サチカ:教師、失格…………、
声無き誰かの声:「本当に、ね。先生。」
サチカ:…………うん。
サチカ:うん……。
シイナ:先輩、先輩っ、
声無き誰かの声:「戸賀梨子(とがなしこ)の新刊、予約してたのになぁ。」
サチカ:……、……っ、
シイナ:先輩っ!!
声無き誰かの声:「無かったのかよ、他に。」
サチカ:無かったのよ。
サチカ:出来る事なんて何も。
サチカ:本当に、何も思いつかなかった。
サチカ:教師と言ったって、社会人と言ったって。
サチカ:簡単に、心折れてしまって、
サチカ:お薬を飲んで、瞼を降ろして、思考を止めて……、
シイナ:誰だってそうなるよ!
シイナ:こんな、言葉……、1年の間に散々、言われた、だろうけど。
シイナ:あれは完全な自然災害で、不慮の事故。
シイナ:過失も、ミスも、サっちゃん先輩には無い。
シイナ:どう考えても、さ。
シイナ:それに……、
シイナ:それに、だって、
シイナ:……、……、
0:店員は言い淀む。
サチカ:……うん。
シイナ:…………っ、
シイナ:だ、って、
サチカ:わかってる、わ。
シイナ:……ニュースで……、
シイナ:言っていたのを、聞いただけ、だけど。
サチカ:ええ。
0:店員の眼に、決意。
シイナ:……あなた以外の、全ての乗客は。
シイナ:バスが雪崩に飲まれて、谷底に落ちた、時点で…………、
シイナ:1人残らず即死、
シイナ:していたんだから。
サチカ:…………。
サチカ:うん。
0:静寂。
0:店員の眼は戦慄きを隠せず。
シイナ:……それこそ……、ある日突然天地が崩れ去るよりも低い確率の偶然に、あなたは生き残った。
シイナ:眼が覚めた時点で全ては終わっていた。
シイナ:だから、
サチカ:(遮り)わかってるの。
シイナ:……っ、
サチカ:わからずに、喋っていたんじゃないの。
サチカ:ごめんなさい。
シイナ:謝ら、ないで。
サチカ:ありがとう。
シイナ:……っ、……、
サチカ:何度も、説明を受けたから。
サチカ:だから誰にも、言わなかった。
サチカ:言えなかった。
シイナ:…………、
サチカ:生きて、山を降りた後も。
サチカ:居もしない、生徒たちの声が聞こえる、なんて。
サチカ:彼らと語らって、気が付くとあの、凍える暗闇の中に、心を投げ出している、なんて。
サチカ:優しい人たちから、どんな言葉を貰えるか……、
サチカ:手に取るように、わかるもの。
シイナ:…………、
サチカ:そうして都合よく、いつでも瞼を降ろして。
サチカ:罰を、免れているのね。
サチカ:私は。
シイナ:……、……。
0:深い雪のような静寂。
シイナ:…………。
シイナ:死人と、語らい……。
シイナ:冷たい地獄へと、心縛られる事が。
シイナ:罰で無くて、何だと言うのか。
サチカ:仕方が無いのよ。
サチカ:あのバスは、私だけは天国へ、乗せて行ってくれなかったんだから。
シイナ:天国なんて、あるもんか。
サチカ:いいえ。
サチカ:あの子たちは。
サチカ:あの4台のバスに乗っていた、全ての人たちは……、
サチカ:必ず、天国へ行ったと思うわ。
サチカ:だって私だけが遺されたんだもの。
シイナ:先輩、……、
サチカ:運賃が足りなかったのね。
サチカ:残された事が罪なのではなくて、きっと……、
サチカ:私だけが初めから、罪人(ざいにん)であったから……、
サチカ:この地獄で生きるようにと、罰を受けたんだわ。
シイナ:地獄、……。
シイナ:そりゃ……、きっと、事故の後はさぞ、
サチカ:ううん。
サチカ:ずっと……、もっと前からなの。
サチカ:傲岸(ごうがん)に生まれて、不遜(ふそん)に育ってしまった女に取って……、
サチカ:どこまで行っても、この世は地獄である筈だから。
シイナ:思っても無い事をっ!
サチカ:違う。
サチカ:さっきも言ったし、君は、初めから気付いていたでしょう。
サチカ:私は外身通りの女では無いから。
シイナ:誰だって、だよ、それもっ。
シイナ:中身のまんまで生きている人間なんていない。
シイナ:その、内と外との軋轢(あつれき)を、どうにかして埋め合わせる為に……、
シイナ:酒や薬や、物語や音楽という物を人類は、
サチカ:(遮り)ほら。
シイナ:っ、…………、
サチカ:簡単、なのよ。
サチカ:皆、二言目には、私が求める言葉を言ってくれる。
シイナ:…………、先輩、
サチカ:みんな、みんな本当に。
サチカ:一人残らずそうだった。
サチカ:父も、母も兄も。
サチカ:先輩も友人も、みんな、みんな。
シイナ:…………、
サチカ:それは、そうよね。
サチカ:私は、生きているんだから。
サチカ:幾ら心を病んで、要を成さなくなったって。
サチカ:拘(かかずら)ってしまったからには、共に生きて行かなければならないもの、ね。
シイナ:……、……、
サチカ:私、もうずっと、お休みを頂いているのよ。
サチカ:実家で、ずっと……、静養と銘打って、
サチカ:偶に、この子たちと、内緒でお話をする事の他に……、
サチカ:何もしていないの。
サチカ:だってこの子たちの他に誰も、
サチカ:「悪いのはお前だ」って、
サチカ:言って、くれないんだもの。
シイナ:それ、は……、
シイナ:……、
シイナ:……あなたに罪なんて、本当に無いんだ。
シイナ:それに、休職は妥当だよ。静養は絶対に必要で……、
シイナ:それこそ遺された者の使命として、未来を生きて行く為に、
サチカ:(遮り)大好きな先輩が狂ってしまって悲しい?
シイナ:っ!!
0:絶句。
シイナ:……、……、
サチカ:それとも悔しい、のかな。
サチカ:君はどう思っている?
シイナ:……っ、…………、
0:店員の目の端が震え。
0:凍えたように震え。
サチカ:今日……、ここへ、来ようと思ったのが、どうしてだったのか。
サチカ:君に、何を、言ってほしかったのか、
シイナ:先輩、
サチカ:思い出せないの。
シイナ:……、……っ、
サチカ:ごめんね。シイちゃん。
0:沈黙による静寂。
0:女性客の眼の奥の、真なる闇の冷気。
シイナ:……、……、
サチカ:冬が、また来て……、
サチカ:またあのバスへと、戻ってしまわないように、と。
サチカ:思ったの、だけど。
サチカ:自分が言ってほしい言葉も、考え付かないんだから……。
サチカ:聞き分けの悪い子供と同じね、私。
シイナ:そんなことはっ!
サチカ:(遮り)でも。
サチカ:求めた言葉は求めたように、得る事が出来るのに……、
サチカ:求めなければ、何もしなければ決して、手を差し伸べられる事の無い、この世界を……、
サチカ:地獄だと呪った、幼い日の事ばかり、思い出すの。
サチカ:自分の浅ましさに吐き気がする。
シイナ:…………、
サチカ:そういう子供だったのよ、私。
サチカ:周りの大人(ひと)を喜ばせる事に、躍起になっている内に……、
サチカ:人を操る事ばかり、上手になって。
サチカ:しまいに、隣人を信じる事をやめたの。
シイナ:……、
シイナ:ここは懺悔室じゃないんだ、
シイナ:もう、そんな……、
サチカ:こんなものは懺悔でも告解でもないわ。
サチカ:先生(シスター)にお叱りを受けるわよ。
シイナ:…………。
サチカ:けれどそれが……私の罪の全てで。
サチカ:贖(あがな)い続ける罰、そのもの。
サチカ:だから……、
サチカ:ね、
0:眼に、虚ろで、しかし晴れやかな、青い光。
サチカ:あの日の、光景……。
サチカ:救助される時、薄ぼんやりとしか、見えなかったけれど……。
サチカ:あの竹林(たけばやし)の、美しい雪の丘。
サチカ:冷たく、澄んでいて……、
サチカ:誰一人私を、慰めも庇いもしない、あの崖の下の冬の底、だけが…………、
サチカ:きっと私の、
サチカ:天国なんだと思うの。
シイナ:……っ、
シイナ:そん、な、……、
サチカ:今はね。
シイナ:……っ、
シイナ:…………、
0:生き埋めの沈黙。
0:後、すとん、と、店員は木椅子へと崩れ。カタリと乾いた木の音。
シイナ:…………。
0:沈黙が続く。
0:晩秋の外気は日増しに冷やされ、暖房機は鈍く低く唸っている。
0:長い静寂の後、呻くように悲痛な、声。
シイナ:…………私は、遅い。
サチカ:…………。
シイナ:顔を、見た時。
シイナ:私が知っている、あなたの顔と、変わらないように見えたから……、
サチカ:私は私、だもの。
シイナ:烏滸(おこ)がましくも支えになれるかも、なんて。
シイナ:夢想した。
サチカ:…………。
シイナ:けれどあなたの魂は最早、既に……、
サチカ:あの雪山に。
サチカ:囚われてしまっているように、見えるのね。
シイナ:…………。
シイナ:戯(おど)けて、得意な顔をして。
シイナ:自分からは訪ねても、行かなかった、癖に、
サチカ:シイちゃん、
シイナ:何が、『シェルパ・ティー』……。
シイナ:恥だ。
シイナ:死にたい、気分だ。
サチカ:とっても、美味しかったわよ。
サチカ:だから死んでは駄目。
シイナ:…………。
0:幾度目かの沈黙。店員は項垂れ。
サチカ:悲しそう、ね。シイちゃん。
シイナ:…………。
サチカ:私は、悲しくは、ないのよ。
サチカ:本当は。
0:店員は項垂れたまま。
シイナ:…………言葉が見付からない。
シイナ:上っ面の、戯曲に書かれたような台詞なら、幾らでも出て来るのに。
サチカ:…………。
シイナ:(絞るような呟き)
シイナ:上手くやれない自分は、嫌いだ……。
サチカ:……。
サチカ:ふふ、フ……。
サチカ:君は昔から本当に、
サチカ:そういう子……。
0:女性客は淡雪の如く笑み。
0:再び、静寂が世界を埋め。
声無き誰かの声:「先生ェー。もう帰る? 話の続き、しなきゃ」
声無き誰かの声:「マジで冷えて来た。起きてられるように、話し続けなきゃ。いつまでも。」
声無き誰かの声:「いつまでも、ずっとさ。」
声無き誰かの声:「ずっと、ずっと。」
声無き誰かの声:「だってこれは、」
声無き誰かの声:「先生の、せいなんだから。」
サチカ:…………、
サチカ:…………。
サチカ:少し、待ってて、ね。あなた達。
0:女性客はス、と立ち上がる。
シイナ:……、
シイナ:先、輩、
サチカ:傷付いたなら、慰めてあげる。
サチカ:そうしてほしそう、だもの。
シイナ:……、そん、な……っ。
シイナ:傷を……、傷を負ったのはあなたで、
サチカ:(遮り)リッカ。
シイナ:っ!!
サチカ:こっちへ、来て。
シイナ:……、
サチカ:髪を……、
サチカ:撫でてあげるから。
シイナ:…………っ、
0:冬が、来る。
0:暗転。
:
0:シイナにスポット。
シイナ:【本日のカクテルレシピ】
シイナ:ヒマラヤ式『シェルパ・ティー』、シイナアレンジ。
シイナ:■ロゼワイン 適量
シイナ:■ブラウンシュガー 2tsp(ティースプーン)
シイナ:以上をティーカップにて合わせ、干し葡萄を潰し、丁寧に煮出した紅茶を注ぐ。
シイナ:軽くステアした後、更に干し葡萄を何粒か沈め、冷めない内に手早く、
シイナ:……特に、凍える季節には、手早く、
シイナ:カップ&ソーサーにて、サーブ。
0:【終】
:
0:【空白】/【空白】/【空白】
:
0:【ボーナス・トラック1】
0:暫くの後。
0:照明の落とされた店内。鍵を開け、注意深げに足を踏み入れたのは、金髪の女性店員。
0:長身の女性店員がカウンター内の木椅子に崩折れ、俯いている。
カスミ:……シイナさん……?
シイナ:(項垂れたまま)
シイナ:…………、…………。
0:静寂。
カスミ:シイナさん、
シイナ:……カスミか。
シイナ:……やあ。
カスミ:……、
カスミ:大、丈夫……?
シイナ:うん。
カスミ:金曜なのに、この時間で電気、消えてたから……、
カスミ:あ、偶々 前、通って、
シイナ:いま、何時……?
カスミ:……、10時、過ぎたぐらい……。
シイナ:……そう、か。
シイナ:まだ、そんなもんか。
カスミ:具合、悪い?
カスミ:急に体調とか、
シイナ:いや。
シイナ:そうでも、ないよ。
カスミ:…………、あの、
シイナ:(意図せず遮り)来てくれてありがとう。
カスミ:っ、……、
シイナ:誰も来なかったら……、
シイナ:明日まででもこのままで、出勤してきたタニマチを驚かせる所だった。
カスミ:……、……、
0:凍てつく沈黙の気は尚も濃く名残り、重く垂れ込め。
カスミ:……、何か、あったの……?
シイナ:……、……。
シイナ:カスミは、さ……。
カスミ:うん、……、
0:項垂れたまま、語気はか細く、湿っている。
シイナ:自分の、大切に思っている、
シイナ:……、思っていた、人が……、
シイナ:心に深い傷を負っている事をある時、知ってしまって、……、
シイナ:……いや……、
シイナ:(小声になり、自問の独語)
シイナ:知らなかった筈は無いんだ。
シイナ:私はニュースを見ていたんだから。
シイナ:考えて、思い当たっていた癖に私は、
シイナ:……、
カスミ:シイナさん、
シイナ:……、
シイナ:すまない……。
カスミ:ううん。
カスミ:ねえ、ヤヨイさんに来てもらうから車で、
シイナ:良いんだ。
シイナ:……人の傷や、痣を、巧く見て見ぬ振りが、出来なくて……、
シイナ:躱せも、流せもせず、真正面から、見て、しまって。
カスミ:……、
シイナ:なのになんにも、それなのになんにも、かける言葉が引き出しから、出て来ずに……。
シイナ:途方に暮れるしか、無かった時……、
シイナ:どういう、気持ちになる?
カスミ:……、…………、
カスミ:ボク、なら……?
シイナ:ああ。
0:静謐。黙考。
カスミ:……シイナさん、酔ってる……?
シイナ:……ほんの少し、ね。
シイナ:ブランデーに、アマレットを少々。
カスミ:……、
シイナ:ごめん。
シイナ:ごめん、本当に……。
シイナ:大丈夫だから。もう、帰って貰って構わないよ。
カスミ:……、ううん。
カスミ:……ボクは、ボクなら……。
シイナ:……、
カスミ:……ボクは、
カスミ:……本当は……、
カスミ:そういう時に、何かを言っても良い人間じゃないと、思うから。
カスミ:黙ってる方が、きっと正解なんだと、思う……。
シイナ:…………。
0:深と冷えた空気。薄っすらと残る、紅茶の香。
シイナ:……そう。
シイナ:……私も、きっと……、きっと本当は、
シイナ:そう、なんだろうな……。
カスミ:……、……。
0:沈黙。背の低いグラスが鈍く光を散らし。
カスミ:……初めて、見た。
カスミ:シイナさんが、悪酔いしてるところ。
シイナ:…………。
0:ついぞ項垂れたまま、力無く呻く。
シイナ:……カクテルなんて。
シイナ:碌なもんじゃない、よね。
カスミ:……、
0:からり、と氷が遺憾の意を示し。
カスミ:お水、入れるね。
0:暗転。
0:【終】
:
0:【空白】/【空白】/【空白】
:
0:【ボーナス・トラック2】
0:或いは、『アクト・アクター・アクトレス』♯3.5
0:後日。都内某所、とあるレンタルスタジオビル1階、喫茶スペース。
トシコ:ふううーー……、む、む、む……。
トシコ:それで全部?
シイナ:……うん。
0:窓際の、いつもの席。
0:舞台の稽古を終えた2名の女性演技者の前には、湯気も薄れたカップ&ソーサー。
0:そばかすの女性は腕を組み、頬を掻きつつ。
トシコ:だいぶん不味いじゃないのさ、聞く限り。
トシコ:サチカ先輩も、……アンタも。
シイナ:一人で抱え切れずに……、
シイナ:結局ヒトに話してる私を、まずはひっぱたいてくれ。
トシコ:ココで??
トシコ:冗談はヨシ子ちゃん。昼ドラじゃあるまいし。
トシコ:……でも、なるほど。それで前回・今回と、指導にも妙に熱が入ってたのか。
シイナ:え……?
トシコ:アンタって昔から、情緒が波打ってる時ほど、芝居に気合いが入るじゃないさ。
トシコ:気付いてないとでも思った?
シイナ:…………。
シイナ:敵わないな、やっぱりトシコには。
トシコ:あったりまえ。伊達にアンタたち問題児揃いの87期を引っ連れて、全国まで行ってないってーの。
シイナ:あっは、鬼の部長サマの鬼伝説。
シイナ:……もう戻らない、輝かしき青春の日々……、か。
トシコ:だけど忘れんじゃないわよ。
トシコ:アンタはその相棒として、不動のキャスト班トップとして、全国の舞台に立ち切ったんだから。
シイナ:……、……。
シイナ:年功序列だよ。学年の順番が回ってきただけの、
トシコ:(遮り)部内オーディションに落ちて、泣いて裏方に回って最後の本番をやり切った皆の前でも。
トシコ:同じ事が言えんの?
シイナ:…………、
シイナ:ごめん。
シイナ:浅はかだった。
トシコ:今日は許す。
0:暫しの、緩やかな沈黙。午後の店内に客は少ない。
シイナ:……謝ってばっかりだな、近頃。
トシコ:成長したってコトでないの、少しは。
シイナ:だと良いけどね、まったく。
シイナ:……は。秘密を喋ってすっきりしてしまった。
シイナ:コレで地獄落ちだな、私も。
トシコ:気が早い。
トシコ:無力だろうが、非力だろうが。
トシコ:人生は続くのよ。天命の果てるその時まで。
シイナ:……ご尤も。
シイナ:なればこそ、この世に憂い煩いの種は尽きまじ……、と。
シイナ:いやはや。
0:ず、と二人、微温くなった紅茶を啜り。
トシコ:……にしても。あらためて。
トシコ:呪われてるとしか思えないわね、あの町は。
シイナ:あの町?
トシコ:「読辺川(よみべがわ)北中学」、でしょ、バス事故に遭った学校。
トシコ:聞き覚えない?
シイナ:(黙考)
シイナ:……、……、
シイナ:あっ、
トシコ:何年か前に。
トシコ:小学校で子供が、事故や事件で何人も亡くなったのも……、
シイナ:読辺川(よみべがわ)町、か……、そういえば、
トシコ:普通さ、一つの町で、
トシコ:10年も経たない間に、子供がそれだけの数亡くなるなんて……、さ。
シイナ:……天文学的な確率、かもね。
シイナ:いや、案外そうでもないのか?
トシコ:下手したら、小学校でも中学でも、同級生を喪くした子がいるんじゃないの。
シイナ:……壮絶、だな、人生の序盤から。
シイナ:……、…………、
トシコ:結局、苦しむのはこの世に残った側だからね。
トシコ:死者には死者の苦しみがあるけど、生きてる間は想像しか出来ない。
シイナ:……生きて残った苦しみ、か。
シイナ:まさしく、先輩の……、
トシコ:アンタはさ、
シイナ:うん?
トシコ:お見舞いなり何なりに行こうとは思わなかったの。
トシコ:事故を知った時。
シイナ:……っ、
シイナ:それは、
トシコ:責めてるんではないからね。念の為。
シイナ:それは、わかる、けど、
シイナ:……、…………、
0:内省に浸る面差し。カップから上がる湯気は既に失せている。
シイナ:……どうして、だろう。
シイナ:思い付かなかった訳ではない、けど、
トシコ:連絡先は?
シイナ:交換は、してなかった。
シイナ:でも……、伝(つて)を辿れば、どうとでもなった筈なのに。
トシコ:それこそ、あたしがマヒロと繋がってるし、ね?
シイナ:……、…………。
シイナ:こう、思い悩む振りをしつつも。
シイナ:それに関してはもう、結論が出てるんだよな。
トシコ:自分じゃ手に負えないと思った?
シイナ:……っ、
0:沈黙。
シイナ:…………。
トシコ:黙るのはおよし。
シイナ:…………何というか。
シイナ:タマンナイね。この容赦の無い感じ。
トシコ:容赦や忖度じゃ前に進まないじゃないさ。
トシコ:舞台も、人生も。
シイナ:仰る通り。
シイナ:…………そうだね。とどのつまりが、そんなトコ。
シイナ:想像が、出来なかった。
トシコ:サチカ先輩の気持ちが?
シイナ:あらかじめ用意しておく台詞が、思い付かなった。
シイナ:その状態で面と向かっても、どうすることも出来ないだろうな、なんて。
トシコ:アドリブ弱いもんね、昔から。
シイナ:…………、あと、
トシコ:あと。
シイナ:怖かった。シンプルに。
トシコ:ふむ。
シイナ:自分には想像もつかないような事態を経験した、サッちゃん先輩が……、
シイナ:前と同じサッちゃん先輩じゃなくなってたらどうしよう、って。
シイナ:……ビビったんだね。
トシコ:どうだったのさ、実際。
シイナ:……先輩は、先輩だったよ。
シイナ:ただ、でも、そうだったからと言って、
シイナ:……、……、
トシコ:……その様子だと。
トシコ:挑む気にもなれなかったみたいね。
トシコ:「妖怪」に。
シイナ:ようかい??
トシコ:前に言ってたじゃないさ。
トシコ:お店に入りたての頃、仕事を教わった人から、そんな話を聞いた、って。
シイナ:……あー。それか。
トシコ:夜の、お酒を出す場所の仕事は。
トシコ:時として「妖怪退治」みたいになる時がある、って。
トシコ:あたし、結構印象に残ってんのよね、あの話。
シイナ:フとした拍子に人間が「化ける」妖怪を、宥(なだ)めて、すかして、お酒を供えて……、
シイナ:暴れ出したり、消え失せたりしないように調伏(ちょうぶく)するようなシゴトだ、ってね。
シイナ:……あのヒトらしい、ロマンチックなんだかナンなんだかワカンナイ言い回し。
シイナ:……そうだな。それで言うなら……、
トシコ:やっぱり手に負えなかった?
シイナ:修行が足りなかったね。仕置人としての。
シイナ:……結構、色んな妖怪と渡り合って来たんだけどな。
トシコ:まあ、ねえ? 私が聞いたってどうしたら良いかわからないような話だし。無理も無いんでないの。
トシコ:……そいで、
0:不意に、品よく、どこか艶めく仕草で足を組み替え。
トシコ:どうすんのさ。次の一手は。
シイナ:……っ、
0:切れ長の眼が長身の女性を真っ直ぐ見据える。逃れ難い、蔓植物の如き眼差し。
シイナ:どう、ってね……。
シイナ:つまり、まさしくソレが問題な訳で、
トシコ:現状の自己分析はよくわかったわさ。
トシコ:冷静に、自分を解釈出来てるとも思うわよ。
トシコ:で。
トシコ:そいで、アンタはどうしたいと思ってんのさ、ってところ。
シイナ:今日そこまで話を進めなきゃ駄目……?
シイナ:もう少し段階を踏んで、
トシコ:あたしに相談したのが運の尽き。
トシコ:ぬるま湯で受け止めてほしいなら、ヨソを当たる事ね。
シイナ:ええーー……、
シイナ:うゥーーーん……、
トシコ:濡れた犬みたいに唸るんじゃあないの。
トシコ:……そうね。
トシコ:今、一通り、アンタの話を聞いて。
シイナ:うん……、
トシコ:今の、アンタの現状や。
トシコ:サチカ先輩が歩んだであろう経緯や。
トシコ:そして話を聞いたあたし自身の、環境や、状況や。
トシコ:全部の「流れ」を鑑みて、思い付いた事が一つある。
シイナ:思い付いた、こと……?
シイナ:ていうか、トシコの状況も?
トシコ:それは上手く運べば、全てにケリを着ける妙案になるかもしれない。
トシコ:そして関わる全員の運命に沿わなければ、何ら実を結ばずに、事態を悪戯にややこしくして終わるかもしれない。
トシコ:いずれにせよ、
0:そばかすの女性の決断的な口調に、長身の女性は圧倒され気味。
トシコ:近い内に、「ある人」を連れて店に行くから。
トシコ:覚悟を決めておくように。
シイナ:……、……、
シイナ:な……、何……?
0:運命は時として唐突にドアをノックする。
0:窓の外、空にはいつしか雲が立ち込め、流離と流転の気配が世界を覆い。
0:暗転。
0:【終】
:
:
:
:
:
:
0:【薄れ、ぼやけた記憶】
0:2020年12月21日、午前10時6分。
0:とあるスキー場に隣接するホテル。
0:自販機スペース横の、木製ベンチ。
0:眼を閉じ腰掛ける女性教諭のもとへ、男性教諭が歩み寄る。
男性教諭:叶納寺(かのうじ)先生。
女性教諭:(微睡みより醒め)
女性教諭:ん……、
女性教諭:あ……、……はい、
男性教諭:ああ、すみません。
男性教諭:起こしてしまいましたか、
女性教諭:鮎川(あゆかわ)先生……、
女性教諭:いえ、すみませんあの……、
女性教諭:一息つこうと座り込んだら、私……、
女性教諭:今、何時でしょうか、
男性教諭:十時ちょっと過ぎ。
男性教諭:まだ、大丈夫ですよ。
女性教諭:バスの出発が十二時十五分だから……、
女性教諭:最終点呼は正午、その前に4組の部屋をもう一度、周っておかなくちゃ……、
男性教諭:十時半ごろからボツボツで、大丈夫でしょう。
男性教諭:僕も去年や一昨年は、朝礼の後に一眠りしましたよ。
女性教諭:スキー合宿の、教員の起床が五時半とは思いませんでした……。
男性教諭:早すぎるんですよ、毎年。
男性教諭:みんな言ってるんですけどね。
女性教諭:いえ……、でも準備は、早い方が。
女性教諭:あの……、すみません、何か今、
男性教諭:いや、いや。
男性教諭:自販機に珈琲を買いに来たら、お見かけしたから声をかけただけで……、
男性教諭:あ、珈琲、先生も飲まれますか、
女性教諭:いえっ、そんな、
男性教諭:ご遠慮なされず、今どき珍しく100円ですし、
女性教諭:いえ、あの……、
女性教諭:私、珈琲が、ちょっと、
男性教諭:苦手ですか。
女性教諭:相性が良くなくて……、
女性教諭:胃が気持ち悪くなってしまって、
男性教諭:成る程。
男性教諭:他も色々、ありますよ、
女性教諭:本当に、お気持ちだけで……。
女性教諭:魔法瓶に飲み物、ありますので、
男性教諭:そうですか、
男性教諭:じゃ、自分だけ……、
男性教諭:御免しますね。
女性教諭:いえそんな……。
女性教諭:こちらこそごめんなさい、
男性教諭:謝るような事じゃ……、
男性教諭:あ、お互い様ですか。
0:男性教諭は自販機にて珈琲を購入。
0:ゴトン、とホットの落下音。
男性教諭:「御免する」ってね、謝ってる訳じゃなくて、ただの口癖なんですが、
女性教諭:仰られてますね、よく……、
男性教諭:地元の方ではね、みんなよく言うんですけど。
男性教諭:方言だって後から知って。
女性教諭:鮎川先生ご出身は、
男性教諭:全然、塚淵(つかぶち)県内ですけどね。
男性教諭:「飛桶(とびおけ)」ってね、叶納寺先生は東京ご出身だから、知らないとは思いますが……、
男性教諭:問答山(もんどうやま)丘陵の近くですね、まだ有名な範囲で言うと。
女性教諭:風光明媚というか、景色の良い所ですね。
男性教諭:本当にド田舎ですけどね、ただの。田んぼと工場ぐらいしか無い……。
男性教諭:山の方に行くと棚田とか古墳とか、ありますが。
女性教諭:素敵だと思います。
女性教諭:私も高校まで、山の中の全寮制の学校だったので、自然の多い所は落ち着くというか……、
男性教諭:「釈葉(しゃくよう)」のご出身なんですよね、確か。
女性教諭:はい……。
女性教諭:クラウス・リモン墓地の近くの、
男性教諭:あんな辺りなんて、全然都会だと思っちゃいますけどね……、
男性教諭:なんというか本当に、どん詰まりの田舎なんですよね、飛桶の辺りは。
女性教諭:そんなことは……。
0:男性教諭は一口、手の内の珈琲を啜る。
0:忙しなさの狭間、午前の微睡んだひととき。
女性教諭:今はそこから、学校の近くに出て来られて……、
男性教諭:いえ、通いです。
女性教諭:え?
男性教諭:車で。
女性教諭:え……、どちらから、
男性教諭:その、飛桶から。
女性教諭:……、
女性教諭:毎日、ですか……?
男性教諭:勿論。言って2時間かかりませんから。
男性教諭:帰りはかなり空いてますし。
女性教諭:あ、それで、いつも……、
男性教諭:するっと帰るでしょう、いつも。最近ようやくね、少しは効率よく仕事を終えられるようになりましたけど……。
女性教諭:そう、なんですか……、
女性教諭:自分が、赴任を機に移り住んできたくちなので、皆さんそうなのかと……、
男性教諭:結構、遠くから通いの方も多いですけどね。
男性教諭:まああんまり学校に近いのも、生徒や保護者に顔を刺すので良くないとされてますし……。
女性教諭:失礼でなければですが……、
女性教諭:どうして、
男性教諭:あ、地元からわざわざ通いなのか?
男性教諭:あるあるですけどね、最初は母親が移住をしたがらなかったのと……、
女性教諭:ああ……、
男性教諭:今はもう、母は死んで居ないんですが。
男性教諭:あと、僕は地元で結婚をしたんですが、妻は出戻りというか、都会から地元に帰って来たので……、
男性教諭:僕は通える距離だし、引っ越しがあんまり多いのもと、思ったので。
男性教諭:ま、色々と、兼ね合いですね。
女性教諭:……なるほど。
女性教諭:皆さん、色々と……、
男性教諭:ありますよねえ、そりゃ。
男性教諭:沢山居ますし。生徒よりは少ないとはいえ。
女性教諭:はい……。
0:ふと、窓の外、雪を頂く雄峰へと眼をやり。
女性教諭:……子どもたちは、本当に、本当に沢山、居ますよね……。
男性教諭:少子化って言ってもね。
男性教諭:教師も減ってますしね。
女性教諭:私……、正直1年目がこんなに大変だとは、
男性教諭:来年度はもっと大変だと思いますよ。
男性教諭:管理職の方針でね、初めから色々、慣れてもらうという……。
男性教諭:多分担任持たされるんじゃないかな。
女性教諭:思いやられます、自分に……。
女性教諭:来年の今頃、どうなってる事か……。
男性教諭:楽しい事は、ありますか。
女性教諭:え……?
男性教諭:仕事なので、大変なのは多分、ずっと変わらないとは思いますが……。
男性教諭:仕事も含めて、日常の暮らしの中で、
男性教諭:楽しいと思える時間って、ありますか。
女性教諭:……、…………、
0:女性教諭は沈思黙考。
0:男性教諭はもう一口、珈琲を啜り。
男性教諭:僕は無かったです。3年目ぐらいまで。
男性教諭:公立って本当に碌なもんじゃないと、毎日思ってました。
女性教諭:…………、
女性教諭:私は……、
0:内省を湛えた声が、暖房で温もった空気へと混ざる。
女性教諭:毎日、本当にてんてこ舞いで、ご迷惑をかけっぱなしですが……、
男性教諭:案外そうでもないですけどね、はたから見ていると。
女性教諭:生徒の皆と、お話をするのは楽しいです。
男性教諭:いつも?
女性教諭:……、
女性教諭:偶に。
男性教諭:はは……、正直で良い。
女性教諭:家庭環境も……、生育環境もみんな、それぞれ違って。
女性教諭:価値観の違いに触れると、新鮮な驚きがあって。
女性教諭:自分の見識の浅さ狭さを、思い知れるようで。
男性教諭:僕たち教師はね。
男性教諭:生徒や、そのご家庭を通して、社会に触れるしかありませんもんね。
女性教諭:社会?
男性教諭:教育大を出て、まあ何年か一般職を経たりする人がいたとしても、大抵はそのまま、ずっと「先生」って呼ばれる仕事でね……。
男性教諭:直接には社会を、やっぱり知らずに、定年まで行くんですよね。
女性教諭:……、どう、なんでしょうか、
男性教諭:僕は父方が代々、田舎の教員なんですけど、やっぱりそういう所があるなと、昔から思っていて……。
男性教諭:そうはなるまいと、思いつつも結局、自分も教師をやってるんですけど。
女性教諭:……、特殊な、環境ではありますもんね、学校って。
男性教諭:義務教育は特にね。
男性教諭:まあ……、それ自体は変えようのない事ではあるので。
女性教諭:自覚が大切だと、いうことですね。
男性教諭:気を付ける他、無いですね。
男性教諭:……とはいえ、
女性教諭:はい、
男性教諭:まあ、あまり、堅く構えず。
男性教諭:楽しい事がちょっとでもあるなら、少なくとも1年目の僕よりかは有望ですから。
女性教諭:……、…………。
女性教諭:頑張ります。
女性教諭:頑張って、力を抜きます。
男性教諭:それが良いですね。
男性教諭:最初は、余裕がある「フリ」からで。
女性教諭:……「振り」……、
男性教諭:そろそろ、行きますか。
女性教諭:はい、あの……、
男性教諭:(立ち上がりつつ)
男性教諭:よいしょ、
男性教諭:ああー……、寒そうだな外……。
女性教諭:お話、出来て良かったです。
男性教諭:いえ……。
男性教諭:まあ、普段学校ではなかなかね。
男性教諭:僕は早く帰りたいから、飲み会なんかにも出ませんし。
女性教諭:自分は、まだ初めたてで、若くて、未熟ですが……、
女性教諭:その分「未来」に、まだ余地がある、と。
女性教諭:……騙し騙し、行きます。
男性教諭:未来ね……、
男性教諭:まあ、残された未来の量で言ったら、それこそ生徒たちには敵いませんけどね……、
女性教諭:ふふ、フ。それはそうなんですが。
女性教諭:私が言っているのは……、
0:語り合う声が遠ざかり。
0:無人の自販機スペース。窓に映る白銀の風景は、永劫に不変であるかのように思われた。
0:例になく、時候にしては強かな日差しが、山の大気と積雪を温める。
0:温める。
0:温める。
:
0:ホワイト・アウト。
0:【終】
0:【注意】
0:「声無き誰かの声」は、今や永久に、この世に響く音を喪った人々の声です。
0:故に、声に出してはいけません。
:
:
:
0:【以下、本編】
シイナ:或る、心象のうた。
サチカ:ますぐなるもの地面に生え、
サチカ:するどき青きもの地面に生え、
サチカ:凍れる冬をつらぬきて、
サチカ:そのみどり葉(ば)光る朝の空路(あきじ)に、
サチカ:なみだたれ、
サチカ:なみだをたれ、
サチカ:いまはや懺悔(ざんげ)おわれる肩の上より、
サチカ:けぶれる竹の根はひろごり、
サチカ:するどき青きもの地面に生え。
声無き誰かの声:「わたしはあなたをゆるします。」
サチカ:光る地面に竹が生え、
サチカ:青竹が生え、
サチカ:地下には竹の根が生え、
サチカ:根がしだいにほそらみ、
サチカ:根の先より繊毛(せんもう)が生え、
サチカ:かすかにけぶる繊毛が生え、
サチカ:かすかにふるえ。
サチカ:かたき地面に竹が生え、
サチカ:地上にするどく竹が生え、
サチカ:まっしぐらに竹が生え、
サチカ:凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、
サチカ:青空のもとに竹が生え、
サチカ:竹、竹、竹が生え。
声無き誰かの声:「祈(いの)らば祈(いの)らば空に生え、
声無き誰かの声:罪びとの肩に竹が生え。」
サチカ:みよすべての罪はしるされたり、
サチカ:されどすべては我にあらざりき、
サチカ:まことにわれに現われしは、
サチカ:かげなき青き炎の幻影のみ、
サチカ:雪の上に消えさる哀傷(あいしょう)の幽霊のみ、
サチカ:ああ かかる日のせつなる懺悔をも何かせん、
サチカ:すべては青きほのおの幻影のみ。
0:タイトルコール。
シイナ:『シェルパ・ティーには遅過ぎる』
0:某月某日、某時刻。とあるバーの店内。
0:開店よりやや経ち、店内には女性店員が1人。伸びをし、カウンター内の木椅子に腰掛けようとした所、ドアベルの冷えた音。
0:外気が吹き込み、女性客が入店。
シイナ:いらっしゃァーい、どうぞォ、
サチカ:……、こんばんは……。
シイナ:(視認するや否や、立ち上がり)
シイナ:っ!!
シイナ:……あ、あっ……、
シイナ:サっちゃん先輩っ!!
0:店員の眼には驚愕の色。
サチカ:良かった……、
サチカ:シイちゃんの日、変わってなくて。
シイナ:うっわ……、お久しぶり!
サチカ:ちょうど1年ほど、かな。
サチカ:本当に長く、来られなくて……。
サチカ:他の、皆さんはお元気?
シイナ:いやァーーっ、いやっ、
シイナ:……、だって、
シイナ:……だって大変、だったでしょ。
シイナ:あんな……、
サチカ:うん、うん……、
サチカ:そうなの、本当に。
シイナ:他の二人も……、まァ、普通に元気で。
シイナ:マジで心配、してた。そりゃ。
サチカ:うん……。
サチカ:本当に、ご心配おかけしてしまってどうも、
シイナ:(遮り)謝っちゃ駄目だよ、今回ばっかりは。
シイナ:口癖なのは知ってるけどさ。
サチカ:…………、
サチカ:そう、ね、
シイナ:良かった。本当に。
0:店員の目は、珍しく真摯な光を湛えている。
シイナ:ハグ、していいかな。嫌で無ければ。
サチカ:……嫌な訳、無いわ。
サチカ:そう、よね……、まずは無事の、ご報告だもんね。
シイナ:(カウンターを出つつ)
シイナ:そうだよ。
シイナ:……、体は……、
シイナ:怪我の、具合は、
サチカ:もう、大丈夫。
サチカ:ふ、フ。抱いても折れたりしないから。
0:二人、向き合い、
シイナ:色々……、そりゃ色々、あっただろうし、言われた、だろうけど。
0:抱き合う。女性客の身に、店員の手の温もり。
シイナ:ありがとう。生きててくれて。
サチカ:…………、
サチカ:うん、うん。
シイナ:柄にもなく、さ……、
シイナ:神サマに感謝したんだから。
サチカ:……、君が?
サチカ:天地が……、ひっくり返るわね。
シイナ:大切な先輩を、この世から奪わないでくれて、って。
シイナ:……本当に、良かった……。
0:抱きしめる手に力が籠もる。
サチカ:……ふフ。痛いよ、シイちゃん。
シイナ:あ……、すみません。
0:店員は抱く腕の力を緩め。
サチカ:いつもは掴み所がないのに。
サチカ:こういう時だけ、躊躇わずまっすぐ来るんだから。
サチカ:そのギャップで可愛い後輩を何人も、泣かせて来たんだもんね?
シイナ:あは、今その話ィ?
0:語調をあらため、
シイナ:……先輩が……、
シイナ:恩義ある、先輩が。
シイナ:教科書に乗るような、未曾有(みぞう)の大事故からたった1人、生還したのを前にして……、さ。
シイナ:こうでも来なきゃソイツは、ただの冷血漢だよ。
サチカ:……、
サチカ:たった、1人……、
0:女性客の、品良くデザインされた眼鏡の奥に、吹雪の如き気色。
シイナ:センセーショナルに捉えてる訳じゃないから、決して。
シイナ:大袈裟なのは、劇部時代の癖で、
サチカ:うん……、うん。
サチカ:わかってる。兎に角、座るわね。
シイナ:ああ、失礼……。どうぞ。
0:店員は恭しく席を指し、促す。
0:ドアの向こう、高架下を吹き抜ける風の音は乾いている。
0:女性客は席に着きつつ、大ぶりなマフラーを解き。
シイナ:さ、その、素敵なマフラーは、
サチカ:これ、ね……。大きくて長くて、お気に入りなの。
シイナ:シックで良い。そこの台にでも置いてね。
シイナ:そしてコート掛けはこちら。はァい。
サチカ:ありがとう……。
0:店員は慣れた手付きで、生地の厚いネイビーブルーのコートを受け取り、骨董調のコートハンガーへと、滑らかに吊るす。
サチカ:ふふ、フ。
サチカ:キビキビして堂に入(い)った給仕(ギャルソン)っぷり。惚れ惚れするわね。
シイナ:でっしょォー? コッチの方が向いてるんだって、絶対。
サチカ:王子様扱いより?
シイナ:あっは、お笑い。
0:店員はカウンター内に戻り、客の前にコースターを出す。かちゃり、とブリキの小気味よい音。
シイナ:狂ってるよねェ、女子校ってホント。
シイナ:ちょっとタッパがあるだけでさァ、
サチカ:ロマンじゃない? 何よりも。一度は憧れるもの。
シイナ:体(てい)良く役に嵌められちゃった3年間でしたよ。ソレだって苦手じゃ無いけども。
サチカ:ふフ……。
シイナ:さてもさても……、
シイナ:積もる話の前に、まず何か、
サチカ:ええと、お酒の前に……、
サチカ:ちょっと、お白湯(さゆ)を1杯、
シイナ:あは、勿論。
サチカ:良いかしら……? お腹と喉を温めたくて。
シイナ:かっしこまりました。待ってね。
0:店員は棚から、マグカップを見繕う。
サチカ:ごめんね? 他にお客さんが来たら、注文を……、
シイナ:お気になさらずー。
0:ポットを前に作業しつつ。
シイナ:ふっふ……、懐かしいや。文芸部の部室が。
サチカ:私の不良行為、ね。
サチカ:舶来品のティーカップで……、
シイナ:アンティークの、リアルオールドウィローでさ。
シイナ:静々(しずしず)とお茶を飲んでる綺麗な先輩がいるなァ、と思って、
シイナ:「茶葉は何です?」って話しかけたら、
サチカ:「これ、お湯なの」ってね。
サチカ:ふフ、覚えてるわ。
シイナ:楽で面白い人だ、って直感したよね。
シイナ:以降3年……、
サチカ:見事に、入り浸られちゃったわね。
サチカ:サボタージュ常習犯の君を連れ戻しに、よくトシコちゃんが……、
シイナ:乗り込んで来たっけねェ。
シイナ:私の減らず口によく耐えたモンだよ、アイツも。
シイナ:「読書中は静かに、トシコくん」、なんて。あっはは。
サチカ:ふふフ。
サチカ:でも偶に……、一服して、お菓子まで食べて帰っていったわよね。2人揃って。
シイナ:あの部室の居心地の良さは普通じゃなかったからねェ。
シイナ:トシコも何だかんだ、2年に上がる頃には専用のカップまで決まってたし。
サチカ:名字が「鳳(オオトリ)」だから。鳳凰(ほうおう)柄のカップ。
サチカ:あれは確か……、
シイナ:有田焼きだったよね。香蘭(こうらん)だったかな。
サチカ:懐かしいわ……。
サチカ:あのカップ達は今の部室にも、受け継がれているのかしらね。
シイナ:ドジな娘(こ)が割っちゃってなければ、ね。
シイナ:そうそう……、姫の、妹ちゃんも今、文芸部なんだってさ。
サチカ:まあ、ケイジュの?
サチカ:妹さん……、ケイカちゃんね、確か。
シイナ:だったと思う。2年かな、今。
サチカ:私達の……、思い出のお部屋も。
サチカ:今は、誰かの青春の現場なのね。何だか不思議な気分。
シイナ:我々もまた、今を生きなければ、というところで。
サチカ:……、
サチカ:……ね。
0:店員はフと笑み、耐熱グラスに満たされた、適温の白湯を供する。
シイナ:ハイ、当店でお出し出来るいっぱいいっぱいの、最高級のお湯でございまァす、と。
サチカ:ふふ、フ。大切に頂かなきゃ。
サチカ:ありがとう。
0:す、と含み、ほ、と息を吐く。
サチカ:……うん。熱すぎず微温(ぬる)すぎず。
サチカ:いい塩梅(あんばい)。
シイナ:あは、やった。
シイナ:数年ぶりに聞けた。
サチカ:え?
シイナ:「イイ塩梅」。
サチカ:ああ……。ふフ。
サチカ:元々は、祖母の口癖だったんだけど。
シイナ:煎茶の要領でね。和洋ともに、たっぷり手管を仕込んで頂きましたので。
サチカ:文芸部の伝統。
サチカ:……ふフ。君は演劇部だけど、ね。
シイナ:ええ、ええ。
シイナ:副部長にしてサボり魔の、不良部員でしたとも。
シイナ:いや懐かしき……、遠く帰らぬ学び舎の日々、と。
シイナ:…………、
シイナ:にしても、
0:閑話休題。店員は些か、慎重に。
サチカ:……、うん。
シイナ:本当に。お久しぶり。
シイナ:……もうじき1年になるのかな。
シイナ:あの、事故から。
サチカ:……ええ。
サチカ:今日は……、ね、
サチカ:久々に、寄せて、もらったのは……、
0:女性客の顔色は、心無しか青い。
声無き誰かの声:「話すの……?」
サチカ:……っ、
声無き誰かの声:「話して、楽になりたいの?」
サチカ:……、……、
0:女性客の目の奥に、揺らぎ。
0:様子を窺う店員の語調は、徐(おもむ)ろ。
シイナ:今日は……、
シイナ:ずっと、他のお客が来るまで、
シイナ:……何なら、スタッフ急病に付き、看板を消しても良いし。
シイナ:昔の……、他愛の無い思い出や、軽薄に楽しめる事を話して、夜を明かしませんか。
サチカ:…………、
シイナ:ご所望とあらば、ずっとあなたを膝に抱いて、その黒い髪を撫でて差し上げたって良い。
サチカ:…………。
サチカ:いつかの夜に。
サチカ:私が君に、してあげたように?
シイナ:そうです。
サチカ:…………。
0:絡んだ視線は、しかし外され。
サチカ:前は……、言いそびれて、いたんだけど。
サチカ:今の髪型、とっても似合っているわ。
シイナ:……、どうも。
シイナ:卒業のタイミングでバッサリ行った時は、
サチカ:嘸(さぞ)かしショックがられたでしょうね。
サチカ:君の長くて豊かな髪は、本当に魅力的だったから。
シイナ:引っ詰めにして鬘(かつら)を被って、騎士サマだの子爵サマだのを演じる必要もなくなった矢先に、ね。
シイナ:ま、少し……、思う所、ありまして。
サチカ:楽に、なった?
シイナ:腰までのロングに比べれば、ね。
シイナ:シャンプーやら何やら、半分以下の減りだし。
サチカ:ふふ、フ。
サチカ:君らしい。
0:女性客は、湯気立つカップを傾ける。
サチカ:…………、ありがとう。
サチカ:でも、私……、
0:ぼう、と。眼鏡の奥の瞳に、虚ろな光の灯され。
サチカ:話す、わ。
サチカ:聞いて、ほしくて。
サチカ:それで、今日……。
シイナ:……勿論、ご随意のままに。
シイナ:ただし自分のペースで、ね。
サチカ:うん、うん……。
サチカ:…………。
0:呼吸を整え。
0:眼を閉じ、そして開き、
サチカ:……先に、報道が、あったのよね。
シイナ:そう、だね。
シイナ:忘れもしない。12月、21日。
サチカ:あの子たちの…………、
サチカ:時間が、途切れた日。
0:永劫、未来を得る事の出来ぬ彼らの話を、女性客は始める。
サチカ:とても、空気の澄んだ日だったわ。
シイナ:ニュースをね、見てたんです。丁度。
シイナ:ここの出勤の前で……、
サチカ:午後1時、37分。
サチカ:…………。
サチカ:……この、いま着けている、腕時計、
シイナ:……、時計、
サチカ:その時間でね、止まっているの。
シイナ:……、
シイナ:それは、
サチカ:借りてた、の。私が引率の、班の子に。
シイナ:……、……、
サチカ:雪崩(なだれ)という物について。
サチカ:通り一遍の知識しか持ち合わせていなかった。
サチカ:新任の、1年目で……、
サチカ:スキー合宿の引率なんて、ね。
サチカ:緊張していたし、一通り、調べはしていたけれど……、
シイナ:雪山に、ついて。
シイナ:……長野、だよね。
サチカ:うん。
サチカ:……私達のバスが行き帰りする筈だった、「降馬岳(おろばたけ)」は……、
サチカ:明治期以降、目立った雪害や、道路への深刻な雪崩事故の記録も、無くて。
サチカ:勿論、条件として好適で、安全だとされて来たからこそ……、
シイナ:(言葉を継ぎ)
シイナ:スキー場が拓(ひら)かれて、学校行事の合宿地にも、選ばれて来た訳だもんね。
シイナ:……でも、
サチカ:うん。
シイナ:例えば……、
シイナ:空から飛行機が落ちて来るのを懸念して、頑なに家から出るのを拒むヤツが居たら。
シイナ:あるいは頬をはたいて、引っ張り出すかもしれない。
シイナ:それが……、決してこの世の誰にも、否定し切れやしない虞(おそれ)だという事実には、目を瞑って。
サチカ:そして航空機墜落の現場に居合わせるよりは、ずっと、確率の高い出来事だものね。
サチカ:何せ……、私たちを圧し潰した、
声無き誰かの声:(遮り)「俺たちを、だろ。」
サチカ:(小声で)
サチカ:……そうね。
サチカ:(声量戻り)いいえ。
サチカ:あの子たちを。私以外の皆を押し潰して、凍えさせた雪と、土砂は。
サチカ:いつだって私たちのすぐ側に、あったのだから。
シイナ:…………。
シイナ:バスは……、4台で、全部?
サチカ:うん。
サチカ:有志の生徒だけと言っても、2年生の、殆ど全員。
サチカ:…………世界が震える音を、聞いたと思った。
シイナ:……、世界が。
サチカ:去年は、折からの暖冬で……、
サチカ:昼夜の寒暖差が、激しかった、わね。
シイナ:今年も大概だけど……、そうだね。
シイナ:昼間は暖かい日が、多かったね。
サチカ:バスが進む予定のルートに……、
サチカ:と言っても、一本身なんだけど。
サチカ:規模の小さい雪崩、というか、雪の塊が崩落する事故があって。
シイナ:午前中に、だよね。
サチカ:そう。お昼前に、ね。
サチカ:それで……、あの日は出発後に、どんどん気温が上がって。
サチカ:運転手さんと、学年主任の先生と、コーディネーターの人たちで連絡を取り合って、協議して……、
シイナ:引き返した。
サチカ:うん。万一という事を考えて、大事を取って。
サチカ:合宿所までというより、ある程度安全な、スペースのある地点まで取り敢えず、という判断で。
サチカ:誰も……、それに異論を挟む人は居なかった。
シイナ:その時点に於いては、妥当で賢明な、それ以上しようの無い判断だものね。杞憂に終われば越したこと無い、と。
サチカ:杞憂、ね。
サチカ:…………。
サチカ:古代中国の、「杞(き)」の国の人々は、
シイナ:き? あ、由来か、「杞憂」の。
サチカ:あるとき突然に天地が崩れ去るのを恐れて、日々を怯えて暮らしたというけれど。
サチカ:……世界が、震えて。本当に、天地が逆向(さかむ)くかと思う程の、轟音。
サチカ:何の、前触れも無く……、
声無き誰かの声:「先生が止めてくれたら良かったのに。」
サチカ:…………。
サチカ:たくさんの。
サチカ:余りにも沢山の雪と、土砂が……、
サチカ:私たちの乗ったバスを、押し流して、圧(お)し潰して。
シイナ:……、……、
サチカ:本当に一瞬の出来事だった。
サチカ:ガードレールは……、津波のような雪と土砂の重さを支えるには脆すぎて。
サチカ:バスは玩具(おもちゃ)みたいに崖の斜面を転げ落ちて、谷底まで真っ逆さま。
シイナ:…………、
サチカ:雪崩に引きずられる形で……、
サチカ:連鎖的に起こる地滑り。
サチカ:近年は気候変動に伴って、全国的に、よく見られるようになって来た現象なのだそう、だけど。
シイナ:「土砂雪崩(どしゃなだれ)」、とかとも言うヤツだよね。
シイナ:…………だけど、まさか。
シイナ:まさか、そんな事が、己(おの)が身に起ころうとは、
サチカ:「青天の霹靂(へきれき)」、って。
サチカ:……よく言うけれど、渦中にあっては何が起こったのかもわからない。
シイナ:……そりゃあ、
サチカ:音と、震えと。
サチカ:……すぐ後に襲った、何十トンもあるバスを、まるでお菓子の空き箱を振り回すようになぶる、衝撃。
サチカ:窓ガラスが砕けて、すぐ前に座っていた子の頭が、壁に、叩き付けられて、
シイナ:……っ、うわ、
サチカ:本当に、なぜ自分だけ……、足を折る程度で済んだのか、皆目わからない。
サチカ:息を飲む間に景色が、白く、塗り潰されて……、
サチカ:気が付けば、……、
0:女性客はフ、と震えた息を吐く。
シイナ:大丈夫?
シイナ:お湯を。さあ。
サチカ:うん……、
0:熱の引いた白湯のカップを一口、含む。
サチカ:(細く息を吐く)
シイナ:……大丈夫、とは愚問だったな。
サチカ:いいえ……。
サチカ:平気、とは正直言えないんだけど。
サチカ:でも……、
0:目を伏せる。
サチカ:もう、冬が、そこまで来ている、から。
シイナ:冬……、が。
0:静寂。女性客の声は微かに震えている。
サチカ:あの、冬が。
サチカ:あの子たちの魂を、永久に閉じ込めてしまった、冬が。
シイナ:…………、サっちゃん先輩、
サチカ:ただ1人、残されてしまった私が……、
サチカ:手向けに出来る言葉なんて。
サチカ:本当は、ありはしないと、思うけれど。
シイナ:……、……、
サチカ:私、誰にも、話していないの。
サチカ:あの時の事を。
シイナ:誰にも? ……それは、
サチカ:勿論、警察や、他の……、
サチカ:当事者としての説明や証言が必要な所では。
サチカ:質問に、お答えはしたけれど。
シイナ:ご家族……、あ、自分のね。
シイナ:とか、友達、とかには、って事かな。
サチカ:……、うん。そう、ね。
サチカ:皆、みんな、本当に。
サチカ:真心を持って、細かな心配りをしてくれたし……、
サチカ:またそうしてくれるだろうと、思える人たちばかり。
サチカ:人にも出会いにも、恵まれていると思う。
サチカ:本当に。
シイナ:そう……、だね。
シイナ:多くの人が、あなたに対しては……、何というか、
シイナ:心尽くしの晴れた顔でなければ、向き合ってはいけない気がするから、だろうね。
サチカ:君も、そんな風に思ってたの?
シイナ:柄でもナイかなァ?
シイナ:私なりに精一杯、襟を正していたつもりなんでござーますけれども。
サチカ:ふふ、フ。それは、それは。
サチカ:……でも、ね……。
サチカ:それというのは言い方を変えれば、
シイナ:「気を遣わせる性分」?
サチカ:……、……。
サチカ:そのように……、私は自覚しているのだけれど。
サチカ:……申し訳なく、なるのね。
サチカ:昔から。思う通りの、暖かい言葉が返って来る度に。
サチカ:コントローラブルな環境に安らぎを覚える癖に、勝手に卑屈になって。
サチカ:気を遣わせる事に、気を遣って……。
サチカ:馬鹿みたい。我が事ながら。
シイナ:「気にしなくても、辛いのはあなたなんだから」、って、
シイナ:他人に言われたってしょうがないヤツだもんね、ソレ。
サチカ:……、うん。そう。
サチカ:だから、ね、心配をしてもらうより……、
サチカ:心配をしている、振りを……、
サチカ:自分が出来ている時の、方が。
サチカ:ずっと楽なの。
サチカ:傲慢、よね。
0:笑みに混じるものは、自嘲かのように思え。
シイナ:……、
シイナ:それを……、
シイナ:そのように理解して、ひとに語る事が出来るという所が。
シイナ:あなたの賢さと、誠実さを証明しているのだなァ、と。
シイナ:ずっとお慕い申し上げている身としましては、
シイナ:感じ入るところですけれど、ネ。
サチカ:ふふ、フ……。
サチカ:何割くらい冗談なのかしら。
シイナ:とーんでもない。
シイナ:(道化けた声を作り)あたしゃコレでも、洒落だけは言わんのが信条でしてねェー、マダム?
サチカ:あは、ハ……。
サチカ:それこそ冗談。
シイナ:ふっふふ。
サチカ:…………。
サチカ:ありがとう。
サチカ:甘えているわね、私。
サチカ:ここぞとばかりに。
シイナ:なーんの。
シイナ:ソレがお仕事ですので。ご存分に。
0:ふ、と、笑み混じりに息を吐き。
シイナ:さて……、喉が温まって来たなら、何かお作りしましょうか。
サチカ:そう、ね……、うん。
サチカ:では、何か……、引き続き、温かい物を。
シイナ:ふっふ。きっとそうだろうと思って……、
シイナ:というか、顔を見た時から、お作りしたいと思っていた物があるので、ではソレを。
サチカ:あら……、本当に?
シイナ:バーテンとしちゃ、褒められた姿勢じゃナイんだけども。店員のエゴほどお寒いモノは無い、ってね。
シイナ:でも季節にも、ご要望にもフィットしているし……、
シイナ:後はですねェ、
0:す、と背筋を伸ばし、
シイナ:紅茶のカクテルでありますからして……、
0:洒脱に微笑む。
シイナ:緊張しちゃうなァ、ってぐらい。
サチカ:あら……、ふ、フ。
サチカ:私はお茶の先生でも何でも無いのよ。
サチカ:ただ部室で、簡単な淹れ方をレクチャーしただけ。
シイナ:部外の私にも別け隔て無く、ね。
シイナ:なので師匠同然。
サチカ:あら。
シイナ:では少々、お待ちを。
0:店員は作業に掛かる。
0:心地悪くない、暫しの無言。
サチカ:(店内を見渡しつつ)
サチカ:照明の風合いが……、少し、変わったかしら。
シイナ:(手を動かしつつ)
シイナ:そうね……、ライトの灯体の色をね。
シイナ:この、こういう、黄味がかったっていうか、レトロチックなヤツに変えたから。
シイナ:前にも増して薄暗いんだけど。
サチカ:私は好きだわ。ランプの灯りのようで。
シイナ:ベタだよね、BARとしちゃ。
シイナ:さァてさて、まずはココで……、
0:カウンター内、足元の戸棚より、保存瓶。
シイナ:取り出しましたるは本日の目玉。
シイナ:「干し葡萄」でござい、っと。
サチカ:あら……、もしかして、
シイナ:あは、コレ出て来たらバレバレだよネ。
シイナ:まあ何の奇を衒(てら)うでもなく……、
0:次いで耐熱ガラス製の、妙味あるポットを取り出し、
シイナ:『シェルパ・ティー』をね。
シイナ:供(きょう)させて頂こうと思いまして。
サチカ:ふふフ。
サチカ:エベレストの、ね?
シイナ:そーそー。ヒマラヤの案内人、山岳民族「シェルパ」伝来。
サチカ:登山中の疲れを取る為に、飲まれていたと……、
シイナ:伝わっている、という。
シイナ:本場のはヤマブドウだそうだけど。
0:ポットに葡萄を沈め、バースプーンで潰し始める。
シイナ:勿論、なんちゃってではありますが……、
0:眼差しには仄か、熱が籠もり。
シイナ:冬の山で身も心も疲れ切ったあなたを。
シイナ:少しでも癒す事が叶えば、と。
シイナ:及ばずながら。
サチカ:……、…………、
声無き誰かの声:「私らを置いて行った癖に。」
声無き誰かの声:「独りだけ暖まるつもりなんだぁ」
サチカ:…………、
サチカ:ありが、とう。
0:女性客は密か伏し目がち、店員の手捌きを見詰める。
0:濃い色の果肉がバースプーンの背に圧され裂(は)ぜ、解(ほぐ)れる。
シイナ:よっ、し。
シイナ:葡萄を程よく潰したら、ここらで茶葉のご登場……。
シイナ:あ、そこらの、普通ゥーの葉っぱでご勘弁を。
0:缶を開け、匙で葉を掬う。
サチカ:紅茶の葉に貴賤は無いわ。
サチカ:……ニルギリね。
シイナ:ええ、鉄板のね。ポットにサラサラー……、と。
シイナ:よしでは、お湯を……、
0:湯気を上げる錫調の電気ケトルを取り、構える。
シイナ:空気を含ませるように、高い位置から。
シイナ:さって、お立ち会い。
サチカ:ふふフ。逐一実況が入る訳ね。
シイナ:手順を確認しないと、ね。
シイナ:では……、
シイナ:はっ。よっ、はっ。
0:滑らかにケトルを傾け、のち、高く上げる。
0:過たず、適温適量の湯はポットへと。
サチカ:画になること。お金を取れそう。
シイナ:ひひ、副業しようかなァー。
シイナ:……よォし……、よし。OK。
シイナ:注いだら暫し、蒸らしタァイム。
0:ポットにカチャ、と蓋を被せ。
シイナ:あっはァ、緊張したァー。
サチカ:ふフ、どうして?
シイナ:今はねー、紅茶をまともに淹れる事、あんまり無いし。
シイナ:久々ですよ久々。
サチカ:相変わらず堂々たる手際。
サチカ:よく……、文芸部一同全員分、振る舞ってくれたわね。
シイナ:今思えば恥ずかしいノリだわァ。役者のハッタリ、ハッタリ。
サチカ:気分って大切だもの。
シイナ:あは。
シイナ:っと。芝居はもう辞めたんだった。
シイナ:どうも、学生時代に戻っていけない……。
サチカ:もう……、完全に、演劇には興味を失ってしまったの?
シイナ:……、
0:刹那の沈黙。店員はなんとも言えぬ面持ち。
シイナ:……んん……、
シイナ:ま、という程でも、無いんだけど……、
シイナ:あっ、と。
シイナ:蒸らしてる間にィ、
サチカ:あら。逸(そら)されてしまった。
シイナ:いえ、いえ。
シイナ:カップにお砂糖を、少々、っと。
0:滑らかに手は動き続け。
シイナ:それから……、
0:背後の棚より淡い配色のボトルを取り出す。
シイナ:コレコレ。
シイナ:今日は口当たりを考えてロゼにしよう。
サチカ:ワインを少し、沈めるのよね。
サチカ:その状態の物を飲むのは初めて。
シイナ:と言っても香り付け程度だけど。
シイナ:寒い日は暖まるんだ、コレが……。
0:言い、カップへと薄紅色の酒を垂らし。
シイナ:よし……、と。
シイナ:程なくして……、
サチカ:ええ。頃合いね。
シイナ:良い具合に、葉が開いただろう所で……、
シイナ:よ、っと。
0:ポットを軽く揺らし、静かに持ち上げ、カップへと注ぐ。
0:茶葉と果実、葡萄酒のふくよかな香りが立ち。
サチカ:……良い香り……。
シイナ:ね。はてさて……、味の方の塩梅は、どうかなァ。
0:す、と注ぎ終え。静かにポットを降ろす。
シイナ:後は軽ゥく混ぜまして。
シイナ:最後に少し……、
0:褐色透明の保存瓶より新たに干し葡萄を取出し。
シイナ:追い葡萄、っと。4粒ほど、ね。
サチカ:あら……、贅沢。素敵ね。
サチカ:ふふフ、フ。
シイナ:はァい完成。
シイナ:お待たせ致しましたっ、
0:恭しく供する。カップ&ソーサー。
シイナ:ヒマラヤ式、『シェルパ・ティー』。
シイナ:どうぞ、ご賞味あれ。
サチカ:ああ……。ありがとう。
サチカ:頂きます……。
0:丁寧にカップを浮かし。品良く一口、含む。
サチカ:美味しい……。
サチカ:味と香りが、体に染み透るような……、
シイナ:良かった。
シイナ:ではその……、
シイナ:「アレ」を、賜りたいなァ。
サチカ:ふふフ……。
サチカ:「良い、塩梅」。
シイナ:よォっし!
シイナ:コレで、年を越せそうだ、と。
シイナ:あっはははっ。
サチカ:うふふ、フ。
0:交わされる笑みは上等の磁器の如く滑らかであった。
0:もう一口、味わいつつ含み。女性客はカップを置く。
サチカ:本当に……、美味しい飲み方。
サチカ:山の民が疲れを癒やしたのも肯けるわ。
シイナ:……、……ね。
サチカ:あの子たちにも。
サチカ:飲ませてあげたかった。
シイナ:…………、
0:思案。
シイナ:ただし……、ノンアルコールにはなる、けどね? 当店と致しましては。
サチカ:……、ふ、ふふフ。
声無き誰かの声:「黙れよ。偽善者。」
サチカ:……っ。
サチカ:ごめんなさい。
シイナ:……、先輩?
サチカ:意味の無い嘘をついてしまった。
シイナ:……、嘘。
サチカ:本当はそんな事、思っていないの。
サチカ:生きて、帰ってからも、
サチカ:そんな事、一度も……、
シイナ:サっちゃん先輩。
シイナ:今日はもう、やっぱり、
サチカ:(遮り)いいえ。
サチカ:話させて。聞いて、ほしい。
サチカ:冬が来る前に、せめて。
サチカ:他の方が来られたら、やめる、から……。
シイナ:…………、……、
シイナ:先、輩、
サチカ:最初、ね……、
サチカ:竹が生えているんだと、思ったの。
シイナ:……、たけ……?
サチカ:谷底の……、川に沿って長い距離が、竹林(ちくりん)になっているのを、見ていたから。
サチカ:バスが落ちて……、私は暫く、気を失っていたんだと思う。
サチカ:意識が、戻って……、
サチカ:眼を開けても、真っ暗の世界。
サチカ:本当に、死んだと思ったの、一度。
シイナ:……、
サチカ:でも体の感触があるから……、
サチカ:どうにか手探りで、リュックに吊っていたライトを点けて。
サチカ:でも眼鏡が何処かへ、行ってしまっていて、すぐには状態が、判らなかった。
サチカ:私……、視力が本当に、悪くなってしまっていて、
シイナ:乱読家の宿命として、ね。
シイナ:高校の頃よりも……、
サチカ:輪をかけて、近視が進んでしまったの。
サチカ:殆どぼやけて、輪郭を追えないんだけど。
サチカ:バスが、横倒しになっているのは、体の感覚でわかった。
サチカ:シートベルトを外しても……、ひしゃげた壁と天井が迫っていて、大きく身動きは取れない。
シイナ:本当に……、奇跡的に潰されず残った隙間に、嵌まり込んでいた、って、
サチカ:うん……。報道でもそのように、
シイナ:言ってた、ね。
サチカ:……、潰れて、歪んだ壁の裂け目や、割れた窓から……、雪と土砂が車内の殆どを埋めて。
サチカ:その白い絨毯から……、細くて、長い物が所々に生えている、ように見えて。
サチカ:私は……、
シイナ:……、……、
サチカ:硬い竹の集まった所へ落ちて、バスが貫かれて、しまったのかと思った。
サチカ:竹の先端が壁を突き破って、あちこちに飛び出しているのかって。
サチカ:でも流石に……、そんな訳は無いと、思った辺りで、
シイナ:う、ん……、
サチカ:折れた右足のももの痛みが、戻って来た。
サチカ:それと左の肩を……、強く打っていたみたいで。
サチカ:砕けた、刺すような痛みと、滲み出すみたいな鈍い痛みの中で……、
サチカ:私、しばらく、悶えていた。
シイナ:…………、
シイナ:今は、本当に、
サチカ:完治したし……、後遺症も、無いわ。大丈夫。
サチカ:でもその時は、逃れようのない痛み……、
サチカ:それから、熱いのね、余りに痛いと。
サチカ:のたうち回りながら、でもその中で……、
サチカ:「生徒たちを」、と思って、呼んで、叫んで、みたけれど。
サチカ:声は一つも返らない。
シイナ:……、
サチカ:スマートフォンは圏外。
サチカ:何度試しても、圏外。
サチカ:あと少し、あとほんの少し合宿所に近ければ、違ったんだろうけど。
サチカ:痛みと、今思えば寒さで、朦朧とする中……、
サチカ:漸(ようや)く状況を、飲み込めた時に……、
サチカ:一度、私は、絶望したんだと思う。
シイナ:…………、
サチカ:何台のバスが雪崩に飲まれたのか。
サチカ:私以外に何人、生きて残った人が居るのか。
サチカ:正確な場所も、状態も、救助が始まっているのかどうかすら、確かめる術が無い。
サチカ:GPSが働いていたとして……、
サチカ:雪崩の及んでいる範囲によっては、時間がかかるのか。
サチカ:そもそも、自分たちの事が、伝わっているのか、どうか……。
サチカ:生きている人が居たとして、この潰れた、冬の雪の、生き埋めのバスの中で……、
サチカ:救助が来るまでの間、自分を含めて、本当に、生きていることが、出来るのか。
サチカ:痛みと、恐怖と、抑鬱とパニックの波の中で……、
サチカ:私は独りで、
サチカ:きっと、多分、
声無き誰かの声:「狂ったんだろ。」
サチカ:…………。
サチカ:おかしく、なっていたんだと、思う。
サチカ:ぼやけた眼に映る、伸ばされて、曲がって、節くれ立った、竹のようなモノが……、
サチカ:恐らくきっと、雪に埋まった生徒たちの、
サチカ:腕や、脚や、首、なんだろうと。
サチカ:思い至るのにも、時間がかかった、ぐらい。
シイナ:……っ、……、
シイナ:…………。
シイナ:飲んで。一口。
サチカ:……、うん。
0:女性客は一口、含み。
0:凍えた息。
サチカ:…………、
サチカ:私、嫌になって、ライトを消したの。
シイナ:……、それは……、
声無き誰かの声:「逃げた。」
サチカ:……、
サチカ:硬まった腕や脚や、近くに遠くに埋もれて、横たわる、亡骸のように見えるモノたちを……、認めた、時に。
サチカ:何かが、外れて、しまって。
シイナ:…………、
シイナ:うん、
サチカ:出来る事が余りに無くて。
サチカ:もう、全てを天に任せて、足掻くのをやめようと思った。
サチカ:闇からも、空腹からも、恐怖、からも……、
サチカ:目を閉じて、逃れて、しまいたかった。
サチカ:それで……、
シイナ:闇の中へ。
シイナ:……潜り込んだ、訳だね。
サチカ:うん……、
サチカ:うん。そう。
0:沈黙。
0:店員は注意深く言葉を選んでいる。
シイナ:空腹や……、乾きに、関しては、
サチカ:水筒の、お茶を……、飲んでいて。
サチカ:食べ物、は、
サチカ:…………、……、
0:沈黙。
シイナ:ごめん。もう質問は、
サチカ:ううん。
サチカ:…………、そう、食べ物。
サチカ:…………、
サチカ:あの……、ごめんなさい。
サチカ:どうか、もう少し、話させて、ね。
シイナ:……、うん。
シイナ:勿論。勿論です。
0:女性客の眼差しは虚ろさを増している。
サチカ:私……、強い痛みや、どうしても本当に、やりきれない事が、あると……、
サチカ:痛み止めのお薬を、用量よりも多く飲んでしまう癖が、あるのね。
シイナ:……、それは……、いつから、
サチカ:昔から、よ。
サチカ:出会った頃から。今初めて、人に言ったわ。
シイナ:……、そう、か。
サチカ:だからいつでも、常備していたの。
サチカ:その日も、リュックの中に。
サチカ:だけどお薬をたくさん飲んでも……、骨折や打撲の痛みが、失せる事は無くて。
サチカ:眠ってしまうのもきっと、怖かったんだと、思う。
サチカ:闇の中で眼を開けて。
サチカ:時が止まったような静けさと、靄(もや)のようにボヤけた感覚の中で、
サチカ:ずっと、眼を開けていた。
サチカ:ずっと。
サチカ:…………そうしたら、
シイナ:……うん、
サチカ:声が、
サチカ:……聞こえた、の。
シイナ:声……?
サチカ:私を呼ぶ声。
サチカ:私が引率していた、班の子たちの。
サチカ:さっきは……、横たわっていたり、姿が見えなく、なっていたんだけれど……、
シイナ:…………、
シイナ:それ、は……、
サチカ:皆が言うには、ね。
サチカ:遅れて眼が、覚めたんだって。
サチカ:他はわからないけど、とにかく班の5人は、ここにいる、って。
シイナ:……、……、
サチカ:私……、慌てて、ライトを点けようとしたんだけど、
サチカ:「勿体ない」、って。
サチカ:もしも必要な時に電池が切れたらいけないから、って。
サチカ:一度だけ、確認をする意味で、スマートフォンのライトを点けたの。
サチカ:青くて硬い光の中に……、5人の顔は確かにそこに、並んでいて。
サチカ:一息に、安心したのを覚えてる。
シイナ:…………。
シイナ:その、後は。
サチカ:話をしたわ。
サチカ:とにかく生き延びる為には、体力を持たせなければ。
サチカ:眠ってしまわないように、声を掛け合って、意識を保ち続けなければ。
サチカ:心なしか空気も薄い気がするけれど、頑張ろう、って。
シイナ:暗闇の中で?
サチカ:うん……、
サチカ:……そうよ?
シイナ:…………、
サチカ:普段は斜に構えて、気難しいユモトくんという子が、率先して話を進めて、まとめてくれて。
サチカ:感心、するぐらい。
シイナ:……うん。
0:うつつが揺らぐ、気配。店員は努めて、抑制的。
サチカ:私の班は……、というか、他も揃って、なんだけど。
サチカ:どの子も、方向がバラバラで……。
サチカ:新任にはなかなか、荷が重くて。
サチカ:でもその時ばかりは。
サチカ:まとまりを、感じて。
シイナ:…………。
サチカ:少し擦(す)れているけど、責任感のある、ユモトくん。
サチカ:部活には入っていないんだけど、バスケットボールをやっていて、凄く、熱心で。
サチカ:良い子なの、本当は。
サチカ:腕時計もね、彼が貸してくれたの。
シイナ:…………、
サチカ:班長のコウサカさんは剣道部。
サチカ:いつも、向こうから声をかけて来てくれて……、
サチカ:私の不慣れを、フォローしてくれて。甘えてしまいそうになるくらい。
シイナ:…………、
サチカ:そう、食べ物、ね。
サチカ:持っていたカロリーメイトを分けてくれた、ミネさん。
サチカ:普段は派手なグループで、学業には余り、真面目とは言えないんだけど……、
サチカ:根が善良なタイプというか。
サチカ:可愛らしくて優しい子。とても。
サチカ:ムロトくんは物静かで、読書家で。たまに私と、面白かった本の意見交換をしてたわ。
サチカ:それから、意外と、脚が速くて。
サチカ:それについてユモトくんと、話していたっけ……。
シイナ:…………、
サチカ:そしてマツキさん。
サチカ:賢くて、センスの良い子なんだけど……、
サチカ:それだけに敏感で、1年の頃はあまり、学校に来れていなかったらしくて。
サチカ:でも2年からは少し持ち直して、
サチカ:人見知りという訳では無いから、意外に早く、皆とも打ち解けて、ホッとした。
シイナ:…………。
シイナ:個性豊かなメンツだ。実際。
サチカ:うん……、うん。本当、に。
サチカ:おかげで……、時間が経つのも、早かった。
シイナ:……、
サチカ:皆と……、色々なお話を、する事で。
サチカ:肩と足の痛みも、幾らかは紛れたし。
シイナ:痛み止めも、効いてきたし……?
サチカ:…………、
サチカ:ええ。
サチカ:ええ。そう、ね……。
サチカ:それで……、
シイナ:もう一口。さあ。
サチカ:うん……、
0:女性客は促されるまま、一口、傾ける。
声無き誰かの声:「良いよなぁ。自分ばっかり」
声無き誰かの声:「私達はもう、飲めないのにさァー。」
サチカ:……、
サチカ:…………、
シイナ:安心して、話して。
シイナ:私は、ここで、聞いているから。
サチカ:…………、
サチカ:ありがとう。
0:吐く息は依然、凍えている。
サチカ:どのぐらいの時間だったのか……。
サチカ:あの子たちと私は、ずっと話をしていた。
シイナ:……灯りは、それから一度も、点けなかったの。
サチカ:うん。……ええ、そう。
サチカ:何だか不思議と……、暗闇の中で、もう1つの瞼が開くように、景色が見える気がした。
サチカ:賑やかに話すあの子たちの、顔の表情の、細かな所まで。
シイナ:…………、
声無き誰かの声:「ちょっと、楽しかった、ね」
サチカ:(虚ろに)
サチカ:うん……。
サチカ:本当に、楽しかった……、
シイナ:サっちゃん、
シイナ:……先輩?
サチカ:(引き戻され)
サチカ:あ……、
サチカ:うん。
サチカ:……それで……、
シイナ:平気?
サチカ:……ええ。
サチカ:そう、色々……、ね、訊かれたのよ。
サチカ:女子校ってどんな所なの、なんて。
サチカ:「女の子同士の恋愛なんて本当にあるの」、だとか。
サチカ:何だか興味津々で。
シイナ:何て答えたの。
サチカ:人に依る、って。ふ、ふフ……。
サチカ:恋愛はプライベートな事だから、どうしても知りたければお友達になってから、本人に直接聞きなさい、ってね。
シイナ:あっは、違いないや。
シイナ:…………、
0:慎重に。新雪を踏むが如く。
シイナ:その、語らいは……、
シイナ:いつまで、
サチカ:長く。
サチカ:きっと長く……、続いたんだわ。
サチカ:きっと。きっと、ね。
シイナ:……、
サチカ:途中で眠ったのか、ずっと眠らずに、起きていたのか。
サチカ:瞼を閉じる必要のない暗闇の中では、同じ事なのかもしれない。
シイナ:……、
声無き誰かの声:「先生マジでさァー、アタシらと一緒のテンションでハシャぐんだもん。」
声無き誰かの声:「オトナのクセになァ?」
声無き誰かの声:「普段は“静かにィ”とか言ってんのにねー。」
サチカ:ふ、フ、そうね……、
サチカ:何だか色々と、麻痺してしまって。
サチカ:学生時代は余り、楽しく騒いで夜を明かす方では、なかったし……、
シイナ:……?
声無き誰かの声:「だからってなァ?」
声無き誰かの声:「ちょっと。先生はいつも大変なんだから。アンタらのせいでっ。」
声無き誰かの声:「マジメちゃんウザぁー、剣道着くっさ。」
声無き誰かの声:「なっ……! アンタの香水の方が臭いからっ!」
声無き誰かの声:「アンタが好きって言ったから選んだヤツじゃん。」
声無き誰かの声:「みっ……! 皆の前ではソレはっ、」
声無き誰かの声:「やめなよ言い合い……、こんな状況で。」
声無き誰かの声:「おォおォ、言ったれムロトぉー。」
サチカ:ふふフ、フ……、
サチカ:本当に……、
シイナ:(訝しみ)
シイナ:……先輩、
サチカ:不謹慎、よね。本当。
サチカ:教師、失格…………、
声無き誰かの声:「本当に、ね。先生。」
サチカ:…………うん。
サチカ:うん……。
シイナ:先輩、先輩っ、
声無き誰かの声:「戸賀梨子(とがなしこ)の新刊、予約してたのになぁ。」
サチカ:……、……っ、
シイナ:先輩っ!!
声無き誰かの声:「無かったのかよ、他に。」
サチカ:無かったのよ。
サチカ:出来る事なんて何も。
サチカ:本当に、何も思いつかなかった。
サチカ:教師と言ったって、社会人と言ったって。
サチカ:簡単に、心折れてしまって、
サチカ:お薬を飲んで、瞼を降ろして、思考を止めて……、
シイナ:誰だってそうなるよ!
シイナ:こんな、言葉……、1年の間に散々、言われた、だろうけど。
シイナ:あれは完全な自然災害で、不慮の事故。
シイナ:過失も、ミスも、サっちゃん先輩には無い。
シイナ:どう考えても、さ。
シイナ:それに……、
シイナ:それに、だって、
シイナ:……、……、
0:店員は言い淀む。
サチカ:……うん。
シイナ:…………っ、
シイナ:だ、って、
サチカ:わかってる、わ。
シイナ:……ニュースで……、
シイナ:言っていたのを、聞いただけ、だけど。
サチカ:ええ。
0:店員の眼に、決意。
シイナ:……あなた以外の、全ての乗客は。
シイナ:バスが雪崩に飲まれて、谷底に落ちた、時点で…………、
シイナ:1人残らず即死、
シイナ:していたんだから。
サチカ:…………。
サチカ:うん。
0:静寂。
0:店員の眼は戦慄きを隠せず。
シイナ:……それこそ……、ある日突然天地が崩れ去るよりも低い確率の偶然に、あなたは生き残った。
シイナ:眼が覚めた時点で全ては終わっていた。
シイナ:だから、
サチカ:(遮り)わかってるの。
シイナ:……っ、
サチカ:わからずに、喋っていたんじゃないの。
サチカ:ごめんなさい。
シイナ:謝ら、ないで。
サチカ:ありがとう。
シイナ:……っ、……、
サチカ:何度も、説明を受けたから。
サチカ:だから誰にも、言わなかった。
サチカ:言えなかった。
シイナ:…………、
サチカ:生きて、山を降りた後も。
サチカ:居もしない、生徒たちの声が聞こえる、なんて。
サチカ:彼らと語らって、気が付くとあの、凍える暗闇の中に、心を投げ出している、なんて。
サチカ:優しい人たちから、どんな言葉を貰えるか……、
サチカ:手に取るように、わかるもの。
シイナ:…………、
サチカ:そうして都合よく、いつでも瞼を降ろして。
サチカ:罰を、免れているのね。
サチカ:私は。
シイナ:……、……。
0:深い雪のような静寂。
シイナ:…………。
シイナ:死人と、語らい……。
シイナ:冷たい地獄へと、心縛られる事が。
シイナ:罰で無くて、何だと言うのか。
サチカ:仕方が無いのよ。
サチカ:あのバスは、私だけは天国へ、乗せて行ってくれなかったんだから。
シイナ:天国なんて、あるもんか。
サチカ:いいえ。
サチカ:あの子たちは。
サチカ:あの4台のバスに乗っていた、全ての人たちは……、
サチカ:必ず、天国へ行ったと思うわ。
サチカ:だって私だけが遺されたんだもの。
シイナ:先輩、……、
サチカ:運賃が足りなかったのね。
サチカ:残された事が罪なのではなくて、きっと……、
サチカ:私だけが初めから、罪人(ざいにん)であったから……、
サチカ:この地獄で生きるようにと、罰を受けたんだわ。
シイナ:地獄、……。
シイナ:そりゃ……、きっと、事故の後はさぞ、
サチカ:ううん。
サチカ:ずっと……、もっと前からなの。
サチカ:傲岸(ごうがん)に生まれて、不遜(ふそん)に育ってしまった女に取って……、
サチカ:どこまで行っても、この世は地獄である筈だから。
シイナ:思っても無い事をっ!
サチカ:違う。
サチカ:さっきも言ったし、君は、初めから気付いていたでしょう。
サチカ:私は外身通りの女では無いから。
シイナ:誰だって、だよ、それもっ。
シイナ:中身のまんまで生きている人間なんていない。
シイナ:その、内と外との軋轢(あつれき)を、どうにかして埋め合わせる為に……、
シイナ:酒や薬や、物語や音楽という物を人類は、
サチカ:(遮り)ほら。
シイナ:っ、…………、
サチカ:簡単、なのよ。
サチカ:皆、二言目には、私が求める言葉を言ってくれる。
シイナ:…………、先輩、
サチカ:みんな、みんな本当に。
サチカ:一人残らずそうだった。
サチカ:父も、母も兄も。
サチカ:先輩も友人も、みんな、みんな。
シイナ:…………、
サチカ:それは、そうよね。
サチカ:私は、生きているんだから。
サチカ:幾ら心を病んで、要を成さなくなったって。
サチカ:拘(かかずら)ってしまったからには、共に生きて行かなければならないもの、ね。
シイナ:……、……、
サチカ:私、もうずっと、お休みを頂いているのよ。
サチカ:実家で、ずっと……、静養と銘打って、
サチカ:偶に、この子たちと、内緒でお話をする事の他に……、
サチカ:何もしていないの。
サチカ:だってこの子たちの他に誰も、
サチカ:「悪いのはお前だ」って、
サチカ:言って、くれないんだもの。
シイナ:それ、は……、
シイナ:……、
シイナ:……あなたに罪なんて、本当に無いんだ。
シイナ:それに、休職は妥当だよ。静養は絶対に必要で……、
シイナ:それこそ遺された者の使命として、未来を生きて行く為に、
サチカ:(遮り)大好きな先輩が狂ってしまって悲しい?
シイナ:っ!!
0:絶句。
シイナ:……、……、
サチカ:それとも悔しい、のかな。
サチカ:君はどう思っている?
シイナ:……っ、…………、
0:店員の目の端が震え。
0:凍えたように震え。
サチカ:今日……、ここへ、来ようと思ったのが、どうしてだったのか。
サチカ:君に、何を、言ってほしかったのか、
シイナ:先輩、
サチカ:思い出せないの。
シイナ:……、……っ、
サチカ:ごめんね。シイちゃん。
0:沈黙による静寂。
0:女性客の眼の奥の、真なる闇の冷気。
シイナ:……、……、
サチカ:冬が、また来て……、
サチカ:またあのバスへと、戻ってしまわないように、と。
サチカ:思ったの、だけど。
サチカ:自分が言ってほしい言葉も、考え付かないんだから……。
サチカ:聞き分けの悪い子供と同じね、私。
シイナ:そんなことはっ!
サチカ:(遮り)でも。
サチカ:求めた言葉は求めたように、得る事が出来るのに……、
サチカ:求めなければ、何もしなければ決して、手を差し伸べられる事の無い、この世界を……、
サチカ:地獄だと呪った、幼い日の事ばかり、思い出すの。
サチカ:自分の浅ましさに吐き気がする。
シイナ:…………、
サチカ:そういう子供だったのよ、私。
サチカ:周りの大人(ひと)を喜ばせる事に、躍起になっている内に……、
サチカ:人を操る事ばかり、上手になって。
サチカ:しまいに、隣人を信じる事をやめたの。
シイナ:……、
シイナ:ここは懺悔室じゃないんだ、
シイナ:もう、そんな……、
サチカ:こんなものは懺悔でも告解でもないわ。
サチカ:先生(シスター)にお叱りを受けるわよ。
シイナ:…………。
サチカ:けれどそれが……私の罪の全てで。
サチカ:贖(あがな)い続ける罰、そのもの。
サチカ:だから……、
サチカ:ね、
0:眼に、虚ろで、しかし晴れやかな、青い光。
サチカ:あの日の、光景……。
サチカ:救助される時、薄ぼんやりとしか、見えなかったけれど……。
サチカ:あの竹林(たけばやし)の、美しい雪の丘。
サチカ:冷たく、澄んでいて……、
サチカ:誰一人私を、慰めも庇いもしない、あの崖の下の冬の底、だけが…………、
サチカ:きっと私の、
サチカ:天国なんだと思うの。
シイナ:……っ、
シイナ:そん、な、……、
サチカ:今はね。
シイナ:……っ、
シイナ:…………、
0:生き埋めの沈黙。
0:後、すとん、と、店員は木椅子へと崩れ。カタリと乾いた木の音。
シイナ:…………。
0:沈黙が続く。
0:晩秋の外気は日増しに冷やされ、暖房機は鈍く低く唸っている。
0:長い静寂の後、呻くように悲痛な、声。
シイナ:…………私は、遅い。
サチカ:…………。
シイナ:顔を、見た時。
シイナ:私が知っている、あなたの顔と、変わらないように見えたから……、
サチカ:私は私、だもの。
シイナ:烏滸(おこ)がましくも支えになれるかも、なんて。
シイナ:夢想した。
サチカ:…………。
シイナ:けれどあなたの魂は最早、既に……、
サチカ:あの雪山に。
サチカ:囚われてしまっているように、見えるのね。
シイナ:…………。
シイナ:戯(おど)けて、得意な顔をして。
シイナ:自分からは訪ねても、行かなかった、癖に、
サチカ:シイちゃん、
シイナ:何が、『シェルパ・ティー』……。
シイナ:恥だ。
シイナ:死にたい、気分だ。
サチカ:とっても、美味しかったわよ。
サチカ:だから死んでは駄目。
シイナ:…………。
0:幾度目かの沈黙。店員は項垂れ。
サチカ:悲しそう、ね。シイちゃん。
シイナ:…………。
サチカ:私は、悲しくは、ないのよ。
サチカ:本当は。
0:店員は項垂れたまま。
シイナ:…………言葉が見付からない。
シイナ:上っ面の、戯曲に書かれたような台詞なら、幾らでも出て来るのに。
サチカ:…………。
シイナ:(絞るような呟き)
シイナ:上手くやれない自分は、嫌いだ……。
サチカ:……。
サチカ:ふふ、フ……。
サチカ:君は昔から本当に、
サチカ:そういう子……。
0:女性客は淡雪の如く笑み。
0:再び、静寂が世界を埋め。
声無き誰かの声:「先生ェー。もう帰る? 話の続き、しなきゃ」
声無き誰かの声:「マジで冷えて来た。起きてられるように、話し続けなきゃ。いつまでも。」
声無き誰かの声:「いつまでも、ずっとさ。」
声無き誰かの声:「ずっと、ずっと。」
声無き誰かの声:「だってこれは、」
声無き誰かの声:「先生の、せいなんだから。」
サチカ:…………、
サチカ:…………。
サチカ:少し、待ってて、ね。あなた達。
0:女性客はス、と立ち上がる。
シイナ:……、
シイナ:先、輩、
サチカ:傷付いたなら、慰めてあげる。
サチカ:そうしてほしそう、だもの。
シイナ:……、そん、な……っ。
シイナ:傷を……、傷を負ったのはあなたで、
サチカ:(遮り)リッカ。
シイナ:っ!!
サチカ:こっちへ、来て。
シイナ:……、
サチカ:髪を……、
サチカ:撫でてあげるから。
シイナ:…………っ、
0:冬が、来る。
0:暗転。
:
0:シイナにスポット。
シイナ:【本日のカクテルレシピ】
シイナ:ヒマラヤ式『シェルパ・ティー』、シイナアレンジ。
シイナ:■ロゼワイン 適量
シイナ:■ブラウンシュガー 2tsp(ティースプーン)
シイナ:以上をティーカップにて合わせ、干し葡萄を潰し、丁寧に煮出した紅茶を注ぐ。
シイナ:軽くステアした後、更に干し葡萄を何粒か沈め、冷めない内に手早く、
シイナ:……特に、凍える季節には、手早く、
シイナ:カップ&ソーサーにて、サーブ。
0:【終】
:
0:【空白】/【空白】/【空白】
:
0:【ボーナス・トラック1】
0:暫くの後。
0:照明の落とされた店内。鍵を開け、注意深げに足を踏み入れたのは、金髪の女性店員。
0:長身の女性店員がカウンター内の木椅子に崩折れ、俯いている。
カスミ:……シイナさん……?
シイナ:(項垂れたまま)
シイナ:…………、…………。
0:静寂。
カスミ:シイナさん、
シイナ:……カスミか。
シイナ:……やあ。
カスミ:……、
カスミ:大、丈夫……?
シイナ:うん。
カスミ:金曜なのに、この時間で電気、消えてたから……、
カスミ:あ、偶々 前、通って、
シイナ:いま、何時……?
カスミ:……、10時、過ぎたぐらい……。
シイナ:……そう、か。
シイナ:まだ、そんなもんか。
カスミ:具合、悪い?
カスミ:急に体調とか、
シイナ:いや。
シイナ:そうでも、ないよ。
カスミ:…………、あの、
シイナ:(意図せず遮り)来てくれてありがとう。
カスミ:っ、……、
シイナ:誰も来なかったら……、
シイナ:明日まででもこのままで、出勤してきたタニマチを驚かせる所だった。
カスミ:……、……、
0:凍てつく沈黙の気は尚も濃く名残り、重く垂れ込め。
カスミ:……、何か、あったの……?
シイナ:……、……。
シイナ:カスミは、さ……。
カスミ:うん、……、
0:項垂れたまま、語気はか細く、湿っている。
シイナ:自分の、大切に思っている、
シイナ:……、思っていた、人が……、
シイナ:心に深い傷を負っている事をある時、知ってしまって、……、
シイナ:……いや……、
シイナ:(小声になり、自問の独語)
シイナ:知らなかった筈は無いんだ。
シイナ:私はニュースを見ていたんだから。
シイナ:考えて、思い当たっていた癖に私は、
シイナ:……、
カスミ:シイナさん、
シイナ:……、
シイナ:すまない……。
カスミ:ううん。
カスミ:ねえ、ヤヨイさんに来てもらうから車で、
シイナ:良いんだ。
シイナ:……人の傷や、痣を、巧く見て見ぬ振りが、出来なくて……、
シイナ:躱せも、流せもせず、真正面から、見て、しまって。
カスミ:……、
シイナ:なのになんにも、それなのになんにも、かける言葉が引き出しから、出て来ずに……。
シイナ:途方に暮れるしか、無かった時……、
シイナ:どういう、気持ちになる?
カスミ:……、…………、
カスミ:ボク、なら……?
シイナ:ああ。
0:静謐。黙考。
カスミ:……シイナさん、酔ってる……?
シイナ:……ほんの少し、ね。
シイナ:ブランデーに、アマレットを少々。
カスミ:……、
シイナ:ごめん。
シイナ:ごめん、本当に……。
シイナ:大丈夫だから。もう、帰って貰って構わないよ。
カスミ:……、ううん。
カスミ:……ボクは、ボクなら……。
シイナ:……、
カスミ:……ボクは、
カスミ:……本当は……、
カスミ:そういう時に、何かを言っても良い人間じゃないと、思うから。
カスミ:黙ってる方が、きっと正解なんだと、思う……。
シイナ:…………。
0:深と冷えた空気。薄っすらと残る、紅茶の香。
シイナ:……そう。
シイナ:……私も、きっと……、きっと本当は、
シイナ:そう、なんだろうな……。
カスミ:……、……。
0:沈黙。背の低いグラスが鈍く光を散らし。
カスミ:……初めて、見た。
カスミ:シイナさんが、悪酔いしてるところ。
シイナ:…………。
0:ついぞ項垂れたまま、力無く呻く。
シイナ:……カクテルなんて。
シイナ:碌なもんじゃない、よね。
カスミ:……、
0:からり、と氷が遺憾の意を示し。
カスミ:お水、入れるね。
0:暗転。
0:【終】
:
0:【空白】/【空白】/【空白】
:
0:【ボーナス・トラック2】
0:或いは、『アクト・アクター・アクトレス』♯3.5
0:後日。都内某所、とあるレンタルスタジオビル1階、喫茶スペース。
トシコ:ふううーー……、む、む、む……。
トシコ:それで全部?
シイナ:……うん。
0:窓際の、いつもの席。
0:舞台の稽古を終えた2名の女性演技者の前には、湯気も薄れたカップ&ソーサー。
0:そばかすの女性は腕を組み、頬を掻きつつ。
トシコ:だいぶん不味いじゃないのさ、聞く限り。
トシコ:サチカ先輩も、……アンタも。
シイナ:一人で抱え切れずに……、
シイナ:結局ヒトに話してる私を、まずはひっぱたいてくれ。
トシコ:ココで??
トシコ:冗談はヨシ子ちゃん。昼ドラじゃあるまいし。
トシコ:……でも、なるほど。それで前回・今回と、指導にも妙に熱が入ってたのか。
シイナ:え……?
トシコ:アンタって昔から、情緒が波打ってる時ほど、芝居に気合いが入るじゃないさ。
トシコ:気付いてないとでも思った?
シイナ:…………。
シイナ:敵わないな、やっぱりトシコには。
トシコ:あったりまえ。伊達にアンタたち問題児揃いの87期を引っ連れて、全国まで行ってないってーの。
シイナ:あっは、鬼の部長サマの鬼伝説。
シイナ:……もう戻らない、輝かしき青春の日々……、か。
トシコ:だけど忘れんじゃないわよ。
トシコ:アンタはその相棒として、不動のキャスト班トップとして、全国の舞台に立ち切ったんだから。
シイナ:……、……。
シイナ:年功序列だよ。学年の順番が回ってきただけの、
トシコ:(遮り)部内オーディションに落ちて、泣いて裏方に回って最後の本番をやり切った皆の前でも。
トシコ:同じ事が言えんの?
シイナ:…………、
シイナ:ごめん。
シイナ:浅はかだった。
トシコ:今日は許す。
0:暫しの、緩やかな沈黙。午後の店内に客は少ない。
シイナ:……謝ってばっかりだな、近頃。
トシコ:成長したってコトでないの、少しは。
シイナ:だと良いけどね、まったく。
シイナ:……は。秘密を喋ってすっきりしてしまった。
シイナ:コレで地獄落ちだな、私も。
トシコ:気が早い。
トシコ:無力だろうが、非力だろうが。
トシコ:人生は続くのよ。天命の果てるその時まで。
シイナ:……ご尤も。
シイナ:なればこそ、この世に憂い煩いの種は尽きまじ……、と。
シイナ:いやはや。
0:ず、と二人、微温くなった紅茶を啜り。
トシコ:……にしても。あらためて。
トシコ:呪われてるとしか思えないわね、あの町は。
シイナ:あの町?
トシコ:「読辺川(よみべがわ)北中学」、でしょ、バス事故に遭った学校。
トシコ:聞き覚えない?
シイナ:(黙考)
シイナ:……、……、
シイナ:あっ、
トシコ:何年か前に。
トシコ:小学校で子供が、事故や事件で何人も亡くなったのも……、
シイナ:読辺川(よみべがわ)町、か……、そういえば、
トシコ:普通さ、一つの町で、
トシコ:10年も経たない間に、子供がそれだけの数亡くなるなんて……、さ。
シイナ:……天文学的な確率、かもね。
シイナ:いや、案外そうでもないのか?
トシコ:下手したら、小学校でも中学でも、同級生を喪くした子がいるんじゃないの。
シイナ:……壮絶、だな、人生の序盤から。
シイナ:……、…………、
トシコ:結局、苦しむのはこの世に残った側だからね。
トシコ:死者には死者の苦しみがあるけど、生きてる間は想像しか出来ない。
シイナ:……生きて残った苦しみ、か。
シイナ:まさしく、先輩の……、
トシコ:アンタはさ、
シイナ:うん?
トシコ:お見舞いなり何なりに行こうとは思わなかったの。
トシコ:事故を知った時。
シイナ:……っ、
シイナ:それは、
トシコ:責めてるんではないからね。念の為。
シイナ:それは、わかる、けど、
シイナ:……、…………、
0:内省に浸る面差し。カップから上がる湯気は既に失せている。
シイナ:……どうして、だろう。
シイナ:思い付かなかった訳ではない、けど、
トシコ:連絡先は?
シイナ:交換は、してなかった。
シイナ:でも……、伝(つて)を辿れば、どうとでもなった筈なのに。
トシコ:それこそ、あたしがマヒロと繋がってるし、ね?
シイナ:……、…………。
シイナ:こう、思い悩む振りをしつつも。
シイナ:それに関してはもう、結論が出てるんだよな。
トシコ:自分じゃ手に負えないと思った?
シイナ:……っ、
0:沈黙。
シイナ:…………。
トシコ:黙るのはおよし。
シイナ:…………何というか。
シイナ:タマンナイね。この容赦の無い感じ。
トシコ:容赦や忖度じゃ前に進まないじゃないさ。
トシコ:舞台も、人生も。
シイナ:仰る通り。
シイナ:…………そうだね。とどのつまりが、そんなトコ。
シイナ:想像が、出来なかった。
トシコ:サチカ先輩の気持ちが?
シイナ:あらかじめ用意しておく台詞が、思い付かなった。
シイナ:その状態で面と向かっても、どうすることも出来ないだろうな、なんて。
トシコ:アドリブ弱いもんね、昔から。
シイナ:…………、あと、
トシコ:あと。
シイナ:怖かった。シンプルに。
トシコ:ふむ。
シイナ:自分には想像もつかないような事態を経験した、サッちゃん先輩が……、
シイナ:前と同じサッちゃん先輩じゃなくなってたらどうしよう、って。
シイナ:……ビビったんだね。
トシコ:どうだったのさ、実際。
シイナ:……先輩は、先輩だったよ。
シイナ:ただ、でも、そうだったからと言って、
シイナ:……、……、
トシコ:……その様子だと。
トシコ:挑む気にもなれなかったみたいね。
トシコ:「妖怪」に。
シイナ:ようかい??
トシコ:前に言ってたじゃないさ。
トシコ:お店に入りたての頃、仕事を教わった人から、そんな話を聞いた、って。
シイナ:……あー。それか。
トシコ:夜の、お酒を出す場所の仕事は。
トシコ:時として「妖怪退治」みたいになる時がある、って。
トシコ:あたし、結構印象に残ってんのよね、あの話。
シイナ:フとした拍子に人間が「化ける」妖怪を、宥(なだ)めて、すかして、お酒を供えて……、
シイナ:暴れ出したり、消え失せたりしないように調伏(ちょうぶく)するようなシゴトだ、ってね。
シイナ:……あのヒトらしい、ロマンチックなんだかナンなんだかワカンナイ言い回し。
シイナ:……そうだな。それで言うなら……、
トシコ:やっぱり手に負えなかった?
シイナ:修行が足りなかったね。仕置人としての。
シイナ:……結構、色んな妖怪と渡り合って来たんだけどな。
トシコ:まあ、ねえ? 私が聞いたってどうしたら良いかわからないような話だし。無理も無いんでないの。
トシコ:……そいで、
0:不意に、品よく、どこか艶めく仕草で足を組み替え。
トシコ:どうすんのさ。次の一手は。
シイナ:……っ、
0:切れ長の眼が長身の女性を真っ直ぐ見据える。逃れ難い、蔓植物の如き眼差し。
シイナ:どう、ってね……。
シイナ:つまり、まさしくソレが問題な訳で、
トシコ:現状の自己分析はよくわかったわさ。
トシコ:冷静に、自分を解釈出来てるとも思うわよ。
トシコ:で。
トシコ:そいで、アンタはどうしたいと思ってんのさ、ってところ。
シイナ:今日そこまで話を進めなきゃ駄目……?
シイナ:もう少し段階を踏んで、
トシコ:あたしに相談したのが運の尽き。
トシコ:ぬるま湯で受け止めてほしいなら、ヨソを当たる事ね。
シイナ:ええーー……、
シイナ:うゥーーーん……、
トシコ:濡れた犬みたいに唸るんじゃあないの。
トシコ:……そうね。
トシコ:今、一通り、アンタの話を聞いて。
シイナ:うん……、
トシコ:今の、アンタの現状や。
トシコ:サチカ先輩が歩んだであろう経緯や。
トシコ:そして話を聞いたあたし自身の、環境や、状況や。
トシコ:全部の「流れ」を鑑みて、思い付いた事が一つある。
シイナ:思い付いた、こと……?
シイナ:ていうか、トシコの状況も?
トシコ:それは上手く運べば、全てにケリを着ける妙案になるかもしれない。
トシコ:そして関わる全員の運命に沿わなければ、何ら実を結ばずに、事態を悪戯にややこしくして終わるかもしれない。
トシコ:いずれにせよ、
0:そばかすの女性の決断的な口調に、長身の女性は圧倒され気味。
トシコ:近い内に、「ある人」を連れて店に行くから。
トシコ:覚悟を決めておくように。
シイナ:……、……、
シイナ:な……、何……?
0:運命は時として唐突にドアをノックする。
0:窓の外、空にはいつしか雲が立ち込め、流離と流転の気配が世界を覆い。
0:暗転。
0:【終】
:
:
:
:
:
:
0:【薄れ、ぼやけた記憶】
0:2020年12月21日、午前10時6分。
0:とあるスキー場に隣接するホテル。
0:自販機スペース横の、木製ベンチ。
0:眼を閉じ腰掛ける女性教諭のもとへ、男性教諭が歩み寄る。
男性教諭:叶納寺(かのうじ)先生。
女性教諭:(微睡みより醒め)
女性教諭:ん……、
女性教諭:あ……、……はい、
男性教諭:ああ、すみません。
男性教諭:起こしてしまいましたか、
女性教諭:鮎川(あゆかわ)先生……、
女性教諭:いえ、すみませんあの……、
女性教諭:一息つこうと座り込んだら、私……、
女性教諭:今、何時でしょうか、
男性教諭:十時ちょっと過ぎ。
男性教諭:まだ、大丈夫ですよ。
女性教諭:バスの出発が十二時十五分だから……、
女性教諭:最終点呼は正午、その前に4組の部屋をもう一度、周っておかなくちゃ……、
男性教諭:十時半ごろからボツボツで、大丈夫でしょう。
男性教諭:僕も去年や一昨年は、朝礼の後に一眠りしましたよ。
女性教諭:スキー合宿の、教員の起床が五時半とは思いませんでした……。
男性教諭:早すぎるんですよ、毎年。
男性教諭:みんな言ってるんですけどね。
女性教諭:いえ……、でも準備は、早い方が。
女性教諭:あの……、すみません、何か今、
男性教諭:いや、いや。
男性教諭:自販機に珈琲を買いに来たら、お見かけしたから声をかけただけで……、
男性教諭:あ、珈琲、先生も飲まれますか、
女性教諭:いえっ、そんな、
男性教諭:ご遠慮なされず、今どき珍しく100円ですし、
女性教諭:いえ、あの……、
女性教諭:私、珈琲が、ちょっと、
男性教諭:苦手ですか。
女性教諭:相性が良くなくて……、
女性教諭:胃が気持ち悪くなってしまって、
男性教諭:成る程。
男性教諭:他も色々、ありますよ、
女性教諭:本当に、お気持ちだけで……。
女性教諭:魔法瓶に飲み物、ありますので、
男性教諭:そうですか、
男性教諭:じゃ、自分だけ……、
男性教諭:御免しますね。
女性教諭:いえそんな……。
女性教諭:こちらこそごめんなさい、
男性教諭:謝るような事じゃ……、
男性教諭:あ、お互い様ですか。
0:男性教諭は自販機にて珈琲を購入。
0:ゴトン、とホットの落下音。
男性教諭:「御免する」ってね、謝ってる訳じゃなくて、ただの口癖なんですが、
女性教諭:仰られてますね、よく……、
男性教諭:地元の方ではね、みんなよく言うんですけど。
男性教諭:方言だって後から知って。
女性教諭:鮎川先生ご出身は、
男性教諭:全然、塚淵(つかぶち)県内ですけどね。
男性教諭:「飛桶(とびおけ)」ってね、叶納寺先生は東京ご出身だから、知らないとは思いますが……、
男性教諭:問答山(もんどうやま)丘陵の近くですね、まだ有名な範囲で言うと。
女性教諭:風光明媚というか、景色の良い所ですね。
男性教諭:本当にド田舎ですけどね、ただの。田んぼと工場ぐらいしか無い……。
男性教諭:山の方に行くと棚田とか古墳とか、ありますが。
女性教諭:素敵だと思います。
女性教諭:私も高校まで、山の中の全寮制の学校だったので、自然の多い所は落ち着くというか……、
男性教諭:「釈葉(しゃくよう)」のご出身なんですよね、確か。
女性教諭:はい……。
女性教諭:クラウス・リモン墓地の近くの、
男性教諭:あんな辺りなんて、全然都会だと思っちゃいますけどね……、
男性教諭:なんというか本当に、どん詰まりの田舎なんですよね、飛桶の辺りは。
女性教諭:そんなことは……。
0:男性教諭は一口、手の内の珈琲を啜る。
0:忙しなさの狭間、午前の微睡んだひととき。
女性教諭:今はそこから、学校の近くに出て来られて……、
男性教諭:いえ、通いです。
女性教諭:え?
男性教諭:車で。
女性教諭:え……、どちらから、
男性教諭:その、飛桶から。
女性教諭:……、
女性教諭:毎日、ですか……?
男性教諭:勿論。言って2時間かかりませんから。
男性教諭:帰りはかなり空いてますし。
女性教諭:あ、それで、いつも……、
男性教諭:するっと帰るでしょう、いつも。最近ようやくね、少しは効率よく仕事を終えられるようになりましたけど……。
女性教諭:そう、なんですか……、
女性教諭:自分が、赴任を機に移り住んできたくちなので、皆さんそうなのかと……、
男性教諭:結構、遠くから通いの方も多いですけどね。
男性教諭:まああんまり学校に近いのも、生徒や保護者に顔を刺すので良くないとされてますし……。
女性教諭:失礼でなければですが……、
女性教諭:どうして、
男性教諭:あ、地元からわざわざ通いなのか?
男性教諭:あるあるですけどね、最初は母親が移住をしたがらなかったのと……、
女性教諭:ああ……、
男性教諭:今はもう、母は死んで居ないんですが。
男性教諭:あと、僕は地元で結婚をしたんですが、妻は出戻りというか、都会から地元に帰って来たので……、
男性教諭:僕は通える距離だし、引っ越しがあんまり多いのもと、思ったので。
男性教諭:ま、色々と、兼ね合いですね。
女性教諭:……なるほど。
女性教諭:皆さん、色々と……、
男性教諭:ありますよねえ、そりゃ。
男性教諭:沢山居ますし。生徒よりは少ないとはいえ。
女性教諭:はい……。
0:ふと、窓の外、雪を頂く雄峰へと眼をやり。
女性教諭:……子どもたちは、本当に、本当に沢山、居ますよね……。
男性教諭:少子化って言ってもね。
男性教諭:教師も減ってますしね。
女性教諭:私……、正直1年目がこんなに大変だとは、
男性教諭:来年度はもっと大変だと思いますよ。
男性教諭:管理職の方針でね、初めから色々、慣れてもらうという……。
男性教諭:多分担任持たされるんじゃないかな。
女性教諭:思いやられます、自分に……。
女性教諭:来年の今頃、どうなってる事か……。
男性教諭:楽しい事は、ありますか。
女性教諭:え……?
男性教諭:仕事なので、大変なのは多分、ずっと変わらないとは思いますが……。
男性教諭:仕事も含めて、日常の暮らしの中で、
男性教諭:楽しいと思える時間って、ありますか。
女性教諭:……、…………、
0:女性教諭は沈思黙考。
0:男性教諭はもう一口、珈琲を啜り。
男性教諭:僕は無かったです。3年目ぐらいまで。
男性教諭:公立って本当に碌なもんじゃないと、毎日思ってました。
女性教諭:…………、
女性教諭:私は……、
0:内省を湛えた声が、暖房で温もった空気へと混ざる。
女性教諭:毎日、本当にてんてこ舞いで、ご迷惑をかけっぱなしですが……、
男性教諭:案外そうでもないですけどね、はたから見ていると。
女性教諭:生徒の皆と、お話をするのは楽しいです。
男性教諭:いつも?
女性教諭:……、
女性教諭:偶に。
男性教諭:はは……、正直で良い。
女性教諭:家庭環境も……、生育環境もみんな、それぞれ違って。
女性教諭:価値観の違いに触れると、新鮮な驚きがあって。
女性教諭:自分の見識の浅さ狭さを、思い知れるようで。
男性教諭:僕たち教師はね。
男性教諭:生徒や、そのご家庭を通して、社会に触れるしかありませんもんね。
女性教諭:社会?
男性教諭:教育大を出て、まあ何年か一般職を経たりする人がいたとしても、大抵はそのまま、ずっと「先生」って呼ばれる仕事でね……。
男性教諭:直接には社会を、やっぱり知らずに、定年まで行くんですよね。
女性教諭:……、どう、なんでしょうか、
男性教諭:僕は父方が代々、田舎の教員なんですけど、やっぱりそういう所があるなと、昔から思っていて……。
男性教諭:そうはなるまいと、思いつつも結局、自分も教師をやってるんですけど。
女性教諭:……、特殊な、環境ではありますもんね、学校って。
男性教諭:義務教育は特にね。
男性教諭:まあ……、それ自体は変えようのない事ではあるので。
女性教諭:自覚が大切だと、いうことですね。
男性教諭:気を付ける他、無いですね。
男性教諭:……とはいえ、
女性教諭:はい、
男性教諭:まあ、あまり、堅く構えず。
男性教諭:楽しい事がちょっとでもあるなら、少なくとも1年目の僕よりかは有望ですから。
女性教諭:……、…………。
女性教諭:頑張ります。
女性教諭:頑張って、力を抜きます。
男性教諭:それが良いですね。
男性教諭:最初は、余裕がある「フリ」からで。
女性教諭:……「振り」……、
男性教諭:そろそろ、行きますか。
女性教諭:はい、あの……、
男性教諭:(立ち上がりつつ)
男性教諭:よいしょ、
男性教諭:ああー……、寒そうだな外……。
女性教諭:お話、出来て良かったです。
男性教諭:いえ……。
男性教諭:まあ、普段学校ではなかなかね。
男性教諭:僕は早く帰りたいから、飲み会なんかにも出ませんし。
女性教諭:自分は、まだ初めたてで、若くて、未熟ですが……、
女性教諭:その分「未来」に、まだ余地がある、と。
女性教諭:……騙し騙し、行きます。
男性教諭:未来ね……、
男性教諭:まあ、残された未来の量で言ったら、それこそ生徒たちには敵いませんけどね……、
女性教諭:ふふ、フ。それはそうなんですが。
女性教諭:私が言っているのは……、
0:語り合う声が遠ざかり。
0:無人の自販機スペース。窓に映る白銀の風景は、永劫に不変であるかのように思われた。
0:例になく、時候にしては強かな日差しが、山の大気と積雪を温める。
0:温める。
0:温める。
:
0:ホワイト・アウト。
0:【終】