台本概要

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タイトル 『シェルパ・ティーには遅過ぎる』/BAR「猫町」“お一人様篇”シーズン1 #8
作者名 sazanka  (@sazankasarasara)
ジャンル その他
演者人数 2人用台本(女2)
時間 70 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 とある街、とあるBAR。
とある、罪と罰について。
-黎和3年11月某日−

“お一人様篇”は、とあるBARの、1名様来客時の比較的静かな時間を切り取った単発エピソード群です。話数の順も時系列通りではなく、進んだり戻ったり。
(“出奔者篇”と併せて、BAR「猫町」1stシーズンを構成しています。)

自由に、楽しんで演じて頂けますと幸いです。

※【ボーナス・トラック】他については、兼役が難しい場合は必ずしも演じて頂かなくて構いません。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
シイナ 297 店員。言葉を弄してしまう女。
サチカ 229 女性客。罪に埋(うず)もる女。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

文字サイズ
0:【注意】 0:「声無き誰かの声」は、今や永久に、この世に響く音を喪った人々の声です。 0:故に、声に出してはいけません。 : : : 0:【以下、本編】 シイナ:或る、心象のうた。 サチカ:ますぐなるもの地面に生え、 サチカ:するどき青きもの地面に生え、 サチカ:凍れる冬をつらぬきて、 サチカ:そのみどり葉(ば)光る朝の空路(あきじ)に、 サチカ:なみだたれ、 サチカ:なみだをたれ、 サチカ:いまはや懺悔(ざんげ)おわれる肩の上より、 サチカ:けぶれる竹の根はひろごり、 サチカ:するどき青きもの地面に生え。 声無き誰かの声:「わたしはあなたをゆるします。」 サチカ:光る地面に竹が生え、 サチカ:青竹が生え、 サチカ:地下には竹の根が生え、 サチカ:根がしだいにほそらみ、 サチカ:根の先より繊毛(せんもう)が生え、 サチカ:かすかにけぶる繊毛が生え、 サチカ:かすかにふるえ。 サチカ:かたき地面に竹が生え、 サチカ:地上にするどく竹が生え、 サチカ:まっしぐらに竹が生え、 サチカ:凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、 サチカ:青空のもとに竹が生え、 サチカ:竹、竹、竹が生え。 声無き誰かの声:「祈(いの)らば祈(いの)らば空に生え、 声無き誰かの声:罪びとの肩に竹が生え。」 サチカ:みよすべての罪はしるされたり、 サチカ:されどすべては我にあらざりき、 サチカ:まことにわれに現われしは、 サチカ:かげなき青き炎の幻影のみ、 サチカ:雪の上に消えさる哀傷(あいしょう)の幽霊のみ、 サチカ:ああ かかる日のせつなる懺悔をも何かせん、 サチカ:すべては青きほのおの幻影のみ。 0:タイトルコール。 シイナ:『シェルパ・ティーには遅過ぎる』 0:某月某日、某時刻。とあるバーの店内。 0:開店よりやや経ち、店内には女性店員が1人。伸びをし、カウンター内の木椅子に腰掛けようとした所、ドアベルの冷えた音。 0:外気が吹き込み、女性客が入店。 シイナ:いらっしゃァーい、どうぞォ、 サチカ:……、こんばんは……。 シイナ:(視認するや否や、立ち上がり) シイナ:っ!! シイナ:……あ、あっ……、 シイナ:サっちゃん先輩っ!! 0:店員の眼には驚愕の色。 サチカ:良かった……、 サチカ:シイちゃんの日、変わってなくて。 シイナ:うっわ……、お久しぶり! サチカ:ちょうど1年ほど、かな。 サチカ:本当に長く、来られなくて……。 サチカ:他の、皆さんはお元気? シイナ:いやァーーっ、いやっ、 シイナ:……、だって、 シイナ:……だって大変、だったでしょ。 シイナ:あんな……、 サチカ:うん、うん……、 サチカ:そうなの、本当に。 シイナ:他の二人も……、まァ、普通に元気で。 シイナ:マジで心配、してた。そりゃ。 サチカ:うん……。 サチカ:本当に、ご心配おかけしてしまってどうも、 シイナ:(遮り)謝っちゃ駄目だよ、今回ばっかりは。 シイナ:口癖なのは知ってるけどさ。 サチカ:…………、 サチカ:そう、ね、 シイナ:良かった。本当に。 0:店員の目は、珍しく真摯な光を湛えている。 シイナ:ハグ、していいかな。嫌で無ければ。 サチカ:……嫌な訳、無いわ。 サチカ:そう、よね……、まずは無事の、ご報告だもんね。 シイナ:(カウンターを出つつ) シイナ:そうだよ。 シイナ:……、体は……、 シイナ:怪我の、具合は、 サチカ:もう、大丈夫。 サチカ:ふ、フ。抱いても折れたりしないから。 0:二人、向き合い、 シイナ:色々……、そりゃ色々、あっただろうし、言われた、だろうけど。 0:抱き合う。女性客の身に、店員の手の温もり。 シイナ:ありがとう。生きててくれて。 サチカ:…………、 サチカ:うん、うん。 シイナ:柄にもなく、さ……、 シイナ:神サマに感謝したんだから。 サチカ:……、君が? サチカ:天地が……、ひっくり返るわね。 シイナ:大切な先輩を、この世から奪わないでくれて、って。 シイナ:……本当に、良かった……。 0:抱きしめる手に力が籠もる。 サチカ:……ふフ。痛いよ、シイちゃん。 シイナ:あ……、すみません。 0:店員は抱く腕の力を緩め。 サチカ:いつもは掴み所がないのに。 サチカ:こういう時だけ、躊躇わずまっすぐ来るんだから。 サチカ:そのギャップで可愛い後輩を何人も、泣かせて来たんだもんね? シイナ:あは、今その話ィ? 0:語調をあらため、 シイナ:……先輩が……、 シイナ:恩義ある、先輩が。 シイナ:教科書に乗るような、未曾有(みぞう)の大事故からたった1人、生還したのを前にして……、さ。 シイナ:こうでも来なきゃソイツは、ただの冷血漢だよ。 サチカ:……、 サチカ:たった、1人……、 0:女性客の、品良くデザインされた眼鏡の奥に、吹雪の如き気色。 シイナ:センセーショナルに捉えてる訳じゃないから、決して。 シイナ:大袈裟なのは、劇部時代の癖で、 サチカ:うん……、うん。 サチカ:わかってる。兎に角、座るわね。 シイナ:ああ、失礼……。どうぞ。 0:店員は恭しく席を指し、促す。 0:ドアの向こう、高架下を吹き抜ける風の音は乾いている。 0:女性客は席に着きつつ、大ぶりなマフラーを解き。 シイナ:さ、その、素敵なマフラーは、 サチカ:これ、ね……。大きくて長くて、お気に入りなの。 シイナ:シックで良い。そこの台にでも置いてね。 シイナ:そしてコート掛けはこちら。はァい。 サチカ:ありがとう……。 0:店員は慣れた手付きで、生地の厚いネイビーブルーのコートを受け取り、骨董調のコートハンガーへと、滑らかに吊るす。 サチカ:ふふ、フ。 サチカ:キビキビして堂に入(い)った給仕(ギャルソン)っぷり。惚れ惚れするわね。 シイナ:でっしょォー? コッチの方が向いてるんだって、絶対。 サチカ:王子様扱いより? シイナ:あっは、お笑い。 0:店員はカウンター内に戻り、客の前にコースターを出す。かちゃり、とブリキの小気味よい音。 シイナ:狂ってるよねェ、女子校ってホント。 シイナ:ちょっとタッパがあるだけでさァ、 サチカ:ロマンじゃない? 何よりも。一度は憧れるもの。 シイナ:体(てい)良く役に嵌められちゃった3年間でしたよ。ソレだって苦手じゃ無いけども。 サチカ:ふフ……。 シイナ:さてもさても……、 シイナ:積もる話の前に、まず何か、 サチカ:ええと、お酒の前に……、 サチカ:ちょっと、お白湯(さゆ)を1杯、 シイナ:あは、勿論。 サチカ:良いかしら……? お腹と喉を温めたくて。 シイナ:かっしこまりました。待ってね。 0:店員は棚から、マグカップを見繕う。 サチカ:ごめんね? 他にお客さんが来たら、注文を……、 シイナ:お気になさらずー。 0:ポットを前に作業しつつ。 シイナ:ふっふ……、懐かしいや。文芸部の部室が。 サチカ:私の不良行為、ね。 サチカ:舶来品のティーカップで……、 シイナ:アンティークの、リアルオールドウィローでさ。 シイナ:静々(しずしず)とお茶を飲んでる綺麗な先輩がいるなァ、と思って、 シイナ:「茶葉は何です?」って話しかけたら、 サチカ:「これ、お湯なの」ってね。 サチカ:ふフ、覚えてるわ。 シイナ:楽で面白い人だ、って直感したよね。 シイナ:以降3年……、 サチカ:見事に、入り浸られちゃったわね。 サチカ:サボタージュ常習犯の君を連れ戻しに、よくトシコちゃんが……、 シイナ:乗り込んで来たっけねェ。 シイナ:私の減らず口によく耐えたモンだよ、アイツも。 シイナ:「読書中は静かに、トシコくん」、なんて。あっはは。 サチカ:ふふフ。 サチカ:でも偶に……、一服して、お菓子まで食べて帰っていったわよね。2人揃って。 シイナ:あの部室の居心地の良さは普通じゃなかったからねェ。 シイナ:トシコも何だかんだ、2年に上がる頃には専用のカップまで決まってたし。 サチカ:名字が「鳳(オオトリ)」だから。鳳凰(ほうおう)柄のカップ。 サチカ:あれは確か……、 シイナ:有田焼きだったよね。香蘭(こうらん)だったかな。 サチカ:懐かしいわ……。 サチカ:あのカップ達は今の部室にも、受け継がれているのかしらね。 シイナ:ドジな娘(こ)が割っちゃってなければ、ね。 シイナ:そうそう……、姫の、妹ちゃんも今、文芸部なんだってさ。 サチカ:まあ、ケイジュの? サチカ:妹さん……、ケイカちゃんね、確か。 シイナ:だったと思う。2年かな、今。 サチカ:私達の……、思い出のお部屋も。 サチカ:今は、誰かの青春の現場なのね。何だか不思議な気分。 シイナ:我々もまた、今を生きなければ、というところで。 サチカ:……、 サチカ:……ね。 0:店員はフと笑み、耐熱グラスに満たされた、適温の白湯を供する。 シイナ:ハイ、当店でお出し出来るいっぱいいっぱいの、最高級のお湯でございまァす、と。 サチカ:ふふ、フ。大切に頂かなきゃ。 サチカ:ありがとう。 0:す、と含み、ほ、と息を吐く。 サチカ:……うん。熱すぎず微温(ぬる)すぎず。 サチカ:いい塩梅(あんばい)。 シイナ:あは、やった。 シイナ:数年ぶりに聞けた。 サチカ:え? シイナ:「イイ塩梅」。 サチカ:ああ……。ふフ。 サチカ:元々は、祖母の口癖だったんだけど。 シイナ:煎茶の要領でね。和洋ともに、たっぷり手管を仕込んで頂きましたので。 サチカ:文芸部の伝統。 サチカ:……ふフ。君は演劇部だけど、ね。 シイナ:ええ、ええ。 シイナ:副部長にしてサボり魔の、不良部員でしたとも。 シイナ:いや懐かしき……、遠く帰らぬ学び舎の日々、と。 シイナ:…………、 シイナ:にしても、 0:閑話休題。店員は些か、慎重に。 サチカ:……、うん。 シイナ:本当に。お久しぶり。 シイナ:……もうじき1年になるのかな。 シイナ:あの、事故から。 サチカ:……ええ。 サチカ:今日は……、ね、 サチカ:久々に、寄せて、もらったのは……、 0:女性客の顔色は、心無しか青い。 声無き誰かの声:「話すの……?」 サチカ:……っ、 声無き誰かの声:「話して、楽になりたいの?」 サチカ:……、……、 0:女性客の目の奥に、揺らぎ。 0:様子を窺う店員の語調は、徐(おもむ)ろ。 シイナ:今日は……、 シイナ:ずっと、他のお客が来るまで、 シイナ:……何なら、スタッフ急病に付き、看板を消しても良いし。 シイナ:昔の……、他愛の無い思い出や、軽薄に楽しめる事を話して、夜を明かしませんか。 サチカ:…………、 シイナ:ご所望とあらば、ずっとあなたを膝に抱いて、その黒い髪を撫でて差し上げたって良い。 サチカ:…………。 サチカ:いつかの夜に。 サチカ:私が君に、してあげたように? シイナ:そうです。 サチカ:…………。 0:絡んだ視線は、しかし外され。 サチカ:前は……、言いそびれて、いたんだけど。 サチカ:今の髪型、とっても似合っているわ。 シイナ:……、どうも。 シイナ:卒業のタイミングでバッサリ行った時は、 サチカ:嘸(さぞ)かしショックがられたでしょうね。 サチカ:君の長くて豊かな髪は、本当に魅力的だったから。 シイナ:引っ詰めにして鬘(かつら)を被って、騎士サマだの子爵サマだのを演じる必要もなくなった矢先に、ね。 シイナ:ま、少し……、思う所、ありまして。 サチカ:楽に、なった? シイナ:腰までのロングに比べれば、ね。 シイナ:シャンプーやら何やら、半分以下の減りだし。 サチカ:ふふ、フ。 サチカ:君らしい。 0:女性客は、湯気立つカップを傾ける。 サチカ:…………、ありがとう。 サチカ:でも、私……、 0:ぼう、と。眼鏡の奥の瞳に、虚ろな光の灯され。 サチカ:話す、わ。 サチカ:聞いて、ほしくて。 サチカ:それで、今日……。 シイナ:……勿論、ご随意のままに。 シイナ:ただし自分のペースで、ね。 サチカ:うん、うん……。 サチカ:…………。 0:呼吸を整え。 0:眼を閉じ、そして開き、 サチカ:……先に、報道が、あったのよね。 シイナ:そう、だね。 シイナ:忘れもしない。12月、21日。 サチカ:あの子たちの…………、 サチカ:時間が、途切れた日。 0:永劫、未来を得る事の出来ぬ彼らの話を、女性客は始める。 サチカ:とても、空気の澄んだ日だったわ。 シイナ:ニュースをね、見てたんです。丁度。 シイナ:ここの出勤の前で……、 サチカ:午後1時、37分。 サチカ:…………。 サチカ:……この、いま着けている、腕時計、 シイナ:……、時計、 サチカ:その時間でね、止まっているの。 シイナ:……、 シイナ:それは、 サチカ:借りてた、の。私が引率の、班の子に。 シイナ:……、……、 サチカ:雪崩(なだれ)という物について。 サチカ:通り一遍の知識しか持ち合わせていなかった。 サチカ:新任の、1年目で……、 サチカ:スキー合宿の引率なんて、ね。 サチカ:緊張していたし、一通り、調べはしていたけれど……、 シイナ:雪山に、ついて。 シイナ:……長野、だよね。 サチカ:うん。 サチカ:……私達のバスが行き帰りする筈だった、「降馬岳(おろばたけ)」は……、 サチカ:明治期以降、目立った雪害や、道路への深刻な雪崩事故の記録も、無くて。 サチカ:勿論、条件として好適で、安全だとされて来たからこそ……、 シイナ:(言葉を継ぎ) シイナ:スキー場が拓(ひら)かれて、学校行事の合宿地にも、選ばれて来た訳だもんね。 シイナ:……でも、 サチカ:うん。 シイナ:例えば……、 シイナ:空から飛行機が落ちて来るのを懸念して、頑なに家から出るのを拒むヤツが居たら。 シイナ:あるいは頬をはたいて、引っ張り出すかもしれない。 シイナ:それが……、決してこの世の誰にも、否定し切れやしない虞(おそれ)だという事実には、目を瞑って。 サチカ:そして航空機墜落の現場に居合わせるよりは、ずっと、確率の高い出来事だものね。 サチカ:何せ……、私たちを圧し潰した、 声無き誰かの声:(遮り)「俺たちを、だろ。」 サチカ:(小声で) サチカ:……そうね。 サチカ:(声量戻り)いいえ。 サチカ:あの子たちを。私以外の皆を押し潰して、凍えさせた雪と、土砂は。 サチカ:いつだって私たちのすぐ側に、あったのだから。 シイナ:…………。 シイナ:バスは……、4台で、全部? サチカ:うん。 サチカ:有志の生徒だけと言っても、2年生の、殆ど全員。 サチカ:…………世界が震える音を、聞いたと思った。 シイナ:……、世界が。 サチカ:去年は、折からの暖冬で……、 サチカ:昼夜の寒暖差が、激しかった、わね。 シイナ:今年も大概だけど……、そうだね。 シイナ:昼間は暖かい日が、多かったね。 サチカ:バスが進む予定のルートに……、 サチカ:と言っても、一本身なんだけど。 サチカ:規模の小さい雪崩、というか、雪の塊が崩落する事故があって。 シイナ:午前中に、だよね。 サチカ:そう。お昼前に、ね。 サチカ:それで……、あの日は出発後に、どんどん気温が上がって。 サチカ:運転手さんと、学年主任の先生と、コーディネーターの人たちで連絡を取り合って、協議して……、 シイナ:引き返した。 サチカ:うん。万一という事を考えて、大事を取って。 サチカ:合宿所までというより、ある程度安全な、スペースのある地点まで取り敢えず、という判断で。 サチカ:誰も……、それに異論を挟む人は居なかった。 シイナ:その時点に於いては、妥当で賢明な、それ以上しようの無い判断だものね。杞憂に終われば越したこと無い、と。 サチカ:杞憂、ね。 サチカ:…………。 サチカ:古代中国の、「杞(き)」の国の人々は、 シイナ:き? あ、由来か、「杞憂」の。 サチカ:あるとき突然に天地が崩れ去るのを恐れて、日々を怯えて暮らしたというけれど。 サチカ:……世界が、震えて。本当に、天地が逆向(さかむ)くかと思う程の、轟音。 サチカ:何の、前触れも無く……、 声無き誰かの声:「先生が止めてくれたら良かったのに。」 サチカ:…………。 サチカ:たくさんの。 サチカ:余りにも沢山の雪と、土砂が……、 サチカ:私たちの乗ったバスを、押し流して、圧(お)し潰して。 シイナ:……、……、 サチカ:本当に一瞬の出来事だった。 サチカ:ガードレールは……、津波のような雪と土砂の重さを支えるには脆すぎて。 サチカ:バスは玩具(おもちゃ)みたいに崖の斜面を転げ落ちて、谷底まで真っ逆さま。 シイナ:…………、 サチカ:雪崩に引きずられる形で……、 サチカ:連鎖的に起こる地滑り。 サチカ:近年は気候変動に伴って、全国的に、よく見られるようになって来た現象なのだそう、だけど。 シイナ:「土砂雪崩(どしゃなだれ)」、とかとも言うヤツだよね。 シイナ:…………だけど、まさか。 シイナ:まさか、そんな事が、己(おの)が身に起ころうとは、 サチカ:「青天の霹靂(へきれき)」、って。 サチカ:……よく言うけれど、渦中にあっては何が起こったのかもわからない。 シイナ:……そりゃあ、 サチカ:音と、震えと。 サチカ:……すぐ後に襲った、何十トンもあるバスを、まるでお菓子の空き箱を振り回すようになぶる、衝撃。 サチカ:窓ガラスが砕けて、すぐ前に座っていた子の頭が、壁に、叩き付けられて、 シイナ:……っ、うわ、 サチカ:本当に、なぜ自分だけ……、足を折る程度で済んだのか、皆目わからない。 サチカ:息を飲む間に景色が、白く、塗り潰されて……、 サチカ:気が付けば、……、 0:女性客はフ、と震えた息を吐く。 シイナ:大丈夫? シイナ:お湯を。さあ。 サチカ:うん……、 0:熱の引いた白湯のカップを一口、含む。 サチカ:(細く息を吐く) シイナ:……大丈夫、とは愚問だったな。 サチカ:いいえ……。 サチカ:平気、とは正直言えないんだけど。 サチカ:でも……、 0:目を伏せる。 サチカ:もう、冬が、そこまで来ている、から。 シイナ:冬……、が。 0:静寂。女性客の声は微かに震えている。 サチカ:あの、冬が。 サチカ:あの子たちの魂を、永久に閉じ込めてしまった、冬が。 シイナ:…………、サっちゃん先輩、 サチカ:ただ1人、残されてしまった私が……、 サチカ:手向けに出来る言葉なんて。 サチカ:本当は、ありはしないと、思うけれど。 シイナ:……、……、 サチカ:私、誰にも、話していないの。 サチカ:あの時の事を。 シイナ:誰にも? ……それは、 サチカ:勿論、警察や、他の……、 サチカ:当事者としての説明や証言が必要な所では。 サチカ:質問に、お答えはしたけれど。 シイナ:ご家族……、あ、自分のね。 シイナ:とか、友達、とかには、って事かな。 サチカ:……、うん。そう、ね。 サチカ:皆、みんな、本当に。 サチカ:真心を持って、細かな心配りをしてくれたし……、 サチカ:またそうしてくれるだろうと、思える人たちばかり。 サチカ:人にも出会いにも、恵まれていると思う。 サチカ:本当に。 シイナ:そう……、だね。 シイナ:多くの人が、あなたに対しては……、何というか、 シイナ:心尽くしの晴れた顔でなければ、向き合ってはいけない気がするから、だろうね。 サチカ:君も、そんな風に思ってたの? シイナ:柄でもナイかなァ? シイナ:私なりに精一杯、襟を正していたつもりなんでござーますけれども。 サチカ:ふふ、フ。それは、それは。 サチカ:……でも、ね……。 サチカ:それというのは言い方を変えれば、 シイナ:「気を遣わせる性分」? サチカ:……、……。 サチカ:そのように……、私は自覚しているのだけれど。 サチカ:……申し訳なく、なるのね。 サチカ:昔から。思う通りの、暖かい言葉が返って来る度に。 サチカ:コントローラブルな環境に安らぎを覚える癖に、勝手に卑屈になって。 サチカ:気を遣わせる事に、気を遣って……。 サチカ:馬鹿みたい。我が事ながら。 シイナ:「気にしなくても、辛いのはあなたなんだから」、って、 シイナ:他人に言われたってしょうがないヤツだもんね、ソレ。 サチカ:……、うん。そう。 サチカ:だから、ね、心配をしてもらうより……、 サチカ:心配をしている、振りを……、 サチカ:自分が出来ている時の、方が。 サチカ:ずっと楽なの。 サチカ:傲慢、よね。 0:笑みに混じるものは、自嘲かのように思え。 シイナ:……、 シイナ:それを……、 シイナ:そのように理解して、ひとに語る事が出来るという所が。 シイナ:あなたの賢さと、誠実さを証明しているのだなァ、と。 シイナ:ずっとお慕い申し上げている身としましては、 シイナ:感じ入るところですけれど、ネ。 サチカ:ふふ、フ……。 サチカ:何割くらい冗談なのかしら。 シイナ:とーんでもない。 シイナ:(道化けた声を作り)あたしゃコレでも、洒落だけは言わんのが信条でしてねェー、マダム? サチカ:あは、ハ……。 サチカ:それこそ冗談。 シイナ:ふっふふ。 サチカ:…………。 サチカ:ありがとう。 サチカ:甘えているわね、私。 サチカ:ここぞとばかりに。 シイナ:なーんの。 シイナ:ソレがお仕事ですので。ご存分に。 0:ふ、と、笑み混じりに息を吐き。 シイナ:さて……、喉が温まって来たなら、何かお作りしましょうか。 サチカ:そう、ね……、うん。 サチカ:では、何か……、引き続き、温かい物を。 シイナ:ふっふ。きっとそうだろうと思って……、 シイナ:というか、顔を見た時から、お作りしたいと思っていた物があるので、ではソレを。 サチカ:あら……、本当に? シイナ:バーテンとしちゃ、褒められた姿勢じゃナイんだけども。店員のエゴほどお寒いモノは無い、ってね。 シイナ:でも季節にも、ご要望にもフィットしているし……、 シイナ:後はですねェ、 0:す、と背筋を伸ばし、 シイナ:紅茶のカクテルでありますからして……、 0:洒脱に微笑む。 シイナ:緊張しちゃうなァ、ってぐらい。 サチカ:あら……、ふ、フ。 サチカ:私はお茶の先生でも何でも無いのよ。 サチカ:ただ部室で、簡単な淹れ方をレクチャーしただけ。 シイナ:部外の私にも別け隔て無く、ね。 シイナ:なので師匠同然。 サチカ:あら。 シイナ:では少々、お待ちを。 0:店員は作業に掛かる。 0:心地悪くない、暫しの無言。 サチカ:(店内を見渡しつつ) サチカ:照明の風合いが……、少し、変わったかしら。 シイナ:(手を動かしつつ) シイナ:そうね……、ライトの灯体の色をね。 シイナ:この、こういう、黄味がかったっていうか、レトロチックなヤツに変えたから。 シイナ:前にも増して薄暗いんだけど。 サチカ:私は好きだわ。ランプの灯りのようで。 シイナ:ベタだよね、BARとしちゃ。 シイナ:さァてさて、まずはココで……、 0:カウンター内、足元の戸棚より、保存瓶。 シイナ:取り出しましたるは本日の目玉。 シイナ:「干し葡萄」でござい、っと。 サチカ:あら……、もしかして、 シイナ:あは、コレ出て来たらバレバレだよネ。 シイナ:まあ何の奇を衒(てら)うでもなく……、 0:次いで耐熱ガラス製の、妙味あるポットを取り出し、 シイナ:『シェルパ・ティー』をね。 シイナ:供(きょう)させて頂こうと思いまして。 サチカ:ふふフ。 サチカ:エベレストの、ね? シイナ:そーそー。ヒマラヤの案内人、山岳民族「シェルパ」伝来。 サチカ:登山中の疲れを取る為に、飲まれていたと……、 シイナ:伝わっている、という。 シイナ:本場のはヤマブドウだそうだけど。 0:ポットに葡萄を沈め、バースプーンで潰し始める。 シイナ:勿論、なんちゃってではありますが……、 0:眼差しには仄か、熱が籠もり。 シイナ:冬の山で身も心も疲れ切ったあなたを。 シイナ:少しでも癒す事が叶えば、と。 シイナ:及ばずながら。 サチカ:……、…………、 声無き誰かの声:「私らを置いて行った癖に。」 声無き誰かの声:「独りだけ暖まるつもりなんだぁ」 サチカ:…………、 サチカ:ありが、とう。 0:女性客は密か伏し目がち、店員の手捌きを見詰める。 0:濃い色の果肉がバースプーンの背に圧され裂(は)ぜ、解(ほぐ)れる。 シイナ:よっ、し。 シイナ:葡萄を程よく潰したら、ここらで茶葉のご登場……。 シイナ:あ、そこらの、普通ゥーの葉っぱでご勘弁を。 0:缶を開け、匙で葉を掬う。 サチカ:紅茶の葉に貴賤は無いわ。 サチカ:……ニルギリね。 シイナ:ええ、鉄板のね。ポットにサラサラー……、と。 シイナ:よしでは、お湯を……、 0:湯気を上げる錫調の電気ケトルを取り、構える。 シイナ:空気を含ませるように、高い位置から。 シイナ:さって、お立ち会い。 サチカ:ふふフ。逐一実況が入る訳ね。 シイナ:手順を確認しないと、ね。 シイナ:では……、 シイナ:はっ。よっ、はっ。 0:滑らかにケトルを傾け、のち、高く上げる。 0:過たず、適温適量の湯はポットへと。 サチカ:画になること。お金を取れそう。 シイナ:ひひ、副業しようかなァー。 シイナ:……よォし……、よし。OK。 シイナ:注いだら暫し、蒸らしタァイム。 0:ポットにカチャ、と蓋を被せ。 シイナ:あっはァ、緊張したァー。 サチカ:ふフ、どうして? シイナ:今はねー、紅茶をまともに淹れる事、あんまり無いし。 シイナ:久々ですよ久々。 サチカ:相変わらず堂々たる手際。 サチカ:よく……、文芸部一同全員分、振る舞ってくれたわね。 シイナ:今思えば恥ずかしいノリだわァ。役者のハッタリ、ハッタリ。 サチカ:気分って大切だもの。 シイナ:あは。 シイナ:っと。芝居はもう辞めたんだった。 シイナ:どうも、学生時代に戻っていけない……。 サチカ:もう……、完全に、演劇には興味を失ってしまったの? シイナ:……、 0:刹那の沈黙。店員はなんとも言えぬ面持ち。 シイナ:……んん……、 シイナ:ま、という程でも、無いんだけど……、 シイナ:あっ、と。 シイナ:蒸らしてる間にィ、 サチカ:あら。逸(そら)されてしまった。 シイナ:いえ、いえ。 シイナ:カップにお砂糖を、少々、っと。 0:滑らかに手は動き続け。 シイナ:それから……、 0:背後の棚より淡い配色のボトルを取り出す。 シイナ:コレコレ。 シイナ:今日は口当たりを考えてロゼにしよう。 サチカ:ワインを少し、沈めるのよね。 サチカ:その状態の物を飲むのは初めて。 シイナ:と言っても香り付け程度だけど。 シイナ:寒い日は暖まるんだ、コレが……。 0:言い、カップへと薄紅色の酒を垂らし。 シイナ:よし……、と。 シイナ:程なくして……、 サチカ:ええ。頃合いね。 シイナ:良い具合に、葉が開いただろう所で……、 シイナ:よ、っと。 0:ポットを軽く揺らし、静かに持ち上げ、カップへと注ぐ。 0:茶葉と果実、葡萄酒のふくよかな香りが立ち。 サチカ:……良い香り……。 シイナ:ね。はてさて……、味の方の塩梅は、どうかなァ。 0:す、と注ぎ終え。静かにポットを降ろす。 シイナ:後は軽ゥく混ぜまして。 シイナ:最後に少し……、 0:褐色透明の保存瓶より新たに干し葡萄を取出し。 シイナ:追い葡萄、っと。4粒ほど、ね。 サチカ:あら……、贅沢。素敵ね。 サチカ:ふふフ、フ。 シイナ:はァい完成。 シイナ:お待たせ致しましたっ、 0:恭しく供する。カップ&ソーサー。 シイナ:ヒマラヤ式、『シェルパ・ティー』。 シイナ:どうぞ、ご賞味あれ。 サチカ:ああ……。ありがとう。 サチカ:頂きます……。 0:丁寧にカップを浮かし。品良く一口、含む。 サチカ:美味しい……。 サチカ:味と香りが、体に染み透るような……、 シイナ:良かった。 シイナ:ではその……、 シイナ:「アレ」を、賜りたいなァ。 サチカ:ふふフ……。 サチカ:「良い、塩梅」。 シイナ:よォっし! シイナ:コレで、年を越せそうだ、と。 シイナ:あっはははっ。 サチカ:うふふ、フ。 0:交わされる笑みは上等の磁器の如く滑らかであった。 0:もう一口、味わいつつ含み。女性客はカップを置く。 サチカ:本当に……、美味しい飲み方。 サチカ:山の民が疲れを癒やしたのも肯けるわ。 シイナ:……、……ね。 サチカ:あの子たちにも。 サチカ:飲ませてあげたかった。 シイナ:…………、 0:思案。 シイナ:ただし……、ノンアルコールにはなる、けどね? 当店と致しましては。 サチカ:……、ふ、ふふフ。 声無き誰かの声:「黙れよ。偽善者。」 サチカ:……っ。 サチカ:ごめんなさい。 シイナ:……、先輩? サチカ:意味の無い嘘をついてしまった。 シイナ:……、嘘。 サチカ:本当はそんな事、思っていないの。 サチカ:生きて、帰ってからも、 サチカ:そんな事、一度も……、 シイナ:サっちゃん先輩。 シイナ:今日はもう、やっぱり、 サチカ:(遮り)いいえ。 サチカ:話させて。聞いて、ほしい。 サチカ:冬が来る前に、せめて。 サチカ:他の方が来られたら、やめる、から……。 シイナ:…………、……、 シイナ:先、輩、 サチカ:最初、ね……、 サチカ:竹が生えているんだと、思ったの。 シイナ:……、たけ……? サチカ:谷底の……、川に沿って長い距離が、竹林(ちくりん)になっているのを、見ていたから。 サチカ:バスが落ちて……、私は暫く、気を失っていたんだと思う。 サチカ:意識が、戻って……、 サチカ:眼を開けても、真っ暗の世界。 サチカ:本当に、死んだと思ったの、一度。 シイナ:……、 サチカ:でも体の感触があるから……、 サチカ:どうにか手探りで、リュックに吊っていたライトを点けて。 サチカ:でも眼鏡が何処かへ、行ってしまっていて、すぐには状態が、判らなかった。 サチカ:私……、視力が本当に、悪くなってしまっていて、 シイナ:乱読家の宿命として、ね。 シイナ:高校の頃よりも……、 サチカ:輪をかけて、近視が進んでしまったの。 サチカ:殆どぼやけて、輪郭を追えないんだけど。 サチカ:バスが、横倒しになっているのは、体の感覚でわかった。 サチカ:シートベルトを外しても……、ひしゃげた壁と天井が迫っていて、大きく身動きは取れない。 シイナ:本当に……、奇跡的に潰されず残った隙間に、嵌まり込んでいた、って、 サチカ:うん……。報道でもそのように、 シイナ:言ってた、ね。 サチカ:……、潰れて、歪んだ壁の裂け目や、割れた窓から……、雪と土砂が車内の殆どを埋めて。 サチカ:その白い絨毯から……、細くて、長い物が所々に生えている、ように見えて。 サチカ:私は……、 シイナ:……、……、 サチカ:硬い竹の集まった所へ落ちて、バスが貫かれて、しまったのかと思った。 サチカ:竹の先端が壁を突き破って、あちこちに飛び出しているのかって。 サチカ:でも流石に……、そんな訳は無いと、思った辺りで、 シイナ:う、ん……、 サチカ:折れた右足のももの痛みが、戻って来た。 サチカ:それと左の肩を……、強く打っていたみたいで。 サチカ:砕けた、刺すような痛みと、滲み出すみたいな鈍い痛みの中で……、 サチカ:私、しばらく、悶えていた。 シイナ:…………、 シイナ:今は、本当に、 サチカ:完治したし……、後遺症も、無いわ。大丈夫。 サチカ:でもその時は、逃れようのない痛み……、 サチカ:それから、熱いのね、余りに痛いと。 サチカ:のたうち回りながら、でもその中で……、 サチカ:「生徒たちを」、と思って、呼んで、叫んで、みたけれど。 サチカ:声は一つも返らない。 シイナ:……、 サチカ:スマートフォンは圏外。 サチカ:何度試しても、圏外。 サチカ:あと少し、あとほんの少し合宿所に近ければ、違ったんだろうけど。 サチカ:痛みと、今思えば寒さで、朦朧とする中……、 サチカ:漸(ようや)く状況を、飲み込めた時に……、 サチカ:一度、私は、絶望したんだと思う。 シイナ:…………、 サチカ:何台のバスが雪崩に飲まれたのか。 サチカ:私以外に何人、生きて残った人が居るのか。 サチカ:正確な場所も、状態も、救助が始まっているのかどうかすら、確かめる術が無い。 サチカ:GPSが働いていたとして……、 サチカ:雪崩の及んでいる範囲によっては、時間がかかるのか。 サチカ:そもそも、自分たちの事が、伝わっているのか、どうか……。 サチカ:生きている人が居たとして、この潰れた、冬の雪の、生き埋めのバスの中で……、 サチカ:救助が来るまでの間、自分を含めて、本当に、生きていることが、出来るのか。 サチカ:痛みと、恐怖と、抑鬱とパニックの波の中で……、 サチカ:私は独りで、 サチカ:きっと、多分、 声無き誰かの声:「狂ったんだろ。」 サチカ:…………。 サチカ:おかしく、なっていたんだと、思う。 サチカ:ぼやけた眼に映る、伸ばされて、曲がって、節くれ立った、竹のようなモノが……、 サチカ:恐らくきっと、雪に埋まった生徒たちの、 サチカ:腕や、脚や、首、なんだろうと。 サチカ:思い至るのにも、時間がかかった、ぐらい。 シイナ:……っ、……、 シイナ:…………。 シイナ:飲んで。一口。 サチカ:……、うん。 0:女性客は一口、含み。 0:凍えた息。 サチカ:…………、 サチカ:私、嫌になって、ライトを消したの。 シイナ:……、それは……、 声無き誰かの声:「逃げた。」 サチカ:……、 サチカ:硬まった腕や脚や、近くに遠くに埋もれて、横たわる、亡骸のように見えるモノたちを……、認めた、時に。 サチカ:何かが、外れて、しまって。 シイナ:…………、 シイナ:うん、 サチカ:出来る事が余りに無くて。 サチカ:もう、全てを天に任せて、足掻くのをやめようと思った。 サチカ:闇からも、空腹からも、恐怖、からも……、 サチカ:目を閉じて、逃れて、しまいたかった。 サチカ:それで……、 シイナ:闇の中へ。 シイナ:……潜り込んだ、訳だね。 サチカ:うん……、 サチカ:うん。そう。 0:沈黙。 0:店員は注意深く言葉を選んでいる。 シイナ:空腹や……、乾きに、関しては、 サチカ:水筒の、お茶を……、飲んでいて。 サチカ:食べ物、は、 サチカ:…………、……、 0:沈黙。 シイナ:ごめん。もう質問は、 サチカ:ううん。 サチカ:…………、そう、食べ物。 サチカ:…………、 サチカ:あの……、ごめんなさい。 サチカ:どうか、もう少し、話させて、ね。 シイナ:……、うん。 シイナ:勿論。勿論です。 0:女性客の眼差しは虚ろさを増している。 サチカ:私……、強い痛みや、どうしても本当に、やりきれない事が、あると……、 サチカ:痛み止めのお薬を、用量よりも多く飲んでしまう癖が、あるのね。 シイナ:……、それは……、いつから、 サチカ:昔から、よ。 サチカ:出会った頃から。今初めて、人に言ったわ。 シイナ:……、そう、か。 サチカ:だからいつでも、常備していたの。 サチカ:その日も、リュックの中に。 サチカ:だけどお薬をたくさん飲んでも……、骨折や打撲の痛みが、失せる事は無くて。 サチカ:眠ってしまうのもきっと、怖かったんだと、思う。 サチカ:闇の中で眼を開けて。 サチカ:時が止まったような静けさと、靄(もや)のようにボヤけた感覚の中で、 サチカ:ずっと、眼を開けていた。 サチカ:ずっと。 サチカ:…………そうしたら、 シイナ:……うん、 サチカ:声が、 サチカ:……聞こえた、の。 シイナ:声……? サチカ:私を呼ぶ声。 サチカ:私が引率していた、班の子たちの。 サチカ:さっきは……、横たわっていたり、姿が見えなく、なっていたんだけれど……、 シイナ:…………、 シイナ:それ、は……、 サチカ:皆が言うには、ね。 サチカ:遅れて眼が、覚めたんだって。 サチカ:他はわからないけど、とにかく班の5人は、ここにいる、って。 シイナ:……、……、 サチカ:私……、慌てて、ライトを点けようとしたんだけど、 サチカ:「勿体ない」、って。 サチカ:もしも必要な時に電池が切れたらいけないから、って。 サチカ:一度だけ、確認をする意味で、スマートフォンのライトを点けたの。 サチカ:青くて硬い光の中に……、5人の顔は確かにそこに、並んでいて。 サチカ:一息に、安心したのを覚えてる。 シイナ:…………。 シイナ:その、後は。 サチカ:話をしたわ。 サチカ:とにかく生き延びる為には、体力を持たせなければ。 サチカ:眠ってしまわないように、声を掛け合って、意識を保ち続けなければ。 サチカ:心なしか空気も薄い気がするけれど、頑張ろう、って。 シイナ:暗闇の中で? サチカ:うん……、 サチカ:……そうよ? シイナ:…………、 サチカ:普段は斜に構えて、気難しいユモトくんという子が、率先して話を進めて、まとめてくれて。 サチカ:感心、するぐらい。 シイナ:……うん。 0:うつつが揺らぐ、気配。店員は努めて、抑制的。 サチカ:私の班は……、というか、他も揃って、なんだけど。 サチカ:どの子も、方向がバラバラで……。 サチカ:新任にはなかなか、荷が重くて。 サチカ:でもその時ばかりは。 サチカ:まとまりを、感じて。 シイナ:…………。 サチカ:少し擦(す)れているけど、責任感のある、ユモトくん。 サチカ:部活には入っていないんだけど、バスケットボールをやっていて、凄く、熱心で。 サチカ:良い子なの、本当は。 サチカ:腕時計もね、彼が貸してくれたの。 シイナ:…………、 サチカ:班長のコウサカさんは剣道部。 サチカ:いつも、向こうから声をかけて来てくれて……、 サチカ:私の不慣れを、フォローしてくれて。甘えてしまいそうになるくらい。 シイナ:…………、 サチカ:そう、食べ物、ね。 サチカ:持っていたカロリーメイトを分けてくれた、ミネさん。 サチカ:普段は派手なグループで、学業には余り、真面目とは言えないんだけど……、 サチカ:根が善良なタイプというか。 サチカ:可愛らしくて優しい子。とても。 サチカ:ムロトくんは物静かで、読書家で。たまに私と、面白かった本の意見交換をしてたわ。 サチカ:それから、意外と、脚が速くて。 サチカ:それについてユモトくんと、話していたっけ……。 シイナ:…………、 サチカ:そしてマツキさん。 サチカ:賢くて、センスの良い子なんだけど……、 サチカ:それだけに敏感で、1年の頃はあまり、学校に来れていなかったらしくて。 サチカ:でも2年からは少し持ち直して、 サチカ:人見知りという訳では無いから、意外に早く、皆とも打ち解けて、ホッとした。 シイナ:…………。 シイナ:個性豊かなメンツだ。実際。 サチカ:うん……、うん。本当、に。 サチカ:おかげで……、時間が経つのも、早かった。 シイナ:……、 サチカ:皆と……、色々なお話を、する事で。 サチカ:肩と足の痛みも、幾らかは紛れたし。 シイナ:痛み止めも、効いてきたし……? サチカ:…………、 サチカ:ええ。 サチカ:ええ。そう、ね……。 サチカ:それで……、 シイナ:もう一口。さあ。 サチカ:うん……、 0:女性客は促されるまま、一口、傾ける。 声無き誰かの声:「良いよなぁ。自分ばっかり」 声無き誰かの声:「私達はもう、飲めないのにさァー。」 サチカ:……、 サチカ:…………、 シイナ:安心して、話して。 シイナ:私は、ここで、聞いているから。 サチカ:…………、 サチカ:ありがとう。 0:吐く息は依然、凍えている。 サチカ:どのぐらいの時間だったのか……。 サチカ:あの子たちと私は、ずっと話をしていた。 シイナ:……灯りは、それから一度も、点けなかったの。 サチカ:うん。……ええ、そう。 サチカ:何だか不思議と……、暗闇の中で、もう1つの瞼が開くように、景色が見える気がした。 サチカ:賑やかに話すあの子たちの、顔の表情の、細かな所まで。 シイナ:…………、 声無き誰かの声:「ちょっと、楽しかった、ね」 サチカ:(虚ろに) サチカ:うん……。 サチカ:本当に、楽しかった……、 シイナ:サっちゃん、 シイナ:……先輩? サチカ:(引き戻され) サチカ:あ……、 サチカ:うん。 サチカ:……それで……、 シイナ:平気? サチカ:……ええ。 サチカ:そう、色々……、ね、訊かれたのよ。 サチカ:女子校ってどんな所なの、なんて。 サチカ:「女の子同士の恋愛なんて本当にあるの」、だとか。 サチカ:何だか興味津々で。 シイナ:何て答えたの。 サチカ:人に依る、って。ふ、ふフ……。 サチカ:恋愛はプライベートな事だから、どうしても知りたければお友達になってから、本人に直接聞きなさい、ってね。 シイナ:あっは、違いないや。 シイナ:…………、 0:慎重に。新雪を踏むが如く。 シイナ:その、語らいは……、 シイナ:いつまで、 サチカ:長く。 サチカ:きっと長く……、続いたんだわ。 サチカ:きっと。きっと、ね。 シイナ:……、 サチカ:途中で眠ったのか、ずっと眠らずに、起きていたのか。 サチカ:瞼を閉じる必要のない暗闇の中では、同じ事なのかもしれない。 シイナ:……、 声無き誰かの声:「先生マジでさァー、アタシらと一緒のテンションでハシャぐんだもん。」 声無き誰かの声:「オトナのクセになァ?」 声無き誰かの声:「普段は“静かにィ”とか言ってんのにねー。」 サチカ:ふ、フ、そうね……、 サチカ:何だか色々と、麻痺してしまって。 サチカ:学生時代は余り、楽しく騒いで夜を明かす方では、なかったし……、 シイナ:……? 声無き誰かの声:「だからってなァ?」 声無き誰かの声:「ちょっと。先生はいつも大変なんだから。アンタらのせいでっ。」 声無き誰かの声:「マジメちゃんウザぁー、剣道着くっさ。」 声無き誰かの声:「なっ……! アンタの香水の方が臭いからっ!」 声無き誰かの声:「アンタが好きって言ったから選んだヤツじゃん。」 声無き誰かの声:「みっ……! 皆の前ではソレはっ、」 声無き誰かの声:「やめなよ言い合い……、こんな状況で。」 声無き誰かの声:「おォおォ、言ったれムロトぉー。」 サチカ:ふふフ、フ……、 サチカ:本当に……、 シイナ:(訝しみ) シイナ:……先輩、 サチカ:不謹慎、よね。本当。 サチカ:教師、失格…………、 声無き誰かの声:「本当に、ね。先生。」 サチカ:…………うん。 サチカ:うん……。 シイナ:先輩、先輩っ、 声無き誰かの声:「戸賀梨子(とがなしこ)の新刊、予約してたのになぁ。」 サチカ:……、……っ、 シイナ:先輩っ!! 声無き誰かの声:「無かったのかよ、他に。」 サチカ:無かったのよ。 サチカ:出来る事なんて何も。 サチカ:本当に、何も思いつかなかった。 サチカ:教師と言ったって、社会人と言ったって。 サチカ:簡単に、心折れてしまって、 サチカ:お薬を飲んで、瞼を降ろして、思考を止めて……、 シイナ:誰だってそうなるよ! シイナ:こんな、言葉……、1年の間に散々、言われた、だろうけど。 シイナ:あれは完全な自然災害で、不慮の事故。 シイナ:過失も、ミスも、サっちゃん先輩には無い。 シイナ:どう考えても、さ。 シイナ:それに……、 シイナ:それに、だって、 シイナ:……、……、 0:店員は言い淀む。 サチカ:……うん。 シイナ:…………っ、 シイナ:だ、って、 サチカ:わかってる、わ。 シイナ:……ニュースで……、 シイナ:言っていたのを、聞いただけ、だけど。 サチカ:ええ。 0:店員の眼に、決意。 シイナ:……あなた以外の、全ての乗客は。 シイナ:バスが雪崩に飲まれて、谷底に落ちた、時点で…………、 シイナ:1人残らず即死、 シイナ:していたんだから。 サチカ:…………。 サチカ:うん。 0:静寂。 0:店員の眼は戦慄きを隠せず。 シイナ:……それこそ……、ある日突然天地が崩れ去るよりも低い確率の偶然に、あなたは生き残った。 シイナ:眼が覚めた時点で全ては終わっていた。 シイナ:だから、 サチカ:(遮り)わかってるの。 シイナ:……っ、 サチカ:わからずに、喋っていたんじゃないの。 サチカ:ごめんなさい。 シイナ:謝ら、ないで。 サチカ:ありがとう。 シイナ:……っ、……、 サチカ:何度も、説明を受けたから。 サチカ:だから誰にも、言わなかった。 サチカ:言えなかった。 シイナ:…………、 サチカ:生きて、山を降りた後も。 サチカ:居もしない、生徒たちの声が聞こえる、なんて。 サチカ:彼らと語らって、気が付くとあの、凍える暗闇の中に、心を投げ出している、なんて。 サチカ:優しい人たちから、どんな言葉を貰えるか……、 サチカ:手に取るように、わかるもの。 シイナ:…………、 サチカ:そうして都合よく、いつでも瞼を降ろして。 サチカ:罰を、免れているのね。 サチカ:私は。 シイナ:……、……。 0:深い雪のような静寂。 シイナ:…………。 シイナ:死人と、語らい……。 シイナ:冷たい地獄へと、心縛られる事が。 シイナ:罰で無くて、何だと言うのか。 サチカ:仕方が無いのよ。 サチカ:あのバスは、私だけは天国へ、乗せて行ってくれなかったんだから。 シイナ:天国なんて、あるもんか。 サチカ:いいえ。 サチカ:あの子たちは。 サチカ:あの4台のバスに乗っていた、全ての人たちは……、 サチカ:必ず、天国へ行ったと思うわ。 サチカ:だって私だけが遺されたんだもの。 シイナ:先輩、……、 サチカ:運賃が足りなかったのね。 サチカ:残された事が罪なのではなくて、きっと……、 サチカ:私だけが初めから、罪人(ざいにん)であったから……、 サチカ:この地獄で生きるようにと、罰を受けたんだわ。 シイナ:地獄、……。 シイナ:そりゃ……、きっと、事故の後はさぞ、 サチカ:ううん。 サチカ:ずっと……、もっと前からなの。 サチカ:傲岸(ごうがん)に生まれて、不遜(ふそん)に育ってしまった女に取って……、 サチカ:どこまで行っても、この世は地獄である筈だから。 シイナ:思っても無い事をっ! サチカ:違う。 サチカ:さっきも言ったし、君は、初めから気付いていたでしょう。 サチカ:私は外身通りの女では無いから。 シイナ:誰だって、だよ、それもっ。 シイナ:中身のまんまで生きている人間なんていない。 シイナ:その、内と外との軋轢(あつれき)を、どうにかして埋め合わせる為に……、 シイナ:酒や薬や、物語や音楽という物を人類は、 サチカ:(遮り)ほら。 シイナ:っ、…………、 サチカ:簡単、なのよ。 サチカ:皆、二言目には、私が求める言葉を言ってくれる。 シイナ:…………、先輩、 サチカ:みんな、みんな本当に。 サチカ:一人残らずそうだった。 サチカ:父も、母も兄も。 サチカ:先輩も友人も、みんな、みんな。 シイナ:…………、 サチカ:それは、そうよね。 サチカ:私は、生きているんだから。 サチカ:幾ら心を病んで、要を成さなくなったって。 サチカ:拘(かかずら)ってしまったからには、共に生きて行かなければならないもの、ね。 シイナ:……、……、 サチカ:私、もうずっと、お休みを頂いているのよ。 サチカ:実家で、ずっと……、静養と銘打って、 サチカ:偶に、この子たちと、内緒でお話をする事の他に……、 サチカ:何もしていないの。 サチカ:だってこの子たちの他に誰も、 サチカ:「悪いのはお前だ」って、 サチカ:言って、くれないんだもの。 シイナ:それ、は……、 シイナ:……、 シイナ:……あなたに罪なんて、本当に無いんだ。 シイナ:それに、休職は妥当だよ。静養は絶対に必要で……、 シイナ:それこそ遺された者の使命として、未来を生きて行く為に、 サチカ:(遮り)大好きな先輩が狂ってしまって悲しい? シイナ:っ!! 0:絶句。 シイナ:……、……、 サチカ:それとも悔しい、のかな。 サチカ:君はどう思っている? シイナ:……っ、…………、 0:店員の目の端が震え。 0:凍えたように震え。 サチカ:今日……、ここへ、来ようと思ったのが、どうしてだったのか。 サチカ:君に、何を、言ってほしかったのか、 シイナ:先輩、 サチカ:思い出せないの。 シイナ:……、……っ、 サチカ:ごめんね。シイちゃん。 0:沈黙による静寂。 0:女性客の眼の奥の、真なる闇の冷気。 シイナ:……、……、 サチカ:冬が、また来て……、 サチカ:またあのバスへと、戻ってしまわないように、と。 サチカ:思ったの、だけど。 サチカ:自分が言ってほしい言葉も、考え付かないんだから……。 サチカ:聞き分けの悪い子供と同じね、私。 シイナ:そんなことはっ! サチカ:(遮り)でも。 サチカ:求めた言葉は求めたように、得る事が出来るのに……、 サチカ:求めなければ、何もしなければ決して、手を差し伸べられる事の無い、この世界を……、 サチカ:地獄だと呪った、幼い日の事ばかり、思い出すの。 サチカ:自分の浅ましさに吐き気がする。 シイナ:…………、 サチカ:そういう子供だったのよ、私。 サチカ:周りの大人(ひと)を喜ばせる事に、躍起になっている内に……、 サチカ:人を操る事ばかり、上手になって。 サチカ:しまいに、隣人を信じる事をやめたの。 シイナ:……、 シイナ:ここは懺悔室じゃないんだ、 シイナ:もう、そんな……、 サチカ:こんなものは懺悔でも告解でもないわ。 サチカ:先生(シスター)にお叱りを受けるわよ。 シイナ:…………。 サチカ:けれどそれが……私の罪の全てで。 サチカ:贖(あがな)い続ける罰、そのもの。 サチカ:だから……、 サチカ:ね、 0:眼に、虚ろで、しかし晴れやかな、青い光。 サチカ:あの日の、光景……。 サチカ:救助される時、薄ぼんやりとしか、見えなかったけれど……。 サチカ:あの竹林(たけばやし)の、美しい雪の丘。 サチカ:冷たく、澄んでいて……、 サチカ:誰一人私を、慰めも庇いもしない、あの崖の下の冬の底、だけが…………、 サチカ:きっと私の、 サチカ:天国なんだと思うの。 シイナ:……っ、 シイナ:そん、な、……、 サチカ:今はね。 シイナ:……っ、 シイナ:…………、 0:生き埋めの沈黙。 0:後、すとん、と、店員は木椅子へと崩れ。カタリと乾いた木の音。 シイナ:…………。 0:沈黙が続く。 0:晩秋の外気は日増しに冷やされ、暖房機は鈍く低く唸っている。 0:長い静寂の後、呻くように悲痛な、声。 シイナ:…………私は、遅い。 サチカ:…………。 シイナ:顔を、見た時。 シイナ:私が知っている、あなたの顔と、変わらないように見えたから……、 サチカ:私は私、だもの。 シイナ:烏滸(おこ)がましくも支えになれるかも、なんて。 シイナ:夢想した。 サチカ:…………。 シイナ:けれどあなたの魂は最早、既に……、 サチカ:あの雪山に。 サチカ:囚われてしまっているように、見えるのね。 シイナ:…………。 シイナ:戯(おど)けて、得意な顔をして。 シイナ:自分からは訪ねても、行かなかった、癖に、 サチカ:シイちゃん、 シイナ:何が、『シェルパ・ティー』……。 シイナ:恥だ。 シイナ:死にたい、気分だ。 サチカ:とっても、美味しかったわよ。 サチカ:だから死んでは駄目。 シイナ:…………。 0:幾度目かの沈黙。店員は項垂れ。 サチカ:悲しそう、ね。シイちゃん。 シイナ:…………。 サチカ:私は、悲しくは、ないのよ。 サチカ:本当は。 0:店員は項垂れたまま。 シイナ:…………言葉が見付からない。 シイナ:上っ面の、戯曲に書かれたような台詞なら、幾らでも出て来るのに。 サチカ:…………。 シイナ:(絞るような呟き) シイナ:上手くやれない自分は、嫌いだ……。 サチカ:……。 サチカ:ふふ、フ……。 サチカ:君は昔から本当に、 サチカ:そういう子……。 0:女性客は淡雪の如く笑み。 0:再び、静寂が世界を埋め。 声無き誰かの声:「先生ェー。もう帰る? 話の続き、しなきゃ」 声無き誰かの声:「マジで冷えて来た。起きてられるように、話し続けなきゃ。いつまでも。」 声無き誰かの声:「いつまでも、ずっとさ。」 声無き誰かの声:「ずっと、ずっと。」 声無き誰かの声:「だってこれは、」 声無き誰かの声:「先生の、せいなんだから。」 サチカ:…………、 サチカ:…………。 サチカ:少し、待ってて、ね。あなた達。 0:女性客はス、と立ち上がる。 シイナ:……、 シイナ:先、輩、 サチカ:傷付いたなら、慰めてあげる。 サチカ:そうしてほしそう、だもの。 シイナ:……、そん、な……っ。 シイナ:傷を……、傷を負ったのはあなたで、 サチカ:(遮り)リッカ。 シイナ:っ!! サチカ:こっちへ、来て。 シイナ:……、 サチカ:髪を……、 サチカ:撫でてあげるから。 シイナ:…………っ、 0:冬が、来る。 0:暗転。 : 0:シイナにスポット。 シイナ:【本日のカクテルレシピ】 シイナ:ヒマラヤ式『シェルパ・ティー』、シイナアレンジ。 シイナ:■ロゼワイン 適量 シイナ:■ブラウンシュガー 2tsp(ティースプーン) シイナ:以上をティーカップにて合わせ、干し葡萄を潰し、丁寧に煮出した紅茶を注ぐ。 シイナ:軽くステアした後、更に干し葡萄を何粒か沈め、冷めない内に手早く、 シイナ:……特に、凍える季節には、手早く、 シイナ:カップ&ソーサーにて、サーブ。 0:【終】 : 0:【空白】/【空白】/【空白】 : 0:【ボーナス・トラック1】 0:暫くの後。 0:照明の落とされた店内。鍵を開け、注意深げに足を踏み入れたのは、金髪の女性店員。 0:長身の女性店員がカウンター内の木椅子に崩折れ、俯いている。 カスミ:……シイナさん……? シイナ:(項垂れたまま) シイナ:…………、…………。 0:静寂。 カスミ:シイナさん、 シイナ:……カスミか。 シイナ:……やあ。 カスミ:……、 カスミ:大、丈夫……? シイナ:うん。 カスミ:金曜なのに、この時間で電気、消えてたから……、 カスミ:あ、偶々 前、通って、 シイナ:いま、何時……? カスミ:……、10時、過ぎたぐらい……。 シイナ:……そう、か。 シイナ:まだ、そんなもんか。 カスミ:具合、悪い? カスミ:急に体調とか、 シイナ:いや。 シイナ:そうでも、ないよ。 カスミ:…………、あの、 シイナ:(意図せず遮り)来てくれてありがとう。 カスミ:っ、……、 シイナ:誰も来なかったら……、 シイナ:明日まででもこのままで、出勤してきたタニマチを驚かせる所だった。 カスミ:……、……、 0:凍てつく沈黙の気は尚も濃く名残り、重く垂れ込め。 カスミ:……、何か、あったの……? シイナ:……、……。 シイナ:カスミは、さ……。 カスミ:うん、……、 0:項垂れたまま、語気はか細く、湿っている。 シイナ:自分の、大切に思っている、 シイナ:……、思っていた、人が……、 シイナ:心に深い傷を負っている事をある時、知ってしまって、……、 シイナ:……いや……、 シイナ:(小声になり、自問の独語) シイナ:知らなかった筈は無いんだ。 シイナ:私はニュースを見ていたんだから。 シイナ:考えて、思い当たっていた癖に私は、 シイナ:……、 カスミ:シイナさん、 シイナ:……、 シイナ:すまない……。 カスミ:ううん。 カスミ:ねえ、ヤヨイさんに来てもらうから車で、 シイナ:良いんだ。 シイナ:……人の傷や、痣を、巧く見て見ぬ振りが、出来なくて……、 シイナ:躱せも、流せもせず、真正面から、見て、しまって。 カスミ:……、 シイナ:なのになんにも、それなのになんにも、かける言葉が引き出しから、出て来ずに……。 シイナ:途方に暮れるしか、無かった時……、 シイナ:どういう、気持ちになる? カスミ:……、…………、 カスミ:ボク、なら……? シイナ:ああ。 0:静謐。黙考。 カスミ:……シイナさん、酔ってる……? シイナ:……ほんの少し、ね。 シイナ:ブランデーに、アマレットを少々。 カスミ:……、 シイナ:ごめん。 シイナ:ごめん、本当に……。 シイナ:大丈夫だから。もう、帰って貰って構わないよ。 カスミ:……、ううん。 カスミ:……ボクは、ボクなら……。 シイナ:……、 カスミ:……ボクは、 カスミ:……本当は……、 カスミ:そういう時に、何かを言っても良い人間じゃないと、思うから。 カスミ:黙ってる方が、きっと正解なんだと、思う……。 シイナ:…………。 0:深と冷えた空気。薄っすらと残る、紅茶の香。 シイナ:……そう。 シイナ:……私も、きっと……、きっと本当は、 シイナ:そう、なんだろうな……。 カスミ:……、……。 0:沈黙。背の低いグラスが鈍く光を散らし。 カスミ:……初めて、見た。 カスミ:シイナさんが、悪酔いしてるところ。 シイナ:…………。 0:ついぞ項垂れたまま、力無く呻く。 シイナ:……カクテルなんて。 シイナ:碌なもんじゃない、よね。 カスミ:……、 0:からり、と氷が遺憾の意を示し。 カスミ:お水、入れるね。 0:暗転。 0:【終】 : 0:【空白】/【空白】/【空白】 : 0:【ボーナス・トラック2】 0:或いは、『アクト・アクター・アクトレス』♯3.5 0:後日。都内某所、とあるレンタルスタジオビル1階、喫茶スペース。 トシコ:ふううーー……、む、む、む……。 トシコ:それで全部? シイナ:……うん。 0:窓際の、いつもの席。 0:舞台の稽古を終えた2名の女性演技者の前には、湯気も薄れたカップ&ソーサー。 0:そばかすの女性は腕を組み、頬を掻きつつ。 トシコ:だいぶん不味いじゃないのさ、聞く限り。 トシコ:サチカ先輩も、……アンタも。 シイナ:一人で抱え切れずに……、 シイナ:結局ヒトに話してる私を、まずはひっぱたいてくれ。 トシコ:ココで?? トシコ:冗談はヨシ子ちゃん。昼ドラじゃあるまいし。 トシコ:……でも、なるほど。それで前回・今回と、指導にも妙に熱が入ってたのか。 シイナ:え……? トシコ:アンタって昔から、情緒が波打ってる時ほど、芝居に気合いが入るじゃないさ。 トシコ:気付いてないとでも思った? シイナ:…………。 シイナ:敵わないな、やっぱりトシコには。 トシコ:あったりまえ。伊達にアンタたち問題児揃いの87期を引っ連れて、全国まで行ってないってーの。 シイナ:あっは、鬼の部長サマの鬼伝説。 シイナ:……もう戻らない、輝かしき青春の日々……、か。 トシコ:だけど忘れんじゃないわよ。 トシコ:アンタはその相棒として、不動のキャスト班トップとして、全国の舞台に立ち切ったんだから。 シイナ:……、……。 シイナ:年功序列だよ。学年の順番が回ってきただけの、 トシコ:(遮り)部内オーディションに落ちて、泣いて裏方に回って最後の本番をやり切った皆の前でも。 トシコ:同じ事が言えんの? シイナ:…………、 シイナ:ごめん。 シイナ:浅はかだった。 トシコ:今日は許す。 0:暫しの、緩やかな沈黙。午後の店内に客は少ない。 シイナ:……謝ってばっかりだな、近頃。 トシコ:成長したってコトでないの、少しは。 シイナ:だと良いけどね、まったく。 シイナ:……は。秘密を喋ってすっきりしてしまった。 シイナ:コレで地獄落ちだな、私も。 トシコ:気が早い。 トシコ:無力だろうが、非力だろうが。 トシコ:人生は続くのよ。天命の果てるその時まで。 シイナ:……ご尤も。 シイナ:なればこそ、この世に憂い煩いの種は尽きまじ……、と。 シイナ:いやはや。 0:ず、と二人、微温くなった紅茶を啜り。 トシコ:……にしても。あらためて。 トシコ:呪われてるとしか思えないわね、あの町は。 シイナ:あの町? トシコ:「読辺川(よみべがわ)北中学」、でしょ、バス事故に遭った学校。 トシコ:聞き覚えない? シイナ:(黙考) シイナ:……、……、 シイナ:あっ、 トシコ:何年か前に。 トシコ:小学校で子供が、事故や事件で何人も亡くなったのも……、 シイナ:読辺川(よみべがわ)町、か……、そういえば、 トシコ:普通さ、一つの町で、 トシコ:10年も経たない間に、子供がそれだけの数亡くなるなんて……、さ。 シイナ:……天文学的な確率、かもね。 シイナ:いや、案外そうでもないのか? トシコ:下手したら、小学校でも中学でも、同級生を喪くした子がいるんじゃないの。 シイナ:……壮絶、だな、人生の序盤から。 シイナ:……、…………、 トシコ:結局、苦しむのはこの世に残った側だからね。 トシコ:死者には死者の苦しみがあるけど、生きてる間は想像しか出来ない。 シイナ:……生きて残った苦しみ、か。 シイナ:まさしく、先輩の……、 トシコ:アンタはさ、 シイナ:うん? トシコ:お見舞いなり何なりに行こうとは思わなかったの。 トシコ:事故を知った時。 シイナ:……っ、 シイナ:それは、 トシコ:責めてるんではないからね。念の為。 シイナ:それは、わかる、けど、 シイナ:……、…………、 0:内省に浸る面差し。カップから上がる湯気は既に失せている。 シイナ:……どうして、だろう。 シイナ:思い付かなかった訳ではない、けど、 トシコ:連絡先は? シイナ:交換は、してなかった。 シイナ:でも……、伝(つて)を辿れば、どうとでもなった筈なのに。 トシコ:それこそ、あたしがマヒロと繋がってるし、ね? シイナ:……、…………。 シイナ:こう、思い悩む振りをしつつも。 シイナ:それに関してはもう、結論が出てるんだよな。 トシコ:自分じゃ手に負えないと思った? シイナ:……っ、 0:沈黙。 シイナ:…………。 トシコ:黙るのはおよし。 シイナ:…………何というか。 シイナ:タマンナイね。この容赦の無い感じ。 トシコ:容赦や忖度じゃ前に進まないじゃないさ。 トシコ:舞台も、人生も。 シイナ:仰る通り。 シイナ:…………そうだね。とどのつまりが、そんなトコ。 シイナ:想像が、出来なかった。 トシコ:サチカ先輩の気持ちが? シイナ:あらかじめ用意しておく台詞が、思い付かなった。 シイナ:その状態で面と向かっても、どうすることも出来ないだろうな、なんて。 トシコ:アドリブ弱いもんね、昔から。 シイナ:…………、あと、 トシコ:あと。 シイナ:怖かった。シンプルに。 トシコ:ふむ。 シイナ:自分には想像もつかないような事態を経験した、サッちゃん先輩が……、 シイナ:前と同じサッちゃん先輩じゃなくなってたらどうしよう、って。 シイナ:……ビビったんだね。 トシコ:どうだったのさ、実際。 シイナ:……先輩は、先輩だったよ。 シイナ:ただ、でも、そうだったからと言って、 シイナ:……、……、 トシコ:……その様子だと。 トシコ:挑む気にもなれなかったみたいね。 トシコ:「妖怪」に。 シイナ:ようかい?? トシコ:前に言ってたじゃないさ。 トシコ:お店に入りたての頃、仕事を教わった人から、そんな話を聞いた、って。 シイナ:……あー。それか。 トシコ:夜の、お酒を出す場所の仕事は。 トシコ:時として「妖怪退治」みたいになる時がある、って。 トシコ:あたし、結構印象に残ってんのよね、あの話。 シイナ:フとした拍子に人間が「化ける」妖怪を、宥(なだ)めて、すかして、お酒を供えて……、 シイナ:暴れ出したり、消え失せたりしないように調伏(ちょうぶく)するようなシゴトだ、ってね。 シイナ:……あのヒトらしい、ロマンチックなんだかナンなんだかワカンナイ言い回し。 シイナ:……そうだな。それで言うなら……、 トシコ:やっぱり手に負えなかった? シイナ:修行が足りなかったね。仕置人としての。 シイナ:……結構、色んな妖怪と渡り合って来たんだけどな。 トシコ:まあ、ねえ? 私が聞いたってどうしたら良いかわからないような話だし。無理も無いんでないの。 トシコ:……そいで、 0:不意に、品よく、どこか艶めく仕草で足を組み替え。 トシコ:どうすんのさ。次の一手は。 シイナ:……っ、 0:切れ長の眼が長身の女性を真っ直ぐ見据える。逃れ難い、蔓植物の如き眼差し。 シイナ:どう、ってね……。 シイナ:つまり、まさしくソレが問題な訳で、 トシコ:現状の自己分析はよくわかったわさ。 トシコ:冷静に、自分を解釈出来てるとも思うわよ。 トシコ:で。 トシコ:そいで、アンタはどうしたいと思ってんのさ、ってところ。 シイナ:今日そこまで話を進めなきゃ駄目……? シイナ:もう少し段階を踏んで、 トシコ:あたしに相談したのが運の尽き。 トシコ:ぬるま湯で受け止めてほしいなら、ヨソを当たる事ね。 シイナ:ええーー……、 シイナ:うゥーーーん……、 トシコ:濡れた犬みたいに唸るんじゃあないの。 トシコ:……そうね。 トシコ:今、一通り、アンタの話を聞いて。 シイナ:うん……、 トシコ:今の、アンタの現状や。 トシコ:サチカ先輩が歩んだであろう経緯や。 トシコ:そして話を聞いたあたし自身の、環境や、状況や。 トシコ:全部の「流れ」を鑑みて、思い付いた事が一つある。 シイナ:思い付いた、こと……? シイナ:ていうか、トシコの状況も? トシコ:それは上手く運べば、全てにケリを着ける妙案になるかもしれない。 トシコ:そして関わる全員の運命に沿わなければ、何ら実を結ばずに、事態を悪戯にややこしくして終わるかもしれない。 トシコ:いずれにせよ、 0:そばかすの女性の決断的な口調に、長身の女性は圧倒され気味。 トシコ:近い内に、「ある人」を連れて店に行くから。 トシコ:覚悟を決めておくように。 シイナ:……、……、 シイナ:な……、何……? 0:運命は時として唐突にドアをノックする。 0:窓の外、空にはいつしか雲が立ち込め、流離と流転の気配が世界を覆い。 0:暗転。 0:【終】 : : : : : : 0:【薄れ、ぼやけた記憶】 0:2020年12月21日、午前10時6分。 0:とあるスキー場に隣接するホテル。 0:自販機スペース横の、木製ベンチ。 0:眼を閉じ腰掛ける女性教諭のもとへ、男性教諭が歩み寄る。 男性教諭:叶納寺(かのうじ)先生。 女性教諭:(微睡みより醒め) 女性教諭:ん……、 女性教諭:あ……、……はい、 男性教諭:ああ、すみません。 男性教諭:起こしてしまいましたか、 女性教諭:鮎川(あゆかわ)先生……、 女性教諭:いえ、すみませんあの……、 女性教諭:一息つこうと座り込んだら、私……、 女性教諭:今、何時でしょうか、 男性教諭:十時ちょっと過ぎ。 男性教諭:まだ、大丈夫ですよ。 女性教諭:バスの出発が十二時十五分だから……、 女性教諭:最終点呼は正午、その前に4組の部屋をもう一度、周っておかなくちゃ……、 男性教諭:十時半ごろからボツボツで、大丈夫でしょう。 男性教諭:僕も去年や一昨年は、朝礼の後に一眠りしましたよ。 女性教諭:スキー合宿の、教員の起床が五時半とは思いませんでした……。 男性教諭:早すぎるんですよ、毎年。 男性教諭:みんな言ってるんですけどね。 女性教諭:いえ……、でも準備は、早い方が。 女性教諭:あの……、すみません、何か今、 男性教諭:いや、いや。 男性教諭:自販機に珈琲を買いに来たら、お見かけしたから声をかけただけで……、 男性教諭:あ、珈琲、先生も飲まれますか、 女性教諭:いえっ、そんな、 男性教諭:ご遠慮なされず、今どき珍しく100円ですし、 女性教諭:いえ、あの……、 女性教諭:私、珈琲が、ちょっと、 男性教諭:苦手ですか。 女性教諭:相性が良くなくて……、 女性教諭:胃が気持ち悪くなってしまって、 男性教諭:成る程。 男性教諭:他も色々、ありますよ、 女性教諭:本当に、お気持ちだけで……。 女性教諭:魔法瓶に飲み物、ありますので、 男性教諭:そうですか、 男性教諭:じゃ、自分だけ……、 男性教諭:御免しますね。 女性教諭:いえそんな……。 女性教諭:こちらこそごめんなさい、 男性教諭:謝るような事じゃ……、 男性教諭:あ、お互い様ですか。 0:男性教諭は自販機にて珈琲を購入。 0:ゴトン、とホットの落下音。 男性教諭:「御免する」ってね、謝ってる訳じゃなくて、ただの口癖なんですが、 女性教諭:仰られてますね、よく……、 男性教諭:地元の方ではね、みんなよく言うんですけど。 男性教諭:方言だって後から知って。 女性教諭:鮎川先生ご出身は、 男性教諭:全然、塚淵(つかぶち)県内ですけどね。 男性教諭:「飛桶(とびおけ)」ってね、叶納寺先生は東京ご出身だから、知らないとは思いますが……、 男性教諭:問答山(もんどうやま)丘陵の近くですね、まだ有名な範囲で言うと。 女性教諭:風光明媚というか、景色の良い所ですね。 男性教諭:本当にド田舎ですけどね、ただの。田んぼと工場ぐらいしか無い……。 男性教諭:山の方に行くと棚田とか古墳とか、ありますが。 女性教諭:素敵だと思います。 女性教諭:私も高校まで、山の中の全寮制の学校だったので、自然の多い所は落ち着くというか……、 男性教諭:「釈葉(しゃくよう)」のご出身なんですよね、確か。 女性教諭:はい……。 女性教諭:クラウス・リモン墓地の近くの、 男性教諭:あんな辺りなんて、全然都会だと思っちゃいますけどね……、 男性教諭:なんというか本当に、どん詰まりの田舎なんですよね、飛桶の辺りは。 女性教諭:そんなことは……。 0:男性教諭は一口、手の内の珈琲を啜る。 0:忙しなさの狭間、午前の微睡んだひととき。 女性教諭:今はそこから、学校の近くに出て来られて……、 男性教諭:いえ、通いです。 女性教諭:え? 男性教諭:車で。 女性教諭:え……、どちらから、 男性教諭:その、飛桶から。 女性教諭:……、 女性教諭:毎日、ですか……? 男性教諭:勿論。言って2時間かかりませんから。 男性教諭:帰りはかなり空いてますし。 女性教諭:あ、それで、いつも……、 男性教諭:するっと帰るでしょう、いつも。最近ようやくね、少しは効率よく仕事を終えられるようになりましたけど……。 女性教諭:そう、なんですか……、 女性教諭:自分が、赴任を機に移り住んできたくちなので、皆さんそうなのかと……、 男性教諭:結構、遠くから通いの方も多いですけどね。 男性教諭:まああんまり学校に近いのも、生徒や保護者に顔を刺すので良くないとされてますし……。 女性教諭:失礼でなければですが……、 女性教諭:どうして、 男性教諭:あ、地元からわざわざ通いなのか? 男性教諭:あるあるですけどね、最初は母親が移住をしたがらなかったのと……、 女性教諭:ああ……、 男性教諭:今はもう、母は死んで居ないんですが。 男性教諭:あと、僕は地元で結婚をしたんですが、妻は出戻りというか、都会から地元に帰って来たので……、 男性教諭:僕は通える距離だし、引っ越しがあんまり多いのもと、思ったので。 男性教諭:ま、色々と、兼ね合いですね。 女性教諭:……なるほど。 女性教諭:皆さん、色々と……、 男性教諭:ありますよねえ、そりゃ。 男性教諭:沢山居ますし。生徒よりは少ないとはいえ。 女性教諭:はい……。 0:ふと、窓の外、雪を頂く雄峰へと眼をやり。 女性教諭:……子どもたちは、本当に、本当に沢山、居ますよね……。 男性教諭:少子化って言ってもね。 男性教諭:教師も減ってますしね。 女性教諭:私……、正直1年目がこんなに大変だとは、 男性教諭:来年度はもっと大変だと思いますよ。 男性教諭:管理職の方針でね、初めから色々、慣れてもらうという……。 男性教諭:多分担任持たされるんじゃないかな。 女性教諭:思いやられます、自分に……。 女性教諭:来年の今頃、どうなってる事か……。 男性教諭:楽しい事は、ありますか。 女性教諭:え……? 男性教諭:仕事なので、大変なのは多分、ずっと変わらないとは思いますが……。 男性教諭:仕事も含めて、日常の暮らしの中で、 男性教諭:楽しいと思える時間って、ありますか。 女性教諭:……、…………、 0:女性教諭は沈思黙考。 0:男性教諭はもう一口、珈琲を啜り。 男性教諭:僕は無かったです。3年目ぐらいまで。 男性教諭:公立って本当に碌なもんじゃないと、毎日思ってました。 女性教諭:…………、 女性教諭:私は……、 0:内省を湛えた声が、暖房で温もった空気へと混ざる。 女性教諭:毎日、本当にてんてこ舞いで、ご迷惑をかけっぱなしですが……、 男性教諭:案外そうでもないですけどね、はたから見ていると。 女性教諭:生徒の皆と、お話をするのは楽しいです。 男性教諭:いつも? 女性教諭:……、 女性教諭:偶に。 男性教諭:はは……、正直で良い。 女性教諭:家庭環境も……、生育環境もみんな、それぞれ違って。 女性教諭:価値観の違いに触れると、新鮮な驚きがあって。 女性教諭:自分の見識の浅さ狭さを、思い知れるようで。 男性教諭:僕たち教師はね。 男性教諭:生徒や、そのご家庭を通して、社会に触れるしかありませんもんね。 女性教諭:社会? 男性教諭:教育大を出て、まあ何年か一般職を経たりする人がいたとしても、大抵はそのまま、ずっと「先生」って呼ばれる仕事でね……。 男性教諭:直接には社会を、やっぱり知らずに、定年まで行くんですよね。 女性教諭:……、どう、なんでしょうか、 男性教諭:僕は父方が代々、田舎の教員なんですけど、やっぱりそういう所があるなと、昔から思っていて……。 男性教諭:そうはなるまいと、思いつつも結局、自分も教師をやってるんですけど。 女性教諭:……、特殊な、環境ではありますもんね、学校って。 男性教諭:義務教育は特にね。 男性教諭:まあ……、それ自体は変えようのない事ではあるので。 女性教諭:自覚が大切だと、いうことですね。 男性教諭:気を付ける他、無いですね。 男性教諭:……とはいえ、 女性教諭:はい、 男性教諭:まあ、あまり、堅く構えず。 男性教諭:楽しい事がちょっとでもあるなら、少なくとも1年目の僕よりかは有望ですから。 女性教諭:……、…………。 女性教諭:頑張ります。 女性教諭:頑張って、力を抜きます。 男性教諭:それが良いですね。 男性教諭:最初は、余裕がある「フリ」からで。 女性教諭:……「振り」……、 男性教諭:そろそろ、行きますか。 女性教諭:はい、あの……、 男性教諭:(立ち上がりつつ) 男性教諭:よいしょ、 男性教諭:ああー……、寒そうだな外……。 女性教諭:お話、出来て良かったです。 男性教諭:いえ……。 男性教諭:まあ、普段学校ではなかなかね。 男性教諭:僕は早く帰りたいから、飲み会なんかにも出ませんし。 女性教諭:自分は、まだ初めたてで、若くて、未熟ですが……、 女性教諭:その分「未来」に、まだ余地がある、と。 女性教諭:……騙し騙し、行きます。 男性教諭:未来ね……、 男性教諭:まあ、残された未来の量で言ったら、それこそ生徒たちには敵いませんけどね……、 女性教諭:ふふ、フ。それはそうなんですが。 女性教諭:私が言っているのは……、 0:語り合う声が遠ざかり。 0:無人の自販機スペース。窓に映る白銀の風景は、永劫に不変であるかのように思われた。 0:例になく、時候にしては強かな日差しが、山の大気と積雪を温める。 0:温める。 0:温める。 : 0:ホワイト・アウト。 0:【終】

0:【注意】 0:「声無き誰かの声」は、今や永久に、この世に響く音を喪った人々の声です。 0:故に、声に出してはいけません。 : : : 0:【以下、本編】 シイナ:或る、心象のうた。 サチカ:ますぐなるもの地面に生え、 サチカ:するどき青きもの地面に生え、 サチカ:凍れる冬をつらぬきて、 サチカ:そのみどり葉(ば)光る朝の空路(あきじ)に、 サチカ:なみだたれ、 サチカ:なみだをたれ、 サチカ:いまはや懺悔(ざんげ)おわれる肩の上より、 サチカ:けぶれる竹の根はひろごり、 サチカ:するどき青きもの地面に生え。 声無き誰かの声:「わたしはあなたをゆるします。」 サチカ:光る地面に竹が生え、 サチカ:青竹が生え、 サチカ:地下には竹の根が生え、 サチカ:根がしだいにほそらみ、 サチカ:根の先より繊毛(せんもう)が生え、 サチカ:かすかにけぶる繊毛が生え、 サチカ:かすかにふるえ。 サチカ:かたき地面に竹が生え、 サチカ:地上にするどく竹が生え、 サチカ:まっしぐらに竹が生え、 サチカ:凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、 サチカ:青空のもとに竹が生え、 サチカ:竹、竹、竹が生え。 声無き誰かの声:「祈(いの)らば祈(いの)らば空に生え、 声無き誰かの声:罪びとの肩に竹が生え。」 サチカ:みよすべての罪はしるされたり、 サチカ:されどすべては我にあらざりき、 サチカ:まことにわれに現われしは、 サチカ:かげなき青き炎の幻影のみ、 サチカ:雪の上に消えさる哀傷(あいしょう)の幽霊のみ、 サチカ:ああ かかる日のせつなる懺悔をも何かせん、 サチカ:すべては青きほのおの幻影のみ。 0:タイトルコール。 シイナ:『シェルパ・ティーには遅過ぎる』 0:某月某日、某時刻。とあるバーの店内。 0:開店よりやや経ち、店内には女性店員が1人。伸びをし、カウンター内の木椅子に腰掛けようとした所、ドアベルの冷えた音。 0:外気が吹き込み、女性客が入店。 シイナ:いらっしゃァーい、どうぞォ、 サチカ:……、こんばんは……。 シイナ:(視認するや否や、立ち上がり) シイナ:っ!! シイナ:……あ、あっ……、 シイナ:サっちゃん先輩っ!! 0:店員の眼には驚愕の色。 サチカ:良かった……、 サチカ:シイちゃんの日、変わってなくて。 シイナ:うっわ……、お久しぶり! サチカ:ちょうど1年ほど、かな。 サチカ:本当に長く、来られなくて……。 サチカ:他の、皆さんはお元気? シイナ:いやァーーっ、いやっ、 シイナ:……、だって、 シイナ:……だって大変、だったでしょ。 シイナ:あんな……、 サチカ:うん、うん……、 サチカ:そうなの、本当に。 シイナ:他の二人も……、まァ、普通に元気で。 シイナ:マジで心配、してた。そりゃ。 サチカ:うん……。 サチカ:本当に、ご心配おかけしてしまってどうも、 シイナ:(遮り)謝っちゃ駄目だよ、今回ばっかりは。 シイナ:口癖なのは知ってるけどさ。 サチカ:…………、 サチカ:そう、ね、 シイナ:良かった。本当に。 0:店員の目は、珍しく真摯な光を湛えている。 シイナ:ハグ、していいかな。嫌で無ければ。 サチカ:……嫌な訳、無いわ。 サチカ:そう、よね……、まずは無事の、ご報告だもんね。 シイナ:(カウンターを出つつ) シイナ:そうだよ。 シイナ:……、体は……、 シイナ:怪我の、具合は、 サチカ:もう、大丈夫。 サチカ:ふ、フ。抱いても折れたりしないから。 0:二人、向き合い、 シイナ:色々……、そりゃ色々、あっただろうし、言われた、だろうけど。 0:抱き合う。女性客の身に、店員の手の温もり。 シイナ:ありがとう。生きててくれて。 サチカ:…………、 サチカ:うん、うん。 シイナ:柄にもなく、さ……、 シイナ:神サマに感謝したんだから。 サチカ:……、君が? サチカ:天地が……、ひっくり返るわね。 シイナ:大切な先輩を、この世から奪わないでくれて、って。 シイナ:……本当に、良かった……。 0:抱きしめる手に力が籠もる。 サチカ:……ふフ。痛いよ、シイちゃん。 シイナ:あ……、すみません。 0:店員は抱く腕の力を緩め。 サチカ:いつもは掴み所がないのに。 サチカ:こういう時だけ、躊躇わずまっすぐ来るんだから。 サチカ:そのギャップで可愛い後輩を何人も、泣かせて来たんだもんね? シイナ:あは、今その話ィ? 0:語調をあらため、 シイナ:……先輩が……、 シイナ:恩義ある、先輩が。 シイナ:教科書に乗るような、未曾有(みぞう)の大事故からたった1人、生還したのを前にして……、さ。 シイナ:こうでも来なきゃソイツは、ただの冷血漢だよ。 サチカ:……、 サチカ:たった、1人……、 0:女性客の、品良くデザインされた眼鏡の奥に、吹雪の如き気色。 シイナ:センセーショナルに捉えてる訳じゃないから、決して。 シイナ:大袈裟なのは、劇部時代の癖で、 サチカ:うん……、うん。 サチカ:わかってる。兎に角、座るわね。 シイナ:ああ、失礼……。どうぞ。 0:店員は恭しく席を指し、促す。 0:ドアの向こう、高架下を吹き抜ける風の音は乾いている。 0:女性客は席に着きつつ、大ぶりなマフラーを解き。 シイナ:さ、その、素敵なマフラーは、 サチカ:これ、ね……。大きくて長くて、お気に入りなの。 シイナ:シックで良い。そこの台にでも置いてね。 シイナ:そしてコート掛けはこちら。はァい。 サチカ:ありがとう……。 0:店員は慣れた手付きで、生地の厚いネイビーブルーのコートを受け取り、骨董調のコートハンガーへと、滑らかに吊るす。 サチカ:ふふ、フ。 サチカ:キビキビして堂に入(い)った給仕(ギャルソン)っぷり。惚れ惚れするわね。 シイナ:でっしょォー? コッチの方が向いてるんだって、絶対。 サチカ:王子様扱いより? シイナ:あっは、お笑い。 0:店員はカウンター内に戻り、客の前にコースターを出す。かちゃり、とブリキの小気味よい音。 シイナ:狂ってるよねェ、女子校ってホント。 シイナ:ちょっとタッパがあるだけでさァ、 サチカ:ロマンじゃない? 何よりも。一度は憧れるもの。 シイナ:体(てい)良く役に嵌められちゃった3年間でしたよ。ソレだって苦手じゃ無いけども。 サチカ:ふフ……。 シイナ:さてもさても……、 シイナ:積もる話の前に、まず何か、 サチカ:ええと、お酒の前に……、 サチカ:ちょっと、お白湯(さゆ)を1杯、 シイナ:あは、勿論。 サチカ:良いかしら……? お腹と喉を温めたくて。 シイナ:かっしこまりました。待ってね。 0:店員は棚から、マグカップを見繕う。 サチカ:ごめんね? 他にお客さんが来たら、注文を……、 シイナ:お気になさらずー。 0:ポットを前に作業しつつ。 シイナ:ふっふ……、懐かしいや。文芸部の部室が。 サチカ:私の不良行為、ね。 サチカ:舶来品のティーカップで……、 シイナ:アンティークの、リアルオールドウィローでさ。 シイナ:静々(しずしず)とお茶を飲んでる綺麗な先輩がいるなァ、と思って、 シイナ:「茶葉は何です?」って話しかけたら、 サチカ:「これ、お湯なの」ってね。 サチカ:ふフ、覚えてるわ。 シイナ:楽で面白い人だ、って直感したよね。 シイナ:以降3年……、 サチカ:見事に、入り浸られちゃったわね。 サチカ:サボタージュ常習犯の君を連れ戻しに、よくトシコちゃんが……、 シイナ:乗り込んで来たっけねェ。 シイナ:私の減らず口によく耐えたモンだよ、アイツも。 シイナ:「読書中は静かに、トシコくん」、なんて。あっはは。 サチカ:ふふフ。 サチカ:でも偶に……、一服して、お菓子まで食べて帰っていったわよね。2人揃って。 シイナ:あの部室の居心地の良さは普通じゃなかったからねェ。 シイナ:トシコも何だかんだ、2年に上がる頃には専用のカップまで決まってたし。 サチカ:名字が「鳳(オオトリ)」だから。鳳凰(ほうおう)柄のカップ。 サチカ:あれは確か……、 シイナ:有田焼きだったよね。香蘭(こうらん)だったかな。 サチカ:懐かしいわ……。 サチカ:あのカップ達は今の部室にも、受け継がれているのかしらね。 シイナ:ドジな娘(こ)が割っちゃってなければ、ね。 シイナ:そうそう……、姫の、妹ちゃんも今、文芸部なんだってさ。 サチカ:まあ、ケイジュの? サチカ:妹さん……、ケイカちゃんね、確か。 シイナ:だったと思う。2年かな、今。 サチカ:私達の……、思い出のお部屋も。 サチカ:今は、誰かの青春の現場なのね。何だか不思議な気分。 シイナ:我々もまた、今を生きなければ、というところで。 サチカ:……、 サチカ:……ね。 0:店員はフと笑み、耐熱グラスに満たされた、適温の白湯を供する。 シイナ:ハイ、当店でお出し出来るいっぱいいっぱいの、最高級のお湯でございまァす、と。 サチカ:ふふ、フ。大切に頂かなきゃ。 サチカ:ありがとう。 0:す、と含み、ほ、と息を吐く。 サチカ:……うん。熱すぎず微温(ぬる)すぎず。 サチカ:いい塩梅(あんばい)。 シイナ:あは、やった。 シイナ:数年ぶりに聞けた。 サチカ:え? シイナ:「イイ塩梅」。 サチカ:ああ……。ふフ。 サチカ:元々は、祖母の口癖だったんだけど。 シイナ:煎茶の要領でね。和洋ともに、たっぷり手管を仕込んで頂きましたので。 サチカ:文芸部の伝統。 サチカ:……ふフ。君は演劇部だけど、ね。 シイナ:ええ、ええ。 シイナ:副部長にしてサボり魔の、不良部員でしたとも。 シイナ:いや懐かしき……、遠く帰らぬ学び舎の日々、と。 シイナ:…………、 シイナ:にしても、 0:閑話休題。店員は些か、慎重に。 サチカ:……、うん。 シイナ:本当に。お久しぶり。 シイナ:……もうじき1年になるのかな。 シイナ:あの、事故から。 サチカ:……ええ。 サチカ:今日は……、ね、 サチカ:久々に、寄せて、もらったのは……、 0:女性客の顔色は、心無しか青い。 声無き誰かの声:「話すの……?」 サチカ:……っ、 声無き誰かの声:「話して、楽になりたいの?」 サチカ:……、……、 0:女性客の目の奥に、揺らぎ。 0:様子を窺う店員の語調は、徐(おもむ)ろ。 シイナ:今日は……、 シイナ:ずっと、他のお客が来るまで、 シイナ:……何なら、スタッフ急病に付き、看板を消しても良いし。 シイナ:昔の……、他愛の無い思い出や、軽薄に楽しめる事を話して、夜を明かしませんか。 サチカ:…………、 シイナ:ご所望とあらば、ずっとあなたを膝に抱いて、その黒い髪を撫でて差し上げたって良い。 サチカ:…………。 サチカ:いつかの夜に。 サチカ:私が君に、してあげたように? シイナ:そうです。 サチカ:…………。 0:絡んだ視線は、しかし外され。 サチカ:前は……、言いそびれて、いたんだけど。 サチカ:今の髪型、とっても似合っているわ。 シイナ:……、どうも。 シイナ:卒業のタイミングでバッサリ行った時は、 サチカ:嘸(さぞ)かしショックがられたでしょうね。 サチカ:君の長くて豊かな髪は、本当に魅力的だったから。 シイナ:引っ詰めにして鬘(かつら)を被って、騎士サマだの子爵サマだのを演じる必要もなくなった矢先に、ね。 シイナ:ま、少し……、思う所、ありまして。 サチカ:楽に、なった? シイナ:腰までのロングに比べれば、ね。 シイナ:シャンプーやら何やら、半分以下の減りだし。 サチカ:ふふ、フ。 サチカ:君らしい。 0:女性客は、湯気立つカップを傾ける。 サチカ:…………、ありがとう。 サチカ:でも、私……、 0:ぼう、と。眼鏡の奥の瞳に、虚ろな光の灯され。 サチカ:話す、わ。 サチカ:聞いて、ほしくて。 サチカ:それで、今日……。 シイナ:……勿論、ご随意のままに。 シイナ:ただし自分のペースで、ね。 サチカ:うん、うん……。 サチカ:…………。 0:呼吸を整え。 0:眼を閉じ、そして開き、 サチカ:……先に、報道が、あったのよね。 シイナ:そう、だね。 シイナ:忘れもしない。12月、21日。 サチカ:あの子たちの…………、 サチカ:時間が、途切れた日。 0:永劫、未来を得る事の出来ぬ彼らの話を、女性客は始める。 サチカ:とても、空気の澄んだ日だったわ。 シイナ:ニュースをね、見てたんです。丁度。 シイナ:ここの出勤の前で……、 サチカ:午後1時、37分。 サチカ:…………。 サチカ:……この、いま着けている、腕時計、 シイナ:……、時計、 サチカ:その時間でね、止まっているの。 シイナ:……、 シイナ:それは、 サチカ:借りてた、の。私が引率の、班の子に。 シイナ:……、……、 サチカ:雪崩(なだれ)という物について。 サチカ:通り一遍の知識しか持ち合わせていなかった。 サチカ:新任の、1年目で……、 サチカ:スキー合宿の引率なんて、ね。 サチカ:緊張していたし、一通り、調べはしていたけれど……、 シイナ:雪山に、ついて。 シイナ:……長野、だよね。 サチカ:うん。 サチカ:……私達のバスが行き帰りする筈だった、「降馬岳(おろばたけ)」は……、 サチカ:明治期以降、目立った雪害や、道路への深刻な雪崩事故の記録も、無くて。 サチカ:勿論、条件として好適で、安全だとされて来たからこそ……、 シイナ:(言葉を継ぎ) シイナ:スキー場が拓(ひら)かれて、学校行事の合宿地にも、選ばれて来た訳だもんね。 シイナ:……でも、 サチカ:うん。 シイナ:例えば……、 シイナ:空から飛行機が落ちて来るのを懸念して、頑なに家から出るのを拒むヤツが居たら。 シイナ:あるいは頬をはたいて、引っ張り出すかもしれない。 シイナ:それが……、決してこの世の誰にも、否定し切れやしない虞(おそれ)だという事実には、目を瞑って。 サチカ:そして航空機墜落の現場に居合わせるよりは、ずっと、確率の高い出来事だものね。 サチカ:何せ……、私たちを圧し潰した、 声無き誰かの声:(遮り)「俺たちを、だろ。」 サチカ:(小声で) サチカ:……そうね。 サチカ:(声量戻り)いいえ。 サチカ:あの子たちを。私以外の皆を押し潰して、凍えさせた雪と、土砂は。 サチカ:いつだって私たちのすぐ側に、あったのだから。 シイナ:…………。 シイナ:バスは……、4台で、全部? サチカ:うん。 サチカ:有志の生徒だけと言っても、2年生の、殆ど全員。 サチカ:…………世界が震える音を、聞いたと思った。 シイナ:……、世界が。 サチカ:去年は、折からの暖冬で……、 サチカ:昼夜の寒暖差が、激しかった、わね。 シイナ:今年も大概だけど……、そうだね。 シイナ:昼間は暖かい日が、多かったね。 サチカ:バスが進む予定のルートに……、 サチカ:と言っても、一本身なんだけど。 サチカ:規模の小さい雪崩、というか、雪の塊が崩落する事故があって。 シイナ:午前中に、だよね。 サチカ:そう。お昼前に、ね。 サチカ:それで……、あの日は出発後に、どんどん気温が上がって。 サチカ:運転手さんと、学年主任の先生と、コーディネーターの人たちで連絡を取り合って、協議して……、 シイナ:引き返した。 サチカ:うん。万一という事を考えて、大事を取って。 サチカ:合宿所までというより、ある程度安全な、スペースのある地点まで取り敢えず、という判断で。 サチカ:誰も……、それに異論を挟む人は居なかった。 シイナ:その時点に於いては、妥当で賢明な、それ以上しようの無い判断だものね。杞憂に終われば越したこと無い、と。 サチカ:杞憂、ね。 サチカ:…………。 サチカ:古代中国の、「杞(き)」の国の人々は、 シイナ:き? あ、由来か、「杞憂」の。 サチカ:あるとき突然に天地が崩れ去るのを恐れて、日々を怯えて暮らしたというけれど。 サチカ:……世界が、震えて。本当に、天地が逆向(さかむ)くかと思う程の、轟音。 サチカ:何の、前触れも無く……、 声無き誰かの声:「先生が止めてくれたら良かったのに。」 サチカ:…………。 サチカ:たくさんの。 サチカ:余りにも沢山の雪と、土砂が……、 サチカ:私たちの乗ったバスを、押し流して、圧(お)し潰して。 シイナ:……、……、 サチカ:本当に一瞬の出来事だった。 サチカ:ガードレールは……、津波のような雪と土砂の重さを支えるには脆すぎて。 サチカ:バスは玩具(おもちゃ)みたいに崖の斜面を転げ落ちて、谷底まで真っ逆さま。 シイナ:…………、 サチカ:雪崩に引きずられる形で……、 サチカ:連鎖的に起こる地滑り。 サチカ:近年は気候変動に伴って、全国的に、よく見られるようになって来た現象なのだそう、だけど。 シイナ:「土砂雪崩(どしゃなだれ)」、とかとも言うヤツだよね。 シイナ:…………だけど、まさか。 シイナ:まさか、そんな事が、己(おの)が身に起ころうとは、 サチカ:「青天の霹靂(へきれき)」、って。 サチカ:……よく言うけれど、渦中にあっては何が起こったのかもわからない。 シイナ:……そりゃあ、 サチカ:音と、震えと。 サチカ:……すぐ後に襲った、何十トンもあるバスを、まるでお菓子の空き箱を振り回すようになぶる、衝撃。 サチカ:窓ガラスが砕けて、すぐ前に座っていた子の頭が、壁に、叩き付けられて、 シイナ:……っ、うわ、 サチカ:本当に、なぜ自分だけ……、足を折る程度で済んだのか、皆目わからない。 サチカ:息を飲む間に景色が、白く、塗り潰されて……、 サチカ:気が付けば、……、 0:女性客はフ、と震えた息を吐く。 シイナ:大丈夫? シイナ:お湯を。さあ。 サチカ:うん……、 0:熱の引いた白湯のカップを一口、含む。 サチカ:(細く息を吐く) シイナ:……大丈夫、とは愚問だったな。 サチカ:いいえ……。 サチカ:平気、とは正直言えないんだけど。 サチカ:でも……、 0:目を伏せる。 サチカ:もう、冬が、そこまで来ている、から。 シイナ:冬……、が。 0:静寂。女性客の声は微かに震えている。 サチカ:あの、冬が。 サチカ:あの子たちの魂を、永久に閉じ込めてしまった、冬が。 シイナ:…………、サっちゃん先輩、 サチカ:ただ1人、残されてしまった私が……、 サチカ:手向けに出来る言葉なんて。 サチカ:本当は、ありはしないと、思うけれど。 シイナ:……、……、 サチカ:私、誰にも、話していないの。 サチカ:あの時の事を。 シイナ:誰にも? ……それは、 サチカ:勿論、警察や、他の……、 サチカ:当事者としての説明や証言が必要な所では。 サチカ:質問に、お答えはしたけれど。 シイナ:ご家族……、あ、自分のね。 シイナ:とか、友達、とかには、って事かな。 サチカ:……、うん。そう、ね。 サチカ:皆、みんな、本当に。 サチカ:真心を持って、細かな心配りをしてくれたし……、 サチカ:またそうしてくれるだろうと、思える人たちばかり。 サチカ:人にも出会いにも、恵まれていると思う。 サチカ:本当に。 シイナ:そう……、だね。 シイナ:多くの人が、あなたに対しては……、何というか、 シイナ:心尽くしの晴れた顔でなければ、向き合ってはいけない気がするから、だろうね。 サチカ:君も、そんな風に思ってたの? シイナ:柄でもナイかなァ? シイナ:私なりに精一杯、襟を正していたつもりなんでござーますけれども。 サチカ:ふふ、フ。それは、それは。 サチカ:……でも、ね……。 サチカ:それというのは言い方を変えれば、 シイナ:「気を遣わせる性分」? サチカ:……、……。 サチカ:そのように……、私は自覚しているのだけれど。 サチカ:……申し訳なく、なるのね。 サチカ:昔から。思う通りの、暖かい言葉が返って来る度に。 サチカ:コントローラブルな環境に安らぎを覚える癖に、勝手に卑屈になって。 サチカ:気を遣わせる事に、気を遣って……。 サチカ:馬鹿みたい。我が事ながら。 シイナ:「気にしなくても、辛いのはあなたなんだから」、って、 シイナ:他人に言われたってしょうがないヤツだもんね、ソレ。 サチカ:……、うん。そう。 サチカ:だから、ね、心配をしてもらうより……、 サチカ:心配をしている、振りを……、 サチカ:自分が出来ている時の、方が。 サチカ:ずっと楽なの。 サチカ:傲慢、よね。 0:笑みに混じるものは、自嘲かのように思え。 シイナ:……、 シイナ:それを……、 シイナ:そのように理解して、ひとに語る事が出来るという所が。 シイナ:あなたの賢さと、誠実さを証明しているのだなァ、と。 シイナ:ずっとお慕い申し上げている身としましては、 シイナ:感じ入るところですけれど、ネ。 サチカ:ふふ、フ……。 サチカ:何割くらい冗談なのかしら。 シイナ:とーんでもない。 シイナ:(道化けた声を作り)あたしゃコレでも、洒落だけは言わんのが信条でしてねェー、マダム? サチカ:あは、ハ……。 サチカ:それこそ冗談。 シイナ:ふっふふ。 サチカ:…………。 サチカ:ありがとう。 サチカ:甘えているわね、私。 サチカ:ここぞとばかりに。 シイナ:なーんの。 シイナ:ソレがお仕事ですので。ご存分に。 0:ふ、と、笑み混じりに息を吐き。 シイナ:さて……、喉が温まって来たなら、何かお作りしましょうか。 サチカ:そう、ね……、うん。 サチカ:では、何か……、引き続き、温かい物を。 シイナ:ふっふ。きっとそうだろうと思って……、 シイナ:というか、顔を見た時から、お作りしたいと思っていた物があるので、ではソレを。 サチカ:あら……、本当に? シイナ:バーテンとしちゃ、褒められた姿勢じゃナイんだけども。店員のエゴほどお寒いモノは無い、ってね。 シイナ:でも季節にも、ご要望にもフィットしているし……、 シイナ:後はですねェ、 0:す、と背筋を伸ばし、 シイナ:紅茶のカクテルでありますからして……、 0:洒脱に微笑む。 シイナ:緊張しちゃうなァ、ってぐらい。 サチカ:あら……、ふ、フ。 サチカ:私はお茶の先生でも何でも無いのよ。 サチカ:ただ部室で、簡単な淹れ方をレクチャーしただけ。 シイナ:部外の私にも別け隔て無く、ね。 シイナ:なので師匠同然。 サチカ:あら。 シイナ:では少々、お待ちを。 0:店員は作業に掛かる。 0:心地悪くない、暫しの無言。 サチカ:(店内を見渡しつつ) サチカ:照明の風合いが……、少し、変わったかしら。 シイナ:(手を動かしつつ) シイナ:そうね……、ライトの灯体の色をね。 シイナ:この、こういう、黄味がかったっていうか、レトロチックなヤツに変えたから。 シイナ:前にも増して薄暗いんだけど。 サチカ:私は好きだわ。ランプの灯りのようで。 シイナ:ベタだよね、BARとしちゃ。 シイナ:さァてさて、まずはココで……、 0:カウンター内、足元の戸棚より、保存瓶。 シイナ:取り出しましたるは本日の目玉。 シイナ:「干し葡萄」でござい、っと。 サチカ:あら……、もしかして、 シイナ:あは、コレ出て来たらバレバレだよネ。 シイナ:まあ何の奇を衒(てら)うでもなく……、 0:次いで耐熱ガラス製の、妙味あるポットを取り出し、 シイナ:『シェルパ・ティー』をね。 シイナ:供(きょう)させて頂こうと思いまして。 サチカ:ふふフ。 サチカ:エベレストの、ね? シイナ:そーそー。ヒマラヤの案内人、山岳民族「シェルパ」伝来。 サチカ:登山中の疲れを取る為に、飲まれていたと……、 シイナ:伝わっている、という。 シイナ:本場のはヤマブドウだそうだけど。 0:ポットに葡萄を沈め、バースプーンで潰し始める。 シイナ:勿論、なんちゃってではありますが……、 0:眼差しには仄か、熱が籠もり。 シイナ:冬の山で身も心も疲れ切ったあなたを。 シイナ:少しでも癒す事が叶えば、と。 シイナ:及ばずながら。 サチカ:……、…………、 声無き誰かの声:「私らを置いて行った癖に。」 声無き誰かの声:「独りだけ暖まるつもりなんだぁ」 サチカ:…………、 サチカ:ありが、とう。 0:女性客は密か伏し目がち、店員の手捌きを見詰める。 0:濃い色の果肉がバースプーンの背に圧され裂(は)ぜ、解(ほぐ)れる。 シイナ:よっ、し。 シイナ:葡萄を程よく潰したら、ここらで茶葉のご登場……。 シイナ:あ、そこらの、普通ゥーの葉っぱでご勘弁を。 0:缶を開け、匙で葉を掬う。 サチカ:紅茶の葉に貴賤は無いわ。 サチカ:……ニルギリね。 シイナ:ええ、鉄板のね。ポットにサラサラー……、と。 シイナ:よしでは、お湯を……、 0:湯気を上げる錫調の電気ケトルを取り、構える。 シイナ:空気を含ませるように、高い位置から。 シイナ:さって、お立ち会い。 サチカ:ふふフ。逐一実況が入る訳ね。 シイナ:手順を確認しないと、ね。 シイナ:では……、 シイナ:はっ。よっ、はっ。 0:滑らかにケトルを傾け、のち、高く上げる。 0:過たず、適温適量の湯はポットへと。 サチカ:画になること。お金を取れそう。 シイナ:ひひ、副業しようかなァー。 シイナ:……よォし……、よし。OK。 シイナ:注いだら暫し、蒸らしタァイム。 0:ポットにカチャ、と蓋を被せ。 シイナ:あっはァ、緊張したァー。 サチカ:ふフ、どうして? シイナ:今はねー、紅茶をまともに淹れる事、あんまり無いし。 シイナ:久々ですよ久々。 サチカ:相変わらず堂々たる手際。 サチカ:よく……、文芸部一同全員分、振る舞ってくれたわね。 シイナ:今思えば恥ずかしいノリだわァ。役者のハッタリ、ハッタリ。 サチカ:気分って大切だもの。 シイナ:あは。 シイナ:っと。芝居はもう辞めたんだった。 シイナ:どうも、学生時代に戻っていけない……。 サチカ:もう……、完全に、演劇には興味を失ってしまったの? シイナ:……、 0:刹那の沈黙。店員はなんとも言えぬ面持ち。 シイナ:……んん……、 シイナ:ま、という程でも、無いんだけど……、 シイナ:あっ、と。 シイナ:蒸らしてる間にィ、 サチカ:あら。逸(そら)されてしまった。 シイナ:いえ、いえ。 シイナ:カップにお砂糖を、少々、っと。 0:滑らかに手は動き続け。 シイナ:それから……、 0:背後の棚より淡い配色のボトルを取り出す。 シイナ:コレコレ。 シイナ:今日は口当たりを考えてロゼにしよう。 サチカ:ワインを少し、沈めるのよね。 サチカ:その状態の物を飲むのは初めて。 シイナ:と言っても香り付け程度だけど。 シイナ:寒い日は暖まるんだ、コレが……。 0:言い、カップへと薄紅色の酒を垂らし。 シイナ:よし……、と。 シイナ:程なくして……、 サチカ:ええ。頃合いね。 シイナ:良い具合に、葉が開いただろう所で……、 シイナ:よ、っと。 0:ポットを軽く揺らし、静かに持ち上げ、カップへと注ぐ。 0:茶葉と果実、葡萄酒のふくよかな香りが立ち。 サチカ:……良い香り……。 シイナ:ね。はてさて……、味の方の塩梅は、どうかなァ。 0:す、と注ぎ終え。静かにポットを降ろす。 シイナ:後は軽ゥく混ぜまして。 シイナ:最後に少し……、 0:褐色透明の保存瓶より新たに干し葡萄を取出し。 シイナ:追い葡萄、っと。4粒ほど、ね。 サチカ:あら……、贅沢。素敵ね。 サチカ:ふふフ、フ。 シイナ:はァい完成。 シイナ:お待たせ致しましたっ、 0:恭しく供する。カップ&ソーサー。 シイナ:ヒマラヤ式、『シェルパ・ティー』。 シイナ:どうぞ、ご賞味あれ。 サチカ:ああ……。ありがとう。 サチカ:頂きます……。 0:丁寧にカップを浮かし。品良く一口、含む。 サチカ:美味しい……。 サチカ:味と香りが、体に染み透るような……、 シイナ:良かった。 シイナ:ではその……、 シイナ:「アレ」を、賜りたいなァ。 サチカ:ふふフ……。 サチカ:「良い、塩梅」。 シイナ:よォっし! シイナ:コレで、年を越せそうだ、と。 シイナ:あっはははっ。 サチカ:うふふ、フ。 0:交わされる笑みは上等の磁器の如く滑らかであった。 0:もう一口、味わいつつ含み。女性客はカップを置く。 サチカ:本当に……、美味しい飲み方。 サチカ:山の民が疲れを癒やしたのも肯けるわ。 シイナ:……、……ね。 サチカ:あの子たちにも。 サチカ:飲ませてあげたかった。 シイナ:…………、 0:思案。 シイナ:ただし……、ノンアルコールにはなる、けどね? 当店と致しましては。 サチカ:……、ふ、ふふフ。 声無き誰かの声:「黙れよ。偽善者。」 サチカ:……っ。 サチカ:ごめんなさい。 シイナ:……、先輩? サチカ:意味の無い嘘をついてしまった。 シイナ:……、嘘。 サチカ:本当はそんな事、思っていないの。 サチカ:生きて、帰ってからも、 サチカ:そんな事、一度も……、 シイナ:サっちゃん先輩。 シイナ:今日はもう、やっぱり、 サチカ:(遮り)いいえ。 サチカ:話させて。聞いて、ほしい。 サチカ:冬が来る前に、せめて。 サチカ:他の方が来られたら、やめる、から……。 シイナ:…………、……、 シイナ:先、輩、 サチカ:最初、ね……、 サチカ:竹が生えているんだと、思ったの。 シイナ:……、たけ……? サチカ:谷底の……、川に沿って長い距離が、竹林(ちくりん)になっているのを、見ていたから。 サチカ:バスが落ちて……、私は暫く、気を失っていたんだと思う。 サチカ:意識が、戻って……、 サチカ:眼を開けても、真っ暗の世界。 サチカ:本当に、死んだと思ったの、一度。 シイナ:……、 サチカ:でも体の感触があるから……、 サチカ:どうにか手探りで、リュックに吊っていたライトを点けて。 サチカ:でも眼鏡が何処かへ、行ってしまっていて、すぐには状態が、判らなかった。 サチカ:私……、視力が本当に、悪くなってしまっていて、 シイナ:乱読家の宿命として、ね。 シイナ:高校の頃よりも……、 サチカ:輪をかけて、近視が進んでしまったの。 サチカ:殆どぼやけて、輪郭を追えないんだけど。 サチカ:バスが、横倒しになっているのは、体の感覚でわかった。 サチカ:シートベルトを外しても……、ひしゃげた壁と天井が迫っていて、大きく身動きは取れない。 シイナ:本当に……、奇跡的に潰されず残った隙間に、嵌まり込んでいた、って、 サチカ:うん……。報道でもそのように、 シイナ:言ってた、ね。 サチカ:……、潰れて、歪んだ壁の裂け目や、割れた窓から……、雪と土砂が車内の殆どを埋めて。 サチカ:その白い絨毯から……、細くて、長い物が所々に生えている、ように見えて。 サチカ:私は……、 シイナ:……、……、 サチカ:硬い竹の集まった所へ落ちて、バスが貫かれて、しまったのかと思った。 サチカ:竹の先端が壁を突き破って、あちこちに飛び出しているのかって。 サチカ:でも流石に……、そんな訳は無いと、思った辺りで、 シイナ:う、ん……、 サチカ:折れた右足のももの痛みが、戻って来た。 サチカ:それと左の肩を……、強く打っていたみたいで。 サチカ:砕けた、刺すような痛みと、滲み出すみたいな鈍い痛みの中で……、 サチカ:私、しばらく、悶えていた。 シイナ:…………、 シイナ:今は、本当に、 サチカ:完治したし……、後遺症も、無いわ。大丈夫。 サチカ:でもその時は、逃れようのない痛み……、 サチカ:それから、熱いのね、余りに痛いと。 サチカ:のたうち回りながら、でもその中で……、 サチカ:「生徒たちを」、と思って、呼んで、叫んで、みたけれど。 サチカ:声は一つも返らない。 シイナ:……、 サチカ:スマートフォンは圏外。 サチカ:何度試しても、圏外。 サチカ:あと少し、あとほんの少し合宿所に近ければ、違ったんだろうけど。 サチカ:痛みと、今思えば寒さで、朦朧とする中……、 サチカ:漸(ようや)く状況を、飲み込めた時に……、 サチカ:一度、私は、絶望したんだと思う。 シイナ:…………、 サチカ:何台のバスが雪崩に飲まれたのか。 サチカ:私以外に何人、生きて残った人が居るのか。 サチカ:正確な場所も、状態も、救助が始まっているのかどうかすら、確かめる術が無い。 サチカ:GPSが働いていたとして……、 サチカ:雪崩の及んでいる範囲によっては、時間がかかるのか。 サチカ:そもそも、自分たちの事が、伝わっているのか、どうか……。 サチカ:生きている人が居たとして、この潰れた、冬の雪の、生き埋めのバスの中で……、 サチカ:救助が来るまでの間、自分を含めて、本当に、生きていることが、出来るのか。 サチカ:痛みと、恐怖と、抑鬱とパニックの波の中で……、 サチカ:私は独りで、 サチカ:きっと、多分、 声無き誰かの声:「狂ったんだろ。」 サチカ:…………。 サチカ:おかしく、なっていたんだと、思う。 サチカ:ぼやけた眼に映る、伸ばされて、曲がって、節くれ立った、竹のようなモノが……、 サチカ:恐らくきっと、雪に埋まった生徒たちの、 サチカ:腕や、脚や、首、なんだろうと。 サチカ:思い至るのにも、時間がかかった、ぐらい。 シイナ:……っ、……、 シイナ:…………。 シイナ:飲んで。一口。 サチカ:……、うん。 0:女性客は一口、含み。 0:凍えた息。 サチカ:…………、 サチカ:私、嫌になって、ライトを消したの。 シイナ:……、それは……、 声無き誰かの声:「逃げた。」 サチカ:……、 サチカ:硬まった腕や脚や、近くに遠くに埋もれて、横たわる、亡骸のように見えるモノたちを……、認めた、時に。 サチカ:何かが、外れて、しまって。 シイナ:…………、 シイナ:うん、 サチカ:出来る事が余りに無くて。 サチカ:もう、全てを天に任せて、足掻くのをやめようと思った。 サチカ:闇からも、空腹からも、恐怖、からも……、 サチカ:目を閉じて、逃れて、しまいたかった。 サチカ:それで……、 シイナ:闇の中へ。 シイナ:……潜り込んだ、訳だね。 サチカ:うん……、 サチカ:うん。そう。 0:沈黙。 0:店員は注意深く言葉を選んでいる。 シイナ:空腹や……、乾きに、関しては、 サチカ:水筒の、お茶を……、飲んでいて。 サチカ:食べ物、は、 サチカ:…………、……、 0:沈黙。 シイナ:ごめん。もう質問は、 サチカ:ううん。 サチカ:…………、そう、食べ物。 サチカ:…………、 サチカ:あの……、ごめんなさい。 サチカ:どうか、もう少し、話させて、ね。 シイナ:……、うん。 シイナ:勿論。勿論です。 0:女性客の眼差しは虚ろさを増している。 サチカ:私……、強い痛みや、どうしても本当に、やりきれない事が、あると……、 サチカ:痛み止めのお薬を、用量よりも多く飲んでしまう癖が、あるのね。 シイナ:……、それは……、いつから、 サチカ:昔から、よ。 サチカ:出会った頃から。今初めて、人に言ったわ。 シイナ:……、そう、か。 サチカ:だからいつでも、常備していたの。 サチカ:その日も、リュックの中に。 サチカ:だけどお薬をたくさん飲んでも……、骨折や打撲の痛みが、失せる事は無くて。 サチカ:眠ってしまうのもきっと、怖かったんだと、思う。 サチカ:闇の中で眼を開けて。 サチカ:時が止まったような静けさと、靄(もや)のようにボヤけた感覚の中で、 サチカ:ずっと、眼を開けていた。 サチカ:ずっと。 サチカ:…………そうしたら、 シイナ:……うん、 サチカ:声が、 サチカ:……聞こえた、の。 シイナ:声……? サチカ:私を呼ぶ声。 サチカ:私が引率していた、班の子たちの。 サチカ:さっきは……、横たわっていたり、姿が見えなく、なっていたんだけれど……、 シイナ:…………、 シイナ:それ、は……、 サチカ:皆が言うには、ね。 サチカ:遅れて眼が、覚めたんだって。 サチカ:他はわからないけど、とにかく班の5人は、ここにいる、って。 シイナ:……、……、 サチカ:私……、慌てて、ライトを点けようとしたんだけど、 サチカ:「勿体ない」、って。 サチカ:もしも必要な時に電池が切れたらいけないから、って。 サチカ:一度だけ、確認をする意味で、スマートフォンのライトを点けたの。 サチカ:青くて硬い光の中に……、5人の顔は確かにそこに、並んでいて。 サチカ:一息に、安心したのを覚えてる。 シイナ:…………。 シイナ:その、後は。 サチカ:話をしたわ。 サチカ:とにかく生き延びる為には、体力を持たせなければ。 サチカ:眠ってしまわないように、声を掛け合って、意識を保ち続けなければ。 サチカ:心なしか空気も薄い気がするけれど、頑張ろう、って。 シイナ:暗闇の中で? サチカ:うん……、 サチカ:……そうよ? シイナ:…………、 サチカ:普段は斜に構えて、気難しいユモトくんという子が、率先して話を進めて、まとめてくれて。 サチカ:感心、するぐらい。 シイナ:……うん。 0:うつつが揺らぐ、気配。店員は努めて、抑制的。 サチカ:私の班は……、というか、他も揃って、なんだけど。 サチカ:どの子も、方向がバラバラで……。 サチカ:新任にはなかなか、荷が重くて。 サチカ:でもその時ばかりは。 サチカ:まとまりを、感じて。 シイナ:…………。 サチカ:少し擦(す)れているけど、責任感のある、ユモトくん。 サチカ:部活には入っていないんだけど、バスケットボールをやっていて、凄く、熱心で。 サチカ:良い子なの、本当は。 サチカ:腕時計もね、彼が貸してくれたの。 シイナ:…………、 サチカ:班長のコウサカさんは剣道部。 サチカ:いつも、向こうから声をかけて来てくれて……、 サチカ:私の不慣れを、フォローしてくれて。甘えてしまいそうになるくらい。 シイナ:…………、 サチカ:そう、食べ物、ね。 サチカ:持っていたカロリーメイトを分けてくれた、ミネさん。 サチカ:普段は派手なグループで、学業には余り、真面目とは言えないんだけど……、 サチカ:根が善良なタイプというか。 サチカ:可愛らしくて優しい子。とても。 サチカ:ムロトくんは物静かで、読書家で。たまに私と、面白かった本の意見交換をしてたわ。 サチカ:それから、意外と、脚が速くて。 サチカ:それについてユモトくんと、話していたっけ……。 シイナ:…………、 サチカ:そしてマツキさん。 サチカ:賢くて、センスの良い子なんだけど……、 サチカ:それだけに敏感で、1年の頃はあまり、学校に来れていなかったらしくて。 サチカ:でも2年からは少し持ち直して、 サチカ:人見知りという訳では無いから、意外に早く、皆とも打ち解けて、ホッとした。 シイナ:…………。 シイナ:個性豊かなメンツだ。実際。 サチカ:うん……、うん。本当、に。 サチカ:おかげで……、時間が経つのも、早かった。 シイナ:……、 サチカ:皆と……、色々なお話を、する事で。 サチカ:肩と足の痛みも、幾らかは紛れたし。 シイナ:痛み止めも、効いてきたし……? サチカ:…………、 サチカ:ええ。 サチカ:ええ。そう、ね……。 サチカ:それで……、 シイナ:もう一口。さあ。 サチカ:うん……、 0:女性客は促されるまま、一口、傾ける。 声無き誰かの声:「良いよなぁ。自分ばっかり」 声無き誰かの声:「私達はもう、飲めないのにさァー。」 サチカ:……、 サチカ:…………、 シイナ:安心して、話して。 シイナ:私は、ここで、聞いているから。 サチカ:…………、 サチカ:ありがとう。 0:吐く息は依然、凍えている。 サチカ:どのぐらいの時間だったのか……。 サチカ:あの子たちと私は、ずっと話をしていた。 シイナ:……灯りは、それから一度も、点けなかったの。 サチカ:うん。……ええ、そう。 サチカ:何だか不思議と……、暗闇の中で、もう1つの瞼が開くように、景色が見える気がした。 サチカ:賑やかに話すあの子たちの、顔の表情の、細かな所まで。 シイナ:…………、 声無き誰かの声:「ちょっと、楽しかった、ね」 サチカ:(虚ろに) サチカ:うん……。 サチカ:本当に、楽しかった……、 シイナ:サっちゃん、 シイナ:……先輩? サチカ:(引き戻され) サチカ:あ……、 サチカ:うん。 サチカ:……それで……、 シイナ:平気? サチカ:……ええ。 サチカ:そう、色々……、ね、訊かれたのよ。 サチカ:女子校ってどんな所なの、なんて。 サチカ:「女の子同士の恋愛なんて本当にあるの」、だとか。 サチカ:何だか興味津々で。 シイナ:何て答えたの。 サチカ:人に依る、って。ふ、ふフ……。 サチカ:恋愛はプライベートな事だから、どうしても知りたければお友達になってから、本人に直接聞きなさい、ってね。 シイナ:あっは、違いないや。 シイナ:…………、 0:慎重に。新雪を踏むが如く。 シイナ:その、語らいは……、 シイナ:いつまで、 サチカ:長く。 サチカ:きっと長く……、続いたんだわ。 サチカ:きっと。きっと、ね。 シイナ:……、 サチカ:途中で眠ったのか、ずっと眠らずに、起きていたのか。 サチカ:瞼を閉じる必要のない暗闇の中では、同じ事なのかもしれない。 シイナ:……、 声無き誰かの声:「先生マジでさァー、アタシらと一緒のテンションでハシャぐんだもん。」 声無き誰かの声:「オトナのクセになァ?」 声無き誰かの声:「普段は“静かにィ”とか言ってんのにねー。」 サチカ:ふ、フ、そうね……、 サチカ:何だか色々と、麻痺してしまって。 サチカ:学生時代は余り、楽しく騒いで夜を明かす方では、なかったし……、 シイナ:……? 声無き誰かの声:「だからってなァ?」 声無き誰かの声:「ちょっと。先生はいつも大変なんだから。アンタらのせいでっ。」 声無き誰かの声:「マジメちゃんウザぁー、剣道着くっさ。」 声無き誰かの声:「なっ……! アンタの香水の方が臭いからっ!」 声無き誰かの声:「アンタが好きって言ったから選んだヤツじゃん。」 声無き誰かの声:「みっ……! 皆の前ではソレはっ、」 声無き誰かの声:「やめなよ言い合い……、こんな状況で。」 声無き誰かの声:「おォおォ、言ったれムロトぉー。」 サチカ:ふふフ、フ……、 サチカ:本当に……、 シイナ:(訝しみ) シイナ:……先輩、 サチカ:不謹慎、よね。本当。 サチカ:教師、失格…………、 声無き誰かの声:「本当に、ね。先生。」 サチカ:…………うん。 サチカ:うん……。 シイナ:先輩、先輩っ、 声無き誰かの声:「戸賀梨子(とがなしこ)の新刊、予約してたのになぁ。」 サチカ:……、……っ、 シイナ:先輩っ!! 声無き誰かの声:「無かったのかよ、他に。」 サチカ:無かったのよ。 サチカ:出来る事なんて何も。 サチカ:本当に、何も思いつかなかった。 サチカ:教師と言ったって、社会人と言ったって。 サチカ:簡単に、心折れてしまって、 サチカ:お薬を飲んで、瞼を降ろして、思考を止めて……、 シイナ:誰だってそうなるよ! シイナ:こんな、言葉……、1年の間に散々、言われた、だろうけど。 シイナ:あれは完全な自然災害で、不慮の事故。 シイナ:過失も、ミスも、サっちゃん先輩には無い。 シイナ:どう考えても、さ。 シイナ:それに……、 シイナ:それに、だって、 シイナ:……、……、 0:店員は言い淀む。 サチカ:……うん。 シイナ:…………っ、 シイナ:だ、って、 サチカ:わかってる、わ。 シイナ:……ニュースで……、 シイナ:言っていたのを、聞いただけ、だけど。 サチカ:ええ。 0:店員の眼に、決意。 シイナ:……あなた以外の、全ての乗客は。 シイナ:バスが雪崩に飲まれて、谷底に落ちた、時点で…………、 シイナ:1人残らず即死、 シイナ:していたんだから。 サチカ:…………。 サチカ:うん。 0:静寂。 0:店員の眼は戦慄きを隠せず。 シイナ:……それこそ……、ある日突然天地が崩れ去るよりも低い確率の偶然に、あなたは生き残った。 シイナ:眼が覚めた時点で全ては終わっていた。 シイナ:だから、 サチカ:(遮り)わかってるの。 シイナ:……っ、 サチカ:わからずに、喋っていたんじゃないの。 サチカ:ごめんなさい。 シイナ:謝ら、ないで。 サチカ:ありがとう。 シイナ:……っ、……、 サチカ:何度も、説明を受けたから。 サチカ:だから誰にも、言わなかった。 サチカ:言えなかった。 シイナ:…………、 サチカ:生きて、山を降りた後も。 サチカ:居もしない、生徒たちの声が聞こえる、なんて。 サチカ:彼らと語らって、気が付くとあの、凍える暗闇の中に、心を投げ出している、なんて。 サチカ:優しい人たちから、どんな言葉を貰えるか……、 サチカ:手に取るように、わかるもの。 シイナ:…………、 サチカ:そうして都合よく、いつでも瞼を降ろして。 サチカ:罰を、免れているのね。 サチカ:私は。 シイナ:……、……。 0:深い雪のような静寂。 シイナ:…………。 シイナ:死人と、語らい……。 シイナ:冷たい地獄へと、心縛られる事が。 シイナ:罰で無くて、何だと言うのか。 サチカ:仕方が無いのよ。 サチカ:あのバスは、私だけは天国へ、乗せて行ってくれなかったんだから。 シイナ:天国なんて、あるもんか。 サチカ:いいえ。 サチカ:あの子たちは。 サチカ:あの4台のバスに乗っていた、全ての人たちは……、 サチカ:必ず、天国へ行ったと思うわ。 サチカ:だって私だけが遺されたんだもの。 シイナ:先輩、……、 サチカ:運賃が足りなかったのね。 サチカ:残された事が罪なのではなくて、きっと……、 サチカ:私だけが初めから、罪人(ざいにん)であったから……、 サチカ:この地獄で生きるようにと、罰を受けたんだわ。 シイナ:地獄、……。 シイナ:そりゃ……、きっと、事故の後はさぞ、 サチカ:ううん。 サチカ:ずっと……、もっと前からなの。 サチカ:傲岸(ごうがん)に生まれて、不遜(ふそん)に育ってしまった女に取って……、 サチカ:どこまで行っても、この世は地獄である筈だから。 シイナ:思っても無い事をっ! サチカ:違う。 サチカ:さっきも言ったし、君は、初めから気付いていたでしょう。 サチカ:私は外身通りの女では無いから。 シイナ:誰だって、だよ、それもっ。 シイナ:中身のまんまで生きている人間なんていない。 シイナ:その、内と外との軋轢(あつれき)を、どうにかして埋め合わせる為に……、 シイナ:酒や薬や、物語や音楽という物を人類は、 サチカ:(遮り)ほら。 シイナ:っ、…………、 サチカ:簡単、なのよ。 サチカ:皆、二言目には、私が求める言葉を言ってくれる。 シイナ:…………、先輩、 サチカ:みんな、みんな本当に。 サチカ:一人残らずそうだった。 サチカ:父も、母も兄も。 サチカ:先輩も友人も、みんな、みんな。 シイナ:…………、 サチカ:それは、そうよね。 サチカ:私は、生きているんだから。 サチカ:幾ら心を病んで、要を成さなくなったって。 サチカ:拘(かかずら)ってしまったからには、共に生きて行かなければならないもの、ね。 シイナ:……、……、 サチカ:私、もうずっと、お休みを頂いているのよ。 サチカ:実家で、ずっと……、静養と銘打って、 サチカ:偶に、この子たちと、内緒でお話をする事の他に……、 サチカ:何もしていないの。 サチカ:だってこの子たちの他に誰も、 サチカ:「悪いのはお前だ」って、 サチカ:言って、くれないんだもの。 シイナ:それ、は……、 シイナ:……、 シイナ:……あなたに罪なんて、本当に無いんだ。 シイナ:それに、休職は妥当だよ。静養は絶対に必要で……、 シイナ:それこそ遺された者の使命として、未来を生きて行く為に、 サチカ:(遮り)大好きな先輩が狂ってしまって悲しい? シイナ:っ!! 0:絶句。 シイナ:……、……、 サチカ:それとも悔しい、のかな。 サチカ:君はどう思っている? シイナ:……っ、…………、 0:店員の目の端が震え。 0:凍えたように震え。 サチカ:今日……、ここへ、来ようと思ったのが、どうしてだったのか。 サチカ:君に、何を、言ってほしかったのか、 シイナ:先輩、 サチカ:思い出せないの。 シイナ:……、……っ、 サチカ:ごめんね。シイちゃん。 0:沈黙による静寂。 0:女性客の眼の奥の、真なる闇の冷気。 シイナ:……、……、 サチカ:冬が、また来て……、 サチカ:またあのバスへと、戻ってしまわないように、と。 サチカ:思ったの、だけど。 サチカ:自分が言ってほしい言葉も、考え付かないんだから……。 サチカ:聞き分けの悪い子供と同じね、私。 シイナ:そんなことはっ! サチカ:(遮り)でも。 サチカ:求めた言葉は求めたように、得る事が出来るのに……、 サチカ:求めなければ、何もしなければ決して、手を差し伸べられる事の無い、この世界を……、 サチカ:地獄だと呪った、幼い日の事ばかり、思い出すの。 サチカ:自分の浅ましさに吐き気がする。 シイナ:…………、 サチカ:そういう子供だったのよ、私。 サチカ:周りの大人(ひと)を喜ばせる事に、躍起になっている内に……、 サチカ:人を操る事ばかり、上手になって。 サチカ:しまいに、隣人を信じる事をやめたの。 シイナ:……、 シイナ:ここは懺悔室じゃないんだ、 シイナ:もう、そんな……、 サチカ:こんなものは懺悔でも告解でもないわ。 サチカ:先生(シスター)にお叱りを受けるわよ。 シイナ:…………。 サチカ:けれどそれが……私の罪の全てで。 サチカ:贖(あがな)い続ける罰、そのもの。 サチカ:だから……、 サチカ:ね、 0:眼に、虚ろで、しかし晴れやかな、青い光。 サチカ:あの日の、光景……。 サチカ:救助される時、薄ぼんやりとしか、見えなかったけれど……。 サチカ:あの竹林(たけばやし)の、美しい雪の丘。 サチカ:冷たく、澄んでいて……、 サチカ:誰一人私を、慰めも庇いもしない、あの崖の下の冬の底、だけが…………、 サチカ:きっと私の、 サチカ:天国なんだと思うの。 シイナ:……っ、 シイナ:そん、な、……、 サチカ:今はね。 シイナ:……っ、 シイナ:…………、 0:生き埋めの沈黙。 0:後、すとん、と、店員は木椅子へと崩れ。カタリと乾いた木の音。 シイナ:…………。 0:沈黙が続く。 0:晩秋の外気は日増しに冷やされ、暖房機は鈍く低く唸っている。 0:長い静寂の後、呻くように悲痛な、声。 シイナ:…………私は、遅い。 サチカ:…………。 シイナ:顔を、見た時。 シイナ:私が知っている、あなたの顔と、変わらないように見えたから……、 サチカ:私は私、だもの。 シイナ:烏滸(おこ)がましくも支えになれるかも、なんて。 シイナ:夢想した。 サチカ:…………。 シイナ:けれどあなたの魂は最早、既に……、 サチカ:あの雪山に。 サチカ:囚われてしまっているように、見えるのね。 シイナ:…………。 シイナ:戯(おど)けて、得意な顔をして。 シイナ:自分からは訪ねても、行かなかった、癖に、 サチカ:シイちゃん、 シイナ:何が、『シェルパ・ティー』……。 シイナ:恥だ。 シイナ:死にたい、気分だ。 サチカ:とっても、美味しかったわよ。 サチカ:だから死んでは駄目。 シイナ:…………。 0:幾度目かの沈黙。店員は項垂れ。 サチカ:悲しそう、ね。シイちゃん。 シイナ:…………。 サチカ:私は、悲しくは、ないのよ。 サチカ:本当は。 0:店員は項垂れたまま。 シイナ:…………言葉が見付からない。 シイナ:上っ面の、戯曲に書かれたような台詞なら、幾らでも出て来るのに。 サチカ:…………。 シイナ:(絞るような呟き) シイナ:上手くやれない自分は、嫌いだ……。 サチカ:……。 サチカ:ふふ、フ……。 サチカ:君は昔から本当に、 サチカ:そういう子……。 0:女性客は淡雪の如く笑み。 0:再び、静寂が世界を埋め。 声無き誰かの声:「先生ェー。もう帰る? 話の続き、しなきゃ」 声無き誰かの声:「マジで冷えて来た。起きてられるように、話し続けなきゃ。いつまでも。」 声無き誰かの声:「いつまでも、ずっとさ。」 声無き誰かの声:「ずっと、ずっと。」 声無き誰かの声:「だってこれは、」 声無き誰かの声:「先生の、せいなんだから。」 サチカ:…………、 サチカ:…………。 サチカ:少し、待ってて、ね。あなた達。 0:女性客はス、と立ち上がる。 シイナ:……、 シイナ:先、輩、 サチカ:傷付いたなら、慰めてあげる。 サチカ:そうしてほしそう、だもの。 シイナ:……、そん、な……っ。 シイナ:傷を……、傷を負ったのはあなたで、 サチカ:(遮り)リッカ。 シイナ:っ!! サチカ:こっちへ、来て。 シイナ:……、 サチカ:髪を……、 サチカ:撫でてあげるから。 シイナ:…………っ、 0:冬が、来る。 0:暗転。 : 0:シイナにスポット。 シイナ:【本日のカクテルレシピ】 シイナ:ヒマラヤ式『シェルパ・ティー』、シイナアレンジ。 シイナ:■ロゼワイン 適量 シイナ:■ブラウンシュガー 2tsp(ティースプーン) シイナ:以上をティーカップにて合わせ、干し葡萄を潰し、丁寧に煮出した紅茶を注ぐ。 シイナ:軽くステアした後、更に干し葡萄を何粒か沈め、冷めない内に手早く、 シイナ:……特に、凍える季節には、手早く、 シイナ:カップ&ソーサーにて、サーブ。 0:【終】 : 0:【空白】/【空白】/【空白】 : 0:【ボーナス・トラック1】 0:暫くの後。 0:照明の落とされた店内。鍵を開け、注意深げに足を踏み入れたのは、金髪の女性店員。 0:長身の女性店員がカウンター内の木椅子に崩折れ、俯いている。 カスミ:……シイナさん……? シイナ:(項垂れたまま) シイナ:…………、…………。 0:静寂。 カスミ:シイナさん、 シイナ:……カスミか。 シイナ:……やあ。 カスミ:……、 カスミ:大、丈夫……? シイナ:うん。 カスミ:金曜なのに、この時間で電気、消えてたから……、 カスミ:あ、偶々 前、通って、 シイナ:いま、何時……? カスミ:……、10時、過ぎたぐらい……。 シイナ:……そう、か。 シイナ:まだ、そんなもんか。 カスミ:具合、悪い? カスミ:急に体調とか、 シイナ:いや。 シイナ:そうでも、ないよ。 カスミ:…………、あの、 シイナ:(意図せず遮り)来てくれてありがとう。 カスミ:っ、……、 シイナ:誰も来なかったら……、 シイナ:明日まででもこのままで、出勤してきたタニマチを驚かせる所だった。 カスミ:……、……、 0:凍てつく沈黙の気は尚も濃く名残り、重く垂れ込め。 カスミ:……、何か、あったの……? シイナ:……、……。 シイナ:カスミは、さ……。 カスミ:うん、……、 0:項垂れたまま、語気はか細く、湿っている。 シイナ:自分の、大切に思っている、 シイナ:……、思っていた、人が……、 シイナ:心に深い傷を負っている事をある時、知ってしまって、……、 シイナ:……いや……、 シイナ:(小声になり、自問の独語) シイナ:知らなかった筈は無いんだ。 シイナ:私はニュースを見ていたんだから。 シイナ:考えて、思い当たっていた癖に私は、 シイナ:……、 カスミ:シイナさん、 シイナ:……、 シイナ:すまない……。 カスミ:ううん。 カスミ:ねえ、ヤヨイさんに来てもらうから車で、 シイナ:良いんだ。 シイナ:……人の傷や、痣を、巧く見て見ぬ振りが、出来なくて……、 シイナ:躱せも、流せもせず、真正面から、見て、しまって。 カスミ:……、 シイナ:なのになんにも、それなのになんにも、かける言葉が引き出しから、出て来ずに……。 シイナ:途方に暮れるしか、無かった時……、 シイナ:どういう、気持ちになる? カスミ:……、…………、 カスミ:ボク、なら……? シイナ:ああ。 0:静謐。黙考。 カスミ:……シイナさん、酔ってる……? シイナ:……ほんの少し、ね。 シイナ:ブランデーに、アマレットを少々。 カスミ:……、 シイナ:ごめん。 シイナ:ごめん、本当に……。 シイナ:大丈夫だから。もう、帰って貰って構わないよ。 カスミ:……、ううん。 カスミ:……ボクは、ボクなら……。 シイナ:……、 カスミ:……ボクは、 カスミ:……本当は……、 カスミ:そういう時に、何かを言っても良い人間じゃないと、思うから。 カスミ:黙ってる方が、きっと正解なんだと、思う……。 シイナ:…………。 0:深と冷えた空気。薄っすらと残る、紅茶の香。 シイナ:……そう。 シイナ:……私も、きっと……、きっと本当は、 シイナ:そう、なんだろうな……。 カスミ:……、……。 0:沈黙。背の低いグラスが鈍く光を散らし。 カスミ:……初めて、見た。 カスミ:シイナさんが、悪酔いしてるところ。 シイナ:…………。 0:ついぞ項垂れたまま、力無く呻く。 シイナ:……カクテルなんて。 シイナ:碌なもんじゃない、よね。 カスミ:……、 0:からり、と氷が遺憾の意を示し。 カスミ:お水、入れるね。 0:暗転。 0:【終】 : 0:【空白】/【空白】/【空白】 : 0:【ボーナス・トラック2】 0:或いは、『アクト・アクター・アクトレス』♯3.5 0:後日。都内某所、とあるレンタルスタジオビル1階、喫茶スペース。 トシコ:ふううーー……、む、む、む……。 トシコ:それで全部? シイナ:……うん。 0:窓際の、いつもの席。 0:舞台の稽古を終えた2名の女性演技者の前には、湯気も薄れたカップ&ソーサー。 0:そばかすの女性は腕を組み、頬を掻きつつ。 トシコ:だいぶん不味いじゃないのさ、聞く限り。 トシコ:サチカ先輩も、……アンタも。 シイナ:一人で抱え切れずに……、 シイナ:結局ヒトに話してる私を、まずはひっぱたいてくれ。 トシコ:ココで?? トシコ:冗談はヨシ子ちゃん。昼ドラじゃあるまいし。 トシコ:……でも、なるほど。それで前回・今回と、指導にも妙に熱が入ってたのか。 シイナ:え……? トシコ:アンタって昔から、情緒が波打ってる時ほど、芝居に気合いが入るじゃないさ。 トシコ:気付いてないとでも思った? シイナ:…………。 シイナ:敵わないな、やっぱりトシコには。 トシコ:あったりまえ。伊達にアンタたち問題児揃いの87期を引っ連れて、全国まで行ってないってーの。 シイナ:あっは、鬼の部長サマの鬼伝説。 シイナ:……もう戻らない、輝かしき青春の日々……、か。 トシコ:だけど忘れんじゃないわよ。 トシコ:アンタはその相棒として、不動のキャスト班トップとして、全国の舞台に立ち切ったんだから。 シイナ:……、……。 シイナ:年功序列だよ。学年の順番が回ってきただけの、 トシコ:(遮り)部内オーディションに落ちて、泣いて裏方に回って最後の本番をやり切った皆の前でも。 トシコ:同じ事が言えんの? シイナ:…………、 シイナ:ごめん。 シイナ:浅はかだった。 トシコ:今日は許す。 0:暫しの、緩やかな沈黙。午後の店内に客は少ない。 シイナ:……謝ってばっかりだな、近頃。 トシコ:成長したってコトでないの、少しは。 シイナ:だと良いけどね、まったく。 シイナ:……は。秘密を喋ってすっきりしてしまった。 シイナ:コレで地獄落ちだな、私も。 トシコ:気が早い。 トシコ:無力だろうが、非力だろうが。 トシコ:人生は続くのよ。天命の果てるその時まで。 シイナ:……ご尤も。 シイナ:なればこそ、この世に憂い煩いの種は尽きまじ……、と。 シイナ:いやはや。 0:ず、と二人、微温くなった紅茶を啜り。 トシコ:……にしても。あらためて。 トシコ:呪われてるとしか思えないわね、あの町は。 シイナ:あの町? トシコ:「読辺川(よみべがわ)北中学」、でしょ、バス事故に遭った学校。 トシコ:聞き覚えない? シイナ:(黙考) シイナ:……、……、 シイナ:あっ、 トシコ:何年か前に。 トシコ:小学校で子供が、事故や事件で何人も亡くなったのも……、 シイナ:読辺川(よみべがわ)町、か……、そういえば、 トシコ:普通さ、一つの町で、 トシコ:10年も経たない間に、子供がそれだけの数亡くなるなんて……、さ。 シイナ:……天文学的な確率、かもね。 シイナ:いや、案外そうでもないのか? トシコ:下手したら、小学校でも中学でも、同級生を喪くした子がいるんじゃないの。 シイナ:……壮絶、だな、人生の序盤から。 シイナ:……、…………、 トシコ:結局、苦しむのはこの世に残った側だからね。 トシコ:死者には死者の苦しみがあるけど、生きてる間は想像しか出来ない。 シイナ:……生きて残った苦しみ、か。 シイナ:まさしく、先輩の……、 トシコ:アンタはさ、 シイナ:うん? トシコ:お見舞いなり何なりに行こうとは思わなかったの。 トシコ:事故を知った時。 シイナ:……っ、 シイナ:それは、 トシコ:責めてるんではないからね。念の為。 シイナ:それは、わかる、けど、 シイナ:……、…………、 0:内省に浸る面差し。カップから上がる湯気は既に失せている。 シイナ:……どうして、だろう。 シイナ:思い付かなかった訳ではない、けど、 トシコ:連絡先は? シイナ:交換は、してなかった。 シイナ:でも……、伝(つて)を辿れば、どうとでもなった筈なのに。 トシコ:それこそ、あたしがマヒロと繋がってるし、ね? シイナ:……、…………。 シイナ:こう、思い悩む振りをしつつも。 シイナ:それに関してはもう、結論が出てるんだよな。 トシコ:自分じゃ手に負えないと思った? シイナ:……っ、 0:沈黙。 シイナ:…………。 トシコ:黙るのはおよし。 シイナ:…………何というか。 シイナ:タマンナイね。この容赦の無い感じ。 トシコ:容赦や忖度じゃ前に進まないじゃないさ。 トシコ:舞台も、人生も。 シイナ:仰る通り。 シイナ:…………そうだね。とどのつまりが、そんなトコ。 シイナ:想像が、出来なかった。 トシコ:サチカ先輩の気持ちが? シイナ:あらかじめ用意しておく台詞が、思い付かなった。 シイナ:その状態で面と向かっても、どうすることも出来ないだろうな、なんて。 トシコ:アドリブ弱いもんね、昔から。 シイナ:…………、あと、 トシコ:あと。 シイナ:怖かった。シンプルに。 トシコ:ふむ。 シイナ:自分には想像もつかないような事態を経験した、サッちゃん先輩が……、 シイナ:前と同じサッちゃん先輩じゃなくなってたらどうしよう、って。 シイナ:……ビビったんだね。 トシコ:どうだったのさ、実際。 シイナ:……先輩は、先輩だったよ。 シイナ:ただ、でも、そうだったからと言って、 シイナ:……、……、 トシコ:……その様子だと。 トシコ:挑む気にもなれなかったみたいね。 トシコ:「妖怪」に。 シイナ:ようかい?? トシコ:前に言ってたじゃないさ。 トシコ:お店に入りたての頃、仕事を教わった人から、そんな話を聞いた、って。 シイナ:……あー。それか。 トシコ:夜の、お酒を出す場所の仕事は。 トシコ:時として「妖怪退治」みたいになる時がある、って。 トシコ:あたし、結構印象に残ってんのよね、あの話。 シイナ:フとした拍子に人間が「化ける」妖怪を、宥(なだ)めて、すかして、お酒を供えて……、 シイナ:暴れ出したり、消え失せたりしないように調伏(ちょうぶく)するようなシゴトだ、ってね。 シイナ:……あのヒトらしい、ロマンチックなんだかナンなんだかワカンナイ言い回し。 シイナ:……そうだな。それで言うなら……、 トシコ:やっぱり手に負えなかった? シイナ:修行が足りなかったね。仕置人としての。 シイナ:……結構、色んな妖怪と渡り合って来たんだけどな。 トシコ:まあ、ねえ? 私が聞いたってどうしたら良いかわからないような話だし。無理も無いんでないの。 トシコ:……そいで、 0:不意に、品よく、どこか艶めく仕草で足を組み替え。 トシコ:どうすんのさ。次の一手は。 シイナ:……っ、 0:切れ長の眼が長身の女性を真っ直ぐ見据える。逃れ難い、蔓植物の如き眼差し。 シイナ:どう、ってね……。 シイナ:つまり、まさしくソレが問題な訳で、 トシコ:現状の自己分析はよくわかったわさ。 トシコ:冷静に、自分を解釈出来てるとも思うわよ。 トシコ:で。 トシコ:そいで、アンタはどうしたいと思ってんのさ、ってところ。 シイナ:今日そこまで話を進めなきゃ駄目……? シイナ:もう少し段階を踏んで、 トシコ:あたしに相談したのが運の尽き。 トシコ:ぬるま湯で受け止めてほしいなら、ヨソを当たる事ね。 シイナ:ええーー……、 シイナ:うゥーーーん……、 トシコ:濡れた犬みたいに唸るんじゃあないの。 トシコ:……そうね。 トシコ:今、一通り、アンタの話を聞いて。 シイナ:うん……、 トシコ:今の、アンタの現状や。 トシコ:サチカ先輩が歩んだであろう経緯や。 トシコ:そして話を聞いたあたし自身の、環境や、状況や。 トシコ:全部の「流れ」を鑑みて、思い付いた事が一つある。 シイナ:思い付いた、こと……? シイナ:ていうか、トシコの状況も? トシコ:それは上手く運べば、全てにケリを着ける妙案になるかもしれない。 トシコ:そして関わる全員の運命に沿わなければ、何ら実を結ばずに、事態を悪戯にややこしくして終わるかもしれない。 トシコ:いずれにせよ、 0:そばかすの女性の決断的な口調に、長身の女性は圧倒され気味。 トシコ:近い内に、「ある人」を連れて店に行くから。 トシコ:覚悟を決めておくように。 シイナ:……、……、 シイナ:な……、何……? 0:運命は時として唐突にドアをノックする。 0:窓の外、空にはいつしか雲が立ち込め、流離と流転の気配が世界を覆い。 0:暗転。 0:【終】 : : : : : : 0:【薄れ、ぼやけた記憶】 0:2020年12月21日、午前10時6分。 0:とあるスキー場に隣接するホテル。 0:自販機スペース横の、木製ベンチ。 0:眼を閉じ腰掛ける女性教諭のもとへ、男性教諭が歩み寄る。 男性教諭:叶納寺(かのうじ)先生。 女性教諭:(微睡みより醒め) 女性教諭:ん……、 女性教諭:あ……、……はい、 男性教諭:ああ、すみません。 男性教諭:起こしてしまいましたか、 女性教諭:鮎川(あゆかわ)先生……、 女性教諭:いえ、すみませんあの……、 女性教諭:一息つこうと座り込んだら、私……、 女性教諭:今、何時でしょうか、 男性教諭:十時ちょっと過ぎ。 男性教諭:まだ、大丈夫ですよ。 女性教諭:バスの出発が十二時十五分だから……、 女性教諭:最終点呼は正午、その前に4組の部屋をもう一度、周っておかなくちゃ……、 男性教諭:十時半ごろからボツボツで、大丈夫でしょう。 男性教諭:僕も去年や一昨年は、朝礼の後に一眠りしましたよ。 女性教諭:スキー合宿の、教員の起床が五時半とは思いませんでした……。 男性教諭:早すぎるんですよ、毎年。 男性教諭:みんな言ってるんですけどね。 女性教諭:いえ……、でも準備は、早い方が。 女性教諭:あの……、すみません、何か今、 男性教諭:いや、いや。 男性教諭:自販機に珈琲を買いに来たら、お見かけしたから声をかけただけで……、 男性教諭:あ、珈琲、先生も飲まれますか、 女性教諭:いえっ、そんな、 男性教諭:ご遠慮なされず、今どき珍しく100円ですし、 女性教諭:いえ、あの……、 女性教諭:私、珈琲が、ちょっと、 男性教諭:苦手ですか。 女性教諭:相性が良くなくて……、 女性教諭:胃が気持ち悪くなってしまって、 男性教諭:成る程。 男性教諭:他も色々、ありますよ、 女性教諭:本当に、お気持ちだけで……。 女性教諭:魔法瓶に飲み物、ありますので、 男性教諭:そうですか、 男性教諭:じゃ、自分だけ……、 男性教諭:御免しますね。 女性教諭:いえそんな……。 女性教諭:こちらこそごめんなさい、 男性教諭:謝るような事じゃ……、 男性教諭:あ、お互い様ですか。 0:男性教諭は自販機にて珈琲を購入。 0:ゴトン、とホットの落下音。 男性教諭:「御免する」ってね、謝ってる訳じゃなくて、ただの口癖なんですが、 女性教諭:仰られてますね、よく……、 男性教諭:地元の方ではね、みんなよく言うんですけど。 男性教諭:方言だって後から知って。 女性教諭:鮎川先生ご出身は、 男性教諭:全然、塚淵(つかぶち)県内ですけどね。 男性教諭:「飛桶(とびおけ)」ってね、叶納寺先生は東京ご出身だから、知らないとは思いますが……、 男性教諭:問答山(もんどうやま)丘陵の近くですね、まだ有名な範囲で言うと。 女性教諭:風光明媚というか、景色の良い所ですね。 男性教諭:本当にド田舎ですけどね、ただの。田んぼと工場ぐらいしか無い……。 男性教諭:山の方に行くと棚田とか古墳とか、ありますが。 女性教諭:素敵だと思います。 女性教諭:私も高校まで、山の中の全寮制の学校だったので、自然の多い所は落ち着くというか……、 男性教諭:「釈葉(しゃくよう)」のご出身なんですよね、確か。 女性教諭:はい……。 女性教諭:クラウス・リモン墓地の近くの、 男性教諭:あんな辺りなんて、全然都会だと思っちゃいますけどね……、 男性教諭:なんというか本当に、どん詰まりの田舎なんですよね、飛桶の辺りは。 女性教諭:そんなことは……。 0:男性教諭は一口、手の内の珈琲を啜る。 0:忙しなさの狭間、午前の微睡んだひととき。 女性教諭:今はそこから、学校の近くに出て来られて……、 男性教諭:いえ、通いです。 女性教諭:え? 男性教諭:車で。 女性教諭:え……、どちらから、 男性教諭:その、飛桶から。 女性教諭:……、 女性教諭:毎日、ですか……? 男性教諭:勿論。言って2時間かかりませんから。 男性教諭:帰りはかなり空いてますし。 女性教諭:あ、それで、いつも……、 男性教諭:するっと帰るでしょう、いつも。最近ようやくね、少しは効率よく仕事を終えられるようになりましたけど……。 女性教諭:そう、なんですか……、 女性教諭:自分が、赴任を機に移り住んできたくちなので、皆さんそうなのかと……、 男性教諭:結構、遠くから通いの方も多いですけどね。 男性教諭:まああんまり学校に近いのも、生徒や保護者に顔を刺すので良くないとされてますし……。 女性教諭:失礼でなければですが……、 女性教諭:どうして、 男性教諭:あ、地元からわざわざ通いなのか? 男性教諭:あるあるですけどね、最初は母親が移住をしたがらなかったのと……、 女性教諭:ああ……、 男性教諭:今はもう、母は死んで居ないんですが。 男性教諭:あと、僕は地元で結婚をしたんですが、妻は出戻りというか、都会から地元に帰って来たので……、 男性教諭:僕は通える距離だし、引っ越しがあんまり多いのもと、思ったので。 男性教諭:ま、色々と、兼ね合いですね。 女性教諭:……なるほど。 女性教諭:皆さん、色々と……、 男性教諭:ありますよねえ、そりゃ。 男性教諭:沢山居ますし。生徒よりは少ないとはいえ。 女性教諭:はい……。 0:ふと、窓の外、雪を頂く雄峰へと眼をやり。 女性教諭:……子どもたちは、本当に、本当に沢山、居ますよね……。 男性教諭:少子化って言ってもね。 男性教諭:教師も減ってますしね。 女性教諭:私……、正直1年目がこんなに大変だとは、 男性教諭:来年度はもっと大変だと思いますよ。 男性教諭:管理職の方針でね、初めから色々、慣れてもらうという……。 男性教諭:多分担任持たされるんじゃないかな。 女性教諭:思いやられます、自分に……。 女性教諭:来年の今頃、どうなってる事か……。 男性教諭:楽しい事は、ありますか。 女性教諭:え……? 男性教諭:仕事なので、大変なのは多分、ずっと変わらないとは思いますが……。 男性教諭:仕事も含めて、日常の暮らしの中で、 男性教諭:楽しいと思える時間って、ありますか。 女性教諭:……、…………、 0:女性教諭は沈思黙考。 0:男性教諭はもう一口、珈琲を啜り。 男性教諭:僕は無かったです。3年目ぐらいまで。 男性教諭:公立って本当に碌なもんじゃないと、毎日思ってました。 女性教諭:…………、 女性教諭:私は……、 0:内省を湛えた声が、暖房で温もった空気へと混ざる。 女性教諭:毎日、本当にてんてこ舞いで、ご迷惑をかけっぱなしですが……、 男性教諭:案外そうでもないですけどね、はたから見ていると。 女性教諭:生徒の皆と、お話をするのは楽しいです。 男性教諭:いつも? 女性教諭:……、 女性教諭:偶に。 男性教諭:はは……、正直で良い。 女性教諭:家庭環境も……、生育環境もみんな、それぞれ違って。 女性教諭:価値観の違いに触れると、新鮮な驚きがあって。 女性教諭:自分の見識の浅さ狭さを、思い知れるようで。 男性教諭:僕たち教師はね。 男性教諭:生徒や、そのご家庭を通して、社会に触れるしかありませんもんね。 女性教諭:社会? 男性教諭:教育大を出て、まあ何年か一般職を経たりする人がいたとしても、大抵はそのまま、ずっと「先生」って呼ばれる仕事でね……。 男性教諭:直接には社会を、やっぱり知らずに、定年まで行くんですよね。 女性教諭:……、どう、なんでしょうか、 男性教諭:僕は父方が代々、田舎の教員なんですけど、やっぱりそういう所があるなと、昔から思っていて……。 男性教諭:そうはなるまいと、思いつつも結局、自分も教師をやってるんですけど。 女性教諭:……、特殊な、環境ではありますもんね、学校って。 男性教諭:義務教育は特にね。 男性教諭:まあ……、それ自体は変えようのない事ではあるので。 女性教諭:自覚が大切だと、いうことですね。 男性教諭:気を付ける他、無いですね。 男性教諭:……とはいえ、 女性教諭:はい、 男性教諭:まあ、あまり、堅く構えず。 男性教諭:楽しい事がちょっとでもあるなら、少なくとも1年目の僕よりかは有望ですから。 女性教諭:……、…………。 女性教諭:頑張ります。 女性教諭:頑張って、力を抜きます。 男性教諭:それが良いですね。 男性教諭:最初は、余裕がある「フリ」からで。 女性教諭:……「振り」……、 男性教諭:そろそろ、行きますか。 女性教諭:はい、あの……、 男性教諭:(立ち上がりつつ) 男性教諭:よいしょ、 男性教諭:ああー……、寒そうだな外……。 女性教諭:お話、出来て良かったです。 男性教諭:いえ……。 男性教諭:まあ、普段学校ではなかなかね。 男性教諭:僕は早く帰りたいから、飲み会なんかにも出ませんし。 女性教諭:自分は、まだ初めたてで、若くて、未熟ですが……、 女性教諭:その分「未来」に、まだ余地がある、と。 女性教諭:……騙し騙し、行きます。 男性教諭:未来ね……、 男性教諭:まあ、残された未来の量で言ったら、それこそ生徒たちには敵いませんけどね……、 女性教諭:ふふ、フ。それはそうなんですが。 女性教諭:私が言っているのは……、 0:語り合う声が遠ざかり。 0:無人の自販機スペース。窓に映る白銀の風景は、永劫に不変であるかのように思われた。 0:例になく、時候にしては強かな日差しが、山の大気と積雪を温める。 0:温める。 0:温める。 : 0:ホワイト・アウト。 0:【終】