台本概要

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タイトル 今日は素敵な一日だから、ぼくが死ぬにはいい日だった。
作者名 山根利広  (@sousakutc)
ジャンル ラブストーリー
演者人数 2人用台本(女2)
時間 40 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 同性愛者の理央は、自らの置かれた境遇を受け入れることができず、自殺しようとする。
だが死ぬことはできず、植物状態で生き続けることになる。
病室に駆けつけてきた理央の恋人である咲は、目覚めることのない理央に、必死に話しかけようとする。
しかし理央は、意識を持っていながらも、身体を自らの意志で動かせない状態にあった。
咲は、そんな理央に、かつてのふたりの物語を持ちかける。それは理央の意識を少しずつ変えていって——。

★朗読時の留意事項
・ト書きの章番号(Chapter:●)の部分は、朗読の際には読み上げずに進めていただいた方が無難です。
・台本の改変OKです。お好きなようにアレンジしていただいて構いません。

■その他
・使用に関して有償・無償は問いません。また発表する場も限定しません。いろいろな場でお使いいただければ幸いです。
・ご使用時にご一報いただけると嬉しいです。強制ではありませんが、できたら聴きに参ります。Twitter(X)で作品名と「@sousakutc」をポストしていただけたら喜んで聴きに行きます。リアルタイムで行けない場合はアーカイブを聴かせていただきます。
・本作は純粋なラブストーリーではなく、SF要素やホラーらしい部分もありますが、ジャンルとしてはラブストーリーに近しいと思われます。さまざまな要素を楽しみながら演じていただけたら幸いです。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
理央 86 24歳、派遣社員。自らの性と思考が一致せず、LGBTとして生活していたが、それに強いコンプレックスを持っている。良き理解者で交際相手の咲とはもう長い間付き合っているが、それにすら不信感を抱いていた。
79 23歳、フリーター。理央と同じくLGBTで、理央をソウルメイト的存在として見ている。献身的で、できる限り理央に尽くしたいと思っている。持ち前の明るさで、ふたりの空気感が良くないときも、それを取り繕ってきた。アルバイトを転々としながらも業務には真摯に向き合う。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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0: Chapter:1 理央:これから、ぼくが死ぬまでの物語を始めよう。 理央:ぼくは、死ぬことにした。死ぬことにしたから遺書を書いて、誰かが見つけやすいように自室の机の上に置いた。ぼくがぼくであることを認めてくれなかったシステムに向かって、叫びたかったのだ。けれどぼくは死ななかった。死ぬかわりに、身体のあらゆる器官の自由を奪われた状態になった。ぼくという意識だけがそこに残存した。処置を終え、病室に横たわるぼくに、ぼくの恋人の咲が駆け込んできた。 咲:「理央、理央……ねえ、聞こえてる?」 理央:ああ、聞こえている。明瞭に聞こえている。けれど答えることを許してはくれない。不規則にまばたきをする両目に、微かに震えている手の指先。しかしそれはぼくという意識からは切り離されて、彼女への反応ではなく、反射的な動きを見せるだけだった。 咲:「聞こえてるんだね、理央、わたしの声、ちゃんと」 理央:ああ、聞こえている。この意識まで、届いている。ただ返答することはできない。点滴によって生かされている身体に、ぼくの意志は届かない。 咲:「お医者さんね、理央の意識はないって言ってるけど、それって嘘だよね。だって理央の身体、ちゃんと動いてるもん。こっちを見てる。ちゃんとわたしと目を合わせてる」 理央:それは偶然だ。動いていない双眸に咲が目を合わせているだけだよ。 咲:「なんともないよ、理央。だから、早く戻ってきてね? ……ちゃんと謝ってね、馬鹿なことをしたって。戻ってくること、わたし、信じてるから」 理央:咲、きみの希望的観測によれば、きみが生きているからぼくも生きていると思うんだろう。対話が「生きている」という空間でできているから、そう思うんだろう。でも事実はこうだ。きみは生きているけど、ぼくはそこにいない。 咲:「理央、また明日来るからね。じゃあね」 理央:「ああ、じゃあね、咲」。届くことのない声を意識の中で反芻する。咲の後ろ姿を、定点で眺める。生きているときの僕ならば、哀れみに涙を落としたろうか。でもそんなことはどうでもいい。もう涙を流すことはできないのだから。 0: Chapter:2 理央:意識がふっとひっくり返った。ぼくは、夢を見ていると明確に分かる夢を見ている。 咲:「わたしは、どんな形でも、理央のことが好きなの」 理央:「ぼくだって、咲のことが好きだ。でも、咲と一緒にいたら、きっとぼくは咲のことを不幸にしてしまう」 咲:「不幸になんかならないよ。これまでわたしと付き合っていた頃と同じように、わたしのことを好きでいてくれたら、それでちょっとずつ前に進めたら、わたしはそれでいいの」 理央:「これまでのことじゃなくて、これからのことだ。ぼくの肉体は女だ。咲の子どもを作ることもできないし、結婚することもかなわない。ぼくという存在につきまとう物理的な肉体の問題に、悲しいけど、咲を巻き込むことはできない。だから、これ以上咲と近づくわけにはいかない。ぼくはこのままの状態を崩すわけにはいかないんだ」 咲:「このままの状態って?」 理央:「ぼくたちは結婚することもできないし、子どもを設けることもできない。それでよければ、ぼくも咲と一緒にいたい」 咲:「わかった。……でも、もしこれから先、わたしたちが結婚することを許されて、技術が進んでわたしたちと血のつながった子どもができるようになったら、それが遠い未来の先にあるものだとしても、そのときはもっと先に進みたい」 理央:「それが、永遠に成り立たなかったら?」 咲:「そうだとしても、理央と待ち続ける」 理央:咲は目を潤ませて、ぼくの背中に両手を回した。ぼくも彼女を包み込んだ。服を着ていてもしっかりと体温が伝わってくる。暖かい生命が、そこに宿されているとはっきり分かる。なのに、どうしてだろう、それがぼくには暑苦しいぐらいだった。息が詰まりそうだった。死にたいと思った。なぜなら、ぼくたちがうまくやっていける保証がなかったからだ。たとえ百年経っても、小さき者たちの声は誰にも伝わらないだろうから。 咲:「どんなことになっても、わたしたちがわたしたちでいられる限り、理央を信じてる」 理央:ぼくはその言葉に返答するかわりに、彼女をきつく抱きしめた。彼女の決意を諒解したからではない。彼女に返す適切な言葉が、そのときのぼくには思い浮かばなかったからだ。そう思い始めたからだろう、ぼくはそれ以来、彼女に向ける表側のぼくと、実体としての裏側のぼくを演じ分けるように生きていくことになったのだ。 咲:「すっかり夏終わっちゃったね。来年は海水浴に行きたいなぁ」 理央:思索に暮れている間に、場面は変わっていた。10月も半ばに差し掛かり、一気に冬へと季節が移ろう。 咲:「最近落ち葉が増えたね。ということは、もみじの季節かな? 理央はさ、紅葉狩りとか行きたくない?」 理央:そうだな、どう返すべきか。行きたいよ。行きたいけれど、咲と一緒に肩を並べて歩くほどの人間じゃないよ、ぼくは。そう思ってしまってからは、ふたりでどこかに行く機会も減った。 咲:「理央、最近ちょっと元気ないよ。わたしにできることはある?」 理央:どう返そう、「気にしないで」と言ったんだろうか。実際はグロテスクな台詞を心の中に何度も上書きしていた。ぼくの脳とぼくの身体の性が一致していないだけではなかった。ぼくの思想とぼくの言葉も一致していなかった。それからきっと、ぼくの考えと咲の考えも、一致していなかった。 咲:「もうすぐクリスマスだね。今年は理央からなにがもらえるんだろ?」 理央:そうか、クリスマスプレゼントか。思えばそれが引き金になったのかもしれない。ぼくの頭の中に醜い悪魔が現れる。咲へのプレゼントには、咲を解放できるものがいいじゃないか。ついでに綺麗に消えてしまえる。ぼくがぼくであることを認めてくれなかったシステムの正体は、この国ではなく、ぼくという小汚い存在と、世界の不一致だった。だからぼくは死ぬことにした。 咲:「わたしね、理央のこと、ほんとうに好きだよ。ずっと、理央といたいな」 理央:ぼくは、献身的な咲の愛情から逃れるように、死を選んだ。気がついたら大型トラックが行き交う国道沿いに立っていた。一歩踏み出せば簡単に死ねると思っていた。その一歩を踏み出した時、それからのぼくの人生が大きく変わることになるとは、考えもしなかった。暗澹たる過去のなかを何度もぐるぐる回り続けるだけの人生になるなんて。 0:Chapter:3 咲:「理央、きょうはいいもの持ってきたよ」 理央:また暗い過去を彷徨い続けていたぼくは、咲の呼びかけで現実に引き戻された。固定された視界の中に、彼女が映る。 咲:「なんだと思う? 理央、ミルクレープ好きだったよね。でも実は内臓ごと焼いたサンマの塩焼きが一番好きなんだよね」 理央:……百歩譲ってぼくが意識のある病人だったとしてだ。お見舞いにサンマの塩焼きってどうなんだ。 咲:「あ! 今まばたきの回数増えてた。やっぱり聞こえてるんじゃないの?」 理央:聞こえているよ。でも聞こえているだけだよ。瞼が不規則に動いたのは偶然だ。笑かそうと思っても、それは意味を成さない行為だ。サンマの塩焼きが食べたいわけではないからね。 咲:「理央、これ、わたしが作ったんだよ」 理央:……塩焼きじゃなくて安心した。彼女が取り出したのは一冊のスケッチブックだった。表紙には、「Memories Saki & Rio」と毛筆で書かれている。 咲:「これ、付き合いはじめた日に初めて撮った写真だよ。覚えてるかな」 理央:そういえば、そんな写真も撮ったっけ。 咲:「これは、1ヶ月記念日にご飯一緒に食べた時の写真。あはは、よく見たら理央の口もと、ソースついてるよ」 理央:そんな時もあった。……ぼくは、なにを考えながらこんな顔をしていたのだろう。 咲:「わたしの誕生日の時に、プレゼントとケーキを買ってくれたよね。わたし、とっても、とっても嬉しかったよ」 理央:適当に選んできたプレゼントと、形だけのショートケーキだったけど、確かに咲は嬉しそうだった。 咲:「理央の誕生日は、わたしのちょうど1ヶ月あとだから、絶対忘れないよ。誕生日会、理央は喜んでくれたかな」 理央:感情を失いかけていても、どうしてだか、あの誕生日だけはいくばくか幸福だと感じた。こんな乾き切った愛でも、この関係を続けなければならないと思った。 咲:「二人で旅行したときの写真。ねえ、どうかな、わたしの編集、センスいいでしょ、理央」 理央:いくつか写真が並べられている。ページが、パラパラとめくられる。 咲:「はい。こんな感じ。ちょっとは懐かしいって思ってもらえたかな。これね、最後のページだけ空けてあるんだ。理央の具合がちゃんと良くなったら、ふたりで写真撮りたいな。それでその写真をここに貼るんだ。だから早く戻ってきてね」 理央:そうか、ぼくはまだ咲に必要とされているんだ。その気持ちを無下にするわけではないけれど、咲の願いは叶わない。ぼくはここで、静かに死んでいくんだ。それだけは変わらないんだ。過去はどうだっていいし、失ってしまった方がいい。僅かに希望の光をちらつかせるだけの過去は、この落ちぶれたぼくを余計に苦しめるからだ。例えるなら、耐え難い空腹に苦しむ者に対して、食物の匂いだけ嗅がせるようなものだ。 咲:「また来るからね。明日になったら、きっと今日よりいい状態になってるよ」 理央:それから、咲は足繁くぼくのベッドに足を運んだ。毎日、夕方になると必ず咲がベッドの傍にいる。クリスマスが終わり、年が明け、寒さがいよいよ厳しくなっても、彼女はいつも視界の中にいた。だが、彼女との日々が、突然途切れることになるという可能性を、その時のぼくは考えもしなかった。 0: Chapter:4 咲:「理央、また明日ね。お互い風邪ひかないようにお祈りしとくね」 理央:その台詞が最後だった。翌日、太陽が登ってから沈んでゆくまで、咲は現れなかった。もしかしたら夜遅く来るのかもしれないと思っていたが、咲は姿を見せなかった。きっと仕事が長引いて疲れたのだろうと思う一方、彼女の身に何かあったのではないかと、ぼくは不安になっていた。 咲:「ねえ理央、なにを見ているの?」 理央:いつの間にか反転した意識の中で、イメージの中の咲がぼくにそう語りかける。 咲:「ねえってば。ねえ、話ちゃんと聞いてた?」 理央:「聞いていたよ。『人は完全には誰かと一緒になることはできない』、だろ」 咲:「そう。理央はこの意見に賛成? それとも反対?」 理央:「ある意味賛成の立場かな」 咲:「そうだよね。わたしも、そう思う」 理央:「いつもの咲らしくないね。いつもだったら、一緒になることは必ずできる、って言いそうだ」 咲:「わたしね、ある詩人が書いた本の中でこんな部分を見つけたんだ」 理央:「詩人?」 咲:「そう。その人はこんなことを言った。『たとえば、お互いを愛し合っているふたりは、どれだけ口づけを重ねても、身体と身体が接着しているに過ぎない。交わった状態だとは言えない』。わたし、理央と付き合ってて、ときどきそれを実感するんだ」 理央:「それは、言われてみればそうかもね。でも珍しい。咲がそんなことを言うなんて」 咲:「だって、わたしはこれまでのわたしじゃないから」 理央:「これまでのわたしじゃない、って?」 咲:「わたしの人生は、理央に出会ってから大きく変わった。人を好きになるという気持ちを学んだ。でも理央は、わたしの気持ちを汲み取ってはくれなかった。……ほんとはわたしのことなんて、どうでも良かったんだよね」 理央:「それは——」 咲:「理央は、わたしなんて必要じゃなかったんだよ。大変だったよね、わたしが泣いてる時はお世話しなきゃいけないし。いっつもデートに時間を割かれるし、嫌々キスをして嫌々行為しなきゃいけなかったんだ。理央はいま動けなくなっちゃったけど、ほんとはそれがわたしで良かったよね。わたしが死んでも理央が悲しむ必要なんてないしね」 理央:「咲、あまりにもひどい——」 咲:「わたしなんて、死ねば良かったんだ。理央がわたしの身代わりをしてこんなことになって、ほんとうに死ぬべきなのは理央じゃなくてわたしだったのに、わたしじゃなくて理央がこんなことに。理央はちゃんと生きて素敵な人を見つけてずっとずっと幸せな人生を歩む、それで良かったのに。なんでわたしは、わたしは」 理央:「ちょっと待てよ。咲、どこへ行くんだ? そっちは窓……まさか。やめろ、頼むからやめてくれ」 咲:「これがわたしにとってふさわしい結末なの。さよなら、理央」 理央:「咲、そうじゃない、死なないでくれ、ぼくが悪かった! だから、やめてくれ!」  : 理央:気がつくと、透析装置と点滴がある視界。涙を流したいほど耐え難い悪夢を見ていたようだ。だがぼくは動けない。涙を流すことはできないのだ。異物が口から食道を通り胃に達し、吐き出したいのに吐き出すことができない、例えて言うならそんなところだ。……医師と看護師たちが心配そうにぼくの顔を覗き込んでいる。——2日間、意識が薄らぎ、心拍が乱れていたが、今日になって治った。そんなことをがやがやと話し合って、確認をとっていた。いくつもの細い管を身体じゅうに取り付けられたぼくは、ふと思う。心拍が乱れているのはベッド脇のディスプレイを見ればわかるだろう。だけどなぜ、意識の状態が変わったことに気づいたのだろう? ぼくが正常に生きていれば、彼らに問いかけたかった。なぜぼくは死なないんだ。なぜぼくはこの状態で苦しみ続けなければならないんだ。そうやって自らを苛む感情に溺れている間に、白衣に身を包んだ人々は次々に病室を出ていった。そしてたったひとり、彼らとは別の人間があらわれる。灰色のコートに身を包んだ、見覚えのある顔。 咲:「理央、ごめんね、遅くなっちゃった」 理央:ぼくは咲を抱きしめようとした。だが、指一本動かすことのできない身体が、今もぼくと咲の間に横たわる巨大な空白を象徴していた。 咲:「理央、わたし、変な夢見ちゃった」 理央:どんな夢を? 咲:「理央がわたしを置いて、遠くにいっちゃう夢だったの」 理央:咲は、また涙を浮かべている。……心配いらないって。ぼくがここにいる限り、ぼくはどこにも行けないから、どこにも行かない。 咲:「わたしは、ここにいるよ。だから理央も、ここにいてね」 理央:わかった。約束するよ。 咲:「今日からまた、毎日会いに来るからね。しつこいって思われるかもしれないけれど、毎日来るね」 理央:ありがとう。ぼくも何にも変わり映えしないだろうけど、よろしく。 咲:「あ、もうすぐ春だね。桜が咲いたら、綺麗な写真をいーっぱい、見せに来るね」 理央:ぼくの手が動いたならば、彼女の涙をそっと拭ってやれただろう。……こうして、奇妙な形に結実したぼくと咲の恋は、ゆっくりと、しかし着実に、それ以前のぼくたちには選べなかった道を進んでゆくことになる。ぼくはこう思ったのだ。距離はひらいているかも知れないけど、この人なら、ぼくは信じることができる、と。 0: Chapter:5 咲:「理央、お待たせ。今日ね、桜が咲いてたの」 理央:咲はそう言うと、スマートフォンの画面をぼくの目の前に翳した。 咲:「ねえ、理央は覚えてるかな。初めてのデートしたときのこと。あの時も桜の季節だったよね」 理央:ふたりで最初に出かけた日のことは、よく覚えている。 咲:「桜並木に、たくさん花がついてた。ときどき強い風が吹いて、たまに花びらがひらひら落ちてくる」 理央:ぼくたちは肩を並べて、並木の端から端まで歩いていた。 咲:「並木が途切れる場所まで歩いてきたら、理央がふっと足を止めて」 理央:咲に話しかけようとして、話しかけられなかった。 咲:「どうしたの? ってわたしが聞いたら、理央は顔をこっちに向けて」 理央:少しだけ緊張感を帯びた咲の顔に、その瞳から目を逸らすことができなくなった。 咲:「理央が言うより先に言わなくちゃって思った。わたしね、理央のこと、好きだよって、言った」 理央:それまで冷酷だった世界が、急に優しげな暖色を帯びた風景に変わり、ぼくと咲を取り巻いた。 咲:「理央は、わたしの思いに寄り添って、想いを伝えてくれたよね」 理央:ぼくも、咲のことが好きだよ、って。 咲:「わたしは、手を伸ばして」 理央:ぼくはその手を取って。 咲:「これからも一緒に歩いていこうねって誓った」 理央:ぼくは、小さく頷いた。胸の中が、すうっと晴れたような気がした。  : 咲:「理央、おはよう。今日ね、海を見てきたの」 理央:海……そうか、もう海水浴の季節になるんだっけ。気温は意識に伝わらないから実感はないけど。 咲:「理央は覚えてるかな、わたしが海水浴行きたいって言ったときに、ちょっと喧嘩したの」 理央:そうだな、そういうことも確かにあった。ぼくが行きたくないの一点張りだったから、咲には嫌な思いをさせてしまった。 咲:「行こうよ、なにも水着着て肌露出しなくても、半パンとシャツでちょっと濡れるぐらいなら大丈夫だよ、って言ったのに対して、すっごい怒ってた」 理央:シャツも水につけたら透けてしまうだろ。とにかく行く気はない。——そう、大人気なく答えたっけな、確か。ちょっとは咲の意見に耳を貸しても良かったかもな。 咲:「だけど今度こそ、今度こそ海水浴行きたいな。理央が元気になって、身体を動かせるようになったら、一緒に泳ぎたいな。わたし最近体重落ちたから、引き締まったボディのお披露目も兼ねて」 理央:泳ぐ、のか? やっぱりシャツが濡れて肌が見えてしまうのでは? いや、まあ、もし身体が動かせるようになったら、一生に一度は、いいかもしれない。  : 咲:「理央、おはよう。今年の秋も短かったなー。もみじを拾って理央に見せてあげたかったんだけど、もう枯れちゃってた。残念」 理央:今日は、11月25日か。ベッドの上から見ている限りでも、年々秋という季節が短くなっているような気がする。そして咲は、季節を重ねるごとに少しずつ身体が細くなりつつあるような気がする。 咲:「あ、いままばたきの回数が増えた! 理央、ほんとはわたしの話、聞こえてるんじゃないの?」 理央:全部聴こえてえるよ。反応できないだけでね。 咲:「あと1ヶ月でクリスマスだね。去年ちゃんとあげられてなかったから、今年こそ渡そうと思ってるの。じゃあ……わたしがプレゼント候補を挙げるから、まばたき1回がノー。まばたき3回がイエス。行くよー?」 理央:まばたきはぼくの力じゃコントロールできないんだが。だがまあ、とりあえず聞いてみよう。 咲:「オーディオプレイヤー。……まばたき1回。厚手のコート。……まばたき1回。ちょっといいピアス。……1回か。うーん。あ、じゃあお揃いの腕時計! ……えー、これも1回? うーん。あ、分かった! わたしのキス。……3回! わー! じゃあもう決まりってことだね。最近してなかったもんね」 理央:咲はかがみ込んで、ぼくの唇に自らの唇で優しく触れた。 咲:「1ヶ月ぶりくらいかな」 理央:温かい咲の唇が触れるたび、ぼくはこう思った。まだここにいてもいいのかもしれない。いま、ぼくたちのいるこの世界の中では、ぼくと咲の距離はとても、とても近いものに感ぜられるからだ。 咲:「あ、でもクリスマスプレゼントだから、物じゃないとダメかな。うーん。あ、サンマの塩焼き! ……3回! あはは、理央どれだけサンマ好きなのよ。じゃあ、来月のクリスマスプレゼント、楽しみにしててね! じゃあ、今日はこれで帰るね」 理央:ひょっとして、サンマが好きなのは咲の方じゃないか? というか、マジで持ってくるつもりか?  : 理央:クリスマスイヴになった。ぼくが見る景色は咲がいないと変わり映えのないものだ。ぼくは少し気がかりだった。じつはここ2日、咲は現れなかったのだった。3日前、「また明日ね」と言っていたから、今日も来るものだと思っていたが、いつになっても現れない。もしかしてなにかアクシデントに見舞われたのだろうか。それともクリスマスにぼくを驚かせようとしているからあえて現れないのだろうか。咲のことだから、サンマ10本くらい持ってくるつもりかもしれない。 咲:「理央」 理央:え、ぼくの背中から、咲の声が……? 咲:「わたし、幸せだったよ」 理央:咲? なにを言っている? なんでぼくの目の前に来てくれないんだ? 咲:「理央、愛しているからね」 理央:風前の灯のようにか細い声をもみ消すように、看護師たちがばたばたと病室に入り込んできた。主治医がぼくの顔を覗き込む。そして告げる。「高山咲さんは、昨日亡くなられました」と。 理央:どういうことだ。咲が、死んだ? なんで? なんでそんなことになったんだ? ぼくはその一報に、彼女のことを悲しんだり悼んだりするより、ただただ混乱で心が一杯だった。——医師はこう続けた。「高山さんの遺書があります。これを、最後に、あなたの目の前で読んでほしいと託されたのです」 0: Chapter:6 理央:ああ、咲は、死んだんだ。疑念しかなかったぼくの意識は、「遺書」と咲の筆跡で書かれた封筒を見て、ようやく彼女が死んだという事実を受け入れはじめた。それと同時に、耐え難い喪失感が、ぼくの意識の至るところに、憐憫と後悔と自責とで小さな針穴を開けていった。……医師は、封筒から便箋を取り出し、読み上げ始めた。「赤井理央様。わたしがこの遺書を書いた理由は——」 咲:ほかでもない、理央の書いた遺書を読んだからです。理央は、孤独でした。わたしのことを気にかけてくれていました。この世界に生きているということに、とても、とても苦しんでいました。わたしの知らない苦しみが山積みになって、自ら命を絶とうとした。でも、わたしは何も気づいてあげられなかった。だからこう思うことにしました。なんで死のうとしたの、ではなく、この試練をどう乗り越えれば理央を助けることができるだろうか、と。まだ理央は生きている。助けるための方法は必ずどこかにある。 理央:医師が文面を読み上げる声が、思い出に残る咲の声とオーヴァーラッピングする。 咲:わたしは理央の書いた遺書をきっかけに、変わらなきゃって思いました。実際に変わったかどうかはわかりません。でも、いまからこう思うことにします。未来を自由な意思で選び取ることができるように、過去の記憶も好きなように形を変えることができる。例えば、旅の途中でにわか雨に降られたら。そこだけ切り取ってしまうとその旅は悪いものになってしまうでしょう。でも、その旅で新しい何かを見つけ、楽しい思い出ができた、という点に気づけば、それはきっといい思い出になります。楽しい時間は、後からそうしたラベリングをすることによって、きっと生み出せるものなんです。 理央:ぼくの意識は聴覚をそばだてた。一言一句聞き漏らさないように。 咲:理央は脳幹を損傷し、結果として意識が身体に伝達されない状態になってしまいました。お医者さんによれば、理央は再び目覚めることはないとのことです。でも、そんな中でも、わたしはあることを信じて、この1年、理央に語りかけ続けていました。理央は、生きている。きっとそうだとその盲信めいた声を、必死に自分に語りかけ続けました。だからきっとこの思いは、その前提が間違いでなければ、きっと理央に届いているはずなのです。いや、きっとそれは正しい。理央の目を見れば、まだそこに意識が残っていると、わたしには分かるんです。そしてそれがほんとうに分かった瞬間、奇跡が起こったんです。理央の心の中の声が、わたしの意識の中にすうっと入り込んできたんです。紛れもない理央の声が。だから、わたしは懸命に理央に自分の気持ちを伝えていました。わたしが理央の声を聞くことができるのならば、理央にだってわたしの声は絶対届いている。一見意思疎通が成立していないように見えるけれど、実はわたしと理央は、ちゃんと気持ちを交換し合っていたのです。わたしはそう確信しています。 理央:咲、そうだったのか。あえてぼくに声が聞こえていることを伝えなかったのは、その状態が咲にとって最良だったからかな。もし気持ちが通じ合っていることをぼくが知れば、ぼくが生の声を発することを避けたかも知れない。そう思ったのだろうか。——でも、結局、それでよかった。 咲:さて、わたしは、今、昼も夜も働いて、理央の意識を維持できるように、頑張っています。蘇生率はゼロパーセントでも、きっとそこにまだ生き続けている命があるからです。理央がきっと生き続けてくれるなら、わたしの存在はそれに代えられる。それに、理央の治療のために仕事をしているなら、それがすごく幸せなことだって思えるから。 理央:治療のための仕事? それって、まさか。 咲:……もしわたしの身になにかあったら、この遺書を読んでもらうように、お医者さんにお願いしました。もしこの文章を聞いているなら、わたしはもうここにはいないかもしれない。そうだとしたら、理央の延命治療はわたしの貯金がなくなったら終わってしまう。でも、理央には、最後の最後に幸せだったって思ってほしい。それが、わたしから理央への最後のお願いです。わたしは、理央のこと、ずっと、ずっと、愛しています。——高山咲より。 理央:なんで、気づけなかった。……ぼくは、ぼくがぼくではなくなるような、耐え難い痛みに悶えた。なんで、なんで、なんでだ。ぼくは咲がいることに疎外感を感じ、なんとなく普通の生活だと思い、彼女がいることが当然だと思っていた。でもそれは大きな間違いだった。彼女は、ぼくのことをただ見つめていただけではない。1日中働いて、高額な治療費を払ってきたのだ。それで身体が弱って、こんなことに。ぼくがこんなことをしなければ、あの時自殺しようとしなければ、身体の自由が奪われなければ、咲を死なせてしまうこともなかった。なんで、なんで。なんでぼくは動けないんだ。思い切り泣けないんだ。これが、咲をぞんざいに扱った罰だとでも言うのか。あんまりじゃないか。 理央:しばらくして医師は、数人の看護師にこう語った。「きみたちは、よくやってくれた。赤井理央さんは、あと48時間で治療が終わる。最期まで丁寧に、赤井理央さんに接してあげるように。それが高山咲さんが望んでおられたことだ」。そう言って、医師たちは部屋を後にした。ぼくは固定された視界に誰もいなくなると、意識のなかで嘔吐(えず)くように号哭した。 0: Chapter:7 理央:呆然としたまま過ぎる時間が、ぼくの孤独感を一層際立てた。あと少しでぼくの肉体には完全な死が訪れる。不可逆的な、死が。ぼくは甘んじてそれを受け入れようと思う。けれど、悲しみの奥から、ひとつの真っ白な光が差し込んでいるように感じる。その光は、ぼくに、思い出すんだ、と命じていた。 咲:「理央……ちゃん、でいいかな。わたしは咲。よろしくね」 理央:思い出す。はじめて会った時、お互いの手を重ねたのを。 咲:「わたしね、理央のこと、好きだよ」 理央:桜が舞う暖かい日差しのなかで、咲の言葉がぼくの意識のなかで反芻される。 咲:「おはよう。今日すっごく楽しみで、昨日眠れなかったの。楽しい1日にしようね」 理央:あの日は電車の中で、咲がぼくの肩で寝息を立てていたっけ。 咲:「ねえねえ、この服どっちの色が似合うかな?」 理央:コートを二着持ってきて、ぼくに尋ねる咲。そうか、ぼくは、純粋にあの時を楽しんでいられた。たとえ世間からどんな目で見られようとしても、社会がぼくたちを拒絶しようとしても。 咲:「わたし変な夢見ちゃったの、聞いてくれる?」 理央:夜更けに電話してきた咲の話を聞いた。ぼくは頼られることを嬉しいと思うこともできた。 咲:「紅葉、綺麗だったね。わたしたち、年を取ってもずっと一緒にいようね」 理央:ぼくにとっての永遠を、信じることができた。 咲:「わたしは理央のこと、ずっと、ずっと、愛しているからね」 理央:咲にとっての永遠を、同じように、信じることができた。——そして、残された時間を、噛み締める準備ができた。 0: Chapter:8 理央:クリスマスが、終わろうとしていた。ぼくの肉体の活動が、終わろうとしていた。もしぼくにまだ考えることのできる時間が残されているならば、ぼくはこれからはきっと、もっと多くのものを信じて生きていくだろう。……ぼくの命はここで終わる。でも、その終わりが新たな輪廻転生への道なのだとしたら、ぼくはその先に続いている景色を、見てみたいと思った。今見えている光の奥に、咲が自身の影を落としているように見えるのだ。 理央:二通の遺書が、ベッド脇の机に置かれていた。ぼくの書いた遺書と、咲の書いた遺書が。それを眺めていると、医師が現れた。時間です、と、小さな声で宣告を下した。大丈夫。カーテンを下ろした舞台にも、次の幕開けが訪れる。ぼくにも、どんな色で彩られているかまだわからない世界が待っている。そんな気がするのだ。 理央:ぼくの物語は、ここで終わりだ。このストーリーがなかったら、ぼくはただのぼくとして死んでいたかもしれない。咲には辛い思いをさせたけれど、これからまた別の物語で、罪滅ぼしができる気がしている。そんなストーリーを、描きたい。すべての想いを諒解した今日という日は、きっと素敵だ。どんな明日が始まるのか分からないけれど、ぼくが死ぬにはいい日だ。 理央:さあ、行こう。なにが待っているか分からない、彼岸の世界へ。意識がくるりと反転し、あたりは真っ白な闇に覆われ、ぼくという意識が枝葉末節に至るまで分解され、新しい光がぼくを包み込み……カーテン・フォール。 0: 了

0: Chapter:1 理央:これから、ぼくが死ぬまでの物語を始めよう。 理央:ぼくは、死ぬことにした。死ぬことにしたから遺書を書いて、誰かが見つけやすいように自室の机の上に置いた。ぼくがぼくであることを認めてくれなかったシステムに向かって、叫びたかったのだ。けれどぼくは死ななかった。死ぬかわりに、身体のあらゆる器官の自由を奪われた状態になった。ぼくという意識だけがそこに残存した。処置を終え、病室に横たわるぼくに、ぼくの恋人の咲が駆け込んできた。 咲:「理央、理央……ねえ、聞こえてる?」 理央:ああ、聞こえている。明瞭に聞こえている。けれど答えることを許してはくれない。不規則にまばたきをする両目に、微かに震えている手の指先。しかしそれはぼくという意識からは切り離されて、彼女への反応ではなく、反射的な動きを見せるだけだった。 咲:「聞こえてるんだね、理央、わたしの声、ちゃんと」 理央:ああ、聞こえている。この意識まで、届いている。ただ返答することはできない。点滴によって生かされている身体に、ぼくの意志は届かない。 咲:「お医者さんね、理央の意識はないって言ってるけど、それって嘘だよね。だって理央の身体、ちゃんと動いてるもん。こっちを見てる。ちゃんとわたしと目を合わせてる」 理央:それは偶然だ。動いていない双眸に咲が目を合わせているだけだよ。 咲:「なんともないよ、理央。だから、早く戻ってきてね? ……ちゃんと謝ってね、馬鹿なことをしたって。戻ってくること、わたし、信じてるから」 理央:咲、きみの希望的観測によれば、きみが生きているからぼくも生きていると思うんだろう。対話が「生きている」という空間でできているから、そう思うんだろう。でも事実はこうだ。きみは生きているけど、ぼくはそこにいない。 咲:「理央、また明日来るからね。じゃあね」 理央:「ああ、じゃあね、咲」。届くことのない声を意識の中で反芻する。咲の後ろ姿を、定点で眺める。生きているときの僕ならば、哀れみに涙を落としたろうか。でもそんなことはどうでもいい。もう涙を流すことはできないのだから。 0: Chapter:2 理央:意識がふっとひっくり返った。ぼくは、夢を見ていると明確に分かる夢を見ている。 咲:「わたしは、どんな形でも、理央のことが好きなの」 理央:「ぼくだって、咲のことが好きだ。でも、咲と一緒にいたら、きっとぼくは咲のことを不幸にしてしまう」 咲:「不幸になんかならないよ。これまでわたしと付き合っていた頃と同じように、わたしのことを好きでいてくれたら、それでちょっとずつ前に進めたら、わたしはそれでいいの」 理央:「これまでのことじゃなくて、これからのことだ。ぼくの肉体は女だ。咲の子どもを作ることもできないし、結婚することもかなわない。ぼくという存在につきまとう物理的な肉体の問題に、悲しいけど、咲を巻き込むことはできない。だから、これ以上咲と近づくわけにはいかない。ぼくはこのままの状態を崩すわけにはいかないんだ」 咲:「このままの状態って?」 理央:「ぼくたちは結婚することもできないし、子どもを設けることもできない。それでよければ、ぼくも咲と一緒にいたい」 咲:「わかった。……でも、もしこれから先、わたしたちが結婚することを許されて、技術が進んでわたしたちと血のつながった子どもができるようになったら、それが遠い未来の先にあるものだとしても、そのときはもっと先に進みたい」 理央:「それが、永遠に成り立たなかったら?」 咲:「そうだとしても、理央と待ち続ける」 理央:咲は目を潤ませて、ぼくの背中に両手を回した。ぼくも彼女を包み込んだ。服を着ていてもしっかりと体温が伝わってくる。暖かい生命が、そこに宿されているとはっきり分かる。なのに、どうしてだろう、それがぼくには暑苦しいぐらいだった。息が詰まりそうだった。死にたいと思った。なぜなら、ぼくたちがうまくやっていける保証がなかったからだ。たとえ百年経っても、小さき者たちの声は誰にも伝わらないだろうから。 咲:「どんなことになっても、わたしたちがわたしたちでいられる限り、理央を信じてる」 理央:ぼくはその言葉に返答するかわりに、彼女をきつく抱きしめた。彼女の決意を諒解したからではない。彼女に返す適切な言葉が、そのときのぼくには思い浮かばなかったからだ。そう思い始めたからだろう、ぼくはそれ以来、彼女に向ける表側のぼくと、実体としての裏側のぼくを演じ分けるように生きていくことになったのだ。 咲:「すっかり夏終わっちゃったね。来年は海水浴に行きたいなぁ」 理央:思索に暮れている間に、場面は変わっていた。10月も半ばに差し掛かり、一気に冬へと季節が移ろう。 咲:「最近落ち葉が増えたね。ということは、もみじの季節かな? 理央はさ、紅葉狩りとか行きたくない?」 理央:そうだな、どう返すべきか。行きたいよ。行きたいけれど、咲と一緒に肩を並べて歩くほどの人間じゃないよ、ぼくは。そう思ってしまってからは、ふたりでどこかに行く機会も減った。 咲:「理央、最近ちょっと元気ないよ。わたしにできることはある?」 理央:どう返そう、「気にしないで」と言ったんだろうか。実際はグロテスクな台詞を心の中に何度も上書きしていた。ぼくの脳とぼくの身体の性が一致していないだけではなかった。ぼくの思想とぼくの言葉も一致していなかった。それからきっと、ぼくの考えと咲の考えも、一致していなかった。 咲:「もうすぐクリスマスだね。今年は理央からなにがもらえるんだろ?」 理央:そうか、クリスマスプレゼントか。思えばそれが引き金になったのかもしれない。ぼくの頭の中に醜い悪魔が現れる。咲へのプレゼントには、咲を解放できるものがいいじゃないか。ついでに綺麗に消えてしまえる。ぼくがぼくであることを認めてくれなかったシステムの正体は、この国ではなく、ぼくという小汚い存在と、世界の不一致だった。だからぼくは死ぬことにした。 咲:「わたしね、理央のこと、ほんとうに好きだよ。ずっと、理央といたいな」 理央:ぼくは、献身的な咲の愛情から逃れるように、死を選んだ。気がついたら大型トラックが行き交う国道沿いに立っていた。一歩踏み出せば簡単に死ねると思っていた。その一歩を踏み出した時、それからのぼくの人生が大きく変わることになるとは、考えもしなかった。暗澹たる過去のなかを何度もぐるぐる回り続けるだけの人生になるなんて。 0:Chapter:3 咲:「理央、きょうはいいもの持ってきたよ」 理央:また暗い過去を彷徨い続けていたぼくは、咲の呼びかけで現実に引き戻された。固定された視界の中に、彼女が映る。 咲:「なんだと思う? 理央、ミルクレープ好きだったよね。でも実は内臓ごと焼いたサンマの塩焼きが一番好きなんだよね」 理央:……百歩譲ってぼくが意識のある病人だったとしてだ。お見舞いにサンマの塩焼きってどうなんだ。 咲:「あ! 今まばたきの回数増えてた。やっぱり聞こえてるんじゃないの?」 理央:聞こえているよ。でも聞こえているだけだよ。瞼が不規則に動いたのは偶然だ。笑かそうと思っても、それは意味を成さない行為だ。サンマの塩焼きが食べたいわけではないからね。 咲:「理央、これ、わたしが作ったんだよ」 理央:……塩焼きじゃなくて安心した。彼女が取り出したのは一冊のスケッチブックだった。表紙には、「Memories Saki & Rio」と毛筆で書かれている。 咲:「これ、付き合いはじめた日に初めて撮った写真だよ。覚えてるかな」 理央:そういえば、そんな写真も撮ったっけ。 咲:「これは、1ヶ月記念日にご飯一緒に食べた時の写真。あはは、よく見たら理央の口もと、ソースついてるよ」 理央:そんな時もあった。……ぼくは、なにを考えながらこんな顔をしていたのだろう。 咲:「わたしの誕生日の時に、プレゼントとケーキを買ってくれたよね。わたし、とっても、とっても嬉しかったよ」 理央:適当に選んできたプレゼントと、形だけのショートケーキだったけど、確かに咲は嬉しそうだった。 咲:「理央の誕生日は、わたしのちょうど1ヶ月あとだから、絶対忘れないよ。誕生日会、理央は喜んでくれたかな」 理央:感情を失いかけていても、どうしてだか、あの誕生日だけはいくばくか幸福だと感じた。こんな乾き切った愛でも、この関係を続けなければならないと思った。 咲:「二人で旅行したときの写真。ねえ、どうかな、わたしの編集、センスいいでしょ、理央」 理央:いくつか写真が並べられている。ページが、パラパラとめくられる。 咲:「はい。こんな感じ。ちょっとは懐かしいって思ってもらえたかな。これね、最後のページだけ空けてあるんだ。理央の具合がちゃんと良くなったら、ふたりで写真撮りたいな。それでその写真をここに貼るんだ。だから早く戻ってきてね」 理央:そうか、ぼくはまだ咲に必要とされているんだ。その気持ちを無下にするわけではないけれど、咲の願いは叶わない。ぼくはここで、静かに死んでいくんだ。それだけは変わらないんだ。過去はどうだっていいし、失ってしまった方がいい。僅かに希望の光をちらつかせるだけの過去は、この落ちぶれたぼくを余計に苦しめるからだ。例えるなら、耐え難い空腹に苦しむ者に対して、食物の匂いだけ嗅がせるようなものだ。 咲:「また来るからね。明日になったら、きっと今日よりいい状態になってるよ」 理央:それから、咲は足繁くぼくのベッドに足を運んだ。毎日、夕方になると必ず咲がベッドの傍にいる。クリスマスが終わり、年が明け、寒さがいよいよ厳しくなっても、彼女はいつも視界の中にいた。だが、彼女との日々が、突然途切れることになるという可能性を、その時のぼくは考えもしなかった。 0: Chapter:4 咲:「理央、また明日ね。お互い風邪ひかないようにお祈りしとくね」 理央:その台詞が最後だった。翌日、太陽が登ってから沈んでゆくまで、咲は現れなかった。もしかしたら夜遅く来るのかもしれないと思っていたが、咲は姿を見せなかった。きっと仕事が長引いて疲れたのだろうと思う一方、彼女の身に何かあったのではないかと、ぼくは不安になっていた。 咲:「ねえ理央、なにを見ているの?」 理央:いつの間にか反転した意識の中で、イメージの中の咲がぼくにそう語りかける。 咲:「ねえってば。ねえ、話ちゃんと聞いてた?」 理央:「聞いていたよ。『人は完全には誰かと一緒になることはできない』、だろ」 咲:「そう。理央はこの意見に賛成? それとも反対?」 理央:「ある意味賛成の立場かな」 咲:「そうだよね。わたしも、そう思う」 理央:「いつもの咲らしくないね。いつもだったら、一緒になることは必ずできる、って言いそうだ」 咲:「わたしね、ある詩人が書いた本の中でこんな部分を見つけたんだ」 理央:「詩人?」 咲:「そう。その人はこんなことを言った。『たとえば、お互いを愛し合っているふたりは、どれだけ口づけを重ねても、身体と身体が接着しているに過ぎない。交わった状態だとは言えない』。わたし、理央と付き合ってて、ときどきそれを実感するんだ」 理央:「それは、言われてみればそうかもね。でも珍しい。咲がそんなことを言うなんて」 咲:「だって、わたしはこれまでのわたしじゃないから」 理央:「これまでのわたしじゃない、って?」 咲:「わたしの人生は、理央に出会ってから大きく変わった。人を好きになるという気持ちを学んだ。でも理央は、わたしの気持ちを汲み取ってはくれなかった。……ほんとはわたしのことなんて、どうでも良かったんだよね」 理央:「それは——」 咲:「理央は、わたしなんて必要じゃなかったんだよ。大変だったよね、わたしが泣いてる時はお世話しなきゃいけないし。いっつもデートに時間を割かれるし、嫌々キスをして嫌々行為しなきゃいけなかったんだ。理央はいま動けなくなっちゃったけど、ほんとはそれがわたしで良かったよね。わたしが死んでも理央が悲しむ必要なんてないしね」 理央:「咲、あまりにもひどい——」 咲:「わたしなんて、死ねば良かったんだ。理央がわたしの身代わりをしてこんなことになって、ほんとうに死ぬべきなのは理央じゃなくてわたしだったのに、わたしじゃなくて理央がこんなことに。理央はちゃんと生きて素敵な人を見つけてずっとずっと幸せな人生を歩む、それで良かったのに。なんでわたしは、わたしは」 理央:「ちょっと待てよ。咲、どこへ行くんだ? そっちは窓……まさか。やめろ、頼むからやめてくれ」 咲:「これがわたしにとってふさわしい結末なの。さよなら、理央」 理央:「咲、そうじゃない、死なないでくれ、ぼくが悪かった! だから、やめてくれ!」  : 理央:気がつくと、透析装置と点滴がある視界。涙を流したいほど耐え難い悪夢を見ていたようだ。だがぼくは動けない。涙を流すことはできないのだ。異物が口から食道を通り胃に達し、吐き出したいのに吐き出すことができない、例えて言うならそんなところだ。……医師と看護師たちが心配そうにぼくの顔を覗き込んでいる。——2日間、意識が薄らぎ、心拍が乱れていたが、今日になって治った。そんなことをがやがやと話し合って、確認をとっていた。いくつもの細い管を身体じゅうに取り付けられたぼくは、ふと思う。心拍が乱れているのはベッド脇のディスプレイを見ればわかるだろう。だけどなぜ、意識の状態が変わったことに気づいたのだろう? ぼくが正常に生きていれば、彼らに問いかけたかった。なぜぼくは死なないんだ。なぜぼくはこの状態で苦しみ続けなければならないんだ。そうやって自らを苛む感情に溺れている間に、白衣に身を包んだ人々は次々に病室を出ていった。そしてたったひとり、彼らとは別の人間があらわれる。灰色のコートに身を包んだ、見覚えのある顔。 咲:「理央、ごめんね、遅くなっちゃった」 理央:ぼくは咲を抱きしめようとした。だが、指一本動かすことのできない身体が、今もぼくと咲の間に横たわる巨大な空白を象徴していた。 咲:「理央、わたし、変な夢見ちゃった」 理央:どんな夢を? 咲:「理央がわたしを置いて、遠くにいっちゃう夢だったの」 理央:咲は、また涙を浮かべている。……心配いらないって。ぼくがここにいる限り、ぼくはどこにも行けないから、どこにも行かない。 咲:「わたしは、ここにいるよ。だから理央も、ここにいてね」 理央:わかった。約束するよ。 咲:「今日からまた、毎日会いに来るからね。しつこいって思われるかもしれないけれど、毎日来るね」 理央:ありがとう。ぼくも何にも変わり映えしないだろうけど、よろしく。 咲:「あ、もうすぐ春だね。桜が咲いたら、綺麗な写真をいーっぱい、見せに来るね」 理央:ぼくの手が動いたならば、彼女の涙をそっと拭ってやれただろう。……こうして、奇妙な形に結実したぼくと咲の恋は、ゆっくりと、しかし着実に、それ以前のぼくたちには選べなかった道を進んでゆくことになる。ぼくはこう思ったのだ。距離はひらいているかも知れないけど、この人なら、ぼくは信じることができる、と。 0: Chapter:5 咲:「理央、お待たせ。今日ね、桜が咲いてたの」 理央:咲はそう言うと、スマートフォンの画面をぼくの目の前に翳した。 咲:「ねえ、理央は覚えてるかな。初めてのデートしたときのこと。あの時も桜の季節だったよね」 理央:ふたりで最初に出かけた日のことは、よく覚えている。 咲:「桜並木に、たくさん花がついてた。ときどき強い風が吹いて、たまに花びらがひらひら落ちてくる」 理央:ぼくたちは肩を並べて、並木の端から端まで歩いていた。 咲:「並木が途切れる場所まで歩いてきたら、理央がふっと足を止めて」 理央:咲に話しかけようとして、話しかけられなかった。 咲:「どうしたの? ってわたしが聞いたら、理央は顔をこっちに向けて」 理央:少しだけ緊張感を帯びた咲の顔に、その瞳から目を逸らすことができなくなった。 咲:「理央が言うより先に言わなくちゃって思った。わたしね、理央のこと、好きだよって、言った」 理央:それまで冷酷だった世界が、急に優しげな暖色を帯びた風景に変わり、ぼくと咲を取り巻いた。 咲:「理央は、わたしの思いに寄り添って、想いを伝えてくれたよね」 理央:ぼくも、咲のことが好きだよ、って。 咲:「わたしは、手を伸ばして」 理央:ぼくはその手を取って。 咲:「これからも一緒に歩いていこうねって誓った」 理央:ぼくは、小さく頷いた。胸の中が、すうっと晴れたような気がした。  : 咲:「理央、おはよう。今日ね、海を見てきたの」 理央:海……そうか、もう海水浴の季節になるんだっけ。気温は意識に伝わらないから実感はないけど。 咲:「理央は覚えてるかな、わたしが海水浴行きたいって言ったときに、ちょっと喧嘩したの」 理央:そうだな、そういうことも確かにあった。ぼくが行きたくないの一点張りだったから、咲には嫌な思いをさせてしまった。 咲:「行こうよ、なにも水着着て肌露出しなくても、半パンとシャツでちょっと濡れるぐらいなら大丈夫だよ、って言ったのに対して、すっごい怒ってた」 理央:シャツも水につけたら透けてしまうだろ。とにかく行く気はない。——そう、大人気なく答えたっけな、確か。ちょっとは咲の意見に耳を貸しても良かったかもな。 咲:「だけど今度こそ、今度こそ海水浴行きたいな。理央が元気になって、身体を動かせるようになったら、一緒に泳ぎたいな。わたし最近体重落ちたから、引き締まったボディのお披露目も兼ねて」 理央:泳ぐ、のか? やっぱりシャツが濡れて肌が見えてしまうのでは? いや、まあ、もし身体が動かせるようになったら、一生に一度は、いいかもしれない。  : 咲:「理央、おはよう。今年の秋も短かったなー。もみじを拾って理央に見せてあげたかったんだけど、もう枯れちゃってた。残念」 理央:今日は、11月25日か。ベッドの上から見ている限りでも、年々秋という季節が短くなっているような気がする。そして咲は、季節を重ねるごとに少しずつ身体が細くなりつつあるような気がする。 咲:「あ、いままばたきの回数が増えた! 理央、ほんとはわたしの話、聞こえてるんじゃないの?」 理央:全部聴こえてえるよ。反応できないだけでね。 咲:「あと1ヶ月でクリスマスだね。去年ちゃんとあげられてなかったから、今年こそ渡そうと思ってるの。じゃあ……わたしがプレゼント候補を挙げるから、まばたき1回がノー。まばたき3回がイエス。行くよー?」 理央:まばたきはぼくの力じゃコントロールできないんだが。だがまあ、とりあえず聞いてみよう。 咲:「オーディオプレイヤー。……まばたき1回。厚手のコート。……まばたき1回。ちょっといいピアス。……1回か。うーん。あ、じゃあお揃いの腕時計! ……えー、これも1回? うーん。あ、分かった! わたしのキス。……3回! わー! じゃあもう決まりってことだね。最近してなかったもんね」 理央:咲はかがみ込んで、ぼくの唇に自らの唇で優しく触れた。 咲:「1ヶ月ぶりくらいかな」 理央:温かい咲の唇が触れるたび、ぼくはこう思った。まだここにいてもいいのかもしれない。いま、ぼくたちのいるこの世界の中では、ぼくと咲の距離はとても、とても近いものに感ぜられるからだ。 咲:「あ、でもクリスマスプレゼントだから、物じゃないとダメかな。うーん。あ、サンマの塩焼き! ……3回! あはは、理央どれだけサンマ好きなのよ。じゃあ、来月のクリスマスプレゼント、楽しみにしててね! じゃあ、今日はこれで帰るね」 理央:ひょっとして、サンマが好きなのは咲の方じゃないか? というか、マジで持ってくるつもりか?  : 理央:クリスマスイヴになった。ぼくが見る景色は咲がいないと変わり映えのないものだ。ぼくは少し気がかりだった。じつはここ2日、咲は現れなかったのだった。3日前、「また明日ね」と言っていたから、今日も来るものだと思っていたが、いつになっても現れない。もしかしてなにかアクシデントに見舞われたのだろうか。それともクリスマスにぼくを驚かせようとしているからあえて現れないのだろうか。咲のことだから、サンマ10本くらい持ってくるつもりかもしれない。 咲:「理央」 理央:え、ぼくの背中から、咲の声が……? 咲:「わたし、幸せだったよ」 理央:咲? なにを言っている? なんでぼくの目の前に来てくれないんだ? 咲:「理央、愛しているからね」 理央:風前の灯のようにか細い声をもみ消すように、看護師たちがばたばたと病室に入り込んできた。主治医がぼくの顔を覗き込む。そして告げる。「高山咲さんは、昨日亡くなられました」と。 理央:どういうことだ。咲が、死んだ? なんで? なんでそんなことになったんだ? ぼくはその一報に、彼女のことを悲しんだり悼んだりするより、ただただ混乱で心が一杯だった。——医師はこう続けた。「高山さんの遺書があります。これを、最後に、あなたの目の前で読んでほしいと託されたのです」 0: Chapter:6 理央:ああ、咲は、死んだんだ。疑念しかなかったぼくの意識は、「遺書」と咲の筆跡で書かれた封筒を見て、ようやく彼女が死んだという事実を受け入れはじめた。それと同時に、耐え難い喪失感が、ぼくの意識の至るところに、憐憫と後悔と自責とで小さな針穴を開けていった。……医師は、封筒から便箋を取り出し、読み上げ始めた。「赤井理央様。わたしがこの遺書を書いた理由は——」 咲:ほかでもない、理央の書いた遺書を読んだからです。理央は、孤独でした。わたしのことを気にかけてくれていました。この世界に生きているということに、とても、とても苦しんでいました。わたしの知らない苦しみが山積みになって、自ら命を絶とうとした。でも、わたしは何も気づいてあげられなかった。だからこう思うことにしました。なんで死のうとしたの、ではなく、この試練をどう乗り越えれば理央を助けることができるだろうか、と。まだ理央は生きている。助けるための方法は必ずどこかにある。 理央:医師が文面を読み上げる声が、思い出に残る咲の声とオーヴァーラッピングする。 咲:わたしは理央の書いた遺書をきっかけに、変わらなきゃって思いました。実際に変わったかどうかはわかりません。でも、いまからこう思うことにします。未来を自由な意思で選び取ることができるように、過去の記憶も好きなように形を変えることができる。例えば、旅の途中でにわか雨に降られたら。そこだけ切り取ってしまうとその旅は悪いものになってしまうでしょう。でも、その旅で新しい何かを見つけ、楽しい思い出ができた、という点に気づけば、それはきっといい思い出になります。楽しい時間は、後からそうしたラベリングをすることによって、きっと生み出せるものなんです。 理央:ぼくの意識は聴覚をそばだてた。一言一句聞き漏らさないように。 咲:理央は脳幹を損傷し、結果として意識が身体に伝達されない状態になってしまいました。お医者さんによれば、理央は再び目覚めることはないとのことです。でも、そんな中でも、わたしはあることを信じて、この1年、理央に語りかけ続けていました。理央は、生きている。きっとそうだとその盲信めいた声を、必死に自分に語りかけ続けました。だからきっとこの思いは、その前提が間違いでなければ、きっと理央に届いているはずなのです。いや、きっとそれは正しい。理央の目を見れば、まだそこに意識が残っていると、わたしには分かるんです。そしてそれがほんとうに分かった瞬間、奇跡が起こったんです。理央の心の中の声が、わたしの意識の中にすうっと入り込んできたんです。紛れもない理央の声が。だから、わたしは懸命に理央に自分の気持ちを伝えていました。わたしが理央の声を聞くことができるのならば、理央にだってわたしの声は絶対届いている。一見意思疎通が成立していないように見えるけれど、実はわたしと理央は、ちゃんと気持ちを交換し合っていたのです。わたしはそう確信しています。 理央:咲、そうだったのか。あえてぼくに声が聞こえていることを伝えなかったのは、その状態が咲にとって最良だったからかな。もし気持ちが通じ合っていることをぼくが知れば、ぼくが生の声を発することを避けたかも知れない。そう思ったのだろうか。——でも、結局、それでよかった。 咲:さて、わたしは、今、昼も夜も働いて、理央の意識を維持できるように、頑張っています。蘇生率はゼロパーセントでも、きっとそこにまだ生き続けている命があるからです。理央がきっと生き続けてくれるなら、わたしの存在はそれに代えられる。それに、理央の治療のために仕事をしているなら、それがすごく幸せなことだって思えるから。 理央:治療のための仕事? それって、まさか。 咲:……もしわたしの身になにかあったら、この遺書を読んでもらうように、お医者さんにお願いしました。もしこの文章を聞いているなら、わたしはもうここにはいないかもしれない。そうだとしたら、理央の延命治療はわたしの貯金がなくなったら終わってしまう。でも、理央には、最後の最後に幸せだったって思ってほしい。それが、わたしから理央への最後のお願いです。わたしは、理央のこと、ずっと、ずっと、愛しています。——高山咲より。 理央:なんで、気づけなかった。……ぼくは、ぼくがぼくではなくなるような、耐え難い痛みに悶えた。なんで、なんで、なんでだ。ぼくは咲がいることに疎外感を感じ、なんとなく普通の生活だと思い、彼女がいることが当然だと思っていた。でもそれは大きな間違いだった。彼女は、ぼくのことをただ見つめていただけではない。1日中働いて、高額な治療費を払ってきたのだ。それで身体が弱って、こんなことに。ぼくがこんなことをしなければ、あの時自殺しようとしなければ、身体の自由が奪われなければ、咲を死なせてしまうこともなかった。なんで、なんで。なんでぼくは動けないんだ。思い切り泣けないんだ。これが、咲をぞんざいに扱った罰だとでも言うのか。あんまりじゃないか。 理央:しばらくして医師は、数人の看護師にこう語った。「きみたちは、よくやってくれた。赤井理央さんは、あと48時間で治療が終わる。最期まで丁寧に、赤井理央さんに接してあげるように。それが高山咲さんが望んでおられたことだ」。そう言って、医師たちは部屋を後にした。ぼくは固定された視界に誰もいなくなると、意識のなかで嘔吐(えず)くように号哭した。 0: Chapter:7 理央:呆然としたまま過ぎる時間が、ぼくの孤独感を一層際立てた。あと少しでぼくの肉体には完全な死が訪れる。不可逆的な、死が。ぼくは甘んじてそれを受け入れようと思う。けれど、悲しみの奥から、ひとつの真っ白な光が差し込んでいるように感じる。その光は、ぼくに、思い出すんだ、と命じていた。 咲:「理央……ちゃん、でいいかな。わたしは咲。よろしくね」 理央:思い出す。はじめて会った時、お互いの手を重ねたのを。 咲:「わたしね、理央のこと、好きだよ」 理央:桜が舞う暖かい日差しのなかで、咲の言葉がぼくの意識のなかで反芻される。 咲:「おはよう。今日すっごく楽しみで、昨日眠れなかったの。楽しい1日にしようね」 理央:あの日は電車の中で、咲がぼくの肩で寝息を立てていたっけ。 咲:「ねえねえ、この服どっちの色が似合うかな?」 理央:コートを二着持ってきて、ぼくに尋ねる咲。そうか、ぼくは、純粋にあの時を楽しんでいられた。たとえ世間からどんな目で見られようとしても、社会がぼくたちを拒絶しようとしても。 咲:「わたし変な夢見ちゃったの、聞いてくれる?」 理央:夜更けに電話してきた咲の話を聞いた。ぼくは頼られることを嬉しいと思うこともできた。 咲:「紅葉、綺麗だったね。わたしたち、年を取ってもずっと一緒にいようね」 理央:ぼくにとっての永遠を、信じることができた。 咲:「わたしは理央のこと、ずっと、ずっと、愛しているからね」 理央:咲にとっての永遠を、同じように、信じることができた。——そして、残された時間を、噛み締める準備ができた。 0: Chapter:8 理央:クリスマスが、終わろうとしていた。ぼくの肉体の活動が、終わろうとしていた。もしぼくにまだ考えることのできる時間が残されているならば、ぼくはこれからはきっと、もっと多くのものを信じて生きていくだろう。……ぼくの命はここで終わる。でも、その終わりが新たな輪廻転生への道なのだとしたら、ぼくはその先に続いている景色を、見てみたいと思った。今見えている光の奥に、咲が自身の影を落としているように見えるのだ。 理央:二通の遺書が、ベッド脇の机に置かれていた。ぼくの書いた遺書と、咲の書いた遺書が。それを眺めていると、医師が現れた。時間です、と、小さな声で宣告を下した。大丈夫。カーテンを下ろした舞台にも、次の幕開けが訪れる。ぼくにも、どんな色で彩られているかまだわからない世界が待っている。そんな気がするのだ。 理央:ぼくの物語は、ここで終わりだ。このストーリーがなかったら、ぼくはただのぼくとして死んでいたかもしれない。咲には辛い思いをさせたけれど、これからまた別の物語で、罪滅ぼしができる気がしている。そんなストーリーを、描きたい。すべての想いを諒解した今日という日は、きっと素敵だ。どんな明日が始まるのか分からないけれど、ぼくが死ぬにはいい日だ。 理央:さあ、行こう。なにが待っているか分からない、彼岸の世界へ。意識がくるりと反転し、あたりは真っ白な闇に覆われ、ぼくという意識が枝葉末節に至るまで分解され、新しい光がぼくを包み込み……カーテン・フォール。 0: 了