台本概要

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タイトル 化物の羊飼い。
作者名 音佐りんご。  (@ringo_otosa)
ジャンル ファンタジー
演者人数 1人用台本(不問1) ※兼役あり
時間 50 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 ■□あらすじ□■
人が生きるには過酷すぎる世界に生きる、人を食わないと生きられない化け物と、生き残りの親子の旅の話。化物の独白。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
化物 不問 78 荒野を彷徨う化物。 人間を食わなければ死ぬ。人間を食っていれば死なない。永い時を生きる存在。
8 生き残りの人間。男。
26 生き残りの人間。女。
のるん 不問 15 生き残りの人間。子供。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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0:化物の羊飼い。 : 0:登場人物欄に男、女、のるん、とありますが、基本は化物のみです。必要に応じてそれぞれの人物を読んでいただければと思います。 : 0:■□あらすじ□■ 0:人が生きるには過酷すぎる世界に生きる、人を食わないと生きられない化け物と、生き残りの親子の旅の話。化物の独白。 : 0:□■登場人物■□ 化物:荒野を彷徨う化物。 化物:人間を食わなければ死ぬ。人間を食っていれば死なない。永い時を生きる存在。 男:生き残りの人間。男。 女:生き残りの人間。女。 のるん:生き残りの人間。子供。 : 0:■◇◆□□◆◇■ : 化物:荒廃した世界。 化物:そこは人間が生きるにはあまりにも過酷で、その数は次第に減って死に絶えていった。 化物:やがてはこの私も死ぬのだろう。 化物:そう覚悟してどこへいくともなく、ある筈のない食糧を求めて彷徨った。 化物:しかし、どうしたことか。 化物:目の前には生きた人間がいた。 化物:しかも一人ではない。 化物:つがいで、しかも赤子まで連れている。 化物:なんたる僥倖か。 化物:私は神に感謝した。 化物:これで生き延びることができる。 化物:私は辛抱たまらず、駆け出した。 化物:せっかくだ。赤子から喰らおう。 化物:無闇に爪で傷つけぬよう気をつけながら赤子を引ったくった。 化物:遅れて気付く親。 化物:こんな警戒心の低さで良くもまぁここまで生き残ったものだ。 化物:私は呆れながらも感心した。 化物:今すぐ喰らうか、ねぐらに帰って喰らうか。 化物:いや、久しぶりのご馳走だ。 化物:持って帰ろう。 化物:ならば、親もここで仕留めていこう。 化物:これを抱えたままでできるだろうか。 化物:そう思っていると親は向こうからやってきた。 化物:我が子を取り戻そうと決死の覚悟だろうか? 化物:違った。 化物:人間の男は涙を浮かべ膝をつき、懇願した。 : 男:「殺さないでほしい。」 : 化物:それがどうしたというのか。 化物:狩りやすく、喰らいやすくなっただけのこと。 化物:誰だって死にたくはない。私とて死にたくはない。 化物:そんなもの言うまでもないことだ。 化物:続いて女が言った。 : 女:「私たちはどうなってもかまわない、その子だけは殺さないで。」 : 化物:その言葉に私は驚いた。 化物:よもやこれが取引のつもりだと考える弱者の愚かしさに。 化物:しかし私は考えた。 化物:私がこの赤子を持っている限り、こいつらはついてくる。 化物:自ら運ぶ手間が省けるならそれに越したことはない。 化物:私はほとんど気紛れに言った。 : 化物:「良いだろう。子供だけはしばらく殺さないでおいてやろう。ついてこい。」 : 化物:人間は弱い生き物だ。 化物:この荒野ではまともにエサをとることもできず、目を離せばすぐに他の化物に襲われて死ぬ。 化物:そして私はそんな人間を喰らって生きている。 化物:人間以外の食物を受けつけず、人間のほとんど絶えたこの世界では生き残ることもできない。 化物:遅かれ早かれ果てる身ならば、こんな気紛れも悪くはないだろう。 化物:私は人間を守り、人間を喰らうことを楽しみに荒野をいく。 : 0:◆ : 化物:人喰いが人間を守り荒野を彷徨う。 化物:それはあたかも羊飼いのようだと私は思った。 化物:羊を狙う狼の私が、まるで人間の真似事とは、滑稽に過ぎる。 化物:けれどそれも一興。 化物:精々、羊を狙う私以外の狼やら有象無象の怪物やらを八つ裂きにしてやろう。 化物:そんなことをしても人間しか喰えぬ私の腹は微塵も膨れないが、羊のエサくらいにはなるだろう。 化物:一目見たときには気がつかなかったが、この羊どもはひどく痩せこけている。 化物:赤子に至っては、私が殺すまでもなく死にそうだ。 化物:赤子の肉という稀少な逸品を味わいたい気持ちもあるが、せっかくならば成長を待ってみるのも良いだろう。 化物:子供の成長は早いという。 化物:成体になるまで生きられるかは知らぬが多少は食べ応えもでるだろう。 化物:いずれ喰らう家畜を守り育む。 化物:これまで生きてきた中で覚えたことのない感覚は、私にとっても好ましいスパイスとなっているように思う。 化物:よもや人間と共に荒野を進むなど。 化物:考えたことはなかった。 化物:恐らく、奴らとてそれは同じなのだろう。 化物:最初の頃はいつ食われるのと恐れ、警戒した様子で深く眠ることも無かった。 化物:しかし近頃、女の方などは、無防備に膨らんだ腹を晒して眠っている。 化物:眠らぬ私は、そんな腹に牙を突き立てる日を開いたままの眼で何度も夢に見る。 化物:私は自分に言い聞かせる。まだ早い。 化物:ねぐらはまだ遠いのだ。 : 0:◆◆ : 化物:人間を拾ってどれほどの時が過ぎたのか。 化物:私には分からない。 化物:少なくとも空腹ではあるが、まだ耐えられる。 化物:私にとっては、或いはこの荒野を流離うすべての生き物にとっては、この空腹の限界を遠ざけることだけが時間の概念であり価値だった。 化物:そんな私の時間感覚に一つ、加わった価値がある。 化物:赤子の成長だ。 化物:私はそれまで、人間を食物以上の存在として見たことは無かった。 化物:今も根っこの部分ではそれは変わらないのかもしれない。 化物:人間は食物だ。 化物:それはきっと私が死んでも変わらない。 化物:それが人喰いの在り方なのだから。 化物:けれど、食物が大きく育っていくことに私は確かに喜びを覚えていた。 化物:飢えを満たす以外の喜びを。 化物:どれほどの時を生き、どれほどの人間を喰らってきたかも定かではない私だが、こんな食事は初めてなのではないかと思う。 化物:恐らくこれは私にとって最後の晩餐となるのだろう。 化物:ならば精々楽しもう。 化物:飢えを我慢して楽しもう。 化物:私の仕留めた狼どもの肉を頬張る人間を見て飢えを凌ぐ。 化物:そんな日が来るなんて、私は想像もしなかったなぁ。 化物:あぁ、早く食べたい。 化物:その思いを私は唾液と共に飲み下す。 : 0:◆◆◆ : のるん:「ぱーぱ。」 : 化物:赤子はそう呼んだ。 化物:私が連れる男のことをそう呼んだ。 : のるん:「まーま。」 : 化物:赤子はそう呼んだ。 化物:私が連れる女のことをそう呼んだ。 化物:どうやら言葉を覚え、自らの意思で歩き回れる程度には育ったらしい。 化物:男と女はそれを見て笑った。 化物:私は思う。 化物:食べ頃かもしれない。 化物:私は取引をした。 化物:取引とも呼べぬ、嘆願に気紛れに応えただけのものだが、それはとりあえず、子供だけはしばらくの間殺さないというものだった。 化物:ならば、もう食べてしまっても良いのではないだろうか。 化物:子供はまだまだ大きくなるだろう。 化物:それは楽しみだから殺さないでおくのもまた良いだろう。 化物:しかし、この男と女はそうでもない。 化物:確かに肉付きは良くなった。 化物:けれどそれ以上は無い。 化物:女の方は少し肥えてきたが、男は変わらない。 化物:食べ頃かもしれない。 化物:そんなことを考えていると、子供がこちらに向かってきた。 化物:男と女は慌てた様子で追いかけるが、それより早く子供は私に飛びついた。 化物:男も女もこれまで私に近づこうとはしなかった。 化物:当たり前だろう。 化物:何の気紛れか、襲いくる狼を追い払い、餌を与えてくれるとしても、それはあくまで化物だ。 化物:近づけば、或いは気が変わればすぐにでも殺されるかもしれない。 化物:無防備に腹を晒して眠ろうとも、それは同じこと。 化物:一線を引くのは生物としての本能だ。 化物:しかしこの子供はそんな本能さえ薄く、引かれた線を容易く超えられるらしい。 化物:親は、ぱーぱもまーまも動けずにいるというのに、気にかける様子はない。 化物:しかし情けない話だ。 化物:私とて動けずにいたのだから。 化物:人間は弱い生き物だ。 化物:子供はそれに輪をかけて弱い。 化物:少しでも動けば死んでしまうかもしれない。 化物:子供は私に触れて叩いたり齧ったりしながら首をかしげて言った。 : のるん:「ぱーぱ?」 のるん:「まーま?」 : 化物:私は何も言わず、ぱーぱもまーまも何も言わずしばらくの時が経った。 化物:子供が眠るまで、子供以外は動かなかった。 化物:これまでの生涯でもっとも静かで緊張した時間だったように思う。 : 0:◆◆◆◆ : 化物:子供は私のことを何と呼ぶのか知りたがった。 化物:私を叩いたり、私によじ登ってはぱーぱとまーまに向かって「なーに?」と言うようになった。 化物:しかし親は私のことをどう呼ぶべきか迷っているらしく、顔を見合わせて何も言わない。 化物:私に名は無い。 化物:私の種族、と呼べるのかは分からないが、同胞すらももういないので、やはりそれを指す名も無い。 化物:ぱーぱやまーまがそうであるように、関係性や在り方を示す呼び方をするならば、私は端的に人喰いだ。 化物:けれど親はそう呼びたがらなかった。 化物:自らを喰らう存在に対して、人喰いと呼ぶことも、 化物:また曲がりなりにも、 化物:自らを守護する存在に対して、人喰いと呼ぶことも、 化物:どちらも忌避感があるのだろうか。 化物:私はなんと呼ばれたところで気にはしない。 化物:それでやつらの味が変わることでもあれば気にするが、そんなものでなにかが変わる筈もなし。 化物:ところで、名前だが、ぱーぱとまーま、そして子供にそれはあるのだろう。 化物:これまで気にしたことも無かったが、あるのだろう。 化物:私は人間を呼んだり、話しかけたりすることもない。 化物:呼ぶ必要もない。 化物:識別は雌雄の別で事足りるし、子供は子供だ。 化物:親とてそれは同じらしく、互いを呼ぶとき以外に名前は口にせず、それもほとんどしない。 化物:けれど、今私の角に絡みつくこいつはその限りでないようで、覚えたらしい自らの名前を何度も口にする。 : のるん:「のーん、のーん、なーに?」 : 化物:私にはのーんと言っているように聞こえたが、親はこの子供をのるんと呼んでいるらしい。 化物:私のことはなーにと呼んでいる。 化物:名前のない私ではあるが、このまま私はなーにという名前になるのかと思うと、少し腹が減る。 化物:だから、たまに考える。 化物:私は何者なのだろう。 化物:人喰い。 化物:それ以外の答えなどある筈もないのだが。 : 0:◆◆◆◆◆ : 化物:女が歩けなくなった。 化物:肥らせ過ぎたのかも知れない。 化物:ねぐらまでの道はまだまだある。 化物:このままじっとしていても仕方がない。 化物:それにひとところに留まればそれだけ狼どもが寄りついてくる。 化物:私はそれでも問題はないが、人間は弱い生き物だ。 化物:万一、噛まれたり、引っ掛かれたりでもしたらそのまま死んでしまう。 化物:そうでなくとも、近頃はよく眠れているこの人間どもも、警戒して眠れなくなることだろう。 化物:それがどうしたと、それまでの私なら思うところだが、そうなると人間は調子を崩し、場合によっては死ぬ。 化物:それは困る。 化物:私は真似事とはいえ羊飼いだ。 化物:管理すべき羊をみすみす失ってしまうなどいかにも情けない。 化物:だから私は女を殺すことにした。 化物:まだ、腹は減りきっていないが、減っていることに違いはない。 化物:惜しいと思いながらも手を伸ばそうとした。 化物:すると、男が前に立ち塞がった。 化物:見覚えがある。 化物:男は言った。 : 男:「殺さないでくれ。」 : 化物:私は腹が立った。 化物:私は私の都合でこの女を喰らうのではない。 化物:このままでは男も子供も危ういから喰らうのだ。 化物:それに、一度した取引では、子供を殺すなと言ったのではなかったのか。 化物:女を殺すなとは言っていない。 化物:むしろ女は、自らがどうなってもよいと言った。 化物:ならばそれを喰らって何が悪い。 化物:そう思っていると、男が言った。 : 男:「もうすぐ生まれるんだ。」 : 化物:生まれるとは、何のことだろうか。 化物:私には分からなかった。 : 男:「だから殺すのは待ってほしい。」 : 化物:男は言った。 : 男:「子供は殺さないって言ってくれただろう。」 : 化物:何故、今子供の話が出てくるのだろう。 化物:子供も、のるんもよく分からないらしく首をかしげてこちらを見ている。 化物:何を言っているのか。 : 女:「新しく子供が生まれるの。」 : 化物:女が言う。 : 女:「無理を言っているのは分かってる、でも、どうか。」 : 化物:息も荒くそう言った。 化物:なるほど。 化物:子供はそうして生まれるのか。 化物:私は納得した。 : 化物:「良かろう。その後ならば、喰って良いのだな?」 : 化物:男と女は静かに頷き、言った。 : 男:「ありがとう。」 女:「ありがとう。」 : 化物:真似をしてのるんも言った。 : のるん:「あいあおー。」 : 化物:私は思った。 化物:ありがとう、とは何か。 化物:私には知らないことが多かった。 : 0:◆◆◆◆◆◆ : 化物:私は女を守らなければならない。 化物:子供を生むというのはひどく無防備になるらしい。 化物:こうしてこの場に留まりどれくらい経ったのか、羊を狙った化物が集まってきていた。 化物:女はなにやら苦痛で眠れず、男はかつてないほどに周囲を警戒して眠れない。 化物:のるんはいつもと変わらず、私を「なーに?」と呼んでいる。 化物:私も同じく在り方としてはのるんとなんら変わらない。 化物:獲物を掠め取ろうとする狼を八つ裂きにして、人間の餌にする。 化物:のるんは少しずつだがそれを喜んで喰らうようになり、男と女はあまり口にしなくなっていった。 化物:女は動けなくなるほど腹だけを膨らませ、男は動けなくなるほど痩せ細っていった。 化物:私は思う。 化物:そこまでして子供を生む必要があるのだろうか。 化物:いつか私が喰らうことになると分かっていて、どうしてそうまで必要とするのか。 化物:それに、もうすでにのるんを持っている。 化物:まだ必要だろうか。 化物:私には分からなかった。 化物:それでも、新しく生まれてくるという子供とやらが少し楽しみだったらしく、私は腹が少し減るのを感じた。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆ : 化物:辺りに血の匂いが漂う。 化物:女が子供を産み始めたのだ。 化物:それに吊られて怪物が集まってくる。 化物:私はいつものようにそれらを爪で引き裂き、喰らうともなく噛み千切っていく。 化物:辺りには血の匂いが充満している。 化物:それが更に捕食者を呼び寄せる。 化物:女は息を切らして悶えている。 化物:男は女に張りつき、周囲を気遣わしげに見張っている。 化物:のるんは何が起こっているのかも分からない様子で女に抱き締められている。 化物:こうして新たな子供が生まれるらしい。 化物:私はただ羊飼いとして、羊を率いる狼として、周囲の有象無象の怪物を意思なき肉片に変えていく。 化物:私にとっては、何ら命の危険を感じることは無い。 化物:私を殺すのはきっと飢えだけなのだから。 化物:そんなことを思う私は、油断していた。 化物:私は強くとも、人は弱い生き物だというのに。 : 女:「神様!」 : 化物:女が叫ぶ。 化物:振り返ると男が血まみれになって立ち尽くしている。 化物:その肩には大きな牙を並べた怪物の口が生えていた。 化物:私は失態を悟り、駆け出す。 化物:男に喰らいつく怪物を八つ裂きにした。 化物:女は言葉とも呼べない声で、男の体を抱き締める。 化物:男は女以上に途切れ途切れに聞き取れぬ声で、しかし穏やかになにかを言っていた。 化物:私は、私は怪物を殺して殺して殺し回った。 化物:女は叫びながら、男を抱く腕に力を込める。 化物:男は、何かを言っている。 化物:私は殺す。 化物:女は産む。 化物:男は笑う。 化物:のるんはそんな周りの様子をただじっと見ていた。 化物:男は言った。 : 男:「ありがとう、神様。」 : 化物:やがて荒れ果てた大地に、泣き声が響いた。 化物:私の周りには死骸の山ができていて、動くものは私の背後にある三匹以外にいなかった。 化物:女と、のるんと、新たな赤子。 化物:男はもう動かなかった。 化物:私はただ、腹が減った。 : 女:「食べてください。」 : 化物:産まれたばかりの赤子と死んだ男を抱えて女が言った。 化物:のるんは何も言わない。 化物:私は激しく動き回ったせいか、ちょうど腹が減っていた。 : 女:「私たちを食べてください。」 : 化物:女は泣いていた。 化物:そんな女の様子をのるんはじっと見ていた。 化物:私は人を喰らう化物で、喰えと言われるまでもなく、腹が減ったら人を喰う。 化物:そのはずなのに、喰らいたいと思わなかった。 化物:かつてない程空腹なのに、微塵も食べたいと思わなかった。 : 女:「もう、私は生きていけません。」 : 化物:女は死んだ男に言い聞かせるように何かを言っている。 : 女:「ごめんなさい。」 : 化物:そう言っているらしい。 化物:私はその言葉の意味を知らない。 化物:ただ、見ていると食欲が失せるなと思った。 化物:目の前には血の滴る肉があるというのに。 : 女:「どうして食べてくれないんですか?」 : 化物:女は言った。 化物:私は分からなかった。 化物:けれど一つだけ思い当たることがあった。 : 化物:「子供を殺すな、待ってくれ。その男はそう言った。だから私は喰わない。」 : 化物:女はのるんと赤子、男を見比べるように眺め、また泣いた。 化物:のるんは「まーま」と言って女にしがみついた。 化物:しばらくは怪物も襲ってきていない。 化物:やがて女は泣き止むと言った。 : 女:「どうか、この人を食べてください。」 : 化物:私はそれほど喰らいたいと思わなかった。 化物:けれど女が言った言葉が引っ掛かって、頷いてしまった。 : 女:「お願いします、神様。」 : 化物:私は女から差し出された、死んでから少し経った男を喰った。 化物:それほど美味では無かったが、これまで口にしたどれよりも、喰っているという感覚を強く味わった。 化物:やはり私は人喰いなのだ。 化物:のるんは私がぱーぱを喰らい尽くすまでじっと見ていた。 化物:私の中に完全に消えるのを見届けると、のるんは私にしがみつき、こう呼んだ。 : のるん:「ぱーぱ?」 : 化物:私は人喰いの化物。 化物:それ以外の何者でもない。 化物:何者でもない筈なのだ。 化物:女を見ると、その腕の中で産まれたばかりの赤子が眠っていた。 化物:私は赤子のように何も知らない。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆ : のるん:「ぱぱ。」 : 化物:私の肩に座るのるんは私をそう呼ぶ。 : 女:「神様。」 : 化物:私の後ろを赤子を抱えてついてくる女は私をそう呼ぶ。 化物:私はなんと呼ばれたところで構わないが、そのどちらも私以外に相応しいなにかがいるのではないかと思う。 化物:だから私はその呼び掛けには応えないことにしている。 化物:それでも、気にすること無く、女ものるんも私をそう呼び続ける。 化物:私はただの人喰いの化物だというのに。 化物:そういえば、私の腹の中に収まった男。 化物:のるんがぱーぱと呼ぶ男もまた、私のことを神様と呼んで、死んでいった。 化物:私は果たして、何者なのだろう。 化物:やがて大きくなる赤子もまた私のことをぱーぱやら神様やらと呼ぶのだろうか。 化物:ねぐらまでの道はまだまだ遠い。 : 化物:時に、私は何のためにねぐらに帰ろうとしているのだろう。 化物:どれだけの時が経ったのか定かではない道の途中で、私はふと思った。 化物:私は子供とその親を連れて帰って頃合いを見て喰うために、ねぐらに帰ろうとしていた。 化物:何のために。 化物:そうすることがもっとも良いことに思えた。 化物:その根拠は何なのだろう。 化物:そこは果たして何を得られる場所なのだろう。 化物:長らく私はそのねぐらを空けていた。 化物:何故か。 化物:必要すら無いからだ。 化物:私は人間のように弱くはない。 化物:現にこうして彷徨することに何ら不自由を覚えない。 化物:対して、人間は弱い。 化物:女は度々休息を必要とし、のるんは私の肩に乗ろうとする。 化物:移動し続けるのは、そうしなければすぐに喰い殺されてしまうからだ。 化物:しかし、肉体は適応できていない。 化物:新たに子供を産んだときもそう。 化物:移動はできなかった。 化物:そしてその過程で男は死んだ。 化物:ひとところに留まれるならその方が良いのは確かだ。 化物:女が眠った時に怪物が襲ってきたことがあった。 化物:その時は私が女ものるんも赤子も抱えて運んだ。 化物:そうしなければ、また喰われていたかもしれない。 化物:つまり、人間にはねぐらが必要だ。 化物:しかし、私には必要ない。 化物:帰る場所など本当に必要なのだろうか。 : のるん:「ぱぱ、考え事?」 : 化物:のるんが私の頭にしがみついた。 化物:私の考えは別のことに切り替わった。 化物:何故、のるんは私にしがみつくのだろうか。 化物:その答えもやはり分からなかった。 : 化物:「腹は減っていないか。」 : 化物:私はのるんに問いかけた。 : のるん:「ぱぱは?」 : 化物:背後の女の気配が一瞬張りつめるのを感じた。 : 化物:「まだ減っていない。」 : 化物:私はあまり空腹を覚えていない。 化物:それなのに、違った虚しさを覚えることがある。 化物:最近、これが腹の減りに似ていることに気付いた。 : のるん:「そっか。」 : 化物:のるんは笑う。 化物:私はその笑いの意味を考える。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 女:「この子の名前、何がいいですか?」 : 化物:普段、女は私に話しかけてこない。 化物:のるんと何か話している様子はある。 化物:私には時折 : 女:「神様。」 : 化物:と、呼びかけてくるぐらいで話しかけてくることは、よほどのことがない限り無かった。 化物:外敵の接近を知らせるときくらいのもの。 化物:それが話しかけてきたことに、私は驚いた。 化物:加えて、まだこの赤子に名前がなかったことにも驚いた。 化物:もうすでにのるんのような名前があるのだとばかり思っていたからだ。 化物:この赤子もやがてはのるんと同じように大きく育っていく。 化物:そうなれば名前が無いのは不自由というのもそうなのかもしれない。 化物:いつかのるんが私を「なーに?」と呼んでいたように、この赤子もいつか、それが定着して「あなた」というような名前になるのではないだろうか。 化物:名前はあった方が良いのだろう。 化物:しかし、私がそれをつける意味は分からなかった。 化物:ましてやいずれ喰らう赤子に名前をつけるというのはどう言うことだろう。 化物:私が喰らうのは人間であって、人間以上に特別な何かである必要はない。 化物:ならばやはり。 : 化物:「名前など必要ではない。」 : 化物:私は女にそう言った。 : 女:「そうですか。」 : 化物:女は納得したような顔で頷く。 化物:けれど、ことあるごとに女は同じ問いかけをしてきた。 化物:名前はこの女にとって大事なものなのだろう。 化物:ところで、私はこの女の名前を知らなかった。 化物:死んだ男の名前も。 : 化物:「のるん。」 : 化物:私は肩の上ののるんの名を呼んだ。 化物:のるんは眠っていた。 化物:思えば人間の名を呼んだのは初めてかも知れない。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 化物:私にとって時の経過は曖昧だった。 化物:空腹から空腹まで。 化物:その周期が私の全てだ。 化物:そこに随分前から、のるんの成長も加わっていたが、それでも時間という概念がうまく認識できなかった。 化物:しかし、この頃は人間と長く過ごすせいか、やつらの睡眠周期によってそれを捉えられるようになってきた。 化物:私は眠らないが、女ものるんも赤子も眠りを必要とする。 化物:だから必然的に足を止めることになる。 化物:その間隔がなんとなく分かるようになってきた。 化物:何も分からなかった私が、分かるようになったのだ。 化物:自らの足で歩き回り、言葉を話せるようになっていくのるんを見ているようで、しかし私のことでありながら、同じような感情をいだくということに、私は何より驚いた。 化物:そして私はのるんを私に重ねているのだということにも気がついた。 化物:私は人喰いの化物なのに。 化物:人間の真似事をしているに過ぎないのに。 : のるん:「ぱぱ、大好き。」 : 化物:のるんが私にしがみつく。 化物:私はのるんのぱぱを喰った。 化物:そして私はのるんにぱぱと呼ばれている。 化物:私は、のるんを食べればのるんになるのだろうか。 化物:後ろを穏やかに笑いながら付いてくる「まま」を食べれば「まま」になるのだろうか。 化物:そんな筈は無い。けれど思う。 化物:では、今人喰いである私は、何を喰って人喰いになったのだろう。 化物:人を喰うから人喰いなのか、或いは人喰いを、喰ったから人喰いになったのか。 化物:では、人間にはどうやったらなれるのだろう。 化物:荒野を闊歩する怪物は喰えなかった。 化物:考えて改めて気付いた。 化物:私は人しか喰えぬ人喰いだから、やはりどこまでいっても人喰いなのだ。 化物:それはねぐらに辿り着いても同じこと。 : 化物:「のるん。」 : 化物:私の呼びかけにのるんは笑う。 化物:人を喰っても人にはなれない。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 女:「神様はいつ食べるのでしょうか?」 : 化物:女が私に問いかけた。 化物:最近は赤子の名前も訪ねてこなくなっていたが、この問いの意味は、それよりもなお理解し難いものだった。 : 女:「神様は私をいつ食べてくださるのでしょう?」 : 化物:それは穏やかな響きだ。 化物:そういえば。 化物:あの男が死んだときもちょうどこういった声だった。 : のるん:「たべる?」 : 化物:のるんが女の足に抱きつく。 化物:女はその頭を撫でながら笑った。 : 女:「もう、そろそろ良いのではありませんか。」 : 化物:女は私に向かって歩いてくる。 化物:怪物に襲われて逃げるときに私が抱える以外ではある一定の距離以上に近寄ろうとしなかった女が、のるんのように無遠慮に私の腕の届く場所まで近付いてくる。 : 女:「お腹、空いてませんか?」 : 化物:私の腹に手を伸ばす。 化物:触れたその手は少し温かく、けれどいかにも人間らしく弱そうだった。 化物:男が死に、女が喰われたいと願ったあの時とは違う。 化物:衝動的な言葉ではなく、落ち着き払ったこの言葉は、用意されたものなのだろう。 化物:私の背後で考えていたことなのだろう。 化物:私は言葉を返さなかった。 化物:また、喰らうことも出来なかった。 : 女:「この世界に救いはありません。」 : 化物:女が笑いながらそう口にするのを聞いて、私はのるんを抱え上げた。 化物:のるんもまた声を上げて笑った。 化物:そして私は歩き出す。 化物:女はそれから何も言わずについてきた。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 化物:私は狼の群れを殺す。 化物:死んだ狼は羊に喰わせる。 化物:狼を喰った羊を私は喰らう。 化物:私は羊を喰らうために狼を殺す。 化物:けれど私は今、羊を殺していない。 化物:最後に喰ったのは狼に殺された羊。 化物:狼は狼の群れを率いて羊を殺す。 化物:私は羊の群れを率いて狼を殺す。 化物:羊を率いる私は羊なのだろうか。 化物:いいや、違う。 化物:私は羊飼いだ。 化物:羊を守り育てて、いつの日にか喰らう。 化物:その本質は狼だ。 化物:そして、狼以上に強欲だ。 化物:同胞の群れを率いず同胞の群れに分け与えない。 化物:羊を独占する強欲な狼。 化物:羊に尽くし、己に尽くす狼。 化物:羊は狼に殺されないよう、狼にその身を捧げる。 化物:子羊を喰われぬよう、自らを差し出す羊。 化物:私は狼。 化物:私は羊飼い。 化物:いいや。 : 化物:「私は何者なのだろう。」 : 化物:眠る女と赤子とのるんを見て思う。 化物:腹はまだ空いていない。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 女:「私たちはどこへ向かうのでしょう?」 : 化物:女がそう問いかけてきた。 化物:どこへ。 化物:私はねぐらだと答えた。 : 女:「ねぐらに行ってどうするのでしょう?」 : 化物:女がそう問いかけてきた。 化物:どうする。 化物:私は喰らうのだと答えた。 : 女:「今ここではいけないのでしょうか?」 : 化物:女がそう問いかけてきた。 化物:それではいけない。 化物:私の答えは決まっていた。 : 女:「何故ですか。」 : 化物:女はそう呟いた。 化物:私は何も答えなかった。 : のるん:「ねぐらなーに?」 : 化物:のるんがそう問いかけてきた。 化物:ねぐらとは何なのだろう。 化物:私はいつか考えた。 化物:私にとって必要のないものだ。 化物:しかし、人間にとっては必要なもの。 化物:ならばそれは。 化物:私は眠れる場所だと答えた。 化物:女は驚いたような顔をして、のるんは首をかしげた。 : のるん:「ぱぱ、眠い?」 : 化物:私は眠らない。 化物:人間のようにねぐらも眠りも必要としない。 : 化物:「そうかもしれない。」 : 化物:私は眠る場所を求めているのだろうか。 化物:のるんはいつものように私に抱きついた。 化物:そして思った。 化物:いつも、とはいつからなのだろう。 化物:そしていつまで、私は。 化物:私は考えるのをやめた。 化物:のるんが私の傍で眠り始めた。 化物:女はそれを黙って見つめていた。 化物:私は少し腹が減ってきていた。 : 化物:「私は何者なのだろう。」 : 化物:私は人を喰らう化物。 化物:それ以外の答えは無い。 化物:分かりきっていても、私は空腹の度に考えるのだろう。 化物:無駄なことを繰り返していると知りながらも、考える。 化物:考える。 化物:それでも赤子の名前よりは簡単な答えのような気がした。 化物:のるんも女も赤子も眠り、辺りには静寂だけが満ちていた。

0:化物の羊飼い。 : 0:登場人物欄に男、女、のるん、とありますが、基本は化物のみです。必要に応じてそれぞれの人物を読んでいただければと思います。 : 0:■□あらすじ□■ 0:人が生きるには過酷すぎる世界に生きる、人を食わないと生きられない化け物と、生き残りの親子の旅の話。化物の独白。 : 0:□■登場人物■□ 化物:荒野を彷徨う化物。 化物:人間を食わなければ死ぬ。人間を食っていれば死なない。永い時を生きる存在。 男:生き残りの人間。男。 女:生き残りの人間。女。 のるん:生き残りの人間。子供。 : 0:■◇◆□□◆◇■ : 化物:荒廃した世界。 化物:そこは人間が生きるにはあまりにも過酷で、その数は次第に減って死に絶えていった。 化物:やがてはこの私も死ぬのだろう。 化物:そう覚悟してどこへいくともなく、ある筈のない食糧を求めて彷徨った。 化物:しかし、どうしたことか。 化物:目の前には生きた人間がいた。 化物:しかも一人ではない。 化物:つがいで、しかも赤子まで連れている。 化物:なんたる僥倖か。 化物:私は神に感謝した。 化物:これで生き延びることができる。 化物:私は辛抱たまらず、駆け出した。 化物:せっかくだ。赤子から喰らおう。 化物:無闇に爪で傷つけぬよう気をつけながら赤子を引ったくった。 化物:遅れて気付く親。 化物:こんな警戒心の低さで良くもまぁここまで生き残ったものだ。 化物:私は呆れながらも感心した。 化物:今すぐ喰らうか、ねぐらに帰って喰らうか。 化物:いや、久しぶりのご馳走だ。 化物:持って帰ろう。 化物:ならば、親もここで仕留めていこう。 化物:これを抱えたままでできるだろうか。 化物:そう思っていると親は向こうからやってきた。 化物:我が子を取り戻そうと決死の覚悟だろうか? 化物:違った。 化物:人間の男は涙を浮かべ膝をつき、懇願した。 : 男:「殺さないでほしい。」 : 化物:それがどうしたというのか。 化物:狩りやすく、喰らいやすくなっただけのこと。 化物:誰だって死にたくはない。私とて死にたくはない。 化物:そんなもの言うまでもないことだ。 化物:続いて女が言った。 : 女:「私たちはどうなってもかまわない、その子だけは殺さないで。」 : 化物:その言葉に私は驚いた。 化物:よもやこれが取引のつもりだと考える弱者の愚かしさに。 化物:しかし私は考えた。 化物:私がこの赤子を持っている限り、こいつらはついてくる。 化物:自ら運ぶ手間が省けるならそれに越したことはない。 化物:私はほとんど気紛れに言った。 : 化物:「良いだろう。子供だけはしばらく殺さないでおいてやろう。ついてこい。」 : 化物:人間は弱い生き物だ。 化物:この荒野ではまともにエサをとることもできず、目を離せばすぐに他の化物に襲われて死ぬ。 化物:そして私はそんな人間を喰らって生きている。 化物:人間以外の食物を受けつけず、人間のほとんど絶えたこの世界では生き残ることもできない。 化物:遅かれ早かれ果てる身ならば、こんな気紛れも悪くはないだろう。 化物:私は人間を守り、人間を喰らうことを楽しみに荒野をいく。 : 0:◆ : 化物:人喰いが人間を守り荒野を彷徨う。 化物:それはあたかも羊飼いのようだと私は思った。 化物:羊を狙う狼の私が、まるで人間の真似事とは、滑稽に過ぎる。 化物:けれどそれも一興。 化物:精々、羊を狙う私以外の狼やら有象無象の怪物やらを八つ裂きにしてやろう。 化物:そんなことをしても人間しか喰えぬ私の腹は微塵も膨れないが、羊のエサくらいにはなるだろう。 化物:一目見たときには気がつかなかったが、この羊どもはひどく痩せこけている。 化物:赤子に至っては、私が殺すまでもなく死にそうだ。 化物:赤子の肉という稀少な逸品を味わいたい気持ちもあるが、せっかくならば成長を待ってみるのも良いだろう。 化物:子供の成長は早いという。 化物:成体になるまで生きられるかは知らぬが多少は食べ応えもでるだろう。 化物:いずれ喰らう家畜を守り育む。 化物:これまで生きてきた中で覚えたことのない感覚は、私にとっても好ましいスパイスとなっているように思う。 化物:よもや人間と共に荒野を進むなど。 化物:考えたことはなかった。 化物:恐らく、奴らとてそれは同じなのだろう。 化物:最初の頃はいつ食われるのと恐れ、警戒した様子で深く眠ることも無かった。 化物:しかし近頃、女の方などは、無防備に膨らんだ腹を晒して眠っている。 化物:眠らぬ私は、そんな腹に牙を突き立てる日を開いたままの眼で何度も夢に見る。 化物:私は自分に言い聞かせる。まだ早い。 化物:ねぐらはまだ遠いのだ。 : 0:◆◆ : 化物:人間を拾ってどれほどの時が過ぎたのか。 化物:私には分からない。 化物:少なくとも空腹ではあるが、まだ耐えられる。 化物:私にとっては、或いはこの荒野を流離うすべての生き物にとっては、この空腹の限界を遠ざけることだけが時間の概念であり価値だった。 化物:そんな私の時間感覚に一つ、加わった価値がある。 化物:赤子の成長だ。 化物:私はそれまで、人間を食物以上の存在として見たことは無かった。 化物:今も根っこの部分ではそれは変わらないのかもしれない。 化物:人間は食物だ。 化物:それはきっと私が死んでも変わらない。 化物:それが人喰いの在り方なのだから。 化物:けれど、食物が大きく育っていくことに私は確かに喜びを覚えていた。 化物:飢えを満たす以外の喜びを。 化物:どれほどの時を生き、どれほどの人間を喰らってきたかも定かではない私だが、こんな食事は初めてなのではないかと思う。 化物:恐らくこれは私にとって最後の晩餐となるのだろう。 化物:ならば精々楽しもう。 化物:飢えを我慢して楽しもう。 化物:私の仕留めた狼どもの肉を頬張る人間を見て飢えを凌ぐ。 化物:そんな日が来るなんて、私は想像もしなかったなぁ。 化物:あぁ、早く食べたい。 化物:その思いを私は唾液と共に飲み下す。 : 0:◆◆◆ : のるん:「ぱーぱ。」 : 化物:赤子はそう呼んだ。 化物:私が連れる男のことをそう呼んだ。 : のるん:「まーま。」 : 化物:赤子はそう呼んだ。 化物:私が連れる女のことをそう呼んだ。 化物:どうやら言葉を覚え、自らの意思で歩き回れる程度には育ったらしい。 化物:男と女はそれを見て笑った。 化物:私は思う。 化物:食べ頃かもしれない。 化物:私は取引をした。 化物:取引とも呼べぬ、嘆願に気紛れに応えただけのものだが、それはとりあえず、子供だけはしばらくの間殺さないというものだった。 化物:ならば、もう食べてしまっても良いのではないだろうか。 化物:子供はまだまだ大きくなるだろう。 化物:それは楽しみだから殺さないでおくのもまた良いだろう。 化物:しかし、この男と女はそうでもない。 化物:確かに肉付きは良くなった。 化物:けれどそれ以上は無い。 化物:女の方は少し肥えてきたが、男は変わらない。 化物:食べ頃かもしれない。 化物:そんなことを考えていると、子供がこちらに向かってきた。 化物:男と女は慌てた様子で追いかけるが、それより早く子供は私に飛びついた。 化物:男も女もこれまで私に近づこうとはしなかった。 化物:当たり前だろう。 化物:何の気紛れか、襲いくる狼を追い払い、餌を与えてくれるとしても、それはあくまで化物だ。 化物:近づけば、或いは気が変わればすぐにでも殺されるかもしれない。 化物:無防備に腹を晒して眠ろうとも、それは同じこと。 化物:一線を引くのは生物としての本能だ。 化物:しかしこの子供はそんな本能さえ薄く、引かれた線を容易く超えられるらしい。 化物:親は、ぱーぱもまーまも動けずにいるというのに、気にかける様子はない。 化物:しかし情けない話だ。 化物:私とて動けずにいたのだから。 化物:人間は弱い生き物だ。 化物:子供はそれに輪をかけて弱い。 化物:少しでも動けば死んでしまうかもしれない。 化物:子供は私に触れて叩いたり齧ったりしながら首をかしげて言った。 : のるん:「ぱーぱ?」 のるん:「まーま?」 : 化物:私は何も言わず、ぱーぱもまーまも何も言わずしばらくの時が経った。 化物:子供が眠るまで、子供以外は動かなかった。 化物:これまでの生涯でもっとも静かで緊張した時間だったように思う。 : 0:◆◆◆◆ : 化物:子供は私のことを何と呼ぶのか知りたがった。 化物:私を叩いたり、私によじ登ってはぱーぱとまーまに向かって「なーに?」と言うようになった。 化物:しかし親は私のことをどう呼ぶべきか迷っているらしく、顔を見合わせて何も言わない。 化物:私に名は無い。 化物:私の種族、と呼べるのかは分からないが、同胞すらももういないので、やはりそれを指す名も無い。 化物:ぱーぱやまーまがそうであるように、関係性や在り方を示す呼び方をするならば、私は端的に人喰いだ。 化物:けれど親はそう呼びたがらなかった。 化物:自らを喰らう存在に対して、人喰いと呼ぶことも、 化物:また曲がりなりにも、 化物:自らを守護する存在に対して、人喰いと呼ぶことも、 化物:どちらも忌避感があるのだろうか。 化物:私はなんと呼ばれたところで気にはしない。 化物:それでやつらの味が変わることでもあれば気にするが、そんなものでなにかが変わる筈もなし。 化物:ところで、名前だが、ぱーぱとまーま、そして子供にそれはあるのだろう。 化物:これまで気にしたことも無かったが、あるのだろう。 化物:私は人間を呼んだり、話しかけたりすることもない。 化物:呼ぶ必要もない。 化物:識別は雌雄の別で事足りるし、子供は子供だ。 化物:親とてそれは同じらしく、互いを呼ぶとき以外に名前は口にせず、それもほとんどしない。 化物:けれど、今私の角に絡みつくこいつはその限りでないようで、覚えたらしい自らの名前を何度も口にする。 : のるん:「のーん、のーん、なーに?」 : 化物:私にはのーんと言っているように聞こえたが、親はこの子供をのるんと呼んでいるらしい。 化物:私のことはなーにと呼んでいる。 化物:名前のない私ではあるが、このまま私はなーにという名前になるのかと思うと、少し腹が減る。 化物:だから、たまに考える。 化物:私は何者なのだろう。 化物:人喰い。 化物:それ以外の答えなどある筈もないのだが。 : 0:◆◆◆◆◆ : 化物:女が歩けなくなった。 化物:肥らせ過ぎたのかも知れない。 化物:ねぐらまでの道はまだまだある。 化物:このままじっとしていても仕方がない。 化物:それにひとところに留まればそれだけ狼どもが寄りついてくる。 化物:私はそれでも問題はないが、人間は弱い生き物だ。 化物:万一、噛まれたり、引っ掛かれたりでもしたらそのまま死んでしまう。 化物:そうでなくとも、近頃はよく眠れているこの人間どもも、警戒して眠れなくなることだろう。 化物:それがどうしたと、それまでの私なら思うところだが、そうなると人間は調子を崩し、場合によっては死ぬ。 化物:それは困る。 化物:私は真似事とはいえ羊飼いだ。 化物:管理すべき羊をみすみす失ってしまうなどいかにも情けない。 化物:だから私は女を殺すことにした。 化物:まだ、腹は減りきっていないが、減っていることに違いはない。 化物:惜しいと思いながらも手を伸ばそうとした。 化物:すると、男が前に立ち塞がった。 化物:見覚えがある。 化物:男は言った。 : 男:「殺さないでくれ。」 : 化物:私は腹が立った。 化物:私は私の都合でこの女を喰らうのではない。 化物:このままでは男も子供も危ういから喰らうのだ。 化物:それに、一度した取引では、子供を殺すなと言ったのではなかったのか。 化物:女を殺すなとは言っていない。 化物:むしろ女は、自らがどうなってもよいと言った。 化物:ならばそれを喰らって何が悪い。 化物:そう思っていると、男が言った。 : 男:「もうすぐ生まれるんだ。」 : 化物:生まれるとは、何のことだろうか。 化物:私には分からなかった。 : 男:「だから殺すのは待ってほしい。」 : 化物:男は言った。 : 男:「子供は殺さないって言ってくれただろう。」 : 化物:何故、今子供の話が出てくるのだろう。 化物:子供も、のるんもよく分からないらしく首をかしげてこちらを見ている。 化物:何を言っているのか。 : 女:「新しく子供が生まれるの。」 : 化物:女が言う。 : 女:「無理を言っているのは分かってる、でも、どうか。」 : 化物:息も荒くそう言った。 化物:なるほど。 化物:子供はそうして生まれるのか。 化物:私は納得した。 : 化物:「良かろう。その後ならば、喰って良いのだな?」 : 化物:男と女は静かに頷き、言った。 : 男:「ありがとう。」 女:「ありがとう。」 : 化物:真似をしてのるんも言った。 : のるん:「あいあおー。」 : 化物:私は思った。 化物:ありがとう、とは何か。 化物:私には知らないことが多かった。 : 0:◆◆◆◆◆◆ : 化物:私は女を守らなければならない。 化物:子供を生むというのはひどく無防備になるらしい。 化物:こうしてこの場に留まりどれくらい経ったのか、羊を狙った化物が集まってきていた。 化物:女はなにやら苦痛で眠れず、男はかつてないほどに周囲を警戒して眠れない。 化物:のるんはいつもと変わらず、私を「なーに?」と呼んでいる。 化物:私も同じく在り方としてはのるんとなんら変わらない。 化物:獲物を掠め取ろうとする狼を八つ裂きにして、人間の餌にする。 化物:のるんは少しずつだがそれを喜んで喰らうようになり、男と女はあまり口にしなくなっていった。 化物:女は動けなくなるほど腹だけを膨らませ、男は動けなくなるほど痩せ細っていった。 化物:私は思う。 化物:そこまでして子供を生む必要があるのだろうか。 化物:いつか私が喰らうことになると分かっていて、どうしてそうまで必要とするのか。 化物:それに、もうすでにのるんを持っている。 化物:まだ必要だろうか。 化物:私には分からなかった。 化物:それでも、新しく生まれてくるという子供とやらが少し楽しみだったらしく、私は腹が少し減るのを感じた。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆ : 化物:辺りに血の匂いが漂う。 化物:女が子供を産み始めたのだ。 化物:それに吊られて怪物が集まってくる。 化物:私はいつものようにそれらを爪で引き裂き、喰らうともなく噛み千切っていく。 化物:辺りには血の匂いが充満している。 化物:それが更に捕食者を呼び寄せる。 化物:女は息を切らして悶えている。 化物:男は女に張りつき、周囲を気遣わしげに見張っている。 化物:のるんは何が起こっているのかも分からない様子で女に抱き締められている。 化物:こうして新たな子供が生まれるらしい。 化物:私はただ羊飼いとして、羊を率いる狼として、周囲の有象無象の怪物を意思なき肉片に変えていく。 化物:私にとっては、何ら命の危険を感じることは無い。 化物:私を殺すのはきっと飢えだけなのだから。 化物:そんなことを思う私は、油断していた。 化物:私は強くとも、人は弱い生き物だというのに。 : 女:「神様!」 : 化物:女が叫ぶ。 化物:振り返ると男が血まみれになって立ち尽くしている。 化物:その肩には大きな牙を並べた怪物の口が生えていた。 化物:私は失態を悟り、駆け出す。 化物:男に喰らいつく怪物を八つ裂きにした。 化物:女は言葉とも呼べない声で、男の体を抱き締める。 化物:男は女以上に途切れ途切れに聞き取れぬ声で、しかし穏やかになにかを言っていた。 化物:私は、私は怪物を殺して殺して殺し回った。 化物:女は叫びながら、男を抱く腕に力を込める。 化物:男は、何かを言っている。 化物:私は殺す。 化物:女は産む。 化物:男は笑う。 化物:のるんはそんな周りの様子をただじっと見ていた。 化物:男は言った。 : 男:「ありがとう、神様。」 : 化物:やがて荒れ果てた大地に、泣き声が響いた。 化物:私の周りには死骸の山ができていて、動くものは私の背後にある三匹以外にいなかった。 化物:女と、のるんと、新たな赤子。 化物:男はもう動かなかった。 化物:私はただ、腹が減った。 : 女:「食べてください。」 : 化物:産まれたばかりの赤子と死んだ男を抱えて女が言った。 化物:のるんは何も言わない。 化物:私は激しく動き回ったせいか、ちょうど腹が減っていた。 : 女:「私たちを食べてください。」 : 化物:女は泣いていた。 化物:そんな女の様子をのるんはじっと見ていた。 化物:私は人を喰らう化物で、喰えと言われるまでもなく、腹が減ったら人を喰う。 化物:そのはずなのに、喰らいたいと思わなかった。 化物:かつてない程空腹なのに、微塵も食べたいと思わなかった。 : 女:「もう、私は生きていけません。」 : 化物:女は死んだ男に言い聞かせるように何かを言っている。 : 女:「ごめんなさい。」 : 化物:そう言っているらしい。 化物:私はその言葉の意味を知らない。 化物:ただ、見ていると食欲が失せるなと思った。 化物:目の前には血の滴る肉があるというのに。 : 女:「どうして食べてくれないんですか?」 : 化物:女は言った。 化物:私は分からなかった。 化物:けれど一つだけ思い当たることがあった。 : 化物:「子供を殺すな、待ってくれ。その男はそう言った。だから私は喰わない。」 : 化物:女はのるんと赤子、男を見比べるように眺め、また泣いた。 化物:のるんは「まーま」と言って女にしがみついた。 化物:しばらくは怪物も襲ってきていない。 化物:やがて女は泣き止むと言った。 : 女:「どうか、この人を食べてください。」 : 化物:私はそれほど喰らいたいと思わなかった。 化物:けれど女が言った言葉が引っ掛かって、頷いてしまった。 : 女:「お願いします、神様。」 : 化物:私は女から差し出された、死んでから少し経った男を喰った。 化物:それほど美味では無かったが、これまで口にしたどれよりも、喰っているという感覚を強く味わった。 化物:やはり私は人喰いなのだ。 化物:のるんは私がぱーぱを喰らい尽くすまでじっと見ていた。 化物:私の中に完全に消えるのを見届けると、のるんは私にしがみつき、こう呼んだ。 : のるん:「ぱーぱ?」 : 化物:私は人喰いの化物。 化物:それ以外の何者でもない。 化物:何者でもない筈なのだ。 化物:女を見ると、その腕の中で産まれたばかりの赤子が眠っていた。 化物:私は赤子のように何も知らない。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆ : のるん:「ぱぱ。」 : 化物:私の肩に座るのるんは私をそう呼ぶ。 : 女:「神様。」 : 化物:私の後ろを赤子を抱えてついてくる女は私をそう呼ぶ。 化物:私はなんと呼ばれたところで構わないが、そのどちらも私以外に相応しいなにかがいるのではないかと思う。 化物:だから私はその呼び掛けには応えないことにしている。 化物:それでも、気にすること無く、女ものるんも私をそう呼び続ける。 化物:私はただの人喰いの化物だというのに。 化物:そういえば、私の腹の中に収まった男。 化物:のるんがぱーぱと呼ぶ男もまた、私のことを神様と呼んで、死んでいった。 化物:私は果たして、何者なのだろう。 化物:やがて大きくなる赤子もまた私のことをぱーぱやら神様やらと呼ぶのだろうか。 化物:ねぐらまでの道はまだまだ遠い。 : 化物:時に、私は何のためにねぐらに帰ろうとしているのだろう。 化物:どれだけの時が経ったのか定かではない道の途中で、私はふと思った。 化物:私は子供とその親を連れて帰って頃合いを見て喰うために、ねぐらに帰ろうとしていた。 化物:何のために。 化物:そうすることがもっとも良いことに思えた。 化物:その根拠は何なのだろう。 化物:そこは果たして何を得られる場所なのだろう。 化物:長らく私はそのねぐらを空けていた。 化物:何故か。 化物:必要すら無いからだ。 化物:私は人間のように弱くはない。 化物:現にこうして彷徨することに何ら不自由を覚えない。 化物:対して、人間は弱い。 化物:女は度々休息を必要とし、のるんは私の肩に乗ろうとする。 化物:移動し続けるのは、そうしなければすぐに喰い殺されてしまうからだ。 化物:しかし、肉体は適応できていない。 化物:新たに子供を産んだときもそう。 化物:移動はできなかった。 化物:そしてその過程で男は死んだ。 化物:ひとところに留まれるならその方が良いのは確かだ。 化物:女が眠った時に怪物が襲ってきたことがあった。 化物:その時は私が女ものるんも赤子も抱えて運んだ。 化物:そうしなければ、また喰われていたかもしれない。 化物:つまり、人間にはねぐらが必要だ。 化物:しかし、私には必要ない。 化物:帰る場所など本当に必要なのだろうか。 : のるん:「ぱぱ、考え事?」 : 化物:のるんが私の頭にしがみついた。 化物:私の考えは別のことに切り替わった。 化物:何故、のるんは私にしがみつくのだろうか。 化物:その答えもやはり分からなかった。 : 化物:「腹は減っていないか。」 : 化物:私はのるんに問いかけた。 : のるん:「ぱぱは?」 : 化物:背後の女の気配が一瞬張りつめるのを感じた。 : 化物:「まだ減っていない。」 : 化物:私はあまり空腹を覚えていない。 化物:それなのに、違った虚しさを覚えることがある。 化物:最近、これが腹の減りに似ていることに気付いた。 : のるん:「そっか。」 : 化物:のるんは笑う。 化物:私はその笑いの意味を考える。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 女:「この子の名前、何がいいですか?」 : 化物:普段、女は私に話しかけてこない。 化物:のるんと何か話している様子はある。 化物:私には時折 : 女:「神様。」 : 化物:と、呼びかけてくるぐらいで話しかけてくることは、よほどのことがない限り無かった。 化物:外敵の接近を知らせるときくらいのもの。 化物:それが話しかけてきたことに、私は驚いた。 化物:加えて、まだこの赤子に名前がなかったことにも驚いた。 化物:もうすでにのるんのような名前があるのだとばかり思っていたからだ。 化物:この赤子もやがてはのるんと同じように大きく育っていく。 化物:そうなれば名前が無いのは不自由というのもそうなのかもしれない。 化物:いつかのるんが私を「なーに?」と呼んでいたように、この赤子もいつか、それが定着して「あなた」というような名前になるのではないだろうか。 化物:名前はあった方が良いのだろう。 化物:しかし、私がそれをつける意味は分からなかった。 化物:ましてやいずれ喰らう赤子に名前をつけるというのはどう言うことだろう。 化物:私が喰らうのは人間であって、人間以上に特別な何かである必要はない。 化物:ならばやはり。 : 化物:「名前など必要ではない。」 : 化物:私は女にそう言った。 : 女:「そうですか。」 : 化物:女は納得したような顔で頷く。 化物:けれど、ことあるごとに女は同じ問いかけをしてきた。 化物:名前はこの女にとって大事なものなのだろう。 化物:ところで、私はこの女の名前を知らなかった。 化物:死んだ男の名前も。 : 化物:「のるん。」 : 化物:私は肩の上ののるんの名を呼んだ。 化物:のるんは眠っていた。 化物:思えば人間の名を呼んだのは初めてかも知れない。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 化物:私にとって時の経過は曖昧だった。 化物:空腹から空腹まで。 化物:その周期が私の全てだ。 化物:そこに随分前から、のるんの成長も加わっていたが、それでも時間という概念がうまく認識できなかった。 化物:しかし、この頃は人間と長く過ごすせいか、やつらの睡眠周期によってそれを捉えられるようになってきた。 化物:私は眠らないが、女ものるんも赤子も眠りを必要とする。 化物:だから必然的に足を止めることになる。 化物:その間隔がなんとなく分かるようになってきた。 化物:何も分からなかった私が、分かるようになったのだ。 化物:自らの足で歩き回り、言葉を話せるようになっていくのるんを見ているようで、しかし私のことでありながら、同じような感情をいだくということに、私は何より驚いた。 化物:そして私はのるんを私に重ねているのだということにも気がついた。 化物:私は人喰いの化物なのに。 化物:人間の真似事をしているに過ぎないのに。 : のるん:「ぱぱ、大好き。」 : 化物:のるんが私にしがみつく。 化物:私はのるんのぱぱを喰った。 化物:そして私はのるんにぱぱと呼ばれている。 化物:私は、のるんを食べればのるんになるのだろうか。 化物:後ろを穏やかに笑いながら付いてくる「まま」を食べれば「まま」になるのだろうか。 化物:そんな筈は無い。けれど思う。 化物:では、今人喰いである私は、何を喰って人喰いになったのだろう。 化物:人を喰うから人喰いなのか、或いは人喰いを、喰ったから人喰いになったのか。 化物:では、人間にはどうやったらなれるのだろう。 化物:荒野を闊歩する怪物は喰えなかった。 化物:考えて改めて気付いた。 化物:私は人しか喰えぬ人喰いだから、やはりどこまでいっても人喰いなのだ。 化物:それはねぐらに辿り着いても同じこと。 : 化物:「のるん。」 : 化物:私の呼びかけにのるんは笑う。 化物:人を喰っても人にはなれない。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 女:「神様はいつ食べるのでしょうか?」 : 化物:女が私に問いかけた。 化物:最近は赤子の名前も訪ねてこなくなっていたが、この問いの意味は、それよりもなお理解し難いものだった。 : 女:「神様は私をいつ食べてくださるのでしょう?」 : 化物:それは穏やかな響きだ。 化物:そういえば。 化物:あの男が死んだときもちょうどこういった声だった。 : のるん:「たべる?」 : 化物:のるんが女の足に抱きつく。 化物:女はその頭を撫でながら笑った。 : 女:「もう、そろそろ良いのではありませんか。」 : 化物:女は私に向かって歩いてくる。 化物:怪物に襲われて逃げるときに私が抱える以外ではある一定の距離以上に近寄ろうとしなかった女が、のるんのように無遠慮に私の腕の届く場所まで近付いてくる。 : 女:「お腹、空いてませんか?」 : 化物:私の腹に手を伸ばす。 化物:触れたその手は少し温かく、けれどいかにも人間らしく弱そうだった。 化物:男が死に、女が喰われたいと願ったあの時とは違う。 化物:衝動的な言葉ではなく、落ち着き払ったこの言葉は、用意されたものなのだろう。 化物:私の背後で考えていたことなのだろう。 化物:私は言葉を返さなかった。 化物:また、喰らうことも出来なかった。 : 女:「この世界に救いはありません。」 : 化物:女が笑いながらそう口にするのを聞いて、私はのるんを抱え上げた。 化物:のるんもまた声を上げて笑った。 化物:そして私は歩き出す。 化物:女はそれから何も言わずについてきた。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 化物:私は狼の群れを殺す。 化物:死んだ狼は羊に喰わせる。 化物:狼を喰った羊を私は喰らう。 化物:私は羊を喰らうために狼を殺す。 化物:けれど私は今、羊を殺していない。 化物:最後に喰ったのは狼に殺された羊。 化物:狼は狼の群れを率いて羊を殺す。 化物:私は羊の群れを率いて狼を殺す。 化物:羊を率いる私は羊なのだろうか。 化物:いいや、違う。 化物:私は羊飼いだ。 化物:羊を守り育てて、いつの日にか喰らう。 化物:その本質は狼だ。 化物:そして、狼以上に強欲だ。 化物:同胞の群れを率いず同胞の群れに分け与えない。 化物:羊を独占する強欲な狼。 化物:羊に尽くし、己に尽くす狼。 化物:羊は狼に殺されないよう、狼にその身を捧げる。 化物:子羊を喰われぬよう、自らを差し出す羊。 化物:私は狼。 化物:私は羊飼い。 化物:いいや。 : 化物:「私は何者なのだろう。」 : 化物:眠る女と赤子とのるんを見て思う。 化物:腹はまだ空いていない。 : 0:◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ : 女:「私たちはどこへ向かうのでしょう?」 : 化物:女がそう問いかけてきた。 化物:どこへ。 化物:私はねぐらだと答えた。 : 女:「ねぐらに行ってどうするのでしょう?」 : 化物:女がそう問いかけてきた。 化物:どうする。 化物:私は喰らうのだと答えた。 : 女:「今ここではいけないのでしょうか?」 : 化物:女がそう問いかけてきた。 化物:それではいけない。 化物:私の答えは決まっていた。 : 女:「何故ですか。」 : 化物:女はそう呟いた。 化物:私は何も答えなかった。 : のるん:「ねぐらなーに?」 : 化物:のるんがそう問いかけてきた。 化物:ねぐらとは何なのだろう。 化物:私はいつか考えた。 化物:私にとって必要のないものだ。 化物:しかし、人間にとっては必要なもの。 化物:ならばそれは。 化物:私は眠れる場所だと答えた。 化物:女は驚いたような顔をして、のるんは首をかしげた。 : のるん:「ぱぱ、眠い?」 : 化物:私は眠らない。 化物:人間のようにねぐらも眠りも必要としない。 : 化物:「そうかもしれない。」 : 化物:私は眠る場所を求めているのだろうか。 化物:のるんはいつものように私に抱きついた。 化物:そして思った。 化物:いつも、とはいつからなのだろう。 化物:そしていつまで、私は。 化物:私は考えるのをやめた。 化物:のるんが私の傍で眠り始めた。 化物:女はそれを黙って見つめていた。 化物:私は少し腹が減ってきていた。 : 化物:「私は何者なのだろう。」 : 化物:私は人を喰らう化物。 化物:それ以外の答えは無い。 化物:分かりきっていても、私は空腹の度に考えるのだろう。 化物:無駄なことを繰り返していると知りながらも、考える。 化物:考える。 化物:それでも赤子の名前よりは簡単な答えのような気がした。 化物:のるんも女も赤子も眠り、辺りには静寂だけが満ちていた。