台本概要

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タイトル 仕掛屋「竜胆」閻魔帳〜的之肆〜〈義民の涙〉前編
作者名 にじんすき〜
ジャンル 時代劇
演者人数 6人用台本(男4、女2) ※兼役あり
時間 60 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 ⭐︎こちらは前後編の前編となっております⭐︎

「悲しきものに寄り添う」が信条の仕掛屋『竜胆』
 今回はお江戸を飛び出して下総まで出かけるお詠と阿武。
 硬骨の名主「惣八」をめぐる騒動に巻き込まれていく二人。
 そこに大黒屋の「菱喰」も現れて…
 …さてさてどうなりますやら


仕掛屋『竜胆』閻魔帳 第4作 前編

1)人物の性別変更不可。ただし、演者さまの性別は問いません
2)話の筋は改変のないようにお願いします
3)雰囲気を壊さないアドリブは大歓迎です
4)Nは人物ごとに指定していますが、声質は自由です
5)兼役は一応指定していますが、皆様でかえてくださって構いません
⭐︎「行商人」をどなたにやっていただく必要があります⭐︎
 なお、木島・本間は客が兼ね役となっておりますので、
 行商人を担当なさる場合は、適宜客役担当をご変更ください。
また、阿武役の方の〈N〉があります。 阿武役の方が「行商」を務める場合は、
 この場面のみ他の方に〈N〉を担当してもらってください。
 ただし、構成上、菱喰役の方は「行商」、阿武の〈N〉共に担当できません。

60分ほどで終演すると思います。

〜以下、世界観を補完するためのもの〜

行徳の法甲寺:行徳は実在の地名。法甲寺は創作であり、実在しないとは思うのですが…
「権現道」は実在します。

ガマの油売り:「陣中膏」はご存知、実在の薬です。油売りの口上は実際のものを参考に創作いたしました。
関係各位、お許しくださいませ。

その筋の流れの品:吉原では煌びやかな衣装がふんだんに用いられていました。
少しでも色褪せたものは、質に流れるのです。当時の町人はそれらを競って求めたとか。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
34 詠(えい)。 小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。 二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。 今作では江戸を離れ、下総(しもうさ)は行徳(ぎょうとく)の地を訪れます。 ※兼役に「客3」があります。
阿武 34 阿武(あんの)。 年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。 闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」 詠のお目付け役、兼、バディである。 前作では悪党一味を手玉にとる大活躍を見せる。ただのつっこまれキャラではありません。 ※兼役に「客1」があります。
惣八 53 “泣かずの惣八(そうはち)” との異名をとる、硬骨の名主(なぬし)。行徳の地のとある村を見事に治めている。 行徳の領主が本間家に代わってから一年。これまでのような、交渉ごとに乗ってもらえる領主ではないと痛感し始めたところである。 ※兼役に「客2」「伊勢屋」があります。
菱喰 38 菱喰(ひしくい)。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)と並ぶ大親分、大黒屋光慶(だいこくや みつよし)の懐刀。 黒装束に身を包み、大黒屋のために日夜身を粉にして働いている。 的之参の「末藏」と異なり、こちらは本職の系譜に連なるという噂があるようだ。
本間佑顕 22 本間佑顕(ほんま すけあき)。三千石取りの旗本。 今回「行徳」の地で私腹を肥やそうとして行動を起こす。 家来の木島を使い、屋敷に居ながらにして動静をうかがう殿様である。 ※兼役に「名主B」「客5」があります。
木島實統 46 木島實統(きじま さねむね)。 本間家の家来。陰湿なやり口で行徳の村に無理難題を吹っ掛ける。 本間の使いとして、主人の意思を遂行する、その意味では忠臣?! ※兼役に「名主A」「客4」があります。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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仕掛屋『竜胆』閻魔帳 〜的之肆・前編〜〈義民の涙〉 ※注意※ ① 人物の性別変更不可(ただし演者さまの性別は不問です) ② 話の筋の改変は不可。ただし雰囲気のあるアドリブは大歓迎 ③ 場面の頭にある〈N〉の声質は役にこだわらずご自由にどうぞ。 ④ ガマの油の行商人が出てまいります。どなたかでご担当くださいませ。 なお、木島・本間は客が兼ね役となっておりますので、 行商人を担当なさる場合は、適宜客役担当をご変更ください。 また、阿武役の方の〈N〉があります。 阿武役の方が「行商」を務める場合は、この場面のみ他の方に〈N〉を担当していただいてください。 ただし、構成上、菱喰役の方は「行商」、阿武の〈N〉共にできません。 詠:詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。 詠:二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。 詠:今作では江戸を離れ、下総(しもうさ)は行徳(ぎょうとく)の地を訪れます。 詠:※兼役に「客3」があります。 阿武:阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。 阿武:闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」。詠のお目付け役、兼、バディ。 阿武:前作では悪党一味を手玉にとる大活躍を見せる。ただのつっこまれキャラではありません。 阿武:※兼役に「客1」があります。 菱喰:菱喰(ひしくい)。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)と並ぶ大親分、大黒屋光慶(だいこくや みつよし)の懐刀。 菱喰:黒装束に身を包み、大黒屋のために日夜身を粉にして働いている。 菱喰:的之参の「末藏」と異なり、こちらは本職の系譜に連なるという噂があるようだ。 本間佑顕:本間佑顕(ほんま すけあき)。三千石取りの旗本。今回「行徳」の地で私腹を肥やそうとして行動を起こす。 本間佑顕:家来の木島を使い、屋敷に居ながらにして動静をうかがう殿様である。 本間佑顕:※兼役に「名主B」「客5」があります。 木島實統:木島實統(きじま さねむね)。本間家の家老。陰湿なやり口で行徳の村に無理難題を吹っ掛ける。 木島實統:本間の使いとして、主人の意思を遂行する、その意味では忠臣?! 木島實統:※兼役に「名主A」「客4」があります。 惣八:“泣かずの惣八(そうはち)” との異名をとる、硬骨の名主(なぬし)。行徳の地のとある村を見事に治めている。 惣八:行徳の領主が本間家に代わってから一年。これまでのような、交渉ごとに乗ってもらえる領主ではないと痛感し始めたところである。 惣八:※兼役に「客2」「伊勢屋」があります。 0:以下は人物紹介 りん:シリーズ〜的之壱〜で詠に斬られた「左馬」の娘。 りん:九〜十一歳ほどを想定しています。的之参〈急(第3部)〉で初めて声を発した。 りん:今回はお留守番。東庵先生のもとで学んでいます。 伊勢屋:シリーズ~的之壱~で「ね組」の左平次によって店を焼かれた。 伊勢屋:左平次のたくらみで、あわや身代(しんだい)まで奪われようとしていたところを「竜胆」の活躍で救われた。今は店を立て直し、江戸で活躍する豪商となっている。 村田東庵:シリーズ~的之参~に登場。村を巻き込む一大事件の発端となるも「竜胆」とともに乗り越えた。 村田東庵:医師としては抜群の腕をもちながら、村のそばで養生所を営んでいる。 村田東庵:おりんをあずかり、薬包紙(やくほうし)の扱いなど、さまざまを教えている。おりんの天稟(てんぴん)に気づき、世話を焼くのを楽しんでいる。 0:〈 〉NやM、兼役の指定 0:( )直前の漢字の読みや語意・一部、食われるセリフの指定 0:【 】ト書 それっぽくやってくださると幸いです。 : 0:以下、本編です。 : : 阿武:〈N〉透き通った青い空がどこまでも続いている。木々も萌え始め、次第に日差しが強くなってきた初夏のある日、大黒屋に呼び出された菱喰(ひしくい)が屋敷を訪れていた。 : 菱喰:光慶(みつよし)さま、お待たせいたしました。菱喰、まかりこしましてございます。 阿武:〈N〉大黒屋光慶(だいこくや みつよし)。香具師(やし)の大親分として朝霞屋嘉兵衛(あさかや かへえ)と並び立つ存在である。江戸近郊においては、ほとんどの露天商や辻芸人が、大黒屋と朝霞屋、どちらかの勢力に属していた。 阿武:支配下の露店商から「行徳(ぎょうとく)」の異変について報告が入ったのは七日ほど前のこと。この件についてある程度の調べを終えた大黒屋から菱喰に命が下されようとしている。 菱喰:はっ。その “惣八(そうはち)” なる名主(なぬし)が治める村に行き、領主の行いに、いかなる裏があるか調べればよろしいのですね。 阿武:〈N〉そうだ、とうなずく大黒屋は笑顔を絶やさない。巷(ちまた)では “仏の大黒” などと呼ばれ、庶民からの人気は高い。しかし、この界隈で一大勢力を築き上げるのは、ただのお人好しには無理な話だ。そう、その笑みの底までは見通せない男なのである。 菱喰:村のものに指図(さしず)する、その木島(きじま) なるは、旗本(はたもと)本間家(ほんまけ)の者だとか。…光慶(みつよし)さま、どこまで突き詰められますか? 阿武:〈N〉瀟洒(しょうしゃ)な意匠の掘られた煙草盆(たばこぼん)を小脇に置き、大黒屋は煙管(キセル)を味わっている。 阿武:「…そうさなぁ。行くところまで行くとするわさ」 阿武:煙は燻(くゆ)らせても、大黒屋の考えがゆらぐことはないようだ。 菱喰:かしこまりました。「行徳(ぎょうとく)」は光慶(みつよし)さま支配下の地。近寄る羽虫(はむし)は散らさねばなりません。…では、行って参ります。  :  : 詠:〈N〉下総(しもうさ)の国「行徳(ぎょうとく)」は天領として公儀の直轄地(ちょっかつち)となっており、旗本などが領有することが多かった。製塩でも知られ、「行徳の塩」は大消費地、江戸に運ばれている。 詠:そして先(さき)ごろ領主が本間家に代わった。商業・農業ともに栄えるこの土地で、ひと財産築こうという魂胆のもと、村々に無理難題を要求し始めたのである。この夜、惣八(そうはち)の元を近隣在所(ざいしょ)の名主(なぬし)たちが訪れていた。 : 名主A:〈木島兼役〉惣八さん、いかになんでも、これは無理が過ぎやしないかい? 名主B:〈本間兼役〉そうだそうだ! ……せっかくワシらができるだけ安くあがるように算段したってのによ。 惣八:ふむ。まぁ確かに。しかし、このたびの領地替えで新しく領主になられた本間さまには、あまりよい噂がないでな。騒ぎ立てたところで無駄かもしれぬ…。 名主A:〈木島兼役〉いや、でもよ…五割がた仕事が終わったところじゃないか… 名主B:〈本間兼役〉それを、一からやり直せ、しかも、部材を指定の商人(しょうにん)から買い直せとはいくらなんでも… 惣八:江戸で懇意(こんい)にしていた伊勢屋さんが手ごろな材を用立ててくださったんだがね…。 名主A:〈木島兼役〉今からやり直すってことになりゃぁ、人足(にんそく)たちの給金も余分にかかるだろう? 名主B:〈本間兼役〉まったくだ! 惣八さん、わたしらはどうすりゃあいいのかね…。 惣八:とにかく、明日、木島さまのところに話を聞いてもらいに行くとしよう。 惣八:江戸川の堤(つつみ)を仕上げるのは村のためにもなる仕事。それをやるのは、やぶさかではないのだがね…。 名主B:〈本間兼役〉そりゃそうだが…。いかんせんやりようが非道じゃないか。 惣八:ふむ…ものの理非で話が通じる方々であればよいが…。  :  : 詠:〈N〉同じころ、行徳にある将軍家ゆかりの寺、法甲寺(ほうこうじ)の参道に連なる居酒屋では、看板娘、お玉の体(てい)をなした菱喰(ひしくい)が人々から話を聞いていた。ここは大黒屋支配下の店であり、勢力圏の監視や情報収集に役立っている。この日の菱喰は黒を基調とした小袖(こそで)に身をつつみ、襷(たすき)で裾(すそ)をはしょって、客の合間を行き交いしていた。 : 客1:〈阿武兼役〉おめぇ、聞いたかい? 将軍様がここ行徳にお越しになるんだってなぁ。 客2:〈惣八兼役〉あぁ、聞いてるよ。この先の法甲寺にお出でになるんだろう? 人出を見越して、市(いち)も盛況だっていうじゃぁねえか。 菱喰:〈お玉として〉あらお二人さん、いらっしゃい。お前さん方も将軍様を一目見ようなんて思ってんのかい? 客1:〈阿武兼役〉おぉ、お玉さん、あいもかわらず別嬪(べっぴん)だねぇ。あぁそうだ。煮魚と煮しめを追加で持ってきておくれな。 客1:「お玉さん」… 菱喰の仮の名 菱喰:〈お玉として〉あいよっ、たんと食べていってくださいよ。 客2:〈惣八兼役〉はっはっは、あっちらは仕事よ、仕事。将軍様なんぞ目にした日にゃあ、ありがたすぎてどうにかなっちまわぁ! はっはっは。 菱喰:〈お玉として〉あら、そうなのかい? 十五年ぶりのお出ましらしいじゃないか、残念だねぇ。 客3:〈詠兼役〉お玉さん、お玉さん、どうしたんだい、その小袖(こそで)。深い黒色がとっても素敵だよ。色の白いお玉さんの肌が引き立つねぇ。 菱喰:〈お玉として〉あれ、姉さん、毎度どうも。この小袖、私も気に入ってんですよ。まぁ、その筋の流れの品ですがね、ふふふ。 菱喰:…あぁそうそう、ご領主が替わってからいかがですか? 客3:〈詠兼役〉あぁ…。あまり大きな声じゃ言えないがねぇ、うちの店も運上金(うんじょうきん・営業税)を増やされちまったよ。ちょいと欲が張っていなさるね【苦笑】 菱喰:〈お玉として〉へぇ…。あはは、姉さん、あまり方々(ほうぼう)で言わないほうがよいですよ。今夜は芋のにっころがしがおいしくできてますからね、おひとついかがでしょ? 客3:〈詠兼役〉あれあれ、お玉さんにうまく乗せられたようじゃないか。ははは。よし、にっころがし、もらおうかね。あ、あとお酒も2合ね。 菱喰:〈お玉として〉はいはい、ありがとうございます。  :  : 本間佑顕:〈N〉本間家が行徳を管理するようになり、手初めにおこなったのは、在郷三村(ざいごうさんそん)に対する江戸川堤防工事の割り当てであった。急な依頼にも関わらず、惣八は近隣名主(なぬし)の代表として、できるだけ安く部材を仕入れるため、伝手(つて)を頼りに苦心しつつも手配を済ませていた。 本間佑顕:その工事が半分ほど終わったころになって、村を視察した木島から「工事やり直し」「部材再選定」の指示が出たのである。その木島のもとを惣八がおとずれている。 : 木島實統:それで、惣八(そうはち)、話とはいったい何だ。私もこれで忙しい身の上なのだが? 惣八:へぇ、お時間をいただきありがとうございます。本日お目にかかりましたのは、先(せん)だってご下命のありました、堤(つつみ)のご普請(ふしん)について、ご再考願えないかと(お願いにあがった次第でございます) 木島實統:【前の惣八にかぶせて】それはならぬ。 惣八:なっ…。いや、しかし、初めに命を受けましてから早三月(はやみつき)。普請作業もその半ばが終わっております。 : 詠:〈N〉この、木島と惣八のやり取りを天井裏からうかがっている者がいた。大黒屋の命を受けた菱喰(ひしくい)である。菱喰にとって、いかな大身(たいしん)と言えど、旗本の家来ごときの屋敷に忍び入るのは造作もないことである。 : 菱喰:〈M〉…ふぅん、惣八ってのは、大身旗本(たいしんはたもと)の家来を前にしても言うべきことは言うんだね。その性根(しょうね)は見上げたものだ。 木島實統:惣八、一つ聞こう。お前は名主(なぬし)として、何を大事(だいじ)と心得おるか。できるだけ早く終わらせることか。それとも、村のため、民の暮らしを安(やす)んずることか。 惣八:…それはもちろん、村のものの安らぎであります。 木島實統:左様であろうが。だからこその再工事よ。当家の目付(めつけ・監察)から工事不備の報告が上がっておる。 菱喰:〈M〉…はぁ。どうせ、その目付(めつけ)自体が胡散臭い奴らなのだろう。 惣八:…ふ、不備、でございますか。 木島實統:そうだ。このまま進めては、たとえ新たな堤防が日の目を見たとて、物の役にはたたぬ。さすれば、工事自体が無駄になろう。今、この時点でやり直せば、無駄は少なくてすむ。そうではないか? 惣八:それはそうでございますが…。して、その不備とはいかようなもので? 木島實統:惣八、口答えが過ぎるぞ。…まぁよい。土台となる版築(はんちく)のゆるみ。石を固定する柱の径(けい)の不足。堤防の根幹をなす石材の質の見劣り…。ほかにもあるが。どうだ、これで分かったであろう。 菱喰:〈M〉ほら来た。それらしいことを並べ立てはするが、その証は一つも出しやしない。…もっとも証は「出せない」んだろうがね。 惣八:木島さま、版築などは堤防の礎(いしずえ)となるもの。いの一番に始める仕事にございます。その経過は本間さまのお目付(めつけ)にも確かめていただいております。 木島實統:惣八…。 惣八:また、石材を支える柱については、江戸の商人、伊勢屋さんから確かなものを贖(あがな)っておりますし、(石材そのものは…) 木島實統:【前の惣八にかぶせて】惣八、控えい! 差し出がましいぞ。 惣八:…へぇ。申し訳のないことでございます。 木島實統:よいか、惣八。行徳の村方三役(むらかたさんやく)を束ねるお前の顔を立てて、時間を割いてやっておるのだ。これ以上は話にならぬ。お前はお前の仕事を成せ。よいか、それぞれの村に文句を言わせぬよう、お前の差配で仕事せよ。…そうだな。期日はひと月延ばしてやろう。 惣八:ひと月ですと? 木島さま、三月(みつき)の仕事をやり直すのに、わずかひと月とはご無体(むたい)な… 木島實統:なにぃ? それでは私が無理難題を申しつけておるようではないか! …よいか、惣八。ただでさえこれから五月雨(さみだれ・梅雨)の季節を迎える。ゆるゆると先延ばしにしていては、すぐに野分(のわき・台風)もやって参ろう。それで水をあふれさせることになってみよ。村はどうなる? 民はどうなる? 惣八:…は。確かに…。できるだけ急がせましょう。 木島實統:急ぎの仕事を助けるべく、きちんとした質の部材を、数をそろえてこちらで仕入れてやろうと言うのだ。よいから、こちらが指定の商人(しょうにん)から贖(あがな)え。 木島實統:それで、間違いはないし、時間もかからずにすむ。 菱喰:〈M〉何とも…。この木島ってのは恩着せがましく話して聞かせるようでいて、その実、自分らの要求を体(てい)よく飲ませようって腹積もりだね。このような者が「行徳(ぎょうとく)」に関わるのは、光慶(みつよし)さまの手かせ足かせにしかならぬだろうよ。 木島實統:ふむ。よかろう…。期日は特別にひと月半に目こぼしをしてやる。惣八、この件、これ以上の申し立ては許さぬ。分かったな? 惣八:くっ。…承知いたしました。 木島實統:よし。ならば惣八、早々に立ち去れい。私は本間さまに用があるゆえな。私の口から、本間さまに期日延期の件、申し添えてやろうではないか。お前は早う村々をまとめ上げよ。よいな? 惣八:〈M〉このままでは村々は立ち行かぬ…。どうすればよいのか。私に何ができるのか…。 菱喰:〈M〉そうか。木島はこのまま本間家に向かう、と。いいね。ことのついでに本間のところにも潜ってやろう。  :  : 阿武:〈N〉木島はその足で本間家に向かう。行徳(ぎょうとく)の地は江戸に近く、人の行き交いも多い。豊かな地をひとたび領有したからには、さらなる領地替えの前にできるだけ儲けてやろうというのである。 : 木島實統:本間さま、木島にございます。 本間佑顕:おう、木島か。かまわぬ、入れ。 木島實統:ははっ。失礼いたします。お休みのところ申し訳もございませぬ。 本間佑顕:ははは。そう堅苦しくならずともよい。…して、行徳はいかようであろうか? 木島實統:はい。先ほど行徳の村々を取りまとめる惣八が来ておりましたが。なに、こちらが思う通りに呑ませておきました。本間さまからは「二月(ふたつき)」の延期と仰せがありましたが…再工事は「ひと月半」で仕上げさせましょう。 本間佑顕:何、ひと月半!? …ふむ。村の者からは、「二月半」ほどに再度の延期願いでもあるかと思うたが…。木島、よう認めさせたな。 木島實統:それはもう、この木島めが考えますのは、本間さまのことだけでありますからな。殿の御為(おんため)であれば、無き知恵をふりしぼってお仕えしようというものです。ははは。 菱喰:〈M〉ん? 工期も延期させたと見せて、その実(じつ)、半月の短縮という訳か。この木島ってのは、なかなかの曲者(くせもの)だね。 本間佑顕:はっはっは! 相も変わらず口のうまいことよ。よいよい。木島、行徳についてはそちに任せる。工事の資材についても買い上げを認めさせたのであろう? 木島實統:はい。もちろんでございます。 本間佑顕:そうかそうか。おい、木島、近う(ちこう)寄れ。褒美をとらせよう。 木島實統:なんとなんと! もったいないことにございまする…。 本間佑顕:ほれ、ここに十両ある。持っていけ。…おう、そうじゃ木島。そなたが入れ込んでおる「花房(はなふさ)」なる吉原の格子(こうし・太夫(たゆう)に次ぐ上級の女郎)にでも会うて(おうて)来い。明日は出仕(しゅっし)せずともよいからな。朝寝(あさね)でもしてくるがよかろう。…はっはっはっはっは。 木島實統:むむ…そのような話を一体どこから…【苦笑】まったく、殿様にはかないませぬな。いやはや、それでは遠慮なく遊ばせてもらいますぞ。はははは。 菱喰:〈M〉この主従はいけすかないね。民草(たみくさ)を泣かせておいて、自分らは甘い汁を啜り放題とは…。光慶さまのお耳に入れることすら憚(はばか)られるってもんだ。…よし、いったん渡りをつけようか。  :  : 詠:〈N〉本間佑顕(ほんますけあき)と木島實統(きじまさねむね)の謀(はかりごと)について、ひとまずの調べを終えた菱喰(ひしくい)は法甲寺(ほうこうじ)に足を向けた。 詠:境内につながる参道は「権現道(ごんげんみち)」と呼ばれ、門前には市(いち)が立っている。十五年ぶりの将軍の「御成(おなり)」を控えるとあって、今日も大変な賑わいである。そこで「ガマの油」を売る行商が大勢の客を集めていた。その客の輪の中に菱喰がいる。 詠:※ このあとの「行商」を「詠」役の方が担当される場合、ここの〈N〉は別の方でご担当ください。 行商:さぁさぁ、お立ち合いぃ! 御用とお急ぎでなかったら、ゆっくりと見ておいで。常陸(ひたち)の国は筑波山のふもとから参った旅商人にてござそうろう。 行商:お江戸は日本橋(にほんばし)を皮切りに、目指すは京(きょう)の三条大橋。進むは百と二十(にじゅう)と四里(よんり)と八丁(はっちょう)。しめて十(とお)と四日(よっか)のみちのりだ。「旅は道連れ世は情け」なんて言葉もあるが、「人を見れば泥棒と思え」とも言うじゃあないか。そんな浮世を歩いていくにゃ、不用心じゃあ危険にすぎる。 菱喰:〈M〉今日もやっているね。いつ聞いても面白いもんだねぇ。しばらく楽しませてもらうとするか。 行商:これ、手前ここに取り出(い)だしたりますは、一尺ほどの武者人形。この中には種も仕掛けもございますれば、唐・天竺(から・てんじく)まで届けてみしょう、この征矢(そや)を。御覧のみなさま、これよりは瞬き(まばたき)すらも悔いを生む。それそれそれそれ、よろしいか! 菱喰:〈M〉いやはや、この芸当はちょっとまねできないねぇ。次第に客の輪も太くなっているよ。…ふふふ、この中で文(ふみ)のやり取りをするなんざ、誰にもわからないだろうさ。 行商:むむ、むむむ! 下野(しもつけ)より霊気(れいき)来たれり。なんとなんと、これなるは与一公(よいちこう)にあらせられるか。御身(おんみ)の御魂(みたま)をお借りできれば百人力、いや、千人力にございますれば、こたびの成功間違いなし。さらには御魂(みたま)と併(あわ)せ、誓詞(せいし)もお借りせんとぞ思いまするぅ。 行商:南八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光の権現(ごんげん)、宇都宮、那須の湯泉(ゆぜん)大明神。願わくば、あの扇の真ん中、射させてたばせたまえ。 阿武:〈N〉誓詞を上げた行商が合図を出すと、武者人形から放たれた矢は十間(じっけん・18mほど)先の的を見事に射抜いたのである。 客4:〈木島兼役〉おおぉぉ~! 見たかよ、おめぇ! 客5:〈本間兼役〉おお、見たとも! 何だこりゃ、すげえじゃねえか。 行商:まだまだ多くの芸当ありといえども、これ本日はここまでにございまする。おやおや、みなさま、こちらは投げ銭・放り銭(ひりせん)お断り。手前、まだまだ未熟といえる身とは言えども、人様の前にて投げ銭・放り銭(ひりせん)かき集めるは、憚(はばか)られることにございますれば。 行商:…なればお前、いかにしておまんま食らうと ご心配なさる向きもありましょう。よくぞ聞いてくださった。これこの看板にあります通り、筑波山(つくばさん)の妙薬(みょうやく)「陣中膏(じんちゅうこう)はガマの油」を商(あきな)っておりまする。 客4:〈木島兼役〉ほうっ! 聞いたことがあるぜ、ガマの油ってのをよう。 客5:〈本間兼役〉なんだ、おめぇ、よう知っとるな。わしゃ初耳よ。 菱喰:〈M〉通りすがりの衆も足を止めだしたよ。まわりの一見(いちげん)も盛り上がってきているじゃないか。…さてと、そろそろよい頃合いを迎えるね。 阿武:〈N〉行商を取り巻く人垣(ひとがき)は十重二十重(とえはたえ)。すでに参道は黒山の人だかりといった塩梅である。行商は腰に佩(は)いた刀を抜いた。 行商:さあさあ皆さま、とっくとお目に入れられませい。手前が取り出(いだ)しましたるは、ガマはガマでも、そんじょそこらのガマにはございませぬ。筑波の嶺(みね)にて、霊草 オオバコを食らいたる四六(しろく)のガマにてございまするぅ! 行商:なんだお前、ガマの油をしぼったくらいで、効き目のほどがありはするのか。なるほどなるほど、みなみなさまの覚えもなんともごもっとも。 行商:その効き目のほどを、御覧に入れるといたしましょう。さてさて、我が右手に握られまするは、天下の名匠、あの正宗(まさむね)が暇(ひま)に飽かせて打ったる家宝の名刀にてございまするぅ。 菱喰:〈M〉きたねきたね。…あいつときたら、あの仕掛けだけは何があっても口を割らないからねぇ。それだけ余計に気をひかれるってもんだよ。 行商:さぁさぁよいか、我が左の腕(かいな)に家宝をあてて、これこの通りすっと引く! 客4:〈木島兼役〉おいおい、でぇじょうぶなのけぇ? 客5:〈本間兼役〉正宗ってのが嘘八百でもよぉ、刀をひきゃあ、おい… 行商:ほれこの通りスパっと切れたぁ! …いちちちち。さてさて後ろのお客さま、御覧になれまするか、この有様を。赤い血がだらりだらりと垂れている。なんとまぁまぁ、よぉ切れることだ。 行商:ところがどっこい、ご心配には及びませぬ。この膏薬(こうやく)、「陣中膏(じんちゅうこう)はガマの油」を人差し指にて、ひとすくい。これこうやって、すっと塗り、揉みしだきてさっと拭きとりゃ、はい、この通りぃ! 客4:〈木島兼役〉おっ、なんでぇなんでぇ、傷がありゃしねぇじゃねぇか! 客5:〈本間兼役〉いってぇどうなってやがるんだ!? 菱喰:〈M〉そうなんだよ。どうなっているのかね。ふふふ。あぁ、楽しんだ。 行商:お集りのみなみなさま、今日はなんともすごい人出だ。感謝感激雨あられ。いつもであれば二百文(にひゃくもん)でお売りするところにございまするが、こちらの礼の印とばかり、本日限り、百文でお売りいたしましょう。 行商:旅のお供に、日頃の備えに。さぁさ、効き目のほどがわかったら、どうぞぜひぜひ、あがないなされぇぇ。 客4:〈木島兼役〉おいおい、半値(はんね)じゃねぇか。よし、おいら買ってくるぜ。   客5:〈本間兼役〉うっはは。すごいもんだねぇ。うん、あっしも求めてこよう。 阿武:〈N〉「一つおくれ」の大合唱の中、行商にすっと近づく者がいた。大黒屋の懐刀(ふところがたな)、菱喰である。銭と一緒に小さく折った文を持っている。 菱喰:ちょいとお前さん、ひとつおくれでないかい? 【以下、小声で】これをね、いつものようにね。 行商:あれ、これはこれはあでやかなおねいさんだ! ガマの油をどうなさる? 愛しい人へのお土産かい? いいねぇいいねぇ、うらやましいねぇ。 : 阿武:〈N〉軽口の合間に、文(ふみ)は消えている。この行商人もただ者ではなさそうだ。文には大黒屋への報告がしたためられていた。菱喰はまだ調べを続けようと、惣八の村へと向かう。  :  : 詠:〈N〉行徳の村では惣八の元に名主(なぬし)連中が集まり、状況を知らされている。惣八の顔から、結果は思わしくないと悟った名主たちの顔色も冴えない様子だ。行燈(あんどん)に照らされた皆の苦渋の表情が、その場の雰囲気を物語っている。 : 名主A:〈木島兼役〉すると何かい? 聞く耳をもっちゃくれねえってのかい? 名主B:〈本間兼役〉ワシらはね、惣八さんのお人がらをよっく分かっているからね、自分を責めておくれでないよ、惣八さん。 惣八:むむ…。面目のないことだ。工期も「ひと月と半」で何とかしろ、とのことだった。みなには二日も時をいただいたのになぁ。ほんにすまねぇ…この通りだ。【頭を下げる】 名主A:〈木島兼役〉いやいや、仕方がねぇ。…ふむ。ここは村の連中にがんばってもらうとするか…。 惣八:…うむ。うちの者にもそう伝えるとしよう。 名主B:〈本間兼役〉そうだのう。人足(にんそく)どもだけでは手が足りないだろうからねぇ。村の者にも手伝わせようか…。 惣八:〈M〉このままでは行徳の地が立ち行かぬ。私の顔はつぶれても差し支えない。しかし、村のものたちの暮らしがつぶれるのは、なんとしてでも避けねばならぬ。 名主A:〈木島兼役〉惣八さん、どうなすった、黙りこくって…。 惣八:〈以下、セリフ〉いや、なんでもないよ。…さぁさぁ、明日も早い。みなもうちへ帰っておくれ。できるだけのことはしてみるのでな。 : 詠:〈N〉その夜、惣八は田んぼを八反(はったん・二千四百坪・約八千平方メートル)売ると決めた。囲炉裏端(いろりばた)に妻を呼び、土地の書付を持ってこさせたのである。先祖伝来の土地ではあったが、ことここに及んでは仕方がない。いかに豪農(ごうのう)とは言え、ほかに金策がかなわぬのだから。妻が見つめる惣八の背中は、涙に滲(にじ)んでいた…。 : : 菱喰:〈N〉ところかわって、こちらは小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』。朝のつとめを終えたおりんが、客の到来を告げた。その男は伊勢屋。大火(たいか)で焼け落ちた大店(おおだな)を見事に立て直した豪商である。 : 詠:あらまぁ、伊勢屋さんじゃないですか。ご店主が、わざわざうちなんぞに何のご用でございましょうねぇ? 阿武、お茶の用意を頼むよ。 阿武:はい、かしこまりました。 伊勢屋:〈惣八兼役〉あぁ、お詠さん、阿武さん、おかまいなく。昼餉(ひるげ)の前に申し訳のないことです。あぁ、こちら、お納めください。 詠:なんですか、伊勢屋さん、あたしら、まだ何のお役にも立っちゃいないんですがねぇ? 伊勢屋:〈惣八兼役〉いえ、こちらこそ火事の一件では大層お世話になっておきながら、礼を申し上げるのが遅くなりまして…。非礼の段、お許しくださいませ。 詠:…伊勢屋さん、お手をお上げくださいな。困ったときはお互いさまってもんでしょう? いいんですよ、お店(たな)が燃え落ちちまって、挨拶どころじゃなかっただろうしねぇ。 阿武:その通りでございますよ、伊勢屋さま。わたくしどもは、伊勢屋さまのご郷里、桑名(くわな)から「干し蛤(はまぐり)」を卸していただいていますからねぇ。おかげさまで、ちっと評判を集めさせていただいておりますよ。 伊勢屋:〈惣八兼役〉それはよかった。…もっとも、それしきのことで恩義に報いることはできませぬが。 詠:いや、あの「干し蛤(はまぐり)」はとんでもない逸品ですよ、伊勢屋さん。だし汁で軽く戻して、ごはんにかけて、三つ葉をそえりゃあ、おいしいなんてもんじゃないんですから! 伊勢屋:〈惣八兼役〉ははは。それは良うございました。しかし、お詠さんの明るい笑みは、見るものの心を軽くしてくれますなぁ。 阿武:まったく詠さまときたら、食べ物の話になるといきいきしてくるのですからねぇ…。それで、伊勢屋さま、本日はどのようなご用向きにございますかな。 伊勢屋:はい。実は、重ねてのお願いとなるのですが…。 : 菱喰:〈N〉伊勢屋の口から語られたのは、行徳の一件。自分のもとで用立てた木材の仕入れを断られ、行徳と惣八の窮状(きゅうじょう)を知った。惣八を案ずる伊勢屋は居てもたってもいられず『竜胆庵』を訪れてきたのである。 : 詠:…へぇ。そのように急に断りを入れてくるなんざ、尋常の商いではありえないことだねぇ。 阿武:はい。きっと何事か裏があるのでございましょう。 伊勢屋:〈惣八兼役〉新しく行徳に入られたのは本間(ほんま)さまというお旗本でございまして。三千石取り(さんぜんごくどり)の大身(たいしん)であらせられますので、無理難題を押し付けられてもいかんともしがたいようで…。 詠:ふぅ。まったく、大身旗本(たいしんはたもと)がなんだってんだ。一体だれのおかげでおまんまが食べられると思っているのかねぇ。…ねぇ、阿武。 阿武:…詠さま、いつぞやの話を覚えてくださっていたのですか。いや、うれしいものですね。ははは。詠さま、まったく仰せの通りです。石高(こくだか)が人の良し悪しを表すわけではありませぬからなぁ。 詠:ほんとだよ。…伊勢屋さん、その本間の殿さまかい? 裏にいるのは。 伊勢屋:〈惣八兼役〉はい。そのご家来の木島さまにも難儀しているようでございます。 詠:そうかい。で、その惣八(そうはち)さんってのはどんなお方なんだい? 伊勢屋:〈惣八兼役〉惣八は私の古くからの友人です。口数は多くありませぬが、約束したことは決して違(たが)えぬ気持ちのよい男にございます。今は行徳で名主を束ねる “大名主(おおなぬし)”を務めておりますが…。この者は「泣かずの惣八」とも呼ばれておりましてね、弱音を言ってくることはありません。それでも文(ふみ)のはしばしに、その苦境の程(ほど)が透けて見えましてね…。 阿武:さようですか…。それであれば、何とかお役に立ちたいところですね…。 詠:あぁ、阿武。せっかく伊勢屋さんともご縁がつながったんだからね。良縁に育てていかねばならないだろう? 阿武:はい。しばらく下総(しもうさ)は行徳の地に赴いてみるとしますか。 詠:そうだね。『竜胆庵』は閉めておこう。おりんは東庵(とうあん)先生のお言葉に甘えて、養生所(ようじょうしょ)においてもらうとしようかね。 阿武:…詠さま。たしかに東庵先生からは「何かあったらおりんさんは養生所で預かります」と言われておりますが…。 詠:阿武ぉ? ここは遠慮なく頼らせてもらおうじゃないか。 阿武:…もう、詠さま。分かりました。このあと、東庵先生のところへお願いに上がって参りましょう。 詠:阿武、頼んだよ。おりん、ちょっとこっちへおいで! 伊勢屋:〈惣八兼役〉ご多用中、まことに申し訳ありません。 : : 本間佑顕:〈N〉おりんによくよく言い聞かせ、東庵のもとに送った後で、旅支度を整えて行徳に向かうお詠と阿武。その頃、行徳では惣八をさらなる難題が襲っていた。そしてその場には、やはり菱喰の姿があった。 : 惣八:…なんですと、木島さま。今、なんとおっしゃいました? 木島實統:くどいわ。当家の中間(ちゅうげん・武家の召使)より「惣八が村に隠し田(かくしだ)あり」との報告が上がったのよ。 惣八:いや、「隠し田」など…ありはいたしません。 菱喰:〈M〉隠し田? そのようなものは私の調べには上がっていない。 菱喰:また、木島お得意のでっち上げにすぎないだろうが…。惣八はどう出る? 木島實統:…ほう。あくまで隠し立てするか。…なぁ、惣八。 木島實統:先(せん)だっては、お前の顔を立てて、工期の延期を認めてやったではないか。 木島實統:手間のかからぬよう、資材も用立ててやった。お前は金子(きんす)を集めてそれらを買いそろえた。 木島實統:本間さまも、私も、惣八には見どころがあると思っておるのよ。 木島實統:よいか、惣八。もう一度だけ言おう。ここには「隠し田」があるな? 惣八:いえ、木島さま。誓ってそのようなものはございませぬ! 惣八:木島さまのわざわざのお越し、いったい何事かと思いましたが、そのようなものはこの村にはございませぬ故(ゆえ)、早々にお帰りになるがよろしいでしょう。お忙しい御身(おみ)の上、引き留めるのは申し訳ございませぬからな。 木島實統:…よいのか? 惣八。そのような強弁(きょうべん)、一朝(いっちょう)事が明るみに出たならば、そなたの立場どころか、その首も危ういのだぞ。 惣八:どのように仰せになりましても、ないものはないとしか申せませぬ。 木島實統:…強情なやつよ。世間ではな、お前のことを「泣かずの惣八」と言うそうではないか。お主は泣かずとも、村の者を泣かせては…困るのではないか? 菱喰:〈M〉ふんっ、またぞろ「村の者」か。木島のやつは、天下御免の印か何かと思っているのかね。良心にとことんつけこんでくる男だねぇ。 惣八:しかし…どこにあるというのですか、木島さま。そのような隠し田が! 木島實統:ふふふ…。あぁよく言うた。それであれば供(とも)をせい、惣八。知らせがあった「隠し田」まで案内(あない)してやろうほどにな。 惣八:よろしゅうございます。それであればお供つかまつりましょう。 菱喰:〈M〉ん? なんだ? いやに自信満々だね。木島のやつには勝算があると言うのか…。 本間佑顕:〈N〉木島が惣八を連れて向かったのは、里山の裏手にある休耕田。そこは、昨年「溜め池(ためいけ)」を造るよう幕府から直々に命じられていた土地であった。この休耕田は二つの里山の間に広がる土地で、その広さは十町(じっちょう・三万坪・十万平方メートルほど)はあろうかという広大なものである。田は田でも、これは休耕田。しかも、公儀の命を受けて耕作を放棄していた土地であった。 惣八:…木島さま。よろしいでしょうか。こちらは、お上(おかみ)のご用命にて、来年から「溜め池」を造成するために休ませている土地にございます。 木島實統:ほう…、幕府の、な。しかしそれはそれ、これはこれである。ここの田(た)は検地帳(けんちちょう)に載ってはおらぬ。そうよな、惣八。 惣八:…はい。ご下命ありし折(おり)より、検地帳からは省かれております。 木島實統:しかし、目の前に見えているものは何だ。田、ではないのか? 惣八:…田、でございます。くっ…。 菱喰:〈M〉なんという言い草だ。とことんまで言いがかりだね。この男の神経はいったいどうなっているんだい…。 木島實統:左様(さよう)。それであればこれは「隠し田」ではないか。 木島實統:何か、申し開きがあれば言うてみよ。聞くだけは聞いてやる。 惣八:これは、田だ。それは間違いない。しかし、今年に入って稲を育ててはおらぬ! …いや、おりませぬ…ぐぐぅ。 木島實統:そうかそうか。これは田であると認めるのだな、惣八。 木島實統:これはこれは面妖(めんよう)な。先ほどは「隠し田」などないと言うておったのに、今ここにきて「これは田だ」と認めおる…。さてさて。 惣八:…木島さま。それはお考えに誤りがあろうかと存ずる。 木島實統:何ぃ? この木島が誤っておるだと? 惣八:そうです。…難癖(なんくせ)もここまでくれば立派なもんだ! 木島實統:おいおい。お主、誰に向かって物を言うておるか分かっているのか? 惣八:ぐぐぐ…木島さまにおたずねいたします。こたびの件、本間さまもご存じでありましょうや。 木島實統:もちろんよ。ここ行徳は木島のものではない、本間家のものである。ご存じない道理はあるまい。 木島實統:よい、惣八。無礼の段は見逃してやる。だが、「隠し田」となるとそうはいかぬ。この件、それこそ隠しておいて欲しければ五百両用意いたせ。 惣八:ご、ご、五百両ですとっ!? 木島實統:なんじゃ、惣八。何をそのようにあわてておる。「隠し田」が明るみに出れば村の者が罰されよう。それは本意ではあるまいが。 惣八:先の資材買いなおし、いかほどかかったか木島さまはご存じでございましょう? そこへきてさらに五百両ですと? 当家は商家(しょうか)にはございませぬ。次から次へと金子(きんす)が湧いてくるはずもありますまい!? 木島實統:であれば、他の村の名主とも寄り合え! 「隠し田」などと言えるものであればな! …ははは。ふわっはっはっは。 菱喰:〈M〉まったく忌々しいことこの上ないね…。この男、生かしておいては光慶(みつよし)さまの害にしかならぬ。思い知らせてやらねば…。 惣八:〈M〉むなしく響く高笑いだ…。こやつ、分かっていてやっておる。村のものと名主連中を形(かた)にとり、言いたい放題ではないか。…なんとかせねば。 木島實統:よいな、惣八。しかと申し伝えたぞ。朔日(ついたち)までに金子(きんす)を用意するのだ。わかったな! 惣八:…木島さま、こちらの件、お上の筋にお尋ねいたしますぞ…。 木島實統:ほほぅ。よいよい、好きにするがよい。我らのあずかり知らぬことであるからなぁ。はぁっはっはっはっは…。 菱喰:〈M〉そうか、惣八は早晩(そうばん)江戸に行くんだね。道中、私もついていくとしよう。よし、その前にもう一度本間家で下調べだ。 : : 本間佑顕:〈N〉夕刻、伊勢屋の紹介状を携えたお詠と阿武が行徳にやってきた。出迎えた惣八に伊勢屋からの文(ふみ)を渡し、伊勢屋の心配を伝えた。そして、惣八からはこれまでの事情を聞いたのであった。新たな難題を前にして、お詠と阿武も首をかしげている。 : 阿武:惣八さま、ご公儀からの命を受けているにも関わらず、その木島なるものの高笑い…。きっとお上に手を引くものがいるのでありましょう。 惣八:阿武殿(あんのどの)、それはそうでございましょう。そうでもなければ、あれだけ堂々と強請(ゆす)っては来ないでしょうからな。 詠:それで、惣八さん。この先どうなさるんですか? 惣八:はい。木島さまに言うた通り、お上にお尋ねしてこようと思っております。 詠:ということは、江戸まで出られるのかねぇ? 惣八:そうなります。しかしそれほど日はかけられませぬ。私が不在の折に、どのような言い分をもって村の者を脅すか分かったものではありませんから。 詠:…ふぅん。そうなったら、あれだね、あたしらが惣八さんのお供をして江戸まで行きましょうか。夜駆け(よがけ)、朝駆け(あさがけ)なさるおつもりなんでしょう? 惣八:えっ、いや、しかし…。お二人は先ほど行徳にお越しになったばかり。その足で江戸まで、とは申せませぬ。伊勢屋さんからは「大恩(たいおん)あるお二人」だとうかがっております。そのような方々を自分の都合に合わせるのはなんとも…。 阿武:よいのですよ、惣八さま。私どもは惣八さまの助けにならんとしてまかりこしておりまする。どうぞ、よいようにお使いくださいましな。 惣八:阿武殿…。ありがたいことです…。それではすぐの出立(しゅったつ)となりますが、よろしいですか? 詠:はいよ、お供いたしましょ。 惣八:【妻に対して】おい、お前、私はこれから江戸まで出てくるよ。お二人の分と私の分、握り飯を用意してくれないか。 : 本間佑顕:〈N〉先ほどから傍らで目立たぬように話を聞いていた妻(つま)は目に涙を浮かべている。くやしさと、お詠と阿武、そして伊勢屋への感謝をたたえたその涙が止まることはなかった。 : : 阿武:〈N〉そのころ、本間家の奥の間では、木島の話に上機嫌となった本間佑顕(ほんますけあき)が酒宴を開いていた。もちろん木島實統(きじまさねむね)も同席している。そして、天井の梁(はり)の上からは、またもや菱喰(ひしくい)が様子を見定めていた。 : 本間佑顕:おい、木島! このたびもご苦労だったなぁ。…ぐびっ【酒を呑む】。どうだ、惣八のやつは、金子(きんす)を用立てそうか? 木島實統:はい、本間様。あやつは、村を盾に取られては何もできませんからなぁ。今頃は金策にかけずりまわっていることでしょう。ははは。…ぐびっ【酒を呑む】あれ、今宵の酒は上物ですな。 本間佑顕:…ふふふ。そちの働きに報いてやらねばならぬからなぁ。…ぐび【酒を呑む】というて、しばらく休みはやれぬでの。せめて酒なぞは、とな。 本間佑顕:木島は「花房(はなふさ)」に会えずじまいでさびしいかもしれんがのう。はぁっはっはっは…。ぐび【酒を呑む】 菱喰:〈M〉相も変わらずいい気なものだよ。惣八の顔を見ていたかね、木島のやつは。あの者の心根(こころね)にはどっしりとしたものがある。それがいざ立ち上がったときの力のほどを、こいつらはわかっちゃいないだろう。 木島實統:して、殿様。…ぐびっ【酒を呑む】惣八のやつは、「ご公儀に尋ねる」とそう申しておりましたが…。問題はございませぬか? 本間佑顕:なぁになに、そのような些末(さまつ)なこと、先刻織り込み済よ。たとえ、訴えがあったところでな、取り上げぬよう根回しも終わっておるわ。…ぐびっ【酒を呑む】 木島實統:なんとなんと…。さすがは本間様。殿様のお力に逆らえるものはおりませんなぁ。 本間佑顕:なんじゃ、木島、いやに持ち上げるのう。…ふふふ。それくらいで褒美はやらぬぞ? え? 木島實統:いやいや、そのような魂胆はありませぬよ。こたびの五百両に関しても、おこぼれにあずかろうなどとは思っておりませぬ故、さよう思し召されよ。 本間佑顕:はぁっはっは。お前は口がうまいのう。…ぐびっ【酒を呑む】。しかしな、木島。いかな儂(わし)でも、言うに任せぬ相手もおるわ。こたびの金は、上に蒔くための金よ。…今以上に行徳で財を蓄えるためにな。 木島實統:これはこれは、殿様は怖いお人にございます。それがしなんぞが逆立ちしてもかなうお方ではありませんなぁ。…はっはっは。 本間佑顕:よせよせ、木島。うまい酒がもっとうまくなるではないか。はぁっはっはっは。 菱喰:〈M〉はぁ、話にならぬ…。よし、いったん光慶(みつよし)さまのところへ帰るとしよう。  :  : 阿武:〈N〉惣八を伴っての江戸行きの道中、伊勢屋をめぐる事件について話せるところまで伝えたお詠。惣八は驚きとともにその話を聞いてはいたが、深くは踏み込んでこない。この男、やはり人ができている。行徳(ぎょうとく)から江戸までは二刻(ふたとき・約四時間)ほどの道のりである。道すがら惣八の人となりを確かめたお詠は、この男を守ると決めた。 : 詠:しかしねぇ、惣八さん。お宅でも言いましたが、その本間さまのお使い、木島ってお人の様子からして、もっと大きいのが後ろに控えているんじゃないですかねぇ。 惣八:…ええ。そうかもしれません。 阿武:惣八さま、よろしいのですかな? まことに訴えをおこしても。 惣八:はい。それでも、私は動くしかないのです。座したまま朽ちるわけには参りませんからな。 阿武:惣八さま…。名主(なぬし)の鑑(かがみ)のようなお方だ…。 惣八:阿武殿(あんのどの)、何をおっしゃる。…私なぞの力では何一つ降りかかる火の粉を払えずにいるのです。 詠:惣八さん、江戸での火の粉はあたしらが払いますがね…。決して無理をなさるんじゃないですよ。 菱喰:〈M〉…ふぅん。前を行くのが行徳の惣八だね。やっと追いついた。両脇の二人は誰だろう? えらく隙(すき)のない動きだ…。脇侍(わきじ)のように歩いているところを見れば、惣八の敵ではなさそうだが……。 阿武:惣八さま、今夜は伊勢屋さまのところにお泊りになるのですよね? 惣八:ええ、そのように出立(しゅったつ)前に使いを出しましてね。…伊勢屋さんの人の好さに甘えてしまっております。 詠:それじゃぁ、奉行所(ぶぎょうしょ)に向かうのは日が昇ってからってことですね。 惣八:はい、その心積もりでおります。 詠:ん。わかりましたよ。あたしらで、明日の朝、惣八さんをお迎えに上がりましょう。それから、その足で奉行所に向かおうじゃありませんか。 菱喰:〈M〉…そうか。明朝(みょうちょう)、惣八は本間家(ほんまけ)の横暴をお上に訴えるつもりだね。成り行きを見せてもらおうか。 阿武:【小声で】詠さま、先ほどより、つかず離れずこちらをうかがう者がおります。 詠:あぁ、そうだね。まぁ殺気は露(つゆ)ほども感じられないし、敵って訳じゃないだろう。…今のところは様子見といくさ。 阿武:…気配に対する気の配り方。素人ではないようですな。この気配の質と色合いは、覚えておきましょう。 詠:うん。惣八さんに何かするつもりなら、あたしが許さない。このお人はね、行徳にゃ必要だよ。 詠:【以下、惣八に】さあさ、惣八さん、伊勢屋さんまではあと少しです。今夜はゆっくりさせてもらってね、明日に備えてくださいな。 惣八:えぇ、そうさせていただきます。本間さまに翻意(ほんい)を促すには、その上役からはたらきかけてもらうしか無いですからな。明日が私らの勝負の日になるでしょう。 阿武:うまくゆくことを願っております。…願っておりますが、惣八さま、万に一つ、芳しくない結果に終わってしまったときは、『竜胆庵』にて、善後策(ぜんごさく)を検討いたしましょう。 惣八:ありがとうございます。決して、一人で勇み足を踏まぬとお約束しますよ。 詠:さて、もう伊勢屋さんまでは目と鼻の先だね。惣八さん、あたしらは一旦失礼して『竜胆庵』に戻りますからね。明日、お迎えにあがるまで待っていてくださいな。 阿武:そうですね。私どもはここで戻りましょう。どうぞ、ゆっくりとおやすみくださいまし。 惣八:お二人とも、本当にありがとうございました。お疲れのところ休むいとまもなく江戸行きに付き合わせてしまい、申し訳ありません。  : 惣八:〈M〉その後、伊勢屋さんの勝手口を叩いた私は、伊勢屋さんに事情を話してお詫びをし、夜更けまで語り合うことができたのです。本当に人の縁はありがたいものでございます。本間家の件…奉行所でお取り立てくださるといいが…。  :  : 菱喰:〈N〉無事に惣八を伊勢屋に送ったお詠と阿武は『竜胆庵(りんどうあん)』にて話し込んでいた。 阿武:本間なるものは旗本。その上役となると、目付(めつけ)に口添えを依頼するのが賢明でしょうな。惣八さまは、伝手(つて)をお持ちなのでしょうか。 詠:それはどうだろうね、あのお方はまっすぐなお人のようだからねぇ。ちっと心配になっちまうよ。 阿武:そうですな。あの廉潔さ(れんけつさ)と実直さは、下々には頼りになりますが、悪徳の者にとっては邪魔でしかないでしょうから…。 詠:そうだねえ。さすがの酒井(さかい)さまも大目付(おおめつけ)の筋には少々手こずっていられるようだし…。あたしらは下手に動かない方がいいだろうさ。 阿武:…ふむ。それでは私どもは、明日の惣八さまの状況次第、ということにいたしましょうか。念のため、酒井さまにお知らせしておきますか?  詠:一旗本の件程度でご老中を動かすってのもねぇ…。あぁ、そうだ阿武。酒井さまには、目付たちの裏に怪しげな者がいないか、そう尋ねてみようじゃないか。行徳の状況を添えてね。それくらいなら、角は立たないだろう。 阿武:かしこまりました。今晩のうちに仕上げておきます。 詠:頼んだよ。   本間佑顕:〈M〉「行徳塩田(ぎょうとくえんでん)」は江戸に送る塩を一手に引き受ける『金のなる木』よ。そこを領有したからには、さらなる好条件の知行地(ちぎょうち)を得るために、せっせと蓄えねばなるまい。くくくっ。 本間佑顕:【以下、セリフ】おい、木島、明日もまた行徳の地で「よいネタ」がないかどうか、「視察」をして参れ。 木島實統:はっ、かしこまりましてございまする。殿様、ちょうどよい「耳寄りな話」が入っておりますよ。ふふふ。お任せください。 本間佑顕:何、もう用意しておるというのか。さすがよのぅ、木島。 木島實統:なんともなんとも、お殿様のお知恵には敵いませぬなぁ。 本間佑顕:…ふっ、見え透いた世辞はよせよせ。 木島實統:いや、世辞にはございませぬ。…ははは。 0:【以下、本間・木島両名で揃えて】 本間佑顕:はぁ〜はっはっはっは… 木島實統:はぁ〜はっはっはっは…  : 菱喰:〈N〉悪徳領主の下で難儀する行徳の人々。村の者たちの安寧を願う惣八の思いは、ますます強まるばかりである。 菱喰:「伊勢屋」に「竜胆庵」、そして「本間家」。それぞれの思惑(おもわく)が行き交い、その夜は更けてゆくのであった。  :  : 0:仕掛屋『竜胆』閻魔帳 的之肆・前編 これにて終演とあいなります。数ある台本の中から、本作を手に取ってくださりありがとうございました。 0:後編も演じていただけますと幸いです。皆さまの声劇ライフのお役に立てますように。

仕掛屋『竜胆』閻魔帳 〜的之肆・前編〜〈義民の涙〉 ※注意※ ① 人物の性別変更不可(ただし演者さまの性別は不問です) ② 話の筋の改変は不可。ただし雰囲気のあるアドリブは大歓迎 ③ 場面の頭にある〈N〉の声質は役にこだわらずご自由にどうぞ。 ④ ガマの油の行商人が出てまいります。どなたかでご担当くださいませ。 なお、木島・本間は客が兼ね役となっておりますので、 行商人を担当なさる場合は、適宜客役担当をご変更ください。 また、阿武役の方の〈N〉があります。 阿武役の方が「行商」を務める場合は、この場面のみ他の方に〈N〉を担当していただいてください。 ただし、構成上、菱喰役の方は「行商」、阿武の〈N〉共にできません。 詠:詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。 詠:二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。 詠:今作では江戸を離れ、下総(しもうさ)は行徳(ぎょうとく)の地を訪れます。 詠:※兼役に「客3」があります。 阿武:阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。 阿武:闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」。詠のお目付け役、兼、バディ。 阿武:前作では悪党一味を手玉にとる大活躍を見せる。ただのつっこまれキャラではありません。 阿武:※兼役に「客1」があります。 菱喰:菱喰(ひしくい)。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)と並ぶ大親分、大黒屋光慶(だいこくや みつよし)の懐刀。 菱喰:黒装束に身を包み、大黒屋のために日夜身を粉にして働いている。 菱喰:的之参の「末藏」と異なり、こちらは本職の系譜に連なるという噂があるようだ。 本間佑顕:本間佑顕(ほんま すけあき)。三千石取りの旗本。今回「行徳」の地で私腹を肥やそうとして行動を起こす。 本間佑顕:家来の木島を使い、屋敷に居ながらにして動静をうかがう殿様である。 本間佑顕:※兼役に「名主B」「客5」があります。 木島實統:木島實統(きじま さねむね)。本間家の家老。陰湿なやり口で行徳の村に無理難題を吹っ掛ける。 木島實統:本間の使いとして、主人の意思を遂行する、その意味では忠臣?! 木島實統:※兼役に「名主A」「客4」があります。 惣八:“泣かずの惣八(そうはち)” との異名をとる、硬骨の名主(なぬし)。行徳の地のとある村を見事に治めている。 惣八:行徳の領主が本間家に代わってから一年。これまでのような、交渉ごとに乗ってもらえる領主ではないと痛感し始めたところである。 惣八:※兼役に「客2」「伊勢屋」があります。 0:以下は人物紹介 りん:シリーズ〜的之壱〜で詠に斬られた「左馬」の娘。 りん:九〜十一歳ほどを想定しています。的之参〈急(第3部)〉で初めて声を発した。 りん:今回はお留守番。東庵先生のもとで学んでいます。 伊勢屋:シリーズ~的之壱~で「ね組」の左平次によって店を焼かれた。 伊勢屋:左平次のたくらみで、あわや身代(しんだい)まで奪われようとしていたところを「竜胆」の活躍で救われた。今は店を立て直し、江戸で活躍する豪商となっている。 村田東庵:シリーズ~的之参~に登場。村を巻き込む一大事件の発端となるも「竜胆」とともに乗り越えた。 村田東庵:医師としては抜群の腕をもちながら、村のそばで養生所を営んでいる。 村田東庵:おりんをあずかり、薬包紙(やくほうし)の扱いなど、さまざまを教えている。おりんの天稟(てんぴん)に気づき、世話を焼くのを楽しんでいる。 0:〈 〉NやM、兼役の指定 0:( )直前の漢字の読みや語意・一部、食われるセリフの指定 0:【 】ト書 それっぽくやってくださると幸いです。 : 0:以下、本編です。 : : 阿武:〈N〉透き通った青い空がどこまでも続いている。木々も萌え始め、次第に日差しが強くなってきた初夏のある日、大黒屋に呼び出された菱喰(ひしくい)が屋敷を訪れていた。 : 菱喰:光慶(みつよし)さま、お待たせいたしました。菱喰、まかりこしましてございます。 阿武:〈N〉大黒屋光慶(だいこくや みつよし)。香具師(やし)の大親分として朝霞屋嘉兵衛(あさかや かへえ)と並び立つ存在である。江戸近郊においては、ほとんどの露天商や辻芸人が、大黒屋と朝霞屋、どちらかの勢力に属していた。 阿武:支配下の露店商から「行徳(ぎょうとく)」の異変について報告が入ったのは七日ほど前のこと。この件についてある程度の調べを終えた大黒屋から菱喰に命が下されようとしている。 菱喰:はっ。その “惣八(そうはち)” なる名主(なぬし)が治める村に行き、領主の行いに、いかなる裏があるか調べればよろしいのですね。 阿武:〈N〉そうだ、とうなずく大黒屋は笑顔を絶やさない。巷(ちまた)では “仏の大黒” などと呼ばれ、庶民からの人気は高い。しかし、この界隈で一大勢力を築き上げるのは、ただのお人好しには無理な話だ。そう、その笑みの底までは見通せない男なのである。 菱喰:村のものに指図(さしず)する、その木島(きじま) なるは、旗本(はたもと)本間家(ほんまけ)の者だとか。…光慶(みつよし)さま、どこまで突き詰められますか? 阿武:〈N〉瀟洒(しょうしゃ)な意匠の掘られた煙草盆(たばこぼん)を小脇に置き、大黒屋は煙管(キセル)を味わっている。 阿武:「…そうさなぁ。行くところまで行くとするわさ」 阿武:煙は燻(くゆ)らせても、大黒屋の考えがゆらぐことはないようだ。 菱喰:かしこまりました。「行徳(ぎょうとく)」は光慶(みつよし)さま支配下の地。近寄る羽虫(はむし)は散らさねばなりません。…では、行って参ります。  :  : 詠:〈N〉下総(しもうさ)の国「行徳(ぎょうとく)」は天領として公儀の直轄地(ちょっかつち)となっており、旗本などが領有することが多かった。製塩でも知られ、「行徳の塩」は大消費地、江戸に運ばれている。 詠:そして先(さき)ごろ領主が本間家に代わった。商業・農業ともに栄えるこの土地で、ひと財産築こうという魂胆のもと、村々に無理難題を要求し始めたのである。この夜、惣八(そうはち)の元を近隣在所(ざいしょ)の名主(なぬし)たちが訪れていた。 : 名主A:〈木島兼役〉惣八さん、いかになんでも、これは無理が過ぎやしないかい? 名主B:〈本間兼役〉そうだそうだ! ……せっかくワシらができるだけ安くあがるように算段したってのによ。 惣八:ふむ。まぁ確かに。しかし、このたびの領地替えで新しく領主になられた本間さまには、あまりよい噂がないでな。騒ぎ立てたところで無駄かもしれぬ…。 名主A:〈木島兼役〉いや、でもよ…五割がた仕事が終わったところじゃないか… 名主B:〈本間兼役〉それを、一からやり直せ、しかも、部材を指定の商人(しょうにん)から買い直せとはいくらなんでも… 惣八:江戸で懇意(こんい)にしていた伊勢屋さんが手ごろな材を用立ててくださったんだがね…。 名主A:〈木島兼役〉今からやり直すってことになりゃぁ、人足(にんそく)たちの給金も余分にかかるだろう? 名主B:〈本間兼役〉まったくだ! 惣八さん、わたしらはどうすりゃあいいのかね…。 惣八:とにかく、明日、木島さまのところに話を聞いてもらいに行くとしよう。 惣八:江戸川の堤(つつみ)を仕上げるのは村のためにもなる仕事。それをやるのは、やぶさかではないのだがね…。 名主B:〈本間兼役〉そりゃそうだが…。いかんせんやりようが非道じゃないか。 惣八:ふむ…ものの理非で話が通じる方々であればよいが…。  :  : 詠:〈N〉同じころ、行徳にある将軍家ゆかりの寺、法甲寺(ほうこうじ)の参道に連なる居酒屋では、看板娘、お玉の体(てい)をなした菱喰(ひしくい)が人々から話を聞いていた。ここは大黒屋支配下の店であり、勢力圏の監視や情報収集に役立っている。この日の菱喰は黒を基調とした小袖(こそで)に身をつつみ、襷(たすき)で裾(すそ)をはしょって、客の合間を行き交いしていた。 : 客1:〈阿武兼役〉おめぇ、聞いたかい? 将軍様がここ行徳にお越しになるんだってなぁ。 客2:〈惣八兼役〉あぁ、聞いてるよ。この先の法甲寺にお出でになるんだろう? 人出を見越して、市(いち)も盛況だっていうじゃぁねえか。 菱喰:〈お玉として〉あらお二人さん、いらっしゃい。お前さん方も将軍様を一目見ようなんて思ってんのかい? 客1:〈阿武兼役〉おぉ、お玉さん、あいもかわらず別嬪(べっぴん)だねぇ。あぁそうだ。煮魚と煮しめを追加で持ってきておくれな。 客1:「お玉さん」… 菱喰の仮の名 菱喰:〈お玉として〉あいよっ、たんと食べていってくださいよ。 客2:〈惣八兼役〉はっはっは、あっちらは仕事よ、仕事。将軍様なんぞ目にした日にゃあ、ありがたすぎてどうにかなっちまわぁ! はっはっは。 菱喰:〈お玉として〉あら、そうなのかい? 十五年ぶりのお出ましらしいじゃないか、残念だねぇ。 客3:〈詠兼役〉お玉さん、お玉さん、どうしたんだい、その小袖(こそで)。深い黒色がとっても素敵だよ。色の白いお玉さんの肌が引き立つねぇ。 菱喰:〈お玉として〉あれ、姉さん、毎度どうも。この小袖、私も気に入ってんですよ。まぁ、その筋の流れの品ですがね、ふふふ。 菱喰:…あぁそうそう、ご領主が替わってからいかがですか? 客3:〈詠兼役〉あぁ…。あまり大きな声じゃ言えないがねぇ、うちの店も運上金(うんじょうきん・営業税)を増やされちまったよ。ちょいと欲が張っていなさるね【苦笑】 菱喰:〈お玉として〉へぇ…。あはは、姉さん、あまり方々(ほうぼう)で言わないほうがよいですよ。今夜は芋のにっころがしがおいしくできてますからね、おひとついかがでしょ? 客3:〈詠兼役〉あれあれ、お玉さんにうまく乗せられたようじゃないか。ははは。よし、にっころがし、もらおうかね。あ、あとお酒も2合ね。 菱喰:〈お玉として〉はいはい、ありがとうございます。  :  : 本間佑顕:〈N〉本間家が行徳を管理するようになり、手初めにおこなったのは、在郷三村(ざいごうさんそん)に対する江戸川堤防工事の割り当てであった。急な依頼にも関わらず、惣八は近隣名主(なぬし)の代表として、できるだけ安く部材を仕入れるため、伝手(つて)を頼りに苦心しつつも手配を済ませていた。 本間佑顕:その工事が半分ほど終わったころになって、村を視察した木島から「工事やり直し」「部材再選定」の指示が出たのである。その木島のもとを惣八がおとずれている。 : 木島實統:それで、惣八(そうはち)、話とはいったい何だ。私もこれで忙しい身の上なのだが? 惣八:へぇ、お時間をいただきありがとうございます。本日お目にかかりましたのは、先(せん)だってご下命のありました、堤(つつみ)のご普請(ふしん)について、ご再考願えないかと(お願いにあがった次第でございます) 木島實統:【前の惣八にかぶせて】それはならぬ。 惣八:なっ…。いや、しかし、初めに命を受けましてから早三月(はやみつき)。普請作業もその半ばが終わっております。 : 詠:〈N〉この、木島と惣八のやり取りを天井裏からうかがっている者がいた。大黒屋の命を受けた菱喰(ひしくい)である。菱喰にとって、いかな大身(たいしん)と言えど、旗本の家来ごときの屋敷に忍び入るのは造作もないことである。 : 菱喰:〈M〉…ふぅん、惣八ってのは、大身旗本(たいしんはたもと)の家来を前にしても言うべきことは言うんだね。その性根(しょうね)は見上げたものだ。 木島實統:惣八、一つ聞こう。お前は名主(なぬし)として、何を大事(だいじ)と心得おるか。できるだけ早く終わらせることか。それとも、村のため、民の暮らしを安(やす)んずることか。 惣八:…それはもちろん、村のものの安らぎであります。 木島實統:左様であろうが。だからこその再工事よ。当家の目付(めつけ・監察)から工事不備の報告が上がっておる。 菱喰:〈M〉…はぁ。どうせ、その目付(めつけ)自体が胡散臭い奴らなのだろう。 惣八:…ふ、不備、でございますか。 木島實統:そうだ。このまま進めては、たとえ新たな堤防が日の目を見たとて、物の役にはたたぬ。さすれば、工事自体が無駄になろう。今、この時点でやり直せば、無駄は少なくてすむ。そうではないか? 惣八:それはそうでございますが…。して、その不備とはいかようなもので? 木島實統:惣八、口答えが過ぎるぞ。…まぁよい。土台となる版築(はんちく)のゆるみ。石を固定する柱の径(けい)の不足。堤防の根幹をなす石材の質の見劣り…。ほかにもあるが。どうだ、これで分かったであろう。 菱喰:〈M〉ほら来た。それらしいことを並べ立てはするが、その証は一つも出しやしない。…もっとも証は「出せない」んだろうがね。 惣八:木島さま、版築などは堤防の礎(いしずえ)となるもの。いの一番に始める仕事にございます。その経過は本間さまのお目付(めつけ)にも確かめていただいております。 木島實統:惣八…。 惣八:また、石材を支える柱については、江戸の商人、伊勢屋さんから確かなものを贖(あがな)っておりますし、(石材そのものは…) 木島實統:【前の惣八にかぶせて】惣八、控えい! 差し出がましいぞ。 惣八:…へぇ。申し訳のないことでございます。 木島實統:よいか、惣八。行徳の村方三役(むらかたさんやく)を束ねるお前の顔を立てて、時間を割いてやっておるのだ。これ以上は話にならぬ。お前はお前の仕事を成せ。よいか、それぞれの村に文句を言わせぬよう、お前の差配で仕事せよ。…そうだな。期日はひと月延ばしてやろう。 惣八:ひと月ですと? 木島さま、三月(みつき)の仕事をやり直すのに、わずかひと月とはご無体(むたい)な… 木島實統:なにぃ? それでは私が無理難題を申しつけておるようではないか! …よいか、惣八。ただでさえこれから五月雨(さみだれ・梅雨)の季節を迎える。ゆるゆると先延ばしにしていては、すぐに野分(のわき・台風)もやって参ろう。それで水をあふれさせることになってみよ。村はどうなる? 民はどうなる? 惣八:…は。確かに…。できるだけ急がせましょう。 木島實統:急ぎの仕事を助けるべく、きちんとした質の部材を、数をそろえてこちらで仕入れてやろうと言うのだ。よいから、こちらが指定の商人(しょうにん)から贖(あがな)え。 木島實統:それで、間違いはないし、時間もかからずにすむ。 菱喰:〈M〉何とも…。この木島ってのは恩着せがましく話して聞かせるようでいて、その実、自分らの要求を体(てい)よく飲ませようって腹積もりだね。このような者が「行徳(ぎょうとく)」に関わるのは、光慶(みつよし)さまの手かせ足かせにしかならぬだろうよ。 木島實統:ふむ。よかろう…。期日は特別にひと月半に目こぼしをしてやる。惣八、この件、これ以上の申し立ては許さぬ。分かったな? 惣八:くっ。…承知いたしました。 木島實統:よし。ならば惣八、早々に立ち去れい。私は本間さまに用があるゆえな。私の口から、本間さまに期日延期の件、申し添えてやろうではないか。お前は早う村々をまとめ上げよ。よいな? 惣八:〈M〉このままでは村々は立ち行かぬ…。どうすればよいのか。私に何ができるのか…。 菱喰:〈M〉そうか。木島はこのまま本間家に向かう、と。いいね。ことのついでに本間のところにも潜ってやろう。  :  : 阿武:〈N〉木島はその足で本間家に向かう。行徳(ぎょうとく)の地は江戸に近く、人の行き交いも多い。豊かな地をひとたび領有したからには、さらなる領地替えの前にできるだけ儲けてやろうというのである。 : 木島實統:本間さま、木島にございます。 本間佑顕:おう、木島か。かまわぬ、入れ。 木島實統:ははっ。失礼いたします。お休みのところ申し訳もございませぬ。 本間佑顕:ははは。そう堅苦しくならずともよい。…して、行徳はいかようであろうか? 木島實統:はい。先ほど行徳の村々を取りまとめる惣八が来ておりましたが。なに、こちらが思う通りに呑ませておきました。本間さまからは「二月(ふたつき)」の延期と仰せがありましたが…再工事は「ひと月半」で仕上げさせましょう。 本間佑顕:何、ひと月半!? …ふむ。村の者からは、「二月半」ほどに再度の延期願いでもあるかと思うたが…。木島、よう認めさせたな。 木島實統:それはもう、この木島めが考えますのは、本間さまのことだけでありますからな。殿の御為(おんため)であれば、無き知恵をふりしぼってお仕えしようというものです。ははは。 菱喰:〈M〉ん? 工期も延期させたと見せて、その実(じつ)、半月の短縮という訳か。この木島ってのは、なかなかの曲者(くせもの)だね。 本間佑顕:はっはっは! 相も変わらず口のうまいことよ。よいよい。木島、行徳についてはそちに任せる。工事の資材についても買い上げを認めさせたのであろう? 木島實統:はい。もちろんでございます。 本間佑顕:そうかそうか。おい、木島、近う(ちこう)寄れ。褒美をとらせよう。 木島實統:なんとなんと! もったいないことにございまする…。 本間佑顕:ほれ、ここに十両ある。持っていけ。…おう、そうじゃ木島。そなたが入れ込んでおる「花房(はなふさ)」なる吉原の格子(こうし・太夫(たゆう)に次ぐ上級の女郎)にでも会うて(おうて)来い。明日は出仕(しゅっし)せずともよいからな。朝寝(あさね)でもしてくるがよかろう。…はっはっはっはっは。 木島實統:むむ…そのような話を一体どこから…【苦笑】まったく、殿様にはかないませぬな。いやはや、それでは遠慮なく遊ばせてもらいますぞ。はははは。 菱喰:〈M〉この主従はいけすかないね。民草(たみくさ)を泣かせておいて、自分らは甘い汁を啜り放題とは…。光慶さまのお耳に入れることすら憚(はばか)られるってもんだ。…よし、いったん渡りをつけようか。  :  : 詠:〈N〉本間佑顕(ほんますけあき)と木島實統(きじまさねむね)の謀(はかりごと)について、ひとまずの調べを終えた菱喰(ひしくい)は法甲寺(ほうこうじ)に足を向けた。 詠:境内につながる参道は「権現道(ごんげんみち)」と呼ばれ、門前には市(いち)が立っている。十五年ぶりの将軍の「御成(おなり)」を控えるとあって、今日も大変な賑わいである。そこで「ガマの油」を売る行商が大勢の客を集めていた。その客の輪の中に菱喰がいる。 詠:※ このあとの「行商」を「詠」役の方が担当される場合、ここの〈N〉は別の方でご担当ください。 行商:さぁさぁ、お立ち合いぃ! 御用とお急ぎでなかったら、ゆっくりと見ておいで。常陸(ひたち)の国は筑波山のふもとから参った旅商人にてござそうろう。 行商:お江戸は日本橋(にほんばし)を皮切りに、目指すは京(きょう)の三条大橋。進むは百と二十(にじゅう)と四里(よんり)と八丁(はっちょう)。しめて十(とお)と四日(よっか)のみちのりだ。「旅は道連れ世は情け」なんて言葉もあるが、「人を見れば泥棒と思え」とも言うじゃあないか。そんな浮世を歩いていくにゃ、不用心じゃあ危険にすぎる。 菱喰:〈M〉今日もやっているね。いつ聞いても面白いもんだねぇ。しばらく楽しませてもらうとするか。 行商:これ、手前ここに取り出(い)だしたりますは、一尺ほどの武者人形。この中には種も仕掛けもございますれば、唐・天竺(から・てんじく)まで届けてみしょう、この征矢(そや)を。御覧のみなさま、これよりは瞬き(まばたき)すらも悔いを生む。それそれそれそれ、よろしいか! 菱喰:〈M〉いやはや、この芸当はちょっとまねできないねぇ。次第に客の輪も太くなっているよ。…ふふふ、この中で文(ふみ)のやり取りをするなんざ、誰にもわからないだろうさ。 行商:むむ、むむむ! 下野(しもつけ)より霊気(れいき)来たれり。なんとなんと、これなるは与一公(よいちこう)にあらせられるか。御身(おんみ)の御魂(みたま)をお借りできれば百人力、いや、千人力にございますれば、こたびの成功間違いなし。さらには御魂(みたま)と併(あわ)せ、誓詞(せいし)もお借りせんとぞ思いまするぅ。 行商:南八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光の権現(ごんげん)、宇都宮、那須の湯泉(ゆぜん)大明神。願わくば、あの扇の真ん中、射させてたばせたまえ。 阿武:〈N〉誓詞を上げた行商が合図を出すと、武者人形から放たれた矢は十間(じっけん・18mほど)先の的を見事に射抜いたのである。 客4:〈木島兼役〉おおぉぉ~! 見たかよ、おめぇ! 客5:〈本間兼役〉おお、見たとも! 何だこりゃ、すげえじゃねえか。 行商:まだまだ多くの芸当ありといえども、これ本日はここまでにございまする。おやおや、みなさま、こちらは投げ銭・放り銭(ひりせん)お断り。手前、まだまだ未熟といえる身とは言えども、人様の前にて投げ銭・放り銭(ひりせん)かき集めるは、憚(はばか)られることにございますれば。 行商:…なればお前、いかにしておまんま食らうと ご心配なさる向きもありましょう。よくぞ聞いてくださった。これこの看板にあります通り、筑波山(つくばさん)の妙薬(みょうやく)「陣中膏(じんちゅうこう)はガマの油」を商(あきな)っておりまする。 客4:〈木島兼役〉ほうっ! 聞いたことがあるぜ、ガマの油ってのをよう。 客5:〈本間兼役〉なんだ、おめぇ、よう知っとるな。わしゃ初耳よ。 菱喰:〈M〉通りすがりの衆も足を止めだしたよ。まわりの一見(いちげん)も盛り上がってきているじゃないか。…さてと、そろそろよい頃合いを迎えるね。 阿武:〈N〉行商を取り巻く人垣(ひとがき)は十重二十重(とえはたえ)。すでに参道は黒山の人だかりといった塩梅である。行商は腰に佩(は)いた刀を抜いた。 行商:さあさあ皆さま、とっくとお目に入れられませい。手前が取り出(いだ)しましたるは、ガマはガマでも、そんじょそこらのガマにはございませぬ。筑波の嶺(みね)にて、霊草 オオバコを食らいたる四六(しろく)のガマにてございまするぅ! 行商:なんだお前、ガマの油をしぼったくらいで、効き目のほどがありはするのか。なるほどなるほど、みなみなさまの覚えもなんともごもっとも。 行商:その効き目のほどを、御覧に入れるといたしましょう。さてさて、我が右手に握られまするは、天下の名匠、あの正宗(まさむね)が暇(ひま)に飽かせて打ったる家宝の名刀にてございまするぅ。 菱喰:〈M〉きたねきたね。…あいつときたら、あの仕掛けだけは何があっても口を割らないからねぇ。それだけ余計に気をひかれるってもんだよ。 行商:さぁさぁよいか、我が左の腕(かいな)に家宝をあてて、これこの通りすっと引く! 客4:〈木島兼役〉おいおい、でぇじょうぶなのけぇ? 客5:〈本間兼役〉正宗ってのが嘘八百でもよぉ、刀をひきゃあ、おい… 行商:ほれこの通りスパっと切れたぁ! …いちちちち。さてさて後ろのお客さま、御覧になれまするか、この有様を。赤い血がだらりだらりと垂れている。なんとまぁまぁ、よぉ切れることだ。 行商:ところがどっこい、ご心配には及びませぬ。この膏薬(こうやく)、「陣中膏(じんちゅうこう)はガマの油」を人差し指にて、ひとすくい。これこうやって、すっと塗り、揉みしだきてさっと拭きとりゃ、はい、この通りぃ! 客4:〈木島兼役〉おっ、なんでぇなんでぇ、傷がありゃしねぇじゃねぇか! 客5:〈本間兼役〉いってぇどうなってやがるんだ!? 菱喰:〈M〉そうなんだよ。どうなっているのかね。ふふふ。あぁ、楽しんだ。 行商:お集りのみなみなさま、今日はなんともすごい人出だ。感謝感激雨あられ。いつもであれば二百文(にひゃくもん)でお売りするところにございまするが、こちらの礼の印とばかり、本日限り、百文でお売りいたしましょう。 行商:旅のお供に、日頃の備えに。さぁさ、効き目のほどがわかったら、どうぞぜひぜひ、あがないなされぇぇ。 客4:〈木島兼役〉おいおい、半値(はんね)じゃねぇか。よし、おいら買ってくるぜ。   客5:〈本間兼役〉うっはは。すごいもんだねぇ。うん、あっしも求めてこよう。 阿武:〈N〉「一つおくれ」の大合唱の中、行商にすっと近づく者がいた。大黒屋の懐刀(ふところがたな)、菱喰である。銭と一緒に小さく折った文を持っている。 菱喰:ちょいとお前さん、ひとつおくれでないかい? 【以下、小声で】これをね、いつものようにね。 行商:あれ、これはこれはあでやかなおねいさんだ! ガマの油をどうなさる? 愛しい人へのお土産かい? いいねぇいいねぇ、うらやましいねぇ。 : 阿武:〈N〉軽口の合間に、文(ふみ)は消えている。この行商人もただ者ではなさそうだ。文には大黒屋への報告がしたためられていた。菱喰はまだ調べを続けようと、惣八の村へと向かう。  :  : 詠:〈N〉行徳の村では惣八の元に名主(なぬし)連中が集まり、状況を知らされている。惣八の顔から、結果は思わしくないと悟った名主たちの顔色も冴えない様子だ。行燈(あんどん)に照らされた皆の苦渋の表情が、その場の雰囲気を物語っている。 : 名主A:〈木島兼役〉すると何かい? 聞く耳をもっちゃくれねえってのかい? 名主B:〈本間兼役〉ワシらはね、惣八さんのお人がらをよっく分かっているからね、自分を責めておくれでないよ、惣八さん。 惣八:むむ…。面目のないことだ。工期も「ひと月と半」で何とかしろ、とのことだった。みなには二日も時をいただいたのになぁ。ほんにすまねぇ…この通りだ。【頭を下げる】 名主A:〈木島兼役〉いやいや、仕方がねぇ。…ふむ。ここは村の連中にがんばってもらうとするか…。 惣八:…うむ。うちの者にもそう伝えるとしよう。 名主B:〈本間兼役〉そうだのう。人足(にんそく)どもだけでは手が足りないだろうからねぇ。村の者にも手伝わせようか…。 惣八:〈M〉このままでは行徳の地が立ち行かぬ。私の顔はつぶれても差し支えない。しかし、村のものたちの暮らしがつぶれるのは、なんとしてでも避けねばならぬ。 名主A:〈木島兼役〉惣八さん、どうなすった、黙りこくって…。 惣八:〈以下、セリフ〉いや、なんでもないよ。…さぁさぁ、明日も早い。みなもうちへ帰っておくれ。できるだけのことはしてみるのでな。 : 詠:〈N〉その夜、惣八は田んぼを八反(はったん・二千四百坪・約八千平方メートル)売ると決めた。囲炉裏端(いろりばた)に妻を呼び、土地の書付を持ってこさせたのである。先祖伝来の土地ではあったが、ことここに及んでは仕方がない。いかに豪農(ごうのう)とは言え、ほかに金策がかなわぬのだから。妻が見つめる惣八の背中は、涙に滲(にじ)んでいた…。 : : 菱喰:〈N〉ところかわって、こちらは小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』。朝のつとめを終えたおりんが、客の到来を告げた。その男は伊勢屋。大火(たいか)で焼け落ちた大店(おおだな)を見事に立て直した豪商である。 : 詠:あらまぁ、伊勢屋さんじゃないですか。ご店主が、わざわざうちなんぞに何のご用でございましょうねぇ? 阿武、お茶の用意を頼むよ。 阿武:はい、かしこまりました。 伊勢屋:〈惣八兼役〉あぁ、お詠さん、阿武さん、おかまいなく。昼餉(ひるげ)の前に申し訳のないことです。あぁ、こちら、お納めください。 詠:なんですか、伊勢屋さん、あたしら、まだ何のお役にも立っちゃいないんですがねぇ? 伊勢屋:〈惣八兼役〉いえ、こちらこそ火事の一件では大層お世話になっておきながら、礼を申し上げるのが遅くなりまして…。非礼の段、お許しくださいませ。 詠:…伊勢屋さん、お手をお上げくださいな。困ったときはお互いさまってもんでしょう? いいんですよ、お店(たな)が燃え落ちちまって、挨拶どころじゃなかっただろうしねぇ。 阿武:その通りでございますよ、伊勢屋さま。わたくしどもは、伊勢屋さまのご郷里、桑名(くわな)から「干し蛤(はまぐり)」を卸していただいていますからねぇ。おかげさまで、ちっと評判を集めさせていただいておりますよ。 伊勢屋:〈惣八兼役〉それはよかった。…もっとも、それしきのことで恩義に報いることはできませぬが。 詠:いや、あの「干し蛤(はまぐり)」はとんでもない逸品ですよ、伊勢屋さん。だし汁で軽く戻して、ごはんにかけて、三つ葉をそえりゃあ、おいしいなんてもんじゃないんですから! 伊勢屋:〈惣八兼役〉ははは。それは良うございました。しかし、お詠さんの明るい笑みは、見るものの心を軽くしてくれますなぁ。 阿武:まったく詠さまときたら、食べ物の話になるといきいきしてくるのですからねぇ…。それで、伊勢屋さま、本日はどのようなご用向きにございますかな。 伊勢屋:はい。実は、重ねてのお願いとなるのですが…。 : 菱喰:〈N〉伊勢屋の口から語られたのは、行徳の一件。自分のもとで用立てた木材の仕入れを断られ、行徳と惣八の窮状(きゅうじょう)を知った。惣八を案ずる伊勢屋は居てもたってもいられず『竜胆庵』を訪れてきたのである。 : 詠:…へぇ。そのように急に断りを入れてくるなんざ、尋常の商いではありえないことだねぇ。 阿武:はい。きっと何事か裏があるのでございましょう。 伊勢屋:〈惣八兼役〉新しく行徳に入られたのは本間(ほんま)さまというお旗本でございまして。三千石取り(さんぜんごくどり)の大身(たいしん)であらせられますので、無理難題を押し付けられてもいかんともしがたいようで…。 詠:ふぅ。まったく、大身旗本(たいしんはたもと)がなんだってんだ。一体だれのおかげでおまんまが食べられると思っているのかねぇ。…ねぇ、阿武。 阿武:…詠さま、いつぞやの話を覚えてくださっていたのですか。いや、うれしいものですね。ははは。詠さま、まったく仰せの通りです。石高(こくだか)が人の良し悪しを表すわけではありませぬからなぁ。 詠:ほんとだよ。…伊勢屋さん、その本間の殿さまかい? 裏にいるのは。 伊勢屋:〈惣八兼役〉はい。そのご家来の木島さまにも難儀しているようでございます。 詠:そうかい。で、その惣八(そうはち)さんってのはどんなお方なんだい? 伊勢屋:〈惣八兼役〉惣八は私の古くからの友人です。口数は多くありませぬが、約束したことは決して違(たが)えぬ気持ちのよい男にございます。今は行徳で名主を束ねる “大名主(おおなぬし)”を務めておりますが…。この者は「泣かずの惣八」とも呼ばれておりましてね、弱音を言ってくることはありません。それでも文(ふみ)のはしばしに、その苦境の程(ほど)が透けて見えましてね…。 阿武:さようですか…。それであれば、何とかお役に立ちたいところですね…。 詠:あぁ、阿武。せっかく伊勢屋さんともご縁がつながったんだからね。良縁に育てていかねばならないだろう? 阿武:はい。しばらく下総(しもうさ)は行徳の地に赴いてみるとしますか。 詠:そうだね。『竜胆庵』は閉めておこう。おりんは東庵(とうあん)先生のお言葉に甘えて、養生所(ようじょうしょ)においてもらうとしようかね。 阿武:…詠さま。たしかに東庵先生からは「何かあったらおりんさんは養生所で預かります」と言われておりますが…。 詠:阿武ぉ? ここは遠慮なく頼らせてもらおうじゃないか。 阿武:…もう、詠さま。分かりました。このあと、東庵先生のところへお願いに上がって参りましょう。 詠:阿武、頼んだよ。おりん、ちょっとこっちへおいで! 伊勢屋:〈惣八兼役〉ご多用中、まことに申し訳ありません。 : : 本間佑顕:〈N〉おりんによくよく言い聞かせ、東庵のもとに送った後で、旅支度を整えて行徳に向かうお詠と阿武。その頃、行徳では惣八をさらなる難題が襲っていた。そしてその場には、やはり菱喰の姿があった。 : 惣八:…なんですと、木島さま。今、なんとおっしゃいました? 木島實統:くどいわ。当家の中間(ちゅうげん・武家の召使)より「惣八が村に隠し田(かくしだ)あり」との報告が上がったのよ。 惣八:いや、「隠し田」など…ありはいたしません。 菱喰:〈M〉隠し田? そのようなものは私の調べには上がっていない。 菱喰:また、木島お得意のでっち上げにすぎないだろうが…。惣八はどう出る? 木島實統:…ほう。あくまで隠し立てするか。…なぁ、惣八。 木島實統:先(せん)だっては、お前の顔を立てて、工期の延期を認めてやったではないか。 木島實統:手間のかからぬよう、資材も用立ててやった。お前は金子(きんす)を集めてそれらを買いそろえた。 木島實統:本間さまも、私も、惣八には見どころがあると思っておるのよ。 木島實統:よいか、惣八。もう一度だけ言おう。ここには「隠し田」があるな? 惣八:いえ、木島さま。誓ってそのようなものはございませぬ! 惣八:木島さまのわざわざのお越し、いったい何事かと思いましたが、そのようなものはこの村にはございませぬ故(ゆえ)、早々にお帰りになるがよろしいでしょう。お忙しい御身(おみ)の上、引き留めるのは申し訳ございませぬからな。 木島實統:…よいのか? 惣八。そのような強弁(きょうべん)、一朝(いっちょう)事が明るみに出たならば、そなたの立場どころか、その首も危ういのだぞ。 惣八:どのように仰せになりましても、ないものはないとしか申せませぬ。 木島實統:…強情なやつよ。世間ではな、お前のことを「泣かずの惣八」と言うそうではないか。お主は泣かずとも、村の者を泣かせては…困るのではないか? 菱喰:〈M〉ふんっ、またぞろ「村の者」か。木島のやつは、天下御免の印か何かと思っているのかね。良心にとことんつけこんでくる男だねぇ。 惣八:しかし…どこにあるというのですか、木島さま。そのような隠し田が! 木島實統:ふふふ…。あぁよく言うた。それであれば供(とも)をせい、惣八。知らせがあった「隠し田」まで案内(あない)してやろうほどにな。 惣八:よろしゅうございます。それであればお供つかまつりましょう。 菱喰:〈M〉ん? なんだ? いやに自信満々だね。木島のやつには勝算があると言うのか…。 本間佑顕:〈N〉木島が惣八を連れて向かったのは、里山の裏手にある休耕田。そこは、昨年「溜め池(ためいけ)」を造るよう幕府から直々に命じられていた土地であった。この休耕田は二つの里山の間に広がる土地で、その広さは十町(じっちょう・三万坪・十万平方メートルほど)はあろうかという広大なものである。田は田でも、これは休耕田。しかも、公儀の命を受けて耕作を放棄していた土地であった。 惣八:…木島さま。よろしいでしょうか。こちらは、お上(おかみ)のご用命にて、来年から「溜め池」を造成するために休ませている土地にございます。 木島實統:ほう…、幕府の、な。しかしそれはそれ、これはこれである。ここの田(た)は検地帳(けんちちょう)に載ってはおらぬ。そうよな、惣八。 惣八:…はい。ご下命ありし折(おり)より、検地帳からは省かれております。 木島實統:しかし、目の前に見えているものは何だ。田、ではないのか? 惣八:…田、でございます。くっ…。 菱喰:〈M〉なんという言い草だ。とことんまで言いがかりだね。この男の神経はいったいどうなっているんだい…。 木島實統:左様(さよう)。それであればこれは「隠し田」ではないか。 木島實統:何か、申し開きがあれば言うてみよ。聞くだけは聞いてやる。 惣八:これは、田だ。それは間違いない。しかし、今年に入って稲を育ててはおらぬ! …いや、おりませぬ…ぐぐぅ。 木島實統:そうかそうか。これは田であると認めるのだな、惣八。 木島實統:これはこれは面妖(めんよう)な。先ほどは「隠し田」などないと言うておったのに、今ここにきて「これは田だ」と認めおる…。さてさて。 惣八:…木島さま。それはお考えに誤りがあろうかと存ずる。 木島實統:何ぃ? この木島が誤っておるだと? 惣八:そうです。…難癖(なんくせ)もここまでくれば立派なもんだ! 木島實統:おいおい。お主、誰に向かって物を言うておるか分かっているのか? 惣八:ぐぐぐ…木島さまにおたずねいたします。こたびの件、本間さまもご存じでありましょうや。 木島實統:もちろんよ。ここ行徳は木島のものではない、本間家のものである。ご存じない道理はあるまい。 木島實統:よい、惣八。無礼の段は見逃してやる。だが、「隠し田」となるとそうはいかぬ。この件、それこそ隠しておいて欲しければ五百両用意いたせ。 惣八:ご、ご、五百両ですとっ!? 木島實統:なんじゃ、惣八。何をそのようにあわてておる。「隠し田」が明るみに出れば村の者が罰されよう。それは本意ではあるまいが。 惣八:先の資材買いなおし、いかほどかかったか木島さまはご存じでございましょう? そこへきてさらに五百両ですと? 当家は商家(しょうか)にはございませぬ。次から次へと金子(きんす)が湧いてくるはずもありますまい!? 木島實統:であれば、他の村の名主とも寄り合え! 「隠し田」などと言えるものであればな! …ははは。ふわっはっはっは。 菱喰:〈M〉まったく忌々しいことこの上ないね…。この男、生かしておいては光慶(みつよし)さまの害にしかならぬ。思い知らせてやらねば…。 惣八:〈M〉むなしく響く高笑いだ…。こやつ、分かっていてやっておる。村のものと名主連中を形(かた)にとり、言いたい放題ではないか。…なんとかせねば。 木島實統:よいな、惣八。しかと申し伝えたぞ。朔日(ついたち)までに金子(きんす)を用意するのだ。わかったな! 惣八:…木島さま、こちらの件、お上の筋にお尋ねいたしますぞ…。 木島實統:ほほぅ。よいよい、好きにするがよい。我らのあずかり知らぬことであるからなぁ。はぁっはっはっはっは…。 菱喰:〈M〉そうか、惣八は早晩(そうばん)江戸に行くんだね。道中、私もついていくとしよう。よし、その前にもう一度本間家で下調べだ。 : : 本間佑顕:〈N〉夕刻、伊勢屋の紹介状を携えたお詠と阿武が行徳にやってきた。出迎えた惣八に伊勢屋からの文(ふみ)を渡し、伊勢屋の心配を伝えた。そして、惣八からはこれまでの事情を聞いたのであった。新たな難題を前にして、お詠と阿武も首をかしげている。 : 阿武:惣八さま、ご公儀からの命を受けているにも関わらず、その木島なるものの高笑い…。きっとお上に手を引くものがいるのでありましょう。 惣八:阿武殿(あんのどの)、それはそうでございましょう。そうでもなければ、あれだけ堂々と強請(ゆす)っては来ないでしょうからな。 詠:それで、惣八さん。この先どうなさるんですか? 惣八:はい。木島さまに言うた通り、お上にお尋ねしてこようと思っております。 詠:ということは、江戸まで出られるのかねぇ? 惣八:そうなります。しかしそれほど日はかけられませぬ。私が不在の折に、どのような言い分をもって村の者を脅すか分かったものではありませんから。 詠:…ふぅん。そうなったら、あれだね、あたしらが惣八さんのお供をして江戸まで行きましょうか。夜駆け(よがけ)、朝駆け(あさがけ)なさるおつもりなんでしょう? 惣八:えっ、いや、しかし…。お二人は先ほど行徳にお越しになったばかり。その足で江戸まで、とは申せませぬ。伊勢屋さんからは「大恩(たいおん)あるお二人」だとうかがっております。そのような方々を自分の都合に合わせるのはなんとも…。 阿武:よいのですよ、惣八さま。私どもは惣八さまの助けにならんとしてまかりこしておりまする。どうぞ、よいようにお使いくださいましな。 惣八:阿武殿…。ありがたいことです…。それではすぐの出立(しゅったつ)となりますが、よろしいですか? 詠:はいよ、お供いたしましょ。 惣八:【妻に対して】おい、お前、私はこれから江戸まで出てくるよ。お二人の分と私の分、握り飯を用意してくれないか。 : 本間佑顕:〈N〉先ほどから傍らで目立たぬように話を聞いていた妻(つま)は目に涙を浮かべている。くやしさと、お詠と阿武、そして伊勢屋への感謝をたたえたその涙が止まることはなかった。 : : 阿武:〈N〉そのころ、本間家の奥の間では、木島の話に上機嫌となった本間佑顕(ほんますけあき)が酒宴を開いていた。もちろん木島實統(きじまさねむね)も同席している。そして、天井の梁(はり)の上からは、またもや菱喰(ひしくい)が様子を見定めていた。 : 本間佑顕:おい、木島! このたびもご苦労だったなぁ。…ぐびっ【酒を呑む】。どうだ、惣八のやつは、金子(きんす)を用立てそうか? 木島實統:はい、本間様。あやつは、村を盾に取られては何もできませんからなぁ。今頃は金策にかけずりまわっていることでしょう。ははは。…ぐびっ【酒を呑む】あれ、今宵の酒は上物ですな。 本間佑顕:…ふふふ。そちの働きに報いてやらねばならぬからなぁ。…ぐび【酒を呑む】というて、しばらく休みはやれぬでの。せめて酒なぞは、とな。 本間佑顕:木島は「花房(はなふさ)」に会えずじまいでさびしいかもしれんがのう。はぁっはっはっは…。ぐび【酒を呑む】 菱喰:〈M〉相も変わらずいい気なものだよ。惣八の顔を見ていたかね、木島のやつは。あの者の心根(こころね)にはどっしりとしたものがある。それがいざ立ち上がったときの力のほどを、こいつらはわかっちゃいないだろう。 木島實統:して、殿様。…ぐびっ【酒を呑む】惣八のやつは、「ご公儀に尋ねる」とそう申しておりましたが…。問題はございませぬか? 本間佑顕:なぁになに、そのような些末(さまつ)なこと、先刻織り込み済よ。たとえ、訴えがあったところでな、取り上げぬよう根回しも終わっておるわ。…ぐびっ【酒を呑む】 木島實統:なんとなんと…。さすがは本間様。殿様のお力に逆らえるものはおりませんなぁ。 本間佑顕:なんじゃ、木島、いやに持ち上げるのう。…ふふふ。それくらいで褒美はやらぬぞ? え? 木島實統:いやいや、そのような魂胆はありませぬよ。こたびの五百両に関しても、おこぼれにあずかろうなどとは思っておりませぬ故、さよう思し召されよ。 本間佑顕:はぁっはっは。お前は口がうまいのう。…ぐびっ【酒を呑む】。しかしな、木島。いかな儂(わし)でも、言うに任せぬ相手もおるわ。こたびの金は、上に蒔くための金よ。…今以上に行徳で財を蓄えるためにな。 木島實統:これはこれは、殿様は怖いお人にございます。それがしなんぞが逆立ちしてもかなうお方ではありませんなぁ。…はっはっは。 本間佑顕:よせよせ、木島。うまい酒がもっとうまくなるではないか。はぁっはっはっは。 菱喰:〈M〉はぁ、話にならぬ…。よし、いったん光慶(みつよし)さまのところへ帰るとしよう。  :  : 阿武:〈N〉惣八を伴っての江戸行きの道中、伊勢屋をめぐる事件について話せるところまで伝えたお詠。惣八は驚きとともにその話を聞いてはいたが、深くは踏み込んでこない。この男、やはり人ができている。行徳(ぎょうとく)から江戸までは二刻(ふたとき・約四時間)ほどの道のりである。道すがら惣八の人となりを確かめたお詠は、この男を守ると決めた。 : 詠:しかしねぇ、惣八さん。お宅でも言いましたが、その本間さまのお使い、木島ってお人の様子からして、もっと大きいのが後ろに控えているんじゃないですかねぇ。 惣八:…ええ。そうかもしれません。 阿武:惣八さま、よろしいのですかな? まことに訴えをおこしても。 惣八:はい。それでも、私は動くしかないのです。座したまま朽ちるわけには参りませんからな。 阿武:惣八さま…。名主(なぬし)の鑑(かがみ)のようなお方だ…。 惣八:阿武殿(あんのどの)、何をおっしゃる。…私なぞの力では何一つ降りかかる火の粉を払えずにいるのです。 詠:惣八さん、江戸での火の粉はあたしらが払いますがね…。決して無理をなさるんじゃないですよ。 菱喰:〈M〉…ふぅん。前を行くのが行徳の惣八だね。やっと追いついた。両脇の二人は誰だろう? えらく隙(すき)のない動きだ…。脇侍(わきじ)のように歩いているところを見れば、惣八の敵ではなさそうだが……。 阿武:惣八さま、今夜は伊勢屋さまのところにお泊りになるのですよね? 惣八:ええ、そのように出立(しゅったつ)前に使いを出しましてね。…伊勢屋さんの人の好さに甘えてしまっております。 詠:それじゃぁ、奉行所(ぶぎょうしょ)に向かうのは日が昇ってからってことですね。 惣八:はい、その心積もりでおります。 詠:ん。わかりましたよ。あたしらで、明日の朝、惣八さんをお迎えに上がりましょう。それから、その足で奉行所に向かおうじゃありませんか。 菱喰:〈M〉…そうか。明朝(みょうちょう)、惣八は本間家(ほんまけ)の横暴をお上に訴えるつもりだね。成り行きを見せてもらおうか。 阿武:【小声で】詠さま、先ほどより、つかず離れずこちらをうかがう者がおります。 詠:あぁ、そうだね。まぁ殺気は露(つゆ)ほども感じられないし、敵って訳じゃないだろう。…今のところは様子見といくさ。 阿武:…気配に対する気の配り方。素人ではないようですな。この気配の質と色合いは、覚えておきましょう。 詠:うん。惣八さんに何かするつもりなら、あたしが許さない。このお人はね、行徳にゃ必要だよ。 詠:【以下、惣八に】さあさ、惣八さん、伊勢屋さんまではあと少しです。今夜はゆっくりさせてもらってね、明日に備えてくださいな。 惣八:えぇ、そうさせていただきます。本間さまに翻意(ほんい)を促すには、その上役からはたらきかけてもらうしか無いですからな。明日が私らの勝負の日になるでしょう。 阿武:うまくゆくことを願っております。…願っておりますが、惣八さま、万に一つ、芳しくない結果に終わってしまったときは、『竜胆庵』にて、善後策(ぜんごさく)を検討いたしましょう。 惣八:ありがとうございます。決して、一人で勇み足を踏まぬとお約束しますよ。 詠:さて、もう伊勢屋さんまでは目と鼻の先だね。惣八さん、あたしらは一旦失礼して『竜胆庵』に戻りますからね。明日、お迎えにあがるまで待っていてくださいな。 阿武:そうですね。私どもはここで戻りましょう。どうぞ、ゆっくりとおやすみくださいまし。 惣八:お二人とも、本当にありがとうございました。お疲れのところ休むいとまもなく江戸行きに付き合わせてしまい、申し訳ありません。  : 惣八:〈M〉その後、伊勢屋さんの勝手口を叩いた私は、伊勢屋さんに事情を話してお詫びをし、夜更けまで語り合うことができたのです。本当に人の縁はありがたいものでございます。本間家の件…奉行所でお取り立てくださるといいが…。  :  : 菱喰:〈N〉無事に惣八を伊勢屋に送ったお詠と阿武は『竜胆庵(りんどうあん)』にて話し込んでいた。 阿武:本間なるものは旗本。その上役となると、目付(めつけ)に口添えを依頼するのが賢明でしょうな。惣八さまは、伝手(つて)をお持ちなのでしょうか。 詠:それはどうだろうね、あのお方はまっすぐなお人のようだからねぇ。ちっと心配になっちまうよ。 阿武:そうですな。あの廉潔さ(れんけつさ)と実直さは、下々には頼りになりますが、悪徳の者にとっては邪魔でしかないでしょうから…。 詠:そうだねえ。さすがの酒井(さかい)さまも大目付(おおめつけ)の筋には少々手こずっていられるようだし…。あたしらは下手に動かない方がいいだろうさ。 阿武:…ふむ。それでは私どもは、明日の惣八さまの状況次第、ということにいたしましょうか。念のため、酒井さまにお知らせしておきますか?  詠:一旗本の件程度でご老中を動かすってのもねぇ…。あぁ、そうだ阿武。酒井さまには、目付たちの裏に怪しげな者がいないか、そう尋ねてみようじゃないか。行徳の状況を添えてね。それくらいなら、角は立たないだろう。 阿武:かしこまりました。今晩のうちに仕上げておきます。 詠:頼んだよ。   本間佑顕:〈M〉「行徳塩田(ぎょうとくえんでん)」は江戸に送る塩を一手に引き受ける『金のなる木』よ。そこを領有したからには、さらなる好条件の知行地(ちぎょうち)を得るために、せっせと蓄えねばなるまい。くくくっ。 本間佑顕:【以下、セリフ】おい、木島、明日もまた行徳の地で「よいネタ」がないかどうか、「視察」をして参れ。 木島實統:はっ、かしこまりましてございまする。殿様、ちょうどよい「耳寄りな話」が入っておりますよ。ふふふ。お任せください。 本間佑顕:何、もう用意しておるというのか。さすがよのぅ、木島。 木島實統:なんともなんとも、お殿様のお知恵には敵いませぬなぁ。 本間佑顕:…ふっ、見え透いた世辞はよせよせ。 木島實統:いや、世辞にはございませぬ。…ははは。 0:【以下、本間・木島両名で揃えて】 本間佑顕:はぁ〜はっはっはっは… 木島實統:はぁ〜はっはっはっは…  : 菱喰:〈N〉悪徳領主の下で難儀する行徳の人々。村の者たちの安寧を願う惣八の思いは、ますます強まるばかりである。 菱喰:「伊勢屋」に「竜胆庵」、そして「本間家」。それぞれの思惑(おもわく)が行き交い、その夜は更けてゆくのであった。  :  : 0:仕掛屋『竜胆』閻魔帳 的之肆・前編 これにて終演とあいなります。数ある台本の中から、本作を手に取ってくださりありがとうございました。 0:後編も演じていただけますと幸いです。皆さまの声劇ライフのお役に立てますように。