台本概要

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タイトル 仕掛屋「竜胆」閻魔帳〜的之肆〜〈義民の涙〉後編
作者名 にじんすき〜
ジャンル 時代劇
演者人数 6人用台本(男4、女2) ※兼役あり
時間 90 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 ⭐︎こちらは前後編の後編となっております⭐︎

※注意※
 90分台本となっていますが、110分ほどかかるかもしれません…。
 「後編」を二つに分けてくださってもかまいません。
 その場合
 阿武:…はい。明朝、詠さまがいらっしゃるはずです。そこでまた案を練りましょう。
 で「後編①」を終え
 木島實統:〈N〉翌朝早く、お詠が約束の通り惣八を訪ねてきた。
 から「後編②」を始められるとよろしいかと存じます。

※要確認※
 本作には刑場での処刑シーンがあります。
 そこまで生々しくはないですが、苦手な方もいらっしゃるかと思います。
 上演前に一度内容をご確認ください。

「悲しきものに寄り添う」が信条の仕掛屋『竜胆』
 行徳の大名主「惣八」がついに立つ。
 彼の気持ちに応えるべく、お詠と阿武も奔走するが…
 大黒屋と菱喰の思惑も絡み、本間家家老、木島の立場も危うくなっていく
 …さてさてどうなりますやら


仕掛屋『竜胆』閻魔帳 第4作 後編

1)人物の性別変更不可。ただし、演者さまの性別は問いません
2)話の筋は改変のないようにお願いします
3)雰囲気を壊さないアドリブは大歓迎です
4)Nは人物ごとに指定していますが、声質は自由です
5)兼役は一応指定していますが、皆様でかえてくださって構いません


〜以下、世界観を補完するためのもの〜

行徳の法甲寺:行徳は実在の地名。
法甲寺は創作であり、実在しないとは思うのですが…
「権現道」は実在します。

直訴:実は「直訴」=「死罪」ではありません。
   民の言葉を軽んずると為政者としての資質を疑われるからです。
   かつ、「直訴」自体も珍しいものではなかったそうです。

大名主:実際にはこのような務めはありません。
    村方三役とは「名主」「組頭」「百姓代」を言います。


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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
127 詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。行徳の大名主、惣八を何とか救えないかと奔走中。
阿武 129 阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」。詠のお目付け役、兼、バディ。 今作では惣八を常に見守る。※兼役に「名主A」「客A」「先触れ役」があります。
惣八 86 “泣かずの惣八(そうはち)” との異名をとる、硬骨の名主(なぬし)。行徳の地のとある村を見事に治めている。行徳の領主が本間家に替わってから一年。これまでのような、交渉ごとに乗ってもらえる領主ではないと痛感し、我が身を顧みず行動を起こす。※兼役に「岡っ引きA」「客B」があります。
菱喰 82 菱喰(ひしくい)。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)と並ぶ大親分、大黒屋光慶(だいこくや みつよし)の懐刀。黒装束に身を包み、大黒屋のために日夜身を粉にして働いている。的之参の「末藏」と異なり、こちらは本職の系譜に連なるという噂があるようだ。「お玉」は世間での仮の姿。
本間佑顕 67 本間佑顕(ほんま すけあき)。三千石取りの旗本。今回「行徳」の地で私腹を肥やそうとして行動を起こす。家来の木島を使い、屋敷に居ながらにして動静をうかがう殿様である。※兼役に「名主B」「岡っ引きB」「客D」があります。
木島實統 67 木島實統(きじま さねむね)。本間家の家来。陰湿なやり口で行徳の村に無理難題を吹っ掛ける。吉原に馴染みの遊女「花房」がいる。※兼役に「客C」があります。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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仕掛屋『竜胆』閻魔帳 〜的之肆・後編〜〈義民の涙〉 ※注意※:① 人物の性別変更不可(ただし演者さまの性別は不問です) ※注意※:② 話の筋の改変は不可。ただし雰囲気のあるアドリブは大歓迎 ※注意※:③ 場面の頭にある〈N〉の声質は役にこだわらずご自由にどうぞ。 ※要確認※:本作には刑場での処刑シーンがあります。 ※要確認※:そこまで生々しくはないですが、苦手な方もいらっしゃるかと思います。 ※要確認※:上演前に一度内容をご確認ください。 詠:詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。 詠:二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。 詠:行徳の大名主、惣八を何とか救えないかと奔走中。 阿武:阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。 阿武:闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」。詠のお目付け役、兼、バディ。 阿武:今作では惣八を常に見守る。 阿武:※兼役に「名主A」「客A」「先触れ役」があります。 菱喰:菱喰(ひしくい)。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)と並ぶ大親分、大黒屋光慶(だいこくや みつよし)の懐刀。 菱喰:黒装束に身を包み、大黒屋のために日夜身を粉にして働いている。 菱喰:的之参の「末藏」と異なり、こちらは本職の系譜に連なるという噂があるようだ。「お玉」は世間での仮の姿。 本間佑顕:本間佑顕(ほんま すけあき)。三千石取りの旗本。今回「行徳」の地で私腹を肥やそうとして行動を起こす。 本間佑顕:家来の木島を使い、屋敷に居ながらにして動静をうかがう殿様である。 本間佑顕:※兼役に「名主B」「岡っ引きB」「客D」があります。 木島實統:木島實統(きじま さねむね)。本間家の家来。陰湿なやり口で行徳の村に無理難題を吹っ掛ける。 木島實統:吉原に馴染みの遊女「花房」がいる。 木島實統:※兼役に「客C」があります。 惣八:“泣かずの惣八(そうはち)” との異名をとる、硬骨の名主(なぬし)。行徳の地のとある村を見事に治めている。 惣八:行徳の領主が本間家に替わってから一年。これまでのような、交渉ごとに乗ってもらえる領主ではないと痛感し、我が身を顧みず行動を起こす。 惣八:※兼役に「岡っ引きA」「客B」があります。 ※補足※:実は「直訴」=「死罪」ではありません。 ※補足※:ほとんどの場合、直訴自体が罪になることはありませんでした。ただし、今作では… 0:以下は人物紹介 りん:シリーズ〜的之壱〜で詠に斬られた「左馬」の娘。 りん:九〜十一歳ほどを想定しています。的之参〈急(第3部)〉で初めて声を発した。 りん:今回はお留守番。東庵先生のもとで学んでいます。 伊勢屋:シリーズ~的之壱~で「ね組」の左平次によって店を焼かれた。 伊勢屋:左平次のたくらみで、あわや身代(しんだい)まで奪われようとしていたところを「竜胆」の活躍で救われた。今は店を立て直し、江戸で活躍する豪商となっている。 常闇の長治:シリーズ~的之弐・的之参~に登場。香具師の大親分、朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)手下(てか)随一の殺し屋。  : 0:〈 〉NやM、兼役の指定 0:( )直前の漢字の読みや語意・一部被るセリフ。 0:【 】ト書 それっぽくやってくださると幸いです。  : 0:以下、本編です。 : : 菱喰:〈N〉翌日の早朝。伊勢屋のもとをお詠と阿武が訪れてきた。奉行所に訴えを起こす惣八の警護を務めるためである。初夏とはいえ、朝方は涼やかな風が吹き、この日も空は抜けるように青い。その青空を見つめながら、何かを噛み締めるようにして惣八がやってきた。軒先(のきさき)まで出てきた伊勢屋は、お詠と阿武に頭を下げている。 : 惣八:お詠さん、阿武さん、早くからありがとうございます。伊勢屋さん、昨晩は本当にお世話になりました。昨夜の話、勝手な願いではございますが、何卒(なにとぞ)よろしくお願いいたします。……では、行って参ります。 詠:まぁ、町中(まちなか)で襲われることもないだろうが。念のため、あたしらが道中の供を務めますからね。 阿武:えぇ。惣八さま、失礼ですが私どもの間においでくださいましね。伊勢屋さま、それでは。 菱喰:〈N〉伊勢屋に向けて深々と礼をする惣八。対する伊勢屋は三人の姿が見なくなるまで見送っている。言葉数は少なくとも、心が通い合っている二人を見て、お互いへの信頼を感じとるお詠と阿武であった。 詠:それで、惣八さん、御番所(おばんしょ・町奉行所の町人からの呼び方)をお尋ねになるんですか? 惣八:はい。御奉行(おぶぎょう)の大久保さまにお取り立て願おうと思っております。 阿武:今月の当番は南町(みなみまち)奉行所でしたね。確かに、大久保さまであれば、目付の方々にも顔が利きましょうからなぁ。 惣八:阿武さん…、お詳しいですな。 詠:ははは。江戸の町で掃除の真似事をしていますとね、耳年増(みみどしま)になっちまうんですよ、そういった事情にね。 阿武:ただ、お力添えするほどの伝手(つて)は持ちませんので…。申し訳ございません。 惣八:いえいえ、何をおっしゃいますか! ここまでしてくださることに感謝しかございませんよ。 詠:惣八さん、大久保さまとはご面識がおありなのですか? 惣八:はい。何度か行徳(ぎょうとく)を治めるお代官やお旗本のことで相談に上がったことがありまして。その際によくしていただきました。 阿武:ふむ。大久保さまは、激務の町奉行を務められながらも、市井(しせい)の民(たみ)のことを気にかけてくださると評判でございますからな。 詠:今時、珍しいお奉行さまであるのは確かだねぇ。…そのうち、読み物にでもなっちまうかもしれないね。ふふふ。  : 菱喰:〈N〉本間家とその家臣、木島(きじま)の行状についてしたためた書を懐(ふところ)に入れ、惣八は奉行所の看板を黙って見つめている。その目には、堅い決意が浮かんでいた。  : 惣八:お詠さん、阿武さん、道中ありがとうございました。為すべきことを為しましたら『竜胆庵(りんどうあん)』をお訪ねいたします。 詠:はいよ。無事のお帰りをお待ちしていますよ。 阿武:訴えが成就(じょうじゅ)するよう、お祈り申し上げます。   惣八:…ありがとうございます。それでは。 惣八:【以下、奉行所の守衛に】お頼み申します。行徳(ぎょうとく)の大名主(おおなぬし)惣八にございます。御奉行、大久保さまにお取次(とりつぎ)くださいませぇ。 詠:阿武、すまないが、惣八さんが何事もなく出てくるまで、この辺りで待っていちゃあくれないかね。 阿武:えぇ、それがようございましょう。よもや奉行所の中まで本間(ほんま)の手が及んでいるとは思えませんが…。 詠:そうだね。ただ、何が起こるかわからないからね。あたしゃ、先に大久保さまに一言伺ってから『竜胆庵』に戻るとしようかね。 阿武:はい。詠さまもお気をつけて。  : 木島實統:〈N〉江戸の町奉行所は月番(つきばん)制をとっており、北町(きたまち)奉行所と南町奉行所とが、月毎に交代で訴訟を受け付けていた。基本的には江戸近郊の事案について取り上げていたが、幕臣(ばくしん)や諸大名に関わる訴えも受け付ける。町奉行とは旗本が就く職位の最高位であり、目付(めつけ・こちらは幕府の職)や勘定奉行(かんじょうぶぎょう)、遠国(おんごく)奉行などの経験を積んだ者が任命されていた。奉行所では当番月に受け付けた訴訟について、非番の月に審理が行われる。その職掌は多忙を極め、町奉行の中に在任中に心身をこわし、死亡するものもいるほどだったのである。  :  : 本間佑顕:〈N〉奉行所脇(わき)の小門(こもん)から中に入ったお詠は、四半刻(しはんとき・三十分)ほどで表に出てきた。何やら浮かない顔をしている。阿武に耳打ちして、一人『竜胆庵』へと戻っていった。  : 阿武:〈N〉一方、大黒屋の屋敷では菱喰(ひしくい)が報告を上げている。行徳は大黒屋の縄張りであり、朝霞屋(あさかや)との勢力争いでもかなりの優位に立っている地域である。そこの安定は大黒屋にとっても重要案件であった。「名産の塩」は、それほど大きな意味を持っている。  : 菱喰:光慶(みつよし)さま、本間(ほんま)の好きにさせていては、あすこはガタガタになってしまうでしょう。今時分(いまじぶん)、惣八が奉行所で訴えを起こしているところでしょうが、本間や木島の落ち着きぶりを見ると、訴え自体が実を結ぶことはないと思われます。 : 阿武:〈N〉大黒屋は笑顔を絶やすことなく菱喰の話を聞いている。“仏の大黒“ として庶民からの人気も高い。しかし、その実、朝霞屋に比肩(ひけん)する香具師(やし)の大親分として地盤を固めていた。菱喰は、その顔から笑みを外した大黒屋を知る、数少ない一人である。  : 菱喰:まずは家来の木島から消そうと思います。よろしいでしょうか。 阿武:〈N〉「任せる」とのみ発する大黒屋。この男は菱喰の力を大層買っている。 菱喰:木島は吉原(よしわら)に「花房(はなふさ)」という馴染み(なじみ)がいるようです。吉原の大門(おおもん)を、警護の衆を引き連れてくぐるような無粋(ぶすい)はできないでしょうからね。そこで仕掛けますよ。また、殿様の方ですが、時宜(じぎ)を得れば、こちらも綺麗にしておきます。 阿武:〈N〉「ほっほ」と薄く笑う大黒屋。先ほどと同じ言葉を繰り返し、菱喰に薬包(やくほう)を手渡した。  : 本間佑顕:〈N〉その頃、行徳では惣八以外の名主を集め、木島がまたもや難癖をつけている。行徳の経済性は近隣でも飛び抜けて良い。そこを腰掛けと考える本間家と、先祖伝来の地として永住が当然の土地の者とでは、端(はな)から折り合いが着くはずもない。  : 木島實統:村方(むらかた)の三役は集まったか? …よし。こたびは皆のものに苦しい話をせねばならぬ。私もまことに心苦しいことではある。しかし不正は不正、正さねばならぬのだ。分かるな?  詠:〈N〉村々の三役たちは、ここまでの顛末(てんまつ)を知っている。よって、木島、ひいては本間家への信頼は厚くない。それを知ってか知らずか、悪びれる風(ふう)もなく、木島は口上(こうじょう)を垂れていく。 木島實統:それとは別に伝えねばならぬことがある。こちらは皆にとってよい話となろう。苦しい話とよい話がそれぞれ一つ。さて、どちらから聞きたいかの、うん? 名主A:〈阿武兼役〉それでは「苦しい話」からお聞かせくださいませ。 木島實統:ほう…。そちらから望むか。よかろう。心して耳を傾けよ。我ら本間家の目付(めつけ・こちらは幕臣ではなくただの監察官)から、「抜き塩(ぬきじお)」の報告があってな。まさかとは思うが、江戸に納めるべき「行徳の塩」を懐に入れる不埒(ふらち)ものはおるまいな? 名主B:〈本間兼役〉ぬ、抜き塩ですと!? それは手前どもが塩を不正に抜きとっていると… そうおっしゃるので? 木島實統:左様。塩は民草の生活に欠かすことのできぬもの。塩がなければ我々は生きていけぬからな。その塩を私(わたくし)するものが居れば、これは許しておけぬではないか。…違うか? 名主A:〈阿武兼役〉それはその通りにございますが、して、その「抜き塩」とはどこにありますので…? 木島實統:ふむ。こちらの手の者によれば、惣八が管理いたす「室(むろ・貯蔵庫)」に大量の甕(かめ)があり、それに塩が入っているそうではないか。 名主B:〈本間兼役〉お、「お室の塩(おむろのしお)」でございますか!? 名主A:〈阿武兼役〉木島さま、あの塩は江戸に当方の塩を送るという役目をご公儀より仰せつかったおり、ご老中より直々に役料(やくりょう・手当)としてお認めいただいたものです。 名主B:〈本間兼役〉その通りでございます。荷役(にやく)などの日当、駅家(うまや)の整備などに充てこそすれ、私(わたくし)するものはおりません。 木島實統:ほほう。それでは、その「室」に「塩がある」と認めるのであるな。 名主B:〈本間兼役〉ございます。それこそご公儀にお書き付けもございましょう。 木島實統:我が殿が、ここ行徳を拝領した折に、そのような話は聞いておらぬ。また、この一年、その方らよりも聞くこともなかった。また、当家に記録もない。……であれば、これは「抜き塩」に相違(そうい)なかろう。 名主A:〈阿武兼役〉なんと、そのようにご無体(むたい)な… 木島實統:【言葉を荒げず、威圧する感じで】何ぃ? 「無体」であると? 私が横暴を働いていると、そう言いたいのか? 名主A:〈阿武兼役〉いや、さようなことは… 名主B:〈本間兼役〉それで木島さま、「お室の塩」をどうせよ、とおっしゃるので… 木島實統:…ふむ、まぁよい。大切なのは、それよ。…これより先、江戸回送分より外(ほか)、一切の塩を本間家で管理するものとする。 詠:〈N〉何のことはない。単に収益を巻き上げようというのだ。権力を笠に着て横車を押し、本間家に利益をもたらす算段であった。そして、それが自分のためにもなることを木島はよく知っている。村の人々に好かれる必要はつゆほどもなく、無理を通して道理を引っ込めるようなことをして恥ずかしげもない。 木島實統:ひとまずその「室(むろ)」に案内(あない)せよ。実情を見ぬことには事が進まぬのでな。 詠:〈N〉惣八の屋敷の裏手に入会(いりあい)の林がある。村の共同資源となっている林である。そこに古来より活用されてきた「室」があった。その中に大型の甕(かめ)が十(とお)は並んでいる。その中に村の取り分となる塩が保管されていた。何事かと気を揉んで姿を現した惣八の妻を前に、木島が話を続けていく。 木島實統:ほれこの通り。「抜き塩」は確かに存在したではないか。当家の中間(ちゅうげん・武家の召使)の目に間違いはないのよ。ここにあるものは全て本間家にて管理をするゆえ、指一本触れてはならぬぞ。左様心得よ。またそれぞれの村にても触れを出せ。 名主A:〈阿武兼役〉こたびのこと、大名主(おおなぬし)の惣八さんは知っているのでしょうか。 木島實統:【わざとらしく】ん? そういえば本日は惣八の姿が見えぬな。 木島實統:まぁ、よい、ここにおらぬ以上は知らぬだろう。今、初めて伝えたのでな。…おぉそうだ。次に「よい話」もしてやらねばなるまい。 名主B:〈本間兼役〉して、その「よい話」とは一体どのような。 木島實統:行徳の村々は不届が多く、処罰が検討されておる。「隠し田」に「抜き塩」であるからなぁ。こちらとしても大切な村のものを助けてやりたいが、ことがことだけに、なぁ…。 名主A:〈阿武兼役〉罰される、というのがわたしどもにとっての「よい話」にございますか…? 木島實統:いいや、そのような訳があるまい。…まぁよいから聞け。「隠し田」の件、惣八から聞き及んでおるか? 名主B:〈本間兼役〉へぇ。惣八さんは今、お江戸でご公儀の筋にことを確かめておるところにございますが…。 木島實統:そうよ。惣八は我らにも楯突いて仕方がなくてのう。それでな、皆にとって「よい話」というのは他でもない、その惣八を差し出せば皆の罪は不問に付すと決まったのだ。  : 詠:〈N〉端(はし)の方で話を聞いていた惣八の妻の顔色が変わる。自分たちにとって、よくない方向に事態が転ぼうとしていることが、ありありと分かるからである。また、身を潜めた菱喰も、この場の様子を窺(うかが)っていた。  : 菱喰:〈M〉出た出た。木島お得意の建前づけだ。自分の話の筋のおかしいところに目を向けさせず、道義を説いてそうせざるを得ないように持っていくんだろう?  木島實統:本来であれば、皆を処罰せねばならぬのよ。村方の三役どもは連座であるゆえな。しかし、それは避けたい。これまで尽くしてくれた功績もよくわかっておるからのう。…それに、お前たちがおらぬようになれば、村のものも困ろうが? 名主B:〈本間兼役〉へぇ。それはそうではございますが… 木島實統:さにあろう。とは言え、何もなかったことにはしてやれぬ。罪は罪である以上、これは仕方がないのだ。よって、大名主(おおなぬし)である惣八をのみ、罪に問うことにする。 菱喰:〈M〉それ見たことか。この木島ってのも芸のない男だね、まったく。この後も本間の殿様に気持ち悪い笑みを浮かべながら、したり顔で告げるんだろうよ。 名主A:〈阿武兼役〉…そ、それはすでに決まったことにございますか? 木島實統:そうじゃ。変更はない。お前たち名主が三役を束ねて訴状(そじょう)を用意せよ。よいな。 詠:〈N〉木島一行がその場を立った後で、名主たちが惣八の妻と話し込んでいる。異口同音に「惣八さんだけを罪に問うことはできない」と述べている。惣八の妻は思案顔(しあんがお)で名主たちと語らっていた。  :  : 阿武:〈N〉木島はその足でまたぞろ本間家に向かう。行徳(ぎょうとく)で財をなし、金(かね)の力にあかせて成り上がろうというのだ。はた迷惑な主従である。その二人の会話を菱喰が梁(はり)の上から聴いていた。 : 木島實統:本間さま、木島にございます。ただいま戻りましてございます。 本間佑顕:おう、木島か。良いぞ、入れ。 木島實統:ははっ。失礼いたします。 本間佑顕:それで、首尾はいかがであった? 木島實統:惣八が管理する「室(むろ)」には大甕(おおがめ)が十(とお)ほどありましたな。その全てを接収する手はずとなっております。 本間佑顕:ほう、それほど溜め込んでおったか。それらは大半を売却することにしよう。上にばら撒く金(かね)はいくらあっても困らぬゆえな。 木島實統:その通りにございます。いやはや、金作りに忙しくてかないませんなぁ。はっはっは。 菱喰:〈M〉いつもながらこいつらは自分たちのことしか考えていない。これでは為政者(いせいしゃ)失格だろう。光慶(みつよし)さまのお姿を間近で見ている身には粗(あら)しか感じられないよ。   本間佑顕:それにしても、木島にはよう働いてもろうたのう。   木島實統:殿様の栄達(えいだつ)あってこそ、木島の家も栄えるのですからな。 本間佑顕:【笑いながら】何ぃ? ふっふ、はっきりと物申すやつよ。己のために主君に尽くすと、そう言うか。 木島實統:はっはっは。臣下たるもの、裏表があってはなりませぬでしょう。 本間佑顕:よしよし、頼りにしておるぞ。近う(ちこう)寄れ、木島。こたびも褒美をとらせようほどにな。 木島實統:いやいや、そのような意図はございませぬ。 本間佑顕:ほれ、切り餅(きりもち・二十五両入りの包み)じゃ。遠慮のう持っていけ。これで「花房(はなふさ)」と仲良う(なかよう)してくるがよい。明日は吉原(よしわら)橘屋(たちばなや)で迎えるがよいわ…はっはっはっはっは。 木島實統:また、殿様。忠臣をおからかいになるものではございますまいよ。まったく殿様には逆らえませぬなぁ。…では。せっかくですから、今夜は羽を伸ばし、明日の夕刻(ゆうこく)戻って参るといたしましょう。 本間佑顕:よいよい、そうせいそうせい。わぁはっはっは…。 菱喰:〈M〉ふぅん。木島は吉原行きか。今宵がその時、だね。せいぜい好色(こうしょく)の夢でも見ているがいい、今のうちに。お前が吉原の大門をくぐることは二度とないからね。 阿武:〈N〉本間佑顕(ほんますけあき)と木島實統(きじまさねむね)主従の横暴はここに極まった。行徳の地を、行徳の村々を、そしてそこに暮らす人々のために身を尽くしてきた惣八を差し出せと言うのである。土地の者には到底受け入れられない要求であった。三役たちは一様に表情を曇らせたまま途方に暮れている。このころ、その惣八は『竜胆庵』にいた。  :  : 菱喰:〈N〉少しずつ日が傾き、通りは橙色(だいだいいろ)に染まる準備を始めている。温かみのある風景とは対照的に、青白い顔をした惣八が奉行所での成り行きを語っていた。 惣八:お詠さん、阿武さん、お力添えをいただいておきながら、どうやら不首尾(ふしゅび・失敗)に終わりそうです。御奉行、大久保さまにはお目通り叶いましたが、訴状についてはよいお顔をされませんでした。 詠:大久保さまは受け取って下さらなかったのかい? 惣八:いいえ。受理はしてくださいました。そもそも御奉行が手づから訴状をお取りあげくださるのも異例のこと。それだけでも有難いことです。 阿武:とはおっしゃいましても、訴状が公(おおやけ)にならねば何も意味を持ちますまい… 惣八:えぇ。阿武さんのおっしゃる通りです。 阿武:それで大久保さまは何と仰せでしたか? 惣八:これは「口外するな」と書面にて見せられ、大久保さまが御自ら(おんみずから)私に耳打ちしてくださったことなのですが… 詠:大丈夫ですよ。あたしらは、何を聞いてもすぐに忘れちまいますし、何があっても惣八さんのお味方ですからね。 惣八:…はい。では…。御奉行がおっしゃるには「大目付、目付の筋とつなぎが取れなくなった」とのことでした。ご存知の通り、お旗本に関する訴えは、目付さまにお取上げいただかなくては、箸にも棒にもかかりません。 詠:そうだねぇ…。元々お目付だった大久保さまでも、そちら方面に口が利けなくなっているんだねぇ… 惣八:御奉行は「ご老中に話を通してみる」とおっしゃいました。そして、「面目(めんぼく)ない」とも…。 惣八:【多少の怒りを覚えながら】何が面目無いことがございましょうか。多忙極める町奉行をお務めになりながら、私のようなしがない民草(たみくさ)の声も直に聞いてくださる…。このような御奉行が他におありになるというのですか… 詠:本間さまや木島さまのような方々を見ていると、その差は歴然なんだろうねぇ。 惣八:それはもう雲泥(うんでい)の差にございますよ。横に並べることにすら怖気(おぞけ)を覚えるほどでございます。大久保さまがご赴任(ふにん)なさってから足掛け三年、救われてばかりですから…。 阿武:そうでしたか…。詠さまと「惣八さまはどこかに伝手(つて)をお持ちなのだろうか」と話しておったのですが、大久保さまとは長いお付き合いなのですね。 惣八:いやいや、阿武さん。「付き合い」などとは及びもつかないことにございますよ。こちらが助けていただいてばかりいるのです。御番所(おばんしょ・町奉行所の町人からの呼び名)の方々には、私が顔を見せると露骨に煙たがる御仁(ごじん)も多い中、御奉行は、どうにかして私の話を聞き届けようとしてくださる。 詠:今日も相当待たされたんじゃないんですかい? 惣八:…今朝は一刻と半(いっとき と はん・三時間)ほどでございましょうか。それでも、かかる時(とき)以上に、御奉行にお目にかかれる機会というのが貴重なのでございますよ。   阿武:それはそうでございましょうが…。それで惣八さま、このあとはどのようになさいますか。 菱喰:〈N〉実は、惣八の訴えは危うく握りつぶされそうになっていた。取次(とりつぎ)から奉行所内にもたらされた「惣八来たる」の知らせは、大久保のところまで届いてはいなかった。たまたま奉行の目明かし(めあかし・私費で雇っている探索者)が惣八の姿を見ており、それを直(じか)に伝えたために、その来訪が明るみに出たのであった。 詠:そうさねぇ…。惣八さん、一度行徳にお戻りになりますかい? 惣八:えぇ。そういたします。村のことも気がかりですし…。それで…。一つお聞き入れいただきたいことがあるのですが…。 詠:はい? 何でございましょ。何でもおっしゃってくださいな。 惣八:…ありがとうございます。訴状は同じものを三つ用意しておりまして。一つは今朝、御番所(おばんしょ)に差し出したものです。そして、ここにもう一つございます。よろしければお詠さん、お預かりくださいませぬか?  阿武:詠さま…。 詠:あぁ、阿武。その一通。確かに預かろうじゃぁないか。 惣八:…よかった。重いものを負わせるようで申し訳なく、お話しするか迷ってはいたのですが。   阿武:惣八さま、ご安心ください。この訴状、『竜胆庵』が責任を持ってお預かりいたします。 惣八:はい。ありがとうございます。…もし。…もしも、のことにございます。私に何かあった時には… 詠:惣八さん、滅多(めった)なことをおっしゃるもんじゃありませんよ。…ふぅ。でも、よくよく考えてのことだろうからね。 阿武:…えぇ、そうですね詠さま。惣八さま、万が一の場合には、私どもにお任せくださいませ。 惣八:…はい。お任せ、いたします。では、私は一度行徳に戻ります。 詠:はいよ。阿武、行徳までお供を頼むよ。 阿武:えぇ、もちろんでございます。   詠:あたしは、少し奉行所の周りを聞き込んでみるとしようじゃないか。明後日(あさって)の朝早く、惣八さんのところに顔を出すからね。   阿武:かしこまりました、詠さま。ささ、惣八さま、握り飯と味噌をご用意いたしましたよ。お嫌いでなければ、伊勢屋さんの干し蛤(はまぐり)もよいお味ですからね、どうぞ道中でお召し上がりくださいまし。 惣八:おお、伊勢屋さんの…。私は貝の類(たぐい)に総じて目がありませんでなぁ、有難いことです。…では、先に表に出ております。阿武さん、ご苦労をおかけします。 阿武:なんのなんの。どうぞ、供をお許しくださいませ。 阿武:【以下、小声で】…詠さま。大久保さまより伺った通りになりそうですな。 詠:【以下、小声で】…そうだねぇ。惣八さんは「訴状は三つ」と、そう言ったからねぇ。 阿武:では、一足先に行徳に参ります。 詠:あぁ阿武。頼んだよ。  : 菱喰:〈N〉惣八と阿武は、前の晩に通ったばかりの街道を進む。その行く手に大きな問題が待ち受けているとも知らずに。そのころ、木島邸では實統(さねむね)が吉原行きの準備をいそいそと進めていた。当然、木島も知らずにいたのである。我が身に向けて、奈落が大きな口を開けていることを……。  :  : 本間佑顕:〈N〉日に千両が落とされると言われる吉原の夜見世(よるみせ・夜の営業)は大勢の人で賑わう。またその客を当てこんで、仕出し屋、編笠茶屋(あみがさぢゃや)、遊女細見(さいけん・店ごとの遊女パンフレット)など、さまざまな商売が派生していた。木島は供一人を引き連れ、馴染みの遊女「花房(はなふさ)」のもとへと、山谷堀(さんやぼり)沿いの日本堤(にほんづつみ)を進んでいる。  : 木島實統:しかし、吉原では「粋(いき)」が問われるからなぁ。金(かね)だけでは勝負がつかないところが良いではないか。金、金、金の毎日だからのう。ははは。その疲れも吹き飛ぶというものよ。   本間佑顕:〈N〉木島はいつにも増して上機嫌である。行徳をめぐる仕儀(しぎ)がおおむね思惑通りに運ぶ目処が立ったからであった。行徳の民の心情など一顧(いっこ)だにせず、主家(しゅか)の繁栄(はんえい)、ひいては自身の立身(りっしん)を直向き(ひたむき)に願っている。この男も見方を変えれば忠臣。主君の方針に添い、主君の望む結果を出し続けているのだから。   木島實統:ははは…。いや、しかし、今日は昼から少し酒を飲みすぎてしまったかのう。馬の背中でゆらゆらと揺られるのが心地よくて仕方がないわい。編笠(あみがさ)の下の薄暗がりもたまらんのう… 本間佑顕:〈N〉供の男は苦笑いをしながら「飲みすぎては困りませぬか」などと下卑(げひ)た笑いを浮かべている。主人(あるじ)が居続け(いつづけ)をしている間、この供の男にも「酒」と「遊び」の時間が与えられる。ましてや、翌日は昼過ぎに帰ればよいと許しが出ている。その分、自分が自由に過ごせる時間も常に比べて長くなるのだ。上機嫌の主従二人が歩く堤(つつみ)には、堀川(ほりかわ)から吹き寄せる爽やかな風が流れていた。 木島實統:いやはや、まっこと気持ちのいい夜じゃ。お主の言うとおり、少々飲みすぎてしまったようだからの。今のうちに酔いを覚ましておかねばな。…ふふふ。肝腎要(かんじんかなめ)の折に「役立たず」では、花房にも楼主(ろうしゅ・遊女屋の店主)にも申し訳が立たぬからな。ふっふっふ…ふむぅ。しかし、少し眠うなってきたのぅ。 阿武:〈N〉ほろ酔いでまどろみそうになりながら、馬上に揺られる木島實統(きじまさねむね)。その姿を後ろからつけているのは、深川芸者(ふかがわげいしゃ)の風体(ふうてい)をなした菱喰である。数人連れで歩いていれば、どこぞの楼主(ろうしゅ)に呼ばれたのだろうと考え、誰も不審には思わない。もちろんこの者たちは皆、大黒屋の手の者であり、菱喰の配下である。 菱喰:〈M〉ふふ。呑気なもんだ。大門(おおもん)に近づくほど冥土も近くなるというのに。この先は衣紋坂(えもんざか)。下り道だと多少は気もしゃんとするだろうし、そこを抜けた「見返り柳」のあたりで、一息ついた木島を仕留めようじゃないか。 阿武:〈N〉今日の菱喰は薄めの化粧で無地の小紋(こもん)を身に纏い、素足に吾妻下駄(あづまげた)という出立ちである。「お玉」の時とはまた違う魅力を見せて、吉原大門を目指す客の目を集めていた。これほど目立つ一団が「殺し」をしようとは、誰も思っていない。 木島實統:今宵はのう、花房を祝おうてやらねばならぬのよ。ははは、あやつの恥じろうた顔が目に浮かぶようだわ。まことにうい奴よ。 阿武:〈N〉「太夫(たゆう)」に次ぐ「格子(こうし)」という地位にある花房。その絹肌と、嬉し気に己を見つめる控えめな瞳を思い描いていたであろう木島の首筋に、菱喰が狙いを定めている。 菱喰:〈M〉光慶(みつよし)さまから頂いたこの痺れ薬はすぐ効く上に、砒素(ひそ)のようにあからさまな異変を体に出さないからね。便利なもんだよ。 阿武:〈N〉菱喰は芝居がかった動作で懐から筒を出し、色のついた煙を上へ、右へ、左へ、と吹き出した。歓声を上げ、囃し立てる吉原通いの客たち。それを聞き、ほぅ何事か、と木島主従も振り向いた。 菱喰:〈M〉なんだい、締まらない顔だね。【吹き矢を放つ】フッ。 阿武:〈N〉振り向いた木島の首を、菱喰の吹き矢が襲う。煙の切れ目から吹かれたその針が狙いを外すことはない。振り向きざまに浮き出た太い血の管を、見事に射立てたのである。 菱喰:〈M〉ふん、他愛のない。これまでの行いもあるからねぇ。お前は楽に死ねると思うんじゃぁないよ。 詠:〈N〉ぐらりと馬の背から落ちる木島實統(さねむね)。この男の運の悪さか、左足が鎧(あぶみ)から外れない。勢い首から地面に叩きつけられ、あたりに鈍い嫌な音が響いた。慌てた供の男は、大門(おおもん)をくぐった先の吉原番所(よしわらばんしょ)へ走っていく。ただし、その番所からはすでに数人の男が向かってきていた。先ほどの煙を合図に、大黒屋の息がかかった岡っ引きたちが、始末をつけに来たのである。 菱喰:あらあら、これはいけない、お武家様が馬から落ちなすった…。誰か、誰か来ておくれ! 詠:〈N〉岡っ引きの姿を認め、それらしく声を上げる菱喰。供の男も岡っ引きに事情を話しつつ駆け戻ってくる。曰く「お酒を召していらっしゃった」「急な歓声に振り返られたところで姿勢を崩されて」と。野次馬が集まり出したところへ岡っ引きがやってきた。 岡っ引きA:〈惣八兼役〉てぇへんだ、てぇへんだ! おう、近づくんじゃねぇぜ! 木島實統:ぐっ…ぐぶぶ…ぶふ…。 岡っ引きB:〈本間兼役〉こっ、こりゃあいけねぇ。首がイカれてるかもしれねぇや…。おいっ、台車(でえしゃ)を持ってこい! 詠:〈N〉すぐに運ばれた台車(だいしゃ)に乗せられ、艶(あで)やかな着物で覆われる木島。身分からか場所柄か、目を引く煌びやかな絹織物に埋(うず)められ、どこかへ運ばれていく。 菱喰:〈M〉あれあれ、これから光慶(みつよし)さまのところで、手痛い目に合わせてやろうかと思ったんだが、その手間もずいぶん省けそうだね。ふふふ。あいつが屋敷に戻る時には、めっきり冷たくなっていることだろうよ。 詠:〈N〉しばらくは騒然となったものの、吉原(よしわら)はすぐに平生(へいぜい)の顔に戻っている。このような騒ぎはいつものこと。花房(はなふさ)のいる『橘屋(たちばなや)』へも使いが走らされたが、店の側(がわ)で騒ぐ様子はない。太客(ふときゃく)が一人消えた。ただそれだけのことであった。 菱喰:〈M〉まずは一人め、と。ふふふ。本間の殿様はどうやって料理してやろうかねぇ。…ああ、そうだ。三千石取りの大身(たいしん)ってやつが本当に将軍の「旗本」にふさわしいか、肝の据わり具合を試してやろう…。  :  : 本間佑顕:〈N〉そのころ惣八と阿武は行徳(ぎょうとく)にほど近いところまで戻ってきていた。道中、本間家のやり口を再度詳しく聞いていた阿武。木島實統(さねむね)より命じられていた五百両を、どう工面するのか惣八に尋ねている。  : 阿武:それで、惣八さま。その大金をどうなさるおつもりですか。 阿武:……差し出がましいようですが、私ども『竜胆庵』でもお手伝い致しましょうか。   惣八:あぁ、いや、あてがないわけではないのですよ。もっとも、私の一存では決められないことなのですが。…阿武さん、「行徳の塩」はご存じですな。 阿武:えぇ、もちろん存じております。 惣八:私たちは塩の江戸回送も請け負っておりますから、村全体に対して、役料(やくりょう)を頂戴しているのですよ。これは行徳のみなで管理しておる塩です。 阿武:それで、その塩はそれほど大量にあるのでございますか? 惣八:はい。これまで何代にも渡って運用してきた塩でございますからな。祖先には申し訳ないですが、ことは一大事。背に腹は代えられませぬ。皆も納得してくれるでしょう。 阿武:その量をどうやってお捌(さば)きになるのですか? 惣八:実は…昨夜のうちに伊勢屋さんにお願いしておいたのです。訴えが不首尾に終わった場合、お買い上げいただけないか、とね。 阿武:なるほど、今朝のお言葉はその意味だったのですね。 惣八:ん? 今朝の言葉…? おぉ「昨夜の話、勝手な願いではございますが」という、あれ、ですかな。【感心して】阿武さんはとても細かいところまで気を張り詰めていらっしゃる。 阿武:ははは、商売柄、といいますか…。ご容赦くださいませ。 本間佑顕:〈N〉行徳の在所まで戻った惣八を浮かぬ顔の妻が迎え入れる。何事かと案じる惣八は、午前の内に下された木島實統(さねむね)の命令を聞かされたのであった。 惣八:なんだって!? 「お室の塩」を本間家が奪うと? そのようなことが許されるものか。くっ。…いや、今朝の御奉行さまのお口ぶりでは、この件についても、どこぞの権力者に取り入っているのだろう… 阿武:惣八さま、その「お室の塩」というのが、先ほどおっしゃっていた塩のことでございますか? 惣八:えぇ。木島さまに先を越されてしまったようです。……伊勢屋さんにも申し訳が立たない。 本間佑顕:〈N〉急な話に「金(かね)の工面」をどうするか必死に考え始めた惣八に、本間家の更なる横暴が告げられた。 阿武:【声は荒げず】なんですって? 村の者総出(そうで)で惣八さまを訴えよ、ですと… 惣八:ははは。阿武さんがそのように反応なさらずとも。 阿武:いや、惣八さま、そのように落ち着いてはいられませんよ、私(わたくし)は。 阿武:これらは全て本間家の私利私欲を満たすために仕組まれたことではありませんか。 惣八:…ふぅ。まさにそうなのでございましょう。これらは「仕組まれて」いるのでしょう。それも綿密に。本間さまだけのお考えではないようでございますし、な。 阿武:そう…ですね。どうやら周到に練られた策のように見受けられます。 阿武:聞き及ぶ範囲で考えますと、本間家を唆(そそのか)しているものがおりそうに思えます。 惣八:…金(かね)、か。外つ国(とつくに)にも金で身を滅ぼした、国を滅ぼした、という話はごろごろあるそうにございますな。なければないで困るのも確かですが、あり過ぎて欲に目が眩(くら)むのも考えものです。…それも武家にあるものが…。 阿武:確かに。日の本や唐土(もろこし・中国のこと)のみならず、朝鮮国(ちょうせんこく)やシャムのあたりまで、そのような話はたくさんあることでしょう。…それで、僭越ながら惣八さま。(御用金の件、わたくしども竜胆庵に…) 惣八:【前の阿武のセリフを遮る形で】 惣八:いや、阿武さん。それはお断り申しあげる。 阿武:…しかし。 惣八:お詠さん、阿武さんにはなみなみならぬご厚意をかけていただいています。これ以上おすがりするのは忍びない。また、行徳の件は行徳の民にて始末をつけなければならぬのです。 阿武:それは、どうしてですか… 惣八:ご公儀が我ら百姓(ひゃくしょう)に厳しいお取り立てを課されるのはよく知っています。ただ、それと理不尽な言いつけをただただ黙って受け入れるのは違うでしょう。私の行いのあり方によって、「行徳のものは与(くみ)しやすい」という定評でも立とうものなら、子々孫々苦しむことになるのです。 阿武:そ、惣八さま…まさか、とは思いますが… 惣八:…ははは、私はまだ何も申してはおりませぬよ。…いやはや、お詠さんにも阿武さんにも敵いませぬな。 本間佑顕:〈N〉そこまで喋ってから惣八は妻(つま)に家伝の「権利書」と漆塗の文箱(ふばこ)を持ってくるように命じた。妻のまぶたが小刻みに揺れている…しばらく立ち尽くしていたが、意を決したようにそれらを取りに向かった。 惣八:うん。【万感の思いを込めて】…ありがとう。今からお前に二つのことを伝える。 阿武:あいや、しばらく! 私(わたくし)は席を外した方がよろしくはないですか。 惣八:いいえ、阿武さん。すべてお聞きください。私が聞いておいていただきたいのです。 阿武:…そう、ですか。……かしこまりました。一言一句違(たが)えずお聞き致しましょう。 惣八:【微笑んで】ありがとう、ございます。 惣八:【妻に向き直って】…では。一つ。我が家は残る全ての田畑(でんぱた)と家屋を処分し、本間家への支払いにあてるものとする。この決定は、このあと私自ら、名主らに伝える。 惣八:【しばらく間をとる】一つ。……今、この時を持ってお前を離縁(りえん)する。 惣八:【文箱から離縁状を取り出し、読み上げる】「其方(そのほう)が事、我が勝手につき、このたび離縁いたし候(そうろう)。然(しか)る上は、向後(こうご)何方(いずかた)へ縁付(えんつけ)候えども、差構え(さしかまえ)是無(これな)く候(そうろう)、よって件(くだん)のごとし」……よいな。 本間佑顕:〈N〉長年連れ添った夫から告げられる「三行半(みくだりはん・離縁状の別名)」をうつむくことなく、夫を見つめたままで聞いている。妻にはこの「離縁」が何を意味するものか、はっきりと分かっていた。 阿武:〈M〉…これは。やはり惣八さまはすでにお覚悟の上とお見受けする…。 本間佑顕:〈N〉束の間ながら視線を交わし合う惣八夫妻。その後、惣八は大きく頷き、土地の書付を持って立ち上がった。 惣八:阿武さん、少しお付き合いくださいませぬか。 阿武:はい。どこへなりともお供いたしましょう。  :  : 詠:〈N〉惣八が在郷三村(ざいごうさんそん)の名主を集め、金策が叶ったこと、自分を訴えればよいことを他の名主に伝えたころ、「木島死す」の一報が本間家にも伝えられていた。 本間佑顕:な、な、何ぃ!? 木島が死んだ、だと? なぜだ、なぜそのような仕儀(しぎ)になるのだ。 詠:〈N〉木島の屋敷から届いた書状には「吉原大門(よしわらおおもん)そばにて落馬。首の骨を折り死亡」と書かれていた。木島の家来が、吉原までの供を連れており、本間に事情を説明している。 本間佑顕:落馬して、首を? むぅぅ…俄(にわか)には信じられん……が、しかし、側で見ていた男もいるとなると…。それで? 木島は屋敷に戻ったのか?  詠:〈N〉ご遺体は改めました、と家来が告げる。その上で不審な点はなかった、とも。 本間佑顕:不審なところ、だと? あの木島が少々の酒に酔い、大道芸に興を引かれた程度で馬から落ちること自体、よっぽど不審ではないか! ……えぇい、いや、よい。其の方らを責めるつもりはない。 詠:〈N〉本間佑顕(すけあき)は幾分慌てながらも、何やら考えている。やおら家来を呼び出すと、次のように告げた。 本間佑顕:よいか。木島が死んだ。 詠:〈N〉家来は主(あるじ)の言葉を聞き、絶句している。 本間佑顕:お主はこれら木島家の者どもの話を聞き取り、顛末(てんまつ)を書にまとめよ。それが終わり次第、わしの書付を添え、お目付殿に差し出してこい。わかったな。 詠:〈N〉家来に言いつけるなり、自分も文机(ふづくえ)に向かい何やらしたためている。木島の一件に身の危険を覚えたのであろう。本間家とその家臣、木島家の夜は慌ただしく更けていく。  :  : 木島實統:〈N〉翌日。背負い小間物(しょいこまもの)姿のお詠は江戸の町にあった。朝のうちに奉行所を訪れたあと、本間家の様子を窺い、その足で町に出て本間の評判などを集めている。  : 詠:ふぅ〜。【荷物を下ろす】よいしょっと。茶店、か。ここらで一息つくかねぇ。 客A:〈阿武兼役〉そういや、お前聞いたかよ? 木島の殿さまが昨夜(ゆうべ)吉原の辺りで亡くなったんだってよぉ。 客B:〈惣八兼役〉ほぇぇ、そうなのかい。そりゃまた急に大変だなぁ。 詠:ちょいと失礼しますよ。その話、本当ですかい? 客A:〈阿武兼役〉あれよ、これまた別嬪さんだ。ここのお玉(たま)さんの向こうを張って十分じゃねえか! 客B:〈惣八兼役〉ほんとだなぁ。おーいお玉さん、ちょっとおいでな。あぁ、ぬるめの茶と団子も二本持ってきておくれや。 菱喰:〈お玉として〉【奥から返事をする】はいよぉ、ちょっと待ってておくんなさいねぇ。 詠:いやね、木島さまにはあたしもお世話になってんですよ。まぁ、最もお殿様とはご面識がありませんがね。お女中の方々に色々買ってもらっていましてねぇ。 客A:〈阿武兼役〉へぇ、そうなのかい。今日も木島さまのところに行くのかい? そりゃやめた方がいいな、きっと葬儀の準備をなさってるところだろうからなぁ。 詠:そうですかい。【箱を叩いて】これからお買い上げいただきに出向こうと思ったんですがねぇ…。 客A:〈阿武兼役〉亡くなった場所が場所だってんで、お屋敷も鎮まりかえっているそうだよ。 客B:〈惣八兼役〉ねぇさん、残念だったねぇ。ま、気を取り直して茶と団子でも食べて行っておくれな、あっしの奢りだからね。 詠:あらあら、ありがとうございます。それじゃ、遠慮なくいただくとしますかねっ。 菱喰:〈お玉として〉お待たせしましたよぉ。 客B:〈惣八兼役〉あぁ、お玉さん、こちらの別嬪さんに差し上げておくれ。 菱喰:〈M〉うん? この女は… 菱喰:〈お玉として〉【以下セリフ】何だいなんだい? いつもはあたしを褒めてくれるってのに… 客A:〈阿武兼役〉おっ、妬いてんのかいっ? むくれたお玉さんも、これまた愛(う)いもんだ。 客B:〈惣八兼役〉はははっ。おっ、そうだ、お玉さんにおねえさん。忙しいとこ悪いんだが、そこの店先に並んで立ってみちゃあくれねぇか。 客A:〈阿武兼役〉おお、そりゃぁいいや。一つ頼むよ。   菱喰:〈お玉として〉はぁ…まったく仕方のない常連だねぇ。ねぇさん、いいですかい? 詠:あぁ、構わないですよ。こちとらお茶と団子をいただいちまってますからねぇ。 木島實統:〈N〉日が射す店先に立つお詠とお玉。声をかけた客だけでなく、奥にいたものたちも囃(はや)し立てている。 客A:〈阿武兼役〉こりゃすごい! お江戸広しといえども、こんな別嬪たちにお目にかかることはそうないだろうさ。 客B:〈惣八兼役〉いや、ほんとだなあ。伽羅の香(きゃらのこう)もかくやってほどのねえさんたちだ。 詠:【横に聞こえる程度の声で】なあ、あんたお玉さんってのかい? 菱喰:〈お玉として〉はい、そうですよ。 詠:あんた、あの時のだろう? 菱喰:〈お玉として〉はい? なんのことでしょうか。 詠:あたしゃ、ちょっと独特の商売をしていてね、気にかけた相手を間違えることはないのさ。…あんた、惣八さんをつけていただろ。 菱喰:…はは。そうですよ。これはたまげたね。 詠:ふふふ。まったく驚いてもないくせによく言うよ。あんた、惣八さんを害するつもりはないんだね。 菱喰:それはそうですよ。あれだけのお人、関八州くまなく探したってそうそういるもんですか。 詠:…そうかい。ならいいんだ。あたしゃ、詠。『竜胆庵』のお詠だよ。 菱喰:…へぇ。あんたがお詠さんか。お江戸でも名が売れてきてるって界隈じゃもちきりさ。 詠:はぁ。騒々しいのはごめん被りたいんだがねぇ。 菱喰:あたしは大黒屋の旦那にお世話になってる「菱喰」ですよ。もっとも今は「お玉」ですがね。 詠:そうかい、お玉さん。…なぁ、木島をやったのはあんたかい? 菱喰:ははは、そうですよ。手強いお人だ。……そろそろ、戻りましょうか。 木島實統:〈N〉ひとしきり囃し立てた客たちが、口々にほめそやしながら二人を店に迎え入れる。 詠:はぁ〜、いやいやお目汚しでしたねぇ。あははは。綺麗どころの横に立つなんて、なかなかない経験をさせてもらいましたよぉ。 菱喰:〈お玉として〉いやいや、こちらのおねえさん、よい匂いをさせるお方でした。ふふふ。美しさが匂い立つっってのはこのことでしょうねぇ。 客A:〈阿武兼役〉いやぁ、眼福眼福。 客B:〈惣八兼役〉ちげえねえや。今日も昼からいいもんを見たねぇ。 客A:〈阿武兼役〉ああ、一日頑張れるってもんよぉ。  : 木島實統:〈N〉その日の夕刻。大黒屋の元を菱喰が訪れていた。  : 菱喰:光慶(みつよし)さま、惣八を警護していた女と会いました。『竜胆庵』のお詠、だそうです。かなりの手練れに見えましたよ。 木島實統:〈N〉その名に反応した大黒屋。文箱(ふばこ)からとある書状を出し、菱喰に読むように促す。 菱喰:これは、朝霞屋(あさかや)の回状。…へぇ、そうですか。あのお詠ってのは朝霞屋に一泡吹かせたってんですか。ふふふ。やりますねぇ。「常闇の長治(とこやみのちょうじ)」に引けを取らぬってのは、かなりの遣い手ってことですね。 木島實統:〈N〉相変わらずの笑みを浮かべたまま一つ頷くと、「お詠と敵対することは許さぬ」、大黒屋は短く菱喰に告げる。 菱喰:【少し不服そうに】…は、かしこまりました。 木島實統:〈N〉将軍の法甲寺(ほうこうじ)詣(もうで)を間近に控え、大黒屋も行徳街道(ぎょうとくかいどう)方面の香具師(やし)の手配に余念がない。大層な人出(ひとで)が見込める一大行事とあれば、儲け話をふいにしかねない騒動の芽は摘んでおかねばならないのである。 菱喰:将軍の行徳参りもすぐでしたねぇ。その前に本間も片付けますか。 木島實統:〈N〉旗本が死ねば、法甲寺参りも取りやめになる可能性がある。大黒屋の口からは「その後、ならな」と言葉が漏れた。 菱喰:ははっ。ではそのように。それでは私は街道沿いの巡視も兼ねて、行徳に向かいます。 木島實統:〈N〉素人目には仮のものとも分からぬ笑みを浮かべたまま、大黒屋は「うむ」と頷いた。それぞれの思惑が絡み合う行徳の地は、未だ静かなままに夜を迎えている。  :  : 本間佑顕:〈M〉今宵は木島の野辺送り(のべおくり)か。木島の奴は誰かにやられたに相違(そうい)ない。…ふふふ。木島よ、下手人は必ず捕まえてやるからな。土の下で待っておれ。…何、わしのことは案ずるまでもない。お目付殿から、強者(つわもの)を送ってもらうことになっているからのう。  : 木島實統:〈N〉そのころ、『竜胆庵』ではお詠が公儀からの遣いを迎えていた。お詠は書状を読み、一瞬言葉を失っている。  : 詠:…これは、酒井さまのご命令に間違いないんですね。 木島實統:〈N〉「確かに」とうなずく遣いの者。書状の花押(かおう・サイン)は老中、酒井からのものに違いなかった。 詠:…ふぅ。わかりましたよ。ご老中にそのように伝えてくださいな。 詠:〈M〉ひとまず阿武(あんの)につなぎをとるかね。惣八さんの様子も気がかりだしねぇ。 木島實統:〈N〉老中からの書状には「本間の護衛についてもらいたい」と短くしたためられていた。  :  : 木島實統:〈N〉この日、惣八は諸々の手続きを済ませ、五百両の金を作っていた。田畑(でんぱた)と一切の家財を処分し、本間家に納める分を工面したのである。すでに妻は引き払い、がらんとした居間で惣八と阿武が酒を酌み交わしている。 惣八:いやはや、今日もご苦労をおかけしました阿武さん。 阿武:いえ、とんでもないことです。…それで惣八さま、真(まこと)に直訴に及ばれるお積もりですかな。 惣八:…はい。前々から考えてはいたのです。せっかくこの行徳の地に将軍さまがお見えになる。このような機会、二度とは巡ってこないでしょう。天が、私に動けとお命じになっているのですよ。   阿武:…時に。つかぬことを伺いますが、惣八さまは、ずっとこの地にいらっしゃるのですか。お言葉の端々にご教養といいますか、まっすぐな芯(しん)が感じられまして…。 惣八:おや、阿武さん。まるで百姓には「芯がない」とおっしゃっているかのようだ。 阿武:え? いや、そのような積もりは毛頭ございません…   惣八:ふふふ。これはいたずらがすぎましたな。お許しください。…えぇ。実は私は養子です。ですから、本来、妻を離縁したら出て行かねばならぬのは私の方なのですよ。 阿武:ご養子でいらっしゃる? では地縁も血縁もない土地に、そのお命をかけるとおっしゃるのですか…。 惣八:阿武さん。お仕事に命をかけていらっしゃるのはあなたも同じでしょう。おかげさまで伊勢屋さんも救われました。【頭を下げる】これ、この通りです。 阿武:あぁ、お手をお上げください惣八さま。私なぞは、お江戸で掃除屋のまね事をしているだけなのですから。 惣八:それでも、多くの人を助けておられる。まさに私も助けられております。 惣八:…義父、妻の父がね、私を拾ってくださったのですよ。不義理をして、とある道場を破門になり、行き倒れたのが三十年ほど前でしょうか。 阿武:…では、惣八さまは武門の出でいらっしゃる? 惣八:ははは。もう随分と昔の話です。今は、行徳の惣八です。それだけですし、それでよい。それに、これだけ長く住まえば、それはもう地縁でございましょう。 阿武:はい…。その通りでございますね。 木島實統:〈N〉その時、夜更けにも関わらずドンドンと戸を叩く音がした。出迎えた惣八に、木島家の葬儀の話がもたらされる。木島が亡くなったと聞いて、惣八は驚きの声を上げた。 惣八:…阿武さん、お聞きでしたか? 木島さまがお亡くなりになったそうです。 阿武:えぇ、聞いておりました。しかし、これに関しては、詠さまも私も預かり知らぬところの話でございますね。事故かもしれない。何者かが動いたのかもしれない。 惣八:そうですか…。何かの力が働いたのか、木島さまが不運だったのか。 惣八:…いずれにせよ、私は、己にできることをやるのみです。 阿武:…惣八さま、我々に何かできることはございませんか。惣八さまほどのお方が、世を去ろうとなさっている。それをむざむざ…ただ見ているだけなど… 惣八:阿武さん。お気持ちはたいへん嬉しい。もっと早くにお詠さん、阿武さんと知り合いたかったとも思います。…それでもね、先ほど申し上げた通り、行徳の窮地は、行徳の者がどうにかしなければなりません。 阿武:えぇ。それは分かるのですが。 惣八:それであれば、大名主(おおなぬし)を名乗る私しかおりませんでしょう。…折よく、本間家からも私を訴えよと触れが届いていることですしね。 阿武:将軍さまが行徳詣(ぎょうとくもうで)にお越しになるのは、五日後、でしたか。街道には出店もあり、法甲寺に続く「権現道(ごんげんみち)」は人混みでごった返すでしょうね。 惣八:そうですね。道中で将軍さまに近づくのは至難の業。…ですから、お乗物(のりもの・最高級の駕籠(かご))が門をくぐる際に近寄り、お聞き届けいただこうと思います。 阿武:…あぁ、確かに、そこでなら脇を固める侍も、野次馬も少ないことでしょうが…   惣八:本間のお殿様が話を聞いてくださらず、お目付(めつけ)に訴えも通らずでは、もはやこうするしかないのです。阿武さん、分かってください。 阿武:…はい。明朝、詠さまがいらっしゃるはずです。そこでまた案を練りましょう。  :  : 木島實統:〈N〉翌朝早く、お詠が約束の通り惣八を訪ねてきた。惣八と阿武からは行徳の状況と直訴の計画が、お詠からは木島の件と公儀の指令について話が交わされた。  : 惣八:なんと…お詠さんが、本間さまの警護にお付きになると。それは、いやしかし、大丈夫なのですか。 阿武:ははは。惣八さま、うちの詠さまは、それはそれはお強うございます。よほどのことでもなければ身の危険はございませんよ。 惣八:それは…。伊勢屋さんの話もあり、お詠さん阿武さんが常ならぬお力をお持ちだとは分かるのですが… 詠:惣八さん、「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」と言うじゃあございませんか。木島のこともそうですが、あたしらは鼻が利くんですよ。 詠:それにね、今、本間のバカ殿に死なれちゃ困るでしょう。将軍さまがお越しにならなくなるからねぇ。 惣八:そうなれば、もはや将軍さまに声を届けることもできますまい… 阿武:えぇ。ですから、本間さまの屋敷は、詠さまにお任せください。私はこのまま惣八さまのお側にお仕えしようと思うのですが、惣八さま、詠さま、それでようございますか。 詠:あぁ、頼むよ。 惣八:…かたじけないことです。 詠:惣八さん、くどいようだがねぇ、行徳のこと、あたしらに預けてもらえないですかね。 惣八:いえ、すべてお伝えした通りです。私が動かねばならぬのです。 阿武:詠さま、惣八さまのお覚悟の程は私も何度も伺いました。ここは… 詠:阿武、分かっちゃいるがねえ。惣八さんほどのお方、惜しいじゃないか。とても本間のバカ殿と(引き換えにできるような…) 惣八:【前のセリフに重ねて】お詠さん、もう、よいのです。お二人のお気持ち、ありがたく胸の内に収めておきます。ですが、これは私の務めなのですよ。大名主とは、そのようにあらねば示しがつかぬのです。 阿武:その日まで、惣八さまには指一本触れさせませぬ。 詠:…まったく、惣八さんのようなお人が、日の本に何人いるってんだ。 詠:惣八さん、直訴のことは、誰にも言っちゃぁだめですよ。他の名主さんたちにもね。 阿武:そうですね。どこから話が漏れるか、誰がそれを妨げにくるか分かったものではないですからな。 惣八:はい。もちろん口外致しません。他の名主さんたちには「私を訴える用意をなさい。訴状は『将軍さまご来訪』ののちにお渡しすると、本間さまに伝えなさい」とだけ言いました。 詠:本間のバカ殿も、天領で騒動を起こして将軍さまの邪魔をしたとあっては、切腹、お家取り潰しってことくらいは分かるでしょうからねぇ。 惣八:…えぇ。しかし、お詠さん、先日までは「本間さま、木島さま」とおっしゃっていたのに、今は「バカ殿」呼ばわりでございますか。 詠:うん? あぁ、惣八さんにもあたしらがどんなものか大体分かってもらえただろうからねぇ、猫を被ることもありませんでしょ。 阿武:…詠さま。ほどほどになさいませよ。 詠:ははは。分かってるよ、もう。…それじゃ、惣八さん、あたしはまた江戸に戻って、本間家に詰めるとしますよ。 惣八:分かりました。どうぞ、お気を付けくださいませ。 詠:ええ、そうしますよ。…阿武、ちょっといいかい? 阿武:はい。   詠:この前、惣八さんを江戸に送ったとき、道中つけてきた奴がいただろう。あれだよ、木島をやったのは。 阿武:ほう。それはそれは。 詠:たまたま見つけたんだがね、大黒屋のところの菱喰っていうんだそうだ。   阿武:それはまた詳しくお調べになったのですね。   詠:ん? 調べてなんざいないよ。なんのことはない、二人並んで立ち話をしたのさ。   阿武:えぇ? 立ち話、ですか? それはまた一体どのような状況で…   詠:ははは。ま、本人から聞いたんだ、間違いはないだろ。あいつ、本間の屋敷にも来るだろうね、きっと。 詠:【惣八の方へ向き直り】惣八さん、それじゃ、おいとましますよ。 惣八:お詠さん、握り飯なぞ、持っていってくださいませ。妻もおりませんので、私が握ったものでよければ…ですが。 詠:あれあれ、ありがたく頂戴しましょ。腹が減っては何とやらだ。 阿武:詠さま、お気をつけて。 詠:あぁ、阿武、惣八さんを頼んだよ。向こうが動くのも行徳が動いた後だろうさ。大黒屋が儲けをふいにするとは考えにくいからねぇ。  : 木島實統:〈N〉惣八は来たる日に備えて行徳の村々を周り、それとなく名主たちが困らないよう指示を与えている。自分亡き後のことを気にかけているのであろう。屋敷を明け渡す日取りも決めた。真新しい木綿晒し(もめんざらし)の褌(ふんどし)に白木綿(しろもめん)の単衣(ひとえ)も用意した。紋付の羽織と袴(もんつき・はおり・はかま)も衣紋掛け(えもんかけ)にかけてある。これらは全て直訴に及ぶ際、惣八が身につけるものである。惣八は慌てるそぶりもなく日々を実直に過ごしていた。  :  : 詠:〈N〉梅雨入り前の晴天が続いている。いよいよ行徳詣(ぎょうとくもうで)当日となり、朝の内に江戸を発った将軍の一行は行徳街道を進んでいた。街道沿いには、将軍さまを一目見ようという野次馬が黒山の人だかりで、それを見込んだ香具師(やし)たちも、一儲けしようと集まっている。その喧騒は常日頃の倍はあろうかという勢いであった。  : 客C:〈木島兼役〉いやぁ、さすがにすごい人出だなぁ。 客D:〈本間兼役〉そりゃおめえ、将軍さまがお見えになるなんてなぁ、生涯に何度もあることじゃぁねぇからな。 客C:〈木島兼役〉確かになぁ。将軍宣下(せんげ)のご上洛をおやめになってから、このような行列ってのは、珍しいからよ。 菱喰:〈お玉として〉あらあら、お客さん方、お皿と猪口(ちょこ)が空になってますよ。ただ眺めてるってのも芸がないでしょう。次、いかがですか? 客D:〈本間兼役〉おうおう、お玉さん! そりゃどうせ眺めるんなら、お玉さんのような別嬪を見ていたいってもんよ。ははは。 客C:〈木島兼役〉まったく、お玉さんにゃ、敵わねぇぜ。酒を二合と煮魚を頼むよ。 菱喰:〈お玉として〉お買い上げありがとうございます。ふふふ。 菱喰:将軍さまはこの先の「権現道(ごんげんみち)」を通って法甲寺(ほうこうじ)にお出でになるんでしょう? 客D:〈本間兼役〉おう、そうらしいなぁ。 菱喰:〈お玉として〉わたしらとしちゃぁ、将軍さまがお見えになるって内に稼げるだけ稼がせてもらわないとね。おかげさまで忙しくさせてもらってますよぉ。 客C:〈木島兼役〉そいつはまた、たくましいじゃあねえか、お玉さん。はっはっは。  :  : 詠:〈N〉街道脇(かいどうわき)は大黒屋の店が軒(のき)を連ねている。そのどれもが賑わい、楽しげな声が上がっていた。しかし、しばらくの後(のち)、東から静けさが波のように伝わってきた。将軍の行列が姿を現したのである。  : 先触れ役:〈阿武兼役〉下にぃぃぃぃい、下にっ! 下ににぃぃ、下にぃっ!  : 詠:〈N〉先触れ(さきぶれ)の声が聞こえたら、下々(しもじも)のものは街道に土下座し、下を向いたまま行列をやり過ごさねばならない。それが決まりである。   : 客D:〈本間兼役〉こりゃいけねぇや、土下座、土下座ぁ。   客C:〈木島兼役〉意外(いげぇ)と早かったな、おい。よしよし、ひざまずきますよっと。 菱喰:〈お玉として〉あれあれ、こりゃしばらく商売できませんねぇ。 菱喰:それじゃ、あたしも…【ひざまずく】よいしょっと。  : 詠:〈N〉法甲寺境内までの道、通称「権現道(ごんげんみち)」が静まり返った。いよいよ将軍の参詣(さんけい)である。法甲寺詣(もうで)は将軍家内々(うちうち)の行事とあって、その行列は威圧を意図したものではない。それでもかなりの人数を引き連れた一行が、粛々(しゅくしゅく)と歩みを進めていく。  : 阿武:惣八さま、いよいよですな。法甲寺の山門(さんもん)まで危険はないことを確かめております。 惣八:何から何までありがとうございました。今生(こんじょう)ではこれ限りとなりますが、受けたご恩は、永遠(とわ)に忘れませぬ。 阿武:…はい。私も、惣八さまを忘れることなどございませぬ。  : 詠:〈N〉先触れ(さきぶれ)の声が止まった。行列の先頭が法甲寺山門(さんもん)に到着したのだ。これより将軍の乗物が山門に向かう。  : 惣八:…もっと、震えがくるかと思っていたのですが。ははは、不思議なものですね。 阿武:見送ることしかできない私を、どうぞお許しくださいませ。 惣八:いいえ。それでは、行って参ります。  : 詠:〈N〉先割れの青竹に訴状を挟み、羽織と袴で正装した惣八が、将軍の黒漆(くろうるし)で仕上げられた乗物を目掛け、進んでいく。   惣八:上さまぁ、お聞き届けくだされぇぇぇぃ。 詠:〈N〉惣八に気づいた供侍(ともざむらい)が、訴えを止めるために駆け寄ってくる。しかし、惣八が止まることはない。 惣八:何卒(なにとぞ)、お聞き届けくださいませぇぇぇ。   詠:〈N〉供侍の制止も振り解き(ほどき)、惣八はなおも歩みを進める。 惣八:行徳の大名主(おおなぬし)惣八にございまするぅぅぅ。上さまぁぁぁ、どうか、どうかお聞き届けくださいませぇぇぇぇ。 詠:〈N〉再三に渡り止められても、惣八の熱意が止むことはない。すがる供侍をものともせず、遮二無二(しゃにむに)前へ前へと足を出す。 惣八:何卒、何卒ぉぉぉぉ。 詠:〈N〉尋常の手段では止められぬと見た供侍は惣八を留(とど)まらせ、訴状を受け取った。その後、警護の頭(かしら)に何やら指示を出している。惣八はその身柄を拘束された。手荒な扱いこそ受けてはいないが、将軍の用向きを妨げたからにはと、惣八は為されるがままにしている。 惣八:〈M〉よかった…。何とか訴状を受け取っていただけた…。あとはどのようにご対処くださるか、だが。…私はどうなってもよい。どうか、訴状が上さまに…   詠:〈N〉この時、常にはありえないことが起こった。なんと将軍の乗物が路上に下ろされたのである。そして戸が少し開けられ、そこからのぞく右手が供のものを呼んだ。野次馬からも声が上がる。これは沿道の誰にも想像できない光景であった。 惣八:〈M〉こ、これは…。あぁ、お取上げくださった。お取上げくださった…。 阿武:〈M〉惣八さまっ……。お、お見事でございます…。 詠:〈N〉乗物の内(うち)に入れられるその訴状。思いもよらず、その場で将軍が中身を改めるようである。身柄を抑えられた惣八に、供侍が諮問(しもん)する。 惣八:手前は、行徳の大名主(おおなぬし)惣八にございます。御領主、本間さまがお沙汰につき、お聞き届けいただきたきこと、これあり。よって無礼を承知で御前(ごぜん)にまかり出た次第でございまする。 詠:〈N〉農民による直訴においては、その領主が身元引受人となる。当然その後の詮議(せんぎ・取り調べ)も領主によって行われる。なればこそ、惣八は死罪を覚悟でやってきていた。何しろ、惣八の身元引き受け先は、本間家になるのだから。…しかし、ここで惣八はまた、不思議を経験することになる。 供侍:〈木島兼役〉行徳の惣八。そなたを町奉行所預かりとする。 詠:〈N〉自分にかけられた言葉が飲み込めず、しばし呆然とする惣八。 供侍:〈木島兼役〉聞こえぬか。これより町奉行所に身柄を送る。 詠:〈N〉惣八は南町奉行、大久保を思い浮かべた。大久保のにこやかでありながらも、真摯に話を聞くその横顔が、頭をよぎる。 惣八:…大久保さま……。 詠:〈N〉これはきっと大久保さまのご配慮に違いない。惣八は自ずと手を合わせていた。  :  : 阿武:〈N〉惣八直訴に及ぶ、という知らせは当然本間家にも届いていた。本来であれば、自分が管理することになるはずの惣八の身柄。それが町奉行所に送られたと聞いた本間佑顕(ほんますけあき)は、荒れていた。 本間佑顕:くそぅ…。どういうことだ。惣八が町奉行所に送られた、だと。惣八は当家にて収監するのではなかったのか。わしが惣八を処する。そのために村から訴状を出させるのだ…。えぇい、誰が邪魔をしておる? 阿武:〈N〉何事かを書状に記し、呼びつけた家来に渡す本間。木島の葬儀以来、思惑(おもわく)通りにいかないことが気にかかる。大筋は自分が描いた絵図(えず)と変わらないが、ところどころ意図せぬ事象(じしょう)が絡んでくるのである。   本間佑顕:結局、吉原番所からは「木島は事故死」との達しがきた。…そのようなことがあるものか。これは仕組まれたことに違いあるまい。 阿武:〈N〉今、本間の大事は己の保身であった。我が身を守るための方策は幾重(いくえ)にも重ねるくらいでちょうどよい。先の書状は計画に差す影がないかと、確認するためのものであった。 本間佑顕:おいっ、誰ぞおるか! 竜胆(りんどう)を、竜胆を呼べ! 阿武:〈N〉本間は公儀より派遣された護衛を呼んだ。「竜胆」とはもちろんお詠のことである。しばらくの後、覆面に忍び装束(しょうぞく)姿のお詠が現れた。 詠:〈竜胆として〉お呼びですか? 本間佑顕:うむ。わしはここ数日で何者かが忍んでくると踏んでおる。これまで屋敷の内外にて、目についたことはないか。 詠:〈竜胆として〉今のところ、おかしなところはありませんね…。 本間佑顕:ぬぅ。お主は歳に似合わず、その道では名の知れた人物と聞く。だからこそ頭(かしら)を任せておるのだ。…励(はげ)めよ。 詠:〈竜胆として〉えぇ。「本間様のお命をお守りせよ」。その命には従いましょう。 本間佑顕:ふん。無愛想なやつめ。…まぁ、よい。何かあれば、家臣に知らせよ。 詠:〈竜胆として〉はい。 阿武:〈N〉老中からの下知を受け、お詠は本間家に詰めていた。数日前から警護頭(けいごがしら)を務め、夜通し任務にあたっている。惣八奉行所送りの裏に、南町奉行 大久保と、当のお詠の働きかけがあることなど、本間には知るよしもない。 詠:〈M〉金と権力…。身分にあぐらをかいた奴らの大好きなもの…か。あんなバカ殿に関わったばかりに、惣八さんのような立派なお人が…。ん? …空気がぬるいね。今夜は曇り空になりそうだ。…来る、かねぇ。  :  : 阿武:〈N〉その夜、詠の予想通り、江戸の町は厚い雲に覆われた。月明かりのない、その暗がりの中を「仕事着」で忍び寄るものがいる。大黒屋の懐刀、菱喰である。得物(えもの・得意の武器)は二本の中脇差(なかわきざし)。この日も背中に鞘(さや)をしつらえ、本間邸を目指している。  : 菱喰:〈M〉くくく…木島の奴は呆気なかったね。仕置きに一晩耐えられなかったんだから。光慶(みつよし)さまの害になる虫は退治してやらねば。さぁ、今度は本間の殿様の番だ。ふふ…旗本としての力があるものか、とっくと見せてもらおうじゃないか。 阿武:〈N〉何度も忍び込み、勝手知ったる本間の屋敷。ただ、今は護衛の侍どもがいる。だが、それもまた想定内のことであった。懐から焙烙玉(ほうろくだま・火薬弾)と煙玉(けむりだま)を取り出すと、火口(ほくち)から火をつけて庭に向けて放り投げた。勢いよく広がる煙の中から炸裂音が響きわたる。 詠:〈M〉ん!? …とうとう来なすったねぇ。遅かったじゃないか。 詠:〈以下、セリフ〉敵さんがおいでなすったよ! あんたらは、二手に分かれ、庭と勝手口に向かうんだ! 阿武:〈N〉お詠はテキパキと指示を出す。この目立つ音と煙は陽動だろうと、そう踏んでいる。敵が狙うは本間の首。それが分かっているからには、自分が奥の間を守るつもりであった。 菱喰:〈M〉ふははは。まるで燻(いぶ)された虫のようにわらわらと侍どもが湧いてくるじゃないか。そんなところに私はいないよ? ふふふ…遅い遅い… 阿武:〈N〉護衛の侍たちは、いまだに襲撃の規模や賊の人数を掴みかねている。太平の世の弊害(へいがい)か。裏に生きる者たちに対応できる人材は、ここには居そうもない。そう、ただ一人、お詠を除いて。 菱喰:〈M〉まったく武家(ぶけ)だの武門の誉(ぶもんのほまれ)だのとご大層に御託(ごたく)を並べても、大事な時にものの役にも立ちゃしない。こいつらは光慶(みつよし)さまの手下(てか)には要らないね。 阿武:〈N〉菱喰は右往左往する護衛を尻目に、天井裏に忍びこむ。たまたまなのか、お詠の指示か、そこには誰もいなかった。 菱喰:〈M〉ふん。不用心なこった。殿様の暗殺といえば、天井裏か床下からと相場は決まっているだろう…。 阿武:〈N〉本間佑顕(ほんますけあき)がいるであろう奥の間に向かう菱喰。本間と木島主従が酒を酌み交わしていた居間の一つ奥にある、本間の居住空間である。 菱喰:〈M〉…こりゃ拍子抜けだね。庭詰めの家来はいても、屋敷の中は手薄に過ぎる。木島は「事故死」で片付けられたそうだが…よもやそれを鵜呑みに? 阿武:〈N〉奥の間の上にきた菱喰の表情が変わった。疑問や懸念は息を潜め、獲物を狩る者の眼差しで本間の息遣いを探っている。 本間佑顕:よいかっ! ここには誰も近づけるでないぞ! 身をもって主人(あるじ)を救え! 阿武:〈N〉情けない要求を廊下に投げつけると、自身は襖(ふすま)を閉めて奥の間に閉じこもった。お詠はその手前の居間にいる。 詠:〈M〉あれあれ…情けないお旗本もいたもんだ。こんな調子で、果たして戦場(いくさば)の役に立つのかねぇ。将軍さまのご家来衆も一部以外はなまっちまってるよ。…まぁ、それも仕方がない、か。 詠:〈M〉…ん? この気配は。思った通り、菱喰のお出ましか。こっちの腕の程も、一度見てやろう。 阿武:〈N〉奥の間に入ったことを確かめて、菱喰が動き出す。ほとんど音を立てることもなく、本間佑顕(ほんますけあき)の目の前に降り立った。 本間佑顕:ん? だ、だ、誰だお前は! お前かっ、木島をやったのは! 阿武:〈N〉慌てながらも問いかける本間。菱喰は答えない。その代わりに懐から棒手裏剣(ぼうしゅりけん)を一本取り出し、本間の股座(またぐら)に投げつけた。「どすっ」…本間が防ぐ間もなく、暗器(あんき・暗殺用の武器)は深々と畳に刺さっている。 本間佑顕:わしを…わしを誰だか知って、ここに来たのであろう? …ふはは、むざむざとやられる訳がなかろうが。 本間佑顕:えぇい、「竜胆」ぉ! 「竜胆」はおらぬかぁぁぁ! よい。奥の間への立ち入りを許すっ!! 菱喰:〈M〉何? 「竜胆」? 「りんどう」と言ったか? もしや… 阿武:〈N〉護衛を呼ぶ本間の声を気にしながらも、菱喰は、殿様目掛けて進んでいく。その歩みはゆっくりと、本間の様子を眺めるかのようである。手には一本の中脇差(なかわきざし)。ひんやりと露を帯びたその刀身は一目で名刀とわかるそれであった。 菱喰:〈M〉その「竜胆」ってのがあのねえさんなら嬉しいんだけどね。…ま、すぐに分かるだろうさ。今はこの間抜けな殿さまをやっちまわないとね。 本間佑顕:な、な、な、なんなんだお前は! なぜわしを狙う?  菱喰:〈M〉あ〜あ、手が震えてないかい、ありゃあ。武者ぶるいなら大歓迎だけどねぇ。 本間佑顕:り、り、竜胆っ! 竜胆は何をしておるっ! この役立たずがぁ… 菱喰:〈M〉役立たず? くくく…役立たずは自分のことだろうに。あぁ、この「お武家さま」も外れだねぇ。私を震わせるほどのものは何も持っちゃいない。さっさとそのタマ、とっちまうかね… 阿武:〈N〉菱喰の刀が、大上段から振り下ろされる。それをかろうじて刀で受け流す本間佑顕(すけあき)。旗本の力をかろうじて振り絞っている。 菱喰:〈M〉へぇ、あれを受け流すか。…ちょいと遊びが過ぎたかね。(それじゃあ次はっと…) 詠:【前の菱喰のセリフに被せて】そこまでだよ。…今からは私が相手だ。 菱喰:〈M〉…あはは。こんなことがあるんだねぇ。やっぱりあのおねえさんだ。「独特な仕事」ってのはこのことかい? …いいねぇ。久しぶりに楽しくなってきた。 阿武:〈N〉菱喰はくるりと本間に背を向ける。その隙に一撃を加えようと本間が動いた。 本間佑顕:…ばかめ。おりゃあ! 阿武:〈N〉金属音が鳴り響く。菱喰は振り返ることもなく、本間の刀を弾きとばしていた。腰を抜かし、へたりこむ本間佑顕(すけあき)。そこへ一言、菱喰が低い声で告げる。 菱喰:【これはセリフ】…斬りかかる時に声を上げるな。 詠:〈M〉…へぇ、なかなかやるじゃぁないか。 阿武:〈N〉挨拶がわりとばかりに、お詠は忍刀(しのびがたな)を抜く。刀身が光を反射させることはないが、その存在感は菱喰に伝わっている。 菱喰:〈M〉このねえさん、使えるね。…ふふふ、朝霞屋(あさかや)の回状の通りなら、あの「常闇の長治(とこやみのちょうじ)」と同等の腕前。これは期待が持てそうだ。 阿武:〈N〉菱喰は手にした中脇差を逆手(さかて)に持ち替え、背にしたもう一本も抜いた。二振り(ふたふり)の刃(やいば)をハの字に構え、お詠目掛けて走っていく。 詠:〈M〉ほう。二刀づかい、か。久しく見ないねぇ。…ははは、いいよ、遊んでやるとするさ。 菱喰:ふっ、はっ! えいっ! 阿武:〈N〉菱喰の二本の刀が、左上段と右下段の両方からお詠に襲いかかる。 詠:〈M〉…へぇ。淀みのない剣筋だ。しっかりと修練を積み、実戦を重ねた者の力量、か。…でもね。   阿武:〈N〉お詠は手にした得物(えもの)で右上段に合わせ、ひらがなの「つ」を描くように相手の二刀(にとう)をはね上げる。素早さと正確さがなければとてもできない芸当である。 菱喰:〈M〉…ふふふ。思った通り、すごい腕前だ。こりゃ朝霞屋(あさかや)の言う通りなんだろうさ。 本間佑顕:そ、そうだ、やれい、やってしまえ、竜胆っ。 阿武:〈N〉気を持ち直した本間が、声をかける。それを聞いたお詠は、踵(きびす)を返すと、柱に向かって走り出した。 菱喰:〈M〉…ん? 何をする気だ? 阿武:〈N〉様子見の菱喰に向け、お詠は懐の飛び苦無(とびくない)を投げつける。一息で三本。上・中・下に分かれ、それらは菱喰にまっすぐ向かっていく。 菱喰:〈M〉へぇ。目にもとまらぬ早業ってやつだね。もっとも私には見えているがね。そらっ。 阿武:〈N〉手にした二刀で難なく弾き飛ばす。菱喰が次に目にしたお詠は、床柱(とこばしら)目掛けて走っていた。その勢いに、本間が焦り出す。 本間佑顕:ひ、ひ、お、おま、お前はわしを守るのが、つ、務めであろう! 阿武:〈N〉元よりお詠に本間をどうこうするつもりはない。チラと一瞥(いちべつ)をくべると、床柱を駆け上がり、空中で綺麗な弧を描いた。その最中(さなか)、さらに三本の飛び苦無(くない)を投げつけている。 菱喰:【感心したように】〈M〉…はぁぁぁ、鮮やかなもんだね。飛び道具に気を取られている間に、獲物と私の間に入り込まれちまった。…ふふふ。私としたことが、これはやられてしまったよ。あぁ、楽しい。楽しいねぇ! 阿武:〈N〉二刀(にとう)を内側に向け、姿勢を低くした菱喰がお詠目掛けて走り寄せる。お詠の苦無は、その上を虚しく通りすぎていった。この者の素早さもただごとではない。菱喰はお詠の眼前で浮き上がり、刀を斜め上方に切り上げた。しかし、お詠は動じることなく、それを捌いていく。 菱喰:〈M〉このおねえさん、すごいね。私の技を立ち所に見抜いて刀を合わせてくるじゃないか。しかも、向こうは一本差(いっぽんざし)だ。…ふふふ。そりゃ、現場に出れば出るほど、名が知られるだろうさ。 阿武:〈N〉傍目(はため)には、二人の太刀筋(たちすじ)は見えていない。熟練の剣士二人のやりとりは、薄暗がりの中で、ただ刀の音だけを響かせている。何度目かの鍔迫(つばぜ)り合いの時、お詠が小声で告げた。 詠:ねぇ、あんた。庭に出るよ。 菱喰:あぁ、いいよ。 阿武:〈N〉刀を合わせ、距離を取り、また立ち合う。周囲の侍は分け入ることもできぬまま、固唾を飲んでただ見守っている。息もつかせぬ攻防を繰り広げつつ、二人は庭へと舞台を移していった。 詠:【周囲の警護に向けて】いいかい、巻き添えになるからね、あんたらは手を出すんじゃないよ。 菱喰:〈M〉…あら? 私を捕まえる気はないのか…ね。   阿武:〈N〉くんずほぐれつ刀のやり取りをしながら、お詠は菱喰に語りかけた。 詠:今はね、あのバカ殿をやられちゃ、困るんだよ。 菱喰:…ふふふ。バカ殿、か。上手いことを言う。 詠:惣八さんの願いを叶えるためだ。ここは引いておくれな。 阿武:〈N〉剣戟(けんげき)の音が再三庭に響き渡る。三本の刀が奏でる音は、さながら音曲のそれである。勢いのままに右に周り、左に流れ、いつしか二人の姿は邸内の池に臨む築山(つきやま)にあった。 菱喰:…ねえさんがそう言うんじゃ、仕方がないね…。 阿武:〈N〉菱喰がそう答えた時、雲間が切れて月明かりが差し込んだ。その光がお詠の姿を照らす。下からそれを見上げるようになった菱喰が、ほんの束の間、眩(まばゆ)そうに目を閉じた。その隙にお詠はぐっと間(ま)を詰める。 詠:〈M〉さてと、そろそろ店仕舞いか、ね。 阿武:〈N〉キラリ。池の水面(みなも)に光が跳ねた。横薙ぎ一閃(いっせん)、それを防ごうとする菱喰の刀は甲高い音を発し、宙を舞った。 菱喰:…くっ。これで手加減してるってのかね。ま、いいさ。出直すとしようか。 阿武:〈N〉菱喰はひらりと身を翻し、お詠から距離をとると、チラと刀の行方を見やる。しかし、お詠が一つ頷くのを目にすると、脇の木を蹴り上げて、壁の上に消えていった。 詠:〈M〉まったく、あいつもなかなかのやり手だねぇ。ま、あたしの敵じゃないようだけど。…それにしても、よく「ねえさん」なんて言ってくれたもんだよ。向こうの方が年上じゃないか、絶対。 阿武:〈N〉頭の中で愚痴をこぼしながら、菱喰の中脇差を拾うお詠。汚れを拭(ぬぐ)うと、布を巻きつけた。その足で、本間の元へと向かう。 詠:本間さま、賊は追い払いましたよ。 本間佑顕:ぬ、ぬ、ぬぅ。よくやった…。 詠:本間さまの守りはお侍衆にお任せして、私は、ご老中に報告に参ろうと思うんですがね。よろしいですか? 本間佑顕:…ほ、報告、とな。それはどのような… 詠:ご安心なさいませ、本間さまのことではございませんよ。なんだかんだで、取り逃してしまいましたからねぇ。 本間佑顕:…む。わしも間近で見ておった。お主の腕は十分に、な。良い、報告は任せる。  :  : 木島實統:〈N〉お詠はその足を一旦『竜胆庵』に向ける。そこには行徳から戻ってきた阿武がいた。お互いの成り行きを交わす。惣八の命を救えるかどうか。竜胆二人はそこに全力を尽くしていた。 詠:あぁ、阿武。あたしはこれからご老中のところに行ってくるからね、この刀を綺麗にしておいてくれるかい?【刀を差し出す】 阿武:えぇ、それはようございますが…。【刀を受け取る】ほぉ…これはなかなかの業物(わざもの)ですな。ん、真新しい刀疵(かたなきず)。 詠:ちょいとやりすぎちまったかもしれないねぇ、最後は弾き飛ばしてしまったよ。良い品のようだから、磨き上げておいておくれな。…きっと取りに来るだろうからね。 阿武:と、取りに?? その、菱喰とやらは…。いや、今はよいか。詠さまの仰せの通りにいたしましょう。 詠:あぁ、頼んだよ。    :  : 木島實統:〈N〉お詠が次に向かったのは、南町奉行所。激務の町奉行は、その役宅を奉行所内に設けている。ここで南町奉行の大久保と、惣八の処遇について相談するつもりであった。 詠:【ノックの音】御奉行はいなさいますかい? 木島實統:〈N〉勝手口から顔を出した守衛にそう告げて、お詠は役宅に入っていった。  :  : 本間佑顕:〈N〉その頃、菱喰の姿は大黒屋の元にあった。本間の暗殺失敗を知らせると共に、一連のお詠とのやり取りについても告げている。 菱喰:あのお詠ってねえさんは、朝霞屋(あさかや)の回状の通りでした。とんでもないですよ。残念ながら、刀では、私は敵わないでしょう。 本間佑顕:〈N〉「ほう、それほどか」いつもの笑顔を浮かべながら、大黒屋が興味を示している。 菱喰:えぇ。剣術だけでなく、体術も一流です。光慶(みつよし)さまがおっしゃるように、敵に回さない方が賢いと思われます。 本間佑顕:〈N〉「敵の敵は、味方よの」という大黒屋に、菱喰が嬉しそうに語る。 菱喰:一度『竜胆庵』を訪ねてきます。私の刀もそこにあるでしょうから。お互い使える内は利用し合うというのもよろしいでしょう。 本間佑顕:〈N〉珍しく相手に入れ込む菱喰を見て、面白そうな笑い声を上げる大黒屋。裏に生きるもの同士が近づくことで、何が生まれるか。大黒屋はそこに現れる何ごとかに期待しているのかもしれない。  :  : 木島實統:〈N〉奉行の役宅から出たお詠は、老中の江戸屋敷に向かっている。その顔はこわばっていた。南町奉行を務める大久保から、惣八を巡る「よくない流れ」を聞かされたからである。「すまねぇ、俺の力も、ここまでのようだ…」…奉行の言葉が耳から離れない。お詠は自然と足早になっていた。 詠:【ノックの音】…ご老中、酒井さまにお目通り願います。 木島實統:〈N〉屋敷に迎え入れられたお詠に告げられたのは、最悪の筋書きであった。それは「惣八は磔刑(たっけい)。刑の執行役は本間佑顕(ほんますけあき)」というもの。さらに、一つの命(めい)がお詠に下される。「刑が無事に終わるまで、本間佑顕を警護せよ」…受け入れ難い現実を突きつけられ、お詠は老中に食い下がった。 詠:【以下、大声ではない】ご老中! あのように高潔な名主(なぬし)は土地の宝にございます。それをみすみす死なすとそうおっしゃるのですか? しかも…それを目の当たりにせよ、とは…。 木島實統:〈N〉当時、大名の監視は大目付が、旗本の業績は目付が管轄(かんかつ)していた。本間はそのどちらの筋に対しても、大金を献上していたのである。元来、大目付は老中の、目付は若年寄(わかどしより)の管理下にあるが、そのどちらもが自分を無下(むげ)に扱えないように手を打っていた。大目付・目付は時としてそれら上役(うわやく)を上回る力を持っている。さしもの老中首座(ろうじゅうしゅざ)酒井も、力なく首を振った。 詠:ご老中…。よろしいのですか、本間のような旗本の横暴を許していても…。金の力とは、それほどまでに大きいのですか…。私の手の者から、上様が訴状を手ずからお取上げくださったと聞いております。それはご存知でしょうか。 木島實統:〈N〉「うむ」と一言発し、大きく頷く老中。旗本の狼藉(ろうぜき)を上様が許される筈はない、と話す酒井の目は落ち着いている。やはり老中ともなれば、一人の名主の扱いよりも、幕府機構の安定が大事か。…詠はやりきれなさを抱えたまま『竜胆庵』へと戻っていった。  : 詠:…阿武、戻ったよ……。ん? あぁ、あんた来ていたのかい。 阿武:詠さま、おかえりなさいませ。こちら、突然のお越しで面食らいましたよ。お刀が「ここにある気がした」だそうです。 菱喰:ねえさん、お帰りなさい、邪魔してますよ。…どうしました? 浮かない顔をして… 詠:なぁ、あんた。一つ頼みを聞いちゃくれないか…。 木島實統:〈N〉三人で何事かを相談しながら『竜胆庵』の灯は落ちていく。  : 惣八:〈M〉結局私は刑死することが決まりました。それはよいのです。元々覚悟の上の訴えでしたから。しかし、それを告げにいらしたお奉行のおつらそうなことと言ったら…。私のような、吹けば飛ぶ命なぞ、もっと軽くお扱いになればよろしいのです。こんな命が代わりになるのなら、お安いご用でしょう。……まったく、あのお方の人情の厚さには、私も後ろ髪を引かれてしまうではありませんか。  :  : 菱喰:〈N〉その日。惣八は、早朝から江戸市中を馬に乗せられ引き回された。事前に用意した白木綿(しろもめん)の単衣(ひとえ)を身につけている。罪状は「直訴状の内容に不届(ふとどき)があった」というもの。「不届」の中身については明かされていない。日本における「磔刑(たっけい)」は凄惨(せいさん)そのものである。“泣かずの惣八“の名声は江戸にも及び、その惣八が磔刑に処されると聞いて、多くのものが集まっていた。  : 本間佑顕:おい、竜胆。この惣八というのは不届千万(ふとどきせんばん)でな。領主である我らに楯突いて仕方がない。わしの手でその命の灯火(ともしび)を消してやれると、清々しておるのよ。 詠:…そうですか。 本間佑顕:…なんじゃ。連れないではないか。まぁ、良い、お主は警護さえしておればよいわ。 詠:えぇ。本間さまのお命は、私がお守りしますよ。   菱喰:〈N〉刑場には、カタカナの「キ」の形に材木が組まれ、その脇に二人の槍持ちが控えている。その時、見守る野次馬の声が大きくなった。縄で引かれ、惣八が刑場入りしてきたのである。「行徳の惣八、これへ!」一際大きな声がかかり、惣八は磔台(はりつけだい)までゆっくりと歩みを進める。 惣八:はい。間違いありません。私が行徳の惣八にございます。 菱喰:〈N〉人改(ひとあらため)の同心(どうしん)に答える惣八。刑吏(けいり)に促され、磔台上(はりつけだいじょう)の人となった。 本間佑顕:ほほ。落ち着いたフリが上手いことだわ。内心、恐れ慄(おのの)いておるであろうにのう。 菱喰:〈N〉まず手首、次に上腕が縄で縛られ、磔台(はりつけだい)の上で、体の自由を奪われていく。 本間佑顕:はっはっは。見よ。抵抗もせず、行儀のよいことよ。はっはっは。 詠:〈M〉…この男…。役務(えきむ)さえなければ、今すぐ叩き切ってやるのに。 菱喰:〈N〉惣八の足首、胸も順に縛られていく。惣八は抗(あらが)うことなく、されるがままになっている。しかし、その目はまだ死んでいない。それを目の当たりにするお詠は気が気ではない。 本間佑顕:あの男も、もったいないことよ。わしらに素直に従ってさえいればのう。 詠:〈M〉くっ…あんたが追い込んだ本人だろうっ。 菱喰:〈N〉いよいよ腰が縄で縛られ、磔台に全身が固定された。それを見て、本間佑顕(ほんますけあき)は満足そうに頷いた。 本間佑顕:【威厳めかして】執行役として、行徳の惣八に伝える。なんぞ、言い残すことはないか。何かあれば、行徳の領主としてしかと聞いてやる。 詠:〈M〉はぁ? 領主だって? どの面さげて言ってんだ。  : 木島實統:〈N〉刑場を見守る群衆の中に阿武がいた。その横には菱喰も立っている。阿武は惣八の様子を見ながら、祈るようにその場に立ち尽くしていた。 阿武:〈M〉あのように立派なお方が、なぜ刑に処されねばならないのか……自分の力のなさが恨めしい。 惣八:お殿様、行徳の地をよりよい町になさいませ。それより他にお願いすることはございません。 詠:〈M〉…惣八さん、最後の最後まで、あなたってお人は… 阿武:〈M〉惣八さま。…惣八さま。まことに、あなたさまほどのお方は、日の本に二人とおりますまい…くぅうう。 本間佑顕:よい。我に任せよ。お前の望む通り、よい町にしようではないか。その願い、叶えてつかわす。 惣八:ありがき、幸せにございます。 菱喰:〈N〉ちらとお詠に視線を向けてから、惣八はこう言った。   惣八:…最期に、辞世の句など詠んでもよろしいでしょうか。 本間佑顕:なんじゃ、侍の真似事か。ははは、よいぞ。許すっ。 惣八:あんのんと えいのひかりが さすのべの はなにぞともす 行徳の恩 惣八:(安穏と 永の光が 射す野辺の 端にぞ灯す 行徳の恩) 惣八:(阿武と 詠の光が 差す述べの 花にぞ友す 行徳の恩)   木島實統:〈N〉惣八がその通る声で辞世の句を口にする。そこには行徳の人々と、お詠と阿武に対する深い感謝が込められていた。その意味を汲(く)んだ竜胆二人は、惣八の思いを痛烈に受け止めている。   詠:〈M〉…そんな、そんなのってあるかい…この人の最期をあたしゃ何もできずにただ見るだけなのかい… 阿武:〈M〉…うぅ。惣八さま、ありがたき、ありがたきお言葉、確かに胸に収めましてございます…くっ。 木島實統:〈N〉最後の言葉を言い終えたのを見て、刑吏が胸の部分を剥ぎ取る。槍を確かに貫き通すための作法であった。そして二人の槍持ちが惣八の目の前で槍を交差させる。いよいよ処刑間近である。 本間佑顕:やれいっ! 惣八:〈M〉あぁ、空がどこまでも青く広がっている。…思えば、私の人生は、人に助けられてばかりだった。 木島實統:〈N〉惣八が見る世界から音が消えた。ただ一つ、耳にキーンという甲高い音が聞こえている。それ以外の音も、雑念も、恐れも、今はない。 惣八:〈M〉私は真っ当に生きることができただろうか。幾許(いくばく)か、人のために役立てて、その生を終えるのであれば、生まれてきた甲斐もあろうというものだ。多くの方にお引き立ていただいた。そのご縁とご恩を胸に、堂々と三途(さんず)を渡ろうではないか。 木島實統:〈N〉その一生を振り返り、多生の縁(たしょうのえん)のありがたさを思い知る惣八。いつしか、その目に涙が浮かんでいた。赤子の頃はいざ知らず、物心ついてからは泣いたことがない、と言われた「泣かずの惣八」が泣いている。その涙にお詠は気づいていた。 詠:〈M〉…あぁ、惣八さんが微笑んでいる。もう仏様になられたのかねぇ。 詠:今生(こんじょう)の苦界(くがい)での生き様、あたしがこの目に焼き付けますからね…。 木島實統:〈N〉槍を持った二人の刑吏が「アリャアリャ」と声をあげる。右側の一人が槍を右脇下から左の肩先を目掛け、勢いよく突き立てた。血飛沫(ちしぶき)を散らし、惣八の体がビクッと大きく揺れる。   惣八:グォォォっ…がはっ… 詠:〈M〉…なんであの人がこんなに苦しまなきゃならないんだ。 詠:…菱喰……頼んだよ。   木島實統:〈N〉続いて、左の刑吏がその対称から惣八を貫く。ほとばしるさらなる鮮血。しかし、惣八がそれ以上の叫び声を上げることはなかった。 菱喰:なぁ、阿武さん。もういいだろう? 阿武:【泣き叫びたいのを我慢して】……はい、お願い、します。 菱喰:…あぁ、任せな。フッ【毒矢を吹く】   木島實統:〈N〉一つ目の槍が惣八を貫いた時、菱喰が吹き矢を吹いた。木島を射た正確な矢が、人知れず惣八の首筋につき立っている。惣八は、二つ目の槍に苦しむことなく、帰らぬ人となっていたのである。磔刑(たっけい)においてはその後も串刺しが続く。これは作法であり、罪人が死んだとしても、それは変わらない。その数はなんと三十を数えるほどであった。 本間佑顕:…いや、これは、ぐむ……なんとも…。【気分を悪くする】 本間佑顕:…ふぅ、ふぅ。わ、わしは少し席を外す…。 詠:…よろしいんですか? 刑場の総責任者がいなくなっても。 本間佑顕:…う、う、うるさい。あのように血みどろの姿など、み、み、見ていられるものか。 詠:あらあら、本間さま、お顔が青うございますね… 本間佑顕:おけぃ…。おいっ、誰ぞある。 本間佑顕:【家臣が近づくのを見て】うむ。お前に名代(みょうだい)を任せる…うぅ。   詠:お大事になさいませ。 詠:〈以下、M〉吹き出す血やこぼれる臓物(ぞうもつ)に気を悪くするのか。…ふん。情けない旗本もいたもんだ。…惣八さん、不甲斐ないあたしらを許しておくれ…。 木島實統:〈N〉本来、磔刑で死した罪人は、その遺骸(いがい)を放置される。引き下ろされた後、穴に放られ、犬やカラスの喰(は)むに任されるのである。しかし、この日、惣八の遺体は早桶(はやおけ・粗末な棺桶)ではあったが、棺桶に入れられた。本間佑顕はそれを見ていない。本間が気にかけていた、常と違う成り行きがここにも一つ見られたのである。その意味に彼が気づくまで、時間はそれほど残っていない。  :  : 菱喰:〈N〉惣八の処刑のあくる日。お詠の姿は老中の江戸屋敷にあった。そこでお詠は本間の処遇を聞くことになる。 お詠:……そうですかい。それでは惣八さんの死は無駄ではなかった、と。 お詠:よかった。本当によかった。大久保さまから惣八さんにも伝わっていたんだねぇ…。 菱喰:〈N〉その命まで救うことは叶わなかった、と詫びる酒井。そこに将軍の意思があると聞き、悲しみは消えぬまでも虚しさは少し、薄れていった。  :  : 阿武:〈N〉木島に代わる家老を任命し、惣八の処刑も終えた本間家では、佑顕(すけあき)が上機嫌で酒宴を催(もよお)している。 本間佑顕:はっはっは。邪魔なものも消えたし、これから行徳でもっともっと財を作っていかねばのう。【酒を飲む】ぐびっ…。おう、お前らも飲め、飲めぇ! 本間佑顕:わっはっは。わぁ〜はっはっは。   阿武:〈N〉ドンドンドン! 賑やかな居間を望む静かな庭園に、門を叩く音が響く。「開門!」重みのある声を聞き、門番は勝手口ではなく、正門を開いた。そこにいたのは、公儀からの遣い(つかい)である。   本間佑顕:…あぁ? なんじゃ、皆で楽しゅう飲んでいるというのに…えぇい。 本間佑顕:な、何? 公儀の遣い、じゃと? こんな夜更けに一体なんじゃ…。 阿武:〈N〉遣いを出迎えた本間に告げられたのは、本間家の改易(かいえき)、当主佑顕(すけあき)の切腹であった。 本間佑顕:なんですと? 我が家が改易? わしが切腹?? なぜじゃ、なぜなんじゃ。 阿武:〈N〉「うるさい」と一蹴(いっしゅう)される本間佑顕に、続けて罪状が伝えられる。 本間佑顕:〈M〉ざ、罪状だと……大目付や目付は何をしておるのだぁっ 阿武:〈N〉「旗本、本間佑顕(ほんますけあき)。天領、行徳での不行跡(ふぎょうせき)、惣八の訴状により明白である。そちの申し立てと異なる点、多数これあり。功ある惣八を私怨(しえん)にて処断すること、甚(はなは)だ許しがたし。また、賂(まいない・わいろのこと)を公儀役人に贈りて融通を求めしこと、大目付、目付など複数の筋から訴えが上がっておる」…と聞いた本間の顔色がサッと変わった。   本間佑顕:な、何ぃ!  本間佑顕:〈以下、M〉くそぉ、くそくそくそぉぉ。寝返りよったなぁぁぁ。 阿武:〈N〉さらに遣いがこう告げる。「先の刑場における執行役はそちである。その命(めい)を軽んじ、職務を放棄した、との報告もある。旗本は上さまを守るべき大切な役儀(やくぎ)。その方の無作法(ぶさほう)を聞けば、旗本の任に置くこと能(あた)わず。これらにより、本間家は改易。そちには切腹を申しつける」 本間佑顕:お、お遣い殿に申し上げる…。こたびの裁き、どこの誰によるものか。 阿武:〈N〉遣いは怪訝な顔をして「なぜ、それを聞く」と応えた。 本間佑顕:…ははっ、仮に南町奉行の大久保によるものであれば、それは、彼奴(きゃつ)の(本間家に対するやっかみによるものと存ずる) 阿武:〈N〉【前のセリフに被せるように始める】遣いが告げる。 阿武:「控えぃ! 上さま直々に断罪されたものである」と。 本間佑顕:なんと! 上さまのご裁量、とは…。は、はは【力なく項垂れる】  :  : 菱喰:〈N〉こうして、行徳の一件は落着を見た。行徳は旗本領ではなくなり、公儀直轄(ちょっかつ)の地に戻ることとなった。惣八の功績は、すでに行徳一円で語り草となっている。 詠:〈M〉これで悪徳の者はすぐに目立つからねぇ、悪さもできなくなるだろうよ。惣八さんの願いは「行徳の安穏(あんのん)」。これからも安らかに過ごせるよう、あたしらも目を配ります。…惣八さん、あなたのことは終生忘れないからね。 阿武:〈M〉惣八さまの刑死は、必要なものではあったのでしょうが…。あのように高廉(こうれん)なお方は、そう易々(やすやす)と求められるものではございますまい。   惣八:【阿武の回想】行徳の地をよりよい町になさいませ。それより他にお願いすることはございません。 阿武:お言葉の一つ一つ、お振舞いの一つ一つが。そして磔台でのご様子がこの目から離れません。……お預かりした訴状は、いつの日か、公(おおやけ)にいたしますからね。  :  : 木島實統:〈N〉行徳(ぎょうとく)の惣八は公儀の計らいで法甲寺(ほうこうじ)に葬られた。離縁された元妻、行徳の名主たちも参列を許され、その葬儀はしめやかに執り行われた。墓石の傍らには、竜胆が植えられている。惣八の墓に墓碑(ぼひ)が建ち、『行徳の義民 惣八 ここに眠る』と、その業績と辞世の句が刻まれるのは、まだ、しばらく後(のち)のことである。 惣八:〈M〉あんのんと えいのひかりが さすのべの はなにぞともす 行徳の恩  :  : 0:仕掛屋『竜胆』閻魔帳 的之肆・後編 これにて終演でございます。長丁場の上演お疲れ様でございました。 0:数ある台本の中から、本作を手に取ってくださりありがとうございます。 0:他の話もお目通しいただけますと幸いです。皆さまの声劇ライフのお役に立てますように。

仕掛屋『竜胆』閻魔帳 〜的之肆・後編〜〈義民の涙〉 ※注意※:① 人物の性別変更不可(ただし演者さまの性別は不問です) ※注意※:② 話の筋の改変は不可。ただし雰囲気のあるアドリブは大歓迎 ※注意※:③ 場面の頭にある〈N〉の声質は役にこだわらずご自由にどうぞ。 ※要確認※:本作には刑場での処刑シーンがあります。 ※要確認※:そこまで生々しくはないですが、苦手な方もいらっしゃるかと思います。 ※要確認※:上演前に一度内容をご確認ください。 詠:詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。 詠:二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。 詠:行徳の大名主、惣八を何とか救えないかと奔走中。 阿武:阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。 阿武:闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」。詠のお目付け役、兼、バディ。 阿武:今作では惣八を常に見守る。 阿武:※兼役に「名主A」「客A」「先触れ役」があります。 菱喰:菱喰(ひしくい)。朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)と並ぶ大親分、大黒屋光慶(だいこくや みつよし)の懐刀。 菱喰:黒装束に身を包み、大黒屋のために日夜身を粉にして働いている。 菱喰:的之参の「末藏」と異なり、こちらは本職の系譜に連なるという噂があるようだ。「お玉」は世間での仮の姿。 本間佑顕:本間佑顕(ほんま すけあき)。三千石取りの旗本。今回「行徳」の地で私腹を肥やそうとして行動を起こす。 本間佑顕:家来の木島を使い、屋敷に居ながらにして動静をうかがう殿様である。 本間佑顕:※兼役に「名主B」「岡っ引きB」「客D」があります。 木島實統:木島實統(きじま さねむね)。本間家の家来。陰湿なやり口で行徳の村に無理難題を吹っ掛ける。 木島實統:吉原に馴染みの遊女「花房」がいる。 木島實統:※兼役に「客C」があります。 惣八:“泣かずの惣八(そうはち)” との異名をとる、硬骨の名主(なぬし)。行徳の地のとある村を見事に治めている。 惣八:行徳の領主が本間家に替わってから一年。これまでのような、交渉ごとに乗ってもらえる領主ではないと痛感し、我が身を顧みず行動を起こす。 惣八:※兼役に「岡っ引きA」「客B」があります。 ※補足※:実は「直訴」=「死罪」ではありません。 ※補足※:ほとんどの場合、直訴自体が罪になることはありませんでした。ただし、今作では… 0:以下は人物紹介 りん:シリーズ〜的之壱〜で詠に斬られた「左馬」の娘。 りん:九〜十一歳ほどを想定しています。的之参〈急(第3部)〉で初めて声を発した。 りん:今回はお留守番。東庵先生のもとで学んでいます。 伊勢屋:シリーズ~的之壱~で「ね組」の左平次によって店を焼かれた。 伊勢屋:左平次のたくらみで、あわや身代(しんだい)まで奪われようとしていたところを「竜胆」の活躍で救われた。今は店を立て直し、江戸で活躍する豪商となっている。 常闇の長治:シリーズ~的之弐・的之参~に登場。香具師の大親分、朝霞屋嘉兵衛(あさかやかへえ)手下(てか)随一の殺し屋。  : 0:〈 〉NやM、兼役の指定 0:( )直前の漢字の読みや語意・一部被るセリフ。 0:【 】ト書 それっぽくやってくださると幸いです。  : 0:以下、本編です。 : : 菱喰:〈N〉翌日の早朝。伊勢屋のもとをお詠と阿武が訪れてきた。奉行所に訴えを起こす惣八の警護を務めるためである。初夏とはいえ、朝方は涼やかな風が吹き、この日も空は抜けるように青い。その青空を見つめながら、何かを噛み締めるようにして惣八がやってきた。軒先(のきさき)まで出てきた伊勢屋は、お詠と阿武に頭を下げている。 : 惣八:お詠さん、阿武さん、早くからありがとうございます。伊勢屋さん、昨晩は本当にお世話になりました。昨夜の話、勝手な願いではございますが、何卒(なにとぞ)よろしくお願いいたします。……では、行って参ります。 詠:まぁ、町中(まちなか)で襲われることもないだろうが。念のため、あたしらが道中の供を務めますからね。 阿武:えぇ。惣八さま、失礼ですが私どもの間においでくださいましね。伊勢屋さま、それでは。 菱喰:〈N〉伊勢屋に向けて深々と礼をする惣八。対する伊勢屋は三人の姿が見なくなるまで見送っている。言葉数は少なくとも、心が通い合っている二人を見て、お互いへの信頼を感じとるお詠と阿武であった。 詠:それで、惣八さん、御番所(おばんしょ・町奉行所の町人からの呼び方)をお尋ねになるんですか? 惣八:はい。御奉行(おぶぎょう)の大久保さまにお取り立て願おうと思っております。 阿武:今月の当番は南町(みなみまち)奉行所でしたね。確かに、大久保さまであれば、目付の方々にも顔が利きましょうからなぁ。 惣八:阿武さん…、お詳しいですな。 詠:ははは。江戸の町で掃除の真似事をしていますとね、耳年増(みみどしま)になっちまうんですよ、そういった事情にね。 阿武:ただ、お力添えするほどの伝手(つて)は持ちませんので…。申し訳ございません。 惣八:いえいえ、何をおっしゃいますか! ここまでしてくださることに感謝しかございませんよ。 詠:惣八さん、大久保さまとはご面識がおありなのですか? 惣八:はい。何度か行徳(ぎょうとく)を治めるお代官やお旗本のことで相談に上がったことがありまして。その際によくしていただきました。 阿武:ふむ。大久保さまは、激務の町奉行を務められながらも、市井(しせい)の民(たみ)のことを気にかけてくださると評判でございますからな。 詠:今時、珍しいお奉行さまであるのは確かだねぇ。…そのうち、読み物にでもなっちまうかもしれないね。ふふふ。  : 菱喰:〈N〉本間家とその家臣、木島(きじま)の行状についてしたためた書を懐(ふところ)に入れ、惣八は奉行所の看板を黙って見つめている。その目には、堅い決意が浮かんでいた。  : 惣八:お詠さん、阿武さん、道中ありがとうございました。為すべきことを為しましたら『竜胆庵(りんどうあん)』をお訪ねいたします。 詠:はいよ。無事のお帰りをお待ちしていますよ。 阿武:訴えが成就(じょうじゅ)するよう、お祈り申し上げます。   惣八:…ありがとうございます。それでは。 惣八:【以下、奉行所の守衛に】お頼み申します。行徳(ぎょうとく)の大名主(おおなぬし)惣八にございます。御奉行、大久保さまにお取次(とりつぎ)くださいませぇ。 詠:阿武、すまないが、惣八さんが何事もなく出てくるまで、この辺りで待っていちゃあくれないかね。 阿武:えぇ、それがようございましょう。よもや奉行所の中まで本間(ほんま)の手が及んでいるとは思えませんが…。 詠:そうだね。ただ、何が起こるかわからないからね。あたしゃ、先に大久保さまに一言伺ってから『竜胆庵』に戻るとしようかね。 阿武:はい。詠さまもお気をつけて。  : 木島實統:〈N〉江戸の町奉行所は月番(つきばん)制をとっており、北町(きたまち)奉行所と南町奉行所とが、月毎に交代で訴訟を受け付けていた。基本的には江戸近郊の事案について取り上げていたが、幕臣(ばくしん)や諸大名に関わる訴えも受け付ける。町奉行とは旗本が就く職位の最高位であり、目付(めつけ・こちらは幕府の職)や勘定奉行(かんじょうぶぎょう)、遠国(おんごく)奉行などの経験を積んだ者が任命されていた。奉行所では当番月に受け付けた訴訟について、非番の月に審理が行われる。その職掌は多忙を極め、町奉行の中に在任中に心身をこわし、死亡するものもいるほどだったのである。  :  : 本間佑顕:〈N〉奉行所脇(わき)の小門(こもん)から中に入ったお詠は、四半刻(しはんとき・三十分)ほどで表に出てきた。何やら浮かない顔をしている。阿武に耳打ちして、一人『竜胆庵』へと戻っていった。  : 阿武:〈N〉一方、大黒屋の屋敷では菱喰(ひしくい)が報告を上げている。行徳は大黒屋の縄張りであり、朝霞屋(あさかや)との勢力争いでもかなりの優位に立っている地域である。そこの安定は大黒屋にとっても重要案件であった。「名産の塩」は、それほど大きな意味を持っている。  : 菱喰:光慶(みつよし)さま、本間(ほんま)の好きにさせていては、あすこはガタガタになってしまうでしょう。今時分(いまじぶん)、惣八が奉行所で訴えを起こしているところでしょうが、本間や木島の落ち着きぶりを見ると、訴え自体が実を結ぶことはないと思われます。 : 阿武:〈N〉大黒屋は笑顔を絶やすことなく菱喰の話を聞いている。“仏の大黒“ として庶民からの人気も高い。しかし、その実、朝霞屋に比肩(ひけん)する香具師(やし)の大親分として地盤を固めていた。菱喰は、その顔から笑みを外した大黒屋を知る、数少ない一人である。  : 菱喰:まずは家来の木島から消そうと思います。よろしいでしょうか。 阿武:〈N〉「任せる」とのみ発する大黒屋。この男は菱喰の力を大層買っている。 菱喰:木島は吉原(よしわら)に「花房(はなふさ)」という馴染み(なじみ)がいるようです。吉原の大門(おおもん)を、警護の衆を引き連れてくぐるような無粋(ぶすい)はできないでしょうからね。そこで仕掛けますよ。また、殿様の方ですが、時宜(じぎ)を得れば、こちらも綺麗にしておきます。 阿武:〈N〉「ほっほ」と薄く笑う大黒屋。先ほどと同じ言葉を繰り返し、菱喰に薬包(やくほう)を手渡した。  : 本間佑顕:〈N〉その頃、行徳では惣八以外の名主を集め、木島がまたもや難癖をつけている。行徳の経済性は近隣でも飛び抜けて良い。そこを腰掛けと考える本間家と、先祖伝来の地として永住が当然の土地の者とでは、端(はな)から折り合いが着くはずもない。  : 木島實統:村方(むらかた)の三役は集まったか? …よし。こたびは皆のものに苦しい話をせねばならぬ。私もまことに心苦しいことではある。しかし不正は不正、正さねばならぬのだ。分かるな?  詠:〈N〉村々の三役たちは、ここまでの顛末(てんまつ)を知っている。よって、木島、ひいては本間家への信頼は厚くない。それを知ってか知らずか、悪びれる風(ふう)もなく、木島は口上(こうじょう)を垂れていく。 木島實統:それとは別に伝えねばならぬことがある。こちらは皆にとってよい話となろう。苦しい話とよい話がそれぞれ一つ。さて、どちらから聞きたいかの、うん? 名主A:〈阿武兼役〉それでは「苦しい話」からお聞かせくださいませ。 木島實統:ほう…。そちらから望むか。よかろう。心して耳を傾けよ。我ら本間家の目付(めつけ・こちらは幕臣ではなくただの監察官)から、「抜き塩(ぬきじお)」の報告があってな。まさかとは思うが、江戸に納めるべき「行徳の塩」を懐に入れる不埒(ふらち)ものはおるまいな? 名主B:〈本間兼役〉ぬ、抜き塩ですと!? それは手前どもが塩を不正に抜きとっていると… そうおっしゃるので? 木島實統:左様。塩は民草の生活に欠かすことのできぬもの。塩がなければ我々は生きていけぬからな。その塩を私(わたくし)するものが居れば、これは許しておけぬではないか。…違うか? 名主A:〈阿武兼役〉それはその通りにございますが、して、その「抜き塩」とはどこにありますので…? 木島實統:ふむ。こちらの手の者によれば、惣八が管理いたす「室(むろ・貯蔵庫)」に大量の甕(かめ)があり、それに塩が入っているそうではないか。 名主B:〈本間兼役〉お、「お室の塩(おむろのしお)」でございますか!? 名主A:〈阿武兼役〉木島さま、あの塩は江戸に当方の塩を送るという役目をご公儀より仰せつかったおり、ご老中より直々に役料(やくりょう・手当)としてお認めいただいたものです。 名主B:〈本間兼役〉その通りでございます。荷役(にやく)などの日当、駅家(うまや)の整備などに充てこそすれ、私(わたくし)するものはおりません。 木島實統:ほほう。それでは、その「室」に「塩がある」と認めるのであるな。 名主B:〈本間兼役〉ございます。それこそご公儀にお書き付けもございましょう。 木島實統:我が殿が、ここ行徳を拝領した折に、そのような話は聞いておらぬ。また、この一年、その方らよりも聞くこともなかった。また、当家に記録もない。……であれば、これは「抜き塩」に相違(そうい)なかろう。 名主A:〈阿武兼役〉なんと、そのようにご無体(むたい)な… 木島實統:【言葉を荒げず、威圧する感じで】何ぃ? 「無体」であると? 私が横暴を働いていると、そう言いたいのか? 名主A:〈阿武兼役〉いや、さようなことは… 名主B:〈本間兼役〉それで木島さま、「お室の塩」をどうせよ、とおっしゃるので… 木島實統:…ふむ、まぁよい。大切なのは、それよ。…これより先、江戸回送分より外(ほか)、一切の塩を本間家で管理するものとする。 詠:〈N〉何のことはない。単に収益を巻き上げようというのだ。権力を笠に着て横車を押し、本間家に利益をもたらす算段であった。そして、それが自分のためにもなることを木島はよく知っている。村の人々に好かれる必要はつゆほどもなく、無理を通して道理を引っ込めるようなことをして恥ずかしげもない。 木島實統:ひとまずその「室(むろ)」に案内(あない)せよ。実情を見ぬことには事が進まぬのでな。 詠:〈N〉惣八の屋敷の裏手に入会(いりあい)の林がある。村の共同資源となっている林である。そこに古来より活用されてきた「室」があった。その中に大型の甕(かめ)が十(とお)は並んでいる。その中に村の取り分となる塩が保管されていた。何事かと気を揉んで姿を現した惣八の妻を前に、木島が話を続けていく。 木島實統:ほれこの通り。「抜き塩」は確かに存在したではないか。当家の中間(ちゅうげん・武家の召使)の目に間違いはないのよ。ここにあるものは全て本間家にて管理をするゆえ、指一本触れてはならぬぞ。左様心得よ。またそれぞれの村にても触れを出せ。 名主A:〈阿武兼役〉こたびのこと、大名主(おおなぬし)の惣八さんは知っているのでしょうか。 木島實統:【わざとらしく】ん? そういえば本日は惣八の姿が見えぬな。 木島實統:まぁ、よい、ここにおらぬ以上は知らぬだろう。今、初めて伝えたのでな。…おぉそうだ。次に「よい話」もしてやらねばなるまい。 名主B:〈本間兼役〉して、その「よい話」とは一体どのような。 木島實統:行徳の村々は不届が多く、処罰が検討されておる。「隠し田」に「抜き塩」であるからなぁ。こちらとしても大切な村のものを助けてやりたいが、ことがことだけに、なぁ…。 名主A:〈阿武兼役〉罰される、というのがわたしどもにとっての「よい話」にございますか…? 木島實統:いいや、そのような訳があるまい。…まぁよいから聞け。「隠し田」の件、惣八から聞き及んでおるか? 名主B:〈本間兼役〉へぇ。惣八さんは今、お江戸でご公儀の筋にことを確かめておるところにございますが…。 木島實統:そうよ。惣八は我らにも楯突いて仕方がなくてのう。それでな、皆にとって「よい話」というのは他でもない、その惣八を差し出せば皆の罪は不問に付すと決まったのだ。  : 詠:〈N〉端(はし)の方で話を聞いていた惣八の妻の顔色が変わる。自分たちにとって、よくない方向に事態が転ぼうとしていることが、ありありと分かるからである。また、身を潜めた菱喰も、この場の様子を窺(うかが)っていた。  : 菱喰:〈M〉出た出た。木島お得意の建前づけだ。自分の話の筋のおかしいところに目を向けさせず、道義を説いてそうせざるを得ないように持っていくんだろう?  木島實統:本来であれば、皆を処罰せねばならぬのよ。村方の三役どもは連座であるゆえな。しかし、それは避けたい。これまで尽くしてくれた功績もよくわかっておるからのう。…それに、お前たちがおらぬようになれば、村のものも困ろうが? 名主B:〈本間兼役〉へぇ。それはそうではございますが… 木島實統:さにあろう。とは言え、何もなかったことにはしてやれぬ。罪は罪である以上、これは仕方がないのだ。よって、大名主(おおなぬし)である惣八をのみ、罪に問うことにする。 菱喰:〈M〉それ見たことか。この木島ってのも芸のない男だね、まったく。この後も本間の殿様に気持ち悪い笑みを浮かべながら、したり顔で告げるんだろうよ。 名主A:〈阿武兼役〉…そ、それはすでに決まったことにございますか? 木島實統:そうじゃ。変更はない。お前たち名主が三役を束ねて訴状(そじょう)を用意せよ。よいな。 詠:〈N〉木島一行がその場を立った後で、名主たちが惣八の妻と話し込んでいる。異口同音に「惣八さんだけを罪に問うことはできない」と述べている。惣八の妻は思案顔(しあんがお)で名主たちと語らっていた。  :  : 阿武:〈N〉木島はその足でまたぞろ本間家に向かう。行徳(ぎょうとく)で財をなし、金(かね)の力にあかせて成り上がろうというのだ。はた迷惑な主従である。その二人の会話を菱喰が梁(はり)の上から聴いていた。 : 木島實統:本間さま、木島にございます。ただいま戻りましてございます。 本間佑顕:おう、木島か。良いぞ、入れ。 木島實統:ははっ。失礼いたします。 本間佑顕:それで、首尾はいかがであった? 木島實統:惣八が管理する「室(むろ)」には大甕(おおがめ)が十(とお)ほどありましたな。その全てを接収する手はずとなっております。 本間佑顕:ほう、それほど溜め込んでおったか。それらは大半を売却することにしよう。上にばら撒く金(かね)はいくらあっても困らぬゆえな。 木島實統:その通りにございます。いやはや、金作りに忙しくてかないませんなぁ。はっはっは。 菱喰:〈M〉いつもながらこいつらは自分たちのことしか考えていない。これでは為政者(いせいしゃ)失格だろう。光慶(みつよし)さまのお姿を間近で見ている身には粗(あら)しか感じられないよ。   本間佑顕:それにしても、木島にはよう働いてもろうたのう。   木島實統:殿様の栄達(えいだつ)あってこそ、木島の家も栄えるのですからな。 本間佑顕:【笑いながら】何ぃ? ふっふ、はっきりと物申すやつよ。己のために主君に尽くすと、そう言うか。 木島實統:はっはっは。臣下たるもの、裏表があってはなりませぬでしょう。 本間佑顕:よしよし、頼りにしておるぞ。近う(ちこう)寄れ、木島。こたびも褒美をとらせようほどにな。 木島實統:いやいや、そのような意図はございませぬ。 本間佑顕:ほれ、切り餅(きりもち・二十五両入りの包み)じゃ。遠慮のう持っていけ。これで「花房(はなふさ)」と仲良う(なかよう)してくるがよい。明日は吉原(よしわら)橘屋(たちばなや)で迎えるがよいわ…はっはっはっはっは。 木島實統:また、殿様。忠臣をおからかいになるものではございますまいよ。まったく殿様には逆らえませぬなぁ。…では。せっかくですから、今夜は羽を伸ばし、明日の夕刻(ゆうこく)戻って参るといたしましょう。 本間佑顕:よいよい、そうせいそうせい。わぁはっはっは…。 菱喰:〈M〉ふぅん。木島は吉原行きか。今宵がその時、だね。せいぜい好色(こうしょく)の夢でも見ているがいい、今のうちに。お前が吉原の大門をくぐることは二度とないからね。 阿武:〈N〉本間佑顕(ほんますけあき)と木島實統(きじまさねむね)主従の横暴はここに極まった。行徳の地を、行徳の村々を、そしてそこに暮らす人々のために身を尽くしてきた惣八を差し出せと言うのである。土地の者には到底受け入れられない要求であった。三役たちは一様に表情を曇らせたまま途方に暮れている。このころ、その惣八は『竜胆庵』にいた。  :  : 菱喰:〈N〉少しずつ日が傾き、通りは橙色(だいだいいろ)に染まる準備を始めている。温かみのある風景とは対照的に、青白い顔をした惣八が奉行所での成り行きを語っていた。 惣八:お詠さん、阿武さん、お力添えをいただいておきながら、どうやら不首尾(ふしゅび・失敗)に終わりそうです。御奉行、大久保さまにはお目通り叶いましたが、訴状についてはよいお顔をされませんでした。 詠:大久保さまは受け取って下さらなかったのかい? 惣八:いいえ。受理はしてくださいました。そもそも御奉行が手づから訴状をお取りあげくださるのも異例のこと。それだけでも有難いことです。 阿武:とはおっしゃいましても、訴状が公(おおやけ)にならねば何も意味を持ちますまい… 惣八:えぇ。阿武さんのおっしゃる通りです。 阿武:それで大久保さまは何と仰せでしたか? 惣八:これは「口外するな」と書面にて見せられ、大久保さまが御自ら(おんみずから)私に耳打ちしてくださったことなのですが… 詠:大丈夫ですよ。あたしらは、何を聞いてもすぐに忘れちまいますし、何があっても惣八さんのお味方ですからね。 惣八:…はい。では…。御奉行がおっしゃるには「大目付、目付の筋とつなぎが取れなくなった」とのことでした。ご存知の通り、お旗本に関する訴えは、目付さまにお取上げいただかなくては、箸にも棒にもかかりません。 詠:そうだねぇ…。元々お目付だった大久保さまでも、そちら方面に口が利けなくなっているんだねぇ… 惣八:御奉行は「ご老中に話を通してみる」とおっしゃいました。そして、「面目(めんぼく)ない」とも…。 惣八:【多少の怒りを覚えながら】何が面目無いことがございましょうか。多忙極める町奉行をお務めになりながら、私のようなしがない民草(たみくさ)の声も直に聞いてくださる…。このような御奉行が他におありになるというのですか… 詠:本間さまや木島さまのような方々を見ていると、その差は歴然なんだろうねぇ。 惣八:それはもう雲泥(うんでい)の差にございますよ。横に並べることにすら怖気(おぞけ)を覚えるほどでございます。大久保さまがご赴任(ふにん)なさってから足掛け三年、救われてばかりですから…。 阿武:そうでしたか…。詠さまと「惣八さまはどこかに伝手(つて)をお持ちなのだろうか」と話しておったのですが、大久保さまとは長いお付き合いなのですね。 惣八:いやいや、阿武さん。「付き合い」などとは及びもつかないことにございますよ。こちらが助けていただいてばかりいるのです。御番所(おばんしょ・町奉行所の町人からの呼び名)の方々には、私が顔を見せると露骨に煙たがる御仁(ごじん)も多い中、御奉行は、どうにかして私の話を聞き届けようとしてくださる。 詠:今日も相当待たされたんじゃないんですかい? 惣八:…今朝は一刻と半(いっとき と はん・三時間)ほどでございましょうか。それでも、かかる時(とき)以上に、御奉行にお目にかかれる機会というのが貴重なのでございますよ。   阿武:それはそうでございましょうが…。それで惣八さま、このあとはどのようになさいますか。 菱喰:〈N〉実は、惣八の訴えは危うく握りつぶされそうになっていた。取次(とりつぎ)から奉行所内にもたらされた「惣八来たる」の知らせは、大久保のところまで届いてはいなかった。たまたま奉行の目明かし(めあかし・私費で雇っている探索者)が惣八の姿を見ており、それを直(じか)に伝えたために、その来訪が明るみに出たのであった。 詠:そうさねぇ…。惣八さん、一度行徳にお戻りになりますかい? 惣八:えぇ。そういたします。村のことも気がかりですし…。それで…。一つお聞き入れいただきたいことがあるのですが…。 詠:はい? 何でございましょ。何でもおっしゃってくださいな。 惣八:…ありがとうございます。訴状は同じものを三つ用意しておりまして。一つは今朝、御番所(おばんしょ)に差し出したものです。そして、ここにもう一つございます。よろしければお詠さん、お預かりくださいませぬか?  阿武:詠さま…。 詠:あぁ、阿武。その一通。確かに預かろうじゃぁないか。 惣八:…よかった。重いものを負わせるようで申し訳なく、お話しするか迷ってはいたのですが。   阿武:惣八さま、ご安心ください。この訴状、『竜胆庵』が責任を持ってお預かりいたします。 惣八:はい。ありがとうございます。…もし。…もしも、のことにございます。私に何かあった時には… 詠:惣八さん、滅多(めった)なことをおっしゃるもんじゃありませんよ。…ふぅ。でも、よくよく考えてのことだろうからね。 阿武:…えぇ、そうですね詠さま。惣八さま、万が一の場合には、私どもにお任せくださいませ。 惣八:…はい。お任せ、いたします。では、私は一度行徳に戻ります。 詠:はいよ。阿武、行徳までお供を頼むよ。 阿武:えぇ、もちろんでございます。   詠:あたしは、少し奉行所の周りを聞き込んでみるとしようじゃないか。明後日(あさって)の朝早く、惣八さんのところに顔を出すからね。   阿武:かしこまりました、詠さま。ささ、惣八さま、握り飯と味噌をご用意いたしましたよ。お嫌いでなければ、伊勢屋さんの干し蛤(はまぐり)もよいお味ですからね、どうぞ道中でお召し上がりくださいまし。 惣八:おお、伊勢屋さんの…。私は貝の類(たぐい)に総じて目がありませんでなぁ、有難いことです。…では、先に表に出ております。阿武さん、ご苦労をおかけします。 阿武:なんのなんの。どうぞ、供をお許しくださいませ。 阿武:【以下、小声で】…詠さま。大久保さまより伺った通りになりそうですな。 詠:【以下、小声で】…そうだねぇ。惣八さんは「訴状は三つ」と、そう言ったからねぇ。 阿武:では、一足先に行徳に参ります。 詠:あぁ阿武。頼んだよ。  : 菱喰:〈N〉惣八と阿武は、前の晩に通ったばかりの街道を進む。その行く手に大きな問題が待ち受けているとも知らずに。そのころ、木島邸では實統(さねむね)が吉原行きの準備をいそいそと進めていた。当然、木島も知らずにいたのである。我が身に向けて、奈落が大きな口を開けていることを……。  :  : 本間佑顕:〈N〉日に千両が落とされると言われる吉原の夜見世(よるみせ・夜の営業)は大勢の人で賑わう。またその客を当てこんで、仕出し屋、編笠茶屋(あみがさぢゃや)、遊女細見(さいけん・店ごとの遊女パンフレット)など、さまざまな商売が派生していた。木島は供一人を引き連れ、馴染みの遊女「花房(はなふさ)」のもとへと、山谷堀(さんやぼり)沿いの日本堤(にほんづつみ)を進んでいる。  : 木島實統:しかし、吉原では「粋(いき)」が問われるからなぁ。金(かね)だけでは勝負がつかないところが良いではないか。金、金、金の毎日だからのう。ははは。その疲れも吹き飛ぶというものよ。   本間佑顕:〈N〉木島はいつにも増して上機嫌である。行徳をめぐる仕儀(しぎ)がおおむね思惑通りに運ぶ目処が立ったからであった。行徳の民の心情など一顧(いっこ)だにせず、主家(しゅか)の繁栄(はんえい)、ひいては自身の立身(りっしん)を直向き(ひたむき)に願っている。この男も見方を変えれば忠臣。主君の方針に添い、主君の望む結果を出し続けているのだから。   木島實統:ははは…。いや、しかし、今日は昼から少し酒を飲みすぎてしまったかのう。馬の背中でゆらゆらと揺られるのが心地よくて仕方がないわい。編笠(あみがさ)の下の薄暗がりもたまらんのう… 本間佑顕:〈N〉供の男は苦笑いをしながら「飲みすぎては困りませぬか」などと下卑(げひ)た笑いを浮かべている。主人(あるじ)が居続け(いつづけ)をしている間、この供の男にも「酒」と「遊び」の時間が与えられる。ましてや、翌日は昼過ぎに帰ればよいと許しが出ている。その分、自分が自由に過ごせる時間も常に比べて長くなるのだ。上機嫌の主従二人が歩く堤(つつみ)には、堀川(ほりかわ)から吹き寄せる爽やかな風が流れていた。 木島實統:いやはや、まっこと気持ちのいい夜じゃ。お主の言うとおり、少々飲みすぎてしまったようだからの。今のうちに酔いを覚ましておかねばな。…ふふふ。肝腎要(かんじんかなめ)の折に「役立たず」では、花房にも楼主(ろうしゅ・遊女屋の店主)にも申し訳が立たぬからな。ふっふっふ…ふむぅ。しかし、少し眠うなってきたのぅ。 阿武:〈N〉ほろ酔いでまどろみそうになりながら、馬上に揺られる木島實統(きじまさねむね)。その姿を後ろからつけているのは、深川芸者(ふかがわげいしゃ)の風体(ふうてい)をなした菱喰である。数人連れで歩いていれば、どこぞの楼主(ろうしゅ)に呼ばれたのだろうと考え、誰も不審には思わない。もちろんこの者たちは皆、大黒屋の手の者であり、菱喰の配下である。 菱喰:〈M〉ふふ。呑気なもんだ。大門(おおもん)に近づくほど冥土も近くなるというのに。この先は衣紋坂(えもんざか)。下り道だと多少は気もしゃんとするだろうし、そこを抜けた「見返り柳」のあたりで、一息ついた木島を仕留めようじゃないか。 阿武:〈N〉今日の菱喰は薄めの化粧で無地の小紋(こもん)を身に纏い、素足に吾妻下駄(あづまげた)という出立ちである。「お玉」の時とはまた違う魅力を見せて、吉原大門を目指す客の目を集めていた。これほど目立つ一団が「殺し」をしようとは、誰も思っていない。 木島實統:今宵はのう、花房を祝おうてやらねばならぬのよ。ははは、あやつの恥じろうた顔が目に浮かぶようだわ。まことにうい奴よ。 阿武:〈N〉「太夫(たゆう)」に次ぐ「格子(こうし)」という地位にある花房。その絹肌と、嬉し気に己を見つめる控えめな瞳を思い描いていたであろう木島の首筋に、菱喰が狙いを定めている。 菱喰:〈M〉光慶(みつよし)さまから頂いたこの痺れ薬はすぐ効く上に、砒素(ひそ)のようにあからさまな異変を体に出さないからね。便利なもんだよ。 阿武:〈N〉菱喰は芝居がかった動作で懐から筒を出し、色のついた煙を上へ、右へ、左へ、と吹き出した。歓声を上げ、囃し立てる吉原通いの客たち。それを聞き、ほぅ何事か、と木島主従も振り向いた。 菱喰:〈M〉なんだい、締まらない顔だね。【吹き矢を放つ】フッ。 阿武:〈N〉振り向いた木島の首を、菱喰の吹き矢が襲う。煙の切れ目から吹かれたその針が狙いを外すことはない。振り向きざまに浮き出た太い血の管を、見事に射立てたのである。 菱喰:〈M〉ふん、他愛のない。これまでの行いもあるからねぇ。お前は楽に死ねると思うんじゃぁないよ。 詠:〈N〉ぐらりと馬の背から落ちる木島實統(さねむね)。この男の運の悪さか、左足が鎧(あぶみ)から外れない。勢い首から地面に叩きつけられ、あたりに鈍い嫌な音が響いた。慌てた供の男は、大門(おおもん)をくぐった先の吉原番所(よしわらばんしょ)へ走っていく。ただし、その番所からはすでに数人の男が向かってきていた。先ほどの煙を合図に、大黒屋の息がかかった岡っ引きたちが、始末をつけに来たのである。 菱喰:あらあら、これはいけない、お武家様が馬から落ちなすった…。誰か、誰か来ておくれ! 詠:〈N〉岡っ引きの姿を認め、それらしく声を上げる菱喰。供の男も岡っ引きに事情を話しつつ駆け戻ってくる。曰く「お酒を召していらっしゃった」「急な歓声に振り返られたところで姿勢を崩されて」と。野次馬が集まり出したところへ岡っ引きがやってきた。 岡っ引きA:〈惣八兼役〉てぇへんだ、てぇへんだ! おう、近づくんじゃねぇぜ! 木島實統:ぐっ…ぐぶぶ…ぶふ…。 岡っ引きB:〈本間兼役〉こっ、こりゃあいけねぇ。首がイカれてるかもしれねぇや…。おいっ、台車(でえしゃ)を持ってこい! 詠:〈N〉すぐに運ばれた台車(だいしゃ)に乗せられ、艶(あで)やかな着物で覆われる木島。身分からか場所柄か、目を引く煌びやかな絹織物に埋(うず)められ、どこかへ運ばれていく。 菱喰:〈M〉あれあれ、これから光慶(みつよし)さまのところで、手痛い目に合わせてやろうかと思ったんだが、その手間もずいぶん省けそうだね。ふふふ。あいつが屋敷に戻る時には、めっきり冷たくなっていることだろうよ。 詠:〈N〉しばらくは騒然となったものの、吉原(よしわら)はすぐに平生(へいぜい)の顔に戻っている。このような騒ぎはいつものこと。花房(はなふさ)のいる『橘屋(たちばなや)』へも使いが走らされたが、店の側(がわ)で騒ぐ様子はない。太客(ふときゃく)が一人消えた。ただそれだけのことであった。 菱喰:〈M〉まずは一人め、と。ふふふ。本間の殿様はどうやって料理してやろうかねぇ。…ああ、そうだ。三千石取りの大身(たいしん)ってやつが本当に将軍の「旗本」にふさわしいか、肝の据わり具合を試してやろう…。  :  : 本間佑顕:〈N〉そのころ惣八と阿武は行徳(ぎょうとく)にほど近いところまで戻ってきていた。道中、本間家のやり口を再度詳しく聞いていた阿武。木島實統(さねむね)より命じられていた五百両を、どう工面するのか惣八に尋ねている。  : 阿武:それで、惣八さま。その大金をどうなさるおつもりですか。 阿武:……差し出がましいようですが、私ども『竜胆庵』でもお手伝い致しましょうか。   惣八:あぁ、いや、あてがないわけではないのですよ。もっとも、私の一存では決められないことなのですが。…阿武さん、「行徳の塩」はご存じですな。 阿武:えぇ、もちろん存じております。 惣八:私たちは塩の江戸回送も請け負っておりますから、村全体に対して、役料(やくりょう)を頂戴しているのですよ。これは行徳のみなで管理しておる塩です。 阿武:それで、その塩はそれほど大量にあるのでございますか? 惣八:はい。これまで何代にも渡って運用してきた塩でございますからな。祖先には申し訳ないですが、ことは一大事。背に腹は代えられませぬ。皆も納得してくれるでしょう。 阿武:その量をどうやってお捌(さば)きになるのですか? 惣八:実は…昨夜のうちに伊勢屋さんにお願いしておいたのです。訴えが不首尾に終わった場合、お買い上げいただけないか、とね。 阿武:なるほど、今朝のお言葉はその意味だったのですね。 惣八:ん? 今朝の言葉…? おぉ「昨夜の話、勝手な願いではございますが」という、あれ、ですかな。【感心して】阿武さんはとても細かいところまで気を張り詰めていらっしゃる。 阿武:ははは、商売柄、といいますか…。ご容赦くださいませ。 本間佑顕:〈N〉行徳の在所まで戻った惣八を浮かぬ顔の妻が迎え入れる。何事かと案じる惣八は、午前の内に下された木島實統(さねむね)の命令を聞かされたのであった。 惣八:なんだって!? 「お室の塩」を本間家が奪うと? そのようなことが許されるものか。くっ。…いや、今朝の御奉行さまのお口ぶりでは、この件についても、どこぞの権力者に取り入っているのだろう… 阿武:惣八さま、その「お室の塩」というのが、先ほどおっしゃっていた塩のことでございますか? 惣八:えぇ。木島さまに先を越されてしまったようです。……伊勢屋さんにも申し訳が立たない。 本間佑顕:〈N〉急な話に「金(かね)の工面」をどうするか必死に考え始めた惣八に、本間家の更なる横暴が告げられた。 阿武:【声は荒げず】なんですって? 村の者総出(そうで)で惣八さまを訴えよ、ですと… 惣八:ははは。阿武さんがそのように反応なさらずとも。 阿武:いや、惣八さま、そのように落ち着いてはいられませんよ、私(わたくし)は。 阿武:これらは全て本間家の私利私欲を満たすために仕組まれたことではありませんか。 惣八:…ふぅ。まさにそうなのでございましょう。これらは「仕組まれて」いるのでしょう。それも綿密に。本間さまだけのお考えではないようでございますし、な。 阿武:そう…ですね。どうやら周到に練られた策のように見受けられます。 阿武:聞き及ぶ範囲で考えますと、本間家を唆(そそのか)しているものがおりそうに思えます。 惣八:…金(かね)、か。外つ国(とつくに)にも金で身を滅ぼした、国を滅ぼした、という話はごろごろあるそうにございますな。なければないで困るのも確かですが、あり過ぎて欲に目が眩(くら)むのも考えものです。…それも武家にあるものが…。 阿武:確かに。日の本や唐土(もろこし・中国のこと)のみならず、朝鮮国(ちょうせんこく)やシャムのあたりまで、そのような話はたくさんあることでしょう。…それで、僭越ながら惣八さま。(御用金の件、わたくしども竜胆庵に…) 惣八:【前の阿武のセリフを遮る形で】 惣八:いや、阿武さん。それはお断り申しあげる。 阿武:…しかし。 惣八:お詠さん、阿武さんにはなみなみならぬご厚意をかけていただいています。これ以上おすがりするのは忍びない。また、行徳の件は行徳の民にて始末をつけなければならぬのです。 阿武:それは、どうしてですか… 惣八:ご公儀が我ら百姓(ひゃくしょう)に厳しいお取り立てを課されるのはよく知っています。ただ、それと理不尽な言いつけをただただ黙って受け入れるのは違うでしょう。私の行いのあり方によって、「行徳のものは与(くみ)しやすい」という定評でも立とうものなら、子々孫々苦しむことになるのです。 阿武:そ、惣八さま…まさか、とは思いますが… 惣八:…ははは、私はまだ何も申してはおりませぬよ。…いやはや、お詠さんにも阿武さんにも敵いませぬな。 本間佑顕:〈N〉そこまで喋ってから惣八は妻(つま)に家伝の「権利書」と漆塗の文箱(ふばこ)を持ってくるように命じた。妻のまぶたが小刻みに揺れている…しばらく立ち尽くしていたが、意を決したようにそれらを取りに向かった。 惣八:うん。【万感の思いを込めて】…ありがとう。今からお前に二つのことを伝える。 阿武:あいや、しばらく! 私(わたくし)は席を外した方がよろしくはないですか。 惣八:いいえ、阿武さん。すべてお聞きください。私が聞いておいていただきたいのです。 阿武:…そう、ですか。……かしこまりました。一言一句違(たが)えずお聞き致しましょう。 惣八:【微笑んで】ありがとう、ございます。 惣八:【妻に向き直って】…では。一つ。我が家は残る全ての田畑(でんぱた)と家屋を処分し、本間家への支払いにあてるものとする。この決定は、このあと私自ら、名主らに伝える。 惣八:【しばらく間をとる】一つ。……今、この時を持ってお前を離縁(りえん)する。 惣八:【文箱から離縁状を取り出し、読み上げる】「其方(そのほう)が事、我が勝手につき、このたび離縁いたし候(そうろう)。然(しか)る上は、向後(こうご)何方(いずかた)へ縁付(えんつけ)候えども、差構え(さしかまえ)是無(これな)く候(そうろう)、よって件(くだん)のごとし」……よいな。 本間佑顕:〈N〉長年連れ添った夫から告げられる「三行半(みくだりはん・離縁状の別名)」をうつむくことなく、夫を見つめたままで聞いている。妻にはこの「離縁」が何を意味するものか、はっきりと分かっていた。 阿武:〈M〉…これは。やはり惣八さまはすでにお覚悟の上とお見受けする…。 本間佑顕:〈N〉束の間ながら視線を交わし合う惣八夫妻。その後、惣八は大きく頷き、土地の書付を持って立ち上がった。 惣八:阿武さん、少しお付き合いくださいませぬか。 阿武:はい。どこへなりともお供いたしましょう。  :  : 詠:〈N〉惣八が在郷三村(ざいごうさんそん)の名主を集め、金策が叶ったこと、自分を訴えればよいことを他の名主に伝えたころ、「木島死す」の一報が本間家にも伝えられていた。 本間佑顕:な、な、何ぃ!? 木島が死んだ、だと? なぜだ、なぜそのような仕儀(しぎ)になるのだ。 詠:〈N〉木島の屋敷から届いた書状には「吉原大門(よしわらおおもん)そばにて落馬。首の骨を折り死亡」と書かれていた。木島の家来が、吉原までの供を連れており、本間に事情を説明している。 本間佑顕:落馬して、首を? むぅぅ…俄(にわか)には信じられん……が、しかし、側で見ていた男もいるとなると…。それで? 木島は屋敷に戻ったのか?  詠:〈N〉ご遺体は改めました、と家来が告げる。その上で不審な点はなかった、とも。 本間佑顕:不審なところ、だと? あの木島が少々の酒に酔い、大道芸に興を引かれた程度で馬から落ちること自体、よっぽど不審ではないか! ……えぇい、いや、よい。其の方らを責めるつもりはない。 詠:〈N〉本間佑顕(すけあき)は幾分慌てながらも、何やら考えている。やおら家来を呼び出すと、次のように告げた。 本間佑顕:よいか。木島が死んだ。 詠:〈N〉家来は主(あるじ)の言葉を聞き、絶句している。 本間佑顕:お主はこれら木島家の者どもの話を聞き取り、顛末(てんまつ)を書にまとめよ。それが終わり次第、わしの書付を添え、お目付殿に差し出してこい。わかったな。 詠:〈N〉家来に言いつけるなり、自分も文机(ふづくえ)に向かい何やらしたためている。木島の一件に身の危険を覚えたのであろう。本間家とその家臣、木島家の夜は慌ただしく更けていく。  :  : 木島實統:〈N〉翌日。背負い小間物(しょいこまもの)姿のお詠は江戸の町にあった。朝のうちに奉行所を訪れたあと、本間家の様子を窺い、その足で町に出て本間の評判などを集めている。  : 詠:ふぅ〜。【荷物を下ろす】よいしょっと。茶店、か。ここらで一息つくかねぇ。 客A:〈阿武兼役〉そういや、お前聞いたかよ? 木島の殿さまが昨夜(ゆうべ)吉原の辺りで亡くなったんだってよぉ。 客B:〈惣八兼役〉ほぇぇ、そうなのかい。そりゃまた急に大変だなぁ。 詠:ちょいと失礼しますよ。その話、本当ですかい? 客A:〈阿武兼役〉あれよ、これまた別嬪さんだ。ここのお玉(たま)さんの向こうを張って十分じゃねえか! 客B:〈惣八兼役〉ほんとだなぁ。おーいお玉さん、ちょっとおいでな。あぁ、ぬるめの茶と団子も二本持ってきておくれや。 菱喰:〈お玉として〉【奥から返事をする】はいよぉ、ちょっと待ってておくんなさいねぇ。 詠:いやね、木島さまにはあたしもお世話になってんですよ。まぁ、最もお殿様とはご面識がありませんがね。お女中の方々に色々買ってもらっていましてねぇ。 客A:〈阿武兼役〉へぇ、そうなのかい。今日も木島さまのところに行くのかい? そりゃやめた方がいいな、きっと葬儀の準備をなさってるところだろうからなぁ。 詠:そうですかい。【箱を叩いて】これからお買い上げいただきに出向こうと思ったんですがねぇ…。 客A:〈阿武兼役〉亡くなった場所が場所だってんで、お屋敷も鎮まりかえっているそうだよ。 客B:〈惣八兼役〉ねぇさん、残念だったねぇ。ま、気を取り直して茶と団子でも食べて行っておくれな、あっしの奢りだからね。 詠:あらあら、ありがとうございます。それじゃ、遠慮なくいただくとしますかねっ。 菱喰:〈お玉として〉お待たせしましたよぉ。 客B:〈惣八兼役〉あぁ、お玉さん、こちらの別嬪さんに差し上げておくれ。 菱喰:〈M〉うん? この女は… 菱喰:〈お玉として〉【以下セリフ】何だいなんだい? いつもはあたしを褒めてくれるってのに… 客A:〈阿武兼役〉おっ、妬いてんのかいっ? むくれたお玉さんも、これまた愛(う)いもんだ。 客B:〈惣八兼役〉はははっ。おっ、そうだ、お玉さんにおねえさん。忙しいとこ悪いんだが、そこの店先に並んで立ってみちゃあくれねぇか。 客A:〈阿武兼役〉おお、そりゃぁいいや。一つ頼むよ。   菱喰:〈お玉として〉はぁ…まったく仕方のない常連だねぇ。ねぇさん、いいですかい? 詠:あぁ、構わないですよ。こちとらお茶と団子をいただいちまってますからねぇ。 木島實統:〈N〉日が射す店先に立つお詠とお玉。声をかけた客だけでなく、奥にいたものたちも囃(はや)し立てている。 客A:〈阿武兼役〉こりゃすごい! お江戸広しといえども、こんな別嬪たちにお目にかかることはそうないだろうさ。 客B:〈惣八兼役〉いや、ほんとだなあ。伽羅の香(きゃらのこう)もかくやってほどのねえさんたちだ。 詠:【横に聞こえる程度の声で】なあ、あんたお玉さんってのかい? 菱喰:〈お玉として〉はい、そうですよ。 詠:あんた、あの時のだろう? 菱喰:〈お玉として〉はい? なんのことでしょうか。 詠:あたしゃ、ちょっと独特の商売をしていてね、気にかけた相手を間違えることはないのさ。…あんた、惣八さんをつけていただろ。 菱喰:…はは。そうですよ。これはたまげたね。 詠:ふふふ。まったく驚いてもないくせによく言うよ。あんた、惣八さんを害するつもりはないんだね。 菱喰:それはそうですよ。あれだけのお人、関八州くまなく探したってそうそういるもんですか。 詠:…そうかい。ならいいんだ。あたしゃ、詠。『竜胆庵』のお詠だよ。 菱喰:…へぇ。あんたがお詠さんか。お江戸でも名が売れてきてるって界隈じゃもちきりさ。 詠:はぁ。騒々しいのはごめん被りたいんだがねぇ。 菱喰:あたしは大黒屋の旦那にお世話になってる「菱喰」ですよ。もっとも今は「お玉」ですがね。 詠:そうかい、お玉さん。…なぁ、木島をやったのはあんたかい? 菱喰:ははは、そうですよ。手強いお人だ。……そろそろ、戻りましょうか。 木島實統:〈N〉ひとしきり囃し立てた客たちが、口々にほめそやしながら二人を店に迎え入れる。 詠:はぁ〜、いやいやお目汚しでしたねぇ。あははは。綺麗どころの横に立つなんて、なかなかない経験をさせてもらいましたよぉ。 菱喰:〈お玉として〉いやいや、こちらのおねえさん、よい匂いをさせるお方でした。ふふふ。美しさが匂い立つっってのはこのことでしょうねぇ。 客A:〈阿武兼役〉いやぁ、眼福眼福。 客B:〈惣八兼役〉ちげえねえや。今日も昼からいいもんを見たねぇ。 客A:〈阿武兼役〉ああ、一日頑張れるってもんよぉ。  : 木島實統:〈N〉その日の夕刻。大黒屋の元を菱喰が訪れていた。  : 菱喰:光慶(みつよし)さま、惣八を警護していた女と会いました。『竜胆庵』のお詠、だそうです。かなりの手練れに見えましたよ。 木島實統:〈N〉その名に反応した大黒屋。文箱(ふばこ)からとある書状を出し、菱喰に読むように促す。 菱喰:これは、朝霞屋(あさかや)の回状。…へぇ、そうですか。あのお詠ってのは朝霞屋に一泡吹かせたってんですか。ふふふ。やりますねぇ。「常闇の長治(とこやみのちょうじ)」に引けを取らぬってのは、かなりの遣い手ってことですね。 木島實統:〈N〉相変わらずの笑みを浮かべたまま一つ頷くと、「お詠と敵対することは許さぬ」、大黒屋は短く菱喰に告げる。 菱喰:【少し不服そうに】…は、かしこまりました。 木島實統:〈N〉将軍の法甲寺(ほうこうじ)詣(もうで)を間近に控え、大黒屋も行徳街道(ぎょうとくかいどう)方面の香具師(やし)の手配に余念がない。大層な人出(ひとで)が見込める一大行事とあれば、儲け話をふいにしかねない騒動の芽は摘んでおかねばならないのである。 菱喰:将軍の行徳参りもすぐでしたねぇ。その前に本間も片付けますか。 木島實統:〈N〉旗本が死ねば、法甲寺参りも取りやめになる可能性がある。大黒屋の口からは「その後、ならな」と言葉が漏れた。 菱喰:ははっ。ではそのように。それでは私は街道沿いの巡視も兼ねて、行徳に向かいます。 木島實統:〈N〉素人目には仮のものとも分からぬ笑みを浮かべたまま、大黒屋は「うむ」と頷いた。それぞれの思惑が絡み合う行徳の地は、未だ静かなままに夜を迎えている。  :  : 本間佑顕:〈M〉今宵は木島の野辺送り(のべおくり)か。木島の奴は誰かにやられたに相違(そうい)ない。…ふふふ。木島よ、下手人は必ず捕まえてやるからな。土の下で待っておれ。…何、わしのことは案ずるまでもない。お目付殿から、強者(つわもの)を送ってもらうことになっているからのう。  : 木島實統:〈N〉そのころ、『竜胆庵』ではお詠が公儀からの遣いを迎えていた。お詠は書状を読み、一瞬言葉を失っている。  : 詠:…これは、酒井さまのご命令に間違いないんですね。 木島實統:〈N〉「確かに」とうなずく遣いの者。書状の花押(かおう・サイン)は老中、酒井からのものに違いなかった。 詠:…ふぅ。わかりましたよ。ご老中にそのように伝えてくださいな。 詠:〈M〉ひとまず阿武(あんの)につなぎをとるかね。惣八さんの様子も気がかりだしねぇ。 木島實統:〈N〉老中からの書状には「本間の護衛についてもらいたい」と短くしたためられていた。  :  : 木島實統:〈N〉この日、惣八は諸々の手続きを済ませ、五百両の金を作っていた。田畑(でんぱた)と一切の家財を処分し、本間家に納める分を工面したのである。すでに妻は引き払い、がらんとした居間で惣八と阿武が酒を酌み交わしている。 惣八:いやはや、今日もご苦労をおかけしました阿武さん。 阿武:いえ、とんでもないことです。…それで惣八さま、真(まこと)に直訴に及ばれるお積もりですかな。 惣八:…はい。前々から考えてはいたのです。せっかくこの行徳の地に将軍さまがお見えになる。このような機会、二度とは巡ってこないでしょう。天が、私に動けとお命じになっているのですよ。   阿武:…時に。つかぬことを伺いますが、惣八さまは、ずっとこの地にいらっしゃるのですか。お言葉の端々にご教養といいますか、まっすぐな芯(しん)が感じられまして…。 惣八:おや、阿武さん。まるで百姓には「芯がない」とおっしゃっているかのようだ。 阿武:え? いや、そのような積もりは毛頭ございません…   惣八:ふふふ。これはいたずらがすぎましたな。お許しください。…えぇ。実は私は養子です。ですから、本来、妻を離縁したら出て行かねばならぬのは私の方なのですよ。 阿武:ご養子でいらっしゃる? では地縁も血縁もない土地に、そのお命をかけるとおっしゃるのですか…。 惣八:阿武さん。お仕事に命をかけていらっしゃるのはあなたも同じでしょう。おかげさまで伊勢屋さんも救われました。【頭を下げる】これ、この通りです。 阿武:あぁ、お手をお上げください惣八さま。私なぞは、お江戸で掃除屋のまね事をしているだけなのですから。 惣八:それでも、多くの人を助けておられる。まさに私も助けられております。 惣八:…義父、妻の父がね、私を拾ってくださったのですよ。不義理をして、とある道場を破門になり、行き倒れたのが三十年ほど前でしょうか。 阿武:…では、惣八さまは武門の出でいらっしゃる? 惣八:ははは。もう随分と昔の話です。今は、行徳の惣八です。それだけですし、それでよい。それに、これだけ長く住まえば、それはもう地縁でございましょう。 阿武:はい…。その通りでございますね。 木島實統:〈N〉その時、夜更けにも関わらずドンドンと戸を叩く音がした。出迎えた惣八に、木島家の葬儀の話がもたらされる。木島が亡くなったと聞いて、惣八は驚きの声を上げた。 惣八:…阿武さん、お聞きでしたか? 木島さまがお亡くなりになったそうです。 阿武:えぇ、聞いておりました。しかし、これに関しては、詠さまも私も預かり知らぬところの話でございますね。事故かもしれない。何者かが動いたのかもしれない。 惣八:そうですか…。何かの力が働いたのか、木島さまが不運だったのか。 惣八:…いずれにせよ、私は、己にできることをやるのみです。 阿武:…惣八さま、我々に何かできることはございませんか。惣八さまほどのお方が、世を去ろうとなさっている。それをむざむざ…ただ見ているだけなど… 惣八:阿武さん。お気持ちはたいへん嬉しい。もっと早くにお詠さん、阿武さんと知り合いたかったとも思います。…それでもね、先ほど申し上げた通り、行徳の窮地は、行徳の者がどうにかしなければなりません。 阿武:えぇ。それは分かるのですが。 惣八:それであれば、大名主(おおなぬし)を名乗る私しかおりませんでしょう。…折よく、本間家からも私を訴えよと触れが届いていることですしね。 阿武:将軍さまが行徳詣(ぎょうとくもうで)にお越しになるのは、五日後、でしたか。街道には出店もあり、法甲寺に続く「権現道(ごんげんみち)」は人混みでごった返すでしょうね。 惣八:そうですね。道中で将軍さまに近づくのは至難の業。…ですから、お乗物(のりもの・最高級の駕籠(かご))が門をくぐる際に近寄り、お聞き届けいただこうと思います。 阿武:…あぁ、確かに、そこでなら脇を固める侍も、野次馬も少ないことでしょうが…   惣八:本間のお殿様が話を聞いてくださらず、お目付(めつけ)に訴えも通らずでは、もはやこうするしかないのです。阿武さん、分かってください。 阿武:…はい。明朝、詠さまがいらっしゃるはずです。そこでまた案を練りましょう。  :  : 木島實統:〈N〉翌朝早く、お詠が約束の通り惣八を訪ねてきた。惣八と阿武からは行徳の状況と直訴の計画が、お詠からは木島の件と公儀の指令について話が交わされた。  : 惣八:なんと…お詠さんが、本間さまの警護にお付きになると。それは、いやしかし、大丈夫なのですか。 阿武:ははは。惣八さま、うちの詠さまは、それはそれはお強うございます。よほどのことでもなければ身の危険はございませんよ。 惣八:それは…。伊勢屋さんの話もあり、お詠さん阿武さんが常ならぬお力をお持ちだとは分かるのですが… 詠:惣八さん、「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」と言うじゃあございませんか。木島のこともそうですが、あたしらは鼻が利くんですよ。 詠:それにね、今、本間のバカ殿に死なれちゃ困るでしょう。将軍さまがお越しにならなくなるからねぇ。 惣八:そうなれば、もはや将軍さまに声を届けることもできますまい… 阿武:えぇ。ですから、本間さまの屋敷は、詠さまにお任せください。私はこのまま惣八さまのお側にお仕えしようと思うのですが、惣八さま、詠さま、それでようございますか。 詠:あぁ、頼むよ。 惣八:…かたじけないことです。 詠:惣八さん、くどいようだがねぇ、行徳のこと、あたしらに預けてもらえないですかね。 惣八:いえ、すべてお伝えした通りです。私が動かねばならぬのです。 阿武:詠さま、惣八さまのお覚悟の程は私も何度も伺いました。ここは… 詠:阿武、分かっちゃいるがねえ。惣八さんほどのお方、惜しいじゃないか。とても本間のバカ殿と(引き換えにできるような…) 惣八:【前のセリフに重ねて】お詠さん、もう、よいのです。お二人のお気持ち、ありがたく胸の内に収めておきます。ですが、これは私の務めなのですよ。大名主とは、そのようにあらねば示しがつかぬのです。 阿武:その日まで、惣八さまには指一本触れさせませぬ。 詠:…まったく、惣八さんのようなお人が、日の本に何人いるってんだ。 詠:惣八さん、直訴のことは、誰にも言っちゃぁだめですよ。他の名主さんたちにもね。 阿武:そうですね。どこから話が漏れるか、誰がそれを妨げにくるか分かったものではないですからな。 惣八:はい。もちろん口外致しません。他の名主さんたちには「私を訴える用意をなさい。訴状は『将軍さまご来訪』ののちにお渡しすると、本間さまに伝えなさい」とだけ言いました。 詠:本間のバカ殿も、天領で騒動を起こして将軍さまの邪魔をしたとあっては、切腹、お家取り潰しってことくらいは分かるでしょうからねぇ。 惣八:…えぇ。しかし、お詠さん、先日までは「本間さま、木島さま」とおっしゃっていたのに、今は「バカ殿」呼ばわりでございますか。 詠:うん? あぁ、惣八さんにもあたしらがどんなものか大体分かってもらえただろうからねぇ、猫を被ることもありませんでしょ。 阿武:…詠さま。ほどほどになさいませよ。 詠:ははは。分かってるよ、もう。…それじゃ、惣八さん、あたしはまた江戸に戻って、本間家に詰めるとしますよ。 惣八:分かりました。どうぞ、お気を付けくださいませ。 詠:ええ、そうしますよ。…阿武、ちょっといいかい? 阿武:はい。   詠:この前、惣八さんを江戸に送ったとき、道中つけてきた奴がいただろう。あれだよ、木島をやったのは。 阿武:ほう。それはそれは。 詠:たまたま見つけたんだがね、大黒屋のところの菱喰っていうんだそうだ。   阿武:それはまた詳しくお調べになったのですね。   詠:ん? 調べてなんざいないよ。なんのことはない、二人並んで立ち話をしたのさ。   阿武:えぇ? 立ち話、ですか? それはまた一体どのような状況で…   詠:ははは。ま、本人から聞いたんだ、間違いはないだろ。あいつ、本間の屋敷にも来るだろうね、きっと。 詠:【惣八の方へ向き直り】惣八さん、それじゃ、おいとましますよ。 惣八:お詠さん、握り飯なぞ、持っていってくださいませ。妻もおりませんので、私が握ったものでよければ…ですが。 詠:あれあれ、ありがたく頂戴しましょ。腹が減っては何とやらだ。 阿武:詠さま、お気をつけて。 詠:あぁ、阿武、惣八さんを頼んだよ。向こうが動くのも行徳が動いた後だろうさ。大黒屋が儲けをふいにするとは考えにくいからねぇ。  : 木島實統:〈N〉惣八は来たる日に備えて行徳の村々を周り、それとなく名主たちが困らないよう指示を与えている。自分亡き後のことを気にかけているのであろう。屋敷を明け渡す日取りも決めた。真新しい木綿晒し(もめんざらし)の褌(ふんどし)に白木綿(しろもめん)の単衣(ひとえ)も用意した。紋付の羽織と袴(もんつき・はおり・はかま)も衣紋掛け(えもんかけ)にかけてある。これらは全て直訴に及ぶ際、惣八が身につけるものである。惣八は慌てるそぶりもなく日々を実直に過ごしていた。  :  : 詠:〈N〉梅雨入り前の晴天が続いている。いよいよ行徳詣(ぎょうとくもうで)当日となり、朝の内に江戸を発った将軍の一行は行徳街道を進んでいた。街道沿いには、将軍さまを一目見ようという野次馬が黒山の人だかりで、それを見込んだ香具師(やし)たちも、一儲けしようと集まっている。その喧騒は常日頃の倍はあろうかという勢いであった。  : 客C:〈木島兼役〉いやぁ、さすがにすごい人出だなぁ。 客D:〈本間兼役〉そりゃおめえ、将軍さまがお見えになるなんてなぁ、生涯に何度もあることじゃぁねぇからな。 客C:〈木島兼役〉確かになぁ。将軍宣下(せんげ)のご上洛をおやめになってから、このような行列ってのは、珍しいからよ。 菱喰:〈お玉として〉あらあら、お客さん方、お皿と猪口(ちょこ)が空になってますよ。ただ眺めてるってのも芸がないでしょう。次、いかがですか? 客D:〈本間兼役〉おうおう、お玉さん! そりゃどうせ眺めるんなら、お玉さんのような別嬪を見ていたいってもんよ。ははは。 客C:〈木島兼役〉まったく、お玉さんにゃ、敵わねぇぜ。酒を二合と煮魚を頼むよ。 菱喰:〈お玉として〉お買い上げありがとうございます。ふふふ。 菱喰:将軍さまはこの先の「権現道(ごんげんみち)」を通って法甲寺(ほうこうじ)にお出でになるんでしょう? 客D:〈本間兼役〉おう、そうらしいなぁ。 菱喰:〈お玉として〉わたしらとしちゃぁ、将軍さまがお見えになるって内に稼げるだけ稼がせてもらわないとね。おかげさまで忙しくさせてもらってますよぉ。 客C:〈木島兼役〉そいつはまた、たくましいじゃあねえか、お玉さん。はっはっは。  :  : 詠:〈N〉街道脇(かいどうわき)は大黒屋の店が軒(のき)を連ねている。そのどれもが賑わい、楽しげな声が上がっていた。しかし、しばらくの後(のち)、東から静けさが波のように伝わってきた。将軍の行列が姿を現したのである。  : 先触れ役:〈阿武兼役〉下にぃぃぃぃい、下にっ! 下ににぃぃ、下にぃっ!  : 詠:〈N〉先触れ(さきぶれ)の声が聞こえたら、下々(しもじも)のものは街道に土下座し、下を向いたまま行列をやり過ごさねばならない。それが決まりである。   : 客D:〈本間兼役〉こりゃいけねぇや、土下座、土下座ぁ。   客C:〈木島兼役〉意外(いげぇ)と早かったな、おい。よしよし、ひざまずきますよっと。 菱喰:〈お玉として〉あれあれ、こりゃしばらく商売できませんねぇ。 菱喰:それじゃ、あたしも…【ひざまずく】よいしょっと。  : 詠:〈N〉法甲寺境内までの道、通称「権現道(ごんげんみち)」が静まり返った。いよいよ将軍の参詣(さんけい)である。法甲寺詣(もうで)は将軍家内々(うちうち)の行事とあって、その行列は威圧を意図したものではない。それでもかなりの人数を引き連れた一行が、粛々(しゅくしゅく)と歩みを進めていく。  : 阿武:惣八さま、いよいよですな。法甲寺の山門(さんもん)まで危険はないことを確かめております。 惣八:何から何までありがとうございました。今生(こんじょう)ではこれ限りとなりますが、受けたご恩は、永遠(とわ)に忘れませぬ。 阿武:…はい。私も、惣八さまを忘れることなどございませぬ。  : 詠:〈N〉先触れ(さきぶれ)の声が止まった。行列の先頭が法甲寺山門(さんもん)に到着したのだ。これより将軍の乗物が山門に向かう。  : 惣八:…もっと、震えがくるかと思っていたのですが。ははは、不思議なものですね。 阿武:見送ることしかできない私を、どうぞお許しくださいませ。 惣八:いいえ。それでは、行って参ります。  : 詠:〈N〉先割れの青竹に訴状を挟み、羽織と袴で正装した惣八が、将軍の黒漆(くろうるし)で仕上げられた乗物を目掛け、進んでいく。   惣八:上さまぁ、お聞き届けくだされぇぇぇぃ。 詠:〈N〉惣八に気づいた供侍(ともざむらい)が、訴えを止めるために駆け寄ってくる。しかし、惣八が止まることはない。 惣八:何卒(なにとぞ)、お聞き届けくださいませぇぇぇ。   詠:〈N〉供侍の制止も振り解き(ほどき)、惣八はなおも歩みを進める。 惣八:行徳の大名主(おおなぬし)惣八にございまするぅぅぅ。上さまぁぁぁ、どうか、どうかお聞き届けくださいませぇぇぇぇ。 詠:〈N〉再三に渡り止められても、惣八の熱意が止むことはない。すがる供侍をものともせず、遮二無二(しゃにむに)前へ前へと足を出す。 惣八:何卒、何卒ぉぉぉぉ。 詠:〈N〉尋常の手段では止められぬと見た供侍は惣八を留(とど)まらせ、訴状を受け取った。その後、警護の頭(かしら)に何やら指示を出している。惣八はその身柄を拘束された。手荒な扱いこそ受けてはいないが、将軍の用向きを妨げたからにはと、惣八は為されるがままにしている。 惣八:〈M〉よかった…。何とか訴状を受け取っていただけた…。あとはどのようにご対処くださるか、だが。…私はどうなってもよい。どうか、訴状が上さまに…   詠:〈N〉この時、常にはありえないことが起こった。なんと将軍の乗物が路上に下ろされたのである。そして戸が少し開けられ、そこからのぞく右手が供のものを呼んだ。野次馬からも声が上がる。これは沿道の誰にも想像できない光景であった。 惣八:〈M〉こ、これは…。あぁ、お取上げくださった。お取上げくださった…。 阿武:〈M〉惣八さまっ……。お、お見事でございます…。 詠:〈N〉乗物の内(うち)に入れられるその訴状。思いもよらず、その場で将軍が中身を改めるようである。身柄を抑えられた惣八に、供侍が諮問(しもん)する。 惣八:手前は、行徳の大名主(おおなぬし)惣八にございます。御領主、本間さまがお沙汰につき、お聞き届けいただきたきこと、これあり。よって無礼を承知で御前(ごぜん)にまかり出た次第でございまする。 詠:〈N〉農民による直訴においては、その領主が身元引受人となる。当然その後の詮議(せんぎ・取り調べ)も領主によって行われる。なればこそ、惣八は死罪を覚悟でやってきていた。何しろ、惣八の身元引き受け先は、本間家になるのだから。…しかし、ここで惣八はまた、不思議を経験することになる。 供侍:〈木島兼役〉行徳の惣八。そなたを町奉行所預かりとする。 詠:〈N〉自分にかけられた言葉が飲み込めず、しばし呆然とする惣八。 供侍:〈木島兼役〉聞こえぬか。これより町奉行所に身柄を送る。 詠:〈N〉惣八は南町奉行、大久保を思い浮かべた。大久保のにこやかでありながらも、真摯に話を聞くその横顔が、頭をよぎる。 惣八:…大久保さま……。 詠:〈N〉これはきっと大久保さまのご配慮に違いない。惣八は自ずと手を合わせていた。  :  : 阿武:〈N〉惣八直訴に及ぶ、という知らせは当然本間家にも届いていた。本来であれば、自分が管理することになるはずの惣八の身柄。それが町奉行所に送られたと聞いた本間佑顕(ほんますけあき)は、荒れていた。 本間佑顕:くそぅ…。どういうことだ。惣八が町奉行所に送られた、だと。惣八は当家にて収監するのではなかったのか。わしが惣八を処する。そのために村から訴状を出させるのだ…。えぇい、誰が邪魔をしておる? 阿武:〈N〉何事かを書状に記し、呼びつけた家来に渡す本間。木島の葬儀以来、思惑(おもわく)通りにいかないことが気にかかる。大筋は自分が描いた絵図(えず)と変わらないが、ところどころ意図せぬ事象(じしょう)が絡んでくるのである。   本間佑顕:結局、吉原番所からは「木島は事故死」との達しがきた。…そのようなことがあるものか。これは仕組まれたことに違いあるまい。 阿武:〈N〉今、本間の大事は己の保身であった。我が身を守るための方策は幾重(いくえ)にも重ねるくらいでちょうどよい。先の書状は計画に差す影がないかと、確認するためのものであった。 本間佑顕:おいっ、誰ぞおるか! 竜胆(りんどう)を、竜胆を呼べ! 阿武:〈N〉本間は公儀より派遣された護衛を呼んだ。「竜胆」とはもちろんお詠のことである。しばらくの後、覆面に忍び装束(しょうぞく)姿のお詠が現れた。 詠:〈竜胆として〉お呼びですか? 本間佑顕:うむ。わしはここ数日で何者かが忍んでくると踏んでおる。これまで屋敷の内外にて、目についたことはないか。 詠:〈竜胆として〉今のところ、おかしなところはありませんね…。 本間佑顕:ぬぅ。お主は歳に似合わず、その道では名の知れた人物と聞く。だからこそ頭(かしら)を任せておるのだ。…励(はげ)めよ。 詠:〈竜胆として〉えぇ。「本間様のお命をお守りせよ」。その命には従いましょう。 本間佑顕:ふん。無愛想なやつめ。…まぁ、よい。何かあれば、家臣に知らせよ。 詠:〈竜胆として〉はい。 阿武:〈N〉老中からの下知を受け、お詠は本間家に詰めていた。数日前から警護頭(けいごがしら)を務め、夜通し任務にあたっている。惣八奉行所送りの裏に、南町奉行 大久保と、当のお詠の働きかけがあることなど、本間には知るよしもない。 詠:〈M〉金と権力…。身分にあぐらをかいた奴らの大好きなもの…か。あんなバカ殿に関わったばかりに、惣八さんのような立派なお人が…。ん? …空気がぬるいね。今夜は曇り空になりそうだ。…来る、かねぇ。  :  : 阿武:〈N〉その夜、詠の予想通り、江戸の町は厚い雲に覆われた。月明かりのない、その暗がりの中を「仕事着」で忍び寄るものがいる。大黒屋の懐刀、菱喰である。得物(えもの・得意の武器)は二本の中脇差(なかわきざし)。この日も背中に鞘(さや)をしつらえ、本間邸を目指している。  : 菱喰:〈M〉くくく…木島の奴は呆気なかったね。仕置きに一晩耐えられなかったんだから。光慶(みつよし)さまの害になる虫は退治してやらねば。さぁ、今度は本間の殿様の番だ。ふふ…旗本としての力があるものか、とっくと見せてもらおうじゃないか。 阿武:〈N〉何度も忍び込み、勝手知ったる本間の屋敷。ただ、今は護衛の侍どもがいる。だが、それもまた想定内のことであった。懐から焙烙玉(ほうろくだま・火薬弾)と煙玉(けむりだま)を取り出すと、火口(ほくち)から火をつけて庭に向けて放り投げた。勢いよく広がる煙の中から炸裂音が響きわたる。 詠:〈M〉ん!? …とうとう来なすったねぇ。遅かったじゃないか。 詠:〈以下、セリフ〉敵さんがおいでなすったよ! あんたらは、二手に分かれ、庭と勝手口に向かうんだ! 阿武:〈N〉お詠はテキパキと指示を出す。この目立つ音と煙は陽動だろうと、そう踏んでいる。敵が狙うは本間の首。それが分かっているからには、自分が奥の間を守るつもりであった。 菱喰:〈M〉ふははは。まるで燻(いぶ)された虫のようにわらわらと侍どもが湧いてくるじゃないか。そんなところに私はいないよ? ふふふ…遅い遅い… 阿武:〈N〉護衛の侍たちは、いまだに襲撃の規模や賊の人数を掴みかねている。太平の世の弊害(へいがい)か。裏に生きる者たちに対応できる人材は、ここには居そうもない。そう、ただ一人、お詠を除いて。 菱喰:〈M〉まったく武家(ぶけ)だの武門の誉(ぶもんのほまれ)だのとご大層に御託(ごたく)を並べても、大事な時にものの役にも立ちゃしない。こいつらは光慶(みつよし)さまの手下(てか)には要らないね。 阿武:〈N〉菱喰は右往左往する護衛を尻目に、天井裏に忍びこむ。たまたまなのか、お詠の指示か、そこには誰もいなかった。 菱喰:〈M〉ふん。不用心なこった。殿様の暗殺といえば、天井裏か床下からと相場は決まっているだろう…。 阿武:〈N〉本間佑顕(ほんますけあき)がいるであろう奥の間に向かう菱喰。本間と木島主従が酒を酌み交わしていた居間の一つ奥にある、本間の居住空間である。 菱喰:〈M〉…こりゃ拍子抜けだね。庭詰めの家来はいても、屋敷の中は手薄に過ぎる。木島は「事故死」で片付けられたそうだが…よもやそれを鵜呑みに? 阿武:〈N〉奥の間の上にきた菱喰の表情が変わった。疑問や懸念は息を潜め、獲物を狩る者の眼差しで本間の息遣いを探っている。 本間佑顕:よいかっ! ここには誰も近づけるでないぞ! 身をもって主人(あるじ)を救え! 阿武:〈N〉情けない要求を廊下に投げつけると、自身は襖(ふすま)を閉めて奥の間に閉じこもった。お詠はその手前の居間にいる。 詠:〈M〉あれあれ…情けないお旗本もいたもんだ。こんな調子で、果たして戦場(いくさば)の役に立つのかねぇ。将軍さまのご家来衆も一部以外はなまっちまってるよ。…まぁ、それも仕方がない、か。 詠:〈M〉…ん? この気配は。思った通り、菱喰のお出ましか。こっちの腕の程も、一度見てやろう。 阿武:〈N〉奥の間に入ったことを確かめて、菱喰が動き出す。ほとんど音を立てることもなく、本間佑顕(ほんますけあき)の目の前に降り立った。 本間佑顕:ん? だ、だ、誰だお前は! お前かっ、木島をやったのは! 阿武:〈N〉慌てながらも問いかける本間。菱喰は答えない。その代わりに懐から棒手裏剣(ぼうしゅりけん)を一本取り出し、本間の股座(またぐら)に投げつけた。「どすっ」…本間が防ぐ間もなく、暗器(あんき・暗殺用の武器)は深々と畳に刺さっている。 本間佑顕:わしを…わしを誰だか知って、ここに来たのであろう? …ふはは、むざむざとやられる訳がなかろうが。 本間佑顕:えぇい、「竜胆」ぉ! 「竜胆」はおらぬかぁぁぁ! よい。奥の間への立ち入りを許すっ!! 菱喰:〈M〉何? 「竜胆」? 「りんどう」と言ったか? もしや… 阿武:〈N〉護衛を呼ぶ本間の声を気にしながらも、菱喰は、殿様目掛けて進んでいく。その歩みはゆっくりと、本間の様子を眺めるかのようである。手には一本の中脇差(なかわきざし)。ひんやりと露を帯びたその刀身は一目で名刀とわかるそれであった。 菱喰:〈M〉その「竜胆」ってのがあのねえさんなら嬉しいんだけどね。…ま、すぐに分かるだろうさ。今はこの間抜けな殿さまをやっちまわないとね。 本間佑顕:な、な、な、なんなんだお前は! なぜわしを狙う?  菱喰:〈M〉あ〜あ、手が震えてないかい、ありゃあ。武者ぶるいなら大歓迎だけどねぇ。 本間佑顕:り、り、竜胆っ! 竜胆は何をしておるっ! この役立たずがぁ… 菱喰:〈M〉役立たず? くくく…役立たずは自分のことだろうに。あぁ、この「お武家さま」も外れだねぇ。私を震わせるほどのものは何も持っちゃいない。さっさとそのタマ、とっちまうかね… 阿武:〈N〉菱喰の刀が、大上段から振り下ろされる。それをかろうじて刀で受け流す本間佑顕(すけあき)。旗本の力をかろうじて振り絞っている。 菱喰:〈M〉へぇ、あれを受け流すか。…ちょいと遊びが過ぎたかね。(それじゃあ次はっと…) 詠:【前の菱喰のセリフに被せて】そこまでだよ。…今からは私が相手だ。 菱喰:〈M〉…あはは。こんなことがあるんだねぇ。やっぱりあのおねえさんだ。「独特な仕事」ってのはこのことかい? …いいねぇ。久しぶりに楽しくなってきた。 阿武:〈N〉菱喰はくるりと本間に背を向ける。その隙に一撃を加えようと本間が動いた。 本間佑顕:…ばかめ。おりゃあ! 阿武:〈N〉金属音が鳴り響く。菱喰は振り返ることもなく、本間の刀を弾きとばしていた。腰を抜かし、へたりこむ本間佑顕(すけあき)。そこへ一言、菱喰が低い声で告げる。 菱喰:【これはセリフ】…斬りかかる時に声を上げるな。 詠:〈M〉…へぇ、なかなかやるじゃぁないか。 阿武:〈N〉挨拶がわりとばかりに、お詠は忍刀(しのびがたな)を抜く。刀身が光を反射させることはないが、その存在感は菱喰に伝わっている。 菱喰:〈M〉このねえさん、使えるね。…ふふふ、朝霞屋(あさかや)の回状の通りなら、あの「常闇の長治(とこやみのちょうじ)」と同等の腕前。これは期待が持てそうだ。 阿武:〈N〉菱喰は手にした中脇差を逆手(さかて)に持ち替え、背にしたもう一本も抜いた。二振り(ふたふり)の刃(やいば)をハの字に構え、お詠目掛けて走っていく。 詠:〈M〉ほう。二刀づかい、か。久しく見ないねぇ。…ははは、いいよ、遊んでやるとするさ。 菱喰:ふっ、はっ! えいっ! 阿武:〈N〉菱喰の二本の刀が、左上段と右下段の両方からお詠に襲いかかる。 詠:〈M〉…へぇ。淀みのない剣筋だ。しっかりと修練を積み、実戦を重ねた者の力量、か。…でもね。   阿武:〈N〉お詠は手にした得物(えもの)で右上段に合わせ、ひらがなの「つ」を描くように相手の二刀(にとう)をはね上げる。素早さと正確さがなければとてもできない芸当である。 菱喰:〈M〉…ふふふ。思った通り、すごい腕前だ。こりゃ朝霞屋(あさかや)の言う通りなんだろうさ。 本間佑顕:そ、そうだ、やれい、やってしまえ、竜胆っ。 阿武:〈N〉気を持ち直した本間が、声をかける。それを聞いたお詠は、踵(きびす)を返すと、柱に向かって走り出した。 菱喰:〈M〉…ん? 何をする気だ? 阿武:〈N〉様子見の菱喰に向け、お詠は懐の飛び苦無(とびくない)を投げつける。一息で三本。上・中・下に分かれ、それらは菱喰にまっすぐ向かっていく。 菱喰:〈M〉へぇ。目にもとまらぬ早業ってやつだね。もっとも私には見えているがね。そらっ。 阿武:〈N〉手にした二刀で難なく弾き飛ばす。菱喰が次に目にしたお詠は、床柱(とこばしら)目掛けて走っていた。その勢いに、本間が焦り出す。 本間佑顕:ひ、ひ、お、おま、お前はわしを守るのが、つ、務めであろう! 阿武:〈N〉元よりお詠に本間をどうこうするつもりはない。チラと一瞥(いちべつ)をくべると、床柱を駆け上がり、空中で綺麗な弧を描いた。その最中(さなか)、さらに三本の飛び苦無(くない)を投げつけている。 菱喰:【感心したように】〈M〉…はぁぁぁ、鮮やかなもんだね。飛び道具に気を取られている間に、獲物と私の間に入り込まれちまった。…ふふふ。私としたことが、これはやられてしまったよ。あぁ、楽しい。楽しいねぇ! 阿武:〈N〉二刀(にとう)を内側に向け、姿勢を低くした菱喰がお詠目掛けて走り寄せる。お詠の苦無は、その上を虚しく通りすぎていった。この者の素早さもただごとではない。菱喰はお詠の眼前で浮き上がり、刀を斜め上方に切り上げた。しかし、お詠は動じることなく、それを捌いていく。 菱喰:〈M〉このおねえさん、すごいね。私の技を立ち所に見抜いて刀を合わせてくるじゃないか。しかも、向こうは一本差(いっぽんざし)だ。…ふふふ。そりゃ、現場に出れば出るほど、名が知られるだろうさ。 阿武:〈N〉傍目(はため)には、二人の太刀筋(たちすじ)は見えていない。熟練の剣士二人のやりとりは、薄暗がりの中で、ただ刀の音だけを響かせている。何度目かの鍔迫(つばぜ)り合いの時、お詠が小声で告げた。 詠:ねぇ、あんた。庭に出るよ。 菱喰:あぁ、いいよ。 阿武:〈N〉刀を合わせ、距離を取り、また立ち合う。周囲の侍は分け入ることもできぬまま、固唾を飲んでただ見守っている。息もつかせぬ攻防を繰り広げつつ、二人は庭へと舞台を移していった。 詠:【周囲の警護に向けて】いいかい、巻き添えになるからね、あんたらは手を出すんじゃないよ。 菱喰:〈M〉…あら? 私を捕まえる気はないのか…ね。   阿武:〈N〉くんずほぐれつ刀のやり取りをしながら、お詠は菱喰に語りかけた。 詠:今はね、あのバカ殿をやられちゃ、困るんだよ。 菱喰:…ふふふ。バカ殿、か。上手いことを言う。 詠:惣八さんの願いを叶えるためだ。ここは引いておくれな。 阿武:〈N〉剣戟(けんげき)の音が再三庭に響き渡る。三本の刀が奏でる音は、さながら音曲のそれである。勢いのままに右に周り、左に流れ、いつしか二人の姿は邸内の池に臨む築山(つきやま)にあった。 菱喰:…ねえさんがそう言うんじゃ、仕方がないね…。 阿武:〈N〉菱喰がそう答えた時、雲間が切れて月明かりが差し込んだ。その光がお詠の姿を照らす。下からそれを見上げるようになった菱喰が、ほんの束の間、眩(まばゆ)そうに目を閉じた。その隙にお詠はぐっと間(ま)を詰める。 詠:〈M〉さてと、そろそろ店仕舞いか、ね。 阿武:〈N〉キラリ。池の水面(みなも)に光が跳ねた。横薙ぎ一閃(いっせん)、それを防ごうとする菱喰の刀は甲高い音を発し、宙を舞った。 菱喰:…くっ。これで手加減してるってのかね。ま、いいさ。出直すとしようか。 阿武:〈N〉菱喰はひらりと身を翻し、お詠から距離をとると、チラと刀の行方を見やる。しかし、お詠が一つ頷くのを目にすると、脇の木を蹴り上げて、壁の上に消えていった。 詠:〈M〉まったく、あいつもなかなかのやり手だねぇ。ま、あたしの敵じゃないようだけど。…それにしても、よく「ねえさん」なんて言ってくれたもんだよ。向こうの方が年上じゃないか、絶対。 阿武:〈N〉頭の中で愚痴をこぼしながら、菱喰の中脇差を拾うお詠。汚れを拭(ぬぐ)うと、布を巻きつけた。その足で、本間の元へと向かう。 詠:本間さま、賊は追い払いましたよ。 本間佑顕:ぬ、ぬ、ぬぅ。よくやった…。 詠:本間さまの守りはお侍衆にお任せして、私は、ご老中に報告に参ろうと思うんですがね。よろしいですか? 本間佑顕:…ほ、報告、とな。それはどのような… 詠:ご安心なさいませ、本間さまのことではございませんよ。なんだかんだで、取り逃してしまいましたからねぇ。 本間佑顕:…む。わしも間近で見ておった。お主の腕は十分に、な。良い、報告は任せる。  :  : 木島實統:〈N〉お詠はその足を一旦『竜胆庵』に向ける。そこには行徳から戻ってきた阿武がいた。お互いの成り行きを交わす。惣八の命を救えるかどうか。竜胆二人はそこに全力を尽くしていた。 詠:あぁ、阿武。あたしはこれからご老中のところに行ってくるからね、この刀を綺麗にしておいてくれるかい?【刀を差し出す】 阿武:えぇ、それはようございますが…。【刀を受け取る】ほぉ…これはなかなかの業物(わざもの)ですな。ん、真新しい刀疵(かたなきず)。 詠:ちょいとやりすぎちまったかもしれないねぇ、最後は弾き飛ばしてしまったよ。良い品のようだから、磨き上げておいておくれな。…きっと取りに来るだろうからね。 阿武:と、取りに?? その、菱喰とやらは…。いや、今はよいか。詠さまの仰せの通りにいたしましょう。 詠:あぁ、頼んだよ。    :  : 木島實統:〈N〉お詠が次に向かったのは、南町奉行所。激務の町奉行は、その役宅を奉行所内に設けている。ここで南町奉行の大久保と、惣八の処遇について相談するつもりであった。 詠:【ノックの音】御奉行はいなさいますかい? 木島實統:〈N〉勝手口から顔を出した守衛にそう告げて、お詠は役宅に入っていった。  :  : 本間佑顕:〈N〉その頃、菱喰の姿は大黒屋の元にあった。本間の暗殺失敗を知らせると共に、一連のお詠とのやり取りについても告げている。 菱喰:あのお詠ってねえさんは、朝霞屋(あさかや)の回状の通りでした。とんでもないですよ。残念ながら、刀では、私は敵わないでしょう。 本間佑顕:〈N〉「ほう、それほどか」いつもの笑顔を浮かべながら、大黒屋が興味を示している。 菱喰:えぇ。剣術だけでなく、体術も一流です。光慶(みつよし)さまがおっしゃるように、敵に回さない方が賢いと思われます。 本間佑顕:〈N〉「敵の敵は、味方よの」という大黒屋に、菱喰が嬉しそうに語る。 菱喰:一度『竜胆庵』を訪ねてきます。私の刀もそこにあるでしょうから。お互い使える内は利用し合うというのもよろしいでしょう。 本間佑顕:〈N〉珍しく相手に入れ込む菱喰を見て、面白そうな笑い声を上げる大黒屋。裏に生きるもの同士が近づくことで、何が生まれるか。大黒屋はそこに現れる何ごとかに期待しているのかもしれない。  :  : 木島實統:〈N〉奉行の役宅から出たお詠は、老中の江戸屋敷に向かっている。その顔はこわばっていた。南町奉行を務める大久保から、惣八を巡る「よくない流れ」を聞かされたからである。「すまねぇ、俺の力も、ここまでのようだ…」…奉行の言葉が耳から離れない。お詠は自然と足早になっていた。 詠:【ノックの音】…ご老中、酒井さまにお目通り願います。 木島實統:〈N〉屋敷に迎え入れられたお詠に告げられたのは、最悪の筋書きであった。それは「惣八は磔刑(たっけい)。刑の執行役は本間佑顕(ほんますけあき)」というもの。さらに、一つの命(めい)がお詠に下される。「刑が無事に終わるまで、本間佑顕を警護せよ」…受け入れ難い現実を突きつけられ、お詠は老中に食い下がった。 詠:【以下、大声ではない】ご老中! あのように高潔な名主(なぬし)は土地の宝にございます。それをみすみす死なすとそうおっしゃるのですか? しかも…それを目の当たりにせよ、とは…。 木島實統:〈N〉当時、大名の監視は大目付が、旗本の業績は目付が管轄(かんかつ)していた。本間はそのどちらの筋に対しても、大金を献上していたのである。元来、大目付は老中の、目付は若年寄(わかどしより)の管理下にあるが、そのどちらもが自分を無下(むげ)に扱えないように手を打っていた。大目付・目付は時としてそれら上役(うわやく)を上回る力を持っている。さしもの老中首座(ろうじゅうしゅざ)酒井も、力なく首を振った。 詠:ご老中…。よろしいのですか、本間のような旗本の横暴を許していても…。金の力とは、それほどまでに大きいのですか…。私の手の者から、上様が訴状を手ずからお取上げくださったと聞いております。それはご存知でしょうか。 木島實統:〈N〉「うむ」と一言発し、大きく頷く老中。旗本の狼藉(ろうぜき)を上様が許される筈はない、と話す酒井の目は落ち着いている。やはり老中ともなれば、一人の名主の扱いよりも、幕府機構の安定が大事か。…詠はやりきれなさを抱えたまま『竜胆庵』へと戻っていった。  : 詠:…阿武、戻ったよ……。ん? あぁ、あんた来ていたのかい。 阿武:詠さま、おかえりなさいませ。こちら、突然のお越しで面食らいましたよ。お刀が「ここにある気がした」だそうです。 菱喰:ねえさん、お帰りなさい、邪魔してますよ。…どうしました? 浮かない顔をして… 詠:なぁ、あんた。一つ頼みを聞いちゃくれないか…。 木島實統:〈N〉三人で何事かを相談しながら『竜胆庵』の灯は落ちていく。  : 惣八:〈M〉結局私は刑死することが決まりました。それはよいのです。元々覚悟の上の訴えでしたから。しかし、それを告げにいらしたお奉行のおつらそうなことと言ったら…。私のような、吹けば飛ぶ命なぞ、もっと軽くお扱いになればよろしいのです。こんな命が代わりになるのなら、お安いご用でしょう。……まったく、あのお方の人情の厚さには、私も後ろ髪を引かれてしまうではありませんか。  :  : 菱喰:〈N〉その日。惣八は、早朝から江戸市中を馬に乗せられ引き回された。事前に用意した白木綿(しろもめん)の単衣(ひとえ)を身につけている。罪状は「直訴状の内容に不届(ふとどき)があった」というもの。「不届」の中身については明かされていない。日本における「磔刑(たっけい)」は凄惨(せいさん)そのものである。“泣かずの惣八“の名声は江戸にも及び、その惣八が磔刑に処されると聞いて、多くのものが集まっていた。  : 本間佑顕:おい、竜胆。この惣八というのは不届千万(ふとどきせんばん)でな。領主である我らに楯突いて仕方がない。わしの手でその命の灯火(ともしび)を消してやれると、清々しておるのよ。 詠:…そうですか。 本間佑顕:…なんじゃ。連れないではないか。まぁ、良い、お主は警護さえしておればよいわ。 詠:えぇ。本間さまのお命は、私がお守りしますよ。   菱喰:〈N〉刑場には、カタカナの「キ」の形に材木が組まれ、その脇に二人の槍持ちが控えている。その時、見守る野次馬の声が大きくなった。縄で引かれ、惣八が刑場入りしてきたのである。「行徳の惣八、これへ!」一際大きな声がかかり、惣八は磔台(はりつけだい)までゆっくりと歩みを進める。 惣八:はい。間違いありません。私が行徳の惣八にございます。 菱喰:〈N〉人改(ひとあらため)の同心(どうしん)に答える惣八。刑吏(けいり)に促され、磔台上(はりつけだいじょう)の人となった。 本間佑顕:ほほ。落ち着いたフリが上手いことだわ。内心、恐れ慄(おのの)いておるであろうにのう。 菱喰:〈N〉まず手首、次に上腕が縄で縛られ、磔台(はりつけだい)の上で、体の自由を奪われていく。 本間佑顕:はっはっは。見よ。抵抗もせず、行儀のよいことよ。はっはっは。 詠:〈M〉…この男…。役務(えきむ)さえなければ、今すぐ叩き切ってやるのに。 菱喰:〈N〉惣八の足首、胸も順に縛られていく。惣八は抗(あらが)うことなく、されるがままになっている。しかし、その目はまだ死んでいない。それを目の当たりにするお詠は気が気ではない。 本間佑顕:あの男も、もったいないことよ。わしらに素直に従ってさえいればのう。 詠:〈M〉くっ…あんたが追い込んだ本人だろうっ。 菱喰:〈N〉いよいよ腰が縄で縛られ、磔台に全身が固定された。それを見て、本間佑顕(ほんますけあき)は満足そうに頷いた。 本間佑顕:【威厳めかして】執行役として、行徳の惣八に伝える。なんぞ、言い残すことはないか。何かあれば、行徳の領主としてしかと聞いてやる。 詠:〈M〉はぁ? 領主だって? どの面さげて言ってんだ。  : 木島實統:〈N〉刑場を見守る群衆の中に阿武がいた。その横には菱喰も立っている。阿武は惣八の様子を見ながら、祈るようにその場に立ち尽くしていた。 阿武:〈M〉あのように立派なお方が、なぜ刑に処されねばならないのか……自分の力のなさが恨めしい。 惣八:お殿様、行徳の地をよりよい町になさいませ。それより他にお願いすることはございません。 詠:〈M〉…惣八さん、最後の最後まで、あなたってお人は… 阿武:〈M〉惣八さま。…惣八さま。まことに、あなたさまほどのお方は、日の本に二人とおりますまい…くぅうう。 本間佑顕:よい。我に任せよ。お前の望む通り、よい町にしようではないか。その願い、叶えてつかわす。 惣八:ありがき、幸せにございます。 菱喰:〈N〉ちらとお詠に視線を向けてから、惣八はこう言った。   惣八:…最期に、辞世の句など詠んでもよろしいでしょうか。 本間佑顕:なんじゃ、侍の真似事か。ははは、よいぞ。許すっ。 惣八:あんのんと えいのひかりが さすのべの はなにぞともす 行徳の恩 惣八:(安穏と 永の光が 射す野辺の 端にぞ灯す 行徳の恩) 惣八:(阿武と 詠の光が 差す述べの 花にぞ友す 行徳の恩)   木島實統:〈N〉惣八がその通る声で辞世の句を口にする。そこには行徳の人々と、お詠と阿武に対する深い感謝が込められていた。その意味を汲(く)んだ竜胆二人は、惣八の思いを痛烈に受け止めている。   詠:〈M〉…そんな、そんなのってあるかい…この人の最期をあたしゃ何もできずにただ見るだけなのかい… 阿武:〈M〉…うぅ。惣八さま、ありがたき、ありがたきお言葉、確かに胸に収めましてございます…くっ。 木島實統:〈N〉最後の言葉を言い終えたのを見て、刑吏が胸の部分を剥ぎ取る。槍を確かに貫き通すための作法であった。そして二人の槍持ちが惣八の目の前で槍を交差させる。いよいよ処刑間近である。 本間佑顕:やれいっ! 惣八:〈M〉あぁ、空がどこまでも青く広がっている。…思えば、私の人生は、人に助けられてばかりだった。 木島實統:〈N〉惣八が見る世界から音が消えた。ただ一つ、耳にキーンという甲高い音が聞こえている。それ以外の音も、雑念も、恐れも、今はない。 惣八:〈M〉私は真っ当に生きることができただろうか。幾許(いくばく)か、人のために役立てて、その生を終えるのであれば、生まれてきた甲斐もあろうというものだ。多くの方にお引き立ていただいた。そのご縁とご恩を胸に、堂々と三途(さんず)を渡ろうではないか。 木島實統:〈N〉その一生を振り返り、多生の縁(たしょうのえん)のありがたさを思い知る惣八。いつしか、その目に涙が浮かんでいた。赤子の頃はいざ知らず、物心ついてからは泣いたことがない、と言われた「泣かずの惣八」が泣いている。その涙にお詠は気づいていた。 詠:〈M〉…あぁ、惣八さんが微笑んでいる。もう仏様になられたのかねぇ。 詠:今生(こんじょう)の苦界(くがい)での生き様、あたしがこの目に焼き付けますからね…。 木島實統:〈N〉槍を持った二人の刑吏が「アリャアリャ」と声をあげる。右側の一人が槍を右脇下から左の肩先を目掛け、勢いよく突き立てた。血飛沫(ちしぶき)を散らし、惣八の体がビクッと大きく揺れる。   惣八:グォォォっ…がはっ… 詠:〈M〉…なんであの人がこんなに苦しまなきゃならないんだ。 詠:…菱喰……頼んだよ。   木島實統:〈N〉続いて、左の刑吏がその対称から惣八を貫く。ほとばしるさらなる鮮血。しかし、惣八がそれ以上の叫び声を上げることはなかった。 菱喰:なぁ、阿武さん。もういいだろう? 阿武:【泣き叫びたいのを我慢して】……はい、お願い、します。 菱喰:…あぁ、任せな。フッ【毒矢を吹く】   木島實統:〈N〉一つ目の槍が惣八を貫いた時、菱喰が吹き矢を吹いた。木島を射た正確な矢が、人知れず惣八の首筋につき立っている。惣八は、二つ目の槍に苦しむことなく、帰らぬ人となっていたのである。磔刑(たっけい)においてはその後も串刺しが続く。これは作法であり、罪人が死んだとしても、それは変わらない。その数はなんと三十を数えるほどであった。 本間佑顕:…いや、これは、ぐむ……なんとも…。【気分を悪くする】 本間佑顕:…ふぅ、ふぅ。わ、わしは少し席を外す…。 詠:…よろしいんですか? 刑場の総責任者がいなくなっても。 本間佑顕:…う、う、うるさい。あのように血みどろの姿など、み、み、見ていられるものか。 詠:あらあら、本間さま、お顔が青うございますね… 本間佑顕:おけぃ…。おいっ、誰ぞある。 本間佑顕:【家臣が近づくのを見て】うむ。お前に名代(みょうだい)を任せる…うぅ。   詠:お大事になさいませ。 詠:〈以下、M〉吹き出す血やこぼれる臓物(ぞうもつ)に気を悪くするのか。…ふん。情けない旗本もいたもんだ。…惣八さん、不甲斐ないあたしらを許しておくれ…。 木島實統:〈N〉本来、磔刑で死した罪人は、その遺骸(いがい)を放置される。引き下ろされた後、穴に放られ、犬やカラスの喰(は)むに任されるのである。しかし、この日、惣八の遺体は早桶(はやおけ・粗末な棺桶)ではあったが、棺桶に入れられた。本間佑顕はそれを見ていない。本間が気にかけていた、常と違う成り行きがここにも一つ見られたのである。その意味に彼が気づくまで、時間はそれほど残っていない。  :  : 菱喰:〈N〉惣八の処刑のあくる日。お詠の姿は老中の江戸屋敷にあった。そこでお詠は本間の処遇を聞くことになる。 お詠:……そうですかい。それでは惣八さんの死は無駄ではなかった、と。 お詠:よかった。本当によかった。大久保さまから惣八さんにも伝わっていたんだねぇ…。 菱喰:〈N〉その命まで救うことは叶わなかった、と詫びる酒井。そこに将軍の意思があると聞き、悲しみは消えぬまでも虚しさは少し、薄れていった。  :  : 阿武:〈N〉木島に代わる家老を任命し、惣八の処刑も終えた本間家では、佑顕(すけあき)が上機嫌で酒宴を催(もよお)している。 本間佑顕:はっはっは。邪魔なものも消えたし、これから行徳でもっともっと財を作っていかねばのう。【酒を飲む】ぐびっ…。おう、お前らも飲め、飲めぇ! 本間佑顕:わっはっは。わぁ〜はっはっは。   阿武:〈N〉ドンドンドン! 賑やかな居間を望む静かな庭園に、門を叩く音が響く。「開門!」重みのある声を聞き、門番は勝手口ではなく、正門を開いた。そこにいたのは、公儀からの遣い(つかい)である。   本間佑顕:…あぁ? なんじゃ、皆で楽しゅう飲んでいるというのに…えぇい。 本間佑顕:な、何? 公儀の遣い、じゃと? こんな夜更けに一体なんじゃ…。 阿武:〈N〉遣いを出迎えた本間に告げられたのは、本間家の改易(かいえき)、当主佑顕(すけあき)の切腹であった。 本間佑顕:なんですと? 我が家が改易? わしが切腹?? なぜじゃ、なぜなんじゃ。 阿武:〈N〉「うるさい」と一蹴(いっしゅう)される本間佑顕に、続けて罪状が伝えられる。 本間佑顕:〈M〉ざ、罪状だと……大目付や目付は何をしておるのだぁっ 阿武:〈N〉「旗本、本間佑顕(ほんますけあき)。天領、行徳での不行跡(ふぎょうせき)、惣八の訴状により明白である。そちの申し立てと異なる点、多数これあり。功ある惣八を私怨(しえん)にて処断すること、甚(はなは)だ許しがたし。また、賂(まいない・わいろのこと)を公儀役人に贈りて融通を求めしこと、大目付、目付など複数の筋から訴えが上がっておる」…と聞いた本間の顔色がサッと変わった。   本間佑顕:な、何ぃ!  本間佑顕:〈以下、M〉くそぉ、くそくそくそぉぉ。寝返りよったなぁぁぁ。 阿武:〈N〉さらに遣いがこう告げる。「先の刑場における執行役はそちである。その命(めい)を軽んじ、職務を放棄した、との報告もある。旗本は上さまを守るべき大切な役儀(やくぎ)。その方の無作法(ぶさほう)を聞けば、旗本の任に置くこと能(あた)わず。これらにより、本間家は改易。そちには切腹を申しつける」 本間佑顕:お、お遣い殿に申し上げる…。こたびの裁き、どこの誰によるものか。 阿武:〈N〉遣いは怪訝な顔をして「なぜ、それを聞く」と応えた。 本間佑顕:…ははっ、仮に南町奉行の大久保によるものであれば、それは、彼奴(きゃつ)の(本間家に対するやっかみによるものと存ずる) 阿武:〈N〉【前のセリフに被せるように始める】遣いが告げる。 阿武:「控えぃ! 上さま直々に断罪されたものである」と。 本間佑顕:なんと! 上さまのご裁量、とは…。は、はは【力なく項垂れる】  :  : 菱喰:〈N〉こうして、行徳の一件は落着を見た。行徳は旗本領ではなくなり、公儀直轄(ちょっかつ)の地に戻ることとなった。惣八の功績は、すでに行徳一円で語り草となっている。 詠:〈M〉これで悪徳の者はすぐに目立つからねぇ、悪さもできなくなるだろうよ。惣八さんの願いは「行徳の安穏(あんのん)」。これからも安らかに過ごせるよう、あたしらも目を配ります。…惣八さん、あなたのことは終生忘れないからね。 阿武:〈M〉惣八さまの刑死は、必要なものではあったのでしょうが…。あのように高廉(こうれん)なお方は、そう易々(やすやす)と求められるものではございますまい。   惣八:【阿武の回想】行徳の地をよりよい町になさいませ。それより他にお願いすることはございません。 阿武:お言葉の一つ一つ、お振舞いの一つ一つが。そして磔台でのご様子がこの目から離れません。……お預かりした訴状は、いつの日か、公(おおやけ)にいたしますからね。  :  : 木島實統:〈N〉行徳(ぎょうとく)の惣八は公儀の計らいで法甲寺(ほうこうじ)に葬られた。離縁された元妻、行徳の名主たちも参列を許され、その葬儀はしめやかに執り行われた。墓石の傍らには、竜胆が植えられている。惣八の墓に墓碑(ぼひ)が建ち、『行徳の義民 惣八 ここに眠る』と、その業績と辞世の句が刻まれるのは、まだ、しばらく後(のち)のことである。 惣八:〈M〉あんのんと えいのひかりが さすのべの はなにぞともす 行徳の恩  :  : 0:仕掛屋『竜胆』閻魔帳 的之肆・後編 これにて終演でございます。長丁場の上演お疲れ様でございました。 0:数ある台本の中から、本作を手に取ってくださりありがとうございます。 0:他の話もお目通しいただけますと幸いです。皆さまの声劇ライフのお役に立てますように。