台本概要
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タイトル | 今宵も頁を紐解いて_No.07 泉鏡花「金時計」より |
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作者名 | ラーク (@atog_field) |
ジャンル | コメディ |
演者人数 | 4人用台本(男2、女2) |
時間 | 40 分 |
台本使用規定 | 非商用利用時は連絡不要 |
説明 |
文学部生が勧善懲悪を身をもって体験する話。
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キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
---|---|---|---|
ハリマ | 男 | 72 | ハリマユウイチ。二十歳。陽明館大学二年。男性。 一人称は「僕」。 今つけている時計は大学進学祝いに叔父に買ってもらったもの。 |
イズモ | 女 | 87 | 二十代。古本屋「夜見書堂」店主。女性。 一人称は「あたし」。 普段腕時計などはつけない。ただ懐中時計を持っており、遠出の時だけ身に着ける。 |
ミマサカ | 男 | 57 | ミマサカヤマト。三十代前半。陽明館大学講師。男性。 一人称は「おれ」。 普段はスマートウォッチを使用しているが、よく充電を忘れる。 |
スオウ | 女 | 52 | スオウキキョウ。二十歳。陽明館大学二年。女性。 一人称は「私」。 体内時計は一分とずれない(自称)。しかし実際、朝はアラームなしで起きることができる。 |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
スオウ:ねえねえハリハリ、ひどいと思わない?
ハリマ:あ、ごめん。聞いてなかった。
スオウ:ええ~っ!? ひどくないひどくないハリハリもひどくない!?
ハリマ:……と言われても、今ほらこれ検品してるし……汚れとか見逃したら、イズモさんに怒られちゃうよ。
イズモ:それくらいじゃ怒らないわよ。古本なんて多少の汚れはつきものなんだから。
ハリマ:あ、イズモさん。検品終わった箱、一ついっぱいになりました。
イズモ:ありがとう。スオウさんも、値札貼りはどうかしら?
スオウ:順調ですっ! 私はハリハリと違って口も手も同時に動かせるので!
ハリマ:さっきから動かしてたの口ばっかりだったと思うけど。
イズモ:まあ別に、手伝ってもらってるんだしちゃんと手を動かしなさいとまでは言わないわ。でも、出来高だから、あなたたちの時給はあなたたち次第よ。
ハリマ:まともにやっても最低賃金下回りそうなんですが……
イズモ:お金を稼ぐのは大変ね。
ハリマ:大変にさせてるのイズモさんじゃないですか!
スオウ:まあまあハリハリ、イズモさんにはいつもお世話になってるんだから、これくらい手伝ってあげようよ。
ハリマ:いつもそれだよ……ってか、そんな言うほど僕たちイズモさんにお世話になってたっけ?
イズモ:あら、何にも買いもしないのに毎日のようにここに来てるくせにそんなこと言うの? 落ち着ける場所をタダで提供しているだけでも相当の貢献だと思うけれど。
ハリマ:それは確かに言い返せない……あれ、でもヒュウガは? 午前中大学で会ったときイズモさんに呼ばれたとか愚痴ってましたけど。
イズモ:カイなら案の定既読無視よ。ハリマくん、カイに自分も呼ばれてるとか言ったりした?
ハリマ:あ、はい。僕も呼ばれてるけどなんの用なんだろうねって話はしました。
イズモ:だからね。大方ハリマくんも呼ばれてるから面倒なお願いでもされると勘づいたんでしょう。あの子、その辺敏いところあるから。
スオウ:ヒュウガってなんでそんなにイズモさんを避けようとするんだろーね。いっつも素直じゃないけど、イズモさんに対しての時はもっと素直じゃなくなる気がする。
イズモ:さあ。どうしてかしらね。小さい頃はもっと素直だったのだけれどねえ。
ハリマ:……まあ、イズモさんにも問題があるような気が。
イズモ:何か言ったかしら、ハリマくん。
ハリマ:いえ。検品楽しいなって思って。
スオウ:わざとらしいよハリハリ~。
イズモ:そういえば、さっきスオウさんがひどいひどいって話してたのは何の話?
スオウ:あ、そうだ。ひどいんですよ! ハリハリったら、人の話全然聞いてないんです!
ハリマ:そっちじゃないだろ。うちの教授になんか嫌な奴がいるんじゃなかったっけ。
スオウ:あ、そうそう! 私が今取ってる授業で、受講するのに教授の著書購入が必須の奴があったんですけど! その授業、教授が新刊出したからってその本買わないとテスト受けさせてくれないとか言うんですよ!
ハリマ:割とマジでヤバイ話だった。
スオウ:だから言ったじゃん! 教授は「諸君らの学びをより深いものにするために必要なものだ。必要経費と思ってもらいたい」とか言ってたけど、フツーにアウトだよね?
ハリマ:アウトだと思うよ。教務に言ったら対応してくれるんじゃないかな。
イズモ:止めはしないけれど、あんまり効果があるとは思えないわよ、それ。
ハリマ:え、どうして……
イズモ:大学ってのはその辺なあなあなところがあるのよ。運営側もあんまり教授陣には強く言えないの。古参の教授は変に力持っちゃったりしてるから、特にね。自治の名があきれるわ。だからそうやって幅を利かせる勘違いした輩が出てくるんじゃないかしら。
スオウ:でも、じゃあ泣き寝入りするしかないのかなあ。にせんごひゃくえん……学生にはきついよお。
イズモ:それやったの誰かしら。うちの大学の教授? 外部じゃなくて。
スオウ:うちの大学の教授です! ヒゴって人なんですけど。
イズモ:ああ、ヒゴさんね……あの人いつになっても懲りないわね。
ハリマ:イズモさんが在学中からいる人なんですか?
イズモええ、そうよ。そのころから大した事ない「成果」を自慢してくる人だったわ。声が特徴的で苦手だったわねえ。あの人が書いた本なんて、中身がぺらっぺらだから学生くらいにしか売れないんじゃないかしら。
スオウ:やっぱり! 教授の人たちの中にもろくでもない人いるんですね!
イズモ:当り前よ。教授なんて肩書持ってたって結局はあたしたちと同じ人間。肩書やレッテルで人を見るなんて愚かな行為だわ。特に教授なんて人より少しだけ学校にいた期間が長いだけなんだから。そんなのをありがたがる意味なんてないわよ。
ハリマ:イズモさん、何だか個人的な恨みが籠ってません?
イズモ:狭量な爺さんたちにいろいろとね。お世話になってきたから。でもいいわ。ちょっと待っててね。
ハリマ:ん。イズモさん? スマホなんて出してどうするんです?
イズモ:ちょっと、連絡してあげようと思って。
……こちら夜見書堂。その声はヒダさんね。ヒゴ教授はいるかしら?
スオウ:(小声で)ヒダさんって、日文学科事務室の事務員の名前だ。
ハリマ:(小声で)ってことは、大学に電話かけてるんだな。イズモさん何するつもりなんだろう。
イズモ:ああ、ヒゴ先生。いつもお世話になっています。イズモです。……いえ、ヒゴ先生もお元気そうで。あの件ならつつがなく進んでいましてよ――
ところで、こないだお願いいただいた本が入荷したのですけれど――ええ。こちらは「個人用」でしたわね――そうなんです。そのあたりは間違いなく――ええ。それで、こちらなんですけれど、思っていたよりも入手に骨が折れまして。代金を予定の二割増しとさせていただきます――そうおっしゃいましても、こちらの都合というのもありますので。不要であれば、普通に棚に出すだけですわ――ええ、それでいいのでしたらお売りいたします。
ハリマ:(小声で)なんか、すごい話になってない?
スオウ:(小声で)いやーすごいね。面白そう。これヒゴ先生の声も聞きたいなあ。
ハリマ:(小声で)面白そうって……
イズモ:ああ、あと。先生相変わらずアコギな商売やってるみたいですね――いえ、先生の新刊の話です。あたしの耳にも入ってくるんですよ――あたしは先生の懐の話を聞きたいんじゃないんです。それに、学生なんて先生よりずっと懐寂しいに決まってるじゃありません?――ええ。その学生から搾り取るような商売はどうかと思いますけれど。そんなことばかりしてたら、あたしの店で先生の本投げ売りしちゃいますよ――やめてほしいなら、先生ももう少し考えて行動したほうがいいと思いますけれど――ええ、わかってくださればいいのです。それじゃ、お待ちしております。
スオウ:あ、電話終わったみたい。
イズモ:……まったく。この甲高い声慣れないわね。電話でちょっと話しただけで頭に残るのに、スオウさん毎週九十分間この声聞かされて大丈夫? 頭おかしくなったりしてない?
スオウ:あはは。確かに独特~な声ですよね。でも、大丈夫です!
ハリマ:スオウは元から頭おかしいから……
スオウ:ハリハリ?
ハリマ:はい、すみません。
ところで、イズモさんなんの電話をされてたんですか?
イズモ:ちょっと仕事の話をね。注文の本が入荷したご連絡をしてあげてたの。あ、そうだスオウさん。臨時収入が入ったから、今日のバイト代に色付けてあげるわ。三千円ほどね。
スオウ:えっ、ほんとですか! やったー。ちょうどテキスト買ってお財布寂しかったんですよお!
ハリマ:イズモさーん、ちなみに僕は……?
イズモ:缶コーヒーでも奢ってあげるわ。
ハリマ:知ってた……
イズモ:さ、スオウさんの問題もひと段落したところで、作業を続けなさい。できたら今日中にこの検品と値付けは終わらせちゃいたいのよね。
ハリマ:え、この量を今日中にですか!?
イズモ:そうよお。うちは深夜までいてもらっても大丈夫だからね。あたしは帰るけど。
ハリマ:うぐ……スオウ~、ここ「蟹工船」もびっくりなブラック職場じゃない?
スオウ:ハリハリ、「蟹工船」読んだことある? こっちのほうが全然極楽だよ?
イズモ:ろくに知らない作品を引用したりすると、無知が露呈するだけだから気を付けたほうがいいわね。
ハリマ:ううう……ここに僕の味方はいないのか……
イズモ:そのうち来るんじゃないかしら。味方というより、似たような立ち位置の人が。
ハリマ:え、誰か来るんです? 似たような立ち位置の人……ヒュウガとか?
イズモ:あの子はたぶん今日は来ないわよ。ま、待ってたら来るんじゃないかしら。
スオウ:イズモさん、この箱、泉鏡花ばっかりですね。
イズモ:あら、スオウさん泉鏡花好きなの?
スオウ:好きというか、前に近代文学論の授業で取り扱ったことあるんです。なんか、泉鏡花の本って表紙が綺麗なの多いですよねえ。タイトルも「草迷宮」とか「夜叉ヶ池」とか、不思議な雰囲気のあるの多いですし!
イズモ:泉鏡花は日本の幻想文学の先駆者と言われているのよ。今挙がった二作品も、幻想的な趣を有する作品よ。
スオウ:あ、なんか先生も言ってました。幻想文学って! でも、幻想文学ってファンタジーってことなのかな?
イズモ:幻想文学とファンタジー。それぞれの定義をどう設定するかで、その線引きも変わってくるわ。でも、少なくとも泉鏡花の幻想文学は、いわゆるファンタジーとは少し違っているとあたしは思うわね。
ハリマ:泉鏡花かあ。僕は「外科室」を読んだことがあります。こちらは何か独特の世界観は感じましたけど、幻想って感じではなかったような……?
イズモ:「外科室」は鏡花の初期の作品ね。このころの作品は「観念小説」と呼ばれていたの。作者が心のうちに秘めている観念を書き出したもの、という意味だったのだけれど、当時はあまり肯定的な意味では使われていなかったようね。
ハリマ:なんでです? 自分の中に秘めているものを書き出すなんて、当たり前のことだと思いますけど。
イズモ:「外科室」を読んだならわかるわね。あれは医師と伯爵夫人の許されざる恋を描いたものだけれど、麻酔をめぐる話も含めて、その大半は現実の人間にとってはあり得ない話よ。「作者の心のうちを書き出す」というのは、ともすれば現実と矛盾したものが書き出される可能性もあるの。
スオウ:現実と矛盾とか、創作だったら当たり前じゃないんですかー?
イズモ:今のあたしたちにとってはそう。「当たり前」ね。けれど、当時の日本は西洋から入ってきた「Novel」というものをどう自分たちで書くかを模索していた時代。当時の主流は、坪内逍遥らが主張した「写実主義」だった。
現実を可能な限りそのまま描こうとする写実主義と、自分たちの観念を描くあまり時に作品世界の「現実」が歪められることすらあった鏡花の作品とは、相容れないものだったのよ。
ハリマ:なるほど。当時の潮流と異なる作風だったんですね。確かに、泉鏡花ってかなり異質な作家ってイメージがありますね。
スオウ:はえぇ……何か文学史の授業を聞いてるみたいな気分になってきたよ……ふわあああ。
ハリマ:せめて欠伸は我慢しなよ……
イズモ:ふふっ。小難しい話聞くと、眠くなってくるわよねえ。
ハリマ:イズモさん、何かスオウに対して甘くないですか?
イズモ:そうかしら?
スオウ:でも、イズモさんの説明は文学史の先生よりわかりやすかった!
イズモ:嬉しいこと言ってくれるわね。
ハリマ:スオウって、イズモさんの扱い方うまいよね。
スオウ:そうかなあ? 思った通りのことを言ってるだけなんだけど。
イズモ:ハリマくん失礼ね。あたしを道具みたいに言うなんて。スオウさんのほうが扱いがいいのは、あたしがスオウさんに甘いのではなくて、あなたがあたしに対して失礼なのが原因なんじゃないかしら?
ハリマ:うぅ……辛い。
ミマサカ:すみませーん。イズモいますか?
ハリマ:あ、イズモさん、お客さんみたいですよ。
イズモ:来たわね。
ハリマ:来たわね……って、まさかこの人が?
イズモ:いらっしゃい、「先輩」。
ミマサカ:ああ、イズモ。なんかうちの教授が例のもの取って来いってさ。やけに不機嫌なんだけどまたなんか言ったかい?
イズモ:あんまり学生をいじめないで、って言ったわね。
ハリマ:言い方はもっと過激だったような気が……
ミマサカ:学生をいじめるって、君のほうじゃないのかな。今もこうやって学生をこき使って店のことを手伝わせてるんだろう。
イズモ:失礼ね。ちゃんと正当な報酬もつけてるし、両者合意の上よ。
ミマサカ:それは本当かい、お二人。
ハリマ:え、ええ。まあ。
スオウ:大丈夫です! りょーしゃごーいのうえです!
ミマサカ:そうか。それは失敬したね。
イズモ:私はむしろ彼女のことを助けてあげたのよ。あなたのところの無能教授が中身のない本を高値で売り付けてくるって泣きついてきたから。
ミマサカ:ああ……そうか。うちの教授には困ったものだねえ。
ハリマ:イズモさん、この人は……
スオウ:あれ、ハリハリ知らない? この人、うちで講師してるミマサカ先生だよ。
ハリマ:え、うちの先生なの?
ミマサカ:ああ。自己紹介をしていなかったね、失敬失敬。おれはミマサカという。この女の子の言う通り、陽大の講師兼、近代文学の研究者をしているよ。以後よしなに。
ハリマ:あ、はい。よろしくお願いします。
イズモ:と同時に、あたしの大学時代の先輩でもある。
スオウ:ええっ、イズモさん、ミマサカ先生と旧知の仲ってやつだったんですか?
イズモ:ええ、そうよ。大学時代はずいぶんお世話になったんだから。
ミマサカ:おれは特にお世話をした記憶はないけれどね。困らされた記憶ならたくさんあるから、それを「お世話をした」と形容すべきなら確かにそうだけれど。
イズモ:あら、いつあたしが先輩を困らせたかしら?
ミマサカ:そういうところだよ……まったく。また研究室に帰りづらくしてくれて。
イズモ:さっきも言ったでしょう? あれはあなたのところの教授がアコギな商売をしていたのがいけないの。あたしは困っていた学生を助けてあげただけ。
スオウ:ごめんなさい! 私が変な愚痴言ってたから。
ミマサカ:ああいや、君が謝る必要はないんだ。えーと……
スオウ:スオウ、です。一年生の時ミマサカ先生の授業を取っていたので覚えてました。
ミマサカ:ああ、確かにいたね。ずいぶん元気そうな女の子だった。で、君が謝る必要は全然ないよ。ヒゴ教授が酷いことをやっているのは自分も知っているし、彼女も彼女なりに君を助けてあげようとしたんだろう。
イズモ:酷いことをしていたのを知っているなら、何とかしてあげたらどうかしら?
ミマサカ:相変わらず君は痛いところを突いてくるね。もう少し年上への敬意というものはないのかい?
イズモ:あなたの言う「年上の敬意」が発揮された先にあるのは、あなたのところの教授がつけあがる原因にもなっているような過剰な忖度でしょう。あたし、そういうの苦手なの。
ミマサカ:まったく……君ならわかるだろう。おれなんかじゃどうしようもないって。
イズモ:そうかしら。やろうとすらしてないくせに。
ミマサカ:やろうとすらしてない、というのは心外だな。おれだって、できることはしてるさ。
イズモ:へええ。なら見せてもらいたいものね。あなたがやっている「できること」とやらを。さぞたくさんの学生たちのためになっているんでしょうね。
ミマサカ:君はどうしてこう、いちいち棘のある言い方をしないと気が済まないんだ?
イズモ:ごめんなさいね。生まれつきなの。
ミマサカ:はあ……口喧嘩じゃ君にはかなわないな。
イズモ:ここで引き下がるなんて、あなたもずいぶんと物分かりがよくなったのね。あたしの調教のたまものかしら。
ミマサカ:調教って……君に何を返しても無駄だと理解したからだよ。君たちもすまないね、変な口喧嘩をしてしまって。
スオウ:大丈夫です! なんか、イズモさんと仲がいいんだなあってわかりました!
ミマサカ:今のを見て仲がいい……正気かい? ちょっと君、個性的だね。
ハリマ:そうなんです、個性的なんです。……でも、これが僕の「似た立ち位置の人」……
ミマサカ:何だ、君は突然落ち込みだして。
ハリマ:いえ。気にしないでください。
イズモ:先輩が人生の先輩として参考になるって話を彼にしてたのよ。
ミマサカ:え、おれがかい? それは光栄だな、よろしく少年。
ハリマ:はい……よろしくお願いします……
ミマサカ:君、名前は?
ハリマ:ハリマって言います。ハリマユウイチ。
ミマサカ:機会があればおれの授業にも参加してみてもらえると嬉しいな。
スオウ:結構わかりやすくて、おすすめだよ!
ハリマ:あ、そうなんだ。そしたら、後期にでも……
イズモ:ああ、そうそう。先輩はね、泉鏡花の研究をしてるのよ。
ミマサカ:してた、だな。学部生時代の研究対象だよ。
イズモ:ちょうどタイムリーに鏡花の話をしてたのよ。先輩が来る前に。
スオウ:鏡花が幻想文学とか、観念小説って言われてたのを教えてもらってました!
ミマサカ:ああ、その辺の話か……ん。スオウさん、君昨年おれの授業に出ていたのなら、その話はしなかったかい?
スオウ:はぇ!? ……あれえ?
ハリマ:綺麗に墓穴を掘らないでよスオウ。確かさっき、先生も言ってたって自分で言ってたろ? ミマサカ先生の授業のことだったんじゃないの?
スオウ:ん~~~~。そんな気も、する……?
ハリマ:スオウ、今しがたわかりやすくておすすめって言ってたよね。
スオウ:いや、だから私でもさっき言ったことは覚えてたんだよ! さすがミマサカ先生!
ハリマ:あ、強引に持ってった。
ミマサカ:はははっ。まあ、先生の話覚えるの大変なのはおれもわかるよ。
イズモ:先輩の卒論、何だったかしら。
ミマサカ:泉鏡花を研究してたことまで覚えているのに何で卒論書いたかは覚えていないのかい? あれだよ。「金時計」。
イズモ:ああ、そうだったわ。とっても素敵な卒論だった。
ミマサカ:思ってもいないくせに。どうせろくに内容も覚えていないだろう。
イズモ:あら、さっきあなたが言った「年上への敬意」とやらを払って素敵って言ってあげたのに、そんなにすぐネタばらしするの?
ミマサカ:別にもともと君にそういうのは期待していないからいいよ。
イズモ:それはごめんなさいね。……卒論の内容は一ミリも覚えていないけれど、「金時計」はなかなか面白い作品よ。
スオウ:「金時計」……聞いたことなーい!
ハリマ:僕も知らないです。……あ、イズモさん申し訳ありません。
ミマサカ:ん? なんでハリマくんは突然イズモに謝ったんだい?
イズモ:さあ。あたしの調教のたまものじゃない。
ミマサカ:ああ……なるほど、そういうことか。
ハリマ:先生に察された!
ミマサカ:ハリマくんだっけ。君もなかなか苦労してるんだね。
ハリマ:そうなんです……ミマサカ先生……
スオウ:何か通じ合ってますねえ、ふたりとも。
イズモ:かわいそうな立場同士、気が合うんでしょう。
ハリマ:ところで、「金時計」ってどういう作品なんですか?
ミマサカ:ああ、「外科室」よりもさらに前に書かれた、泉鏡花最初期の作品だよ。まだのちの「観念小説」や「幻想文学」という分類につながる作風も芽生え切っていない、江戸期の戯作をほうふつとさせる作品だ。
ハリマ:戯作……人情本、とかですか?
ミマサカ:そう。つまるところ、この作品は「勧善懲悪」なんだよ。明治期に入って坪内逍遥らから真っ先に否定された江戸期の香りを有する物語の形式。それを使っている。
スオウ:あー! かんぜんちょうあく! さっきイズモさんが私のためにやってくれたみたいなやつですね!
イズモ:そうね、あれみたいなものよ。
ミマサカ:イズモがやったことを「勧善懲悪」として肯定するのはおれにはできないな……たぶんだけれど、それはどちらかというと「毒をもって毒を制す」みたいなものだからね。
イズモ:誰が毒ですって?
ミマサカ:そういうところだよ。……それで、そうした勧善懲悪をベースとした筋の中に、当時の社会的背景が混じっている。そんな作品だ。
ハリマ:当時の社会的背景、というのは?
ミマサカ:それを聞きたかったらおれの授業を受講してほしいな。まあ、さわりだけ言うと、この作品では「悪」の座にあーさー・へいげんというお雇い外国人が収められているんだ。書かれたのは明治初期。そもそも「異国人」というものに対する恐怖心や差別感情もあったろうし、不平等条約などに対する悪感情もあったろう。そういった世相を題材にとった作品なんだ。
ハリマ:そういうことですか。なるほど、それだけの文脈的情報をもった作品、ということですね。
ミマサカ:そういうことだ。まあ、ほかの作品の例にもれず、この作品もまた語ることのできる部分の多い作品だ。深く考えたければ実際に読んでみてほしいし、おれの授業を取ってみてほしいね。
ハリマ:あ、はい。授業はいずれ、取らせてもらおうと思います。
イズモ:読みたいなら、奥の文学全集の棚に泉鏡花全集があったはずだから読んでみなさいな。
ハリマ:イズモさんも、ありがとうございます。
イズモ:先輩はこの後予定あるのかしら? 良ければハリマくんとスオウさんとごはんにでも行かない? いいお刺身の店、あるのだけれど。
ミマサカ:……本当に君は相変わらずなんだな。
スオウ:ミマサカ先生、なんかいかにも苦虫をかみつぶしたような顔してますね。どうされたんですか?
イズモ:この人ね、生魚がダメなのよ。
ミマサカ:ちゃんと覚えているのなら、わざわざ刺身などと言わなくてもいいだろうに。
イズモ:あら、確認しただけよ。研究対象と同じ好みをしてるんだもの、忘れるわけないじゃない。もうあのころから何年も経ってるのだから、少しは変わったのかと思って。
ミマサカ:それはお互い様だよ。君も東大院に進んで少しは角が取れたかと思ったのだけれどね。
イズモ:残念ながら、ね。あんなところ退屈で仕方ないということだけ思い知らされたけれど。
ミマサカ:だから、ここに戻ってきたのか?
イズモ:……どうかしらね。
で、どうなの? 刺身は冗談として、どこかごはん食べに行かない?
ミマサカ:残念ながら。先生のお使いもあるし、まだやらなければならない仕事も残っているのでね。遠慮するよ。
イズモ:そうだったわね。ヒゴ教授のお使いのこと忘れてたわ。
ミマサカ:忘れられると困るな。そのために来たんだからね。
イズモ:ええ。……これよ。ちゃんとお代振り込んでくださいと、しっかりお伝えくださるかしら?
ミマサカ:わかった。
イズモ:ああ、そうだ。あたしちょっとコンビニに寄りたいから一緒に出るとするわ。ハリマくんとスオウさん、少しだけ空けるわね。
スオウ:りょーかいしましたっ! しっかり仕事の続き、しておきますね!
イズモ:といっても、すぐに戻ると思うから。
ハリマ:スオウが執拗に話しかけてこなければ、しっかり続きできると思います。
スオウ:ちょっとハリハリ!? まるで私が邪魔してるみたいじゃん!
ハリマ:まるでじゃなくて邪魔してるんだよ。ついさっきまでぺちゃくちゃ話しかけてきたの忘れたの?
ミマサカ:はははは、君たちは賑やかでいいね。また、機会があったら会おう。ハリマ君、授業の件、待っているよ。
ハリマ:ありがとうございます。ぜひ。
イズモ:……じゃあ、申し訳ないけれど少しの間お願いね。
スオウ:(二人が店を出て)
……ふう。先生を前にすると、少し緊張するなあ。
ハリマ:そう? 話しやすくて気さくな先生だと思うけど。
スオウ:それはわかるけど! 先生ってだけで緊張しちゃうんだよお。私はイズモさんの言うようなレッテルを抜きにして人を見るなんて無理だなあ。
ハリマ:いや、それはイズモさんもできてないと思うけどね。だからそう言ってるっていうか。……自戒みたいな?
スオウ:そうかなあ。でも、ハリハリ大変だよ?
ハリマ:何が?
スオウ:何がじゃないよ! イズモさんの昔を知ってる男性が登場して、ライバル出現! って感じじゃない。
ハリマ:何のライバルだよ……別に僕はイズモさんのことそういう目で見てるわけじゃ……
スオウ:またまたそんなこと言ってー。
ハリマ:本当だって。それに、もしそうだとしても、ミマサカ先生はライバルにはならないと思うけど。
スオウ:え、何その余裕? ハリハリそんな余裕かませるような要素ある?
ハリマ:ひどいなあ。そういう話じゃなくて。見てなかった? ミマサカ先生、結婚指輪してたよ。
スオウ:え!? 本当? 何それ見てなかったー! おいハリハリなんで教えてくれないんだこらあ!
ハリマ:オラつかないでよ。言わなくても気づいてるもんだと思ってたし、わざわざ言うようなことでもないだろ?
スオウ:いんにゃ、ちゃんとほうれんそうは大切だよ!
ハリマ:何だよほうれんそうって……僕とスオウは別に上司と部下の関係じゃないだろ。
……。
スオウ:ん。どうしたのハリハリ、なんか考え事してるみたいな顔になって。
ハリマ:いや……。なんか先生と話してるイズモさん、どこか懐かしそうだったけれど、複雑そうな顔をしてた気がして。
0:(商店街を歩くイズモとミマサカ)
ミマサカ:それにしても、ちゃんと話すのは本当に久しぶりだね。
イズモ:そうだったかしら。あんまり覚えてないわ。
ミマサカ:君はそうだろうね。たまに君が大学に来ても、お互い仕事中でろくに会話もしなかったろう。
イズモ:わざわざ話すようなこともないわ。
ミマサカ:おれと君の間で言えばそうだろう。でも、そうじゃない相手だっているんじゃないか?
イズモ:……そうね。ナガト先輩――今はミマサカシマ先輩ね。元気にしてるかしら?
ミマサカ:ああ。元気だよ。今は産休に入って家にいる。
イズモ:あら、それはおめでとう。でも、やっと研修医の期間が終わった頃じゃないの?
ミマサカ:ああ、そうなんだ。去年落ち着いて、専門医研修に入るってなった時に妊娠が発覚してね。……あれ?
イズモ:どうかした?
ミマサカ:いや……シマが医師になった話。君にしたかなと思って。
イズモ:ああ……それは……
ミマサカ:本人から聞いたのかい?
イズモ:いえ。まあ、色々と。風のうわさで聞いたのよ。
ミマサカ:そうか。……今度ぜひうちに来るといい。シマも君に会いたがっているよ。
イズモ:どうかしらね。本気でそう思ってるのか、わからないわ。
ミマサカ:本当に決まってるだろう。せめて、たまには連絡くらい、してあげてほしいな。
イズモ:気が向いたらね。……あ、コンビニ着いたから。あたしはここで失礼するわ。
ミマサカ:わかった。また食事は今度、落ち着いたときに。
イズモ:何言ってるの、あんなの社交辞令に決まってるでしょ。
ミマサカ:……そうか。
イズモ:先輩は妊娠中の奥さんがいるのだから、きちんと家に帰ってあげなさいな。今日もあんまり遅くなっちゃだめよ。
ミマサカ:まるで母親みたいだな。……そうだね、早めに帰るとするよ。それじゃ、また。
イズモ:ええ。……。
0:(しばらく間)
イズモ:あなたは、何にも知らないのよ。あたしのことも、彼女のことも。
スオウ:ねえねえハリハリ、ひどいと思わない?
ハリマ:あ、ごめん。聞いてなかった。
スオウ:ええ~っ!? ひどくないひどくないハリハリもひどくない!?
ハリマ:……と言われても、今ほらこれ検品してるし……汚れとか見逃したら、イズモさんに怒られちゃうよ。
イズモ:それくらいじゃ怒らないわよ。古本なんて多少の汚れはつきものなんだから。
ハリマ:あ、イズモさん。検品終わった箱、一ついっぱいになりました。
イズモ:ありがとう。スオウさんも、値札貼りはどうかしら?
スオウ:順調ですっ! 私はハリハリと違って口も手も同時に動かせるので!
ハリマ:さっきから動かしてたの口ばっかりだったと思うけど。
イズモ:まあ別に、手伝ってもらってるんだしちゃんと手を動かしなさいとまでは言わないわ。でも、出来高だから、あなたたちの時給はあなたたち次第よ。
ハリマ:まともにやっても最低賃金下回りそうなんですが……
イズモ:お金を稼ぐのは大変ね。
ハリマ:大変にさせてるのイズモさんじゃないですか!
スオウ:まあまあハリハリ、イズモさんにはいつもお世話になってるんだから、これくらい手伝ってあげようよ。
ハリマ:いつもそれだよ……ってか、そんな言うほど僕たちイズモさんにお世話になってたっけ?
イズモ:あら、何にも買いもしないのに毎日のようにここに来てるくせにそんなこと言うの? 落ち着ける場所をタダで提供しているだけでも相当の貢献だと思うけれど。
ハリマ:それは確かに言い返せない……あれ、でもヒュウガは? 午前中大学で会ったときイズモさんに呼ばれたとか愚痴ってましたけど。
イズモ:カイなら案の定既読無視よ。ハリマくん、カイに自分も呼ばれてるとか言ったりした?
ハリマ:あ、はい。僕も呼ばれてるけどなんの用なんだろうねって話はしました。
イズモ:だからね。大方ハリマくんも呼ばれてるから面倒なお願いでもされると勘づいたんでしょう。あの子、その辺敏いところあるから。
スオウ:ヒュウガってなんでそんなにイズモさんを避けようとするんだろーね。いっつも素直じゃないけど、イズモさんに対しての時はもっと素直じゃなくなる気がする。
イズモ:さあ。どうしてかしらね。小さい頃はもっと素直だったのだけれどねえ。
ハリマ:……まあ、イズモさんにも問題があるような気が。
イズモ:何か言ったかしら、ハリマくん。
ハリマ:いえ。検品楽しいなって思って。
スオウ:わざとらしいよハリハリ~。
イズモ:そういえば、さっきスオウさんがひどいひどいって話してたのは何の話?
スオウ:あ、そうだ。ひどいんですよ! ハリハリったら、人の話全然聞いてないんです!
ハリマ:そっちじゃないだろ。うちの教授になんか嫌な奴がいるんじゃなかったっけ。
スオウ:あ、そうそう! 私が今取ってる授業で、受講するのに教授の著書購入が必須の奴があったんですけど! その授業、教授が新刊出したからってその本買わないとテスト受けさせてくれないとか言うんですよ!
ハリマ:割とマジでヤバイ話だった。
スオウ:だから言ったじゃん! 教授は「諸君らの学びをより深いものにするために必要なものだ。必要経費と思ってもらいたい」とか言ってたけど、フツーにアウトだよね?
ハリマ:アウトだと思うよ。教務に言ったら対応してくれるんじゃないかな。
イズモ:止めはしないけれど、あんまり効果があるとは思えないわよ、それ。
ハリマ:え、どうして……
イズモ:大学ってのはその辺なあなあなところがあるのよ。運営側もあんまり教授陣には強く言えないの。古参の教授は変に力持っちゃったりしてるから、特にね。自治の名があきれるわ。だからそうやって幅を利かせる勘違いした輩が出てくるんじゃないかしら。
スオウ:でも、じゃあ泣き寝入りするしかないのかなあ。にせんごひゃくえん……学生にはきついよお。
イズモ:それやったの誰かしら。うちの大学の教授? 外部じゃなくて。
スオウ:うちの大学の教授です! ヒゴって人なんですけど。
イズモ:ああ、ヒゴさんね……あの人いつになっても懲りないわね。
ハリマ:イズモさんが在学中からいる人なんですか?
イズモええ、そうよ。そのころから大した事ない「成果」を自慢してくる人だったわ。声が特徴的で苦手だったわねえ。あの人が書いた本なんて、中身がぺらっぺらだから学生くらいにしか売れないんじゃないかしら。
スオウ:やっぱり! 教授の人たちの中にもろくでもない人いるんですね!
イズモ:当り前よ。教授なんて肩書持ってたって結局はあたしたちと同じ人間。肩書やレッテルで人を見るなんて愚かな行為だわ。特に教授なんて人より少しだけ学校にいた期間が長いだけなんだから。そんなのをありがたがる意味なんてないわよ。
ハリマ:イズモさん、何だか個人的な恨みが籠ってません?
イズモ:狭量な爺さんたちにいろいろとね。お世話になってきたから。でもいいわ。ちょっと待っててね。
ハリマ:ん。イズモさん? スマホなんて出してどうするんです?
イズモ:ちょっと、連絡してあげようと思って。
……こちら夜見書堂。その声はヒダさんね。ヒゴ教授はいるかしら?
スオウ:(小声で)ヒダさんって、日文学科事務室の事務員の名前だ。
ハリマ:(小声で)ってことは、大学に電話かけてるんだな。イズモさん何するつもりなんだろう。
イズモ:ああ、ヒゴ先生。いつもお世話になっています。イズモです。……いえ、ヒゴ先生もお元気そうで。あの件ならつつがなく進んでいましてよ――
ところで、こないだお願いいただいた本が入荷したのですけれど――ええ。こちらは「個人用」でしたわね――そうなんです。そのあたりは間違いなく――ええ。それで、こちらなんですけれど、思っていたよりも入手に骨が折れまして。代金を予定の二割増しとさせていただきます――そうおっしゃいましても、こちらの都合というのもありますので。不要であれば、普通に棚に出すだけですわ――ええ、それでいいのでしたらお売りいたします。
ハリマ:(小声で)なんか、すごい話になってない?
スオウ:(小声で)いやーすごいね。面白そう。これヒゴ先生の声も聞きたいなあ。
ハリマ:(小声で)面白そうって……
イズモ:ああ、あと。先生相変わらずアコギな商売やってるみたいですね――いえ、先生の新刊の話です。あたしの耳にも入ってくるんですよ――あたしは先生の懐の話を聞きたいんじゃないんです。それに、学生なんて先生よりずっと懐寂しいに決まってるじゃありません?――ええ。その学生から搾り取るような商売はどうかと思いますけれど。そんなことばかりしてたら、あたしの店で先生の本投げ売りしちゃいますよ――やめてほしいなら、先生ももう少し考えて行動したほうがいいと思いますけれど――ええ、わかってくださればいいのです。それじゃ、お待ちしております。
スオウ:あ、電話終わったみたい。
イズモ:……まったく。この甲高い声慣れないわね。電話でちょっと話しただけで頭に残るのに、スオウさん毎週九十分間この声聞かされて大丈夫? 頭おかしくなったりしてない?
スオウ:あはは。確かに独特~な声ですよね。でも、大丈夫です!
ハリマ:スオウは元から頭おかしいから……
スオウ:ハリハリ?
ハリマ:はい、すみません。
ところで、イズモさんなんの電話をされてたんですか?
イズモ:ちょっと仕事の話をね。注文の本が入荷したご連絡をしてあげてたの。あ、そうだスオウさん。臨時収入が入ったから、今日のバイト代に色付けてあげるわ。三千円ほどね。
スオウ:えっ、ほんとですか! やったー。ちょうどテキスト買ってお財布寂しかったんですよお!
ハリマ:イズモさーん、ちなみに僕は……?
イズモ:缶コーヒーでも奢ってあげるわ。
ハリマ:知ってた……
イズモ:さ、スオウさんの問題もひと段落したところで、作業を続けなさい。できたら今日中にこの検品と値付けは終わらせちゃいたいのよね。
ハリマ:え、この量を今日中にですか!?
イズモ:そうよお。うちは深夜までいてもらっても大丈夫だからね。あたしは帰るけど。
ハリマ:うぐ……スオウ~、ここ「蟹工船」もびっくりなブラック職場じゃない?
スオウ:ハリハリ、「蟹工船」読んだことある? こっちのほうが全然極楽だよ?
イズモ:ろくに知らない作品を引用したりすると、無知が露呈するだけだから気を付けたほうがいいわね。
ハリマ:ううう……ここに僕の味方はいないのか……
イズモ:そのうち来るんじゃないかしら。味方というより、似たような立ち位置の人が。
ハリマ:え、誰か来るんです? 似たような立ち位置の人……ヒュウガとか?
イズモ:あの子はたぶん今日は来ないわよ。ま、待ってたら来るんじゃないかしら。
スオウ:イズモさん、この箱、泉鏡花ばっかりですね。
イズモ:あら、スオウさん泉鏡花好きなの?
スオウ:好きというか、前に近代文学論の授業で取り扱ったことあるんです。なんか、泉鏡花の本って表紙が綺麗なの多いですよねえ。タイトルも「草迷宮」とか「夜叉ヶ池」とか、不思議な雰囲気のあるの多いですし!
イズモ:泉鏡花は日本の幻想文学の先駆者と言われているのよ。今挙がった二作品も、幻想的な趣を有する作品よ。
スオウ:あ、なんか先生も言ってました。幻想文学って! でも、幻想文学ってファンタジーってことなのかな?
イズモ:幻想文学とファンタジー。それぞれの定義をどう設定するかで、その線引きも変わってくるわ。でも、少なくとも泉鏡花の幻想文学は、いわゆるファンタジーとは少し違っているとあたしは思うわね。
ハリマ:泉鏡花かあ。僕は「外科室」を読んだことがあります。こちらは何か独特の世界観は感じましたけど、幻想って感じではなかったような……?
イズモ:「外科室」は鏡花の初期の作品ね。このころの作品は「観念小説」と呼ばれていたの。作者が心のうちに秘めている観念を書き出したもの、という意味だったのだけれど、当時はあまり肯定的な意味では使われていなかったようね。
ハリマ:なんでです? 自分の中に秘めているものを書き出すなんて、当たり前のことだと思いますけど。
イズモ:「外科室」を読んだならわかるわね。あれは医師と伯爵夫人の許されざる恋を描いたものだけれど、麻酔をめぐる話も含めて、その大半は現実の人間にとってはあり得ない話よ。「作者の心のうちを書き出す」というのは、ともすれば現実と矛盾したものが書き出される可能性もあるの。
スオウ:現実と矛盾とか、創作だったら当たり前じゃないんですかー?
イズモ:今のあたしたちにとってはそう。「当たり前」ね。けれど、当時の日本は西洋から入ってきた「Novel」というものをどう自分たちで書くかを模索していた時代。当時の主流は、坪内逍遥らが主張した「写実主義」だった。
現実を可能な限りそのまま描こうとする写実主義と、自分たちの観念を描くあまり時に作品世界の「現実」が歪められることすらあった鏡花の作品とは、相容れないものだったのよ。
ハリマ:なるほど。当時の潮流と異なる作風だったんですね。確かに、泉鏡花ってかなり異質な作家ってイメージがありますね。
スオウ:はえぇ……何か文学史の授業を聞いてるみたいな気分になってきたよ……ふわあああ。
ハリマ:せめて欠伸は我慢しなよ……
イズモ:ふふっ。小難しい話聞くと、眠くなってくるわよねえ。
ハリマ:イズモさん、何かスオウに対して甘くないですか?
イズモ:そうかしら?
スオウ:でも、イズモさんの説明は文学史の先生よりわかりやすかった!
イズモ:嬉しいこと言ってくれるわね。
ハリマ:スオウって、イズモさんの扱い方うまいよね。
スオウ:そうかなあ? 思った通りのことを言ってるだけなんだけど。
イズモ:ハリマくん失礼ね。あたしを道具みたいに言うなんて。スオウさんのほうが扱いがいいのは、あたしがスオウさんに甘いのではなくて、あなたがあたしに対して失礼なのが原因なんじゃないかしら?
ハリマ:うぅ……辛い。
ミマサカ:すみませーん。イズモいますか?
ハリマ:あ、イズモさん、お客さんみたいですよ。
イズモ:来たわね。
ハリマ:来たわね……って、まさかこの人が?
イズモ:いらっしゃい、「先輩」。
ミマサカ:ああ、イズモ。なんかうちの教授が例のもの取って来いってさ。やけに不機嫌なんだけどまたなんか言ったかい?
イズモ:あんまり学生をいじめないで、って言ったわね。
ハリマ:言い方はもっと過激だったような気が……
ミマサカ:学生をいじめるって、君のほうじゃないのかな。今もこうやって学生をこき使って店のことを手伝わせてるんだろう。
イズモ:失礼ね。ちゃんと正当な報酬もつけてるし、両者合意の上よ。
ミマサカ:それは本当かい、お二人。
ハリマ:え、ええ。まあ。
スオウ:大丈夫です! りょーしゃごーいのうえです!
ミマサカ:そうか。それは失敬したね。
イズモ:私はむしろ彼女のことを助けてあげたのよ。あなたのところの無能教授が中身のない本を高値で売り付けてくるって泣きついてきたから。
ミマサカ:ああ……そうか。うちの教授には困ったものだねえ。
ハリマ:イズモさん、この人は……
スオウ:あれ、ハリハリ知らない? この人、うちで講師してるミマサカ先生だよ。
ハリマ:え、うちの先生なの?
ミマサカ:ああ。自己紹介をしていなかったね、失敬失敬。おれはミマサカという。この女の子の言う通り、陽大の講師兼、近代文学の研究者をしているよ。以後よしなに。
ハリマ:あ、はい。よろしくお願いします。
イズモ:と同時に、あたしの大学時代の先輩でもある。
スオウ:ええっ、イズモさん、ミマサカ先生と旧知の仲ってやつだったんですか?
イズモ:ええ、そうよ。大学時代はずいぶんお世話になったんだから。
ミマサカ:おれは特にお世話をした記憶はないけれどね。困らされた記憶ならたくさんあるから、それを「お世話をした」と形容すべきなら確かにそうだけれど。
イズモ:あら、いつあたしが先輩を困らせたかしら?
ミマサカ:そういうところだよ……まったく。また研究室に帰りづらくしてくれて。
イズモ:さっきも言ったでしょう? あれはあなたのところの教授がアコギな商売をしていたのがいけないの。あたしは困っていた学生を助けてあげただけ。
スオウ:ごめんなさい! 私が変な愚痴言ってたから。
ミマサカ:ああいや、君が謝る必要はないんだ。えーと……
スオウ:スオウ、です。一年生の時ミマサカ先生の授業を取っていたので覚えてました。
ミマサカ:ああ、確かにいたね。ずいぶん元気そうな女の子だった。で、君が謝る必要は全然ないよ。ヒゴ教授が酷いことをやっているのは自分も知っているし、彼女も彼女なりに君を助けてあげようとしたんだろう。
イズモ:酷いことをしていたのを知っているなら、何とかしてあげたらどうかしら?
ミマサカ:相変わらず君は痛いところを突いてくるね。もう少し年上への敬意というものはないのかい?
イズモ:あなたの言う「年上の敬意」が発揮された先にあるのは、あなたのところの教授がつけあがる原因にもなっているような過剰な忖度でしょう。あたし、そういうの苦手なの。
ミマサカ:まったく……君ならわかるだろう。おれなんかじゃどうしようもないって。
イズモ:そうかしら。やろうとすらしてないくせに。
ミマサカ:やろうとすらしてない、というのは心外だな。おれだって、できることはしてるさ。
イズモ:へええ。なら見せてもらいたいものね。あなたがやっている「できること」とやらを。さぞたくさんの学生たちのためになっているんでしょうね。
ミマサカ:君はどうしてこう、いちいち棘のある言い方をしないと気が済まないんだ?
イズモ:ごめんなさいね。生まれつきなの。
ミマサカ:はあ……口喧嘩じゃ君にはかなわないな。
イズモ:ここで引き下がるなんて、あなたもずいぶんと物分かりがよくなったのね。あたしの調教のたまものかしら。
ミマサカ:調教って……君に何を返しても無駄だと理解したからだよ。君たちもすまないね、変な口喧嘩をしてしまって。
スオウ:大丈夫です! なんか、イズモさんと仲がいいんだなあってわかりました!
ミマサカ:今のを見て仲がいい……正気かい? ちょっと君、個性的だね。
ハリマ:そうなんです、個性的なんです。……でも、これが僕の「似た立ち位置の人」……
ミマサカ:何だ、君は突然落ち込みだして。
ハリマ:いえ。気にしないでください。
イズモ:先輩が人生の先輩として参考になるって話を彼にしてたのよ。
ミマサカ:え、おれがかい? それは光栄だな、よろしく少年。
ハリマ:はい……よろしくお願いします……
ミマサカ:君、名前は?
ハリマ:ハリマって言います。ハリマユウイチ。
ミマサカ:機会があればおれの授業にも参加してみてもらえると嬉しいな。
スオウ:結構わかりやすくて、おすすめだよ!
ハリマ:あ、そうなんだ。そしたら、後期にでも……
イズモ:ああ、そうそう。先輩はね、泉鏡花の研究をしてるのよ。
ミマサカ:してた、だな。学部生時代の研究対象だよ。
イズモ:ちょうどタイムリーに鏡花の話をしてたのよ。先輩が来る前に。
スオウ:鏡花が幻想文学とか、観念小説って言われてたのを教えてもらってました!
ミマサカ:ああ、その辺の話か……ん。スオウさん、君昨年おれの授業に出ていたのなら、その話はしなかったかい?
スオウ:はぇ!? ……あれえ?
ハリマ:綺麗に墓穴を掘らないでよスオウ。確かさっき、先生も言ってたって自分で言ってたろ? ミマサカ先生の授業のことだったんじゃないの?
スオウ:ん~~~~。そんな気も、する……?
ハリマ:スオウ、今しがたわかりやすくておすすめって言ってたよね。
スオウ:いや、だから私でもさっき言ったことは覚えてたんだよ! さすがミマサカ先生!
ハリマ:あ、強引に持ってった。
ミマサカ:はははっ。まあ、先生の話覚えるの大変なのはおれもわかるよ。
イズモ:先輩の卒論、何だったかしら。
ミマサカ:泉鏡花を研究してたことまで覚えているのに何で卒論書いたかは覚えていないのかい? あれだよ。「金時計」。
イズモ:ああ、そうだったわ。とっても素敵な卒論だった。
ミマサカ:思ってもいないくせに。どうせろくに内容も覚えていないだろう。
イズモ:あら、さっきあなたが言った「年上への敬意」とやらを払って素敵って言ってあげたのに、そんなにすぐネタばらしするの?
ミマサカ:別にもともと君にそういうのは期待していないからいいよ。
イズモ:それはごめんなさいね。……卒論の内容は一ミリも覚えていないけれど、「金時計」はなかなか面白い作品よ。
スオウ:「金時計」……聞いたことなーい!
ハリマ:僕も知らないです。……あ、イズモさん申し訳ありません。
ミマサカ:ん? なんでハリマくんは突然イズモに謝ったんだい?
イズモ:さあ。あたしの調教のたまものじゃない。
ミマサカ:ああ……なるほど、そういうことか。
ハリマ:先生に察された!
ミマサカ:ハリマくんだっけ。君もなかなか苦労してるんだね。
ハリマ:そうなんです……ミマサカ先生……
スオウ:何か通じ合ってますねえ、ふたりとも。
イズモ:かわいそうな立場同士、気が合うんでしょう。
ハリマ:ところで、「金時計」ってどういう作品なんですか?
ミマサカ:ああ、「外科室」よりもさらに前に書かれた、泉鏡花最初期の作品だよ。まだのちの「観念小説」や「幻想文学」という分類につながる作風も芽生え切っていない、江戸期の戯作をほうふつとさせる作品だ。
ハリマ:戯作……人情本、とかですか?
ミマサカ:そう。つまるところ、この作品は「勧善懲悪」なんだよ。明治期に入って坪内逍遥らから真っ先に否定された江戸期の香りを有する物語の形式。それを使っている。
スオウ:あー! かんぜんちょうあく! さっきイズモさんが私のためにやってくれたみたいなやつですね!
イズモ:そうね、あれみたいなものよ。
ミマサカ:イズモがやったことを「勧善懲悪」として肯定するのはおれにはできないな……たぶんだけれど、それはどちらかというと「毒をもって毒を制す」みたいなものだからね。
イズモ:誰が毒ですって?
ミマサカ:そういうところだよ。……それで、そうした勧善懲悪をベースとした筋の中に、当時の社会的背景が混じっている。そんな作品だ。
ハリマ:当時の社会的背景、というのは?
ミマサカ:それを聞きたかったらおれの授業を受講してほしいな。まあ、さわりだけ言うと、この作品では「悪」の座にあーさー・へいげんというお雇い外国人が収められているんだ。書かれたのは明治初期。そもそも「異国人」というものに対する恐怖心や差別感情もあったろうし、不平等条約などに対する悪感情もあったろう。そういった世相を題材にとった作品なんだ。
ハリマ:そういうことですか。なるほど、それだけの文脈的情報をもった作品、ということですね。
ミマサカ:そういうことだ。まあ、ほかの作品の例にもれず、この作品もまた語ることのできる部分の多い作品だ。深く考えたければ実際に読んでみてほしいし、おれの授業を取ってみてほしいね。
ハリマ:あ、はい。授業はいずれ、取らせてもらおうと思います。
イズモ:読みたいなら、奥の文学全集の棚に泉鏡花全集があったはずだから読んでみなさいな。
ハリマ:イズモさんも、ありがとうございます。
イズモ:先輩はこの後予定あるのかしら? 良ければハリマくんとスオウさんとごはんにでも行かない? いいお刺身の店、あるのだけれど。
ミマサカ:……本当に君は相変わらずなんだな。
スオウ:ミマサカ先生、なんかいかにも苦虫をかみつぶしたような顔してますね。どうされたんですか?
イズモ:この人ね、生魚がダメなのよ。
ミマサカ:ちゃんと覚えているのなら、わざわざ刺身などと言わなくてもいいだろうに。
イズモ:あら、確認しただけよ。研究対象と同じ好みをしてるんだもの、忘れるわけないじゃない。もうあのころから何年も経ってるのだから、少しは変わったのかと思って。
ミマサカ:それはお互い様だよ。君も東大院に進んで少しは角が取れたかと思ったのだけれどね。
イズモ:残念ながら、ね。あんなところ退屈で仕方ないということだけ思い知らされたけれど。
ミマサカ:だから、ここに戻ってきたのか?
イズモ:……どうかしらね。
で、どうなの? 刺身は冗談として、どこかごはん食べに行かない?
ミマサカ:残念ながら。先生のお使いもあるし、まだやらなければならない仕事も残っているのでね。遠慮するよ。
イズモ:そうだったわね。ヒゴ教授のお使いのこと忘れてたわ。
ミマサカ:忘れられると困るな。そのために来たんだからね。
イズモ:ええ。……これよ。ちゃんとお代振り込んでくださいと、しっかりお伝えくださるかしら?
ミマサカ:わかった。
イズモ:ああ、そうだ。あたしちょっとコンビニに寄りたいから一緒に出るとするわ。ハリマくんとスオウさん、少しだけ空けるわね。
スオウ:りょーかいしましたっ! しっかり仕事の続き、しておきますね!
イズモ:といっても、すぐに戻ると思うから。
ハリマ:スオウが執拗に話しかけてこなければ、しっかり続きできると思います。
スオウ:ちょっとハリハリ!? まるで私が邪魔してるみたいじゃん!
ハリマ:まるでじゃなくて邪魔してるんだよ。ついさっきまでぺちゃくちゃ話しかけてきたの忘れたの?
ミマサカ:はははは、君たちは賑やかでいいね。また、機会があったら会おう。ハリマ君、授業の件、待っているよ。
ハリマ:ありがとうございます。ぜひ。
イズモ:……じゃあ、申し訳ないけれど少しの間お願いね。
スオウ:(二人が店を出て)
……ふう。先生を前にすると、少し緊張するなあ。
ハリマ:そう? 話しやすくて気さくな先生だと思うけど。
スオウ:それはわかるけど! 先生ってだけで緊張しちゃうんだよお。私はイズモさんの言うようなレッテルを抜きにして人を見るなんて無理だなあ。
ハリマ:いや、それはイズモさんもできてないと思うけどね。だからそう言ってるっていうか。……自戒みたいな?
スオウ:そうかなあ。でも、ハリハリ大変だよ?
ハリマ:何が?
スオウ:何がじゃないよ! イズモさんの昔を知ってる男性が登場して、ライバル出現! って感じじゃない。
ハリマ:何のライバルだよ……別に僕はイズモさんのことそういう目で見てるわけじゃ……
スオウ:またまたそんなこと言ってー。
ハリマ:本当だって。それに、もしそうだとしても、ミマサカ先生はライバルにはならないと思うけど。
スオウ:え、何その余裕? ハリハリそんな余裕かませるような要素ある?
ハリマ:ひどいなあ。そういう話じゃなくて。見てなかった? ミマサカ先生、結婚指輪してたよ。
スオウ:え!? 本当? 何それ見てなかったー! おいハリハリなんで教えてくれないんだこらあ!
ハリマ:オラつかないでよ。言わなくても気づいてるもんだと思ってたし、わざわざ言うようなことでもないだろ?
スオウ:いんにゃ、ちゃんとほうれんそうは大切だよ!
ハリマ:何だよほうれんそうって……僕とスオウは別に上司と部下の関係じゃないだろ。
……。
スオウ:ん。どうしたのハリハリ、なんか考え事してるみたいな顔になって。
ハリマ:いや……。なんか先生と話してるイズモさん、どこか懐かしそうだったけれど、複雑そうな顔をしてた気がして。
0:(商店街を歩くイズモとミマサカ)
ミマサカ:それにしても、ちゃんと話すのは本当に久しぶりだね。
イズモ:そうだったかしら。あんまり覚えてないわ。
ミマサカ:君はそうだろうね。たまに君が大学に来ても、お互い仕事中でろくに会話もしなかったろう。
イズモ:わざわざ話すようなこともないわ。
ミマサカ:おれと君の間で言えばそうだろう。でも、そうじゃない相手だっているんじゃないか?
イズモ:……そうね。ナガト先輩――今はミマサカシマ先輩ね。元気にしてるかしら?
ミマサカ:ああ。元気だよ。今は産休に入って家にいる。
イズモ:あら、それはおめでとう。でも、やっと研修医の期間が終わった頃じゃないの?
ミマサカ:ああ、そうなんだ。去年落ち着いて、専門医研修に入るってなった時に妊娠が発覚してね。……あれ?
イズモ:どうかした?
ミマサカ:いや……シマが医師になった話。君にしたかなと思って。
イズモ:ああ……それは……
ミマサカ:本人から聞いたのかい?
イズモ:いえ。まあ、色々と。風のうわさで聞いたのよ。
ミマサカ:そうか。……今度ぜひうちに来るといい。シマも君に会いたがっているよ。
イズモ:どうかしらね。本気でそう思ってるのか、わからないわ。
ミマサカ:本当に決まってるだろう。せめて、たまには連絡くらい、してあげてほしいな。
イズモ:気が向いたらね。……あ、コンビニ着いたから。あたしはここで失礼するわ。
ミマサカ:わかった。また食事は今度、落ち着いたときに。
イズモ:何言ってるの、あんなの社交辞令に決まってるでしょ。
ミマサカ:……そうか。
イズモ:先輩は妊娠中の奥さんがいるのだから、きちんと家に帰ってあげなさいな。今日もあんまり遅くなっちゃだめよ。
ミマサカ:まるで母親みたいだな。……そうだね、早めに帰るとするよ。それじゃ、また。
イズモ:ええ。……。
0:(しばらく間)
イズモ:あなたは、何にも知らないのよ。あたしのことも、彼女のことも。