台本概要

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タイトル 仕掛屋「竜胆」閻魔帳~的之伍~〈墓守の恋〉
作者名 にじんすき〜  (@puddingshower)
ジャンル 時代劇
演者人数 4人用台本(男2、女2) ※兼役あり
時間 90 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 「悲しきものに寄り添う」が信条の仕掛屋『竜胆』
 いよいよ受ける審判『誂検(あつらえ あらため)』の日が決まった。
 それに先立つ課題を目にしたお詠と阿武は首をかしげる。
 飄々とした墓守、喜介は何を抱え、そして何を思うのか。
 「お改め」を前に、お詠の数日が色濃く過ぎていく。
 …さてさてどうなりますやら

仕掛屋『竜胆』閻魔帳 第5作

1)人物の性別変更不可。ただし、演者さまの性別は問いません
2)話の筋は改変のないようにお願いします
3)雰囲気を壊さないアドリブは大歓迎です
4)Nは人物ごとに指定していますが、声質は自由です
5)兼役は一応指定していますが、演者さまを追加されても構いません

概要欄には「90分」となっていますが
120分ほどかかると思います。
(選択肢では90が最長なので…)

※最後に和歌を詠みます※
その口語訳もセリフとしてつけています。
こちらは読まれても読まれなくてもよいのですが、
事前に演者さま同士でお決めくださいませ。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
141 えい。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。『誂検(あつらえ あらため)』を間近に控え、獬(かい)直々の課題に取り組む
阿武 111 あんの。年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。 闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」。詠のお目付け役、兼、バディ。 商品や知識の蘊蓄を語らせたら熱くなる『竜胆庵』番頭としての一面も持つ。 ※兼役に「主人」「獬(かい)」があります。
庵主 196 あんじゅ。故人。最恵寺(さいけいじ)の一画に葬られている。 元は、とある公家に嫁いでいたが、跡継ぎを成せぬようになり離縁されてしまう。 故郷の東国に戻って髪を下ろし、「霞庵(かすみあん)」を結んで以来、庵主と呼ばれた。
きすけ 252 奇介・喜介。庵主が幼少のころより守役を務める。庵主の十歳上である。 常に布で顔を覆い、人前に出ることを避けていた。 老いた今、最恵寺で庵主の墓守をして過ごしている。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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0:仕掛屋『竜胆』閻魔帳 〜的之伍〜〈墓守の恋〉 0:※注意※ 0:① 人物の性別変更不可(ただし演者さまの性別は不問です) 0:② 話の筋の改変は不可。ただし雰囲気のあるアドリブは大歓迎。 0:③ 場面の頭にある〈N〉の声質は役にこだわらずご自由にどうぞ。 0:④「庵主」「きすけ」の年齢が作中の場面により変化します。 0: 特に「きすけ」は分担されてもかまいません。 詠:詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。 詠:『誂検(あつらえ あらため)』を間近に控え、獬(かい)直々の課題に取り組む。 阿武:阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。 阿武:闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」。詠のお目付け役、兼、バディ。 阿武:商品や知識の蘊蓄を語らせたら熱くなる『竜胆庵』番頭としての一面も持つ。 阿武:※兼役に「主人」「獬(かい)」があります。 庵主:庵主(あんじゅ)。故人。最恵寺(さいけいじ)の一画に葬られている。 庵主:元は、とある公家に嫁いでいたが、跡継ぎを成せぬようになり離縁されてしまう。 庵主:故郷の東国に戻って髪を下ろし、「霞庵(かすみあん)」を結んで以来、庵主と呼ばれる。 きすけ:奇介・喜介。庵主が幼少のころより守役を務める。庵主の十歳上である。 きすけ:常に布で顔を覆い、人前に出ることを避けていた。 きすけ:老いた今、最恵寺で庵主の墓守をして過ごしている。 獬:〈阿武兼役〉獬(かい)。都において各監察(かんさつ)を統括する者。役職であり、個人名ではない。白拍子(しらびょうし)の装束に、白い翁(おきな)の能面(正式名は白式尉(はくしきじょう))をつける。 主人:〈阿武兼役〉庵主の父。公家との婚姻に何か含むところがあるようだ。 0:以下は人物など紹介 りん:シリーズ〜的之壱〜で詠に斬られた「左馬」の娘。 りん:九〜十一歳ほどを想定。的之参〈急(第3部)〉で初めて声を発した。 りん:東庵先生のもとで学んでいる。 村田東庵:シリーズ~的之参~に登場。村を巻き込む一大事件の発端となるも「竜胆」とともに乗り越えた。 村田東庵:医師としては抜群の腕をもちながら、村のそばで養生所を営んでいる。 村田東庵:おりんをあずかり、薬包紙(やくほうし)の扱いなど、さまざまを教えている。おりんの天稟(てんぴん)に気づいて以来、世話を焼いている。坂上清雅(さかのうえ きよまさ)は東庵の祖父。 最恵寺:さいけいじ。シリーズ~的之弐~にて名前のみ登場。 最恵寺:完全な創作であり、実在はしない。 最恵寺:※ネット検索ではヒットしておりません。 最恵寺:万が一、実在のお寺がございましたら、申し訳ございません。 最恵寺:こちらフィクションであり、実在のお寺とは何も関係ございません。 東藤澤家:ひがしふじさわけ。架空の公家。 東藤澤家:新家(しんけ)として江戸時代に入って創設されたものとする。 東藤澤家:庵主が嫁いだ先であったが…。 志手小路家:しでのこうじけ。架空の公家。 志手小路家:東藤澤家とは異なり、大臣家(だいじんけ)として上位の公家に名を連ねる。 志手小路家:シリーズ~的之参~に名のみ登場。 0:〈 〉NやM、兼役の指定。 0:( )直前の漢字の読みや語意。一部、かぶるセリフの指定。 0:【 】ト書 それっぽくやってくださると幸いです。 : 0:以下、本編です。 : 0:【以下の場面、庵主・十歳、奇介・二十歳】 : 庵主:きすけっ、きすけはいますか。猫が、宮(みや)がカラスにいじめられているのですっ。 きすけ:はいはい、姫さま、奇介(きすけ)はここにおりますよ。さぁさ、宮さまをお救い申しましょう。 庵主:早く! 宮のことをお願いします…どうか助けてください。 きすけ:こら、カァ公(こう)、うちの宮さまに何をするかっ!! 阿武:〈N〉今を去ること五十年。裕福な暮らしがうかがえる屋敷の中に、まだあどけなさの残る少女(おとめ)と、その守役(もりやく)を務める奇介(きすけ)がいた。 きすけ:ほら、姫さま、もう大丈夫です。宮さまをお抱きなさいませ。 庵主:【満面の笑みを浮かべて】はいっ。きすけ、どうもありがとう。 庵主:【猫に向かって】宮、怖い思いをさせてごめんなさいね… きすけ:〈M〉姫さまは、本当にお優しくていらっしゃる。…おれは、この人のために生きていこう。 庵主:はぁ…、よかった。きすけのおかげです。 庵主:あ、そうだわ、きすけ。 庵主:わたしは「姫さま」という名前ではありませんと、いつも言っているでしょ。 きすけ:えっ…、いや、その… 庵主:まったく、きすけはいつまでたっても素顔を見せないし、わたしの名前を呼んでもくれないのだから… 庵主:ね、宮もひどいと思いませんか? 【入れられれば猫の声】 きすけ:姫さま、それはご勘弁ください。主(あるじ)のお名前を軽々しく口にすることはできません。 庵主:もう…。そういうものなのですか…。 きすけ:ええ、そういうものなのです。 庵主:まったく、わたしは、いつかきすけに名前を呼んでもらいますからねっ! きすけ:あ、はは、ははは…おれには、無理ですよぉ。……はぁ。  : 0:【ここで場面は現在の竜胆庵にかわる】  : 庵主:〈N〉その日、『竜胆庵(りんどうあん)』のお詠(えい)のもとに、京の監察(かんさつ)を統括(とうかつ)する獬(かい)の書状が届いていた。『竜胆』としてのはたらきを検分(けんぶん)する『誂検(あつらえ あらため)』の日付が知らされたのである。 詠:江戸に来て初めての『誂検(あつらえ あらため)』か。 詠:こればっかりは、断れない、かねぇ、やっぱり。 詠:はぁ~あ、ぐうたらぐうたらしてたいのにねぇ…。 阿武:詠(えい)さま、ただいま戻りましたぁ! 阿武:今日も紙職人さんのところにおじゃましてきましたよ。 阿武:東庵(とうあん)先生にもおたずねして、敷紙(しきがみ)にふさわしい紙を漉(す)いていただくことにします。 詠:はいはい。阿武は、おりんのことになると、ほぉんと一生懸命だねぇ。【笑顔】 阿武:詠さま、そうは言いますけれどね。 阿武:おりんさんが東庵先生のところで手習いを始めて、はや半年ですよ。 詠:そうだねぇ。もう半年か、早いもんだよ。おりんにも「まっすぐ」が育っているといいねぇ。 阿武:それは東庵先生のご指導ですから。 詠:ははは、ちがいない。まぁ、紙のことはお前に任せるよ。 詠:それでねぇ、獬(かい)さまから文(ふみ)が届いているんだ。ちっと見ておくれ。 阿武:【居住まいを正して】はっ。拝見いたします。【書状を読む】 詠:江戸でも「お改め」を受けるときが来たねぇ。 詠:神無月(かんなづき・十月)の朔日(ついたち)だとさ。 阿武:ふむ…。あと十日ほど、ですな。 阿武:それで、此度(こたび)の課役(かやく)には、その、どういう意図があるのでございましょうか。 詠:さあねぇ。行けば分かるってところだろうさ。 詠:……ねぇ、阿武。「お改め」を断ることは(できないやねぇ) 阿武:【前の詠のセリフを少し食う・冷静に】できるわけがございませんでしょう。 詠:…はは。わかってるよ。しかしねぇ、最恵寺(さいけいじ)の墓守(はかもり)だよ? 阿武:詠さま。『誂検(あつらえ あらため)』は我らの行く末にかかわってくるのです。 詠:…あぁ。…よしっ、梅屋(うめや)であんみつを食べてから、最恵寺を覗いてみるかね。 詠:おりん、おりぃん、梅屋に行くよぉ。 庵主:〈N〉店先から、「はぁい」という元気のよい声が聞こえてくる。 庵主:奥にお詠か阿武がいる時に限ってはいるが、このごろはおりん一人に店を任せることも増えてきた。 庵主:礼儀正しく、愛嬌もあるおりんは客からもかわいがられている。 阿武:あぁ、おりんさん。私はどうせ留守番ですからね、私に代わって、詠さまが食べ過ぎないよう見ていてくださいましよ。 庵主:〈N〉阿武の言葉にうなずきながら、おりんは楽しそうに笑っている。 詠:それじゃあ、阿武、『竜胆庵(りんどうあん)』は任せたよ。 詠:おりんは夕刻(ゆうこく)までには戻すからね。 阿武:えぇ、わかりました。おりんさんが戻ってきたら、店を閉めて東庵先生のところにお連れします。 詠:うん。それじゃちょいと行ってくるよ。さ、おりん、おいで。 阿武:はい、いってらっしゃいまし。【見送ってから】 阿武:〈以下、M〉それにしても、「墓守(はかもり)の喜介(きすけ)を討(う)て」とは…。  : 0:【以下の場面、庵主・十三歳、奇介・二十三歳】  : きすけ:姫さまっ、姫さまぁぁぁ。 きすけ:〈M〉…このような雨降りの中、どこまで行かれたのか。 庵主:どうして? 宮(みや)…。どうしてお前は死んでしまったの…。わたしを置いて行かないで… 詠:〈N〉カラスの一件から三年が経った冬の朝。姫がかわいがっていた「宮(みや)」が死んだ。 詠:姫の呼びかけに応えることもなく、寝床の横で冷たくなっていたのである。 きすけ:姫さまぁ! どこにいらっしゃるのですか。姫さまぁぁぁ。 詠:〈N〉愛猫(あいびょう)を失った悲しさのあまり、姫は朝餉(あさげ)も取らず屋敷を飛び出した。 詠:寒い季節、折からの雨が降りしきる中である。 詠:奇介(きすけ)は一刻も早く迎えに行くよう命じられていた。 きすけ:いらっしゃったら、お返事をくださいませ、姫さまぁぁ。 庵主:【それほど大声ではない】きすけぇ。わたしはここです… きすけ:【馳せ来る】はぁ、はぁ、よかった…。ここに、ここにいらしたのですねっ。 詠:〈N〉宮(みや)を大事そうに手にしたまま、姫は冷たい雨にうたれながら、川べりにたたずんでいた。奇介は背後に立ち、そっと傘を差しかける。 庵主:【涙を浮かべながら】何が「よかった」ものですか…。宮(みや)が亡くなったのですよ…。 きすけ:…あぁ、はい。…申し訳ありません。 庵主:…ごめんなさい。今のはわたしが悪い、ですね。あなたの気持ちも考えず…。 庵主:でも、わたし、つらくて…。どうして「宮」は…このように冷たくなってしまったのですか…。 きすけ:姫さま、奇介めには物の道理はよう分かりません…。 きすけ:ですが、生きとし生けるものは、みないつか死ぬものなのですよ。 庵主:それはわかります。…でも、昨日まで元気にいたのに…。 庵主:かわいく鳴いて、わたしと遊んでくれたのですよ。体も大きくなってきて…。 きすけ:そうですね…。奇介も、親しいものとも、そうでないものとも、たくさん別れてきました。 庵主:…きすけ。 きすけ:おれは、そういう世界で育ってきましたからね。 きすけ:姫さまのお屋敷に拾われるまで、とてもお聞かせできないようなこともしてきました。 きすけ:ついこの間まで笑っていた仲間が戻ってこなくなる。あるいは、昨日まで健やかだった者の命(いのち)を絶つ。 庵主:きすけ、やめてください。 きすけ:ですから、いくら大切な相手であっても、その日はいつか必ず来ます。 きすけ:それに、別れは不意に訪れることもあると、よく知っているのです。 庵主:強いのですね、きすけは…。 庵主:わたしは、わたしが生まれる前のきすけが何をしていたのかは知りません。 きすけ:えぇ、そうですね…。 庵主:わたしが知っているのは、目の前のあなただけ。…側にいてくれてありがとう。 きすけ:【いきなりの言葉に我を失う】……はっ、いや、え、と。お、お役目ですから…。 庵主:そうですか。お役目、ですか。……きすけ、…このようなことを問うわたしを許してください。 庵主:……きすけは、わたしが死んでも、そのように強くいられるのですか? きすけ:えっ……。 阿武:〈N〉絶句する奇介(きすけ)に詫びる姫。 阿武:二人は、宮(みや)を川べりに埋(うず)めてやり、共に手を合わせた。 庵主:〈M〉宮、わたしのところに来てくれてありがとう。また、会いましょう…。 きすけ:〈M〉限りある命だからこそ、「これは」と思う方のために使いたいのです、姫さま。  : 0:【ここで場面は現在の最恵寺に戻る。以下の場面、喜介・七十歳】  : 詠:〈M〉『誂検(あつらえ あらため)』の意味はあたしだってわかってるさ。 詠:それにしたって、先立つ課役(かやく)がどうして「墓守を討て」なんて内容なんだぃ…。 庵主:〈N〉梅屋(うめや)でおりんとの時間を過ごしたお詠は最恵寺(さいけいじ)に向かっていた。 庵主:秋が目前に迫っているとはいうものの、昼日中(ひるひなか)の気温は高く、日差しはまだ強い。 詠:〈M〉お天道(てんと)さまのありがたさは重々承知の上だがね、さすがに暑いよ、こりゃ。ふぅ…。 詠:さて、と。最恵寺(さいけいじ)も久しぶりだ。 詠:境内(けいだい)脇(わき)の墓地の小屋ってのはどれだろうねぇ。 庵主:〈N〉参道から門をくぐり、中央の池を見渡す。平安の流れを汲(く)む最恵寺には、中央に大きな池を設(しつら)えた庭園がある。 庵主:そしてそれを取り囲むように回廊(かいろう)が設置され、正面の金堂(こんどう)につながるつくりとなっていた。 庵主:ひとたび祭りともなれば、出店(でみせ)でにぎわう境内にも、今はひっそりとした時間が流れている。 詠:〈M〉ふぅん。いつもながら雰囲気(ふんいき)のよいところだねぇ。 詠:この回廊も日陰をつくってくれて助かるよ。 詠:墓地は、と……、あぁ、左に進めばいいんだね。 庵主:〈N〉お詠は回廊から脇に逸(そ)れ、梅屋の包みを片手に墓地へと向かう。 庵主:この墓地には、限られた者しか葬られておらず、それほど敷地は広くない。 庵主:小屋はすぐに見つかった。小さくて目立ちはせぬが、ひときわ丁寧に手入れをされた墓石の傍(かたわ)らにそれはあった。 詠:ごめんくださいよ。 0:【水をかけられるお詠】ピシャっ 詠:わぁ! 0:【小屋の裏手から柄杓を手にした喜介が現れる】 0:【詠との場面における喜介は齢(よわい)七十を数えている】 きすけ:これはこれは、お客さまでしたかぁ…。お水、かかってしまいましたよね…ごめんなさいねぇ。 詠:いえいえ、ぼぉっとしていたあたしが悪いんです。気にしないでくださいな。 詠:それで、あなたが喜介(きすけ)さんですかねぇ。 きすけ:あぁ、はいぃ。 詠:あたしゃ、お詠といいます。『竜胆庵(りんどうあん)』ってしがない店(たな)をやってんですがね。 きすけ:ほぉぉ…「竜胆(りんどう)」、ですかぁ。 詠:【喜介の目を見て】ん? どうかされたかねぇ? きすけ:竜胆…。ありゃぁ、ええ花ですなぁ。 詠:あ、あぁ、そうですねぇ。あたしもそう思ってますよ。 きすけ:晴れの日にしか咲かないその花の色は美しく、根は生薬(しょうやく)にもなる。 きすけ:人の目も体も喜ばせてくれる、まことによい花です。この裏にも少々植えておりましてなぁ…。 詠:お詳しいんですねぇ。…「人々を喜ばせてくれる」…喜介さんと同じ字でございましょ。 きすけ:あれあれ? わたしの名前をどう書くか、それをご存じでいらっしゃるとは。 きすけ:いや、なに。わたしなぞ、そんな大層なもんじゃぁありません。ただの墓守でごぜぇますよ。 詠:〈M〉あたしの気の迷いかねぇ。 詠:確かに「竜胆」と聞いたこの人の目が光ったように見えたんだが… きすけ:それで、こちらにはどのようなご用向きでいらしたので? 詠:人づてに喜介さんのことを知りましてね。…少々相手をしてもらえないかと思いましてねぇ。 きすけ:ほっほ。まだ水やりと草取りが残っておりましてなぁ。…よろしいですかな、そのあとでも。 詠:はいよ。お待ちいたしましょ。 きすけ:ええものですなぁ…「待たれる」というのは。…少しでも早う戻りとうなる。 きすけ:ほっほ。こうも暑い日中(ひなか)に、若いお人をお待たせしちゃぁなりませんからなぁ。 きすけ:気張って参りましょぉ。 詠:無理はされないでくださいよ、あたしゃ平気ですからねぇ。 庵主:〈N〉ただの老人に見える喜介。その所作もゆったりとしたものである。 庵主:横目で喜介をうかがうお詠はしかし、なにか心にひっかかるものを覚えていた。  : 0:【以下の場面、庵主・十六歳、奇介・二十六歳】  : 阿武:〈N〉宮を亡(な)くしたあの日から、さらに三年。 阿武:ある月夜の晩、奇介(きすけ)は自らが敬愛して止まない姫君の部屋に呼ばれた。 阿武:ただの守(もり)が居室(きょしつ)に呼ばれることなどあろうはずがなく、すわ一大事(いちだいじ)かと、慌てて主人の元へ向かう。 きすけ:ご主人さま、奇介(きすけ)でございます。 主人:〈阿武兼役〉うむ。なんじゃ。 きすけ:それが、そのう…。姫さまが私をお部屋にお呼びなのです… 主人:〈阿武兼役〉…そうか。 きすけ:私のようなものが姫さまのお部屋にあがるなど、とんでもないことでございまして… 主人:〈阿武兼役〉いや、今日は、よい。奇介(きすけ)、娘の話を聞いてやれ。 きすけ:…えぇ? よろしいのですか。姫さまの話…はい、そのようにいたします…。 阿武:〈N〉主人の許しを得た奇介は、姫の待つ部屋へと向かう。姫の話とは何だろうか。 阿武:不安げな主人の顔も気になれば、空気の重さも気にかかる。 阿武:あまりよくない予感を胸に、襖(ふすま)の前へと歩みを進めた。 きすけ:姫さま、奇介(きすけ)にございます。 庵主:きすけ、入ってください。 きすけ:……う。 庵主:…きすけ? きすけ:ご主人さまには、立ち入りのお許しをいただいて参りました。ですが…。 庵主:何ですか、きすけ。そこに立ったまま話をするつもりではないのでしょう?  きすけ:…はい。 庵主:ふふふ。どうぞお入りなさい。 0:【襖をあけ、部屋へと入る】 きすけ:失礼、いたします…。 阿武:〈N〉部屋に入ると大ぶりの行燈(あんどん)の横、床の間(とこのま)の前に姫がいる。 阿武:明かりに浮かび上がるその横顔に、奇介は憂(うれ)いの色を見て取った。 きすけ:…姫さま、なにやら奇介めに、お話しされたいことがあるとか。 庵主:えぇ、その通りです。きすけ、あなたがわたしの元についてくれて、何年になりますか。 きすけ:姫さまの七つ参りにご一緒したのが初めでしたから… 庵主:あぁ、あのときは急に現れた覆面(ふくめん)姿のあなたを見て、わたしが泣いてしまって…。 庵主:…ふふふ。申し訳のないことをしました。 きすけ:いえ、そのようなことは… 庵主:それではちょうど十年になるのですね。 きすけ:はい。そうでございます。いやぁ…もう、十年ですか。 庵主:きすけ、これまでの歳月(としつき)、さぶろうて(意味・側で警護をつとめて)くれて、ありがとう。 きすけ:はい。……はい? 庵主:わたしは…。わたしは、嫁に行くことになりました。 きすけ:えっ…! いや、左様であります、か…。 きすけ:【ふと、気づいて】あぁっ! こ、これは。ま、誠におめでとうございます、姫さま。 庵主:わたしももう十六です。よい年のころ、ということでありましょう。 きすけ:【さらに気づいて】はっ! もしや、この奇介めに、暇(いとま)を出されるおつもりでは……。 阿武:〈N〉姫の話は婚姻(こんいん)に関するもの。 阿武:それであれば、めでたいはずのその話と、浮かない姫の横顔がどうも腑に落ちない。 阿武:そこから導き出した奇介(きすけ)の結論は「自分に暇を出す(いとまをだす・首にする)」というものだった。 庵主:いいえ、ちがいます。あなたのように尽くしてくれる者がほかにおりましょうか。 きすけ:【どこかほっとしながら】ありがたいお言葉です。しかし、それでは…。 きすけ:もしや、…いや、このようなこと、不躾(ぶしつけ)か… 庵主:…よいのです。おっしゃい、きすけ。 きすけ:いや、姫さまがお相手に対して何かご不安でも…おありなの、か、と…。 庵主:わたしは京(みやこ)に参ります。お相手はお公家さま。 庵主:新家(しんけ・江戸時代に新たに設立された公家)の東藤澤(ひがしふじさわ)さまとおっしゃいます。 庵主:若様の人と成りはもちろん存じ上げませんが、これはお家(いえ)のためでもあるのですから…。 きすけ:それでしたら、どうしてそのように浮かない顔をなさるのです…。 阿武:〈N〉西から吹き寄せる風が雲を送り込み、月明かりも薄れていく。 阿武:行燈(あんどん)頼りの部屋の夜、姫はなかなか話を切り出せずにいた。  : 0:【ここで場面は現在の竜胆庵に戻る】  : 詠:阿武ぉ! 阿武はいるかい? 阿武:これはこれは詠さま。お帰りなさいませ。して、最恵寺の方はいかがでありましたかな? 詠:それがねぇ。喜介(きすけ)さんは、どこからどう見たって、立派な墓守(はかもり)のじいさまだったよぉ。 詠:まぁ…病で死線をくぐりぬけて来られたようではあったがね。 阿武:死線を…。そうですか。それで、この時分(じぶん)まで何をなさっておいでだったので? 阿武:よもや、打ち合ってきたわけではございませんでしょう。 詠:いきなりそんなことをするもんかね! 阿武:ははは。まぁ、そうですわな。 詠:まず、小屋に声を掛けたんだが、誰も居なくてね。 詠:留守か、と思ったときに、横から水をかけられちまってさぁ。ははは。 詠:柄杓(ひしゃく)を持って謝ってきたのが、その喜介さんだったのさ。 阿武:ほぉ、水を。それは涼しげでよろしゅうございますな。 庵主:〈N〉軽口をたたきながらも、思案顔の阿武。そんな阿武をよそに、お詠は話を続けていく。 詠:そのあと、喜介さんの作業が終わるのを待ってから、二人で梅屋の団子を食べてね。 阿武:えっ?! 詠さま。喜介どのを連れ出したのですか? 詠:いやだねぇ、何言ってるのさ。手土産(てみやげ)だよ、手土産。 阿武:まったく、詠さまときたら、甘味(かんみ)や菓子ばかり…【ぶつぶつ】 詠:まぁいいじゃぁないかぁ。それでねぇ、「梅屋のあんみつを食べるのは、あたしの趣味みたいなもんでしてね」って言ったところから話が広がってねぇ。 阿武:あぁ、喜介どののご趣味の話にでもなったのですかな。 詠:そうなんだよ。喜介さんは「囲碁(いご)」が趣味らしくてねぇ。 詠:三回ほど勝負してもらったんだが……。あはは。ぜぇんぶ負けちまったよ。 阿武:そうですか。詠さまが完封されるとは、喜介どのはよほどお強いのですね。 詠:あぁ、それは間違いない。ただねぇ、阿武。その強さがちっと妙なのさ。 詠:とてもじゃないが、「趣味」なんてもんじゃぁないよ、あれは……。 阿武:…妙、とは? 詠:なんだかわからないんだがねぇ、しっくりいかないんだよぉ。 詠:囲碁の対局中、こちらの手のうちを見透かされているような気がするのさ。 阿武:…詠さま。喜介どのは、あの獬(かい)さまが「課役(かやく・課題)」として指定してこられたお相手ですよ。ただ者ではないに決まっているでしょう。 詠:まぁ、そうだよねぇ。 阿武:それに、大切なことを忘れていらっしゃるのではありませんかな? 詠:ん、何だい? 大切なことって。 阿武:もう! 詠さまに気づかれずに水をひっかけられる人間が、この世にどれだけいるというのですか! 詠:【はっとして】そうか、それだ! 詠:喜介さんに会ってから、何かがずっとひっかかっていたんだが…。 詠:確かにねぇ、あのときゃ、気配の「け」の字も感じなかったからねぇ。 阿武:喜介どのが、まったくの無意識だったか、はたまた、意識して気配を消していたか。 詠:あぁ、そりゃぁ後者だろうね。 阿武:ええ、そうでしょうとも。 阿武:それで、なぜ、獬(かい)さまが「課役(かやく)」として仰せになったか、何かつかめましたか。 詠:あぁ、今ので何となくわかったよ。 庵主:〈N〉胸のつかえがとれたのであろう。お詠に持ち前の明るさが戻っている。 庵主:とは言え獬(かい)の要求は「喜介を討つ」こと。 庵主:喜介もまた強者(つわもの)であろうと推し量ることはできても、その脈絡はいまだつかめないままである。 詠:とりあえず、明日も夕刻に出向いてくるよ。梅屋のあんみつでも持っていくかねぇ。ふふふ。 阿武:詠さま! 本日も召し上がったのでしょう??  : 0:【ここで場面は、庵主の部屋に戻る】 : 庵主:…ふふふ。何ですか、きすけ。布の下でお鼻がひくひく動いているようですよ。 きすけ:…え、あ、あぁ。ご無礼を…お許しください。 庵主:いや、よいのです。それで、どうしました? わたしの部屋が何かにおいますか? きすけ:いや、とんでもない! 逆です…。姫さまのお部屋は魚くさくならないのだな、と。 庵主:え? あぁ、行燈(あんどん)ですか。わたしは、菜種油(なたねあぶら)を使わせていただいていますからね。 きすけ:そう、ですよね。はは、それはそうですよね。姫さまともなれば、我らのように灯油(ともしあぶら)に鰯(いわし)など使われませんよね。 庵主:きすけは、素直ですね。先ほどまで部屋の前で緊張して立ち尽くしていたのに。ふふふ。 きすけ:あ、これは重ね重ね…。非礼をお詫びします…。 庵主:いいえ、きすけ。非礼を詫びねばならないのはわたしの方です。 庵主:…よいですか。よく聞いてください。 きすけ:…はい。 庵主:わたしは、きすけに、京にも着いてきてほしいのです。 きすけ:【顔を明るくして】それは、もちろんでございますとも。 庵主:道中の警護、という意味ではありませんよ? 庵主:東藤澤(ひがしふじさわ)の家には、ご正室(せいしつ)がいらっしゃいます。 庵主:わたしはね、二番目の妻として京に上(のぼ)るのです。 きすけ:あ、あぁ、そうなのですか。 きすけ:わたしにはお公家さま、お武家さまのご婚礼などよくわからぬのですが…。 庵主:そして、新家(しんけ)である東藤澤さまは、そこまで裕福に過ごされているわけでもありません。 きすけ:あの、姫さま、話がよく見えませぬ… 庵主:わたしは京のはずれに小さな家をあてがわれ、そこで暮らすのです。 庵主:女中(じょちゅう)として、うちから「およね」と「おひさ」についてきてもらいます。 きすけ:お二人が、姫さまの身の回りのお世話をなさるのですね。 庵主:はい。わたしがいただくのは三人扶持(さんにんぶち)。あと一人を、あなたに頼みたいのです。 庵主:京での、わたしの暮らし向きを守っては、もらえませんか…。 阿武:〈N〉言いながら、姫の顔は翳(かげ)っていく。 きすけ:はい! ということは、これからも姫さまをお側でお守りすることができるのですね。 庵主:それは…そうなのですが…。あなたは話の意味が分かっているのです、か…? 阿武:〈N〉姫さまが言いたいのはこうであった。 阿武:公家の妻として京に上(のぼ)る。しかし、そこでの暮らしは決してゆとりのあるものではない。 阿武:その中で、いつ明けるとも知れぬ奉公を奇介(きすけ)に強いることになる、と。 阿武:公家の妻とは言え、新家(しんけ)の若様の側室。裕福な武家からの支度金(したくきん)目当てとも見られうる婚姻に、その人生を差し出せと、つまりはそう述べているのである。 きすけ:もちろんでございます。京に行かれてからも、不肖(ふしょう)この奇介(きすけ)が、姫さまをお守りいたすと、そういうことでございましょう? 願ってもないことです【うれしそうに】。 庵主:…きすけ、よくお聞きなさい。あなたを「待つ人」はおらぬのですか?  庵主:わたしと共に京に上るということは、いつ坂東(ばんどう・関東地方のこと)に帰れるとも知れぬのですよ? 庵主:あなたには、好いた女子(おなご)の一人もおらぬ、と、そう言うのですか… きすけ:「待つ人」と言われましても…。姫さまは京にお上りになり、この奇介も京で暮らす。 きすけ:それでなんの問題がありましょうか? 庵主:【目に涙を浮かべて】…きすけ…。本当によいのですか…? きすけ:なんとまあ、姫さま。おめでたい話の席で、涙など、お見せになるものではないですよ。 きすけ:……はぁ。それでは、わたしも三度目のご無礼をはたらきましょう。 庵主:三度目の、無礼…? きすけ:幼きころの姫さまは、やれ「素顔を見せろ」だの、やれ「名前を呼べ」だのと、ことあるごとにおっしゃっていました。おぼえていらっしゃいますか?【笑顔で】 庵主:…えぇ。おぼえております。 きすけ:それが、このごろはそのようなことを仰せにならない。家臣ですらない、下僕(げぼく)の身では、姫さまのお名前を口にすることはできません。ですから、それは当然です。 庵主:きすけ…。 きすけ:ですが、「素顔」に関してはそうではありません。見たいなら見たいと言われればよいのに、あるころから、ぱたりと口にされなくなった。 庵主:あ…。はい、そうですね…。 きすけ:きっと、どこかでお知りになったのでしょう、この顔のことを。 庵主:それは……。 きすけ:ご無礼、平(ひら)にご容赦くださいませ【言いながら、顔の覆面をはぎとっていく】 きすけ:ははは。昼間でのうてようございました。行燈(あんどん)に照らされるくらいなら、まだしもかわいいものでしょう。 庵主:……きすけ。 きすけ:わたしは島にいたころ、痘瘡(とうそう・天然痘のこと)に罹(かか)りましてなぁ。 きすけ:顔だけでなく、胸や腹、尻にまで痘痕(あばた)が広がっておるのです。 阿武:〈N〉痘瘡、いわゆる天然痘(てんねんとう)は致死率の高い病として知られる。それは患者のうち、五割方が亡くなるほどであった。 阿武:仮に運よく治癒したとしても、膿(うみ)を溜(た)めた膿疱(のうほう)が体の組織を壊し、そこが痘痕(あばた)として残ってしまう。時に大流行を起こす、大変恐れられた病である。 庵主:…そうだったのですね。きすけ、わたしは何ということを言うておったのでしょうか。 庵主:…許してくださいね。許してくださいね…。 きすけ:姫さま、何を言われますか。 きすけ:雇い主の前で顔を覆っているこちらの方こそお詫びせねばならぬのです。 きすけ:ご主人さまは、このような奇介を雇う、とそうおっしゃった。この御恩は、海よりも深う(ふこう)ございますよ。 庵主:それは、きすけが、確かな力を備えているからでしょう。 庵主:きすけ、もっと近う(ちこう)寄ってくれますか? きすけ:いや、それはできませぬ。 きすけ:姫さまのせっかくの門出を穢(けが)してしまうことになりますから…。 庵主:きすけ、それはいけません。みずからを「穢れ(けがれ)」のように言うてはなりませんよ…。 庵主:よいから、行燈の前まで来てください。 きすけ:…ん、ううん。【観念してにじりよる】 庵主:【はっとして】きすけ、お口が… きすけ:ははは、そうなのです。痘痕(あばた)に加え、島での修行中、顎(あご)を砕かれましてなぁ。 庵主:…痛かったでしょうに…。 きすけ:なに…もう、ずいぶんと昔のことにございますよ。 きすけ:ですから、このように醜いわたしを待つ者など、おらぬのです。 庵主:!? きすけは、醜くなど…… きすけ:姫さまは昔からお優しいですからなぁ。その心根(こころね)もお美しい…。 きすけ:わたしは、口がこのように曲がっておりますからね、せめて性根は「まっすぐ」でありたいと、そう願っておるのです。 庵主:【ゆっくりと立ち上がり、障子窓を開ける】 庵主:見えますか、きすけ、あの月が。 阿武:〈N〉しばらく厚い雲に覆われていた月が、いつの間にやらその姿を現している。 阿武:やわらかな月明かりが部屋の中に差し込み、二人を照らしていた。 庵主:信じられますか? 海の向こうの南蛮(なんばん)では、月の素顔を見たものがおるそうです。 きすけ:…月の、素顔? 庵主:はい。あのように丸く輝くお月さまも、そのお顔は、ごつごつとした岩のようである…。 庵主:…そのように言われているとか。 きすけ:えっ? それはないでしょう…。 きすけ:あのようにてかてかと、きれいに光っていらっしゃるのですから。 庵主:ええ。そう見えますよね。 庵主:ところが、実際には土と岩でできていて、その表面には、くぼんだ土地もたくさんあると、そう聞きました。 きすけ:ははは…。その話が真(まこと)であれば、奇介めの素顔と同じですなぁ。はっはっは。 庵主:そうなのです。…それであれば、きすけ。 庵主:あなたのお顔だって、見るものの心持ち次第でしょう。 庵主:……ちがいますか? きすけ:……姫さま。 庵主:きすけ。あなたのお名前、字はどのように書くのでしょう? 庵主:【文箱(ふばこ)から墨と筆を出し、きすけに差し出す】 庵主:すこし墨をすりますから、ここに書いてみてください。 きすけ:…はい。「奇・介(き・すけ)」と、このように書きます。 庵主:これは、どなたの名付けですか? きすけ:島の棟梁(とうりょう)です。 庵主:…そう。【意を決したように】 庵主:それで、これにはどのような由来があるのですか。教えてください。 きすけ:それは……。 きすけ:それは、奇介めの顔が奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)であるからと、棟梁が…。 庵主:何が奇妙なものですか。それは病(やまい)に打ち勝った何よりの証(あかし)。 庵主:戦(いくさ)に名誉傷(めいよきず)があって、どうして病にないと言えましょう。 庵主:わたしは、あなたが生きていてくれて、うれしく思いますよ。 きすけ:…姫さま、なんともったいない……。 庵主:【きすけの手から筆をとり、紙に文字を書きつける】 庵主:…きすけ。たった今より、あなたはこう名乗りなさい。 庵主:「喜介(きすけ)」と。「喜」(き)は「よろこび」。「介」(すけ)は「助ける」という意味です。 庵主:…わたしは悪い女子(おなご)ですね。 庵主:喜介の半生(はんしょう)を縛り付けておいて、なお、あなたに助けてもらえることを喜んでおるのですから。 きすけ:…姫さま。そ、それはわたくしも! きすけ:姫さまのお側にお仕えできることが、この上ない喜びなのです。 庵主:【ほほえみながら涙を浮かべる】 庵主:喜介、本当によいのですね。 庵主:わたしのようなものの側仕え(そばづかえ)でその身を終えると、そう言うのですね。 きすけ:はい。喜介に二言はありません。名づけの恩人である姫さまに、誠心誠意お仕えします。 阿武:〈N〉こうして「奇妙の奇介」は、「喜びの喜介」として生まれ直すこととなった。 阿武:それからも、まさに言葉の通り姫に忠誠を捧げたのである。 阿武:姫の父親は、喜介が娘の願いを受けたと聞いて、なぜか手を叩いて喜んだという。 阿武:…しかし、京での生活は、決して楽なものではなく、何より、姫の命を縮めていくことになる。  : 0:【ここで場面は現在の最恵寺に戻る。以下の場面、喜介・七十歳】  : 庵主:〈N〉最恵寺の境内には、ほんのりと秋を感じさせる風が吹き渡っている。 庵主:中島(なかのしま)をそなえた大きな池が広がる庭園からは、ほっと一息つける涼やかさが漂ってきていた。 庵主:そこへ、またもや梅屋の包みを持ったお詠が姿を見せる。 詠:〈M〉よっし。今日は喜介さんに勝たなきゃねぇ。 詠:一度も勝てないままで帰るってのだけは受け入れられないよ、まったく。 詠:〈以下、セリフ〉喜介さん、喜介さんはいなさるかい? 庵主:〈N〉今日も小屋の中に喜介の姿は無い。かと言って、周囲に作業をしているような気配もない。 庵主:お詠が墓の周りや小屋の裏手を見ていたとき、それは繰り返された。 0:【水をかけられるお詠】ピシャっ 詠:わぁ! またっ!! 0:【お詠の背後から柄杓を手にした喜介が現れる】 きすけ:あぁっ! これはお詠さん…、いつもいつもごめんなさいねぇ…。 きすけ:こちらのお墓さんを冷やしてさしあげようとしたんだが…面目ないこって。 詠:いやいや、喜介さん、どこから出てきなすったんだい…? 詠:しかも、梅屋の包みはしっかりどこも濡れちゃあないし…。 きすけ:おや、また差し入れをいただけるのですか。うれしいですなぁ。 詠:喜介さん、今日も対局をお願いしますよっ。負けませんからねぇ! きすけ:ほっほ。お詠さんは威勢がよくてよいですのう。 きすけ:…でもねぇ、お詠さん。あなた、「もう負けている」でしょう。 詠:なにさ、喜介さん、勝負はやってみなきゃ、わからないだろう? きすけ:ほっほ…。さてさて。  :  : 庵主:〈N〉お詠はこの日も終ぞ(ついぞ)喜介に勝てず、うなだれた様子で『竜胆庵』にもどってきた。めったに見ることのない、肩を落としたお詠の様子に、おりんも心配顔である。 阿武:それで、詠さま。今日も今日とて一度も勝てなかったのですか。 詠:…うん。 阿武:しかも、二度までも喜介どのに気がつかず、水をひっかけられてしまった、と。 詠:…そ、そうだけどね。何さ、阿武、やけに逆なでしてくるじゃぁないかっ。 阿武:さらには、対局の前に「あなたは『もう負けている』」と、そう言われた。 詠:あぁあぁ、そうだよそうだよ! あたしの負けを言い当てられちまったよ…はぁ。 阿武:ふむ。 詠:…どうしたってのさ、阿武。 阿武:…いえ、私にも獬(かい)さまの思し召しが何やら見えてきたように思いましてな。 詠:おっ! いいねぇ、阿武。あたしの考えと照らし合わせてみようじゃあないか。 阿武:いやさ、その「負け」は囲碁(いご)の話ではございませんでしょうな。 詠:……あぁ、やっぱり、そうかい。 阿武:よい機会です、詠さま。そのまま喜介どのに、とことんお負けなさいまし。 : 0:【以下の場面、庵主・十六歳。喜介・二十六歳。前の場面と変わらず】 : きすけ:姫さま、よいお輿入れ(おこしいれ)ができましたな。 きすけ:東藤澤さまも、ご主人さまからの引き出物をたいそう喜んでいらっしゃいました。 庵主:それは、そうでしょう……。あれだけ…【真意を最後まで説明しない】 庵主:ふぅ…。ふふ。喜介はやっぱり素直でよいですね。【ほほえむ】 阿武:〈N〉東藤澤家(ひがしふじさわけ)に嫁いだ姫は、京の外れに住まいを得た。 阿武:姫と「およね」と「おひさ」、そして喜介の四人暮らしが、この日、始まったのである。 阿武:側室として迎える初めての夜。身の回りの世話と酒の支度を終え、「およね」と「おひさ」は屋敷を出て行った。 きすけ:姫さま、どうしてお二人は屋敷を出て行かれたのです? 喜介はどうすればよろしいですか。 庵主:ふふふ。「屋敷」というほどの広さでもないでしょうに。 庵主:もうそろそろ若様がお見えになりますからね、それで少し離れた宿に下がったのです。 きすけ:あぁ左様でしたか。それで、喜介はいかがいたしましょう。 庵主:あなたは、分かっていてそう言っているわけではないのですよね… きすけ:へ? …な、なにかご不興を買うて(こうて)しまいましたか【焦る】 庵主:いえ、よいのです。これもかねて分かっていたこと…。 庵主:喜介、わたしと一緒に若様を迎えてください。 きすけ:はい。もちろんでございます。 庵主:若様がお見えになったら、お世話はわたしがいたします。 庵主:あなたは寝ずの番(ばん)を、入り口脇で務めてください。 きすけ:仰せの通りにいたしましょう。そのために夕方まで寝かせていただいたのですから。 庵主:それと……。ひとつ、願いがあるのです。 庵主:何事もなければ、夜、屋根裏や床下で警護するのは遠慮してもらえませんか? きすけ:え? あ、はい。ですが姫さま、万が一のときは大きな声でお知らせくださいませよ? 庵主:【ほほえむ】はい。そうします。 庵主:この広さですから、ね。たとえ何かあったとしても、喜介が助けてくれるでしょう? きすけ:それは当然ではございませんか。 きすけ:…お、若様のお乗物(のりもの・上級の駕籠(かご))がお見えのようですぞ。 阿武:〈N〉幸か不幸か喜介には、男女の営み、心の機微など分かるはずもない。姫さまの心遣いは、喜介のためか、はたまた、おのれのためか。 阿武:ともあれ、東藤澤の若様を迎え、初めての夜は更けていく。 阿武:こじんまりとした屋敷だからこそ、喜介のような手練れ(てだれ)がいれば、不意を襲われることはない。確かにそれは正しかった。……喜介がそこにいたならば。  : 0:【ここで場面は現在の竜胆庵に戻る】  : 庵主:〈N〉この日、江戸は午後から雨になった。 庵主:日差しを集めた地面の熱を、雨がじんわりと癒していく。 庵主:お詠は傘を差し、瓢箪(ひょうたん)の酒入れを携えて、またも最恵寺に出向いていくようである。 阿武:詠さま。今日もしっかりと負けていらっしゃいましよ。 詠:なんだいなんだいっ。もそっと応援してくれてもよいだろうよぉ! 阿武:ははは。まぁ、今日は雨ですからね、不意打ちで水をかけられることもありますまい。 庵主:〈N〉阿武とお詠の様子を見て、おりんは楽しそうに笑っている。 庵主:「がんばって、お詠さん!」…おりんの溌剌(はつらつ)とした声援を浴び、洋々として喜介の元へ赴いたのであった。…だが。 詠:喜介さん、いなさるかね~。こんにちはぁ~。 庵主:〈N〉不意打ちを警戒したのか、お詠は小屋をやや遠巻きにして声を掛けている。 詠:喜介さん、いなさるんだろう。今日はお酒をお持ちしましたよぉ。 詠:〈以下、M〉えっへっへ…。確かに阿武の言う通り、この雨じゃ、水で不意打ちはできないだろうよ。 庵主:〈N〉「酒」という言葉に反応したのか、大木の陰から喜介が姿を現した。 庵主:見ると、片方の手には水桶(みずおけ)、もう一方には柄杓(ひしゃく)という、いつものいで立ちをしている。 詠:〈M〉へ? へへへ? この雨降りの中、水を撒(ま)いてたってのかい?? きすけ:おぉ、お詠さん、こんにちはぁ~。こんな雨の中をご苦労なことですなぁ。 きすけ:わざわざ、「参った」と言いに来られるとはぁ~。 詠:〈M〉にゃ、にゃにおぉぉぉ…。 詠:〈以下、セリフ〉いや、喜介さん、それはやってみなくちゃ分からないでしょうよぉ! きすけ:ほっほ。それが手前には分かるんですなぁ。 きすけ:おっと、お詠さん。今日は甘味(かんみ)ではなく、酒ですか。 詠:そうですよぉ、喜介さん。たまには、「これ」がいいかと思ってねぇ。 きすけ:うれしいですなぁ~。いやなに、甘いものもよいですがのぉ。酒もまた好きでしてなぁ。 きすけ:…お。お、お、お? ひょっとして、その瓢箪(ひょうたん)の中に甘露(かんろ・酒の比喩)が! 庵主:〈N〉お詠が持つ酒入れに目をくぎ付けにされた様子で、喜介がすたすたと進んでくる。 庵主:お詠も、酒入れの瓢箪を左右にぶらぶらさせながら、喜介を待っていた。そこへ…。 0:【水をかけられるお詠】ピシャっ 詠:わぁっ! 顔ぉっ!? きすけ:ほっほっほ。今日は雨降りですからなぁ。なにより、包みではなく酒入れをお持ちでしょぉ。 きすけ:濡れてもよいではありませんか。ほっほ。 詠:なんだいなんだい。喜介さん、あんたは一体何者なんだい! 詠:正直に吐かないと、このお酒はあげないよっ! 庵主:〈N〉お詠が文句を口にしながら、喜介に近づいたそのとき…。 きすけ:…はい、死にました。……ほっほ。 庵主:〈N〉いつの間に持ち替えたのか、柄杓の柄(え)が、お詠の喉元に向けられていた。 庵主:ひとかけらの殺気も見せず、笑顔を絶やすこともなく、喜介はお詠ほどの達人を手玉に取っている。 詠:…ま、参りましたよ。 きすけ:ね、言ったでしょぉ。「参った」と言いに来られたんですか、と。 きすけ:さぁさ、気を取り直して、気を取り直して。 きすけ:いつものむさいところで悪いですが、酒を傾けながら「対局」といきますかなぁ。ほっほ。 庵主:〈N〉先日、『竜胆庵』で阿武と話したことが現実味を帯びてきた。 庵主:お詠は、この冴えない老人から得るものが、際限なくあるように思えてきたのである。 庵主:『誂検(あつらえ あらため)』まで、あと六日。お詠の受ける品定めが続いていた。 : 0:【以下の場面、庵主・十九歳、喜介・二十九歳】  : 阿武:〈N〉東藤澤家(ひがしふじさわけ)に側室として嫁いでから三年が経った。 阿武:まだ世継ぎには恵まれないが、若様の寵愛(ちょうあい)を受けている。 阿武:古来、畿内(きない・都の周辺)の者からは、山の者よ、犬よ猿よと蔑(さげす)まれてきた坂東(ばんどう・関東地方)出身の姫である。公家の若様には、その気取らぬ気性と飾り気のない美しさが新鮮に映ったのかもしれない。 きすけ:…姫さま。なんだか、お帰りになるときの若様は、お顔が暗う(くろう)ございませんか。 庵主:そうですね…。「お公家」なんてお仕事も、きっと息が詰まるものなのでしょう。 庵主:若様も、わたしの前では屈託(くったく)なく笑ってくださるようになりました。 きすけ:【姫のことばに少し胸をいためて】…そう、でございます、か。 庵主:公家も武家も同じ。周囲の目を気にして、自由にふるまうことができないのですよ…。 庵主:〈以下、M〉…それはわたしも…。 きすけ:あのう、姫さま、ひとつご相談があるのですが…。 庵主:あら、なぁに? あなたからそのようなことを聞くのはめずらしいわ。 阿武:〈N〉このごろは京でも江戸でも「囲碁」がもてはやされている。江戸城でも「御城碁(おしろご)」が催され、将軍お目見えの下で対局がなされていた。 阿武:町中(まちなか)に「碁会所(ごかいしょ)」という有料集会所が生まれるほどの人気であった。 阿武:それは公家の社交界においても同様。 阿武:風のうわさで喜介の腕の程を聞いた若様に、本宅での対局を望まれていたのである。 庵主:まぁ、よかったじゃない!  庵主:喜介の力が、わたし以外の方にも分かってもらえたようで、うれしく思いますよ。 きすけ:…あ、ありがとうございます。ですが、ここを空けるのは、問題がありはしませんか。 庵主:何を言うのです。あなたに日が当たるときが来たのでしょう。 庵主:かまうことはありませんから、若様のところへ行って差し上げなさい。 きすけ:…はぁ。そう、ですか。 阿武:〈N〉姫さまは純粋にうれしかった。 阿武:若き頃より自分に付き従い、その生まれと育ちが相まって、つねに日陰の存在であった喜介。 阿武:その喜介の研鑽を積んだ力の一つが、世に知られようとしていたのだから。 きすけ:…では、次にお声掛けをいただいたら、東藤澤さまのお屋敷に出向いて参ります。 庵主:はい、そうなさい。…あ、そうです、喜介。若様相手とはいえ、遠慮はいらないのですよ? 庵主:全力でお相手をして差し上げなさい、いいですね。 きすけ:ぜ、全力、ですか。ははは…では、そういたしましょう。 阿武:〈N〉後日、屋敷に出向いた喜介は、生来の正直さか、手抜きなどせず若様を打ち負かした。 阿武:あまりの腕に舌を巻いた東藤澤の若様は、自分の出世の足掛かりとばかりに、周囲の公家に喜介を紹介して回ったのである。 阿武:喜介はいつしか「覆面の棋士(ふくめんのきし)」として、その名を知られていった。 庵主:…本当に、よかったですね、喜介。 阿武:〈N〉しかし、喜介が世に出るにつれ、姫さまを警護する時間は減っていく。 阿武:ところが、若様の寵愛ぶりが減ることはない。ここに大きな落とし穴があったのだ。 阿武:…その日のことを、喜介は悔やんでも悔やみきれずにいる。  : 0:【ここで場面は現在の竜胆庵に戻る】   : 庵主:〈N〉この日、お詠は夜遅くになって帰ってきた。 庵主:『竜胆庵』に戻ったお詠が、阿武に昼間のできごとを話している。 阿武:ほう…、詠さまほどの剛の者を返り討ちに、ですか。 庵主:〈N〉お詠の話を聞いた阿武はいささか驚いている。 阿武:かなりの使い手でいらっしゃるのだろう、とは思ったのですが、よもやそれほどとは。 詠:そうなんだ…。あたしゃ、柄杓(ひしゃく)につらぬかれちまったんだよぉ、この喉(のど)を。 庵主:〈N〉お詠の話を聞いて、おりんが飛び上がった。「のど?! のど、だいじょうぶですか、お詠さん」とあわてている。 詠:なんだい、おりん。いいねぇ、おりんはかわいいねぇ。…ほら、のどはなんともないだろう? 阿武:おりんさん。詠さまはここのところ、囲碁の勝負でまったく歯が立たなくてねぇ。 詠:…ぐすん。 阿武:それで、このようにうなだれていらっしゃるのですよ。 詠:おりん、そうなんだ。このお詠さんが、一度も勝てないんだよぉ…。 阿武:だから、心配はいりません。おりんさんは、そろそろお休みくださいね。 庵主:〈N〉ほっとした様子のおりんは、「は~い」と一つ返事をして、奥の間へと下がっていった。 阿武:…それで、詠さま。ここのところの詠さまはどうやら「居着き」にありますな。 詠:い、つ、き、…。そりゃ一体なんだいね。 阿武:そうですか、ご存じありませんか。 阿武:…いやはや、ではこれまでにお見せになった戦いぶりは、天性(てんせい)のものということ。 阿武:ははは。それはそれで末恐ろしいですな。 詠:…もう。からかってないで、わかりやすく教えておくれよ。 阿武:詠さまは剣術以外に、何を修めておいででしたかな、座学以外では。 詠:あぁ、剣術に、槍術(そうじゅつ)、柔術、組打ち術に、弓術、馬術、それから忍びの術のイロハと水練(すいれん)。まぁ、ざっとそんなところかねぇ。 阿武:いやぁ、多芸でいらっしゃる。それでおいて「居着き」は初耳、ですと? 詠:阿武ぉ、いじめないでおくれよぉ…。それに「多芸」は、お前も似たようなものだろう? 阿武:はっはっは、このような機会なかなかあるものではありませんからな、(せっかくの…) 詠:【阿武のセリフに食い気味に】あぁぁんのぉぉぉぉ? 阿武:え、ははは。いやですなぁ、詠さま、冗談ではございませんか、冗談! あは、あははは。 詠:…それで。その「居着き」ってのはなんなんだい? 阿武:えぇ。武道において、そのような概念がございましてね。 阿武:それは必勝ならぬ、必敗(ひっぱい)の窮地(きゅうち)。 阿武:いわば必ず負けてしまう心の状態として、何としても避けるべきこととされております。 詠:必ず、負ける…。 阿武:そうです。詠さまは、立ち合いのとき、どこを見ていなさいますか? 詠:どこ? どこっていうか、相手の立ち姿、息づかい、腕や足、それに腰の動き、周囲のざわめき、風のにおい…って阿武ぉ、これ、いちいち全部説明すんのかい? 阿武:はっはっは。戦いの場での詠さまのすさまじさは身をもって存じておりますからな。もう結構でございます。 詠:なんだい、けなされているのかねぇ…。 阿武:ちがいますよ、はは。そうでございましょう、詠さま。戦場(いくさば)において、一点のみを意識したり、また、注意をそらしたりすることはありませんでしょう? 詠:……あぁ、何だいそういうことかい。確かにねぇ…。 詠:それなら、あたしゃ喜介さんの前で「居着き」に陥っていたね。 阿武:まったく、理解がお早いんですから…。 阿武:偉そうに講釈(こうしゃく)を垂れる機会がなくなってしまったではありませんか。 阿武:いやはや、詠さまは、すばらしく、おそろしい。 詠:阿武、なんだって? 阿武:ははは。もちろん誉め言葉にございますよぉ。 庵主:〈N〉初めて喜介に出会ったその日、お詠は喜介に出し抜かれてしまった。達人のお詠をして、気づかぬ内に水をひっかけられたのである。その後も喜介は毎度柄杓を手にして現れ、お詠に水をかけている。お詠の意識は自然と柄杓に集まることになる。 詠:あぁ、確かにあたしゃ柄杓ばかり見ていたかもねぇ…。 庵主:三度めに喜介は「雨の中で水をかける」という行為に出た。これはお詠にとって予想外のことである。また、阿武との会話においても思い込みが強まっていた。 庵主:よって、雨の中で傘もささず、水桶に柄杓といういつもの姿に虚をつかれ、結果、お詠は顔面に水を浴びることになったのである。 詠:うん。「雨ん中じゃ、不意打ちはできないだろう」なんて思っちまってたよ… 庵主:さらには酒をめがけて進んでくる喜介の前で「酒入れ」に意識を注いでしまった。その後は先ほどお詠自身が述べている。…そう、ものの見事に「殺(と)られて」しまった。 庵主:つまり、喜介の言う通り、初めからお詠は「負かされて」いた。喜介によって知らず間(ま)に「死地」に追い込まれていたのである。 阿武:そうでございましょう?  阿武:ただ…、いつもであれば、相手に対して詠さまがなさっていたことなのですよ、これは。 詠:そうだね。…言われてみれば、ぼんやりそういう気もするよ。 阿武:意識のつながり。それを断ってしまったとき、思わぬ手で足元をすくわれるということですな。 詠:ほんとだねぇ。でも「居着き」って言葉にとらわれちまうのもしゃくだからねぇ…。 詠:よしっ。あたしゃ、ぜぇ~んぶ忘れることにするよ。あはは【カラカラと笑う】 阿武:それでこそ詠さまです。明日から喜介どのに出し抜かれることはありませんでしょう。 阿武:はっはっは、いやぁ、くわばらくわばら。 詠:阿武ぉ? 阿武:な、なんでもございませんよぉ…。  : 0:【以下の場面、庵主・二十一歳、喜介・三十一歳】   : きすけ:姫さま、ただいまもどりました。本日は「志手小路(しでのこうじ)」さまのお屋敷で対局させていただきましたよ。 庵主:おかえりなさい、喜介。首尾はいかがでしたか? きすけ:はい。おかげさまでお殿さま、安万侶(やすまろ)さまのお目にかないましたようで、東藤澤(ひがしふじさわ)の若様にも志手小路(しでのこうじ)さまより、お声掛けいただいたようです。 庵主:そうですか、それはよかった。それにしても「志手小路さま」がお相手とは、喜介もすごいですね! 阿武:〈N〉喜介が都にその人ありと知られるようになってから二年。 阿武:「覆面(ふくめん)の棋士」の盛名はいよいよ大きく、その存在は上位の公家にも知られるほどになっていた。しかし、引く手あまたとなってしまった彼は、姫の側にいる時間をさらに失っていく。 きすけ:いや、わたしなぞのことよりも、姫さまのことです。本日もおかわりありませんでしたか。 きすけ:…まったく、江戸のご主人さまにも申し訳が立ちません、このように姫さまの元を空けては… 庵主:それでしたら、問題ありません。父さま(ととさま)にはお手紙を書いておりますから。 きすけ:…ひ、姫さま。それは…。 庵主:父さまも喜介の活躍をお喜びです。 きすけ:ほ、本当ですか! ありがとうございます、ありがとうございます。 きすけ:せめて幾分かでも御恩返しをせねば… 庵主:何を言うのですか。あなたには、もう十分尽くしてもらっています。 庵主:〈以下、M〉父さまがお喜びなのは、あなたがもたらす名声と金品(きんぴん)なのです、本当は…。 庵主:喜介、ごめんなさい、ごめんなさい…。 阿武:〈N〉不運の種はここにもあった。喜介が有能すぎたのだ。 阿武:「恩返し」に居着いてしまった喜介は、わが身のうかつさに苛(さいな)まれることになる。  : 0:【ここで場面は現在の最恵寺に戻る。以下の場面、喜介・七十歳】  : 庵主:〈N〉『誂検(あつらえ あらため)』まであと三日。もう手持ちの時間も少なくなった。 庵主:この日のお詠はこれまでとは違う思いで最恵寺を目指している。獬(かい)からの指示「喜介を討て」。つかめそうでつかめない、知り合ったばかりの老人と書状の間の脈絡を、今日こそは知ろうというのだ。 詠:喜介さぁぁん、いなさるかあぁぁい。 庵主:〈N〉瓢箪(ひょうたん)の酒入れ片手に、いつもの小屋を訪れたお詠。小屋に近づくとすぐ異変に気付いた。 詠:【鼻をかぐ】〈M〉ん? …血の匂い…。 詠:【小屋から離れて】〈以下、セリフ〉喜介さん? 喜介さぁぁん? きすけ:ほっほ。 詠:ん? そこにいなさるのかい? 庵主:〈N〉お詠は、声がした方を振り返る。 庵主:いつもの墓石の陰(かげ)を確かめに足を踏み出したそのとき… 0:【水をかけられるも、よけるお詠】ピシャっ きすけ:ほっほ、よけなさるか。お詠さん、わずかの間に上達なさいましたなぁ。 庵主:〈N〉この日は、お詠の背後から姿を現した。喜介の声が聞こえた方とはまるきり反対である。 詠:そりゃどうも、ありがとうよ。…それより喜介さん、体は大事ないのかい? きすけ:…はて、体…? 詠:ごまかすんじゃぁないですよ。小屋に血の匂いがしたんです。 詠:ありゃ喜介さんのだろう? きすけ:…ああぁ! 昼に鶏(とり)をさばいたのですよぉ。はてさて、片付けが足りなかったかのう。 詠:…喜介さん、ここはどこだい? お寺だろう。殺生なんざするもんかね。 きすけ:はっ! そうじゃったなぁ。ここは寺じゃった。ほっほ。 庵主:〈N〉にこにこととぼけて見せながら、喜介がお詠に近づいていく。 庵主:その刹那…がしっ、という音が響いた。 庵主:喜介の必殺の一撃を、お詠が瓢箪(ひょうたん)で防いでいた。 きすけ:…ほっほ。お見事、お見事。お気に入りの柄杓(ひしゃく)の柄(え)が折れそうですわぃ。 詠:まぁ、必ずそうだと決まったわけでもない、か。 詠:寺で殺生は厳禁っていうのも思い込みってところかね。 きすけ:…ほう。気づかれたのですなぁ。…「竜胆」のお詠さん。 詠:やっぱり。…喜介さんは訳ありなんですねぇ。 庵主:〈N〉初めて話したあの日、「竜胆」に反応したように見えた。 庵主:その予感は、やはり間違ってはいなかった。 きすけ:ほっほ。ある方との約定(やくじょう・約束)でしてなぁ。 きすけ:お詠さん。あなたに、囲碁の手ほどきをせにゃならんのですわぁ。 詠:囲碁? 喜介さん、それよりも体の方は…? きすけ:ほっほ。お気遣いは無用です。この喜介など、とっくに屍(しかばね)ですからのぉ。 きすけ:いつ迎えが来るかと、この首を長う(なごう)しておったくらいですじゃ。 詠:…そうかい。そうなのかい。それで「討て」と…。 きすけ:「うつ」…はてさて、それは囲碁を「打つ」のですかな、それともこの老人を「討つ」のですかな。ほっほ。 詠:そりゃ、決まってますでしょう。……どちらも、ですよ。 : 0:【以下の場面、庵主・二十二歳、喜介・三十二歳】 : 阿武:〈N〉京に住まうようになってから早六年が過ぎた。嫁いで七年目を迎えても若様の別宅通いは続いている。別宅に足しげく通うということは、それすなわち本宅の正妻のもとに通う日が減るということである。 阿武:これまでは側室の小娘に懐妊(かいにん・子を宿すこと)の気配などみじんもなかった。それが故に、正妻も気を保っていられたのだ。 阿武:なにより自身にも子はいない。心の奥底では、若様は「種なし」かとさえ思っていた。ところが…。 きすけ:なんですと!「およね」さん、「おひさ」さん、姫さまにご懐妊の兆しあり、ですと! きすけ:なんとめでたい、いやはやめでたい!! わ~、姫さまが母(かか)さまになられる! 阿武:〈N〉二人に「まだ気が早いですよ」とたしなめられても、「ただ体調がお悪いだけかもしれません」と言葉を添えられても、半ば有頂天になった喜介の勢いはおさまらない。 きすけ:わぁ、わ、わ、こりゃたいへんだぁ。そ、それで、姫さまは、今、どのようなご様子で?  阿武:〈N〉女中らも、あきれ半分、うれしさ半分で、にこやかに喜介を見ている。 阿武:姫が生まれたときから家に仕える「およね」と「おひさ」は、喜介のこともまたよく知っていた。 庵主:【ほほえましそうに】…くす。まったく喜介は。 阿武:〈N〉そして、この話は瞬く間に宮中にも知られるようになる。 阿武:それは、東藤澤家のことだから、ではなく、喜介にまつわることだから、であった。 阿武:その知らせは当然、東藤澤の正妻の耳にも入る。妬み(ねたみ)嫉み(そねみ)の火がくすぶっていた。 阿武:…それからしばらくののち。 きすけ:そうですか、まだふせっておいでなのですか…。 きすけ:わたしはこれから志手小路(しでのこうじ)さまのお屋敷に行ってまいります。 きすけ:姫さまがご不調の中、すみません…。 阿武:〈N〉元より、女中の二人も喜介の活躍が好ましくないわけではない。また、「およね」と「おひさ」は喜介がもたらすものの意味もよく分かっていた。主家(しゅか)のためになれば、と願っていたのである。 阿武:しかし、日向があれば日陰もある。喜介に陽(ひ)が当たる分、その陰(かげ)となったところに悪意が忍び寄っていたのである。 阿武:その夜、志手小路にいた喜介に急を告げる文(ふみ)が届いた。 阿武:それは姫様快復の知らせなどではなく、一気に血の気も引くような、無残きわまる知らせであった。 きすけ:ひ、ひ、姫さまぁぁぁぁ!!!! 阿武:〈N〉喜介の様子をいぶかしんだ志手小路の殿さまが、その文を手づから読んだ。 阿武:眉をひそめた安万侶(やすまろ)は、家来に何か告げている。 阿武:狼狽(ろうばい)する喜介を呼び止め、同道を申し出たのは、これまた宮中にその人ありと知られた名医、坂上清雅(さかのうえ きよまさ)であった。 きすけ:はっ、坂上(さかのうえ)さま! うちの姫さまが、姫さまが、大変なのですぅぅ…。 阿武:〈N〉清雅(きよまさ)も急を告げる知らせを聞いて、毒薬だろうとあたりをつけていた。 阿武:二人は夜道をものともせずに駆けていく。ただひたすらに、ただひたすらにと姫のもとへ走り続けた。 阿武:浮世(うきよ)では、どのような縁(えにし)が浮き上がるかわからない。喜介が志手小路(しでのこうじ)にいたことで生じた隙を狙われた。しかしまた、それがために姫は一命を取りとめることになる。  : 0:【ここで場面は現在の喜介の小屋に戻る。喜介・七十歳】  : 詠:よっし! よぉぉっし! やったよぉぉ!! きすけ:ほっほ。お見事ですじゃ、お詠さん。ようやっとわたしから勝ちをもぎ取りなさったのう。 詠:…やっとだ…やっとだよ。 詠:この前は喜介さんの棋譜(きふ)に、あたしゃ丸裸にされたようだったんだけどね。 詠:今回は、あたしも、喜介さんの盤面すべてを見渡せるような気がしましたよ。 きすけ:…ほっほ。ですな。手前も途中から、これまでにない難敵(なんてき)と対峙(たいじ)したような気になりましてなぁ。 詠:いやぁ、でも、まだ一回ですからね、喜介さんに勝ったと言っても。 きすけ:ほっほ。残された時間は少ないでしょう? お詠さんにも、そして、わたしにも。 詠:それは、そう、かもしれないねぇ。 きすけ:よいですかな、お詠さん。一度しか言いません。よくよく聞いてくだされよ。 きすけ:囲碁は戦(いくさ)、盤面は戦場(いくさば)でしてなぁ。 きすけ:囲碁の勝負における心持ちは、集団相手のときとも、個(こ)を相手にしたときとも同じ。 きすけ:とらわれてはなりません。また、とらわれねばなりません。 きすけ:そして、そういう己を離れ、鷹のように全体を、そして局面を見つめるのですぞ。 詠:…鷹のように。…全体を、局面を見つめる。 きすけ:そうですじゃ。あなたは個(こ)としては達人の部類。しかも最上と言えましょうなぁ。 きすけ:しかし、まだお若い。わたしに先手をとられたのがそれですわい。でも、今はどうですかのぅ。 きすけ:手前ではお詠さんに勝てないような気がしてきましたぞ。ほっほっほ。 詠:それもこれも、喜介さんのおかげですよ。 きすけ:そうでしょう、そうでしょう。ほっほ。 きすけ:どうですかな、お詠さん。酒を一献(いっこん)傾けながら、手前の悔いを聞いてはくださいませんかなぁ、謝礼の代わりと言っちゃあ、なんですが。 詠:悔い? 喜介さんほどのお人でも後悔することがあるんですかぃ。 きすけ:そりゃあもう。たくさんたくさん、ありますよぉ。  : 0:【ここで場面は過去に戻る。庵主・二十二歳、喜介・三十二歳】  : 阿武:〈N〉志手小路(しでのこうじ)の屋敷から舞い戻った喜介と清雅(きよまさ)が目にしたのは、血にまみれ、嘔吐と下血、局部からの出血を繰り返す姫の姿であった。 阿武:喜介はあまりの惨状(さんじょう)に口をあけたまま立ち尽くしている。 阿武:清雅はさすがに歴戦の名医である。てきぱきと女中二人に指示を出し、身を清めさせ、薬湯を作らせて姫の手当てに尽くしていた。 きすけ:…ひめ、さ、ま。 阿武:〈N〉我に返った喜介が聞いたのは、東藤澤本宅からの贈り物のこと。 阿武:正妻からの贈答品に対しては返礼を書かねばならない。そのため、姫は律儀にもそれを口にしたのだという。 きすけ:…おのれぇぃ、よくも、よくも姫さまをぉぉぉぉ… 阿武:〈N〉血気にはやる喜介を押しとどめたのは清雅(きよまさ)であった。 阿武:いわく、今は信頼できるものに姫の側にいてほしい。知らせは私に任せてほしい、と。 阿武:清雅(きよまさ)は喜介の力を買っていた。純朴(じゅんぼく)でありながら、すさまじい技の冴えを持つこの男を、無闇(むやみ)に散らせたくはなかったのである。 きすけ:なんと。お側で姫さまを力づけるものが要る、と。それが、わたし!? きすけ:…そうで、あり、ますか。 阿武:〈N〉結局、東藤澤の正妻(せいさい)は「気の病」に侵(おか)されたとして廃された。 阿武:それから一年。どうにか体は癒えたが、状況は大きく変わっていく。 阿武:この日、坂上清雅(さかのうえ きよまさ)が二人のもとを訪れてきた。 阿武:そこで、姫が跡継ぎを望めぬ体になっただろうと知らされたのである。 庵主:…坂上(さかのうえ)さま、ありがとう、ございます。 庵主:おかげさまで、この命、拾わせていただきました。それで十分でございます。 きすけ:…姫さま、わたしが留守にしたばかりに… 庵主:…喜介。何度も言うたでしょう。…よいのです、もう。 きすけ:ですが、ですが…。くぅぅ。 きすけ:坂上(さかのうえ)さま、何とか、何とかならんのでございましょうか…くぅ。 阿武:〈N〉いかな名医と言えど、所詮は人の子。清雅は力なく首を振るばかりであった。  : 0:【ここで場面は喜介の小屋に戻る】  : 詠:…そうですかい…そんなことがあったんだねぇ。 詠:あたしもね、この前「守ると決めたお人」をみすみす死なせてしまってねぇ…。 きすけ:【ほほえむ】…お詠さん。あなたは、まだまだ力をつけねばなりませんなぁ。 詠:そりゃあ、あたしも望むところですよ。……それにしても、悔しかったよねぇ…喜介さん。 きすけ:……ほっほ。  : 0:【ここで場面は過去に戻る。庵主・二十三歳、喜介・三十三歳】  : 阿武:〈N〉姫の回復を待つようにして、東藤澤(ひがしふじさわ)の家から里に帰るよう命じられた。 阿武:喜介の縁(えん)で志手小路から支度金を渡され、姫は京を後にすることとなったのである。 阿武:離縁を言い渡した当の東藤澤(ひがしふじさわ)からは一文(いちもん)の見舞金もない。 阿武:弱り目に祟り目などと古く言いならわされているように、このようなときに限って不幸は続いていく。 庵主:どうしたのです? およね、そのようにあわてて? 阿武:〈N〉里帰りの用意を進める中、一通の急ぎ文(いそぎぶみ)が届いた。 阿武:そこには、娘をめぐる一連の出来事に憤(いきどお)り、実家の父が亡くなったと書かれていた。 庵主:…喜介、喜介はいますか。 きすけ:【庭仕事の手をとめて】あ、姫さま、喜介はここに。 庵主:…父(ちち)が。江戸の父が亡くなりました。 きすけ:…え? なんですと? 庵主:…毒を盛られ、里に戻されるわたしのことで気を揉んで倒れたそうです。 きすけ:…ひ、姫さま? 庵主:…どうしたことでしょう。喜介…わたしはどうかしてしまったのでしょうか。 庵主:父上は、わたしのせいで亡くなったようなものなのに、それほど悲しくはないのです。 きすけ:……悲しくないはずがありませんでしょう。 庵主:いいえ。…「宮(みや・幼き頃に亡くした愛猫)」のときは、とめどなく涙があふれてきたのに、今はもう流れる涙もありません。 きすけ:姫さま、ご無理はなりません…。 庵主:人の裏の顔などあまり知るものではない、ということですね…。 庵主:だからこそ、あなたを前にすると気が休まるのでしょう……。 きすけ:喜介も、そうありたいと願ってはおりますが…。 きすけ:しかし、そうですか……。ご主人さまがお亡くなりに……。 庵主:…一緒に帰りましょうか、江戸に。 阿武:〈N〉姫の家に男子(おのこ)はいない。運よく公家から縁談が持ち込まれ、多額の支度金を用意して娘を送り込んだ。その裏には、複数の男子(おのこ)が生まれたら、養子に迎えようという父の算段があった。 阿武:しかし、事件のせいでそれもご破算。父親の憤死はここに端を発していた。…悲しいかな、姫を心配し、相手に憤慨したからではなかったのである。 きすけ:…姫さま、喜介はどこまでもお供いたします…。 きすけ:喜介は、姫さまの側仕えでいることが喜びなのですから。 庵主:【うっすらとほほえむ】…ほんとうに。あなたは口にしたことを違(たが)えないのですね。 きすけ:もちろんでございます。わたしは、いつまでも姫さまのお側にいたいのです。 庵主:…ありがとう、喜介。 庵主:およね、おひさ、話があります。部屋へ来てくれますか。 阿武:〈N〉当主である父親が死したならば、跡取りのない家が改易(かいえき)を免れることはない。 阿武:姫は二人の女中に多めの金(かね)を渡し、暇(いとま)を出した。 庵主:ふぅ……。喜介…、わたしは、いささか疲れてしまいました。 きすけ:いかがでしょう、姫さま。江戸までそれほど急ぐこともないでしょうし、ゆるりと花でも愛でて歩きませんか? 庵主:喜介が案内してくれるというのですか? きすけ:へへへ。お公家さま方との対局のさなか、いろいろと話をうかがいましてね。 きすけ:実は、姫さまに召し上がっていただきたいもの、お見せしたいものがあるのです。きっとお体にもよろしいかと。 庵主:……やはりわたしはどうかしてしまったのでしょう。父を亡くした、と聞いたばかりなのに、なにやら、うれしくなって…しまうのです…【涙をうかべる】 きすけ:…はぁ、急なことですから…。悲しいときは、泣かれるがよいでしょう…。 きすけ:【涙の意味はわかっていない】  : 0:【ここで喜介の小屋に場面が戻る。喜介・七十歳】  : 詠:へぇ。それで、姫さまと東海道を下りなすったのかい? きすけ:そうです。遠江(とおとうみ)は袋井(ふくろい)まで駕籠(かご)を使い、ゆるゆる歩きましたぁ。姫さまは病み上がりでいらしたからのぅ。 きすけ:おぉ、そうじゃ、お詠さんは、「たまごふわふわ」を知っていなさるか? 詠:ん?「たまごふわふわ」…ですかい? う~ん…食べ物、ですかねぇ? きすけ:はいぃ。そのころ、ちょうど話題になっておりましてなぁ。鶏(とり)の卵とだし汁でつくるのですが滋養があり、口にしやすい。食が細くなった姫さまのお口にも合うのでは、と、そればかり考えておりましたぁ。 きすけ:…話を聞くだに、お詠さんは、食べることがお好きでしょお? 詠:そうですよ。おいしいものを食べられるってのは幸せなことだと思ってんです。 きすけ:ほっほ。よいことですじゃ。人は食べたもので体と心がつくられる。…続けられませよぉ。 きすけ:それで、袋井(ふくろい)には長逗留(ながとうりゅう)をしましたぁ。半年ほどでしたかのぅ。 詠:姫さまの具合はどうだったんですか? きすけ:さいわい「たまごふわふわ」もお気に召しましてのぅ。 きすけ:お体も少しは落ち着いていらっしゃいましたぁ。…ほっほ。うれしかったですなぁ。 きすけ:袋井には桜の時期に着きましたからのう。それから百合(ゆり)に牡丹(ぼたん)に梔子(くちなし)にと、姫さまの供をして方々(ほうぼう)出かけましたわい。 詠:…それはいい時間をすごされましたねぇ。 きすけ:はいぃ。「梔子(くちなし)」はよい香りがしましたぁ。それはそれはよい香りが……。 きすけ:今考えれば、あのころが一番楽しかったですなぁ……。 詠:…お二人だけで過ごされたんですかい? きすけ:えぇ。対局にいそしんでいた間に少しは蓄えもありましたからなぁ。 きすけ:おつらそうな姫さまが、せめても穏やかな顔を見せてくださるのが、喜介の喜びでしたぁ。 きすけ:【遠い目】あぁぁ、楽しかった、なぁ。 0:【喜介の思いを妨げぬよう、しばし間をとる】 詠:…喜介さん。 きすけ:はいぃ、なんですかのぅ。 詠:喜介さんは、姫さまを好いていなすったんだねぇ。 きすけ:……ほっほ。喜介はただの下僕ですからなぁ。そのようなおこがましいことは、言えません。 きすけ:それに、あのころは輪をかけて物事が分かっておりませんでしたしのぉ。  : 0:【ここで場面は過去に戻る。庵主・二十三歳、喜介・三十三歳】  : 阿武:〈N〉品川宿(しながわじゅく)まで戻ったころには、紅葉(こうよう)の時期を迎えていた。 阿武:宿場の外れに霞草(かすみそう)の名所があると聞いた姫はそこに庵(いおり)を結ぶことにしたのである。 庵主:…喜介、聞いてもらますか。 きすけ:はい、姫さま。なんでございましょう。 庵主:ここらでわたしは、髪を下ろします。 庵主:戻るところもなし、さりとて、行きたいところもなし。 庵主:あのようでも父は父。わたしも父も仏にすがろうと思うのです。 庵主:……喜介、よいでしょうか、そうしても…。 きすけ:え? よいもなにも、わたしにお断りにならずとも、喜介は着いて参りますよ。 庵主:いえ、そういうことではなく……(わたしと) きすけ:【前のセリフにかぶせて】 きすけ:…ん? あ、あぁ、お住まいのことでしたら、わたくしめにお任せくだされ。 きすけ:あ、いや、下僕の喜介めでは、ということなら、志手小路(しでのこうじ)さまからいただいた分もございますから。 庵主:…いえ、その…。……いや、ありがとう喜介。甘えさせてください。 庵主:この先に霞草(かすみそう)の美しいところがあると聞きます。 庵主:わたしはそこに庵(いおり)を結び、経を上げて生きていこうと思います。 きすけ:そうですか。それがよろしゅうございましょう。 きすけ:…喜介にも、ご主人さまを拝ませてくださいませね。  : 0:【ここで喜介の小屋に戻る】  : 詠:【ぶるぶるしている】喜介さぁん…。このような言い方ぁよくないですよ…。よくないですがねぇ、あんた、バカでしょう! きすけ:ほっほ。その通り。わたしは大馬鹿者なのですよ…。 きすけ:それでもね。わたしの一番の心残りはこの後の話にありましてなぁ。 詠:…あとのお話?  きすけ:…えぇ。わたしは、お詠さんに、今ここで斬られてしまうかもしれませんのぅ。 : 0:【以下の場面、庵主・二十六歳、喜介・三十六歳】 : 阿武:〈N〉二人が「霞庵(かすみあん)」と名付けたその庵(いおり)で、姫は髪を下した。 阿武:今は尼僧(にそう)として、読経の毎日である。呼ばれ方も「姫さま」から「庵主(あんじゅ)さま」に変わっていた。 阿武:品川宿(しながわじゅく)の外れに「霞庵(かすみあん)」を結んで三年。その日の夕食はいつもと違い、庵主が用意して喜介を招き入れた。 きすけ:庵主さま、これはどうなされたのです? わたしが作るものよりも、大層華やかですねぇ。 庵主:ええ、わたしも二十六になりました。 きすけ:えぇ、そうですねぇ。喜介は三十六ということですなぁ。 庵主:気づきませんか、喜介? きすけ:ん? あ! あぁ、お側仕えをしてから二十年、ですか。 庵主:そうなのです。二十年、ですよ。これはすごいことです。ありがとう、喜介。 きすけ:いやいや、まだまだお仕えさせてくださいませよ? 庵主:こういう境遇に身を置くと、喜介のありがたさをひしひしと感じるのです。 庵主:これまで、わたしはあなたに何ひとつ報いることができていません。 庵主:ですから、今宵はせめて手料理などをと、思ってみたのですが…。 庵主:精進料理となると、喜介には物足りないかもしれませんね…。 きすけ:とんでもないですぞ、庵主さま。…喜介は、胸がいっぱいです。 庵主:ふふふ。どうぞ、お腹もいっぱいになってください。今宵くらいは、それもよいでしょう。 きすけ:腹八分、をこえてみましょうかねぇ。はっはっは。 きすけ:【居住まいを正す】庵主さま、ありがたいことです。いただきます。 庵主:はい。どうぞ召し上がれ。…ふふ。また十年ののちも、このようにしたいものです。 きすけ:なんと! それは楽しみでございますなぁ。 阿武:〈N〉心身共、穏やかになったかに見えたが、庵主が望んだその十年が三度(みたび)めぐってくることはなかった。 阿武:毒薬にむしばまれた庵主の体は、その日を境に次第に悪くなっていったのである。  : 0:【ここで場面は喜介の小屋に戻る】  : 詠:喜介さん、そのときの食事、今でも覚えていなさるかい? きすけ:はいぃ。どうしようもなく忘れたいのに、忘れられぬことの方が多い人生でしたがねぇ。 きすけ:袋井での時間と「霞庵(かすみあん)」での日々は、忘れたくもありません。 詠:ふふ。そうですか。 きすけ:そうですともぉ。閻魔(えんま)様にお願いして、地獄にも持っていきますからねぇ。 詠:…えぇ。【ほほえむ】きっとお許しが出るでしょうよ。それで…「その後」とは? きすけ:庵主さまは、だんだんとお力を落としてしまわれましてなぁ。 きすけ:一時(いっとき)は食も戻っておったのに、また細くなってしまわれましたぁ。 きすけ:この後の話は、初めて人に言うのですがねぇ… 詠:…はい。 きすけ:…おのれの愚かさを、呪ってしまいそうになるのですじゃ…。 : 0:【以下の場面、庵主・二十八歳、喜介・三十八歳】 : 阿武:〈N〉庵主が「霞庵(かすみあん)」で過ごす日々は、仏と共に歩む日々であった。朝の勤めから一日が始まり、父をとむらい、居たかもしれない我が子の来世を祈り、修行に没頭する。そうすることで、心の均衡を何とか保とうとしていたのであろう。だが、それもかなわなくなった。 阿武:日に日に衰えていく己の先行きを知ったある日、庵主が庵(いおり)を半日空けた。 庵主:…喜介、いますか。 きすけ:おぉ、庵主さま、ご体調はいかがでございましょう。 庵主:…はい。今日は、いくぶん加減がよいのです。 きすけ:そうですか! それはよいことでございます。…して? 庵主:…すこし、用を足しに町まで出てこようと思うのです。よいでしょうか。 きすけ:あ、それでしたら、喜介めがひとっぱしりしてきましょう。 庵主:…いえ。これはわたしが出向かなければかなわない用向きなのですよ。 きすけ:え? そ、そうなのですか。しかし、お体が… 庵主:ひさしぶりに、わたしのわがままを聞いてはもらえませんか? 御仏(みほとけ)にはしかられそうですが…。 きすけ:…はい。それでしたら…。でも、日暮れまでにお戻りでなければ、何が何でも探しに参りますぞ。 庵主:ふふ。いつぞやも、必死になって、わたしをさがしてくれましたね。…頼りにしておりますよ。 きすけ:はい、庵主さま。喜介にお任せくださいまし。 きすけ:…ですが、ほんとうにお気をつけくださいませ、ね。 阿武:〈N〉庵主は約束通り夕刻には戻ってきた。何をしてきたとも言わぬ庵主であったが、喜介も余計な詮索はしなかった。 阿武:……その意味が分かったのは、それからひと月の後(のち)である。 庵主:【少し息が荒くなっている】…喜介、喜介。 きすけ:はい、庵主さま、ここにおりますよ。 庵主:あぁ喜介、哀しいことですが、わたしの迎えももうすぐだと思われます… きすけ:なにをおっしゃるのですか…。庵主さまあってこその喜介でございますよ。 きすけ:まだまだ庵主さまにいていただかなければ、喜介は世に迷(まよ)うてしまいます。 庵主:…ふふ。そうかも、しれませんね。 庵主:はぁ、はあ。…喜介。今宵、月が出たら、わたしの寝所を、もう一度、訪れてはもらえませんか。 きすけ:し、寝所、ですか!? 庵主:そうです、寝所です。 きすけ:ご用なら、まだ明るいうちに… 庵主:…喜介、たのみます。 きすけ:は、はい。 阿武:〈N〉喜介ほどの強者(つわもの)が庵主の気迫に後れをとった。一度応えたのであれば、それは、そうしなければならない。喜介は落ち着かぬまま、夕日が山に隠れるのを見ていた。 阿武:果たして、その夜はよく晴れた。姫が嫁ぐ前、二人で共に眺めたような明るい月が「霞庵」を照らしている。 きすけ:庵主さま、庵主さま。喜介でございます。 庵主:おぉ…、来て、くれたのですね。 きすけ:えぇ。お約束ですから。…ですが、調子がお悪いなら… 庵主:喜介。そこで、三十数えなさい。 きすけ:え、数を、ですか。 庵主:…そう、です。そして、数え終えたら、入ってきてください。 きすけ:あ、何かご用意が…。それでしたらしばらくお待ちします。 庵主:【泣きそうになって】喜介、わたしを、困らせないで。三十でよいのです。 きすけ:あ、庵主さま、分かりましたて。では数えます。いぃち、にぃい、さぁん… 阿武:〈N〉喜介は落ち着いた声で数を数える。何がおこるか分からない不安もあるが、今は何より、庵主の望みに従いたいと思っていた。 阿武:喜介ほどの達人である。見たくないとは思っていても、庵主から生気が抜ける様子は手に取るように分かってしまう。 きすけ:にじゅうく、さぁぁんじゅ。…、さあさ、数えましたぞ。 庵主:こちらも、よいです。どうぞ、お入りなさい。 阿武:〈N〉襖を開けたその瞬間、香(こう)の流れがただよった。鼻をひくつかせた喜介は、いつかの夜も姫さまに言われたなと、何やらおかしく思った。 阿武:これまでに嗅いだことのない香(こう)ではあったが、この香りは確かに知っている。 阿武:庵主に言われるまま寝所に入った喜介は、まず自分の目をうたがい、夜明けには自分の判断を呪うことになる。 きすけ:庵主さま、あんじゅ、さ、ま!? 庵主:このように、はしたないこと、どうか、どうかゆるしてください。 阿武:〈N〉そこには、月明かりに照らされた、一糸まとわぬ姿があった。病で痩せた体を隠すこともなく、床(とこ)の上に、体を起こしている。 きすけ:…あ、あ、横になっておられずともよろしいの、です、か。 阿武:〈N〉あまりのことに、かみ合わない言葉が口をついた。それでも庵主は眉を顰(ひそ)めることもない。 阿武:これまで長い時を共に過ごし、喜介の気性をよく知っていた。 庵主:ふふふ…今宵は、よいのです。わたしも、そう長くはないでしょうから。 きすけ:庵主さま…。 庵主:…お願いです、喜介。あなたの手で、今生(こんじょう)の思い出に、一人の女子(おなご)に戻しては、もらえませんか…。 きすけ:お、おなごに…。 庵主:…はい。……喜介、この香りを覚えていますか? きすけ:えぇ。梔子(くちなし)の香りです、ね。 庵主:【微笑む】そうです。まだ法体(ほったい)になる前、娘だったころにあなたと眺めた梔子です。 庵主:先日、外に出たのは、この香(こう)を求めるためでした。…あの時は、無理を言いましたね。 きすけ:…そうだったの、ですか…。 庵主:わたしは、これまで、あなたをしばりつづけてきました。 庵主:喜介は女子(おなご)を知らぬのでしょう。 きすけ:知らぬ、とは… 庵主:…女子(おなご)とまぐわったことは、ないのでしょう? きすけ:……は、はい…。 庵主:わたしも、このような身となり、今はもう、あなたの役に立てそうもありません。 庵主:ですが…せめて、床(とこ)に共に入り、わたしの体を愛でてはもらえませんか。 きすけ:め、めでる…。 庵主:…はい。わたしは、あなたに、抱きしめてもらいたい。…かなえては、もらえませんか。 きすけ:庵主さま…、そ、そ、そのような…。 庵主:それから、喜介。どうか一度でよいのです…。 庵主:「庵主」でも「姫」でもなく、わたしの名を、呼んでください。後生(ごしょう)ですから…。 きすけ:ひっ…、お、お、恐れ多いことでして…。 庵主:喜介…、おしつけがましくなるのを、ゆるしてください。 庵主:ここまで、願(ねご)うておるのです…。情けをかけては、もらえませぬか…。 きすけ:あ、あ、庵主さ、ま。き、喜介には、喜介にはできませぬぅ…… 阿武:〈N〉思いもよらぬ庵主の言葉。喜介はそれにまっすぐ応えることができない。 阿武:彼は幼いころより島で鍛えられ、そのまま任務についてきた。長じて庵主の屋敷に雇われるまで、仕事づくしの人生である。 阿武:暗器(あんき・暗殺用の武器)の扱いには巧みでも、女子(おなご)の扱いなど知るはずがなかった。 きすけ:庵主さま…、あ、あ。【うろたえている】 庵主:さぁ喜介、こちらに来て、わたしに触れて…。 庵主:…それとも、病にしおれた、この体では(いやですか) きすけ:【前に少しかぶせて】とんでもねぇ。…とんでもないです。庵主さまは、今もかわらずお綺麗だ…。 庵主:【ほほえむ】ありがとう、喜介。さぁ、こちらへ。 きすけ:で、で、でき、ませ、ん…。 阿武:〈N〉かたくなに、主従の境(さかい)を守ろうとする喜介の目には、いつしか涙が浮かんでいた。闇に陰にと生きてきた、この喜介が泣いている。 庵主:…喜介。まったく、あなたらしいというか、なんというか…あっ…【床に倒れる】 きすけ:あ! 庵主さまぁ! 阿武:〈N〉ここに至って喜介は、庵主の元に近寄り、その手をとった。 阿武:目を閉じ、息を荒げる庵主に布団を掛けなおす。喜介は、庵主の手を握り、声を掛け続けた。 阿武:すぐそばで、まんじりともせずに過ごしたその日。明け方になって、庵主はとうとう身罷(みまか)ったのであった。 庵主:【消え入るような声で】…き、す、け。…よ、ん、で。…ふ、れ、て、く、だ……【息絶える】 きすけ:あ、あ、あ、庵主さま、庵主さまぁぁぁぁ!! わぁぁぁぁぁ… 阿武:〈N〉喜介が庵主に対して抱える後悔はいくつもあるが、この日の数刻(すうこく)は文字通り刻みつき、薄れていくことがない。 阿武:自分の最期を悟った庵主の心からの願いを、そして思いを、自分は無下にしてしまった。 阿武:望んだとて二度と叶わず、悔やんだとても時が戻ることはない。 阿武:喜介は呪った。己の愚かさを。そしてふがいなさを。この夜(よ)の自分の選択を。 : 0:【ここで場面は、喜介の小屋に戻る。喜介・七十歳】 : 詠:喜介さん、あんたってお人は!! ……んん! ぐぬ! …ん。 詠:……はぁ。でも、それが喜介さんってお人なんでしょうねぇ…。 きすけ:わたしは姫さまの最期の願いをかなえることなく、死なせてしまったのですからのぉ。 きすけ:あの日、わたしも死んでしまおうと、そう思うたのです。 詠:…それで、それからどうなすったんです? きすけ:はいぃ。江戸にはもうご生家(せいか)はありませんからなぁ。姫さまが亡くなったと伝える方もいらっしゃらず…。 きすけ:だからわたしは、姫の喪(も)が明けてから京にもどりましたのじゃ。志手小路(しでのこうじ)さまのところへねぇ。 : 0:【以下の獬との場面、喜介・四十歳】 : 阿武:〈N〉生きた屍(しかばね)のようになりながらも、志手小路にたどり着き、当主、安万侶(やすまろ)や清雅(きよまさ)に知らせを入れた。 阿武:京で受けた厚意(こうい)に対する礼をせねばと、そう思えばこそ生き永らえてきた。 阿武:しかし、それも果たした今となっては、わが身を支えるものはない。喜介は死のうと思った。 きすけ:〈M〉…もう、これで、浮世にしばられることものうなった。 きすけ:姫さま、すぐに喜介も参りますぞ…。 阿武:〈N〉しかし、またしても坂上清雅(さかのうえ きよまさ)がそれを止めた。喜介に「紹介したい人がいる」とそう話すと、庭へ連れていく。 阿武:そこで待っていたのは、白拍子(しらびょうし)の装束に、白い翁(おきな)の能面をつけた長身の男。そう。獬(かい)である。  : 0:【ここでいったん喜介の小屋に戻る。喜介・七十歳】  : 詠:え? えぇ?! 喜介さんは、獬さまを知っていなさるのかい? きすけ:えぇ、はいぃ。 詠:ん? となると、いつか言われた「とある方との約定(やくじょう・約束)」ってのは…。  : 0:【以下の獬との場面、喜介・四十歳】  : 庵主:〈N〉獬(かい)は話に聞いた喜介をみすみす死なせるのは惜しいと思った。 庵主:かなうことなら、その技を、力を、残したい。だが、そのためには、腑抜けた喜介では役に立たぬ。 庵主:そこで、獬は喜介に対し、こう嘘をついた。 獬:〈阿武兼役〉おい、貴様の仇(かたき)がここにおる。刀をとり、打倒(うちたお)してみんか。 獬:貴様の大切な姫に毒を持ったのは、ほかならぬ我である。 庵主:〈N〉その言葉を聞いた喜介の顔に血の気がもどる。いや、一気に怒張した。 庵主:喜介にとって、それが真(まこと)かどうかに意味はない。 庵主:その言葉が、その音が、生きる意味を見失っていた喜介に火をつけたのである。 : 0:【ここでいったん喜介の小屋に戻る。喜介・七十歳】  : 詠:すると、何かい? 獬さまと戦ったってのかい?! きすけ:えぇ、お相手をしていただきましたぁ。……まあ、負けましたがねぇ。 詠:負けた? それでも、今生きていなさるってことは… きすけ:だから、約定なのですよぉ。ほっほ。  : 0:【以下の獬との場面、喜介・四十歳】  : 庵主:〈N〉はじめは怒りにとらわれていた。当然、そのような攻撃が獬に届くはずもない。 庵主:しかし、戦いが始まり、自分の攻め手をことごとく躱(かわ)され、逆に傷が増えてくると、次第に喜介の心は研ぎ澄まされていった。戦いに明け暮れた記憶と経験は、体に染みついている。それが、ここで首をもたげる。 獬:〈阿武兼役・M〉ほう。…ほう。これはこれは。 獬:〈以下、セリフ〉貴様の腕はこの程度か? それでは我を倒すこと能わず(あたわず・不可能だ)。貴様のその未熟さであれば、毒を盛るときその場にいても、何の役にも立たなかったであろうな。 庵主:〈N〉すでに喜介は無我の状態で攻め手を繰り出すようになっている。獬の挑発も耳には入らない。冷静に、迅速に。ただ獬(かい)の急所のみを狙った攻撃が執拗(しつよう)に続いていく。 獬:〈阿武兼役・M〉むっ。…これはすばらしい。在野のまま朽ち果てさせるのは確かに惜しいの。 獬:〈以下、セリフ〉はっはっは、なかなかに鍛え上げられたよい腕ではないか! 庵主:〈N〉挑発も聞こえぬが、誉め言葉もまた届かぬ。すでにこの世のものではないかのような動きで、獬の急所を攻め立てる。「急所」は体中に無数にある。それらすべてが標的なのだから、喜介の攻撃は決して単調なものではない。 獬:〈阿武兼役〉…ふむ。貴様の今のその動き。防げる者はそう多くあるまい。 庵主:〈N〉次の瞬間、キーンと高い声が庭に響いた。獬が発したその音に、喜介は我に返った。 きすけ:……はっ…。 獬:〈阿武兼役〉…貴様、神懸った動きであったな。 庵主:〈N〉喜介は肩で息をついている。対する獬は涼しげな顔だ。宮中における獬の存在が絶対である理由がそこから見て取れる。 きすけ:はぁ、はぁ、はぁ、…くっ…くはっ…仇(かたき)に、一刀(いっとう)も入れられぬ、とは… 獬:〈阿武兼役〉よい。よいぞ、貴様。…さて、ひとつ、詫びねばならぬことがある。 きすけ:…なんです。はぁ、はぁ。 獬:〈阿武兼役〉我は、貴様の仇(かたき)にあらず。騙(かた)ってしもうた。悪かったな。 きすけ:…そう、です、か、…はぁ、ふぅ。 獬:〈阿武兼役〉我らの調べでは、やはり東藤澤(ひがしふじさわ)が正室(せいしつ)の悪だくみであった。そして、その者はもうおらぬ。 きすけ:……はい。 獬:〈阿武兼役〉喜介とやら。 きすけ:……はい。 獬:〈阿武兼役〉貴様が命、我らに預けよ。 きすけ:……はい? : 0:【ここで場面は、喜介の小屋に戻る】 : 詠:そ、それで、どうなったってんですか? あの獬さまと打ち合って…。さすがは喜介さんですねぇ。 きすけ:それは、お詠さんも、でしょぉ。 きすけ:…ぐ、ぐぅ【口の端から血がしたたる】 詠:あ、喜介さん! 【懐紙(かいし)を差し出す】 きすけ:ほっほ…。このところ、ときどきありましてなぁ。 きすけ:まぁ、今すぐどうというわけでなし、最後まで聞いてくだされや…。 : 0:【以下の獬との場面、喜介・四十歳】 : 獬:〈阿武兼役〉貴様が命、我らに預けよ。 きすけ:……はい? 獬:〈阿武兼役〉よいか、喜介。江戸の最恵寺に姫の墓所を用意してやる。貴様はそこの墓守を務めるがよい。 きすけ:……なぜです。 獬:〈阿武兼役〉貴様の腕はとくと見た。姫がごとき悲しきものを減らすため、我ら「竜胆」が動いておる。 きすけ:……「竜胆」?  獬:〈阿武兼役〉ふっ。なに、我もいずれ次代(じだい)の礎(いしずえ)となる身よ。 獬:あたら無闇(むやみ)にその命を散らす気であれば、いっそ我らに預けるがよい。 きすけ:…りん、どう。 獬:〈阿武兼役〉そうよ。いつになるかは、定かではない。貴様に「島」があったように、我らにも「里」がある。そこに面白い「小僧」がおるそうでな。まったく先が楽しみよ。 きすけ:…小僧さん、ですか。 獬:〈阿武兼役〉そのうち、貴様のもとへ「竜胆」を遣る(やる)。それが男か女かは分からぬが…。 獬:そのものに手ほどきをしてくれい。貴様の持てる力を、な。 きすけ:……姫さまは? 獬:〈阿武兼役〉貴様さえよければ、すぐにでも最恵寺に改葬(かいそう)させよう。あすこの墓所は広うない。また、檀家(だんか)にも滅多なものはおらぬ。 獬:〈阿武兼役〉貴様は、墓守として、今しばらく姫に仕えよ。 きすけ:……よろしい、承りましょう。姫さまのような、悲しいお方が減るのであれば。 獬:〈阿武兼役〉うむ。頼んだぞ。 : 0:【ここで場面は、喜介の小屋に戻る】 : 詠:なんとまぁ、そういうことですか。あたしが…このあたしが、その約定の「竜胆」なんだねぇ…。 詠:…ふふ。その獬(かい)さまはきっとご先代でしょうよ。なんだかうれしいねぇ。 きすけ:ほっほ。あのお方は、間違いなく「天下無双」でしたなぁ。ほっほ…ぐ、ぐぅ【血を飲み込む】。 きすけ:…さて、お詠さん、そろそろ参りましょうかのう…。うまい酒でしたわぃ。 詠:あぁ、そうだね。大きな大きな礎(いしずえ)だけどねぇ…、あたしゃ、それを越えてくよ。 きすけ:ほっほ。まっこと、たのもしいことですのう。  :  : 庵主:〈N〉最恵寺の住職は、ことの成り行きを知っている。喜介から「その時」を知らされ、金堂(こんどう)にやってきた。見届け人を務めるのだ。お詠は、いつもの装束に身を包み、その場に出た。対する喜介は普段着である。 詠:〈M〉…喜介さん、あんたの苦界(くがい)、ここらで終わらせないとねぇ。 きすけ:ささ、それでは始めましょうか。これ、ここに石があります。今から投げ上げますからのう。床に落ちたら合図ということですじゃ。 詠:はいよ。わかりましたよ。【刀を構える】 庵主:〈N〉投げ上げられた石は床に落ちた。しかし、二人はほとんど動かない。それでも二人は戦っていた。喜介の視線が動く。お詠の膝が落ちる。喜介が息を吐く。お詠が左へ半歩踏み出す。 庵主:動きにすればその程度のものである。それでも、張り詰めた空気がそこにある。住職は息をのんでいた。 きすけ:…お詠さん、あなたの天分(てんぶん)、恐れ入るほどですな。 詠:…ふふ、そうかい? きすけ:出会うた(でおうた)のは六日ほど前でしょう。 詠:…あぁ、そうだね。 きすけ:もうまるで別人だ。わたしが言うことをほとんど身に着けていなさる。 詠:…さて、どうだろうね。 きすけ:…わたしには、獬どののご期待に添う務めがありますからな。ここらで話はしまいですじゃ。 詠:うん。そうしよう。 きすけ:ほっほ。 庵主:〈N〉きすけが、ゆったりと前に進む。すばやくはないが、年を感じさせることのない、確かな歩みでお詠めがけて進んでいく。対するお詠も揺るがない。お詠の気も金堂中に満ちているかのようである。 庵主:二人の気迫にさらされ、住職の額に汗がにじむ。住職がふところから手ぬぐいを出そうとした、そのときであった。 詠:何っ!? 詠:〈以下、M〉はは…さすがは、喜介さんだ。この動きはちっと真似できないねぇ。 きすけ:…ほっほ。 きすけ:〈以下、M〉立派にお咲きなされ、「まっすぐに」伸びなされ。あなたに天井はありません。 庵主:〈N〉なんと、お詠の目の前に喜介が二人いた。たしかに二人の喜介がいるのである。 庵主:その二人が両脇に離れていく。一尺(三十センチほど)、二尺と次第に左右に距離をとる。 詠:〈M〉これは…両の目で追いかけていちゃあ、間に合わないね。 庵主:〈N〉一説に、馬は自分の真後ろのごく狭い部分以外すべて見えているという。それに対して人の視野はその半分と少し。 庵主:左右に開いていく喜介を目で追うことはできないと判断したお詠は、その両の眼を閉じた。 きすけ:〈M〉よいですぞ、お詠さん、それでよい。 きすけ:〈以下、セリフ〉…では。 庵主:〈N〉汗が止まらぬ住職の目の前で、喜介が動いた。左の喜介は跳躍し、お詠の頭上から刀を下げる。対する右の喜介はすさまじい速度で踏み込むと、対角線に切り上げた。 庵主:三人が交錯(こうさく)するかに見えたその一点で、お詠は身を下げ速度を上げて前に出る。そして、すぐさま体勢を変え、走り来た方に向き直った。 庵主:目を見開いたお詠が切りつけたのは、下側から切り上げた喜介であった。 きすけ:…ぐ、ぐぬぬ、ぐ、ぐぉ…。 詠:はぁ、はぁ、はぁ【息を荒げている】 庵主:〈N〉お詠が肩で息をしている。これまでに見せたことのない姿であった。それがこの勝負のすごさを物語っている。 庵主:喜介は首の裏側を切られていた。もう助かりはしない。だが、声は出せるのであろう、何事かを口走っている。 詠:…なんだい、喜介さん。 きすけ:【こと切れそうに】あぁ……姫さま。…はは、宮(みや)さままで…【入れられれば猫の声】 きすけ:…真菰(まこも)さま…お会い、しとう、ござ、い、ま、…し……【こと切れる】 詠:【涙を浮かべて】…よかったねぇ、喜介さん、姫さまに会えたんだねぇ…。 阿武:〈N〉喜介が繰り出したのは、彼の奥義。獬(かい)から手ほどきを受けて身に備えた必殺の一撃であった。 阿武:お詠は、視覚に頼らず、嗅覚と聴覚で乗り切った。窮地を脱したお詠が振り向きざまに確かめたのは、刃(やいば)のきらめき。 阿武:一度閉じ、再度開いた視界の端でわずかに明るく光るもの。お詠はそちらの喜介を的と定め、切りつけたのであった。 詠:…喜介さん、ありがとうよ。獬さまの思し召し、はっきりとこの胸に収めましたからね。 詠:だからね、安心して姫さまと、そっちで仲良くしてくださいよ……。  : 0:【以下、万葉集の短歌二首を交互に読みます。口語訳については読んでも読まなくても、どちらでもよろしいです】  : きすけ:ま薦(こも)刈(か)る 大野川原(おおのかわら)の 水隠(みごも)りに  きすけ:恋ひ(こい)来し(こし)妹(いも)が 紐解く(ひもとく)我(あれ)は きすけ:【万葉集 巻十一―二七〇三 読み人知らず】 庵主:恋ひ(こい)恋ひて 逢ひ(あい)たるものを 月し あれば 庵主:夜(よ)は こもるらむ(こもるらん) 今はあり待て 庵主:【万葉集 巻四―六六七 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)・改】 きすけ:真菰(まこも)を刈る、大野川(おおのがわ)の川原の水のようにこもって、ひそかに恋をしておりました。 きすけ:その恋しい娘の紐(ひも)を、私は今こそ解(ほど)きましょう。【服を脱がせる、の意】 庵主:長い間 恋いつづけて ようやっとお逢いしましたものを。まだ月が残っていますから、 庵主:きっと夜の闇は深いでしょう? ですから、今は、このまま二人でいてくださいませ。 庵主:【原文の「しましはあり待て」を「今はあり待て」とさせていただきました】 : 0:【最後のセリフは若い二人でお願いします】 : 庵主:…喜介さま、それでは参りましょう。…この手を取ってくださいますか。 きすけ:はい、姫さま、…いや、真菰(まこも)さま、長らくお待たせしました。 庵主:…本当に待たせすぎです【むくれる】。 庵主:今日このときをどれほど心待ちにしていたことか、じっくり聞いていただかなければ。 きすけ:ふふふ、よいですとも。お側を離れることは、もうないのですから……。 きすけ:真菰(まこも)さま……お慕(した)いしておりますよ。 庵主:…やっと…やっと言ってくださいましたね……。 庵主:うれしい。…うれしゅうございます、喜介さま……。  : 詠:〈M〉……あぁ、喜介さんが微笑んでいなさるねぇ…。ほんと、安らかなお顔だよ…。  : 阿武:〈N〉獬(かい)の課役(かやく)を果たし、喜介という礎(いしずえ)の分だけ大きくなれた。 阿武:「竜胆」が臨む『誂検(あつらえ あらため)』までは、あと三日。 阿武:喜介の手ほどきを受けたお詠は、そこで獬(かい)に何を示すことができるのか。 阿武:お詠と阿武にとっての「その時」が、すぐそこに迫っていた。 : : 0:これにて終演でございます。今作こそは一本完結にしようと思ったのです。 0:それはかなったのですが、またもや長くなってしまいました…。 0:次第に明らかになっていく「竜胆」をお楽しみいただけますと幸いです。 0:どうぞみなさまの「声劇ライフ」のお役に立てますように。

0:仕掛屋『竜胆』閻魔帳 〜的之伍〜〈墓守の恋〉 0:※注意※ 0:① 人物の性別変更不可(ただし演者さまの性別は不問です) 0:② 話の筋の改変は不可。ただし雰囲気のあるアドリブは大歓迎。 0:③ 場面の頭にある〈N〉の声質は役にこだわらずご自由にどうぞ。 0:④「庵主」「きすけ」の年齢が作中の場面により変化します。 0: 特に「きすけ」は分担されてもかまいません。 詠:詠(えい)。小間物(こまもの)・荒物(あらもの)よろず扱う『竜胆庵(りんどうあん)』店主。二十歳そこそこにして、ものぐさ&あんみつクイーン。 詠:『誂検(あつらえ あらため)』を間近に控え、獬(かい)直々の課題に取り組む。 阿武:阿武(あんの)。年齢不詳。詠に付き随う豪のもの。 阿武:闇に紛れて行動できる「竜胆の防人(さきもり)」。詠のお目付け役、兼、バディ。 阿武:商品や知識の蘊蓄を語らせたら熱くなる『竜胆庵』番頭としての一面も持つ。 阿武:※兼役に「主人」「獬(かい)」があります。 庵主:庵主(あんじゅ)。故人。最恵寺(さいけいじ)の一画に葬られている。 庵主:元は、とある公家に嫁いでいたが、跡継ぎを成せぬようになり離縁されてしまう。 庵主:故郷の東国に戻って髪を下ろし、「霞庵(かすみあん)」を結んで以来、庵主と呼ばれる。 きすけ:奇介・喜介。庵主が幼少のころより守役を務める。庵主の十歳上である。 きすけ:常に布で顔を覆い、人前に出ることを避けていた。 きすけ:老いた今、最恵寺で庵主の墓守をして過ごしている。 獬:〈阿武兼役〉獬(かい)。都において各監察(かんさつ)を統括する者。役職であり、個人名ではない。白拍子(しらびょうし)の装束に、白い翁(おきな)の能面(正式名は白式尉(はくしきじょう))をつける。 主人:〈阿武兼役〉庵主の父。公家との婚姻に何か含むところがあるようだ。 0:以下は人物など紹介 りん:シリーズ〜的之壱〜で詠に斬られた「左馬」の娘。 りん:九〜十一歳ほどを想定。的之参〈急(第3部)〉で初めて声を発した。 りん:東庵先生のもとで学んでいる。 村田東庵:シリーズ~的之参~に登場。村を巻き込む一大事件の発端となるも「竜胆」とともに乗り越えた。 村田東庵:医師としては抜群の腕をもちながら、村のそばで養生所を営んでいる。 村田東庵:おりんをあずかり、薬包紙(やくほうし)の扱いなど、さまざまを教えている。おりんの天稟(てんぴん)に気づいて以来、世話を焼いている。坂上清雅(さかのうえ きよまさ)は東庵の祖父。 最恵寺:さいけいじ。シリーズ~的之弐~にて名前のみ登場。 最恵寺:完全な創作であり、実在はしない。 最恵寺:※ネット検索ではヒットしておりません。 最恵寺:万が一、実在のお寺がございましたら、申し訳ございません。 最恵寺:こちらフィクションであり、実在のお寺とは何も関係ございません。 東藤澤家:ひがしふじさわけ。架空の公家。 東藤澤家:新家(しんけ)として江戸時代に入って創設されたものとする。 東藤澤家:庵主が嫁いだ先であったが…。 志手小路家:しでのこうじけ。架空の公家。 志手小路家:東藤澤家とは異なり、大臣家(だいじんけ)として上位の公家に名を連ねる。 志手小路家:シリーズ~的之参~に名のみ登場。 0:〈 〉NやM、兼役の指定。 0:( )直前の漢字の読みや語意。一部、かぶるセリフの指定。 0:【 】ト書 それっぽくやってくださると幸いです。 : 0:以下、本編です。 : 0:【以下の場面、庵主・十歳、奇介・二十歳】 : 庵主:きすけっ、きすけはいますか。猫が、宮(みや)がカラスにいじめられているのですっ。 きすけ:はいはい、姫さま、奇介(きすけ)はここにおりますよ。さぁさ、宮さまをお救い申しましょう。 庵主:早く! 宮のことをお願いします…どうか助けてください。 きすけ:こら、カァ公(こう)、うちの宮さまに何をするかっ!! 阿武:〈N〉今を去ること五十年。裕福な暮らしがうかがえる屋敷の中に、まだあどけなさの残る少女(おとめ)と、その守役(もりやく)を務める奇介(きすけ)がいた。 きすけ:ほら、姫さま、もう大丈夫です。宮さまをお抱きなさいませ。 庵主:【満面の笑みを浮かべて】はいっ。きすけ、どうもありがとう。 庵主:【猫に向かって】宮、怖い思いをさせてごめんなさいね… きすけ:〈M〉姫さまは、本当にお優しくていらっしゃる。…おれは、この人のために生きていこう。 庵主:はぁ…、よかった。きすけのおかげです。 庵主:あ、そうだわ、きすけ。 庵主:わたしは「姫さま」という名前ではありませんと、いつも言っているでしょ。 きすけ:えっ…、いや、その… 庵主:まったく、きすけはいつまでたっても素顔を見せないし、わたしの名前を呼んでもくれないのだから… 庵主:ね、宮もひどいと思いませんか? 【入れられれば猫の声】 きすけ:姫さま、それはご勘弁ください。主(あるじ)のお名前を軽々しく口にすることはできません。 庵主:もう…。そういうものなのですか…。 きすけ:ええ、そういうものなのです。 庵主:まったく、わたしは、いつかきすけに名前を呼んでもらいますからねっ! きすけ:あ、はは、ははは…おれには、無理ですよぉ。……はぁ。  : 0:【ここで場面は現在の竜胆庵にかわる】  : 庵主:〈N〉その日、『竜胆庵(りんどうあん)』のお詠(えい)のもとに、京の監察(かんさつ)を統括(とうかつ)する獬(かい)の書状が届いていた。『竜胆』としてのはたらきを検分(けんぶん)する『誂検(あつらえ あらため)』の日付が知らされたのである。 詠:江戸に来て初めての『誂検(あつらえ あらため)』か。 詠:こればっかりは、断れない、かねぇ、やっぱり。 詠:はぁ~あ、ぐうたらぐうたらしてたいのにねぇ…。 阿武:詠(えい)さま、ただいま戻りましたぁ! 阿武:今日も紙職人さんのところにおじゃましてきましたよ。 阿武:東庵(とうあん)先生にもおたずねして、敷紙(しきがみ)にふさわしい紙を漉(す)いていただくことにします。 詠:はいはい。阿武は、おりんのことになると、ほぉんと一生懸命だねぇ。【笑顔】 阿武:詠さま、そうは言いますけれどね。 阿武:おりんさんが東庵先生のところで手習いを始めて、はや半年ですよ。 詠:そうだねぇ。もう半年か、早いもんだよ。おりんにも「まっすぐ」が育っているといいねぇ。 阿武:それは東庵先生のご指導ですから。 詠:ははは、ちがいない。まぁ、紙のことはお前に任せるよ。 詠:それでねぇ、獬(かい)さまから文(ふみ)が届いているんだ。ちっと見ておくれ。 阿武:【居住まいを正して】はっ。拝見いたします。【書状を読む】 詠:江戸でも「お改め」を受けるときが来たねぇ。 詠:神無月(かんなづき・十月)の朔日(ついたち)だとさ。 阿武:ふむ…。あと十日ほど、ですな。 阿武:それで、此度(こたび)の課役(かやく)には、その、どういう意図があるのでございましょうか。 詠:さあねぇ。行けば分かるってところだろうさ。 詠:……ねぇ、阿武。「お改め」を断ることは(できないやねぇ) 阿武:【前の詠のセリフを少し食う・冷静に】できるわけがございませんでしょう。 詠:…はは。わかってるよ。しかしねぇ、最恵寺(さいけいじ)の墓守(はかもり)だよ? 阿武:詠さま。『誂検(あつらえ あらため)』は我らの行く末にかかわってくるのです。 詠:…あぁ。…よしっ、梅屋(うめや)であんみつを食べてから、最恵寺を覗いてみるかね。 詠:おりん、おりぃん、梅屋に行くよぉ。 庵主:〈N〉店先から、「はぁい」という元気のよい声が聞こえてくる。 庵主:奥にお詠か阿武がいる時に限ってはいるが、このごろはおりん一人に店を任せることも増えてきた。 庵主:礼儀正しく、愛嬌もあるおりんは客からもかわいがられている。 阿武:あぁ、おりんさん。私はどうせ留守番ですからね、私に代わって、詠さまが食べ過ぎないよう見ていてくださいましよ。 庵主:〈N〉阿武の言葉にうなずきながら、おりんは楽しそうに笑っている。 詠:それじゃあ、阿武、『竜胆庵(りんどうあん)』は任せたよ。 詠:おりんは夕刻(ゆうこく)までには戻すからね。 阿武:えぇ、わかりました。おりんさんが戻ってきたら、店を閉めて東庵先生のところにお連れします。 詠:うん。それじゃちょいと行ってくるよ。さ、おりん、おいで。 阿武:はい、いってらっしゃいまし。【見送ってから】 阿武:〈以下、M〉それにしても、「墓守(はかもり)の喜介(きすけ)を討(う)て」とは…。  : 0:【以下の場面、庵主・十三歳、奇介・二十三歳】  : きすけ:姫さまっ、姫さまぁぁぁ。 きすけ:〈M〉…このような雨降りの中、どこまで行かれたのか。 庵主:どうして? 宮(みや)…。どうしてお前は死んでしまったの…。わたしを置いて行かないで… 詠:〈N〉カラスの一件から三年が経った冬の朝。姫がかわいがっていた「宮(みや)」が死んだ。 詠:姫の呼びかけに応えることもなく、寝床の横で冷たくなっていたのである。 きすけ:姫さまぁ! どこにいらっしゃるのですか。姫さまぁぁぁ。 詠:〈N〉愛猫(あいびょう)を失った悲しさのあまり、姫は朝餉(あさげ)も取らず屋敷を飛び出した。 詠:寒い季節、折からの雨が降りしきる中である。 詠:奇介(きすけ)は一刻も早く迎えに行くよう命じられていた。 きすけ:いらっしゃったら、お返事をくださいませ、姫さまぁぁ。 庵主:【それほど大声ではない】きすけぇ。わたしはここです… きすけ:【馳せ来る】はぁ、はぁ、よかった…。ここに、ここにいらしたのですねっ。 詠:〈N〉宮(みや)を大事そうに手にしたまま、姫は冷たい雨にうたれながら、川べりにたたずんでいた。奇介は背後に立ち、そっと傘を差しかける。 庵主:【涙を浮かべながら】何が「よかった」ものですか…。宮(みや)が亡くなったのですよ…。 きすけ:…あぁ、はい。…申し訳ありません。 庵主:…ごめんなさい。今のはわたしが悪い、ですね。あなたの気持ちも考えず…。 庵主:でも、わたし、つらくて…。どうして「宮」は…このように冷たくなってしまったのですか…。 きすけ:姫さま、奇介めには物の道理はよう分かりません…。 きすけ:ですが、生きとし生けるものは、みないつか死ぬものなのですよ。 庵主:それはわかります。…でも、昨日まで元気にいたのに…。 庵主:かわいく鳴いて、わたしと遊んでくれたのですよ。体も大きくなってきて…。 きすけ:そうですね…。奇介も、親しいものとも、そうでないものとも、たくさん別れてきました。 庵主:…きすけ。 きすけ:おれは、そういう世界で育ってきましたからね。 きすけ:姫さまのお屋敷に拾われるまで、とてもお聞かせできないようなこともしてきました。 きすけ:ついこの間まで笑っていた仲間が戻ってこなくなる。あるいは、昨日まで健やかだった者の命(いのち)を絶つ。 庵主:きすけ、やめてください。 きすけ:ですから、いくら大切な相手であっても、その日はいつか必ず来ます。 きすけ:それに、別れは不意に訪れることもあると、よく知っているのです。 庵主:強いのですね、きすけは…。 庵主:わたしは、わたしが生まれる前のきすけが何をしていたのかは知りません。 きすけ:えぇ、そうですね…。 庵主:わたしが知っているのは、目の前のあなただけ。…側にいてくれてありがとう。 きすけ:【いきなりの言葉に我を失う】……はっ、いや、え、と。お、お役目ですから…。 庵主:そうですか。お役目、ですか。……きすけ、…このようなことを問うわたしを許してください。 庵主:……きすけは、わたしが死んでも、そのように強くいられるのですか? きすけ:えっ……。 阿武:〈N〉絶句する奇介(きすけ)に詫びる姫。 阿武:二人は、宮(みや)を川べりに埋(うず)めてやり、共に手を合わせた。 庵主:〈M〉宮、わたしのところに来てくれてありがとう。また、会いましょう…。 きすけ:〈M〉限りある命だからこそ、「これは」と思う方のために使いたいのです、姫さま。  : 0:【ここで場面は現在の最恵寺に戻る。以下の場面、喜介・七十歳】  : 詠:〈M〉『誂検(あつらえ あらため)』の意味はあたしだってわかってるさ。 詠:それにしたって、先立つ課役(かやく)がどうして「墓守を討て」なんて内容なんだぃ…。 庵主:〈N〉梅屋(うめや)でおりんとの時間を過ごしたお詠は最恵寺(さいけいじ)に向かっていた。 庵主:秋が目前に迫っているとはいうものの、昼日中(ひるひなか)の気温は高く、日差しはまだ強い。 詠:〈M〉お天道(てんと)さまのありがたさは重々承知の上だがね、さすがに暑いよ、こりゃ。ふぅ…。 詠:さて、と。最恵寺(さいけいじ)も久しぶりだ。 詠:境内(けいだい)脇(わき)の墓地の小屋ってのはどれだろうねぇ。 庵主:〈N〉参道から門をくぐり、中央の池を見渡す。平安の流れを汲(く)む最恵寺には、中央に大きな池を設(しつら)えた庭園がある。 庵主:そしてそれを取り囲むように回廊(かいろう)が設置され、正面の金堂(こんどう)につながるつくりとなっていた。 庵主:ひとたび祭りともなれば、出店(でみせ)でにぎわう境内にも、今はひっそりとした時間が流れている。 詠:〈M〉ふぅん。いつもながら雰囲気(ふんいき)のよいところだねぇ。 詠:この回廊も日陰をつくってくれて助かるよ。 詠:墓地は、と……、あぁ、左に進めばいいんだね。 庵主:〈N〉お詠は回廊から脇に逸(そ)れ、梅屋の包みを片手に墓地へと向かう。 庵主:この墓地には、限られた者しか葬られておらず、それほど敷地は広くない。 庵主:小屋はすぐに見つかった。小さくて目立ちはせぬが、ひときわ丁寧に手入れをされた墓石の傍(かたわ)らにそれはあった。 詠:ごめんくださいよ。 0:【水をかけられるお詠】ピシャっ 詠:わぁ! 0:【小屋の裏手から柄杓を手にした喜介が現れる】 0:【詠との場面における喜介は齢(よわい)七十を数えている】 きすけ:これはこれは、お客さまでしたかぁ…。お水、かかってしまいましたよね…ごめんなさいねぇ。 詠:いえいえ、ぼぉっとしていたあたしが悪いんです。気にしないでくださいな。 詠:それで、あなたが喜介(きすけ)さんですかねぇ。 きすけ:あぁ、はいぃ。 詠:あたしゃ、お詠といいます。『竜胆庵(りんどうあん)』ってしがない店(たな)をやってんですがね。 きすけ:ほぉぉ…「竜胆(りんどう)」、ですかぁ。 詠:【喜介の目を見て】ん? どうかされたかねぇ? きすけ:竜胆…。ありゃぁ、ええ花ですなぁ。 詠:あ、あぁ、そうですねぇ。あたしもそう思ってますよ。 きすけ:晴れの日にしか咲かないその花の色は美しく、根は生薬(しょうやく)にもなる。 きすけ:人の目も体も喜ばせてくれる、まことによい花です。この裏にも少々植えておりましてなぁ…。 詠:お詳しいんですねぇ。…「人々を喜ばせてくれる」…喜介さんと同じ字でございましょ。 きすけ:あれあれ? わたしの名前をどう書くか、それをご存じでいらっしゃるとは。 きすけ:いや、なに。わたしなぞ、そんな大層なもんじゃぁありません。ただの墓守でごぜぇますよ。 詠:〈M〉あたしの気の迷いかねぇ。 詠:確かに「竜胆」と聞いたこの人の目が光ったように見えたんだが… きすけ:それで、こちらにはどのようなご用向きでいらしたので? 詠:人づてに喜介さんのことを知りましてね。…少々相手をしてもらえないかと思いましてねぇ。 きすけ:ほっほ。まだ水やりと草取りが残っておりましてなぁ。…よろしいですかな、そのあとでも。 詠:はいよ。お待ちいたしましょ。 きすけ:ええものですなぁ…「待たれる」というのは。…少しでも早う戻りとうなる。 きすけ:ほっほ。こうも暑い日中(ひなか)に、若いお人をお待たせしちゃぁなりませんからなぁ。 きすけ:気張って参りましょぉ。 詠:無理はされないでくださいよ、あたしゃ平気ですからねぇ。 庵主:〈N〉ただの老人に見える喜介。その所作もゆったりとしたものである。 庵主:横目で喜介をうかがうお詠はしかし、なにか心にひっかかるものを覚えていた。  : 0:【以下の場面、庵主・十六歳、奇介・二十六歳】  : 阿武:〈N〉宮を亡(な)くしたあの日から、さらに三年。 阿武:ある月夜の晩、奇介(きすけ)は自らが敬愛して止まない姫君の部屋に呼ばれた。 阿武:ただの守(もり)が居室(きょしつ)に呼ばれることなどあろうはずがなく、すわ一大事(いちだいじ)かと、慌てて主人の元へ向かう。 きすけ:ご主人さま、奇介(きすけ)でございます。 主人:〈阿武兼役〉うむ。なんじゃ。 きすけ:それが、そのう…。姫さまが私をお部屋にお呼びなのです… 主人:〈阿武兼役〉…そうか。 きすけ:私のようなものが姫さまのお部屋にあがるなど、とんでもないことでございまして… 主人:〈阿武兼役〉いや、今日は、よい。奇介(きすけ)、娘の話を聞いてやれ。 きすけ:…えぇ? よろしいのですか。姫さまの話…はい、そのようにいたします…。 阿武:〈N〉主人の許しを得た奇介は、姫の待つ部屋へと向かう。姫の話とは何だろうか。 阿武:不安げな主人の顔も気になれば、空気の重さも気にかかる。 阿武:あまりよくない予感を胸に、襖(ふすま)の前へと歩みを進めた。 きすけ:姫さま、奇介(きすけ)にございます。 庵主:きすけ、入ってください。 きすけ:……う。 庵主:…きすけ? きすけ:ご主人さまには、立ち入りのお許しをいただいて参りました。ですが…。 庵主:何ですか、きすけ。そこに立ったまま話をするつもりではないのでしょう?  きすけ:…はい。 庵主:ふふふ。どうぞお入りなさい。 0:【襖をあけ、部屋へと入る】 きすけ:失礼、いたします…。 阿武:〈N〉部屋に入ると大ぶりの行燈(あんどん)の横、床の間(とこのま)の前に姫がいる。 阿武:明かりに浮かび上がるその横顔に、奇介は憂(うれ)いの色を見て取った。 きすけ:…姫さま、なにやら奇介めに、お話しされたいことがあるとか。 庵主:えぇ、その通りです。きすけ、あなたがわたしの元についてくれて、何年になりますか。 きすけ:姫さまの七つ参りにご一緒したのが初めでしたから… 庵主:あぁ、あのときは急に現れた覆面(ふくめん)姿のあなたを見て、わたしが泣いてしまって…。 庵主:…ふふふ。申し訳のないことをしました。 きすけ:いえ、そのようなことは… 庵主:それではちょうど十年になるのですね。 きすけ:はい。そうでございます。いやぁ…もう、十年ですか。 庵主:きすけ、これまでの歳月(としつき)、さぶろうて(意味・側で警護をつとめて)くれて、ありがとう。 きすけ:はい。……はい? 庵主:わたしは…。わたしは、嫁に行くことになりました。 きすけ:えっ…! いや、左様であります、か…。 きすけ:【ふと、気づいて】あぁっ! こ、これは。ま、誠におめでとうございます、姫さま。 庵主:わたしももう十六です。よい年のころ、ということでありましょう。 きすけ:【さらに気づいて】はっ! もしや、この奇介めに、暇(いとま)を出されるおつもりでは……。 阿武:〈N〉姫の話は婚姻(こんいん)に関するもの。 阿武:それであれば、めでたいはずのその話と、浮かない姫の横顔がどうも腑に落ちない。 阿武:そこから導き出した奇介(きすけ)の結論は「自分に暇を出す(いとまをだす・首にする)」というものだった。 庵主:いいえ、ちがいます。あなたのように尽くしてくれる者がほかにおりましょうか。 きすけ:【どこかほっとしながら】ありがたいお言葉です。しかし、それでは…。 きすけ:もしや、…いや、このようなこと、不躾(ぶしつけ)か… 庵主:…よいのです。おっしゃい、きすけ。 きすけ:いや、姫さまがお相手に対して何かご不安でも…おありなの、か、と…。 庵主:わたしは京(みやこ)に参ります。お相手はお公家さま。 庵主:新家(しんけ・江戸時代に新たに設立された公家)の東藤澤(ひがしふじさわ)さまとおっしゃいます。 庵主:若様の人と成りはもちろん存じ上げませんが、これはお家(いえ)のためでもあるのですから…。 きすけ:それでしたら、どうしてそのように浮かない顔をなさるのです…。 阿武:〈N〉西から吹き寄せる風が雲を送り込み、月明かりも薄れていく。 阿武:行燈(あんどん)頼りの部屋の夜、姫はなかなか話を切り出せずにいた。  : 0:【ここで場面は現在の竜胆庵に戻る】  : 詠:阿武ぉ! 阿武はいるかい? 阿武:これはこれは詠さま。お帰りなさいませ。して、最恵寺の方はいかがでありましたかな? 詠:それがねぇ。喜介(きすけ)さんは、どこからどう見たって、立派な墓守(はかもり)のじいさまだったよぉ。 詠:まぁ…病で死線をくぐりぬけて来られたようではあったがね。 阿武:死線を…。そうですか。それで、この時分(じぶん)まで何をなさっておいでだったので? 阿武:よもや、打ち合ってきたわけではございませんでしょう。 詠:いきなりそんなことをするもんかね! 阿武:ははは。まぁ、そうですわな。 詠:まず、小屋に声を掛けたんだが、誰も居なくてね。 詠:留守か、と思ったときに、横から水をかけられちまってさぁ。ははは。 詠:柄杓(ひしゃく)を持って謝ってきたのが、その喜介さんだったのさ。 阿武:ほぉ、水を。それは涼しげでよろしゅうございますな。 庵主:〈N〉軽口をたたきながらも、思案顔の阿武。そんな阿武をよそに、お詠は話を続けていく。 詠:そのあと、喜介さんの作業が終わるのを待ってから、二人で梅屋の団子を食べてね。 阿武:えっ?! 詠さま。喜介どのを連れ出したのですか? 詠:いやだねぇ、何言ってるのさ。手土産(てみやげ)だよ、手土産。 阿武:まったく、詠さまときたら、甘味(かんみ)や菓子ばかり…【ぶつぶつ】 詠:まぁいいじゃぁないかぁ。それでねぇ、「梅屋のあんみつを食べるのは、あたしの趣味みたいなもんでしてね」って言ったところから話が広がってねぇ。 阿武:あぁ、喜介どののご趣味の話にでもなったのですかな。 詠:そうなんだよ。喜介さんは「囲碁(いご)」が趣味らしくてねぇ。 詠:三回ほど勝負してもらったんだが……。あはは。ぜぇんぶ負けちまったよ。 阿武:そうですか。詠さまが完封されるとは、喜介どのはよほどお強いのですね。 詠:あぁ、それは間違いない。ただねぇ、阿武。その強さがちっと妙なのさ。 詠:とてもじゃないが、「趣味」なんてもんじゃぁないよ、あれは……。 阿武:…妙、とは? 詠:なんだかわからないんだがねぇ、しっくりいかないんだよぉ。 詠:囲碁の対局中、こちらの手のうちを見透かされているような気がするのさ。 阿武:…詠さま。喜介どのは、あの獬(かい)さまが「課役(かやく・課題)」として指定してこられたお相手ですよ。ただ者ではないに決まっているでしょう。 詠:まぁ、そうだよねぇ。 阿武:それに、大切なことを忘れていらっしゃるのではありませんかな? 詠:ん、何だい? 大切なことって。 阿武:もう! 詠さまに気づかれずに水をひっかけられる人間が、この世にどれだけいるというのですか! 詠:【はっとして】そうか、それだ! 詠:喜介さんに会ってから、何かがずっとひっかかっていたんだが…。 詠:確かにねぇ、あのときゃ、気配の「け」の字も感じなかったからねぇ。 阿武:喜介どのが、まったくの無意識だったか、はたまた、意識して気配を消していたか。 詠:あぁ、そりゃぁ後者だろうね。 阿武:ええ、そうでしょうとも。 阿武:それで、なぜ、獬(かい)さまが「課役(かやく)」として仰せになったか、何かつかめましたか。 詠:あぁ、今ので何となくわかったよ。 庵主:〈N〉胸のつかえがとれたのであろう。お詠に持ち前の明るさが戻っている。 庵主:とは言え獬(かい)の要求は「喜介を討つ」こと。 庵主:喜介もまた強者(つわもの)であろうと推し量ることはできても、その脈絡はいまだつかめないままである。 詠:とりあえず、明日も夕刻に出向いてくるよ。梅屋のあんみつでも持っていくかねぇ。ふふふ。 阿武:詠さま! 本日も召し上がったのでしょう??  : 0:【ここで場面は、庵主の部屋に戻る】 : 庵主:…ふふふ。何ですか、きすけ。布の下でお鼻がひくひく動いているようですよ。 きすけ:…え、あ、あぁ。ご無礼を…お許しください。 庵主:いや、よいのです。それで、どうしました? わたしの部屋が何かにおいますか? きすけ:いや、とんでもない! 逆です…。姫さまのお部屋は魚くさくならないのだな、と。 庵主:え? あぁ、行燈(あんどん)ですか。わたしは、菜種油(なたねあぶら)を使わせていただいていますからね。 きすけ:そう、ですよね。はは、それはそうですよね。姫さまともなれば、我らのように灯油(ともしあぶら)に鰯(いわし)など使われませんよね。 庵主:きすけは、素直ですね。先ほどまで部屋の前で緊張して立ち尽くしていたのに。ふふふ。 きすけ:あ、これは重ね重ね…。非礼をお詫びします…。 庵主:いいえ、きすけ。非礼を詫びねばならないのはわたしの方です。 庵主:…よいですか。よく聞いてください。 きすけ:…はい。 庵主:わたしは、きすけに、京にも着いてきてほしいのです。 きすけ:【顔を明るくして】それは、もちろんでございますとも。 庵主:道中の警護、という意味ではありませんよ? 庵主:東藤澤(ひがしふじさわ)の家には、ご正室(せいしつ)がいらっしゃいます。 庵主:わたしはね、二番目の妻として京に上(のぼ)るのです。 きすけ:あ、あぁ、そうなのですか。 きすけ:わたしにはお公家さま、お武家さまのご婚礼などよくわからぬのですが…。 庵主:そして、新家(しんけ)である東藤澤さまは、そこまで裕福に過ごされているわけでもありません。 きすけ:あの、姫さま、話がよく見えませぬ… 庵主:わたしは京のはずれに小さな家をあてがわれ、そこで暮らすのです。 庵主:女中(じょちゅう)として、うちから「およね」と「おひさ」についてきてもらいます。 きすけ:お二人が、姫さまの身の回りのお世話をなさるのですね。 庵主:はい。わたしがいただくのは三人扶持(さんにんぶち)。あと一人を、あなたに頼みたいのです。 庵主:京での、わたしの暮らし向きを守っては、もらえませんか…。 阿武:〈N〉言いながら、姫の顔は翳(かげ)っていく。 きすけ:はい! ということは、これからも姫さまをお側でお守りすることができるのですね。 庵主:それは…そうなのですが…。あなたは話の意味が分かっているのです、か…? 阿武:〈N〉姫さまが言いたいのはこうであった。 阿武:公家の妻として京に上(のぼ)る。しかし、そこでの暮らしは決してゆとりのあるものではない。 阿武:その中で、いつ明けるとも知れぬ奉公を奇介(きすけ)に強いることになる、と。 阿武:公家の妻とは言え、新家(しんけ)の若様の側室。裕福な武家からの支度金(したくきん)目当てとも見られうる婚姻に、その人生を差し出せと、つまりはそう述べているのである。 きすけ:もちろんでございます。京に行かれてからも、不肖(ふしょう)この奇介(きすけ)が、姫さまをお守りいたすと、そういうことでございましょう? 願ってもないことです【うれしそうに】。 庵主:…きすけ、よくお聞きなさい。あなたを「待つ人」はおらぬのですか?  庵主:わたしと共に京に上るということは、いつ坂東(ばんどう・関東地方のこと)に帰れるとも知れぬのですよ? 庵主:あなたには、好いた女子(おなご)の一人もおらぬ、と、そう言うのですか… きすけ:「待つ人」と言われましても…。姫さまは京にお上りになり、この奇介も京で暮らす。 きすけ:それでなんの問題がありましょうか? 庵主:【目に涙を浮かべて】…きすけ…。本当によいのですか…? きすけ:なんとまあ、姫さま。おめでたい話の席で、涙など、お見せになるものではないですよ。 きすけ:……はぁ。それでは、わたしも三度目のご無礼をはたらきましょう。 庵主:三度目の、無礼…? きすけ:幼きころの姫さまは、やれ「素顔を見せろ」だの、やれ「名前を呼べ」だのと、ことあるごとにおっしゃっていました。おぼえていらっしゃいますか?【笑顔で】 庵主:…えぇ。おぼえております。 きすけ:それが、このごろはそのようなことを仰せにならない。家臣ですらない、下僕(げぼく)の身では、姫さまのお名前を口にすることはできません。ですから、それは当然です。 庵主:きすけ…。 きすけ:ですが、「素顔」に関してはそうではありません。見たいなら見たいと言われればよいのに、あるころから、ぱたりと口にされなくなった。 庵主:あ…。はい、そうですね…。 きすけ:きっと、どこかでお知りになったのでしょう、この顔のことを。 庵主:それは……。 きすけ:ご無礼、平(ひら)にご容赦くださいませ【言いながら、顔の覆面をはぎとっていく】 きすけ:ははは。昼間でのうてようございました。行燈(あんどん)に照らされるくらいなら、まだしもかわいいものでしょう。 庵主:……きすけ。 きすけ:わたしは島にいたころ、痘瘡(とうそう・天然痘のこと)に罹(かか)りましてなぁ。 きすけ:顔だけでなく、胸や腹、尻にまで痘痕(あばた)が広がっておるのです。 阿武:〈N〉痘瘡、いわゆる天然痘(てんねんとう)は致死率の高い病として知られる。それは患者のうち、五割方が亡くなるほどであった。 阿武:仮に運よく治癒したとしても、膿(うみ)を溜(た)めた膿疱(のうほう)が体の組織を壊し、そこが痘痕(あばた)として残ってしまう。時に大流行を起こす、大変恐れられた病である。 庵主:…そうだったのですね。きすけ、わたしは何ということを言うておったのでしょうか。 庵主:…許してくださいね。許してくださいね…。 きすけ:姫さま、何を言われますか。 きすけ:雇い主の前で顔を覆っているこちらの方こそお詫びせねばならぬのです。 きすけ:ご主人さまは、このような奇介を雇う、とそうおっしゃった。この御恩は、海よりも深う(ふこう)ございますよ。 庵主:それは、きすけが、確かな力を備えているからでしょう。 庵主:きすけ、もっと近う(ちこう)寄ってくれますか? きすけ:いや、それはできませぬ。 きすけ:姫さまのせっかくの門出を穢(けが)してしまうことになりますから…。 庵主:きすけ、それはいけません。みずからを「穢れ(けがれ)」のように言うてはなりませんよ…。 庵主:よいから、行燈の前まで来てください。 きすけ:…ん、ううん。【観念してにじりよる】 庵主:【はっとして】きすけ、お口が… きすけ:ははは、そうなのです。痘痕(あばた)に加え、島での修行中、顎(あご)を砕かれましてなぁ。 庵主:…痛かったでしょうに…。 きすけ:なに…もう、ずいぶんと昔のことにございますよ。 きすけ:ですから、このように醜いわたしを待つ者など、おらぬのです。 庵主:!? きすけは、醜くなど…… きすけ:姫さまは昔からお優しいですからなぁ。その心根(こころね)もお美しい…。 きすけ:わたしは、口がこのように曲がっておりますからね、せめて性根は「まっすぐ」でありたいと、そう願っておるのです。 庵主:【ゆっくりと立ち上がり、障子窓を開ける】 庵主:見えますか、きすけ、あの月が。 阿武:〈N〉しばらく厚い雲に覆われていた月が、いつの間にやらその姿を現している。 阿武:やわらかな月明かりが部屋の中に差し込み、二人を照らしていた。 庵主:信じられますか? 海の向こうの南蛮(なんばん)では、月の素顔を見たものがおるそうです。 きすけ:…月の、素顔? 庵主:はい。あのように丸く輝くお月さまも、そのお顔は、ごつごつとした岩のようである…。 庵主:…そのように言われているとか。 きすけ:えっ? それはないでしょう…。 きすけ:あのようにてかてかと、きれいに光っていらっしゃるのですから。 庵主:ええ。そう見えますよね。 庵主:ところが、実際には土と岩でできていて、その表面には、くぼんだ土地もたくさんあると、そう聞きました。 きすけ:ははは…。その話が真(まこと)であれば、奇介めの素顔と同じですなぁ。はっはっは。 庵主:そうなのです。…それであれば、きすけ。 庵主:あなたのお顔だって、見るものの心持ち次第でしょう。 庵主:……ちがいますか? きすけ:……姫さま。 庵主:きすけ。あなたのお名前、字はどのように書くのでしょう? 庵主:【文箱(ふばこ)から墨と筆を出し、きすけに差し出す】 庵主:すこし墨をすりますから、ここに書いてみてください。 きすけ:…はい。「奇・介(き・すけ)」と、このように書きます。 庵主:これは、どなたの名付けですか? きすけ:島の棟梁(とうりょう)です。 庵主:…そう。【意を決したように】 庵主:それで、これにはどのような由来があるのですか。教えてください。 きすけ:それは……。 きすけ:それは、奇介めの顔が奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)であるからと、棟梁が…。 庵主:何が奇妙なものですか。それは病(やまい)に打ち勝った何よりの証(あかし)。 庵主:戦(いくさ)に名誉傷(めいよきず)があって、どうして病にないと言えましょう。 庵主:わたしは、あなたが生きていてくれて、うれしく思いますよ。 きすけ:…姫さま、なんともったいない……。 庵主:【きすけの手から筆をとり、紙に文字を書きつける】 庵主:…きすけ。たった今より、あなたはこう名乗りなさい。 庵主:「喜介(きすけ)」と。「喜」(き)は「よろこび」。「介」(すけ)は「助ける」という意味です。 庵主:…わたしは悪い女子(おなご)ですね。 庵主:喜介の半生(はんしょう)を縛り付けておいて、なお、あなたに助けてもらえることを喜んでおるのですから。 きすけ:…姫さま。そ、それはわたくしも! きすけ:姫さまのお側にお仕えできることが、この上ない喜びなのです。 庵主:【ほほえみながら涙を浮かべる】 庵主:喜介、本当によいのですね。 庵主:わたしのようなものの側仕え(そばづかえ)でその身を終えると、そう言うのですね。 きすけ:はい。喜介に二言はありません。名づけの恩人である姫さまに、誠心誠意お仕えします。 阿武:〈N〉こうして「奇妙の奇介」は、「喜びの喜介」として生まれ直すこととなった。 阿武:それからも、まさに言葉の通り姫に忠誠を捧げたのである。 阿武:姫の父親は、喜介が娘の願いを受けたと聞いて、なぜか手を叩いて喜んだという。 阿武:…しかし、京での生活は、決して楽なものではなく、何より、姫の命を縮めていくことになる。  : 0:【ここで場面は現在の最恵寺に戻る。以下の場面、喜介・七十歳】  : 庵主:〈N〉最恵寺の境内には、ほんのりと秋を感じさせる風が吹き渡っている。 庵主:中島(なかのしま)をそなえた大きな池が広がる庭園からは、ほっと一息つける涼やかさが漂ってきていた。 庵主:そこへ、またもや梅屋の包みを持ったお詠が姿を見せる。 詠:〈M〉よっし。今日は喜介さんに勝たなきゃねぇ。 詠:一度も勝てないままで帰るってのだけは受け入れられないよ、まったく。 詠:〈以下、セリフ〉喜介さん、喜介さんはいなさるかい? 庵主:〈N〉今日も小屋の中に喜介の姿は無い。かと言って、周囲に作業をしているような気配もない。 庵主:お詠が墓の周りや小屋の裏手を見ていたとき、それは繰り返された。 0:【水をかけられるお詠】ピシャっ 詠:わぁ! またっ!! 0:【お詠の背後から柄杓を手にした喜介が現れる】 きすけ:あぁっ! これはお詠さん…、いつもいつもごめんなさいねぇ…。 きすけ:こちらのお墓さんを冷やしてさしあげようとしたんだが…面目ないこって。 詠:いやいや、喜介さん、どこから出てきなすったんだい…? 詠:しかも、梅屋の包みはしっかりどこも濡れちゃあないし…。 きすけ:おや、また差し入れをいただけるのですか。うれしいですなぁ。 詠:喜介さん、今日も対局をお願いしますよっ。負けませんからねぇ! きすけ:ほっほ。お詠さんは威勢がよくてよいですのう。 きすけ:…でもねぇ、お詠さん。あなた、「もう負けている」でしょう。 詠:なにさ、喜介さん、勝負はやってみなきゃ、わからないだろう? きすけ:ほっほ…。さてさて。  :  : 庵主:〈N〉お詠はこの日も終ぞ(ついぞ)喜介に勝てず、うなだれた様子で『竜胆庵』にもどってきた。めったに見ることのない、肩を落としたお詠の様子に、おりんも心配顔である。 阿武:それで、詠さま。今日も今日とて一度も勝てなかったのですか。 詠:…うん。 阿武:しかも、二度までも喜介どのに気がつかず、水をひっかけられてしまった、と。 詠:…そ、そうだけどね。何さ、阿武、やけに逆なでしてくるじゃぁないかっ。 阿武:さらには、対局の前に「あなたは『もう負けている』」と、そう言われた。 詠:あぁあぁ、そうだよそうだよ! あたしの負けを言い当てられちまったよ…はぁ。 阿武:ふむ。 詠:…どうしたってのさ、阿武。 阿武:…いえ、私にも獬(かい)さまの思し召しが何やら見えてきたように思いましてな。 詠:おっ! いいねぇ、阿武。あたしの考えと照らし合わせてみようじゃあないか。 阿武:いやさ、その「負け」は囲碁(いご)の話ではございませんでしょうな。 詠:……あぁ、やっぱり、そうかい。 阿武:よい機会です、詠さま。そのまま喜介どのに、とことんお負けなさいまし。 : 0:【以下の場面、庵主・十六歳。喜介・二十六歳。前の場面と変わらず】 : きすけ:姫さま、よいお輿入れ(おこしいれ)ができましたな。 きすけ:東藤澤さまも、ご主人さまからの引き出物をたいそう喜んでいらっしゃいました。 庵主:それは、そうでしょう……。あれだけ…【真意を最後まで説明しない】 庵主:ふぅ…。ふふ。喜介はやっぱり素直でよいですね。【ほほえむ】 阿武:〈N〉東藤澤家(ひがしふじさわけ)に嫁いだ姫は、京の外れに住まいを得た。 阿武:姫と「およね」と「おひさ」、そして喜介の四人暮らしが、この日、始まったのである。 阿武:側室として迎える初めての夜。身の回りの世話と酒の支度を終え、「およね」と「おひさ」は屋敷を出て行った。 きすけ:姫さま、どうしてお二人は屋敷を出て行かれたのです? 喜介はどうすればよろしいですか。 庵主:ふふふ。「屋敷」というほどの広さでもないでしょうに。 庵主:もうそろそろ若様がお見えになりますからね、それで少し離れた宿に下がったのです。 きすけ:あぁ左様でしたか。それで、喜介はいかがいたしましょう。 庵主:あなたは、分かっていてそう言っているわけではないのですよね… きすけ:へ? …な、なにかご不興を買うて(こうて)しまいましたか【焦る】 庵主:いえ、よいのです。これもかねて分かっていたこと…。 庵主:喜介、わたしと一緒に若様を迎えてください。 きすけ:はい。もちろんでございます。 庵主:若様がお見えになったら、お世話はわたしがいたします。 庵主:あなたは寝ずの番(ばん)を、入り口脇で務めてください。 きすけ:仰せの通りにいたしましょう。そのために夕方まで寝かせていただいたのですから。 庵主:それと……。ひとつ、願いがあるのです。 庵主:何事もなければ、夜、屋根裏や床下で警護するのは遠慮してもらえませんか? きすけ:え? あ、はい。ですが姫さま、万が一のときは大きな声でお知らせくださいませよ? 庵主:【ほほえむ】はい。そうします。 庵主:この広さですから、ね。たとえ何かあったとしても、喜介が助けてくれるでしょう? きすけ:それは当然ではございませんか。 きすけ:…お、若様のお乗物(のりもの・上級の駕籠(かご))がお見えのようですぞ。 阿武:〈N〉幸か不幸か喜介には、男女の営み、心の機微など分かるはずもない。姫さまの心遣いは、喜介のためか、はたまた、おのれのためか。 阿武:ともあれ、東藤澤の若様を迎え、初めての夜は更けていく。 阿武:こじんまりとした屋敷だからこそ、喜介のような手練れ(てだれ)がいれば、不意を襲われることはない。確かにそれは正しかった。……喜介がそこにいたならば。  : 0:【ここで場面は現在の竜胆庵に戻る】  : 庵主:〈N〉この日、江戸は午後から雨になった。 庵主:日差しを集めた地面の熱を、雨がじんわりと癒していく。 庵主:お詠は傘を差し、瓢箪(ひょうたん)の酒入れを携えて、またも最恵寺に出向いていくようである。 阿武:詠さま。今日もしっかりと負けていらっしゃいましよ。 詠:なんだいなんだいっ。もそっと応援してくれてもよいだろうよぉ! 阿武:ははは。まぁ、今日は雨ですからね、不意打ちで水をかけられることもありますまい。 庵主:〈N〉阿武とお詠の様子を見て、おりんは楽しそうに笑っている。 庵主:「がんばって、お詠さん!」…おりんの溌剌(はつらつ)とした声援を浴び、洋々として喜介の元へ赴いたのであった。…だが。 詠:喜介さん、いなさるかね~。こんにちはぁ~。 庵主:〈N〉不意打ちを警戒したのか、お詠は小屋をやや遠巻きにして声を掛けている。 詠:喜介さん、いなさるんだろう。今日はお酒をお持ちしましたよぉ。 詠:〈以下、M〉えっへっへ…。確かに阿武の言う通り、この雨じゃ、水で不意打ちはできないだろうよ。 庵主:〈N〉「酒」という言葉に反応したのか、大木の陰から喜介が姿を現した。 庵主:見ると、片方の手には水桶(みずおけ)、もう一方には柄杓(ひしゃく)という、いつものいで立ちをしている。 詠:〈M〉へ? へへへ? この雨降りの中、水を撒(ま)いてたってのかい?? きすけ:おぉ、お詠さん、こんにちはぁ~。こんな雨の中をご苦労なことですなぁ。 きすけ:わざわざ、「参った」と言いに来られるとはぁ~。 詠:〈M〉にゃ、にゃにおぉぉぉ…。 詠:〈以下、セリフ〉いや、喜介さん、それはやってみなくちゃ分からないでしょうよぉ! きすけ:ほっほ。それが手前には分かるんですなぁ。 きすけ:おっと、お詠さん。今日は甘味(かんみ)ではなく、酒ですか。 詠:そうですよぉ、喜介さん。たまには、「これ」がいいかと思ってねぇ。 きすけ:うれしいですなぁ~。いやなに、甘いものもよいですがのぉ。酒もまた好きでしてなぁ。 きすけ:…お。お、お、お? ひょっとして、その瓢箪(ひょうたん)の中に甘露(かんろ・酒の比喩)が! 庵主:〈N〉お詠が持つ酒入れに目をくぎ付けにされた様子で、喜介がすたすたと進んでくる。 庵主:お詠も、酒入れの瓢箪を左右にぶらぶらさせながら、喜介を待っていた。そこへ…。 0:【水をかけられるお詠】ピシャっ 詠:わぁっ! 顔ぉっ!? きすけ:ほっほっほ。今日は雨降りですからなぁ。なにより、包みではなく酒入れをお持ちでしょぉ。 きすけ:濡れてもよいではありませんか。ほっほ。 詠:なんだいなんだい。喜介さん、あんたは一体何者なんだい! 詠:正直に吐かないと、このお酒はあげないよっ! 庵主:〈N〉お詠が文句を口にしながら、喜介に近づいたそのとき…。 きすけ:…はい、死にました。……ほっほ。 庵主:〈N〉いつの間に持ち替えたのか、柄杓の柄(え)が、お詠の喉元に向けられていた。 庵主:ひとかけらの殺気も見せず、笑顔を絶やすこともなく、喜介はお詠ほどの達人を手玉に取っている。 詠:…ま、参りましたよ。 きすけ:ね、言ったでしょぉ。「参った」と言いに来られたんですか、と。 きすけ:さぁさ、気を取り直して、気を取り直して。 きすけ:いつものむさいところで悪いですが、酒を傾けながら「対局」といきますかなぁ。ほっほ。 庵主:〈N〉先日、『竜胆庵』で阿武と話したことが現実味を帯びてきた。 庵主:お詠は、この冴えない老人から得るものが、際限なくあるように思えてきたのである。 庵主:『誂検(あつらえ あらため)』まで、あと六日。お詠の受ける品定めが続いていた。 : 0:【以下の場面、庵主・十九歳、喜介・二十九歳】  : 阿武:〈N〉東藤澤家(ひがしふじさわけ)に側室として嫁いでから三年が経った。 阿武:まだ世継ぎには恵まれないが、若様の寵愛(ちょうあい)を受けている。 阿武:古来、畿内(きない・都の周辺)の者からは、山の者よ、犬よ猿よと蔑(さげす)まれてきた坂東(ばんどう・関東地方)出身の姫である。公家の若様には、その気取らぬ気性と飾り気のない美しさが新鮮に映ったのかもしれない。 きすけ:…姫さま。なんだか、お帰りになるときの若様は、お顔が暗う(くろう)ございませんか。 庵主:そうですね…。「お公家」なんてお仕事も、きっと息が詰まるものなのでしょう。 庵主:若様も、わたしの前では屈託(くったく)なく笑ってくださるようになりました。 きすけ:【姫のことばに少し胸をいためて】…そう、でございます、か。 庵主:公家も武家も同じ。周囲の目を気にして、自由にふるまうことができないのですよ…。 庵主:〈以下、M〉…それはわたしも…。 きすけ:あのう、姫さま、ひとつご相談があるのですが…。 庵主:あら、なぁに? あなたからそのようなことを聞くのはめずらしいわ。 阿武:〈N〉このごろは京でも江戸でも「囲碁」がもてはやされている。江戸城でも「御城碁(おしろご)」が催され、将軍お目見えの下で対局がなされていた。 阿武:町中(まちなか)に「碁会所(ごかいしょ)」という有料集会所が生まれるほどの人気であった。 阿武:それは公家の社交界においても同様。 阿武:風のうわさで喜介の腕の程を聞いた若様に、本宅での対局を望まれていたのである。 庵主:まぁ、よかったじゃない!  庵主:喜介の力が、わたし以外の方にも分かってもらえたようで、うれしく思いますよ。 きすけ:…あ、ありがとうございます。ですが、ここを空けるのは、問題がありはしませんか。 庵主:何を言うのです。あなたに日が当たるときが来たのでしょう。 庵主:かまうことはありませんから、若様のところへ行って差し上げなさい。 きすけ:…はぁ。そう、ですか。 阿武:〈N〉姫さまは純粋にうれしかった。 阿武:若き頃より自分に付き従い、その生まれと育ちが相まって、つねに日陰の存在であった喜介。 阿武:その喜介の研鑽を積んだ力の一つが、世に知られようとしていたのだから。 きすけ:…では、次にお声掛けをいただいたら、東藤澤さまのお屋敷に出向いて参ります。 庵主:はい、そうなさい。…あ、そうです、喜介。若様相手とはいえ、遠慮はいらないのですよ? 庵主:全力でお相手をして差し上げなさい、いいですね。 きすけ:ぜ、全力、ですか。ははは…では、そういたしましょう。 阿武:〈N〉後日、屋敷に出向いた喜介は、生来の正直さか、手抜きなどせず若様を打ち負かした。 阿武:あまりの腕に舌を巻いた東藤澤の若様は、自分の出世の足掛かりとばかりに、周囲の公家に喜介を紹介して回ったのである。 阿武:喜介はいつしか「覆面の棋士(ふくめんのきし)」として、その名を知られていった。 庵主:…本当に、よかったですね、喜介。 阿武:〈N〉しかし、喜介が世に出るにつれ、姫さまを警護する時間は減っていく。 阿武:ところが、若様の寵愛ぶりが減ることはない。ここに大きな落とし穴があったのだ。 阿武:…その日のことを、喜介は悔やんでも悔やみきれずにいる。  : 0:【ここで場面は現在の竜胆庵に戻る】   : 庵主:〈N〉この日、お詠は夜遅くになって帰ってきた。 庵主:『竜胆庵』に戻ったお詠が、阿武に昼間のできごとを話している。 阿武:ほう…、詠さまほどの剛の者を返り討ちに、ですか。 庵主:〈N〉お詠の話を聞いた阿武はいささか驚いている。 阿武:かなりの使い手でいらっしゃるのだろう、とは思ったのですが、よもやそれほどとは。 詠:そうなんだ…。あたしゃ、柄杓(ひしゃく)につらぬかれちまったんだよぉ、この喉(のど)を。 庵主:〈N〉お詠の話を聞いて、おりんが飛び上がった。「のど?! のど、だいじょうぶですか、お詠さん」とあわてている。 詠:なんだい、おりん。いいねぇ、おりんはかわいいねぇ。…ほら、のどはなんともないだろう? 阿武:おりんさん。詠さまはここのところ、囲碁の勝負でまったく歯が立たなくてねぇ。 詠:…ぐすん。 阿武:それで、このようにうなだれていらっしゃるのですよ。 詠:おりん、そうなんだ。このお詠さんが、一度も勝てないんだよぉ…。 阿武:だから、心配はいりません。おりんさんは、そろそろお休みくださいね。 庵主:〈N〉ほっとした様子のおりんは、「は~い」と一つ返事をして、奥の間へと下がっていった。 阿武:…それで、詠さま。ここのところの詠さまはどうやら「居着き」にありますな。 詠:い、つ、き、…。そりゃ一体なんだいね。 阿武:そうですか、ご存じありませんか。 阿武:…いやはや、ではこれまでにお見せになった戦いぶりは、天性(てんせい)のものということ。 阿武:ははは。それはそれで末恐ろしいですな。 詠:…もう。からかってないで、わかりやすく教えておくれよ。 阿武:詠さまは剣術以外に、何を修めておいででしたかな、座学以外では。 詠:あぁ、剣術に、槍術(そうじゅつ)、柔術、組打ち術に、弓術、馬術、それから忍びの術のイロハと水練(すいれん)。まぁ、ざっとそんなところかねぇ。 阿武:いやぁ、多芸でいらっしゃる。それでおいて「居着き」は初耳、ですと? 詠:阿武ぉ、いじめないでおくれよぉ…。それに「多芸」は、お前も似たようなものだろう? 阿武:はっはっは、このような機会なかなかあるものではありませんからな、(せっかくの…) 詠:【阿武のセリフに食い気味に】あぁぁんのぉぉぉぉ? 阿武:え、ははは。いやですなぁ、詠さま、冗談ではございませんか、冗談! あは、あははは。 詠:…それで。その「居着き」ってのはなんなんだい? 阿武:えぇ。武道において、そのような概念がございましてね。 阿武:それは必勝ならぬ、必敗(ひっぱい)の窮地(きゅうち)。 阿武:いわば必ず負けてしまう心の状態として、何としても避けるべきこととされております。 詠:必ず、負ける…。 阿武:そうです。詠さまは、立ち合いのとき、どこを見ていなさいますか? 詠:どこ? どこっていうか、相手の立ち姿、息づかい、腕や足、それに腰の動き、周囲のざわめき、風のにおい…って阿武ぉ、これ、いちいち全部説明すんのかい? 阿武:はっはっは。戦いの場での詠さまのすさまじさは身をもって存じておりますからな。もう結構でございます。 詠:なんだい、けなされているのかねぇ…。 阿武:ちがいますよ、はは。そうでございましょう、詠さま。戦場(いくさば)において、一点のみを意識したり、また、注意をそらしたりすることはありませんでしょう? 詠:……あぁ、何だいそういうことかい。確かにねぇ…。 詠:それなら、あたしゃ喜介さんの前で「居着き」に陥っていたね。 阿武:まったく、理解がお早いんですから…。 阿武:偉そうに講釈(こうしゃく)を垂れる機会がなくなってしまったではありませんか。 阿武:いやはや、詠さまは、すばらしく、おそろしい。 詠:阿武、なんだって? 阿武:ははは。もちろん誉め言葉にございますよぉ。 庵主:〈N〉初めて喜介に出会ったその日、お詠は喜介に出し抜かれてしまった。達人のお詠をして、気づかぬ内に水をひっかけられたのである。その後も喜介は毎度柄杓を手にして現れ、お詠に水をかけている。お詠の意識は自然と柄杓に集まることになる。 詠:あぁ、確かにあたしゃ柄杓ばかり見ていたかもねぇ…。 庵主:三度めに喜介は「雨の中で水をかける」という行為に出た。これはお詠にとって予想外のことである。また、阿武との会話においても思い込みが強まっていた。 庵主:よって、雨の中で傘もささず、水桶に柄杓といういつもの姿に虚をつかれ、結果、お詠は顔面に水を浴びることになったのである。 詠:うん。「雨ん中じゃ、不意打ちはできないだろう」なんて思っちまってたよ… 庵主:さらには酒をめがけて進んでくる喜介の前で「酒入れ」に意識を注いでしまった。その後は先ほどお詠自身が述べている。…そう、ものの見事に「殺(と)られて」しまった。 庵主:つまり、喜介の言う通り、初めからお詠は「負かされて」いた。喜介によって知らず間(ま)に「死地」に追い込まれていたのである。 阿武:そうでございましょう?  阿武:ただ…、いつもであれば、相手に対して詠さまがなさっていたことなのですよ、これは。 詠:そうだね。…言われてみれば、ぼんやりそういう気もするよ。 阿武:意識のつながり。それを断ってしまったとき、思わぬ手で足元をすくわれるということですな。 詠:ほんとだねぇ。でも「居着き」って言葉にとらわれちまうのもしゃくだからねぇ…。 詠:よしっ。あたしゃ、ぜぇ~んぶ忘れることにするよ。あはは【カラカラと笑う】 阿武:それでこそ詠さまです。明日から喜介どのに出し抜かれることはありませんでしょう。 阿武:はっはっは、いやぁ、くわばらくわばら。 詠:阿武ぉ? 阿武:な、なんでもございませんよぉ…。  : 0:【以下の場面、庵主・二十一歳、喜介・三十一歳】   : きすけ:姫さま、ただいまもどりました。本日は「志手小路(しでのこうじ)」さまのお屋敷で対局させていただきましたよ。 庵主:おかえりなさい、喜介。首尾はいかがでしたか? きすけ:はい。おかげさまでお殿さま、安万侶(やすまろ)さまのお目にかないましたようで、東藤澤(ひがしふじさわ)の若様にも志手小路(しでのこうじ)さまより、お声掛けいただいたようです。 庵主:そうですか、それはよかった。それにしても「志手小路さま」がお相手とは、喜介もすごいですね! 阿武:〈N〉喜介が都にその人ありと知られるようになってから二年。 阿武:「覆面(ふくめん)の棋士」の盛名はいよいよ大きく、その存在は上位の公家にも知られるほどになっていた。しかし、引く手あまたとなってしまった彼は、姫の側にいる時間をさらに失っていく。 きすけ:いや、わたしなぞのことよりも、姫さまのことです。本日もおかわりありませんでしたか。 きすけ:…まったく、江戸のご主人さまにも申し訳が立ちません、このように姫さまの元を空けては… 庵主:それでしたら、問題ありません。父さま(ととさま)にはお手紙を書いておりますから。 きすけ:…ひ、姫さま。それは…。 庵主:父さまも喜介の活躍をお喜びです。 きすけ:ほ、本当ですか! ありがとうございます、ありがとうございます。 きすけ:せめて幾分かでも御恩返しをせねば… 庵主:何を言うのですか。あなたには、もう十分尽くしてもらっています。 庵主:〈以下、M〉父さまがお喜びなのは、あなたがもたらす名声と金品(きんぴん)なのです、本当は…。 庵主:喜介、ごめんなさい、ごめんなさい…。 阿武:〈N〉不運の種はここにもあった。喜介が有能すぎたのだ。 阿武:「恩返し」に居着いてしまった喜介は、わが身のうかつさに苛(さいな)まれることになる。  : 0:【ここで場面は現在の最恵寺に戻る。以下の場面、喜介・七十歳】  : 庵主:〈N〉『誂検(あつらえ あらため)』まであと三日。もう手持ちの時間も少なくなった。 庵主:この日のお詠はこれまでとは違う思いで最恵寺を目指している。獬(かい)からの指示「喜介を討て」。つかめそうでつかめない、知り合ったばかりの老人と書状の間の脈絡を、今日こそは知ろうというのだ。 詠:喜介さぁぁん、いなさるかあぁぁい。 庵主:〈N〉瓢箪(ひょうたん)の酒入れ片手に、いつもの小屋を訪れたお詠。小屋に近づくとすぐ異変に気付いた。 詠:【鼻をかぐ】〈M〉ん? …血の匂い…。 詠:【小屋から離れて】〈以下、セリフ〉喜介さん? 喜介さぁぁん? きすけ:ほっほ。 詠:ん? そこにいなさるのかい? 庵主:〈N〉お詠は、声がした方を振り返る。 庵主:いつもの墓石の陰(かげ)を確かめに足を踏み出したそのとき… 0:【水をかけられるも、よけるお詠】ピシャっ きすけ:ほっほ、よけなさるか。お詠さん、わずかの間に上達なさいましたなぁ。 庵主:〈N〉この日は、お詠の背後から姿を現した。喜介の声が聞こえた方とはまるきり反対である。 詠:そりゃどうも、ありがとうよ。…それより喜介さん、体は大事ないのかい? きすけ:…はて、体…? 詠:ごまかすんじゃぁないですよ。小屋に血の匂いがしたんです。 詠:ありゃ喜介さんのだろう? きすけ:…ああぁ! 昼に鶏(とり)をさばいたのですよぉ。はてさて、片付けが足りなかったかのう。 詠:…喜介さん、ここはどこだい? お寺だろう。殺生なんざするもんかね。 きすけ:はっ! そうじゃったなぁ。ここは寺じゃった。ほっほ。 庵主:〈N〉にこにこととぼけて見せながら、喜介がお詠に近づいていく。 庵主:その刹那…がしっ、という音が響いた。 庵主:喜介の必殺の一撃を、お詠が瓢箪(ひょうたん)で防いでいた。 きすけ:…ほっほ。お見事、お見事。お気に入りの柄杓(ひしゃく)の柄(え)が折れそうですわぃ。 詠:まぁ、必ずそうだと決まったわけでもない、か。 詠:寺で殺生は厳禁っていうのも思い込みってところかね。 きすけ:…ほう。気づかれたのですなぁ。…「竜胆」のお詠さん。 詠:やっぱり。…喜介さんは訳ありなんですねぇ。 庵主:〈N〉初めて話したあの日、「竜胆」に反応したように見えた。 庵主:その予感は、やはり間違ってはいなかった。 きすけ:ほっほ。ある方との約定(やくじょう・約束)でしてなぁ。 きすけ:お詠さん。あなたに、囲碁の手ほどきをせにゃならんのですわぁ。 詠:囲碁? 喜介さん、それよりも体の方は…? きすけ:ほっほ。お気遣いは無用です。この喜介など、とっくに屍(しかばね)ですからのぉ。 きすけ:いつ迎えが来るかと、この首を長う(なごう)しておったくらいですじゃ。 詠:…そうかい。そうなのかい。それで「討て」と…。 きすけ:「うつ」…はてさて、それは囲碁を「打つ」のですかな、それともこの老人を「討つ」のですかな。ほっほ。 詠:そりゃ、決まってますでしょう。……どちらも、ですよ。 : 0:【以下の場面、庵主・二十二歳、喜介・三十二歳】 : 阿武:〈N〉京に住まうようになってから早六年が過ぎた。嫁いで七年目を迎えても若様の別宅通いは続いている。別宅に足しげく通うということは、それすなわち本宅の正妻のもとに通う日が減るということである。 阿武:これまでは側室の小娘に懐妊(かいにん・子を宿すこと)の気配などみじんもなかった。それが故に、正妻も気を保っていられたのだ。 阿武:なにより自身にも子はいない。心の奥底では、若様は「種なし」かとさえ思っていた。ところが…。 きすけ:なんですと!「およね」さん、「おひさ」さん、姫さまにご懐妊の兆しあり、ですと! きすけ:なんとめでたい、いやはやめでたい!! わ~、姫さまが母(かか)さまになられる! 阿武:〈N〉二人に「まだ気が早いですよ」とたしなめられても、「ただ体調がお悪いだけかもしれません」と言葉を添えられても、半ば有頂天になった喜介の勢いはおさまらない。 きすけ:わぁ、わ、わ、こりゃたいへんだぁ。そ、それで、姫さまは、今、どのようなご様子で?  阿武:〈N〉女中らも、あきれ半分、うれしさ半分で、にこやかに喜介を見ている。 阿武:姫が生まれたときから家に仕える「およね」と「おひさ」は、喜介のこともまたよく知っていた。 庵主:【ほほえましそうに】…くす。まったく喜介は。 阿武:〈N〉そして、この話は瞬く間に宮中にも知られるようになる。 阿武:それは、東藤澤家のことだから、ではなく、喜介にまつわることだから、であった。 阿武:その知らせは当然、東藤澤の正妻の耳にも入る。妬み(ねたみ)嫉み(そねみ)の火がくすぶっていた。 阿武:…それからしばらくののち。 きすけ:そうですか、まだふせっておいでなのですか…。 きすけ:わたしはこれから志手小路(しでのこうじ)さまのお屋敷に行ってまいります。 きすけ:姫さまがご不調の中、すみません…。 阿武:〈N〉元より、女中の二人も喜介の活躍が好ましくないわけではない。また、「およね」と「おひさ」は喜介がもたらすものの意味もよく分かっていた。主家(しゅか)のためになれば、と願っていたのである。 阿武:しかし、日向があれば日陰もある。喜介に陽(ひ)が当たる分、その陰(かげ)となったところに悪意が忍び寄っていたのである。 阿武:その夜、志手小路にいた喜介に急を告げる文(ふみ)が届いた。 阿武:それは姫様快復の知らせなどではなく、一気に血の気も引くような、無残きわまる知らせであった。 きすけ:ひ、ひ、姫さまぁぁぁぁ!!!! 阿武:〈N〉喜介の様子をいぶかしんだ志手小路の殿さまが、その文を手づから読んだ。 阿武:眉をひそめた安万侶(やすまろ)は、家来に何か告げている。 阿武:狼狽(ろうばい)する喜介を呼び止め、同道を申し出たのは、これまた宮中にその人ありと知られた名医、坂上清雅(さかのうえ きよまさ)であった。 きすけ:はっ、坂上(さかのうえ)さま! うちの姫さまが、姫さまが、大変なのですぅぅ…。 阿武:〈N〉清雅(きよまさ)も急を告げる知らせを聞いて、毒薬だろうとあたりをつけていた。 阿武:二人は夜道をものともせずに駆けていく。ただひたすらに、ただひたすらにと姫のもとへ走り続けた。 阿武:浮世(うきよ)では、どのような縁(えにし)が浮き上がるかわからない。喜介が志手小路(しでのこうじ)にいたことで生じた隙を狙われた。しかしまた、それがために姫は一命を取りとめることになる。  : 0:【ここで場面は現在の喜介の小屋に戻る。喜介・七十歳】  : 詠:よっし! よぉぉっし! やったよぉぉ!! きすけ:ほっほ。お見事ですじゃ、お詠さん。ようやっとわたしから勝ちをもぎ取りなさったのう。 詠:…やっとだ…やっとだよ。 詠:この前は喜介さんの棋譜(きふ)に、あたしゃ丸裸にされたようだったんだけどね。 詠:今回は、あたしも、喜介さんの盤面すべてを見渡せるような気がしましたよ。 きすけ:…ほっほ。ですな。手前も途中から、これまでにない難敵(なんてき)と対峙(たいじ)したような気になりましてなぁ。 詠:いやぁ、でも、まだ一回ですからね、喜介さんに勝ったと言っても。 きすけ:ほっほ。残された時間は少ないでしょう? お詠さんにも、そして、わたしにも。 詠:それは、そう、かもしれないねぇ。 きすけ:よいですかな、お詠さん。一度しか言いません。よくよく聞いてくだされよ。 きすけ:囲碁は戦(いくさ)、盤面は戦場(いくさば)でしてなぁ。 きすけ:囲碁の勝負における心持ちは、集団相手のときとも、個(こ)を相手にしたときとも同じ。 きすけ:とらわれてはなりません。また、とらわれねばなりません。 きすけ:そして、そういう己を離れ、鷹のように全体を、そして局面を見つめるのですぞ。 詠:…鷹のように。…全体を、局面を見つめる。 きすけ:そうですじゃ。あなたは個(こ)としては達人の部類。しかも最上と言えましょうなぁ。 きすけ:しかし、まだお若い。わたしに先手をとられたのがそれですわい。でも、今はどうですかのぅ。 きすけ:手前ではお詠さんに勝てないような気がしてきましたぞ。ほっほっほ。 詠:それもこれも、喜介さんのおかげですよ。 きすけ:そうでしょう、そうでしょう。ほっほ。 きすけ:どうですかな、お詠さん。酒を一献(いっこん)傾けながら、手前の悔いを聞いてはくださいませんかなぁ、謝礼の代わりと言っちゃあ、なんですが。 詠:悔い? 喜介さんほどのお人でも後悔することがあるんですかぃ。 きすけ:そりゃあもう。たくさんたくさん、ありますよぉ。  : 0:【ここで場面は過去に戻る。庵主・二十二歳、喜介・三十二歳】  : 阿武:〈N〉志手小路(しでのこうじ)の屋敷から舞い戻った喜介と清雅(きよまさ)が目にしたのは、血にまみれ、嘔吐と下血、局部からの出血を繰り返す姫の姿であった。 阿武:喜介はあまりの惨状(さんじょう)に口をあけたまま立ち尽くしている。 阿武:清雅はさすがに歴戦の名医である。てきぱきと女中二人に指示を出し、身を清めさせ、薬湯を作らせて姫の手当てに尽くしていた。 きすけ:…ひめ、さ、ま。 阿武:〈N〉我に返った喜介が聞いたのは、東藤澤本宅からの贈り物のこと。 阿武:正妻からの贈答品に対しては返礼を書かねばならない。そのため、姫は律儀にもそれを口にしたのだという。 きすけ:…おのれぇぃ、よくも、よくも姫さまをぉぉぉぉ… 阿武:〈N〉血気にはやる喜介を押しとどめたのは清雅(きよまさ)であった。 阿武:いわく、今は信頼できるものに姫の側にいてほしい。知らせは私に任せてほしい、と。 阿武:清雅(きよまさ)は喜介の力を買っていた。純朴(じゅんぼく)でありながら、すさまじい技の冴えを持つこの男を、無闇(むやみ)に散らせたくはなかったのである。 きすけ:なんと。お側で姫さまを力づけるものが要る、と。それが、わたし!? きすけ:…そうで、あり、ますか。 阿武:〈N〉結局、東藤澤の正妻(せいさい)は「気の病」に侵(おか)されたとして廃された。 阿武:それから一年。どうにか体は癒えたが、状況は大きく変わっていく。 阿武:この日、坂上清雅(さかのうえ きよまさ)が二人のもとを訪れてきた。 阿武:そこで、姫が跡継ぎを望めぬ体になっただろうと知らされたのである。 庵主:…坂上(さかのうえ)さま、ありがとう、ございます。 庵主:おかげさまで、この命、拾わせていただきました。それで十分でございます。 きすけ:…姫さま、わたしが留守にしたばかりに… 庵主:…喜介。何度も言うたでしょう。…よいのです、もう。 きすけ:ですが、ですが…。くぅぅ。 きすけ:坂上(さかのうえ)さま、何とか、何とかならんのでございましょうか…くぅ。 阿武:〈N〉いかな名医と言えど、所詮は人の子。清雅は力なく首を振るばかりであった。  : 0:【ここで場面は喜介の小屋に戻る】  : 詠:…そうですかい…そんなことがあったんだねぇ。 詠:あたしもね、この前「守ると決めたお人」をみすみす死なせてしまってねぇ…。 きすけ:【ほほえむ】…お詠さん。あなたは、まだまだ力をつけねばなりませんなぁ。 詠:そりゃあ、あたしも望むところですよ。……それにしても、悔しかったよねぇ…喜介さん。 きすけ:……ほっほ。  : 0:【ここで場面は過去に戻る。庵主・二十三歳、喜介・三十三歳】  : 阿武:〈N〉姫の回復を待つようにして、東藤澤(ひがしふじさわ)の家から里に帰るよう命じられた。 阿武:喜介の縁(えん)で志手小路から支度金を渡され、姫は京を後にすることとなったのである。 阿武:離縁を言い渡した当の東藤澤(ひがしふじさわ)からは一文(いちもん)の見舞金もない。 阿武:弱り目に祟り目などと古く言いならわされているように、このようなときに限って不幸は続いていく。 庵主:どうしたのです? およね、そのようにあわてて? 阿武:〈N〉里帰りの用意を進める中、一通の急ぎ文(いそぎぶみ)が届いた。 阿武:そこには、娘をめぐる一連の出来事に憤(いきどお)り、実家の父が亡くなったと書かれていた。 庵主:…喜介、喜介はいますか。 きすけ:【庭仕事の手をとめて】あ、姫さま、喜介はここに。 庵主:…父(ちち)が。江戸の父が亡くなりました。 きすけ:…え? なんですと? 庵主:…毒を盛られ、里に戻されるわたしのことで気を揉んで倒れたそうです。 きすけ:…ひ、姫さま? 庵主:…どうしたことでしょう。喜介…わたしはどうかしてしまったのでしょうか。 庵主:父上は、わたしのせいで亡くなったようなものなのに、それほど悲しくはないのです。 きすけ:……悲しくないはずがありませんでしょう。 庵主:いいえ。…「宮(みや・幼き頃に亡くした愛猫)」のときは、とめどなく涙があふれてきたのに、今はもう流れる涙もありません。 きすけ:姫さま、ご無理はなりません…。 庵主:人の裏の顔などあまり知るものではない、ということですね…。 庵主:だからこそ、あなたを前にすると気が休まるのでしょう……。 きすけ:喜介も、そうありたいと願ってはおりますが…。 きすけ:しかし、そうですか……。ご主人さまがお亡くなりに……。 庵主:…一緒に帰りましょうか、江戸に。 阿武:〈N〉姫の家に男子(おのこ)はいない。運よく公家から縁談が持ち込まれ、多額の支度金を用意して娘を送り込んだ。その裏には、複数の男子(おのこ)が生まれたら、養子に迎えようという父の算段があった。 阿武:しかし、事件のせいでそれもご破算。父親の憤死はここに端を発していた。…悲しいかな、姫を心配し、相手に憤慨したからではなかったのである。 きすけ:…姫さま、喜介はどこまでもお供いたします…。 きすけ:喜介は、姫さまの側仕えでいることが喜びなのですから。 庵主:【うっすらとほほえむ】…ほんとうに。あなたは口にしたことを違(たが)えないのですね。 きすけ:もちろんでございます。わたしは、いつまでも姫さまのお側にいたいのです。 庵主:…ありがとう、喜介。 庵主:およね、おひさ、話があります。部屋へ来てくれますか。 阿武:〈N〉当主である父親が死したならば、跡取りのない家が改易(かいえき)を免れることはない。 阿武:姫は二人の女中に多めの金(かね)を渡し、暇(いとま)を出した。 庵主:ふぅ……。喜介…、わたしは、いささか疲れてしまいました。 きすけ:いかがでしょう、姫さま。江戸までそれほど急ぐこともないでしょうし、ゆるりと花でも愛でて歩きませんか? 庵主:喜介が案内してくれるというのですか? きすけ:へへへ。お公家さま方との対局のさなか、いろいろと話をうかがいましてね。 きすけ:実は、姫さまに召し上がっていただきたいもの、お見せしたいものがあるのです。きっとお体にもよろしいかと。 庵主:……やはりわたしはどうかしてしまったのでしょう。父を亡くした、と聞いたばかりなのに、なにやら、うれしくなって…しまうのです…【涙をうかべる】 きすけ:…はぁ、急なことですから…。悲しいときは、泣かれるがよいでしょう…。 きすけ:【涙の意味はわかっていない】  : 0:【ここで喜介の小屋に場面が戻る。喜介・七十歳】  : 詠:へぇ。それで、姫さまと東海道を下りなすったのかい? きすけ:そうです。遠江(とおとうみ)は袋井(ふくろい)まで駕籠(かご)を使い、ゆるゆる歩きましたぁ。姫さまは病み上がりでいらしたからのぅ。 きすけ:おぉ、そうじゃ、お詠さんは、「たまごふわふわ」を知っていなさるか? 詠:ん?「たまごふわふわ」…ですかい? う~ん…食べ物、ですかねぇ? きすけ:はいぃ。そのころ、ちょうど話題になっておりましてなぁ。鶏(とり)の卵とだし汁でつくるのですが滋養があり、口にしやすい。食が細くなった姫さまのお口にも合うのでは、と、そればかり考えておりましたぁ。 きすけ:…話を聞くだに、お詠さんは、食べることがお好きでしょお? 詠:そうですよ。おいしいものを食べられるってのは幸せなことだと思ってんです。 きすけ:ほっほ。よいことですじゃ。人は食べたもので体と心がつくられる。…続けられませよぉ。 きすけ:それで、袋井(ふくろい)には長逗留(ながとうりゅう)をしましたぁ。半年ほどでしたかのぅ。 詠:姫さまの具合はどうだったんですか? きすけ:さいわい「たまごふわふわ」もお気に召しましてのぅ。 きすけ:お体も少しは落ち着いていらっしゃいましたぁ。…ほっほ。うれしかったですなぁ。 きすけ:袋井には桜の時期に着きましたからのう。それから百合(ゆり)に牡丹(ぼたん)に梔子(くちなし)にと、姫さまの供をして方々(ほうぼう)出かけましたわい。 詠:…それはいい時間をすごされましたねぇ。 きすけ:はいぃ。「梔子(くちなし)」はよい香りがしましたぁ。それはそれはよい香りが……。 きすけ:今考えれば、あのころが一番楽しかったですなぁ……。 詠:…お二人だけで過ごされたんですかい? きすけ:えぇ。対局にいそしんでいた間に少しは蓄えもありましたからなぁ。 きすけ:おつらそうな姫さまが、せめても穏やかな顔を見せてくださるのが、喜介の喜びでしたぁ。 きすけ:【遠い目】あぁぁ、楽しかった、なぁ。 0:【喜介の思いを妨げぬよう、しばし間をとる】 詠:…喜介さん。 きすけ:はいぃ、なんですかのぅ。 詠:喜介さんは、姫さまを好いていなすったんだねぇ。 きすけ:……ほっほ。喜介はただの下僕ですからなぁ。そのようなおこがましいことは、言えません。 きすけ:それに、あのころは輪をかけて物事が分かっておりませんでしたしのぉ。  : 0:【ここで場面は過去に戻る。庵主・二十三歳、喜介・三十三歳】  : 阿武:〈N〉品川宿(しながわじゅく)まで戻ったころには、紅葉(こうよう)の時期を迎えていた。 阿武:宿場の外れに霞草(かすみそう)の名所があると聞いた姫はそこに庵(いおり)を結ぶことにしたのである。 庵主:…喜介、聞いてもらますか。 きすけ:はい、姫さま。なんでございましょう。 庵主:ここらでわたしは、髪を下ろします。 庵主:戻るところもなし、さりとて、行きたいところもなし。 庵主:あのようでも父は父。わたしも父も仏にすがろうと思うのです。 庵主:……喜介、よいでしょうか、そうしても…。 きすけ:え? よいもなにも、わたしにお断りにならずとも、喜介は着いて参りますよ。 庵主:いえ、そういうことではなく……(わたしと) きすけ:【前のセリフにかぶせて】 きすけ:…ん? あ、あぁ、お住まいのことでしたら、わたくしめにお任せくだされ。 きすけ:あ、いや、下僕の喜介めでは、ということなら、志手小路(しでのこうじ)さまからいただいた分もございますから。 庵主:…いえ、その…。……いや、ありがとう喜介。甘えさせてください。 庵主:この先に霞草(かすみそう)の美しいところがあると聞きます。 庵主:わたしはそこに庵(いおり)を結び、経を上げて生きていこうと思います。 きすけ:そうですか。それがよろしゅうございましょう。 きすけ:…喜介にも、ご主人さまを拝ませてくださいませね。  : 0:【ここで喜介の小屋に戻る】  : 詠:【ぶるぶるしている】喜介さぁん…。このような言い方ぁよくないですよ…。よくないですがねぇ、あんた、バカでしょう! きすけ:ほっほ。その通り。わたしは大馬鹿者なのですよ…。 きすけ:それでもね。わたしの一番の心残りはこの後の話にありましてなぁ。 詠:…あとのお話?  きすけ:…えぇ。わたしは、お詠さんに、今ここで斬られてしまうかもしれませんのぅ。 : 0:【以下の場面、庵主・二十六歳、喜介・三十六歳】 : 阿武:〈N〉二人が「霞庵(かすみあん)」と名付けたその庵(いおり)で、姫は髪を下した。 阿武:今は尼僧(にそう)として、読経の毎日である。呼ばれ方も「姫さま」から「庵主(あんじゅ)さま」に変わっていた。 阿武:品川宿(しながわじゅく)の外れに「霞庵(かすみあん)」を結んで三年。その日の夕食はいつもと違い、庵主が用意して喜介を招き入れた。 きすけ:庵主さま、これはどうなされたのです? わたしが作るものよりも、大層華やかですねぇ。 庵主:ええ、わたしも二十六になりました。 きすけ:えぇ、そうですねぇ。喜介は三十六ということですなぁ。 庵主:気づきませんか、喜介? きすけ:ん? あ! あぁ、お側仕えをしてから二十年、ですか。 庵主:そうなのです。二十年、ですよ。これはすごいことです。ありがとう、喜介。 きすけ:いやいや、まだまだお仕えさせてくださいませよ? 庵主:こういう境遇に身を置くと、喜介のありがたさをひしひしと感じるのです。 庵主:これまで、わたしはあなたに何ひとつ報いることができていません。 庵主:ですから、今宵はせめて手料理などをと、思ってみたのですが…。 庵主:精進料理となると、喜介には物足りないかもしれませんね…。 きすけ:とんでもないですぞ、庵主さま。…喜介は、胸がいっぱいです。 庵主:ふふふ。どうぞ、お腹もいっぱいになってください。今宵くらいは、それもよいでしょう。 きすけ:腹八分、をこえてみましょうかねぇ。はっはっは。 きすけ:【居住まいを正す】庵主さま、ありがたいことです。いただきます。 庵主:はい。どうぞ召し上がれ。…ふふ。また十年ののちも、このようにしたいものです。 きすけ:なんと! それは楽しみでございますなぁ。 阿武:〈N〉心身共、穏やかになったかに見えたが、庵主が望んだその十年が三度(みたび)めぐってくることはなかった。 阿武:毒薬にむしばまれた庵主の体は、その日を境に次第に悪くなっていったのである。  : 0:【ここで場面は喜介の小屋に戻る】  : 詠:喜介さん、そのときの食事、今でも覚えていなさるかい? きすけ:はいぃ。どうしようもなく忘れたいのに、忘れられぬことの方が多い人生でしたがねぇ。 きすけ:袋井での時間と「霞庵(かすみあん)」での日々は、忘れたくもありません。 詠:ふふ。そうですか。 きすけ:そうですともぉ。閻魔(えんま)様にお願いして、地獄にも持っていきますからねぇ。 詠:…えぇ。【ほほえむ】きっとお許しが出るでしょうよ。それで…「その後」とは? きすけ:庵主さまは、だんだんとお力を落としてしまわれましてなぁ。 きすけ:一時(いっとき)は食も戻っておったのに、また細くなってしまわれましたぁ。 きすけ:この後の話は、初めて人に言うのですがねぇ… 詠:…はい。 きすけ:…おのれの愚かさを、呪ってしまいそうになるのですじゃ…。 : 0:【以下の場面、庵主・二十八歳、喜介・三十八歳】 : 阿武:〈N〉庵主が「霞庵(かすみあん)」で過ごす日々は、仏と共に歩む日々であった。朝の勤めから一日が始まり、父をとむらい、居たかもしれない我が子の来世を祈り、修行に没頭する。そうすることで、心の均衡を何とか保とうとしていたのであろう。だが、それもかなわなくなった。 阿武:日に日に衰えていく己の先行きを知ったある日、庵主が庵(いおり)を半日空けた。 庵主:…喜介、いますか。 きすけ:おぉ、庵主さま、ご体調はいかがでございましょう。 庵主:…はい。今日は、いくぶん加減がよいのです。 きすけ:そうですか! それはよいことでございます。…して? 庵主:…すこし、用を足しに町まで出てこようと思うのです。よいでしょうか。 きすけ:あ、それでしたら、喜介めがひとっぱしりしてきましょう。 庵主:…いえ。これはわたしが出向かなければかなわない用向きなのですよ。 きすけ:え? そ、そうなのですか。しかし、お体が… 庵主:ひさしぶりに、わたしのわがままを聞いてはもらえませんか? 御仏(みほとけ)にはしかられそうですが…。 きすけ:…はい。それでしたら…。でも、日暮れまでにお戻りでなければ、何が何でも探しに参りますぞ。 庵主:ふふ。いつぞやも、必死になって、わたしをさがしてくれましたね。…頼りにしておりますよ。 きすけ:はい、庵主さま。喜介にお任せくださいまし。 きすけ:…ですが、ほんとうにお気をつけくださいませ、ね。 阿武:〈N〉庵主は約束通り夕刻には戻ってきた。何をしてきたとも言わぬ庵主であったが、喜介も余計な詮索はしなかった。 阿武:……その意味が分かったのは、それからひと月の後(のち)である。 庵主:【少し息が荒くなっている】…喜介、喜介。 きすけ:はい、庵主さま、ここにおりますよ。 庵主:あぁ喜介、哀しいことですが、わたしの迎えももうすぐだと思われます… きすけ:なにをおっしゃるのですか…。庵主さまあってこその喜介でございますよ。 きすけ:まだまだ庵主さまにいていただかなければ、喜介は世に迷(まよ)うてしまいます。 庵主:…ふふ。そうかも、しれませんね。 庵主:はぁ、はあ。…喜介。今宵、月が出たら、わたしの寝所を、もう一度、訪れてはもらえませんか。 きすけ:し、寝所、ですか!? 庵主:そうです、寝所です。 きすけ:ご用なら、まだ明るいうちに… 庵主:…喜介、たのみます。 きすけ:は、はい。 阿武:〈N〉喜介ほどの強者(つわもの)が庵主の気迫に後れをとった。一度応えたのであれば、それは、そうしなければならない。喜介は落ち着かぬまま、夕日が山に隠れるのを見ていた。 阿武:果たして、その夜はよく晴れた。姫が嫁ぐ前、二人で共に眺めたような明るい月が「霞庵」を照らしている。 きすけ:庵主さま、庵主さま。喜介でございます。 庵主:おぉ…、来て、くれたのですね。 きすけ:えぇ。お約束ですから。…ですが、調子がお悪いなら… 庵主:喜介。そこで、三十数えなさい。 きすけ:え、数を、ですか。 庵主:…そう、です。そして、数え終えたら、入ってきてください。 きすけ:あ、何かご用意が…。それでしたらしばらくお待ちします。 庵主:【泣きそうになって】喜介、わたしを、困らせないで。三十でよいのです。 きすけ:あ、庵主さま、分かりましたて。では数えます。いぃち、にぃい、さぁん… 阿武:〈N〉喜介は落ち着いた声で数を数える。何がおこるか分からない不安もあるが、今は何より、庵主の望みに従いたいと思っていた。 阿武:喜介ほどの達人である。見たくないとは思っていても、庵主から生気が抜ける様子は手に取るように分かってしまう。 きすけ:にじゅうく、さぁぁんじゅ。…、さあさ、数えましたぞ。 庵主:こちらも、よいです。どうぞ、お入りなさい。 阿武:〈N〉襖を開けたその瞬間、香(こう)の流れがただよった。鼻をひくつかせた喜介は、いつかの夜も姫さまに言われたなと、何やらおかしく思った。 阿武:これまでに嗅いだことのない香(こう)ではあったが、この香りは確かに知っている。 阿武:庵主に言われるまま寝所に入った喜介は、まず自分の目をうたがい、夜明けには自分の判断を呪うことになる。 きすけ:庵主さま、あんじゅ、さ、ま!? 庵主:このように、はしたないこと、どうか、どうかゆるしてください。 阿武:〈N〉そこには、月明かりに照らされた、一糸まとわぬ姿があった。病で痩せた体を隠すこともなく、床(とこ)の上に、体を起こしている。 きすけ:…あ、あ、横になっておられずともよろしいの、です、か。 阿武:〈N〉あまりのことに、かみ合わない言葉が口をついた。それでも庵主は眉を顰(ひそ)めることもない。 阿武:これまで長い時を共に過ごし、喜介の気性をよく知っていた。 庵主:ふふふ…今宵は、よいのです。わたしも、そう長くはないでしょうから。 きすけ:庵主さま…。 庵主:…お願いです、喜介。あなたの手で、今生(こんじょう)の思い出に、一人の女子(おなご)に戻しては、もらえませんか…。 きすけ:お、おなごに…。 庵主:…はい。……喜介、この香りを覚えていますか? きすけ:えぇ。梔子(くちなし)の香りです、ね。 庵主:【微笑む】そうです。まだ法体(ほったい)になる前、娘だったころにあなたと眺めた梔子です。 庵主:先日、外に出たのは、この香(こう)を求めるためでした。…あの時は、無理を言いましたね。 きすけ:…そうだったの、ですか…。 庵主:わたしは、これまで、あなたをしばりつづけてきました。 庵主:喜介は女子(おなご)を知らぬのでしょう。 きすけ:知らぬ、とは… 庵主:…女子(おなご)とまぐわったことは、ないのでしょう? きすけ:……は、はい…。 庵主:わたしも、このような身となり、今はもう、あなたの役に立てそうもありません。 庵主:ですが…せめて、床(とこ)に共に入り、わたしの体を愛でてはもらえませんか。 きすけ:め、めでる…。 庵主:…はい。わたしは、あなたに、抱きしめてもらいたい。…かなえては、もらえませんか。 きすけ:庵主さま…、そ、そ、そのような…。 庵主:それから、喜介。どうか一度でよいのです…。 庵主:「庵主」でも「姫」でもなく、わたしの名を、呼んでください。後生(ごしょう)ですから…。 きすけ:ひっ…、お、お、恐れ多いことでして…。 庵主:喜介…、おしつけがましくなるのを、ゆるしてください。 庵主:ここまで、願(ねご)うておるのです…。情けをかけては、もらえませぬか…。 きすけ:あ、あ、庵主さ、ま。き、喜介には、喜介にはできませぬぅ…… 阿武:〈N〉思いもよらぬ庵主の言葉。喜介はそれにまっすぐ応えることができない。 阿武:彼は幼いころより島で鍛えられ、そのまま任務についてきた。長じて庵主の屋敷に雇われるまで、仕事づくしの人生である。 阿武:暗器(あんき・暗殺用の武器)の扱いには巧みでも、女子(おなご)の扱いなど知るはずがなかった。 きすけ:庵主さま…、あ、あ。【うろたえている】 庵主:さぁ喜介、こちらに来て、わたしに触れて…。 庵主:…それとも、病にしおれた、この体では(いやですか) きすけ:【前に少しかぶせて】とんでもねぇ。…とんでもないです。庵主さまは、今もかわらずお綺麗だ…。 庵主:【ほほえむ】ありがとう、喜介。さぁ、こちらへ。 きすけ:で、で、でき、ませ、ん…。 阿武:〈N〉かたくなに、主従の境(さかい)を守ろうとする喜介の目には、いつしか涙が浮かんでいた。闇に陰にと生きてきた、この喜介が泣いている。 庵主:…喜介。まったく、あなたらしいというか、なんというか…あっ…【床に倒れる】 きすけ:あ! 庵主さまぁ! 阿武:〈N〉ここに至って喜介は、庵主の元に近寄り、その手をとった。 阿武:目を閉じ、息を荒げる庵主に布団を掛けなおす。喜介は、庵主の手を握り、声を掛け続けた。 阿武:すぐそばで、まんじりともせずに過ごしたその日。明け方になって、庵主はとうとう身罷(みまか)ったのであった。 庵主:【消え入るような声で】…き、す、け。…よ、ん、で。…ふ、れ、て、く、だ……【息絶える】 きすけ:あ、あ、あ、庵主さま、庵主さまぁぁぁぁ!! わぁぁぁぁぁ… 阿武:〈N〉喜介が庵主に対して抱える後悔はいくつもあるが、この日の数刻(すうこく)は文字通り刻みつき、薄れていくことがない。 阿武:自分の最期を悟った庵主の心からの願いを、そして思いを、自分は無下にしてしまった。 阿武:望んだとて二度と叶わず、悔やんだとても時が戻ることはない。 阿武:喜介は呪った。己の愚かさを。そしてふがいなさを。この夜(よ)の自分の選択を。 : 0:【ここで場面は、喜介の小屋に戻る。喜介・七十歳】 : 詠:喜介さん、あんたってお人は!! ……んん! ぐぬ! …ん。 詠:……はぁ。でも、それが喜介さんってお人なんでしょうねぇ…。 きすけ:わたしは姫さまの最期の願いをかなえることなく、死なせてしまったのですからのぉ。 きすけ:あの日、わたしも死んでしまおうと、そう思うたのです。 詠:…それで、それからどうなすったんです? きすけ:はいぃ。江戸にはもうご生家(せいか)はありませんからなぁ。姫さまが亡くなったと伝える方もいらっしゃらず…。 きすけ:だからわたしは、姫の喪(も)が明けてから京にもどりましたのじゃ。志手小路(しでのこうじ)さまのところへねぇ。 : 0:【以下の獬との場面、喜介・四十歳】 : 阿武:〈N〉生きた屍(しかばね)のようになりながらも、志手小路にたどり着き、当主、安万侶(やすまろ)や清雅(きよまさ)に知らせを入れた。 阿武:京で受けた厚意(こうい)に対する礼をせねばと、そう思えばこそ生き永らえてきた。 阿武:しかし、それも果たした今となっては、わが身を支えるものはない。喜介は死のうと思った。 きすけ:〈M〉…もう、これで、浮世にしばられることものうなった。 きすけ:姫さま、すぐに喜介も参りますぞ…。 阿武:〈N〉しかし、またしても坂上清雅(さかのうえ きよまさ)がそれを止めた。喜介に「紹介したい人がいる」とそう話すと、庭へ連れていく。 阿武:そこで待っていたのは、白拍子(しらびょうし)の装束に、白い翁(おきな)の能面をつけた長身の男。そう。獬(かい)である。  : 0:【ここでいったん喜介の小屋に戻る。喜介・七十歳】  : 詠:え? えぇ?! 喜介さんは、獬さまを知っていなさるのかい? きすけ:えぇ、はいぃ。 詠:ん? となると、いつか言われた「とある方との約定(やくじょう・約束)」ってのは…。  : 0:【以下の獬との場面、喜介・四十歳】  : 庵主:〈N〉獬(かい)は話に聞いた喜介をみすみす死なせるのは惜しいと思った。 庵主:かなうことなら、その技を、力を、残したい。だが、そのためには、腑抜けた喜介では役に立たぬ。 庵主:そこで、獬は喜介に対し、こう嘘をついた。 獬:〈阿武兼役〉おい、貴様の仇(かたき)がここにおる。刀をとり、打倒(うちたお)してみんか。 獬:貴様の大切な姫に毒を持ったのは、ほかならぬ我である。 庵主:〈N〉その言葉を聞いた喜介の顔に血の気がもどる。いや、一気に怒張した。 庵主:喜介にとって、それが真(まこと)かどうかに意味はない。 庵主:その言葉が、その音が、生きる意味を見失っていた喜介に火をつけたのである。 : 0:【ここでいったん喜介の小屋に戻る。喜介・七十歳】  : 詠:すると、何かい? 獬さまと戦ったってのかい?! きすけ:えぇ、お相手をしていただきましたぁ。……まあ、負けましたがねぇ。 詠:負けた? それでも、今生きていなさるってことは… きすけ:だから、約定なのですよぉ。ほっほ。  : 0:【以下の獬との場面、喜介・四十歳】  : 庵主:〈N〉はじめは怒りにとらわれていた。当然、そのような攻撃が獬に届くはずもない。 庵主:しかし、戦いが始まり、自分の攻め手をことごとく躱(かわ)され、逆に傷が増えてくると、次第に喜介の心は研ぎ澄まされていった。戦いに明け暮れた記憶と経験は、体に染みついている。それが、ここで首をもたげる。 獬:〈阿武兼役・M〉ほう。…ほう。これはこれは。 獬:〈以下、セリフ〉貴様の腕はこの程度か? それでは我を倒すこと能わず(あたわず・不可能だ)。貴様のその未熟さであれば、毒を盛るときその場にいても、何の役にも立たなかったであろうな。 庵主:〈N〉すでに喜介は無我の状態で攻め手を繰り出すようになっている。獬の挑発も耳には入らない。冷静に、迅速に。ただ獬(かい)の急所のみを狙った攻撃が執拗(しつよう)に続いていく。 獬:〈阿武兼役・M〉むっ。…これはすばらしい。在野のまま朽ち果てさせるのは確かに惜しいの。 獬:〈以下、セリフ〉はっはっは、なかなかに鍛え上げられたよい腕ではないか! 庵主:〈N〉挑発も聞こえぬが、誉め言葉もまた届かぬ。すでにこの世のものではないかのような動きで、獬の急所を攻め立てる。「急所」は体中に無数にある。それらすべてが標的なのだから、喜介の攻撃は決して単調なものではない。 獬:〈阿武兼役〉…ふむ。貴様の今のその動き。防げる者はそう多くあるまい。 庵主:〈N〉次の瞬間、キーンと高い声が庭に響いた。獬が発したその音に、喜介は我に返った。 きすけ:……はっ…。 獬:〈阿武兼役〉…貴様、神懸った動きであったな。 庵主:〈N〉喜介は肩で息をついている。対する獬は涼しげな顔だ。宮中における獬の存在が絶対である理由がそこから見て取れる。 きすけ:はぁ、はぁ、はぁ、…くっ…くはっ…仇(かたき)に、一刀(いっとう)も入れられぬ、とは… 獬:〈阿武兼役〉よい。よいぞ、貴様。…さて、ひとつ、詫びねばならぬことがある。 きすけ:…なんです。はぁ、はぁ。 獬:〈阿武兼役〉我は、貴様の仇(かたき)にあらず。騙(かた)ってしもうた。悪かったな。 きすけ:…そう、です、か、…はぁ、ふぅ。 獬:〈阿武兼役〉我らの調べでは、やはり東藤澤(ひがしふじさわ)が正室(せいしつ)の悪だくみであった。そして、その者はもうおらぬ。 きすけ:……はい。 獬:〈阿武兼役〉喜介とやら。 きすけ:……はい。 獬:〈阿武兼役〉貴様が命、我らに預けよ。 きすけ:……はい? : 0:【ここで場面は、喜介の小屋に戻る】 : 詠:そ、それで、どうなったってんですか? あの獬さまと打ち合って…。さすがは喜介さんですねぇ。 きすけ:それは、お詠さんも、でしょぉ。 きすけ:…ぐ、ぐぅ【口の端から血がしたたる】 詠:あ、喜介さん! 【懐紙(かいし)を差し出す】 きすけ:ほっほ…。このところ、ときどきありましてなぁ。 きすけ:まぁ、今すぐどうというわけでなし、最後まで聞いてくだされや…。 : 0:【以下の獬との場面、喜介・四十歳】 : 獬:〈阿武兼役〉貴様が命、我らに預けよ。 きすけ:……はい? 獬:〈阿武兼役〉よいか、喜介。江戸の最恵寺に姫の墓所を用意してやる。貴様はそこの墓守を務めるがよい。 きすけ:……なぜです。 獬:〈阿武兼役〉貴様の腕はとくと見た。姫がごとき悲しきものを減らすため、我ら「竜胆」が動いておる。 きすけ:……「竜胆」?  獬:〈阿武兼役〉ふっ。なに、我もいずれ次代(じだい)の礎(いしずえ)となる身よ。 獬:あたら無闇(むやみ)にその命を散らす気であれば、いっそ我らに預けるがよい。 きすけ:…りん、どう。 獬:〈阿武兼役〉そうよ。いつになるかは、定かではない。貴様に「島」があったように、我らにも「里」がある。そこに面白い「小僧」がおるそうでな。まったく先が楽しみよ。 きすけ:…小僧さん、ですか。 獬:〈阿武兼役〉そのうち、貴様のもとへ「竜胆」を遣る(やる)。それが男か女かは分からぬが…。 獬:そのものに手ほどきをしてくれい。貴様の持てる力を、な。 きすけ:……姫さまは? 獬:〈阿武兼役〉貴様さえよければ、すぐにでも最恵寺に改葬(かいそう)させよう。あすこの墓所は広うない。また、檀家(だんか)にも滅多なものはおらぬ。 獬:〈阿武兼役〉貴様は、墓守として、今しばらく姫に仕えよ。 きすけ:……よろしい、承りましょう。姫さまのような、悲しいお方が減るのであれば。 獬:〈阿武兼役〉うむ。頼んだぞ。 : 0:【ここで場面は、喜介の小屋に戻る】 : 詠:なんとまぁ、そういうことですか。あたしが…このあたしが、その約定の「竜胆」なんだねぇ…。 詠:…ふふ。その獬(かい)さまはきっとご先代でしょうよ。なんだかうれしいねぇ。 きすけ:ほっほ。あのお方は、間違いなく「天下無双」でしたなぁ。ほっほ…ぐ、ぐぅ【血を飲み込む】。 きすけ:…さて、お詠さん、そろそろ参りましょうかのう…。うまい酒でしたわぃ。 詠:あぁ、そうだね。大きな大きな礎(いしずえ)だけどねぇ…、あたしゃ、それを越えてくよ。 きすけ:ほっほ。まっこと、たのもしいことですのう。  :  : 庵主:〈N〉最恵寺の住職は、ことの成り行きを知っている。喜介から「その時」を知らされ、金堂(こんどう)にやってきた。見届け人を務めるのだ。お詠は、いつもの装束に身を包み、その場に出た。対する喜介は普段着である。 詠:〈M〉…喜介さん、あんたの苦界(くがい)、ここらで終わらせないとねぇ。 きすけ:ささ、それでは始めましょうか。これ、ここに石があります。今から投げ上げますからのう。床に落ちたら合図ということですじゃ。 詠:はいよ。わかりましたよ。【刀を構える】 庵主:〈N〉投げ上げられた石は床に落ちた。しかし、二人はほとんど動かない。それでも二人は戦っていた。喜介の視線が動く。お詠の膝が落ちる。喜介が息を吐く。お詠が左へ半歩踏み出す。 庵主:動きにすればその程度のものである。それでも、張り詰めた空気がそこにある。住職は息をのんでいた。 きすけ:…お詠さん、あなたの天分(てんぶん)、恐れ入るほどですな。 詠:…ふふ、そうかい? きすけ:出会うた(でおうた)のは六日ほど前でしょう。 詠:…あぁ、そうだね。 きすけ:もうまるで別人だ。わたしが言うことをほとんど身に着けていなさる。 詠:…さて、どうだろうね。 きすけ:…わたしには、獬どののご期待に添う務めがありますからな。ここらで話はしまいですじゃ。 詠:うん。そうしよう。 きすけ:ほっほ。 庵主:〈N〉きすけが、ゆったりと前に進む。すばやくはないが、年を感じさせることのない、確かな歩みでお詠めがけて進んでいく。対するお詠も揺るがない。お詠の気も金堂中に満ちているかのようである。 庵主:二人の気迫にさらされ、住職の額に汗がにじむ。住職がふところから手ぬぐいを出そうとした、そのときであった。 詠:何っ!? 詠:〈以下、M〉はは…さすがは、喜介さんだ。この動きはちっと真似できないねぇ。 きすけ:…ほっほ。 きすけ:〈以下、M〉立派にお咲きなされ、「まっすぐに」伸びなされ。あなたに天井はありません。 庵主:〈N〉なんと、お詠の目の前に喜介が二人いた。たしかに二人の喜介がいるのである。 庵主:その二人が両脇に離れていく。一尺(三十センチほど)、二尺と次第に左右に距離をとる。 詠:〈M〉これは…両の目で追いかけていちゃあ、間に合わないね。 庵主:〈N〉一説に、馬は自分の真後ろのごく狭い部分以外すべて見えているという。それに対して人の視野はその半分と少し。 庵主:左右に開いていく喜介を目で追うことはできないと判断したお詠は、その両の眼を閉じた。 きすけ:〈M〉よいですぞ、お詠さん、それでよい。 きすけ:〈以下、セリフ〉…では。 庵主:〈N〉汗が止まらぬ住職の目の前で、喜介が動いた。左の喜介は跳躍し、お詠の頭上から刀を下げる。対する右の喜介はすさまじい速度で踏み込むと、対角線に切り上げた。 庵主:三人が交錯(こうさく)するかに見えたその一点で、お詠は身を下げ速度を上げて前に出る。そして、すぐさま体勢を変え、走り来た方に向き直った。 庵主:目を見開いたお詠が切りつけたのは、下側から切り上げた喜介であった。 きすけ:…ぐ、ぐぬぬ、ぐ、ぐぉ…。 詠:はぁ、はぁ、はぁ【息を荒げている】 庵主:〈N〉お詠が肩で息をしている。これまでに見せたことのない姿であった。それがこの勝負のすごさを物語っている。 庵主:喜介は首の裏側を切られていた。もう助かりはしない。だが、声は出せるのであろう、何事かを口走っている。 詠:…なんだい、喜介さん。 きすけ:【こと切れそうに】あぁ……姫さま。…はは、宮(みや)さままで…【入れられれば猫の声】 きすけ:…真菰(まこも)さま…お会い、しとう、ござ、い、ま、…し……【こと切れる】 詠:【涙を浮かべて】…よかったねぇ、喜介さん、姫さまに会えたんだねぇ…。 阿武:〈N〉喜介が繰り出したのは、彼の奥義。獬(かい)から手ほどきを受けて身に備えた必殺の一撃であった。 阿武:お詠は、視覚に頼らず、嗅覚と聴覚で乗り切った。窮地を脱したお詠が振り向きざまに確かめたのは、刃(やいば)のきらめき。 阿武:一度閉じ、再度開いた視界の端でわずかに明るく光るもの。お詠はそちらの喜介を的と定め、切りつけたのであった。 詠:…喜介さん、ありがとうよ。獬さまの思し召し、はっきりとこの胸に収めましたからね。 詠:だからね、安心して姫さまと、そっちで仲良くしてくださいよ……。  : 0:【以下、万葉集の短歌二首を交互に読みます。口語訳については読んでも読まなくても、どちらでもよろしいです】  : きすけ:ま薦(こも)刈(か)る 大野川原(おおのかわら)の 水隠(みごも)りに  きすけ:恋ひ(こい)来し(こし)妹(いも)が 紐解く(ひもとく)我(あれ)は きすけ:【万葉集 巻十一―二七〇三 読み人知らず】 庵主:恋ひ(こい)恋ひて 逢ひ(あい)たるものを 月し あれば 庵主:夜(よ)は こもるらむ(こもるらん) 今はあり待て 庵主:【万葉集 巻四―六六七 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)・改】 きすけ:真菰(まこも)を刈る、大野川(おおのがわ)の川原の水のようにこもって、ひそかに恋をしておりました。 きすけ:その恋しい娘の紐(ひも)を、私は今こそ解(ほど)きましょう。【服を脱がせる、の意】 庵主:長い間 恋いつづけて ようやっとお逢いしましたものを。まだ月が残っていますから、 庵主:きっと夜の闇は深いでしょう? ですから、今は、このまま二人でいてくださいませ。 庵主:【原文の「しましはあり待て」を「今はあり待て」とさせていただきました】 : 0:【最後のセリフは若い二人でお願いします】 : 庵主:…喜介さま、それでは参りましょう。…この手を取ってくださいますか。 きすけ:はい、姫さま、…いや、真菰(まこも)さま、長らくお待たせしました。 庵主:…本当に待たせすぎです【むくれる】。 庵主:今日このときをどれほど心待ちにしていたことか、じっくり聞いていただかなければ。 きすけ:ふふふ、よいですとも。お側を離れることは、もうないのですから……。 きすけ:真菰(まこも)さま……お慕(した)いしておりますよ。 庵主:…やっと…やっと言ってくださいましたね……。 庵主:うれしい。…うれしゅうございます、喜介さま……。  : 詠:〈M〉……あぁ、喜介さんが微笑んでいなさるねぇ…。ほんと、安らかなお顔だよ…。  : 阿武:〈N〉獬(かい)の課役(かやく)を果たし、喜介という礎(いしずえ)の分だけ大きくなれた。 阿武:「竜胆」が臨む『誂検(あつらえ あらため)』までは、あと三日。 阿武:喜介の手ほどきを受けたお詠は、そこで獬(かい)に何を示すことができるのか。 阿武:お詠と阿武にとっての「その時」が、すぐそこに迫っていた。 : : 0:これにて終演でございます。今作こそは一本完結にしようと思ったのです。 0:それはかなったのですが、またもや長くなってしまいました…。 0:次第に明らかになっていく「竜胆」をお楽しみいただけますと幸いです。 0:どうぞみなさまの「声劇ライフ」のお役に立てますように。