台本概要
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タイトル | less than human |
---|---|
作者名 | つばきつばさ (@28ki283) |
ジャンル | その他 |
演者人数 | 4人用台本(男2、女2) ※兼役あり |
時間 | 40 分 |
台本使用規定 | 商用、非商用問わず作者へ連絡要 |
説明 |
俳優を志す葉介(ようすけ)は先の見えない鬱屈した日々に息苦しさを感じ、 自らを献身的に支える雛(ひな)に行き場のない苛立ちをぶつけるばかりの日々を過ごしていた。 ある日、養成所の同期の林(はやし)から連絡があり、久しぶりに会うことになった。 俳優業を諦め、キャッチになった林は、葉介に思いもよらない話を提案する。 416 views |
キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
---|---|---|---|
葉介 |
男 ![]() |
153 | オオバヨウスケ29歳男性。俳優志望。才覚はあれど実績はなく、同棲する雛に養われている。 |
雛 |
女 ![]() |
64 | ヒナ28歳女性。葉介の恋人。あと一年で芽が出なければ役者を辞めるという約束を信じ、キャバクラ嬢として葉介を支えている。 |
林 |
男 ![]() |
83 | ハヤシコウイチ30歳男性。葉介の養成所の同期。葉介に枕営業を薦める。雛に恋愛感情を抱いている。 |
橋野 |
女 ![]() |
59 | ハシノユミ39歳女性。新進気鋭の映画監督。葉介の本性に自身の求めていた役像を見出し、彼を囲う。 |
テレビの男 |
男 ![]() |
2 | 冒頭のテレビドラマに出てくる男性。林役が兼ねる。 |
テレビの女 |
女 ![]() |
2 | 冒頭のテレビドラマに出てくる女性。橋野役が兼ねる |
コンビニ店員 |
女 ![]() |
2 | 橋野役が兼ねる |
居酒屋店員 |
女 ![]() |
4 | 雛役が兼ねる |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
0:葉介、狭いアパートの一部屋でテレビを見ながら酒を煽る
葉介:(モノローグ)空いたコップにまた焼酎を注いだ。
葉介:何の風味もないアルコールだった。
葉介:どこかで見たような男と女が、テレビ画面の上をうごめいていた。
テレビの男:俺は君を愛している。心の底から、君を愛しているんだ。
テレビの女:あなたが愛しているのはあなただけ。私はそのための小道具。
テレビの男:違う、俺は、君のことを、愛してるんだ。
テレビの女:お願いだから私を理由にしないで。原因にしないで。言い訳にしないで。あなたは最初から私なんか見ていない。あなたの都合のいいように、私を横に、ただ添えておくだけ。
葉介:(モノローグ)くだらないドラマだと思った。気がつくと、コップは空になっていた。チャンネルを変えた。画面が変わった。内容はどれも同じだった。
0:雛、ドアを開けてアパートに帰ってくる
雛:ただいま。葉介、まだ起きてたの。
葉介:おかえり。
雛:ねえ聞いてよ。今日ヘルプでついたお客さんなんだけど、すっごい飲み方悪くてさあ。同伴の女の子の髪の毛に噛み付いたんだよ。あり得なくない。
0:(葉介、雛の言葉を遮るようにして)
葉介:なあ。
雛:なあに。
葉介:金、貸してくれよ。
雛:貸してくれって。昨日一万渡したばっかりじゃない。もう、なくなっちゃったの。
葉介:オーディションの交通費で使った。
雛:だって、会場は都内でしょう。そんなに遠くじゃないじゃん。一万円も……。
葉介:タクシーで行った。
雛:タクシー。なんで。
葉介:雨が降っていたから。
雛:雨って。別に、傘させばいいじゃん。
葉介:あの役のオーディション前に、濡れたくなかったんだ。
雛:はあ……そうなんだ。
雛:じゃあこれ。大事に使ってね。今月税金とかで苦しいから。
0:雛、財布から一万円札を取り出す。
雛:それでさあ、そのお客さんったらね。
0:葉介、雛の手から金をひったくるように奪う。
葉介:悪い、後にしてくれ。タバコ買ってくる。
雛:……いってらっしゃい。
0:葉介、アパートのドアを開けて出ていく
葉介:23番。ソフトの方。
コンビニ店員:タッチパネルを押してください。お会計は千四百八十円です。
コンビニ店員:お支払いは現金でよろしかったでしょうか。
0:(間)
コンビニ店員:ありがとうございました。
0:葉介、コンビニを出る。
葉介:(モノローグ)帰り道、小雨が降ってきた。傘などなかった。
葉介:ポケットのスマートフォンが小刻みに震えた。
葉介:手垢のついた液晶に、見慣れぬ番号が踊っていた。
0:葉介、電話に出る。
林:もしもし。あの、俺のこと、覚えてるか。
葉介:その声は、林か。
林:そう! そうだよ! 養成所で一緒だったハヤシコウイチだよ。
林:何年も連絡しなかったのに、覚えててくれたんだな。
葉介:久しぶりだな。元気だったか。
林:うん。どうにかうまくやってる。お前の方はどうだ。順調か。
葉介:相変わらずさ。
林:そうか。まだ、役者やってんのか。
葉介:ああ。
林:仕事増えたか。
葉介:いいや。
林:そっか。なかなか、うまくいかねえよな。
林:でもお前芝居いいしさ、顔もいいからきっとチャンス来るよ。
葉介:……ああ。
林:バイトはしてんのか。
葉介:辞めた。この一年は役者に専念する。
林:そっか。
林:あのさ、もし金が厳しかったら、俺の仕事手伝わないか。単発で。
葉介:また急だな。
林:俺、役者辞めて自分で仕事やってんだよ。
林:ちょっと人手が欲しくてさ。それもあって、お前に連絡したんだ。
葉介:順調そうでよかったよ。
林:とにかく今度一度会って話さないか。久しぶりに昔の話でもしようぜ。
葉介:予定を見ておく。
林:声が聞けてよかった。また連絡するよ。
0:葉介、アパートに戻る。
葉介:ただいま。
雛:おかえり。
雛:ねえ。今日のオーディション、どうだったの。
葉介:落ちた。
雛:そっか。残念だったね。
0:(間)
雛:あの葉介さ。三十歳までに芽が出なければ、役者辞めるって言ってたよね。
葉介:言ったが。
雛:今年三十だよ。あと一年切ったよ。
雛:どうなの。
葉介:どうって。
雛:見込み、あるの。
葉介:はあ、何なんだよその言い方。
雛:今日のオーディションだってさ、一言で「落ちた」って。
雛:そんなサラって言われると、こっちだって不安になるよ。
葉介:俺は俺の解釈通りに演じた。
葉介:それで、落ちた。
雛:うん。わかるよ。葉介が本気なのはわかる。自分のお芝居に自信があるのもわかる。
雛:でもね。いっつもお酒ばっか飲んで、稽古とオーディション以外何にもしてないじゃん。
雛:それで、本当に大丈夫なのかなって。
葉介:お前に何がわかるんだ。なあ。
0:葉介、雛に詰め寄り肩口を掴む
雛:分かろうとしてるよ。精一杯、理解しようとしてるよ。
葉介:理解なんてできっこない。お前に何がわかるんだよ。
0:葉介、雛の髪を鷲掴みにする。
雛:お願い、辞めて。髪を掴まないで。
葉介:そうやってお前も、あいつらのように俺を覗き込むのか。値踏みするっていうのか。
雛:違うの。
葉介:うるさい!
0:葉介、雛の顔を思い切り叩く
雛:殴らないで。お願いだから。
葉介:もういい。黙れ。何も喋るな。服を脱げ。
雛:乱暴しないで。お願い。
葉介:早くしろ!
0:(間)
雛:(モノローグ)彼は私の頬を何度も張った。
雛:髪を掴んだまま、馬乗りになった。
雛:それから、子供が言い訳をするように、何度も何度も乱雑に、私の上で腰を振った。
0:雛、啜り泣いて嗚咽を漏らす。葉介のモノローグの間、続く。
葉介:(モノローグ)自分はどこに向かっている。
葉介:歩いている。立ち止まっている。
葉介:それとも、沈んでいる。
葉介:暗い水の中にいる。
葉介:息が苦しくなる。
葉介:息の仕方を忘れる。
葉介:苦しさを誤魔化す。
葉介:酒を浴びる。
葉介:タバコを吸う。
葉介:優しさが怖くなる。
葉介:汚い言葉を、吐き捨てる。
雛:ひどいよ。こんなのやだ。
雛:これじゃ、八つ当たりの、ただのオナニーじゃん。私、葉介の道具じゃないよ。
0:葉介、ため息をつくようにして、タバコを吸う
葉介:悪かった。
雛:そうやって目線外して、不貞腐れてさ。謝まるつもりなんてないんでしょ。
葉介:ああ。
雛:ひどいよ。
葉介:ああ。
葉介:シャワー浴びてくる。
0:間
0:場面転換、夜の繁華街。雑居ビルの前。林が待ち合わせに遅れてやってくる。
林:ようお待たせ。久しぶり。お前、変わんねえなあ。
葉介:そういうお前は、なんか雰囲気変わったな。
葉介:いつもパーカーとジーンズばっかり着ていたが。どこの不動産屋かと思ったよ。
林:まあ、それなりに金は入ってくるようになったからさ。
林:おかげさまで普通のサラリーマンよりはいい生活してるよ。
葉介:へえ。役者辞めて何の仕事してるんだ。
林:んー、サービス業だよ。詳しいことは後で話す。
林:さあ今日はこの店だ。俺の奢りだから、昔みたいにバンバン飲もうぜ。
0:二人、雑居ビルの中の居酒屋に入る。
居酒屋店員:いらっしゃいませ。ご予約のお客さまですか。
林:八時で予約の林です。
居酒屋店員:お待ちしておりました。お席にご案内いたします。
居酒屋店員:お先にお飲み物のご注文をお願いします。
林:えーっと、お前は何飲むの。
葉介:ビールでいい。
林:そっか。じゃ俺もビールで。生ビール二つお願いします。
居酒屋店員:かしこまりました。
林:あの頃はさ、金なくてウーロンハイばっかり飲んでたよな。
林:やっすい焼酎のうっすいやつ。
林:どうせ飲み放題なんだから濃いめにしろ! ってゴネたら、とんでもねえ濃さのが出てきたりしてさ。
葉介:酎ハイじゃなくてウーロンハイか緑茶ハイじゃないと量が飲めないんだよな。
林:そうそう。サワー系は腹に溜まるし、後で頭痛くなってくる。わかるわ。
0:居酒屋店員、二つのジョッキをテーブルに置く。
居酒屋店員:お待たせ致しました。生ビール二つです。
居酒屋店員:お料理のご注文はそちらのタブレットからお願いします。
林:はーい、ありがと。
林:じゃ、とりあえず乾杯しようぜ。
葉介:ああ。
林:久しぶりの再会に。
葉介:乾杯。
0:二人、乾杯し、喉を鳴らして酒を飲む。
林:ふう。ところでお前、覚えてるか。演技指導の講師と大喧嘩したときのこと。
葉介:そんなことあったか。
林:あったあった。俺今でも覚えてるよ。
林:指導講師に「その空間認識はおかしい」って食ってかかったんだよお前。
林:確か、家具。話に絡んでもこないテレビの位置がどうとか言ってたよ。
葉介:ああ。思い出した。あの空間認識はおかしかった。
林:写りもしないテレビの位置がそんなに大事かね。
葉介:大事だ。
葉介:だって倦怠期のカップルには緩衝材(かんしょうざい)がいるだろ。
葉介:あの話ではそれがテレビだったんだ。
葉介:だから、二人がテレビを挟まないで立つのはおかしいだろ。
林:そこまで考えてるもんなんだなあ。
葉介:役者も観客もそこに釘付けになるためには、圧倒的なリアリティが要る。
林:そんなもんかねえ。俺は、お前みたいに芝居の才能はなかったわ。辞めて正解だ。
葉介:才能なんかじゃない。
葉介:ただの、執着だと思う。
林:執着か。
林:ならなおさらないわ俺。諦めんの早かったもん。
林:二十七になる年に、スパーッと上がっちまった。
葉介:潔い決断だった。
林:うん。それでも遅いと思ってたからさ。
0:暫しの無言。葉介、タバコに火をつけてから林に尋ねる。
葉介:芝居やめたこと、後悔してないか。
林:あー。
林:心残りっていうか、悔しさみたいなのはそりゃああるけど、後悔はしてない。
林:どう考えても芝居で食っていける未来が想像できなくてさ。
葉介:そうか。
林:うん。それで俺さ、今スカウトの仕事してるんだよ。
林:あれだよ。歌舞伎町とか歩いてるとごまんといるだろ。
林:女の子に声かけて、夜の店とかに送るあれ。
葉介:スカウト。お前がか。
林:そう。芝居の稽古が活きて、割と業績良いんだよ。要はサービス業だから。
林:役者時代の一年分のバイト代、半月で入ってくる感じ。
林:だから柄にもなく、こんなブランド物のスーツとか買っちゃう。
林:貯金もしてるけどね。
葉介:随分景気がいいじゃないか。
林:あのさ、お前が役者頑張ってるのはわかるけど、財布はキツいわけじゃん。
林:もしも金がいるなら、俺の仕事手伝ってくれないか。
葉介:いやいや、俺は口下手だからキャッチなんて無理だよ。
林:違う。頼みたいのはアテンドの方だ。
葉介:アテンドってなんだ。
林:一晩、ある女性の相手をしてもらうの。
葉介:お前、俺に出張ホストやれってのか!
林:おい声がでけえよ。
林:でもまあ、そういうこと。
林:手付けで五十万。相手が満足したら、さらに五十だ。
林:うまくいけば一晩で百万。悪くない話だろ。
葉介:そんな仕事はしない。
林:まあ待て。最後まで聞けよ。この話には続きがあるんだ。
林:お前に頼みたいのは、男日照りの金満(きんまん)変態ババアじゃない。
林:依頼主は、あの橋野(はしの)ユミだ。
林:お前なら知ってるだろ。今話題になってるあの映画監督の橋野ユミなんだ。
葉介:橋野ユミのことは知っている。
葉介:しかし、なぜ彼女がそんな。
林:上手くいけば、大きなコネになるかもしれないぜ。
林:なあ。俺たちもう今年三十になる。
林:世の中綺麗事だけじゃないだろ。
葉介:そうかもな。
林:雛ちゃん、まだ夜のバイトやってんのか。
葉介:ああ。
林:あの子だって好きでやってるわけじゃないだろ。
林:お前を支えるためにやってんだろ。
林:いつまでもキャバクラで食っていけるわけじゃない。
林:そろそろ先のことだって考えなきゃ。
葉介:お前の言いたいことはわかるよ。
林:チャンスは死に物狂いで掴まなきゃ流れちまうんだ。
葉介:この話はチャンスなのか。
林:きっかけはなんだっていいじゃんか。
林:お前の情熱があれば、仕事につながるかもしれないよ。
葉介:わかった。
葉介:橋野ユミと寝るかどうかはさておき、会うだけあってみる。
林:俺さ、お前たちのこと、心配してんだよ。
林:お節介なのはわかってるけどさ。
葉介:ありがとうな。
林:へへ。さあ飲もうぜ、なんでも好きなもん頼んでくれよ。
0:場面転換、葉介、千鳥足でアパートに帰る。
雛:おかえり。顔色悪いよ、大丈夫。
雛:ご飯、できてるけど。
葉介:飯はいらない。
雛:そっか。
雛:あのね、ちょっといいかな。聞いてほしいことがあるの。
葉介:悪いが大事な考え事があるんだ。話は明日でもいいか。
雛:(モノローグ)足取りも覚束ないほどひどく酔った彼は、どうにかこの部屋に帰り着いて、今にも泣き出しそうな顔で私の言葉を遮ると、そのまま床に倒れて、やがて規則的な寝息を立てた。
0:場面転換。葉介、シティホテルの一室の扉を二度ノックする。
葉介:(モノローグ)品川のシティホテル、くだんの橋野ユミの部屋の扉(と)を叩いた。
葉介:実に無関心そうな声で、彼女は俺を招き入れると挨拶もなく、不躾に、値踏みするように視線を這わせた。
橋野:あなたが彼の言ってた絶世の美男子。
葉介:オオバと申します。
橋野:ただ綺麗なだけで、ごくありふれた顔じゃない。
橋野:そりゃ、会ったことも忘れるわけだ。
葉介:私をご存知なのですか。
橋野:知ってるよ。
橋野:一次オーディションで何度かあってる。書類の上ではもっとあってる。
葉介:光栄です。
橋野:はは、一次で落とされてるくせに何言ってんの。
葉介:すいません。
橋野:いいわ。じゃ、脱ぎなさい。一枚ずつね。
橋野:私の顔色を伺うようにして、服を脱ぎなさい。
0:葉介、少し待ってため息をつく。
葉介:お断りします。
橋野:あなたの事情は彼から聞いてる。
橋野:三十手前の芽が出ない俳優が、私の命令を断る理由なんて、あるかな。
葉介:ありません。だが、甘んじる理由もありません。
橋野:いくじのない男。
橋野:服なんてねえ、誰だって脱げるんだよ。ほらこうするの。
0:橋野、自らの衣服を躊躇いなく脱ぎ去る
橋野:どんな高くていい服着たってね、人間五秒もあれば裸なの。
橋野:さあ私を抱いてみなさいよ。
橋野:これまで生きてきて覚えた全てを使って、やってみな。
葉介:お断りします。俺は服を脱がないし、あなたを抱かない。
橋野:じゃあ何しに来たんだよ。
葉介:会うだけ会ってみると、紹介者に約束しました。
橋野:約束したから女のいる部屋までノコノコ来て、挨拶して帰るって?
橋野:あなたみたいに、失うものも何もない人間がなぜ、このチャンスをみすみす逃すの。
橋野:条件は彼から聞いてるでしょう。
橋野:五十万。どれだけみすぼらしいセックスでも五十万あげる。
橋野:少しでも見込みがあれば、もう五十万。
橋野:あなた食っていかれない役者なんでしょ。お金いるじゃない。
葉介:俺に金がないことと、あなたを抱くかどうかは関係ありません。
橋野:……じゃあさ、出来が良ければ私の作品で使ってあげるよ。
葉介:結構です。
橋野:これだけニンジン並べられて、なんでやれないの。どうかしてるよ。
葉介:もしここで、あなたを抱いて金をもらったら、俺はもうきっと次のチャンスで潰れてしまう。
橋野:うん。だから。だから何。プライドが捨てられないってか。
葉介:怖いんです。
橋野:怖い。何が。
葉介:張っていた糸が切れてしまうことが、怖い。
橋野:あなたさ、虚勢の一つも張れないの。
葉介:ええ。
橋野:私は映画監督で、あなたは売れない役者なの。わかる。箸にも棒にもかからないの。
橋野:だから背伸びをしなきゃいけないの。転びそうになりながら掴まなきゃならないの。
橋野:嘘の一つもついてみてよ。ねえ。
葉介:抱けません。
橋野:(モノローグ)目の前に立つ長身美貌の青年は、まばたきひとつのうちに子犬のように見えた。
橋野:そうして私は一糸まとわぬ姿のまま、発作的に彼を、笑いながら抱きしめていた。
0:橋野、葉介に近づいて首の後ろに両腕を回す。
葉介:やめてください。俺はあなたを抱きません。
0:葉介、橋野を突き返す。
橋野:売れない役者のくせにさ、ちゃんと自己分析ができるんだね。生意気。
橋野:いいよ、脱がなくて。いいよ、抱かなくて。もういいから。
橋野:何の役にも立たない信念と一緒に、ほら。
0:橋野、サイドテーブルに置いた裸の現金を投げつける。
橋野:この金持って帰りな!
葉介:何もしていないのに金はもらえません。
橋野:いいんだよ。これは仕事だから。
橋野:貰わないと紹介してくれた彼にまで迷惑かかるよ。
橋野:これもらってさ、どうしていいかわからないその顔で、電車でもタクシーでも乗ってさ、あぶく銭の使い道考えながら、なんだか寂しそうなフリをして、安いキャバやってる女抱けばいいじゃん。
橋野:ボクはお芝居しかできなくてプライドが捨てられないからヒモにもなれない男ですって、慰めてもらいなよ。ねえ。
葉介:……林はそこまで話したんですか。
橋野:違うよ。あんたの役者仲間から聞き出したの。
橋野:あの子たちさ、私の名前出したら何の迷いもなく売ってくれたよ。
橋野:あんたのプライベート、バーゲンセール。
葉介:こんなことをして愉(たの)しいですか。
橋野:悪趣味だって言いたい?
葉介:他人(ひと)の趣味の良し悪しというものは、俺には分かりません。
葉介:ただ、あなたが何がしたいのか、気になっただけです。
橋野:その人間の質(しつ)が見えるの。
葉介:質。それは、本質という意味ですか。
橋野:本質という言葉は質の対義語だよ。
橋野:質とは本来固定されないもの。状況に応じて振る舞いを変えるもの。
橋野:その場その場で揺らぐ陽炎(かげろう)のようなもの。
葉介:札束と立場で叩き伏せれば、俺の質が見えると。
橋野:思い詰めたふりをした不幸ぶった男の薄皮を剥ぐには、それが一番よく切れる刃物なの。
橋野:『背水の陣を敷き覚悟を装った俳優は、小さな水たまりの前で震える子犬だった』
橋野:どう。なかなかグッとくる結末だと思うけど。
0:葉介、侮辱に耐えかねてホテルの壁を殴りつける。
葉介:お前に、お前らに何がわかるんだよ。
橋野:わかるよ。わかるんだよ。
橋野:あんたみたいなのを生み出してるのは私たちみたいな連中だから。
橋野:さも叶いそうな夢を絵に描いてぶら下げてるだけなのに、いつか夢が叶うと、花は開くと、信じてる。
橋野:独りよがりで何も生み出さないで周りの善意を食い荒らすだけの穀潰し。
橋野:オオバヨウスケ、アンタは蛆虫(うじむし)だよ。
葉介:俺は、人間ですらないと。
橋野:そう。自分の腐肉を自分で喰らう蛆虫。
橋野:人間の醜さの最(さい)たるものは自己憐憫(じこれんびん)だ。
橋野:そうやっていつまでも自分を憐れみ、腐臭を漂わせて別の虫を呼べばいい。
橋野:物欲しげな目で相手をうかがって何も触らせずに殻に閉じこもっていればいい。
葉介:俺は。
0:(橋野、深呼吸をして)
橋野:もういいわ、十分な収穫よ。それ持って、今日は帰って。
葉介:……失礼します。
0:場面転換。地下にある喫茶店。林、ソファ席で待つ雛の元へ向かう。
林:(モノローグ)彼女に連絡をとった。ずっと前から、連絡先は知っていた。
林:それらしい理由をつけて、お茶に誘った。
林:彼女もまた、それらしい理由に乗って、俺に誘われた。
林:地下にあるカフェのテーブルで見つけた彼女は、三年前の記憶の中のより、ずっと老けて小さく見えた。
0:雛、近づいてくる林に気づき小さく手を振る
雛:林くん、久しぶり。元気だった。
林:ごめんね急に呼び出して。最近どうかなって。
0:林、雛の向かいではなく真横に許可なく座る。
雛:なんか雰囲気変わったね。最初、誰か気づかなかった。ビジネスマンって感じだね。
林:ここのツーブロックの刈り上げとか、ほんと胡散臭いでしょ。
雛:マンションとか売ってそう。
林:っぽいよね。
林:ところで、この前あったんだけどさ、葉介、なんか荒れてない?
雛:うん。ちょっとね。
林:そう、なんだ。
雛:稽古に専念したいってバイトも辞めちゃったし。
雛:でもお金ないのに飲み行くし、タバコいっぱい吸うし、正直大変だよ。
林:あいつは昔っから、そういうところ、亭主関白っぽいところあるよね。
0:(間)
林:あのさあ。ぶっちゃけた話、今いくらもらってるの。
雛:お金の話?
林:うん。まだ馬場でキャバクラやってるんでしょ。
雛:うん。
林:あの辺、客層あんま良くないよね。
林:来てもらった理由なんだけどさ、俺、今スカウトやってんだ。
林:雛ちゃんならもっと条件のいい店紹介できるよ。力になりたいんだ。
雛:ありがとう。でも、問題があってね。
林:何、どうしたの。
雛:うん。
林:ああ、言いにくいことだったら、別に無理には。
雛:あのね。
林:うん。
雛:私ね。
林:うん。
雛:赤ちゃんできたの。
林:……そっか。葉介の子、だよね。
雛:うん。
林:あいつには話したの。
雛:話したいけど聞いてもらえないんだ。
雛:今、いろいろ大変みたいで。
林:そうなんだ。その、産むの。
雛:産みたいよ。
雛:でもね、あと一年、あと一年だけだから、って約束したの。
雛:あと一年頑張って、それでも芽が出なければ役者辞めるって。
雛:この一年だけは挑戦させてほしいって言ったの。
雛:だから、だからこの子は産めない、かな。
林:そっか。もう決めてるんだね。
林:雛ちゃんは、今幸せ?
0:雛、小さく苦笑する。
雛:林くんもひどいこと聞くよね。
林:ごめん。わかってて聞いた。
雛:私、幸せだよ。
林:本当に?
雛:葉介のそばに入れるから。
林:あいつのこと、本当に好きなんだね。
雛:葉介はあんな風にしか生きていけないと思うから。
林:……雛ちゃん。あの、俺ーーー
0:雛、林の言葉を遮るように
雛:ごめん、やっぱり私帰るね。
林:雛ちゃん!
0:林、逃げ出すように席を立った雛の背中に声をかける。
林:こんなこと言うの変だけど、俺、応援するから。
林:何かあればいつでも連絡して。待ってる。
雛:バイバイ。
0:雛、店を出て階段を上がっていく。
林:(モノローグ)逃げるように去っていく彼女になんと声をかけるのが正解だった。
林:頭の中をぐるぐると力のない言葉が回った。
林:ポケットの中の小刻みな振動が後悔の回遊を止める。
林:葉介からの着信だった。
葉介:今話せるか。
林:ああ、お疲れ。橋野さんと会ったんだってな。
林:さっきメールきたよ。それでどうだった。
葉介:どうもこうもない。何もしていない。
林:会うだけ会うって約束だったからな。別にそれはいいよ。
葉介:悪いが、お前の仕事はもう手伝わない。
林:それも別にいいよ。
林:でもさあ、お前もう少し考えてもいいんじゃねえかな。
林:周りの人のこととかささ。
葉介:紹介したお前の顔を潰して悪かったと思ってる。
林:そうじゃねえよ。そんなんじゃねえんだ。
葉介:じゃあ何だ。
林:いや、もういいわ。何でもねえ。
林:切るよ。
0:場面転換。葉介、アパートに独り。
葉介:(モノローグ)『もう少し、周りの人のことを考えろ』
葉介:林から言われた言葉を思い出す。
葉介:タバコがまた一本、長い灰に変わる。
葉介:あと一年、残された時間を待たず、自らこの道を降りたとする。
葉介:俺は、それから、どうなるのだろう。
葉介:火を消しそびれた吸い殻は、フィルターまで燃えて、燻(くすぶ)った。
葉介:間に合うのか。燃え尽きるのか。
0:床の上に放られたスマートフォンが振動する。
0:葉介、受話する。
橋野:もしもし。
葉介:……はい。
橋野:オオバヨウスケさんの携帯電話でお間違いないですか。
葉介:そうですが。
橋野:橋野です。
葉介:橋野……さん。
橋野:あなたに抱かれ損ねた中年女の橋野です。先日はどうも。
葉介:先日は、どうも。
橋野:過日お受けいただいた『三面鏡』のオーディションの件でご連絡です。
葉介:その件でしたら、ご担当者様から落選のご連絡をいただきましたが。
橋野:追加合格です。
橋野:これからすぐに、最終審査をお受けになりませんか。
葉介:……この前の続きですか。悪い冗談ならやめてください。
橋野:冗談ではありません。
橋野:監督・橋野ユミから、俳優・オオバヨウスケに、最終審査の連絡をしています。
橋野:会場は……。
0:場面転換。小さな古いスタジオ。葉介、息を切らしてスタジオ中に入ってくる。
葉介:お待たせしました。
橋野:(モノローグ)指定したスタジオに彼は三分遅れでやってきた。
橋野:目は血走り、髪は乱れ、とても俳優を志望する人間の風体(ふうてい)ではなかった。
橋野:殺人さえも辞さない強盗のような佇(たたず)まいが、私の臍(へそ)の辺りを強く震わせた。
葉介:オオバヨウスケです。よろしくお願いいたします。
橋野:息が整い次第、シーン百四十七、シュウジの最後のセリフをお願いします。
橋野:台本はこちらを使ってください。
葉介:いえ。もう頭に入ってます。
橋野:全て?
葉介:全て。
橋野:すぐ行けますか。
葉介:はい。
橋野:では。
0:橋野、合図に大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は一体何を装(よそお)うつもりなのだ」
橋野:若すぎる。シュウジにもう五歳、歳をとらせてみてください。
0:橋野、大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は一体何を装うつもりなのだ」
橋野:線が細い。説得力を持たせるためにあと5キロ太らせて。それも不健康に。
0:橋野、大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は一体何を装うつもりなのだ」
橋野:シュウジは長年心臓を患っている。今の設定なら、もっと病状は悪くていい。
0:橋野、大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は一体何を装うつもりなのだ」
橋野:輪郭が見えてきた。息のつまる狭い箱の中でシュウジはずっと疑い続けてきたの。
橋野:今までのあなたと同じように。
橋野:さあ、彼の因縁を、刻んで!
0:橋野、一際大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は、一体、何を、装うつもりなのだ!」
橋野:それよ。
橋野:ねえ。なぜ唇を噛んだの。それも、血が出るほど。
葉介:シュウジのこの台詞には、見えない自傷行為が含まれているからです。
橋野:必要であれば舌でも噛み切るの。
葉介:それに値(あたい)するならば。
0:橋野、葉介に近づき音を立てて唇を奪う。
橋野:(モノローグ)私は彼に引き込まれるようにして近づき、強引に唇を奪った。
橋野:生暖かい鉄の味が流れ込み、それを追うように彼の舌が捩じ込まれた。
橋野:秒刻みで変貌してゆく怪物を、愛おしいと思った。
0:葉介、橋野の唇から口を離す。
葉介:この前の続きなら断ると言ったはずです。
橋野:あなたの薄っぺらい美貌も、じきに衰える肉体も、要らない。
橋野:あなたには抱かれない。荒削りの狂気と魂を、私が抱(だ)く。
橋野:心と体を削る舞台は用意するから、骨の髄までしゃぶらせてちょうだい。
橋野:それともあなたは、この前のように拒絶するのかしら。
葉介:俺があなたを抱く理由はないが、あなたが俺を抱く理由ならあります。
橋野:はは。そうね。きっと、そうなんだろうね。
0:橋野、葉介の首筋に口をつける。
葉介:(モノローグ)俺を蛆虫と嘲(あざけ)った目の前の女は、少女のように楽しそうに笑い、軽蔑とも憧憬(どうけい)ともとれる目を向けた。
橋野:ねえ。今どんな気持ち。張っていた糸は切れちゃった。
橋野:泣いてもいいんだよ。もう大丈夫だから。
葉介:黙れ。
橋野:何よ。
葉介:蛆虫を踏み潰してみせろ。
葉介:俺を抱くんだろ。早く跨がれよ。
橋野:葉介。
0:橋野、うめくような喘ぎ声を嬉々として漏らす。声は直後のモノローグが終わるまで続く。
葉介:(モノローグ)薄暗く狭いスタジオの蛍光灯がチカチカと点滅した。
葉介:部屋に陰が生まれた。
葉介:馬乗りになった女の顔が、よく見えなくなった。
0:場面転換。スタジオ近くの喫茶店。葉介と雛が向かい合って座っている
雛:うん。ごめんね、稽古の合間に呼び出して。
葉介:話ってなんだ。家じゃダメだったか。
雛:あのね。
葉介:手短に頼む。
雛:子供ができたの。あなたの子。
0:一瞬の間。
葉介:そうか。それで、どうする。
雛:産みたいよ。でもあと一年。この一年は、葉介の重荷になりたくない。
葉介:堕ろすのか。
雛:そうするつもり。
葉介:わかった。助かる。
0:間。
雛:あのね、葉介。
雛:もし、もしまた葉介の子供を孕(みごも)ったら。今度は産んでもいいかな。
葉介:悪いがそれはできない。
雛:……どうして。
葉介:例のオーディションに通った。
雛:このまえ落ちたって言ってたじゃない。
葉介:監督から直接抜擢された。
葉介:俺はこのまま表舞台への階段を駆け上がる。
葉介:だから、この一年は最後の一年じゃなく、最初の一年になる。
雛:そうなんだ。よかったね。夢、掴めそうなんだね。
葉介:ああ。中絶の日程が決まったら教えてくれ。同意書にはサインする。
葉介:それから、これ。
0:葉介、ジャケットの胸ポケットから裸の紙幣を取り出し、雛に握らせる。
雛:……どうしたのこんな大金。
葉介:出演の支度金としてもらった。中絶費用に使ってくれ。
雛:本当に、上手くいったんだね。すごいね。よかった。
葉介:喜んでくれるか。
雛:うん。でも、ごめんねえ、涙が止まらないんだ。
葉介:そうか。
0:葉介、小さくため息を一つつき、雛を抱きしめる。
雛:(モノローグ)彼はそれきり黙り込んで私を抱きしめた。
雛:抱擁は慰めではなく、妥協と沈黙を強(し)いていた。
雛:私の涙は、いつの間にか止まっていた。
0:効果音。およそ五十キロ程度の肉塊が道路に当たる大きな音。
0:効果音。救急車のサイレン。
0:効果音。スマートフォンのバイブレーション。
葉介:もしもし。
林:おい。なんで電話出ないんだよ。ずっとかけてたんだぞ。
葉介:今忙しい。後にしてくれ。
林:聞けよ。聞いてくれ。
葉介:なんだ。
林:あのな。落ち着いてきけよ。
林:雛ちゃんが、アパートのベランダから飛び降りた。
葉介:そうか。
林:そうかじゃねえよ。そうかじゃねえだろう!
林:意識はある。すぐに会いに行ってやってくれ。病院に行ってくれ。
葉介:行けない。今から記者会見だ。
林:お前さ、お腹の子供のこと知ってたんだろ。
林:あの子がどういう気持ちでお前のこと支えていたか、わかってやれよ。
葉介:命に別状はないのだろう。
林:命にはな。だけどあの子の心のことも、考えてやってくれよ。
葉介:俺はもう、雛のことを考えられない。
林:なんでだよ。雛ちゃん恋人だろ。お前の、女だろうが!
葉介:俺は俺の中身を無くす。
林:はあ。中身だと。お前何言ってんだよ。人間やめるってか。
葉介:俺も、雛も、すぐに俺の中から居なくなる。
林:何言ってるかわかんねえよ。
林:なんなんだよ葉介、お前どうしちまったよ。おかしくなっちまったのか。
葉介:自分が混じれば役の純度は薄くなる。
葉介:俺という人間が入り込む余地など、オオバヨウスケにはもう、ない。
林:なあ。雛ちゃん大事にしてやれよ。
林:お前はいい役者かもしれないけど、チャンスを掴んだかもしれないけど、雛ちゃんは普通の人間なんだよ。
林:お前のことを好きで、お前を支えるために自分を犠牲にした、いい子なんだよ。
林:気持ち汲んでやれよ。わかってやれよ。頼むよ。
林:それじゃなきゃ、あの子辛すぎるだろう!
葉介:お前には気を遣わせてすまなかった。
葉介:切るぞ。
林:葉介!お前はーーー
0:葉介、林の叫びを遮るように電話を切る。
0:橋野、葉介からスマートフォンを受け取る。
橋野:誰から?
葉介:昔の知り合い。
橋野:電話越しですごい怒鳴ってたけど、どうしたの。
葉介:……忘れた。
橋野:そう。
0:橋野、控室のドアを開けて葉介を促す。
橋野:時間よ。
橋野:記者会見当日事前予告なしのキャスティング変更。
橋野:これは強力なサプライズになるわ。
橋野:今日、あなたは初めて日の目を見る。怪物が生まれた日。
葉介:(モノローグ)かくして、幕は上がる。
橋野:本当は誰も蝶なんて見たくない。蛹の中から出てくる、自分と同じような腐った蛆虫を見たいだけ。
葉介:(モノローグ)フラッシュライトが照りつける。もう、何も見えない。
橋野:あなたはあなたの望み通り、人間をやめて、役者になる。
葉介:(モノローグ)拍手の銃撃が鳴り響く。泣き声は、聞こえない。
橋野:さあ、行きなさい。生きなさい、葉介!
葉介:俺は舞台に上がり、人間を下(お)りた。
雛:『less than human』
0:雛のタイトルコールを以て、終幕。
0:葉介、狭いアパートの一部屋でテレビを見ながら酒を煽る
葉介:(モノローグ)空いたコップにまた焼酎を注いだ。
葉介:何の風味もないアルコールだった。
葉介:どこかで見たような男と女が、テレビ画面の上をうごめいていた。
テレビの男:俺は君を愛している。心の底から、君を愛しているんだ。
テレビの女:あなたが愛しているのはあなただけ。私はそのための小道具。
テレビの男:違う、俺は、君のことを、愛してるんだ。
テレビの女:お願いだから私を理由にしないで。原因にしないで。言い訳にしないで。あなたは最初から私なんか見ていない。あなたの都合のいいように、私を横に、ただ添えておくだけ。
葉介:(モノローグ)くだらないドラマだと思った。気がつくと、コップは空になっていた。チャンネルを変えた。画面が変わった。内容はどれも同じだった。
0:雛、ドアを開けてアパートに帰ってくる
雛:ただいま。葉介、まだ起きてたの。
葉介:おかえり。
雛:ねえ聞いてよ。今日ヘルプでついたお客さんなんだけど、すっごい飲み方悪くてさあ。同伴の女の子の髪の毛に噛み付いたんだよ。あり得なくない。
0:(葉介、雛の言葉を遮るようにして)
葉介:なあ。
雛:なあに。
葉介:金、貸してくれよ。
雛:貸してくれって。昨日一万渡したばっかりじゃない。もう、なくなっちゃったの。
葉介:オーディションの交通費で使った。
雛:だって、会場は都内でしょう。そんなに遠くじゃないじゃん。一万円も……。
葉介:タクシーで行った。
雛:タクシー。なんで。
葉介:雨が降っていたから。
雛:雨って。別に、傘させばいいじゃん。
葉介:あの役のオーディション前に、濡れたくなかったんだ。
雛:はあ……そうなんだ。
雛:じゃあこれ。大事に使ってね。今月税金とかで苦しいから。
0:雛、財布から一万円札を取り出す。
雛:それでさあ、そのお客さんったらね。
0:葉介、雛の手から金をひったくるように奪う。
葉介:悪い、後にしてくれ。タバコ買ってくる。
雛:……いってらっしゃい。
0:葉介、アパートのドアを開けて出ていく
葉介:23番。ソフトの方。
コンビニ店員:タッチパネルを押してください。お会計は千四百八十円です。
コンビニ店員:お支払いは現金でよろしかったでしょうか。
0:(間)
コンビニ店員:ありがとうございました。
0:葉介、コンビニを出る。
葉介:(モノローグ)帰り道、小雨が降ってきた。傘などなかった。
葉介:ポケットのスマートフォンが小刻みに震えた。
葉介:手垢のついた液晶に、見慣れぬ番号が踊っていた。
0:葉介、電話に出る。
林:もしもし。あの、俺のこと、覚えてるか。
葉介:その声は、林か。
林:そう! そうだよ! 養成所で一緒だったハヤシコウイチだよ。
林:何年も連絡しなかったのに、覚えててくれたんだな。
葉介:久しぶりだな。元気だったか。
林:うん。どうにかうまくやってる。お前の方はどうだ。順調か。
葉介:相変わらずさ。
林:そうか。まだ、役者やってんのか。
葉介:ああ。
林:仕事増えたか。
葉介:いいや。
林:そっか。なかなか、うまくいかねえよな。
林:でもお前芝居いいしさ、顔もいいからきっとチャンス来るよ。
葉介:……ああ。
林:バイトはしてんのか。
葉介:辞めた。この一年は役者に専念する。
林:そっか。
林:あのさ、もし金が厳しかったら、俺の仕事手伝わないか。単発で。
葉介:また急だな。
林:俺、役者辞めて自分で仕事やってんだよ。
林:ちょっと人手が欲しくてさ。それもあって、お前に連絡したんだ。
葉介:順調そうでよかったよ。
林:とにかく今度一度会って話さないか。久しぶりに昔の話でもしようぜ。
葉介:予定を見ておく。
林:声が聞けてよかった。また連絡するよ。
0:葉介、アパートに戻る。
葉介:ただいま。
雛:おかえり。
雛:ねえ。今日のオーディション、どうだったの。
葉介:落ちた。
雛:そっか。残念だったね。
0:(間)
雛:あの葉介さ。三十歳までに芽が出なければ、役者辞めるって言ってたよね。
葉介:言ったが。
雛:今年三十だよ。あと一年切ったよ。
雛:どうなの。
葉介:どうって。
雛:見込み、あるの。
葉介:はあ、何なんだよその言い方。
雛:今日のオーディションだってさ、一言で「落ちた」って。
雛:そんなサラって言われると、こっちだって不安になるよ。
葉介:俺は俺の解釈通りに演じた。
葉介:それで、落ちた。
雛:うん。わかるよ。葉介が本気なのはわかる。自分のお芝居に自信があるのもわかる。
雛:でもね。いっつもお酒ばっか飲んで、稽古とオーディション以外何にもしてないじゃん。
雛:それで、本当に大丈夫なのかなって。
葉介:お前に何がわかるんだ。なあ。
0:葉介、雛に詰め寄り肩口を掴む
雛:分かろうとしてるよ。精一杯、理解しようとしてるよ。
葉介:理解なんてできっこない。お前に何がわかるんだよ。
0:葉介、雛の髪を鷲掴みにする。
雛:お願い、辞めて。髪を掴まないで。
葉介:そうやってお前も、あいつらのように俺を覗き込むのか。値踏みするっていうのか。
雛:違うの。
葉介:うるさい!
0:葉介、雛の顔を思い切り叩く
雛:殴らないで。お願いだから。
葉介:もういい。黙れ。何も喋るな。服を脱げ。
雛:乱暴しないで。お願い。
葉介:早くしろ!
0:(間)
雛:(モノローグ)彼は私の頬を何度も張った。
雛:髪を掴んだまま、馬乗りになった。
雛:それから、子供が言い訳をするように、何度も何度も乱雑に、私の上で腰を振った。
0:雛、啜り泣いて嗚咽を漏らす。葉介のモノローグの間、続く。
葉介:(モノローグ)自分はどこに向かっている。
葉介:歩いている。立ち止まっている。
葉介:それとも、沈んでいる。
葉介:暗い水の中にいる。
葉介:息が苦しくなる。
葉介:息の仕方を忘れる。
葉介:苦しさを誤魔化す。
葉介:酒を浴びる。
葉介:タバコを吸う。
葉介:優しさが怖くなる。
葉介:汚い言葉を、吐き捨てる。
雛:ひどいよ。こんなのやだ。
雛:これじゃ、八つ当たりの、ただのオナニーじゃん。私、葉介の道具じゃないよ。
0:葉介、ため息をつくようにして、タバコを吸う
葉介:悪かった。
雛:そうやって目線外して、不貞腐れてさ。謝まるつもりなんてないんでしょ。
葉介:ああ。
雛:ひどいよ。
葉介:ああ。
葉介:シャワー浴びてくる。
0:間
0:場面転換、夜の繁華街。雑居ビルの前。林が待ち合わせに遅れてやってくる。
林:ようお待たせ。久しぶり。お前、変わんねえなあ。
葉介:そういうお前は、なんか雰囲気変わったな。
葉介:いつもパーカーとジーンズばっかり着ていたが。どこの不動産屋かと思ったよ。
林:まあ、それなりに金は入ってくるようになったからさ。
林:おかげさまで普通のサラリーマンよりはいい生活してるよ。
葉介:へえ。役者辞めて何の仕事してるんだ。
林:んー、サービス業だよ。詳しいことは後で話す。
林:さあ今日はこの店だ。俺の奢りだから、昔みたいにバンバン飲もうぜ。
0:二人、雑居ビルの中の居酒屋に入る。
居酒屋店員:いらっしゃいませ。ご予約のお客さまですか。
林:八時で予約の林です。
居酒屋店員:お待ちしておりました。お席にご案内いたします。
居酒屋店員:お先にお飲み物のご注文をお願いします。
林:えーっと、お前は何飲むの。
葉介:ビールでいい。
林:そっか。じゃ俺もビールで。生ビール二つお願いします。
居酒屋店員:かしこまりました。
林:あの頃はさ、金なくてウーロンハイばっかり飲んでたよな。
林:やっすい焼酎のうっすいやつ。
林:どうせ飲み放題なんだから濃いめにしろ! ってゴネたら、とんでもねえ濃さのが出てきたりしてさ。
葉介:酎ハイじゃなくてウーロンハイか緑茶ハイじゃないと量が飲めないんだよな。
林:そうそう。サワー系は腹に溜まるし、後で頭痛くなってくる。わかるわ。
0:居酒屋店員、二つのジョッキをテーブルに置く。
居酒屋店員:お待たせ致しました。生ビール二つです。
居酒屋店員:お料理のご注文はそちらのタブレットからお願いします。
林:はーい、ありがと。
林:じゃ、とりあえず乾杯しようぜ。
葉介:ああ。
林:久しぶりの再会に。
葉介:乾杯。
0:二人、乾杯し、喉を鳴らして酒を飲む。
林:ふう。ところでお前、覚えてるか。演技指導の講師と大喧嘩したときのこと。
葉介:そんなことあったか。
林:あったあった。俺今でも覚えてるよ。
林:指導講師に「その空間認識はおかしい」って食ってかかったんだよお前。
林:確か、家具。話に絡んでもこないテレビの位置がどうとか言ってたよ。
葉介:ああ。思い出した。あの空間認識はおかしかった。
林:写りもしないテレビの位置がそんなに大事かね。
葉介:大事だ。
葉介:だって倦怠期のカップルには緩衝材(かんしょうざい)がいるだろ。
葉介:あの話ではそれがテレビだったんだ。
葉介:だから、二人がテレビを挟まないで立つのはおかしいだろ。
林:そこまで考えてるもんなんだなあ。
葉介:役者も観客もそこに釘付けになるためには、圧倒的なリアリティが要る。
林:そんなもんかねえ。俺は、お前みたいに芝居の才能はなかったわ。辞めて正解だ。
葉介:才能なんかじゃない。
葉介:ただの、執着だと思う。
林:執着か。
林:ならなおさらないわ俺。諦めんの早かったもん。
林:二十七になる年に、スパーッと上がっちまった。
葉介:潔い決断だった。
林:うん。それでも遅いと思ってたからさ。
0:暫しの無言。葉介、タバコに火をつけてから林に尋ねる。
葉介:芝居やめたこと、後悔してないか。
林:あー。
林:心残りっていうか、悔しさみたいなのはそりゃああるけど、後悔はしてない。
林:どう考えても芝居で食っていける未来が想像できなくてさ。
葉介:そうか。
林:うん。それで俺さ、今スカウトの仕事してるんだよ。
林:あれだよ。歌舞伎町とか歩いてるとごまんといるだろ。
林:女の子に声かけて、夜の店とかに送るあれ。
葉介:スカウト。お前がか。
林:そう。芝居の稽古が活きて、割と業績良いんだよ。要はサービス業だから。
林:役者時代の一年分のバイト代、半月で入ってくる感じ。
林:だから柄にもなく、こんなブランド物のスーツとか買っちゃう。
林:貯金もしてるけどね。
葉介:随分景気がいいじゃないか。
林:あのさ、お前が役者頑張ってるのはわかるけど、財布はキツいわけじゃん。
林:もしも金がいるなら、俺の仕事手伝ってくれないか。
葉介:いやいや、俺は口下手だからキャッチなんて無理だよ。
林:違う。頼みたいのはアテンドの方だ。
葉介:アテンドってなんだ。
林:一晩、ある女性の相手をしてもらうの。
葉介:お前、俺に出張ホストやれってのか!
林:おい声がでけえよ。
林:でもまあ、そういうこと。
林:手付けで五十万。相手が満足したら、さらに五十だ。
林:うまくいけば一晩で百万。悪くない話だろ。
葉介:そんな仕事はしない。
林:まあ待て。最後まで聞けよ。この話には続きがあるんだ。
林:お前に頼みたいのは、男日照りの金満(きんまん)変態ババアじゃない。
林:依頼主は、あの橋野(はしの)ユミだ。
林:お前なら知ってるだろ。今話題になってるあの映画監督の橋野ユミなんだ。
葉介:橋野ユミのことは知っている。
葉介:しかし、なぜ彼女がそんな。
林:上手くいけば、大きなコネになるかもしれないぜ。
林:なあ。俺たちもう今年三十になる。
林:世の中綺麗事だけじゃないだろ。
葉介:そうかもな。
林:雛ちゃん、まだ夜のバイトやってんのか。
葉介:ああ。
林:あの子だって好きでやってるわけじゃないだろ。
林:お前を支えるためにやってんだろ。
林:いつまでもキャバクラで食っていけるわけじゃない。
林:そろそろ先のことだって考えなきゃ。
葉介:お前の言いたいことはわかるよ。
林:チャンスは死に物狂いで掴まなきゃ流れちまうんだ。
葉介:この話はチャンスなのか。
林:きっかけはなんだっていいじゃんか。
林:お前の情熱があれば、仕事につながるかもしれないよ。
葉介:わかった。
葉介:橋野ユミと寝るかどうかはさておき、会うだけあってみる。
林:俺さ、お前たちのこと、心配してんだよ。
林:お節介なのはわかってるけどさ。
葉介:ありがとうな。
林:へへ。さあ飲もうぜ、なんでも好きなもん頼んでくれよ。
0:場面転換、葉介、千鳥足でアパートに帰る。
雛:おかえり。顔色悪いよ、大丈夫。
雛:ご飯、できてるけど。
葉介:飯はいらない。
雛:そっか。
雛:あのね、ちょっといいかな。聞いてほしいことがあるの。
葉介:悪いが大事な考え事があるんだ。話は明日でもいいか。
雛:(モノローグ)足取りも覚束ないほどひどく酔った彼は、どうにかこの部屋に帰り着いて、今にも泣き出しそうな顔で私の言葉を遮ると、そのまま床に倒れて、やがて規則的な寝息を立てた。
0:場面転換。葉介、シティホテルの一室の扉を二度ノックする。
葉介:(モノローグ)品川のシティホテル、くだんの橋野ユミの部屋の扉(と)を叩いた。
葉介:実に無関心そうな声で、彼女は俺を招き入れると挨拶もなく、不躾に、値踏みするように視線を這わせた。
橋野:あなたが彼の言ってた絶世の美男子。
葉介:オオバと申します。
橋野:ただ綺麗なだけで、ごくありふれた顔じゃない。
橋野:そりゃ、会ったことも忘れるわけだ。
葉介:私をご存知なのですか。
橋野:知ってるよ。
橋野:一次オーディションで何度かあってる。書類の上ではもっとあってる。
葉介:光栄です。
橋野:はは、一次で落とされてるくせに何言ってんの。
葉介:すいません。
橋野:いいわ。じゃ、脱ぎなさい。一枚ずつね。
橋野:私の顔色を伺うようにして、服を脱ぎなさい。
0:葉介、少し待ってため息をつく。
葉介:お断りします。
橋野:あなたの事情は彼から聞いてる。
橋野:三十手前の芽が出ない俳優が、私の命令を断る理由なんて、あるかな。
葉介:ありません。だが、甘んじる理由もありません。
橋野:いくじのない男。
橋野:服なんてねえ、誰だって脱げるんだよ。ほらこうするの。
0:橋野、自らの衣服を躊躇いなく脱ぎ去る
橋野:どんな高くていい服着たってね、人間五秒もあれば裸なの。
橋野:さあ私を抱いてみなさいよ。
橋野:これまで生きてきて覚えた全てを使って、やってみな。
葉介:お断りします。俺は服を脱がないし、あなたを抱かない。
橋野:じゃあ何しに来たんだよ。
葉介:会うだけ会ってみると、紹介者に約束しました。
橋野:約束したから女のいる部屋までノコノコ来て、挨拶して帰るって?
橋野:あなたみたいに、失うものも何もない人間がなぜ、このチャンスをみすみす逃すの。
橋野:条件は彼から聞いてるでしょう。
橋野:五十万。どれだけみすぼらしいセックスでも五十万あげる。
橋野:少しでも見込みがあれば、もう五十万。
橋野:あなた食っていかれない役者なんでしょ。お金いるじゃない。
葉介:俺に金がないことと、あなたを抱くかどうかは関係ありません。
橋野:……じゃあさ、出来が良ければ私の作品で使ってあげるよ。
葉介:結構です。
橋野:これだけニンジン並べられて、なんでやれないの。どうかしてるよ。
葉介:もしここで、あなたを抱いて金をもらったら、俺はもうきっと次のチャンスで潰れてしまう。
橋野:うん。だから。だから何。プライドが捨てられないってか。
葉介:怖いんです。
橋野:怖い。何が。
葉介:張っていた糸が切れてしまうことが、怖い。
橋野:あなたさ、虚勢の一つも張れないの。
葉介:ええ。
橋野:私は映画監督で、あなたは売れない役者なの。わかる。箸にも棒にもかからないの。
橋野:だから背伸びをしなきゃいけないの。転びそうになりながら掴まなきゃならないの。
橋野:嘘の一つもついてみてよ。ねえ。
葉介:抱けません。
橋野:(モノローグ)目の前に立つ長身美貌の青年は、まばたきひとつのうちに子犬のように見えた。
橋野:そうして私は一糸まとわぬ姿のまま、発作的に彼を、笑いながら抱きしめていた。
0:橋野、葉介に近づいて首の後ろに両腕を回す。
葉介:やめてください。俺はあなたを抱きません。
0:葉介、橋野を突き返す。
橋野:売れない役者のくせにさ、ちゃんと自己分析ができるんだね。生意気。
橋野:いいよ、脱がなくて。いいよ、抱かなくて。もういいから。
橋野:何の役にも立たない信念と一緒に、ほら。
0:橋野、サイドテーブルに置いた裸の現金を投げつける。
橋野:この金持って帰りな!
葉介:何もしていないのに金はもらえません。
橋野:いいんだよ。これは仕事だから。
橋野:貰わないと紹介してくれた彼にまで迷惑かかるよ。
橋野:これもらってさ、どうしていいかわからないその顔で、電車でもタクシーでも乗ってさ、あぶく銭の使い道考えながら、なんだか寂しそうなフリをして、安いキャバやってる女抱けばいいじゃん。
橋野:ボクはお芝居しかできなくてプライドが捨てられないからヒモにもなれない男ですって、慰めてもらいなよ。ねえ。
葉介:……林はそこまで話したんですか。
橋野:違うよ。あんたの役者仲間から聞き出したの。
橋野:あの子たちさ、私の名前出したら何の迷いもなく売ってくれたよ。
橋野:あんたのプライベート、バーゲンセール。
葉介:こんなことをして愉(たの)しいですか。
橋野:悪趣味だって言いたい?
葉介:他人(ひと)の趣味の良し悪しというものは、俺には分かりません。
葉介:ただ、あなたが何がしたいのか、気になっただけです。
橋野:その人間の質(しつ)が見えるの。
葉介:質。それは、本質という意味ですか。
橋野:本質という言葉は質の対義語だよ。
橋野:質とは本来固定されないもの。状況に応じて振る舞いを変えるもの。
橋野:その場その場で揺らぐ陽炎(かげろう)のようなもの。
葉介:札束と立場で叩き伏せれば、俺の質が見えると。
橋野:思い詰めたふりをした不幸ぶった男の薄皮を剥ぐには、それが一番よく切れる刃物なの。
橋野:『背水の陣を敷き覚悟を装った俳優は、小さな水たまりの前で震える子犬だった』
橋野:どう。なかなかグッとくる結末だと思うけど。
0:葉介、侮辱に耐えかねてホテルの壁を殴りつける。
葉介:お前に、お前らに何がわかるんだよ。
橋野:わかるよ。わかるんだよ。
橋野:あんたみたいなのを生み出してるのは私たちみたいな連中だから。
橋野:さも叶いそうな夢を絵に描いてぶら下げてるだけなのに、いつか夢が叶うと、花は開くと、信じてる。
橋野:独りよがりで何も生み出さないで周りの善意を食い荒らすだけの穀潰し。
橋野:オオバヨウスケ、アンタは蛆虫(うじむし)だよ。
葉介:俺は、人間ですらないと。
橋野:そう。自分の腐肉を自分で喰らう蛆虫。
橋野:人間の醜さの最(さい)たるものは自己憐憫(じこれんびん)だ。
橋野:そうやっていつまでも自分を憐れみ、腐臭を漂わせて別の虫を呼べばいい。
橋野:物欲しげな目で相手をうかがって何も触らせずに殻に閉じこもっていればいい。
葉介:俺は。
0:(橋野、深呼吸をして)
橋野:もういいわ、十分な収穫よ。それ持って、今日は帰って。
葉介:……失礼します。
0:場面転換。地下にある喫茶店。林、ソファ席で待つ雛の元へ向かう。
林:(モノローグ)彼女に連絡をとった。ずっと前から、連絡先は知っていた。
林:それらしい理由をつけて、お茶に誘った。
林:彼女もまた、それらしい理由に乗って、俺に誘われた。
林:地下にあるカフェのテーブルで見つけた彼女は、三年前の記憶の中のより、ずっと老けて小さく見えた。
0:雛、近づいてくる林に気づき小さく手を振る
雛:林くん、久しぶり。元気だった。
林:ごめんね急に呼び出して。最近どうかなって。
0:林、雛の向かいではなく真横に許可なく座る。
雛:なんか雰囲気変わったね。最初、誰か気づかなかった。ビジネスマンって感じだね。
林:ここのツーブロックの刈り上げとか、ほんと胡散臭いでしょ。
雛:マンションとか売ってそう。
林:っぽいよね。
林:ところで、この前あったんだけどさ、葉介、なんか荒れてない?
雛:うん。ちょっとね。
林:そう、なんだ。
雛:稽古に専念したいってバイトも辞めちゃったし。
雛:でもお金ないのに飲み行くし、タバコいっぱい吸うし、正直大変だよ。
林:あいつは昔っから、そういうところ、亭主関白っぽいところあるよね。
0:(間)
林:あのさあ。ぶっちゃけた話、今いくらもらってるの。
雛:お金の話?
林:うん。まだ馬場でキャバクラやってるんでしょ。
雛:うん。
林:あの辺、客層あんま良くないよね。
林:来てもらった理由なんだけどさ、俺、今スカウトやってんだ。
林:雛ちゃんならもっと条件のいい店紹介できるよ。力になりたいんだ。
雛:ありがとう。でも、問題があってね。
林:何、どうしたの。
雛:うん。
林:ああ、言いにくいことだったら、別に無理には。
雛:あのね。
林:うん。
雛:私ね。
林:うん。
雛:赤ちゃんできたの。
林:……そっか。葉介の子、だよね。
雛:うん。
林:あいつには話したの。
雛:話したいけど聞いてもらえないんだ。
雛:今、いろいろ大変みたいで。
林:そうなんだ。その、産むの。
雛:産みたいよ。
雛:でもね、あと一年、あと一年だけだから、って約束したの。
雛:あと一年頑張って、それでも芽が出なければ役者辞めるって。
雛:この一年だけは挑戦させてほしいって言ったの。
雛:だから、だからこの子は産めない、かな。
林:そっか。もう決めてるんだね。
林:雛ちゃんは、今幸せ?
0:雛、小さく苦笑する。
雛:林くんもひどいこと聞くよね。
林:ごめん。わかってて聞いた。
雛:私、幸せだよ。
林:本当に?
雛:葉介のそばに入れるから。
林:あいつのこと、本当に好きなんだね。
雛:葉介はあんな風にしか生きていけないと思うから。
林:……雛ちゃん。あの、俺ーーー
0:雛、林の言葉を遮るように
雛:ごめん、やっぱり私帰るね。
林:雛ちゃん!
0:林、逃げ出すように席を立った雛の背中に声をかける。
林:こんなこと言うの変だけど、俺、応援するから。
林:何かあればいつでも連絡して。待ってる。
雛:バイバイ。
0:雛、店を出て階段を上がっていく。
林:(モノローグ)逃げるように去っていく彼女になんと声をかけるのが正解だった。
林:頭の中をぐるぐると力のない言葉が回った。
林:ポケットの中の小刻みな振動が後悔の回遊を止める。
林:葉介からの着信だった。
葉介:今話せるか。
林:ああ、お疲れ。橋野さんと会ったんだってな。
林:さっきメールきたよ。それでどうだった。
葉介:どうもこうもない。何もしていない。
林:会うだけ会うって約束だったからな。別にそれはいいよ。
葉介:悪いが、お前の仕事はもう手伝わない。
林:それも別にいいよ。
林:でもさあ、お前もう少し考えてもいいんじゃねえかな。
林:周りの人のこととかささ。
葉介:紹介したお前の顔を潰して悪かったと思ってる。
林:そうじゃねえよ。そんなんじゃねえんだ。
葉介:じゃあ何だ。
林:いや、もういいわ。何でもねえ。
林:切るよ。
0:場面転換。葉介、アパートに独り。
葉介:(モノローグ)『もう少し、周りの人のことを考えろ』
葉介:林から言われた言葉を思い出す。
葉介:タバコがまた一本、長い灰に変わる。
葉介:あと一年、残された時間を待たず、自らこの道を降りたとする。
葉介:俺は、それから、どうなるのだろう。
葉介:火を消しそびれた吸い殻は、フィルターまで燃えて、燻(くすぶ)った。
葉介:間に合うのか。燃え尽きるのか。
0:床の上に放られたスマートフォンが振動する。
0:葉介、受話する。
橋野:もしもし。
葉介:……はい。
橋野:オオバヨウスケさんの携帯電話でお間違いないですか。
葉介:そうですが。
橋野:橋野です。
葉介:橋野……さん。
橋野:あなたに抱かれ損ねた中年女の橋野です。先日はどうも。
葉介:先日は、どうも。
橋野:過日お受けいただいた『三面鏡』のオーディションの件でご連絡です。
葉介:その件でしたら、ご担当者様から落選のご連絡をいただきましたが。
橋野:追加合格です。
橋野:これからすぐに、最終審査をお受けになりませんか。
葉介:……この前の続きですか。悪い冗談ならやめてください。
橋野:冗談ではありません。
橋野:監督・橋野ユミから、俳優・オオバヨウスケに、最終審査の連絡をしています。
橋野:会場は……。
0:場面転換。小さな古いスタジオ。葉介、息を切らしてスタジオ中に入ってくる。
葉介:お待たせしました。
橋野:(モノローグ)指定したスタジオに彼は三分遅れでやってきた。
橋野:目は血走り、髪は乱れ、とても俳優を志望する人間の風体(ふうてい)ではなかった。
橋野:殺人さえも辞さない強盗のような佇(たたず)まいが、私の臍(へそ)の辺りを強く震わせた。
葉介:オオバヨウスケです。よろしくお願いいたします。
橋野:息が整い次第、シーン百四十七、シュウジの最後のセリフをお願いします。
橋野:台本はこちらを使ってください。
葉介:いえ。もう頭に入ってます。
橋野:全て?
葉介:全て。
橋野:すぐ行けますか。
葉介:はい。
橋野:では。
0:橋野、合図に大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は一体何を装(よそお)うつもりなのだ」
橋野:若すぎる。シュウジにもう五歳、歳をとらせてみてください。
0:橋野、大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は一体何を装うつもりなのだ」
橋野:線が細い。説得力を持たせるためにあと5キロ太らせて。それも不健康に。
0:橋野、大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は一体何を装うつもりなのだ」
橋野:シュウジは長年心臓を患っている。今の設定なら、もっと病状は悪くていい。
0:橋野、大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は一体何を装うつもりなのだ」
橋野:輪郭が見えてきた。息のつまる狭い箱の中でシュウジはずっと疑い続けてきたの。
橋野:今までのあなたと同じように。
橋野:さあ、彼の因縁を、刻んで!
0:橋野、一際大きく手を鳴らす。
葉介:「そうやって人間の皮をかぶって、お前は、一体、何を、装うつもりなのだ!」
橋野:それよ。
橋野:ねえ。なぜ唇を噛んだの。それも、血が出るほど。
葉介:シュウジのこの台詞には、見えない自傷行為が含まれているからです。
橋野:必要であれば舌でも噛み切るの。
葉介:それに値(あたい)するならば。
0:橋野、葉介に近づき音を立てて唇を奪う。
橋野:(モノローグ)私は彼に引き込まれるようにして近づき、強引に唇を奪った。
橋野:生暖かい鉄の味が流れ込み、それを追うように彼の舌が捩じ込まれた。
橋野:秒刻みで変貌してゆく怪物を、愛おしいと思った。
0:葉介、橋野の唇から口を離す。
葉介:この前の続きなら断ると言ったはずです。
橋野:あなたの薄っぺらい美貌も、じきに衰える肉体も、要らない。
橋野:あなたには抱かれない。荒削りの狂気と魂を、私が抱(だ)く。
橋野:心と体を削る舞台は用意するから、骨の髄までしゃぶらせてちょうだい。
橋野:それともあなたは、この前のように拒絶するのかしら。
葉介:俺があなたを抱く理由はないが、あなたが俺を抱く理由ならあります。
橋野:はは。そうね。きっと、そうなんだろうね。
0:橋野、葉介の首筋に口をつける。
葉介:(モノローグ)俺を蛆虫と嘲(あざけ)った目の前の女は、少女のように楽しそうに笑い、軽蔑とも憧憬(どうけい)ともとれる目を向けた。
橋野:ねえ。今どんな気持ち。張っていた糸は切れちゃった。
橋野:泣いてもいいんだよ。もう大丈夫だから。
葉介:黙れ。
橋野:何よ。
葉介:蛆虫を踏み潰してみせろ。
葉介:俺を抱くんだろ。早く跨がれよ。
橋野:葉介。
0:橋野、うめくような喘ぎ声を嬉々として漏らす。声は直後のモノローグが終わるまで続く。
葉介:(モノローグ)薄暗く狭いスタジオの蛍光灯がチカチカと点滅した。
葉介:部屋に陰が生まれた。
葉介:馬乗りになった女の顔が、よく見えなくなった。
0:場面転換。スタジオ近くの喫茶店。葉介と雛が向かい合って座っている
雛:うん。ごめんね、稽古の合間に呼び出して。
葉介:話ってなんだ。家じゃダメだったか。
雛:あのね。
葉介:手短に頼む。
雛:子供ができたの。あなたの子。
0:一瞬の間。
葉介:そうか。それで、どうする。
雛:産みたいよ。でもあと一年。この一年は、葉介の重荷になりたくない。
葉介:堕ろすのか。
雛:そうするつもり。
葉介:わかった。助かる。
0:間。
雛:あのね、葉介。
雛:もし、もしまた葉介の子供を孕(みごも)ったら。今度は産んでもいいかな。
葉介:悪いがそれはできない。
雛:……どうして。
葉介:例のオーディションに通った。
雛:このまえ落ちたって言ってたじゃない。
葉介:監督から直接抜擢された。
葉介:俺はこのまま表舞台への階段を駆け上がる。
葉介:だから、この一年は最後の一年じゃなく、最初の一年になる。
雛:そうなんだ。よかったね。夢、掴めそうなんだね。
葉介:ああ。中絶の日程が決まったら教えてくれ。同意書にはサインする。
葉介:それから、これ。
0:葉介、ジャケットの胸ポケットから裸の紙幣を取り出し、雛に握らせる。
雛:……どうしたのこんな大金。
葉介:出演の支度金としてもらった。中絶費用に使ってくれ。
雛:本当に、上手くいったんだね。すごいね。よかった。
葉介:喜んでくれるか。
雛:うん。でも、ごめんねえ、涙が止まらないんだ。
葉介:そうか。
0:葉介、小さくため息を一つつき、雛を抱きしめる。
雛:(モノローグ)彼はそれきり黙り込んで私を抱きしめた。
雛:抱擁は慰めではなく、妥協と沈黙を強(し)いていた。
雛:私の涙は、いつの間にか止まっていた。
0:効果音。およそ五十キロ程度の肉塊が道路に当たる大きな音。
0:効果音。救急車のサイレン。
0:効果音。スマートフォンのバイブレーション。
葉介:もしもし。
林:おい。なんで電話出ないんだよ。ずっとかけてたんだぞ。
葉介:今忙しい。後にしてくれ。
林:聞けよ。聞いてくれ。
葉介:なんだ。
林:あのな。落ち着いてきけよ。
林:雛ちゃんが、アパートのベランダから飛び降りた。
葉介:そうか。
林:そうかじゃねえよ。そうかじゃねえだろう!
林:意識はある。すぐに会いに行ってやってくれ。病院に行ってくれ。
葉介:行けない。今から記者会見だ。
林:お前さ、お腹の子供のこと知ってたんだろ。
林:あの子がどういう気持ちでお前のこと支えていたか、わかってやれよ。
葉介:命に別状はないのだろう。
林:命にはな。だけどあの子の心のことも、考えてやってくれよ。
葉介:俺はもう、雛のことを考えられない。
林:なんでだよ。雛ちゃん恋人だろ。お前の、女だろうが!
葉介:俺は俺の中身を無くす。
林:はあ。中身だと。お前何言ってんだよ。人間やめるってか。
葉介:俺も、雛も、すぐに俺の中から居なくなる。
林:何言ってるかわかんねえよ。
林:なんなんだよ葉介、お前どうしちまったよ。おかしくなっちまったのか。
葉介:自分が混じれば役の純度は薄くなる。
葉介:俺という人間が入り込む余地など、オオバヨウスケにはもう、ない。
林:なあ。雛ちゃん大事にしてやれよ。
林:お前はいい役者かもしれないけど、チャンスを掴んだかもしれないけど、雛ちゃんは普通の人間なんだよ。
林:お前のことを好きで、お前を支えるために自分を犠牲にした、いい子なんだよ。
林:気持ち汲んでやれよ。わかってやれよ。頼むよ。
林:それじゃなきゃ、あの子辛すぎるだろう!
葉介:お前には気を遣わせてすまなかった。
葉介:切るぞ。
林:葉介!お前はーーー
0:葉介、林の叫びを遮るように電話を切る。
0:橋野、葉介からスマートフォンを受け取る。
橋野:誰から?
葉介:昔の知り合い。
橋野:電話越しですごい怒鳴ってたけど、どうしたの。
葉介:……忘れた。
橋野:そう。
0:橋野、控室のドアを開けて葉介を促す。
橋野:時間よ。
橋野:記者会見当日事前予告なしのキャスティング変更。
橋野:これは強力なサプライズになるわ。
橋野:今日、あなたは初めて日の目を見る。怪物が生まれた日。
葉介:(モノローグ)かくして、幕は上がる。
橋野:本当は誰も蝶なんて見たくない。蛹の中から出てくる、自分と同じような腐った蛆虫を見たいだけ。
葉介:(モノローグ)フラッシュライトが照りつける。もう、何も見えない。
橋野:あなたはあなたの望み通り、人間をやめて、役者になる。
葉介:(モノローグ)拍手の銃撃が鳴り響く。泣き声は、聞こえない。
橋野:さあ、行きなさい。生きなさい、葉介!
葉介:俺は舞台に上がり、人間を下(お)りた。
雛:『less than human』
0:雛のタイトルコールを以て、終幕。