台本概要

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タイトル 舞い秘め。
作者名 机の上の地球儀  (@tsukuenoueno)
ジャンル ラブストーリー
演者人数 4人用台本(男2、女2)
時間 60 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 時代/ラブストーリー/シリアス/歪んだ愛

商用・非商用利用に問わず連絡不要。
告知画像・動画の作成もお好きにどうぞ。
(その際各画像・音源の著作権等にご注意・ご配慮ください)
ただし、有料チケット販売による公演の場合は、可能ならTwitterにご一報いただけますと嬉しいです。
台本の一部を朗読・練習する配信なども問題ございません。
兼ね役OK。1人全役演じ分けもご自由に。

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
政彦 155 鷹野政彦(タカノ マサヒコ)。 没落寸前の伯爵家当主。 美津と婚約を結ぼうとしている。 「愛なんて」
衣里 132 天月衣里(アマツキ エリ)。 伯爵家の娘。丞の婚約者。 「愛とは」
83 神坐丞(ジンザ ススム)。 衣里の婚約者。政彦の友人。 「愛こそ」
美津 83 清河美津(キヨカワ ミツ)。 船成金の家の娘。 衣里と同じ女学校に通っている。 「愛ゆえに」
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

文字サイズ
0:天月邸。応接間。 政彦:(ボソリと)熾熱燈(しねつとう)……。 衣里:ふふ。父が来るまで、こちらに卓を運ばせて骨牌(かるた)でも致しますか?鷹野様。 政彦:…………え? 衣里:舞姫、でしょう?アレの冒頭は、骨牌仲間に一人残された主人公が、熾熱燈(しねつとう)のあまりの眩しさに、虚しさを覚える場面でしたから。 政彦:あ、あぁ……。よくお分かりになりましたね。 衣里:アーク灯を熾熱燈(しねつとう)だなんて書いたのは、アレくらいのものでしょう。 政彦:森鴎外。読んでらっしゃるんですね。 衣里:えぇ。父が好きなもので。 0:間。 衣里:ふふ。だからわたくしの名前は「衣里(えり)」と言うんですよ。 政彦:え?……あぁ!エリスの「衣里」ですか。 衣里:酷いでしょう?伯爵家の娘の名前の由来が、お話に出てくる貧乏な踊り子だなんて。 政彦:その割にお声が明るい。 衣里:だって、普通でない方が楽しいではありませんか。 政彦:なるほど。 衣里:父はハイカラなものが好きで。 衣里:このアーク灯も、わたくしが生まれる前に取り入れたらしいですわ。母の髪型は二百三高地(にひゃくさん・こうち)ですし、ドイツに傾倒してからは、ベートーフェンのお話ばかり。……分かりやすいでしょう? 政彦:ベートーフェン? 衣里:えぇ。 嫦娥之曲(ムーンライト・ソナタ)の。ご存知ありません?「月」の曲です。我が家の姓が「天月」だからって。ふふ。安直でしょう? 政彦:済みません。音楽には些か疎くて。多分聴いたことはあるかと思うのですが……。 衣里:いいえ。外来のものを知り過ぎていらっしゃるよりも、よほど硬派で素敵ですわ。……ね? 政彦:(M)そう微笑んだ彼女は、ぞっとするほど美しくて。白磁のような彼女の絹肌に浮かび上がる真っ赤な唇が、妙に印象に残った。  :  0:場面転換。数日後。喫煙所。 丞:舞姫? 政彦:読んだことあるか? 丞:あぁ。政府様に選ばれてドイツに留学した主人公の豊太郎(とよたろう)が、向こうで踊り子のエリスと恋仲になっちまって公務員をクビになる話だろ。 政彦:おい。 丞:何だよ、合ってんだろ? 政彦:いや。まあ……間違ってはいないが。 丞:最終的に、辛い時に自分を支えてくれ、今や自身の子を身籠ってまでいるエリスとの真実の愛を貫くか、はたまた親友が彼を案じて紹介してくれた仕事に舞い戻り、学問と出世への道に引き返すか。豊太郎は選択を迫られる訳だ。 政彦:説明のやりように悪意がある。 丞:まあ俺だったら?一も二もなく女を選ぶがね。 政彦:一も二もなく親友を裏切るか。 丞:ああ。残念だな鷹野。俺はお前より愛を選ぶ。 政彦:別に私云々の話はしてない。 丞:冷たい男だな。十年来の付き合いだというのに。 政彦:今まさに、その十年来の友よりも女に走ると宣言したのはどこのどいつだ。 丞:そのくらい良い女だからな、仕方がない。 政彦:お前の未来の嫁は天女か何かか? 丞:お前の自尊心の高さには、凌雲閣も裸足で逃げ出すな。 政彦:確かに。私に勝る高みに立つ者は、天女くらいしかおらんだろうよ(ニヤリ、と笑う)。 丞:お前に俺くらいしか友がいない理由がよく分かるよ。 政彦:阿呆(あほう)な人間を侍らせて何が楽しいのだ。 丞:友は侍らせるものではないぞ。そこから間違ってる。……本当にお前はブレないな。 政彦:私は豊太郎とは違うからな。 丞:いや、分からんぞ。そういう奴がいつの間にか転落しているものさ。 政彦:私はそうはならんよ。手は既に打ってある。 丞:お前が船成金の娘と結婚とはね。 政彦:滅多なことを言うなよ、神坐(じんざ)。まだきちんと婚約できた訳じゃないのだから。 丞:伯爵家からの求婚を断れるものか。 政彦:まあな。あちらは喉から手が出る程欲しい爵位を得られるのだからな。断る理由がない。……鷹野は、私の代でしかと建て直してみせるさ。 丞:お前はいつだって合理的だがな、鷹野。それは愛を知らんからだぞ。 政彦:(鼻で笑って)愛か。  :  政彦:(M)物語の中の豊太郎は、旧藩の藩校にいた時も、東京に出て東京大学予備門に通った時も、大学の法学部に入った後も、ずっと「彼らしく」あった。そして、私も常に、どんな時であっても私であった。 政彦:物語の中で、一時的とは言え彼を狂わせてしまったのは、一人の女の存在だった。 政彦:……確かに私は、彼と同じような道程(どうてい)を辿ってはいたが、それが私を「彼」たらしめる……つまり、私が彼同様、愛などというくだらないものに翻弄される……そんな要因にはなり得る筈もない。そう信じて疑わなかった。……そう。そんなことは本当に、有り得ない筈だったのだ。  :  政彦:結婚に、愛など要らんよ。  :  0:場面転換。数日後。女学校前。 衣里:あら、美津さん。ごきげんよう。 美津:衣里様……!ごきげんよう。 衣里:お輿入れが決まりそうだと聴きましたわ。しかもお相手はお公家様(くげさま)とか。おめでとうございます。 美津:ありがとうございます。恥ずかしながら、もし本決まりとなれば、公家言葉を覚えるのに苦労しそうですわ。 衣里:あかあか、いしいし、やわやわ、するする? 美津:小豆にお団子、ぼた餅、するめ? 衣里:完璧じゃないの。 美津:言葉重ね以外にも色々ありますわ。何にでも「お」や「もの」や「もじ」が付いて……ややこしいったら。 衣里:おでんにおかず、お長(なが)ものにしゃもじ? 美津:あぁもう!普段使わない言葉ばかり! 衣里:でも、よく勉強なさってて偉いわ。 0:間。 美津:衣里様は、本当にお優しいですね。 衣里:え?……どこが、かしら。 美津:だって、衣里様だったら、小学校の入学時にはもう習得してらっしゃるような言葉でしょう? 衣里:それは……そうかもしれないけれど。 美津:知っているんです、私。……皆さまに陰で笑われていること。 衣里:…………。 美津:「これだから下賤の者は」「成り上がりは言葉を知らなくて困る」「船成金の娘が偉そうに」 衣里:(咄嗟に美津の手を握って)そんな言葉を使っては駄目だわ! 美津:…………ッ、 衣里:美津さん。貴女のお父様は、一代で財を築いた。本当に素晴らしいことだわ。その結果、貴女は人を雇う側になった。つまり、皆の手本にならなくてはならない。 衣里:ならば、そのように品性を疑う人たちの言葉など、気にしなくて結構です。 衣里:誇りなさい、貴女のお父様を。 美津:衣里様……。 衣里:……ぁ。ごめんなさいね、急に掴んだりして。 美津:いえ……。 衣里:駄目よね。こんな風に感情的になっては。 美津:……ありがとうございます、衣里様。 0:間。 衣里:貴女のお父様は、いつも美津さんのことを褒めてらっしゃるもの。「自分には勿体無い娘だ」って。素敵だわ。 美津:恥ずかしいですわ……。 衣里:ふふ。……あら。見て、美津さん。白夜月(はくやづき)だわ。 美津:本当ですわね。薄青空に浮かぶ白のなんと儚いこと。 衣里:美津さんったら、まるで詩人のよう。 美津:闇に溶ける月もまた美しいですけどね。でも。私は昼にお会いできる「月」が好きですわ。 衣里:そうなの?……確かに綺麗ね。 美津:(衣里をじっと見つめて)……えぇ。 衣里:どうしました?美津さん。 美津:いいえ。ふふ。衣里様は肌が白くて羨ましいな、と。 衣里:まあ、ありがとう。わたくしは美津さんの艶のある黒髪の方が羨ましいわ。 衣里:あら?その簪……。 美津:あぁ。この前見つけたんです。衣里様が付けてらしたのがとても素敵だったから、同じものを見つけて嬉しくて……思わず買ってしまって……。 0:間。 衣里:……そう。わたくしなんぞよりとても良く似合っているわ。殿方は皆、美しい髪に懸想(けそう)するんですってよ。 美津:衣里様ったら。……でも、どうしてそう言うのかしら。 衣里:ふふ。だって。  :  0:場面転換。数日後。喫茶店・店内。 衣里:だって、殿方はヒラヒラしたものがお好きですものね? 丞:どうしたんだ?イキナリ。まあでも……そうだな。俺はそういった物が特に好きだが。 衣里:ヒラヒラしたものが? 丞:ヒラヒラしたものが。 衣里:素直であらっしゃるのね。それはどうしてなのかしら。 丞:一説に、狩猟本能をくすぐられる、と言うがね。 衣里:ふぅん。 丞:そう言えば、あれはもう付けてくれないのかな。私が贈った簪は。 衣里:……あぁ、そうね。ごめんなさい。……ねえ。わたくしがこの髪を切ったら、幾ら貴方でも怒ったりなさるのかしら。 丞:我が婚約者殿なら、どんな髪型でも似合うさ。 衣里:そう。 丞:ずるいな。俺が如何に貴女に弱いか知っていて、そんな風に言うのだから。 衣里:ふふ。(一口食べて)ここのシベリア、食べてみたかったの。 丞:突然いつもと違う喫茶店に行きたいだなんて言うから驚いたが、そんなに喜んでもらえるなら来た甲斐があるというものだ。しかしここは安いな。女性はこんなものが好きなのか……。 衣里:……そうね。 丞:おや、パンケークもあるぞ。紅茶はないのか? 衣里:……至れり尽せりね。 丞:君は俺のお姫様だからな。 衣里:…………。 丞:この後は?買い物にでも行くかい? 衣里:……本当に、何でも叶えてくださるのね。 丞:当然だろう?君の美しさに一目惚れしたから、お父上に結婚を申し込んだのだから。 衣里:「父上に」、ね。わたくしにじゃなくて。 丞:え? 衣里:(立ち上がって)失礼。食べすぎてしまったみたい。少しバルコニーで外の空気を吸ってくるわ。タバコでも吸って待ってらして? 丞:あ、ああ……。  :  0:場面転換。同時刻。同喫茶店・店内。 美津:とても雰囲気の良いカッフェーでしょう? 政彦:ええ。シベリアという菓子が有名だそうですね。楽しみです。 美津:お調べになったの? 政彦:え?ええ。変ですか?突然美津さんが行きたいと仰るので、どんな所かな、と。 美津:シベリアだなんて、庶民の食べ物だと笑われると思っておりましたわ。……意外とマメなのですね、鷹野様は。 政彦:おや。私はそんなに雑な印象を与えていたでしょうか? 美津:いえ。ただ……貴方は私に興味がないと思っていたから。 政彦:こうして二人でお会いするのも、もう三度目になるというのに。心の内が読めませんね、美津さんは。 美津:それは必要なことかしら。 政彦:いえ、別に。ただ不思議なだけです。 美津:鷹野様こそ、成金の娘に媚びへつらう必要などないでしょう。私に言わせれば、心の内が読めないのは貴方の方ですわ。 政彦:へつらっているつもりはないのですがね。私が貴女のご機嫌取りをしているように見えますか? 美津:私からすれば、鷹野様はお優しいし、非の打ち所がないお人に見えますね。 政彦:はは。それはどうも。 美津:鷹野様は……我が家の財産と結婚したいのですよね。私の心が欲しい訳ではないのですよね。 政彦:は? 美津:いえ……今のは聞かなかったことにしてください。 0:間。 政彦:美津さんも、私の心が欲しいようには見えませんが。 美津:…………。 政彦:欲しい心が別におありなのですね。 0:間。 美津:私は、「月」が欲しいのです。 政彦:……それは何かの比喩ですか? 美津:さあ。どうでしょう。 美津:……時折、欲望を抑えられなくなるんです。何でもないように澄ました白い月の首元にがぶりと噛み付いて、月が苦痛に歪む姿が見たくなるの。そうしてぐちゃぐちゃにできたなら。きっと私は満たされるのに。  :  政彦:(M)その時。何故か私の脳裏に、天月家のお嬢さんの、白磁のような肌が浮かんだ。  :  政彦:月の、首元……。 美津:なんて。……ふふ。鷹野様には、きっとお分かりにならないわ。 政彦:……何故です。 美津:私が他の愛を欲しても、ご興味ないようですもの。 政彦:…………。 美津:愛を知らないでしょう、貴方は。 美津:いえ。……まあ、私たちには関係のないことですわね。私たちの結婚は、紙の上で行われるのですから。 美津:済みません。ちょっとしたはばかりへ行って参ります。(※お手洗いのことです) 政彦:…………。 0:間。 政彦:(ため息)……くそ。何なんだ一体。 政彦:(M)くだらない。愛だの恋だの、それがなんの役に立つと言うのだ。 0:政彦、タバコの箱を握ってバルコニーに立つ。  :  0:同喫茶店・バルコニー。 政彦:……あ。 衣里:あら。鷹野様。こんなところで奇遇ですわね。 政彦:本当ですね。……えっと? 衣里:白夜月を見ていたんですの。最近よく見えるんですよ。真昼間から。白い月が。 政彦:おや、本当ですね。 政彦:あぁ、そうだ。先日はありがとうございました。 衣里:わたくしは何も。父が喜んでいましたわ。何か良い話だったのかしら。 政彦:(鼻で笑って)大した話ではありませんよ。 衣里:(ムッとして)女には分からない、ですか? 政彦:(分からない、あたりから被せて)流行りの葉巻の話と、新しい(投資の話を)……、 0:間。 衣里:……え。 政彦:え? 0:間。 衣里:……ぁ。済みません。わたくしったら。少しイライラしているみたい。 政彦:(吹き出して)ははは……。 衣里:な、なんです。 政彦:いや。先日お会いした時は、浮世離れした、何だか不思議な空気を纏ってらっしゃる方だなと思ったものですが……。そんな風に苛立つこともあるのだな、と……っくく。 衣里:おかしいですか。 政彦:ふふ。ええ。当たり前のことですが、天月嬢も人間なのだなと思ったら、何だか可笑しくて……済みません。 衣里:……貴方だって。 政彦:え? 衣里:ちゃんと笑えるんですのね。意外ですわ。 政彦:えっと……前回も朗らかにお話しさせていただいたと記憶しているのですが……。 衣里:目が笑ってなかったもの。……貴方はわたくしと同じ。 0:間。 衣里:何かが足りないのだわ、きっと。 政彦:…………! 衣里:済みません、連れを待たせてあるんです。そろそろ失礼致します。 0:去ろうとする衣里の腕を、政彦が掴む。 政彦:待ってください! 衣里:…………! 政彦:月を……、 衣里:え……。 政彦:五日に一度、ここで半刻(はんとき)。一緒に月を見ていただけませんか……! 0:間。 政彦:……!あ、いえ。 政彦:(小声で)何言ってるのだ私は……! 政彦:(衣里に向き直って)申し訳ありません。とんだ妄言を吐いてしまった。 衣里:いつも月が見えるとは限りませんが。 0:間。 衣里:月の見えない日でも、約束通りここに来て良いものかしら。 政彦:…………は。 衣里:五日後、また参ります。 0:間。 政彦:月が、見えなくても? 衣里:ええ。 0:間。 衣里:だって、例え見えなくとも、そこに月はあるでしょう? 政彦:(M)どうして突然そんなことを口にしたのか、正直自分でもよく分からなかった。ただ、その時の私は、彼女といたらその「足りない何か」が分かるのではないかと……何となく、そう感じたのだった。 政彦:そうして五日に一度。珈琲を一杯飲んだ後に、ただバルコニーで月を見る。それだけの関係が続いて、いつの間にか半年が経っていた。  :  0:場面転換。数日後。天月邸。 衣里:でね。修身(しゅうしん)の教科書に書いてあったんです。 衣里:月夜の晩、とあるお邸(やしき)からピアノの音がした。窓からそっと覗くと、それを弾いているのはなんと盲目の少女。ベートーフェンはその様子にいたく感動し(この曲を作ったそうですわ)……、 丞:(途中で遮って)夜分に知らぬ家を覗く男など恐怖ではないか。 衣里:……え? 丞:しかも、覗くその一瞬で少女が盲目だと分かったのは何故なんだ?ただ目を瞑っているのとどう区別をつけた? 衣里:それは……。 丞:その話には穴が多すぎる。物語を浪漫的かつ劇的に仕立て上げたいのは分かるが、如何せん組み立てが杜撰すぎるのではないかな。 丞:まあでも、如何にも女性が気に入りそうな、可愛らしい逸話であるが。はは。 衣里:…………。 丞:……ん?衣里? 衣里:いいえ、何でも。……そうでしょう?とっても可愛いお話だなって。わたくしもそう思ったんですの。  :  0:場面転換。数日後。喫茶店・店内。 政彦:っはは。それはそれは。ご婚約者殿も夢がない。……珍しくお怒りですね。天月嬢。 衣里:別に怒ってなどおりませんわ。 政彦:そうですか。ふふ。しかし、彼の意見に私も同意です。 衣里:まあ!鷹野様まで! 政彦:そのお話が嘘である、という点についてですがね。 衣里:どうして嘘だと? 政彦:私にはあの曲からは……もっと深い、強い情熱のような物を感じるので。 衣里:あら。あれからちゃんと聴いてくださっていたのね、ベートーフェン。 政彦:ええ。 政彦:……?どういう表情です、それは。 衣里:この明治のご時世に、女に寄り添う殿方も珍しいわと思って。 衣里:初めてお会いした時は、貴方も物腰は柔らかそうでも、心根では女を馬鹿にしているとハッキリ分かるような態度でしたよ。言ったでしょう?目が笑ってなかった、と。 政彦:なんと、酷い男ですね。……今はどうです? 0:政彦、衣里に顔を近付ける。 衣里:優しく……笑うようになったわ。 政彦:そうですか。 衣里:不思議だわ。 政彦:何がです。 衣里:貴方がわたくしを見る目は……他の人がわたくしを見る目とまるで違うから。 政彦:…………? 衣里:ねえ、鷹野様。わたくし愛が怖いわ。わたくしね、愛の視線には敏感なのよ。すぐに分かるわ。だって皆、わたくしの首元を食い破りそうな視線で見つめてくるのだもの。 政彦:(ポツリと)月の、首元……。 衣里:でも……貴方は違う。 政彦:買い被りすぎです。 衣里:でも、貴方の視線の意味が、わたくしには分からないの。 政彦:意味、ですか。 衣里:え?……ぁ! 0:政彦、衣里の頭をぐいと引き寄せ、その唇を奪う。 衣里:…………。 政彦:油断、しましたね。 政彦:……ははっ。済みません。私も、月の首に噛みつきたい、馬鹿な男の一人だったようだ。……済みません。貴女の信頼を裏切るような真似をして。 0:政彦、衣里の元を去ろうとする。 衣里:お待ちになって! 衣里:……見ていただきたいものが、あります。 政彦:(M)そこから先のことは、正直あまり……覚えていない。  :  0:場面転換。鷹野邸。 衣里:少しだけ、目を閉じていてくださる? 政彦:(M)甘い匂いと。 衣里:ごめんなさい。きっとこれは、わたくしの我が儘だわ。 政彦:(M)衣ずれの音。 衣里:どうしても、貴方に……。 衣里:(息を吸って)いいわ。目を開けて? 政彦:(M)白い肌に浮かび上がる、 衣里:これが、愛の証なんですって。 政彦:(M)無数の、赤い赤い、花びらのような痕。 衣里:お父様がわたくしを愛してる、証……。 政彦:(M)許されない、禁忌の行為の、証……。 衣里:私はね、人形なのよ。お父様の思い通りに動き、お父様の望んだように生きる。……結婚相手だって。 政彦:(M)声が、出ない。 衣里:……ねえ。これが愛なら。 政彦:(M)私は今どんな顔をしているのだ。 衣里:愛とはなんて醜いのかしら。 政彦:(M)声が。  :  衣里:何も、言ってくださらないのね。そうよね。……そうよね。 衣里:(背を向けて)ごめんなさい。もう、五日後はやってきません。月は永遠に見えなくなりますわ。 0:間。 衣里:さようなら、鷹野様。 政彦:(M)愛とは、一体何なのだ。 衣里:(泣きながら走っている息) 0:前から歩いてきた美津と思い切りぶつかる。 美津:キャ!……いたた……ん?衣里様? 衣里:美津、さん……。 美津:どうしたのです?泣いてらっしゃるのですか。どうされたのです、衣里様……! 衣里:美津さ……ぁ、あぁあああ……! 0:衣里、堪えきれず、美津の胸で声を上げて泣き始める。 美津:衣里様……。  :  美津:(M)これは、誰。私の胸で泣くこの方は、一体、誰? 美津:衣里様は……そう。衣里様は、高潔で、強く、美しく、私になんて到底手の届かない……まるで儚い月のような人で。 美津:どんなに優しくても、決して私をその瞳に映してはくれない。冷たい孤高の、高嶺の花で。 美津:私には屈しない、堕ちない。そんな月が……今、私の胸の中で小さくなって泣いている。  :  美津:衣里さ、…………!(ハッとする)  :  美津:(M)その時、私は全てを理解した。 美津:この月は。愛を知らない、届かない筈の澄ました月は。 美津:……誰かを愛することを、知ってしまったのだ、と……。 0:間。 美津:(M)私にとって、愛とは。 美津:その方が好きなものを好くこと。 美津:その方が愛するものを愛し抜くこと。 0:間。 美津:(M)だって。だって私には、それしかできないのだもの。愛する術が、他にないもの。 美津:あぁ、だけど。だから。だけど。……だから、私は……。 衣里:わたくしにとって、愛とは——  :  0:場面転換。三日後。喫煙所。 丞:鷹野。久しぶりだな。 政彦:ああ……。 丞:どうした?元気がないな。 政彦:いや。少し忙しくてな。 丞:……まあ、わざわざ理由は聞かんがな。 政彦:助かる 丞:お前は何でも背負いすぎるからな。無理はするなよ。 政彦:ああ。……なあ。 丞:なんだ? 政彦:お前はどうして、一も二もなく女を選べるんだ? 0:間。 丞:……ハッ、どうした。急に真顔で冗談を言うものだから、反応が遅れただろ。 政彦:……はは。いや、すまん。何でもない。 丞:ほら、もう一本どうだ。 政彦:……あぁ。いただく。 0:政彦は、丞にタバコを1本もらって火を付ける。 丞:(タバコをふかしてから)……はぁ。 政彦:どうした。お前も疲れていそうだな。 丞:天女様がご機嫌斜めでな。この数日会ってくれないんだ。 政彦:婚約者殿か。この数日って……お前毎日会いに行ってるのか。 丞:毎日でも飽きないからな。今日もこれから会いに行ってくる。 政彦:殊勝なことだ。 丞:衣里には……いや。天月のお姫様にはその価値があるんだよ。じゃあな。 0:間。 政彦:…………は? 0:政彦、タバコをポトリと落とす。  :  0:場面転換。五日後。喫茶店。 政彦:……来てくれたのですね。 衣里:…………。 政彦:来てくれないかと思っておりました。 衣里:ずるい人。 政彦:贔屓にしている良い花屋が、今日は芍薬が綺麗だと言うものだから、どうしても誰かに贈りたくて。 衣里:あんな分かりにくい一筆箋(いっぴつせん)……「今日は月が綺麗ですよ」だなんて……わたくしが気付かなかったらどうするお積もりでしたの。 政彦:それもまた天命です。気付くかもしれない。気付かないかもしれない。気付いても来てはくれないかもしれない。……気付いて、来てくれるかもしれない。 衣里:…………ッ、 政彦:来てくれて、嬉しいです。 政彦:先日は済みません。私に覚悟が足りず、貴方を傷付けてしまった。……でも。あいつに渡すくらいなら。その前に……。 衣里:鷹野さ、ま……? 政彦:黙って。 0:政彦、唇で衣里の口を塞ぐ。 政彦:(M)唇を重ねた瞬間、互いのタガが外れたのが分かった。長い口付けの後、私は彼女の手を引き店を走り出て、記憶の次の瞬間には、自室のベッドの上で、彼女の花びらの一つ一つを上書きしていた。 0:場面転換。鷹野邸。 0:ベッドの中、二人は窓から夜の月を見ている。 政彦:月……綺麗ですね。 衣里:そうですね。 政彦:ずっと……「月は」綺麗です。 衣里:月は。ふふ。含みのある言い方をなさるのね。 政彦:さぁ。どういう意味でしょうかね。 衣里:さぁ。どういう意味にしたいのかしら。 0:間。 政彦:貴方には幸せになってほしい。 衣里:……「私が幸せにします」とは、言ってくださらないのですね。 政彦:それは……婚約者殿に悪い。 衣里:こんなことをしておいて? 0:間。 政彦:私は貴女の幸せを願っております。ずっと、ずっと……。もし、貴女の幸せを私が邪魔してしまうなら、私は潔く、すぐに身を引きましょう。 衣里:酷い人。なら何故、あのまま半刻の逢瀬をやめてくださらなかったの。何故手紙など寄越したの。 政彦:貴女は貴女の好きなように生きて欲しい。貴女には自由であって欲しい。これは本心です。ですが……(政彦、言い淀む)。 0:間。 政彦:あの半刻がなくなるのは、俺にとっての地獄だから。 衣里:大仰な言い方をなさるのね。幸せになって欲しい。でも相手は自分じゃない。けど半刻の時間を失いたくない。……そんなの……ッ! 0:間。 衣里:わたくしの幸せが、貴方に分かるの……? 政彦:分かりません。でも、私には、貴女を幸せにすると言い切る自信もない。 衣里:わたくしにとっての地獄はそれだわ。 政彦:え、り……、 衣里:黙って。 0:衣里、政彦に口付ける。 政彦:(M)そうして次に目覚めた時、私が抱き締めていたのは、温もりのない、彼女の残り香だけだった。 0:場面転換。次の日。珈琲店。 0:丞は、美津が探偵に調べさせた、この数日の衣里の動向が書かれた資料を見ている。 丞:ハッ……突然衣里の友人だ、鷹野の婚約者になる女だと言われ呼び出され、あまつさえこんな馬鹿げたものを信じろと……? 美津:信じるも信じないもどうぞお好きに。けれど、馬鹿げたものかどうかはきちんと読めば分かることです。私はただ、私が調べて分かったことを、貴方にお見せしたに過ぎないのですから。 0:間。 丞:……往来を手を繋いで走って、鷹野の家へ……? 美津:大胆ですよね。 丞:それだけでは、何があったとも言えないだろう。 美津:何もなかった、とも言えませんわね。 丞:…………俺に、一体どうしろと……。 美津:興味があって。 丞:は? 美津:貴方様がこれを見てどんな顔をするのか。 丞:……ッ! 0:丞、美津の頬を叩く。 丞:なんなんだ……何なんだお前は!衣里の友人では……鷹野の女ではないのかお前は! 美津:ふふ。そうですよ。 丞:だったら……! 美津:私、衣里様が好きなんです。 丞:は? 美津:だから今は、鷹野様のことも好きですわ。 丞:何を言って……。 美津:女の身空では、衣里様と結ばれることはできない。だから、代わりに衣里様の愛する物は、全て愛するって決めたんです。ぜーんぶ手に入れるの。全部全部同じものを。ハンケチーフも、焼き菓子も、簪も……鷹野様も。 美津: : 美津:それが、私の愛。 0:間。 丞:お、まえ……。 美津:だから困るのですよ。神坐(じんざ)様がちゃあんと衣里様を捕まえておいてくれないと。……ね? 0:間。 丞:だから……だから鷹野は別の女に走ったのだ!誰も。誰もお前のような女は愛さない! 美津:ええ。そうでしょうとも。 美津:でも、それは貴方も一緒でしょう?私たちの愛は、自分勝手を煮詰めて焦がしたようなもの。……愛される訳がないわ。 丞:……何だと……? 美津:あぁ。そうだわ神坐様。今日、衣里様がどこにいるのか確認しなくても良いのかしら。……今頃もしかしたら、きっと……。 丞:…………ッ! 0:丞、席を立って走り去る。 美津:…………ふふ。  :  0:場面転換。天月邸。 丞:……衣里!衣里ッ! 衣里:丞様。どうされたのです、そんな大声を上げて。 丞:ああ、何だ。いるじゃないか。クソッ。あの女適当なことを……! 丞:なあ。お前は俺の婚約者だな。そうだろ。な? 衣里:え?ええ……キャアッ! 0:丞、衣里の服をグイッと引っ張る。 丞:……なら服を脱いでくれ。安心させてくれ、頼む……。 衣里:何を……!嫌、嫌です、やめ……あぁっ! 0:襟のシャツのボタンが取れ、胸元のキスマークが顕になる。 丞:は、はは……その痕……そうか、そうかそうかそうか……お前は、俺を裏切っていたのだな。 衣里:……ぁ! 0:丞、衣里の首に手を当てる、が……絞めることができない。 丞:…………クッ。 衣里:……そのまま絞めれば宜しいわ。ええ、ほんの一瞬です。貴方はただ、その手に力を込めるだけで良い。それで終わるわ。 丞:……できない。 衣里:何故。 丞:君の首を絞めることは、俺の首を絞めることだ。 衣里:……難儀な人。 丞:駄目だ……頼む……俺のことを愛してくれなくても良い。俺から離れないでくれ。 丞:……こんな……こんな醜態、君に見せたくはなかった。 衣里:……どうして。 丞:自分の情けない姿を好いた女の前に晒さねばならない……世の男が皆、迷わず死を選ぶ状況だ。 衣里:まだわたくしのことを好いていると? 丞:君の目が好きだ。君の冷めた視線も。スッと通った鼻も。その小さな口も。 丞:声も好きだ。君の、澄んだその声が。 0:間。 衣里:つまり、わたくしは人形でいいのね。見目が好き、声が好き。だけれど、わたくしの意見や言葉など欲してないのだわ。 衣里:分かったわ。それでいいのなら。 丞:……愛しているのか、鷹野を。 衣里:いいえ。もう……あの人とは会わないわ。 丞:……そう、そうか。 0:衣里、丞を抱きしめる。 衣里:ごめんなさい……ごめんなさいね。  :  0:場面転換。数日後。定食屋。 丞:また単騎遠征か。随分探したぞ。 政彦:……一人で食っても飯は美味いぞ。どうした、こんな所にお前が来るなんて。 丞:一言礼を言おうと思ってな。 政彦: :何だ。 丞:衣里が世話になったな。 政彦:…………ッ、 丞:どうだ?衣里の味は甘かったか。 0:間。 政彦:……はっ。ははは……!そう。そうだな。あぁ、そうだ。 政彦:……お互いに縛りなく人肌を温め合える、最高の関係だよ、衣里とは。 政彦:お前は知らんだろう。背中に回された彼女の爪の痛みも。私に応える甘い嬌声も。 丞:貴様……!(政彦の胸ぐらを掴む) 政彦:…………ッ(殴られるのを待つ)。 0:間。 政彦:…………? 0:間。 丞:…………ッ、クソッ! 政彦:どうした。殴らないのか。 丞:馬鹿らしい!殴られるのを待つ男を殴るなど。私はそこまで愚鈍ではない。 丞:実際は、お前の首をこの手で、この場で!捻じ切ってやりたいくらいだがな……! 政彦:そうすれば良い。何故しない。 丞:お前の首を絞めることは、彼女の首を絞めることだ……! 0:間。 政彦:……は、はは……そうか……。 丞:私は優しくない男だぞ、鷹野。 政彦:優しいよ、お前は。 丞:これきりだ、鷹野。もう会わない。 丞:衣里は、お前には渡さない。 政彦:(M)その日、私は夢を見た。衣里が泣いている。私はその場から動けずに、ただその哀しい涙が衣里の目から溢れるのを見ている。 政彦:君が何を話そうとしているのか。君が何を訴えようとしているのか。全てがまるで、底の見えない闇の中に零れ落ちていくようで。他人事のように、脳がそれを上手く処理することができない。 政彦:掬い戻すことができたなら、拭うこともできたのに、などと。 政彦:  政彦:もう、何もかも遅いのに。 政彦:  政彦:空が段々と白んでいく。月が離れて、朝が近付こうとしていた。夜が遠のいてしまう。夢が終わってしまう。……目を開けたら、また君のいない現実に戻ってしまう。そう思ったら思わず、私は夢の中の、消えかけた彼女の腕を掴んでいた。  :  政彦:衣里、後生だ!行かないでくれ……!  :  政彦:(M)見慣れた天井に視界が切り替わるその瞬間、夢の中君が、もう一度あの言葉を吐いた。 衣里:さようならですわ。鷹野様。 政彦:…………ッ!はぁ、はぁ、はぁ……!(汗だくで飛び起きる)  :  政彦:(M)三ヶ月後、私の元に一通の手紙が届いた。それは私の生涯で、最も悲痛な一通となった。……「豊太郎」は、物語の中で二通の手紙を受け取った。二通でないだけ、彼よりはまだしもの救いがあったのかもしれない。 政彦:いや、いやいやいや。そんなことは決してなかった。その手紙は、たった一言で私の心を無残にも、そして一欠片の温かさもなく切り裂き、一瞬にしてボロ雑巾のようにくたびれた私を、嘲笑っているかのように流暢であった。 政彦:  政彦:「どうぞ、幸せになって」 政彦:  政彦:差出人の名は、神坐衣里(じんざ・えり)。 衣里:(M)鷹野様。わたくしは未来永劫、あの時何も言ってくれなかった貴方の弱さを恨み、貴方の優しさを妬むでしょう。貴方がわたくしを連れ去ってくれなかったことを、永遠に憎み続けるでしょう。 衣里:忘れるなんて許さないわ。わたくしの目の光が消えるその瞬間まで、心の臓の早鐘がぴたりと止む時まで……この命が尽き果てるまで。わたくし……神坐衣里の一生涯を持って、全身全霊で。 衣里:貴方の心に残ってあげる。 衣里:  衣里:わたくしは貴方を許しません。赦してなんてやりません。……だから。だからずっと、わたくしという存在を、思い出を、あの半刻を……貴方のおそばに置いてください。ずっとずっと、罪の意識に苛まれてください。……どうか。 衣里:その首元に噛みつきたいくらい……大嫌いですわ。鷹野様……。  :  0:場面転換。喫茶店。 美津:遅れて済みません。お待ちになった? 政彦:いえ。 美津:あら。穏やかな表情。(席に座りながら)……最近、良いことでもありました? 政彦:どうでしょう。きっと、良いことは毎日あるのです。何気ない日常にそれは転がっている。……でも最近、それを見つけられないのです。 美津:……そう。良いこと、良いこと……あぁ、ほら見てください。綺麗な白夜月ですわ。 政彦:月は……綺麗ですね。……今までも、これからも。でも私は……、 0:間。 政彦:美津さん、今日お呼び立てしたのは、私たちの関係の(解消をお願いしたく)……、 美津:良いですよ、鷹野様。 政彦:…………え? 美津:ご利用なさいな、私を。 政彦:何をおっしゃっているのか……。 美津:幸い金ならございます。伯爵家と繋がれるのであれば、父は幾らでも泡(あぶく)を積みましょう。 政彦:美津さん……? 美津:(被せて)鷹野様。後ろ指を差される覚悟はおありですか。 美津:哀れ、金の為に成金女を娶った畜生だと、金の為に愛を捨てたゴミ屑だと、囁かれるご覚悟はありますか。……なんて。ふふ。元々そんなの、当然覚悟の上ですよね。 政彦:美津さん、私は(お金など要りません)……、 美津:(被せて)お金など要らない……。(笑って)そうでしょうね。今の貴方はそう仰るでしょうねえ。 政彦:…………? 美津:今の貴方はただ、衣里様に幸せになって欲しいだけなのですよね。 政彦:……ッ。何故彼女のことを……。 美津:何故でしょうか。 0:間。 政彦:……美津さんは、私に利用されても良い、と……? 美津:ええ。……だってわたくし。 0:間。 美津:愛しておりますから。 政彦:………?それは、私を……? 美津:ふふ。「月」を、です。 0:間。 政彦:……成る程。私たちは、同族で同類で……等しく臆病で阿呆だと。そういうことですか。 美津:一緒にされたくはないですね。私が貴方だったら、私を選びはしませんわ。 政彦:ややこしいことだ。 美津:そうですわね。……要は、同じ想いを持つ者同士、「共犯者」になりませんか、ということです。 政彦:共犯者? 美津:ええ。共に殺しましょう。 美津:「月」を想う、非合理な愛を。 0:間。 政彦:非合理、ですか。私の愛は。 美津:違うと? 政彦:私にとっては……合理的な愛でした。 美津:それは……どういう意味で? 政彦:この愛は……無駄ではなかった。 0:間。 美津:そうかしら。 政彦:貴女の愛も。 美津:……私の愛も? 政彦:無駄ではなかった。 美津:…………ッ。 0:間。 政彦:言ってご覧なさい。楽になる。 美津:……私の愛は、無駄では、なかった……? 政彦:はい。 美津:……ッ!(涙が溢れて)ふ、ふふ……。 政彦:……? 美津:嫌ですわ。今になって本当の意味で、衣里様の気持ちが分かってしまうなんて。 政彦:え? 美津:あぁ、いえ。今だから、ですわね。きっと。 0:間。 美津:政彦様。私、きっといい妻になれると思うわ。 政彦:どうしたのですか、急に。 美津:ふふ。 美津:幸せになりましょう。一緒に。  :  0:場面転換。夜。神坐邸。 衣里:わたくしの愛って面倒なんだって、初めて知ったの。 丞:どんなに重い愛でも受け止めるさ。君が俺から離れないと誓ってくれたなら……。 衣里:ふふ。馬鹿ね。男女の仲などは……、 丞:ん? 衣里:縛りたくなったが最後……その先は地獄しかないと言うのに。 丞:………それなら、共に堕ちよう。 衣里:(暫し呆気に取られて)ふふ、ふふふ……!そう、そうですわね……! 衣里:  衣里:いいわ。一緒に堕ちてあげる。 丞:ふふ。……あぁ、幸せだよ、俺は……。 衣里:ねえ、わたくし貴方にとって美しい人形であり続けるわ。何も言わない。何も拒まない。 衣里:ただずっと、美しくあるわ。ずっと。 衣里:ですから—— 0:間。 衣里:ですからずっと、愛してね。  :   :   :   :   :【台本終了】

0:天月邸。応接間。 政彦:(ボソリと)熾熱燈(しねつとう)……。 衣里:ふふ。父が来るまで、こちらに卓を運ばせて骨牌(かるた)でも致しますか?鷹野様。 政彦:…………え? 衣里:舞姫、でしょう?アレの冒頭は、骨牌仲間に一人残された主人公が、熾熱燈(しねつとう)のあまりの眩しさに、虚しさを覚える場面でしたから。 政彦:あ、あぁ……。よくお分かりになりましたね。 衣里:アーク灯を熾熱燈(しねつとう)だなんて書いたのは、アレくらいのものでしょう。 政彦:森鴎外。読んでらっしゃるんですね。 衣里:えぇ。父が好きなもので。 0:間。 衣里:ふふ。だからわたくしの名前は「衣里(えり)」と言うんですよ。 政彦:え?……あぁ!エリスの「衣里」ですか。 衣里:酷いでしょう?伯爵家の娘の名前の由来が、お話に出てくる貧乏な踊り子だなんて。 政彦:その割にお声が明るい。 衣里:だって、普通でない方が楽しいではありませんか。 政彦:なるほど。 衣里:父はハイカラなものが好きで。 衣里:このアーク灯も、わたくしが生まれる前に取り入れたらしいですわ。母の髪型は二百三高地(にひゃくさん・こうち)ですし、ドイツに傾倒してからは、ベートーフェンのお話ばかり。……分かりやすいでしょう? 政彦:ベートーフェン? 衣里:えぇ。 嫦娥之曲(ムーンライト・ソナタ)の。ご存知ありません?「月」の曲です。我が家の姓が「天月」だからって。ふふ。安直でしょう? 政彦:済みません。音楽には些か疎くて。多分聴いたことはあるかと思うのですが……。 衣里:いいえ。外来のものを知り過ぎていらっしゃるよりも、よほど硬派で素敵ですわ。……ね? 政彦:(M)そう微笑んだ彼女は、ぞっとするほど美しくて。白磁のような彼女の絹肌に浮かび上がる真っ赤な唇が、妙に印象に残った。  :  0:場面転換。数日後。喫煙所。 丞:舞姫? 政彦:読んだことあるか? 丞:あぁ。政府様に選ばれてドイツに留学した主人公の豊太郎(とよたろう)が、向こうで踊り子のエリスと恋仲になっちまって公務員をクビになる話だろ。 政彦:おい。 丞:何だよ、合ってんだろ? 政彦:いや。まあ……間違ってはいないが。 丞:最終的に、辛い時に自分を支えてくれ、今や自身の子を身籠ってまでいるエリスとの真実の愛を貫くか、はたまた親友が彼を案じて紹介してくれた仕事に舞い戻り、学問と出世への道に引き返すか。豊太郎は選択を迫られる訳だ。 政彦:説明のやりように悪意がある。 丞:まあ俺だったら?一も二もなく女を選ぶがね。 政彦:一も二もなく親友を裏切るか。 丞:ああ。残念だな鷹野。俺はお前より愛を選ぶ。 政彦:別に私云々の話はしてない。 丞:冷たい男だな。十年来の付き合いだというのに。 政彦:今まさに、その十年来の友よりも女に走ると宣言したのはどこのどいつだ。 丞:そのくらい良い女だからな、仕方がない。 政彦:お前の未来の嫁は天女か何かか? 丞:お前の自尊心の高さには、凌雲閣も裸足で逃げ出すな。 政彦:確かに。私に勝る高みに立つ者は、天女くらいしかおらんだろうよ(ニヤリ、と笑う)。 丞:お前に俺くらいしか友がいない理由がよく分かるよ。 政彦:阿呆(あほう)な人間を侍らせて何が楽しいのだ。 丞:友は侍らせるものではないぞ。そこから間違ってる。……本当にお前はブレないな。 政彦:私は豊太郎とは違うからな。 丞:いや、分からんぞ。そういう奴がいつの間にか転落しているものさ。 政彦:私はそうはならんよ。手は既に打ってある。 丞:お前が船成金の娘と結婚とはね。 政彦:滅多なことを言うなよ、神坐(じんざ)。まだきちんと婚約できた訳じゃないのだから。 丞:伯爵家からの求婚を断れるものか。 政彦:まあな。あちらは喉から手が出る程欲しい爵位を得られるのだからな。断る理由がない。……鷹野は、私の代でしかと建て直してみせるさ。 丞:お前はいつだって合理的だがな、鷹野。それは愛を知らんからだぞ。 政彦:(鼻で笑って)愛か。  :  政彦:(M)物語の中の豊太郎は、旧藩の藩校にいた時も、東京に出て東京大学予備門に通った時も、大学の法学部に入った後も、ずっと「彼らしく」あった。そして、私も常に、どんな時であっても私であった。 政彦:物語の中で、一時的とは言え彼を狂わせてしまったのは、一人の女の存在だった。 政彦:……確かに私は、彼と同じような道程(どうてい)を辿ってはいたが、それが私を「彼」たらしめる……つまり、私が彼同様、愛などというくだらないものに翻弄される……そんな要因にはなり得る筈もない。そう信じて疑わなかった。……そう。そんなことは本当に、有り得ない筈だったのだ。  :  政彦:結婚に、愛など要らんよ。  :  0:場面転換。数日後。女学校前。 衣里:あら、美津さん。ごきげんよう。 美津:衣里様……!ごきげんよう。 衣里:お輿入れが決まりそうだと聴きましたわ。しかもお相手はお公家様(くげさま)とか。おめでとうございます。 美津:ありがとうございます。恥ずかしながら、もし本決まりとなれば、公家言葉を覚えるのに苦労しそうですわ。 衣里:あかあか、いしいし、やわやわ、するする? 美津:小豆にお団子、ぼた餅、するめ? 衣里:完璧じゃないの。 美津:言葉重ね以外にも色々ありますわ。何にでも「お」や「もの」や「もじ」が付いて……ややこしいったら。 衣里:おでんにおかず、お長(なが)ものにしゃもじ? 美津:あぁもう!普段使わない言葉ばかり! 衣里:でも、よく勉強なさってて偉いわ。 0:間。 美津:衣里様は、本当にお優しいですね。 衣里:え?……どこが、かしら。 美津:だって、衣里様だったら、小学校の入学時にはもう習得してらっしゃるような言葉でしょう? 衣里:それは……そうかもしれないけれど。 美津:知っているんです、私。……皆さまに陰で笑われていること。 衣里:…………。 美津:「これだから下賤の者は」「成り上がりは言葉を知らなくて困る」「船成金の娘が偉そうに」 衣里:(咄嗟に美津の手を握って)そんな言葉を使っては駄目だわ! 美津:…………ッ、 衣里:美津さん。貴女のお父様は、一代で財を築いた。本当に素晴らしいことだわ。その結果、貴女は人を雇う側になった。つまり、皆の手本にならなくてはならない。 衣里:ならば、そのように品性を疑う人たちの言葉など、気にしなくて結構です。 衣里:誇りなさい、貴女のお父様を。 美津:衣里様……。 衣里:……ぁ。ごめんなさいね、急に掴んだりして。 美津:いえ……。 衣里:駄目よね。こんな風に感情的になっては。 美津:……ありがとうございます、衣里様。 0:間。 衣里:貴女のお父様は、いつも美津さんのことを褒めてらっしゃるもの。「自分には勿体無い娘だ」って。素敵だわ。 美津:恥ずかしいですわ……。 衣里:ふふ。……あら。見て、美津さん。白夜月(はくやづき)だわ。 美津:本当ですわね。薄青空に浮かぶ白のなんと儚いこと。 衣里:美津さんったら、まるで詩人のよう。 美津:闇に溶ける月もまた美しいですけどね。でも。私は昼にお会いできる「月」が好きですわ。 衣里:そうなの?……確かに綺麗ね。 美津:(衣里をじっと見つめて)……えぇ。 衣里:どうしました?美津さん。 美津:いいえ。ふふ。衣里様は肌が白くて羨ましいな、と。 衣里:まあ、ありがとう。わたくしは美津さんの艶のある黒髪の方が羨ましいわ。 衣里:あら?その簪……。 美津:あぁ。この前見つけたんです。衣里様が付けてらしたのがとても素敵だったから、同じものを見つけて嬉しくて……思わず買ってしまって……。 0:間。 衣里:……そう。わたくしなんぞよりとても良く似合っているわ。殿方は皆、美しい髪に懸想(けそう)するんですってよ。 美津:衣里様ったら。……でも、どうしてそう言うのかしら。 衣里:ふふ。だって。  :  0:場面転換。数日後。喫茶店・店内。 衣里:だって、殿方はヒラヒラしたものがお好きですものね? 丞:どうしたんだ?イキナリ。まあでも……そうだな。俺はそういった物が特に好きだが。 衣里:ヒラヒラしたものが? 丞:ヒラヒラしたものが。 衣里:素直であらっしゃるのね。それはどうしてなのかしら。 丞:一説に、狩猟本能をくすぐられる、と言うがね。 衣里:ふぅん。 丞:そう言えば、あれはもう付けてくれないのかな。私が贈った簪は。 衣里:……あぁ、そうね。ごめんなさい。……ねえ。わたくしがこの髪を切ったら、幾ら貴方でも怒ったりなさるのかしら。 丞:我が婚約者殿なら、どんな髪型でも似合うさ。 衣里:そう。 丞:ずるいな。俺が如何に貴女に弱いか知っていて、そんな風に言うのだから。 衣里:ふふ。(一口食べて)ここのシベリア、食べてみたかったの。 丞:突然いつもと違う喫茶店に行きたいだなんて言うから驚いたが、そんなに喜んでもらえるなら来た甲斐があるというものだ。しかしここは安いな。女性はこんなものが好きなのか……。 衣里:……そうね。 丞:おや、パンケークもあるぞ。紅茶はないのか? 衣里:……至れり尽せりね。 丞:君は俺のお姫様だからな。 衣里:…………。 丞:この後は?買い物にでも行くかい? 衣里:……本当に、何でも叶えてくださるのね。 丞:当然だろう?君の美しさに一目惚れしたから、お父上に結婚を申し込んだのだから。 衣里:「父上に」、ね。わたくしにじゃなくて。 丞:え? 衣里:(立ち上がって)失礼。食べすぎてしまったみたい。少しバルコニーで外の空気を吸ってくるわ。タバコでも吸って待ってらして? 丞:あ、ああ……。  :  0:場面転換。同時刻。同喫茶店・店内。 美津:とても雰囲気の良いカッフェーでしょう? 政彦:ええ。シベリアという菓子が有名だそうですね。楽しみです。 美津:お調べになったの? 政彦:え?ええ。変ですか?突然美津さんが行きたいと仰るので、どんな所かな、と。 美津:シベリアだなんて、庶民の食べ物だと笑われると思っておりましたわ。……意外とマメなのですね、鷹野様は。 政彦:おや。私はそんなに雑な印象を与えていたでしょうか? 美津:いえ。ただ……貴方は私に興味がないと思っていたから。 政彦:こうして二人でお会いするのも、もう三度目になるというのに。心の内が読めませんね、美津さんは。 美津:それは必要なことかしら。 政彦:いえ、別に。ただ不思議なだけです。 美津:鷹野様こそ、成金の娘に媚びへつらう必要などないでしょう。私に言わせれば、心の内が読めないのは貴方の方ですわ。 政彦:へつらっているつもりはないのですがね。私が貴女のご機嫌取りをしているように見えますか? 美津:私からすれば、鷹野様はお優しいし、非の打ち所がないお人に見えますね。 政彦:はは。それはどうも。 美津:鷹野様は……我が家の財産と結婚したいのですよね。私の心が欲しい訳ではないのですよね。 政彦:は? 美津:いえ……今のは聞かなかったことにしてください。 0:間。 政彦:美津さんも、私の心が欲しいようには見えませんが。 美津:…………。 政彦:欲しい心が別におありなのですね。 0:間。 美津:私は、「月」が欲しいのです。 政彦:……それは何かの比喩ですか? 美津:さあ。どうでしょう。 美津:……時折、欲望を抑えられなくなるんです。何でもないように澄ました白い月の首元にがぶりと噛み付いて、月が苦痛に歪む姿が見たくなるの。そうしてぐちゃぐちゃにできたなら。きっと私は満たされるのに。  :  政彦:(M)その時。何故か私の脳裏に、天月家のお嬢さんの、白磁のような肌が浮かんだ。  :  政彦:月の、首元……。 美津:なんて。……ふふ。鷹野様には、きっとお分かりにならないわ。 政彦:……何故です。 美津:私が他の愛を欲しても、ご興味ないようですもの。 政彦:…………。 美津:愛を知らないでしょう、貴方は。 美津:いえ。……まあ、私たちには関係のないことですわね。私たちの結婚は、紙の上で行われるのですから。 美津:済みません。ちょっとしたはばかりへ行って参ります。(※お手洗いのことです) 政彦:…………。 0:間。 政彦:(ため息)……くそ。何なんだ一体。 政彦:(M)くだらない。愛だの恋だの、それがなんの役に立つと言うのだ。 0:政彦、タバコの箱を握ってバルコニーに立つ。  :  0:同喫茶店・バルコニー。 政彦:……あ。 衣里:あら。鷹野様。こんなところで奇遇ですわね。 政彦:本当ですね。……えっと? 衣里:白夜月を見ていたんですの。最近よく見えるんですよ。真昼間から。白い月が。 政彦:おや、本当ですね。 政彦:あぁ、そうだ。先日はありがとうございました。 衣里:わたくしは何も。父が喜んでいましたわ。何か良い話だったのかしら。 政彦:(鼻で笑って)大した話ではありませんよ。 衣里:(ムッとして)女には分からない、ですか? 政彦:(分からない、あたりから被せて)流行りの葉巻の話と、新しい(投資の話を)……、 0:間。 衣里:……え。 政彦:え? 0:間。 衣里:……ぁ。済みません。わたくしったら。少しイライラしているみたい。 政彦:(吹き出して)ははは……。 衣里:な、なんです。 政彦:いや。先日お会いした時は、浮世離れした、何だか不思議な空気を纏ってらっしゃる方だなと思ったものですが……。そんな風に苛立つこともあるのだな、と……っくく。 衣里:おかしいですか。 政彦:ふふ。ええ。当たり前のことですが、天月嬢も人間なのだなと思ったら、何だか可笑しくて……済みません。 衣里:……貴方だって。 政彦:え? 衣里:ちゃんと笑えるんですのね。意外ですわ。 政彦:えっと……前回も朗らかにお話しさせていただいたと記憶しているのですが……。 衣里:目が笑ってなかったもの。……貴方はわたくしと同じ。 0:間。 衣里:何かが足りないのだわ、きっと。 政彦:…………! 衣里:済みません、連れを待たせてあるんです。そろそろ失礼致します。 0:去ろうとする衣里の腕を、政彦が掴む。 政彦:待ってください! 衣里:…………! 政彦:月を……、 衣里:え……。 政彦:五日に一度、ここで半刻(はんとき)。一緒に月を見ていただけませんか……! 0:間。 政彦:……!あ、いえ。 政彦:(小声で)何言ってるのだ私は……! 政彦:(衣里に向き直って)申し訳ありません。とんだ妄言を吐いてしまった。 衣里:いつも月が見えるとは限りませんが。 0:間。 衣里:月の見えない日でも、約束通りここに来て良いものかしら。 政彦:…………は。 衣里:五日後、また参ります。 0:間。 政彦:月が、見えなくても? 衣里:ええ。 0:間。 衣里:だって、例え見えなくとも、そこに月はあるでしょう? 政彦:(M)どうして突然そんなことを口にしたのか、正直自分でもよく分からなかった。ただ、その時の私は、彼女といたらその「足りない何か」が分かるのではないかと……何となく、そう感じたのだった。 政彦:そうして五日に一度。珈琲を一杯飲んだ後に、ただバルコニーで月を見る。それだけの関係が続いて、いつの間にか半年が経っていた。  :  0:場面転換。数日後。天月邸。 衣里:でね。修身(しゅうしん)の教科書に書いてあったんです。 衣里:月夜の晩、とあるお邸(やしき)からピアノの音がした。窓からそっと覗くと、それを弾いているのはなんと盲目の少女。ベートーフェンはその様子にいたく感動し(この曲を作ったそうですわ)……、 丞:(途中で遮って)夜分に知らぬ家を覗く男など恐怖ではないか。 衣里:……え? 丞:しかも、覗くその一瞬で少女が盲目だと分かったのは何故なんだ?ただ目を瞑っているのとどう区別をつけた? 衣里:それは……。 丞:その話には穴が多すぎる。物語を浪漫的かつ劇的に仕立て上げたいのは分かるが、如何せん組み立てが杜撰すぎるのではないかな。 丞:まあでも、如何にも女性が気に入りそうな、可愛らしい逸話であるが。はは。 衣里:…………。 丞:……ん?衣里? 衣里:いいえ、何でも。……そうでしょう?とっても可愛いお話だなって。わたくしもそう思ったんですの。  :  0:場面転換。数日後。喫茶店・店内。 政彦:っはは。それはそれは。ご婚約者殿も夢がない。……珍しくお怒りですね。天月嬢。 衣里:別に怒ってなどおりませんわ。 政彦:そうですか。ふふ。しかし、彼の意見に私も同意です。 衣里:まあ!鷹野様まで! 政彦:そのお話が嘘である、という点についてですがね。 衣里:どうして嘘だと? 政彦:私にはあの曲からは……もっと深い、強い情熱のような物を感じるので。 衣里:あら。あれからちゃんと聴いてくださっていたのね、ベートーフェン。 政彦:ええ。 政彦:……?どういう表情です、それは。 衣里:この明治のご時世に、女に寄り添う殿方も珍しいわと思って。 衣里:初めてお会いした時は、貴方も物腰は柔らかそうでも、心根では女を馬鹿にしているとハッキリ分かるような態度でしたよ。言ったでしょう?目が笑ってなかった、と。 政彦:なんと、酷い男ですね。……今はどうです? 0:政彦、衣里に顔を近付ける。 衣里:優しく……笑うようになったわ。 政彦:そうですか。 衣里:不思議だわ。 政彦:何がです。 衣里:貴方がわたくしを見る目は……他の人がわたくしを見る目とまるで違うから。 政彦:…………? 衣里:ねえ、鷹野様。わたくし愛が怖いわ。わたくしね、愛の視線には敏感なのよ。すぐに分かるわ。だって皆、わたくしの首元を食い破りそうな視線で見つめてくるのだもの。 政彦:(ポツリと)月の、首元……。 衣里:でも……貴方は違う。 政彦:買い被りすぎです。 衣里:でも、貴方の視線の意味が、わたくしには分からないの。 政彦:意味、ですか。 衣里:え?……ぁ! 0:政彦、衣里の頭をぐいと引き寄せ、その唇を奪う。 衣里:…………。 政彦:油断、しましたね。 政彦:……ははっ。済みません。私も、月の首に噛みつきたい、馬鹿な男の一人だったようだ。……済みません。貴女の信頼を裏切るような真似をして。 0:政彦、衣里の元を去ろうとする。 衣里:お待ちになって! 衣里:……見ていただきたいものが、あります。 政彦:(M)そこから先のことは、正直あまり……覚えていない。  :  0:場面転換。鷹野邸。 衣里:少しだけ、目を閉じていてくださる? 政彦:(M)甘い匂いと。 衣里:ごめんなさい。きっとこれは、わたくしの我が儘だわ。 政彦:(M)衣ずれの音。 衣里:どうしても、貴方に……。 衣里:(息を吸って)いいわ。目を開けて? 政彦:(M)白い肌に浮かび上がる、 衣里:これが、愛の証なんですって。 政彦:(M)無数の、赤い赤い、花びらのような痕。 衣里:お父様がわたくしを愛してる、証……。 政彦:(M)許されない、禁忌の行為の、証……。 衣里:私はね、人形なのよ。お父様の思い通りに動き、お父様の望んだように生きる。……結婚相手だって。 政彦:(M)声が、出ない。 衣里:……ねえ。これが愛なら。 政彦:(M)私は今どんな顔をしているのだ。 衣里:愛とはなんて醜いのかしら。 政彦:(M)声が。  :  衣里:何も、言ってくださらないのね。そうよね。……そうよね。 衣里:(背を向けて)ごめんなさい。もう、五日後はやってきません。月は永遠に見えなくなりますわ。 0:間。 衣里:さようなら、鷹野様。 政彦:(M)愛とは、一体何なのだ。 衣里:(泣きながら走っている息) 0:前から歩いてきた美津と思い切りぶつかる。 美津:キャ!……いたた……ん?衣里様? 衣里:美津、さん……。 美津:どうしたのです?泣いてらっしゃるのですか。どうされたのです、衣里様……! 衣里:美津さ……ぁ、あぁあああ……! 0:衣里、堪えきれず、美津の胸で声を上げて泣き始める。 美津:衣里様……。  :  美津:(M)これは、誰。私の胸で泣くこの方は、一体、誰? 美津:衣里様は……そう。衣里様は、高潔で、強く、美しく、私になんて到底手の届かない……まるで儚い月のような人で。 美津:どんなに優しくても、決して私をその瞳に映してはくれない。冷たい孤高の、高嶺の花で。 美津:私には屈しない、堕ちない。そんな月が……今、私の胸の中で小さくなって泣いている。  :  美津:衣里さ、…………!(ハッとする)  :  美津:(M)その時、私は全てを理解した。 美津:この月は。愛を知らない、届かない筈の澄ました月は。 美津:……誰かを愛することを、知ってしまったのだ、と……。 0:間。 美津:(M)私にとって、愛とは。 美津:その方が好きなものを好くこと。 美津:その方が愛するものを愛し抜くこと。 0:間。 美津:(M)だって。だって私には、それしかできないのだもの。愛する術が、他にないもの。 美津:あぁ、だけど。だから。だけど。……だから、私は……。 衣里:わたくしにとって、愛とは——  :  0:場面転換。三日後。喫煙所。 丞:鷹野。久しぶりだな。 政彦:ああ……。 丞:どうした?元気がないな。 政彦:いや。少し忙しくてな。 丞:……まあ、わざわざ理由は聞かんがな。 政彦:助かる 丞:お前は何でも背負いすぎるからな。無理はするなよ。 政彦:ああ。……なあ。 丞:なんだ? 政彦:お前はどうして、一も二もなく女を選べるんだ? 0:間。 丞:……ハッ、どうした。急に真顔で冗談を言うものだから、反応が遅れただろ。 政彦:……はは。いや、すまん。何でもない。 丞:ほら、もう一本どうだ。 政彦:……あぁ。いただく。 0:政彦は、丞にタバコを1本もらって火を付ける。 丞:(タバコをふかしてから)……はぁ。 政彦:どうした。お前も疲れていそうだな。 丞:天女様がご機嫌斜めでな。この数日会ってくれないんだ。 政彦:婚約者殿か。この数日って……お前毎日会いに行ってるのか。 丞:毎日でも飽きないからな。今日もこれから会いに行ってくる。 政彦:殊勝なことだ。 丞:衣里には……いや。天月のお姫様にはその価値があるんだよ。じゃあな。 0:間。 政彦:…………は? 0:政彦、タバコをポトリと落とす。  :  0:場面転換。五日後。喫茶店。 政彦:……来てくれたのですね。 衣里:…………。 政彦:来てくれないかと思っておりました。 衣里:ずるい人。 政彦:贔屓にしている良い花屋が、今日は芍薬が綺麗だと言うものだから、どうしても誰かに贈りたくて。 衣里:あんな分かりにくい一筆箋(いっぴつせん)……「今日は月が綺麗ですよ」だなんて……わたくしが気付かなかったらどうするお積もりでしたの。 政彦:それもまた天命です。気付くかもしれない。気付かないかもしれない。気付いても来てはくれないかもしれない。……気付いて、来てくれるかもしれない。 衣里:…………ッ、 政彦:来てくれて、嬉しいです。 政彦:先日は済みません。私に覚悟が足りず、貴方を傷付けてしまった。……でも。あいつに渡すくらいなら。その前に……。 衣里:鷹野さ、ま……? 政彦:黙って。 0:政彦、唇で衣里の口を塞ぐ。 政彦:(M)唇を重ねた瞬間、互いのタガが外れたのが分かった。長い口付けの後、私は彼女の手を引き店を走り出て、記憶の次の瞬間には、自室のベッドの上で、彼女の花びらの一つ一つを上書きしていた。 0:場面転換。鷹野邸。 0:ベッドの中、二人は窓から夜の月を見ている。 政彦:月……綺麗ですね。 衣里:そうですね。 政彦:ずっと……「月は」綺麗です。 衣里:月は。ふふ。含みのある言い方をなさるのね。 政彦:さぁ。どういう意味でしょうかね。 衣里:さぁ。どういう意味にしたいのかしら。 0:間。 政彦:貴方には幸せになってほしい。 衣里:……「私が幸せにします」とは、言ってくださらないのですね。 政彦:それは……婚約者殿に悪い。 衣里:こんなことをしておいて? 0:間。 政彦:私は貴女の幸せを願っております。ずっと、ずっと……。もし、貴女の幸せを私が邪魔してしまうなら、私は潔く、すぐに身を引きましょう。 衣里:酷い人。なら何故、あのまま半刻の逢瀬をやめてくださらなかったの。何故手紙など寄越したの。 政彦:貴女は貴女の好きなように生きて欲しい。貴女には自由であって欲しい。これは本心です。ですが……(政彦、言い淀む)。 0:間。 政彦:あの半刻がなくなるのは、俺にとっての地獄だから。 衣里:大仰な言い方をなさるのね。幸せになって欲しい。でも相手は自分じゃない。けど半刻の時間を失いたくない。……そんなの……ッ! 0:間。 衣里:わたくしの幸せが、貴方に分かるの……? 政彦:分かりません。でも、私には、貴女を幸せにすると言い切る自信もない。 衣里:わたくしにとっての地獄はそれだわ。 政彦:え、り……、 衣里:黙って。 0:衣里、政彦に口付ける。 政彦:(M)そうして次に目覚めた時、私が抱き締めていたのは、温もりのない、彼女の残り香だけだった。 0:場面転換。次の日。珈琲店。 0:丞は、美津が探偵に調べさせた、この数日の衣里の動向が書かれた資料を見ている。 丞:ハッ……突然衣里の友人だ、鷹野の婚約者になる女だと言われ呼び出され、あまつさえこんな馬鹿げたものを信じろと……? 美津:信じるも信じないもどうぞお好きに。けれど、馬鹿げたものかどうかはきちんと読めば分かることです。私はただ、私が調べて分かったことを、貴方にお見せしたに過ぎないのですから。 0:間。 丞:……往来を手を繋いで走って、鷹野の家へ……? 美津:大胆ですよね。 丞:それだけでは、何があったとも言えないだろう。 美津:何もなかった、とも言えませんわね。 丞:…………俺に、一体どうしろと……。 美津:興味があって。 丞:は? 美津:貴方様がこれを見てどんな顔をするのか。 丞:……ッ! 0:丞、美津の頬を叩く。 丞:なんなんだ……何なんだお前は!衣里の友人では……鷹野の女ではないのかお前は! 美津:ふふ。そうですよ。 丞:だったら……! 美津:私、衣里様が好きなんです。 丞:は? 美津:だから今は、鷹野様のことも好きですわ。 丞:何を言って……。 美津:女の身空では、衣里様と結ばれることはできない。だから、代わりに衣里様の愛する物は、全て愛するって決めたんです。ぜーんぶ手に入れるの。全部全部同じものを。ハンケチーフも、焼き菓子も、簪も……鷹野様も。 美津: : 美津:それが、私の愛。 0:間。 丞:お、まえ……。 美津:だから困るのですよ。神坐(じんざ)様がちゃあんと衣里様を捕まえておいてくれないと。……ね? 0:間。 丞:だから……だから鷹野は別の女に走ったのだ!誰も。誰もお前のような女は愛さない! 美津:ええ。そうでしょうとも。 美津:でも、それは貴方も一緒でしょう?私たちの愛は、自分勝手を煮詰めて焦がしたようなもの。……愛される訳がないわ。 丞:……何だと……? 美津:あぁ。そうだわ神坐様。今日、衣里様がどこにいるのか確認しなくても良いのかしら。……今頃もしかしたら、きっと……。 丞:…………ッ! 0:丞、席を立って走り去る。 美津:…………ふふ。  :  0:場面転換。天月邸。 丞:……衣里!衣里ッ! 衣里:丞様。どうされたのです、そんな大声を上げて。 丞:ああ、何だ。いるじゃないか。クソッ。あの女適当なことを……! 丞:なあ。お前は俺の婚約者だな。そうだろ。な? 衣里:え?ええ……キャアッ! 0:丞、衣里の服をグイッと引っ張る。 丞:……なら服を脱いでくれ。安心させてくれ、頼む……。 衣里:何を……!嫌、嫌です、やめ……あぁっ! 0:襟のシャツのボタンが取れ、胸元のキスマークが顕になる。 丞:は、はは……その痕……そうか、そうかそうかそうか……お前は、俺を裏切っていたのだな。 衣里:……ぁ! 0:丞、衣里の首に手を当てる、が……絞めることができない。 丞:…………クッ。 衣里:……そのまま絞めれば宜しいわ。ええ、ほんの一瞬です。貴方はただ、その手に力を込めるだけで良い。それで終わるわ。 丞:……できない。 衣里:何故。 丞:君の首を絞めることは、俺の首を絞めることだ。 衣里:……難儀な人。 丞:駄目だ……頼む……俺のことを愛してくれなくても良い。俺から離れないでくれ。 丞:……こんな……こんな醜態、君に見せたくはなかった。 衣里:……どうして。 丞:自分の情けない姿を好いた女の前に晒さねばならない……世の男が皆、迷わず死を選ぶ状況だ。 衣里:まだわたくしのことを好いていると? 丞:君の目が好きだ。君の冷めた視線も。スッと通った鼻も。その小さな口も。 丞:声も好きだ。君の、澄んだその声が。 0:間。 衣里:つまり、わたくしは人形でいいのね。見目が好き、声が好き。だけれど、わたくしの意見や言葉など欲してないのだわ。 衣里:分かったわ。それでいいのなら。 丞:……愛しているのか、鷹野を。 衣里:いいえ。もう……あの人とは会わないわ。 丞:……そう、そうか。 0:衣里、丞を抱きしめる。 衣里:ごめんなさい……ごめんなさいね。  :  0:場面転換。数日後。定食屋。 丞:また単騎遠征か。随分探したぞ。 政彦:……一人で食っても飯は美味いぞ。どうした、こんな所にお前が来るなんて。 丞:一言礼を言おうと思ってな。 政彦: :何だ。 丞:衣里が世話になったな。 政彦:…………ッ、 丞:どうだ?衣里の味は甘かったか。 0:間。 政彦:……はっ。ははは……!そう。そうだな。あぁ、そうだ。 政彦:……お互いに縛りなく人肌を温め合える、最高の関係だよ、衣里とは。 政彦:お前は知らんだろう。背中に回された彼女の爪の痛みも。私に応える甘い嬌声も。 丞:貴様……!(政彦の胸ぐらを掴む) 政彦:…………ッ(殴られるのを待つ)。 0:間。 政彦:…………? 0:間。 丞:…………ッ、クソッ! 政彦:どうした。殴らないのか。 丞:馬鹿らしい!殴られるのを待つ男を殴るなど。私はそこまで愚鈍ではない。 丞:実際は、お前の首をこの手で、この場で!捻じ切ってやりたいくらいだがな……! 政彦:そうすれば良い。何故しない。 丞:お前の首を絞めることは、彼女の首を絞めることだ……! 0:間。 政彦:……は、はは……そうか……。 丞:私は優しくない男だぞ、鷹野。 政彦:優しいよ、お前は。 丞:これきりだ、鷹野。もう会わない。 丞:衣里は、お前には渡さない。 政彦:(M)その日、私は夢を見た。衣里が泣いている。私はその場から動けずに、ただその哀しい涙が衣里の目から溢れるのを見ている。 政彦:君が何を話そうとしているのか。君が何を訴えようとしているのか。全てがまるで、底の見えない闇の中に零れ落ちていくようで。他人事のように、脳がそれを上手く処理することができない。 政彦:掬い戻すことができたなら、拭うこともできたのに、などと。 政彦:  政彦:もう、何もかも遅いのに。 政彦:  政彦:空が段々と白んでいく。月が離れて、朝が近付こうとしていた。夜が遠のいてしまう。夢が終わってしまう。……目を開けたら、また君のいない現実に戻ってしまう。そう思ったら思わず、私は夢の中の、消えかけた彼女の腕を掴んでいた。  :  政彦:衣里、後生だ!行かないでくれ……!  :  政彦:(M)見慣れた天井に視界が切り替わるその瞬間、夢の中君が、もう一度あの言葉を吐いた。 衣里:さようならですわ。鷹野様。 政彦:…………ッ!はぁ、はぁ、はぁ……!(汗だくで飛び起きる)  :  政彦:(M)三ヶ月後、私の元に一通の手紙が届いた。それは私の生涯で、最も悲痛な一通となった。……「豊太郎」は、物語の中で二通の手紙を受け取った。二通でないだけ、彼よりはまだしもの救いがあったのかもしれない。 政彦:いや、いやいやいや。そんなことは決してなかった。その手紙は、たった一言で私の心を無残にも、そして一欠片の温かさもなく切り裂き、一瞬にしてボロ雑巾のようにくたびれた私を、嘲笑っているかのように流暢であった。 政彦:  政彦:「どうぞ、幸せになって」 政彦:  政彦:差出人の名は、神坐衣里(じんざ・えり)。 衣里:(M)鷹野様。わたくしは未来永劫、あの時何も言ってくれなかった貴方の弱さを恨み、貴方の優しさを妬むでしょう。貴方がわたくしを連れ去ってくれなかったことを、永遠に憎み続けるでしょう。 衣里:忘れるなんて許さないわ。わたくしの目の光が消えるその瞬間まで、心の臓の早鐘がぴたりと止む時まで……この命が尽き果てるまで。わたくし……神坐衣里の一生涯を持って、全身全霊で。 衣里:貴方の心に残ってあげる。 衣里:  衣里:わたくしは貴方を許しません。赦してなんてやりません。……だから。だからずっと、わたくしという存在を、思い出を、あの半刻を……貴方のおそばに置いてください。ずっとずっと、罪の意識に苛まれてください。……どうか。 衣里:その首元に噛みつきたいくらい……大嫌いですわ。鷹野様……。  :  0:場面転換。喫茶店。 美津:遅れて済みません。お待ちになった? 政彦:いえ。 美津:あら。穏やかな表情。(席に座りながら)……最近、良いことでもありました? 政彦:どうでしょう。きっと、良いことは毎日あるのです。何気ない日常にそれは転がっている。……でも最近、それを見つけられないのです。 美津:……そう。良いこと、良いこと……あぁ、ほら見てください。綺麗な白夜月ですわ。 政彦:月は……綺麗ですね。……今までも、これからも。でも私は……、 0:間。 政彦:美津さん、今日お呼び立てしたのは、私たちの関係の(解消をお願いしたく)……、 美津:良いですよ、鷹野様。 政彦:…………え? 美津:ご利用なさいな、私を。 政彦:何をおっしゃっているのか……。 美津:幸い金ならございます。伯爵家と繋がれるのであれば、父は幾らでも泡(あぶく)を積みましょう。 政彦:美津さん……? 美津:(被せて)鷹野様。後ろ指を差される覚悟はおありですか。 美津:哀れ、金の為に成金女を娶った畜生だと、金の為に愛を捨てたゴミ屑だと、囁かれるご覚悟はありますか。……なんて。ふふ。元々そんなの、当然覚悟の上ですよね。 政彦:美津さん、私は(お金など要りません)……、 美津:(被せて)お金など要らない……。(笑って)そうでしょうね。今の貴方はそう仰るでしょうねえ。 政彦:…………? 美津:今の貴方はただ、衣里様に幸せになって欲しいだけなのですよね。 政彦:……ッ。何故彼女のことを……。 美津:何故でしょうか。 0:間。 政彦:……美津さんは、私に利用されても良い、と……? 美津:ええ。……だってわたくし。 0:間。 美津:愛しておりますから。 政彦:………?それは、私を……? 美津:ふふ。「月」を、です。 0:間。 政彦:……成る程。私たちは、同族で同類で……等しく臆病で阿呆だと。そういうことですか。 美津:一緒にされたくはないですね。私が貴方だったら、私を選びはしませんわ。 政彦:ややこしいことだ。 美津:そうですわね。……要は、同じ想いを持つ者同士、「共犯者」になりませんか、ということです。 政彦:共犯者? 美津:ええ。共に殺しましょう。 美津:「月」を想う、非合理な愛を。 0:間。 政彦:非合理、ですか。私の愛は。 美津:違うと? 政彦:私にとっては……合理的な愛でした。 美津:それは……どういう意味で? 政彦:この愛は……無駄ではなかった。 0:間。 美津:そうかしら。 政彦:貴女の愛も。 美津:……私の愛も? 政彦:無駄ではなかった。 美津:…………ッ。 0:間。 政彦:言ってご覧なさい。楽になる。 美津:……私の愛は、無駄では、なかった……? 政彦:はい。 美津:……ッ!(涙が溢れて)ふ、ふふ……。 政彦:……? 美津:嫌ですわ。今になって本当の意味で、衣里様の気持ちが分かってしまうなんて。 政彦:え? 美津:あぁ、いえ。今だから、ですわね。きっと。 0:間。 美津:政彦様。私、きっといい妻になれると思うわ。 政彦:どうしたのですか、急に。 美津:ふふ。 美津:幸せになりましょう。一緒に。  :  0:場面転換。夜。神坐邸。 衣里:わたくしの愛って面倒なんだって、初めて知ったの。 丞:どんなに重い愛でも受け止めるさ。君が俺から離れないと誓ってくれたなら……。 衣里:ふふ。馬鹿ね。男女の仲などは……、 丞:ん? 衣里:縛りたくなったが最後……その先は地獄しかないと言うのに。 丞:………それなら、共に堕ちよう。 衣里:(暫し呆気に取られて)ふふ、ふふふ……!そう、そうですわね……! 衣里:  衣里:いいわ。一緒に堕ちてあげる。 丞:ふふ。……あぁ、幸せだよ、俺は……。 衣里:ねえ、わたくし貴方にとって美しい人形であり続けるわ。何も言わない。何も拒まない。 衣里:ただずっと、美しくあるわ。ずっと。 衣里:ですから—— 0:間。 衣里:ですからずっと、愛してね。  :   :   :   :   :【台本終了】