台本概要

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タイトル 椿に落ちて
作者名 隠塚  (@Onduka_Raimei01)
ジャンル ラブストーリー
演者人数 3人用台本(男1、女2)
時間 60 分
台本使用規定 商用、非商用問わず作者へ連絡要
説明 ︎ あらすじ

椿と礼子。二人は同じ高等学校に通う高校三年生。ある日、礼子は国語教師である俊介に恋心を抱いている事に気が付く。恋心を自覚した礼子はもう止まることができず、遂には二人きりになった国語準備室で俊介に迫ってしまう。それを拒絶し、深く心に傷を負った俊介が、逃げた先の教室にいたのは、礼子の友である椿で⋯

◾︎ 作者より

はじめまして。隠塚と申します。この度は当方の台本を手に取って頂き、誠にありがとうございます。内容も文章も大変拙いものではありますので、演じにくい部分も多々あるとは思います。大変申し訳ございません。このような当方の台本を演じてくださること、心より御礼申し上げます。

この台本は、商用、非商用に関わらず、作者への連絡が必須になっております。作者Twitterがございますので、上演時はそちらのDMに連絡頂けますと幸いです。ご連絡頂いた際には、是非拝聴させて頂きたく思っておりますので、上演時にお邪魔する事があるかと思います。よろしくお願い致します。最後に、改めて当方の拙い台本を手に取って頂き、本当にありがとうございます。皆様が楽しめる事を願っております。

また、今回この台本を書くにあたり、以下の作品を引用させていただいております。

◾︎ 谷崎潤一郎作 「痴人の愛」

▼青空文庫URL
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/58093_62049.html

◾︎ 島崎藤村作 「初恋」

▼青空文庫URL
https://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1508_18509.html


◾︎ 作者Twitter
@Onduka_Raimei01

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
椿 157 柔らかで、気品のある喋り方の女性。高校三年生。礼子とは高校一年生の頃からの友達。どことなく感じる少女らしい雰囲気から、周囲の人々を魅了する。安心感を与えるような存在である。礼子が恋する俊介ついては、まるで共感するかのごときことを口にし、俊介に近付くが、その意図とは一体⋯。
礼子 110 椿と同じく、気品のある喋り方の女性だが、一人称やその声色から少しだけ幼さを感じる。高校三年生。今まで恋をした経験が無く、恋心の自覚をキッカケにして、俊介への思いが暴走していく。しかし、根は素直であるが故に、自責思考に陥ることも多々ある。俊介に対する恋心は、恋心三割、憧憬二割、それから大人へのフィルターが五割である。俊介がどこか知的だったのも、彼女の気を引いたらしい。
俊介 123 礼子と椿の国語担当教諭。今年で二十五の代の二十四歳。昔から文学が好きで、本を読み耽る生活をしていたことから、語彙が堪能。生徒に対しても敬語であることを崩さず、基本的には敬意を払っている。しかし、女子生徒に対して少し距離を置いているらしい。普段は大人らしくしっかりとした性格をしているが、恋心を自覚したことが無いため、その点においてはまだ未発達。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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0:始業の鐘の音 0:三年の教室に響く俊介の声 俊介:今日は、先日プリントを配った作品、谷崎潤一郎作、「*痴人《ちじん》の愛」について、勉強していきます。とても有名な作品ですから、読んだ事のある人も、いるんじゃないかなと先生は思っているんですが、どうですか? 0:教室を見回す俊介 俊介:⋯この中に、この本を読んだ経験のあるって人は、どのくらいいますか?読んだことのある人は、手を挙げてみてください。 礼子:ねぇ、椿。「痴人の愛」ですって。アナタ、コレ読んだ? 椿:えぇ。読んだわよ。この間一緒に書店に行った時、礼子さんと二人で買ったでしょう?次の日から読み始めたの。大体、三日前くらいに読み終わったかしらね。 礼子:椿ったら、相変わらず本を読むのが早いんだわ。アタシはそんなに早く読めないもの。だって、本を買ったのって、五日前とかじゃなかったかしら? 椿:面白くって。寝るのも忘れて読みふけっちゃったの。そのせいで寝不足だわ。 0:椿が*欠伸《あくび》をする 俊介:そうですか。結構いるんですね。なんだか、嬉しくなりました。 俊介: 俊介:えぇ。そうですよ。それだけ、皆さんが本に触れているということですから。それでは、概要についてから勉強していきましょう。二*頁《ページ》を開いて。 礼子:アタシは全然ダメだった。授業でやるからって買いに行ったのに、まだ三十*頁《ページ》しか読めてないんだもの。集中力が切れちゃって。アタシったらダメね。 椿:いいえ。人間誰しも好きな文と苦手な文って必ずしもあるから。気にしなくていいんじゃないかしら。今回の「痴人の愛」がたまたま礼子さんに合わなかっただけかもしれないじゃない。 礼子:そうね、でも当分の間読書はいいかなって気持ちだわ。椿が本を読んでるところを見るだけで、アタシは全然満足だもの。アナタ、自分が本を読んでる時の横顔って見た事がある? 椿:いいえ⋯?全然無いわ。どうして? 礼子:アナタが本を読んでる時、アナタの目はまるで夢を見る少女のように*煌《きら》めくの。そんな時、思うのよね。「嗚呼、今はこの子と本だけの世界なんだわ。」って。 椿:そんな目、してたかしら⋯。 俊介:これは、大正十三年から十四年にかけて書かれた作品です。主人公の「私」は、カフェの*給仕《きゅうじ》をしていた西洋風の少女「ナオミ」を引き取り、自分の好みに育て上げて結婚します。 礼子:羨ましい。アタシもアタシと誰かだけの世界に入り込みたい。アタシの手の届く範囲で構成された世界に行きたい。なんて。 椿:礼子さんにだって、そんな世界があると思うけど⋯。 礼子:えぇ?ないわよ。 椿:あるんじゃない?好きな人と自分だけの世界を想像した事とか。もちろん、私はあるわ。 礼子:たしかに⋯。それは、あるけれど⋯。 椿:じゃあそれは、貴女と誰かだけの世界って言えるんじゃないかしら。なんて、思うんだけれど。 礼子:アタシも貴女と同じなの。フフ、お揃いね。なんだか嬉しいわ。椿。本を読んでる時、そう。アナタの世界の中にいるアナタって、綺麗だから。そんな綺麗なアナタと同じで嬉しいの。 椿:礼子さんたら。フフ、嬉しいわ。 俊介:そこ。*本宮《もとみや》さんと、それから池田さん。授業中ですよ。私語は*慎《つつし》んで。 椿:ごめんなさい。春野先生。 礼子:ごめんなさァい。フフ、怒られちゃったわね、椿。 椿:お喋りがすぎたかしらね。 俊介:折角ですから、プリント三*頁《ページ》からの本文を少し本宮さん達に読んでもらいましょうか。では、本宮さんと池田さん、冒頭「日記のことで」から交互に、僕が合図を出すまで音読してください。 礼子:エェ?音読ですってよ。 椿:お喋りしてた私達が悪いわ。仕方ないことよ。ね? 礼子:運が悪かったわね、椿。頑張りましょ。 俊介:では、立って。お願いします。 礼子:はい。 椿:日記のことで話が横道へ*外《そ》れましたが、とにかくそれに*依《よ》って見ると、私と彼女とが切っても切れない関係になったのは、大森へ来てから第二年目の四月の二十六日なのです。 礼子:*尤《もっと》も二人の間には*云《い》わず語らず「了解」が出来ていたのですから、極めて自然に*孰方《どちら》が孰方を誘惑するのでもなく、*殆《ほとん》どこれと*云《い》う言葉一つも*交《かわ》さないで、暗黙の*裡《うち》にそう云う結果になったのです。 椿:それから彼女は、私の耳に口をつけて、「*譲治《じょうじ》さん、きっとあたしを捨てないでね。」と云いました。 礼子:「捨てるなんて。―――そんなことは決してないから安心おしよ。ナオミちゃんには僕の心がよく分かっているだろうが、⋯⋯⋯」 椿:「ええ、そりゃ分っているけれど、⋯⋯⋯」 礼子:「じゃ、いつから分っていた?」 椿:「さぁ、いつからだか、⋯⋯⋯」 礼子:「僕がお前を引き取って世話すると云った時に、ナオミちゃんは僕をどう*云《い》う風に思った?―――お前を立派な者にして、*行《ゆ》く*行《ゆ》くお前と結婚するつもりじゃないかと、そう云う風には思わなかった?」 椿:「そりゃ、そう云う積りなのかしらと思ったけれど、⋯⋯⋯」 礼子:「じゃナオミちゃんも僕の奥さんになってもいい気で来てくれたんだね」 椿:そして私は彼女の*返辞《へんじ》を待つまでもなく、力一杯彼女を強く抱きしめながらつづけました。――― 礼子:「ありがとよ、ナオミちゃん、ほんとにありがと、よく分っていてくれた。⋯⋯⋯僕は今こそ正直なことを*云《い》うけれど、お前がこんなに、⋯⋯⋯こんなにまで僕の理想にかなった女になってくれようとは思わなかった。僕は運がよかったんだ。僕は一生お前を*可愛《かわい》がって上げるよ。⋯⋯⋯お前ばかりを。⋯⋯⋯世間によくある夫婦のようにお前を決して粗末にはしないよ。ほんとに僕はお前のために生きているんだと思っておくれ。お前の望みは何でもきっと聴いて上げるから、お前ももっと学問をして立派な人になっておくれ。⋯⋯⋯」 椿:「ええ、あたし一生懸命勉強しますわ、そしてほんとに譲治さんの気に入るような女になるわ、きっと⋯⋯⋯」 礼子:ナオミの眼には涙が流れていましたが、いつか私も泣いていました。そして二人はその晩じゅう、行くすえのことを*飽《あ》かずに語り明かしました。 俊介:⋯すごいね。ありがとう。すごく良かったよ。二人とも読むのがすごく上手だね。僕、君達に音読をさせているのすら忘れて聞き入ってしまったよ。素敵だった。 礼子:春野先生から褒めてもらえるなんて、アタシ達頑張った*甲斐《かい》があるわね。椿。 椿:えぇ。春野先生はきっと沢山音読なんか聞いてきて、聞き飽きていらっしゃるかと思っていましたから。私達の音読をそこまで褒めてくださるなんて、とっても嬉しいです。 俊介:特に、本宮さん、貴女が良かった。 椿:私、ですか? 礼子:⋯確かに。椿は演劇部だもの。読むのが上手くて当然よ。普段からよくこうやって文を読むことをしているんでしょう?アタシも友達が褒められて鼻が高いわ。すごいわね。椿。 椿:私は礼子さんの言う通り、演劇部ですから。読むのに慣れていて当たり前ですよ。それより、演劇部にも入っていないのに、こんなに読むのが上手だった礼子さんの方がずっとすごいでしょう。ね。 俊介:そうか。そうだったんだね池田さん。君もすごく上手だった。聞き惚れてしまうほどだったよ。ありがとう。じゃあ、座ってくれるかな。授業を続けよう。 礼子:褒められたわね。椿。アタシ嬉しい。春野先生に褒めてもらえるんだもの。 椿:フフ。本当に礼子さんは春野先生が好きね。でも特にどのへんが好き、とかあるのかしら?先生の中では特に若いし、清潔感もあるから、みんなに好かれるのはわかるけれど、礼子さんってあんまり先生の事好きじゃなかったと、思うんだけれど。 礼子:あの人はね。特別なのよ。言葉遣いが綺麗だし、他の先生みたいに、無理に生徒と仲良くなろうとしないでしょ?特に、女子生徒が近づくときなんか、少し気まずそうな顔をするじゃあないの。 椿:女性が苦手なのかもしれないわね。 礼子:そうかもしれないわ。あの人の、どことなく*初心《うぶ》で、潔癖な感じが良いのよ。そこがいいの。 椿:アラ。なんだか、熱に浮かされてるみたい。恋する乙女かしら? 礼子:恋⋯。 椿:なぁんて。⋯礼子さん? 0:紅潮する頬を両手で包み込む礼子 礼子:そうなのね、アタシ⋯。アタシ、春野先生に、恋、してるんだわ。 椿:え⋯?礼子さん、恋、しているの⋯? 礼子:あ、やだ!違うのよ。多分、恋なのかもしれないって段階よ!もしかしたら初めて先生に尊敬の念を抱いてるから勘違いしてるだけなのかもしれないじゃない! 椿:そう、かしら? 礼子:きっとそうよ、これは恋よ。恋なんだわ。アタシ人生で初めて恋をしているのよ。 椿:そう⋯。 礼子:椿? 椿:素敵ね。恋をするって、私にはまだよく分からないけれど、礼子さんが春野先生に恋してるのなら応援するわ。相手は春野先生だから、難しいとは思うけれど、春野先生だからこそ、安心ね。 礼子:そうでしょうそうでしょう。なんだか自覚した瞬間楽しくなってきちゃった。恋は苦しいだけのものだなんて言うけれど、こんなに世界が明るくなるのだから、一回は経験してみるものね。 椿:そうね。礼子さんが楽しそうでなによりよ。春野先生と、良い関係になれたらいいわね。 礼子:確かに。恋人とは言わずとも、同じ何かを共有できる関係になりたいわ。まぁ、そんなのは夢物語に近いんでしょうけど。でもアタシ、今日から頑張ってみるわ。先生を、手に入れるために。 椿:手に入れる⋯ね。 礼子:あ⋯、手に入れる、なんて表現は*傲慢《ごうまん》だったかしらね。でも、なんとしてでも、この手の内に留めておきたい。気付いてしまったんだから、気付かなかった過去のように憧れなんて言葉で終わらせられないわ。 椿:応援するわ。礼子さん。私はいつでも貴女の味方よ。先生に恋してるだなんてあんまり他の人には言えないでしょうから、私でよかったらいつでも相談して。 礼子:椿⋯。本当にいつもありがとう。アナタはアタシの一番の友達だわ。いつまで経ってもね。大好きよ。 椿:⋯えぇ。私だってそうよ。礼子さんは、私の一番の友達。大好きよ。 0:数日後 俊介:では、これで授業を終わります。今日で「痴人の愛」のプリントを使って授業するのは最後ですが、中間テストに出ますのでしっかり復習しておくように。それから、こちらの感想用紙ですが、しっかり内容を見て評価をつけようと思っています。お疲れ様でした。 礼子:先生。春野先生。 俊介:あぁ、池田さん。感想用紙は提出しましたか? 礼子:ハイ。勿論。アタシが出さないはずがないですよね? 俊介:そうですか?数学の野村先生があまり提出物を出さないと嘆いていらっしゃいましたよ。 礼子:でも、この授業の提出物を欠かしたことはないでしょう? 俊介:⋯確かにそうですが、提出物はどの教科でも出して頂かなきゃ困りますよ。貴女の成績のためにもね。分かりました? 礼子:ハァイ。分かりました。ね、先生。授業、面白かったです。 俊介:⋯そうですか。ありがとうございます。 礼子:アタシ、本を読むの、苦手なんです。活字なんて、ちょっとでも頭に入れると寝ちゃうの。 俊介:⋯苦手な人もいますよね。 礼子:でも、先生の授業でやった「痴人の愛」は、初めて全部読めたんですよ。これはきっと、先生の教え方がとても上手だからでしょう? 俊介:いえ、僕の教え方が*特段《とくだん》良いと思ったことは残念ながらありませんから、単純に「痴人の愛」が貴女にとって面白く感じただけだと思いますよ。 礼子:もうっ。先生ったら、*謙遜《けんそん》しちゃって。先生って、本当に謙虚なのね。ふふ、素敵だわ。 俊介:⋯もう、良いですか?そろそろ、国語科準備室に戻らなくては。 礼子:次の授業は、どこのクラスでやられるの? 俊介:いえ、次は授業はありません。⋯こんなこと、池田さんには、関係も興味も無い話でしょう。次の授業が始まりますから、席に戻った方がいいですよ。 礼子:やだ。次の授業までまだあと十分ありますわ。その抱えきれないほど多い国語資料、持っていくのには骨が折れるでしょう。アタシが、お手伝いします。 俊介:大丈夫です。僕は大人の男ですから、このくらい池田さんのような女学生に手伝って頂かなくても持っていけますよ。ご安心を。 礼子:もう両手荷物で*塞《ふさ》がっていますけれど。そこからどうやってこの資料を持って帰られるの?ふふ、どうされるのか、楽しみだわ。 俊介:⋯手伝っていただけますか。池田さん。 礼子:ハイ。勿論です。春野先生。 0:国語科準備室 俊介:申し訳ないです。次の授業があると言うのに、こんな手伝いをさせてしまって。重かったですか? 礼子:いいえ?アタシ、こう見えて力持ちなんですよ。何でも持ててしまいます。*吃驚《びっくり》でしょう? 俊介:えぇ。そうですね。じゃあ、ありがとうございました。教室に戻ってください。 礼子:ね、俊介先生。他の先生はいらっしゃらないの? 俊介:国語科の教員、他三人はみんな授業ですから。この時間は僕一人ですよ。さ、早く戻りなさい。 礼子:次の時間、自習なんですわ。日本史の*下谷《したや》先生、急病らしいです。だから、もう少しだけ、ここに居てもいいですか? 俊介:ここに居ても何もありませんよ。特に変わったものなんかはないですし、貴女達学生が興味を惹かれる物なんて、何一つないでしょう。 礼子:ありますよ。興味を惹かれる物。 俊介:貴女がそんなに国語に興味があるとは思いませんでした。あまり国語の点数は*芳《かんば》しくないようですから。 礼子:あら、その話をなさるのね。仕方がないじゃないですか。アタシ、読書も古典も苦手なんですもの。数学なら得意なのに。 俊介:じゃあ一体何にそんなに興味が⋯。 0:俊介の言葉を遮る礼子 礼子:先生、貴方です。アタシがココ最近ずぅっと熱い視線を向けているのに気付いていて、気付かないふりを続けてる酷い先生。貴方ですよ。 俊介:*揶揄《からか》うのはやめなさい。大人を揶揄っていい事なんてありませんよ。*戯言《たわごと》を垂れるだけなら、教室に戻って自習をする方がきっと*幾分《いくぶん》か貴女の為になりますから。さ、戻りなさい。 礼子:酷いわ。先生。気付いてるのに。アタシが本気だって。 0:俊介を壁際まで追い詰めて胸板を撫でる 礼子:アタシ、気付かなかったんです。ただ、先生に憧れてるだけなんだって、思い込んでた。 俊介:池田、さん⋯。 礼子:礼子と、呼んでよ先生。アタシ、こんなに焦がれてる⋯! 俊介:離れてください池田さん。こんなのは間違っている。貴女はまだ女学生。まだ成人すらしてない未成年。それに比べて僕は今年二十五です。それに、教師と生徒、その関係性が大前提として置かれているのに、貴女に*恋情《れんじょう》を抱くはずがないじゃないですか。 礼子:先生と生徒だなんて、言わないでください先生、だってアタシは、こんなに貴方に*恋しているの。もう、そんな*垣根《かきね》なんて越えてしまっているの。もう、戻れないんですわ。 俊介:やめてください⋯。僕は、池田さんをそんな目で見たことはない。貴女はただの生徒だ。 礼子:⋯もし、アタシが此処で俊介先生を襲ったら。 俊介:何を言っているんです、池田さん。 礼子:そうしたら、意地でもアタシを異性として、恋愛の相手として認識するでしょう、先生。そうしたらいいんだわ。最初から、そうしておけば良かったんだわ。 俊介:僕は、貴女に迫られて、貴女に*劣情《れつじょう》を抱くような*痴《し》れ者ではありません。僕は、*譲治《じょうじ》じゃないんです。 礼子:ナオミと譲治は十三離れていますけれど。アタシと先生は、六つしか離れていないじゃあないですか。確かに、先生とアタシは、譲治とナオミじゃ、ありませんね。 0:俊介の身体に手を這わせる礼子 俊介:やめなさい、池田さん。 礼子:先生、どうして分かって下さらないの、アタシこんなになるほど、先生を求めてるの、欲してるの、愛してるの!頭のいい先生は、勘のいい先生は、ずっとそれに気付いてた、それなのに、気付かないふりをしてた! 俊介:それはそうでしょう。知ったとしても*素《そ》知らぬ振りを続けるのが、正常ですから。普通の教員なら、全員がそうしますよ。 礼子:先生、お願い。お願いよ。分かったわ。アタシの事恋愛感情をもって接してなんて我儘言わないから、この口付けだけ、この口付けだけ、受け入れてください⋯。 俊介:池田、さん⋯! 礼子:先生、愛してる、アタシ貴方を愛してるのよ⋯。 0:礼子を突き飛ばす俊介 礼子:キャァッ⋯!どうして、どうして突き飛ばしたりなんか⋯! 俊介:ハァッ、ハァッ⋯。貴女、おかしいですよ、池田さん。こんな行動に出るだなんて、おかしい。僕は、教師としても、人としても貴女の行動を受け入れることは出来ません。ですから、貴女に*恋慕《れんぼ》の情を抱くなんて*以《もっ》ての*外《ほか》です。では、失礼。 礼子:先生待って!待ってよ先生⋯!ごめんなさい!ごめんなさい先生!違うの⋯、違うのよ⋯!先生!違うの⋯、許して⋯。 俊介:ご自分がおかしいと、気がついてください⋯。池田さん。 0:教室を走って出ていく俊介 礼子:⋯どうして?どうしてそんなに軽蔑した目でアタシを見るの⋯?アタシは間違ってるの?だって、誰も教えてくれなかったわ。恋のやり方なんて。アタシ、だから分からなくて、分からなかったのよ。だから、だからこうなったの。 礼子:だって、欲しかった、あの人が欲しかったの。欲しいものを手に入れようと努力することは、悪いことだったの?方法が間違ってた?どうして誰も教えてくれなかったの⋯? 礼子:⋯アタシが、悪いの⋯? 0:空き教室に逃げ込んだ俊介 0:そこには先客が 俊介:ここなら⋯。 椿:あら?こんにちは、春野先生。どうかされました? 俊介:も、本宮、さん⋯。 椿:お顔が真っ青。何かあったんですか?それに、すごい汗だわ。ここまで走ってきたんですね、先生。 俊介:ち、近寄らないで! 椿:⋯あぁ。ふふ、分かりました。私は、ただこの教室に忘れ物を取りに来ただけですから。すぐに行きますよ。お邪魔しました。 俊介:⋯本宮さんは、違うんですね。 椿:⋯違う?何が違うんでしょう。すみません、私あんまり頭が良くないものだから。 俊介:いえ、普通は、そうですよね。違いますよね。 椿:礼子さんでしょう?先生がそんなに頭を抱えてお悩みになっている要因。 俊介:え⋯。 椿:あら。当たりました?ふふ、当てずっぽうだったのに、当たるなんて、私*冴《さ》えてますのね。でも、やっぱりそうだった。 俊介:なぜ、池田さんが要因だと気付いたんです⋯? 椿:女の勘、と言いたいところですけれど。私はそんなに勘が鋭い訳では無いので。最近の礼子さんの感じを見ていて、今日先生について行ったから、何かあるのかしら、と思っただけです。 俊介:⋯そうだったんですね⋯。 椿:なにか、礼子さんにされましたの?お洋服の襟が酷く乱れていますよ。あぁ、でも、言いたくなければ言わなくて結構です。別にそこまで興味があることでもありませんし。 俊介:⋯襲われかけたんです。池田さんに。 椿:まぁ、礼子さんたら、随分大胆なことをなさるのね。そんな度胸がある子だとは、私思っていませんでした。やっぱり、好きな人の事になると、周りは見えなくなるものなのですね。ほら、恋は盲目と、言いますでしょ? 俊介:だからってあんなこと⋯! 椿:していいわけがありませんものね。その通りですよ、先生。先生は、何も間違っていませんわ。どれだけ恋に狂わされても、相手を不快にさせてはいけないものです。ましてや、襲うなんて。あまりにも*浅慮《せんりょ》ですね。 俊介:貴女も、そう思ってくれますか⋯。 椿:えぇ。思いますよ。勿論。お友達ながら恥ずかしいわ。でも、許してあげて下さります?礼子さん、先生へのこれが初恋なんですって。 俊介:初恋⋯。 椿:まだあげそめし前髪の。ふふ。*藤村《とうそん》を思い出しますね。先生。先生は、島崎藤村ってお好きかしら?私は好きですよ。ホラ、「*破戒《はかい》」とか。アレって藤村の作品でしたわよね? 俊介:⋯好きですよ、藤村は。 椿:そうなんですね、嬉しいわ。先生と同じ趣味を共有できるだなんて。 俊介:貴女は、本宮さんは、ナオミじゃないんですね。*公明正大《こうめいせいだい》な人だ。純情な人だ。清廉な人だ。 椿:そんなことありませんよ。私だって*奔放《ほんぽう》な女です。 俊介:少なくとも、僕から見た本宮さんは、そう見えなかったです。 椿:ふふ、そうですか。それなら良かった。 俊介:僕は、*好《す》いてもらえるのなら、貴女のような人が良かった。貴女みたいな人に、好いて欲しかった。俗物的な感情に囚われないで、本に恋するような、そんな人に。 椿:私が本に恋するように見えます? 俊介:見えますよ。 椿:そうだったら、どれだけいいんでしょうね。 俊介:貴女も恋に盲目な人なんですか? 椿:さぁ?まだ分からないんです。これが*恋情《れんじょう》なのか。*憧憬《しょうけい》なのか。憎悪なのか。愛情なのか。 俊介:誰に⋯。とは、聞かない方がきっと良いですね⋯。 椿:えぇ。聞かないで。だって、恥ずかしいものですから。先生だって、恋する人の話をする時は、少し恥ずかしいものでしょう? 俊介:僕は⋯。僕には、まだそういうの、全然分かりません。恋心とか、そういうのがわからない。ただ、抱き締めてくれるような、そんな存在なら、欲しいと思ったことはありますが。 椿:今、先生は抱き締められたいですか? 俊介:⋯え?あぁいや⋯。 椿:正直に打ち明けてくださったっていいじゃないですか。確かに、私と先生は、教師と教え子ですけれど、同じ秘密を打ち明け合った⋯、そうですね、なんて言うんでしょうこういうの。 俊介:そうだな、「*知友《ちゆう》」と表すのはどうでしょうか。 椿:知友⋯?初めて聞きました。どういう意味でしょう先生。 俊介:知友とは、お互いに理解し合っている友を指す言葉なのだけれど⋯。やっぱり、少し違いますね⋯。 椿:じゃあこうしましょう。先生。 0:ふわりと俊介を抱きしめる椿 椿:「共犯」と。私たちの関係はそう呼ぶ事にしましょう。ね?先生。 俊介:え、も、本宮さん⋯!?何をしているんです⋯!? 椿:先生。私は貴方への恋情から抱きしめている訳では無いんです。ただ、貴方が抱きしめて欲しい気がしたから、抱きしめた。ただ、それだけですよ。 俊介:いや、僕は、別にそんな⋯。 椿:嫌なら、私を突き放してください。先生。 0:数秒の躊躇いの後背に腕を回す 椿:やっぱり。抱きしめて欲しかったんですよね。先生。大丈夫です。私は先生が欲しいことしかしません。 俊介:そのまま、抱きしめていて、くれませんか⋯。 椿:えぇ。勿論。いつまでも、抱きしめていましょう。貴方が私の*抱擁《ほうよう》を必要としなくなる、その時まで。 俊介:君は不思議な⋯。不思議な人ですね、本宮さん⋯。 椿:共犯者ですよ、私達は。今くらいは、私の事そんな他人行儀な名前で呼ぶのはおやめになったらいかがですか? 俊介:で、でも⋯。 椿:⋯まぁ、別にいいんです。無理にとは、私は言いませんから。さっきも言った通り、私は先生が求める事だけをします。名で呼んでくれないのは、私達がそこにまだ至れていないという事。ただ、それだけですから。 俊介:ちが⋯! 椿:先生は何にも気になさらないでください。ね? 俊介:椿⋯、さん。 椿:はい。先生。ふふ、嬉しいです。先生が、私に心を許してくれたようで。 俊介:貴女は、誰にでもこういうことをするのですか⋯? 椿:いいえ。あくまで、特別な人だけですよ。私にとって、春野先生は特別なんです。だから、こうして抱きしめています。 俊介:そう、なんですか。 椿:特別だから、私は貴方が欲するものを全て与えたいんです。そして貴方を、私という依存性の高い毒で満たしたい。 俊介:貴女が、毒?はは、まさか。君が毒なんてことはないでしょう?だって、こんなにも暖かく、優しい⋯。 椿:知っていますか?先生。女の子は、お砂糖とスパイスと。それから沢山の素敵なもので出来てるんです。でも、気をつけなければいけない。だって、素敵なものに身を隠すようにして、猛毒が潜んでいることがあるんですから。 俊介:だったら、僕にとっての貴女は、椿さんは、お砂糖ですね。 椿:いいえ。さっきも申し上げましたけれど、先生にとっての私はきっと、毒ですわ。その、たくさんの素敵なものに隠れた、猛毒。 俊介:それは、何故⋯? 椿:すぐに分かりますわ。そんなに焦らなくたって、時が来れば必ず私の言う意味が理解できます。 俊介:そう、なのかな。わかる日が、来るんだろうか。 椿:えぇ。近いうちに必ず来ます。 俊介:⋯君が猛毒だって僕は構わないよ。僕にとっての貴女が、どこまでも甘い毒なんだと分かってしまったとしても、飲み干したい。 椿:やめておいた方が、いいと思いますよ。先生。 俊介:⋯やめたくないんだ。貴女とこうなったのは、今日が初めてなのに、今の僕は、ずっと貴女に抱き締められていたいと思っている。 0:椿の腕の中で、俊介はボソリと呟く 俊介:もういっそ、このまま遠くへ逃げようか。そうしたら、僕は、貴女に抱きしめて貰えたまま、生きていける。 椿:可愛らしい願いですわね。でも、無理ですのよ。先生。 俊介:無理じゃない、そんな気がするんだ。だってこの胸の中に収まる感情はきっと、君への*恋情《れんじょう》なんだもの。君に狂わされて、堕ちていきたい。 椿:いけませんよ。私達は、恋人になってはいけないんです。私は、先生を満たすだけの存在なのだから。制限時間を超えて先生を満たし続けるのは、恋人のすることです。私達は、「共犯」ですよ。 俊介:だけれど⋯。 椿:ダメですよ。先生。私と先生は、教師と生徒ですから。 俊介:⋯いや、そうだった。僕は、その言葉を使って池田さんを遠ざけたというのに、今度は僕の恋する気持ちがそれに制されている。なんだか、皮肉な話ですね。 椿:人間なんて、常に変わり続ける生き物なんですから、そういうこともありますよ。毎秒毎秒変化を*遂《と》げながら、その度に過去の自分に皮肉られる。そういう宿命なのですわ。 俊介:そう、なんだね。 0:授業の終礼のチャイムが鳴る 椿:さ、この授業も終わりです。行きましょう。私と貴方は、また、「本宮さん」と「春野先生」へ戻らなくてはいけないんです。シンデレラが、元のみすぼらしい灰被りへと戻ってしまうようにね。共犯者とは、そういうものです。 俊介:もう、終わり、なんだね。椿さん⋯。 椿:あら、不思議。先生ったら、どうしてそんな呼び方をなさるの?それに、先生が敬語じゃないなんてなんだか慣れないわ。どうかしました? 俊介:⋯いいえ。本宮さん。なんでもありません。次の授業には遅れないようにしてください。 椿:ハイ。私、次の時間美術なんです。移動教室がありますから、急ぎますね。では。 俊介:待ってください。 椿:なんですか?春野先生。 俊介:また、僕の空白を満たしてくれますか、本宮さん。 椿:⋯。 俊介:やはり、ダメでしょうか。 椿:いいえ。「椿」はきっと満たしてくれると思います。それでは。先生、また。 0:椿が教室を去る 俊介:これが、恋。確かに⋯。盲目になる気持ちが分かります。こんなに、狂わせられようなんて、僕は、思ってもみませんでした⋯。 0:旧校舎の一室 0:泣きじゃくる礼子 礼子:間違っていたんだわ、アタシ。間違ってたのよ⋯。少し考えたらわかったじゃない、あんなことしても、先生はアタシの所になんて来てくれないんだって、分かっていたのに⋯。 椿:礼子さん⋯?どうしたの、貴女そんなところで泣いて⋯。探したのよ⋯。どこへ行っちゃったのかと、心配で心配で⋯。 礼子:椿⋯! 0:椿の胸に飛び込む礼子 椿:わ、っ⋯。どうしたの?礼子さん⋯。こんなに泣いて⋯。でも、次の時間は美術よ、早く行かなきゃ、岡本先生に怒られてしまうわ。 礼子:アタシ、間違ってしまったの、間違ってしまったのよ⋯!でも、アタシが悪いの?!だって、だって誰もアタシにやり方を教えてくれなかった⋯! 椿:落ち着いて、礼子さん。大丈夫、大丈夫よ。礼子さんは何も間違ったりしていないわ。安心して。 礼子:違うの、間違ったのよアタシ⋯、椿⋯。アタシ、嫌われちゃったわ、先生に⋯。 椿:何かあったのかしら⋯?もしかして、今日春野先生について行った時に何か貴女したの? 礼子:つい、欲張ってしまったの⋯。本当は、欲張っちゃいけなかったというのに⋯。あの人は、繊細だってアタシ知ってたのに⋯! 椿:春野先生に、拒絶されでもしたの⋯? 礼子:⋯やっぱり、アタシみたいな女、先生に恋するべきじゃなかったのよ、どうしたって、あの人を傷つけてしまうだけなんだもの⋯!あの人は、アタシから発せられる言葉全てに傷付いて嫌悪するわ⋯。 椿:礼子さん⋯。 礼子:きっと、アタシじゃダメなのよ⋯。あの人に必要なのは、アタシじゃない。あの人と同じくらい繊細で柔らかい言葉の持ち主じゃないとダメなのよ⋯。アタシは、アタシなりに精一杯アタシの恋い慕う気持ちを伝えたつもりよ⋯。でも、あの人の心は満たせない⋯! 椿:そんなこと⋯。 礼子:アタシの言葉は*下劣《げれつ》な何かしらにしか、もう捉えてもらえないのよ⋯!アタシは⋯、アタシは⋯、*淫《みだ》らな女というレッテルを先生に貼られたまま、好きな気持ちを押し殺してこれから生きていかなければいけないの⋯。 椿:礼子さん、涙を拭いて。折角貴女は綺麗な顔をしているのに、泣いていたら、勿体ないわよ。これは、ハンカチ。貴女とお出かけした時に買ったものよ。 礼子:椿⋯。 椿:春野先生ったら、本当に見る目がないのね。礼子さんが下劣ですって?そんなわけが無いじゃない。本当に*淫猥《いんわい》な人間は、拒絶されて泣いたりしないのよ。そうでしょう? 礼子:ねぇ、アタシは、ナオミなの⋯?椿⋯。先生は、自分の事を*譲治《じょうじ》じゃないと言った。でも、そんな先生に迫った私は、何も考えずに彼を求めた私は、欲に素直になってしまった私は⋯。 椿:礼子さん⋯。 礼子:ナオミ、なんだわ。 椿:違うわ。礼子さん。貴女はナオミじゃない。あんなに*放埓《ほうらつ》な人間じゃないわ。人の愛情を受けていると知りながら、暴走するような、そんな存在じゃないのよ。 礼子:でも⋯。 椿:貴女がナオミだったら、きっとこんなに傷付かないわ。だって、ナオミは愛されて当然なんだもの。ナオミを愛さないのは、ナオミが悪いんじゃない。ナオミを愛せないその人が悪い。そうやって考えるはずよ。 礼子:そうね、きっと、魔性の女ナオミは、そうやって考えるわね。ふふ、そうだわ。 椿:やっと泣き止んで笑ってくれた。やっぱり、貴女はそうやって笑っている方が、泣いている何十倍も何百倍も素敵だわ。貴女は、綺麗なの。私の何十倍も、何百倍も、綺麗で、*無垢《むく》で、純粋で。だから、間違うだけ。 礼子:慰めてくれるの、椿だけよ⋯。きっとみんな、アタシがしでかしたことを知ったら、アナタが悪いって責めるに決まってる。 椿:次の授業はサボりましょうか、礼子さん。 礼子:アタシは、元より戻れる顔じゃないから戻るつもりなかったけれど、椿は気にしなくていいのよ。そこまでアタシに優しくしてくれなくていいの。 椿:ふふ、私は礼子さんと一緒にサボりたいからサボるんだわ。優しいからじゃない。ただのワガママよ。 礼子:そう⋯?じゃあ、一緒にいてくださる? 椿:えぇ。もちろん。ここに居るわ。 礼子:ありがとう、椿。ごめんなさいね。 椿:ねぇ。礼子さんは知っているかしら。「痴人の愛」に、こんな一節があるのよ。この間、私と礼子さんが二人で音読した*箇所《かしょ》の少し後。 礼子:どんな、文なの?アタシはあまり「痴人の愛」の内容を覚えていないから教えてくれるかしら。 椿:こういうものだわ。「僕の可愛いナオミちゃん、僕はお前を愛しているばかりじゃない、ほんとうを*云《い》えばお前を*崇拝《すうはい》しているのだよ。お前は僕の宝物だ、僕が自分で見つけ出して*研《みがき》をかけたダイヤモンドだ。だからお前を美しい女にするためなら、どんなものでも買ってやるよ。僕の月給をみんなお前に上げてもいいが」なんて。 礼子:情熱的な文ね。ナオミはその申し出を受けたの? 椿:受けなかったわ。それより、英語やピアノを勉強すると言ったの。そうして、それを喜んだ*譲治《じょうじ》は、ピアノを買ってやると言うわ。ね、このナオミ、先生みたいじゃない? 礼子:え?先生みたい⋯って?どういうことかしら。 椿:だって、礼子さんっていう真面目で純情な女学生をたらしこんでおいて、礼子さんから強い*恋情《れんじょう》を向けられたら、そういうのは違います、でしょう?そうやってまた、貴女の恋焦がれる気持ちを掻き立てるのよ。先生の方が、遥かに魔性だわ。 礼子:ふふ、椿にそう言われたらそんな気がしてきた。魔性の人ね、先生は。それなら⋯。もう、追うのはやめにするわ。 椿:やめてしまうの?あんなに熱心に追いかけていたのに。 礼子:えぇ。だって元から追ったところで叶わない恋だったんですもの。教師と生徒、どう頑張ったってこの垣根は越えられないでしょう?精々可愛い教え子止まり。アタシの場合は、きっとその可愛い教え子にすらなれないでしょうしね。 椿:確かに、そうかもしれないわね。 礼子:目を覚まさせてくれてありがとう。椿。アタシ、きっと恋愛経験が少なすぎて、先生に幻想を抱いて押し付けてたのね。先生が地位も職も全てを捨て去ってこっちを見てくれるなんて、過剰な期待を寄せた。それがもう既に間違いだらけだったのよね。 椿:礼子さん⋯。 礼子:だから、アタシ次はきっと*成就《じょうじゅ》する恋をするわ。傷付きたくないし、間違えても取り返しのつく人と恋するのが正しいって気付いたんだもの。 椿:そうね。きっとそれが正しいわ、礼子さん。 礼子:アタシまだ十八ですもんね。もっと周りを見た方が良かったわ。年上は素晴らしく見えるものだけど、それは幻想がかってるからなのよね。幻なのよね。魔法にかけられていたんだわ。 椿:そうよ。礼子さんの近くにこそ、礼子さんを本当に心から恋い慕う人がいるんだから。その事に気づいてもらわなきゃいけないわ。 礼子:居ないわよ、そんな人。 椿:居るわ。居るのよ。 礼子:誰よ。そんな人いたら出てきて欲しいくらいだわ⋯! 椿:名前を上げたっていいのよ。貴女は追いかけてばっかりで、いつまで経っても追いかけられている事に気が付かないみたいだから。 礼子:いいわ。名前を教えてくださる? 椿:私よ。 礼子:⋯え? 椿:本宮椿。そう、私が貴女をずっと恋い慕っているの。貴女が好き。 礼子:やだわ、椿ったら、アタシを元気づけようとしてくれているんでしょう⋯?だから、そんな事言うんだわ。そんなこと言って、冗談がすぎるわよ⋯。 椿:本気よ。私は、貴女が好き。愛してるわ。心から。 礼子:そんな、嘘よ。だってアタシ達、ずっと友達だったじゃない。何度も出かけたり、一緒に勉強したり、アタシ達、そんな仲のお友達だったんじゃない。それがどうして⋯? 椿:友達だったのは、礼子さん、貴女だけよ。貴女が私に対して、友愛を向け続けている間。貴女が春野先生に対して純なる恋情を向けている間、私は貴女に、*歪《いびつ》に歪んだ愛情を向け続けていたわ。 礼子:そんな⋯。 椿:ね、私の事、嫌になってしまった⋯?こんな感情を自分に向ける気持ちの悪い女なんか、嫌いになってしまったでしょう? 礼子:⋯いいえ。嬉しいわ。でも、どこまで本気なの?アタシ達、女の子同士、本気じゃないなら、アタシはその気持ちに応えられない。中途半端な気持ちで恋をしたって、上手くいくはずがないでしょう。それに、そうなってしまったら、きっと友達にすら戻れなくなってしまうから。 椿:これで、分かってくれるかしら。 0:礼子に触れるだけの口付けをする椿 礼子:⋯今⋯。椿、アタシに、口付けを、した、の⋯? 椿:えぇ。戻れなくなる覚悟はあるわ。進んでしまったら、過去には戻れない。ぐしゃぐしゃに丸めた紙を引き伸ばしても、元のまっさらな紙に戻ることがないように。私達は進んだらきっともう戻れない。 礼子:それでも、進むの? 椿:進むわ。進みたいんだもの。もう、充分足踏みをしたわ。何度も何度も。貴女のこの唇に口付けて、穢してしまおうって思った。だけれど、その度に、貴女の純新無垢な笑みを見せつけられて。 礼子:椿⋯。 椿:もう一度、口付けをしてもいいかしら。⋯嫌なら、私を突き放してくださる⋯? 礼子:アタシ、アタシは⋯。 椿:否定しないのなら、拒絶しないのなら、私は肯定と捉えるわ。礼子さん。それでも、いいのかしら? 礼子:⋯それは⋯。 0:扉が開く 0:息を切らした俊介が入ってくる。 俊介:何をしているんです。本宮さん、池田さん。 椿:あら。春野先生じゃありませんか。そんなに息を切らして。どうなさったの? 俊介:質問に答えてください。此処で、何をしていたんです。二人共。 椿:⋯。別に?少しじゃれていただけですわ。先生。ね?礼子さん。 礼子:え、えぇ。そうです。アタシ達、ただここでじゃれていただけです。 俊介:岡本先生が、すごく心配していらっしゃいました。授業に行きなさい。そうでなければ、親御さんを呼びますよ。 礼子:はい、分かりました。今からすぐに美術室に行きます。ごめんなさい。 俊介:それでいいんです。 礼子:行きましょう、椿。きっと、岡本先生の事だからお叱りは避けられないわね。 椿:そうね。それじゃあ私達行きますね。お手数お掛けしてごめんなさい。先生。 俊介:待って。詳しく事情を聞きたいですから、本宮さんだけ残って。 椿:⋯ふふ。私ですか? 礼子:椿⋯? 俊介:池田さんは行って結構です。すぐに戻って授業に参加してください。 礼子:はい、分かりました。失礼します。 椿:ごめんなさい、二人で叱られようと思ったのに。 礼子:いいの。あとから来るんでしょう、椿。 椿:えぇ、後で行くわ。待っていて。礼子さん。 0:引き戸の音 0:部屋を出ていく礼子 俊介:どういうことですか。椿さん、僕に囁いてくれた愛は、嘘だったんですか。僕で、遊んでいたのですか。 椿:愛?何を言っていらっしゃるの?先生ったら、可笑しいわ。 俊介:だって⋯、貴女は僕に⋯。 椿:一度でも、好きだと言いましたかしら?ふふ、言ってないでしょう。 俊介:じゃあ⋯。 椿:私が先生に言った恋焦がれる相手が、先生だとでも思ったんですのね。信じていたんですのね。ふふ、どこまでも純情な方。どこまでも無垢な方。 俊介:だって貴女は、⋯貴女は、僕を、僕を抱き締めてくれた⋯。僕の言うことが分かるんだと言った、「共犯」なんだと言った⋯!特別なんだと言った⋯! 椿:言いましたわ。確かに。でも私はこうも言いましたわ。私は*奔放《ほんぽう》な人間です、ってね。私って実はどうしようもなくワガママなんですよ。それでいて、どうしようもなく独占欲が強いんですの。 俊介:⋯だから、なんだと言うんですか。 椿:憎かったんですのよ。私が愛している礼子さんに愛されて、そして恋い慕われている先生が。私が恋を教えてあげる存在になりたかったのに、礼子さんは、先生に恋を教わった。 俊介:だから、僕に近付いてきたんですね。池田さんが、大胆な行動に出てしまうことを知っていて、僕が行きそうなところに居て。 椿:そうです。どうでした?私は。忘れられないほどの*甘美《かんび》な毒だったでしょう? 俊介:⋯。 椿:私、確かにお砂糖とスパイスとそれから沢山の素敵なもので出来ていますわ。礼子さんに*相対《あいたい》する時は、お砂糖で出来ている。そんな私でいるんです。でも、先生には別。甘くて柔らかくて依存性の高い毒だけの私でいるんだわ。 俊介:なんでそんなことをするんです⋯。 椿:嫌がらせですもの。砂糖だったら、分解されてその人の*糧《かて》になる。私は、礼子さんの糧になりたいの。でも、毒は?毒はどうでしょう。 俊介:僕を死に至らしめたかった。そういう事ですか。 椿:そうですわ。毒は分解すらすることが出来ない上に、その人を死に至らしめるんですもの。恋敵に相対するのだから、そうなるのが必然でしょう? 俊介:ならば最初から僕に池田さんは自分の愛しい人だと*牽制《けんせい》しておけばよかった!僕を、僕を貴女に恋させる必要なんてどこにもなかったのに⋯! 椿:言ったではありませんか。これは嫌がらせだと。私の愛しい人を焦がれさせた、太陽のような輝きを放つ先生を地の底へ落とすための嫌がらせ。 俊介:貴女の嫌がらせは、甘美でした。優しく幸福な時間で僕を毒しました⋯。そのせいで、僕は壊されてしまった⋯。*須臾《しゅゆ》の間で、貴女に、恋してしまった⋯。 椿:先生を壊したのは、ただの私のエゴなんですわ。つまらなく、醜いエゴ。でも、仕方ありませんわよね。だって、恋ってそう言うものでしょう?違います?恋敵を蹴落とし蹴落とされ、そうやって恋は成就する。 俊介:じゃ、じゃあ、これはもしもの話です。 椿:はい。なんですか? 俊介:次に僕が、教師としてではなく、一人の人間として貴女に会えたら、僕は貴女に愛して貰えますか。 椿:一人の人間として?ふふ、そうですわね。一人の人としてではなく、先生が、一人の痴人として私に出会えたら、愛さずとも、可愛がって差し上げますわよ。ね? 俊介:僕は、てっきり、池田さんがナオミだと思っていました。*放埒《ほうらつ》で、人をたらしこんで、自分無しで生きられないようにしてから放つ、そんな人間なんだと。だけれど。 椿:えぇ。違ったでしょう?礼子さんは、ナオミなんかじゃないわ。「まだあげそめし前髪の、*林檎《りんご》のもとに見えしとき、前にさしたる*花櫛《はなぐし》の、花ある君と思ひけり。」 椿:この君は、私じゃあありませんわ。この君は、他でもない。礼子さんの事ですわよ。残念でしたわね。私がこの君じゃなくって。 俊介:君がナオミか⋯! 椿:えぇ。そうですわよ。まだ結い上げたばかりの前髪をしていた幼く純粋な「初恋」の君は礼子さん。「痴人の愛」を*貪《むさぼ》り、堕落させたナオミは、私。気が付かないだなんて愚かでしたわね。春野先生。 俊介:酷いとは、思いませんか。 椿:あら、なにがかしら? 俊介:こんなの、僕を殺そうとしているのと同義では無いですか。 椿:あらどうして?人聞きの悪い人だわ。 俊介:一度人に餌を貰った野生動物は、自分から狩りをするのをやめるんです。人に腹を満たしてもらえることを、知ってしまうから。貴女は、僕という満たされない野生動物に愛という餌を与えた。僕は、もう自分で餌を取る方法を、忘れてしまった。そんなものは、流石に残酷すぎやしませんか⋯。 椿:毒牙にかかった先生が悪いんじゃあなくって?だって、私は先生を愛した訳じゃないんですもの。ただ、貴方の欲しいままに応えただけ。愛情を貰えていたなんて錯覚していたんですわね?先生は。なんて。なんて。*愚劣《ぐれつ》な人! 俊介:だって、君は⋯。 椿:毒だと言わなかったとでも言いたいのかしら?そんなわけないわ。嘘をおっしゃいな。私はちゃぁんと言ったもの。私は、*奔放《ほんぽう》な女で、毒なんだってね。 俊介:じゃあ、椿さんは、僕に体温の優しさを、温かさを、安らぎを教えてから、僕の元を去るんですか⋯? 椿:元から私は、先生の元になんかいませんよ。何を勘違いしてらっしゃるのかしら。椿は確かに貴方を満たしますわ。でも、愛すなんて言っていませんし、先生が勝手に私から学んでいかれたの。全て先生が勝手にやったのよ。勝手に堕ちて、勝手に狂ったの。 俊介:そんなのって⋯、あんまりじゃあないですか、椿さん⋯。 椿:ふふ、悪いのは貴方よ。春野先生。全部、貴方が悪いの。貴方が、私の*抱擁《ほうよう》を拒否しなかったあの時、もう全てが決まっていたのよ。 俊介:じゃあ、あそこで抱きしめ返すことを、背に腕を回すことを選んだ時から、僕は貴方の毒牙に絡め取られていたということなんですね⋯? 椿:そうですわ。 俊介:でも、僕は、貴女が毒なんだとは、思えません。 椿:この*期《ご》に及んで、私が毒じゃないと言ってくださるの?ふふ、嬉しいわ。でもそれは本当?先生、もう私の毒の*虜《とりこ》じゃない。私の毒は苦しいでしょう?死にたい程に苦しくなるのに、トドメは刺してくれない。そんな毒だから。 俊介:僕にとっての貴女は劇薬なんですよ。使い方を間違えれば死んでしまうような。そんな薬で、そんな毒なんです。だから、死ぬ事が出来ない。トドメをさしてはくれない。嗚呼、貴方で死ねたら、どんなに幸せだろう。そんなふうにも、思うんです。醜い期待だって、分かります今なら。 椿:⋯。 俊介:望みすぎたんですね。愛して欲しいなんて。期待しすぎてしまったんですね、愛してもらえているかもしれないなんて。だから、こんな目に遭った。僕は、こうなるのが怖くて、ずっと色んなものを避けてきたというのに。こうなってしまうことがある事を知っていたから、全てを遠ざけて来たというのに。 椿:ふふ、そうですね。 俊介:嗚呼、貴女が化け物だったら良かった。そしたらこんなに狂わされたのだって、全部貴女のせいに出来たのに。 椿:ねぇ。春野先生。 俊介:なんですか。椿さん。 椿:先生は、ご自分が*譲治《じょうじ》じゃないと仰ったそうではないですか。 0:俊介に目を合わせ微笑む 椿:でも、先生はそんな*譲治《じょうじ》と何ら変わりのない、人ですよ。 0:言い聞かせるように言う 椿:貴方は、譲治であり、マゾヒストであり、そして、*痴人《ちじん》なんですわ。 俊介:僕が、痴人⋯。 椿:ええ。貴方が私に向けていたあの愛情こそ、「痴人の愛」に他なりませんのよ。お分かりになりました? 0:了

0:始業の鐘の音 0:三年の教室に響く俊介の声 俊介:今日は、先日プリントを配った作品、谷崎潤一郎作、「*痴人《ちじん》の愛」について、勉強していきます。とても有名な作品ですから、読んだ事のある人も、いるんじゃないかなと先生は思っているんですが、どうですか? 0:教室を見回す俊介 俊介:⋯この中に、この本を読んだ経験のあるって人は、どのくらいいますか?読んだことのある人は、手を挙げてみてください。 礼子:ねぇ、椿。「痴人の愛」ですって。アナタ、コレ読んだ? 椿:えぇ。読んだわよ。この間一緒に書店に行った時、礼子さんと二人で買ったでしょう?次の日から読み始めたの。大体、三日前くらいに読み終わったかしらね。 礼子:椿ったら、相変わらず本を読むのが早いんだわ。アタシはそんなに早く読めないもの。だって、本を買ったのって、五日前とかじゃなかったかしら? 椿:面白くって。寝るのも忘れて読みふけっちゃったの。そのせいで寝不足だわ。 0:椿が*欠伸《あくび》をする 俊介:そうですか。結構いるんですね。なんだか、嬉しくなりました。 俊介: 俊介:えぇ。そうですよ。それだけ、皆さんが本に触れているということですから。それでは、概要についてから勉強していきましょう。二*頁《ページ》を開いて。 礼子:アタシは全然ダメだった。授業でやるからって買いに行ったのに、まだ三十*頁《ページ》しか読めてないんだもの。集中力が切れちゃって。アタシったらダメね。 椿:いいえ。人間誰しも好きな文と苦手な文って必ずしもあるから。気にしなくていいんじゃないかしら。今回の「痴人の愛」がたまたま礼子さんに合わなかっただけかもしれないじゃない。 礼子:そうね、でも当分の間読書はいいかなって気持ちだわ。椿が本を読んでるところを見るだけで、アタシは全然満足だもの。アナタ、自分が本を読んでる時の横顔って見た事がある? 椿:いいえ⋯?全然無いわ。どうして? 礼子:アナタが本を読んでる時、アナタの目はまるで夢を見る少女のように*煌《きら》めくの。そんな時、思うのよね。「嗚呼、今はこの子と本だけの世界なんだわ。」って。 椿:そんな目、してたかしら⋯。 俊介:これは、大正十三年から十四年にかけて書かれた作品です。主人公の「私」は、カフェの*給仕《きゅうじ》をしていた西洋風の少女「ナオミ」を引き取り、自分の好みに育て上げて結婚します。 礼子:羨ましい。アタシもアタシと誰かだけの世界に入り込みたい。アタシの手の届く範囲で構成された世界に行きたい。なんて。 椿:礼子さんにだって、そんな世界があると思うけど⋯。 礼子:えぇ?ないわよ。 椿:あるんじゃない?好きな人と自分だけの世界を想像した事とか。もちろん、私はあるわ。 礼子:たしかに⋯。それは、あるけれど⋯。 椿:じゃあそれは、貴女と誰かだけの世界って言えるんじゃないかしら。なんて、思うんだけれど。 礼子:アタシも貴女と同じなの。フフ、お揃いね。なんだか嬉しいわ。椿。本を読んでる時、そう。アナタの世界の中にいるアナタって、綺麗だから。そんな綺麗なアナタと同じで嬉しいの。 椿:礼子さんたら。フフ、嬉しいわ。 俊介:そこ。*本宮《もとみや》さんと、それから池田さん。授業中ですよ。私語は*慎《つつし》んで。 椿:ごめんなさい。春野先生。 礼子:ごめんなさァい。フフ、怒られちゃったわね、椿。 椿:お喋りがすぎたかしらね。 俊介:折角ですから、プリント三*頁《ページ》からの本文を少し本宮さん達に読んでもらいましょうか。では、本宮さんと池田さん、冒頭「日記のことで」から交互に、僕が合図を出すまで音読してください。 礼子:エェ?音読ですってよ。 椿:お喋りしてた私達が悪いわ。仕方ないことよ。ね? 礼子:運が悪かったわね、椿。頑張りましょ。 俊介:では、立って。お願いします。 礼子:はい。 椿:日記のことで話が横道へ*外《そ》れましたが、とにかくそれに*依《よ》って見ると、私と彼女とが切っても切れない関係になったのは、大森へ来てから第二年目の四月の二十六日なのです。 礼子:*尤《もっと》も二人の間には*云《い》わず語らず「了解」が出来ていたのですから、極めて自然に*孰方《どちら》が孰方を誘惑するのでもなく、*殆《ほとん》どこれと*云《い》う言葉一つも*交《かわ》さないで、暗黙の*裡《うち》にそう云う結果になったのです。 椿:それから彼女は、私の耳に口をつけて、「*譲治《じょうじ》さん、きっとあたしを捨てないでね。」と云いました。 礼子:「捨てるなんて。―――そんなことは決してないから安心おしよ。ナオミちゃんには僕の心がよく分かっているだろうが、⋯⋯⋯」 椿:「ええ、そりゃ分っているけれど、⋯⋯⋯」 礼子:「じゃ、いつから分っていた?」 椿:「さぁ、いつからだか、⋯⋯⋯」 礼子:「僕がお前を引き取って世話すると云った時に、ナオミちゃんは僕をどう*云《い》う風に思った?―――お前を立派な者にして、*行《ゆ》く*行《ゆ》くお前と結婚するつもりじゃないかと、そう云う風には思わなかった?」 椿:「そりゃ、そう云う積りなのかしらと思ったけれど、⋯⋯⋯」 礼子:「じゃナオミちゃんも僕の奥さんになってもいい気で来てくれたんだね」 椿:そして私は彼女の*返辞《へんじ》を待つまでもなく、力一杯彼女を強く抱きしめながらつづけました。――― 礼子:「ありがとよ、ナオミちゃん、ほんとにありがと、よく分っていてくれた。⋯⋯⋯僕は今こそ正直なことを*云《い》うけれど、お前がこんなに、⋯⋯⋯こんなにまで僕の理想にかなった女になってくれようとは思わなかった。僕は運がよかったんだ。僕は一生お前を*可愛《かわい》がって上げるよ。⋯⋯⋯お前ばかりを。⋯⋯⋯世間によくある夫婦のようにお前を決して粗末にはしないよ。ほんとに僕はお前のために生きているんだと思っておくれ。お前の望みは何でもきっと聴いて上げるから、お前ももっと学問をして立派な人になっておくれ。⋯⋯⋯」 椿:「ええ、あたし一生懸命勉強しますわ、そしてほんとに譲治さんの気に入るような女になるわ、きっと⋯⋯⋯」 礼子:ナオミの眼には涙が流れていましたが、いつか私も泣いていました。そして二人はその晩じゅう、行くすえのことを*飽《あ》かずに語り明かしました。 俊介:⋯すごいね。ありがとう。すごく良かったよ。二人とも読むのがすごく上手だね。僕、君達に音読をさせているのすら忘れて聞き入ってしまったよ。素敵だった。 礼子:春野先生から褒めてもらえるなんて、アタシ達頑張った*甲斐《かい》があるわね。椿。 椿:えぇ。春野先生はきっと沢山音読なんか聞いてきて、聞き飽きていらっしゃるかと思っていましたから。私達の音読をそこまで褒めてくださるなんて、とっても嬉しいです。 俊介:特に、本宮さん、貴女が良かった。 椿:私、ですか? 礼子:⋯確かに。椿は演劇部だもの。読むのが上手くて当然よ。普段からよくこうやって文を読むことをしているんでしょう?アタシも友達が褒められて鼻が高いわ。すごいわね。椿。 椿:私は礼子さんの言う通り、演劇部ですから。読むのに慣れていて当たり前ですよ。それより、演劇部にも入っていないのに、こんなに読むのが上手だった礼子さんの方がずっとすごいでしょう。ね。 俊介:そうか。そうだったんだね池田さん。君もすごく上手だった。聞き惚れてしまうほどだったよ。ありがとう。じゃあ、座ってくれるかな。授業を続けよう。 礼子:褒められたわね。椿。アタシ嬉しい。春野先生に褒めてもらえるんだもの。 椿:フフ。本当に礼子さんは春野先生が好きね。でも特にどのへんが好き、とかあるのかしら?先生の中では特に若いし、清潔感もあるから、みんなに好かれるのはわかるけれど、礼子さんってあんまり先生の事好きじゃなかったと、思うんだけれど。 礼子:あの人はね。特別なのよ。言葉遣いが綺麗だし、他の先生みたいに、無理に生徒と仲良くなろうとしないでしょ?特に、女子生徒が近づくときなんか、少し気まずそうな顔をするじゃあないの。 椿:女性が苦手なのかもしれないわね。 礼子:そうかもしれないわ。あの人の、どことなく*初心《うぶ》で、潔癖な感じが良いのよ。そこがいいの。 椿:アラ。なんだか、熱に浮かされてるみたい。恋する乙女かしら? 礼子:恋⋯。 椿:なぁんて。⋯礼子さん? 0:紅潮する頬を両手で包み込む礼子 礼子:そうなのね、アタシ⋯。アタシ、春野先生に、恋、してるんだわ。 椿:え⋯?礼子さん、恋、しているの⋯? 礼子:あ、やだ!違うのよ。多分、恋なのかもしれないって段階よ!もしかしたら初めて先生に尊敬の念を抱いてるから勘違いしてるだけなのかもしれないじゃない! 椿:そう、かしら? 礼子:きっとそうよ、これは恋よ。恋なんだわ。アタシ人生で初めて恋をしているのよ。 椿:そう⋯。 礼子:椿? 椿:素敵ね。恋をするって、私にはまだよく分からないけれど、礼子さんが春野先生に恋してるのなら応援するわ。相手は春野先生だから、難しいとは思うけれど、春野先生だからこそ、安心ね。 礼子:そうでしょうそうでしょう。なんだか自覚した瞬間楽しくなってきちゃった。恋は苦しいだけのものだなんて言うけれど、こんなに世界が明るくなるのだから、一回は経験してみるものね。 椿:そうね。礼子さんが楽しそうでなによりよ。春野先生と、良い関係になれたらいいわね。 礼子:確かに。恋人とは言わずとも、同じ何かを共有できる関係になりたいわ。まぁ、そんなのは夢物語に近いんでしょうけど。でもアタシ、今日から頑張ってみるわ。先生を、手に入れるために。 椿:手に入れる⋯ね。 礼子:あ⋯、手に入れる、なんて表現は*傲慢《ごうまん》だったかしらね。でも、なんとしてでも、この手の内に留めておきたい。気付いてしまったんだから、気付かなかった過去のように憧れなんて言葉で終わらせられないわ。 椿:応援するわ。礼子さん。私はいつでも貴女の味方よ。先生に恋してるだなんてあんまり他の人には言えないでしょうから、私でよかったらいつでも相談して。 礼子:椿⋯。本当にいつもありがとう。アナタはアタシの一番の友達だわ。いつまで経ってもね。大好きよ。 椿:⋯えぇ。私だってそうよ。礼子さんは、私の一番の友達。大好きよ。 0:数日後 俊介:では、これで授業を終わります。今日で「痴人の愛」のプリントを使って授業するのは最後ですが、中間テストに出ますのでしっかり復習しておくように。それから、こちらの感想用紙ですが、しっかり内容を見て評価をつけようと思っています。お疲れ様でした。 礼子:先生。春野先生。 俊介:あぁ、池田さん。感想用紙は提出しましたか? 礼子:ハイ。勿論。アタシが出さないはずがないですよね? 俊介:そうですか?数学の野村先生があまり提出物を出さないと嘆いていらっしゃいましたよ。 礼子:でも、この授業の提出物を欠かしたことはないでしょう? 俊介:⋯確かにそうですが、提出物はどの教科でも出して頂かなきゃ困りますよ。貴女の成績のためにもね。分かりました? 礼子:ハァイ。分かりました。ね、先生。授業、面白かったです。 俊介:⋯そうですか。ありがとうございます。 礼子:アタシ、本を読むの、苦手なんです。活字なんて、ちょっとでも頭に入れると寝ちゃうの。 俊介:⋯苦手な人もいますよね。 礼子:でも、先生の授業でやった「痴人の愛」は、初めて全部読めたんですよ。これはきっと、先生の教え方がとても上手だからでしょう? 俊介:いえ、僕の教え方が*特段《とくだん》良いと思ったことは残念ながらありませんから、単純に「痴人の愛」が貴女にとって面白く感じただけだと思いますよ。 礼子:もうっ。先生ったら、*謙遜《けんそん》しちゃって。先生って、本当に謙虚なのね。ふふ、素敵だわ。 俊介:⋯もう、良いですか?そろそろ、国語科準備室に戻らなくては。 礼子:次の授業は、どこのクラスでやられるの? 俊介:いえ、次は授業はありません。⋯こんなこと、池田さんには、関係も興味も無い話でしょう。次の授業が始まりますから、席に戻った方がいいですよ。 礼子:やだ。次の授業までまだあと十分ありますわ。その抱えきれないほど多い国語資料、持っていくのには骨が折れるでしょう。アタシが、お手伝いします。 俊介:大丈夫です。僕は大人の男ですから、このくらい池田さんのような女学生に手伝って頂かなくても持っていけますよ。ご安心を。 礼子:もう両手荷物で*塞《ふさ》がっていますけれど。そこからどうやってこの資料を持って帰られるの?ふふ、どうされるのか、楽しみだわ。 俊介:⋯手伝っていただけますか。池田さん。 礼子:ハイ。勿論です。春野先生。 0:国語科準備室 俊介:申し訳ないです。次の授業があると言うのに、こんな手伝いをさせてしまって。重かったですか? 礼子:いいえ?アタシ、こう見えて力持ちなんですよ。何でも持ててしまいます。*吃驚《びっくり》でしょう? 俊介:えぇ。そうですね。じゃあ、ありがとうございました。教室に戻ってください。 礼子:ね、俊介先生。他の先生はいらっしゃらないの? 俊介:国語科の教員、他三人はみんな授業ですから。この時間は僕一人ですよ。さ、早く戻りなさい。 礼子:次の時間、自習なんですわ。日本史の*下谷《したや》先生、急病らしいです。だから、もう少しだけ、ここに居てもいいですか? 俊介:ここに居ても何もありませんよ。特に変わったものなんかはないですし、貴女達学生が興味を惹かれる物なんて、何一つないでしょう。 礼子:ありますよ。興味を惹かれる物。 俊介:貴女がそんなに国語に興味があるとは思いませんでした。あまり国語の点数は*芳《かんば》しくないようですから。 礼子:あら、その話をなさるのね。仕方がないじゃないですか。アタシ、読書も古典も苦手なんですもの。数学なら得意なのに。 俊介:じゃあ一体何にそんなに興味が⋯。 0:俊介の言葉を遮る礼子 礼子:先生、貴方です。アタシがココ最近ずぅっと熱い視線を向けているのに気付いていて、気付かないふりを続けてる酷い先生。貴方ですよ。 俊介:*揶揄《からか》うのはやめなさい。大人を揶揄っていい事なんてありませんよ。*戯言《たわごと》を垂れるだけなら、教室に戻って自習をする方がきっと*幾分《いくぶん》か貴女の為になりますから。さ、戻りなさい。 礼子:酷いわ。先生。気付いてるのに。アタシが本気だって。 0:俊介を壁際まで追い詰めて胸板を撫でる 礼子:アタシ、気付かなかったんです。ただ、先生に憧れてるだけなんだって、思い込んでた。 俊介:池田、さん⋯。 礼子:礼子と、呼んでよ先生。アタシ、こんなに焦がれてる⋯! 俊介:離れてください池田さん。こんなのは間違っている。貴女はまだ女学生。まだ成人すらしてない未成年。それに比べて僕は今年二十五です。それに、教師と生徒、その関係性が大前提として置かれているのに、貴女に*恋情《れんじょう》を抱くはずがないじゃないですか。 礼子:先生と生徒だなんて、言わないでください先生、だってアタシは、こんなに貴方に*恋しているの。もう、そんな*垣根《かきね》なんて越えてしまっているの。もう、戻れないんですわ。 俊介:やめてください⋯。僕は、池田さんをそんな目で見たことはない。貴女はただの生徒だ。 礼子:⋯もし、アタシが此処で俊介先生を襲ったら。 俊介:何を言っているんです、池田さん。 礼子:そうしたら、意地でもアタシを異性として、恋愛の相手として認識するでしょう、先生。そうしたらいいんだわ。最初から、そうしておけば良かったんだわ。 俊介:僕は、貴女に迫られて、貴女に*劣情《れつじょう》を抱くような*痴《し》れ者ではありません。僕は、*譲治《じょうじ》じゃないんです。 礼子:ナオミと譲治は十三離れていますけれど。アタシと先生は、六つしか離れていないじゃあないですか。確かに、先生とアタシは、譲治とナオミじゃ、ありませんね。 0:俊介の身体に手を這わせる礼子 俊介:やめなさい、池田さん。 礼子:先生、どうして分かって下さらないの、アタシこんなになるほど、先生を求めてるの、欲してるの、愛してるの!頭のいい先生は、勘のいい先生は、ずっとそれに気付いてた、それなのに、気付かないふりをしてた! 俊介:それはそうでしょう。知ったとしても*素《そ》知らぬ振りを続けるのが、正常ですから。普通の教員なら、全員がそうしますよ。 礼子:先生、お願い。お願いよ。分かったわ。アタシの事恋愛感情をもって接してなんて我儘言わないから、この口付けだけ、この口付けだけ、受け入れてください⋯。 俊介:池田、さん⋯! 礼子:先生、愛してる、アタシ貴方を愛してるのよ⋯。 0:礼子を突き飛ばす俊介 礼子:キャァッ⋯!どうして、どうして突き飛ばしたりなんか⋯! 俊介:ハァッ、ハァッ⋯。貴女、おかしいですよ、池田さん。こんな行動に出るだなんて、おかしい。僕は、教師としても、人としても貴女の行動を受け入れることは出来ません。ですから、貴女に*恋慕《れんぼ》の情を抱くなんて*以《もっ》ての*外《ほか》です。では、失礼。 礼子:先生待って!待ってよ先生⋯!ごめんなさい!ごめんなさい先生!違うの⋯、違うのよ⋯!先生!違うの⋯、許して⋯。 俊介:ご自分がおかしいと、気がついてください⋯。池田さん。 0:教室を走って出ていく俊介 礼子:⋯どうして?どうしてそんなに軽蔑した目でアタシを見るの⋯?アタシは間違ってるの?だって、誰も教えてくれなかったわ。恋のやり方なんて。アタシ、だから分からなくて、分からなかったのよ。だから、だからこうなったの。 礼子:だって、欲しかった、あの人が欲しかったの。欲しいものを手に入れようと努力することは、悪いことだったの?方法が間違ってた?どうして誰も教えてくれなかったの⋯? 礼子:⋯アタシが、悪いの⋯? 0:空き教室に逃げ込んだ俊介 0:そこには先客が 俊介:ここなら⋯。 椿:あら?こんにちは、春野先生。どうかされました? 俊介:も、本宮、さん⋯。 椿:お顔が真っ青。何かあったんですか?それに、すごい汗だわ。ここまで走ってきたんですね、先生。 俊介:ち、近寄らないで! 椿:⋯あぁ。ふふ、分かりました。私は、ただこの教室に忘れ物を取りに来ただけですから。すぐに行きますよ。お邪魔しました。 俊介:⋯本宮さんは、違うんですね。 椿:⋯違う?何が違うんでしょう。すみません、私あんまり頭が良くないものだから。 俊介:いえ、普通は、そうですよね。違いますよね。 椿:礼子さんでしょう?先生がそんなに頭を抱えてお悩みになっている要因。 俊介:え⋯。 椿:あら。当たりました?ふふ、当てずっぽうだったのに、当たるなんて、私*冴《さ》えてますのね。でも、やっぱりそうだった。 俊介:なぜ、池田さんが要因だと気付いたんです⋯? 椿:女の勘、と言いたいところですけれど。私はそんなに勘が鋭い訳では無いので。最近の礼子さんの感じを見ていて、今日先生について行ったから、何かあるのかしら、と思っただけです。 俊介:⋯そうだったんですね⋯。 椿:なにか、礼子さんにされましたの?お洋服の襟が酷く乱れていますよ。あぁ、でも、言いたくなければ言わなくて結構です。別にそこまで興味があることでもありませんし。 俊介:⋯襲われかけたんです。池田さんに。 椿:まぁ、礼子さんたら、随分大胆なことをなさるのね。そんな度胸がある子だとは、私思っていませんでした。やっぱり、好きな人の事になると、周りは見えなくなるものなのですね。ほら、恋は盲目と、言いますでしょ? 俊介:だからってあんなこと⋯! 椿:していいわけがありませんものね。その通りですよ、先生。先生は、何も間違っていませんわ。どれだけ恋に狂わされても、相手を不快にさせてはいけないものです。ましてや、襲うなんて。あまりにも*浅慮《せんりょ》ですね。 俊介:貴女も、そう思ってくれますか⋯。 椿:えぇ。思いますよ。勿論。お友達ながら恥ずかしいわ。でも、許してあげて下さります?礼子さん、先生へのこれが初恋なんですって。 俊介:初恋⋯。 椿:まだあげそめし前髪の。ふふ。*藤村《とうそん》を思い出しますね。先生。先生は、島崎藤村ってお好きかしら?私は好きですよ。ホラ、「*破戒《はかい》」とか。アレって藤村の作品でしたわよね? 俊介:⋯好きですよ、藤村は。 椿:そうなんですね、嬉しいわ。先生と同じ趣味を共有できるだなんて。 俊介:貴女は、本宮さんは、ナオミじゃないんですね。*公明正大《こうめいせいだい》な人だ。純情な人だ。清廉な人だ。 椿:そんなことありませんよ。私だって*奔放《ほんぽう》な女です。 俊介:少なくとも、僕から見た本宮さんは、そう見えなかったです。 椿:ふふ、そうですか。それなら良かった。 俊介:僕は、*好《す》いてもらえるのなら、貴女のような人が良かった。貴女みたいな人に、好いて欲しかった。俗物的な感情に囚われないで、本に恋するような、そんな人に。 椿:私が本に恋するように見えます? 俊介:見えますよ。 椿:そうだったら、どれだけいいんでしょうね。 俊介:貴女も恋に盲目な人なんですか? 椿:さぁ?まだ分からないんです。これが*恋情《れんじょう》なのか。*憧憬《しょうけい》なのか。憎悪なのか。愛情なのか。 俊介:誰に⋯。とは、聞かない方がきっと良いですね⋯。 椿:えぇ。聞かないで。だって、恥ずかしいものですから。先生だって、恋する人の話をする時は、少し恥ずかしいものでしょう? 俊介:僕は⋯。僕には、まだそういうの、全然分かりません。恋心とか、そういうのがわからない。ただ、抱き締めてくれるような、そんな存在なら、欲しいと思ったことはありますが。 椿:今、先生は抱き締められたいですか? 俊介:⋯え?あぁいや⋯。 椿:正直に打ち明けてくださったっていいじゃないですか。確かに、私と先生は、教師と教え子ですけれど、同じ秘密を打ち明け合った⋯、そうですね、なんて言うんでしょうこういうの。 俊介:そうだな、「*知友《ちゆう》」と表すのはどうでしょうか。 椿:知友⋯?初めて聞きました。どういう意味でしょう先生。 俊介:知友とは、お互いに理解し合っている友を指す言葉なのだけれど⋯。やっぱり、少し違いますね⋯。 椿:じゃあこうしましょう。先生。 0:ふわりと俊介を抱きしめる椿 椿:「共犯」と。私たちの関係はそう呼ぶ事にしましょう。ね?先生。 俊介:え、も、本宮さん⋯!?何をしているんです⋯!? 椿:先生。私は貴方への恋情から抱きしめている訳では無いんです。ただ、貴方が抱きしめて欲しい気がしたから、抱きしめた。ただ、それだけですよ。 俊介:いや、僕は、別にそんな⋯。 椿:嫌なら、私を突き放してください。先生。 0:数秒の躊躇いの後背に腕を回す 椿:やっぱり。抱きしめて欲しかったんですよね。先生。大丈夫です。私は先生が欲しいことしかしません。 俊介:そのまま、抱きしめていて、くれませんか⋯。 椿:えぇ。勿論。いつまでも、抱きしめていましょう。貴方が私の*抱擁《ほうよう》を必要としなくなる、その時まで。 俊介:君は不思議な⋯。不思議な人ですね、本宮さん⋯。 椿:共犯者ですよ、私達は。今くらいは、私の事そんな他人行儀な名前で呼ぶのはおやめになったらいかがですか? 俊介:で、でも⋯。 椿:⋯まぁ、別にいいんです。無理にとは、私は言いませんから。さっきも言った通り、私は先生が求める事だけをします。名で呼んでくれないのは、私達がそこにまだ至れていないという事。ただ、それだけですから。 俊介:ちが⋯! 椿:先生は何にも気になさらないでください。ね? 俊介:椿⋯、さん。 椿:はい。先生。ふふ、嬉しいです。先生が、私に心を許してくれたようで。 俊介:貴女は、誰にでもこういうことをするのですか⋯? 椿:いいえ。あくまで、特別な人だけですよ。私にとって、春野先生は特別なんです。だから、こうして抱きしめています。 俊介:そう、なんですか。 椿:特別だから、私は貴方が欲するものを全て与えたいんです。そして貴方を、私という依存性の高い毒で満たしたい。 俊介:貴女が、毒?はは、まさか。君が毒なんてことはないでしょう?だって、こんなにも暖かく、優しい⋯。 椿:知っていますか?先生。女の子は、お砂糖とスパイスと。それから沢山の素敵なもので出来てるんです。でも、気をつけなければいけない。だって、素敵なものに身を隠すようにして、猛毒が潜んでいることがあるんですから。 俊介:だったら、僕にとっての貴女は、椿さんは、お砂糖ですね。 椿:いいえ。さっきも申し上げましたけれど、先生にとっての私はきっと、毒ですわ。その、たくさんの素敵なものに隠れた、猛毒。 俊介:それは、何故⋯? 椿:すぐに分かりますわ。そんなに焦らなくたって、時が来れば必ず私の言う意味が理解できます。 俊介:そう、なのかな。わかる日が、来るんだろうか。 椿:えぇ。近いうちに必ず来ます。 俊介:⋯君が猛毒だって僕は構わないよ。僕にとっての貴女が、どこまでも甘い毒なんだと分かってしまったとしても、飲み干したい。 椿:やめておいた方が、いいと思いますよ。先生。 俊介:⋯やめたくないんだ。貴女とこうなったのは、今日が初めてなのに、今の僕は、ずっと貴女に抱き締められていたいと思っている。 0:椿の腕の中で、俊介はボソリと呟く 俊介:もういっそ、このまま遠くへ逃げようか。そうしたら、僕は、貴女に抱きしめて貰えたまま、生きていける。 椿:可愛らしい願いですわね。でも、無理ですのよ。先生。 俊介:無理じゃない、そんな気がするんだ。だってこの胸の中に収まる感情はきっと、君への*恋情《れんじょう》なんだもの。君に狂わされて、堕ちていきたい。 椿:いけませんよ。私達は、恋人になってはいけないんです。私は、先生を満たすだけの存在なのだから。制限時間を超えて先生を満たし続けるのは、恋人のすることです。私達は、「共犯」ですよ。 俊介:だけれど⋯。 椿:ダメですよ。先生。私と先生は、教師と生徒ですから。 俊介:⋯いや、そうだった。僕は、その言葉を使って池田さんを遠ざけたというのに、今度は僕の恋する気持ちがそれに制されている。なんだか、皮肉な話ですね。 椿:人間なんて、常に変わり続ける生き物なんですから、そういうこともありますよ。毎秒毎秒変化を*遂《と》げながら、その度に過去の自分に皮肉られる。そういう宿命なのですわ。 俊介:そう、なんだね。 0:授業の終礼のチャイムが鳴る 椿:さ、この授業も終わりです。行きましょう。私と貴方は、また、「本宮さん」と「春野先生」へ戻らなくてはいけないんです。シンデレラが、元のみすぼらしい灰被りへと戻ってしまうようにね。共犯者とは、そういうものです。 俊介:もう、終わり、なんだね。椿さん⋯。 椿:あら、不思議。先生ったら、どうしてそんな呼び方をなさるの?それに、先生が敬語じゃないなんてなんだか慣れないわ。どうかしました? 俊介:⋯いいえ。本宮さん。なんでもありません。次の授業には遅れないようにしてください。 椿:ハイ。私、次の時間美術なんです。移動教室がありますから、急ぎますね。では。 俊介:待ってください。 椿:なんですか?春野先生。 俊介:また、僕の空白を満たしてくれますか、本宮さん。 椿:⋯。 俊介:やはり、ダメでしょうか。 椿:いいえ。「椿」はきっと満たしてくれると思います。それでは。先生、また。 0:椿が教室を去る 俊介:これが、恋。確かに⋯。盲目になる気持ちが分かります。こんなに、狂わせられようなんて、僕は、思ってもみませんでした⋯。 0:旧校舎の一室 0:泣きじゃくる礼子 礼子:間違っていたんだわ、アタシ。間違ってたのよ⋯。少し考えたらわかったじゃない、あんなことしても、先生はアタシの所になんて来てくれないんだって、分かっていたのに⋯。 椿:礼子さん⋯?どうしたの、貴女そんなところで泣いて⋯。探したのよ⋯。どこへ行っちゃったのかと、心配で心配で⋯。 礼子:椿⋯! 0:椿の胸に飛び込む礼子 椿:わ、っ⋯。どうしたの?礼子さん⋯。こんなに泣いて⋯。でも、次の時間は美術よ、早く行かなきゃ、岡本先生に怒られてしまうわ。 礼子:アタシ、間違ってしまったの、間違ってしまったのよ⋯!でも、アタシが悪いの?!だって、だって誰もアタシにやり方を教えてくれなかった⋯! 椿:落ち着いて、礼子さん。大丈夫、大丈夫よ。礼子さんは何も間違ったりしていないわ。安心して。 礼子:違うの、間違ったのよアタシ⋯、椿⋯。アタシ、嫌われちゃったわ、先生に⋯。 椿:何かあったのかしら⋯?もしかして、今日春野先生について行った時に何か貴女したの? 礼子:つい、欲張ってしまったの⋯。本当は、欲張っちゃいけなかったというのに⋯。あの人は、繊細だってアタシ知ってたのに⋯! 椿:春野先生に、拒絶されでもしたの⋯? 礼子:⋯やっぱり、アタシみたいな女、先生に恋するべきじゃなかったのよ、どうしたって、あの人を傷つけてしまうだけなんだもの⋯!あの人は、アタシから発せられる言葉全てに傷付いて嫌悪するわ⋯。 椿:礼子さん⋯。 礼子:きっと、アタシじゃダメなのよ⋯。あの人に必要なのは、アタシじゃない。あの人と同じくらい繊細で柔らかい言葉の持ち主じゃないとダメなのよ⋯。アタシは、アタシなりに精一杯アタシの恋い慕う気持ちを伝えたつもりよ⋯。でも、あの人の心は満たせない⋯! 椿:そんなこと⋯。 礼子:アタシの言葉は*下劣《げれつ》な何かしらにしか、もう捉えてもらえないのよ⋯!アタシは⋯、アタシは⋯、*淫《みだ》らな女というレッテルを先生に貼られたまま、好きな気持ちを押し殺してこれから生きていかなければいけないの⋯。 椿:礼子さん、涙を拭いて。折角貴女は綺麗な顔をしているのに、泣いていたら、勿体ないわよ。これは、ハンカチ。貴女とお出かけした時に買ったものよ。 礼子:椿⋯。 椿:春野先生ったら、本当に見る目がないのね。礼子さんが下劣ですって?そんなわけが無いじゃない。本当に*淫猥《いんわい》な人間は、拒絶されて泣いたりしないのよ。そうでしょう? 礼子:ねぇ、アタシは、ナオミなの⋯?椿⋯。先生は、自分の事を*譲治《じょうじ》じゃないと言った。でも、そんな先生に迫った私は、何も考えずに彼を求めた私は、欲に素直になってしまった私は⋯。 椿:礼子さん⋯。 礼子:ナオミ、なんだわ。 椿:違うわ。礼子さん。貴女はナオミじゃない。あんなに*放埓《ほうらつ》な人間じゃないわ。人の愛情を受けていると知りながら、暴走するような、そんな存在じゃないのよ。 礼子:でも⋯。 椿:貴女がナオミだったら、きっとこんなに傷付かないわ。だって、ナオミは愛されて当然なんだもの。ナオミを愛さないのは、ナオミが悪いんじゃない。ナオミを愛せないその人が悪い。そうやって考えるはずよ。 礼子:そうね、きっと、魔性の女ナオミは、そうやって考えるわね。ふふ、そうだわ。 椿:やっと泣き止んで笑ってくれた。やっぱり、貴女はそうやって笑っている方が、泣いている何十倍も何百倍も素敵だわ。貴女は、綺麗なの。私の何十倍も、何百倍も、綺麗で、*無垢《むく》で、純粋で。だから、間違うだけ。 礼子:慰めてくれるの、椿だけよ⋯。きっとみんな、アタシがしでかしたことを知ったら、アナタが悪いって責めるに決まってる。 椿:次の授業はサボりましょうか、礼子さん。 礼子:アタシは、元より戻れる顔じゃないから戻るつもりなかったけれど、椿は気にしなくていいのよ。そこまでアタシに優しくしてくれなくていいの。 椿:ふふ、私は礼子さんと一緒にサボりたいからサボるんだわ。優しいからじゃない。ただのワガママよ。 礼子:そう⋯?じゃあ、一緒にいてくださる? 椿:えぇ。もちろん。ここに居るわ。 礼子:ありがとう、椿。ごめんなさいね。 椿:ねぇ。礼子さんは知っているかしら。「痴人の愛」に、こんな一節があるのよ。この間、私と礼子さんが二人で音読した*箇所《かしょ》の少し後。 礼子:どんな、文なの?アタシはあまり「痴人の愛」の内容を覚えていないから教えてくれるかしら。 椿:こういうものだわ。「僕の可愛いナオミちゃん、僕はお前を愛しているばかりじゃない、ほんとうを*云《い》えばお前を*崇拝《すうはい》しているのだよ。お前は僕の宝物だ、僕が自分で見つけ出して*研《みがき》をかけたダイヤモンドだ。だからお前を美しい女にするためなら、どんなものでも買ってやるよ。僕の月給をみんなお前に上げてもいいが」なんて。 礼子:情熱的な文ね。ナオミはその申し出を受けたの? 椿:受けなかったわ。それより、英語やピアノを勉強すると言ったの。そうして、それを喜んだ*譲治《じょうじ》は、ピアノを買ってやると言うわ。ね、このナオミ、先生みたいじゃない? 礼子:え?先生みたい⋯って?どういうことかしら。 椿:だって、礼子さんっていう真面目で純情な女学生をたらしこんでおいて、礼子さんから強い*恋情《れんじょう》を向けられたら、そういうのは違います、でしょう?そうやってまた、貴女の恋焦がれる気持ちを掻き立てるのよ。先生の方が、遥かに魔性だわ。 礼子:ふふ、椿にそう言われたらそんな気がしてきた。魔性の人ね、先生は。それなら⋯。もう、追うのはやめにするわ。 椿:やめてしまうの?あんなに熱心に追いかけていたのに。 礼子:えぇ。だって元から追ったところで叶わない恋だったんですもの。教師と生徒、どう頑張ったってこの垣根は越えられないでしょう?精々可愛い教え子止まり。アタシの場合は、きっとその可愛い教え子にすらなれないでしょうしね。 椿:確かに、そうかもしれないわね。 礼子:目を覚まさせてくれてありがとう。椿。アタシ、きっと恋愛経験が少なすぎて、先生に幻想を抱いて押し付けてたのね。先生が地位も職も全てを捨て去ってこっちを見てくれるなんて、過剰な期待を寄せた。それがもう既に間違いだらけだったのよね。 椿:礼子さん⋯。 礼子:だから、アタシ次はきっと*成就《じょうじゅ》する恋をするわ。傷付きたくないし、間違えても取り返しのつく人と恋するのが正しいって気付いたんだもの。 椿:そうね。きっとそれが正しいわ、礼子さん。 礼子:アタシまだ十八ですもんね。もっと周りを見た方が良かったわ。年上は素晴らしく見えるものだけど、それは幻想がかってるからなのよね。幻なのよね。魔法にかけられていたんだわ。 椿:そうよ。礼子さんの近くにこそ、礼子さんを本当に心から恋い慕う人がいるんだから。その事に気づいてもらわなきゃいけないわ。 礼子:居ないわよ、そんな人。 椿:居るわ。居るのよ。 礼子:誰よ。そんな人いたら出てきて欲しいくらいだわ⋯! 椿:名前を上げたっていいのよ。貴女は追いかけてばっかりで、いつまで経っても追いかけられている事に気が付かないみたいだから。 礼子:いいわ。名前を教えてくださる? 椿:私よ。 礼子:⋯え? 椿:本宮椿。そう、私が貴女をずっと恋い慕っているの。貴女が好き。 礼子:やだわ、椿ったら、アタシを元気づけようとしてくれているんでしょう⋯?だから、そんな事言うんだわ。そんなこと言って、冗談がすぎるわよ⋯。 椿:本気よ。私は、貴女が好き。愛してるわ。心から。 礼子:そんな、嘘よ。だってアタシ達、ずっと友達だったじゃない。何度も出かけたり、一緒に勉強したり、アタシ達、そんな仲のお友達だったんじゃない。それがどうして⋯? 椿:友達だったのは、礼子さん、貴女だけよ。貴女が私に対して、友愛を向け続けている間。貴女が春野先生に対して純なる恋情を向けている間、私は貴女に、*歪《いびつ》に歪んだ愛情を向け続けていたわ。 礼子:そんな⋯。 椿:ね、私の事、嫌になってしまった⋯?こんな感情を自分に向ける気持ちの悪い女なんか、嫌いになってしまったでしょう? 礼子:⋯いいえ。嬉しいわ。でも、どこまで本気なの?アタシ達、女の子同士、本気じゃないなら、アタシはその気持ちに応えられない。中途半端な気持ちで恋をしたって、上手くいくはずがないでしょう。それに、そうなってしまったら、きっと友達にすら戻れなくなってしまうから。 椿:これで、分かってくれるかしら。 0:礼子に触れるだけの口付けをする椿 礼子:⋯今⋯。椿、アタシに、口付けを、した、の⋯? 椿:えぇ。戻れなくなる覚悟はあるわ。進んでしまったら、過去には戻れない。ぐしゃぐしゃに丸めた紙を引き伸ばしても、元のまっさらな紙に戻ることがないように。私達は進んだらきっともう戻れない。 礼子:それでも、進むの? 椿:進むわ。進みたいんだもの。もう、充分足踏みをしたわ。何度も何度も。貴女のこの唇に口付けて、穢してしまおうって思った。だけれど、その度に、貴女の純新無垢な笑みを見せつけられて。 礼子:椿⋯。 椿:もう一度、口付けをしてもいいかしら。⋯嫌なら、私を突き放してくださる⋯? 礼子:アタシ、アタシは⋯。 椿:否定しないのなら、拒絶しないのなら、私は肯定と捉えるわ。礼子さん。それでも、いいのかしら? 礼子:⋯それは⋯。 0:扉が開く 0:息を切らした俊介が入ってくる。 俊介:何をしているんです。本宮さん、池田さん。 椿:あら。春野先生じゃありませんか。そんなに息を切らして。どうなさったの? 俊介:質問に答えてください。此処で、何をしていたんです。二人共。 椿:⋯。別に?少しじゃれていただけですわ。先生。ね?礼子さん。 礼子:え、えぇ。そうです。アタシ達、ただここでじゃれていただけです。 俊介:岡本先生が、すごく心配していらっしゃいました。授業に行きなさい。そうでなければ、親御さんを呼びますよ。 礼子:はい、分かりました。今からすぐに美術室に行きます。ごめんなさい。 俊介:それでいいんです。 礼子:行きましょう、椿。きっと、岡本先生の事だからお叱りは避けられないわね。 椿:そうね。それじゃあ私達行きますね。お手数お掛けしてごめんなさい。先生。 俊介:待って。詳しく事情を聞きたいですから、本宮さんだけ残って。 椿:⋯ふふ。私ですか? 礼子:椿⋯? 俊介:池田さんは行って結構です。すぐに戻って授業に参加してください。 礼子:はい、分かりました。失礼します。 椿:ごめんなさい、二人で叱られようと思ったのに。 礼子:いいの。あとから来るんでしょう、椿。 椿:えぇ、後で行くわ。待っていて。礼子さん。 0:引き戸の音 0:部屋を出ていく礼子 俊介:どういうことですか。椿さん、僕に囁いてくれた愛は、嘘だったんですか。僕で、遊んでいたのですか。 椿:愛?何を言っていらっしゃるの?先生ったら、可笑しいわ。 俊介:だって⋯、貴女は僕に⋯。 椿:一度でも、好きだと言いましたかしら?ふふ、言ってないでしょう。 俊介:じゃあ⋯。 椿:私が先生に言った恋焦がれる相手が、先生だとでも思ったんですのね。信じていたんですのね。ふふ、どこまでも純情な方。どこまでも無垢な方。 俊介:だって貴女は、⋯貴女は、僕を、僕を抱き締めてくれた⋯。僕の言うことが分かるんだと言った、「共犯」なんだと言った⋯!特別なんだと言った⋯! 椿:言いましたわ。確かに。でも私はこうも言いましたわ。私は*奔放《ほんぽう》な人間です、ってね。私って実はどうしようもなくワガママなんですよ。それでいて、どうしようもなく独占欲が強いんですの。 俊介:⋯だから、なんだと言うんですか。 椿:憎かったんですのよ。私が愛している礼子さんに愛されて、そして恋い慕われている先生が。私が恋を教えてあげる存在になりたかったのに、礼子さんは、先生に恋を教わった。 俊介:だから、僕に近付いてきたんですね。池田さんが、大胆な行動に出てしまうことを知っていて、僕が行きそうなところに居て。 椿:そうです。どうでした?私は。忘れられないほどの*甘美《かんび》な毒だったでしょう? 俊介:⋯。 椿:私、確かにお砂糖とスパイスとそれから沢山の素敵なもので出来ていますわ。礼子さんに*相対《あいたい》する時は、お砂糖で出来ている。そんな私でいるんです。でも、先生には別。甘くて柔らかくて依存性の高い毒だけの私でいるんだわ。 俊介:なんでそんなことをするんです⋯。 椿:嫌がらせですもの。砂糖だったら、分解されてその人の*糧《かて》になる。私は、礼子さんの糧になりたいの。でも、毒は?毒はどうでしょう。 俊介:僕を死に至らしめたかった。そういう事ですか。 椿:そうですわ。毒は分解すらすることが出来ない上に、その人を死に至らしめるんですもの。恋敵に相対するのだから、そうなるのが必然でしょう? 俊介:ならば最初から僕に池田さんは自分の愛しい人だと*牽制《けんせい》しておけばよかった!僕を、僕を貴女に恋させる必要なんてどこにもなかったのに⋯! 椿:言ったではありませんか。これは嫌がらせだと。私の愛しい人を焦がれさせた、太陽のような輝きを放つ先生を地の底へ落とすための嫌がらせ。 俊介:貴女の嫌がらせは、甘美でした。優しく幸福な時間で僕を毒しました⋯。そのせいで、僕は壊されてしまった⋯。*須臾《しゅゆ》の間で、貴女に、恋してしまった⋯。 椿:先生を壊したのは、ただの私のエゴなんですわ。つまらなく、醜いエゴ。でも、仕方ありませんわよね。だって、恋ってそう言うものでしょう?違います?恋敵を蹴落とし蹴落とされ、そうやって恋は成就する。 俊介:じゃ、じゃあ、これはもしもの話です。 椿:はい。なんですか? 俊介:次に僕が、教師としてではなく、一人の人間として貴女に会えたら、僕は貴女に愛して貰えますか。 椿:一人の人間として?ふふ、そうですわね。一人の人としてではなく、先生が、一人の痴人として私に出会えたら、愛さずとも、可愛がって差し上げますわよ。ね? 俊介:僕は、てっきり、池田さんがナオミだと思っていました。*放埒《ほうらつ》で、人をたらしこんで、自分無しで生きられないようにしてから放つ、そんな人間なんだと。だけれど。 椿:えぇ。違ったでしょう?礼子さんは、ナオミなんかじゃないわ。「まだあげそめし前髪の、*林檎《りんご》のもとに見えしとき、前にさしたる*花櫛《はなぐし》の、花ある君と思ひけり。」 椿:この君は、私じゃあありませんわ。この君は、他でもない。礼子さんの事ですわよ。残念でしたわね。私がこの君じゃなくって。 俊介:君がナオミか⋯! 椿:えぇ。そうですわよ。まだ結い上げたばかりの前髪をしていた幼く純粋な「初恋」の君は礼子さん。「痴人の愛」を*貪《むさぼ》り、堕落させたナオミは、私。気が付かないだなんて愚かでしたわね。春野先生。 俊介:酷いとは、思いませんか。 椿:あら、なにがかしら? 俊介:こんなの、僕を殺そうとしているのと同義では無いですか。 椿:あらどうして?人聞きの悪い人だわ。 俊介:一度人に餌を貰った野生動物は、自分から狩りをするのをやめるんです。人に腹を満たしてもらえることを、知ってしまうから。貴女は、僕という満たされない野生動物に愛という餌を与えた。僕は、もう自分で餌を取る方法を、忘れてしまった。そんなものは、流石に残酷すぎやしませんか⋯。 椿:毒牙にかかった先生が悪いんじゃあなくって?だって、私は先生を愛した訳じゃないんですもの。ただ、貴方の欲しいままに応えただけ。愛情を貰えていたなんて錯覚していたんですわね?先生は。なんて。なんて。*愚劣《ぐれつ》な人! 俊介:だって、君は⋯。 椿:毒だと言わなかったとでも言いたいのかしら?そんなわけないわ。嘘をおっしゃいな。私はちゃぁんと言ったもの。私は、*奔放《ほんぽう》な女で、毒なんだってね。 俊介:じゃあ、椿さんは、僕に体温の優しさを、温かさを、安らぎを教えてから、僕の元を去るんですか⋯? 椿:元から私は、先生の元になんかいませんよ。何を勘違いしてらっしゃるのかしら。椿は確かに貴方を満たしますわ。でも、愛すなんて言っていませんし、先生が勝手に私から学んでいかれたの。全て先生が勝手にやったのよ。勝手に堕ちて、勝手に狂ったの。 俊介:そんなのって⋯、あんまりじゃあないですか、椿さん⋯。 椿:ふふ、悪いのは貴方よ。春野先生。全部、貴方が悪いの。貴方が、私の*抱擁《ほうよう》を拒否しなかったあの時、もう全てが決まっていたのよ。 俊介:じゃあ、あそこで抱きしめ返すことを、背に腕を回すことを選んだ時から、僕は貴方の毒牙に絡め取られていたということなんですね⋯? 椿:そうですわ。 俊介:でも、僕は、貴女が毒なんだとは、思えません。 椿:この*期《ご》に及んで、私が毒じゃないと言ってくださるの?ふふ、嬉しいわ。でもそれは本当?先生、もう私の毒の*虜《とりこ》じゃない。私の毒は苦しいでしょう?死にたい程に苦しくなるのに、トドメは刺してくれない。そんな毒だから。 俊介:僕にとっての貴女は劇薬なんですよ。使い方を間違えれば死んでしまうような。そんな薬で、そんな毒なんです。だから、死ぬ事が出来ない。トドメをさしてはくれない。嗚呼、貴方で死ねたら、どんなに幸せだろう。そんなふうにも、思うんです。醜い期待だって、分かります今なら。 椿:⋯。 俊介:望みすぎたんですね。愛して欲しいなんて。期待しすぎてしまったんですね、愛してもらえているかもしれないなんて。だから、こんな目に遭った。僕は、こうなるのが怖くて、ずっと色んなものを避けてきたというのに。こうなってしまうことがある事を知っていたから、全てを遠ざけて来たというのに。 椿:ふふ、そうですね。 俊介:嗚呼、貴女が化け物だったら良かった。そしたらこんなに狂わされたのだって、全部貴女のせいに出来たのに。 椿:ねぇ。春野先生。 俊介:なんですか。椿さん。 椿:先生は、ご自分が*譲治《じょうじ》じゃないと仰ったそうではないですか。 0:俊介に目を合わせ微笑む 椿:でも、先生はそんな*譲治《じょうじ》と何ら変わりのない、人ですよ。 0:言い聞かせるように言う 椿:貴方は、譲治であり、マゾヒストであり、そして、*痴人《ちじん》なんですわ。 俊介:僕が、痴人⋯。 椿:ええ。貴方が私に向けていたあの愛情こそ、「痴人の愛」に他なりませんのよ。お分かりになりました? 0:了