台本概要
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タイトル | スナックあけみ~こころ隠して~(ナレーション編) |
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作者名 | 荒木アキラ (@masakasoreha) |
ジャンル | ラブストーリー |
演者人数 | 5人用台本(男1、女3、不問1) |
時間 | 50 分 |
台本使用規定 | 台本説明欄参照 |
説明 |
小さな街の小さなスナックで起こる悲喜こもごも。 古き良き昭和の雰囲気をお楽しみください。 ナレーションで進んでいきます。 上演時には、任意ではありますが、作者TwitterDM(@masakasoreha)までご連絡いただけると、 喜んで拝聴しに行きます。 142 views |
キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
---|---|---|---|
ママ | 女 | 155 | スナックあけみのママ |
ナレーション | 不問 | - | 物語のナレーション |
先生 | 男 | 52 | 夜の街とは縁遠い、生真面目な高校の先生。 |
シジマ | 女 | 77 | スナックあけみで働くホステス。 |
カサネ | 女 | 37 | シジマの一人娘。夜学に通う高校生。 |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
0:スナックあけみ~こころ隠して~ 作 荒木アキラ
0:
0:【登場人物】
0:
ママ:スナックあけみのママ。
ママ:
先生:夜の街とは縁遠い、生真面目な男。高校の先生。
先生:
シジマ:スナックあけみで働くホステス。
シジマ:
カサネ:シジマの一人娘。夜学の高校に通う。
カサネ:
N:ナレーション
N:
0:
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0:=================
0:
N:宵の口(よいのくち)から降り始めた村雨(むらさめ)が、
N:深夜すぎに嵐に変わった。
N:その晩、7杯目の濃いジンライムを飲み干して、女が笑い終わると、
N:またいつもの虚無感が襲ってきた。
N:女はひとりカウンターに戻って、自分の巣くってる小さな城をながめてみる。
N:窓際にボックス席がふたつ、カウンターに7つのスツールがおさまる、狭いスナックだ。
N:男と女がそれぞれに寄り添って、笑いさざめいてはいるけれど、
N:明日には忘れるぬくもりを、いっとき手にしているにすぎない。
N:そうして女が冷めた目で店内を見渡していると、カランと入り口のベルが鳴って、
N:一人の男が入ってきた。
N:
ママ:「いらっしゃい。」
ママ:
先生:「お邪魔…します…。」
先生:
N:スーツに、斜めがけのショルダーバッグが、
N:なんだか、ちぐはぐな印象を与えて、
N:あれ、これってどこかで見たことあるんだけどな、
N:と女は笑いかけるのをためらった。
N:
ママ:「お客さん。何か飲みます?」
ママ:
先生:「…ウイスキー、水割りで。」
先生:
N:目線がせわしなく店内を探索する。
N:なんのことはない。
N:男は、慣れない店に入って緊張しているのだ。
N:
ママ:「氷は?」
ママ:
先生:「いや…やっぱり、ダブルで。」
先生:
ママ:「っふ、あはは!
ママ:お客さん、酔いたいの、酔いたくないの、どっちよ?」
ママ:
ママ:
N:男は、決まり悪そうに、雨で濡れた髪をかきあげる。
N:何度も、何度も。
N:それが、一生懸命背伸びしているようで、妙に初々しく女の目に映った。
N:
N:
先生:「…酔いたいです。」
先生:
ママ:「よしわかった。あたしが今夜は、とことん付き合ってあげる。」
ママ:
先生:「は…?」
先生:
ママ:「この嵐だもの。もうどこも空いてやしないわよ?」
ママ:
先生:「ああ、なるほど…、いや、はははは。これは、恐縮です。」
先生:
N:見たところ、三十路は過ぎた様子だったが、
N:ネンネというわけでもなさそうなのに、
N:不思議と性別を置いてきたような、そんな欲望の外側にいるような男だった。
N:
ママ:「ねえ、ぼうや。」
ママ:
先生:「ぼうやはやめてください。」
先生:
ママ:「じゃあ、なんて呼べばいい?お兄さんでいいかしら?」
ママ:
先生:「あの…ぼくいま名刺、持ってなくて。」
先生:
N:言いながら、ポケットをまさぐる姿は本当に申し訳なさそうで、
N:女はすぐにその手を払いのけて言った。
N:
ママ:「ここはね、昼間のオフィス街じゃないの。
ママ:紙切れ一枚で用が足りるなら、帰ったほうがいいわよ?」
ママ:
先生:「オフィス…か。参ったな。
先生:わたしは、いや、ぼくは、高校で英語を教えていまして。
先生:木原(きはら)と申します。」
先生:
ママ:「へえ…。なるほどね。」
ママ:
先生:「そこの…ほら、高台にある県立高校ですよ。」
先生:
N:なんとなく男に抱いた既視感(きしかん)が、すうっとひとつの姿になって女の脳裏に思い浮かんだ。
N:スーツを着た外国人だ。
N:いかにも、通勤用の自転車にまたがって、颯爽(さっそう)と日の光のもとを走ってそうなのだ。
N:酔っ払って朝帰りした帰り道、交差点ですれ違う、「異なる世界の人」。
N:男はまさに、夜の世界に迷い込んだ、異邦人だった。
N:
ママ:「学校の先生が、こんないかがわしい店に、出入りしてもいいのかしら?」
ママ:
先生:「…やっぱり、ここはいかがわしいお店なんですか!?」
先生:
N:ほんの冗談が口をついて出ただけなのに、ただ事ではなさそうな男の様子に、
N:女は少し面食らう。
N:
先生:「じつは…じつは、これ。見てもらえますか。
先生:…ここのお店のものですよね?」
先生:
N:男は斜めがけのバッグをまさぐると、
N:証拠物件のようにビニール袋に入れられた、
N:スナックあけみのマッチを出してきた。
N:
先生:「ほら、このカウンターにあるのと一緒だ!ね?そうでしょう?」
先生:
ママ:「っふ、あはははは!
ママ:なにそれ。どうしたの。
ママ:あなた、先生なんでしょ?
ママ:同時におまわりさんでもやってらっしゃるの?」
ママ:
N:笑い飛ばしながら、これがどんな話に結びつくのか、女は頭をひねった。
N:
先生:「これをね、うちの生徒が持ってたんですよ。
先生:たばこと一緒に。
先生:問い詰めたら、自分の親のものを持ってきたと言うんですよ。」
先生:
ママ:「…それで?」
ママ:
先生:「絶対にうそですよね、そんなの。」
先生:
ママ:「あら、どうして?
ママ:うちは、高校生のお子さんのいらっしゃる、
ママ:40代、50代の男性だって、
ママ:たくさん出入りしてますよ?」
ママ:
先生:「だって、その子。
先生:じつは…。母子家庭なんです。」
先生:
N:ちょっと声を抑えてつぶやくと、男の瞳は、疚(やま)しそうに下を向いた。
N:なにが言いたいかは一目瞭然だ。
N:
ママ:「ここに、その子の母親が勤めているんじゃないかって?」
ママ:
N:女は、あきれたように、深い息をついた。
N:
ママ:「…そうだとして、あなたに教える義理はないですけどね。
ママ:上の者と話がしたいっておっしゃるなら、
ママ:それなりの人をご紹介しますけど?
ママ:…意味はおわかりですね。」
ママ:
先生:「…ぼくのような人間が、
先生:口を出すべきじゃないってことですか。」
先生:
ママ:「さすが、賢いこと。飲み込みが早くて助かるわあ。」
ママ:
N:しばしの沈黙。
N:女は、少しも減っていないグラスにウイスキーをつぎ足しながら、
N:相手の様子を伺った。
N:
先生:「はあ…。
先生:やっぱりそうですよねー!?」
先生:
N:男は唐突に態度を崩して、カウンターに身を投げ出すように突っ伏した。
N:
先生:「いやー、ぼくこういうところにはまったく縁がなくて。
先生:こんな探偵みたいなこと、したくはなかったんですけど。
先生:気になると夜眠れなくなるんですよ。
先生:寝付きが悪いっていうか、
先生:本当に、一睡もできないんです。
先生:気が小さいっていうか、デリケートっていうか。
先生:ああ~。緊張した~!」
先生:
N:見れば、白い額にびっしりと玉の汗をかいている。
N:その様子が思いの外かわいかったので、
N:女はついついからかってみたくなった。
N:
ママ:「お客さん。酔いたいっておっしゃってたわよね?」
ママ:
先生:「それは…つい口から出まかせで。」
先生:
ママ:「せっかくだから、飲み比べしない?
ママ:あなたが勝ったら、ここにその子のお母さんが勤めてるか、
ママ:教えてあげなくもないわよ?」
ママ:
先生:「本当ですか!?」
先生:
ママ:「うふふ…さあ、嵐はこれからよ?」
ママ:
ママ:
0:
先生:「(テキーラを飲み干して)っかー!!」
先生:
N:何杯目のテキーラを飲み干した頃だろうか。
N:男の目が据わってきた。
N:テーブルにはライムの山が出来上がりつつあるというのに、
N:二人とも酔いがまわっていることにまったく気付いていなかった。
N:
N:
先生:「(酔った口調で)あのねえ。あのさあ。
先生:…なんかやっぱりぼく、おかしいんですかね??」
先生:
N:男の目元がわずかに紅く染まり、より一層幼く見せた。
N:
ママ:「あんた、いける口ねえ…。おかしいって、なにがよ?」
ママ:
先生:「だってさ…。正直言うと、その子のお母さん、見たことあるんですよ。」
先生:
ママ:「ああ。さっきの。マッチの子ね。」
ママ:
先生:「そうそう。マッチのお母さん。なんで覚えてるかっていうとね…。」
先生:
ママ:「あー!わかった。
ママ:その子のお母さんが、べっぴんだったから、
ママ:それで目つけてたんでしょ?
ママ:いやらしい~。うふふふふ」
ママ:
先生:「いやらしいって、なんですか!失礼ですよー!
先生:確かに。確かに、きれいだったのは認めますよ?
先生:だけど、そこまで、考えてないですよ!
先生:…だいたい、ぼくのようなもの、相手にされるわけないし…。」
先生:
ママ:「こりゃあ、かなり先まで、考えてますな笑」
ママ:
先生:「考えてませんって!だって、いきなり高校生の父親になるようなこと…」
先生:
ママ:「あはははは!ばーか。それが考えすぎなんだって。
ママ:面白い人ねえ、あんた。」
ママ:
先生:「だけど、本当にこんなところで働くような人には見えな…あ。」
先生:
ママ:「あ、じゃないわよ。あ、ってなによ?」
ママ:
先生:「いや、すいません…。」
先生:
ママ:「失礼しちゃうわ~。
ママ:悪かったわね、『こんなところ』で働いてて。」
ママ:
先生:「あーいや!ママはママで、かわいらしいし、美人さんだと思いますよ?」
先生:
ママ:「…ふうん。さてはあんた、惚れてんだ?その人に?」
ママ:
先生:「惚れてるかって聞かれると…」
先生:
ママ:「どうなのよ~??」
ママ:
先生:「さ、ママの番ですよ!くいっと行ってください!
先生:いっちゃってください!」
先生:
ママ:「(テキーラを飲み干して)っかー!!」
ママ:
先生:「ふふ…ふふふふふ。」
先生:
ママ:「なによ、気持ち悪い笑い方して。」
ママ:
先生:「っかー!!って、言いますよね。テキーラだもん。普通。」
先生:
ママ:「はしたないって言いたいの?」
ママ:
先生:「そうじゃなくて。
先生:…その人も、こういうとき、っかー!!って言うのかなあって。
先生:ちょっと思っただけです。
先生:なんか、つらそうに顔をしかめて、ぐっと黙ってるんじゃないかなあ…なんて。」
先生:
ママ:「…へえ。惚れてんだ?やっぱ。」
ママ:
先生:「いや、全然、知らないですよ?
先生:なんとなく、あるじゃないですか、イメージですよ!
先生:ぼくの勝手な、思い込みっていうか。」
先生:
ママ:「そういう、ちょっと控えめで、ちょっと押したら倒れそうな女がいいんだ?」
ママ:
先生:「…だめ?ですか…?」
先生:
ママ:「張り合いないじゃない!それでも女なのって言いたくなるわ。」
ママ:
先生:「女性に夢を見る年でもないんですけどね…。
先生:声に出してしまったら、こんな淡い想い、終わるんじゃないかって…。
先生:だから、誰にも話せなかったんです。」
先生:
ママ:「だったら、なんでわたしに話してくれたの?」
ママ:
先生:「ママはさ、なんだか泡(あぶく)みたいにふわふわしてるじゃないか。」
先生:
ママ:「あら、それって褒めてるの?」
ママ:
先生:「世の中の穢れや、面倒なしがらみとは無縁っていうか。
先生:そりゃ、この世界にも苦労はあると思いますよ?
先生:だけどさ、そういうのは表に出さずに、いっときの美しい夢をみせてくれる。
先生:夢うつつに、色恋ごとの相談くらい、聞いてくれてもいいじゃないか。」
先生:
ママ:「うふふ…夢うつつに生きるか。あんたにそう見えるなら、
ママ:わたしもまだまだ捨てたもんじゃないってことね?」
ママ:
先生:「さ、もう一杯!ぐいっといってくださいよ!」
先生:
ママ:「ちょっと、先生飲んでないじゃない!だめよ、順番なんだから!」
ママ:
先生:「あはははは!ぼくはだめ!もう飲めませんって!」
先生:
ママ:「うふふふふ!まだまだ~!」
ママ:
0:(笑い声が響く)
0:
N:結局、その日は二人して酔い潰れて、勝負は有耶無耶に終わった。
N:店のソファで一寝入りして、女が目を覚ますと、
N:なにもかも夢の中の出来事のように思えた。
N:あの生真面目な先生は今頃、「二度と酒なんか飲まない」なんて、
N:儚い誓いを立てているに違いない。
N:そんなことを思って、熱っぽい身体を引きずりながら、女は家路につくのだった。
0:
N:女は、通り名をあけみといった。
N:彼女の住むアパートは、汚水の流れる大きな川を越えて、
N:繁華街のはずれにあった。
N:この廃れた工業地帯に越してきて、何度目の冬を迎えるだろう。
0:
N:寂れた商店街の入り口にある、古い不動産屋のドアを開けたのは、
N:いつのことだったか。、
N:おそろしく青い顔をした営業担当に、
N:生気のない声をかけてもらったのをあけみはいまでも覚えている。
N:しばらく人と話をしていなかった彼女には、
N:口数の少ないその青年は、ちょうどよかったのかもしれない。
0:
N:案内された物件は、どこも間取りが同じで、
N:湿気が多く、必ずどこからか野焼きの煙の匂いがした。
0:
N:まあいいか。
N:とりあえずの借りぐらしだ。
N:そうあけみは自分に言い聞かせた。
N:諦めにも似た心情で季節をやり過ごしてきた彼女を、人生につなぎ止めていたのは、
N:意外にもこの土地の風土だった。
0:
N:アパートの裏窓を開けると、やせた土地に、わずかばかりの畑があって、
N:いつも初老の男性が、苗を持ってきたり、肥料をやったり、
N:細々とよく世話をしていた。
N:そのおかげか、夏になると、背の高いトウモロコシが茂って、
N:秋には芋のつるが地面を覆った。
N:古いレコードを聴きながら、窓辺に腰掛けてその様子を眺めるのは、
N:あけみの密かな楽しみになっていた。
0:
N:厳しい冬が訪れる頃、男性にどことなく似たおばあさんが、
N:通りすがりにあけみを呼び止めて、白菜を山のようにくれたりした。
N:それ以来、畑のおじさんを知り合いとして意識するようになったのだが、
N:おじさんは、いつも目をそらしたまま知らんぷりなのだ。
N:つかず離れずの人間関係。
0:
N:それは、彼女をひとりぼっちにしなかったが、
N:同時に孤独という害悪を逆説的にじわじわと教えてくれているようだった。
N:
0:
0:
0:
シジマ:「おはようございます~。」
シジマ:
N:しばらく風邪で休んでいたシジマが、
N:スッキリした顔で出勤してきたのは、次の日の夕方だった。
N:
ママ:「おはよう…。早いのね。」
ママ:
シジマ:「どうしたのママ、そんな青い顔して。」
シジマ:
ママ:「んー。ちょっとね。昨日飲み過ぎただけよ。」
ママ:
シジマ:「あら、珍しい。」
シジマ:
ママ:「ふふふ、案外、いい男だったものだからさ。」
ママ:
シジマ:「またまた。男前には容赦ないくせに。」
シジマ:
ママ:「容赦なく挑んだ結果が、これよ。」
ママ:
N:今更ながら、酔い覚ましと鎮痛剤を水で一緒に流し込む。
N:
シジマ:「へえ~。強かったのね、そのお客さん。なんて人?
シジマ:まさか、またあの『くま先生』のお仲間じゃないでしょうね?」
シジマ:
N:『くま先生』というのは、最近顔を出すようになった弁護士の先生で、
N:ここらでは女遊びで聞こえた手練れだ。
N:あけみの店でも、もっぱらシジマを口説こうとしつこかった。
N:
ママ:「ううん。学校の先生だって。」
ママ:
シジマ:「…先生?」
シジマ:
ママ:「そういえば、だれか、探してたわね。…。
ママ:うちの店で、高台の県立高校に通ってる子がいるなんて、
ママ:聞かないわよね?」
ママ:
シジマ:「西高(にしこう)のこと?」
シジマ:
ママ:「子どもがうちのマッチを学校に持ってったんですって。
ママ:どこで手に入れたか知らないけど、マッチくらいで大騒ぎして。
ママ:うふふ。ばかみたいでしょ?」
ママ:
シジマ:「ああ…。そうね…。」
シジマ:
ママ:「あんたのとこのカサネちゃん、女子高行ったんだったわね?
ママ:あの子も年頃になったでしょ。
ママ:元気にしてるの?」
ママ:
シジマ:「マッチの件で、わざわざ先生がここに出向いたの?」
シジマ:
N:シジマの様子がおかしいので、あけみはグラスを磨く手を止めた。
N:
ママ:「あんた、なにか心当たりでもあるの?」
ママ:
シジマ:「べつに。
シジマ:ただね、…悪い仲間に交じって、たばこ吸ってるのよ。
シジマ:カサネのやつ。」
シジマ:
ママ:「寮に入ったんじゃなかったの?」
ママ:
シジマ:「あそこは…性に合わなかったみたいで、辞めちゃったの。
シジマ:いまは、バイトしながら、西高の夜学(やがく)に通ってるわ。」
シジマ:
ママ:「まあ…、そうだったの。あんたも苦労するわね。
ママ:…大丈夫よ。心配しないで。わたし、なにもしゃべってないから。」
ママ:
シジマ:「本当?わたしがここに勤めてるって、言わなかったの?」
シジマ:
ママ:「言うわけないでしょ。
ママ:シジマちゃん、もしかしてその先生と、知り合いなの?」
ママ:
シジマ:「知り合いというか…。
シジマ:一度、カサネの進路のことで、呼び出されたことがあったのよ。
シジマ:そのときの先生かなって…。」
シジマ:
ママ:「木原…とかいったっけ。三十過ぎの、まだ若そうな先生だったけど?」
ママ:
シジマ:「わたし、もっとカサネに寄り添ってあげてって言われて…。
シジマ:とっさに、スーパーの仕事が忙しいって言っちゃったの。」
シジマ:
ママ:「スーパーの仕事?」
ママ:
シジマ:「だって、まさか夜な夜な出歩いてるなんて、言えないじゃない?
シジマ:こういう仕事してるって知ったら、
シジマ:変に同情されそうで、いやだったのよ。」
シジマ:
ママ:「なるほどねえ…。」
ママ:
シジマ:「ねえ、ママ、その人、また来るかしら…。」
シジマ:
N:上目遣いにあけみを見るシジマの頬は、かすかに上気しているようだ。
N:
ママ:「さあね。こんなところに入り浸るような男には見えなかったけど。」
ママ:
シジマ:「そっか。じゃあ、心配しなくて、いいわよね。」
シジマ:
N:言葉とはうらはらに、明らかに肩を落としている。
N:
ママ:「(大声で)残念ねえ!わたし、ああいうの、タイプだったのになあ!」
ママ:
シジマ:「もう、ママったら、意地悪ね!」
シジマ:
N:シジマは、真っ赤になりながら手にしたハンカチであけみをぶった。
N:
0:
N:それから、ほどなくして、男は店の常連となった。
N:あけみが知り合いを通じて、連絡をつけたのだ。
N:『テキーラ先生』というのが、店での男の呼び名だった。
N:思えば、シジマも男を絶って久しい。
N:ここはひとつ、ふたりの恋の行方を見届けようとあけみが配慮したのだ。
N:最初こそ、気まずそうに会釈(えしゃく)をしていたふたりだが、
N:いつしか、グラスを交わすようになり、
N:日が経つにつれ親しくなった様子で、
N:月が変わる頃にはカウンターへ移動し、
N:なにやら内緒話をしては、クスクス笑い合うまでになった。
N:
0:
シジマ:「ねえ、ママ。堅気(かたぎ)の男ってどう思う?」
シジマ:
N:ある夜、店じまいをするあけみの対面に座って、
N:シジマは手持ち無沙汰にウイスキーを傾けていた。
N:
ママ:「なによー?藪(やぶ)から棒に。」
ママ:
シジマ:「ううん。やっぱりなんでもない。」
シジマ:
ママ:「うふふ、変な子ね。」
ママ:
シジマ:「ママでも、堅気の男に惚れること、あるのかな~なんて。」
シジマ:
ママ:「そうねえ…。惚れた腫れたの話じゃないけど、
ママ:わたしだって雪が降りゃ人肌恋しくなって、
ママ:つい、どこぞの男にふらふらっと傾くことも…。
ママ:なんてね、あはは、冗談冗談。」
ママ:
シジマ:「そういう…その…行きずりの恋とかじゃなくてさ。
シジマ:ママは、本気で…愛した男はいなかったの?」
シジマ:
ママ:「ばかね。この年まで、愛した男もいないなんて、そんな寂しい女にみえる?」
ママ:
シジマ:「へえ~。やっぱり、いい人いたんだ?
シジマ:どうしてママは一緒にならなかったの?」
シジマ:
ママ:「どうしてって…。
ママ:そういう星のもとに生まれなかったんでしょうよ。」
ママ:
シジマ:「それって、ママがいくつくらいのときの話?」
シジマ:
ママ:「なあに?やけに今日は根掘り葉掘り聞いてくるじゃない?」
ママ:
シジマ:「いや、べつに…ちょっと、飲み過ぎたのかな。あはは」
シジマ:
ママ:「いつもはすぐ帰っちゃうあんたが、珍しいこともあるもんね。」
ママ:
シジマ:「ねえ、ママ。ママは、どういうときに、人を好きになるの?」
シジマ:
ママ:「そうねえ…。
ママ:だれかのために、涙をぐっとこらえてるところを見たときかな。
ママ:あたし、男の弱さを見せられると、くらっときちゃうのよね~。」
ママ:
シジマ:「へえ。そのひと…。ママのために泣いてくれたんだ?」
シジマ:
ママ:「うふふふふ。大昔の話よ!」
ママ:
シジマ:「男の涙…か。」
シジマ:
ママ:「あんた、いい人でもできた?」
ママ:
シジマ:「まさか、やめてよ!うちは、母一人子一人。
シジマ:そんな余裕なんかありゃしませんよー。」
シジマ:
ママ:「あら。でも、もうカサネちゃんも来年卒業でしょ?」
ママ:
シジマ:「まだまだ尻の青いガキんちょよ。
シジマ:背丈ばかりでかくなりやがって、女らしさのかけらもないんだから。」
シジマ:
ママ:「へえ~。
ママ:昔はよく、ここにも遊びに来て、
ママ:ミラーボールがくるくる回るのを眩しそうに眺めていたっけ。
ママ:あんたの口紅べったり塗ってさ…。
ママ:女の子っていいなあって思ったわ。」
ママ:
シジマ:「そんな時期もあったかしらね。
シジマ:最近じゃ、まったく話もしてくれなくなったわよ。
シジマ:なにを考えてるのか、もう、さっぱり。」
シジマ:
ママ:「そろそろ、進路の話もしなきゃならないでしょ?」
ママ:
シジマ:「そうなのよ。そんな話になると、自分も夜の店で働こうかな、
シジマ:なんて、あてつけみたいに軽口たたくのよ。」
シジマ:
ママ:「あらあ。それは、心配ねえ。」
ママ:
シジマ:「そうかと思えば、いまの学校を卒業できるか不安みたいで、
シジマ:ときどき夜中に、荒れたりするの。」
シジマ:
ママ:「ふうん。まさに揺れ動く青春期を迎えてるわけだ。
ママ:…そうね。母親には素直に言えないこともあるかもしれないし。
ママ:わたしでよかったら、話を聞くわよ?」
ママ:
シジマ:「まあ、そうしてもらえると、助かるわあ。
シジマ:わたしとあの子じゃ、喧嘩になるだけだもの。
シジマ:今度、バイト帰りに寄りなさいって、言っておくわ。
シジマ:ごめんね、ママ、ありがとう。」
シジマ:
ママ:「そんなの、言いっこなしよ。
ママ:あぶれ者同士、助け合うしかないじゃない?」
ママ:
シジマ:「あーあ。飲み過ぎちゃった。
シジマ:たまには酔っ払ってみるのもいいもんね。」
シジマ:
N:グラスをあおったシジマの白い喉が、音もなく上下して、
N:琥珀色(こはくいろ)の波が静かに吸い込まれていく。
N:あけみは思う。
N:会ったときから静かな酒を飲む女だった。
N:空になったボトルを見つめながら苦い顔をしているが、
N:けっして酒が嫌いなわけじゃない。
N:
N:あけみはふと、嵐の夜、男の言った台詞を思い出していた。
N:
ママ:「『つらそうに顔をしかめて、ぐっと黙ってるんじゃないかな…』か。
ママ:当たってるじゃない。テキーラ先生。」
N:あけみはそっと、ひとりごちた。
N:
0:
N:そんな日々に翳りが差してきたのは、
N:町の街路樹もすっかり木の葉を落とした真冬のことだった。
N:
シジマ:「もしもし、ママ…ごめん。今日、休ませてもらえるかしら。」
シジマ:
ママ:「あら。また風邪でもぶり返したの?」
ママ:
シジマ:「ううん。そうじゃなくて。じつは、昨日からカサネが帰ってこないの。
シジマ:もしかして、ママのとこに行ってないかしら?」
シジマ:
ママ:「カサネちゃんが…?」
ママ:
シジマ:「はあ…。やっぱりそっちも行ってないのね。
シジマ:どうしよう…あの子になにかあったら、わたし…!」
シジマ:
ママ:「しっかりしなさい、泣いてる場合じゃないでしょう?
ママ:どこか、他に心当たりはないの?」
ママ:
シジマ:「中学のときの友達には全部あたったんだけど、だめだった…。」
シジマ:
ママ:「じゃあ、夜学の友達、誰か知らないの?」
ママ:
シジマ:「高校にあがってからは、
シジマ:友達って言っても年上の子たちとつるんでたみたいで。
シジマ:悪い仲間になにかされたんじゃないといいけど…。」
シジマ:
ママ:「父親のとこに行ってるなんてこと、ないわよね?」
ママ:
シジマ:「…そういえば、高校出たら、東京にでもでていくんだって…。
シジマ:まさか!」
シジマ:
ママ:「東京…?あの男、いま東京なの?」
ママ:
シジマ:「そうだ…。きっとそうよ!あの子、東京行ったんだわ!
シジマ:どうしようママ!!」
シジマ:
ママ:「あんた、今どこ?お金はあるの?」
ママ:
シジマ:「駅前の公衆電話。お金…。ちょっとなら持ってる。」
シジマ:
ママ:「お金はわたしがなんとかするから、あんたはすぐ汽車の時間調べなさい!」
ママ:
ママ:
N:電話を切ると、あけみはすぐに店のレジを開けた。
N:東京に行って、頼るあてがあるとは思えない。
N:少し多めに持たせておいたほうがよさそうだ。
N:あけみは、お札をあるだけつかみ取ると、
N:それをハンドバッグに押し込んで出て行こうとしたが、
N:裸のお金はあまりにみっともないと思い直し、
N:封筒を取りにカウンターへ引き返した。
0:
N:そのとき、店のドアが開いて、カランと音を立てた。
N:
ママ:「すいません、今日はまだ…。」
ママ:
N:言いかけて振り返ると、そこには、背の高い若い娘が決まり悪そうに立っていた。
N:
カサネ:「あけみママ…。」
カサネ:
N:俯き(うつむき)加減で上目遣いにこちらを見るその面影に、あけみはハッとさせられた。
N:化粧っ気のないその顔は、出会った頃のシジマを思い出させた。
N:それは、成長したカサネの姿だった。
N:丸かった顔はしゅっと形よく整い、母親似の気の強そうな目をしている。
N:
N:
ママ:「カサネちゃん…あんた、カサネちゃんでしょ?」
ママ:
カサネ:「へへへ…。あのさあ…。うちの母ちゃん、もう店に出てる?」
カサネ:
ママ:「よかった…!ちょうどあんたのこと、電話で聞いたとこだったのよ?」
ママ:
カサネ:「母ちゃん、カンカンだったでしょ。
カサネ:いいんだ、どうせあたしなんか、いないほうがいいんだから。」
カサネ:
ママ:「何言ってるの…?あんた、昨日帰らなかったんだって?
ママ:心配したんだよ。」
ママ:
カサネ:「ママ…。聞いてないの?」
カサネ:
ママ:「聞いたわよ。東京にいくんだって、出て行ったそうじゃない。」
ママ:
カサネ:「…東京か。そんなこと、言ったかな。」
カサネ:
ママ:「父親のとこにでも転がり込むつもりだったのかい?」
ママ:
カサネ:「ママ…。なにもわかっちゃいないね。話になんないよ。」
カサネ:
N:拗(す)ねた様子のカサネは、ぷいっと背を向けて店を出ようとした。
N:
ママ:「待ちな!」
ママ:
N:立ち止まった背中は、可哀想なほど頼りなく、寂しげだった。
N:
N:
ママ:「あたしゃ全部知ってるよ。」
ママ:
N:なんとか彼女を振り向かそうと、あけみは知ったかぶりをした。
N:
カサネ:「やっぱりね…!
カサネ:だけどあたし、あんなことになると思わなかったんだ!」
カサネ:
ママ:「物事は、思ったようにはいかないもんさ。」
ママ:
N:どこまで話を合わせたものか、思案しながら、探りを入れてみる。
N:
ママ:「それで、あんたは母ちゃんが怒ってると思って、帰らなかったのかい。」
ママ:
カサネ:「そうだよ。どんな顔して会えばいいのさ。
カサネ:親に手をあげるなんて、あたし、最低だ。」
カサネ:
N:なんとなく、事情がみえてきた。
N:
ママ:「親子げんかくらいで、なに騒いでんの。」
ママ:
カサネ:「だって…!
カサネ:ちょっと力入れたら、母ちゃん派手に倒れてちゃって、
カサネ:その拍子に、つくえに頭ぶつけて…血が流れてさ。
カサネ:怖くなったんだよ!怖くなって逃げ出したんだよ!」
カサネ:
ママ:「落ち着きなって。大丈夫。
ママ:母ちゃんも、あんたのせいじゃないってわかってるさ。」
ママ:
カサネ:「…本当?」
カサネ:
ママ:「そりゃ、わかるわよ?いやんなるわよね。
ママ:母親がこんなしけた店で働いてたら、
ママ:恥ずかしいし、いい年してなにやってんだって思うわよね。」
ママ:
カサネ:「ママ…!夜の仕事がどうって話じゃないんだよ。」
カサネ:
ママ:「だったら、いつも留守をする母親が、気に入らなかったかい?」
ママ:
カサネ:「そんなの、…もう慣れっこだよ。
カサネ:むしろ、最近はひとりで考えたいことも多いし、
カサネ:母ちゃんいないときのほうが、なんだか落ち着くっていうか。」
カサネ:
ママ:「…あんたも大人になったんだね。
ママ:だったらなんで手えあげたりなんかしたんだい。」
ママ:
カサネ:「わかんないよ!…なにも、考えられなかった!
カサネ:売り言葉に買い言葉で、殴られたから、殴り返しただけなのよ!」
カサネ:
ママ:「暴力じゃ、なにも解決しないって、さんざんわかってるだろうに。」
ママ:
カサネ:「わかってるよ。
カサネ:我に返って、泣き出す母ちゃん見たら、…自分が怖くなっちゃって。
カサネ:…うちの親父がさ。ひどい暴力ふるう人だったから。
カサネ:自分がどれだけ最低なことしたかは、わかってるつもりなんだ。」
カサネ:
ママ:「それじゃ、父ちゃんのとこに、行く気はないんだね?」
ママ:
カサネ:「ああ!行ってたまるもんか。
カサネ:母ちゃんを不幸にした男、わたしは一生許さないよ。」
カサネ:
ママ:「それを聞いて安心した。
ママ:その母ちゃんなんだけどね。
ママ:いま一番心配してるのは、なんだと思う?」
ママ:
カサネ:「…知ってるよ。男のことでしょ。
カサネ:それならあたしは別になんとも思ってないよ。
カサネ:誰だか知らないけど、いい人がいるってことくらい、気づいてるけど。」
カサネ:
ママ:「そっか…。でも、心配してるのは、あんたの将来のことだよ?」
ママ:
カサネ:「はは!そりゃそうよね。こんなこぶ付きじゃ、
カサネ:おちおち再婚も出来ないっていうんでしょ?
カサネ:だから、あたしはこんな町出て、東京に行ってやらあって言ったのよ。」
カサネ:
ママ:「それも、売り言葉に買い言葉なんでしょ?
ママ:母ちゃんね、自分の都合なんか、一言も漏らしちゃいないわよ。
ママ:本当は、あんたどうしたいんだい?」
ママ:
カサネ:「どうしたいって、そんなの思ったって、叶うもんじゃないし…。」
カサネ:
ママ:「いいから、言うだけただなんだから、言ってみな。」
ママ:
カサネ:「そりゃ…。
カサネ:出来れば…働きながらでも…看護師の学校行って、
カサネ:もう一度頑張りたいって思ってるよ。」
カサネ:
ママ:「そっか…。やっぱりちゃんと考えてんのね。」
ママ:
カサネ:「なんでかなあ…。母親の前だと、うまく言葉が出てこないっていうか。
カサネ:言葉より先に感情がほとばしって、
カサネ:こういう話、まったく出来なくなるんだ。」
カサネ:
ママ:「でもさ、ちゃんと考えてるんだったら、伝えないと。
ママ:看護学校に行くにしても、学校出て働くにしても、
ママ:母ちゃんが一番心配してるんだからね。」
ママ:
カサネ:「うん。わかってる。傷、大丈夫なのかな…。
カサネ:お店に出られないくらい、酷いの?」
カサネ:
ママ:「大丈夫、大丈夫。あんたが大丈夫なら、
ママ:母ちゃんはきっと全部大丈夫なんだよ。」
ママ:
カサネ:「へへへ…。そっかな。」
カサネ:
ママ:「あんまり心配かけるんじゃないよ。
ママ:悪い仲間に入って、道を踏み外すために、苦労して育てたわけじゃないんだからね?」
ママ:
カサネ:「あー!さては母ちゃん、タバコのことちくりやがったな?
カサネ:あれは誤解だって、あんだけ言ったのにさ。」
カサネ:
ママ:「へえ。じゃあ、あんた、どこのマッチでそのたばこに火ぃつけたのさ?」
ママ:
カサネ:「えへへ…。ばれてたか。
カサネ:だって、たばこもマッチも家に転がってるんだもん。
カサネ:母ちゃんが悪いよ。」
カサネ:
ママ:「あはは、確かに。それはそうかもしれないわね。
ママ:だけど、若い娘がたばこだなんて、みっともないだけよ?」
ママ:
カサネ:「…好きな人のたばこの味くらい、知ってみたいと思うもんでしょ?」
カサネ:
ママ:「へえ…。あんた、いっちょ前にそんなこと言うようになったの。
ママ:どこの不良に恋したんだい?」
ママ:
カサネ:「不良じゃないよ!大人なんだから、タバコくらい普通だろ?」
カサネ:
ママ:「ませたこと言いやがって。大人って言ったってどうせ大学生だろ。」
ママ:
カサネ:「ちがうよ!学校の、…先生だよ!」
カサネ:
ママ:「学校の…?へええ。教育実習に来たひよっこにでも惚れたのかい。
ママ:やめときな!ああいういい子ちゃんには、
ママ:どうせかわいい彼女がいるって相場(そうば)が決まってんだから。」
ママ:
カサネ:「先生は、実習生でもなければ、彼女だっていないもん!」
カサネ:
ママ:「いないもん!って笑 そんなこと大声で言ってどうすんの笑」
ママ:
カサネ:「えへへ…だって、先生あたしにだけ特別優しいんだよ。
カサネ:みんなを見るときとは、目つきが違うっていうか…。
カサネ:わかるでしょ?
カサネ:ママも女なら、ああ、この人、運命の人なんだって思ったとき、あるでしょ?」
カサネ:
ママ:「運命の人ねえ…。
ママ:いずれ禿げる運命の人なんだって思ったことはあるかなあ。」
ママ:
カサネ:「もう!からかわないで!あたし、真剣なんだよ?
カサネ:卒業したら、告白するって決めてるんだから!」
カサネ:
ママ:「ちなみに…、なんていう先生?
ママ:評判の先生なら、あたしも知ってるかな。」
ママ:
カサネ:「木原先生!英語が上手くて、大学のとき、留学経験もあるんだって。
カサネ:それに、うちみたいな夜学でも、熱心に相談に乗ってくれるんだ。」
カサネ:
ママ:「へえ。そっか…。ふうん。木原先生ね。
ママ:あはは、聞いたことないわ。やっぱりママ、堅気には縁が無いわね。」
ママ:
カサネ:「ねえ、ママ。またここに来ても、いい?」
カサネ:
ママ:「…。」
ママ:
カサネ:「あたし、初めて話したの。看護学校のことも、好きな人のことも。
カサネ:わたしこんなだから、学校でも浮いちゃっててさ。
カサネ:うまくみんなに混ざれないんだ。」
カサネ:
ママ:「だめだよ。」
ママ:
カサネ:「どうして…?」
カサネ:
ママ:「あんたももう子どもじゃないんだからわかるでしょ?
ママ:こんな歓楽街に若い娘が出入りしてたら、よくない噂になる。
ママ:あんたみたいな器量よしなら、なおさらだよ。」
ママ:
カサネ:「そんなのうそだ!母ちゃんは十六からこの商売やってるけど、
カサネ:ちっとも悪い噂なんか立ってないもん!」
カサネ:
ママ:「わからない子だね!
ママ:がきんちょの遊びに付き合ってたら、商売の邪魔なのよ!」
ママ:
カサネ:「そっか…。やっぱりわたし、邪魔なんだね…。
カサネ:もういい!二度とこんな場所来ないわよ!
カサネ:さよなら!」
カサネ:
カサネ:
N:階段を駆け下りていく足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
N:あけみは、今更ながら、自分が情けなくなった。
N:むしゃくしゃするので、タバコでも吸おうとハンドバッグを開けると、
N:シジマに届けるはずだった札束が目にとまった。
N:
N:
シジマ:「ママ…。そんなだから、商売もうまくいかないのよ。」
シジマ:
N:驚いて顔を上げると、開(ひら)いたままの扉の裏から、
N:シジマが姿をみせるところだった。
N:目の上に貼った大きな絆創膏(ばんそうこう)には、わずかに血がにじんでいる。
N:
ママ:「シジマ…。あんた、駅にいたんじゃないの。」
ママ:
シジマ:「汽車の時間までずいぶんあったから、じっとしていられなくて。
シジマ:ママのとこにお金借りに来たの。
シジマ:そしたら、あの子が入っていくじゃない。
シジマ:こんな顔でしょ?…声をかけそびれちゃった。」
シジマ:
N:細い肩が小さく小刻みに揺れて、笑いをこらえているようにも、
N:涙をこらえているようにも見えた。
N:
ママ:「やだね、泣いてるの?」
ママ:
シジマ:「(涙ぐみながら)ううん。笑ってるの。
シジマ:だって、こんなうれしい日はないわ。
シジマ:あの子の夢が聞けるなんて。
シジマ:あの子がまた看護師になりたいって言ってくれるなんてさ。
シジマ:ママ…。ありがとう。」
シジマ:
ママ:「礼なんか言われる覚えはないね。
ママ:…あんた、まさかあの先生と切れちゃうんじゃないでしょうね?」
ママ:
シジマ:「切れるもなにも、はなっから始まっちゃいないのよ、ママ。
シジマ:早合点(はやがてん)しすぎ。」
シジマ:
ママ:「…そうかしら?」
ママ:
シジマ:「そうよ。ただ、いっとき、楽しいお友達だっただけ。
シジマ:ほんと、それだけよ。」
シジマ:
ママ:「またまた…。
ママ:あんただって、先生の気持ち、気づいてるんでしょ?」
ママ:
シジマ:「うふふ。そりゃ…女だもの。わかるわよ。」
シジマ:
ママ:「女だもの、か。あれも女。これも女。
ママ:女って、なんでこう、めんどくさいのかしらね。」
ママ:
シジマ:「ねえ、ママ。わたしが辞めるって言ったらどうする?」
シジマ:
ママ:「辞めるー?
ママ:そしたらちょっとした祝賀会でも開いてぱーっとやっちゃうわね。」
ママ:
シジマ:「なによ。いじわるね。」
シジマ:
ママ:「…辞めるなら、いい人つかまえるのよ?」
ママ:
シジマ:「わかってる。
シジマ:いい人、いるのよ?じつは。」
シジマ:
ママ:「だれよ…?」
ママ:
シジマ:「知ってるでしょ?あの太った『くま先生』。
シジマ:ずっと前からわたしに言い寄ってるの。」
シジマ:
ママ:「それは知ってるけど…。
ママ:あんなクソじじいって、あんたいつも終わってから舌出してたじゃない。」
ママ:
シジマ:「そうだったっけ。」
シジマ:
ママ:「好きでもない男と一緒になるほど、不幸せなことないわよ。」
ママ:
シジマ:「あら、わたし、お金大好きだもの。お金を持ってる男も大好き。」
シジマ:
ママ:「ばか言わないの。」
ママ:
シジマ:「くま先生ったらね、でっかい豪邸にひとりで住んでるんですって。
シジマ:贅沢よね~。
シジマ:逃げた奥さんが置いてった、猫と一緒に暮らしてるんだってさ。」
シジマ:
ママ:「不幸だね~。」
ママ:
シジマ:「…『ふしあわせという名の猫』か。」
シジマ:
ママ:「あら懐かしい。そんな歌もあったわね。」
ママ:
シジマ:「ふしあわせという名の猫はね…いつもそばにぴったり寄り添ってるの。
シジマ:だから、女はけっしてひとりぼっちじゃないんだって。ふふ。」
シジマ:
ママ:「皮肉な歌だね。だれだっけ。」
ママ:
シジマ:「浅川マキ…。」
シジマ:
ママ:「そんなレコード、捨てちまいな。」
ママ:
シジマ:「ふふふ…。いい歌うたうんだもん。参っちゃうわよね。」
シジマ:
N:そう言うと、シジマはそっとあけみの肩にもたれかかり、
N:猫のように寄り添うのだった。
N:彼女の身体は冷え切っていて、あけみが両手でさすってやると、
N:大きなため息をついた。
0:
0:
0:
N:それからしばらくして、男はぱったりと店に来なくなった。
N:ふたりの間になにがあったか、おおよその想像はつく。
N:年が明けて、2月。
N:夜半過ぎから降り出した雨に、街は静まりかえっていた。
N:あけみが早々に店じまいをしてシャッターを下ろしていると、
N:人通りの途絶えた道に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
N:
ママ:「あんた…。待って!先生だろ?テキーラ先生じゃないかい?」
ママ:
先生:「ママ…。」
先生:
ママ:「びっくりした!びしょ濡れじゃないの!
ママ:なにやってんのよ、風邪ひくわよ。
ママ:ちょっと入って飲んでいけばいいじゃない。
ママ:もういま、だれもいないから。」
ママ:
先生:「ごめん、ママ。
先生:いいんだ、こんな野良犬みたいな男、ほっときゃいいんだよ!」
先生:
ママ:「…ほっとけないわよ。」
ママ:
先生:「情けないだろ。気づいたらふらっとこの道を行ったり来たりしてさ。
先生:はは…笑。
先生:おれ、たぶん、頭おかしいんだ。おかしいんだよ…!」
先生:
N:ほとんど泣き崩れるようにして、男はあけみに身体ごと預けてきた。
N:
先生:「ごめんママ。こんなおかしな男、蹴っ飛ばしてくれよ!」
先生:
N:振り絞る様な声を聞いて、
N:あけみは熱い身体を背広の上からそっと抱きしめる。
N:ああ、この人も、ちゃんと男だったんだ。
N:あけみはなんだか、ほっとして、小さく微笑んだ。
N:
先生:「蹴っ飛ばしてくれって…言ってんだよ!」
先生:
ママ:「わかったわかった。よーくわかったよ。」
ママ:
先生:「優しくなんか、しないでくれ!
先生:おれはね、なにが本当か、もうなにもかも、わかんないよ…。
先生:女なんか、何考えてんのか、さっぱりだ!」
先生:
ママ:「なんにも考えちゃいないのよ。
ママ:風がふくまま、揺れてるだけ。
ママ:だって、あたしたち、ただの泡(あぶく)みたいなもんだもの。」
ママ:
先生:「…触れたそばから、壊れちまうんだもんな。
先生:男は、指くわえて見てるしかできないのかよ。」
先生:
ママ:「せめて、いい風に乗れるように、祈ってて。
ママ:あぶくにだって、夢くらいあるんだから。」
ママ:
先生:「ああ…。嵐に乗って、どこまでも飛んでいきゃいいさ!」
先生:
N:最後は吐き捨てるように言って、あけみの手をすり抜けると、
N:男は夜の帳(とばり)の中へ消えていった。
N:みぞれ混じりの冷たい雨が季節はずれの雪に変わっていくのを、
N:あけみは呆然とみているしか出来なかった。
N:
0:
0:
0:
シジマ:「さあ~!今夜からは、春の歌謡曲、強化月間!
シジマ:みんな、張り切って唄いましょう~!」
シジマ:
ママ:「は~い!一番、森山加代子、『白い蝶のサンバ』、歌いま~す!」
ママ:
N:季節は過ぎ去っても、相も変わらず集まるメンツは、悲しくなるほど陽気だ。
N:ただ、変わったことといえば、シジマが目に見えてしぶとくなったことだ。
N:以前は飲めなかったきつい酒を、きんきんに冷やして飲み干すと、
N:「っかー!!」っと焼ける喉から絞り出すような声を出す。
N:ああ、こうして夜の女の喉は枯れていくんだな。
N:あけみはそれを横目で見ながら、手を叩く。
N:
ママ:「さあ。お次はシジマちゃんの十八番(おはこ)、
ママ:浅川マキで『こころ隠して』!
ママ:いっちゃいましょう~!」
ママ:
N:今夜も、シジマは、しゃがれた声を振り絞って、悲しい歌を唄うのだった。
N:
0:
シジマ:「じゃあね~。木島さん。気をつけて帰るのよ~!
シジマ:どっかで浮気でもしたら、許さないんだからね〜!」
シジマ:
N:いつものメンバーが名残惜しそうに店をあとにすると、
N:後ろ姿に、投げキッスをするシジマがいる。
N:
ママ:「あのさあ…。あんたいつから『くま先生』のこと、
ママ:『木島さん』なんて呼ぶようになった?」
ママ:
シジマ:「さあね。『先生』ってツラじゃないからかしら。」
シジマ:
N:投げやりにそう言うと、閉店と同時に煌々と明かりの点いた店内へ、
N:あくびをしながら入っていく。
N:そう、ネオンの下でしか生きられない女。
N:わたしだって同じか。
N:あけみが空を見上げると、
N:淡い太陽の光が東の空を照らし始めている。
N:厳しい季節が通り過ぎたのだ。
N:
シジマ:「あけみママ~!早く扉閉めて?花びら、入り込んじゃうわよ。」
シジマ:
ママ:「はいはい~。
ママ:シジマちゃん、最近わたしにあたり強くない?」
ママ:
シジマ:「ふふふふ。ばれた?」
シジマ:
ママ:「あ、あんた、なに勝手にビール開けてるのよ?」
ママ:
シジマ:「いいじゃない、ちょっと締めに一杯!」
シジマ:
ママ:「こらー!勝手なことしないの!」
ママ:
シジマ:「べーっだ!あはははは」
シジマ:
N:ふたり、年甲斐もなく、いたずらっ子のように笑い合う。
0:
0:
N:そしてすっかり酔いも覚めた明け方、交差点でタクシーに乗り込む頃、
N:スーツを着たサラリーマンがカバンを斜めに背負って、
N:あけみの目の前を自転車で通り過ぎていく。
N:だけどもう、それは誰かとオーバーラップすることはない。
N:
N:先日、あけみのもとに、手紙が届いたのだ。
N:
0:
0:
0:
先生:「拝啓、あけみママ。
先生:あちらこちらで桜吹雪が舞い散る季節になりました。
先生:思えば、ママに出会った夜も、別れた夜も、雨でしたね。
先生:一雨ごとに、季節は春に近づいているなんて、
先生:あの頃の自分には想像もできませんでした。
先生:
先生:とくに最後の夜は、凍てつくような寒さで、
先生:まさか自分に未来があるなんてことも、
先生:ましてや花咲く季節がやってくるなんてことも、信じられませんでした。
先生:
先生:卒業式の日、ぼくはある生徒から、恋文をもらいました。
先生:教師生活、いや、ぼくの全人生を振り返っても、
先生:これほど驚いたことはありません。
先生:そして、ときに優しい嘘があること、
先生:残酷な優しさがあることを思い知らされました。
先生:
先生:ぼくはなんて浅はかだったのでしょう。
先生:自分の未熟さに、教師としても、男としても、恥ずかしさでいっぱいです。
先生:その後、皆さんはお元気でおられるでしょうか。
先生:ぼくは、春から北部に転任が決まり、心機一転、やり直すつもりです。
先生:いつかぼくが訪ねていくようなことがあったら、また笑顔で迎えてくれますよね。
先生:これから夏にかけて、遠い北の空から、あなたへのそよ風を送り続けています。
先生:
先生:テキーラ先生こと、木原司(きはらつかさ)。」
先生:
0:
0:
シジマ:「ねえ、ママ。今日はママんとこ、泊まってっていい?」
シジマ:
N:閉まるタクシーの扉を押し開けて、
N:店の前で別れたはずのシジマが、後部座席に乗り込んくる。
N:
シジマ:「だめ、かな?」
シジマ:
N:あけみのアパートに誰かが訪ねて来るのは、はじめてのことだった。
N:内心をさとられまいと、あけみは前を向いたままぶっきらぼうに答える。
N:
ママ:「…。いいわよ。ちょうど、お野菜もらったとこなの。
ママ:鍋にしましょっか。」
ママ:
シジマ:「もらった?怪しいなあ。どこのだれにもらったのさ?」
シジマ:
ママ:「内緒。」
ママ:
シジマ:「ええー!なによそれ!」
シジマ:
ママ:「じゃああんたも、先生の話、聞かせなさいよね?」
ママ:
シジマ:「…野暮よ!」
シジマ:
ママ:「そゆこと!野暮はやめときましょ、お互いに。」
ママ:
シジマ:「ママったら。ずるいんだから!」
シジマ:
N:タクシーを降りると、眩しい朝日の中、ふたりして日影を踏みながら歩いていく。
N:それは、薄幸を選(よ)り好みして進んでいく、夜の女の道だ。
N:通りすがりの他人が振り返るのもかまわず、高いヒールを響かせて歩く。
N:裏の畑に通りかかったとき、そこにはいつものおじさんが、早くから水やりに出ていた。
N:
ママ:「お…おはようございまーす!」
ママ:
N:あけみが思い切って、大きな声で挨拶をすると、
N:おじさんははにかんだ笑顔で、ちょっとだけうなずいてみせた。
N:
シジマ:「ねえ。いまの、だあれ?」
シジマ:
N:シジマが、不思議そうな顔で聞いてくるのを背中で聞き流す。
N:
シジマ:「ねえ、あのおじさん、だれだったのよお!教えてくれてもいいじゃない。」
シジマ:
ママ:「いいの!あんたは黙って野菜でも食べてなさい!」
ママ:
シジマ:「野菜だけー?お肉もあるんでしょう?わたし、お肉がいいわあ。」
シジマ:
N:今日も、終わらない夜を、女たちは夢うつつに生きていく。
N:裏窓を開ければ、また野焼きの匂いがしてくるだろうか。
N:あけみは、その薫りが染みついた自分自身を、いまならちょっとは誇れるような気がした。
0:スナックあけみ~こころ隠して~ 作 荒木アキラ
0:
0:【登場人物】
0:
ママ:スナックあけみのママ。
ママ:
先生:夜の街とは縁遠い、生真面目な男。高校の先生。
先生:
シジマ:スナックあけみで働くホステス。
シジマ:
カサネ:シジマの一人娘。夜学の高校に通う。
カサネ:
N:ナレーション
N:
0:
0:
0:
0:=================
0:
N:宵の口(よいのくち)から降り始めた村雨(むらさめ)が、
N:深夜すぎに嵐に変わった。
N:その晩、7杯目の濃いジンライムを飲み干して、女が笑い終わると、
N:またいつもの虚無感が襲ってきた。
N:女はひとりカウンターに戻って、自分の巣くってる小さな城をながめてみる。
N:窓際にボックス席がふたつ、カウンターに7つのスツールがおさまる、狭いスナックだ。
N:男と女がそれぞれに寄り添って、笑いさざめいてはいるけれど、
N:明日には忘れるぬくもりを、いっとき手にしているにすぎない。
N:そうして女が冷めた目で店内を見渡していると、カランと入り口のベルが鳴って、
N:一人の男が入ってきた。
N:
ママ:「いらっしゃい。」
ママ:
先生:「お邪魔…します…。」
先生:
N:スーツに、斜めがけのショルダーバッグが、
N:なんだか、ちぐはぐな印象を与えて、
N:あれ、これってどこかで見たことあるんだけどな、
N:と女は笑いかけるのをためらった。
N:
ママ:「お客さん。何か飲みます?」
ママ:
先生:「…ウイスキー、水割りで。」
先生:
N:目線がせわしなく店内を探索する。
N:なんのことはない。
N:男は、慣れない店に入って緊張しているのだ。
N:
ママ:「氷は?」
ママ:
先生:「いや…やっぱり、ダブルで。」
先生:
ママ:「っふ、あはは!
ママ:お客さん、酔いたいの、酔いたくないの、どっちよ?」
ママ:
ママ:
N:男は、決まり悪そうに、雨で濡れた髪をかきあげる。
N:何度も、何度も。
N:それが、一生懸命背伸びしているようで、妙に初々しく女の目に映った。
N:
N:
先生:「…酔いたいです。」
先生:
ママ:「よしわかった。あたしが今夜は、とことん付き合ってあげる。」
ママ:
先生:「は…?」
先生:
ママ:「この嵐だもの。もうどこも空いてやしないわよ?」
ママ:
先生:「ああ、なるほど…、いや、はははは。これは、恐縮です。」
先生:
N:見たところ、三十路は過ぎた様子だったが、
N:ネンネというわけでもなさそうなのに、
N:不思議と性別を置いてきたような、そんな欲望の外側にいるような男だった。
N:
ママ:「ねえ、ぼうや。」
ママ:
先生:「ぼうやはやめてください。」
先生:
ママ:「じゃあ、なんて呼べばいい?お兄さんでいいかしら?」
ママ:
先生:「あの…ぼくいま名刺、持ってなくて。」
先生:
N:言いながら、ポケットをまさぐる姿は本当に申し訳なさそうで、
N:女はすぐにその手を払いのけて言った。
N:
ママ:「ここはね、昼間のオフィス街じゃないの。
ママ:紙切れ一枚で用が足りるなら、帰ったほうがいいわよ?」
ママ:
先生:「オフィス…か。参ったな。
先生:わたしは、いや、ぼくは、高校で英語を教えていまして。
先生:木原(きはら)と申します。」
先生:
ママ:「へえ…。なるほどね。」
ママ:
先生:「そこの…ほら、高台にある県立高校ですよ。」
先生:
N:なんとなく男に抱いた既視感(きしかん)が、すうっとひとつの姿になって女の脳裏に思い浮かんだ。
N:スーツを着た外国人だ。
N:いかにも、通勤用の自転車にまたがって、颯爽(さっそう)と日の光のもとを走ってそうなのだ。
N:酔っ払って朝帰りした帰り道、交差点ですれ違う、「異なる世界の人」。
N:男はまさに、夜の世界に迷い込んだ、異邦人だった。
N:
ママ:「学校の先生が、こんないかがわしい店に、出入りしてもいいのかしら?」
ママ:
先生:「…やっぱり、ここはいかがわしいお店なんですか!?」
先生:
N:ほんの冗談が口をついて出ただけなのに、ただ事ではなさそうな男の様子に、
N:女は少し面食らう。
N:
先生:「じつは…じつは、これ。見てもらえますか。
先生:…ここのお店のものですよね?」
先生:
N:男は斜めがけのバッグをまさぐると、
N:証拠物件のようにビニール袋に入れられた、
N:スナックあけみのマッチを出してきた。
N:
先生:「ほら、このカウンターにあるのと一緒だ!ね?そうでしょう?」
先生:
ママ:「っふ、あはははは!
ママ:なにそれ。どうしたの。
ママ:あなた、先生なんでしょ?
ママ:同時におまわりさんでもやってらっしゃるの?」
ママ:
N:笑い飛ばしながら、これがどんな話に結びつくのか、女は頭をひねった。
N:
先生:「これをね、うちの生徒が持ってたんですよ。
先生:たばこと一緒に。
先生:問い詰めたら、自分の親のものを持ってきたと言うんですよ。」
先生:
ママ:「…それで?」
ママ:
先生:「絶対にうそですよね、そんなの。」
先生:
ママ:「あら、どうして?
ママ:うちは、高校生のお子さんのいらっしゃる、
ママ:40代、50代の男性だって、
ママ:たくさん出入りしてますよ?」
ママ:
先生:「だって、その子。
先生:じつは…。母子家庭なんです。」
先生:
N:ちょっと声を抑えてつぶやくと、男の瞳は、疚(やま)しそうに下を向いた。
N:なにが言いたいかは一目瞭然だ。
N:
ママ:「ここに、その子の母親が勤めているんじゃないかって?」
ママ:
N:女は、あきれたように、深い息をついた。
N:
ママ:「…そうだとして、あなたに教える義理はないですけどね。
ママ:上の者と話がしたいっておっしゃるなら、
ママ:それなりの人をご紹介しますけど?
ママ:…意味はおわかりですね。」
ママ:
先生:「…ぼくのような人間が、
先生:口を出すべきじゃないってことですか。」
先生:
ママ:「さすが、賢いこと。飲み込みが早くて助かるわあ。」
ママ:
N:しばしの沈黙。
N:女は、少しも減っていないグラスにウイスキーをつぎ足しながら、
N:相手の様子を伺った。
N:
先生:「はあ…。
先生:やっぱりそうですよねー!?」
先生:
N:男は唐突に態度を崩して、カウンターに身を投げ出すように突っ伏した。
N:
先生:「いやー、ぼくこういうところにはまったく縁がなくて。
先生:こんな探偵みたいなこと、したくはなかったんですけど。
先生:気になると夜眠れなくなるんですよ。
先生:寝付きが悪いっていうか、
先生:本当に、一睡もできないんです。
先生:気が小さいっていうか、デリケートっていうか。
先生:ああ~。緊張した~!」
先生:
N:見れば、白い額にびっしりと玉の汗をかいている。
N:その様子が思いの外かわいかったので、
N:女はついついからかってみたくなった。
N:
ママ:「お客さん。酔いたいっておっしゃってたわよね?」
ママ:
先生:「それは…つい口から出まかせで。」
先生:
ママ:「せっかくだから、飲み比べしない?
ママ:あなたが勝ったら、ここにその子のお母さんが勤めてるか、
ママ:教えてあげなくもないわよ?」
ママ:
先生:「本当ですか!?」
先生:
ママ:「うふふ…さあ、嵐はこれからよ?」
ママ:
ママ:
0:
先生:「(テキーラを飲み干して)っかー!!」
先生:
N:何杯目のテキーラを飲み干した頃だろうか。
N:男の目が据わってきた。
N:テーブルにはライムの山が出来上がりつつあるというのに、
N:二人とも酔いがまわっていることにまったく気付いていなかった。
N:
N:
先生:「(酔った口調で)あのねえ。あのさあ。
先生:…なんかやっぱりぼく、おかしいんですかね??」
先生:
N:男の目元がわずかに紅く染まり、より一層幼く見せた。
N:
ママ:「あんた、いける口ねえ…。おかしいって、なにがよ?」
ママ:
先生:「だってさ…。正直言うと、その子のお母さん、見たことあるんですよ。」
先生:
ママ:「ああ。さっきの。マッチの子ね。」
ママ:
先生:「そうそう。マッチのお母さん。なんで覚えてるかっていうとね…。」
先生:
ママ:「あー!わかった。
ママ:その子のお母さんが、べっぴんだったから、
ママ:それで目つけてたんでしょ?
ママ:いやらしい~。うふふふふ」
ママ:
先生:「いやらしいって、なんですか!失礼ですよー!
先生:確かに。確かに、きれいだったのは認めますよ?
先生:だけど、そこまで、考えてないですよ!
先生:…だいたい、ぼくのようなもの、相手にされるわけないし…。」
先生:
ママ:「こりゃあ、かなり先まで、考えてますな笑」
ママ:
先生:「考えてませんって!だって、いきなり高校生の父親になるようなこと…」
先生:
ママ:「あはははは!ばーか。それが考えすぎなんだって。
ママ:面白い人ねえ、あんた。」
ママ:
先生:「だけど、本当にこんなところで働くような人には見えな…あ。」
先生:
ママ:「あ、じゃないわよ。あ、ってなによ?」
ママ:
先生:「いや、すいません…。」
先生:
ママ:「失礼しちゃうわ~。
ママ:悪かったわね、『こんなところ』で働いてて。」
ママ:
先生:「あーいや!ママはママで、かわいらしいし、美人さんだと思いますよ?」
先生:
ママ:「…ふうん。さてはあんた、惚れてんだ?その人に?」
ママ:
先生:「惚れてるかって聞かれると…」
先生:
ママ:「どうなのよ~??」
ママ:
先生:「さ、ママの番ですよ!くいっと行ってください!
先生:いっちゃってください!」
先生:
ママ:「(テキーラを飲み干して)っかー!!」
ママ:
先生:「ふふ…ふふふふふ。」
先生:
ママ:「なによ、気持ち悪い笑い方して。」
ママ:
先生:「っかー!!って、言いますよね。テキーラだもん。普通。」
先生:
ママ:「はしたないって言いたいの?」
ママ:
先生:「そうじゃなくて。
先生:…その人も、こういうとき、っかー!!って言うのかなあって。
先生:ちょっと思っただけです。
先生:なんか、つらそうに顔をしかめて、ぐっと黙ってるんじゃないかなあ…なんて。」
先生:
ママ:「…へえ。惚れてんだ?やっぱ。」
ママ:
先生:「いや、全然、知らないですよ?
先生:なんとなく、あるじゃないですか、イメージですよ!
先生:ぼくの勝手な、思い込みっていうか。」
先生:
ママ:「そういう、ちょっと控えめで、ちょっと押したら倒れそうな女がいいんだ?」
ママ:
先生:「…だめ?ですか…?」
先生:
ママ:「張り合いないじゃない!それでも女なのって言いたくなるわ。」
ママ:
先生:「女性に夢を見る年でもないんですけどね…。
先生:声に出してしまったら、こんな淡い想い、終わるんじゃないかって…。
先生:だから、誰にも話せなかったんです。」
先生:
ママ:「だったら、なんでわたしに話してくれたの?」
ママ:
先生:「ママはさ、なんだか泡(あぶく)みたいにふわふわしてるじゃないか。」
先生:
ママ:「あら、それって褒めてるの?」
ママ:
先生:「世の中の穢れや、面倒なしがらみとは無縁っていうか。
先生:そりゃ、この世界にも苦労はあると思いますよ?
先生:だけどさ、そういうのは表に出さずに、いっときの美しい夢をみせてくれる。
先生:夢うつつに、色恋ごとの相談くらい、聞いてくれてもいいじゃないか。」
先生:
ママ:「うふふ…夢うつつに生きるか。あんたにそう見えるなら、
ママ:わたしもまだまだ捨てたもんじゃないってことね?」
ママ:
先生:「さ、もう一杯!ぐいっといってくださいよ!」
先生:
ママ:「ちょっと、先生飲んでないじゃない!だめよ、順番なんだから!」
ママ:
先生:「あはははは!ぼくはだめ!もう飲めませんって!」
先生:
ママ:「うふふふふ!まだまだ~!」
ママ:
0:(笑い声が響く)
0:
N:結局、その日は二人して酔い潰れて、勝負は有耶無耶に終わった。
N:店のソファで一寝入りして、女が目を覚ますと、
N:なにもかも夢の中の出来事のように思えた。
N:あの生真面目な先生は今頃、「二度と酒なんか飲まない」なんて、
N:儚い誓いを立てているに違いない。
N:そんなことを思って、熱っぽい身体を引きずりながら、女は家路につくのだった。
0:
N:女は、通り名をあけみといった。
N:彼女の住むアパートは、汚水の流れる大きな川を越えて、
N:繁華街のはずれにあった。
N:この廃れた工業地帯に越してきて、何度目の冬を迎えるだろう。
0:
N:寂れた商店街の入り口にある、古い不動産屋のドアを開けたのは、
N:いつのことだったか。、
N:おそろしく青い顔をした営業担当に、
N:生気のない声をかけてもらったのをあけみはいまでも覚えている。
N:しばらく人と話をしていなかった彼女には、
N:口数の少ないその青年は、ちょうどよかったのかもしれない。
0:
N:案内された物件は、どこも間取りが同じで、
N:湿気が多く、必ずどこからか野焼きの煙の匂いがした。
0:
N:まあいいか。
N:とりあえずの借りぐらしだ。
N:そうあけみは自分に言い聞かせた。
N:諦めにも似た心情で季節をやり過ごしてきた彼女を、人生につなぎ止めていたのは、
N:意外にもこの土地の風土だった。
0:
N:アパートの裏窓を開けると、やせた土地に、わずかばかりの畑があって、
N:いつも初老の男性が、苗を持ってきたり、肥料をやったり、
N:細々とよく世話をしていた。
N:そのおかげか、夏になると、背の高いトウモロコシが茂って、
N:秋には芋のつるが地面を覆った。
N:古いレコードを聴きながら、窓辺に腰掛けてその様子を眺めるのは、
N:あけみの密かな楽しみになっていた。
0:
N:厳しい冬が訪れる頃、男性にどことなく似たおばあさんが、
N:通りすがりにあけみを呼び止めて、白菜を山のようにくれたりした。
N:それ以来、畑のおじさんを知り合いとして意識するようになったのだが、
N:おじさんは、いつも目をそらしたまま知らんぷりなのだ。
N:つかず離れずの人間関係。
0:
N:それは、彼女をひとりぼっちにしなかったが、
N:同時に孤独という害悪を逆説的にじわじわと教えてくれているようだった。
N:
0:
0:
0:
シジマ:「おはようございます~。」
シジマ:
N:しばらく風邪で休んでいたシジマが、
N:スッキリした顔で出勤してきたのは、次の日の夕方だった。
N:
ママ:「おはよう…。早いのね。」
ママ:
シジマ:「どうしたのママ、そんな青い顔して。」
シジマ:
ママ:「んー。ちょっとね。昨日飲み過ぎただけよ。」
ママ:
シジマ:「あら、珍しい。」
シジマ:
ママ:「ふふふ、案外、いい男だったものだからさ。」
ママ:
シジマ:「またまた。男前には容赦ないくせに。」
シジマ:
ママ:「容赦なく挑んだ結果が、これよ。」
ママ:
N:今更ながら、酔い覚ましと鎮痛剤を水で一緒に流し込む。
N:
シジマ:「へえ~。強かったのね、そのお客さん。なんて人?
シジマ:まさか、またあの『くま先生』のお仲間じゃないでしょうね?」
シジマ:
N:『くま先生』というのは、最近顔を出すようになった弁護士の先生で、
N:ここらでは女遊びで聞こえた手練れだ。
N:あけみの店でも、もっぱらシジマを口説こうとしつこかった。
N:
ママ:「ううん。学校の先生だって。」
ママ:
シジマ:「…先生?」
シジマ:
ママ:「そういえば、だれか、探してたわね。…。
ママ:うちの店で、高台の県立高校に通ってる子がいるなんて、
ママ:聞かないわよね?」
ママ:
シジマ:「西高(にしこう)のこと?」
シジマ:
ママ:「子どもがうちのマッチを学校に持ってったんですって。
ママ:どこで手に入れたか知らないけど、マッチくらいで大騒ぎして。
ママ:うふふ。ばかみたいでしょ?」
ママ:
シジマ:「ああ…。そうね…。」
シジマ:
ママ:「あんたのとこのカサネちゃん、女子高行ったんだったわね?
ママ:あの子も年頃になったでしょ。
ママ:元気にしてるの?」
ママ:
シジマ:「マッチの件で、わざわざ先生がここに出向いたの?」
シジマ:
N:シジマの様子がおかしいので、あけみはグラスを磨く手を止めた。
N:
ママ:「あんた、なにか心当たりでもあるの?」
ママ:
シジマ:「べつに。
シジマ:ただね、…悪い仲間に交じって、たばこ吸ってるのよ。
シジマ:カサネのやつ。」
シジマ:
ママ:「寮に入ったんじゃなかったの?」
ママ:
シジマ:「あそこは…性に合わなかったみたいで、辞めちゃったの。
シジマ:いまは、バイトしながら、西高の夜学(やがく)に通ってるわ。」
シジマ:
ママ:「まあ…、そうだったの。あんたも苦労するわね。
ママ:…大丈夫よ。心配しないで。わたし、なにもしゃべってないから。」
ママ:
シジマ:「本当?わたしがここに勤めてるって、言わなかったの?」
シジマ:
ママ:「言うわけないでしょ。
ママ:シジマちゃん、もしかしてその先生と、知り合いなの?」
ママ:
シジマ:「知り合いというか…。
シジマ:一度、カサネの進路のことで、呼び出されたことがあったのよ。
シジマ:そのときの先生かなって…。」
シジマ:
ママ:「木原…とかいったっけ。三十過ぎの、まだ若そうな先生だったけど?」
ママ:
シジマ:「わたし、もっとカサネに寄り添ってあげてって言われて…。
シジマ:とっさに、スーパーの仕事が忙しいって言っちゃったの。」
シジマ:
ママ:「スーパーの仕事?」
ママ:
シジマ:「だって、まさか夜な夜な出歩いてるなんて、言えないじゃない?
シジマ:こういう仕事してるって知ったら、
シジマ:変に同情されそうで、いやだったのよ。」
シジマ:
ママ:「なるほどねえ…。」
ママ:
シジマ:「ねえ、ママ、その人、また来るかしら…。」
シジマ:
N:上目遣いにあけみを見るシジマの頬は、かすかに上気しているようだ。
N:
ママ:「さあね。こんなところに入り浸るような男には見えなかったけど。」
ママ:
シジマ:「そっか。じゃあ、心配しなくて、いいわよね。」
シジマ:
N:言葉とはうらはらに、明らかに肩を落としている。
N:
ママ:「(大声で)残念ねえ!わたし、ああいうの、タイプだったのになあ!」
ママ:
シジマ:「もう、ママったら、意地悪ね!」
シジマ:
N:シジマは、真っ赤になりながら手にしたハンカチであけみをぶった。
N:
0:
N:それから、ほどなくして、男は店の常連となった。
N:あけみが知り合いを通じて、連絡をつけたのだ。
N:『テキーラ先生』というのが、店での男の呼び名だった。
N:思えば、シジマも男を絶って久しい。
N:ここはひとつ、ふたりの恋の行方を見届けようとあけみが配慮したのだ。
N:最初こそ、気まずそうに会釈(えしゃく)をしていたふたりだが、
N:いつしか、グラスを交わすようになり、
N:日が経つにつれ親しくなった様子で、
N:月が変わる頃にはカウンターへ移動し、
N:なにやら内緒話をしては、クスクス笑い合うまでになった。
N:
0:
シジマ:「ねえ、ママ。堅気(かたぎ)の男ってどう思う?」
シジマ:
N:ある夜、店じまいをするあけみの対面に座って、
N:シジマは手持ち無沙汰にウイスキーを傾けていた。
N:
ママ:「なによー?藪(やぶ)から棒に。」
ママ:
シジマ:「ううん。やっぱりなんでもない。」
シジマ:
ママ:「うふふ、変な子ね。」
ママ:
シジマ:「ママでも、堅気の男に惚れること、あるのかな~なんて。」
シジマ:
ママ:「そうねえ…。惚れた腫れたの話じゃないけど、
ママ:わたしだって雪が降りゃ人肌恋しくなって、
ママ:つい、どこぞの男にふらふらっと傾くことも…。
ママ:なんてね、あはは、冗談冗談。」
ママ:
シジマ:「そういう…その…行きずりの恋とかじゃなくてさ。
シジマ:ママは、本気で…愛した男はいなかったの?」
シジマ:
ママ:「ばかね。この年まで、愛した男もいないなんて、そんな寂しい女にみえる?」
ママ:
シジマ:「へえ~。やっぱり、いい人いたんだ?
シジマ:どうしてママは一緒にならなかったの?」
シジマ:
ママ:「どうしてって…。
ママ:そういう星のもとに生まれなかったんでしょうよ。」
ママ:
シジマ:「それって、ママがいくつくらいのときの話?」
シジマ:
ママ:「なあに?やけに今日は根掘り葉掘り聞いてくるじゃない?」
ママ:
シジマ:「いや、べつに…ちょっと、飲み過ぎたのかな。あはは」
シジマ:
ママ:「いつもはすぐ帰っちゃうあんたが、珍しいこともあるもんね。」
ママ:
シジマ:「ねえ、ママ。ママは、どういうときに、人を好きになるの?」
シジマ:
ママ:「そうねえ…。
ママ:だれかのために、涙をぐっとこらえてるところを見たときかな。
ママ:あたし、男の弱さを見せられると、くらっときちゃうのよね~。」
ママ:
シジマ:「へえ。そのひと…。ママのために泣いてくれたんだ?」
シジマ:
ママ:「うふふふふ。大昔の話よ!」
ママ:
シジマ:「男の涙…か。」
シジマ:
ママ:「あんた、いい人でもできた?」
ママ:
シジマ:「まさか、やめてよ!うちは、母一人子一人。
シジマ:そんな余裕なんかありゃしませんよー。」
シジマ:
ママ:「あら。でも、もうカサネちゃんも来年卒業でしょ?」
ママ:
シジマ:「まだまだ尻の青いガキんちょよ。
シジマ:背丈ばかりでかくなりやがって、女らしさのかけらもないんだから。」
シジマ:
ママ:「へえ~。
ママ:昔はよく、ここにも遊びに来て、
ママ:ミラーボールがくるくる回るのを眩しそうに眺めていたっけ。
ママ:あんたの口紅べったり塗ってさ…。
ママ:女の子っていいなあって思ったわ。」
ママ:
シジマ:「そんな時期もあったかしらね。
シジマ:最近じゃ、まったく話もしてくれなくなったわよ。
シジマ:なにを考えてるのか、もう、さっぱり。」
シジマ:
ママ:「そろそろ、進路の話もしなきゃならないでしょ?」
ママ:
シジマ:「そうなのよ。そんな話になると、自分も夜の店で働こうかな、
シジマ:なんて、あてつけみたいに軽口たたくのよ。」
シジマ:
ママ:「あらあ。それは、心配ねえ。」
ママ:
シジマ:「そうかと思えば、いまの学校を卒業できるか不安みたいで、
シジマ:ときどき夜中に、荒れたりするの。」
シジマ:
ママ:「ふうん。まさに揺れ動く青春期を迎えてるわけだ。
ママ:…そうね。母親には素直に言えないこともあるかもしれないし。
ママ:わたしでよかったら、話を聞くわよ?」
ママ:
シジマ:「まあ、そうしてもらえると、助かるわあ。
シジマ:わたしとあの子じゃ、喧嘩になるだけだもの。
シジマ:今度、バイト帰りに寄りなさいって、言っておくわ。
シジマ:ごめんね、ママ、ありがとう。」
シジマ:
ママ:「そんなの、言いっこなしよ。
ママ:あぶれ者同士、助け合うしかないじゃない?」
ママ:
シジマ:「あーあ。飲み過ぎちゃった。
シジマ:たまには酔っ払ってみるのもいいもんね。」
シジマ:
N:グラスをあおったシジマの白い喉が、音もなく上下して、
N:琥珀色(こはくいろ)の波が静かに吸い込まれていく。
N:あけみは思う。
N:会ったときから静かな酒を飲む女だった。
N:空になったボトルを見つめながら苦い顔をしているが、
N:けっして酒が嫌いなわけじゃない。
N:
N:あけみはふと、嵐の夜、男の言った台詞を思い出していた。
N:
ママ:「『つらそうに顔をしかめて、ぐっと黙ってるんじゃないかな…』か。
ママ:当たってるじゃない。テキーラ先生。」
N:あけみはそっと、ひとりごちた。
N:
0:
N:そんな日々に翳りが差してきたのは、
N:町の街路樹もすっかり木の葉を落とした真冬のことだった。
N:
シジマ:「もしもし、ママ…ごめん。今日、休ませてもらえるかしら。」
シジマ:
ママ:「あら。また風邪でもぶり返したの?」
ママ:
シジマ:「ううん。そうじゃなくて。じつは、昨日からカサネが帰ってこないの。
シジマ:もしかして、ママのとこに行ってないかしら?」
シジマ:
ママ:「カサネちゃんが…?」
ママ:
シジマ:「はあ…。やっぱりそっちも行ってないのね。
シジマ:どうしよう…あの子になにかあったら、わたし…!」
シジマ:
ママ:「しっかりしなさい、泣いてる場合じゃないでしょう?
ママ:どこか、他に心当たりはないの?」
ママ:
シジマ:「中学のときの友達には全部あたったんだけど、だめだった…。」
シジマ:
ママ:「じゃあ、夜学の友達、誰か知らないの?」
ママ:
シジマ:「高校にあがってからは、
シジマ:友達って言っても年上の子たちとつるんでたみたいで。
シジマ:悪い仲間になにかされたんじゃないといいけど…。」
シジマ:
ママ:「父親のとこに行ってるなんてこと、ないわよね?」
ママ:
シジマ:「…そういえば、高校出たら、東京にでもでていくんだって…。
シジマ:まさか!」
シジマ:
ママ:「東京…?あの男、いま東京なの?」
ママ:
シジマ:「そうだ…。きっとそうよ!あの子、東京行ったんだわ!
シジマ:どうしようママ!!」
シジマ:
ママ:「あんた、今どこ?お金はあるの?」
ママ:
シジマ:「駅前の公衆電話。お金…。ちょっとなら持ってる。」
シジマ:
ママ:「お金はわたしがなんとかするから、あんたはすぐ汽車の時間調べなさい!」
ママ:
ママ:
N:電話を切ると、あけみはすぐに店のレジを開けた。
N:東京に行って、頼るあてがあるとは思えない。
N:少し多めに持たせておいたほうがよさそうだ。
N:あけみは、お札をあるだけつかみ取ると、
N:それをハンドバッグに押し込んで出て行こうとしたが、
N:裸のお金はあまりにみっともないと思い直し、
N:封筒を取りにカウンターへ引き返した。
0:
N:そのとき、店のドアが開いて、カランと音を立てた。
N:
ママ:「すいません、今日はまだ…。」
ママ:
N:言いかけて振り返ると、そこには、背の高い若い娘が決まり悪そうに立っていた。
N:
カサネ:「あけみママ…。」
カサネ:
N:俯き(うつむき)加減で上目遣いにこちらを見るその面影に、あけみはハッとさせられた。
N:化粧っ気のないその顔は、出会った頃のシジマを思い出させた。
N:それは、成長したカサネの姿だった。
N:丸かった顔はしゅっと形よく整い、母親似の気の強そうな目をしている。
N:
N:
ママ:「カサネちゃん…あんた、カサネちゃんでしょ?」
ママ:
カサネ:「へへへ…。あのさあ…。うちの母ちゃん、もう店に出てる?」
カサネ:
ママ:「よかった…!ちょうどあんたのこと、電話で聞いたとこだったのよ?」
ママ:
カサネ:「母ちゃん、カンカンだったでしょ。
カサネ:いいんだ、どうせあたしなんか、いないほうがいいんだから。」
カサネ:
ママ:「何言ってるの…?あんた、昨日帰らなかったんだって?
ママ:心配したんだよ。」
ママ:
カサネ:「ママ…。聞いてないの?」
カサネ:
ママ:「聞いたわよ。東京にいくんだって、出て行ったそうじゃない。」
ママ:
カサネ:「…東京か。そんなこと、言ったかな。」
カサネ:
ママ:「父親のとこにでも転がり込むつもりだったのかい?」
ママ:
カサネ:「ママ…。なにもわかっちゃいないね。話になんないよ。」
カサネ:
N:拗(す)ねた様子のカサネは、ぷいっと背を向けて店を出ようとした。
N:
ママ:「待ちな!」
ママ:
N:立ち止まった背中は、可哀想なほど頼りなく、寂しげだった。
N:
N:
ママ:「あたしゃ全部知ってるよ。」
ママ:
N:なんとか彼女を振り向かそうと、あけみは知ったかぶりをした。
N:
カサネ:「やっぱりね…!
カサネ:だけどあたし、あんなことになると思わなかったんだ!」
カサネ:
ママ:「物事は、思ったようにはいかないもんさ。」
ママ:
N:どこまで話を合わせたものか、思案しながら、探りを入れてみる。
N:
ママ:「それで、あんたは母ちゃんが怒ってると思って、帰らなかったのかい。」
ママ:
カサネ:「そうだよ。どんな顔して会えばいいのさ。
カサネ:親に手をあげるなんて、あたし、最低だ。」
カサネ:
N:なんとなく、事情がみえてきた。
N:
ママ:「親子げんかくらいで、なに騒いでんの。」
ママ:
カサネ:「だって…!
カサネ:ちょっと力入れたら、母ちゃん派手に倒れてちゃって、
カサネ:その拍子に、つくえに頭ぶつけて…血が流れてさ。
カサネ:怖くなったんだよ!怖くなって逃げ出したんだよ!」
カサネ:
ママ:「落ち着きなって。大丈夫。
ママ:母ちゃんも、あんたのせいじゃないってわかってるさ。」
ママ:
カサネ:「…本当?」
カサネ:
ママ:「そりゃ、わかるわよ?いやんなるわよね。
ママ:母親がこんなしけた店で働いてたら、
ママ:恥ずかしいし、いい年してなにやってんだって思うわよね。」
ママ:
カサネ:「ママ…!夜の仕事がどうって話じゃないんだよ。」
カサネ:
ママ:「だったら、いつも留守をする母親が、気に入らなかったかい?」
ママ:
カサネ:「そんなの、…もう慣れっこだよ。
カサネ:むしろ、最近はひとりで考えたいことも多いし、
カサネ:母ちゃんいないときのほうが、なんだか落ち着くっていうか。」
カサネ:
ママ:「…あんたも大人になったんだね。
ママ:だったらなんで手えあげたりなんかしたんだい。」
ママ:
カサネ:「わかんないよ!…なにも、考えられなかった!
カサネ:売り言葉に買い言葉で、殴られたから、殴り返しただけなのよ!」
カサネ:
ママ:「暴力じゃ、なにも解決しないって、さんざんわかってるだろうに。」
ママ:
カサネ:「わかってるよ。
カサネ:我に返って、泣き出す母ちゃん見たら、…自分が怖くなっちゃって。
カサネ:…うちの親父がさ。ひどい暴力ふるう人だったから。
カサネ:自分がどれだけ最低なことしたかは、わかってるつもりなんだ。」
カサネ:
ママ:「それじゃ、父ちゃんのとこに、行く気はないんだね?」
ママ:
カサネ:「ああ!行ってたまるもんか。
カサネ:母ちゃんを不幸にした男、わたしは一生許さないよ。」
カサネ:
ママ:「それを聞いて安心した。
ママ:その母ちゃんなんだけどね。
ママ:いま一番心配してるのは、なんだと思う?」
ママ:
カサネ:「…知ってるよ。男のことでしょ。
カサネ:それならあたしは別になんとも思ってないよ。
カサネ:誰だか知らないけど、いい人がいるってことくらい、気づいてるけど。」
カサネ:
ママ:「そっか…。でも、心配してるのは、あんたの将来のことだよ?」
ママ:
カサネ:「はは!そりゃそうよね。こんなこぶ付きじゃ、
カサネ:おちおち再婚も出来ないっていうんでしょ?
カサネ:だから、あたしはこんな町出て、東京に行ってやらあって言ったのよ。」
カサネ:
ママ:「それも、売り言葉に買い言葉なんでしょ?
ママ:母ちゃんね、自分の都合なんか、一言も漏らしちゃいないわよ。
ママ:本当は、あんたどうしたいんだい?」
ママ:
カサネ:「どうしたいって、そんなの思ったって、叶うもんじゃないし…。」
カサネ:
ママ:「いいから、言うだけただなんだから、言ってみな。」
ママ:
カサネ:「そりゃ…。
カサネ:出来れば…働きながらでも…看護師の学校行って、
カサネ:もう一度頑張りたいって思ってるよ。」
カサネ:
ママ:「そっか…。やっぱりちゃんと考えてんのね。」
ママ:
カサネ:「なんでかなあ…。母親の前だと、うまく言葉が出てこないっていうか。
カサネ:言葉より先に感情がほとばしって、
カサネ:こういう話、まったく出来なくなるんだ。」
カサネ:
ママ:「でもさ、ちゃんと考えてるんだったら、伝えないと。
ママ:看護学校に行くにしても、学校出て働くにしても、
ママ:母ちゃんが一番心配してるんだからね。」
ママ:
カサネ:「うん。わかってる。傷、大丈夫なのかな…。
カサネ:お店に出られないくらい、酷いの?」
カサネ:
ママ:「大丈夫、大丈夫。あんたが大丈夫なら、
ママ:母ちゃんはきっと全部大丈夫なんだよ。」
ママ:
カサネ:「へへへ…。そっかな。」
カサネ:
ママ:「あんまり心配かけるんじゃないよ。
ママ:悪い仲間に入って、道を踏み外すために、苦労して育てたわけじゃないんだからね?」
ママ:
カサネ:「あー!さては母ちゃん、タバコのことちくりやがったな?
カサネ:あれは誤解だって、あんだけ言ったのにさ。」
カサネ:
ママ:「へえ。じゃあ、あんた、どこのマッチでそのたばこに火ぃつけたのさ?」
ママ:
カサネ:「えへへ…。ばれてたか。
カサネ:だって、たばこもマッチも家に転がってるんだもん。
カサネ:母ちゃんが悪いよ。」
カサネ:
ママ:「あはは、確かに。それはそうかもしれないわね。
ママ:だけど、若い娘がたばこだなんて、みっともないだけよ?」
ママ:
カサネ:「…好きな人のたばこの味くらい、知ってみたいと思うもんでしょ?」
カサネ:
ママ:「へえ…。あんた、いっちょ前にそんなこと言うようになったの。
ママ:どこの不良に恋したんだい?」
ママ:
カサネ:「不良じゃないよ!大人なんだから、タバコくらい普通だろ?」
カサネ:
ママ:「ませたこと言いやがって。大人って言ったってどうせ大学生だろ。」
ママ:
カサネ:「ちがうよ!学校の、…先生だよ!」
カサネ:
ママ:「学校の…?へええ。教育実習に来たひよっこにでも惚れたのかい。
ママ:やめときな!ああいういい子ちゃんには、
ママ:どうせかわいい彼女がいるって相場(そうば)が決まってんだから。」
ママ:
カサネ:「先生は、実習生でもなければ、彼女だっていないもん!」
カサネ:
ママ:「いないもん!って笑 そんなこと大声で言ってどうすんの笑」
ママ:
カサネ:「えへへ…だって、先生あたしにだけ特別優しいんだよ。
カサネ:みんなを見るときとは、目つきが違うっていうか…。
カサネ:わかるでしょ?
カサネ:ママも女なら、ああ、この人、運命の人なんだって思ったとき、あるでしょ?」
カサネ:
ママ:「運命の人ねえ…。
ママ:いずれ禿げる運命の人なんだって思ったことはあるかなあ。」
ママ:
カサネ:「もう!からかわないで!あたし、真剣なんだよ?
カサネ:卒業したら、告白するって決めてるんだから!」
カサネ:
ママ:「ちなみに…、なんていう先生?
ママ:評判の先生なら、あたしも知ってるかな。」
ママ:
カサネ:「木原先生!英語が上手くて、大学のとき、留学経験もあるんだって。
カサネ:それに、うちみたいな夜学でも、熱心に相談に乗ってくれるんだ。」
カサネ:
ママ:「へえ。そっか…。ふうん。木原先生ね。
ママ:あはは、聞いたことないわ。やっぱりママ、堅気には縁が無いわね。」
ママ:
カサネ:「ねえ、ママ。またここに来ても、いい?」
カサネ:
ママ:「…。」
ママ:
カサネ:「あたし、初めて話したの。看護学校のことも、好きな人のことも。
カサネ:わたしこんなだから、学校でも浮いちゃっててさ。
カサネ:うまくみんなに混ざれないんだ。」
カサネ:
ママ:「だめだよ。」
ママ:
カサネ:「どうして…?」
カサネ:
ママ:「あんたももう子どもじゃないんだからわかるでしょ?
ママ:こんな歓楽街に若い娘が出入りしてたら、よくない噂になる。
ママ:あんたみたいな器量よしなら、なおさらだよ。」
ママ:
カサネ:「そんなのうそだ!母ちゃんは十六からこの商売やってるけど、
カサネ:ちっとも悪い噂なんか立ってないもん!」
カサネ:
ママ:「わからない子だね!
ママ:がきんちょの遊びに付き合ってたら、商売の邪魔なのよ!」
ママ:
カサネ:「そっか…。やっぱりわたし、邪魔なんだね…。
カサネ:もういい!二度とこんな場所来ないわよ!
カサネ:さよなら!」
カサネ:
カサネ:
N:階段を駆け下りていく足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
N:あけみは、今更ながら、自分が情けなくなった。
N:むしゃくしゃするので、タバコでも吸おうとハンドバッグを開けると、
N:シジマに届けるはずだった札束が目にとまった。
N:
N:
シジマ:「ママ…。そんなだから、商売もうまくいかないのよ。」
シジマ:
N:驚いて顔を上げると、開(ひら)いたままの扉の裏から、
N:シジマが姿をみせるところだった。
N:目の上に貼った大きな絆創膏(ばんそうこう)には、わずかに血がにじんでいる。
N:
ママ:「シジマ…。あんた、駅にいたんじゃないの。」
ママ:
シジマ:「汽車の時間までずいぶんあったから、じっとしていられなくて。
シジマ:ママのとこにお金借りに来たの。
シジマ:そしたら、あの子が入っていくじゃない。
シジマ:こんな顔でしょ?…声をかけそびれちゃった。」
シジマ:
N:細い肩が小さく小刻みに揺れて、笑いをこらえているようにも、
N:涙をこらえているようにも見えた。
N:
ママ:「やだね、泣いてるの?」
ママ:
シジマ:「(涙ぐみながら)ううん。笑ってるの。
シジマ:だって、こんなうれしい日はないわ。
シジマ:あの子の夢が聞けるなんて。
シジマ:あの子がまた看護師になりたいって言ってくれるなんてさ。
シジマ:ママ…。ありがとう。」
シジマ:
ママ:「礼なんか言われる覚えはないね。
ママ:…あんた、まさかあの先生と切れちゃうんじゃないでしょうね?」
ママ:
シジマ:「切れるもなにも、はなっから始まっちゃいないのよ、ママ。
シジマ:早合点(はやがてん)しすぎ。」
シジマ:
ママ:「…そうかしら?」
ママ:
シジマ:「そうよ。ただ、いっとき、楽しいお友達だっただけ。
シジマ:ほんと、それだけよ。」
シジマ:
ママ:「またまた…。
ママ:あんただって、先生の気持ち、気づいてるんでしょ?」
ママ:
シジマ:「うふふ。そりゃ…女だもの。わかるわよ。」
シジマ:
ママ:「女だもの、か。あれも女。これも女。
ママ:女って、なんでこう、めんどくさいのかしらね。」
ママ:
シジマ:「ねえ、ママ。わたしが辞めるって言ったらどうする?」
シジマ:
ママ:「辞めるー?
ママ:そしたらちょっとした祝賀会でも開いてぱーっとやっちゃうわね。」
ママ:
シジマ:「なによ。いじわるね。」
シジマ:
ママ:「…辞めるなら、いい人つかまえるのよ?」
ママ:
シジマ:「わかってる。
シジマ:いい人、いるのよ?じつは。」
シジマ:
ママ:「だれよ…?」
ママ:
シジマ:「知ってるでしょ?あの太った『くま先生』。
シジマ:ずっと前からわたしに言い寄ってるの。」
シジマ:
ママ:「それは知ってるけど…。
ママ:あんなクソじじいって、あんたいつも終わってから舌出してたじゃない。」
ママ:
シジマ:「そうだったっけ。」
シジマ:
ママ:「好きでもない男と一緒になるほど、不幸せなことないわよ。」
ママ:
シジマ:「あら、わたし、お金大好きだもの。お金を持ってる男も大好き。」
シジマ:
ママ:「ばか言わないの。」
ママ:
シジマ:「くま先生ったらね、でっかい豪邸にひとりで住んでるんですって。
シジマ:贅沢よね~。
シジマ:逃げた奥さんが置いてった、猫と一緒に暮らしてるんだってさ。」
シジマ:
ママ:「不幸だね~。」
ママ:
シジマ:「…『ふしあわせという名の猫』か。」
シジマ:
ママ:「あら懐かしい。そんな歌もあったわね。」
ママ:
シジマ:「ふしあわせという名の猫はね…いつもそばにぴったり寄り添ってるの。
シジマ:だから、女はけっしてひとりぼっちじゃないんだって。ふふ。」
シジマ:
ママ:「皮肉な歌だね。だれだっけ。」
ママ:
シジマ:「浅川マキ…。」
シジマ:
ママ:「そんなレコード、捨てちまいな。」
ママ:
シジマ:「ふふふ…。いい歌うたうんだもん。参っちゃうわよね。」
シジマ:
N:そう言うと、シジマはそっとあけみの肩にもたれかかり、
N:猫のように寄り添うのだった。
N:彼女の身体は冷え切っていて、あけみが両手でさすってやると、
N:大きなため息をついた。
0:
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N:それからしばらくして、男はぱったりと店に来なくなった。
N:ふたりの間になにがあったか、おおよその想像はつく。
N:年が明けて、2月。
N:夜半過ぎから降り出した雨に、街は静まりかえっていた。
N:あけみが早々に店じまいをしてシャッターを下ろしていると、
N:人通りの途絶えた道に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
N:
ママ:「あんた…。待って!先生だろ?テキーラ先生じゃないかい?」
ママ:
先生:「ママ…。」
先生:
ママ:「びっくりした!びしょ濡れじゃないの!
ママ:なにやってんのよ、風邪ひくわよ。
ママ:ちょっと入って飲んでいけばいいじゃない。
ママ:もういま、だれもいないから。」
ママ:
先生:「ごめん、ママ。
先生:いいんだ、こんな野良犬みたいな男、ほっときゃいいんだよ!」
先生:
ママ:「…ほっとけないわよ。」
ママ:
先生:「情けないだろ。気づいたらふらっとこの道を行ったり来たりしてさ。
先生:はは…笑。
先生:おれ、たぶん、頭おかしいんだ。おかしいんだよ…!」
先生:
N:ほとんど泣き崩れるようにして、男はあけみに身体ごと預けてきた。
N:
先生:「ごめんママ。こんなおかしな男、蹴っ飛ばしてくれよ!」
先生:
N:振り絞る様な声を聞いて、
N:あけみは熱い身体を背広の上からそっと抱きしめる。
N:ああ、この人も、ちゃんと男だったんだ。
N:あけみはなんだか、ほっとして、小さく微笑んだ。
N:
先生:「蹴っ飛ばしてくれって…言ってんだよ!」
先生:
ママ:「わかったわかった。よーくわかったよ。」
ママ:
先生:「優しくなんか、しないでくれ!
先生:おれはね、なにが本当か、もうなにもかも、わかんないよ…。
先生:女なんか、何考えてんのか、さっぱりだ!」
先生:
ママ:「なんにも考えちゃいないのよ。
ママ:風がふくまま、揺れてるだけ。
ママ:だって、あたしたち、ただの泡(あぶく)みたいなもんだもの。」
ママ:
先生:「…触れたそばから、壊れちまうんだもんな。
先生:男は、指くわえて見てるしかできないのかよ。」
先生:
ママ:「せめて、いい風に乗れるように、祈ってて。
ママ:あぶくにだって、夢くらいあるんだから。」
ママ:
先生:「ああ…。嵐に乗って、どこまでも飛んでいきゃいいさ!」
先生:
N:最後は吐き捨てるように言って、あけみの手をすり抜けると、
N:男は夜の帳(とばり)の中へ消えていった。
N:みぞれ混じりの冷たい雨が季節はずれの雪に変わっていくのを、
N:あけみは呆然とみているしか出来なかった。
N:
0:
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0:
シジマ:「さあ~!今夜からは、春の歌謡曲、強化月間!
シジマ:みんな、張り切って唄いましょう~!」
シジマ:
ママ:「は~い!一番、森山加代子、『白い蝶のサンバ』、歌いま~す!」
ママ:
N:季節は過ぎ去っても、相も変わらず集まるメンツは、悲しくなるほど陽気だ。
N:ただ、変わったことといえば、シジマが目に見えてしぶとくなったことだ。
N:以前は飲めなかったきつい酒を、きんきんに冷やして飲み干すと、
N:「っかー!!」っと焼ける喉から絞り出すような声を出す。
N:ああ、こうして夜の女の喉は枯れていくんだな。
N:あけみはそれを横目で見ながら、手を叩く。
N:
ママ:「さあ。お次はシジマちゃんの十八番(おはこ)、
ママ:浅川マキで『こころ隠して』!
ママ:いっちゃいましょう~!」
ママ:
N:今夜も、シジマは、しゃがれた声を振り絞って、悲しい歌を唄うのだった。
N:
0:
シジマ:「じゃあね~。木島さん。気をつけて帰るのよ~!
シジマ:どっかで浮気でもしたら、許さないんだからね〜!」
シジマ:
N:いつものメンバーが名残惜しそうに店をあとにすると、
N:後ろ姿に、投げキッスをするシジマがいる。
N:
ママ:「あのさあ…。あんたいつから『くま先生』のこと、
ママ:『木島さん』なんて呼ぶようになった?」
ママ:
シジマ:「さあね。『先生』ってツラじゃないからかしら。」
シジマ:
N:投げやりにそう言うと、閉店と同時に煌々と明かりの点いた店内へ、
N:あくびをしながら入っていく。
N:そう、ネオンの下でしか生きられない女。
N:わたしだって同じか。
N:あけみが空を見上げると、
N:淡い太陽の光が東の空を照らし始めている。
N:厳しい季節が通り過ぎたのだ。
N:
シジマ:「あけみママ~!早く扉閉めて?花びら、入り込んじゃうわよ。」
シジマ:
ママ:「はいはい~。
ママ:シジマちゃん、最近わたしにあたり強くない?」
ママ:
シジマ:「ふふふふ。ばれた?」
シジマ:
ママ:「あ、あんた、なに勝手にビール開けてるのよ?」
ママ:
シジマ:「いいじゃない、ちょっと締めに一杯!」
シジマ:
ママ:「こらー!勝手なことしないの!」
ママ:
シジマ:「べーっだ!あはははは」
シジマ:
N:ふたり、年甲斐もなく、いたずらっ子のように笑い合う。
0:
0:
N:そしてすっかり酔いも覚めた明け方、交差点でタクシーに乗り込む頃、
N:スーツを着たサラリーマンがカバンを斜めに背負って、
N:あけみの目の前を自転車で通り過ぎていく。
N:だけどもう、それは誰かとオーバーラップすることはない。
N:
N:先日、あけみのもとに、手紙が届いたのだ。
N:
0:
0:
0:
先生:「拝啓、あけみママ。
先生:あちらこちらで桜吹雪が舞い散る季節になりました。
先生:思えば、ママに出会った夜も、別れた夜も、雨でしたね。
先生:一雨ごとに、季節は春に近づいているなんて、
先生:あの頃の自分には想像もできませんでした。
先生:
先生:とくに最後の夜は、凍てつくような寒さで、
先生:まさか自分に未来があるなんてことも、
先生:ましてや花咲く季節がやってくるなんてことも、信じられませんでした。
先生:
先生:卒業式の日、ぼくはある生徒から、恋文をもらいました。
先生:教師生活、いや、ぼくの全人生を振り返っても、
先生:これほど驚いたことはありません。
先生:そして、ときに優しい嘘があること、
先生:残酷な優しさがあることを思い知らされました。
先生:
先生:ぼくはなんて浅はかだったのでしょう。
先生:自分の未熟さに、教師としても、男としても、恥ずかしさでいっぱいです。
先生:その後、皆さんはお元気でおられるでしょうか。
先生:ぼくは、春から北部に転任が決まり、心機一転、やり直すつもりです。
先生:いつかぼくが訪ねていくようなことがあったら、また笑顔で迎えてくれますよね。
先生:これから夏にかけて、遠い北の空から、あなたへのそよ風を送り続けています。
先生:
先生:テキーラ先生こと、木原司(きはらつかさ)。」
先生:
0:
0:
シジマ:「ねえ、ママ。今日はママんとこ、泊まってっていい?」
シジマ:
N:閉まるタクシーの扉を押し開けて、
N:店の前で別れたはずのシジマが、後部座席に乗り込んくる。
N:
シジマ:「だめ、かな?」
シジマ:
N:あけみのアパートに誰かが訪ねて来るのは、はじめてのことだった。
N:内心をさとられまいと、あけみは前を向いたままぶっきらぼうに答える。
N:
ママ:「…。いいわよ。ちょうど、お野菜もらったとこなの。
ママ:鍋にしましょっか。」
ママ:
シジマ:「もらった?怪しいなあ。どこのだれにもらったのさ?」
シジマ:
ママ:「内緒。」
ママ:
シジマ:「ええー!なによそれ!」
シジマ:
ママ:「じゃああんたも、先生の話、聞かせなさいよね?」
ママ:
シジマ:「…野暮よ!」
シジマ:
ママ:「そゆこと!野暮はやめときましょ、お互いに。」
ママ:
シジマ:「ママったら。ずるいんだから!」
シジマ:
N:タクシーを降りると、眩しい朝日の中、ふたりして日影を踏みながら歩いていく。
N:それは、薄幸を選(よ)り好みして進んでいく、夜の女の道だ。
N:通りすがりの他人が振り返るのもかまわず、高いヒールを響かせて歩く。
N:裏の畑に通りかかったとき、そこにはいつものおじさんが、早くから水やりに出ていた。
N:
ママ:「お…おはようございまーす!」
ママ:
N:あけみが思い切って、大きな声で挨拶をすると、
N:おじさんははにかんだ笑顔で、ちょっとだけうなずいてみせた。
N:
シジマ:「ねえ。いまの、だあれ?」
シジマ:
N:シジマが、不思議そうな顔で聞いてくるのを背中で聞き流す。
N:
シジマ:「ねえ、あのおじさん、だれだったのよお!教えてくれてもいいじゃない。」
シジマ:
ママ:「いいの!あんたは黙って野菜でも食べてなさい!」
ママ:
シジマ:「野菜だけー?お肉もあるんでしょう?わたし、お肉がいいわあ。」
シジマ:
N:今日も、終わらない夜を、女たちは夢うつつに生きていく。
N:裏窓を開ければ、また野焼きの匂いがしてくるだろうか。
N:あけみは、その薫りが染みついた自分自身を、いまならちょっとは誇れるような気がした。