台本概要

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タイトル をち水
作者名 Kei  (@kei20_)
ジャンル その他
演者人数 2人用台本(不問2)
時間 20 分
台本使用規定 非商用利用時は連絡不要
説明 知らないはずの出来事を子供が語る。そんな相談を受けた教授と学生の考察を進める会話。
最新版・利用についてはこちら:https://note.com/kei20_/

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キャラ説明  

名前 性別 台詞数 説明
教授 不問 38 訪れた女性の話を聞いた時点ですべてを理解している。
学生 不問 38 学生。この話にはほぼ直接的な内容として出てこないが、人間としては異端だった過去を教授に認められ、救われている。
※役をクリックするとセリフに色が付きます。

台本本編

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0:天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読の 持てる変若水(をちみず) い取り来て 君に奉(まつ)りて 変若(をち)得てしかも―― 0:――「万葉集」巻十三―― 0:  0:――なるほど。子供が会ったこともない、亡くなった祖父の記憶を語る、と。しかも会ったこともないのに、その言葉が逐一、祖父本人の言動と一致していたと。―― 0:  0:――はい。全くの他人の記憶を持っている、なんていう話を耳にしたことはあるのですが、どう考えても、私の祖父の話なんです。 最初は偶然の一致と聞き流していたのですが、ここのところ頻繁に祖父の話をするようになってきて……。近頃では私しか知らないことを口にするようになって。―― 0:  0:――理由を聞くと、「当り前じゃないか」と……ただ、笑うんです。―― 学生:よいしょっと。教授、これで資料はそろっていますよね? 教授:ああ、ありがとう。これで全部だ。壮観だね。 学生:自分で用意させたんじゃないですか。 教授:言わずともここまでそろえてくれる君を信頼してのことだよ。本の重さは歴史の重さ、未来ある若者が抱えたほうがいい。私のような年寄りは紐解き語るのが 学生:またそんなことを言って煙に巻こうとする。 教授:本心だよ。 学生:それで、あの人の話、どう思います? 教授:子供が知らないはずのことを語り始める。まれにみられる事例だね。近年の日本でもあったはずだ。 学生:オカルトやテレビ番組では前世の記憶などと呼ばれていますね。 教授:記憶は脳に保存された記録だ。記録が転写、または転移したからといって、その個体が同一線上にいるとは限らない。前世というには大げさじゃないかなあ。 学生:コピーペーストされているなんて、まるでパソコンですね。 教授:現代に毒されているねえ。 学生:教授が時代についてきていないんです。ついてきていない分、資料を読み解くのは得意なんでしょう、雑談してないでお仕事にかかりましょう。 教授:教授の仕事ではないんだがね。 学生:今回みたいに女性のお話なら何でも聞くわけじゃないでしょう。 教授:少し興味が湧いたから、他ならぬ君に頼んだんだよ。 学生:そうでしょうね。では。 教授:特別講義の時間だ。 学生:さっきの女性……と「違う人の記憶を語る子」の話ですね。 教授:おや、今日は鋭いね。 学生:特別講義受講者ですからね。ここまであからさまだと気づきます。 教授:ヒトは成長するものだねえ。 学生:……ありがとうございます。 教授:まず、今回の件をおさらいだ。問、先ほどの女性の特徴を述べよ。 学生:子連れ、シングルマザー、祖父が亡くなっている。子供は祖父との思い出を知っている。彼女の祖父は、書斎のリストを見る限り魔術、特に寿命に関するものに傾倒していた……今日集めた資料を見る限りではインチキですね。あと特徴的なのは部屋には水銀、何かのミイラ、食べかけのザクロ、天球儀、麦の穂があった。あの子の話した祖父の話は、ざっくりとまとめると、生まれる前に建て替えた家の特徴を知っていたこと、よく遊びに行っていた場所の特徴を知っていたこと、そして日常会話の内容でしたか。ああ、そういえば三月に子供の誕生日は春休みの宿題を終わらせていなかったので祝わなかったとも。 教授:よく覚えているね。特徴はその通り。魔術に関してはインチキ。会話内容もその通り。正解だが、足りないね。でも誕生日まで覚えているなんていい記憶をしている。 学生:教授が彼女に何も尋ねなかったから重要なのはこの程度だと思ったのですが。あの子の生まれた七年前は食べ物の値段が上がって大変だったので覚えています。 教授:そうだね、彼女に関してはその程度だ。子供に関しても正解かな。 学生:インチキ魔術が何かあるんですか? 教授:魔術以外にも本があっただろう。 学生:ありましたが……一般的な古書や歴史書くらいですよ。この通り、図書館でそろえられるくらいですし。 教授:歴史には若者に託されるべき重みがある。 学生:なるほど、降参です。今回は負けました。 教授:まだまだだね。 学生:精進します。 教授:まずはこの本を読んでみようか。 学生:万葉集ですか。 教授:天上への橋も月に届くほど長くあってほしい。高山も月に届くほど高くあってほしい。そうであれば、私は月の神の持つ若返りの水を取ってきて、貴方に差し上げて若返らせたいのだ。 学生:天上の……何です? 教授:月読信仰に見られる若返りの水に対する憧れを詠んだ句の現代語訳だよ。古来、月には若返りの力があるといわれている。ロシアの東洋学者、ニコライ・ネフスキーが著(あらわ)したように、沖縄の民族伝承にもアカリヤザガマの変若水と死水(シニミズ)の話もある。宮古島に人間が住むようになった時、月と太陽が人間にいつまでも変わらぬ美しさと長寿を授けようとして、節祭(せち)の夜に、それぞれを注いだ桶をアカリヤザガマに下界に運ばせた。人間には変若水を、蛇には死水を与えよ」とね。ただ、遣いの彼が疲れて天秤を置いている隙に蛇が変若水を浴びてしまい、しかたなしに命令とは逆に死水を人間に浴びせて以来、蛇は脱皮を繰り返し生まれ変わって長生きをするようになり、人間は短命になった。その後に月はなんとか人間に不死を授けようと、節祭の夜に空から水を送るようになる。 学生:長命を祈っての儀式ですね。私はどこの伝承でも水となっているのが気になりました。月といえば夜空に輝く星の中でも特別な存在です。水は空から降り注ぐもの。でも、月が出ているときには雨は降ってこない。そんな時でも輝く不思議な水。古代から生と死に関するものとして使われてきたのは水銀ですね。有名なのでは、始皇帝が使っていた不老長寿の薬とか、サンジェルマン伯爵の賢者の石は水銀を経て作られるとか、伝承が多すぎてざっくりとしか言えませんが。最も水銀は猛毒ですし、不老不死への憧れが彼らを死に追いやっていそうです。 教授:水銀は硫化水銀という赤い色素に変化する。これは世界中の墓で遺体の心臓や顔に振りかけられたりしている。墓に書かれた壁画には多くの場合赤が使われているのも特徴だ。赤といえば血液、地球上の多くの生き物、生命を連想させる色だ。死んだ人間がいつか帰ってくるようにという願いであればエジプトのミイラが有名だね。もし前世という形で彼らが帰ってきているのなら、そういった儀式にも意味があったのだろうねえ。 学生:現代日本では火葬がルールですからもうそういった儀式が行われることはないのでは。 教授:完全な確率ではなく、何らかの条件を満たした場合にそういうことが起こりやすいといったことがあるのかもしれないね。近年の例では、精々五十年前にいた人物の記憶を子供が語り始める程度だけれど、きちんとした儀式を行ったなら伝承にあるように何世紀も前の人間の記憶をもった子供が現れるかもしれない。そうなれば我々は商売あがったりだが、歴史の真実を知れて愉快でもある。 学生:教授はそういったことは信じていない口ぶりでしたが。それにバタフライエフェクトなどを言い始めたらきりがありませんよ。 教授:君はロマンがないねえ。確実に否定できるほど人類は物を知らないものだよ。ここらで歴史の話は切り上げて、そもそもの原因であるあの子供の話をしようか。 学生:祖父の記憶を語るということ以外は何もなかったと思いますが。 教授:おや、無意識だったか。それじゃあ及第点をあげられないな。誕生日のことを覚えていたじゃないか。 学生:三月ですか。 教授:七年前の三月だよ。君が食費で痛手を受けていた年のね。 学生:私の経済事情まで話に含めないで下さいよ。 教授:三月のスーパームーンはアメリカ原住民にはワームムーンと呼ばれているらしいね。 学生:ワーム……虫ですか。 教授:虫は子だくさんの象徴だ。そして啓蟄(けいちつ)でもある。 学生:けいちつとは? 教授:日本史には弱いね、君は。蟄(ちつ)は地中で冬を過ごした虫のこと、啓は「ひらく」という意味だ。春の陽気に誘われて虫たちが地上に出てくる時期をあらわす、いわば豊穣の季節だね。さらにおとめ座の季節でもある。一般的には正義の女神アストレア、ローマの収穫の女神ケレスと言われているが、おとめ座で一番明るい星はスピカ、「麦の穂」という意味をもつ星だ。どちらかというと収穫、そしてここにある資料では……異説のほうが有力だね。 学生:ええと、異説……これですか。農業の女神デメテルやペルセフォネがモデルという。ペルセフォネが冥界の神プルートに求婚されるが、デメテルが反対してペルセフォネを隠してニンフに守らせた。腹を立てたプルートは地割れを起こしてペルセフォネを誘拐。嘆いたデメテルを見かねてゼウスがペルセフォネを地上に返すよう要求。しかし、プルートが冥界の木の実をペルセフォネに食べさせたことで、ペルセフォネは年に一回冥界に帰らないといけなくなる……。世界中でよく見られる死者蘇生譚ですね。イザナギ、イザナミの伝説。オルフェウスの伝説も有名です。 教授:その冥界の木の実はザクロなんだよ。 学生:儀式、ですか。 教授:本を読むこと自体が儀式ともいえるのだがね。我々も今、神秘を紐解くという儀式を行っている。紐解かれた儀式は神秘性を失って現実に帰るのが常だ。 学生:教授、それって…… 教授:さあ、最後の答え合わせだ。問い。子供は誰の記憶を語っていたか。 学生:……たしか、始めは遊びに行った場所でしたね。近所の公園などではなく、もう建て替えた家にあった、背比べに刻んだ柱の傷とその値を知っていた。 教授:それは写真にないとは言いきれないね。 学生:可能性としてはそうですね。 教授:わかっているじゃないか。 学生:そうなると、単純に遊びに行っていた場所の特徴も記録に残っている可能性がある。最も有力なのは祖父が話していたことですか。これは記録に残っている可能性が低い。 教授:そうだね。口癖は母親から伝わっているかもしれないが、それなら本人が不安にはならないだろう。日常会話が重要だ。 学生:日常会話ですか。あまりにも普通過ぎて、覚えきれていないのですが。録音しておいた方がよかったでしょうか。 教授:いやいや、そんなに難しく考えることはないよ。 学生:内容は重要じゃないと? 教授:内容は重要だがね。日常会話をするのは誰とだい? 学生:それは祖父でしょう。 教授:それが答えだよ。祖父との会話を知っているのは誰かな? 学生:……まさか。ちょっと、行ってきます! 教授:……さて、また春休みの宿題を終わらせられなかったのは誰かな? 0:夕焼けの中、踏切の音が響いていた――― 0:―――女性はそっと繋いでいた手を離した――― 0:  0:今度はうまくやってね。

0:天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読の 持てる変若水(をちみず) い取り来て 君に奉(まつ)りて 変若(をち)得てしかも―― 0:――「万葉集」巻十三―― 0:  0:――なるほど。子供が会ったこともない、亡くなった祖父の記憶を語る、と。しかも会ったこともないのに、その言葉が逐一、祖父本人の言動と一致していたと。―― 0:  0:――はい。全くの他人の記憶を持っている、なんていう話を耳にしたことはあるのですが、どう考えても、私の祖父の話なんです。 最初は偶然の一致と聞き流していたのですが、ここのところ頻繁に祖父の話をするようになってきて……。近頃では私しか知らないことを口にするようになって。―― 0:  0:――理由を聞くと、「当り前じゃないか」と……ただ、笑うんです。―― 学生:よいしょっと。教授、これで資料はそろっていますよね? 教授:ああ、ありがとう。これで全部だ。壮観だね。 学生:自分で用意させたんじゃないですか。 教授:言わずともここまでそろえてくれる君を信頼してのことだよ。本の重さは歴史の重さ、未来ある若者が抱えたほうがいい。私のような年寄りは紐解き語るのが 学生:またそんなことを言って煙に巻こうとする。 教授:本心だよ。 学生:それで、あの人の話、どう思います? 教授:子供が知らないはずのことを語り始める。まれにみられる事例だね。近年の日本でもあったはずだ。 学生:オカルトやテレビ番組では前世の記憶などと呼ばれていますね。 教授:記憶は脳に保存された記録だ。記録が転写、または転移したからといって、その個体が同一線上にいるとは限らない。前世というには大げさじゃないかなあ。 学生:コピーペーストされているなんて、まるでパソコンですね。 教授:現代に毒されているねえ。 学生:教授が時代についてきていないんです。ついてきていない分、資料を読み解くのは得意なんでしょう、雑談してないでお仕事にかかりましょう。 教授:教授の仕事ではないんだがね。 学生:今回みたいに女性のお話なら何でも聞くわけじゃないでしょう。 教授:少し興味が湧いたから、他ならぬ君に頼んだんだよ。 学生:そうでしょうね。では。 教授:特別講義の時間だ。 学生:さっきの女性……と「違う人の記憶を語る子」の話ですね。 教授:おや、今日は鋭いね。 学生:特別講義受講者ですからね。ここまであからさまだと気づきます。 教授:ヒトは成長するものだねえ。 学生:……ありがとうございます。 教授:まず、今回の件をおさらいだ。問、先ほどの女性の特徴を述べよ。 学生:子連れ、シングルマザー、祖父が亡くなっている。子供は祖父との思い出を知っている。彼女の祖父は、書斎のリストを見る限り魔術、特に寿命に関するものに傾倒していた……今日集めた資料を見る限りではインチキですね。あと特徴的なのは部屋には水銀、何かのミイラ、食べかけのザクロ、天球儀、麦の穂があった。あの子の話した祖父の話は、ざっくりとまとめると、生まれる前に建て替えた家の特徴を知っていたこと、よく遊びに行っていた場所の特徴を知っていたこと、そして日常会話の内容でしたか。ああ、そういえば三月に子供の誕生日は春休みの宿題を終わらせていなかったので祝わなかったとも。 教授:よく覚えているね。特徴はその通り。魔術に関してはインチキ。会話内容もその通り。正解だが、足りないね。でも誕生日まで覚えているなんていい記憶をしている。 学生:教授が彼女に何も尋ねなかったから重要なのはこの程度だと思ったのですが。あの子の生まれた七年前は食べ物の値段が上がって大変だったので覚えています。 教授:そうだね、彼女に関してはその程度だ。子供に関しても正解かな。 学生:インチキ魔術が何かあるんですか? 教授:魔術以外にも本があっただろう。 学生:ありましたが……一般的な古書や歴史書くらいですよ。この通り、図書館でそろえられるくらいですし。 教授:歴史には若者に託されるべき重みがある。 学生:なるほど、降参です。今回は負けました。 教授:まだまだだね。 学生:精進します。 教授:まずはこの本を読んでみようか。 学生:万葉集ですか。 教授:天上への橋も月に届くほど長くあってほしい。高山も月に届くほど高くあってほしい。そうであれば、私は月の神の持つ若返りの水を取ってきて、貴方に差し上げて若返らせたいのだ。 学生:天上の……何です? 教授:月読信仰に見られる若返りの水に対する憧れを詠んだ句の現代語訳だよ。古来、月には若返りの力があるといわれている。ロシアの東洋学者、ニコライ・ネフスキーが著(あらわ)したように、沖縄の民族伝承にもアカリヤザガマの変若水と死水(シニミズ)の話もある。宮古島に人間が住むようになった時、月と太陽が人間にいつまでも変わらぬ美しさと長寿を授けようとして、節祭(せち)の夜に、それぞれを注いだ桶をアカリヤザガマに下界に運ばせた。人間には変若水を、蛇には死水を与えよ」とね。ただ、遣いの彼が疲れて天秤を置いている隙に蛇が変若水を浴びてしまい、しかたなしに命令とは逆に死水を人間に浴びせて以来、蛇は脱皮を繰り返し生まれ変わって長生きをするようになり、人間は短命になった。その後に月はなんとか人間に不死を授けようと、節祭の夜に空から水を送るようになる。 学生:長命を祈っての儀式ですね。私はどこの伝承でも水となっているのが気になりました。月といえば夜空に輝く星の中でも特別な存在です。水は空から降り注ぐもの。でも、月が出ているときには雨は降ってこない。そんな時でも輝く不思議な水。古代から生と死に関するものとして使われてきたのは水銀ですね。有名なのでは、始皇帝が使っていた不老長寿の薬とか、サンジェルマン伯爵の賢者の石は水銀を経て作られるとか、伝承が多すぎてざっくりとしか言えませんが。最も水銀は猛毒ですし、不老不死への憧れが彼らを死に追いやっていそうです。 教授:水銀は硫化水銀という赤い色素に変化する。これは世界中の墓で遺体の心臓や顔に振りかけられたりしている。墓に書かれた壁画には多くの場合赤が使われているのも特徴だ。赤といえば血液、地球上の多くの生き物、生命を連想させる色だ。死んだ人間がいつか帰ってくるようにという願いであればエジプトのミイラが有名だね。もし前世という形で彼らが帰ってきているのなら、そういった儀式にも意味があったのだろうねえ。 学生:現代日本では火葬がルールですからもうそういった儀式が行われることはないのでは。 教授:完全な確率ではなく、何らかの条件を満たした場合にそういうことが起こりやすいといったことがあるのかもしれないね。近年の例では、精々五十年前にいた人物の記憶を子供が語り始める程度だけれど、きちんとした儀式を行ったなら伝承にあるように何世紀も前の人間の記憶をもった子供が現れるかもしれない。そうなれば我々は商売あがったりだが、歴史の真実を知れて愉快でもある。 学生:教授はそういったことは信じていない口ぶりでしたが。それにバタフライエフェクトなどを言い始めたらきりがありませんよ。 教授:君はロマンがないねえ。確実に否定できるほど人類は物を知らないものだよ。ここらで歴史の話は切り上げて、そもそもの原因であるあの子供の話をしようか。 学生:祖父の記憶を語るということ以外は何もなかったと思いますが。 教授:おや、無意識だったか。それじゃあ及第点をあげられないな。誕生日のことを覚えていたじゃないか。 学生:三月ですか。 教授:七年前の三月だよ。君が食費で痛手を受けていた年のね。 学生:私の経済事情まで話に含めないで下さいよ。 教授:三月のスーパームーンはアメリカ原住民にはワームムーンと呼ばれているらしいね。 学生:ワーム……虫ですか。 教授:虫は子だくさんの象徴だ。そして啓蟄(けいちつ)でもある。 学生:けいちつとは? 教授:日本史には弱いね、君は。蟄(ちつ)は地中で冬を過ごした虫のこと、啓は「ひらく」という意味だ。春の陽気に誘われて虫たちが地上に出てくる時期をあらわす、いわば豊穣の季節だね。さらにおとめ座の季節でもある。一般的には正義の女神アストレア、ローマの収穫の女神ケレスと言われているが、おとめ座で一番明るい星はスピカ、「麦の穂」という意味をもつ星だ。どちらかというと収穫、そしてここにある資料では……異説のほうが有力だね。 学生:ええと、異説……これですか。農業の女神デメテルやペルセフォネがモデルという。ペルセフォネが冥界の神プルートに求婚されるが、デメテルが反対してペルセフォネを隠してニンフに守らせた。腹を立てたプルートは地割れを起こしてペルセフォネを誘拐。嘆いたデメテルを見かねてゼウスがペルセフォネを地上に返すよう要求。しかし、プルートが冥界の木の実をペルセフォネに食べさせたことで、ペルセフォネは年に一回冥界に帰らないといけなくなる……。世界中でよく見られる死者蘇生譚ですね。イザナギ、イザナミの伝説。オルフェウスの伝説も有名です。 教授:その冥界の木の実はザクロなんだよ。 学生:儀式、ですか。 教授:本を読むこと自体が儀式ともいえるのだがね。我々も今、神秘を紐解くという儀式を行っている。紐解かれた儀式は神秘性を失って現実に帰るのが常だ。 学生:教授、それって…… 教授:さあ、最後の答え合わせだ。問い。子供は誰の記憶を語っていたか。 学生:……たしか、始めは遊びに行った場所でしたね。近所の公園などではなく、もう建て替えた家にあった、背比べに刻んだ柱の傷とその値を知っていた。 教授:それは写真にないとは言いきれないね。 学生:可能性としてはそうですね。 教授:わかっているじゃないか。 学生:そうなると、単純に遊びに行っていた場所の特徴も記録に残っている可能性がある。最も有力なのは祖父が話していたことですか。これは記録に残っている可能性が低い。 教授:そうだね。口癖は母親から伝わっているかもしれないが、それなら本人が不安にはならないだろう。日常会話が重要だ。 学生:日常会話ですか。あまりにも普通過ぎて、覚えきれていないのですが。録音しておいた方がよかったでしょうか。 教授:いやいや、そんなに難しく考えることはないよ。 学生:内容は重要じゃないと? 教授:内容は重要だがね。日常会話をするのは誰とだい? 学生:それは祖父でしょう。 教授:それが答えだよ。祖父との会話を知っているのは誰かな? 学生:……まさか。ちょっと、行ってきます! 教授:……さて、また春休みの宿題を終わらせられなかったのは誰かな? 0:夕焼けの中、踏切の音が響いていた――― 0:―――女性はそっと繋いでいた手を離した――― 0:  0:今度はうまくやってね。