台本概要
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タイトル | リリス、あるいは |
---|---|
作者名 | ひろ (@hiro_3330141) |
ジャンル | その他 |
演者人数 | 2人用台本(男1、女1) |
時間 | 30 分 |
台本使用規定 | 非商用利用時は連絡不要 |
説明 |
あるところに娘がいた。 娘は十三にして春を鬻いだ。 『魔王の子』の母親の物語。 あらかじめ『魔王の子』を読んでおくと話が分かりやすいかと思います。 ジャック役の男性が他(男、客)を兼役するか、ジャック役と他役を分けて三人劇とするかはお任せします。 ※知っておいたほうがいいこと redrum→murder(殺人者) bear(熊)bare(裸) イギリス海軍は酒を節約するためにダークラムを水で割った 原案:パサコさん 283 views |
キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
---|---|---|---|
リリス | 女 | 103 | リリス・アダムズ。 殺人の罪で収容されている。 |
ジャック | 男 | 66 | 売れない新聞記者。 サシの場合は男、客を兼役。 三人劇の場合はジャック/男、客の配役でお願いします。 |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
0:ある刑務所の面会室にて
リリス:まさか私に面会人があるなんてね。驚いたよ
リリス:久しいね、ダニエル
ジャック:やめてくれよ、君には本名を教えたんだ
ジャック:それとも俺もレッドラムって呼んだほうがいいのか?
リリス:悪かったよ、ジャック。ところでそのレッドラムとかいう呼び方はどこから来たんだい?
リリス:他の囚人もそう呼ぶがね、人の名前くらいきちんと呼べないものかね
ジャック:君、知らないのか?
リリス:だからそう言っているだろう
ジャック:マジかよ
ジャック:レッドラムを逆さ読みしてみろ
リリス:ラムは…uで合っていたかな
ジャック:散々呑んでたろ
リリス:まあね。……ああ、なるほど。まったく、安直な通り名だよ
ジャック:それがそうでもないんだ。あの現場に残っていたラム酒の瓶が血でべったり、ってのとかけてるのさ
リリス:へえ…酒には悪いことをしたね
ジャック:…そうだな
リリス:はっ! まさか私がしおらしく反省なんかしているとでも?
リリス:私が反省しているとしたらあの子に手を上げたことだけだよ
ジャック:その子のことなんだが
リリス:なんだい
ジャック:行きがかりに見てきたよ。教会の庭にある低い木の下で本を読んでいたな。聖書だろう
リリス:二度と、あの子に会えないんだろうね、私は
ジャック:後悔か? 珍しいこともあるもんだ
リリス:うるさいよ。…しかしそれで言うとジャック、あんたも二度と私には会いたくなかったんじゃないかい?
ジャック:いや。俺はずっと会いたかったよ
リリス:ああ、そうかもね。報奨金がもらえる上に一大スクープだ。うだつの上がらない新聞記者を卒業して、しばらくは遊んで暮らせる
ジャック:君は本当に悪魔みたいな女だな。人をたらし込んでおいて自分は知らん顔でいる
ジャック:あの夜、俺がどれほど君の無事を祈ったことか!
リリス:ジャックなんて名前をして娼婦の無事を祈るなんてね。サタンでなく神に祈っていたとは言わないでおくれよ? 笑い死んじまう
ジャック:…死んどけ
リリス:あー、あんたには本当に飽きないよ
ジャック:光栄だ。ところでリリス、君のその名前、偽名らしいじゃないか
リリス:なんだ、やっぱりただ駄弁りに来たわけじゃなかったのかい
ジャック:ああ。だが誓って言う。下世話な週刊誌のネタにしにきたわけでもない。これはあの懐かしい夜の続きだよ
リリス:その夜の始まりは…忘れもしない、あの男だ
0:街灯が霧深い夜の路地にぼんやりと浮かぶ。その下に娘が一人座り込んでいる
リリス:はぁ…
男:おっと! 蹴飛ばすところだった! 危ない危ない。お嬢さん、どうしたんだい?
リリス:どうでもいいでしょ
男:ふむ、確かにそうだ。それじゃ僕はお暇するとしよう
リリス:…………
男:ああ! その目だ! その目が僕を虜にしてしょうがない。この場を離れようにも足が地面に縫いつけられたように動かない
リリス:なら脚ごと斬ってもらえば?
男:ごめんだね。赤い靴なんか履いたこともないんだ。いやそれにしてもその一見ふてくされた目!
男:野心か? 憤懣(ふんまん)か? それにしては恨めしげで人恋しそうだ。――君は何を望んでいる?
リリス:言ったらあんたが叶えてくれるの
男:いいや。人の望みというのは当人にしか叶えられないものさ
リリス:くだらない
男:まあ話は最後まで聞きたまえ。いいかい、代わりに叶えることはできなくとも、手助けくらいはしてやれるんだ
男:どうだい?
リリス:…帰りたくないの
男:ほう。それはまた何かあったのかい?
リリス:叔母(おば)が清貧(せいひん)がどうとか言って満足に食わせてくれないからよ。信仰じゃ腹は満たされない
リリス:遊ぶなんてもってのほか。私は敬虔(けいけん)な叔母を持ったせいで若さを楽しむこともできやしないんだ
男:いくつだい?
リリス:十三
男:そうか。まさに人生の春を迎えるときにそれとはね。そんな家は出てしまうが吉だ
リリス:何? あんたが泊めてくれるわけ?
男:悪いがそれはできない。ただいい宿を知っている
リリス:宿代なんて…
男:宿代なんかいらないのさ。逆に金がもらえる
リリス:それ本当に宿なの?
男:宿も宿だ、曖昧宿(あいまいやど)っていうね
リリス:要は私に体を売れって?
男:別に体に限らない。春を鬻(ひさ)げばそれでいい。客に君と過ごす時間をこの世の春と思わせるんだ
リリス:ふうん。でも私のこの貧相な見た目で客がつくとは思えないけど
男:不安かい?
リリス:まあね
男:それなら僕がまじないをかけてあげよう
男:君、名前は?
リリス:リリー・アダムズ
男:結構! これから君はリリス・アダムズだ!
リリス:それがおまじない?
男:まあ直に分かるさ。それじゃあ宿へ案内しよう、リリス
0:
ジャック:そうか…君はリリーといったのか
リリス:だからってリリーなんて呼ぶんじゃないよ
ジャック:分かってるさ、リリス
ジャック:それで、その後どうしたんだ?
リリス:男に着いていったよ
ジャック:だがあの女将(かみ)さんのことだ、一筋縄じゃいかなかったろ
リリス:それが男の顔を見るなり、私の頭の天辺(てっぺん)から爪先までじろじろ舐め回して「住み込みかい?」ってね
ジャック:嘘だろ。俺なんか初めて行った時は紹介だって言っても「イギリス海軍はお断りだよ」の一点張りだったのに!
リリス:「いいや俺は海賊だ」だったっけね
ジャック:そうだ、ダークラムを持ってな。…男は何者なんだ?
リリス:さてね。女衒(ぜげん)かもしれないが、それにしてはあれから顔を見ない。だから私はこう思うことにしたのさ
ジャック:サタンだと?
リリス:ああそうさ。事実、あの名付けのお陰で上手くいったわけだからね
ジャック:悪魔のゴッドファーザーなんてとんだ皮肉だな
リリス:はは、だが私にはお似合いさ。これ以上ないってくらいね
リリス:それで…最初の客は確か……
0:酒屋の二階の窓に二つの影が揺れている
客:よお、新入りがいるって聞いたがよ、お前か?
リリス:…まあ
客:へえ。あの婆(ばばあ)がねえ…。確かに顔はいいな。目元はきついくせに唇は媚びてやがる。まだちっと小便臭えがな
リリス:それで? 抱くの? 抱かないの?
客:そう急(せ)くなよ。夜は長いんだ。それともお子様はもう寝る時間か?
リリス:子供じゃない。私は――
客:女だって? なら前戯の一つや二つくらい覚えるこったな
リリス:で、これが前戯ってわけ
客:そういうこった。ところでお前、なんて呼びゃいいんだ?
リリス:リリ…リリス
客:はっ! リリス? リリスだって? こりゃたまげた! はっはっはっ!
リリス:何がおかしいの
客:リリスといやあ、アダムの最初の女にしてサタンの妻だぜ? ってこたあ、さしずめ俺は一夜限りのサタンってわけだ。傑作じゃねえか!
リリス:アダムの妻はイブでしょ。リリスなんて聞いたこともない
客:聖書にゃ書いてないからな
リリス:得意の法螺話(ほらばなし)?
客:いんや、俺は聞きかじっただけだ。表通りに教会があるだろ?
リリス:知らない。今日来たばかりだし
客:へえ。本当の新入りってわけかい。んでまあ、あそこで神父が妊婦に話してるのを聞いたわけさ
リリス:どんな話?
客:とぼけやがって! ああそんな目で俺を見るなよ。冗談さ、話してやる
客:なんでもリリスはアダムと馬が合わずにエデンから逃げたらしい。そしたら天使が追っかけていって「戻らなければお前の子を日に百人殺す」なんて脅したんだと
客:あわれリリスは海に沈む。「私は生まれてくる子を害する者だ。しかし三人の天使の名の刻まれた護符を目にしたときは見逃してやろう」と言い残してな
リリス:ずいぶん物騒だけど、それが天使のすること?
客:神さんってのは案外酷い奴なんだよ
リリス:ノアの方舟の話なんかはそうかもね
客:それもそうだがなんてったって知恵の実だろ
リリス:あれはイブと蛇が悪かったと思うけどね
客:悪かない。その蛇が唆(そそのか)さなかったら俺らに意思なんてものはありゃしない。飼い殺しさ
リリス:……罪の苦さを知らなきゃ無辜(むこ)の甘さも分からない
客:その通りだ! さすがは悪魔、知恵が回るねえ
リリス:あんたも見かけによらず物知りなんだね
客:そりゃあな。なんたって俺は年を経た蛇、魔王だからな!
リリス:じゃ今夜限りのサタンさん、とでも呼べばいい?
客:やめろやめろ。俺はテッドっつうんだ。テディって呼んでもいいぜ
リリス:ベアはベアでも裸の方? あは、馬鹿みたい
0:
リリス:テディは一夜限りとか言っておきながらすっかり常連になっちまったね
ジャック:…………
リリス:どうかしたかい?
ジャック:いや、何も
リリス:そんなに妬かなくても、ちょっとした思い出話じゃないか
ジャック:君はいつもそうだ。俺の気持ちを知っておきながら最初の男の話をする。今日の空模様でも喋るみたいに
リリス:だがあの夜の続きをしたいんだろう? あんたは私のことが知りたいと言ったはずだよ
ジャック:それは……そうだが
リリス:あれから色んな客が来たさ。そして私の名を聞くと揃いも揃って魔王の話をしていくんだ
リリス:例えば…そうだな、カインとアベルの話だろ、それからバベルの塔の話、堕天の話……。はは、どれもあの子に話した物語ばかりだ
ジャック:それであの子は聖書を読んでいたのか
リリス:他に聞かせられるような話を持ち合わせていなかったからね…
リリス:あの子は、正しい道へと向かってくれるだろうかね
ジャック:向かうさ、きっと。だからあの子に名前をつけなかったんだろ
リリス:お見通しかい。そうさ、あの子はリリンじゃない
ジャック:…今あの子は教会で――
リリス:よしとくれ。悪魔に愛し子の名前なんて知らせるもんじゃないよ
ジャック:悪魔なものか! 君はいつだって俺の天使だ。賢くて美しく、君といると花の咲きこぼれるような暖かい気分になる
リリス:ジャック、あんたは騙されているんだ。いい加減目を覚ましな
ジャック:目を覚ませば俺は塀の外で君と会えるのか? これは悪夢だと?
リリス:……あんたはそういう奴だったね。ただ一人、私に魔王を語らなかった
0:リリスにあてがわれた部屋の戸が音を立てる
リリス:なんだい?
ジャック:……入っても?
リリス:そうじゃなきゃあんた何のためにここへ来たんだい
ジャック:ああ…そうだな。失礼
リリス:へえ。ノックなんかするからどんな紳士かと思えば…景気の悪そうな顔だね
ジャック:あー、その、しがない新聞記者でね…
リリス:こういう店は初めてかい
ジャック:…どうして
リリス:慣れてる奴はすぐ私の隣に腰掛けるか仰向けになる
リリス:それに女将と随分揉めていたようだしね
ジャック:だったらなんだ? 俺は探偵ごっこに付き合いに来たんじゃない
リリス:まあそういきり立つんじゃないよ。もう始まっているんだ、前戯はね
リリス:それともあんたの夜は短いのかい?
ジャック:はあ…分かったよ。これでいいか
リリス:ふうん…意外に背が高いんだね
ジャック:そういう君は態度の割に小さくて細い。ふむ
リリス:さっきから及び腰だね、のっぽさん
ジャック:…ダニエルだ。及び腰なんじゃない。考えているんだ
リリス:余裕だね
ジャック:茶々を入れないでくれるか? 真剣なんだ
リリス:嫌だ、と言ったら?
ジャック:悪魔め。……いや、違う…そうだ、思い出したぞ!
ジャック:君を見たことがあるような気がしてたんだが、ようやく分かった。君はマリアだ!
リリス:人違いだよ。私は――
ジャック:その滑らかな肌に若草の茎のような手脚、神が手ずから彫った美しい顔立ち、憂いを帯びた眼差し!
リリス:私の目が憂いを帯びているとしたら、それはあんたの妄想にうんざりしてるからだろうね
ジャック:ピエタだ、そうだ、君はピエタのマリアに似ている
リリス:ピエタ? なんだいそれは
ジャック:知らないのか? サン・ピエトロ大聖堂の――
リリス:知らないね。私はリリスだ
ジャック:リリス! そんな不名誉な名は君に似つかわしくない
リリス:不名誉? 不名誉だって? はっ! 笑わせないどくれ。私にとってはこれ以上ない名誉だよ
リリス:だいたい娼婦がマリアなんて名前を使うことこそ不名誉だろう。まるで処女受胎に裏があるみたいでさ
ジャック:…君、それは
リリス:まったく、せっかくの夜なのに日曜の朝みたいだ
ジャック:ミサは嫌いか?
リリス:大嫌いだよ。讃美歌のせいで眠れやしない。……で、あんたは寝るのか寝ないのかどっちなんだい?
ジャック:君が始めた前戯だ
リリス:…この遅漏
ジャック:遅漏で結構。なあ、俺は君のことが知りたい。代金は足りてるだろ?
リリス:はあ…。一つだよ、もう随分話したんだから今日はあと一つだけだ
ジャック:分かった。君はいくつなんだ?
リリス:呆れた。…十七だよ
0:
ジャック:懐かしいな…
リリス:あれからもあんたは来るたびにどうだっていい話をしてさ。私の面子(めんつ)は丸潰れだったよ
ジャック:俺は覚えてる。君が神を嫌っていること、好奇心旺盛で俺の仕事の愚痴に興味津々だったこと、ふと我に返って眉間に皺(しわ)を寄せること、それから……
リリス:もういい、もういいったら!
リリス:たった六晩通っただけの女をよくもそう…
ジャック:…あれは七晩目だったな
リリス:ねえ、笑わないで聞いておくれよ。私はいの一番にあんたに打ち明けるつもりでいたのさ
ジャック:…はは
リリス:笑うなと言ったろう!
ジャック:いや、何、俺はつくづく……悪い、続けてくれ
リリス:酒のにおいで吐いちまって、女将に見咎められたんだ。具合でも悪いのかってね
リリス:一番の稼ぎ頭だったから心配だったんだろう。だがそう考えていたのは私もだった
ジャック:それで産みたいと言ったのか? 稼ぎ頭だから文句も言われないと思って?
リリス:ああ。私は自惚(うぬぼ)れていた。ルシフェルのように、バベルの人々のように。
リリス:女将はすぐに薬を持ってくると言い出した。当然だ。身重の娼婦に誰が春を感じるだろう
ジャック:それで君は…ナイフを持って……
リリス:首を掻っ切ってやった。女将愛用のナイフはよく切れたよ。だが女将の死体は隠せても血は残った
ジャック:…アベルのように?
リリス:そうさ。私はほとんどカインだった。違うとすれば…より多く殺したことかね
ジャック:そうして目撃者も殺した…
リリス:悲鳴が途絶えて、気がつけば辺りは静かだった。サイレンが聞こえてくるまではね
ジャック:あの惨状は今でも忘れられない。青白い死体とまだ赤く温もりさえ感じられる血……。警官に何度も君の安否を尋ねたが黙って首を振られたよ
ジャック:それから数日して君の手配書が上がった。今でも信じられない…君はそれほどまでに子供を愛していたのか?
リリス:ああ。あの子がここにいると分かった時、かすかな鼓動が聞こえるようだったよ。それで思ったんだ。この子を守り抜くと
ジャック:だが君は讃美歌を歌う子供たちの声をうるさがっていたじゃないか
リリス:子供は嫌いだよ。でもあの子だけは違う。私の子だ。私は…あの子になら私を理解してもらえると考えていたんだ…
リリス:あの子は私の言うことを信じて育った。だが私はあの子が私に近づくにつれて怖くなった
ジャック:神のように?
リリス:あるいはそうかもしれないね。だから試したんだ。あのナイフを持たせて、贄(にえ)を用意して
ジャック:あの子はどうしたんだ?
リリス:最初は殺したさ。鼠、烏、仔犬……。だが三年経つと殺しに疑問を持つようになった
リリス:その日の贄は猫だった。臨月の。そうしたらあの子は言うんだ。「お母さんは殺せない」ってさ。嬉しかったよ
ジャック:…それならどうして手を上げたりしたんだ? 君の思う通りになっていたはずなのに…
リリス:あんたは気にしないかもしれないがね、私は殺人鬼だよ。殺人鬼の子が世間様にどう扱われるかなんて想像するまでもない
ジャック:まさかあの子を送り出すために…?
リリス:…まあその通りだね
ジャック:……世間は神の勝利だと言っているが、違ったな
リリス:いや、そうでもないさ。私は…あの時本当の意味で母親になったんだ。子を害する者から、ただの…子の幸せを願うだけの…人間に
リリス:…そろそろ時間だね
ジャック:ああ。また来るよ、リリー
リリス:ふん…ほら、とっとと行きな。看守が睨んでるよ
リリス:……ありがとう、ジャック
0:ある刑務所の面会室にて
リリス:まさか私に面会人があるなんてね。驚いたよ
リリス:久しいね、ダニエル
ジャック:やめてくれよ、君には本名を教えたんだ
ジャック:それとも俺もレッドラムって呼んだほうがいいのか?
リリス:悪かったよ、ジャック。ところでそのレッドラムとかいう呼び方はどこから来たんだい?
リリス:他の囚人もそう呼ぶがね、人の名前くらいきちんと呼べないものかね
ジャック:君、知らないのか?
リリス:だからそう言っているだろう
ジャック:マジかよ
ジャック:レッドラムを逆さ読みしてみろ
リリス:ラムは…uで合っていたかな
ジャック:散々呑んでたろ
リリス:まあね。……ああ、なるほど。まったく、安直な通り名だよ
ジャック:それがそうでもないんだ。あの現場に残っていたラム酒の瓶が血でべったり、ってのとかけてるのさ
リリス:へえ…酒には悪いことをしたね
ジャック:…そうだな
リリス:はっ! まさか私がしおらしく反省なんかしているとでも?
リリス:私が反省しているとしたらあの子に手を上げたことだけだよ
ジャック:その子のことなんだが
リリス:なんだい
ジャック:行きがかりに見てきたよ。教会の庭にある低い木の下で本を読んでいたな。聖書だろう
リリス:二度と、あの子に会えないんだろうね、私は
ジャック:後悔か? 珍しいこともあるもんだ
リリス:うるさいよ。…しかしそれで言うとジャック、あんたも二度と私には会いたくなかったんじゃないかい?
ジャック:いや。俺はずっと会いたかったよ
リリス:ああ、そうかもね。報奨金がもらえる上に一大スクープだ。うだつの上がらない新聞記者を卒業して、しばらくは遊んで暮らせる
ジャック:君は本当に悪魔みたいな女だな。人をたらし込んでおいて自分は知らん顔でいる
ジャック:あの夜、俺がどれほど君の無事を祈ったことか!
リリス:ジャックなんて名前をして娼婦の無事を祈るなんてね。サタンでなく神に祈っていたとは言わないでおくれよ? 笑い死んじまう
ジャック:…死んどけ
リリス:あー、あんたには本当に飽きないよ
ジャック:光栄だ。ところでリリス、君のその名前、偽名らしいじゃないか
リリス:なんだ、やっぱりただ駄弁りに来たわけじゃなかったのかい
ジャック:ああ。だが誓って言う。下世話な週刊誌のネタにしにきたわけでもない。これはあの懐かしい夜の続きだよ
リリス:その夜の始まりは…忘れもしない、あの男だ
0:街灯が霧深い夜の路地にぼんやりと浮かぶ。その下に娘が一人座り込んでいる
リリス:はぁ…
男:おっと! 蹴飛ばすところだった! 危ない危ない。お嬢さん、どうしたんだい?
リリス:どうでもいいでしょ
男:ふむ、確かにそうだ。それじゃ僕はお暇するとしよう
リリス:…………
男:ああ! その目だ! その目が僕を虜にしてしょうがない。この場を離れようにも足が地面に縫いつけられたように動かない
リリス:なら脚ごと斬ってもらえば?
男:ごめんだね。赤い靴なんか履いたこともないんだ。いやそれにしてもその一見ふてくされた目!
男:野心か? 憤懣(ふんまん)か? それにしては恨めしげで人恋しそうだ。――君は何を望んでいる?
リリス:言ったらあんたが叶えてくれるの
男:いいや。人の望みというのは当人にしか叶えられないものさ
リリス:くだらない
男:まあ話は最後まで聞きたまえ。いいかい、代わりに叶えることはできなくとも、手助けくらいはしてやれるんだ
男:どうだい?
リリス:…帰りたくないの
男:ほう。それはまた何かあったのかい?
リリス:叔母(おば)が清貧(せいひん)がどうとか言って満足に食わせてくれないからよ。信仰じゃ腹は満たされない
リリス:遊ぶなんてもってのほか。私は敬虔(けいけん)な叔母を持ったせいで若さを楽しむこともできやしないんだ
男:いくつだい?
リリス:十三
男:そうか。まさに人生の春を迎えるときにそれとはね。そんな家は出てしまうが吉だ
リリス:何? あんたが泊めてくれるわけ?
男:悪いがそれはできない。ただいい宿を知っている
リリス:宿代なんて…
男:宿代なんかいらないのさ。逆に金がもらえる
リリス:それ本当に宿なの?
男:宿も宿だ、曖昧宿(あいまいやど)っていうね
リリス:要は私に体を売れって?
男:別に体に限らない。春を鬻(ひさ)げばそれでいい。客に君と過ごす時間をこの世の春と思わせるんだ
リリス:ふうん。でも私のこの貧相な見た目で客がつくとは思えないけど
男:不安かい?
リリス:まあね
男:それなら僕がまじないをかけてあげよう
男:君、名前は?
リリス:リリー・アダムズ
男:結構! これから君はリリス・アダムズだ!
リリス:それがおまじない?
男:まあ直に分かるさ。それじゃあ宿へ案内しよう、リリス
0:
ジャック:そうか…君はリリーといったのか
リリス:だからってリリーなんて呼ぶんじゃないよ
ジャック:分かってるさ、リリス
ジャック:それで、その後どうしたんだ?
リリス:男に着いていったよ
ジャック:だがあの女将(かみ)さんのことだ、一筋縄じゃいかなかったろ
リリス:それが男の顔を見るなり、私の頭の天辺(てっぺん)から爪先までじろじろ舐め回して「住み込みかい?」ってね
ジャック:嘘だろ。俺なんか初めて行った時は紹介だって言っても「イギリス海軍はお断りだよ」の一点張りだったのに!
リリス:「いいや俺は海賊だ」だったっけね
ジャック:そうだ、ダークラムを持ってな。…男は何者なんだ?
リリス:さてね。女衒(ぜげん)かもしれないが、それにしてはあれから顔を見ない。だから私はこう思うことにしたのさ
ジャック:サタンだと?
リリス:ああそうさ。事実、あの名付けのお陰で上手くいったわけだからね
ジャック:悪魔のゴッドファーザーなんてとんだ皮肉だな
リリス:はは、だが私にはお似合いさ。これ以上ないってくらいね
リリス:それで…最初の客は確か……
0:酒屋の二階の窓に二つの影が揺れている
客:よお、新入りがいるって聞いたがよ、お前か?
リリス:…まあ
客:へえ。あの婆(ばばあ)がねえ…。確かに顔はいいな。目元はきついくせに唇は媚びてやがる。まだちっと小便臭えがな
リリス:それで? 抱くの? 抱かないの?
客:そう急(せ)くなよ。夜は長いんだ。それともお子様はもう寝る時間か?
リリス:子供じゃない。私は――
客:女だって? なら前戯の一つや二つくらい覚えるこったな
リリス:で、これが前戯ってわけ
客:そういうこった。ところでお前、なんて呼びゃいいんだ?
リリス:リリ…リリス
客:はっ! リリス? リリスだって? こりゃたまげた! はっはっはっ!
リリス:何がおかしいの
客:リリスといやあ、アダムの最初の女にしてサタンの妻だぜ? ってこたあ、さしずめ俺は一夜限りのサタンってわけだ。傑作じゃねえか!
リリス:アダムの妻はイブでしょ。リリスなんて聞いたこともない
客:聖書にゃ書いてないからな
リリス:得意の法螺話(ほらばなし)?
客:いんや、俺は聞きかじっただけだ。表通りに教会があるだろ?
リリス:知らない。今日来たばかりだし
客:へえ。本当の新入りってわけかい。んでまあ、あそこで神父が妊婦に話してるのを聞いたわけさ
リリス:どんな話?
客:とぼけやがって! ああそんな目で俺を見るなよ。冗談さ、話してやる
客:なんでもリリスはアダムと馬が合わずにエデンから逃げたらしい。そしたら天使が追っかけていって「戻らなければお前の子を日に百人殺す」なんて脅したんだと
客:あわれリリスは海に沈む。「私は生まれてくる子を害する者だ。しかし三人の天使の名の刻まれた護符を目にしたときは見逃してやろう」と言い残してな
リリス:ずいぶん物騒だけど、それが天使のすること?
客:神さんってのは案外酷い奴なんだよ
リリス:ノアの方舟の話なんかはそうかもね
客:それもそうだがなんてったって知恵の実だろ
リリス:あれはイブと蛇が悪かったと思うけどね
客:悪かない。その蛇が唆(そそのか)さなかったら俺らに意思なんてものはありゃしない。飼い殺しさ
リリス:……罪の苦さを知らなきゃ無辜(むこ)の甘さも分からない
客:その通りだ! さすがは悪魔、知恵が回るねえ
リリス:あんたも見かけによらず物知りなんだね
客:そりゃあな。なんたって俺は年を経た蛇、魔王だからな!
リリス:じゃ今夜限りのサタンさん、とでも呼べばいい?
客:やめろやめろ。俺はテッドっつうんだ。テディって呼んでもいいぜ
リリス:ベアはベアでも裸の方? あは、馬鹿みたい
0:
リリス:テディは一夜限りとか言っておきながらすっかり常連になっちまったね
ジャック:…………
リリス:どうかしたかい?
ジャック:いや、何も
リリス:そんなに妬かなくても、ちょっとした思い出話じゃないか
ジャック:君はいつもそうだ。俺の気持ちを知っておきながら最初の男の話をする。今日の空模様でも喋るみたいに
リリス:だがあの夜の続きをしたいんだろう? あんたは私のことが知りたいと言ったはずだよ
ジャック:それは……そうだが
リリス:あれから色んな客が来たさ。そして私の名を聞くと揃いも揃って魔王の話をしていくんだ
リリス:例えば…そうだな、カインとアベルの話だろ、それからバベルの塔の話、堕天の話……。はは、どれもあの子に話した物語ばかりだ
ジャック:それであの子は聖書を読んでいたのか
リリス:他に聞かせられるような話を持ち合わせていなかったからね…
リリス:あの子は、正しい道へと向かってくれるだろうかね
ジャック:向かうさ、きっと。だからあの子に名前をつけなかったんだろ
リリス:お見通しかい。そうさ、あの子はリリンじゃない
ジャック:…今あの子は教会で――
リリス:よしとくれ。悪魔に愛し子の名前なんて知らせるもんじゃないよ
ジャック:悪魔なものか! 君はいつだって俺の天使だ。賢くて美しく、君といると花の咲きこぼれるような暖かい気分になる
リリス:ジャック、あんたは騙されているんだ。いい加減目を覚ましな
ジャック:目を覚ませば俺は塀の外で君と会えるのか? これは悪夢だと?
リリス:……あんたはそういう奴だったね。ただ一人、私に魔王を語らなかった
0:リリスにあてがわれた部屋の戸が音を立てる
リリス:なんだい?
ジャック:……入っても?
リリス:そうじゃなきゃあんた何のためにここへ来たんだい
ジャック:ああ…そうだな。失礼
リリス:へえ。ノックなんかするからどんな紳士かと思えば…景気の悪そうな顔だね
ジャック:あー、その、しがない新聞記者でね…
リリス:こういう店は初めてかい
ジャック:…どうして
リリス:慣れてる奴はすぐ私の隣に腰掛けるか仰向けになる
リリス:それに女将と随分揉めていたようだしね
ジャック:だったらなんだ? 俺は探偵ごっこに付き合いに来たんじゃない
リリス:まあそういきり立つんじゃないよ。もう始まっているんだ、前戯はね
リリス:それともあんたの夜は短いのかい?
ジャック:はあ…分かったよ。これでいいか
リリス:ふうん…意外に背が高いんだね
ジャック:そういう君は態度の割に小さくて細い。ふむ
リリス:さっきから及び腰だね、のっぽさん
ジャック:…ダニエルだ。及び腰なんじゃない。考えているんだ
リリス:余裕だね
ジャック:茶々を入れないでくれるか? 真剣なんだ
リリス:嫌だ、と言ったら?
ジャック:悪魔め。……いや、違う…そうだ、思い出したぞ!
ジャック:君を見たことがあるような気がしてたんだが、ようやく分かった。君はマリアだ!
リリス:人違いだよ。私は――
ジャック:その滑らかな肌に若草の茎のような手脚、神が手ずから彫った美しい顔立ち、憂いを帯びた眼差し!
リリス:私の目が憂いを帯びているとしたら、それはあんたの妄想にうんざりしてるからだろうね
ジャック:ピエタだ、そうだ、君はピエタのマリアに似ている
リリス:ピエタ? なんだいそれは
ジャック:知らないのか? サン・ピエトロ大聖堂の――
リリス:知らないね。私はリリスだ
ジャック:リリス! そんな不名誉な名は君に似つかわしくない
リリス:不名誉? 不名誉だって? はっ! 笑わせないどくれ。私にとってはこれ以上ない名誉だよ
リリス:だいたい娼婦がマリアなんて名前を使うことこそ不名誉だろう。まるで処女受胎に裏があるみたいでさ
ジャック:…君、それは
リリス:まったく、せっかくの夜なのに日曜の朝みたいだ
ジャック:ミサは嫌いか?
リリス:大嫌いだよ。讃美歌のせいで眠れやしない。……で、あんたは寝るのか寝ないのかどっちなんだい?
ジャック:君が始めた前戯だ
リリス:…この遅漏
ジャック:遅漏で結構。なあ、俺は君のことが知りたい。代金は足りてるだろ?
リリス:はあ…。一つだよ、もう随分話したんだから今日はあと一つだけだ
ジャック:分かった。君はいくつなんだ?
リリス:呆れた。…十七だよ
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ジャック:懐かしいな…
リリス:あれからもあんたは来るたびにどうだっていい話をしてさ。私の面子(めんつ)は丸潰れだったよ
ジャック:俺は覚えてる。君が神を嫌っていること、好奇心旺盛で俺の仕事の愚痴に興味津々だったこと、ふと我に返って眉間に皺(しわ)を寄せること、それから……
リリス:もういい、もういいったら!
リリス:たった六晩通っただけの女をよくもそう…
ジャック:…あれは七晩目だったな
リリス:ねえ、笑わないで聞いておくれよ。私はいの一番にあんたに打ち明けるつもりでいたのさ
ジャック:…はは
リリス:笑うなと言ったろう!
ジャック:いや、何、俺はつくづく……悪い、続けてくれ
リリス:酒のにおいで吐いちまって、女将に見咎められたんだ。具合でも悪いのかってね
リリス:一番の稼ぎ頭だったから心配だったんだろう。だがそう考えていたのは私もだった
ジャック:それで産みたいと言ったのか? 稼ぎ頭だから文句も言われないと思って?
リリス:ああ。私は自惚(うぬぼ)れていた。ルシフェルのように、バベルの人々のように。
リリス:女将はすぐに薬を持ってくると言い出した。当然だ。身重の娼婦に誰が春を感じるだろう
ジャック:それで君は…ナイフを持って……
リリス:首を掻っ切ってやった。女将愛用のナイフはよく切れたよ。だが女将の死体は隠せても血は残った
ジャック:…アベルのように?
リリス:そうさ。私はほとんどカインだった。違うとすれば…より多く殺したことかね
ジャック:そうして目撃者も殺した…
リリス:悲鳴が途絶えて、気がつけば辺りは静かだった。サイレンが聞こえてくるまではね
ジャック:あの惨状は今でも忘れられない。青白い死体とまだ赤く温もりさえ感じられる血……。警官に何度も君の安否を尋ねたが黙って首を振られたよ
ジャック:それから数日して君の手配書が上がった。今でも信じられない…君はそれほどまでに子供を愛していたのか?
リリス:ああ。あの子がここにいると分かった時、かすかな鼓動が聞こえるようだったよ。それで思ったんだ。この子を守り抜くと
ジャック:だが君は讃美歌を歌う子供たちの声をうるさがっていたじゃないか
リリス:子供は嫌いだよ。でもあの子だけは違う。私の子だ。私は…あの子になら私を理解してもらえると考えていたんだ…
リリス:あの子は私の言うことを信じて育った。だが私はあの子が私に近づくにつれて怖くなった
ジャック:神のように?
リリス:あるいはそうかもしれないね。だから試したんだ。あのナイフを持たせて、贄(にえ)を用意して
ジャック:あの子はどうしたんだ?
リリス:最初は殺したさ。鼠、烏、仔犬……。だが三年経つと殺しに疑問を持つようになった
リリス:その日の贄は猫だった。臨月の。そうしたらあの子は言うんだ。「お母さんは殺せない」ってさ。嬉しかったよ
ジャック:…それならどうして手を上げたりしたんだ? 君の思う通りになっていたはずなのに…
リリス:あんたは気にしないかもしれないがね、私は殺人鬼だよ。殺人鬼の子が世間様にどう扱われるかなんて想像するまでもない
ジャック:まさかあの子を送り出すために…?
リリス:…まあその通りだね
ジャック:……世間は神の勝利だと言っているが、違ったな
リリス:いや、そうでもないさ。私は…あの時本当の意味で母親になったんだ。子を害する者から、ただの…子の幸せを願うだけの…人間に
リリス:…そろそろ時間だね
ジャック:ああ。また来るよ、リリー
リリス:ふん…ほら、とっとと行きな。看守が睨んでるよ
リリス:……ありがとう、ジャック