台本概要
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タイトル | 『湖畔にて』 |
---|---|
作者名 | sazanka (@sazankasarasara) |
ジャンル | その他 |
演者人数 | 2人用台本(男1、女1) |
時間 | 20 分 |
台本使用規定 | 非商用利用時は連絡不要 |
説明 |
京都のとある、山間の集落。 木々に囲われた湖の畔にて、男と少女の、取りとめなき会話。 ―2021年8月下旬― 『人狼、フレンチ・コネクションに咽ぶ。』へと、続く。 265 views |
キャラ説明
名前 | 性別 | 台詞数 | 説明 |
---|---|---|---|
痩せ細った男 | 男 | 95 | 「火積 瑰(ほずみ かい)」という名前の男。病身。 |
白い衣の少女 | 女 | 90 | 「鳴野 流々花(めいの るるか)」と名乗る少女。 |
※役をクリックするとセリフに色が付きます。
台本本編
0:2021年、夏と秋の間。
0:京都のとある集落。山間部の、渓谷地形。
0:細い道を下り、木々に覆われた、薄暗い湖の畔。
白い衣の少女:ねえ、貴方。
白い衣の少女:何を……、しているの。
0:枝と葉の隙間より光が差し。
痩せ細った男:…………、
痩せ細った男:何も、していないよ。
0:午後の、ひとときである。
白い衣の少女:嘘。
白い衣の少女:何もしていない人なんていないわ。
白い衣の少女:貴方が死体でない限り。
痩せ細った男:死体は何もしないのかい。
白い衣の少女:しない。
白い衣の少女:もう何も「する」ことが出来なくて、生きている時に「した」ことだけが残り続ける、というのが。
白い衣の少女:……「死ぬ」と、いうことだもの。
痩せ細った男:そう、なのかい。
白い衣の少女:きっと、そう。
白い衣の少女:わたしは死んだ事が無いから、わからないけど。
白い衣の少女:……ねえ。
白い衣の少女:何を、しているの。
痩せ細った男:……湖を。
痩せ細った男:見て、いるんだよ。
0:男が気付かぬ内、白を纏った少女は傍に立っている。
白い衣の少女:どうして湖を、見ているの。
痩せ細った男:他にする事が無いからだよ。
白い衣の少女:どうしてすることが無いの。
痩せ細った男:やりたい事が、無い、からだよ。
白い衣の少女:やりたいことが無い、のは……、
白い衣の少女:もうじき、死ぬから?
痩せ細った男:……、…………。
痩せ細った男:「そうだ」と言ったら?
白い衣の少女:「やっぱりね」、と思って。
白い衣の少女:「やっぱりね」、って言うわ。
痩せ細った男:そう、見えるかな。
痩せ細った男:「やっぱり」。
白い衣の少女:見える、わ。
白い衣の少女:わたしには。
0:さ、と風が密やかに立ち、木の葉と水面を撫ぜてゆく。
痩せ細った男:君は、谷の上の……、
痩せ細った男:村の、人?
白い衣の少女:……、
痩せ細った男:違うか。
痩せ細った男:言葉が、違うものね。聞く限りは東の……、
白い衣の少女:「るるか」。
0:ぽつり、と湖面に落ちた白い花は、流れ、流され。
痩せ細った男:……るるか……。
白い衣の少女:わたしの、名前。
白い衣の少女:「鳴野(めいの) るるか」。
痩せ細った男:「鳴野(めいの)」……?
0:緩く、虚ろに視線を上げる男。
痩せ細った男:この村の、この場所で……、
痩せ細った男:そういった響きの、名前を聞くと。
白い衣の少女:なあに?
痩せ細った男:思い浮かべずにはいられないな。
痩せ細った男:ある、人物の事を。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:だあれ?
痩せ細った男:この湖の、底に沈んだ村で。
痩せ細った男:彫刻を彫っていた人だよ。
白い衣の少女:…………。
0:暫しの沈黙が、湖面へと投げかけられ。
白い衣の少女:……彫刻を彫って「いた」ということが「残って」いるということは。
白い衣の少女:その人はもう、死んでいるのね。
痩せ細った男:勿論。
痩せ細った男:その人は明治に生まれて……、大正の、少しの間を生きた人だから。
痩せ細った男:昔の、人さ。
白い衣の少女:明治は、大正は、むかし?
痩せ細った男:尺度によるね。
痩せ細った男:しかしその頃に生きて「いた」人の話をするのだから。
痩せ細った男:昔と言って、良いだろうね。
白い衣の少女:その人のこと、知っているのね。
痩せ細った男:有名だから、ね。
痩せ細った男:だけれど道行く人を十人捕まえて、七人か八人は知っている、という訳ではない。
痩せ細った男:美術や、造形の世界に明るいか、余程の……、
白い衣の少女:余程の。
白い衣の少女:物好きしか、知らないのでしょうね。
白い衣の少女:「鳴野斉鴒(めいのさいれい)」の、ことなんて。
痩せ細った男:……、君は……、
白い衣の少女:物好きだから。
白い衣の少女:知ってるの。
痩せ細った男:というか……、
痩せ細った男:君は、その人の、
白い衣の少女:(遮り)妹。
痩せ細った男:……っ、
白い衣の少女:……妹の、彫刻を。
白い衣の少女:彫って、いたのよね。その人。
痩せ細った男:……、ああ……。
痩せ細った男:そうだ。そうとも。
痩せ細った男:…………、
0:水に浮く倒木の上から、草亀が一匹、身を沈め。
痩せ細った男:その人は……、
痩せ細った男:同時代の、西にも東にもさして珍しくない、伝統に縛られつつも西洋の新しい潮流に程々にかぶれた、凡百の彫像・塑形(そけい)作家の1人だった。
白い衣の少女:褒めてるようには、きこえないわね。
痩せ細った男:一般評価だろうね。美術史に於いても、そういう扱いなんだ。
白い衣の少女:隣に、座ってもいい?
痩せ細った男:いいよ。
痩せ細った男:君が、嫌でなければ。
白い衣の少女:いやでは、ないわ。
0:男の傍ら、切り株に腰を下ろす少女。
0:葉のささめきは、風。
痩せ細った男:その人の、作品は……、
痩せ細った男:帝展(ていてん)、今の日展(にってん)の前身だが、
痩せ細った男:当時の提出作品の評価に於いても芳しくはなく。
痩せ細った男:彼は、この谷の……、
痩せ細った男:山崩れでこの湖の底に沈んでしまう前の、寂れた村のアトリエで、ひっそりと作品を生み出し続けていた。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:どんな、気持ちだったのかしら。
痩せ細った男:どんな?
白い衣の少女:寒い日の夕暮れや、季節の移り目の、朝や、夜に……、
白い衣の少女:独りきりで、木や、石や、土と、向かい合うのは。
痩せ細った男:……、……。
痩せ細った男:さあ、ね。
0:思惟に眼を伏せ。
痩せ細った男:腐されぬまでも、人に見向きもされない作品を作り続ける心境というのは……、
痩せ細った男:僕にはわからない。
痩せ細った男:きっと、わからないままだろう。
白い衣の少女:寂しかったのかしら。
白い衣の少女:遣る瀬が、無かったのかしら。
痩せ細った男:……どうあれ。
痩せ細った男:しかし彼には1人、気を許せる肉親が居た訳だね。
痩せ細った男:家を継がずに逃げ出した挙げ句、作家としても芽が出ず終いの彼を、唯一気にかけた……、
痩せ細った男:年の離れた妹が。
白い衣の少女:……。ええ。
痩せ細った男:彼女が、彼の無二の拠り所であった事は想像に辛(から)くない。
痩せ細った男:照見川(てらみがわ)の方に今もある、ミッション系の女学校に通っていた彼女は……、
痩せ細った男:長い休みがある度に、ここまで足を運んで、彼のアトリエを訪ねていたらしい。
白い衣の少女:……この、
白い衣の少女:湖の底まで、ね。
痩せ細った男:ああ……。
痩せ細った男:そう、だね。
0:微か揺れる水のおもてを、名も知れぬ虫が滑って行く。
白い衣の少女:「ジギタリス」。
痩せ細った男:うん?
白い衣の少女:その、妹が。
白い衣の少女:通っていた、学校。
痩せ細った男:ああ、うん……。
痩せ細った男:そう、だね。今だに京都の名門だが、
白い衣の少女:そう?
痩せ細った男:うん?
白い衣の少女:いつの頃からかわからないけど……。
白い衣の少女:品の無い娘(こ)ばっかり、通うようになったわ。
痩せ細った男:そうかな。
白い衣の少女:そうよ。
痩せ細った男:時代が品格を、要求しなくなったのかもね。
白い衣の少女:ああ。
白い衣の少女:それ。それよ。
痩せ細った男:とはいえ相対的な問題だろうし……、
痩せ細った男:今でもマシな方の部類だとは、思うけれど。
白い衣の少女:像が、残っているのよね。
白い衣の少女:妹の像が。
痩せ細った男:そう。
痩せ細った男:鳴野氏が生前に、寄贈された……、
痩せ細った男:「るりか像」がね。
白い衣の少女:……、るりか。
痩せ細った男:彫刻家「鳴野斉鴒(めいのさいれい)」最愛の妹……、
痩せ細った男:「鳴野 瑠璃花(めいの るりか)」を象った像。
痩せ細った男:「聖(セント)ジギタリス」に贈られたものは塑像(そぞう)だそうだが、近頃また、拝観者が増えているらしいね。例の、「御酒玲司郎(みきれいしろう)」という作家がファンを公言してから……、
白い衣の少女:(遮り)「るりか」って良い名前だと思う?
痩せ細った男:ん?
0:少女の眼は、今は水面に注がれ。
痩せ細った男:名前……、
白い衣の少女:「瑠璃」の「花」と書いて「瑠璃花」。
白い衣の少女:どう。
痩せ細った男:……どう……、
痩せ細った男:というのはその、
白い衣の少女:どう?
痩せ細った男:……、
0:山の鳥が木を啄く音。
痩せ細った男:……瑠璃の色や、花の色を……、
痩せ細った男:「美しい」、「良い」ものだと疑いなく信ずる、無垢な心の持ち主であれば。
痩せ細った男:良い名前だと、思うんじゃないか。
白い衣の少女:貴方はどう?
痩せ細った男:どうも思わない。
痩せ細った男:派手であれ素朴であれ、生まれた子供に良い意味の字をあてるのは慣例であり通念であって。
痩せ細った男:人間は実際、瑠璃でも花でもないからね。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:ねえ?
白い衣の少女:そう、よねえ。
0:少女の表情は、男の方からは窺えず。
痩せ細った男:君の名前が、どういう字を書くのかは知らないが……。
痩せ細った男:不愉快に思わせたなら、許してくれ。
痩せ細った男:済まないが次に会った時には、話した事も忘れているだろうから。
白い衣の少女:そうなの?
痩せ細った男:見ての通りの、今際の際を誤魔化す為に……、
痩せ細った男:友人から少々強目の薬を、恵んで貰っているもので。
白い衣の少女:……へえ。
痩せ細った男:夢うつつなんだ。こう見えて。
白い衣の少女:しっかりと、喋っている風だけど。
白い衣の少女:話しやすいし。
白い衣の少女:薬が効いているからかしら?
痩せ細った男:きっと……、そうだろう。
痩せ細った男:きっとね。
痩せ細った男:そして初対面であり、二度と顔を合わす事も無いだろう、と。
痩せ細った男:僕が思っているから、だな。
白い衣の少女:そう、なの?
痩せ細った男:初めが一番良いんだ。
痩せ細った男:僕も、相手も。
白い衣の少女:段々落ちる一方なの?
痩せ細った男:僕はそれを恐れて気を揉んでしまうし……、相手は勝手に買い被るか、幻滅するかのどちらかだからね。
痩せ細った男:今の……、この時間が一番、良いんだ。
0:男は朗らかに、柔らかく笑んでいる。
白い衣の少女:……こんな……、
白い衣の少女:湖の底に沈んでしまった男の人のことを、二人で話している時間が?
痩せ細った男:……、
痩せ細った男:沈んだ、
白い衣の少女:わたしは、
白い衣の少女:そう、
白い衣の少女:おもっているの。
痩せ細った男:…………、
0:緩く吹いていた風がふと止み。
0:凪いだ空気は冷えてゆく。
痩せ細った男:……君もか。
白い衣の少女:貴方も?
痩せ細った男:昔から言われている事だし……、
痩せ細った男:帰結として、共感は出来ないが納得は出来る。
痩せ細った男:何よりも……、
白い衣の少女:浪漫、だものね。
白い衣の少女:妹の後を追って入水(じゅすい)をする、芸術家なんていうのは。
痩せ細った男:…………。
痩せ細った男:そう、だね。まったく。
0:少女の眼差しは虚ろ。水面を透かし、何事かを眇めるかのような。
痩せ細った男:愛する妹がある時突然、神隠しの如くに蒸発し。
痩せ細った男:悲嘆に明け暮れ、いつしか狂ったように、ありし日の彼女の似姿(にすがた)を彫り、削り、捏ね上げる彼の姿は。
痩せ細った男:さながら行者(ぎょうじゃ)のようでも、また亡者のようでもあったという。
0:少女は眼を伏せ。
白い衣の少女:……生きている間には見向きも、されなかったのに、ね。
痩せ細った男:彼の作品が世間に?
痩せ細った男:それとも彼女が彼の、彫像の素材として?
白い衣の少女:……、…………。
0:沈黙。
痩せ細った男:実際の所は知る由もないが……、
痩せ細った男:現在残っている「るりか像」は全て、彼女の失踪後に作られたものであるようだね。
痩せ細った男:五十数体ある大小の像が、小屋のようであったというアトリエに納められていたとは考え辛い。
白い衣の少女:……随分とたくさんの……、
白い衣の少女:死体を、
白い衣の少女:拵(こしら)えられたものね。
白い衣の少女:彼女は。
痩せ細った男:死体?
白い衣の少女:きっとそうでしょう。
白い衣の少女:あの、慰み者の像たちは。
白い衣の少女:妹が死んだと、決め込んで……、
白い衣の少女:生きて「いた」彼女を想って、思い出の中にしか居ない、その姿を象ったのだから。
白い衣の少女:亡骸(なきがら)。
白い衣の少女:そう……、
白い衣の少女:それは、瑠璃花の。
痩せ細った男:……、
0:男は微かに眼を細め。
0:ごほん、と、病の気を吐き。
痩せ細った男:……僕の見立ては少し、違っているんだけどね。
白い衣の少女:そうなの?
痩せ細った男:喪失を苦にして、煩悶していたのは疑いようもないが。
痩せ細った男:悲痛を紛らわす為に像を彫って、彫って、彫り抜いた後、最期に……、
痩せ細った男:彼はこの水の底に、「帰って行った」のじゃないかと、僕は思っている。
白い衣の少女:帰って……?
痩せ細った男:村のアトリエで彼女を、待つ為に。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:…………、
痩せ細った男:町場に建てた、新しいアトリエではなく。
痩せ細った男:女学校の、休みの度に、彼女が訪ねて来るのはこの谷の、この底に建つ、あのアトリエなんだ、と。
痩せ細った男:そう思って……、彼は、
白い衣の少女:(遮り)どうして?
0:少女は男を見詰めている。
白い衣の少女:……どうして、
白い衣の少女:そんなこと、
白い衣の少女:思うの……?
0:感情を七色に散らす、螺鈿の如き瞳。
痩せ細った男:「るりか像」の実物を……、幾つか見た事がある。
痩せ細った男:僕個人としては、些かも感じ入る事の出来ない心性ではあるけれど。
痩せ細った男:いかにもそのような事を、大真面目に思い詰める人間の手付きだな、と……、
白い衣の少女:思った?
痩せ細った男:ああ思った。
痩せ細った男:好き勝手にね。
白い衣の少女:…………、
白い衣の少女:……、
痩せ細った男:とはいえ彼は……、そして妹も、公式には失踪・行方不明扱いのままだがね。
痩せ細った男:どのようにであれ、死人に口無し。
痩せ細った男:後の世を生きる人間の、それこそ慰みの……、玩具だね。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:どうかしら、ね。
痩せ細った男:うん?
白い衣の少女:あの人も、
白い衣の少女:……そして、妹も。
白い衣の少女:死体は、上がらなかったのだから。
白い衣の少女:今でも、どこかで、
白い衣の少女:生きて……、
白い衣の少女:いるかも、しれない。
0:夢ともうつつともつかぬ、少女の眼。
0:男は薄く、口の端を歪め。
痩せ細った男:だと、するならば……、
痩せ細った男:生物辞典の、「人間」の欄の「寿命」の項目を、書き換えなければいけないな。
白い衣の少女:この世には本当にどうしようもなく、我儘な人たちがいるから。
痩せ細った男:我儘。
0:少女の面持ちは尚、名状しがたく。
白い衣の少女:道理も、約束も、気に入らない全部を蹴っ飛ばして。
白い衣の少女:無い物ねだりを無理に叶えて、在る筈のものを、無かった事にしてしまって。
白い衣の少女:望みを通すことを、ほんの少しも躊躇わない……、
白い衣の少女:やりたい放題の、どうしようもない人たちが。
痩せ細った男:……或いは「死」という絶対の宿命にすら、否(いな)を叩き付けるような、横紙破りが?
白い衣の少女:そういう人たちが。
白い衣の少女:いたとしたら?
痩せ細った男:いたとしたら?
白い衣の少女:そう。
痩せ細った男:……、………、
痩せ細った男:どう、だろうね……。
0:病に蝕まれ、細く枯れた指を顎に当て。
痩せ細った男:……しかしさっきの話でいくなら……、
痩せ細った男:「死なない」人間というのは実際、「生きている」と言えるのだろうか。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:どうして?
痩せ細った男:繰り言に過ぎないがね。
痩せ細った男:「死ぬ」という事が、生きている人間に為せる最後の「行い」だとして。
痩せ細った男:最早何ひとつ、「行い」を為せないというのが死者の、「死体」の定義であるとするならば……、
痩せ細った男:死体に、「死ぬ」事は出来ない訳だろう。
白い衣の少女:あたりまえだわ。
痩せ細った男:そして逆説、というより対偶だが、
痩せ細った男:「死ぬことが出来ない」というのを「死体」の定義と置くならば。
痩せ細った男:好き勝手に永劫(えいごう)を歩み、生きる、お伽噺の住人たちというのは或いは……、
痩せ細った男:「死」にさえ見放された、憐れな亡者の群れと言えはしないか。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:…………、
0:少女は口を噤み、男は湖を見ている。
痩せ細った男:彼らは膨大なる退屈を持て余すだろうし、いずれは……、
痩せ細った男:孤独を、感じるだろうしね。
白い衣の少女:……孤独、
痩せ細った男:尤も。
痩せ細った男:独りきりで生き続ける事と、
痩せ細った男:独りきりで死ぬ事の間に……。
痩せ細った男:どれほどの違いがあるのかは、わからないが。
0:山鳥の高い囀り、
白い衣の少女:…………、
0:それはさながら女の泣くような。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:ひとりは、
白い衣の少女:さみしい?
痩せ細った男:……、……、
痩せ細った男:……さあ。
痩せ細った男:ただ、それは……、
0:掠れた声は湖面に沈み。
痩せ細った男:誰と居る時にだって、
痩せ細った男:いつでも、
痩せ細った男:どこでも、
痩せ細った男:感じることが
痩せ細った男:出来るよ。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:…………。
0:葉擦れ。
0:囀り。
0:水面のゆらぎ。
白い衣の少女:…………ここからもっと、先に行った……、
白い衣の少女:今はもう、山肌が崩れて、立ち入ることが出来なくなってしまった辺りに、ね。
痩せ細った男:ああ。
白い衣の少女:階段が、あったの。
痩せ細った男:……、へえ。
0:水底より糸を手繰るような、少女の声音。
白い衣の少女:大きな大きな、とても古くからある、土と、石の階段で。
白い衣の少女:それを使ってしか、村まで行くことは出来ない。
痩せ細った男:……、
白い衣の少女:長旅の、最後……、袴の裾に泥を飛ばして、泥濘みの段々を、降りて行くのが……、億劫なようでもあり、
白い衣の少女:楽しみな、ようでもあり。
0:伏した睫毛の先、ささめき震え。
白い衣の少女:山間(やまあい)の、谷底の、何も無い小さな村を見下ろして。
白い衣の少女:段の脇から突き出した、枝や、草を……、邪魔っけに、払いながら。
白い衣の少女:馬酔木(あせび)、南天(なんてん)、山椿(やまつばき)。
白い衣の少女:一輪(いちりん)、一節(ひとふし)、髪に飾って、
白い衣の少女:花が無い日は笹の葉で、
白い衣の少女:小鳥の飾りを、こしらえて……。
白い衣の少女:瑪瑙(めのう)と漆喰(しっくい)のアトリエの、
白い衣の少女:張り出し屋根の庇(ひさし)の下の、
白い衣の少女:戸口の陰から、
白い衣の少女:「お兄さん、
白い衣の少女:お兄さん、
白い衣の少女:今日のお花は、なんですやろか」、
白い衣の少女:いうて、……、
白い衣の少女:……、
0:風の囁き。
0:永劫の昨日と、ついぞ来ぬ明日を儚む風の囁き。
痩せ細った男:……君、
痩せ細った男:平気かな。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:……ええ。
白い衣の少女:ええ。平気。
白い衣の少女:…………。
0:日は傾き掛けている。
白い衣の少女:冷えて、きたわね。
痩せ細った男:そうだね。
痩せ細った男:……さて……、
痩せ細った男:そろそろ、戻るとしよう。
0:男は腰を上げ、身の埃を払う。
0:木々を映して深緑の湖面は、百年近くも変わらず、静かに揺れ。
白い衣の少女:「湖を見ること」は、終わったの。
痩せ細った男:ああ。
白い衣の少女:することが、出来たの。
痩せ細った男:うん……。
痩せ細った男:この谷の上に住んでいる、友人という名前の、知り合いの為に……、
痩せ細った男:描きたくもない土の絵を、描かなくてはいけない時間になった。
白い衣の少女:やりたくないの。
痩せ細った男:やりたくないよ。
痩せ細った男:だが、やったって良い。
痩せ細った男:「する」事が、残されているうちは。
白い衣の少女:……死体に、
白い衣の少女:なってしまわないうちは?
痩せ細った男:ああ。
痩せ細った男:……うん。
痩せ細った男:そうだね。
痩せ細った男:そうとも。
0:男は緩やかに踵を返し、立ち去ろうとする。
痩せ細った男:君も帰り道、気をつけて。
白い衣の少女:もう、会わない?
痩せ細った男:明日にはここを発って、関東に戻るからね。
0:少女は湖の畔に腰掛けたまま。
白い衣の少女:死ぬまで、会わない?
痩せ細った男:わからないが。
痩せ細った男:もしもまた、どこかで僕と、出会う事があったなら……、
0:燃え果て、積み上がった灰燼のように笑み。
痩せ細った男:「はじめまして」と、
痩せ細った男:言ってくれないか。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:…………、
0:少女は何事かを呟いたようだった。
0:葉擦れの音だけが谷を満たし、
0:暗転。
:
0:『湖畔にて』。
0:デザイナー「火積 瑰(ほずみ かい)」がこの世を去る、半年と少し前の出来事である。
0:【終】
0:2021年、夏と秋の間。
0:京都のとある集落。山間部の、渓谷地形。
0:細い道を下り、木々に覆われた、薄暗い湖の畔。
白い衣の少女:ねえ、貴方。
白い衣の少女:何を……、しているの。
0:枝と葉の隙間より光が差し。
痩せ細った男:…………、
痩せ細った男:何も、していないよ。
0:午後の、ひとときである。
白い衣の少女:嘘。
白い衣の少女:何もしていない人なんていないわ。
白い衣の少女:貴方が死体でない限り。
痩せ細った男:死体は何もしないのかい。
白い衣の少女:しない。
白い衣の少女:もう何も「する」ことが出来なくて、生きている時に「した」ことだけが残り続ける、というのが。
白い衣の少女:……「死ぬ」と、いうことだもの。
痩せ細った男:そう、なのかい。
白い衣の少女:きっと、そう。
白い衣の少女:わたしは死んだ事が無いから、わからないけど。
白い衣の少女:……ねえ。
白い衣の少女:何を、しているの。
痩せ細った男:……湖を。
痩せ細った男:見て、いるんだよ。
0:男が気付かぬ内、白を纏った少女は傍に立っている。
白い衣の少女:どうして湖を、見ているの。
痩せ細った男:他にする事が無いからだよ。
白い衣の少女:どうしてすることが無いの。
痩せ細った男:やりたい事が、無い、からだよ。
白い衣の少女:やりたいことが無い、のは……、
白い衣の少女:もうじき、死ぬから?
痩せ細った男:……、…………。
痩せ細った男:「そうだ」と言ったら?
白い衣の少女:「やっぱりね」、と思って。
白い衣の少女:「やっぱりね」、って言うわ。
痩せ細った男:そう、見えるかな。
痩せ細った男:「やっぱり」。
白い衣の少女:見える、わ。
白い衣の少女:わたしには。
0:さ、と風が密やかに立ち、木の葉と水面を撫ぜてゆく。
痩せ細った男:君は、谷の上の……、
痩せ細った男:村の、人?
白い衣の少女:……、
痩せ細った男:違うか。
痩せ細った男:言葉が、違うものね。聞く限りは東の……、
白い衣の少女:「るるか」。
0:ぽつり、と湖面に落ちた白い花は、流れ、流され。
痩せ細った男:……るるか……。
白い衣の少女:わたしの、名前。
白い衣の少女:「鳴野(めいの) るるか」。
痩せ細った男:「鳴野(めいの)」……?
0:緩く、虚ろに視線を上げる男。
痩せ細った男:この村の、この場所で……、
痩せ細った男:そういった響きの、名前を聞くと。
白い衣の少女:なあに?
痩せ細った男:思い浮かべずにはいられないな。
痩せ細った男:ある、人物の事を。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:だあれ?
痩せ細った男:この湖の、底に沈んだ村で。
痩せ細った男:彫刻を彫っていた人だよ。
白い衣の少女:…………。
0:暫しの沈黙が、湖面へと投げかけられ。
白い衣の少女:……彫刻を彫って「いた」ということが「残って」いるということは。
白い衣の少女:その人はもう、死んでいるのね。
痩せ細った男:勿論。
痩せ細った男:その人は明治に生まれて……、大正の、少しの間を生きた人だから。
痩せ細った男:昔の、人さ。
白い衣の少女:明治は、大正は、むかし?
痩せ細った男:尺度によるね。
痩せ細った男:しかしその頃に生きて「いた」人の話をするのだから。
痩せ細った男:昔と言って、良いだろうね。
白い衣の少女:その人のこと、知っているのね。
痩せ細った男:有名だから、ね。
痩せ細った男:だけれど道行く人を十人捕まえて、七人か八人は知っている、という訳ではない。
痩せ細った男:美術や、造形の世界に明るいか、余程の……、
白い衣の少女:余程の。
白い衣の少女:物好きしか、知らないのでしょうね。
白い衣の少女:「鳴野斉鴒(めいのさいれい)」の、ことなんて。
痩せ細った男:……、君は……、
白い衣の少女:物好きだから。
白い衣の少女:知ってるの。
痩せ細った男:というか……、
痩せ細った男:君は、その人の、
白い衣の少女:(遮り)妹。
痩せ細った男:……っ、
白い衣の少女:……妹の、彫刻を。
白い衣の少女:彫って、いたのよね。その人。
痩せ細った男:……、ああ……。
痩せ細った男:そうだ。そうとも。
痩せ細った男:…………、
0:水に浮く倒木の上から、草亀が一匹、身を沈め。
痩せ細った男:その人は……、
痩せ細った男:同時代の、西にも東にもさして珍しくない、伝統に縛られつつも西洋の新しい潮流に程々にかぶれた、凡百の彫像・塑形(そけい)作家の1人だった。
白い衣の少女:褒めてるようには、きこえないわね。
痩せ細った男:一般評価だろうね。美術史に於いても、そういう扱いなんだ。
白い衣の少女:隣に、座ってもいい?
痩せ細った男:いいよ。
痩せ細った男:君が、嫌でなければ。
白い衣の少女:いやでは、ないわ。
0:男の傍ら、切り株に腰を下ろす少女。
0:葉のささめきは、風。
痩せ細った男:その人の、作品は……、
痩せ細った男:帝展(ていてん)、今の日展(にってん)の前身だが、
痩せ細った男:当時の提出作品の評価に於いても芳しくはなく。
痩せ細った男:彼は、この谷の……、
痩せ細った男:山崩れでこの湖の底に沈んでしまう前の、寂れた村のアトリエで、ひっそりと作品を生み出し続けていた。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:どんな、気持ちだったのかしら。
痩せ細った男:どんな?
白い衣の少女:寒い日の夕暮れや、季節の移り目の、朝や、夜に……、
白い衣の少女:独りきりで、木や、石や、土と、向かい合うのは。
痩せ細った男:……、……。
痩せ細った男:さあ、ね。
0:思惟に眼を伏せ。
痩せ細った男:腐されぬまでも、人に見向きもされない作品を作り続ける心境というのは……、
痩せ細った男:僕にはわからない。
痩せ細った男:きっと、わからないままだろう。
白い衣の少女:寂しかったのかしら。
白い衣の少女:遣る瀬が、無かったのかしら。
痩せ細った男:……どうあれ。
痩せ細った男:しかし彼には1人、気を許せる肉親が居た訳だね。
痩せ細った男:家を継がずに逃げ出した挙げ句、作家としても芽が出ず終いの彼を、唯一気にかけた……、
痩せ細った男:年の離れた妹が。
白い衣の少女:……。ええ。
痩せ細った男:彼女が、彼の無二の拠り所であった事は想像に辛(から)くない。
痩せ細った男:照見川(てらみがわ)の方に今もある、ミッション系の女学校に通っていた彼女は……、
痩せ細った男:長い休みがある度に、ここまで足を運んで、彼のアトリエを訪ねていたらしい。
白い衣の少女:……この、
白い衣の少女:湖の底まで、ね。
痩せ細った男:ああ……。
痩せ細った男:そう、だね。
0:微か揺れる水のおもてを、名も知れぬ虫が滑って行く。
白い衣の少女:「ジギタリス」。
痩せ細った男:うん?
白い衣の少女:その、妹が。
白い衣の少女:通っていた、学校。
痩せ細った男:ああ、うん……。
痩せ細った男:そう、だね。今だに京都の名門だが、
白い衣の少女:そう?
痩せ細った男:うん?
白い衣の少女:いつの頃からかわからないけど……。
白い衣の少女:品の無い娘(こ)ばっかり、通うようになったわ。
痩せ細った男:そうかな。
白い衣の少女:そうよ。
痩せ細った男:時代が品格を、要求しなくなったのかもね。
白い衣の少女:ああ。
白い衣の少女:それ。それよ。
痩せ細った男:とはいえ相対的な問題だろうし……、
痩せ細った男:今でもマシな方の部類だとは、思うけれど。
白い衣の少女:像が、残っているのよね。
白い衣の少女:妹の像が。
痩せ細った男:そう。
痩せ細った男:鳴野氏が生前に、寄贈された……、
痩せ細った男:「るりか像」がね。
白い衣の少女:……、るりか。
痩せ細った男:彫刻家「鳴野斉鴒(めいのさいれい)」最愛の妹……、
痩せ細った男:「鳴野 瑠璃花(めいの るりか)」を象った像。
痩せ細った男:「聖(セント)ジギタリス」に贈られたものは塑像(そぞう)だそうだが、近頃また、拝観者が増えているらしいね。例の、「御酒玲司郎(みきれいしろう)」という作家がファンを公言してから……、
白い衣の少女:(遮り)「るりか」って良い名前だと思う?
痩せ細った男:ん?
0:少女の眼は、今は水面に注がれ。
痩せ細った男:名前……、
白い衣の少女:「瑠璃」の「花」と書いて「瑠璃花」。
白い衣の少女:どう。
痩せ細った男:……どう……、
痩せ細った男:というのはその、
白い衣の少女:どう?
痩せ細った男:……、
0:山の鳥が木を啄く音。
痩せ細った男:……瑠璃の色や、花の色を……、
痩せ細った男:「美しい」、「良い」ものだと疑いなく信ずる、無垢な心の持ち主であれば。
痩せ細った男:良い名前だと、思うんじゃないか。
白い衣の少女:貴方はどう?
痩せ細った男:どうも思わない。
痩せ細った男:派手であれ素朴であれ、生まれた子供に良い意味の字をあてるのは慣例であり通念であって。
痩せ細った男:人間は実際、瑠璃でも花でもないからね。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:ねえ?
白い衣の少女:そう、よねえ。
0:少女の表情は、男の方からは窺えず。
痩せ細った男:君の名前が、どういう字を書くのかは知らないが……。
痩せ細った男:不愉快に思わせたなら、許してくれ。
痩せ細った男:済まないが次に会った時には、話した事も忘れているだろうから。
白い衣の少女:そうなの?
痩せ細った男:見ての通りの、今際の際を誤魔化す為に……、
痩せ細った男:友人から少々強目の薬を、恵んで貰っているもので。
白い衣の少女:……へえ。
痩せ細った男:夢うつつなんだ。こう見えて。
白い衣の少女:しっかりと、喋っている風だけど。
白い衣の少女:話しやすいし。
白い衣の少女:薬が効いているからかしら?
痩せ細った男:きっと……、そうだろう。
痩せ細った男:きっとね。
痩せ細った男:そして初対面であり、二度と顔を合わす事も無いだろう、と。
痩せ細った男:僕が思っているから、だな。
白い衣の少女:そう、なの?
痩せ細った男:初めが一番良いんだ。
痩せ細った男:僕も、相手も。
白い衣の少女:段々落ちる一方なの?
痩せ細った男:僕はそれを恐れて気を揉んでしまうし……、相手は勝手に買い被るか、幻滅するかのどちらかだからね。
痩せ細った男:今の……、この時間が一番、良いんだ。
0:男は朗らかに、柔らかく笑んでいる。
白い衣の少女:……こんな……、
白い衣の少女:湖の底に沈んでしまった男の人のことを、二人で話している時間が?
痩せ細った男:……、
痩せ細った男:沈んだ、
白い衣の少女:わたしは、
白い衣の少女:そう、
白い衣の少女:おもっているの。
痩せ細った男:…………、
0:緩く吹いていた風がふと止み。
0:凪いだ空気は冷えてゆく。
痩せ細った男:……君もか。
白い衣の少女:貴方も?
痩せ細った男:昔から言われている事だし……、
痩せ細った男:帰結として、共感は出来ないが納得は出来る。
痩せ細った男:何よりも……、
白い衣の少女:浪漫、だものね。
白い衣の少女:妹の後を追って入水(じゅすい)をする、芸術家なんていうのは。
痩せ細った男:…………。
痩せ細った男:そう、だね。まったく。
0:少女の眼差しは虚ろ。水面を透かし、何事かを眇めるかのような。
痩せ細った男:愛する妹がある時突然、神隠しの如くに蒸発し。
痩せ細った男:悲嘆に明け暮れ、いつしか狂ったように、ありし日の彼女の似姿(にすがた)を彫り、削り、捏ね上げる彼の姿は。
痩せ細った男:さながら行者(ぎょうじゃ)のようでも、また亡者のようでもあったという。
0:少女は眼を伏せ。
白い衣の少女:……生きている間には見向きも、されなかったのに、ね。
痩せ細った男:彼の作品が世間に?
痩せ細った男:それとも彼女が彼の、彫像の素材として?
白い衣の少女:……、…………。
0:沈黙。
痩せ細った男:実際の所は知る由もないが……、
痩せ細った男:現在残っている「るりか像」は全て、彼女の失踪後に作られたものであるようだね。
痩せ細った男:五十数体ある大小の像が、小屋のようであったというアトリエに納められていたとは考え辛い。
白い衣の少女:……随分とたくさんの……、
白い衣の少女:死体を、
白い衣の少女:拵(こしら)えられたものね。
白い衣の少女:彼女は。
痩せ細った男:死体?
白い衣の少女:きっとそうでしょう。
白い衣の少女:あの、慰み者の像たちは。
白い衣の少女:妹が死んだと、決め込んで……、
白い衣の少女:生きて「いた」彼女を想って、思い出の中にしか居ない、その姿を象ったのだから。
白い衣の少女:亡骸(なきがら)。
白い衣の少女:そう……、
白い衣の少女:それは、瑠璃花の。
痩せ細った男:……、
0:男は微かに眼を細め。
0:ごほん、と、病の気を吐き。
痩せ細った男:……僕の見立ては少し、違っているんだけどね。
白い衣の少女:そうなの?
痩せ細った男:喪失を苦にして、煩悶していたのは疑いようもないが。
痩せ細った男:悲痛を紛らわす為に像を彫って、彫って、彫り抜いた後、最期に……、
痩せ細った男:彼はこの水の底に、「帰って行った」のじゃないかと、僕は思っている。
白い衣の少女:帰って……?
痩せ細った男:村のアトリエで彼女を、待つ為に。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:…………、
痩せ細った男:町場に建てた、新しいアトリエではなく。
痩せ細った男:女学校の、休みの度に、彼女が訪ねて来るのはこの谷の、この底に建つ、あのアトリエなんだ、と。
痩せ細った男:そう思って……、彼は、
白い衣の少女:(遮り)どうして?
0:少女は男を見詰めている。
白い衣の少女:……どうして、
白い衣の少女:そんなこと、
白い衣の少女:思うの……?
0:感情を七色に散らす、螺鈿の如き瞳。
痩せ細った男:「るりか像」の実物を……、幾つか見た事がある。
痩せ細った男:僕個人としては、些かも感じ入る事の出来ない心性ではあるけれど。
痩せ細った男:いかにもそのような事を、大真面目に思い詰める人間の手付きだな、と……、
白い衣の少女:思った?
痩せ細った男:ああ思った。
痩せ細った男:好き勝手にね。
白い衣の少女:…………、
白い衣の少女:……、
痩せ細った男:とはいえ彼は……、そして妹も、公式には失踪・行方不明扱いのままだがね。
痩せ細った男:どのようにであれ、死人に口無し。
痩せ細った男:後の世を生きる人間の、それこそ慰みの……、玩具だね。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:どうかしら、ね。
痩せ細った男:うん?
白い衣の少女:あの人も、
白い衣の少女:……そして、妹も。
白い衣の少女:死体は、上がらなかったのだから。
白い衣の少女:今でも、どこかで、
白い衣の少女:生きて……、
白い衣の少女:いるかも、しれない。
0:夢ともうつつともつかぬ、少女の眼。
0:男は薄く、口の端を歪め。
痩せ細った男:だと、するならば……、
痩せ細った男:生物辞典の、「人間」の欄の「寿命」の項目を、書き換えなければいけないな。
白い衣の少女:この世には本当にどうしようもなく、我儘な人たちがいるから。
痩せ細った男:我儘。
0:少女の面持ちは尚、名状しがたく。
白い衣の少女:道理も、約束も、気に入らない全部を蹴っ飛ばして。
白い衣の少女:無い物ねだりを無理に叶えて、在る筈のものを、無かった事にしてしまって。
白い衣の少女:望みを通すことを、ほんの少しも躊躇わない……、
白い衣の少女:やりたい放題の、どうしようもない人たちが。
痩せ細った男:……或いは「死」という絶対の宿命にすら、否(いな)を叩き付けるような、横紙破りが?
白い衣の少女:そういう人たちが。
白い衣の少女:いたとしたら?
痩せ細った男:いたとしたら?
白い衣の少女:そう。
痩せ細った男:……、………、
痩せ細った男:どう、だろうね……。
0:病に蝕まれ、細く枯れた指を顎に当て。
痩せ細った男:……しかしさっきの話でいくなら……、
痩せ細った男:「死なない」人間というのは実際、「生きている」と言えるのだろうか。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:どうして?
痩せ細った男:繰り言に過ぎないがね。
痩せ細った男:「死ぬ」という事が、生きている人間に為せる最後の「行い」だとして。
痩せ細った男:最早何ひとつ、「行い」を為せないというのが死者の、「死体」の定義であるとするならば……、
痩せ細った男:死体に、「死ぬ」事は出来ない訳だろう。
白い衣の少女:あたりまえだわ。
痩せ細った男:そして逆説、というより対偶だが、
痩せ細った男:「死ぬことが出来ない」というのを「死体」の定義と置くならば。
痩せ細った男:好き勝手に永劫(えいごう)を歩み、生きる、お伽噺の住人たちというのは或いは……、
痩せ細った男:「死」にさえ見放された、憐れな亡者の群れと言えはしないか。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:…………、
0:少女は口を噤み、男は湖を見ている。
痩せ細った男:彼らは膨大なる退屈を持て余すだろうし、いずれは……、
痩せ細った男:孤独を、感じるだろうしね。
白い衣の少女:……孤独、
痩せ細った男:尤も。
痩せ細った男:独りきりで生き続ける事と、
痩せ細った男:独りきりで死ぬ事の間に……。
痩せ細った男:どれほどの違いがあるのかは、わからないが。
0:山鳥の高い囀り、
白い衣の少女:…………、
0:それはさながら女の泣くような。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:ひとりは、
白い衣の少女:さみしい?
痩せ細った男:……、……、
痩せ細った男:……さあ。
痩せ細った男:ただ、それは……、
0:掠れた声は湖面に沈み。
痩せ細った男:誰と居る時にだって、
痩せ細った男:いつでも、
痩せ細った男:どこでも、
痩せ細った男:感じることが
痩せ細った男:出来るよ。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:…………。
0:葉擦れ。
0:囀り。
0:水面のゆらぎ。
白い衣の少女:…………ここからもっと、先に行った……、
白い衣の少女:今はもう、山肌が崩れて、立ち入ることが出来なくなってしまった辺りに、ね。
痩せ細った男:ああ。
白い衣の少女:階段が、あったの。
痩せ細った男:……、へえ。
0:水底より糸を手繰るような、少女の声音。
白い衣の少女:大きな大きな、とても古くからある、土と、石の階段で。
白い衣の少女:それを使ってしか、村まで行くことは出来ない。
痩せ細った男:……、
白い衣の少女:長旅の、最後……、袴の裾に泥を飛ばして、泥濘みの段々を、降りて行くのが……、億劫なようでもあり、
白い衣の少女:楽しみな、ようでもあり。
0:伏した睫毛の先、ささめき震え。
白い衣の少女:山間(やまあい)の、谷底の、何も無い小さな村を見下ろして。
白い衣の少女:段の脇から突き出した、枝や、草を……、邪魔っけに、払いながら。
白い衣の少女:馬酔木(あせび)、南天(なんてん)、山椿(やまつばき)。
白い衣の少女:一輪(いちりん)、一節(ひとふし)、髪に飾って、
白い衣の少女:花が無い日は笹の葉で、
白い衣の少女:小鳥の飾りを、こしらえて……。
白い衣の少女:瑪瑙(めのう)と漆喰(しっくい)のアトリエの、
白い衣の少女:張り出し屋根の庇(ひさし)の下の、
白い衣の少女:戸口の陰から、
白い衣の少女:「お兄さん、
白い衣の少女:お兄さん、
白い衣の少女:今日のお花は、なんですやろか」、
白い衣の少女:いうて、……、
白い衣の少女:……、
0:風の囁き。
0:永劫の昨日と、ついぞ来ぬ明日を儚む風の囁き。
痩せ細った男:……君、
痩せ細った男:平気かな。
白い衣の少女:…………。
白い衣の少女:……ええ。
白い衣の少女:ええ。平気。
白い衣の少女:…………。
0:日は傾き掛けている。
白い衣の少女:冷えて、きたわね。
痩せ細った男:そうだね。
痩せ細った男:……さて……、
痩せ細った男:そろそろ、戻るとしよう。
0:男は腰を上げ、身の埃を払う。
0:木々を映して深緑の湖面は、百年近くも変わらず、静かに揺れ。
白い衣の少女:「湖を見ること」は、終わったの。
痩せ細った男:ああ。
白い衣の少女:することが、出来たの。
痩せ細った男:うん……。
痩せ細った男:この谷の上に住んでいる、友人という名前の、知り合いの為に……、
痩せ細った男:描きたくもない土の絵を、描かなくてはいけない時間になった。
白い衣の少女:やりたくないの。
痩せ細った男:やりたくないよ。
痩せ細った男:だが、やったって良い。
痩せ細った男:「する」事が、残されているうちは。
白い衣の少女:……死体に、
白い衣の少女:なってしまわないうちは?
痩せ細った男:ああ。
痩せ細った男:……うん。
痩せ細った男:そうだね。
痩せ細った男:そうとも。
0:男は緩やかに踵を返し、立ち去ろうとする。
痩せ細った男:君も帰り道、気をつけて。
白い衣の少女:もう、会わない?
痩せ細った男:明日にはここを発って、関東に戻るからね。
0:少女は湖の畔に腰掛けたまま。
白い衣の少女:死ぬまで、会わない?
痩せ細った男:わからないが。
痩せ細った男:もしもまた、どこかで僕と、出会う事があったなら……、
0:燃え果て、積み上がった灰燼のように笑み。
痩せ細った男:「はじめまして」と、
痩せ細った男:言ってくれないか。
白い衣の少女:……、
白い衣の少女:…………、
0:少女は何事かを呟いたようだった。
0:葉擦れの音だけが谷を満たし、
0:暗転。
:
0:『湖畔にて』。
0:デザイナー「火積 瑰(ほずみ かい)」がこの世を去る、半年と少し前の出来事である。
0:【終】